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死ぬ前に一度だけやってみたいことの中に、気球に乗るとか、ハング・ グライダーで鳥のように飛ぶとか、ペルーのマっチュピッチュに登る とか、万里の長城を歩くとかがあるのだが、その中の一つを今回やっと 叶えて来た。いや叶えて下さった方々がいたと言うほうが正しい。 菜の花畑さんとブラボーさん、コスモスさんと、菜の花畑さんの お茶のお弟子さん達である。 それは何かと言うと・・・・・ 一度で良いから日本人としてちゃんと和服を着てみたかったのである。 母の形見の着物があっても自分で着ると、しまりのない道化者みたいに なってしまうし、帯も結べない。 菜の花畑さんは、英語とお茶を教えていて和服が主な生活をしてい、 「そんな夢ならお安いごよう。着物は沢山あるし、我が家には外国人も よく見えて、その方達にも日本の思いでとして和服を着せてあげるので、 大きな足袋も草履も用意してあるから何ももってこないでいいから、 是非いらっしゃいよ」と、何年も前からおさそいがあったが、日本に行く たびに、こちらに時間がなかったり、あちらの都合が悪かったりで、今回 やっと二人のタイミングがあったので胸をときめかせて福島に出かけた。 話変って、ブラボーさんは栃木の住人だが、この二人の共通点は東京出身で、 おしどり夫婦で子供がいないというのと、最高に明るい性格だという所である。 「よ~し、あなたの夢作りに私も手伝いに行く!メイクならまかしといて。 これでも、私は昔は○○堂の美容コンサルタントだったんだから!」と わざわざ栃木から大きな化粧箱をかかえて、仙台経由でコスモスさんの 車で一緒にみえた。コスモスさんは姿勢がよく健康そのもので山登りに はまっていらっしゃる方だから身がしまっている。三人とも単刀直入型で 私にはぴったりの友達。 用意周到と言う言葉は、菜の花畑さんのためにあるようで、電車の駅で お出迎えくださって、「さ、さ、どうぞ」と車にのり、帰りに又駅前の 図書館で降ろしていって下さるまで、寸部の狂いもなく一日がテキパキと スケジュール通りに進んだ。 「先ずは、腹ごしらえね。素敵な所があるからご案内しましょう」と、 お蔵がある有形文化財になっているお料理屋であとの二人と合流。その お蔵は、ミニ昭和博物館のようになっていて、丁度私が日本を出た頃の 映画のポスターとか、餅つきの臼と杵とか、見ただけで肩が凝りそうな 大きな8ミリ映写機のような懐かしいものがぎっしり並んでいた。そういえば、 私はまだ出たての頃のテープ式の大きなビデオ・カメラを持っている。 和食定食が終わると、 「さて、せかすようだけど、やること一杯あるから出ましょう」と田んぼの 中の路を走り、和式建築の家に到着するや、お庭を拝見する暇もなく、 「じゃ、洗面所にいらして、ブラボーにメイクをしていただきましょう」 と言うわけで専門家のメークが始まった。それが終わると菜の花畑さんが 待ち構えていて髪の毛にかかった。 「じゃ、こちらで下着だけになってください」と、すぐお座敷の次の間に 通され、ふすまを閉め始めた。何故こんなにセカセカあわてているのだろう? と笑いながら言われた通りにしていると、超スピードで手際よく着せ始めた。 「あなたは何もしないで、ただ立っていて下さるほうが着せやすいの」と 言われ、周りで三人がワサワサと動いてる中で、デクノボウのように、 ぼぅ~とたっていた時、不思議な感覚に陥った。 「どこかで、こんな経験していたなあ、どこだったろう?どこだったろう?」 と一生懸命考えている私がいた。周りで腰紐を渡す人、帯を持ってる人、 着物をかける人が素早く動き私は着せ替え人形のように立ってるだけ。 「ちょっと、胸が大きすぎるから、我慢してね」と、胸をぺちゃんこにする 為に、何かをぎゅっと巻いた時だけ白昼夢から一瞬覚めたが、また夢の記憶を たどっていた。花嫁衣裳を着たこともないし、七五三に母が着せてくれた 感覚でもない。何か遠い、遠い、もっと遠い昔にタイムスリップしたような 夢の中であった。 「はいっ!出来上がり!」と言われて、はっと我に返ると大鏡の中に母がいた。 のちに三越の社長になった人が反物をかかえて御用聞きに来たような家で 育ち、戦前は着物も帯もふんだんに持っていた母の 「とっても素敵よ。あなたには、一枚も着物を作ってあげられなくて可愛そう だったわね。ごめんなさいね」と言う声が聞こえてきそうで目が潤んできた。 「写真、写真!写真をとりましょう!」と菜の花畑さんにうながされて、 茶室の椅子に座っても母や祖母に一目見せたかったなあと考え続けていた。 すると、それまで青空だったのが一瞬暗くなり、屋根の上で物凄い音がした。 「あら~、いやだ!嘘みたい、霰よ、あられ!今日は晴天の筈だったのに、 これじゃお庭で写真とれないじゃないの」と、菜の花畑さんがブツブツ 言いながらシャッターを押すと、私の頭上に大きなオーブが写っていた。 「あ!ばっちりよ!私ね、祈りながらシャッター押すとよく丸いものが 写るんだけど、ヒロコさんのにも写ってるわ。でも、せっかく皆で着物 で繰り出そうと思ったのに、いや~ね」と、カメラを私に手渡した途端に また青空になった。 庭で記念写真を撮ったとたんに又、次の間で裸にされたので、「え? これで終わり?」と思ったのだが、せかされた理由が分かった。彼女は 「お色直しよ」と、今度はピンクの着物に着替えさせられ、簡易式のお茶を 一服いただき、そして又グリーンの着物に着替えたのである。つまり この日の為に菜の花畑さんは三着も用意してくださったのである。 時間さえ許せば、私も温泉宿で皆さんと一泊したのだが、弟一家とも ゆっくり語る時間がほしかったので、皆さんに厚くお礼をいって、私一人だけ 茨城の家に帰った。駅に着くと町中がびっしょりぬれていたが、星空だった。 「さっきまで、物凄い豪雨とあられだったのよ、天気予報はずれたね。 福島じゃ凄かったでしょ?」と迎えに来てくれた弟の嫁さんのちーちゃんが 聞いた。 「いや、それがね不思議なの、本当に一瞬だけで、また青空になったの」というと、 「あ、やっぱりお姉さんは晴れ女だ!この前来たときなんか台風だらけの時期 だったけど、一度もぬれなかったのよね」と、いって笑った。 「終わりよければ、全て良し」という諺があるが、今回の里帰りは、これで 最後になっても悔いはないように演出されていたようで、初めから中間から終わりまで、 全てがスムーズで楽しい、素晴らしい旅であった。 ★福岡、京都、東京、から東北まで夢をかなえてくださった皆々様、心より感謝を いたします。素晴らしい旅にしてくださって本当にありがとうございました。
2010.06.29
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上野といえば、すぐ思い出すのが動物園、西郷さんの銅像、精養軒、不忍池とアメ横。今回の里帰りは、その全部を見てきた・・・・と言っても、動物園は横を通っただけであったが先ずはこの里帰りで色々お世話下さったSimonさんに、お礼の一つとしてフランス料理では一流で知られている精養軒でお昼をごちそうさせていただいた。テーブルには金縁とロイアル・ブルーのベルサイユで見たようなお皿がセットされていたが、ウェイターが食事の前に下げていった。つまり見せるだけの為であった。母に連れられてここに来たのはもうずっと昔の話。娘時代を贅沢に育った母は、戦後電話代が払えないで止められるような暮らしになっても、昔を偲んでロシア料理や、フランス料理を私に食べさせたくて時々贅沢な場所に連れて行ってくれた。翌日は、弟一家のいる茨城に行く前にみろみんさんと上野駅で待ち合わせ数時間過ごしたのだが、ぐっと庶民的で、先ずは不忍池と観音堂を見学、戦後はなんとなくうら悲しく飛び込みたくなる人もいたような不忍池だったが、今では周りを高層ビルで所狭しと囲まれた所に、「私まだ、ここにいるんですけど」と言いたげに残っていた。最近はホームレスが増えたらしく、道端に寝てる人がいるところなどは、終戦後を思い出させた。「かき氷を食べません?」と、みろみんさんの声が天使のように響いた。あまりにも暑くてさっきから同じ事を考えていたからである。「食べる、食べる!」 私は即座に同意して小休憩。簾が立て掛けてあったりピンクの提灯がぶら下がっていたり、水を打つのかバケツが置いてあったりして、縁日の続きのような店で私の覚えてる風景であった。西郷隆盛の銅像は、子供の頃の記憶だと、なんか山の天辺にあったような感じだったが、と思いながら写真を写してもらったが、私のカメラのは二枚とも写っていなかった。ところが、不思議なことに、40年近く見失っていた本物の西郷隆盛の写真が弟の家でみつかったので今私の手元にある。実はこの隆盛氏のひ孫と見合いをさせられそうになった事があるのだが、その話はまた後に。そういうわけで、ここに載せたのは、みろみんさんから送ってきたものである。アメ横に近い表通りの店でおいしいラーメンを食べ、ごちゃごちゃしたアメ横に入った。私の覚えてる汚さはなかったが、人でごった返し所狭しと品物がならび、店員が掛け声をかけてる活気よさは60年前とも変っていなかった。そうか、その外観は変れども名所旧跡はそのまま残っていて、やはり各地から動物園、不忍池、西郷さんの銅像、アメ横を目指して人々は今でも集まるのだ。人間にしても、年とって姿は変れど、人が集まってくる人気者を何人か知ってるが、名所にしても人間にしても、そういう引き寄せる力を「魅力」と言うのだろうか。兎に角、上野にはそういう魅力があった。
2010.06.28
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戦後の物資難時代でも楽しむ方法はいくらでもあり、我が家では母、従兄弟と私の三人でよく、二重唱、三重唱、輪唱などをしたものである。特に母は、私が小さい頃から沢山の歌を教えてくれたり、分厚い歌の本を買ってくれ、いつも歌っていたので小学校から歌には自信があった。その中に文部省唱歌の「もみじ」や「隅田川」があった。奇しくも今回の里帰りの東京オフ会ではオペラ歌手のハルナさんのリードで参加者が3部に別れて「もみじ」を歌うチャンスがあった。正式にトレーニングされてる、現役の歌手のハルナさんとご一緒に歌わせていただくだけでも、夢のような話であったが、曲のチョイスは、久々に日本に来た私へのサービスでもあると分かっていたので、半世紀くらい歌ってない私の声など、耳障りであったろうが、うんと楽しませていただいた。ワインというものは、不思議な効果がある。キモさんも、この集まりのあった元麻布のカフェ・オリンピコ経営者の高橋さんもオペラ歌手、レオーネさんも男声合唱団をリードされる方だったから次々にご披露があった。その上ある有名なテーマ・パークで、手話エンターテイナーのお仕事をしていらっしゃる、えるんさんの「千の風になって」の手話の踊りまでがあり、その優美な動きには、私もジーンと感動した。参加なされた方は、都内に限らず、遠くはハワイからたまたま里帰り中の方も、北海道から、小田原から湘南から、千葉からといらしてくださり、あれこれお土産などいただいたり、寄せ書きの色紙などをいただいて、暖かい歓迎会のエネルギーに浸った数時間であった。大勢の集まりの常で、一人一人とゆっくり個人的にお話が出来なかったことが残念であったが、お目にかかり握手なりハグなりできたことはとっても嬉しかった。オフ会の会場の元麻布近辺は、青山に生まれ育ち今は青山墓地にいる母が、子供時代に遊び歩いた町、戦後私も何度が連れられて来たことがある。ハルナさんと歌っている間、母と一緒にうたったシーンを思い浮かべて母に捧げる気持ちで夢中で、その懐かしのメロディーを歌っていた。一生思い出に残る集まりであった。皆さんありがとう!!(★ついでですが、帰宅してからはその頂き物がごちゃごちゃになって、どなたから、何をいただいたか分からなくなってしまったものもあり個人的にお礼を申し上げることができないので、この場を借りて、お詫びと、お礼を書かせてください。お心づくし、有難うございました。★また、グレッグの絵を買ってくださった方々にも、私とグレッグから心よりお礼を申しあげます。現在二箇所で展示会をしており、来月と秋の展示会の予約ももう待っています。)
2010.06.27
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私は50年近く、殆ど英語の生活をしていてブログの他は、日本語で会話などすることもあまりない。その上、17年間日本に帰らなかった時期もあり、今でも数年に一度のわりなので、この半世紀に里帰りをしたのは20回前後だろう。かえってヨーロッパやメキシコの方に多く行っている。そういう訳でたまに帰る日本では、よい事も悪いことも大袈裟に目に映るのは仕方が無い。旅日記その5の終わりに、日本の若者の品格が崩れていくような感じが寂しいと書いたが今回、大学にて中々しっかりと自分の未来を見つめている若者達も大勢いる事を発見して見直したので、是非とも記録に残しておきたかった。これは、私に外面だけで判断するなという警告でもあった。マイミクのSimon氏から文京学院大学での講演の話が入ってきた時、好奇心満々の私は面白い人生経験になると思って簡単に引き受けてしまった。大学側からは、将来社会人として世界に進出していくであろう新入生達に勇気、自立心と希望を与える内容のレクチャーを、という要望が出たので「プラス思考の導き」というタイトルで、私自身の経験談を50ページくらいの写真集付きで話してみた。アメリカでは多くの自治会長をつとめた経験から、大勢の前でスピーチをする事自体は慣れていたのだが日本語では初めてだった事に、引き受けてしまってから気付いた。面白い事に、英語だけを50年近く話していると口の動かし具合が変ってくるらしく、日本語で練習すると可なりつかえる箇所が出てきて、テープに吹き込んで聞いたらたいそう聞き苦しかった。日に何度も練習している内にあごがくたびれたが、練習しなかったら悲劇であったろう。当日Simonさんのご案内で大学に向かうと、正門の内側に事務長や先生方とご一緒に島田学長自ら、お出向かい下さり、心温まるおもてなしをいただき感激であった。「つい先日は、ノーベル賞を受賞された博士の講演がございました」と、事務長兼教師の竹内先生がご案内下さった立派な新築の仁愛ホールには、大きなスクリーンとパソコンが用意されており学長先生にご紹介いただいて、即座に講座を始めたのだが、アメリカの学生の反応に慣れている私には日本の学生のお行儀よさと静か過ぎるのには少々とまどった。イントロダクションに時間をとられたので、1時間きっかりの内容を終わらせるために口調を速めたが、思ったより言葉がスラスラと出てきたのも練習のおかげだろう。それでも、日本語の単語を忘れてしまった部分も数箇所あって「え~っと、curiosityって日本語では何といったか忘れました、え~っと」と、用意してあったノートを見ていると「好奇心!」と、学長先生の救いのお声がしたので御礼を言うハプニングもあったが、質疑応答も含めて90分内に終わりほっとした。質問も少なく、あまりにも静かだったので、一体どの程度の内容が伝わったかと思っていたが、後日弟の家でパソコンをあけると、もう生徒からのメッセージが入っていた。カリフォルニアの我が家に帰宅して1週間後、竹内事務長から、ご丁寧なお手紙と一緒に学生達のコメントが沢山入ったものが送られて来たので貪り読むうちに、顔がほころびてきた。大勢の生徒達の心に届いたようである。コメントの中から、いくつか拾って書いてみると、★好奇心を持って、さまざまなことに関心をもって、積極的に行動することが大切であると思いました。★弘子先生の話を聞いて、思わぬところで何かとつながっていたり、思わぬところにチャンスがあったり、可能性は常に周りにあふれているんだと思うと、何気ない日常に可能性があ沢山あるから、毎日ただ生活してたらもったいないと感じました。自分の毎日を見直し、いろんなところにアンテナをはって、一期一会を大切にしたいと感じました。★ボランティア活動は人のためと思っていたが、実は自分のためだと知っておどろいた。★人と人とのつながりは大切だとは思っていたけど、自分からそのコネクションを広げようとしなかったのは、私がどこかでネガティブな思想がはたらいていたからだと思った。このレクチャーをきいて、エネルギーは常に変化をしているから、思想やアイディアは、自分しだいで変えることが出来るのだと知って、少し心が明るくなった。★自分がプラス思考になることで、周りにもよい影響を与えることができるということは素晴らしい発見だった。★プラス思考というのは、失敗しても、落胆しても自分をせめずに次に早く進むことなんだなあと思いました。★今回の講演で一番印象的だったのは「行動が伴わない夢は、夢で終わる]ということです。口でいっておいて行動に移させなければ意味がありません。結果を出すことが大事だと思います。積極的に何でもチャレンジしようと思います。★親とかに「あんたは、デカイ夢ばっかりもちすぎ」と言われますが、やっぱり先の先の未来を考えていると楽しい。これからもいっぱい夢を持ってどんどん叶えていきたい。★夢なんて叶わないと思っていたけど、弘子さんの講演をきいて、毎日小さなことからじょじょに広げていけばよい、と聞いて私も出来ると思った。★タコスの皮一枚だけを考えても、可なり多くの人がかかわっているのだと感じた。普段全く考えていなかったので驚いた。人間のマインド・パワーは見えないエネルギーで、それは自分で変えることが出来る、考え方で自分の人生は変るんだなと思いました。 以上は、ほんの一部のコメントであり、無論学校側もよいコメントを選んで送ってくださったとは思うが、私の講演のタイトルが「プラス思考の導き」というものであったから、プラスに受け入れた学生のコメントだけで十分である。参加学生の中で、人生のチャレンジの壁に突き当たったときに、「エネルギーは常に変化をしているから、他に解決策がある筈だ!」という言葉を思い出して立ち上がれる人が数人でもいたら、私のレクチャーは無駄ではなかったと思う。これらのコメントを読んで、日本には、まだまだ希望のもてる若者が大勢いるのだと確信し、この希望の種があちこちで芽をふきだすことに期待しよう、と将来の日本に希望が湧いてきたのである。このようなチャンスをご紹介してくださったSimonさん、そしてSimonさんと学校をつなげてくださったレオーネさん、大学側でご足労いただいた竹内事務長先生、さらに島田学長のご理解には、この場を借りてもう一度お礼を申し上げたい。★写真は、竹内事務長が「どうぞお使いください。生徒の顔が写っていませんから公開してもかまいません」と、送って下さったものです。
2010.06.24
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去年お見せしたアーティチョーク覚えていらっしゃるかな?グレッグの手にかかると、そのおなじ株に今年は20個以上のアーティチョークが生ったのですよ!!そして美味しいのです!彼は、シーズンが終わった時に、根っこ近くまで切っただけなのにねえ。凄いものです。ガレージの前の庭で、公道の横ですから、誰でも盗ろうと思えば出来る場所なのですが、誰も食用だとは思わないのか、咲いてるのを見たことが無いのか、とられたことないです。
2010.06.21
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なんてタイトルも実は、小池氏の写真とエッセイが載った「天と宇宙を繋ぐ場所」という記事のタイトルをまねしたのとついでに彼の「大砂丘の声」という写真集を紹介して、貴方とコロラド在住の写真家を繋げたくなったからです。マイミクのわらじさんこと小池さんは私と同じ静岡県人。(私は本籍は東京でも熱海生まれの興津育ちの立派な静岡っ子)二人の間には時々、方言が飛び交うこともあります。政治、経済、文学、社会問題などのお堅い話、くだらない話、お笑い、エッセイスピリチュアルな話でも何でも来い!無論英語でもオッケー! 旅行関係の仕事をしている間に、砂漠の美に魅せられついには写真家ともなってしまった方。コロラドに棲みついてもう30年近くなりますが、今年も日本のあちこちのフジフィルムフォトサロンで個展をなさり、講演をなさったようです。今年出版された写真集「大砂丘の声」は、私も一冊手に入れました。静けさの中に風の音が聴こえるイメージ、コヨーテの遠吠えが聴こえるような夜景、全裸で転げたくなるような砂丘、人生を教えてくれるような雲の流れ、見ているうちに自然に深呼吸をして「詩」をよんでる私がいました。ハイテクに囲まれ騒音の中を通勤、通学している方々には、コーヒー片手に、フッと瞑想にふけりたい時にもってこいの心で見る本だと思うのです。ここに、恥も外聞もなく、この写真集を見ながらフッと浮かんできた和歌調の詩を載せてみましょう。1.夢見るは 全裸で砂と たわむれて 満月の夜 一人おどらん 2.砂山の足あとのごと常ならず浮世のうさも人の心も3.妖艶に紅の陽が沈む頃陰の世界に映ゆる三日月4.いずこから来たりて何処へ消える雲今に生きるを教えるがごと5.絶えにしと 諦めかけた バッファローの 草食むを見て 心やすらぐ会社のホームページ: http://www.usa-japan.com/ 写真のホームページ: http://www.usa-japan.com/個人のホームページ: http://www.usa-japan.com/photography
2010.06.20
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★ナオコとユキヨの写真はそのままですが、京都オフのは公開されたくない方が 多かったので加工しました。ガール・スカウトに「新しい友達を作ろう」という歌があり何百回歌ったことだろうMake new friends but keep the old,One is silver and the other ‘s gold. (意訳:古い友達は大切に、でも新しい友達も作ろうね。方や銀で方や金だよ)私には、20年、30年、40年と続いている古い友達や知人が地球のあちこちにいるが今回の里帰りに、その中の三人に再会し、また大勢の新しい友達にも合ってきた。古い友達は酸いも甘いも知り合った仲、お互いに消息を案じあい、数年のブランクを埋めあい、昔話を楽しめる安心した付き合いであり、一方、新しい友達は、私にとって新たなる分野を紹介してくれ新鮮なエネルギーをつぎ込んでくれるエキサイティングな方々だ。ナオコとユキヨはもう30年くらい前に、ラグナ・ビーチの我が家に一年ホームステイした女性達。当時、小学生だった娘と息子の学校にボランティアーとして行けるように校長や先生に相談し、毎日四人分のお弁当を作り子供達と同じスクールバスで通わせたものである。帰国してから、ツアーコンダクタ-となって、この30年世界中を駆け巡って私が若い頃やりたかった夢をかなえてくれている分身である。ナオコは私が行く数日前にトルコから帰ったばかり、ユキヨは私と会った数日後にヨーロッパに立った。タイミングさえ良ければ、日本に行く度この二人に会うのだが、社会人になってからは、いつもこちらがご馳走になっている。今回は私の希望で、居酒屋にしてもらった。楽しかった、ありがとう!福岡の帰りは観光目的ではなく二人に会うために京都に一泊しただけなので、ついでに翌日は東京に戻る前に関西方面のブログ仲間とのオフ会もすることにした。ナオコに依頼しておけば万事うまくやってくれるので、ホテルもオフ会の場所も彼女に任せておき、何事も滞りなく行った。京都駅構内伊勢丹の上にある「おばんざい」のレストランにあつまり、野菜が主のバイキングで値段も手ごろで種類も沢山あり、満足であった。Kさんとは我が家であってからこれで三度目のおなじみだったが、後は全員初対面。飛び入りもあって賑やかになった。私が座った席が袋小路のような場所で自由に歩き回れず一人一人との話は無理だったけど、その数時間それぞれに会話が弾んで、新しいめぐり合いもあったようでうれしかった。その中でもとくにうれしかったのは、前にマインド・パワー(4月3日)というタイトルで書いたR子さん親子が参加した事であった。「え!この人が抗癌治療中?」とは、誰も信じられない程元気で朗らか!奇遇なことに向かいに座った方が同じ癌を克服をした方。彼女も凄い「プラス思考」の持ち主で二人は意気投合していた。それを見た時、思わず心の中で「神様ありがとう」と感謝した。そうか、古い友達、新しい友達・・こうやって人の輪が出来ていくのだなあ、そしてその始まりの種は、30年前に私がボランティアーでナオコとユキヨのホースト・マザーになったからだったんだなあ。人の為にしたと思ったことは、実は自分の為だったんだなあ・・・私は、金銀がどっさり詰まった玉手箱を持っているのだと、しみじみ思った★この他に、東京でも、福島でも、妹の町でも、弟の町でも新しい出会いがありましたが、それは又のちほど。
2010.06.18
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旅行記の合間に、現在やってることの普通のニュースも織り込みますね。娘がハリウッド・ボールでのスティング・コンサートチケット二枚買ったのに、ハワイに遊びに行ってしまったので、無駄にしたくないから使ってねと言うので、マイミクのアキヨちゃんとユニバーサル・スタジオ近辺のバス停のパーキング場で待ち合わせ市営バスで行ってきました。ハリウッド・ボールは過去二度行ったことがあります、もう35年位前の話でしたが、舞台装置が変っていて、ハイテクにはなっているだけで、観覧席には、それほど変化はなく、木のベンチも昔のままでした。このサイトは、会場前半分は日本の桟敷のようになっていて、2メートル四方の囲いの中でピクニックが出来るようになってます。昔、友達が連れてってくれたとき、ピクニックバスケットにワインやら、つまみ、サンドイッチ、果物、デザートを入れて、折りたたみのテーブルにテーブルクロスをし、キャンドルをたて、とてもチャーミングだったのは覚えてますが何のコンサートだったかは忘れました。もしかしたら、手品だったかもしれません。スティングは、ポリスから独立してオーケストラとツアーをしているわけですが、クラシック的な音質とロック、ポップスが心地よくミックスしていて、私は好きです。同じ理由でグレッグは独立後のスティングは好まないのでアキヨちゃんを招待したのです。スティングは、あの年になっても声が衰えず3時間のコンサートに20分休憩しただけで、歌い続けてました。その上サービス精神満々で、アンコールも四曲!昔と違って近頃の音楽には、エイジ・ギャップとか、バリアーが少なく、老若男女が一緒に楽しめる時代になってきているので、これは素晴らしいと思ってます。私の隣には、ティーンのカップル後ろには、白髪の80以上のグループ、中年のカップルなどは踊りだしてました。ここは、アルコールをふんだんに売るので、可なり陽気(ごきげん)になってる人がいました。娘が市営バスに乗れといったのは当たりで、もし自家用車でいったならば、悪夢のような渋滞とパーキング場も詰め込み式ですから最初の人が出なかったら出られないデザインになってるので、バスはそういう人を尻目に、特別な駐車場からすいすいと出られたのです。ビデオは、ミクシイに入ってます
2010.06.17
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★(初めて読む方へ:私は半世紀近くアメリカに住んでいて日本にもあまり帰らない人間なので、久々の里帰りも、その観点で書いている事をご了承ください。)数年前「面白いヴィデオを見て」という添え書きで、友達が「正しい寿司の食べ方」という日本人の製作したコメディー・ショートを送って来た。それは、なんでもマニュアル通りにきちんとやる日本のサラリーマンの風刺であったが、スーツをきちんと着てカウンターに並んだ三人のサラリーマンが、まるでロボットのように同時に「一、二の三」で握りを注文して、具に醤油をつけ、何度の角度で上を向き、一揆に食べるとかいう、イラスト付のナレーションがあり、日本人の律儀さ、正確さをしってる外国人には爆笑ものであった。日本人自身、何でも、ルールに沿って行動しなかったら社内の和が保てない、ひいては出世にも繋がるであろうせつなさを、(出る杭は打たれる社会)風刺してるわけだろうが、「ああいうシーンは寸劇の脚本であって、実際にはないだろう」と思っていた。ところが新幹線の京都駅構内と、東京に向かう新幹線の中で似たような場面を目撃をしたのだった。その一:構内のマクドから片手にブリーフケース片手にハンバーグとドリンクの入ったお盆をもった、スマートなスーツに身を包んだサラリーマン風の男性が三人、同じペースで歩き、一列に並んでるカウンターに一緒に腰掛け、ブリーフ・ケースを置き、同じスピードで食べ始め、一緒にそろって、三人椅子からおりて出て、同時に携帯をのぞいて、去って行ったのだった。何故知ってるかというと、人間研究のすきな私は、1時間の暇つぶしに構内を行き交う人々を見たり、写真をとっていたからである。その二:新幹線の予約席に座ると、七人のサラリーマンがどかどかと乗ってきた。先頭には、せかせかした男が沢山のビニール袋を両手にもって席の番号を探しており、私の斜め前で止まると「あ、どうぞ、ここです」と後から威厳ありそうにゆったり歩いてきた人達をまず促し、次の三人をその前の席にすわらせ、自分はさらに前の席に座って、彼のブリーフ・ケースをもっていた男性に軽く頭を下げてうけとり棚に置き、後ろの六人にそのビニール袋を配り始めた。六人は、一様にブリーフ・ケースを棚におき、「一、二の三」と号令がかけられたように、テーブルを出しお弁当箱を開けた。そして、次にせかせかした男は飲み物を配りだした。その注文も間違えていないようだった。六人のアクションが実に見事にシンクロ(ナイズ)されていたので。筆頭に書いたエピソードを思いだして密かにニンマリしていた。まさか写真を撮るのははばかられたので、脳裏に納めたものを記してみたが、ここから私の[考える]癖がはじまった。このエピソードを見ても、なぜか筆頭のビデオを見て爆笑したような心境にはなれなかった。どちらかと言うと、彼らの協調性や上下関係の礼儀が身についてしまっている事をお気の毒に思っていた。アメリカのように、何故勤務が終わったら、リラックスして上司が下のものに飲み物を買ってやったり、人間対人間の関係になれないのだろうと考えていた。しかし日本の心も理解する私は、何でもそつなくこなす、このシンクロ性こそが戦後の日本を世界のトップ級に持ち上げた事も新幹線や電車がほぼ数秒の差で正確に発着し、スイスと同等か上を行く時計をつくり、世界中に電化製品を送り出す国となったのも分かっていた。アメリカと違って、仕事時間が終わっても、家に着くまでは仮面をはずせないのであろう。つまり、日本はサラリーマンには商談が終わる帰途であっても家にもどるまでは油断は出来ない社会なのだ。私は新渡戸稲造の「武士道」を読み、今回は弟の本棚から藤原正彦の「国家の品格」をもらってきて読んでるが、このサラリーマンの行動は、儒教のカースト・システムや武士道にも相通ずる所があり、一歩家を出たら個人でなくなるのかもしれない。祖母から「さよならは、雑にいってはなりません。それが最後になるかもしれないからです」と言われて育ち、実際、きちんと挨拶して母や祖母と別れたのが最後であったから悔いがない。このように日本の武士道や昔のしつけには素晴らしいものがある。そういう事から、サラリーマンの行動を笑うことは出来ないが二人のお年寄りを目前に無視し、シルバー・シートを我が物顔に独占し、化粧をし、食事をする日本の若者を多く見て、日本の品格がだんだん崩れ行く感じがした事も確かである。
2010.06.15
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戦中に産まれた私は、実家を焼け出され、ジプシーのように藤枝、弘前、千葉と動き回り、やがて静岡の興津に落ち着いたが、そこも仮の住まいであり、両親の離婚やらで学校もちょくちょく変っていたから長続きのする日本人の友達がいなかった。そういう事もあって、「住めば都」が身についていたがアメリカでは同じ場所に(地域)40年以上住んでいるから親友となるとアメリカ人が俄然多い。そんなわけだったから、日本語のチャットやらブログを発見した時は狂ったようになって懐かしい日本語と、とっくんでいた。ブログに慣れてくるうちに、文章を通してどんどん親しい人が増えていったが、書き込んでくださる方とはもっと繋がりが濃くなってゆく。まして一度、二度とお会いするうちには、もう昔からの友達のような親しみが沸く。それと、無責任に楽しめる孫のような幼児なども出来てきて、その成長をみるのもブログの楽しみの一つになってきた。最初に「日本のターシャ」ことミモザさんを紹介してくださったのは「さくら」さんだが、その内、ピアニストであるその娘さんのさっちゃんまでがブログ仲間となった。さらにその子供のヒロ君とは、生まれる前から知ることになったのも、ブログならではだろう。四年前、友達のマリアンを連れて初めて九州に行った時に、さくらさんとはミモザさんの車で温泉に行ったこともあるが、その帰り道博多駅でさっちゃんとヒロ君にもあった。その時さっちゃんのスリングの中に(日本語では何というか知らないが、抱っこするショールのようなもの)スイカのように納まって、ジィーっと私を見つめていたヒロ君が、今回は広い語彙を使って、止まることなき、おしゃべりが出来る年になっていた。私は、小さい子にもピアノを教えてきたので、子供を見る目もあるつもりだが、この年から、話の面白い子とそうでない子がいるのも承知してる。ヒロ君は、この前者にあてはまったので、新幹線の出る間際までの会話も楽しかった。考えてみるに、さくらさん、さっちゃんとは、殆ど話してなかったような気がする。「ヒロ君は四年前にヒロコさんと会ったんだよ」と言うのを聞いていたらしく、新幹線が発車した後「弘子さんとは、また四年たったら会えるの?」とヒロ君が聞いたと知らせてきた。今回も博多駅での再開であった。そうか、オリンピックのように、四年ごとに会いにいくのもいいなあと、思った。私には孫がいないが、ブログで、バーチャル孫が出来たようなものである。
2010.06.14
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世の人々は多かれ少なかれ何かの形で、繋がってはいるが、 その「繋がり方」が稀な形であることを、赤い糸とか、 奇遇とか言う。どちらも、運命付けられた繋がりの事である。 私の人生はそのような繋がりに溢れているが、今回の旅でも 興味深いことが二度あった。 私はよく人から話かけられるのだが、その一つは、上野で 泊まったホテル前でシャトルを待っていた時に同じ所に 立っていた中年のカップルである。 「よいお天気でよかったですね」と、話しかけて来たので 「どちらから?」と訪ねると、ちょっと遠いところですと 言いしぶっていたのだが、最終的には上野駅まで荷物をもって くれたり、果てはコーヒーまでご馳走してくれ住所の交換を した。彼らは30年以上前にカナダに移民して、最近家を 売り、コンド(マンション)にダウンサイズして老後を旅行 することにし、その手始めが日本への里帰りだったらしい。 話は尽きなかったが、待ち人が来たので分かれたが、その 住所を書いた手帳を飛行機のポケットに忘れてきた。航空会社 に連絡をしたが、戻って来るかどうかで、我々の赤い糸の 繋がり具合がわかるだろう。 もう一つの繋がりはショッキングなものだった。日本の旅が 終わって帰宅すると、もう日本からパッケージが届いていた。 それを開けると手織りの絹のショールが入っており、手紙と 写真が添えてあった。実は、「日本のターシャ」の家から博多に 立つ日、駅で電車を待っているとベンチに座ったとなりの 女性から、私のはおっていた、紫のショールのことで声を かけられ、そのうちに、人生 相談みたいなことになって、 本当は二駅前で降りるはずが「博多までご一緒させてください、 他にも行きかたがあります。もっとお話をききたいのです」と 本当に、終点まで一 緒だった。 その人からの手紙に「これは、あの時、見ず知らずの私にいやな 顔もせず、いろいろ相談にのってくれたおれいです。同封の写真は 4年まえにフランス人の織作家とのコラボでやったファッション ショーの写真です」という手紙が添えてあった。その写真をみて ギョっとした。そのモデルの一人は、さっき私を駅まで送って くれた友達の「日本のターシャ」だったのである。 そのストレンジャーは、三村綾さんという織作家で、「注文された 時に、そのクライエントの言う色のとおりにすべきか、芸術家として 自分のクライエントにたいするイメージする色で作るべきか悩んでいたら 行き詰った」というので、グレッグも同じ悩みがあるが、私という サポーターがいるから自分の信ずる絵だけを描いてる。しかし生活が かかってくるなら、いやでも生きるために、最低限クライエントの 買いそうな絵を描くであろうと答えた。その時、色の研究をし、色に 関してはベテランの「日本のターシャ」を思い出し、 「カリフォルニアに戻ったら、メールであなたと友達を繋げてあげま しょう。同じ町にいるから合うのも簡単だし」と言って分かれたの だが、それが思いもよらず、もう繋がっていたのである。 すぐ友達にメールを出し返信が着たので添えておく: 弘子さま まぁ~何と言う奇遇で しょう。 メールを読んで鳥肌が 立つほど驚きました。 やはり弘子さんは特別 な方だと、貴女の磁石の強さを思いました。 三村綾さんは私は直接 存じ上げている方ではなく、私の友人の紹介で あの時モデルをいたし ました。とても素敵な作品をお 作りになる方です。 早速お電話を掛けて、またご報告いたしますね。 ミモザ
2010.06.13
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昨日から、娘がハワイに行ってる間の留守番をしに、娘の家に いますから、旅日記の 書き溜めをしてます。その娘が30ふん前にiPhoneで、写真をおくってきました。このこは ホノルル生まれなのです。 帰国したら、もうやることが山積みとなってましたから、くるったように動き回り終わらせ、 本当は、グレッグが留守番をひきうけたのですが、私がやることにしました。 この家にくると、犬のケンジだけですから、とても静かなのです。大きなプールもあるので 泳ぎの好きな私にはもってこいですし、、ゆっくり読書もできて平和なのですよ。 その上、「スティングのコンサートのチケット二枚あるからつかってね」ということで、 私より一足先に、カリフォルニアに帰っていたアキヨちゃんをつれて、行ってきます。 アキヨちゃんは、元麻布のオリンピコでの、グレッグのショーにも来てくれましたから お会いになった方も何人かいらっしゃいますね。
2010.06.13
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Tarhsa Tudor(トゥドー)はボストンに生まれ、せわしない日常生活から、静寂と自然を求めて田舎で自給自足生活を始め、沢くの著書を残した人で最近では日本でも可なり知られている筈だが、自給自足とまでは行かなくても、私が「日本のターシャ」と呼ぶ友達が福岡にいて、今回私はその「日本のターシャ」の家で四日過ごさせてもらった。彼女は手作り菜園で野菜類はほぼ全部自分の手でつくり、目の前の海に打ち寄せる若布やら、大魚に追われて砂浜に打ち上げる小魚をひろって料理したり、いつも車に花バサミを入れておき、山まで行っては野草を摘んできて活けたり、川でクレソンなどを摘んできてはスープにしたりもするミクロビオティックの本格派である。彼女の場合は、大病後の健康管理の為に体に良いことの一つとして始めたらしいが、自宅の前後の広い土地には季節の花も豊富に咲いていて、室内にも花が絶えない。この「日本のターシャ」は勇気もあって、バックパックをしょって著名なグラス・アーチストに、じきじき手ほどきをうけようと、アメリカまで飛んで行き、やがては技術を自分の物にしてしまった彫金家、彫刻家、グラス・アーチストでもある。健康管理のために始めた自給自足のように、これもご主人の大手術中に気付いたサバイバル法の一つであったらしい。つまり「ここで未亡人になったら、どうやって三人の子供を食べさせられるか」という押し詰まった所で思いついた事のようである。つまり、「必要は発明の母」の類の行動であろう。私の母も戦後は子育てのために何でもやったが、深窓の令嬢で育った女性達のどこに、こんな勇気が潜んでいたのだろう?一般人が見たら、たまげるような事を弱音も吐かず、いとも簡単にやりこなす。私自身、53歳で大学を卒業して教師になり、百坪もの家を土台から前夫と作り上げた人間だから大抵のことでは驚かないが、「日本のターシャ」は、その腕をかわれて婦人之友に特集記事として載ったくらい、お料理もテーブルセットも彫金もプロ並であり、自作のアクセサリーを展示するバストまで石膏で作り上げるのだから、恐れ入る。「さて、畑にでてソラマメを一緒にとりましょう!おいしいぞ~」と、彼女の家に到着して間もない私にハサミをにぎらせ、二人で夕食の野菜を篭につんだ。おしゃべりをしてる内に、見る見るご馳走が出来上がる。とれたての野菜がいかに美味しいという事など書く必要は無いだろう。「先に寝ていい?」と、時差ぼけで眠くなった私に、「丁度いい。あなたのお誕生日までに間に合わなかったから、あなたの寝てる間に終わらせる」と言って、裁縫箱を出しクラシック音楽を流し、何やらはじめた。翌朝コーヒーの香りのただようキッチン・ダイニングにいくと、黒のブラウスにビーズがキラキラと夜空の星のように光っていた。「やっと、終わった!ちょっと着てみて」と言い終わる前に、私はもう腕を通していた。それを着て、私達は前回のブログに載せた東郷神社に行ったのだった。「日本のターシャ」は、夜空の数ある星の中でも、ひときわ光ってるノーザン・スターのような存在であると思った。★「日本のターシャ」はブログではミモザというニックネームである。http://mixi.jp/list_diary.pl?id=851310&from=navi/00/imgc6694a3ezik0zj.jpeg" width="360" height="480" alt="050.jpg">
2010.06.11
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映画でも小説でも、シンフォニーでも出だし、発展を通り、クライマックスという山場があって完結にいたるのだが、今回の里帰りは、まさに私の人生の山場のように、実に充実かつスムーズに物事が運び、果ては天候までが私に協力し、価値ある満足な旅であった。充実した理由の一つとしては、いつもは誰かを道連れにしていて、通訳をしなければならなかったり、もう何度も行ってる観光地に行ったり通訳で忙しく、殆ど自分のチョイスが無かったが、今度のはそれが無く、次々にやって見たかった事を叶えられた自分本位の旅だったからかもしれない。文京学院大学での講演「プラス思考の導き」の主題である、『夢を叶えることは誰でも出来る』という内容にふさわしく、先祖のアルバムを然るべき所に収め、日本語で講演をし、グレッグの個展をしただけでなく、一生に一度はきちんと着てみたかった和服を着せていただいたり、弟一家、妹一家とも心置きなく話せたこと、その合間合間に、ブログ友達との楽しい会話をもてた事で100点満点近い旅であった。欲を言えば、温泉などにも数箇所いってみたかったが、時間的に無理であった。これも叶うものなら何時か叶うだろうと、楽観的である。先ずは気になっていた先祖のアルバムの奉納だが、そこに至るまでの話は、5月8日のブログに書いたので省く。最終的には福岡の東郷神社の宮司さんに手渡すだけだと単純に思っていた事が、とんでもない転回をしてしまい、何やら紅白のリボンなどを胸につけるように手渡され、軍艦の形をした記念塔に登り、笛をふく神主さん達の前を通って、来賓代表になって拍手をうった。それで終わりかと思いきや、大きなレセプションがあり、元自衛隊の幕僚やら、○○議員、○○宮司、○○社長など、並み居るお歴々の方々の前で、とっさのスピーチなどをやってくれと言われ、果ては○○会長に、そのアルバムを進呈するシーンを正式に撮らせてくれと、人々のカメラの為に同じ事を繰り返すことになった。それが終わった時に「ああ、良かった!これで安心して死ねます」と言ったら、会場に爆笑がわきあがった。食事をしていると私の目の前に次々と人が現れ、短時間に私のバッグは名詞で一杯になっていた。事のつまりは、「福岡の東郷神社より、東京の東郷神社の方が大勢の方にご覧いただけるでしょうから」という事になり、福岡の宮司さんと、元幕僚で、今は東京の東郷神社の会長をしている方が、翌日東京にもって行ったので最終的には、そのアルバムは東京に行ってしまった。その転回も興味深いが、考えて見るに、母方の祖父は大分出身、父方の祖父は鹿児島出身で、二人共東京の墓地にいるわけだから、アルバムが九州から東京に移って最終を迎えるという過程は、まるで祖父達の運命にも似ていると思った。
2010.06.09
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