全26件 (26件中 1-26件目)
1

(4/29のつづき)面子――これは、決意の顕れである。面子とは、honesty(ウラオモテなくストレートなこと)と同じく、淋しいものだ。意地を通して、世間を狭くしてしまうことがあっても逃げられないのだから。その代わり、大学か私塾(中国、韓国では書院)か、という大きなテーマが産まれる。 中国で面子の研究をしようという気持になったのも、学内での面子バトルがきっかけとなったものである。私はこれをAIUの盧溝橋事件と呼ぶ。日中戦争のきっかけとなった事変である。中国へ、私塾紘道館を進出させようと思い立って、私の意地(面子)が膨張した。(つづく)
2010年04月30日
コメント(0)

(4/28のつづき)ワリカンにも面子がつきまとう。ここは私のおごりにしていただけないと私の面子がたたない、は、不給我面子(プーゲイウオミエンツ)という。面子となれば、東洋は同じだ。私がAIUから離れることになったのも、面子の問題でもある。武士の面目は面子なのだ。 私の教育ビジネスは面子ビジネスなのだ、と吹聴することがある。「スミマセン。次からは気をつけます」と謝れば仕事を失うことはない。金を失っても金は戻ってくる--信用さえ失わなければ。人間関係で一度だってミソをつけたら、面子という信用を失うことになるから、引き下がれないことがある。(つづく)
2010年04月29日
コメント(0)

(4/27のつづき)成田を発つときに、一冊手にしていた、お気に入りの本がある。「中国人の面子(メンツ)」(江河海。詳伝社)だ。二度離婚した中国人の告白から始まる。人の前で私を罵る女房に耐えられず、別れた。二度目の女房は、ベターッとオレにくっつき、オレから目を離さない。愛してくれるのはいいが、いつでもどこでも電話で居所をつきとめられたんじゃ、男友達の前でオレの面子が立たなくなる。だから、同じ理由で、娘を引きとって、別れた。今はせいせいしている。男の面子を立ててくれるような女としか一緒にいたくない」という。(つづく)
2010年04月28日
コメント(0)

(4/26のつづき)中国にも、サッカー・ディベート(足球究論)を広めるつもりだ。究論とは、礼(孔子)+不要面子(老子)+実用主義のことだと私は講演のとき英語で語った。面子(ミエンズ)を加えたとき、どっと中国人学生が笑った。私のスピーチは、中国と米国の共通点にゲーム思想があると述べ、面子が違った形で衝突する(グーグル対米国政府)。そしてどちらかが∧から転落し、∨の日本が救うことになると大上段に構えた。しかし、中国人の面子を傷つけないよう発言には気をつけた。松本節は危険なので、問題発言はなかったか、と朱教授にいえば、「あそこまではよい」と答えられた。だれの面子もつぶさなかった。中国は面子の国。増満氏が教えてくれた中国語が役立った。給我一个面子(ゲイウオイーガミエンツ)を直訳すれば、Give me face。中国で学びたかったテーマの一つに「面子」があった。(つづく)
2010年04月27日
コメント(0)

(4/24のつづき)孫文による中国革命は、日本人の朋友(ポンユウ)なくして成立はしなかった。日本の教育革命のために、私が中国を利用する番だ。これが、中国人とアメリカ人が共有するプラグマチズムの思考だ。「猫の色が黒か白かどうでもいい。ネズミさえ捕まえてくれれば」というのが実用主義だ。中国が好きか、嫌いか(嫌いな点は多い)というより、日本の教育革命(「教育道」の確立。英語道はその一歩)を起こすには、日本が恐れる中国を利用することではないか。日本人による日本人の革命はムリなような気がする。孫子を師と仰いだ王陽明の知恵が今の私には必要なのだ。孫子も老子の影響を受けたはずだ。闘いにも「道」が一番肝心と述べている。(つづく)
2010年04月26日
コメント(1)

(4/23のつづき)彼が私に紹介してくれた、鹿児島県人のネットワークは、まるで中国人の関係(クアンシ)に匹敵する強力な幇(パン)のように思えた。三菱、住友系の現地企業の社長たちから、苦労話を伺った。無錫紘道館の影のサポーターが多くいることを知った。増満氏の隠徳の深さには畏れ入る。紘道館の塾頭として、申し分ない。この語学の天才増満氏(謎のヤタガラス・岩崎弘治の紹介)を中国のキーパーソンとして、王陽明ツアーを紘道館で企画してみたい。(つづく)
2010年04月24日
コメント(0)

(4/22のつづき)しかし、質問をしたあの中国人学生のように、具体性となると、孔子に勝てない。中国文学と中国語と共に、もう一度やり直すのだ。同時通訳の西山千師匠は、60歳からフランス語を学びたいと述べられた。私は70歳から中国語に取り組むと誓った。トライリンガルの必要性に私を目覚めさせたのは、私の中国関係の参謀、増満工将氏である。中国語も英語もペラペラで、この国際色豊かな鹿児島県人は、中国滞在中の私のケアをしてくれた。無錫紘道館の初代塾頭となる。今年のマン・オブ・ザ・イヤーの候補の一人。(つづく)
2010年04月23日
コメント(0)

(4/21のつづき)アポロが月へ着陸した頃の話だ。(この辺りは『同時通訳』角川学芸文庫)の中で軽く触れている。とにかく、英語道とか山籠りをするなどという数々の私の奇行の裏づけになったのが、老子の「道徳経」であった。北京の書店で買った老子の「道徳経」は、英語と中国語で書かれているので、むさぼるように読んだ。湯舟の中で読み、青春が戻ってきた。すべてを捨てたところ、大欲が戻ってきた。山奥で蚕に桑の葉を与えながら、海外へ行かずにNHKテレビの上級番組に出てみせるのだ、と自分に言い聞かせた。無欲は大欲に似たりか、老子様、ありがとう。(つづく)紘道館の例会報告を更新しましたこちら
2010年04月22日
コメント(0)

(4/20のつづき)中国は共産国だ。あまり過激な発言をすれば、再入国ができなくなる。ここはタテ社会なのだ。朱子学のみが通じる社会なら、社会の「和」を乱した赤穂の47名のさむらいは、すべて反逆者でテロリストある。陽明学でいう「良知」の思想が、彼らを義士に変えた。武士の面目が立った。朱子学の李氏朝鮮の時代ではこんな結果にはならない。文武両道(王陽明)を愛でる日本という国柄が、武を美化したのだ。棲みなれた日商岩井を離れた私は、次の就職先を決める前に、喫茶店で中国の古典を読み漁った。とくに老子の「道徳経」が気に入った。アポロが月へ着陸した頃の話だ。(つづく) 紘道館の例会報告を更新しましたこちら
2010年04月21日
コメント(1)

(4/19のつづき)孔子に投げた老子の「as you please」を中国語でどう訳せばいいのか、と会場の人たちに、質問を投げかけた。影を動かす、という武蔵の技を用いた。前席の5,6名の人(朱教授もおられた)が、異口同音にスーイと答えた。私の耳には、「粋」と聞こえた。私の中国語のリスニングは弱い。あとで確かめたが、随意をスーイと読むそうだ。「ご随意に」(As you see fit.)ということなのだ。この質問で、私の老子に対する思いの丈(たけ)が通じたと思った。しかし、あの一学生の質問で、軌道修正せざるを得なかった。意の丈だけではなく、身の丈を知らねばならない。いかに私の思いが老荘思想や陽明学に傾いても、場というものがある。(つづく)
2010年04月20日
コメント(0)

(4/17のつづき)書院とは、「対話」を重視するところ。私が理想とする私塾の姿に近い。この反論らしき質問はなぜなされたのか。私は講演の中で、孔子と老子の出会いのエピソードを語った。弟子から、「先生、もうひとり老子という偉大な先生がおられます。一度お会いになっては」と言われて、初めて会った。孔子は、少し歳が若い老子に向って、「どこに座ればいいのかね」と尋ねた。ずっと沈黙をしていた老子は、「それは私が決めることではない、ご随意に」と述べたので、孔子はムッとされたらしい。「礼の知らぬやつ」と思ったのではないか。あとで弟子たちが「どんな人でしたか、老子という人は」と尋ねたとき、「......んーむ...竜のような人物だったな」と答えたというから、さすが孔子も人を見る眼がある。(つづく)
2010年04月19日
コメント(0)

(4/16のつづき)ナチュラル・スピードでしゃべってもみんながついてくる。朱教授によると、私がときどき中国語を話し、漢字を使ったから、学生達もほとんど理解できていました、という。中国人学生の質問も活発で、核心をつくものだった。「先生は、今の中国人は老子の道徳経を読むことを勧めるかのような話をされましたが、老子は抽象的で、孫子の兵法や孔子のように具体例に乏しいのでは」という反論めいた質問には、ハッとさせられた。すぐに、陽明学が、朱子学よりベターだという印象を与えたのは、まずいと考え、どちらも大切で、その源流たる孔子の教えに思いを馳せる必要があると述べた。その日の朝、東林書院(朱子学中心。陽明学は中国では危険視されているので)を訪れたことがよかった。(つづく)
2010年04月17日
コメント(2)

(4/15のつづき)今の大学生(ESS対象ではない)が英語ぶっ通しのレクチャーを聴講するとは思えない。50名は集まるだろうと、教授はいうが、どうせ中国人はオーバーだから、フタを開けてみたら、15~6名だろうとタカをくくっていた。当日、江南大学商学院の講堂に入った。驚いたことに、まるで満員御礼。多分350名は超えているだろう。立見席が多く、あとからあとから入ってくるが、入口のところが混雑している。400名以上はいたかもしれない。数に圧倒された。内容も「中国、米国、日本の比較分析」という高度なもので、英語の勉強の仕方といった次元の問題ではなく、あくまで内容の勝負だ。この日本の英語武蔵、相手にとり不足はない。(つづく)
2010年04月16日
コメント(0)

(4/14のつづき)ふと、NHKの「英語でしゃべらナイト」というお笑い番組を思い出した。外国ではシリアスな英語番組が当たり前なのだ。私が日本人に広めたいtough Englishが学べる。民放化した今のNHKはsoft Englishしか教えることはできない。中国は違う。江南大学で私に英語講演を依頼したいという。ええ? 2時間近く、私の英語講演を聞きたいという大学生が本当にいるのか? 20年前、関西の大学生(ESSが中心だ)のグループを対象に、イングリッシュ・オンリーの講演をやったものだが、関東では日本語だけの講演がほとんどだった。日本人の英語発信能力は確実に落ちている。今は北京にいるが、すぐに上海から無錫へ移る。初めて中国の大学で英語オンリーの演説をぶつのか。うーん、身構えてしまう。(つづく)
2010年04月15日
コメント(0)

(4/13のつづき)北京では朝から晩まで、テレビで中国語を聴いている。韓国の済州島でもナチュラル・スピードの英語番組があった。どちらの国も早期英語教育で、英語による発信力は日本人よりもはるかにすぐれている。とくにすごいのは、俗にいうクレージー・イングリッシュのフィーバーが、十年後も猛威を振るっているという事実。CCI(チャイナ・セントラル・インターナショナル)は、24時間英語による放映を続けている。とくに私が恐ろしいと思ったのは、アメリカ人講師が自然のスピードの英語で、自然のスピードの中国語を教えていることだ。(つづく)
2010年04月14日
コメント(0)

(4/12のつづき)還暦の年に、すでにウケヒを済ませていたのだ。涙は滂沱として流れた。陽明学の狂いの美学に酔った。司馬遼太郎は墓地から「だから言っただろう。陽明学は度の強いアルコールだって」というだろう。数週間のち、やっと我に戻った。(やばい、英語とディベートを捨てたら、私は生活ができない)。あれから十年、古希を迎えた。あの頃の感激が甦った。そして十年後、中国を訪れる。北京では朝から晩まで、テレビで中国語を聴いている。ときおり入る英語はナチュラル・スピードだ。70歳で再び中国語に挑戦する。(つづく)
2010年04月13日
コメント(0)

(4/10のつづき)今70歳で赤ん坊になった私。通常、還暦とは60歳のはずだ。急に10年前の当用日記を読みたくなった。この年、私は単身で陽明学の研究で、王陽明生誕の地、そして墓地を訪れている。王陽明の墓の前では、中国人のガイドは、席を外した。「先生はお独りでお話をなされたいでしょうから」と。私の眼の前に、明治維新の起爆剤となった英雄が眠っている。たった二人。私は墓前で独りで泣いた。そして、自分の心境を声を震わせあらわにした。「再び、中国と日本を戦争させないで下さい。そのためには、英語もディベートも捨てます」と。明治維新の裏に陽明学があった。その魂の炎をもういちど日本に、そして私自身に与えたまえ、と誓ったのだ。(つづく)
2010年04月12日
コメント(0)

(4/9のつづき)サピオでは、中国が日本を買い回っている、という大特集をした。ますます日本はびびっている。新渡戸稲造が「武士道」を書いたころは、日露戦争での勝利の酔いが醒めやらぬ日本人をますます酔わせた。今は、日露戦争のことなど話題にもならない、醒めた日本人ばかり。そんなときに、平成武士道を書くというのは、どう考えても不利な立場にある。しかし、英文で平成武士道を書く(とりあえず断食中に英語で書いた素描は、紘道館ブログに載せる予定だ)と決意した。そこで仮想敵の内情を知りたくなる。王陽明の研究の前に北京へ飛ぶ。(つづく)
2010年04月10日
コメント(0)

(4/8のつづき)「孫子の兵法」は、闘わずして勝つことをベストと考えるわけだから、日本は侵略される前に、精神的にも武装解除されてしまうのではないか。日本の武士道はどのように対処すればいいのか。国会中継(参院予算委)での普天間基地問題をめぐる感情的論争を耳にし、ますます日本の将来が不安になってくる。与党(民主党)がかつての与党であった自民党のリベンジ攻撃を受け、グロッキー状態になっている。もう完全に機能不全。もう国防云々以前の問題だ。日本は縮み続け、中国は伸び続けている。(つづく)
2010年04月09日
コメント(0)

(4/7のつづき)3月11日の英文日記の見出しは、A big bad wolf goes up to China. とした。狼は訴える。Don't overkill. (角を矯めて牛を殺すな)と。狼を殺した中国は、モンゴル人を敵に回した。邪魔者は殺る、という凶暴なロジックで身を固めている中国は、周辺の諸国をすべて敵に回した。しかし、中国には「孫子の兵法」という秘密兵器がある。日本と米国の関係がぎくしゃくしているのを静観している中国は、そして孫子は、ホクソ笑んでいるのではないか。「日本がこれで中国の勢力圏内に入ったのだ。永住外国人に地方参政権を与えるのも時間の問題だから」と。(つづく)
2010年04月08日
コメント(0)

(4/6のつづき)中国へ飛び立つ前に、陽明学のおさらいをした。朱子学から陽明学への移行の鍵は山鹿素行にある。殉死の前に究論(ディベート)せよ、という思想は、犬死の否定だ。山鹿素行を師と仰いだ吉田松陰も、死に陶酔することなく、死を恐れず大義に燃えた。『山鹿語類』は殉死についてこう語る。「死に至って、人の重き所なれば、是れ又究理することを詳にして而して死を全うすべし」「究」--この言葉の響きが好きだ。スズムシの大好物であるキュウリ(窮理)という音霊が今の私を動かしている。明日(3月11日)から王陽明を産んだ中国へ飛ぶ。(つづく)
2010年04月07日
コメント(0)

(4/5のつづき)新渡戸稲造は、「武士道もすたれるかも」と不吉な予言をしていたが、私はこんな世の中だからこそ、武士道が見直されるのではと、信じている。ゼロ歳に戻った私、英語道もゼロ段。ゼロになれば、失うものはない。恐ろしいものはない。ホームレスよりも「島流し」という可能性も発見できたことだし...。急に、北京、上海へ飛びたくなった。中国は本当に恐ろしい国なのだろうか。(つづく)
2010年04月06日
コメント(0)

(4/3のつづき)平成武士道を書く私にとり、ピンチはチャンスなのだ。英語でいえば、Crisis is opportunity. 驕ることにより敗北するリスクはゼロだ。誇れるものは何もないのだから。いや、広島・長崎の市民たちによる「みそぎ祓い」がある。「核のない世界を」と吼えたオバマ大統領を広島へ招き、献花させるという構想(松尾文夫の発案)が残っている。もう一つ、日本が誇るべき武器がある。それが武士道だ。日本の武士道が「孫子の兵法」と一致すれば、戦争が起こらない。紘道館が実証する。(つづく)
2010年04月05日
コメント(0)

(4/2のつづき)今日本はドン底。企業はすべてダウン。オリンピックでは金メダルはとれず、国力そして国民の体力もダウン。政治家は迷走し続けている。鯨からまぐろ、弱体化した日本よ、日本の防衛力はどうなっているのか。明日は紘道館で花見。今、中国は、米国はそして日本はどうなっているのか話す。訪れた孫子の隠居地での体験を話すつもりだ。王陽明のように紹興酒を弟子たちと飲みながら。(つづく)
2010年04月03日
コメント(2)

(4/1のつづき)このブログが出る頃、私は中国から帰国しているはずだ。平和を祈念し、そのための平成武士道を広げるために、紘道館を全国に広げると公約した。そしてその私塾の思想を、韓国や中国にも広げてみたい。私は産まれかわったのだから。赤ちゃんの気持。何も恐れるものはない。東西の論理を統合する六角ロジック、そしてその立体化されたロジックの応用としてのサッカー・ディベートを世界へ広げていきたい。(つづく)
2010年04月02日
コメント(0)

(3/31のつづき)戦いは終った。翌日、紘道館のために、数冊のTIMEをカバーツーカバー読まなければならないのだが、頭が回らない。一冊だけでダウン。スピーチはラクだが、あの20分間の同時通訳はこたえた。2日にわたった戦争が終わりやっと、意識が戻ってきた。あの古希の決戦は何だったのだろう。古希の当日外人記者クラブに届いたのが、角川の『同時通訳』(3年待った)、そしてヒストリー・チャンネルの「ウォリアーズ」DVD(2年待った)だった。すべてはこの日のために、私の70歳の誕生日を賭けた。奇跡なのだろうか。神々は私を試しているのだ。息抜きを与えてくれないのだ。(つづく)
2010年04月01日
コメント(0)
全26件 (26件中 1-26件目)
1
![]()

