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僧俗の事について、考えたいと思います。 日達上人御指南抄より 僧侶を信じ、僧侶を敬い、そして、初めて自らの迷いを妙法蓮華経の力に依って成仏の道へと転回していくのが信徒であります。その信徒が、もし僧侶を驕慢の心を以て馬鹿にし、あえて、僧侶をなき者にしようとする心が、もしあるならば、それは信徒としての道を誤り、世の中を守り栄えていくという道を誤ってしまうということになるのであります。 どうか法華講の皆様は、自らの使命を全うし、自分の与えられたところの職責に忠実に働いて、そして、世を富まし自らの家を富まし、大聖人の仏法を盛んにして頂きたい。(応恭師満山供養法華講お目通りの瑚 S49・6・15) 日顕上人猊下御言葉集より しかし私は、宗門の真の僧俗の関係の上から、僧侶が指導教師として各地域に在って指導し、そしてまた、信徒の方々が法華講の立場において宗門を護持し、僧俗一体となって広布への折伏教化に向かうという態勢が、今日においてきちんと整いつつあるということを感ずるのであります。 その点からも、この慶祝記念事業を滞りなく完全に遂行することが、我々の仏祖三宝尊に対し奉る何よりの御報恩であるということを深く感じていただき、一人ひとりがこの事業の完遂に向かってあらん限りの力を出していくということを、心からお願いしたいのであります。(平成十年十二月十八日 第一回宗旨建立七百五十年慶祝記念委員会の砌 五一六号) 日達上人猊下も日顕御隠尊上人猊下も、僧侶の指導に従う事を御指南されております。 私は、どんな事でも、指導教師の指導に従うべきだと思います。 僧侶を馬鹿にしたりする輩は、慢心した心を持ってるからです。 自分が、偉いだのそんな考えでは、ダメです。 きちんと、指導教師に従い学事が、大切なんだと思います。 御書を読んだり、いろいろ情報で、仏法を学事がおかしいとは、言いません。だからと、勝手な我見で仏法を判断してはならないと思います。 私も我見で判断しないように、気をつけねばと思います。
2009.03.30
ちょっと、ブレイクします(>.<)y- 去年は、桜の時期に行けなく残念でしたので、先週は、早咲きの桜を見ました。アルバムにありますので、見てください。 この信心を始めて、余裕が全く無い事が、多かったように感じます。 本当にバタバタしてました。 去年の今頃と比べ大分余裕が出てきてると感じます。 今年は、様々な事がおこると新年に書いたと思いますが、マジで沢山いろいろな事が、仕事やプライベートで起きました。 それでも、乗り越えている事は、本当に不思議な事であります。 まだまだ、信心がしっかりしてるとは、言えませんがね(>_<) さて、この話しすると、知っている人は、知っていると思いますが、私は某運輸業で働いています。 先月、会社から「ゴールデンウイークの過ごし方」ってタイトルで、宿題を出されました。 〆切り二週間前に(泣) それで、大石寺の三門と五重塔と、典礼院について書いたのですが、それが、某グループの無料配布の雑誌に載ります!(゜▽゜) マジ… ? 載るかわからないって、言われたのですが?( ̄▽ ̄;) 〆切り前日に住職様に見せて、大丈夫だと言われましたが、マジで載るとは(゜▽゜) 毎年ゴールデンウイークは、仕事だし、去年の六月の話しを書いたのですが(笑)マジでええのか?パソコン調子悪いので、写真がSDカードに送れず、仕方なしにネットの五重塔の写真を載せました。 なんか文章変わるとか?まさか、創〇学〇の陰謀か?(冗談です) 「天樟院篤姫の信仰寺・初夏の大石寺を訪ねて」ってタイトルです。 見た方が、天樟院篤姫の信仰が、日蓮正宗だと知ってもらえたら、良いかな? 写真があまりにもダサいので、マジダイエットしなきゃ!と感じました(T_T)
2009.03.29
ニュースで、大学生による覚醒剤事件が相次ぎました。 よく、学校の対応は?指導は?なんて言われます。 が? 私は個人の問題だと思います。 私は義務教育で、シンナーや麻薬の事を学習をしました。麻薬の怖さ等をビデオで見せられました。 それを今の学生も私が、学んだ時と変わらないと思いますがね~? それでも麻薬やシンナーに走るのは、個人の問題ではないでしょうか? さて、学会や顕正会が世間に迷惑をかける団体になった事を元の日蓮正宗の教義の責任だと言う者がいます。 私からしたら、ただの責任逃れの言い訳にしか思いません。 学会や顕正会の設立の歴史を見れば明らかです。 顕正会は、あっちこっち寺院を転々としてました。 学会は、三つの条件を守る条件でした。これをきちんと守っていたなら、破門されなかった事でありましょう。また、世間に迷惑かける団体にならずに済んだはずです。 顕正会も同じです。きちんと、所属寺院の住職様の指導を聞いていれば、こんな事にならずに済んだでしょう。 個人の問題でしかありません。 浅井さんにしても学会さん達にしても、個人の問題です。なんら日蓮正宗の責任では無いと思います。 麻薬やシンナーの恐ろしさを指導しても、聞かずにやった生徒を、指導した教師や学校の責任になるでしょうか? 指導してないなら学校の責任でしょう。 顕正会の事も学会の事も、日蓮正宗では、きちんと指導をしました。それを聞かずに”我見”で判断した学会員個人個人、顕正会(妙信講)個人個人の問題ではないでしょうか? 個人の責任は、大変重要な事だと思いますがね?何でも、他人の責任にしたり、大元が悪いと言う人がいますが? それは、間違えではありませんか? 日蓮正宗が悪いなら、日興上人も悪い。さらに、日蓮大聖人も悪いのでしょうか?さらにいえば、釈尊も悪いのでしょうか? 私は、個人の問題だと思います。学会が破門になったときに、法華講になった方もいます。個人の責任ではありませんでしょうか? 個人の責任なら、日蓮正宗での任務についても、私は、個人の責任において申し込みをし、任命されました。任命されたのですから、個人の責任において、任務を遂行するのは、当たり前ではありませんでしょうか? 御供養についても、個人の責任において気持ちで出すのですから、それを他人が云々言ってるのは、おかしいですし、個人の責任においての信心だと私は、思います。若輩者でありますが、私は、個人の責任だと思います。
2009.03.27
先週から、大分暖かい日が、続きます。 22日に、任務辞令と任務についての説明を受けました。 どんな仕事も同じですが任される事は、重大な事です。 第9世日有上人『化儀抄』第45条「任務の放棄は謗法罪」「師範の方より弟子を指南して住山させ、又、我が身も住山仕らんと披露するより、全く我が身なれども、我とはからひえぬ事なり。既に仏へ任せ申す上は、私にはからひえぬ事なり。然るを行体にささるる時は、我は用が有ると云い、又我はしえぬなんと云う人は、謗法の人なり。謗はけ背の別名なり、と妙楽大師釈せられ候。即身成仏の宗旨を背く故に、一切世間の仏の種を断つ人に候わずや」 師匠を通じて示された仏の命により、本山に上ったのであり、また、本山に住山して修行するということは、御本仏日蓮大聖人の御前にて御奉公することであるから、すでに自分の身は仏にお任せしたのであり、勝手な振る舞いは出来ないのです。 どんな仕事にも言える事ですが、やはり、任された事には、責任を持つ事、それをきちんと、やり遂げなければなりません。 任務を任された事、大きな功徳を積ませていただくチャンスである、自分の力に応じて精一杯御奉公させていただこう、と受けていく姿勢が大事です。
2009.03.23
日達上人御指南抄◆◆◆青年の信心◆◆◆ 日本においても、老人の信仰は、ただ拝むだけである。拝んで、それはもちろん念仏の永い間の習慣によって、そういうふうに印象づけられておったのでございましょう。しかし若い人が、そういうものではいけない、真に宗教を生活の根本として生かしていかなければならない。王仏冥合の言葉はそこに存在するのでございます。(法華講連合会第二回総会の砌 S40・8・29) ◆ ◆ ◆ 信心はまず、聞くことをもって信に入るので、聞かなければだめである。妙法蓮華経を聞いて、信心はまず、耳根得道と申します。はじめて信心に入る、そして、信のカをもってこれを受け、これを念のカ、念力をもって永久に持って、この信念のカをもって、臨終の夕までも信心を続けていってこそ、我々の成仏の境涯があるのでございます。いま今日、ここにおられる方々は、みな若い方々である、若い今日から、この信心のカを絶やさず燃やして永久に最期臨終の時まで続けていただきたいと思います。(法華講青年部第四回大会の砌 S53・11・26) 以前、日顕上人御指南の青年の信心を書きました。 私は、今年本山任務をします。不安でありますが、良い経験だし、この経験が、今後の信心や生活、将来に生かせればと思います。 私は、幸せ者だとつくづく感じます。 立正安国論正義顕揚750年の大切な年に、任務として、お役に立つ事が出来るのです。 二度とこのような事が、出来る事ではありません。本当に幸せであります。 今年、私にとって沢山いろんな大難に遭うと思います。信心して、今年で二年目です。 まだまだ、信心がしっかりしておりませんが、今回の任務で、さらに、自分自身の信心向上すればと思います。 日達上人の御指南のように、信心を臨終まで保つようにしたいと思います。
2009.03.16
日達上人御指南抄より 信心というのは、その道徳を超越して己が仏になるということが、最も肝心なのでございます。いかにこの世に上手に生活しておっても、実際に自分が成仏できなければなんにもならない。道徳はそこまでいっていないのである。 お互いの生活であるから自分一人ではない。みんながお互いに迷惑にならないようにという考えの上にやっておるのであります。で、この道徳も結局は信心というものを無視しては、真実の道徳を発現することができなくなってしまうのである。勿論このことは道徳に限らず、すべての世の中のものは、信心が根本であると考えていかなければならないのであります。(妙信講初登山会の砌 S39・1・5) 妙信講は、今の顕正会の事です。 顕正会に限った事ではありませんが、人に迷惑をかける行動は、よくありません。まして、仏法を学なら、人に迷惑な行動をするのが、おかしいと思います。 顕正会では、無理矢理な勧誘等により、迷惑な事をしております。それを学会の責任にしている。 顕正会の特徴です。何でも他人のせいにする。 破門なんか、浅井が勝手に思い込みしていて、歴代上人の御指南のきり文しかみていないから、己義を構えた。 また、学会襲撃事件も他人の責任にしている。 今は、顕正会会員の不祥事等を学会の謀略だと嘘を言っています。 信心を持って迷惑をする。それが分かっていない。 妙信講は、わがままで末寺を渡り歩いたと、聞きましたが?日達上人の御指南は、そんな妙信講に対する指南です。
2009.03.15
日達上人御指南抄 ◆◆◆ 供 養 ◆◆◆ 元来御供養する事は、善根を積むという事になるのであるけれども、その善根は大きいものを御供養したから必ず善根が大きいとか、又小さいものを御供養したら、善根が少ないかというようなことではない。色々な人によって、金持ちの国はたくさんの御供養もあるだろう。また人によって金のない人が少しのものを供養する事もある。 だから人により国にもよって、供養の品々の多少というものはそれぞれ変わるのである。しかし、供養する根本の心を間違ったならば何にも役にたたない。(寺族同心会の砌 S49・5・30) 仏様に御供養するということは、結局、自分のために廻り廻って自分のところへくるのである。回向ということは廻らすということである。死んだ人にお題目を唱えてやるということを回向と申します。これは何(いずれ)も死んだ人は先業の罪業によって決まっていく、業によって決まっていく。 しかし、またお題目によっての追善であって、善を送ってあげるのですから、いいことですけれども、その大半の功徳は自分にくるのである。御本尊を拝む、南無妙法蓮華経と唱えるということは、自分を供養することであるということをわからなければいけないのである。(清涼寺御親教の砌 S40・10・22) 今週は、塔婆について書きました。 御供養は、本当に大切な事であります。
2009.03.12
【塔婆と草木成仏】法華経の一念三千の法門では、有情(うじょう)の成仏と非情(ひじょう)の成仏という二種類の成仏が説かれています。『草木成仏口決』に、「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死(しょうじ)の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり」(新522)と説かれているごとくです。有情とはいきとし生けるもの、こころを持った一切の生類(しょうるい)のことで、衆生ともいいます。そして非情とは、草木山川国土(そうもくさんせんこくど)という、有情を取り巻く環境世界にある万物をいいます。その有情・非情ともに成仏があると説かれているのが法華経の教えなのです。さて、生死という点から考えてみますと、我々の「生(しょう)」、生きている状態とは、地水火風空の五大が仮に和合して、そこに魂(たましい)が具わったのが「生」です。しかし「死」を迎えれば、五大が仮(かり)の和合は離れ、それぞれが宇宙法界に溶け込んでしまうのです。しかし、故人の今生(こんじょう)における業(ごう)は消えてなくなるわけではなく、法界に冥伏(みょうぶく)したまま次生(じしょう)以後へも受け継がれていくのです。そこに、私たち今生に生きる者の、故人に対する追善回向の必要な理由があります。私たちの存在を有情・非情に分ければ、生きている間は「有情」ですが、死して後は我々衆生といえども「非情」の部類に入ります。そして『上野殿後家尼御返事』に、「いきてをはし時は生(しょう)の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり」(新336)と、生死のいずれ(すなわち有情・非情)にあっても、それぞれに成仏の境界があると確かに仰せられています。そこで、有情の成仏のことを「即身成仏」といい、非情の成仏のことを「草木成仏」といいます。このことを『四条金吾釈迦仏供養事』には次のように説かれています。「此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木(えもく)にて申せば草木成仏と申すなり」(新993)ここに仰せられた草木成仏こそは、塔婆供養にてつながる御法門ですので、とりわけ留意いただきたいところです。大聖人様が紙木に顕わされる十界互具の曼陀羅についても、材質の上からすれば、草木から取り出された紙墨や木材をもって、曼陀羅として顕わされます。しかしそこに仏としての魂が込められるのは、法華経の題目による開眼供養があって、貴い仏の命が具わるのであり、これを草木成仏と仰せられたのです。さらには、先に述べた五輪の塔婆や墓石としての五輪塔も、やはり題目による開眼供養によって、死の成仏すなわち草木成仏が叶えられる意義を、上掲の御書から推(お)して拝せます。ゆえに『草木成仏口決』に、「我等生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(新522)と仰せられたのです。すなわち妙法蓮華経がしたためられた塔婆に、故人の戒名(かいみょう)乃至俗名(ぞくみょう)等が記され、生きている私たちが妙法受持の信心をもってお題目を唱えるところ、その功徳は正しく精霊に回向され、故人の成仏が叶えられるのです。またその功徳は「回向」の意義からして、当然塔婆供養の願主へもかえってくるのですから、私たちは真心をもって塔婆建立を志していきたいものです。【塔婆供養に際しての心得】日有上人『化儀(けぎ)抄』には、「卒塔婆を建立する場合、まず三師塔で読経唱題を済ませた後に、故人の墓前で読経唱題するのが、事の一念三千をあらわす化儀である」(趣意・37条)と御指南されています。墓地に三師塔がない場合でも、寺院の御本尊様の前で回向することによって、この化儀にのっとることができます。末寺で、信徒が墓参のために塔婆を願い出られた場合、本堂の御本尊様の前で住職による回向を待たずに、塔婆だけ持ち帰ろうする人が時に見受けられます。先の日有上人の御教示からもこれは望ましいことではなく、寺院の読経・回向に連座できるよう、十分時間の余裕をもって参詣したいものです。また塔婆は、寺院として書写のための時間も必要ですので、あらかじめ願い出を済ませておくようにいたしましょう。法事などで故人の塔婆を建立する場合、地域差もありますが、願主並びに家族親族それぞれ願い出る場合と、願主が代表で建立する場合があります。有縁の人がそれぞれに塔婆を願い出ることは、参列者各位の、故人への気持ちがそのまま塔婆として表わされますので、望ましい追善供養となりましょう。他宗の信仰をする親族でも、法事の場合に限り、願主とともに願い出るのであれば、塔婆供養は正宗寺院で受け付けられることになっています。これは、願主が能開(のうかい)、親族が所開(しょかい)の義になるからです。今回のお話は、妙教の平成9年10月号 今日は、二回続けて塔婆供養について、コピペをしました。 塔婆供養は、寺院の金儲けだの言うが、塔婆供養一つとっても、先祖を供養する事、その気持ちは大切な事だと思います。
2009.03.11
『法華経法師品(ほっしほん)』に、「若(も)しは経巻所住の処(ところ)には、皆応(まさ)に七宝(しっぽう)の塔を起(た)てて、―中略―復(また)、舎利を安んずることを須(もち)いず。所以(ゆえん)は何(いか)ん。此の中には、巳(すで)に如来の全身有(いま)す」(開結391)と説かれるように、大乗仏教においては、釈尊の肉体(遺骨としての舎利)よりも、遺(のこ)された教法(経巻すなわち法身の舎利)を重んじたからです。さらに仏舎利や経巻を祀る目的だけではなく、仏教信者が故人の墳墓(ふんぼ)として、供養塔や墓標の目的でしつらえたり、あるいは故人の追善回向のために板塔婆・石塔婆等を造るなど、これらも卒塔婆として扱われるようになりました。このように、卒塔婆は時代とともに様々に展開していった歴史があります。そこには当然、故人の命は死後仏の体内に帰するという、然るべき法義も具わって展開したことは言うまでもありません。【御書に見られる塔婆】日蓮大聖人の御書にも、各処に塔婆の名称が見られます。『出家功徳御書』には、高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも、一日の出家の功徳は勝れたり」(新1371)との経文が引かれています。また『上野殿御返事』には、出家得道を志した僧が、まだ修学間もない頃、父に槻(つき)の木(欅けやきの一種)の弓で叩(たた)かれ励まされたのを想い起こし、亡き父のために、槻の木で塔婆を作り供養した逸話(いつわ)があげられています(新1360)。あるいは『中興(なかおき)入道御消息』には、対告衆(たいごうしゅう)である女性が、幼くして亡くなった娘御前(むすめごぜ)の十三回忌に丈六(じょうろく一丈六尺の意)の塔婆を建立したことに触(ふ)れられ、その大きな功徳を説かれています(新1434)。この御書には、とりわけ建立された塔婆を縁として、様々な功徳が周囲にまで及ぼされることが説かれていることは、現在塔婆供養を志す私たちの、大きな励みと喜びにつながる御文です。また後述しますが、死者の成仏を願って建立される塔婆に、草木成仏(そうもくじょうぶつ)の意義が具わるということは、『御義口伝(おんぎくでん)』や『草木成仏口決(ぐけつ)』等に説かれるところです。このように、塔婆について御書の各処に説かれた大聖人様の教えにのっとり、わが日蓮正宗においては、故人への追善回向を主たる目的として、塔婆や、以下に述べる五輪塔の建立、供養が行われてきたのです。【五輪の刻(きざ)みが示す大切な意義】塔婆の特徴といえば、五輪の刻みがあることがまず挙(あ)げられます。刻みがあるといっても無闇(むやみ)に刻みを入れたのではなく、本来、下から方形・円形・三角形・半円形と重ねられ、一番上が如意宝珠(にょいほうじゅ)の形を意味する刻みです。この原型を表わす顕著な例は、総本山の墓地の三師塔などです。三師塔は宗祖大聖人・日興上人・日目上人の御墓石で、それぞれが、正式な五輪塔の形態で造られています。五輪塔のうち、基部(きぶ)の方形は地輪を表わし、円形は水輪、三角形は火輪、半円形は風輪、如意宝珠は空輪を意味していますが、人間の当体が地水火風空の五大からなるという意味であり、それはすなわち妙法蓮華経の真理のあらわれと見られます。このことは、『総勘文抄(そうかんもんしょう)』に、「五行(五大)とは地水火風空なり。―中略―是則(すなわ)ち妙法蓮華経の五字なり。此の五字を以て人身の体を造るなり」(新1418)と説かれるとおりです。また『御義口伝』にも、「塔婆とは五大の所成なり。五大とは地水火風空なり。此を多宝(たほう)の塔共(とも)云ふなり」(新1780)とあります。すなわち五輪の塔婆とは、私たち衆生の当体が無作本有(むさほんぬ)の五大すなわち本覚(ほんがく)の如来である意義を表わし、その意義が、五輪塔や塔婆の刻みに顕わされているのです。
2009.03.11
『塔婆のこと』 盂蘭盆やお彼岸会、あるいは故人の回忌や命日など、本宗の信徒にあっては、寺院で塔婆供養を願い出る機会が多くあることと思います。塔婆は精霊回向(しょうりょうえこう)のうえで象徴的とも言うべき、大切な役割を果たしています。またその意義においても、法華経一念三千の法門にのっとり、亡くなった人を含めた非情の成仏を現わすという、大変重要な意義が具(そな)わっています。ここでは塔婆供養のいわれや意義にを考えてみましょう。 【塔婆の起源は?】 『法華経方便品』には、「若しは曠野(こうや)の中に於いて 土を積んで仏廟(ぶつみょう)を成し 乃至童子の戯(たわむ)れに 沙(すな)を聚(あつ)めて仏塔と為せる 是の如き諸人等 皆巳(すで)に仏道を成じき」(開結180)とあります。仏の霊跡を示す廟(びょう)や仏舎利を祀(まつ)る塔を、たとえ童子が戯れに造ったとしても、その行為が善縁となって、成仏に結びつくことが法華経に説かれていますが、塔婆供養の起源も、遠くインドにおいて、仏廟や仏塔を建立し供養したところにさかのぼります。釈尊在世にあっては、遠方に行く信者が釈尊に願い出て、髪や爪を賜わり、髪塔(ほつとう)・爪塔(そうとう)を建立したことが仏典に見られ、後世の仏教徒が仏舎利(釈尊の遺骨)を霊場等に分骨する風習の起源とされています。また、釈尊の入涅槃のおりには遺体が火葬(荼毘=だび)されました。そして遺骨は八分にしてインド各地に仏舎利塔が建立され、礼拝(らいはい)供養されたと伝えられています。その後もインドを統一した阿育(あそか)大王が八万四千の塔を建立するなど、仏舎利塔の造立は盛んに行われて行ったのです。仏舎利塔のことを、原語(げんご)では「ストゥーパ」と言いますが、それに漢字をあてはめて音訳したのが「卒塔婆(そとうば)」(略して塔婆・塔)です。意味は、廟・塚・円塚・高顕処・方墳・功徳聚・聚相・積聚(しゅくじゅう)などと訳されますが、これらの意味には、「ストゥーパ」が単なる遺体の埋葬処ではなく、仏徳を顕彰したり、功徳を積むところ等々の意味合いを込めて、造立されていたことがわかります。形態においても、当初の仏舎利塔(ぶっしゃりとう)は遺骨を地中に埋め、上に土饅頭(どまんじゅう)を作っただけのものだったのですが、インドは熱帯地方で、直射日光が当たれば、釈尊も地中で暑かろうということで、日傘(ひがさ)が立てられました。その後埋納(まいのう)された釈尊を尊敬するあまり、土饅頭の下に基壇(きだん)も作られ、その基壇も次第に重層に積み重ねられ、壇上の日傘も増していったのです。 こうなりますと、後世中国や日本へ仏教が伝えられた過程で建立された、五重塔などの楼閣(ろうかく)建築への発展も予想されます。楼閣建築は中国古来のものですが、仏教が中国から伝えられ、日本に伝えられる過程で、今日見られる重層塔の形態へと発展したのです。いわゆる積み重ねられた基壇が重層塔の屋根となり、塔の本体であった土饅頭は伏鉢(ぶくばち)としてその上に位置し、多数の日傘は一本の竿(さお)に整理され相輪になったと言われています。このように、卒塔婆(塔婆)の起源はもともと仏舎利塔であったのですが、その後時代を経(へ)るとともに、中国・日本へと仏教伝播の過程で、仏舎利や経巻を祀る寺院伽藍(がらん)の大事な建造物となりました。ちなみに、仏塔に仏舎利ではなく経巻が安置されるようになったのは、経巻が法身(ほっしん)の舎利(釈尊の教えや経巻を舎利にたとえたもの)を意味するからです。 お彼岸の季節になりました。私は、今年塔婆供養をしたいと思います。 今週は、塔婆について、、また、あるメールマガジンのコピペ(過去の日蓮正宗の機関紙等)から紹介したいと思います。
2009.03.10
日寛上人は、 「立正の両字は三箇(さんか)の秘法を含むなり」(御書文段6ページ)と仰せられ、「立正」の二字には三大秘法を含み、三大秘法を立てることを、次のように釈されています。「本門の本尊に約せば正とは妙なり、妙とは妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり」(同ページ)と、「正」とは即ち御本仏日蓮大聖人の悟りである「妙法蓮華経」の五字のことであると御教示されています。まさに「正を立てる」とは、『観心本尊抄』に、 「一閻浮提(いちえんぶだい)第一の本尊、此の国に立つべし」(御書661ページ)と仰せになられた一閻浮提第一の「本門の本尊」を日蓮大聖人が御建立あそばされたことであると明かされています。 次に、「本門の題目に約せば、謂(い)わく、題目に信行の二意を具(ぐ)す(中略)正境(しょうきょう)に縁する故に信心即ち正し。信心正なる故に其の行即ち正なり、故に題目の修行を名づけて正と為(な)すなり」(御書文段6ページ)と、本門の題目には信行が具足(ぐそく)することを明かされ、正しい本尊に縁して信心が正しくなり、信心が正しくなることから、「行」が正しくなることを明かされます。即ち正しい「信行を立てる」とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることであり、これが「本門の題目」の上からの「立正」です。 そして、 「本門の戒壇に約せば、凡(およ)そ正とは一の止まる所なり、故に一止に従うなり。一は謂わく、本門の本尊なり。是れ即ち閻浮提第一の本尊なるが故なり(中略)故に本尊を以(もっ)て一と名づくる者なり。止(し)は是れ止住(しじゅう)の義なり、既に是れ本尊止住の処(ところ)なり豈(あに)本門の戒壇に非ずや。立とは戒壇を立つるなり」(同ページ)と御教示されています。「正」の字義を見ると「一」に「止(とど)」まると書きます。この「一」とは、一閻浮提第一の本門戒壇の大御本尊のことです。「止まる所」 とは、即ち止住の所在の地ということです。つまり、本門の本尊が在(ましま)す所は本門の戒壇であり、中にも本門戒壇の大御本尊学会御安置される奉安堂こそ、現時における「本門の戒壇」に当たるのです。 さらに『一期弘法抄(いちごぐほうしょう)』に、「国主此の法を立てるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書1675ページ)と御教示の広布の暁に建立されるべき本門寺の戒壇が、「立正」の「正を立てる」の真意なのです。故に「立正」には、末法万年に弘通するところの本尊と題目と戒壇、即ち三大秘法の建立の義が含まれるのです。 (日蓮正宗の基本を学ぼう27) 今回は、日蓮正宗の機関紙からの日記です。 今年は、「正義顕揚750年」と言う事で、「立正」について書いてみました。 最近、ちょっと忙しいので中々、日記が更新出来ないでいました。 あさってから、「塔婆供養」について書きます。
2009.03.08
(五重相対より) 前御法主日顕上人猊下は、「立正」の「正」の意義について ・第一に、因縁・因果を説かない外道の「邪」に対し、因果の理法を説く仏教を「正」とする(内外相対) ・第二に、利己的で挟小な内容の小乗経を宗旨とする「邪」に対し、自分のみならず他をも導いていくという全体観の上から教えを説く大乗経を「正」とする(大小相対) ・第三に、真実に導くための仮りの方便である権大乗経を宗旨とする「邪」に対し、真実の一法である法華経を「正」とする(権実相対) ・第四に、時期に過ぎた像法時代の衆生を導く法華迹門を宗旨とする「邪」に対し、末法弘通(まっぽうぐつう)の大法である法華本門を「正」とする(本迹相対) ・第五に、文上脱益(もんじょうだっちゃく)の釈尊の仏法を宗旨とする日蓮他門家等の「邪」に対し、末法の御本仏日蓮大聖人の仏法、則ち文底下種(もんていげしゅ)の妙法蓮華経を「正」とする(種脱相対)と、このように、五重相対(ごじゅうそうたい)より浅深勝劣(せんじんしょうれつ)して「正」の意義を明かされ、「下種の本尊とその三大秘法こそが真の『立正』の『正』という意味であり、末法万年の下種仏法の弘通、化導の上にはっきりと示された大法であります」(御法主日顕上人猊下御講義集立安国論9ページ)と、本門の三大秘法こそが「立正」の「正」であると御教示されています。(日蓮正宗の基本を学ぼう27) ちょっと難しいです。顕正会の方々は、「?」でしょうか? 私も難しいです。何とな~くです。(^-^;) 続けていきます。
2009.03.06
総本山第二十六世日寛(にちかん)上人 は『立正安国論愚記』において「立正とは破邪に対するの言なり」(御書文段四ページ)と御教示されています。 また前御法主日顕上人猊下は、「『正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)坦説無上(たんせつむじょう)(正直に方便を捨てて)坦(ただ)無上道(むじょうどう)を説く』(法華経124ページ)という文があります(中略)この正直に方便を捨てるということは、方便にいつまでもとらわれて真実を見ないところが邪道であり、その邪を破すという意義であります。また無上道説くのが正法を立てること、顕正であります。いわゆる『破邪顕正』が、この『立安』であります」(御法主上人猊下御講義集立安国論5ページ)と御講義されました。 則ち「立正」とは、単に「正を立てる」ことのみでなく、その前提には必ず破折する「破邪」があり、その上に正法を立てることが「顕正」となり、この「破邪顕正」こそが「立正」に篭められた大聖人の御聖意と拝すべきです。 (平成21年3月1日大白法第760号・日蓮正宗の基本を学ぼう27) 今回は、『立正安国論』について、「立安」とは?何か?それを考えたいと思います。 日顕御隠尊猊下の御講義にあるように、「破邪」つまり、間違えた考えを教える事であり、それを正していく事だと思います。 顕正会員は、何故か?法華講から逃げます。正しいなら、逃げる必要はありません。日蓮正宗が間違えであるなら、堂々と破折すべきです。「顕正」とは、正しく顕す事です。 このブログを除く、顕正会会員の方々、「破邪顕正」が、本来の姿ではありませんか? 破邪顕正出来ずに、法華講と聞くと逃げる。御書の事を出すと、はぐらかす。それが、正しい仏弟子と言えるでしょうか? 私から言わせれば、顕正会でなく、「犬性会」です。 逃げる事が、「顕正」でしょうか? 名前負けのカルト宗教です。 去年の日記にも書きましたが、わすが三ヶ月足らずの頃の私に簡単に破折されて逃げる。情けないですね!
2009.03.04
今年は、立正安国論正義顕楊750年であります。 この日記、携帯で書いております。 携帯のカメラは、200万画素ですので、デジタルカメラから、転載してます。 中には、ネットから拾った画像もあります。 今年は、記念の年です。 色んな写真を撮り、アルバムに載せていきますので、楽しみにしていて欲しいと思います。 本当は、梅の写真を載せたいのですが、画像がデカイので、出来ない。残念です。
2009.03.03
このブログを書いた目的は、邪宗教について、特に異流義を破折する事です。 ただ、破折するだけでなく、日蓮正宗の事、仏法の事を書いております。それは、顕正会や学会等に疑問を持った方々に日蓮正宗の事を知ってもらうためであります。 一年が経ちました。早いものであります。 【破邪顕正の折伏】とは? 私達はなんとしてでも地涌倍増(じゆばいぞう)と大結集の御命題(ごめいだい)を達成しなければならないと、このように強く感ずるものであります。 大聖人様は『立正安国論』のなかに 「嗚呼悲しいかな如来誠諦(にょらいじょうたい)の禁言(きんげん)に背くこと。哀れなるかな愚侶迷惑の麁語(そご)に随ふこと。早く天下の静謐(せいひつ)を思はば須(すべから)く国中の謗法を断つべし」(御書247ページ)と仰せであります。 「国中の謗法を断つ」ということは、すなわち現代の一凶である池田創価学会の邪義をはじめ、あらゆる間違えた考え方、間違った思想、いわゆる邪義邪宗の謗法を破折すること、つまり破邪顕正の折伏を行うことであります。「謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるが如くなるべし。はかなしはかなし」(御書1040ページ)と大聖人様は仰せであります。 (大日蓮平成18年2月号17ページ) この国には、沢山の宗教があります。中には、金を巻き上げるだけの宗教もあります。 それらを破邪顕正する事です。 その宗教を信じている人を破折する事は、大変難しい事です。 根本的に何が間違えか?間違えた宗教がどう影響を及ぼすか?それを説明する事は、簡単なようで難しい事です。 それでも、折伏をしなければならない。
2009.03.01
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