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日興證券の秘書室に勤務していた頃のことだ。 (前回はこちら) 「松本君は、本多勝一とはどんな関係かね」。秘書室にふらっと寄った某取締役は、まるで容疑者を見るような面持ちで、私に話しかけた。「別に友人ではありません」と答えたものの、本多勝一の『ペンの陰謀』(潮出版社)の冒頭に私の言葉が引用されていたので、深い交流があるはず、と推察されたのだ。「松本道弘は「詭弁は正論に勝てない」と言った」と、私の発言を巧みに転用して、本文で本多勝一が、イザヤ・ベンダサン(山本七平氏のペンネーム)の説を詭弁と決めつけて、こきおろしたのである。冒頭に私の引用だから、まるで私が、正義の味方の本多勝一(以下ホンカツ)を擁護する立場に回っているかの印象を与える。そう解釈した人達から問い合わせがあった。遠くはシドニーからも。誓っていうが、私は一度も彼と、話したことも会ったこともない。それなのに…。姑息なやり方だ。ホンカツには敵が多い。ジャーナリスティック・インテグリティー(記者としての節操)を欠くというのが主な理由である。しかし、ホンカツから… つづきは⇒「紘道館館長ブログ」で。 いつだって、威風堂々としていたいと思う (お通は寅年生まれ)せやかて、言論人いうても人間。誹謗中傷されたら傷つきまっせ。 夏バテ中のお通は本当にダメ猫岡留安則著「編集長を出せ!」は、書く側と書かれる側の火花ちるバトルがリアル。
2008年02月29日
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つづき (⇒前回はこちら)心の底から許し、水に流すには、forgiveのあとにforgetを加えなければならない。Giftはreturnを期待するものではない。それがベストプレゼント。与えたことを完全に不問にする(TIMEは ignore it altogetherという表現を続けている)ことにより、愛の純粋さが証明される。それなのに「義理チョコ」とは!海外に出たときは必ず英文日記をつけているインクは水性。どんな暑い国でも、一滴の汗も落とせない。この緊張感がたまらない。「努力負けを知らず」は明治生まれの親父の口癖だった。だからパックンが番組内で「I do shadowing!」(実は英語を...この番組のために毎日練習している)と言うのを聞いた時、さすがパックンと思った。番組を観た中韓通訳案内士試験道場さんからいただいたコメント。ありがとうございました。
2008年02月28日
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つづき (⇒前回はこちら)前回、TIME Essayの見出し「A Day to Forget」について触れた。 このforgetの中には、見返りを期待しない、水に流すというシンボルがある。英語のシンボルがわかれば翻訳まではできる。Remember Pearl Harborのrememberは、「思い出す」よりも「忘れない」に近い。この日本語を英訳すると、Don't forget Pearl Harbor. となる。受動態を好む日本人のイメージ思考と、能動態を好む英語国民のイメージとは、かみ合わないことが多い。許す(forgive)ことがあっても、許してやった「のに」という押しつけがましさを残しては、心の底より許したことにならない。「~のに」は難訳語の1つだ。あなたを信用していた「のに」は、次のように過去形にすればよい。I trusted you. これは過去に限定しているので、今は「裏切られた」という意味になる。Forgetとは「~のに」といわないこと。では、心底許し、水に流すとなると...(つづく) 中学生のころの学級写真。どこにいるかわかるだろうか? そう、ここです。 ...じゃなくて... そう、これこれ↓英語に対する青い炎が燃え出したのは、この頃より後になる。遅咲きだった...。
2008年02月27日
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2月26日の館長ブログより 日本は法治国家といえども、人を裁くのは「空気」である。少なくとも正義は人を裁く基準にはなり得ない。日本的思考は「both A and B」である。......Aさんの仰っていることは判りますが、Bさんのお気持ちもよく判ります......どちらも本質的に同じことを仰っているのですが...と、「裁き」を避けるのが日本の精神風土である。本来「裁き」とは、「A or B」である。神か悪魔、正か邪 -- その中間はない。ギリシャ論理でいう「排中律の法則」(The Law of Excluded Middle)が、裁きの基本だ。justice(正義)のシンボルは秤である。ディベーターとしての私の悩みは、ジャッジとなれば、空気に逆らって、論争者のどちらかの側に軍配を挙げなければならないことだ。私も日本人だ。できれば、どちらの立場も判る、と枕詞を述べて、引き分けにしたくなる。それにより、両者の面子は保たれ…(つづきは⇒「館長ブログで」) <冬の白糸の滝。この色のように、心を澄ませたい…> 昨夜の「英語でしゃべらナイト」激論:早期英語教育のウソ?ホント?について、多くの方々からコメントをいただいた。ありがたい。(2月29日深夜1時40分より再放送)
2008年02月26日
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Tough Englishとは、受け手がイメージしやすい斬れる品格英語である。私の「品格」の定義には、気配り(水)と気概(火)が含まれる。では、イメージできる英語とは何か。英語は単語から始まる。単語量で英語力が決まるというナイーヴな希望的観測で、私も英会話の世界に入った。しかし英語が使われる実世界には、英和・和英辞典では通じない魔界があることがわかった。映画が聴き取れない――テレビやラジオの英語講座のテキスト英語は聴き取れるのに。TIMEが読めない――とくに見出しの英単語はほとんど知っているのに、意味不明。これでは、英語というグローバル言語が、異文化コミュニケーションの武器になりえない。例証しよう。今手元に08年2月18日号のTIME がある。TIME Essay(P.52)の見出しに「A Day to Forget」というのがあった。簡単な英単語なのに見えない。バレンタインデーに関する記事なのだが、忘れるための一日?これがバレンタインデーとどんな関係が?(つづく)NHK英語でしゃべらナイト今夜11時OA 「早期英語教育のウソ、ホント?」<アカン… 可愛い過ぎる…>
2008年02月25日
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新連載「品格の英語」にあたって一言。ナニワ英語道ブログが2年目に突入したので、「同時通訳者が教える品格の英語」をテーマに、Season2を開始したい。定義:「品格の英語」とは、受け手にもイメージしやすいtough Englishのこと。私のセールスポイントは、なんといっても英語とディベートである。それは私の英語やディベート力が完璧であることを意味しない。誇れるものといえば、ディベート思考で鍛えられた私のtough Englishであろう。Tough Englishとは、英語に情報が加わった無駄のない英語である。いくら、ネイティヴ並みに発音がよくても、情報(知識)と知恵の裏付けのない英語はsoft Englishにすぎない――たとえproperでcorrect English であってもだ。ディベート・交渉に役立つ英語はtough Englishである。(つづく)英語道塾紘道館の様子を、毎月例会報告で公開しているので、そちらも参考にしていただきたい。<奥琵琶湖の冬景色。落ち着く…>真の自己を求めてさんから、うれしいトラックバックをいただいた。益々がんばろうという元気がわいてくる。真の自己を求めてさん、ありがとう。
2008年02月24日
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ディベートは品位を失わず論敵と対決する知的スポーツである。そのルールは敵のプレイヤーに敬意を表し、彼らからも学べるといった爽やかさと、心の余裕である。日本に数多あるディベート組織の中には、「ディベートは全面否定だ」と断定するカルト的リーダーがいるが、誤解も甚だしい。論敵の立場を尊びながらも凛として妥協せず、是々非々の姿勢を崩さず、たとえ敗れても潔く敗北を認め、相手の勝利を賞賛し、感謝を込めて握手を求める。ここでディベート道(論道)は、西洋の騎士道の優しさ(ジェントルマンシップ)と、日本の武士道の美意識とが合流する。勝って驕らず、負けて倦(う)まず、禅の平常心で行うのが論道(ザ・ウェイ・オブ・ディベート)である。この議論、交渉、談判、外交に通じる美学は、まず言霊の霊威に育まれた日本語によるディベートから学び始めるのが筋であろう。隗より始めようではないか。 <NHK番組の撮影風景。なつかしい…> <NHK番組でロバート・ホワイティング氏と> 現在のNHK。技術が進んだ。⇒英語でしゃべらナイトのHP
2008年02月23日
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早期英語教育より、早期日本語ディベート教育だ ~その3~ディベート力には「読み、書き、聴き、話す」という四技能の全てが加わるから、とっさの判断、つまり決断力(critical think)の涵養に役立つ。「AもBも」ではなく「AかBか」という発想は、日本人にとり苦手なものだが、危機管理の一環としては避けられぬ瞬発的な意思決定は、役立つものである。国語力とは、古典文学の鑑賞 ―― これも大切だが ―― もさることながら、討論、交渉等に於けるひらめきや価値創造も加わるから、トータルな人間力が増す。グローバル思考で世界の常識を吸収するために、速読、速聴、速書、速話、速考は避けられまい。ところが惜しいことに、英語好きな人は往々にして、言葉の背景にある情報や哲学よりも、外国語そのものに酔いがちで、日本人としての矜持を再認識する余裕がなくなっている。もっと日本語による教養と思考訓練(ディベートや読書体験を含め)も必要である。日本語をグローバルなロジックで強化する工夫は焦眉の急である。<続きは館長ブログで>⇒館長ブログ NHK英語でしゃべらナイト予告 <2月22日は猫の日>
2008年02月22日
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日本人が「日本人は英語なんか」という時、本人が「日本人」に含まれていないことが多い。数学の「集合論」でいえば矛盾になる。だから、「人が一人もいなかった」という、論理的な矛盾に気がつかない。ロジカルなヨーロッパ人なら、「君がいたんじゃないか。一人を除いてと限定すべきじゃないか」と反論してくるかもしれない。そういう現実的発想は、英語を学んではじめて気付いた。主語が要るのだ、限定が要るのだ、と。 しかるに日本語だけを使い続けている間は、そういう論理的、そして数学的矛盾に気づかない。欧米人は、ifを使うから国際交渉に、数学的なゲーム思考を用いる。欧米人は、「もしも私が(我社)が間違っていたら、謝ります」とifを入れる。We’re sorry if we were wrong. 航空会社でもこのように、どこか立つ瀬を残している。しかし、日本語はそれを許さない。if抜きの全面降伏で玉砕してしまうのだ。~現在「If思考」というテーマで執筆中~<お通は昼寝中。保護色?>
2008年02月21日
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「日本人のいう和はどう英訳すればいいのですか」と問われると、まず私は「The waです」と答える。harmonyと訳せば誤解される。ハーモニーは日本文化が独占すべき価値観ではない。説得すればするほど、ロジック・トラップ(論理の罠)にはまって、論破されてしまう。そして、こんなふうに誤解される。日本の「和」とは、蒟蒻(こんにゃく)のようなものだな、と。中国文化を「対」に象徴させると、日本文化は「対(決)」を避ける「和」に収斂される。最近では「和道」という言葉も使われるようになった。故・司馬遼太郎があの世から、「日本文化はやっぱりぼくが言った蒟蒻だろう」と、語りかけてくるようだ。故・サイデンステッカー(『源氏物語』の翻訳者)は、「日本文化は<道>がある間は滅びない」と語ったことがある。35、6年前に敢えてディベートというカタカナ英語を用いて、欧米社会のdebateを日本語で広げたが、ややもすると風化してしまう。「要するに、討論だろう。日本人は言い争いは性に合わないんだ」と何度反論されたことだろう。やはり、道という道徳的羅針盤(モーラル・コンパス)が要る。コンパス、つまり磁石である。<英語でしゃべらナイトの予告に登場>⇒NHK英語でしゃらナイト< お通は年中、春うらら >
2008年02月20日
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早期英語教育より、早期日本語ディベート教育だ ~その2~お隣の中国で沸き上がる英語ブーム、そして国を挙げての早期英語教育。こういう現状認識を無視し、国語力が先だ、と学者たちはビジネスマンとは正反対の主張をするが、空気に逆らうディベートがなく、反論がないので空しい。具体的に、国語力をどのように鍛えるのか、という方法論をディベートしようではないか。私の議論は具体論から始まる。まずは国語であるこれからの国際派人間には最低二言語の習得が必要であると考え、国際ディベート学会は紘道館の協力を得て、英語と日本語のバイリンガル・ディベートを勧めている。日本の真の国際化は、日本人が国際語である英語(インターネットの普及を見よ)を学ばせるだけではなく、日本にいる外国人にも、日本語を学ばせるべきだとかねてから主張してきた。陽明学を信じる私は知行合一を旨とし、机上の空論は信じない。つづきは館長ブログで。<紘道館 館長ブログより>⇒館長ブログ <08冬。氷に覆われた諏訪湖>
2008年02月19日
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昨日、第一回ディベート・トレーナー・コース(全5回)を無事終了。参加者の皆様、ありがとうございました。
2008年02月17日
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―― 小学生は、英語力より国語力だ ―― 「民主主義はスピーチの権利に非ず。ディベートの義務なり」 ―― 国際ディベート学会標語 ディベートは相互理解のための建設的な知的スポーツである。 ディベート道はその意味で、知的武道と言える。 これらの私論を仮説設定型ディベートの立論として提議するので、厳しく叱正を賜りたい。 小学校では英語より、日本語ディベートによって国語力を向上させるべきである。 国語力の強化は、国力(国民、経済、政治、文化的エネルギーの総和)の強化に繋がる。 その主な理由を次の三点に絞ってみたい。 一、 日本語ディベートは品位あるグローバル思考、そして判(決)断力や志を培う。 二、 日本語ディベートは母語と母国のアイデンティティー(文化、伝統)に目覚めさせ、健全な誇り(愛国心)を涵養する。 三、 日本語ディベートは、他国の立場を尊重し、相互検証、相互理解の為の双方向的コミュニケーション能力を鍛える。 但し、ディベートに関しては、世界の標準語である英語で行うのが(環境が整えばの話であるが)理想的である。 (1)ディベートは議論や口論を超えた知的協調作業である。 「小学生に英語教育なんか要らぬ。国語教育が先だ」と影響力のある人がいえば、マスコミに醸し出される“空気”はその方向に流れ、それが常識として定着する。 <紘道館 館長ブログより>⇒館長ブログ
2008年02月16日
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(続き)たとえば、なぜ人を殺すことは悪いのですか、だれが決めたのですか、という開き直りの提言に対し、論破するのは、骨が折れる。「いけないものはいけないのだ」と叱るのが一番てっとり早いが、これは親が子供に叱るときに使う火の論法で、一見有効に響く。日本人には受けるだろう。しかしTA(取引交渉)というゲーム(企業研修に用いているところが多い)で検証すれば、これは誤解と災いを招くことになる。なぜか。親の相手は子供ばかりではない。援助交際を始めた娘は14~5歳の大人だ。大人がWHY(どうして)と問えば、娘は意外にクールに論理的にこたえるものだ。1. 相手のオジサンはハッピー2. 私もハッピー3. 小遣いをねだる必要がないから両親もハッピーパパ、援助交際はなぜいけないの?この単純なロジックを崩すには、デイベートでいうif(石のロジック)しかない。火ロジックだけの議論では、ダメ。「援助交際は売春なんだ。悪いものは悪いんだ」という説得や物理的な力を用いては、娘は家出をするリスクがある。親(parent)は子供(child)に説教をすることはできる。しかし大人(adult)に目覚めた娘には逆効果になるだろう。では、ifを使って論理的に展開することだ。この回答は近刊「英語はif思考から」(仮題)で触れてみる。(終)<ちょっとした空き時間、日記にペンを走らせる>
2008年02月15日
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『感情的になる』 take it personal(続き)しかし、デイベートは勝敗にこだわらずお互いが握手して別れる。役割に責任は生じない。だからこそクールに肯否の立場がスイッチできるのがデイベートの遊戯性だ。だからデイベートでは感情的議論に発展しない。握手(礼のこと)に始まり、握手で終われば、感情的しこりがなくなり、勝敗を超えて、紳士的にふるまうことができる。議論は違う。敗北すると自説がそして自分が否定され面子(目)を失ったと錯覚するからだ。デイベートに勝ったから正しいなどと思わないのがデイベーターの品格だ。議論が喧嘩腰になって炎上するのは、勝敗を気にするからだ。そんなネット議論に、仮説と検証のプロセスをわきまえてクールに議論を再開せよといっても、実現可能性はゼロに近いように思えて仕方がない。ずばりデイベートの勧めと私なら申し上げたい。そしてデイベートのエッセンスはifで始まる石のロジックだと。(続く)
2008年02月14日
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『とばっちり』 collateral damage(続き)映画「コラテラル・ダメージ」を観た。な~んだ、「とばっちり」なんだ。広島・長崎への原爆の最大の犠牲者は、民間人というcollateral damegeなのだ。人々はデイベートを議論(勝敗なしの言い放しで、ルール、品格なし)と同一視するから、いつまでもデイベートまで敬遠されてしまう。悲しい。「朝まで生テレビ」(議論大会)がデイベートと勘違いされるのもとばっちりだ。デイベートのシンボルは三権分立なのだ。肯定、否定に観客が加わる。炎上の恐れのあるネット上の議論は、第三者の観客を必要とせず、したがってジャッジを好まない。自分が討論者であり、判定者を兼ねるから、独断に走り、口論(喧嘩)をして、炎上が生じるのだ。日本のムラ社会のネット議論を都会型のデイベートに変えるのは難しい。まず、デイベーターはネット議論に入らない。覆面を外して、スポーツ感覚でデイベートに挑みたい人ご連絡乞う。岩田氏は、客観的な議論とは、仮説と検証のプロセスである、と述べておられる。それは石のロジックを用いたデイベートのことではないだろうか。「議論の勝ち負けを気にする人がいますが、それは間違っています。議論には勝ち負けなどないからです」(p106)だとご本人がおっしゃる。もし、仮説と検証のプロセスのない議論―-ネットには多いが――仮説と干渉を無視した感情的な議論(火のロジックも有効)が衝突すれば、引き分けになるというのだろうか。議論には、勝敗がつきものだ。だれだって議論でいいまかされたくない。だからこそ炎上するのだ。(続く)<岩をさく木の根と粘菌のような植物?>
2008年02月13日
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(続き)英語ではmedia frenzy(メデイアの狂乱)というが、血の臭いをかぎつけたサメの集団に襲われて生じるbloodyな炎上などまっぴらごめんだ。匿名もいい場合がある。匿名を条件に座談会にでますという人が多いことも知ってる。名前を出せば本当のことを言えないので、匿名でと条件をつきつけられると、編集者としても、「じゃいいでしょう。匿名で」と折れざるをえなくなる。悲しいが、現実だ。ソース(ニュース源)を明らかにしないと信憑性は落ちるが、引用できなくても裏の真実を報道することはできる。これをジャーナリスチックジレンマというが、この問題解決のために、私が開発したサッカー・デイベートでは、火と水のロジックを加え説得から納得へ原子変換させることにした。私のサッカー・デイベートでも炎上する――もっと健全だが――ことがある。火のロジックが加わるからだ。デイベートが、アーギュメント(議論)に飛び火するリスクもある。それも織り込み済みで、情理さえきちんと通せば、ハメをはずすことはない。最後は、水の論客の「癒し」と論客同士の握手で締めるのも危機管理のうち。デイベート術のルールと、デイベート道の品格と気概があれば、燃え上がった相手ともかえって親友の絆が結べるのだ。ネットの議論の場合はそういうわけにはいかない。言えない相手の正体がわかれば2度と口がきけない関係になってしまう。そんな人を多く知っている。岩田氏は、議論とは「話を聞くこと」であると述べておられるが、それって、デイベートそのものの勧めではないだろうか。ネット上の議論では難しいと思う。(続く)
2008年02月12日
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(続き)ネクラがネットに入ると恐ろしいのは、相手のブログ、社会的地位などの既得権を崩すことが目的になるからだ。そのために、どんな裏技も使う。「人類は月に着いていない」とか「あれもこれもユダヤの陰謀」等々奇を衒った虚論を持ち出して相手をそして周囲をケムニまく。「聖徳太子はいなかった」といった学者がいた。こんな議論を半焼する必要もなかったが相手が影響力のある津田左右吉(早大教授)であったがために、梅原猛は再反論のために聖徳太子を四巻も書き下さなければならなかった。全巻を読み終え、このネクラ学者(記紀の神話を全否定した)の罪は重いと思った。時間ドロボーめ。ネットのネクラ論客(cynics)は、「悪魔の証明」を悪用するからたちが悪い。岩田氏はさらに言う。「冷笑者は、自分で調べず、ひとに要求する。実証を認めない。詭弁を用いる、等などと。ソフィストは、人を説得しようという気概があるが、冷笑主義者(ネクラ)にはそれがなく、破壊意欲しかないのです。」氏は述べる。「冷笑主義者は、もともと論理や事実の力を重んじていません。彼らにとって論理も証拠もあやつるものです。彼らにとっては、同じ考えの人がどれだけいるかということのほうがずっと重要です。……省略……。彼らが望むのは、議論の混乱によって、誰も何も主張できないようにすることです。」(p63)この箇所を読んでウンウンとうなずいたのは私だけではないだろう。私も巻き込まれそうになったことがある。そして多くの人がこのカオスの渦に巻き込まれて悲鳴をあげていることも知っている。私がブログで避けたいのは炎上(flare up)だ。ハンドルネームの人たちには近寄らないことにしている。(続く)<毎年節分はお通が鬼役をする>
2008年02月11日
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(続き)たとえば、「議論のルールブック」の一節、「冷笑主義者にご用心という章をよみながら、カマキリのような私の触覚がビビビと動いた。やっぱり、ネクラ人間はcynicsでいいのだ。岩田氏は述べる。冷笑主義とは、真実や意味を追い求めるのは無駄だという態度です。冷笑主義者にとりつかれてしまうと、すべての議論や探求、はては人間の行動すべてが無駄なことになってしまいます。これは無気力、無関心に陥る恐ろしい病です。(P48)おもしろい。まさに、ネクラが病に結びつくというあたりに説得力がある。企業の人事担当者はこぞって「わが社にいらないのはネクラ社員」と断言する理由がよーく判る。ネクラ人間はcynicsと述べた。コビルド辞典でシニックを見る。A cynic is someone who believes that people always act selfishly.そう冷笑主義(cynicism)に捕らわれたネクラ理想とは、人の善意など信じない。すべての人はいつも自分のために働く、したがって会社などは従業員を搾取するためにある、と考える。国立大学の経済学の教授に多いようだ。ゼミの学生が「先生、おかげで三菱商事に入りました。喜んでください」といえば、その教授がいう。「身潰し祥事?やっと君も、企業奴隷となったか、気の毒に。今夜、牛丼で乾杯するか」――行きたくねえ。そういえばカール・マルクスはネクラだった。環境がそうさせた。共産主義もネクラ・ロジックから始まった。人は搾取する人と、される人に分れる。これがネクラの発想の原点。この大前提の次に来るのが、おれもお前も搾取されている奴隷という小前提。そして議論は、主人である経営者こそ打倒すべき敵なんだ――そうだ組合だ。(続く)
2008年02月10日
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(続き)『証拠を示せ』 Prove it.日本語によるデイベートの普及に思い立った一番大きな原因は、英語のデイベートに対する失望だった。「インターネットによる犯罪が増えています」「Show us evidence.(証拠を見せて下さい)」こういうESSのデイベーターの型にはまった反対尋問を聞いて寒くなったことを想い出す。発言を証拠がないからという理由で封じる人たちの感性を疑わざるをえない。「そんなこと常識です(That’s obvious.)」と返せるはずだ。いったいどれだけの証拠が必要なのだろうか。氷が冷たい、海の水が塩からい、という公理に近い議論にどれほどの証拠が要るというのだろうか。英語力をのばすためだけのためのデイベートなら、デイベートは泣く。デイベーターをネクラ人間にさせるのは、「反対のための反対をする」というゲーム思考の否定的側面だ。とくに言い出しっぺが叩かれる日本の社会では、否定側が常に有利になるから困ったものだ。後だしジャンケンで勝とうとするこざかしい人間は、先に口を出した人にケチをつけるのが得意だ。ネクラ(cynical)な人はリスクをとらないから、デイベートを好まない。デイベートがネクラに進化させることもある。だから私のデイベート道がネアカ(natural high)のロマンチストを創ることにした。その理由を述べる前に、ネクラの定義をしよう。かつて日米口語辞典を編纂したころは、ネクラ、ネアカの定義で燃えた。英語道3段のころだから、いまでは懐かしい想い出だ。あれから私も修行した。5,6段のころからnatural high (ネアカ)という表現に出くわし、natural low(ネクラ)という英語を編み出したこともある。7段の私は前向きがopen-minded(故西山千師匠の影響を受けて)になり、だれからも、何からも――カマキリからも――学ぶことができるようになった。(続く)<紘道館2月例会、講義前の精神統一。NHKの撮影があった>
2008年02月09日
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(続き)『証拠がないからと言って……』Absense of evidence is not evidence of absence.確証(smoking gun)がなくても、状況証拠(circumstantial evidence)はそろっているというよりも、こちらのほうが、英語の品格としては格が上だ。他の英語教育哲学より、長続きするだろうという確率(probability)だけが存在する。これも、数学的なのかもしれない。デイベートには確率論を扱うscience(科学)という一面がある。100%確実というのは、gospel truth(福音的真実)というもので、テーマ自体がデイベータブルではない。多分といっても50~60%ぐらいならplausibleで、おそらく正しい(80%以上)のはprobable。50%以下はpossibleである。たとえ5%でも。確率的に低いので議論の対象外になることがある。ただしreal possibilityにすればprobableに化ける。彼女は5人の男と結婚していたが別れた。多分今つきあっている男との離婚は時間の問題でしょう、という場合の「多分」はprobablyだろうが、絶対に別れるという論拠(warrant)がない限り、a foregone conclusion(自明の理)であるとは断言できない。「あそこまで離婚という憂き目にあっているのだから、今の彼にしがみつくでしょう。彼女は絶対離婚はしない、という悪魔の弁明者(the devil’s advocate)もいるのだから――。――しがみつくから余計逃げられたりして―― 悪魔もときにはふざける(playful).(続く)<滝の前で忍者体操!>
2008年02月08日
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(2月4日の続き)カール・ポッパーの権威について述べよう。世界規模で金融操作をする(play the money market)を得意とするジョージ・ソロスが最も信頼を寄せている師匠だ。どちらもデイベート好き(口論ぎらい)のユダヤ人で、このように知的武装されたグローバリストに対し、「ドルが紙クズになる」といっても、相手にされないだろう。「いつまでに紙クズになる」と限定してから言ってください、と限定を求められるのが常識(ルール)だ。ドル紙クズ説は、アメリカの住宅バブルに端を発し、最近再燃し始めたが、実は数十年前から騒がれていた。こんな議論ならだれでも展開できる。『なんでもあり。』Anything goes. NOVAがやばいという人は、メディアには出ないが側近の人(私を含め)は知っていた。「やっぱり(I knew it.)」といって、はしゃいだりすると論客としての品格が疑われることとなり、多言は控えたほうが賢明だ。品格が邪魔して予言できない人はいつまでにとifの限定をつけることにしよう。たとえば、2007の冬までには――というぐらい推測のリスクを求める気概を見せるべきだ。少なくとも何かのノートや日記に証拠として残すべきだ。期限をつけなければ、なんでもあり(Anything goes.)になる。デイベーターには断言する勇気と、それが反証されて論破されたら、それを認める勇気がいる。「TOEICバブルが崩壊する」「英検が消滅する」「英語道は消える」。こんなことは、誰だって言える。世の中に消えないものは「無常」観だけなのだから。石のロジックでいえば変化だけは変わらない。ゼロをスタートとした英語道は、南方熊楠が求めた粘菌のように、ゼロ(死)に戻ってもまた1(生きる)となって甦ってくる性格があるので滅びない。(続く)<迫力満点!音止めの滝>
2008年02月07日
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(続き)そんな英語武蔵が「英語でしゃべらナイト」!スタジオの私はぎこちなかった。スタジオは苦手なようですね、と竹内ディレクターに指摘された。Yes, I felt like a fish out of water.「松本は時代錯誤の男」「視聴率が下がるぞ」「今の世の中はsoft loveなんだ」「一回限りにしろ」、いろいろな雑音がそれからの武蔵の耳に入る。とはいうものの、私は日本の英語教育にはtough loveも必要だという考え方を変えたことがない。守りたい。でも再びNHKと気まずい別れはしたくない。収録の日の朝。英字新聞に朝青龍の記事が出ていた。ネイティヴ英語による見出しが目に入る。You gotta love me or hate me.「視聴者よ!オレを嫌いか好きか、どっちかにしろ(嫌いでもオレを観ろ)」このフレーズで勝負に出た。これなら、嫌われてもまたお呼びがかかるかも、となれば一種のハラゲイ。NHKのプロデューサーやディレクターのハラも試される。一回限りで降ろされても本望というのもハラ。こんなNHKらしからぬ暴れん坊を登場させようとしたのは、NHK側のハラ。スタジオでドラゴン松はカメラに向って吼えた。「勉強しろ!」多分カットされることを意識しての獅子吼(roar)である。英語はエンターテイメントだから、まじめに勉強なんかするものではない、というタテマエ(soft love)の方が、今の世の中では受けることは知っている。品格のある人は、「英語力なんかはいい、国語力だ」といって、学習者や視聴者を甘やかしてしまう。だが私は、敢えて、品格をかなぐり捨てた。(英語を武器として)勉強しろ!と。オレの人生は、英語に振り回された。傷だらけの人生は、この英語という武器だった。私の英語という日本刀は、血に飢えている。周囲と家族を犠牲にしてきた。オレのあとをついてくるな、不幸になるぞ。日本は嫉妬に動かされる国だから、不幸を演じた方が勝つ。出世するなら英語は巧くならない方がいい、と言い続けてきた。この私が心を鬼にして、「英語を勉強しろ」と吼えたのだ。その口で・・・。英語では<Look, who’s talking.>能から狂言に変った。本音を語った。「早期英語教育よりも日本語ディベートが先だ」と。(いずれ紘道館館長ブログで理由を述べる)後悔はしない。私の本音の伝言(メッセージ)がカットされてもよい。私事に於いて後悔せず・・・。大雪の日は、NHK取材陣が紘道館を訪れた。本気で私を出演させるらしい!まだ信じられない。ただ一つ、NHKが私の心境を変えたことがある・・・この歳(67歳)で。英語をやってよかった~。もう、「私の英語人生は暗かった」なんていわない。「私に近寄った人間は必ず不幸になる」なんていわない。「英語の勉強は、私に聞かない方がよい。きっと後悔するから」なんていわない。これからこう言う。 「人生を変えよ! 英語に挑め! 幸せを掴め!」と。ドラゴン松の登場。soft love はチューインガム。tough love はスルメ。 (終)<08冬の白糸の滝。人はほとんどいなかった>
2008年02月06日
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2月25日(月)NHK「英語でしゃべらナイト」に出演が決定した。是非、観て欲しい。四半世紀ぶりである・・・NHKに登場するのは。しかも「英語でしゃべらナイト」という宿敵番組にである。とりあえず(Just for now)英語でしゃべれ、というsoft love番組なのだから。英語が巧くなることが目的ではない。英語を恐れてはいけないというメッセージで登場した超人気娯楽番組なのだ。手強い相手だ。が、私のナニワ英語道の志(spirit)とどこかで結びついている。問題は私の方にある。私はもともと複雑な性格の持ち主だ。英語を学ぶことは、“道”であり“行”であると思い込んでいるのだからtough loveの信奉者(believer)である。tough love は「愛のムチ」のことである。「日本人だから、お手柔らかにゆっくりしゃべって下さい」というネイティヴに対する“甘え”(emotional crutch=心の杖)は、許せない、との公憤にスイッチオンした。こんなtough loverの私が、「しゃべらナイト」視聴者のsoft loversたちに受け容れられるだろうか。テレビカメラの前で、「英語なんかだれでもできますよ」といえば、視聴率で勝負する民放の顔になる。しかしそれではホンネを殺したことになる。私には「公」の顔もある。それでは「ドラゴン松」という異名の沽券にかかわる。It would be beneath me (my dignity).武道家の私は視聴率で勝負はしない。量より質。虚より実。「英語界の武蔵」なのだから、一対一の真剣勝負を信じる。英語(異文化コミュニケーションの道具)を異種格闘技の武器として闘ってきた。孤独な旅人だった。松山のバーで、ヤクザと死闘寸前まで追い込まれたが、英語を武器に闘った。「このヤクザぁ~。謝れ~」と英語でどなった。ロンドンの集団観光バスガイド婦人を呼び出し、「日本人はだれも英語がしゃべれないと言ったな。だから日本人だけを隔離したって。ふざけるな。私は日本人だが英語で話したいのだ。Apologize!(謝れ)」と叱った。彼女は謝った。たとえ英語が下手であっても、「日本人だから、お手柔らかに」という泣き言は言ったことはない。言い訳はするな。これが英語道のtough love。37歳の頃、NHK教育番組(STEP2)のディレクター(当時の小島明ディレクター)に見初められた。オーディションに合格し、30分の英語オンリーの番組での英語インタビューアーとなった。日本から一歩も出ずに米大使館の同時通訳の試験に合格し、NHKの英語番組に登場。これが私のキャッチフレーズになった。数年の海外留学。それもいいだろう。早期英語教育。それもいいだろう。しかし、20歳まで英会話ができなかった私にとり早期英語教育について答を求めるのは、ちと酷ではないか。一夜のヤクザとの英語による真剣勝負の方がはるかに意義深いものだ。tough loveの勝利。NHKテレビのオーディションに合格したあと、ふとあの松山のバーでの事件を思い出した。ヤクザとの一触即発の緊張感に較べればラクなもの。バーを出たあと、身体中が汗でびっしょりになったのだから。あれから・・・四半世紀経った。NHK降板後、I’ve gone dark.裏の人生(女時)が訪れた。(続く)08年冬。浜名湖の輝く湖面
2008年02月05日
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ウイキぺデイア連載ものってきた。ここで発想転換のために、しばらく日本語のデイベートの勧めを連載してみたい。英語でコミュニケートできないって?それば英語の問題ではなく、論理(logicと情報)の問題だ。日本語で聞いてピンとこない人が、この同じ意味の英語を耳にしてピンとくるはずがない。「悪魔」とはよくいった。悪魔は「悪い」というシンボルより、「強い」とイメージしよう。情報がなくて英語でコミュニケーションができるか、と鬼が笑う。「手強い」というイメージでとらえるのが、国際コミュニケーターの定石だ。ここを理解するのがロジックの第一歩だ。南京虐殺が無かったと、世界に認めさせる(日本人相手なら「Will」誌だけで十分)のは、devilishly difficult(めっちゃむずかしい)だ。英語力(英語プラス情報)にデイベート力が加われば、まさに鬼に金棒だ。英語で表現するならポパイにホウレン草、とシンボル交換してみよう。「ドルは、紙クズになる」はデイベータブルだろうか。インチキ論理の多くは、反証不能だ。反論に対する言い訳や「逃げ」の手が既に理論の中に組み込まれているからだ。「これは極秘プロジェクトだから、ソースは明らかにできません」という説明に対し、相手はどう反証すればいいのか。論理学の大家、カール・ポっパ―は、反証が不可能な論題はデイベートできない ――議論ならできるが―― といっている。コロンブスの卵 Once you know it, it’s obvious.ある映画の中で耳にした、英語のやまとコトバ。ロジックを知ればあとは簡単。(続く)<白糸の滝。しばし動けず>
2008年02月04日
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(続き)<水のディベーター>のifは、水のように周囲に融け込む・・・そして周囲を癒す。If you were me. が基本的な立場である。もしも、みなさんが私の立場なら、きっと~されるでしょう(You would~)という仮定法だ。火は高く水は低く。どちらのenergyが強いかはTPOが決める。<空のディベーター>のifは、チームを代表して、「志気」(morale)を守るので、謙虚ながらも、しっかり(firm)と守備を固めている。If we were wrong, prove it.このif思考を主眼としたディベート(informed debate)は、情緒量(知識と知恵や体験を加えたものが物を言うので、学生がコンテスト形式でやるacademic debateとは、異質のものだ。たとえ、ディベートの経験がなくても、あらゆる分野の中で独自の立場で物が言えるプロ(creative class)が集まれば、社会を動かすdream teamが組める。関心のある読者は、是非飛び込んで欲しい。冬猫のお通。一日中寝ている。特にこんな雪の日は
2008年02月03日
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(続き)<石のディベーター>ここに問題Xが存在する。この問題はYという因により生じた果(X)である。そのYを取り除くには、Zがいる。これがプランになる。とすればXは消える。このプランを強調するには、Xが悪であることを証明する。そこにifが入る。もしXを取り除かなければ、深刻な結果を生じる。それでもいいのか。<風のディベーター>はifで尋問をかける。もし、Xが真犯人なら、Xを入獄させれば問題は解決することになる。別の問題が生じるのではないか。Xに原因は、Yではなく、AかBかCではないでしょうか。それらのifの質問に答えられなかったら、問題が存在しないということにならないか。もし答えられても、別のプラン(counter plan)の方がベターなのでは・・・。<火のディベーター>は、こんなifを用いる。If I were you.(私があなたなら)というegoを、剛直球で投げる。通常のディベートでは、すべてweで通すが、サッカー・ディベートでは火に関しては、I(私)でそして本音で通す。(続く)紘道館館長ブログを更新⇒館長ブログ08年冬の白糸の滝。このアオをなんと表現すべきか・・・
2008年02月02日
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ハーバード・ビジネス・レビュー誌のカバー(クリエイティブ資本主義)に登場したリチャード・フロリダ氏(ジョージメイソン大学教授)は、creative classというコンセプトを発表して話題をさらっている。creative classとは、新しいアイデアや技術コンテンツの創造によって、経済を成長させる機能を担う人々で、その中には科学者、芸術家、建築家、デザイナー、教育者、音楽家などの分野で独立の判断で動く、knowledge workersのことである。わたしのようにこれといったジャンルに属さない一匹狼も、このcreative classに入る。アメリカでは人口の3割がこのクラスが占めるという。本人に会って話をしたが、どうも波動が合う。私がリーダーシップ・ディベートというものを開発して、公開ディベート・トレーナー講座を始めたところだからだ。私とRichard Floridaと一致するところは、多様性(diversity)を受け容れる寛容性(tolerance)の重要性だ。私のいう“腹”(the hara)である。この ザ・ハラ は、「空」に近いコンセプトで、どのようなif にも驚かない身体の“重心”であって、磁力である。私が唱導しているサッカー・ディベートでは、if に対する危機管理能力が試される。(続く)<小学6年の時の日記。だいぶサマになってきた。>
2008年02月01日
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