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テレビを見ていたら、横浜市民は、市民歌が歌えると言ってました。行事の度に歌ってるそうです。 私は、プロフィールを見れば分かりますが、茨城です。 茨城には、茨城県民の歌があります。 ♪空には~筑波~白い雲~野には~実りを~写す水~こ~の美しい~大地に生まれ~明るく生きる~喜びを~明日の希望を招くのだ~茨城~茨城~我らの茨城~♪ 歌詞間違ってるかも?中学時代依頼です(笑) 茨城県民体操も多分、曲に合わせて踊れます。 さて、以前にも書いたのですが、日蓮正宗にも沢山愛唱歌があります。 私は1番好きなのは、「唱えていこう妙法を」です。「広布に生きる」も、力強く良い歌です。 「唱えていこう妙法を」は、20年も歌われています。 子供向けの歌ですが、大人でも好きになる歌だと思います。 私は三番が好きです。 ♪勇気正直~正義~の木~ 心に~三つの~木を持とう~どん~なに~小さ~な~苗木でも~未来は~大きく~そびえてる~唱えてゆこ~う~妙法を~唱えてゆこ~う~妙法を~♪ 顕正会の軍歌の替え歌と違います! 今年は、「立正安国論正義顕揚750年」です。 新たな歌が出来ました。 どんな歌か?非常に楽しみであります。
2009.02.26
今年は、私は去年以上の登山をしたいと思っています。 私だけでなく、多くの法華講の方々は、罪障消滅をしたく、信心を持って登山をしていると思います。 何回も日記に書いてきましたが、法華経の信心は、必ず魔や大難が襲います。 これは、まやかしでも、罰でもないです。 大聖人様は 「我並びに我が弟子、緒難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひをを(起)こして皆す(捨)てけん。つたななき者のならひは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし」(開目抄下・御書574ページ) 「我等は法華経をたの(頼)みまいらせて候へば(中略)しばらくの苦こそ候とも、ついにはた(楽)のしかるべし。」(上野殿御返事・御書1479ページ) と、仰せであるように、難は必ずある事を言われております。 罪障を消すために、何をするか?それは、基本的な信仰修行たる勤行と唱題をしっかりやり、寺院を大切に、御登山をする事、きちんと、財の供養、身の供養をする事です。 私も、忙しい日々の中、きちんと勤行・唱題をし、寺院参詣、登山をし、財の供養・身の供養をしてます。 不思議な事に、いろいろ難はありますが、信を失う事がなければ、守られます。 去年の夏に日記に書きましたが、斜め前のトラックが、突然パンク、横にいたら事故っていたでしょう。それだけ守られています。 私の菩提寺は、遠いです。菩提寺いく度に、地元のお菓子を御供養し、や正月には、地酒を御供養しました。 小さい積み重ねが、大切なんだと思います。 前にも書きましたが、財産より御本尊様と題目があれば幸せと、心から思えるようになりたいと思います。
2009.02.25
昨日は、私の所属寺院の支部登山でした。 昨日と一昨日と、支部登山が集中していたようです。 沢山の支部が来てました。 さて、今年は『立正安国論正義顕揚750年』であります。 今年は、沢山魔による信仰の妨げがあるでしょう。私も登山三日前に、車のライトがつきっばなしで、バッテリー交換をしました。 たいしたことない事でありますが、まだまだ、序の口であります。 私は思うのでありますが、どんな難でもくるなら来い!の覚悟で、しっかり信心を持つ事で、乗り越えていけると思います。 支部登山では、布教講演会、そして各宿坊にて、お弁当で昼食です。大食いの人には、足りないかも?知れませんが、でも美味しいお弁当です。 御開扉をして、記念展見学(宝物殿)となっています。 これは、Dコースで、また違うコースもあります。 宝物殿は、元富士美術館です。 各支部の写真や今までの歴史等、沢山の貴重な資料を拝見が出来ます。 一回の登山では、全てを見る事が出来ないです。今回は、支部登山が重なったのもあります。 次回は、ゆっくりと見学をしたいと思います。 顕正会会員だと、絶対見る事が出来ない資料、本当にありがたいです。 次回、記念登山をした時に、更に詳しい感想を書きたいと思います。 今回は、重なったのと、初めてなので、簡単な感想になりました。
2009.02.23
私は、信心の面で、二代目会長戸田城聖氏を尊敬をしてます。 いろいろ、裏の噂を聞きますが、戸田城聖氏の信心は、私は素晴らしいと思います。 その戸田さんは、僧侶を軽蔑する事がおかしいと言っております。 「ただし末法に大利益ある本仏の宗教を護持・弘通(ぐつう)する僧侶は、大集経(だいじつきょう)の意のごとく尊崇(そんすう)・保護しなければならぬ」(戸田城聖全集・第5巻192ページ) 「立宗七百年を明年にひかえて、ますます宗門内の団結を固め、折伏逆化(ぎゃっけ)に進むべきことは当然でありますが、「或者(あるもの)は僧を軽侮する風潮すら萌(きざ)せるを感ぜられることは慨嘆(がいたん)を禁じ得ないのである」とのおことばを拝しましたことは、得に宗徒として、もっとも厳戒せねばならぬ点でありながら、ご心痛をいただいたことについて、各人、深くおのれの謗法の有無を省みねばからぬところであります。 『立正安国論』にのたまく「大集経(だいじつきょう)に云く『頭を剃り袈裟を箸せば持戒及び毀戒(きかい)をも、天人彼を供養す可(べ)し則ち我を供養するに為りぬ、是れ我が子なり若し彼を堝打(かだ)する事有れば則ち我が子を打つに為りぬ、若し彼を罵辱(めにく)せば則ち我を毀辱(きにく)するに為りぬ』」(御書247ページ)と。 また、御開山上人の御遺誡置文(ゆいかいおきもん)を拝するにつけても、このたびの御訓諭のままに、僧俗一致の誠を尽くすべきことをお誓い申し上げるしだいであります。」(戸田城聖全集第3巻446ページ) 「お坊さんに、おのれは、おせじをつかわないで、そして、どこまでも尊敬する。尊敬とおせじは違います。ここは紙一重の差がついている。尊敬する。そうして、できるだけこのお寺の御僧侶が、不自由のないようにすることを心がける。 そのかわり、御尊師にもしまちがいがあるならば、陰口なんてきかずに、正々堂々と忠告すること。これは罰になりません。陰口は罰になります。だが、面とむかって堂々と話すことは、けっして罰にはなりません。しっかりやりなさい。」(『戸田城聖全集』第4巻560ページ) 戸田城聖氏は、御僧侶を尊敬する事、護る事を言っております。 また、インターネット等で、日蓮正宗の僧侶の悪口を書いたり、離脱した僧侶が、僧侶を誹謗したりする事。 それが正しい行動だろうか? 戸田さんは、御尊師がもし間違えをしてるなら、正々堂々と忠告するようにと言っております。私もそう思います。 これが、間違えだと思うなら、とことん話すべきであります。 私みたいな、未熟者が言える立場ではありませんが、話すべき事は、理解するまで話すべきだと思います。
2009.02.21
「もう一つ、この機会に申し上げておきたいのは、法華講連合会の存在であります。 以前にも申しましたが、縦糸と横糸があって初めて織物が出来るように、広布の発展、信徒の育成においてもこれは不可欠であります。もちろん、宗務支院、宗務支院長から管内寺院というような指導・連絡等があり、それぞれの住職・指導教師から信徒に対して指導を行うという在り方が本来の姿であります。 この縦の形に対して、信徒の在り方という面における横の連絡機関も必要であり場合によっては、ある意味における指導的なこともやむをえないと思うのです。当然、僧侶の指導が主体であるけれども、信徒同士のなかで、経験の上から、自分の得た信心の功徳の上から、先達がこれを導いていくということがあっても、私はいいと思うのです。」(平成八年一月六日 末寺住職・寺族初登山の砌448号・御法主日顕上人御言葉集より) 日顕上人の御言葉にあるように、住職・指導教師から信徒に、指導をする事が本来の姿であります。 また、信徒の経験の上から、自分の得た功徳によって、導く事を言われております。 顕正会は、縦の繋がりを大切にしますが、横の繋がりは、大切にあまりしません。 私は、思うのでありますが、師弟相対、異体同心をしなければ、折伏も進まないではないか? 指導教師の指導を守り、仲間を引っ張っていく、これが重要だと、拝するのであります。 師の指導を実践しその指導を実行した事による功徳は、大切な糧になります。 自分自身の事ばかりでなく、仲間を大切にする事が、大切だと思います。
2009.02.20
師弟について、大聖人様は、きちんと言われています。先日の「法華初心成仏抄」にも書いたのでありますが、違う御書を紹介したいと思います。 「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(一代聖教大意・御書92ページ) 「だんなと師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし」(四条金吾殿御返事・御書1118ページ) 「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)法の道理を聴聞して信心を歩みを運ぶべし。」(新池御書・御書1457ページ) 師について、師は僧侶である事、法華経は、相伝がないと知る事が難しいとあります。 また、法華経を僧侶から聞き学ぶべき事を言われております。 昨日から、荒らす輩がおりますが、ネットやちょっとした知識だけで、大聖人様が、悟った事を全て理解出来るでしょうか? 大聖人様は、法華経の信心や御本尊について「一念三千の法門をふりすずきたてたるは大曼茶羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(草木成仏口決・御書523ページ) 大曼茶羅の御本尊の功徳について、習いそこないつまり、中途半端な考えや学習で、分かるほど簡単ではないという事であります。 簡単にネットや本だけで理解するような事ではありません。 我々、日蓮正宗信徒法華講は、御法主上人の指導に従い。御法主上人に任命された御住職の指導にきちんと従うべきです。 どんな理由があろうとも、疑問あれば、おかしいと言うのであれば、きちんと話し合うべきだと思います。 私の意見でありますが、もし、もしです。所属寺院の御住職が間違えた仏法を教え、修行を怠るなら、必ず何らかの”罰”があると思います。
2009.02.19
このブログを始めて、もうすぐ一年になります。 皆様のおかげさまで、二万アクセスを越え、一日平均300件アクセスしております。感謝感激であります(^-^)/ 先日、でんじさんの書き込みを見て、「法華初心成仏抄」について、書いてみたいと思います。末寺から貰うカレンダーにも書いてあるのであります。 「よき師とよき檀那とよき法と、この三つを寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべきなり。よき師とは、指したる世間の矢(とが)無くして、聊(いささか)のへ(諂)つらふことなく、少欲知足にして慈悲有らん僧の、経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉(よ)き第一の法師なりと讃められたり。吉き檀那とは、貴人にもよらず戝人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず」(御書1314ページ) よき師とは、御法主上人猊下であり、所属する寺院の御住職であります。 よき檀那とは、我々信徒であります。 師の指導の元、自分の我見(がけん)で仏法のことを判断せずに、素直に従う事です。 根元の事、師に従う事をしないとならない事、これは、世間でも言える事だと思います。 師(学校の先生や上司)に逆らう事をすると、失敗や間違えがあります。 仏法においても言える事です。 学会や顕正会は、師の言う事に従う事をしないから、破門されました。 根本的に師に従うのが、間違えをおこさない事だと思います。 余談でありますが、よく人生を道やレールに例えられます。 人として生まれてから、何も苦労無しに生きていける人はいないと思います。 道にもアスファルトの道、砂利道、泥道もあります。 くねくねした道もあります。 我々、法華講は師の指導を元に頑張って、信心をし正しい仏法の元、一生成仏をしなければなりません。 辛い事、沢山あります。泣きたい事もあります。 この日蓮大聖人の教えは、必ず成仏をします。 成仏の為には、きちんとした師が必要です。 我々信徒は、師の指導に従い。人々に正しい仏法を教えなければなりません。教えるのに、嫌がらせや世間に迷惑な事をする事、それは根本的な信心が曲がってるからだという事であります。
2009.02.17
あのような気持ちになるって、それだけ功徳も大きいでしょうか? 生き生きとしている。 その方は、80歳若い頃は、戦時中、戦後の大混乱を経験しているはずです。 信仰して沢山の大難を経験してるから、それを乗り越えてきたから、言える心からの言葉でしょう。 私は、本当にまだまだ信心が足りないとつくづく感じるものです。 菩提寺や参詣許可寺院でもそうですが、やはり、きちんと信心を貫いている方は、生き生きしています。 私もあのようになりたいと、思うのであります。 顕正会では、そう言う話を聞いた事ってあまり無いですね。功徳がどうたらの話ばかりで、財産より御本尊様と題目あれば、幸せなんて、言う顕正会の方はいるでしょうか? 私は、法華講になって、一年二ヶ月、御本尊を下付されて、半年でありますが、この間沢山の大難がありました。 仕事や経済的な事、それは、自分自身の過去の謗法が原因であります。 でも、普通なら毎回いろんな難が降り懸かるなら、退転したり、辞めると思います。 大聖人様が、おっしゃる事が、次から次にくる事は、この信心が本物だと思うのです。 確かに辛い事が、沢山あります。 それを乗り越えていく事、負けない力を付ける事は、大切なんだと思います。
2009.02.15
「特に私の横に座られてた80歳のお婆さんは「財産よりご本尊様と題目があれば幸せだ」と言っていましたが、その顔は赤々としてとても艶艶して、生命力に満ち溢れていました。「此れが絶対的幸福の境涯なのか」と感動しました。」ネットの「降魔の剣」という掲示板にあったものです。学会員がよく、意味不明な書き込みをしているので、勉強の為に見てます。 これは、YouTubeで有名なTさんに宛てたメールで、最近学会を脱会した若者のメールです。 メール内容を見て、感動しました。 こういう境地になりたいと思うのでありますが、難しいです。 去年の夏期講習にて、知らないご婦人が、「この信心は20年しないと理解出来ないよ」と言われました。 確かに、簡単に理解は出来ない。難信難解であります。 経済的に精神的に、やはり大難は降り懸かります。 これを乗り越えるのも信心だと思います。 しっかり、唱題をすれば、解決の糸が見えると思います。 自分自身も何だかんだ言って、乗り越えてきました。これからも大難はあります。 その時こそ、信心が強盛になるチャンスです。
2009.02.13
御本尊をそまつにした人は、ひじょうに気の毒です。じつに気の毒です。ですから、かわいそうだと思って、よく、こんこんと改めて信心するように、教えておけばよいのです。あまりくどく、御本尊様をそまつにした者を追いかけてもだめです。いまに姿を現してきますから、そのときに折伏してあげればいいのです。(戸田城聖氏の指導より) 「御本尊を不敬すると一度地獄に落ち後悔しきった後に救われる。 それまで飲まず食わずの生活を送らなければならない。」 (YouTubeにて戸田城聖氏の肉声から) 御本尊御不敬の罪は、重いですね。 実際、YouTubeを見て、また、聞いた話。御本尊を御不敬した方々は、本当に不幸になっています。 顕正会にいた我々元顕正会員だった方々も、やはり、御本尊御不敬をしていた事による罪障は、重いと感じます。 やはり、三宝誹謗の罪障だと思います。 「次に僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す」「末代の凡夫、三宝の恩蒙(こうむ)りて三宝の恩を報ぜず」(四恩抄・御書268ページ)「凡(おおよ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(真言見聞・御書608ページ) とあるように、御本尊は法宝でありますから、それを御不敬は、謗法行為です。 確かに、辛いです。それは根本的な信仰の間違えをしていたからです。 知らずとはいえ、顕正会の御本尊は、ニセ御本尊で、勤行内容すら改ざんされてました。 知らないとは言え、罪障を作っていたのです。 この罪障は、簡単に消える程あまくはありません。 私のように半年でも、何年も顕正会いた人もその罪障は変わりません。 この罪障を消滅するには、きちんと、修行をし、折伏、寺院参詣、登山しかありません。 そして、辛いからと御本尊様を疑っては、また罪障を作ってしまいます。 御本尊を大切にする事、それが大切なんだと思います。
2009.02.12
世間でも「艱難(かんなん)、汝を玉にす」と言いますが、人間は多くのつらいことを経験して、初めて立派な人物になれるのであります。仏道修行も同様であり、仏道修行の厳しさ、信心修行の尊さを知れば信心の厚みも増し、人間的にも大きくなり、現証として折伏にも大きな変化が表れてくるのであります。 (大日蓮平成20年2月号38ページ) 立て続けて、魔について書きました。 魔が襲う事、信心してきて必ず起こる事であります。 私は、思うのでありますが、魔が襲う事それを堪え、乗り越えていく経験が、大切だと思います。 以前にも日記に書きましたが、法華経の信心は、必ず大難が襲います。この難と魔を乗り越えていく事は、信心が強くなるチャンスだと思います。 「敵はね(狙)らふらども法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か」(九郎太郎殿御返事・御書1292ページ)「難来たるを以て意得(こころう)るべきなり」(就註法華経口伝 上 安楽行品・御書1762ページ) と、大聖人様が仰せの如く、難来ることを心得ていく事です。 どんな難にも強い信心を持ち、堪えなければなりません。 私は、仕事で今、いろいろな難に当たっております。プラス、罪障による魔の働きが、強くその影響が、仕事に及んでおります。 プライベートでも、経済的にきつく、辛いのでありますが、これも信心強盛を持つチャンスとして、堪えなければならない事であります。 今年は、私にとって信心修行が、強盛になるチャンスの年だと思います。 私だけでなく、法華講全員が、大難を経験をするのでは?と、思います。 どんなに辛くとも、大難を乗り越え、魔に勝つ信心を持つ事が、大切であります。 法華講の一員として、また、社会人として大きく成長をしたいと思います。
2009.02.06
大聖人様の、「異体同心なれば万事を成じ、同体意心なれば緒事叶ふ事なし」(異体同心事・御書1389ページ)という、宗門の僧侶、御信徒であればだれでも知っている有名な御文がありますけれども、このことを正法御持の上に行っていくことは本当に難しいのであります。特に正法に対しては魔が入るということがあります。そして、魔が様々なところから、正法を御持せんとする僧俗の和合を妨害しようとする姿があります。それが場合によっては僧侶の心のなかに入り、あるいは一部の信徒の方の心のなかに入る場合もあります。さらに外から様々な災難として来る場合もあります。このように魔の用(はたら)きは実にたくさんありますけれども、僧俗が真に正法を御持しようという大きな目的において団結していくときには、一切の障魔を破折して、立派に正法御持乃至、広布への正しい前進が実現するのであり、私はこのことを様々な実例から感じておるのであります。(平成13年4月11日 本地寺本堂新築落慶法要の砌・御法主日顕上人猊下御言葉集81ページ) 我々の信心は、常に魔が隣り合わせであります。 いくら僧侶でも、我々信徒も魔による障害は沢山あります。 日顕御隠尊猊下様の昔の御指南にもある通り、魔は様々な災難としてくる場合があります。 どんな魔をも破折して、正法を維持していかなければなりません。 先週から、魔について書いてきました。魔は、誰にでも襲う事であり、これを乗り越えていくには、正法の信心しかありません。 魔を魔と見抜く事は、簡単なようで難しい事です。 毎日の修行、そして折伏をして、正しい信心を鍛えなければなりません。 正しい信心を持ち、魔にたぶからされないようにしなければなりません。 去年の年末に、所属御住職様から、魔を見抜くように、言われました。 信心して、一年二ヶ月です。まだまだ、信心は、未熟も未熟、赤子のような信心であります。 赤子のときは、味に敏感だそうです。この時期に味がしっかりするそうです。 信心においても、魔を魔と見抜き、何が謗法か?魔か?それをきちんと、しなければならないと思うのであります。 だから、きちんと、毎日の修行は大切だと感じました。
2009.02.05
『兄弟抄』のなかで、 「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五巻に云く『行解(ぎょうげ)に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからずおそるべからず。之に随へば将に人を悪道に向かはしむ、之をおそれば正法を修することを防ぐ』等云々。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧(かて)とせよ」(御書986ページ)と、このように私達にお示しあそばされております。 『御義口伝』には、 「此の法華経を持つ者は難に値(あ)はんと心得て持つなり。されば則為疾得(そくいしっとく)無上仏道(むじょうぶつどう)の成仏は、今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る是なり」(御書1755ページ)と、このように仰せあそばされています。 『四条金吾殿御返事』を拝読いたしますと、 「敵はねら(狙)ふらめども法華経の御信心強盛(ごうじょう)なれば大難もかねて消え候か。是につけても能(よ)く能(よ)く御信心あるべし」(御書1292ページ)と、このように仰せであります。 信心強盛にして三障四魔を奮然と打ち破っていくところに、我々の仏道修行の尊さが在し、その尊さのなかから真の功徳が生じてくるのであります。 (大日蓮平成18年4月号24ページ) 日如上人猊下の御指南からです。 常に、我々の修行には魔は隣り合わせです。 どんなに、辛くとも信心を忘れたら、魔にやられます。 魔について、書いてきました。皆様どう感じたでしょうか? 私は、魔に勝つ事、魔にたぶらかせられない。強い信心を持つ事が、大切だと思います。 魔を魔と見抜く事、難しい事ですが、見抜く事が、魔にたぶらかせられない事だと思います。
2009.02.02
「我々が正義の行動を起こせば、必ず魔が競い起きる事は必定であります。然(しか)し 「魔競はずば正法と知るべからず」(兄弟抄・御書986ページ)との御金言を旨に、如何なる障魔が惹起(じゃっき)しようとも法華講の一人ひとりが大御本尊の広大なる功徳を確信し、目標達成に向けて勇躍として前進して戴きたいと思います。」(平成20年大日蓮1月号5ページ) 日如上人猊下の御指南にもあるように、魔競う事は、正法と知るべき事です。また、大御本尊の功徳を確信していく事だと思うのであります。 魔に魅了される事を先日日記に書きました。 難が起きる事により、魔にたぶらかせられてしまいます。 また、日如上人猊下の御指南の中に「「難きたるを以て安楽と意得べきなり」(就註法華経口伝 上 安楽行品・御書1763ページ)との強盛なる信心に立つとき、広大なる大御本尊の功徳力によってあらゆる魔障を打ち砕き、確たる幸せを招来することができるのであります。」(平成19年8月号51ページ) 強い信心を持って、魔障を打ち砕くべきだと仰せです。 私は、魔はつねに隣り合わせだと思っています。 魔にたぶらかせられるのは、簡単な事です。 魔にたぶらかせられたある元警官だった学会員は、人殺しをして奪った金を「創価学会の功徳」だと思い込みをした者がいます。 魔にたぶらかせられると、魔を魔とみられなくなる。 魔は、怖いです。 自分自身を見失うのです。 私は、常日頃から信心をきちんとし、魔にたぶらかされないと言う考えの元、頑張っていく事が大切なんだと思うのであります。
2009.02.01
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