全23件 (23件中 1-23件目)
1
(12/30のつづき)2.勇。水だけでは美しすぎる。火のような意地を示したか。人に負けない技術を持っているか。その技術も単なるコミュニケーションの道具(これなら筆記試験でもある程度測れる)ではなく、武器になっているか。ICEEで恥をかく勇気があったか。お祭りだから、ICEEは別にランクにこだわらない。水に対し、火は、「オレ(私)がやらなくて誰がやる」と先頭を切ってリスクをとるロマンチストである。(つづく)
2010年12月31日
コメント(1)
(12/29のつづき)そして男は...その前に私の審査基準を述べてみよう。3点ある。1.仁(人の裏になって「公」を尽くすservant leadershipを発揮したか)が認められたか。仁とは、law of attractionにより、身を低くして人を惹き付ける水のパワーが認められたか。自然に人が集まる、集めることのできるネットワーキング・スキルは、隠徳の別名でもある。(つづく)
2010年12月30日
コメント(0)
(12/27のつづき)恒例の行事。年末に、私の世界(サークル)の中で最も活躍の目ざましい女性をウーマン・オブ・ザ・イヤー(男性はマン・オブ・ザ・イヤー)として発表する。いずれも私の独断と偏見によるものだ。 女は服部真子。ICUの猛女(モサ)。2年連続ディベート大会で優勝して、紘道館の門下生となり、ノーネス・チャンネルのディレクターとして、私のレギュラー番組「『TIME』を読む」の担当をしてくれている。超多忙な私の雑務(ワープロそしてパソコン等技術指導)をテキパキとこなしてくれる、スーパーレディーだ。ICEEにも参加するなど、松本道弘のネットワークの座標軸になったと、自他共認められるようになった。まさにrising star。(つづく)
2010年12月29日
コメント(0)
(12/26のつづき)それにしても、なぜ中村敦夫は政治に出たのだろうか???真のサムライは、男であれ女であれ、政治には出ない。出ても勝てないことを知っているからだ。 なぜか。シャーロック・ホームズの演繹法で答えてみよう。政治は妥協のart、そして、game(カケヒキ)だ。しかし、サムライはゲームができない――play for real(真剣勝負)。石のロジックでいえば、矛盾する。したがって、出馬しない。出馬できない。このことは『1時間でわかるディベート入門』で、ディベート形式で触れておいた。(つづく)
2010年12月27日
コメント(0)
(12/24のつづき)どうも私は女の扱い方は下手とみえる。最近、浅草で「フーテンの寅さん」など、古い映画をよく観る。やはり、私は裏街道の人間か。 「帰ってきた木枯し紋次郎」もよかった。絵日記に、イメージを膨らませて載せた。いずれブログに...。(つづく)
2010年12月26日
コメント(0)
(12/22のつづき)今、尖閣諸島問題で、民主党はミソをつけた。男どもはだらしない。岩下志麻のような姉御肌の女が出てこないか。 ふと櫻井よしこを思い出す。昨年だったか、外人記者クラブで出くわした。「あなたは岩下志麻のような雰囲気がある。刺青をしたら似合いそうだ。首相に立候補するんなら応援するよ...」。例のごとく、すずやかな、いやシレーッと流されたあの笑顔。(つづく)
2010年12月24日
コメント(1)
(12/21のつづき)ディレクターの服部でもハラハラするという。カネのある民放や民放化しつつあるNHKに対しても一歩も引かない。高級者向けのクオリティー番組を続けたい。こだわる(Why should I compromise?)番組だ。(つづく)
2010年12月22日
コメント(1)
(12/20のつづき)私はこういう自己犠牲精神に富んだ強い女が好きだ。強い女は気配りができる。相手が悪いとは言わない。相手に悪いと自分に厳しい。このやさしさ(惻隠の情といおうか)がサムライの定義とするなら、彼女こそウーマン・オブ・ザ・イヤーだ。 私はいつも独行道。後悔はしない。しかし、このノーネス・チャンネルは、ノーカットで、問題発言(politically correct)も許してくれるので、マイペースで松本節をぶつことができる。(つづく)
2010年12月21日
コメント(2)
(12/18のつづき)英語は「芸」。だから芸の厳しさを教えてくれる人は、すべて師になる。木馬館は私にとり、浅草大学の必須科目。私の元にICEEの女三銃士が揃った。真由香、千里、服部真子。 真子は若過ぎるが、刺青をしても似合いそうな、女剣客。今はICUだが、学生時代は剣道部。今年の私の危機(AIUとの衝突、尖閣問題?)から救ってくれた鉄火肌の女。松本人脈の中ではジャンヌ・ダルクだと呼ばれている。(つづく)
2010年12月20日
コメント(0)
(12/17のつづき)女座長も舞台という、舞台に命を懸ける、劇団を死守する、と。その執念。強い女は諦めない。縁を大切にする。守る。その覚悟は、男であっても、女であっても同じ。 女座長と二人っきり。化粧を落しても、美人だ。出演中の1ヶ月は一歩も出られず、スタジオに赴くことはできないという。カゴの鳥の身分。芸人とは厳しいもの。こちらから、楽屋へ出掛けるならオーケーとの許可を得た。チーフ・プロデューサーの平山さんが、許可をしてくれるだろうか。(つづく)
2010年12月18日
コメント(0)
(12/16のつづき)明日来るTIMEは「芸術」関係であればいいのにと祈り、翌日の朝、差長がこっそりひとりで朝食のために来られるコーヒーショップの場所を、あるルートから聞き張り込んだ。 喫茶店で30分、独りで待つ。これも紙芝居番組のニュースキャスターの仕事なのか。ただ一人の学生を部下にしかできないこの身。でも30分間のノーカットの真剣勝負の番組の収録に命を懸ける。(つづく)
2010年12月17日
コメント(0)
(12/15のつづき)毎週新しいタイムを手にして全てに目を通し、リサーチをし、数日間で料理するのだ。37才でNHKの英語インタビューに登場した頃は、1ヶ月に一本。英語参段。1ヶ月から1週間に一本となった。 しかも、一晩で全頁に目を通し、英語と日本語で解説するというのだから、英語道七段以上の私(今はゼロ段とした)でもつらい。しかし、逃げられない。倒れても立ち上がって、やる。一週間で届くTIMEは待ってくれない。(つづく)
2010年12月16日
コメント(0)
(12/13のつづき)ノーネスの番組のサムライ・トークには、和服がよかろうと服部が言うので、浅草を探索する。シャーロック・ホームズの新しい帽子、ルーペ、それにやっとパイプまで見つけ、リサクル・ショップで和服を買った。(at an affordable price=手の届く値段で) 自費(カネ)のかかる番組だ。NHKや民放と違い、予算もスタッフも皆無に等しい。今の超多忙の身の私にとり、もっとも心身共にきつい仕事だが、それだけやり甲斐のある仕事だ。(つづく)
2010年12月15日
コメント(0)
(12/12のつづき)70歳でカムバックすると公言し、それがノーネス・チャンネルでキャスター(紘道館HP参照)という夢の大役を張り始めた私の眼にも、たしかに、ネットワークに強い女の時代という感じがする。(つづく)
2010年12月13日
コメント(0)
(12/9のつづき)それにしても、あの若さで座長。この男の世界で。しかも女座長。その日の木馬館は超満員、超人気の劇団。 その日の日記に、「武士道も女の時代」と書いた。男の涙を誘う男役を女が演じる。そういえば、武士道企画に群がる人脈も女が主流を占めるようになってきた。(つづく)
2010年12月12日
コメント(1)
(12/8のつづき)座長、座長――。満劇団の若座長・大日方皐扇に観客の掛け声が続いた。本日の外題(11月10日)は、「男の生涯 雪ざんげ」。涙の中に笑いを織り込むのは、上方風。親しくしていただいた藤山寛美を思い出す。 ノーネス・チャンネルの若き女ディレクター・服部真子に「きっと大阪の劇団だ」とシャーロック・ホームズの帽子の私がいう。「しかし、たしか博多って書いてありましたよ」と彼女が答える。いや私の演繹推理では、上方だ、と譲らず、独りで聞き込み、大阪劇団とわかった。(つづく)
2010年12月09日
コメント(0)
(12/7のつづき)しかし、それじゃ90%のテレビ視聴者(快を求め、不快を避ける)を遠ざけてしまう。そこで「風」のごとき即興性がいる。「笑い」には気を配るつもりだ。3パーツのトータル30分番組で、スイッチ・オフ(いやシャット・ダウンか)されないため、気を抜くわけにはいかない。心はサムライでも、振舞いは芸人のそれである。だから、芸人の生き方が気になる。再び浅草大学の必須科目「木馬館」に出席しなければならなくなってきた。芸の心とは何か。(つづく)
2010年12月08日
コメント(1)
(12/6のつづき)この火の情熱とプライドは、命取りになる。決して傲慢(ヒューブリス)に走らぬよう、水の心でバランスをとらなければならない。 娯楽番組(edutainment)という哲学(石)は崩せない。NHKや民放でもこの魚雷番組にはかなうまいという石のごとき信念は貫かなくてはならない。(つづく)
2010年12月07日
コメント(0)
(12/4のつづき)今、人生で一番しあわせだ。毎日毎日が充実している。ノーネス・チャンネルのキャスターという仕事が私にぴったりだ。リングという死に場所が見つかった。この挑戦がなんともいえない。明日、TIMEが届く。カバー・ストーリーは何か。手にしてからの数日が勝負。一晩でバイリンガル、30分番組向きにまとめるというワンマン・タスクフォースのチーフは、世界広しといえど、この私しかいない。(つづく)
2010年12月06日
コメント(1)
(12/3のつづき)それなら「公」ではなく、「私」だ。文学死した三島と英語道に殉死した私とは、同類相憐れむ仲になる。(licking each other's wounds) 今の私の三島観は百八十度違う。尊敬から親愛。師から友人に変った。私は老衰を嗤わない。醜いとも思わない。そう思う心がすでに醜いのではないか。私を老人、だから過去の人と思う若者がいれば、私から去るがよい。追わない。去るものは追わず、来るものは拒まず、は20歳の頃からの私のモットーであった。武士道の延長としての英語道の心は、不変のまま――Grow younger. である。(つづく)
2010年12月04日
コメント(1)
(12/2のつづき)三島に対する私の感情は、たとえ彼の死が「私」に近いものであれ、彼に対する親愛の念は、いささかも消滅しない。むしろ、もっと身近に感じるようになった。いかに、私が「公」に目覚め、亡父が私に期待した廸紘(八紘一宇から)という言霊を再認識し、弘道館を糸ヘンの紘道館に変えようとも、私が公のために、いかほどの実績が残せるかどうかは未証明である。あれは、英語と心中した男だと笑われるかもしれない。(つづく)
2010年12月03日
コメント(0)
(12/1のつづき)三島を一番よく知っていた(死を予感していた)母は「コーイ(公威)さん、さよなら」といったそうだ。「どえらいことをするから、驚かないでくれ、おっかあ」といったとき、カナシバリにあったのでは、と小島さん。 白虎隊の飯沼少年と別れる前に残した、母の言葉とは、違う。梓(あずさ)弓向う矢先はじげくとも、引きな返えしそ武士(もののふ)の道。三島の死は、どこまで「公」であったのか。ただし、公威のキミは、確実に国家(君主)を意図した言霊ではあるが――。(つづく)
2010年12月02日
コメント(0)
(11/30のつづき)山中湖畔の三島由紀夫記念館を訪れ、松本徹館長と小島千加子さん(文芸評論家、詩人)の講演を聴いた。三島由紀夫は、魂の死を恐れていたことは確かだが、あの死は文学者の死であったと知った。王陽明にはまったのも、パーフェクトな文学死のために利用したに過ぎない(徹氏)とのこと。新潮時代、三島由紀夫の担当編集者であった、小島千加子さんも、三島さんは、年寄りはきらい、醜いと言い続け、彼女の前で「やっぱりぼくは小説しかないのかな」と淋しそうに仰っていました、という。どうやら、三島由紀夫イコールさむらいという図式は存在しない。(つづく)
2010年12月01日
コメント(0)
全23件 (23件中 1-23件目)
1