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去年のクリスマスの1週間前に、下水が詰まって一階が水浸しになった事件を覚えていらっしゃる方は少ないでしょうが、今年もクリスマスの1週間前は南カリフォルニアには珍しい長雨が続き、我が裏庭は池と化しました。その水が恐らく、家の基礎の下に自然に出来たのであろう穴に溜まったために、行き所がなくてコンクリートの割れ目から床にしみこんで来て、応接間、茶の間、台所などにジワジワと出てきた為家中タオルだらけでした。水を吸い取るバキュームがあるので一日に何度も吸い取り、幸い二日前に止んだ雨で、クリスマスの日はなんとかごまかしましたが、二年続いた水騒動のクリスマスでした。去年のように、家中の家具を全部どけて壁をこわし、じゅうたんをはがし・・・という大げさなことが無かっただけでも幸いでしたが、余計な時間を費やしました。感謝祭とクリスマスの間は一月しかないので、この時期は本当に料理のし続けのような感があり、その間にも友達との外食が沢山あるので、気をつけないと、かなり体重がふえる時期です。今朝みたらちゃんと1キロ増えてました。ターキーやローストビーフは飽きたので、今回はハムとチョッピーノに決めたから、物凄く簡単で手持ち無沙汰。掃除ばかりしていました。今年は、娘のボーイフレンドの両親や、ブログ友のショウコさんカップルも招いて和やかに過ごしました。人間のエネルギーというものは、調和、不調和があって、雰囲気を壊すコンビネーションだと不協和音をかもしだすのですが、今年はとってもよいハーモニーで、皆さん楽しんで帰っていきました。そしてその翌日、まだ家が散らかったままで、今度はグレッグの母親のベティー為に家族に集まってもらって、私がテーブルセッティングから料理の全部をプレゼントしました。もう何年も前から料理などしなくなった母親は、相棒を亡くし、ペットの犬、猫も亡くし、我が家にまねいてもガンとして断るので、きっと欝の一つだろうと思い、私のほうから食器、テーブルクロス、キャンドル食品を全部持ち込んで、クリスマス・パーティーをしてあげたのです。夫がいた頃でも、食器を洗う手間が省けると言って、全部使い捨ての皿やコップで、テイクアウトのものを食べる味気なさだったのです。「私も、自分の家のパーティーだと、全部ペーパー・プレートやコップだけど、食事はやはり目と雰囲気で、かなり違うものだと分かった」と弟の嫁さんが言ったのですが、ペーパー・プレートでも楽しい雰囲気だと会話も食も進みますし、消化も良いと思うのです。「用意が出来るまでテーブルに来ないでね」と念をおしたので、出来上がったテーブルを見たベティーは目を輝かせて、赤いテーブル・ナプキンやテーブル・クロスを何度もさわりながら、「What a beautiful table! なんてきれいなテーブルでしょう」と、大変喜んでくれ、料理も「こんな美味しい鮭は食べたこと無い!どれもこれも美味しい」と繰り返しいうので、家族も私もとっても幸せな気分になりました。さて、今年もあと数日を残すところとなりました。ブログも、アプリだことのつぶやきTwitterだことのでアクセスも、書き込みも減ってきたので、今年はこれを最後とします。最後に娘のボーイフレンドが彼女へのクリスマス・プレゼントとして自作自演のCDを作ったのですが、娘が早速アニメにしてDVDにし、Youtubeに載せたので、皆様にもお見せしましょう。http://www.youtube.com/watch?v=KMZs6hWkem4&feature=youtube_gdata_playerそれでは皆様、ご健康に気をつけすばらしい新年をお迎えくださいますよう、南カリフォルニアからお祈りいたしてます。弘子・ファルケンシュタイン
2010.12.28
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風邪は、早めにドクターに行ったので、幸い悪化しなかったので結局はいつもどおりに、買い物、用事、ピアノなど続けているうちに逃げてしまったようです。忙しい時ほど、イソップの「兎と亀」の話を思い出し、出来る事を出来る時にちょこちょこやっています。振り向いたら、クリスマスの三日前には、全部用意が出来ました。後は、料理するだけです。南カリフォルニアには、超めずらしい長雨で、家のしたに水が溜まったのでしょう。我が家の、茶の間リビング、キッチンの床が土台の合間からの水でぬれてました。水道の水漏れではないので、雨がやめば止まりますがこんな事は、この家に越してきて始めてです。家のあちこちにタオルが置いてあります。今日は、福岡のお友達から嬉しい小包が到着・・・この方は、毎年十二支の動物の博多人形の鈴を送ってくださり、子・牛・寅・と来年は兎なので、コレクションが出来つつあり、まさか、と思ったグレッグまでが待ち遠しくするようになったから人間って分からないものです。さて、皆様もお体をご自愛ください。今年は、本当にお世話になりました。来年もよろしくお願い申し上げます。
2010.12.23
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昨日は、ブログ友のピアニスト、ショウコさんの大学の教授の個人宅でクリスマス・コンサートがあった。友達のラナと一緒にでかけたのだが、ベルを鳴らすと、ベンジャミン・フランクリンみたいな老人が鼻眼鏡でドアを開けた。後で、その方が教授で、彼の家だったことが分かった。中には背広の人もいたが来客もパーフォーマーも実に楽な普段着で、ジーンズにティーシャツ、クリスマスのチョッキ、トレーナーにスニーカーの人が多かった。私はクリスマス・セーターのユニフォーム。もう20年も同じものを着てる。50人前後が集まっただろうか。ショウコさんは9歳でピアノをはじめ、日本では、もうプロのピアニストだったから別に教わるとかいう必要はなかったのだが、英会話のためと、アンサンブルをするためには、地元の音楽家との交際も必要であることから大学に通いだした。授業料はなしと言う特別扱いで、生徒のアカンパニストなどもしているらしい。彼女自身、こちらでも生徒を取り出しているから、音楽用語を英語で表現する練習には最高の場所である。生徒の持ち寄りランチ・パーティーを兼ねていて、プログラムは、ベートーベン、ドビュッシー、クララ・シューマン、ブラームス、メンデルスゾーン、ヘンデルと盛りだくさんで、3,4時間かかった。大学のこととて全員成人であったがこちらの大学は単位をとらなくとも自由に好きな科目を学べるので、特にアートのクラスは美術もパフォーミング・アートも結構八十歳くらいまでのリタイアーした人々も高校から直接来た生徒と混じっている。生徒は皆、一生懸命に演奏してるのだが「音痴」らしい人もいて、それがバイオリンとか、チェロだったりすると最後まで聴くのがかなりつらかった。だからといって、私自身全く人前では弾けないので、演奏するだけでもその勇気さを尊敬する。プログラム中お世辞抜きで、ショウコさんのグループのが一番プロに近かったのだが、バイオリンもヴィオラも、この辺では名高いパシフィック・シンフォニー・メンバーだと聞いて頷けた。ショウコさんはメンデルスゾーンのピアノ・コーテットNo.3とクララ・シューマンのトリオ、Op17で、あの細い体のどこにこんなエネルギーが潜んでいるのかと思われるほど力強く弾いた。彼女の写真にだけ、オーブが写った。演奏の合間に、それぞれキッチンと居間が一緒になった部屋に行っては、自由に食べたり、お茶をいれたりストレンジャーと話したりし、私もラナも別々に台所にいっては、リビングに戻ってくるのだが、戻ってくると座っていたところにほかの人が座っていたりするから、プログラムの半分くらいからは、ラナは部屋の反対側に座り、私の横にはチェロの教授が座って、曲が終わると私に話しかけて来たり、ラナはラナで隣の人と会話をしていた。老いも若きもわきあいあいとしていて、誰が、どんな格好をしていようと品定めもせず、「私の席なんですが!」などと、キリキリもせず、空いてる所を探して座る・・・実に和やかななのである。アメリカに来て46年目になるのだが、最近とくに思うことがある。西岸の州の事しかしらないが、プライベート・パーティーで全く知らない人が集まったりしても、学長だから、教授だから、州知事だからと、へいこらしたりしないし、バックパックをしょって、薄汚い学生でも馬鹿にしたりしない。長くアメリカに住んでいると、このように同じように交わる態度は、たいていの日本人がだんだん自然に身につけるようになる。これは、決して相手を馬鹿にしてるわけでも尊敬してないわけでもない。これを書き出したとき、今年の夏、日本ではじめてお会いしたA氏に、「あいつは日本の心を忘れ、もうアメリカの悪いところばっかりに染まった実にいやな女になった」とブログにくそみそに書かれたのを思い出した。何かというと、A氏が奔走して下さった事に対する謝礼が少ないというのが一つ目、私の態度がなれ慣れしく図々しいというのが二つ目「自分を何様だと思っているのだ」というのが三つ目である。その一は、あまりにも馬鹿らしいのだが、いわゆる頼みもしない親切の押し売りで、それ相当だと思った謝礼では足らず20万円の請求をして来たのを拒否した事に立腹したのである。仕事なら、最初からキチンと契約を交わすのがアメリカの正当なやり方である。自分から言い出した親切に見返りを期待するアメリカ人は少ない。それが悪いというなら、アメリカ人とは付き合わないか、余計なお節介はしないことである。その第二、三はブログに説明してきた通りで、私はどなたとでも大体同じような親しさで話すし、職種、地位、貧富、老若、男女によって、言葉遣いは変わるが相手が社会的上位だからといってヘイコラしたり、下位だからといって馬鹿にしたりどしないから自分が「なにさま」だとも思わない。南カリフォルニアでの、このクリスマス・コンサートは、そういう日本のわずらわしさには何にも束縛されず、心より、くつろげ楽しめるものだった。
2010.12.19
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今日のスケジュール1.洗濯物を洗濯機にいれ2.ギフトをつつみ、郵便局へ3.帰宅して、1のものを、ドライアーにいれ、次のを洗濯機4.義妹の家にとどけもの。5.その帰り道、グレッグのために絵の具とか画材屋へ6.帰宅して3をとりだし、メークベット。次のをドライヤーにいれる。7.乾かしてる間に、息子の家に一泊するしたく。8.10分あるので、友達に手作りそぼろをとどける。9.ドライアーからとりだして、もうひとつのメークベット。10.娘が12時に我が家にきて、レストランにつれてってくれる。11.娘をまってる間に、これを書いたり、メールのせいり。12.帰宅したら、クリスマス・カードを作る。13.1時間昼ね。14.グレッグの夕食の支度15.サン・ディエゴの息子の家にいく。。。・・・・・・昔は、こんなもんじゃなかったけど、なんか、若い頃に後戻りしたみたいです。明日帰ってきます。。。。
2010.12.15
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あちこち、飛び回ってます。上の写真は、しょうこさんとイタリアン・レストランに行ったときのもの。(これは、日本食のファーストフードに行った時)メキシコに行く途中にある、どでかいパルムの木(メキシカンは事故のあったところに十字架をたてます)メキシコの中華料理レストランに招待されたこ
2010.12.14
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(カーメル近くのポイント・ロボ)「これ、車に入れとくと香りがいいですよ」私が帰る朝、可なり冷えていたので車のエンジンをかけていた時、片腕にタイタイを抱いて、片手で庭のセージをちぎりとって、ミクちゃんが私に差し出した。風情のある人だなあ、と、なぜか『源氏物語』を思い出した。ミクちゃんとタイタイに見送られ(だんなは出張で今回はあえなかった)そのセージの香りを楽しみながら、私は海沿いの、カリフォルニアでは一番古いハイウェイ・ワンを南に下ることにした。何度かこの道を通った事があるが、いつも北に向かう時で、右側通行のアメリカでは良く見えないので、帰りなら見えると思った。この日は、まるで神様が私のために道路を空けておいて下さったのではないか、と思うくらい100キロ近く続く絶景の道は、スカスカであった。都合よく、100メートルおきくらいに展望するへこんだ場所があるので、最初は、あちこちに止めて景色を眺めていたが、こんな事していたら、今夜中に帰宅できないと気づいて10回後からは、時々車をスローにして眺める程度にした。Big Surのあたりは、海の横でありながら森の中を走ってるような場所もあり、青く澄んだ海は「このまま吸い込まれたい」と息を飲む景色が沢山あり、フイと車ごと絶壁から飛び込みたくなるような、恐ろしい魔力と何度か闘っていた。私は窓を少し開けたままにして、海と森のマイナス・イオンを深く吸い込んだ。San Simeonにある、ハースト・キャッスルの前を通った時、母が最後にカリフォルニアにきたとき、サウサリト近辺に住んでいた母の姉の家まで車で行く途中、ここに連れて来たことを思い出した。「私、こんな人をボーイフレンドにほしいわ」と、ハースト・キャッスルのボランティアー案内人のご年配の人と一緒に写真をうつしたのがどこかにある。喘息で、階段を私とのろのろ上るのを見ていた案内人が「僕に捕まりなさい」と、腕をくの字にだして、にこやかに母をサポートしてくれたのだが、私はあの時の母の歳近くなっているんだなあと、時のたつ早さに舌をまいていた。人間は死ぬときに、やってしまったことを悔いるより、やらなかった事を悔いる方が多いと、ローズというおばあさんがいった話をブログに書いた事があるが、「いつか」「いつか」と延ばしていたら、その「いつか」は昨日になり、去年になり、結局はやらずじまいになると思うから、私は大抵のことを、思い立ったらすぐ実行にうつす。まだ記憶力も視力も、運動神経もしっかりしているうちに、この遠距離運転をやっておこうと決心、去年はカナダ往復5000キロ、今回はサンフランシスコ往復1400キロしたわけだが、恐らく車での遠距離運転一人旅も、ここの景色をみるのも最後であろうと本能的に思った。今回の旅も、人々との心の交わりを楽しむ旅、古今のつながりを懐かしむ旅、自分の心を豊かにする旅であった。「かわいい子には旅をさせろ」という諺は大人にだって当てはまる。誰も電話してくれない、誰も自分をさそってくれない、誰も来てくれない、といわず自分から電話をすればいい、自分から人を誘えばいい、そして自分から出向いていけばよいのだ。自分の幸せは自分で作るものである。いや~~!実に楽しい旅であった。★Big Surは、恐らく国立か、州立公園のひとつでしょうと思います。 ミクシィ・アルバムにもっと入ってます。★我が家のクリスマス・デコレーションをおわらせました。★しょうこさんと、イタリアン・レストランに行ってきました。★明日からグレッグと、メキシコに行ってきます。★帰宅そうそう、アナハイムという町でパーティーがあります。★来週の金曜日は、しょうこさんや、ほかのミュージシャンのコンサートに行きます。★今月は沢山の接待がまってます。皆様も年末でお忙しいようですね。それでは皆様お元気で。又の日まで・・・ごきげんよう。
2010.12.10
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「ヒロコさん、今夜は熱燗でいきましょうか?」とミッチャンが言った。「熱燗なんて、四、五十年ぶりだろうか!うん、それで行きましょう」と私。「いいねえ!」とミクちゃん。ミクちゃんのひざの上で坊やのタイタイがニコニコしている。この坊やは会ったときからずっとニコニコ笑顔で、レストランでも全く問題なしだった。二人には、去年の春カナダへの旅の途中あったので一年半ぶりの再会だった。ミッチャンがマネージャーをしているカーメルの『ろばた』という居酒屋は、雰囲気も日本の居酒屋風で居心地がとても良い。彼女は折角の休みだというのに、わざわざ私の為に職場まで出てきてくれた。「今夜は、客だからね」と、白人のウェイトレスに言いながら、ちょくちょく立って、お小皿をもってきたり他の従業員とジョーダン言ったりしてるが、彼女が経営者には信用され皆から好かれているのが良く分かる。私は、前向きのミッチャンが大好きである。何故か、神様は彼女を試すみたいにあれこれチャレンジを出すが、そのたびに「なにを~!」という勢いで立ち上ってくるのは夫婦の絆が強いこともバックアップになっていると思う。「ささ、一杯!」と徳利が目の前で斜めになる。「おっとっとっと!」とは言わなかったが、懐かしい日本酒の香りがぷぅ~ん!「再会を祝ってカンパーイ!」グビリ!そのとたんに私は頭のてっぺんから、足のつま先まで日本人になっていた。「いや~、お酒ってこんなに美味しいもんだったのか」はらわたに染み渡るというのは、こういう事なんだなと、しばしそのセンセーションを楽しもうと思ってるともう、みっちゃんが私のおちょこに次を注いでいる。「ここのベジタリアン餃子がおいしいんだよね」と、ミクちゃん。「ポークリブもおいしいよ。ヒロコさんは何がいい?」とミッチャン。「私は、お豆腐とか茄子の味噌焼きとか、単純なものが好き」最近では、私は、おちょこに二杯も飲めば、真っ赤になる。暫くすると、ずらりとお料理が並んだ。すると、食べ始めた手を止めて、「なんだか、胸がいたくなっちゃった」とミッチャンが言った。「え?どうしたの?」私は、てっきり手術後の痛みかとびっくりしたら・・・「今夜、休みだってのに、だんなのために夕食作ってやれなくてさ。私だけこんなにご馳走食べてかわいそう」と答えた。ミッチャンのやさしさが丸出しである。・・・が、私も同じなのでよくわかる。いつも友達と昼食すると必ずグレッグにも持ち帰るのだ。でも、私の場合はグレッグがかわいそう、というより、持ち帰ったほうが家に帰ってから作るより簡単だからで、ミッチャンよりずっと次元が低い。「持ち帰ったらいい」と、私。「うん、そのつもり。注文してくるね」と、ミッチャンは又、キッチンのほうに消えた。席にもどると、ミッチャンの携帯がなったので又席をはずした。「電話、彼からだった。ニュースで帰り道の途中で何かあったらしいから、気をつけて運転するようにって心配してた・・・」と言った。妻は夫を、夫は妻を思う・・・・・・なんとも素敵なカップルではないか!今回こそは、私がおごらせて貰うつもりで用意していたのに、またまたミッチャンに先を越されてしまって、大変申し訳ない。ほかのレストランでも良いのだが、私は、この町を良く知らないので、ついここに来てしまったのだが、いつか私の町に見えたら、私がお返しする番であり、もう今から「あそこ」に連れて行こう「ここ」に連れていこうと、いくつかの素敵なレストランを考えている。パティオでも、護摩の行事のように闇に光をあたえる火がぼんぼんと燃え上がり、まわりの、アウトドア・テーブルを照らしているが、さすが冬の夜は誰も座っていない。「ちょっと、これ見て。ここで寝てるんよ」と軒下にあるテーブルの上のバスケットを指した。覗くと、クッションの上に大きな猫が丸まって気持ちよさそうに寝ていた。この猫はショッピングセンターの野良猫なのだが、数年前からミッチャンになついてしまって、『ろばた』の入り口近辺にうろつくようになったもので、今ではミッチャンが作ってやったベットで寝ているわけである。招き猫ではないが、この猫見たさに訪れる客だっているかもしれない。ここにもミッチャンの「心」を見た。ミッチャンの本当の名前には「光」の字が入ってるのだが、このパティオで燃え上がる火の光のように、人々の心を暖め明かりをともしてくれる人である。「イヤ~、熱燗は本当に旨かった!またまた、ごちそうさま!」と、私は彼女の幸せを祈って、背中を摩りながら長いハグをしてさよならをした。
2010.12.09
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カーメル(Carmel)は、地図だとサンフランシスコを太平洋沿いにちょっと南下した所で、鳥ならあっという間に着く距離だが車だと2時間以上はかかる。クリント・イーストウッドが市長をやっていた事がある市だといえば、ご存知の方もいるだろう。海岸沿いだというと、どこに行っても海が見えそうな感じだが、ちょっと本道をそれると、どちらかと言うとぶどう園とか農家が多く、まだまだ自然が沢山残っていて行けども、行けども2レーンのジグザグの山道が続き、マウンテン・ライオンやコヨーテの出没警告が出るというのも頷ける静かな場所である。タイタイの家は、そういう子育てには理想的な場所にあった。子供は数ヶ月会わないと凄く変わってしまうので、タイタイが歩き出す前にあっておきたかったのも、この旅の目的の一つであった。タイタイは、何年も長いこと200%両親に望まれて授かった坊やで、今年やっと日本からコウノトリが運んできた。私は両親の苦労をしっているのでカーメルの家に着いたニュースを聞いた時には自分の孫のように嬉しかった。お母さんのミクちゃんが、「散らかった家ですが、どうぞ泊まってください」と言うので、お言葉に甘えて一泊してきたが、車の旅の時は必ず自分の寝袋、枕、タオル持参で床さえあれば充分なので、わりに簡単な客だと思ってる。待ちにまったタイタイ、初対面からニコニコ。顔を見合わせると笑い、「何かおかしいの?」というだけでケラケラ笑うし、猫の尻尾のようなおもちゃを蛇のように動かしただけで、体中震わせて笑い、「アップップ~!」などと、ほっぺたを膨らませると、シャックリが出るまで笑う。結局は寝るまで笑いっぱなしで、「笑い人形のエルモみたい」と、私が言ったくらいであった。遊んでいると、突然タイタイが力んだので、「ミクちゃ~ん、ウンチだよ、きっと」と知らせると、「やった~!」と、タイタイをすくい上げて、彼女は踊りだした。「ウンチ、ウンチ!ウンチがでたよ♪よかったね~♪」そう歌いながら、オムツを換えにほかの部屋に行った。このお母さんはタイタイが本や机をかじれば、「おいしいですか?」とか言うだけで、キィキィさけんでぱっと取り上げたりせず、触られたくないものをどける時にも、「あら、あら、不思議、どんどん手から遠くなる」とか言いながら手の届かない所にゆっくり動かす。このようにタイタイの両親は二人ともユーモアたっぷりで、のんびりした人達だから、タイタイが笑い続けるのも分かる。きっといつも家中に、歌声や笑いがあふれているのだろう。ベィビーの目は、汚れなき澄んだ目をしているが、タイタイはミルクを飲ませる間、私の顔を、じぃ~っとみつめ、「何かみえる?」と聞くと、にぃ~~っと笑う。「見て見て、ヒロコさんのことジィ~っと見つめて、まるで前世から知っている見たいな顔つき!」とミクちゃんが嫉妬顔で言ったほど、私の心を見透かすようにじぃ~っと見つめられたのだが、そのせつな、もしかしたら? 私が五ヶ月で亡くした子が戻ってきたんじゃないか?と思って愛しく思わずほっぺにキスをした。タイタイが「くぅ~~」っと言って、又笑った。「今日はたくさん笑ったから、きっと良くねるわ」と、私が言ったとおり、その夜は、二人ともぐっすり朝までねたらしい。帰宅したら、もう「タイタイ」からミクちゃんの字でカードが届いていた。「ヒロコさん、沢山笑いたいからまた、あってね!」今度会う時は、歩いていることだろう。私が歩けるうちに訪ねてきてほしい。★ミクシィには、ビデオをいれました。★コヨーテや、マウンテン・ライオン、ガラガラ蛇に気をつけてね!!池なんかもあるし。歩き出したら一時も目が離せなくなるからね!久しぶりで、存分あかちゃんを楽しめて楽しかったわ!キスキスキス!
2010.12.08
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「サン・フランシスコにいったら、サシミによろしく伝えてくれ」と、グレッグから言付かってきた。何度、彼女の名前がトシミだといっても覚えられず、ついにサシミになってしまったのだが、彼はめったに自分から人によろしく等と言わない人であるからこれはサシミ、いや、トシミさんのことが余程気に入った証拠である。そのトシミさんは、もう日本でも20冊以上の本を出版している作家だが、英語の本「Green Tea Living」を書くとき、「英語だと出だしが、どうも上手くいかないから、お知恵拝借」ということで、いとこと一緒に我が家に数日遊びに来て、三人で書き出しを考えたので私の名前も「はじめに」のところに出てくる。その本は英語のネット新聞でも「今週の本」に選ばれたり、エコロジーで名高いシエラ・クラブやら、スピリチュアル・クラブやら、ジャパンタイムズ等の推薦があったり、米国書籍インディー・ナショナル最優秀賞の最終候補にもあげられている・・・などと書くと知らない人はお金が、ガッポガッポと入ってくると思うだろうが、そうではない。売れっ子作家ならいざしらず、大抵の物書きは副業がなければ食べてはいけないのである。その副業先で、私のいとこと知り合い、やがては、私も彼女の友達となったのだから、人生は面白い。グレッグのような絵描きにしても、マイミクの写真家小池氏にしても、ニューヨークでジャズ・ピアニストをしてる春日宏美さんにしても、芸術家が食べるだけ稼ぐというのは並大抵なことではないのだ。私にしても、経済難の今はピアノ・レッスン等は贅沢なことなので、生計を切り詰める時は、第一にカットされてしまう。さらに、物書きに致命的なことに現代人は本を読まなくなって来てるので、新聞社も出版社も火の車で、アメリカでも次々とつぶれて行く。そういう分けで、トシミさんには、次のプロジェクトがあるのだが、日本の出版社に「もう、絶対に売れる!という題名をつけてください」といわれて悩んでいるらしい。そりゃそうだろう。そんな事いわれたら、テンションは上がるに決まってる。一目見て「おいしそう」な食べ物だと手が延びるように、「面白そう」と思わせるようなタイトルでないと人々は触ってもくれないからである。残念ながら、三人集まってもその日は、「あれだめ」「これだめ」で、もんじゅの知恵は、わかなかった。「すぐそばに、日本のレストランがあって、結構おいしいのよ、行かない?」と言う事になり、数日後再会して、なんともケバケバしい富士山の看板の店で昼食をした。ランチ二品コンビを注文し、サバの塩焼きなど、何十年ぶりかで食べたのだが、油がのりきっていて、とてもおいしかった。そこから、今度は喫茶店に移って、又あれこれ本のタイトルを考えたが、結局はトシミさんの息子さんの結婚の話やら、ヘリコプターの話で持ちきり、「絶対に売れそうなタイトル」は浮かんでこなかった。締め切りもあることだろうし・・・・作家業(芸術家)は大変なのである。★クリスマスにいかがですか? お断りしておきますが、下のどなたからも宣伝を頼まれてるわけではありません。気まぐれです・・・・トシミさんの本のサイト・本が買えますhttp://greentealiving.com/Home_Page.php小池さんのサイト・写真集が買えますhttp://www.usa-japan.com/nature/春日さんのサイト・CDが買えますhttp://www.hiromikasuga.com/
2010.12.07
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私は今年の6月に、文京学院大学で「プラス思考の導き」という講演をした。自分の日本語の至りなさから、つい子供でもわかる様な説明の仕方になるが、それだから、かえって誰にでも通じて良いのかも知れない。一時間の講演内容を、一分で説明すると「夢を叶えるのには」1.考える (夢、希望、ゴール)2.気付く(アンテナを張っておく) 3.タイミングよく行動に移す (行動力、勇気を要す)4.実現 の過程を通るのがまず普通である。私が始めてロレナにあったのは、まだクロアチアがユーゴスラビアの一部だった時で彼女はティーンエージャーだった。私は人生で20人くらいの短期、長期留学生のホースト・マザーになったが、一年わが娘となったユーゴスラビアのジュリーが帰国した翌年に彼女やその家族に会いにクロアチアに行った時にロレナにもあった。私が着いた週に、三人の誕生日があったらしく、私の歓迎会を兼ねた大きな誕生日会をすることになり、親族が全員あつまったから、ジュリーの従妹であったロレナもいたわけである。ロレナは、朗らかで、常に笑顔を絶やさず、習い始めたばかりのブロークンの英語で私と話したがった。「私の夢は、アメリカに住む事!」と言ったのだが、すぐに誰かに、無理だねと笑われていた。ロレナはキッっと振り向いて「絶対に叶えるんだから!」と言ったが、当時の(今でも)貧乏国では夢のような話だったのである。しかし、私自身が出た頃の昭和30年代の日本はは、ユーゴスラビアの貧乏さどころではなく、田舎などは水道さえなかったし、都会でもお湯など出なかった。トイレに至っては今の子だったら怖がるような穴だったから、それを説明し、「私がかなえたのだからね、あなたも出来るわよ」と、答えたら、「もう分かってる。見えてる。そしてお金持ちになって世界中を旅行するの」とニコニコして確信していた。(この確信、想像が実は、気づきを引き寄せるザ・シークレットなのである)そして、ロレナの人生の旅が始まり、大学にも行かず、すぐ美容師になって貯金をし、客船の従業員になり海外に出た。そして常に英語の勉強を怠らず後にロンドンでも美容師やファッション・モデルでお金を貯め、ついにアメリカにツーリスト・ビサでやってきた。当時はアメリカに保障してくれる身寄りがいないとビザが出なかったので、同じ町出身のジオバンニに、保障人になってもらったようである。やがて、二人は結婚し彼女も市民権をとり、ロレナは今パートで大学にも通っているから、大学に行く夢も叶えている。ジオバンニは、アメリカの市民権をとりコンピューター関係の大仕事で世界中を駆け巡る人であり、6ヶ国語を流暢にはなす。シリコンバレ―を見下ろす、すばらしい眺めの高級マンションに住み彼女も、時々一緒にあちこち旅をしている訳で、ロレナがあの時、目を輝かせて私に話した夢は全部叶っているわけだ。これには、予期しなかった落ちがあった。「私の夢を叶えたの、誰だか知ってる?」と、ロレナが聞いた。「さあ?」と、答えると、「ほら、ヒロコの家に遊びに行ったとき、私がどうしてもアメリカに永住したいけど無理ねっていったら、ヒロコが、そんなの簡単じゃない。どうせジオバンニと一緒に住んでるんだから、結婚すればいいじゃない!って言ったのよ。わっはっは!」と、今では流暢になった英語で言ったが、そういえば、そんな事言ったのをウスウス思い出した。二人の会話や雰囲気から、好意以上のものを感じとったのと、ジオバンニは、自分はもう年取っていてもてない男、まさかこんなに若くて美人が嫁になってくれるとは思わなかったらしいから、二人ともびっくりした顔をしていたのを思い出した。事実は小説なりも奇なりで、今ではルカという利口でかわいい息子の両親となって素敵な家族となり、幸せそうに暮らしている。夢は、叶うのである。★この夜、二人でリゾットとサラダ、ワインのディナーを作ってくれました。ジアンニ(ジオバンニの愛称)は料理が大好きだそうで、まめに台所仕事をしてました。シリコンバレーは世界中の優秀なハイテク・エンジニアが住んでいて、このビルには日本の大学教授一家も住んでいるらしく、ルカはその子供とあそぶので、日本語で「コンニチワ」とか「サヨナラ」とかいってましたよ。
2010.12.06
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太平洋戦争中、男手のない時代にうまれ母が父親代わりだった為、私は祖母に育てられたようなものだが、彼女の教訓のひとつに、「武士は一歩家を出たら、それが最後になるやもしれませんから、さようならを決して雑に言ってはいけません」というものがある。現代の方々なら笑うだろうが、明治生まれの祖母や父は、結構まだ武士道や道徳などを重んじていた。実はサンフランシスコに行ったのも、ミホコさんが元気な内にその記憶をしっかり心にとどめておき、きちんと「さよなら」を言っておきたかったからで、今回無事に目的を果たして満足してる。そして現金なようだが、次の若い世代の方々との交際を保つ事も私にとっては大事なことなので若いブログ仲間とも再会してきた。つまり「さようなら」「こんにちは」というわけである。調子の良い人ね、と言うべからず。Life goes on! (生の継続)がエネルギーの動きなのであり次の世代へのバトンタッチはお互いにメリットがあるはずである。エッチャンは、もうじき大学に行く娘さんの親であるが、最初から勝手に私の事を「ヒロコお母さん」とよんでいて、私もそれに答えている。バークレー近辺に住んでいて自家菜園を持ち、時々、プラム・ワインやら、プラム・ジャムなどを送ってくれる。今回は、自家製食べられるラー油とか立派な大根の葉っぱとかレタスなどどっさり持ってきてくれたが、野菜類はいとこの冷蔵庫に忘れてきた。何年か前に叔母に会いに行ったついでに、サウサリトの海辺のまん前のレストランで一緒に食事をしたり、ウィンドウショッピングをしたことがあり、その時いただいた自家製梅酒は、飛行機の手荷物に入れられぬ為そのままおいてきたので、今回それは持ち帰った。再会となると、気心もしれていて今回はもっと楽しかった。私はいとこの家のそばにある、人口湖の水際にある中華料理屋が好きで、何度も来てる。彼女と同じ出身地のお友達が私のいとこのそばに住んでいるというので、「じゃ、彼女もつれていらっしゃいよ。飲茶は大勢のほうが種類が沢山食べられて楽しいから」という事で、シュウコさんもやってきた。彼女は私の娘よりずっと若いが、娘よりずっとしっかりしている。彼女が今かかえている問題は、他の三人は体験済みの事なので色々とアドバイスを受けていた。「なんか、水の動きが早くて、まるで船に乗ってるようですね」と、美人の二人がびっくりしていたが、風の吹き具合で本当に船が動いてるような錯覚を起こすから、船酔いする人は窓際でないほうが良い。家に帰ってから、「彼女は、目も大きいし、体も大きいし(背が高い事)、声も大きいし、ジェスチャーも大きいし、全て大きいわねえ」と、いとこが笑ったが、エッチャンは、朗らか、インテリ、話も豊富で一緒にいて楽しくなる人である。兎に角、四人でしゃべりまくり、食いまくり、なんだかんだと十種類以上のバラエティーをとって、最後の最後まで食べつくし、私はズボンのボタンをコッソリ外したほどである。それにしても、若いエネルギーが飛び交う中にいるのは実に気分が良い。そのエネルギーを存分吸収し充電した感がある。帰り際には、ぎゅぅ~っとハグして、さらにエネルギーの交換をし、悔いのないように、きちんと「さよなら」をしてきた。
2010.12.06
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サンフランシスコに行くといっても、私のように何度も何度も行った事のある人は名所めぐりなどしない。目的はあくまでも人に会うことにある。しかし、46年もアメリカに住んでいると年々知ってる人が亡くなって行くのが寂しいことも確かである。この地域に住んでいた叔母、その二度目の夫、その両親、おじさん夫婦とその息子、最後の夫などもう全員この世にいないから、その内にはサン・フランシスコに行く理由もなくなってくるだろう、と思ったこともあるが、幸いブログの発見で若い世代とお友達になれるのでとっても嬉しいし、再訪の理由が出来てきた。可なり前に、いとこから紹介され行くたびにあう友達が数人いて、その中に前にも書いたことがあるミホコさんという人がいる。音大の声楽部卒で、ヨーロッパや日本でもオペラ歌手の元で正式に練習をした人だが、ついに舞台にはたたずじまいだった。一年半ぶりであった彼女は可なりやせていたが相変わらず、きちんと着こなし上品であった。今年で81歳になり最近何十年も住み慣れた家を売ってフル・ケアー・ホームに入った。素敵なホテルのようなインテリアで、建物のデザインは四角くなっており館内は、JR山手線のようにぐるぐる回ってるので、もし迷子になっても必ず戻ってくるようになっている。真ん中が中庭だからかどこでも明るい。普通の1DLKとかいうもので、おおきな寝室やバスルーム、リビングがあり、あちこちに非常ベルが装置してあって、呼べば24時間誰かが来てくれるそうだ。「私、かなりボケてきちゃって・・・もう、こうなったらおしまいね」といったが、自分でそういう間は、まだたいしたことはない。「お友達できた?」と、私は聞いた。「もう回りはボケばっかりだから、殆ど自分の部屋で日本のテレビをみているわ」という事だったが、そんなことしていたら本当にボケてしまうだろう。一月の費用が60万円以上だというから、私なら人を数人雇ってでも、勝手知ったる自宅にいただろう。私は、義両親を最後まで面倒みたからその方が家族や友達も訪れやすいし、当人たちも混乱が少ないのを知っている。彼女は直腸がんのサバイバーであり、大手術後10年近くなる。子供がいないので、病気になったりして動けなくなった場合には、フル・サービスの場所は便利なのだろうが、こういう時に、日本にもアメリカにも家族がいないのは寂しいだろうと思う。それに、この年になると友達も運転できなくなっていたり亡くなっているのである。だから、日ごろから若い友達との交際を作っておくのは良い事だと思う。彼女が十年若かったなら、ロスの小東京あたりにある、日本人専門のマンションに住むように勧めたかもしれないと思うが、もう無理であるから余計な事は言わなかった。それでもミホコさんは英語が流暢だから、救われるが、老後を外国で暮らそうと思っている方々は、こうなったらどうする、ああなったらどうする・・・・という対策をたてておくことが大事であろう。(続く)★マイミクのともこさんのピアニストの娘さんがイタリアから来日コンサートチケット、まだ少し残ってるそうですので、東京近辺の方はお早めにどうぞ。詳細は、こちらで。。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1622015884&owner_id=8495572&org_id=1628609314
2010.12.04
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★ただいま!(この写真は湖の端で、実際にはかなり大きなものです)メディテーションというと、何かえらいお坊さんだけができる難しい事のように思う人がいるが、そうではない。簡単に言えば反省であったり、質問があるときの解決法であったり、ものの気づきだったり、心を落ち着けるストレス解消方の一つであったりする。又座禅をしなければならない、ということもなく、一般人でも雑念を追い払って頭を空にする事は練習しだいで出来るようになる。悟りは空の頭に期せずして侵入してくる「閃き」なのだが、私の場合それは一人になることから始まる。私には悩みもストレスも余りないが、会いたい人がいると、あちらが来るのを待たずに会いに行く。無論、経済的に無理な場合はメールや電話で我慢することになるが相手が遠い場合は、それが一人旅になるのである。車の場合は誰にも邪魔されない自分だけのスペースがあるので特に長距離運転をしている時は頭を空にしている自分に気づく。今回の全走行距離は約1400キロであった。従って無我の境地にいた時間も長かった。その空になった頭に何がはいって来たかというと、とくに亡くなった人々との会話であった。フリーウェイ5号線をオレンジカウンティーから北上すると、101号線とをつなげる152号線がある。そこを西に向かって入ったあたりから実母の姉にあたる叔母と会話をしていた。従兄が「マミー」と呼んでいたので、赤ん坊だった私も叔母をずっとマミーと呼んでいたのだが、この人は学習院を中退してなさぬ恋のため中国まで駆け落ちをし「許すから帰国せよ」の電報で日本に帰国、生まれたばかりの赤ん坊を私の祖母と母にたくして夫婦でモダン・バレーの勉強にドイツに留学した。あいにく一年後には太平洋戦争の為に強制的に帰国させられ、東京の家を焼け出されてからは転々と住居を変え、その後、離婚、再婚を繰り返し、アメリカ、マルタ島、アメリカと四度の再婚という劇的な生涯をすごした人である。5,6年前にマリン・カウンティー(ゴールデン・ゲートを越えた北側の町)で亡くなった。その叔母が日本から来て初めて住んだ町のあたりを車で通過していたときだった。「ここよ!」という叔母の声に、ふと見ると目の前に青々とした大きな人口湖がひろがっていた。いつもは褐色の丘が、珍しく続いた雨のおかげで緑色になっていた。その湖で叔母が泳いだ話を思い出したのだった。叔母も母も遠泳が得意であったからスイスイと見えなくなるまで泳いだらしい。慌てたのはアメリカの家族達、まさか大正生まれの小さな日本女性が見えなくなるほど遠くまで泳ぐとは考えもしなかったそうで、沖で手を振る叔母が助けを求めてると思って、誰かのスピードボートを借りてレスキューに来たというエピソードである。その思い出話から関連して母の事、祖母の事、はては私がこの国に来た当事の事と、徐々に広がってゆき、行き着いたところは、この世の繋がりであり、それが全ての物事にかんする『感謝』に繋がっていった。私が今、とても楽な車でこの旅に出る事が出来るのも、「楽しんでおいで」と言ってくれるグレッグがいるからであり、そのグレッグにめぐりあえたのも、前夫と離婚したからであるから、前夫にも感謝をしている私がいた。ガソリンが買えるのも、好きなレストランで食事できるのもピアノの生徒がいるからであり、少ない出費で旅が出来るのも泊めてくれる友達がいるからであり、話したくなれば携帯で誰とでも繋がる便利さにも感謝の気持ちがわいてくる。さらに英会話にこまらないのは自分自身の努力であり、そういう気力を与えてくれた親や祖母、何かにつけ助けてくれた義両親・・・などなどと考えていく内に、この世のつながりに感謝をせざるを得なくなる。そうなると、草花も、遠くに見える農家の家畜も道路信号も、果てはゴミ箱までに感謝したくなってくるから不思議である。休憩場で車を停めて、お弁当を食べてる時に、窓ガラスをたたく男がいて、「ガソリン代をめぐんでください」と言ったのだが、「グッド・ラック!」とすんなり一ドル札を手渡したのも、その関連性を悟り、その男の身になって考えることが出来たからであろう。その金で、その男が本当にガソリンを買うかどうかは、私の知るところではない。それより、私がその男にめぐんであげられる、という事に感謝をしたのである。このように私の旅は人生を学ぶための一こまだと思った。(続く)
2010.12.03
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