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(3/30のつづき)斉藤氏は激情の余り、何を言われるかわからない。しかし、確実に仰ることだけは知っている。「二度と、二度と、二度と、原爆投下はゆるされない」という熱いメッセージだ。 Never, never, never, should there be another A-bombing on earth.氏も私も、死後のことを考えている。今の若い人、そしてこれから生まれてくる人のために、何かを残してやりたい、という本能的な願望がある。スズムシのメスがなぜ歌い終わったオスを食べるのか。子孫に生命を、そして音楽を残すためだ。生き残った方がつらいことだってある。(つづく)
2010年03月31日
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(3/29のつづき)磯村(元NHK)、ドクター中松(発明王)、末松義規(民主党議員)、マッド・アマノ、村上憲郎(グーグル元社長)、ペマ・ギャルポ、数日前にピンチヒッターとして恵隆之助に代わって友情出演してくれる、松尾文夫(信念を曲げないサムライ・ジャーナリスト)等々。英語のペラペラな国際人ばかりだった。その前で、私は臆面もなく同時通訳をやると公約した。武士に二言はない。 その前夜に戻るが、浅草の古い映画館で見たのが『切腹』だった。ネズミが足元をくぐり抜けた。仲代達矢が主演する映画はたいがい観ている。すさまじい切腹のシーンを見た。刀で腹を切っている。完全に腹が切れず、悶え苦しむ。呻く気の毒なサムライを見下ろしながら、「まだまだ」と、介錯人は、刀を降ろそうとはしない。残酷なシーンだ。明日は我が身か?同時通訳者の集中時間は10分と聞くが。(つづく)
2010年03月30日
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(3/27のつづき)もっとも涙が止まらなかったモメントといえば、ある一枚の絵に触れたときだ。自分の赤ん坊を胸に抱きかかえ、うつむいたまま死んでいる。あの真っ赤にただれた背中の皮膚。痛かっただろう、熱かっただろう。その痛さより、産み落とした我が子の生命を必死に守ろうとしている母の想い。凡人が使う「愛」を遥かに超越している。平成の武士道は、死よりも生。自分の死よりも、愛するだれかの生命を優先させる――このunconditional love。平成武士道の「心」とは、ここにあった。国籍、宗教、男女差、年齢差を超越した自己犠牲の愛。武士道の"核"たる価値観は、こんな身近なところにあった。浅草へ戻る。あと一日。前日、さすがに恐ろしく、生きた心地がしなかった。これが古希という通過儀礼?(つづく)
2010年03月29日
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(3/26のつづき)たしかに、凡人の眼には、英雄的行為に映るかもしれない。しかし、サムライとしては、ごくあたりまえのことをしたに過ぎない。お金のためではない(どうせ赤字なのだから)――自分の心の中にある「良知」がそうさせたのだ。この抑えられない心情を山鹿素行は「誠」と定義する。一切の打算はない。良知。孔子に教わらなくてもいい。だれしもが心の中に、こうすれば喜んでもらえる、人に喜びを与えることで、自分も喜べるもの、といった無条件の愛があるはずだ。そこには宗教も哲学も要らない。Pure heartのみだ。三度、涙が出た。(つづく)
2010年03月27日
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(3/25のつづき)当日、斉藤孝氏の燃えるようなスピーチを同時通訳した。紘道館の松井健治君も、プロ通訳者らしく、頭の中で同時通訳をしていたという。そして、「前半の10分は、先生も苦労されていましたが、後半の10分は完全に乗り移っていました。それにしてもプロの集中力は10分が限度なのに、20分とは...」と絶賛しながらも同情してくれた。斉藤氏は、ここまで準備をする通訳者に会ったことはない。ここまで生きていてよかった、あんたのような人に出会えて、と私にハグをしながらオーバー気味の賛辞を述べられた。(つづく)
2010年03月26日
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(3/24のつづき)しかし、対峙する話者は、半端な相手ではない。亡くした母のことを思い浮かべて泣く。死体がプカプカ浮いている川、一人だけ生き残った人間が泳いで逃げ、やっと対岸にたどりつく。死骸の山の中でひとりぼっちの私...と涙ぐむ人の言葉が、その心情が同時通訳できるのか。私には自信がない。またカネのかかるリサーチを続けないと。広島で一泊し、一日中平和記念館の界隈を漂い、ガイドから説明を聞き、パネルや書物など多くの活字に目を通し、被爆者に感情移入ができるまで、準備をしなければと心に決めていた。一日中、ガイドと共に展示館を歩き回り、足が棒になった。ボランティア通訳も私のスタミナに驚いたようだ。すべての解説が瞬時に英訳できるだろうかと、頭の中で同時通訳しながらの情報収集だから、集中力の勝負だ。(つづく)
2010年03月25日
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(3/23のつづき)最後の広島原爆の被爆者、斉藤孝氏はこの5月に国連でスピーチをされる。その時に多分発表される即興スピーチを私が大勢の前で(ブースに入らず)同時通訳をする。あの世から、西山千師匠のあの大きな耳が聴いている。師の弟子なら、逃げない。逃げることができない――それが武士の面目ではないか。しかし、考えてみれば恐ろしいことだ。多くの来賓は英語のできる国際人が多い。その前で、恥をかくのだ。言葉だけの通訳ではもの足りない。天才同時通訳者・原不二子女史(『同時通訳』の中で触れている)も、西山千流派に近く、通訳者は話者にも感情移入ができるような感性の訓練と努力が必要だと説かれる。(つづく)
2010年03月24日
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(3/22のつづき)やっと、司馬遼太郎の歴史観が私のそれとピタッと一致し、感動を覚えた。済州島へ行ってよかった。それは、朱子学に対する疑問である。山鹿素行が感じた疑問でもある。日本人はなぜ陽明学という度の強いアルコール(司馬遼太郎の表現=気に入っている)に酔うのか。韓国人はなぜ酔わないのか。文武両道。ここだ。幸い学者の新渡戸とはちがって、私は武道家だ。知行合一。どうも王陽明の教えに惹かれる。証明のできない理論は無効――これはディベートのルール。しかし、行動の伴わない理論は無効となれば、危険思想に結びつく。ディベート術からディベート道にまで飛翔する。(つづく)
2010年03月23日
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(3/20のつづき)しかし、私は小兵だが早業で知られた柔道家(参段)。得意技はつばめ返し。変化には強い。相手の変化の倍の速さで、技をしかける。あまり私を敵にしない方がいい。浜岡も学生時代から名キャッチャーだったから、アシスタントとして心丈夫だ。とにかく、松本道弘の平成武士道という新構想は、明治の新渡戸武士道とどこが違うのか、リサーチもしなければならない。与那国から、三宅島、八丈島、そして済州島へと漂流を続け、ようやく日本という島国の「かたち」が見えてきた。(つづく) 紘道館の例会報告を更新しましたこちら
2010年03月22日
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(3/19のつづき)そのとき、岩崎、根田という白い騎士が、かけつけてきて、ジャンヌ・ダルクのような(浜岡氏の表現)服部真子を私の裏方に引き寄せてくれた。値切り交渉も難航を極めた。手弁当、徹夜が続いた。浜岡氏や私までが駆り出されて、封筒や切手の買い物、そして宛名書きといった裏方の仕事を手伝わされる。もう1ヵ月しかないというのにみんなが血眼。そんなときに、メイン・スピーカーのドタキャン。(他に講演を頼まれたからだという。これで2度目。前科2犯)。あまり払えない式典での講演依頼より、そっちの方がいいのだろう。そこを何とかと言えず、悶々とした。裏方に徹する主催者はつらい。(つづく)
2010年03月20日
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(3/18のつづき)そんなことができないのがサムライ。めったに謝らないのがサムライ。謝罪は死罪を意味することがある。サムライは信義を守る。カネに走るのは「利」、走らず信念を通すのが「義」。人にドタキャンされても、サムライは同じことをしてはならない。だからサムライはつらいのだ。「すみません。急に講演依頼がはいっちゃいまして」と逃げることはできない。そこでifを使う。もし、言いだしっぺの私が外人記者クラブでの豪勢な「古希の式典」を辞めればどうなる。もし私が赤字が恐ろしいからといって逃げればどうなる。私は信用を失う。手弁当のボランティア・スタッフから愛想をつかされる。カネは戻っても失った信用は戻らない。当初の窓口も浮き足が立ったのか、消えた。(つづく)
2010年03月19日
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(3/16のつづき)知行合一。私の武士道は、陽明学と切り離せない。逃げない。窓口が変わり、あと僅か1ヵ月。浜岡塾頭から、もう間に合わない。60~70万円以上、先生に自腹を切ってもらわないと、とまで攻められている。どこかで借金をしてでも(交渉は失敗した)、平成武士道を天下に向って吼えてみたいという衝動は止まらない。無謀だとは知っていても。 こんなときに悪魔がささやく。この日に1日百万円の講演の話がくる。今ならキャンセル料を払っても、50万円はポケットに入る。すみません、ダブル・ブッキングをしました、と謝って、逃げることもできる。(つづく)
2010年03月18日
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(3/15のつづき)3月6日は生まれ変わるのだ。ということは、69歳はまだ胎内にいる。早く出ようと、両脚で母のお腹をポンポンと蹴っている。早く出すぎたら死ぬ。遅すぎても死ぬ。そのタイミング(ソッ啄同時)が肝心だ。だれが私にそういったのか。だれも。私の脳幹がそういっている。私の芸術的衝動をだれも止めることができない。自分でもコントロールが効かなくなる。周囲もいつの間にか、あきらめてしまう。また、よちよちっこが駄々をこね始めた、と。古希も真剣勝負の場に変えた。ここに、同時通訳者泣かせといわれる早口で激昂タイプの話者がいる。斉藤孝氏。その同時通訳をやるのだ、と公言した。相手にとって不足なしだと感じた。古希にやらなくてもいいのだが、こういうふうに自分を崖っぷちに立たせることにより、紘道館のモットーであるGrow youngerを実践し、背中を見せるのだ。(つづく)
2010年03月16日
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(3/13のつづき)「お金が入る所を選んで行きなさい」と言いたかったがぐっと抑えた。私も「公」の仕事を意識しているだけに、くやしい思いがした。この人の前日ドタキャンは2回目である。そのときも、「急に講演の依頼が入りましたので」である。 講演の依頼が重なっても、義をとるか利をとるか――これは私のライフワークの武士道の信義の問題でもあるから、その時点で心が離れた。と同時に何かひらめいた。(つづく)
2010年03月15日
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(3/12のつづき)古希は私事であるので、低予算で地味にやると決めていたからだ。しかし、判断ミスをした。メイン・スピーカーの恵氏は、この本ですでに著名人になってしまっていた。他の講演会と重なったという。困った。ポスターもできて、いざ出陣というときの電話相談だ。どうすればと言われても困る。この古希のイベントは、ボランティアで動いている。手弁当で、私の持ち出しも増えつつある。相手は、ある大学が恵氏を講演に招いている。あきらかに払えないこちらは弱い立場にある。(つづく)
2010年03月13日
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(3/11のつづき)さて、厳粛な儀式は、戦場に変えてしまう。その激戦模様を振り返ってみよう。まず、『海の武士道』の著者の恵隆之助氏を、私と共にメイン・スピーカーにすることを昨年から決めていた。海洋国家に戻れという、新武士道を掲げた私とは、絶妙のコンビになると踏み、沖縄(琉球紘道館誕生)で盛り上がった。まだ無名だが、この感動のドラマが多くの学童や青年たちの涙を誘ったという。それまでは、櫻井良子、ベンジャミン・フルフォードを考えていたが、著名で高額な講演者は遠慮させていただいた。(つづく)
2010年03月12日
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古希という、私にとり再生の儀式が終った。2日間、疲労が抜けなかった。まさに激戦であった。なぜか。誕生ための儀式とはいえ、これは戦争であったからだ。20歳を越えたころ(大阪英語道場が生まれたころ)からの私のモットーは、Grow younger. であったから、その証明になる。風のようにコロコロ変わる、私のキャッチャーは大変だ。秘書泣かせで知られている。その役を引き受けてくれた、司会者の浜岡勤(ICEE運営委員会会長)は、Grow younger together. にしようと、togetherを加えてくれた。(つづく)
2010年03月11日
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(3/9のつづき)しかし田舎(地方のほとんど)には、ホームレスがいない。ホームがあり過ぎて困っているのが実状だ。島はもっと村落的だ。海に囲まれているから、逃げられない。詐欺師にとって住みづらい場所だ。都会は一流大学を出ても、仕事がなければ、悪知恵を活かして、マネーゲームや詐欺に手を染める。転落も早い。田舎には、弁護士や警察は要らない。流民をも助ける日本が海洋国家に戻れば、悪は滅びる。奈良で考えた。日本という国柄とは何か。中国や韓国からの流民で成り立った国ではないか。八丈島も三宅島も流民を師と仰いだ。流民は都会人にとり、敵あるいはガイジンだが、島の人たちにとり、師なのだ。どうりで、離島が気になるわけだ。紘道館は島、そして私のシマ(ナワバリ)だ。
2010年03月10日
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(3/6のつづき)とにかく、大阪に紘道館(高森桃太郎)が誕生したことは喜ばしい。ナニワ英語道の発祥の地なのだから。浪華の歌舞伎は和事(わごと)が中心。江戸歌舞伎は荒事(あらごと)がその特長。荒っぽい∧型、ナニワは∨型だ。∧社会は高いほどいいので、脱落者も多い。∧は弥生文化。∨は縄文文化。高学歴でなくても、情(なさけ)があり、人間的に魅力のある人は村に多い。大都会は∧で、ホームレスが多い。でも∨だから、ド根性で立ち上がる力もナニワにはある。金に恵まれるもの、金に見放される人との間に大きなギャップがあるのが大都会の現実だ。(つづく)
2010年03月09日
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(3/5のつづき)ところで忍者には検定試験はない。全員が有段者(クロオビ)だからだ。シャドウサムライは、スポーツより武道を目ざす。次にがんばればいい、というのが、甘いスポーツの世界。武道家には次がない。一回一回が真剣勝負だ。一期一会。武道家には引退がない。私の英語道人生にも引退はない。心に決めた仕事を途中で投げ出すことはない。当用日記を書き続けてきたことが証拠だ。3月6日でそのことを公言し、翌日の紘道館では、それを実践する。もちろん日記にも書く。ブログにも書く。書かなかったら逃げられる。書けば逃げられない。知行合一は、陽明学のキー・コンセプト。英語武蔵の「舞い」を見に、地方から一泊二日の「行」を求めて、江戸へ遡上する人が増えつつある。地方には竜馬がいっぱいいる。Many Ryomasが。来たれ紘道館へ。(つづく)
2010年03月06日
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(3/4のつづき)大阪人はスピーディーだ。3月6日のフライヤー(東京では数ヶ月かかった)が数時間でできた。アクエリーズのT氏は、芸術大を出ているから、コンピューターを使ったポスターづくりなど、お茶の子さいさい、という。「満月の夜に、狼が吼えているイラストをバックに」といえば、「わかりました」とその場でアップしてくれる。バック・シート・ドライバーの私の存在なんか気にならないというストリート・アーティスト。あっという間に、よりどりみどりのポスターが出来上がる。大阪紘道館には強力なITに強い忍者がいる。私のようにすぐに表に出てしまう、おっちょこちょいで、いらちな人間には、裏の苦労を厭わない参謀(忍者?)が大勢必要だ。(つづく)
2010年03月05日
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(3/3のつづき)ダム撤去是非をめぐるディベートはメリット・デメリットという欧米思考(石と風)では、進まない。ダムで沈められた集落の人たちの怨念はどうなるのか、といった日本の精神風土を踏まえた情理(火と水)を加える必要があるから、立体化をせざるを得ない。鎮魂は、カネ(ダム御殿を建てた人もいる)では解決できないものだ。ここはキャッシュを「風」と位置づける六角ロジックによる究論が必要だ。南方熊楠に挑む(を学ぶのではなく)といった、英語の巨人も、ここが正念場――The Defining Momentだ。3月6日の70才(古希)の祝いは私にとり「ハレ」の舞台なのだ。(つづく)
2010年03月04日
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三宅島から八丈島。縄文の研究を再開したくなり、ちょくちょく奈良へ戻る。古い、ノンビリ、そして「いやし」の県。京都は、怨霊を鎮めるところ。しずめの県で、いやされない時は、奈良(信貴山)へ足を運ぶ。そして南方熊楠の魂の故郷である紀伊田辺へ足を伸ばす。真砂市長は、「まだダム決壊の企画は忘れていません」と毎日新聞のコピーを私に見せられる。楽しい二人だけの夕食の一時。熊本知事が荒瀬ダムを撤去した、というニュースで私のことを思い出されたようだ。私は真砂市長に一番乗りして頂きたかった、と述べた。大阪紘道館のプロジェクトは、その可能性をサッカー・ディベートするつもりだ。初代塾頭・高森桃太郎君も乗り気だ。参謀の谷正也君も田辺出身だとは、幸先が良い。いいリーダーには必ず参謀がいる。磁石の両極のように、くっついているので、仕事をほうっぽり投げることはできない。大阪に乗り込む前に、日置川の上流ダム(殿山ダム)の調査を済ませた。(つづく)
2010年03月03日
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(3/1のつづき)「西山千」企画がお蔵入りと決めたのにだ。あの2年間(29~31才)は、two lost yearsにして触れまいでおこうと決めてしまった。その間、『オバマの本棚』そして、スズムシとの出会いで、風向きが変り、復縁となり、「同時通訳」というタイトルでお色直しをし、3月6日の古希のパーティーで販売することにした。一時break upしてもmake up(仲直り)することになったのも、スズムシとの神縁のお陰かもしれない。対立する相手を大切にすべきという、スズムシの両翅理論は、自然界でこそ通用する究極の愛の姿であり、これが私の人生を大きく変えた。
2010年03月02日
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(2/28のつづき)こんなに目まぐるしい人生の私でも、いやそんな私だからこそ、思いがけない吉報が舞い込んでくる。角川の銭谷編集員だ。あまり人前で喋ったり、初対面の人や報道人の前で自己をPRするタイプではない。黒子に徹する昔気質の編集者だ。頑固一徹なところがあり、よく私と衝突する。しかし、どんなにぶつかっても、仕事を放棄することはない。うちの女房とよく似ている。どちらもO型。調子のいい人を警戒する慎重さは、両者に共通する。一時は、もういいよ、原稿を返せ、と私を怒らせたことがあったが、スズムシとの出会いで、短気な私も多少穏やかになり、カドがとれてきた。ようし、再出発だ。(つづく)
2010年03月01日
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