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英語の発音レッスンを1つだけ紹介する。モルモットの英語は? 「Marmot」「ええ!Mormon(モルモン)ですって?」「いやそうじゃなくって」……シドロモドロする日本人の姿が見える。これではシロオビも貰えない。marmotは全く別の動物で日本にいない。正しい英語は? そう、guinea pig。人間モルモットはhuman guinea pig。 ところが、映画に出てくる英語は、lab ratだ。laboratory rat(実験用のネズミ)、これが縮められてlab rat。そう、クロオビはラブ・ラット。おっと、カタカナで覚えようとしている間は、まだシロオビ。クロオビは聴き取れる、発音ができる、そして使える。Lは舌を上の歯ぐきにくっつけ、Rは舌をころがせる。レーブ・うれッ(ト)。 レ(L)とら(R)だけしか耳に入らないから、日本人の耳に入らない。発音ができないからだ。発音を徹底的に矯正すれば、確実に聞き取れる。中国、韓国は子音が強いが、日本語は母音言語。LとRが気にならない。平気で間違う。だから笑われる。それでもいいんだ、日本人英語でなぜ悪いという開き直りは、英語を学びたい人にsoft love(甘え)を与える。それだけではない。1.発音のできる日本人 ― 多分劣等感から ― 妬み、陰口を叩いたり2.ネイティヴ・イングリッシュが聞き取れないまま劣等感から抜けきれず3.日本人同士でしか英語を話さなくなり4.暗い空気が日本人の英語力を低下させるこういう集団自殺的傾向をただす方法は2つある。1つは、英語を全く使わないこと。もう1つは、必死に英語を学び、英語に強くなること。この2つだ。「第三回"サバイバル・イングリッシュ"道場」の案内はこちら
2008年07月31日
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そもそも、オコゼに関心を抱いたのは、あの人間のような形相が原因ではない。柳田國男と南方熊楠の間で、山の神とオコゼの話題が盛り上がったからだ。民俗学の両巨頭が他界したずっとあとも、オコゼ神話に関心のある人は減らない。 オオカミ博士・丸山直樹氏も、山の神はオオカミのことだから、熊楠はオオカミの大ファンだと誇らしげに語られる。同じ民俗学者でも、私には英語という伝家の宝刀がある。英語から入る外国情報には事欠かない。英語を武器として闘う武芸者として、英語の発声は気になる。発音より発声である。日本人にはRとLの違いがわからないといわれ、よくjokeのネタにされる。riceをlice(シラミ)と発音すれば笑われるといわれるが、この程度なら問題にならない。rip(引き裂く)をlip(唇で触れる)と発音したり、バラク・オバマ(Barack Obama)をBlack Obama(黒人オバマ)と発音して笑われたり、「cataract(白内障)ですね」と言われて、「いいえ私はリンカン・コンチネンタルです」と答えた日本人もいて、アメリカの週刊誌のネタになっている。cataractがCadillacに聞こえたのだ。あのオノ・ヨーコもRとLを混同していると報道されている。それでも日本人、とくに学者は、RとLなんか気にしなくてもいいんだ、日本人の発音でなにが悪い、と開き直る人がいる。今の世の中、発音は大切だ、いや発声はもっと大切だと言っても浮き上がってしまいそうだ。しかし、遠吠えは続ける。このあともbla bla bla(止めどもなく)。bra bra braと日本人ふうに発音しないでほしい。ブラジャー・ブラジャー・ブラジャーと聞こえるぞ!「第三回"サバイバル・イングリッシュ"道場」の案内はこちら
2008年07月30日
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音霊で思い出した。夏のブログは思考が扇風機に吹かれて舞い上がる。7月2日、佐渡島の2人の旅館経営者とオコゼの話をした。オコゼのツノには毒がある。そして、たしかに声を出すという。2人のうちの1人はプロの料理人だが、どんな声で啼くのか確かめてみます、と約束してくれた。私とつきあっていると、宿題が増えて困るという人もいる。なぜこんな話題を? その日に読んだジャパン・タイムズの記事だ。Toadfish may hold key to human speech. という見出し。オコゼが人間の発声の謎を解く鍵になるかって?オコゼの求愛のhumか。小鳥はchirp(ピーピー)、カエルはthrum(物憂げにつぶやく)、くじらはwhistle(口笛を吹く)。オコゼがムーとぶんぶん唸ったところでかまわない。どのように、泣く、鳴く、啼くのか、動物の勝手だ。ウィキペディアによれば、求愛の時はsing(啼く)らしい。しかし、toadfishのhumが、like the drone of bees or a motor running(ハチのぶんぶんという音やモーターがブーンブーンと唸っている音のようだ)とある。「ようだ」ということは、オコゼは物憂げに歌って ―― いや話をしているのかもしれない。アメリカの話だが、民俗学にハマりつつある私には気になるテーマ。その新聞の記事は、同僚で紘道館塾頭の浜岡勤氏に手渡した。また宿題を与えてしまった。気の研究とか音(言)霊に関心があるというからだ。誰かれなしに宿題を押し付けることはしない。 青森県にある青池。その名の通り、吸い込まれそうな青
2008年07月29日
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夏になるとカマキリが大きくなる。オオカミの話はちょっと横において、カマキリの話に戻ろう。今回の東北の旅は、カマキリ男こと、酒井與喜夫博士に会うことをハイライトにしている。遠野にも昆虫博士がいる。 旅行けば、いろいろな達人に会える。吉川英治の「我以外皆師」は私の座右の銘であるが、それを実践することはむずかしい。私が旅を好むのは、地方の多くの師に会って、教えを乞う。何かのきっかけやひらめきを得られるからだ。ナニワ英語道の基本はここにある。つねに、頭の中をからっぽのコップにして教えを乞う。老荘思想そのものである。TOEIC何点、英検1級、かつてオリンピックでメダルをもらったとか、そういうお飾りを全て捨て、相手に融け込むことだ。アホになる。これなら東京人にでもなれる。大阪人はドアホになれる。もっと深ーい、底辺のアホだ。実用英語に強くなる、最もてっとり早い方法は、赤ん坊になることだ。天才とは、赤ん坊に戻れる思考の柔軟性を持っている。原点をゼロに考えるから、一見まったく無関係なものを結びつけ、それを利用するヒラメキがある。きっとカマキリと英語学習法を結びつけさせてみせる ―― 結びつかなかったりして。 「第三回“サバイバル・イングリッシュ”道場」の案内はこちら
2008年07月28日
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深夜に吠えるには、発声の訓練もいる。紘道館やメンター・ダイヤモンドのメンター塾では、発声の練習をする。人間は言霊(word spirit)というが、オオカミはまだ、"音"霊の世界にいる。 ウォーンと天空に向って高らかに吠えるのだから、腹式呼吸でなければならない。英語は腹式呼吸だ。一息で発声 ―― 発音ではなく ―― する息力がいる。それには、カタカナ英語は邪魔になる。「野性に戻ろう」は、Let's go wild.これを発音させると、レッツゴーワイルドとなる。発音しているが、発声していないので、相手に通じない。go wildの発音は、ゴウ ウワイル(ダ)。(ダ)は、耳に入らない。ドは、ドォというオが含まれているので、子音(濁音)が母音に消されてしまって、英語ではない。音韻的には、中国人や韓国人には勝てない。中国・韓国の言葉は、閉音節で子音止め。ところが日本語は、母音で始まり母音で終る開音節なので、英語と一番離れている。よほど厳しく発声の練習をやらないと、英語が聴き取れず、話せず、本物の英語によるコミュニケーションでは、後進国のままとなる。中学時代の日記
2008年07月27日
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暑いので、夏向きのブログを書こう。丸山博士は、深夜狼のように吠えられるという。「一緒に吠えませんか」と誘われる。願ってもないこと。howling(犬、オオカミなどが声を長く引いて吠えること)だ。ライオンが太陽に向って吼えるのはライオンの勝手だが、オオカミが月に向って吠えるのは理由がある。 結束のため、縄張りを意識させるため、「これ以上近づくな」というシグナルでもある。古神道の儀式にこだわる私は、明治より以前は、神道の儀式は夜、しかも霊気がピークに達する新月のときだから、オオカミのハウリングは、お祭りの儀式ではないだろうか、と仮説を述べた。「そんなことはない」と一蹴された。それでもいい。丸山というディベーターは、日本全国で名の知られた狼男で、信奉者は世界にも多い。とにかく、鹿の研究家であったのに、鹿という恋人を捨てて、その天敵である狼に恋慕されたというから、バランスのとれた本物の学者だ。縄文人は、大猟を祝い、唄い、踊り、神楽を発生させた(梅原猛説にもある)。人も狼も同じく夜に吠えるのは、儀式(おまつり)であるという、私の説は仮説のままだ。それでいい。丸山博士とは、こんな論争も続きそうだ ―― 遊び心で(in a playful spirit)。いつか南伊豆の森林で、深夜に狼男になって、一緒に吠えてみたい。
2008年07月26日
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戸塚宏という狼もイメージで損をしている。狼を復活するということは、体罰を復活するようなものだ。農作物を荒らす鹿が異常に増えている。鹿害で悲鳴をあげている寒村地帯は、高齢化が進み、狩人もいなくて、廃村に追い込まれようとしている。鹿が村を殺す。 授業中に、私語をやめず、先生のいうことを聞かず、暴れまわる小中学校も、鹿害に似たようなものだ。これじゃ学級崩壊になる(今もその寸前)と、先生が生徒に手をあげると、体罰教師だというレッテルを貼られ、良識ある先生がいじめられる。狼も冤罪で泣かされている。冖(ワカンムリ)に狼という字はないか。あ、そうか。縄文時代の狼が弥生時代になって家畜化され、番犬となったのだから、犬でいいのだ。犬なら羊でも山羊でも教育できる。しかし、日教組が、羊が羊を教育するのは羊に限るといい始めた。犬の教育は、体罰、つまり暴力になるというわけだ。丸山博士は、子供は躾をしなければ悪なのだ、とベルグソンと同じことをいわれる。子供を大人扱いし、教育者のモデルにしようとした日教組の罪は重い。日教組のsoft loveは、教室崩壊を招く。狼の学校教育、そして家庭教育は、tough loveなのだ。紘道館館長ブログを更新しました
2008年07月25日
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ハンターは、ハントができるスキルがなければ、飢え死にする。hunt or dieの気質をもった英語を求めるのは、ビジネス界の人。学者は、どういうわけか実用英語をまじめにやりなさいとはいわない。象牙の塔に必要なのは、教養英語なのだろう。せいぜい山羊英語止まりだ。英語が使える国際人でも、ウルフ英語を敬遠する。 TOEIC満点の人がちょくちょく紘道館を訪れる。中には、ウルフ英語が使いこなせる人物がいるが、おしなべて、人前で英語を使わなくなる。恥ずかしいのか。伝家の宝刀として使わないことがカッコイイとでもいうのか。これなどは、羊英語の限界だ。TOEIC満点でも、パーフェクトな英語が話せるわけがない -- 私が言うのだから間違いない。そういうスコアを捨てて、恥をかくことを恐れなくなった時に、狼の気持ちがわかる。冤罪とはどういうことなのか。松本を恐れる人がいる。「狼が来たあ、と叫ぶ(cry wolf)オオカミ英語青年がいる。誤解も甚だしい。狼はやさしいのだ。そして私も、ちっとも怖くない。冤罪(無実の罪)の冤とは閉じ込められたウサギのことだ。兎はイメージで得している。狼はイメージで損している。
2008年07月24日
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シープ・イングリッシュに対して、ゴート・イングリッシュというものがある。goat(山羊)は、あまり素直ではない。「こんな受験英語ばかりやっていていいのかな」という疑問を持ちながらも、空気に逆らえず、やはり敷かれた路線を ―― ジグザグしながら ―― browsingし続ける。 browseとは、牛や鹿などが若葉などを食うことだ。拾い読みするとか、あちこち気の向くままに新しい情報を食い漁るという意味である。教科書を朗読したり、丸暗記するgrazersに対し、多読、乱読(速読)をするbrowsersは、インターネットなどの情報を疑う。たとえば、私が好きなウィキペディアをむさぼり食う。sheepは疑わないが、goatは疑う。それに対し、ウルフ・イングリッシュ(狼英語)は、カマキリのように肉食動物だ。草食動物の英語では真の情報(狩場)が得られず、ハントできないので必死だ。紘道館HP「館長ブログ」を更新しました。
2008年07月23日
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丸山直樹博士は、Jiang Rongの『Wolf Totem』はフィクションだから鵜呑みにするのは危険だと言われる。そんな野生動物のプロでも快著だと勧められている同書を、今朝も1章だけ読み進んだ。 内蒙古で虎は全滅したが、狼は今も残っている理由が書かれている。虎はマイペース。自分のため、仲間や環境への配慮などない。しかし狼には守るべき家があるから、チームワークを重んじる。狼軍団は環境を守るから、神の庇護を受ける。草食動物に天敵がいなかったら、草原は死滅し、家畜も人間もすべて死滅する。だから、狼は神の使いとなる。館長ブログで何度も触れているので、次に進む。英語にもシープ・イングリッシュと、ウルフ・イングリッシュがある。羊は素直に、コツコツ英単語を覚え、空気に逆らわず、検定試験を受ける。「みんながやっているから、同じ仲間と草を食う」というgrazers(放牧家畜)だ。これに対して、ゴート・イングリッシュというものがある。
2008年07月21日
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丸山直樹氏(日本オオカミ協会会長)のことを、「狼道のパイオニア」と私が述べた時、「私は、ドウという言葉がきらいでね。ドウは固定、それを破ることが大切だ」と、のっけから反論される。 酔いが醒めた。私もディベート学会の会長、引き下がるわけにはいかない。「いや、ドウはミチを守るためにあるもの。術だけでは道は守れない」と、心(function)と形(form)の相対性で応酬。熊楠、同時通訳の師匠であった西山千師、そして眼前の狼男も、すべて空気に流されないB型。マイペース。まるで私は雄鹿を襲う一匹の狼のようだった。オオカミはケモノミチ。「狼道ってものがある」―― 私の論法にも無理がある。私はA型 ―― ネチネチと絡み、こだわるところがある。しかしB型はまるでテフロン ―― こだわりがない。すぐに話題が変わっても、豹変する。「そうですね、一匹狼は、シングル・ウルフでしょうか」と、思考が柔軟だ。
2008年07月20日
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インターネットで、現代の狼男、丸山直樹氏(日本オオカミ協会会長、東京農工大学名誉教授)の棲家を調べ、押しかけた。 「先生はB型でしょう」「みんなに言われますよ」「どうりで、南方熊楠の匂いがしましたから ―― 彼も型破りのB型でした」「熊楠もオオカミファンですよ。海の神のオコゼとの恋愛物語にもある」「柳田國男も、オコゼのことは...」「あの方は、調査をして、記録するだけのエリートですよ。熊楠とは格が違う」「文学者・柳田が秀才としたら、熊楠は天才でしょうか」いきなりこんな話から入った。奥方(アルファ・オオカミ)が側で2人の会話を聞いておられて、「同じ匂いがする」と漏らされた。「桃源郷」と私が表現した、丸山先生の御宅から、森の中の「ブルー・イン・グリーン」というペンションへ移った。ここでの夕食はまるで王国のようだった。
2008年07月19日
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あらゆる生きた情報は腐る、という哲学が根底にある。だからウィキペディア。ウィキとはハワイの言葉で「クイックリー」という意味だ。 今、私は狼にはまっている。ごく最近、『論点』の中で、ホンモノの狼を復活させよ、と本気で考えている学者がいることを知った。私は昔からアクションが速い。インターネットで、現代の狼男、丸山直樹氏(日本オオカミ協会会長、東京農工大学名誉教授)の棲家を調べ、電話をかけた。押しかけた。大学を隠退し、南伊豆で隠遁生活 -- メスのアルファ狼と車で講演旅行には出かけられているが -- を楽しんでおられる。「フクロウの会」をも発足させた氏は、夜は暗いところがいいと、縄文的な生活を送られている。「先生はB型でしょう」「みんなに言われますよ」ずいぶん不躾な質問であるが、一匹狼の私は、コミュニケーションには気を配る。
2008年07月18日
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私の英語人生は日記から始まった。中二(13歳)の時に書き始めた当用日記。南方熊楠もこの歳に、博文館の当用日記をつけ始めたから、奇しき縁である。 自由日記ではなく毎日書く。最初は、毎日書くぐらいのネタがあるかなと不安であったが、毎日書いているうちに、逃げられなくなった。そして、何か空白を埋めるための工夫をする。創造力とひらめきは、このように追いつめられた状態で育つのだ。話すより書く方がラクになった。だからブログの時代が心地良いのだ。今、夏。暑いから清涼飲料のようなテーマがないかと考えている。日記は毎日、一晩で腐る。ブログは一週間は腐らない素材を扱い、館長ブログ(週二回)は、一ヶ月耐えられる情報価値のあるものを"料理"する。「光の泉」に連載しているエッセイは数ヶ月。山奥へ閉じ篭って一気に書き上げる本は、読者に一年間のエネルギーと動機づけを与える、と、熱エネルギーを分散させている。
2008年07月17日
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『カマキリは大雪を知っていた』西山千師匠の思い出話となると、40年近くも前の話になるので、「津波」に挑むような心境になる。ところが、師の面影が走馬灯のように現れては、消えてしまう。まるで数日前の出来事のような気がする。 そして、宇宙人のような容姿のカマキリとなって、地球の鼓動を聴きながら、私の一挙一動を複眼と単眼を使い分けながら見守って ―― watching over me ―― おられるようだ。カマキリは、木の振動の正体を知っている。(『カマキリは大雪を知っていた』酒井與喜夫著、農文協)師には、墓は要らない。千の風。どこにでもおられる。
2008年07月15日
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カマキリの季節が戻ってくると、ペンが軽くなる。ブログはしょせん日記より軽い。波の上に浮かぶコルクのような心境で書く。英語でいえば、英単語をコツコツ拾い集めているような心境だ。 wavesはすぐに変わる。ココロと同じくコロコロ変わる。次に中波(swell)が来る。これが紘道館の館長ブログで、時として波が荒れるが、巧く時流に乗りながら書く。当然重くなる。その次の大波(tidal waves)は、サーフィンをするには、かなりの集中力が必要で、本でしか言い表せない。まとまった時間が要るから、どこか隣に「水」(川か海)のある執筆場所を求めるのだ。 ◆紘道館の例会報告を更新しました◆
2008年07月14日
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断じていうが、師匠は、自らの宗教的信念を私に語ったこともなければ、洗礼を勧めるような誘いかけは一度もなかった。師の行動を「水くさい」と感じたことは何度もあったが、それは私の誤解であった。自らの宗教的信念を私に押し付けたことが一度もなかったということは、突き放した愛を実践されていたことになる。これぞtough loveではなかったか。「神が救ってくださる」という救いの言葉はない。私がドン底に落ちていることを知っていても、敢えて救いの言葉や愛の表現を差しのべることなど、これっぽっちもなかった。これこそ最大の愛ではないか。「松本さん、立ち上がるのは、あなたお一人の力ですよ。神も仏もないのですよ」。―― こんな具合なのだ。師は、水くさい人なんかではない。その反対だ。墓もつくらず、消え去られた師。愛を超越した愛。まさに究極のtough love。師が逝ってからちょうど一年。先生、お帰りなさい。
2008年07月13日
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信仰深いブログ読者の中には、「ええ、どうして?意味不明。信仰関係が深まれば、師弟関係も深まって、先生の同時通訳の技ももっと伸びたのではないでしょうか」と、疑問に思う方もおられるかもしれない。 いや、そういう問題ではないのだ。That's not the issue. お互いの異なった思想や価値観を、どちらか一方が侵略することにより、見えざる絆が絶ち切られてしまうことが恐ろしいのだ。師と哲学の違いがあったとすれば、『同時通訳の名人(仮題)』で述べるつもりだが、<術>と<道>と違いがあった。この微妙な一線は、お互いに踏み越えてはならないものだ。ディベートの「心」はagree to disagree(違いは違いとして認めあう)といわれているが、師弟の間には見えざる「間」(魔)があった。
2008年07月12日
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この日も、青山のユニオン教会で十数組(ほとんどが若い日本人のカップル)が洗礼を受ける。たどたどしい英語で信仰の告白をする。神と結ばれる羊たちの為のめでたい式典だ。泣き声で神に心身を献げるという若い女性もいた。 クリスチャンであった西山千師匠の聞き込み調査をすることが目的であっても、式典の後で、牧師に話しかけたくなる雰囲気ではない。やはり、西山名人は天に召されたのか。来るべきではなかったか。地上の人間が天上の師に向って、遠吼えするといったムードではない。いたたまれなくなって、教会を去った。外はまだ雨だった。雨の中でif思考を使って私は考えてみた。もし、師匠が「松本さん、同時通訳が上手になりましたね。あなたの祈りが天の神に届いたのですよ。洗礼を受けませんか。私の教会で」と、一度でも誘われていたら......。まさか。恐ろしいことだ。考えたくもない。師弟関係は崩れてしまうだろう。
2008年07月11日
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学生時代の友人に聖書研究会のリーダーがいた。弁舌さわやかに神の言葉を代弁する。同期の若い女生徒たちが感涙し、抱き合って、洗礼を受ける。よけいに、醒める。嫉妬ではない。 人は、そんな一時的な興奮状態で、生涯取り消しのできないバプティズム(洗礼)など受けていいのだろうか。教会へ行けば、バイブル・クラスで英語が学べる。私の動機は純粋ではない。しかし、英会話を教えるから、その代わり洗礼を勧めるというのも、あまり純粋とは思えない。ナニワ英語道の創始者の私は、スピリチュアリストであって、リリジョニストではない。それだけに、動機の純粋性にこだわる。
2008年07月10日
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その日、青山のユニオン教会は聖餐式だった。信者同士の信仰を、讃美歌を通じて確かめ合う日だ。礼拝堂には入りきれず、外にまで溢れ出ている。満員御礼か? イエス・キリストが最後の晩餐でパンとぶどう酒を弟子たちに与え、「パンは私のからだであり、杯は私の血による契約である」という言葉を記念した儀式だ。戦意喪失!ここでは、従順な羊(sheep)と、懐疑心の強い山羊(goats)にふりわけられる。学生時代、豊中教会に通ったことのある私は、こういうA or Bという二者択一的な発想が嫌いで、牧師によく抵抗したものだ。「洗礼を受ける方は、立ち上がってください」私は、いつも憮然とした面持ちで座っていた。(妥協はしたくない)別にパンとぶどう酒が欲しくてひがんでいたわけではない。私の周囲に座っている、いつものワルが、洗礼を受けるというだけで差別され、祝福されるというのが腑に落ちない。私は素直でないgoatなのだ。あのいやな思い出が甦ってきた。
2008年07月09日
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同時通訳の名人・西山千という人物は、調査すればするほど謎めいてくる。つい最近も、師が奥方と通っておられた青山のユニオン教会に足を運んだ。 師と懇意であったバリー牧師と話がしたかった。「天に召された」と熱弁をふるわれた牧師に後で話しかけ、「いや、私の師であるセン・ニシヤマは、カマキリになって甦った」と誇らしく息巻いた。しかし、その温厚な牧師は、「我々はそれを復活とは呼ばない」と笑みを浮かべながら反論された。確かに、そうかもしれない。しかし私は一神教の信者ではない。お互いにしっくりしないままだ。「じゃ、またディベートをやりましょう」といって別れた。随分前にこのブログで書いた、あの牧師である。一神教と多神教の対決になる、ぜひ第2ラウンドをと胸をときめかせて後部席に座ったのだが、讃美歌ばかり歌っているうちに、戦意を失い、どうも英語でディベートを挑む気になれなかった。
2008年07月08日
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ナニワ英語道の時代が来たようだ。これまでの日本人の英語は、入試や資格をとるための、検定試験のための即席英語であった。いかに単語を覚えるかというボキャビル時代だ。今は、速読・速考の時代だ。記憶力に頼っている日本の教育制度に限界があると述べるのは、孫正義氏(メンター塾)だ。多くを速く読み ―― ガツガツと ―― あとは捨てるというのはナニワの発想だ。捨てる(unlearn)ことを恐れて一流大学、一流会社に入っても、果たしてすでに腐った情報が使えるのであろうか。私はナニワ時代、単語を覚えるより、ガツガツ食った英語から、giveとgetが基本だと気づいて、『GiveとGet』(朝日出版社)を書いた。なぜこれがロング・セラーになったのか。「試験に役立つ」とは一言も述べず、単語力より、使い方を覚えた方がメリットがあるというプラグマチックな発想で勝負に出たのだ。単語と単語を結ぶjoints、接続詞などに気を配った。今、私はカマキリの研究に余念はないが、カマキリが3億年も生き続けた秘密は、異常に多い関節にあると思う。
2008年07月07日
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これまで私が書いてきた本(例えば『日米口語辞典』)に間違いが多く、old-fashionedであるのも、すべて若気のいたりであると、読者に詫び、世に恥をさらすことにもなる。いや、今の私の英語も、知識も腐る(go stale)のだと、自分にも言い聞かせている。 今はlevel playing fieldの時代で、NHKや朝日という権威が、インターネットに屈し、ブロガーに振り回されるようになった。フリードマンは、世界が平べったくなった(情報を独り占めできなくなったeventのこと)きっかけは、ベルリンの壁の崩壊(1989年11月9日。9.11ではなく、11.9。カバラの数秘術からみてもおもしろい)だとみる。この事件は、情報に対する人の考えを大きく変えた。そして、外国語を学ぶ人の意識をも大幅に変えようとしている。
2008年07月06日
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遅まきながら、『The World Is Flat』(Thomas L. Friedman)を読み出した。館長ブログで書いている「狼物語」の参考書『Wolf Totem』と併読していると、私の得意なself-debateを通じて、かえって閃きが得られる。 世の中がflatになったとは、弥生時代化の極致という感じがする。その反面、『Wolf Totem』は、縄文時代をロマンチサイズする人々への讃美歌といえる。自称アナログ人間が、今や急速に、デジタル化している。ブログ時代が快適なのだ。いったいどうなったんだろう。What's gotten into me? Flattening myself?このflattening myselfは、私自身のウィキペディア化と同じように、英語の神様としての松本道弘というトップダウン意識を捨てるということだ。
2008年07月05日
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私の英語インフレ時代。あの「虚」の時代、一年間の読書量は、せいぜい50~70冊ぐらい。今の私は一年間300冊(英語は1/4~1/3程度)というのに、知名度も収入もガタ落ちだが、この歳(68歳)でピンピン(alive and kicking)している。メンター・ダイヤモンドの私塾(道場とも)でお座敷を頂いているが、まだまだエネルギーが余っている。やはり、知識力は、胃袋の量に比例するのかな、と思う。好き嫌いの多い人間は、食べ物だけでなく、学問の分野においても好き嫌いが多い。voracious(ガツガツ食う)人間は、筆記試験の前だけ集中的に学ぶタイプではないので、後に花が咲く。late bloomers(大器晩成型)は、私の経験が及ぶ限り、すべてvoracious readersだ。ますます、速読(音読より)が必要になってきた。音読を否定しているのではないから、誤解なきよう。なぜ、速読の時代か。
2008年07月04日
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同時通訳は思考の「流れ」だ。英単語は点であるが、それを「線」にしなければ、バイリンガル、そしてバイカルチャルになれない。こんなキザなことを言えば、日本の社会では浮き上がるだろう。だが、このブログでは、本音を語らせてもらいたい。松本が嫌いでもいい。しかし、ワシの英語哲学をガツガツむさぼった方がトクやで。これをpragmatismという。しばらく大阪の紀伊國屋書店へは行っていないが、かつては「松本道弘コーナー」ができて、サイン会も開かれたことがあり、よーくその頃を覚えている。「大阪人は、本を頭で読んでいない。腹で読んでいる」とよく言ったものだ。大阪の紀伊國屋の売り上げがトップの頃であった。大阪外国語専門学校の校長をやっていた頃で、英語道参段の頃であった。NHK教育テレビの講師という肩書きもあったから、本当の私の英語力は過大評価されていた。私の英語インフレ時代だ。 明日はメンター塾“サバイバル・イングリッシュ道場”開催
2008年07月03日
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さて、前回、「ガツガツと」という大阪人好みのオノマトペを使った。これを英訳すればどうなる。これまで書かれてきたブログを思い出して頂きたい。ほら、あのジミー・ウェイルズ。ウィキペディアの創始者のことを... そう、vo... vora... そう! voracious。ヴォれィシャス。単語だけでは役に立たない。使い方(コロケーション)にうるさいのがナニワ人。そうvoracious appetite。それぐらいなら、筆記試験に強い東京人でも知っている。異文化コミュニケーションに強い大阪人は、文章と共に覚えてしまう。Wolves have a voracious appetite. これで決まり。もう一つ、Sherlock Holmes is a voracious reader.これは事実。そして私も、I'm a voracious reader. だと自負している。ここまで覚えて、voraciousが自然に使えるのだ。同時通訳の時にも役に立つ。 今日は故西山千師匠の命日。
2008年07月02日
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strategyは変えてはならない。人生のシナリオ(life script)も同じだ。しかし戦術(tacticsと複数形)はコロコロ変る。変らねばならない。ウィキペディア(Wikiはハワイの言葉でquickly(=急いで)を意味する)という発想が私の感覚にピッタリあう。 さて、その戦術が同時通訳だった。訳す時間がもったいない。これは「いらちな」大阪人の性質(タチ)だ。歩くスピードも2倍にした。もう一つがディベートであった。「速考」(speed thinking)が加わった。だから私は速筆家になれた。これは毎日、当用日記をつける(13歳から)という「行」が役立っている。話すより、書く方が速いのではないかと思うことがある ―― 本気で。
2008年07月01日
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