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戦前は子供のしつけや教育は、親が全責任を負っていたわけではなかった。親は生きていくことに精一杯で、子供に手をかけてやりたくても、実際問題困難であった。どこの家も二世帯、三世帯の大家族が普通であり、家族全体で子育てにあたっていた。特に祖父、祖母、曽祖父、曽祖母が子育てに積極的に関与していた。また隣近所の共同体が子供のしつけや教育面に口を挟むといったことが当たり前の社会であった。さらに学校では社会のしきたりやルールについて、厳しく指導していた。親だけが子供のしつけや教育を担っていただけではなく、社会全体として取り組んでいた。そこでは、我が子のことなのに他人が口を挟み、煩わしい面があったが、独りよがりの誤った子育てはある程度回避することができた。ここが重要な点です。現代社会では、子どものしつけや教育に対して、それらの影響力は見る影もなくなった。そういうしがらみはほとんど取り払われた。これは喜ぶべきことなのか。その代り、子育ての責任はすべて親が担うことになったのである。大変な責任を親だけが引き受けることになったのだ。これは戦後急速に日本中に拡がっていった。親が自由に子育てに取り組めるような時代が到来したのである。一見素晴らしい社会が実現したかのように思えたが、実際には多くの問題が噴出してきた。子育ては、自分の人生の中では決してやり直しがきかないものである。失敗したと後悔してもどうしようもない。だから試行錯誤の連続となる。知識もない、経験もない、相談する人もいない、協力してくれる人もいない中での、ぶっつけ本番を余儀なくされているのである。そんな状態でまともな子育てができるだろうか。できたとしても多くの時間と労力を子育てにつぎ込まなくてはならなくなる。夫婦共稼ぎでないと、生活が成り立たない現状ではとても無謀な挑戦のように思える。未婚や子供を産まないで一生を終える人も増加してきている。子どもを生んでも、価値観が多様化して、自分の思いこみと先入観で、方向性のない、その場限りのしつけや子育てが横行しているのが現状である。親が自分たちの快楽をとことんまで追い求めて、子どもへの虐待、放任や無関心などによる悲惨な事件は毎日のようにマスコミ報道されている。また母子密着ともいえる過保護に陥っている家庭もある。反対に「かくあるべし」を一方的に子供に押し付ける過干渉の親もいる。他人に依存し、いつまでも自立した生活ができない。他人の思惑ばかりに振り回されて、生きることが困難で、精神的に不安定な子供を作り上げている。かわいそうな子供たちが大量生産されている。これらの問題に対して、まず親は子育てについては「無知」だという自覚が必要だと思う。まずはそこが出発点だ。次にしつけや子育てについては、仲間が集まって学習することが大切であると思う。一人では学習すると、横道にそれてしまうので要注意である。そこには母親だけではなく父親も参加することが必要であると考える。いくら仕事や趣味などが忙しいといっても、子どもを持った親の最低限の責任であると思う。せめて1か月に半日程度はそういう場に参加して、みんなで助けあいながら学習していくことだ。本当は国がそういう学習の場を推進していくべきなのかもしれない。問題が起こってから、対症療法を考えていたのでは、これからもどんどんと問題が増えていくだろうと思う。その際、モンテッソーリの教育に対する考え方、親業、平井信義氏の著作、そして森田理論の学習が大いに参考になるだろうと思う。子どもは放任、無関心、過保護、過干渉ではまともに育つことは決してない。子育ては親の務めであるという自覚を持つことが国をあげて取り組むべき課題であると考える。
2020.01.31
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「逆転人生」というテレビ番組を見た。女性の人で100キロ以上の人がコンプレックスについて語っていた。ダイエットには何回も取り組んだが、リバウンドでやせるどころか益々太ってしまう。でもその人は、コンプレックスを乗り越えて、今はコンプレックスで結婚をあきらめている人たちを相手にしてカウンセリングの仕事をされている。さらに自分の体験を講演して全国を回っておられる。体重はあまり変わっていないようであったが、現在は結婚もされている。その結婚相手から、「あなたの脳が好きだ」と言われたのが、結婚に踏み切る動機となったそうだ。つまり相手は太った体型のことよりも、あなたの前向きな姿勢というか、考え方が気に入っている。そういう人だったらぜひ結婚したいという意思表明だったのだろうと思う。その方は、それまでは結婚はあきらめていたそうだ。そう言われたときに何かが変わったといわれていた。それは多分どうにもならないコンプレックスに振り回されることから解放された瞬間だったのではないだろうか。考えてみればコンプレックスのない人なんていない。でもコンプレックスで悩み苦しんでいる人は星の数ほどいる。それが自分の一生を左右しているとしたら何ともやりきれない。自分の弱みや欠点があると思うなら、強みや長所もきっとあるはずだ。この世の中の現象や仕組みはそのバランスで成り立っているのだ。バランスが崩れるとその存在は跡形もなく崩れてしまう。今現在コンプレックスで悩み苦しんでいる人は、自分に元々備わっている強みや長所を再認識しなければいけない。そして自分に元々備わっている強みや長所で勝負をかけなければいけない。今はやり方が間違っているのだ。もし神経質性格の人がいるならば、その性格こそが長所ではないのか。感性が強くて鋭い。強い生の欲望を持っている。粘り強い。責任感が強い。緻密である。まじめである。洞察力がある。・・・・。コンプレックスで悩む前に、この強みを生活、仕事、勉強にどう活かしていけばよいのか考えてみよう。そちらに自分の持っているエネルギーを投入していると、コンプレックスのことはすっかり忘れていたという時間が増えてくるに違いない。性格以外にも、容姿、体格、健康、能力、特技などで強みや長所を持っている人もいるだろう。そこにこそ光をあてて育むことだ。弱みや欠点はつらいかもしれないが放っておくことだ。発想の転換が起きない限り、いつまでも苦しくてつらい人生は続いていく。
2020.01.30
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アドラー心理学の中に目的論というものがあります。人間は目的を達成するために行動しているのだという考え方です。例えば、対人関係では、自分の存在を認めてほしい。受け入れてほしい。仲間として扱ってほしい。自分の気持ちや考え方を分かってほしい。自分のやっていることを評価してほしい。これらはほとんどの人にある欲望です。アドラーは人間はそういう目的を持って行動する生き物だといっているのです。その目的に沿って、目標を小刻みに設定して、努力精進していけば素晴らしい人生になります。ところが努力を怠ると、実際には目標を達成できなくなります。まず、目的が努力目標から「かくあるべし」に変わってしまいます。すると、目的が自己否定するための道具に変わってしまいます。目的のなかった時の方が精神的に楽に生きていけたというパラドックスに陥ってしまいます。つぎに努力のいかんにかかわらず、周囲の人からの反応は厳しいものがあります。自分の存在や人格を否定される。自分の気持ちや意見を無視される。これからやろうとしていることやったことに対して非難される。抑圧、否定、拒否、脅迫、無視、からかいなどのオンパレードです。現実が目的からそれてしまったとき、とっさにとってしまう行動の中に次のようなものがあります。周りの人に対して、不適切行為、迷惑行為、問題行動をとってしまうことです。反発する。感情を爆発させる。怒りや腹だたしさを表面化させる。暴力や暴言をはく。いじける。無視する。逃げまくる。後先考えない、気分本位の行動です。これらは無視、否定され続けた自分に注意を向けてもらうという、初期目的は果たせています。ただそれ以上のものではありません。つまり本来の目的からは外れています。むしろ本来の目的からはどんどん離れてしまっているのです。こうした反発は、相手にとって、肉体的、精神的に危険を感じる行為となります。相手はすぐに、反撃に打って出ます。売られた喧嘩を買っていると、人間関係は悪化するばかりです。ここで大切なことは、本来の目的から目を離さないことです。不適切行為、迷惑行為、問題行動の選択は本来の目的を見失い、手段の自己目的化が起きているのです。自分の本来の目的は、自分の存在を認めてほしい。自分のことを仲間として受け入れてほしい。自分の行動を評価してほしいということです。そのための具体的な目標を設定して、努力していくことです。一時的な対人関係の不快感にとらわれて、格闘することは本来の目的から大きくそれてしまうことを忘れてはなりません。これは森田理論で学習した部分です。人間には欲望があるから不安が出てくる。欲望が大きければ不安も大きくなる。不安は欲望の暴走を制御してくれている。その不安にことさら焦点をあてて悪戦苦闘することは、地獄の苦しみをもたらす。欲望の達成を忘れないように心がけて生活することを最優先する。相手から不適切行為、迷惑行為、問題行動を受けた場合は、すぐに反撃を加えて反発することも考えものです。アドラーの言うように、そのような行動は目先の目的だけではなく、無意識の領域にかかわる本来の目的が隠れていると考えてみることが重要です。例えば、弟や妹が生まれた子供が不適切行為、迷惑行為、問題行動を繰り返すことがあります。今まで自分一人がかわいがられていたのに、その状況の変化に対する自然な反発です。その不適切行為を叱責、禁止するだけでは、なかなか収まりきれません。かえってエスカレートしてしまいます。成長するにしたがって益々過激になってしまいます。こんな時に相手の本来の無意識の目的は何かと考えてみることで、相手に対する対応は全く違ったものになります。いじめやあおり行為なども現象面だけを見て批判するのではなく、目的論から考えることで、事態打開の道が開けてくるのではないでしょうか。
2020.01.29
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2015年にアメリカ・フロリダ州立大学のアダム・ハンリー博士が非常に興味深い研究発表を行いました。みんなが嫌うはずの「皿洗い」に、著しいストレス解消効果があることが分かったというのです。だだし、気持ちを集中させ、フロー状態になってやるのがポイントです。不承不承ではダメなのです。博士は、51人のグループを2つに分け、一方のグループには「皿洗いの手順だけを書いた手順書」を、もう一方のグループには「気持ちを込めて皿洗いをするための指導書」をそれぞれ読ませてから皿洗いをさせました。後者が読んだ指導書にはこんな内容のことが書いてありました。「皿洗いなんてつまらないと思わず、自分が皿洗いをしていることをしっかり意識し続けること。立って皿を洗う自分は素晴らしい。自分の呼吸、存在、行動を感じよう。すると、自分がふわふわと周囲に流されている存在ではないと思えるはずだ」そして、皿洗いの前後の気分の変化を測定すると、後者にのみ「いらだち」の感情が軽減する効果が見られたというのです。このことから博士は、皿洗いなどの単純作業でも、はっきりした目的意識を持って臨めば精神的にいい効果があり、幸福感や満足感が得られることがわかったと報告しています。(自律神経が整えば休まなくても絶好調 小林弘幸 ベスト新書 131ページより引用)これは最初はイヤイヤ始めたことでも、そのうち少しだけ「ものそのもの」になって取り組むと、気づきや発見、興味や関心が生まれて、弾みがついてくることだと思います。そうなれば、創意工夫も生まれてきやすくなります。この時点でイヤイヤ取り組むという気分から解放されて、楽しみ、課題、目標も芽生えてきて俄然やる気が芽生えてきます。人間は対象に働きかけて、自分の考えたことに近づていきたいという宿命を持った生き物です。その線に沿って一心不乱に行動している状態が、努力即幸福ということになるのです。不安から解放されて自信が生まれ、生きている自分を認めることができるようになります。「ものそのもになりきる」という投稿記事では、2013年1月27日の記事も合わせてご覧ください。集談会の仲間が庭の雑草取りに応用した実例です。私はこの話題になるといつもこの話を思いだします。そしていつも勇気をもらっています。
2020.01.28
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今日は「絶対」という言葉について考えてみたい。上司の命令は絶対である。絶対にそんなことはするな。絶対ミスや失敗をするな。絶対に勝つ。絶対に成功させる。絶対に彼氏、彼女と結婚する。絶対服従。絶対安静。これらの言葉は挑戦的に見える。なんかしんどい感じがします。自分の行動を自ら金縛り状態にさせている。相手の気持ちはお構いなしで、無条件で、100%の結果を求めている。目標達成至上主義の臭いがぷんぷんしてくる。無理やり自分や他人を「かくあるべし」の世界に追い込んでしまっている。「かくあるべし」の気持ちがあると、注意は目の前の物事に集中できなくなります。「もしミスや失敗をしたらどうしよう」という気持ちとも格闘しなければならなくなります。「うまくやりたい。成功させたい」という気持ちとの葛藤が生まれる。その混乱した状態が、浮ついた行動となって、ミスや失敗をおびき寄せてしまう。それとは反対に、思いつく限りの準備をした。十分な練習を積み重ねてきた。普段の練習の通りのことが出せれば十分だ。あとの結果がどうなるかは、神のみぞ知ることだ。自分には予測不可能だ。自分ができることは、運を天に任せて、思い切ってやるだけだ。失敗しても命まで取られるわけではないのだから思い切ってやるだけだ。そのほうがよい結果を生みやすいことは、誰でも分かります。「絶対に」という言葉を連発する人は、要注意人物だ。気を付けたほうがよい。テレビショッピングは絶対にお買い得です。絶対に役に立ちます。今回限りの企画です。オペレーターを増員してお待ちしてます。裏を返せば、暗に買わない人は損をしていることを吹聴しています。絶対に買いなさいと強迫している感じです。実は買ってもらわないと、多額の広告宣伝費を使い販売している私どもが困るのです。他人がこのような言葉を使うときは、詐欺的な商売をしている可能性が高い。あるいは自分の分析に、妄想的な過大な思い込みがある。さらに過大な思い入れがあって、ついこのような言葉を発しているのです。事実は逆になるケースが多い。その時は素晴らしいと思ったが、よく考えると不要なものだった。自分の考えていたものとは、性能も使い勝手もいまいちだった。この世は常に変化流動しているものであり、絶対的で固定しているものは何もない。確信の持てるものは何もない。宇宙の営みからしてそうです。絶対的というのは、変化するものを人為の力でむりやり固定してしまおうというやり方なのです。そのやり方は無理があります。必ず反動が起きるとみるべきです。「絶対」「絶対的」という言葉の対語は、「相対」「相対的」という言葉です。「相対」というのは、この世のものは、他のものとのつりあいで成り立っているということです。だから単独で絶対的なものは何一つないということです。相手や状況が変化すると、相対的に自分も変化流動しないと存在することすら危くなってきます。
2020.01.27
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弁護士の谷原誠さんは、会社が倒産したときの処理の仕事もされています。その過程で社長さんが自殺してしまったことがあるそうです。中小企業の社長さんは、自分で立ち上げた会社は自分の分身だと思っています。自分の人生そのものです。その会社が倒産するということは、人生も倒産するということです。莫大な借金を抱え、負債を処理して、家族を守って生きていくことは大変なことです。「解決できっこない」という気持ちになるのも無理のないところでしょう。そして、生命保険に家族の人生を託し、自ら命を絶ってしまったのです。その一方で、何億もの借金を背負いながら、その後必死に頑張って借金を返済して、不死鳥のように蘇る人もいます。またやむなく倒産して、転職する人もいます。さらに家族で力を合わせて一生懸命生き抜いている人もいます。自殺してしまった社長さんと復活を遂げた社長さんの違いは何でしょう。谷原さんは、それは自分への質問の違いだと言われています。自殺をしてしまった社長さんは、「なんで俺がこんな目に遭わなければならないんだ。これだけ負債を負ってしまったらもうどうしようもない。家族ももうおしまいだ」などとネガティブに考えています。負債の問題を解決できない前提で、家族を守るために自分の命と引き換えに生命保険金を家族に残す道を選びとりました。復活を遂げた社長さんは、「この負債を返済するには、どういう方法があるか。いつまでにいくらずつ返済していけばよいのか。誰に相談すれば解決策のヒントをくれるのか」とポジティブに考えたのです。問題が解決できる前提で、ではどうすればよいのかと自分に質問したのでしょう。この発想力というか、自分に対する質問がその後の明暗を分けたのです。シェイクスピアは、「この世の中には幸も不幸もない。考え方次第でどうにもなるのだ」と言っています。(人を動かす質問力 谷原誠 角川新書 211ページより要旨引用)この指摘は森田理論を学習している我々にはとてもよくわかります。雲の上に居座って、現実を目の敵にして、批判、否定、軽蔑、悲観していては、事態はどんどん悪化して、最後には悲惨な状態をみずから招いてしまいます。我々でいえば神経症に陥り、生活が悪循環を始めます。一方、どんなに困難な状況に追い込まれても、その事実をすべて受け入れことができた人は、それ以上悪くはなりません。そこが波の底です。そこから波は上昇していくのです。そこを出発点としてとらえることができるかどうかが問題となります。現状や現実を受けいれると、そこから何らかの打開策を見つけて、行動を開始できるのです。後悔、自己嫌悪、自己否定する時間的な余裕は全くありません。今できること、今からやるべきことに注意や意識が向けられているのです。絶体絶命の立場に立たされているので、一旦弾みがつくと、状況はたちまち好転することがあるのだと思います。「かくあるべし」の立場から、「事実受容、事実容認」の立場に転換できた人は、その後素晴らしい人生が両手を広げて待っています。この考え方、物の見方を身に着けましょうというのが森田理論学習の眼目なのです。
2020.01.26
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北海道の旭山動物園は1996年度の入場者数が、それまでの40万人~50万人台から、26万人へと減少した。その時は動物園の廃止論も出たそうだ。ところがその後徐々に増え始めて、2018年度は130万人となっている。約4倍強に増えたのである。手をこまねいているだけならこんなことはあり得ない。26万から100万人への増加は9年で成し遂げ、一時は300万人を突破する年もあった。ちなみに300万人というと東京の上野動物園とほぼ同数となる。とくに注目に値するのが冬季の来場者数である。普通極寒で吹雪の北海道観光客を誘致することは考えにくい。よっぽどのマニアしか誘致できない。そんなところに行くより、沖縄、グァム、バリ島、ハワイなどの温かいところを希望する人は多い。ところが現在、冬季の旭山動物園には30万人から80万人の人が訪れている。ちなみに1967年から1998年までは冬季の来場者数は0であった。ここが大きく変化している。これはマイナス要因をプラスに変える逆転の発想がないと難しい。この動物園に行ってみたいという気持ちにさせているものは何か。旭山動物園は北海道旭川市にある。上野動物園などと比べると交通の便がとても悪い。旭川空港から旭川市まで35分で、旭川市から動物園まで30分から40分です。さらに札幌市から行くとゆうに2時間以上はかかる。札幌から行くよりも空港からのアクセスが若干よいという。アクセスも悪いが、交通費や宿泊費が追い打ちをかける。その上日本一寒い場所にある動物園だと言われている。それらのマイナス要因を払しょくして、V字回復を成し遂げたというのが痛快である。その裏には1995年に小菅園長が就任されたことが大きい。それまでアトラクションの充実に力を入れていたのをきっぱりと改めた。展示動物をどんどん増やして施設を充実させた。現在約15万平方メートルの敷地に100種類以上、約800頭の動物が暮らしているという。動物たちの自然な行動を見せる「行動展示」を取り入れてから一気に流れが変わった。寒いという立地条件の悪さは、「寒い環境に適応する動物にとっては最適な地である」と発想の転換をした。ペンギン、北極グマ、アザラシ、オオカミ、エゾシカ、丹頂、北極キツネなどは寒くなればなるほど元気に動きまわる動物である。そうした動物たちの自然の行動が間近で観察できる動物園としてよみがえったのである。日本では唯一といっても過言ではない。誰もが考える過酷な自然条件を逆手に取って、それの持つ強みを自覚して、行動に移した成果が出たのである。この事例は私たちに勇気を与える。私たち神経質者は、自分の性格の弱点は放っておいて、その裏側に潜んでいる強みを自覚しないといけない。いわゆる発想の転換を図るのだ。自分の持っている強みに磨きをかけて充実した人生を歩んでいきたいものである。これは神経質の性格特徴を学習すれば分かる。あとはプラス面をどう生活の中に活かしていくかの問題になる。
2020.01.25
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「ケンタッキー・フライド・チキン」のカーネル・サンダース氏は元々レストランのオーナーでした。25年間にわたってレストランを経営していました。65歳の時、レストランのある国道から少し離れた場所に、新しいハイウェイができ客が激減しました。そしてついに倒産しました。そのレストランは競売にかけられ、店を失いました。それどころかすべての財産を失い破産寸前にまで追い詰められました。絶体絶命の立場に立っていたのです。こんな状況に追い込まれれば、誰でも自分の不幸な境遇を呪います。自殺を考えても不思議ではありません。ここでカーネル・サンダースは逆転の発想をしました。ここが普通の人とは違うところです。「店舗がない」ということは、「自由に動ける」ことだと考えたのです。店舗に縛られないので、自由に他の店舗に営業に行き、「フライドチキンのレシピを売る」商売へ転換したのです。レストランを経営しているだけだったら、その運営に忙殺されて、チキンのレシピを売る、という発想は思いつかなかったでしょう。この短所を長所に変える発想により、全世界で1万店舗を超える「ケンタッキー・フライドチキン」が誕生したのです。この方法はセブンイレブンを始められた鈴木敏文氏の発想法に似ています。店舗は自分では持たない。店舗はそれぞれのオーナーのものです。セブンイレブンは、販売手法に特化してそのノウハウを開発して販売しているにすぎません。もし、自分が自前で店舗を持ち、その店を増やしていくという手法ではすぐに行き詰るでしょう。店舗をもないで、店舗の運営、品ぞろえ、物流に特化するという自由な発想は従来にはありませんでした。店舗がないのに、どうして商売ができるのだという先入観で凝り固まっていたのです。短所を長所としてとらえる逆転の発想がどうしても必要になるのです。これはパソコンの販売を手掛けているデルも同じです。工場を持たない。販売網も持たない。そんな状態で成功した会社です。パソコンの基本設計を行い、それを格安で組み立ててくれる提携工場を世界中で探す。つまり製造はすべて外注に出しているのです。そして注文はインターネットで世界中から直接受ける。だから販売する店舗は要らないのです。そういう仕組みを作り上げたのです。だから格安のパソコンが出来上がってくる。従来は自前で工場を持ち、販売チャネルを整備して初めて商売が成り立つと考えられてきたのです。デルのような販売方法は、欠点を長所に変える逆転の発想です。今までのやり方で競争してみると、価格面で大きな差が生まれて、従来の強みは逆に足かせとなって経営の足を引っ張ることが分かりました。しかし、組織が大きすぎて今までのやり方をすぐに変更することはできない。つまり今まで最大の長所と考えられていたことが、逆に最大の短所になってしまう現象が起きたのです。短所と長所は、コインの裏表のような、すぐに入れ替わってしまうような関係にあるということを再認識していただきたいと思います。短所の陰にはきっと素晴らしい長所が隠れていると信じることです。カーネル・サンダースの営業は、最初からうまくいったわけではありません。カーネル・サンダースは、2年間、アメリカ中を回って営業活動をしましたが、全く契約は取れませんでした。断られた回数は連続1009回です。そして1010回目に初めて契約がとれました。普通はあきらめてしまうところですが、どん底を味わったカーネル・サンダースは背水の陣で決してあきらめなかったのだと言います。失敗についてエジソンは、「私は失敗したのではない。数千回、数万個もの成功できない方法を発見しただけのことだ」と言いました。失敗した方法とは別のやり方を考えて試作、実験を繰り返せば、最後には成功すると考えたのです。食いついたら決して離さないというすっぼんのような粘り強い営業が最後には勝利したのです。(人を動かす質問力 谷原誠 角川新書 参照)
2020.01.24
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森田理論の中に常に、「感じから出発せよ」というのがあります。森田先生曰く。我々の日常生活は、実際において、まず第一に、時と場合における「感じ」から心が発動し、種々の欲望が起きるときに、それに対して、理知により、理想に従って、自分の行動を抑制していくのであって、すなわち第一が「感じ」で、次に理想が動くのである。(森田全集第5巻 405ページ)たとえばテレビの料理番組を見ていると、自分でも作って、食べたいという気持ちになります。食べたいという感情が湧き起こったのです。これを基にして、買い出しに行き、実際に作って食べるという行動につながっていくのです。この時に生活習慣病で糖尿病の疑いがあると指摘されていれば、甘さを控えるために、砂糖は少なめにしようと理知が働くようになります。この流れは無理がありません。ところが、感じの発生がないのに、理知から出発するととんでもないことになります。糖尿病になると目が見えなくなるかもしれない。また足の細胞が壊死して、片足を切断することになるかもしれない。それを防ぐためには、甘味料の入った料理は食べてはならない。糖をたくさん含んだごはんやパスタなどもダメだ。味の薄い、美味しくない糖尿病食を特別に作って食べていくしか方法はない。それが病気を増悪させない唯一の道だ。理知というのは、理屈、原理原則から入って、食べたいという感情を無理やり押さえつけているのです。理知を第一に押し出して、感情を抑圧している態度です。これは自然に反していて無理があります。この考え方は対人関係にも応用することができます。たとえばインターネットなどで森田の自助グループをみつけて学習会に参加される人がいます。見るからに森田適応者と判断できるような方です。でもそういう方が続けて集談会に参加されるかというとそうではありません。継続参加される人は10人に1人か2人といったところでしょう。そういう人にこの森田の法則を活用してみたいものです。最初から集談会に継続して参加してください。あなたは森田に向いています。私たちの会は会員が減少して会の運営が心もとないのです。入会して会員になって一緒に森田理論を学習しましょう。ぜひとも会員になってください。これを第一に押し出して、継続参加を訴えかけることは、理知を前面に押し出したやり方だと思います。相手はこの会はどんなところか。怪しい会ではないのか。薬物療法や認知行動療法などの精神療法と比べてメリットはあるのか。どんな人がいるのか。どんな症状の人がいるのか。本当に神経症を克服しているのか。これらを鵜の目鷹の目で見ているのです。相手の感情に訴えかけて、相手の感情を動かすことにエネルギーを投入することが必要だと思います。たとえば会社の中での人間関係で苦しんでいる人がいます。そういう人に対して、今現在も対人関係で苦しんでいる人はその状況を具体的に話してあげることです。今は楽になっている人も、苦しんでいた時のことを具体的に話してあげることです。ここには私と同じ仲間がいると思ってもらうことです。自己紹介は始めてきた人に対して自分の症状について具体的に話すことが大切です。自己紹介はそういう目的志向を全員が持つことが肝心です。私の症状は「対人緊張が強いことです」だけでは、相手には何の感情も湧き起こりません。症状を克服した人は、この会に参加して、仲間との交流による精神的支え、仲間意識の高まり。さらに症状克服に役に立ったことを1つか2つ具体的に話してあげることです。それを集談会に参加した人が一枚岩になって取り組んだ時、初めて参加した人が、「この会はいいかも」という感じが湧き上がってくるのではないでしょうか。様子見できている人が多いのですが、このように感じを発生させて、高めるという活動を地道に続けていくときっと定着する人は増えてくると思います。このように、かすかに集談会に参加することのメリットを感じた人には、つぎの段階に進むことも必要です。継続参加を促す理知の活用です。たとえば、この会はしばりはありません。入会も退会も自由です。政治とか宗教は持ち込んではならないことになっています。会は1か月に1回、しかも日曜日の午後からの半日だけです。会場は公共機関を利用しています。テキストは400円です。その他分かりやすい独自のテキストも無償で用意しています。立ち直った仲間、今現在苦しみの真っただ中の人と話ができます。集談会後、喫茶店や居酒屋での交流もあります。特に優れた書籍、DVDなども紹介しています。森田に詳しい精神科の協力医、臨床心理士もご紹介しています。ご希望で世話役を引き受けると、それが社会体験につながり、会社で活かすこともできます。その他、著名な森田療法家の心の健康セミナーという案内も行っています。神経症の克服に役立つ会誌を毎月発行しており、会誌を読むだけでも立ち直りの手助けになります。仲間の行動から、症状克服のためにどういった行動が有効なのか分かるようになります。会員の書いているブログなども紹介しています。その他、参加する人のメリットはたくさんあります。ご自分でも考えてみてください。それらをチラシにするなり、言葉で伝えるようにするのです。ここで注意したいことは、先に「少し継続してみようか」という感じを発生させることが先です。いま紹介したことは、感じが芽生えた人に、行動を前向きにスムーズにアシストするための理知の部分にあたります。順序を逆にしては元もこうもありません。感じから入って理知で調整するという原則は厳密に守る必要があります。このように考えると、この森田の考え方は人を動かすための奥義でもあるのです。
2020.01.23
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「心のチキンスープ 愛の奇跡の物語」(ダイヤモンド社)という本に次のような話が載っているそうだ。ある時、カナダのバリーという町が竜巻に襲われて、数十人が亡くなり、数百万ドルの被害が出たそうです。その時、テレビディアという放送会社のボブ・テンプルトンがその町を通りかかり、被害のひどさを目の当たりにし、一つの計画を思いつきました。それは、バリーの被災者を救済するために、3日以内に準備をし、3時間以内に300万ドルをあつめる、という計画でした。そして、テンプルトンは、その計画をテレビ局の重役会議で提案しました。すると、一人が言いました。「本気か?そんなことできるわけがないだろう?」テンプルトンはいいました。「僕は、できるとか、しなければいけないとか、そういうことは言っていない。ただ、皆がやってみたいかどうかを聞いているんだ」「もちろん、やってみたいさ」と皆が言いました。すると、テンプルトンは、黒板にアルファベットのTの字を書き、その右側に「なぜできないか?」、左側に「どうしたらできるか?」と書きこむと、さらに右側の「なぜできないか?」という文字に大きく×印をつけました。そしてテンプルトンは言いました。僕は「なぜできないか?」なんてことを議論する気はないんだ。時間の浪費にすぎないからね。「どうしたらできるか?」だけを議論したいんだ。その結果、3日以内である翌週の火曜日にはラジオマラソンが始まりました。カナダ全域の50のラジオ放送局が協力し、著名な司会者の協力も得て、3時間で300万ドルを集めてしまいました。(人を動かす質問力 谷原誠 角川新書 200ページより引用)この話はとても参考になります。私たちも大きな目標を人から提示されたとき、「そんなこと無理ですよ。出来るはずがない。あまりにも無謀だ」と簡単に退けてしまいます。あるいはできない理由をこじつけて説明しようとします。そういうときは、この話を参考にしてT字を書いてできない理由とできる理由を書く。そして、できない理由に×印をつける。そしてどうしたら出来るかに絞って考える。あるいは議論する。一人ではなく、みんなを巻き込んでどんどん思いついたことを書きだしてみる。すると突破口が見つかるかもしれません。その気持ちがあれば多分見つかるでしょう森田理論でいえば、事実、現状。現実を受け入れて、事態の打開に向かって考えて行動を起こすということなのです。ぜひ試してみましょう。
2020.01.22
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ダジャレや面白小話を収集して、みんなを喜ばすようになると神経症から解放されます。いつも硬い話ばかりなので、今日趣向を変えて投稿します。大いに笑って、気分転換をしてください。できたら皆さんもユーモア小話や川柳のネタを集めてみてください。その1ある男の子が銭湯で番台のおばちゃんに尋ねました。「男の子はいくつになったら女湯に入れなくなるの」すると、おばちゃんはこう答えました。「それはねえ、あんたが女湯に入りたいと思った時からだよ」その2世の中にはいろんな養毛剤が出回っています。ハゲの人はとっかえひっかえいろいろと試しています。でも、ほとんど効きません。そんな気持ちを薬品メーカーは見抜いています。「ついに出ました。究極の育毛剤」有名なタレントを使って「○○さんもこんなに生えてきてびっくりしています」どうも怪しい。それってかつらじゃないの。安くはないその育毛剤も、もちろん効き目はありません。意を決して、近くの薬局に行きました。「一番評判のよい養毛剤をくれ。いくら高くても買いますから」すると店の主人が、店の奥から怪しげな訳あり商品を出してきました。「これは絶対に効きます。ちょっと高いですが、絶対に間違いはありません」「そんなすぐれものがあったのですか。知らなかった。早速買いますよ」でも次の瞬間、雷に打たれたようなショックを受けました。その店の主人の頭頂部がカッパのようにハゲていたのです。急に買う意欲が萎んでしまいました。何も言わず店を後にしました。そしてやっと分かりました。今までの私は存在しない幻を追い続けていたのだ。その3ある人が公衆トイレの個室に入って腰を下ろした途端、隣の個室から「元気か」と声がかかりました。彼は戸惑いながらも、「はい、元気です」と答えました。すると、「それは何よりだ」といわれるので、「ありがとうごさいます」と言いました。つぎに「今何をしている?」と言われるので、「お宅と同じことをしています」と答えました。すると隣の人は急に静かになりました。そして小さな声が聞こえてきました。「隣のトイレに、おかしな奴がいるから、また後で電話するわ」(雑談力 百田尚樹 PHP新書参照)
2020.01.21
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「お前はほんとにバカだね」と言われると頭にくるという人は多いと思います。けんかを売られているように感じてすぐに応戦する人もいるかもしれません。そこまでしなくても、心の中では、「そういうお前は何様なんだ」と反発します。「バカ」「バカ者」という言葉は、一般的には相手を軽蔑する言葉です。これに対して、北野武さんによると、芸人の世界では褒め言葉になるという。「こんなバカ見たこともないよ」という言葉は最上級の褒め言葉になるという。「たけしは相変わらずバカだね」と言われると、つい「ありがとう」といってしまう。また北野さんが育った東京の下町では、「おい、このバカ、元気か」などとあいさつ代わりの言葉であるという。「大丈夫か、バカ野郎」「久しぶりだな、バカ野郎、何やってたんだよ」「バカだね、この人は」「もう本当にこの人はバカで困っちゃう」・・・・。北野さんにとっては、「バカ野郎」という言葉は、相手を侮辱する言葉ではなく、親愛を込めて使う言葉であるという。「おまえ」とか「あなた」という別称である。いつもその人の動向が気になり、何かあると、すぐに駆けつけて何かしてあげたいと思わせるような人のことである。母性本能をくすぐり、放ってはおけないと思わせる人。つい思わず身の周りの世話をやきたくなるような人のことである。そういうオーラを身にまとっている人のことをいう。気を付けたいのは、バカの中には本当のバカがいることだ。たとえば、すぐに逮捕されるのが分かっているのに、飲酒運転で、ひき逃げ事故を起こして、そのまま逃げてしまうような人。出張費をごまかして、飲食代やギャンブルに使っている人など。最近も政治家が汚職事件を起こしながら、私は無実だなどと責任逃れの発言を繰り返している。自分のしたことを、ごまかす。隠ぺいする。いいわけをするような人だ。自己保身、自己中心的な人のことである。そんな人はテレビで毎日のように見かける。こんなバカは、北野さんの言うような、親しみが持てるバカとは対極にある人だ。北野さんの言う親しみの持てるバカを自分なりに分析してみた。ミスや失敗を隠さない。むしろそれを周囲の人を喜ばす貴重なネタとして活用している。弱点や欠点もあればこれ幸い、おもしろおかしく脚色してユーモア小話として提供する。自分が笑いものにされるかもしれない。損をするかもしれないということに頓着しない。それが分かっていても、積極的に開示する。そういう体質が身についている人だ。いわば風通しのよい家に住んで、窓を全開にしているようなものだ。良寛さんに「裏を見せ表を見せて散るもみじ」という句があるが、生き方自体がまさにそんな感じなのだ。すると、周りの人は、「あいつは救いようのないバカだね」と笑い飛ばす。笑い飛ばしながら、「自分はあいつよりはまだましなほうだ」とすこし優位に立ったような気持ちになる。そういう人が周りにいると、磁石のプラスとマイナスが自然とくっつくように親しくて和やかになる。精神的に楽な生き方ができるようになる。それは自分が、その人の影響を受けて自己防衛のバリアを取り払うことができるからだと思う。言い訳や弁解、隠しごとのない生き方は、事実本位の生き方となる。それがいかに精神的に楽な生き方になるか、自分自身で検証してみようではありませんか。(バカ論 ビートたけし 新潮社 参照)
2020.01.20
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欲望や不安はどのようにして発生するのだろうか。最初から人間の頭の中にあるものではない。目の前の出来事に接して、それぞれの人が頭の中で自分なりの解釈を付け加えることによって発生している。この解釈や認識は100人100様です。同じ出来事に接しても、パニックになるほどの強い不安や恐怖を感じる人もいる。ものの受け取り方が、否定的、悲観的傾向に片寄っている人もいる。神経質性格を持っている人は、その傾向が強いようだ。人によって異なる解釈や認識はどのように形成されるのだろうか。それは今まで生きてきた経験、環境、記憶、性格傾向などによって決定されます。自分一人で欲望や不安を作りだしているように思っているが、それは認識の誤りです。自分とかかわってきた人たちから受けた影響の範囲内で欲望や不安が生みだされている。親の子育て、周囲の人間関係、学校や社会での教育、テレビや新聞、国家による洗脳が大きな影響を与えている。たとえば戦時中は、国民は天皇陛下のためには喜んで命を捧げるという教育を受けました。そういう洗脳教育を受けた結果、多くの国民はその思想に染まってしまいました。最後までアメリカと闘うのだと思っていたのです。それに反対する人は非国民と言われました。今考えると無謀ですが、そういう洗脳教育をいつの時代も、どこの国で行っていると思っているほうが無難です。いまの金融資本主義の弊害はあちこちで問題を露呈していますが、私たちは井戸の中に入っている状態なので、洗脳教育を受けているとは夢にも思いません。そういう洗脳教育が、自分たちのものの考え方、思考の形成に大きな影響を与えているのです。もう一つ例を上げましょう。私たちは毎日テレビを見ています。民放放送ではひっきりなしにCMが流されています。その結果、知らず知らずのうちに私たちの物欲が刺激されているのです。最近は録画して、CMはスキップして後で見る人もいます。そこで「プロダクト・プレイスメント」という広告手法がとられています。たとえばドラマの中で俳優さんが着ているもの、飲んでいるもの、使っている車、家具や飾っているものを視聴者に植え付けるという手法です。CMのような露骨な宣伝ではありません。何となく自分も同じものを使ってみたいというような状況を作りだそうとしているのです。テレビは見ませんという人でも、新聞をとっていると、折り込み広告は山のように挟みこまれています。これらに接することで、知らず知らずのうちに自分の生活に取りこんでいくのです。ものの考え方、思考パターンの習得も全く同じことが言えます。ですから欲望や不安に振り回されているのは、自分ひとりで作りだしたものではない。そういう考え方、思考パターンは、今まで知らず知らずのうちに受けてきた洗脳教育の結果として存在しているということです。不安、恐怖、違和感、不快感などは、時代環境が変わり、別の洗脳を受けると、今までとは全く違う考え方、思考パターンに変わってしまうという類のものです。このように考えると神経症で苦しむことは、実体のない幻想の世界に迷い込んで、一人相撲をとっているようなものです。このことが理解できれば、不安に自分の人生を奪い取られてしまうことが軽減されるのではないでしょうか。
2020.01.19
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田舞徳太郎氏は時間の量は計れるといわれる。Aさんの一生の長さ、(a)80年です。(b)時間の使い方は、逃避したり、怠けたり、言い訳をしたり、という具合にほどほどの時間を過ごしました。自分の能力の10%程度のいい加減な時間の使い方をしてきたわけです。その結果は、ほどほどの人生への取り組みですから、(C)10%程度しか学べないし、気づけません。「人生ってこんなものじゃない」という浅いレベルの気づきです。これを計算すると、時間の量は、時間の長さ×時間の使い方×学んだもの、80×10×10となって、8000という数字が出てきます。これがAさんの時間量というわけです。Bさんの一生の長さはAさんと同じ、(a)80年です。その80年を「人生2度なし」の気構えで、必死に生きました。何事にも真剣に本気で取り組みました。100%全力投球したのです。その結果、多くのことを学び、100%気づくことができました。「なるほど、生きることはこういうことか」と人生に対する悟りのようなものをつかみました。Bさんの時間の量を計算すると、80×100×100ですから800000という数字が出てきます。二人とも80年の人生を生きてきました。しかし時間の量で見ると大差がついています。この大差は、時間をどう使い、何を学び気づいたか、つまり如何に生きるかによってついたものです。(気づきの成功学 田舞徳太郎 致知出版社 265ページより引用)60年の一生、80年の一生、100年の一生と人さまざまですが、それだけではその人の生きた時間の量は計れないということです。その人がどんなことに気づいてきたのか。どんなことに関心や興味を抱いてきたのか。そしてそれらにどんなに精力的に取り組んできたのか。実践や行動として真剣に取り組んできたのかということです。その人の時間の量は、3つの掛け算によって決まるといわれているのです。これを森田先生に当てはめると、64×100×100で640000となります。いろいろな試行錯誤の末に森田療法という神経症に対する特殊療法を創始され、実際に多くの人に影響を与え続けていることを考え合わせると当然の結果だと思います。森田先生は今でいえばあまりにも早い死でしたが、生きた時間量でいうと、我々が足元にも及ばない長い時間を生きたということができるのではないでしょうか。私たちは森田先生より長く生きたとしても、時間量で森田先生を上回ることは難しいと言わざるを得ません。でも少しでも近づきたい気持です。毎日緊張感を持って日常茶飯事に取り組むこと。興味や関心のあることには、積極的に取り組んでみること。夢や目標が見つかれば、どんどん挑戦してみること。その中で興味や関心、気づきや、発見、工夫が次から次へと生まれてきます。そして、時間を忘れるくらい早く時間が過ぎていくでしょう。そういう状態になったとき、気づきと取り組みの数字が増えていきます。結果として、人間の時間量は飛躍的に増えていくものと思います。私もそういう人生を送っていきたいと思っています。
2020.01.18
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私立大学付属小学校の6年生が夏休みに入る時のことである。小・中・高、大と続いているので、受験準備を要しない。そこで担任が「小学校最後の夏休みです。宿題を出しませんから、みんな精一杯楽しんでください」と言った。「やったぁー」と喜んだ子供たちの感性は、廊下を通して他の教室まで伝わったという。ところがその後、教室の中は潮か引くように静かになった。そうか、宿題なしでは気がかりなのかと思った教師は、「もしやりたい人は、自分で宿題を決めて先生のところに持ってきなさい。そしたらそれをその人の宿題にします」と、ポロリと漏らした。そうしたら、何と、いつもの夏休みよりも宿題の量が多くなってしまった。夏休みが終わって、子どもたちは登校してきた。宿題はどうなっていたか。やってこない子供たちがほとんどだったのである。この話から分かることがある。私たち人間は目の前の問題や課題、目標や夢に向かって何とかしたいという気持ちを持っている。生産的、創造的、建設的、意欲的な生き方を熱望しているのである。たしかにその方向で邁進している人もいる。そういう人は幸せな人生を送ることができる。ところがほとんどの人は、ついついその反対の方法へ流されていく。楽したい、休みたい、手を抜きたい、現状維持でよい、しんどいことは避けたい、他人に頼りたい、エネルギーを浪費したくないなどという気持ちに流されていく。逃避的、消費的、依存的、閉塞的、無気力、無関心、怠惰、刹那的な生活に陥っていく。一瞬、一時的には精神的にも身体的にもほっとできる。しかしそうした生き方は人間に宿命づけられた生き方ではない。永続的ではない。自分の考える力や身体能力を発揮する場面がどんどん削られていく。それらが廃用性萎縮現象を起こして、考える力が低下し、身体能力もどんどん低下してくる。そしてついに再生不能に陥っていく。これはまずいと思ったときはすでに手遅れとなる。これは人間が人間らしく生きていなかった結果である。デンマークの哲学者ゾレン・キェルケゴールは、毎年秋大きな集団をつくって南方に飛び去る野鴨を観察したジーランド海岸に住む人の話を書いている。この人は慈悲深い人で、近くの沼に野鴨のためにエサを与えにいった。しばらくすると、鴨のうちの幾羽かは南方に飛び去ろうとはしなくなった。この人の与えるエサをたよりにして、デンマークで越冬するようになったのである。だんだんこの鴨たちは飛ぶことが少なくなった。3~4年後には、この鴨たちはすっかりだらしなくなり、飛ぶことさえ難しいほど太ってしまった。鳥は1日の65%を餌捕りに費やすそうだ。そんな生活を淡々と日々繰り返すことで、野鴨として存在することができたのだ。一旦楽な方に流されると、体型も精神構造も変化して、元に戻ることはできない。人間たちが与えてくれるエサに依存して、アヒルとして生きるしか生存方法はなくなる。見世物としてかろうじて命の延命が許されている。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 参照)私たちはこの相反する欲望を持っていることを理解する必要がある。そしてそれらがいつも綱引きをしている。そして逃避的、消費的、依存的、閉塞的、怠惰、刹那的な欲望の方に軍配が上がっている。人間はいつも易きに流されてしまう生き物なのである。人間は一方で燃えるような情熱的な人生を送りたいと思っているにもかかわらずである。私はこの流れに流されっぱなしの人生は送りたくないと思う。そのためには、目の前のことをよく観察して、感じを高めていく。ものそのものになりきって実践や行動をする。特に日常茶飯事に手を抜かない。規則正しい生活を心がける。さらに、自分一人孤立するのではなく、多くの人と刺激しあうことで、逃避的、消費的な欲望に歯止めをかけたいと思う。切磋琢磨し合える人間関係の中で乗り越えて行きたい。なかなか自分一人で立ち向かえる相手ではないと思っている。人のふり見て、我が身を直すではないが、他人から刺激をもらって、前に進みたい。また自分も人に少しでも刺激を与えられるような人間として生きてゆきたい。自助組織の集談会ではそんな刺激を与えあえる人間関係を模索している。
2020.01.17
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大学の授業は90分になっています。それは人間が一つのことに集中できる時間の限界だからと聞いたことがあります。よほど好きなことならともかく、一つのことばかり手掛けていると、マンネリになります。飽きてきたり、疲れてきます。眠くなったり、注意力散漫になることもあります。そういうときは森田理論が参考になります。「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という考え方です。私は本を読むことが多いのですが、その継続時間は45分を目安にしています。90分は少し長すぎるというのが実感です。45分経つと興味が出てきても、飽きてきた時も自動的に本読みは中止します。45分経ったらしおりを挟んで本を閉じてしまいます。そして15分間はコーヒーを飲んだり、音楽を聴いたり、カラオケの練習をしたり、散歩やスクワットなどの運動をします。頭を使ったあとは、身体全体を使った運動などがよいようです。眠くなっていても、15分ぐらいたつと、眠気がどこかに飛んでいってしまいます。15分運動をして読書に戻ると、さらに新たな気持ちで取り組めるように思います。時間管理はスマホのタイマーで簡単にセットできます。時間の使い方という点では、午前中の時間の使い方がとても重要であると感じています。このブログの作成時間は朝6時20分から7時50分までと決めています。これはここ何年も変わっていません。習慣になっており、日の出の遅い冬場でもさっと起床して取り掛かることができます。この時間帯が頭が一番さえているのです。その時間を有効に活用しています。記事の内容は、昼間に練っておいて、この時間帯は頭を使って一気に書き上げるという感じです。また、この時間帯を無事に通過すると、一日のリズムをとりやすいのです。身支度、朝食、しばてん踊りとどじょう掬いの練習、出勤へと続きます。昼ごはんをとると30分程度の仮眠をとります。基本的には昼からの2時間程度はぼんやりしている感じです。仕事もボツボツとこなしています。この時間帯は過度に頭や体を使うことは避けています。どちらかというと、胃腸の方にエネルギーを使っている感じです。すると3時くらいからまた頭や身体がさえてくるといった形です。家に帰るとその余勢で、サックスの練習、カラオケの練習、草花の手入れ、株の分析、日記、メールのチェックなどをしています。晩酌付きの食事をした後は、風呂に入り、テレビニュースを見たり、録画を見たりしています。バラエティー番組はほとんど見ません。よい番組を録画してCMを飛ばしてみています。時には趣味のネット麻雀もします。現在六段になりました。ただし半荘1回だけです。基本的に12時の就寝まではリラックスタイムです。うとうとしています。疲れているいるせいか、頭の働きは半分以下に落ちているのではないかと思います。とてもブログの記事を書こうと気持ちは湧いてきません。仕事はいつしているのだと言われそうです。マンションの管理人の仕事なので、受付、掃除、点検、立ち合い、連絡調整が主な仕事です。もう10年も続けており、ポイントは掴んでいて、問題なくできています。ただ初心を忘れて、自己流の仕事をしていると、思わぬミスを起こしますので注意しています。機械式駐車場のトラブル、騒音問題、駐車違反、照明機器の故障、書類の管理などです。苦情などの受付時間が半分以上を占めており、ゆとりのある時間の使い方ができています。トイレも冷暖房も完備しており、規則正しい生活ができるので、今の私にとっては天職です。
2020.01.16
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今日は集中するということについて投稿してみたい。仕事などでミスをすると、もっと集中して仕事に取り組みなさいと叱責されることがある。そういわれればあの時彼女のことを考えていた。子供のことを考えていた。遊びや趣味のことを考えていた。仕事以外のことを考えていた自分を自己否定することがある。一般的には、集中しないとよい仕事はできない。勉強ははかどらないという先入観を持っている。たしかにプロ野球の選手を見ていると、打つ瞬間、投げる瞬間は、そのことに集中しているから成果を上げることができるともいえる。しかしいつまでも目の前の一点に集中することが可能なのだろうか。一点に集中するということは、ことさらひとつのことにとらわれて、感情の自然の流れをあえて阻止しているとも言える。普通目の前の状況は、時間の経過とともに刻々と変化していく。その変化の波に乗って、次から次へと気になることに瞬間的にとらわれていく。生きるということは、その時々の状況に瞬間的にとらわれ続けることである。時間が経てば、前にとらわれていたことが、たとえ解決できなくても、そのままにしておくしかない。神経症で苦しんでいる人は、そのままにしておくということを苦手としている。今すぐにすっきりと解決したいと思って、かかわっているうちに、変化の波に乗り損ねてしまう。山あいの谷を勢いよく流れる小川は、雑菌などとは無縁なきれいな水である。飲み水として使える。それをお城のお堀に引き入れて、流れを引き留めてしまうと、途端に藻が生え、雑菌が繁殖し、汚い水に変わってしまう。とても飲めるような代物ではない。そういうときは忘れないようにメモしておくだけにする。それに取り組むにしてもすぐには手をつけない。後ろ髪を引かれる思いが湧いてきても、次にとらわれたことに対応していく。解決できることだけを処理して、また次のとらわれていることに対応していく。とらわれの状況にどんどん乗っかっていくという生活態度が精神の健康を保つ。過度に集中していると、周りのことが見えなくなってしまう。自然界の動物は一点に集中している状態だと簡単に命を落とす。たとえば、アフリカの草原で、川に行って一心に水を飲んでいるとすぐに肉食獣の餌食になる。仲間と協力しながら、四方八方に神経を張り巡らせて、一点集中を避けることが重要なのだ。「一点集中」の対語は、「拡散集中」である。複数のものに同時にとらわれている状態である。森田理論ではこの方法をお勧めしている。森田先生が大学で講義しているとき、講義の内容には当然注意が向いている。しかし、その時でも机の上に置いてある資料や文房具が気になる。コップがひっくり返らないか気になる。退屈そうに聞いている学生が気になる。遅れて入ってきた学生のことも気になる。時間も気になる。校舎の外から聞こえてくる騒音も気になる。喘息の咳のことも気になる。いろんなことにとらわれながら、また講義内容に注意が戻っていく。「拡散集中」は、湧き起こってくる感情のままに、変化の波に上手に乗っている状態である。やってくるものはそのまま素直に受け入れ、去っていくものはあえて深追いはしないのである。
2020.01.15
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今日は「逆転人生」という番組の中から投稿してみたい。香川県さぬき市で介護シューズを製造・販売している十河孝男さんという社長さんの話である。元々は大企業の下請けとして、ルームシューズ、トラベルポーチ、旅行用スリッパなどを作っていた。バブル景気崩壊後は、大企業から受注減、コスト削減を突き付けられて、瀕死の会社だった。介護シューズを製造するきっかけは、介護施設を運営している人から、入居者の転倒防止用の靴を作ってもらいたいと依頼を受けたことだった。介護施設では高齢者が転倒して、ケガ、骨折、寝たきりになるケースが絶えなかったのである。その数全国で毎年8000人に上っていたという。十河さんは介護シューズに会社の将来をかけることにした。まず、十河さんは、介護施設に出向いて入居者の歩き方を注意深く観察した。すると入居者は筋力が落ちていて、つま先から着地していることが分かった。普通の人がかかとから着地しているのとはえらい違いだった。それで廊下に引っかかったり、ちょっとした段差につまずいて転倒していたのだ。そこでつま先をそり上げて地面に引っかからないシューズを作り上げた。試着してもらうと、つまづきにくく履きやすいととても評判がよかった。勢いづいて、1995年5月介護シューズのカタログをつくり、全国1500の施設に送付した。ところが一向に注文が来ない。よい商品なのになぜか。カタログを送付した施設に片っ端から電話してみた。するとカタログはそのまま捨てられていたことが判明した。中小企業の商品など見向きもされていなかったのである。そこで十河さんのとった戦略は、5足の介護シューズを直接介護施設に送付した。不要なら着払いで送り返してもらう。気にいったら定価の半額でそのまま買い上げてもらうというものだった。これが効を奏した。見本を送付していない施設からも、注文が舞い込むようになった。そして使用した人から感謝の手紙も数多く寄せられるようになった。これが励みになったという。手紙は朝礼で社員に披露した。そのうち、左足がむくんで、左右同じ靴が履けないという相談が寄せられた。それに類する悩みを抱えた人が、利用者の一割程度存在していることが分かった。十河さんは、その人たちの悩みに応えるべく、左右の靴巾、ベルト、靴底の高さが違うシューズを作ることを思いついた。個別対応のシューズを作ることになったのだ。これはパーツオーダーシステムと言うそうだ。左右違うサイズの靴は、手間がかかり、無駄が多く、対応している会社は十河さんの会社だけだ。当初社員15名程度だった会社は、今や約70名の会社に成長した。私はこのテレビ番組を見ていたく感動した。それは森田理論を実際に活用するということの見本を見た思いをしたからだ。入居者の実態を実際によく観察してヒントを掴まれたこと。困難に出合ったときも、視点をかえて、実際に行動に移されたこと。そして、一人一人のニーズに対応したシューズを作るシステムを作り上げられたこと。観察、気づき、発見、工夫、実行、反省、改善が継続できている。まさに森田的である。私たちも実際の生活の面で、この人の生き方を活用していきたいものだ。
2020.01.14
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「無気力」「無関心」「無感動」という言葉はよく耳にするが、「無」のつく言葉は20ほどあるという。「無気力」「無反応」「無関心」「無感動」「無作法」「無目的」「無表情」「無常識」「無責任」「無自覚」「無抵抗」「無意識」「無批判」「無能力」「無学力」「無教養」「無節制」「無定見」「無思想」「無プロセス」である。この中で、感じる力が衰えたことで発生するものが幾つかある。「無気力」「無反応」「無関心」「無感動」「無目的」「無表情」「無自覚」「無抵抗」「無意識」「無批判」などである。自分の場合を振り返ってみると、対人恐怖症で苦しんでいた時は、他人の思惑に振り回されていた。症状については、ちょっとした他人の言動に対してとても敏感になっていた。対人関係では、過剰に感じる力が湧いてくる。問題は、感じる力がその1点に凝縮されていたということだ。その時、日常茶飯事、仕事に対しての感じる力は湧いてこなかった。掃除には無頓着で、部屋は散らかし放題。食べることは外食やファーストフード中心。仕事はミスや失敗の連続。困難な仕事からは逃げてさぼっていた。他人への思いやりはほとんどなく、自己中心であった。対人関係はいつも防衛的で、生きることがつらく投げやりであった。今考えると感性はとても強いのだが、偏りすぎていた。森田理論を学習する中で、「無所住心」という言葉に出合った。昆虫がピリピリと触覚を動かして、緊張感を持って動きまわっているような状態のことである。家事や仕事や趣味などにものそのものになって取り組みなさいと言うことだった。最初は実践課題を立てて取り組んだ。そのうち気のついたことをメモするようになった。それを一つ一つ丁寧にこなしていくことを心がけた。対人恐怖の苦しみは依然として続いていたが、普段の生活は一変した。やればできる。成果も上がる。すると上司などから評価されるようになった。特に集談会での世話活動は社会生活のミニチュア版のようなもので、取り組めば取り組むほど自分の成長につながっていった。これなら会社でもやっていけるという自信が出てきた。そのうち元々持っていた好奇心が泉にように湧き出てきた。趣味なども手あたり次第取り組むようになった。そして弾みがついていった。私たちは粘り強いという面があるので、今でも取り組んでいるものがたくさんある。その後「無気力」「無反応」「無関心」「無感動」「無目的」「無表情」「無自覚」「無抵抗」「無意識」「無批判」といわれるものはどうなったのか。今では、好奇心に弾みがついて、やりたいことが山のようにある。毎日涙を流して感動するようなことがある。人生を楽しみたいと考えるようになった。もっともっと仲間とともに人生を楽しみたい。「目的本位」「努力即幸福」「気力充実」「感性豊か」「感動あり」「生き生き」「他者への思いやり」の言葉の方が現在の心境に近い。すべて森田学習と実践のおかげであると思っている。元々人間は「無」とは無縁なのだと思う。幼児を見ればそのことがよく分かる。それがいつの間にか自分の身にまとわりついたのだ。コールタールのようにまとわりついたものを取り除いてやれば、誰でも抜け出せるのだと思う。
2020.01.13
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今日は「人間のロボット症」について考えてみたい。「人間のロボット症」とは、人間が人間らしさを失ってロボットのようになってきているというものである。アメリカの社会病理学者のルイス・ヤブロンスキーが提唱している言葉である。ロボットの特徴を改めて確認してみよう。まず夢を持たない。問題を背負うこともなければ、したがって悩むこともない。困っているロボットなど見たことがない。問題意識もなければ、疑問も持たない。やる気もなければ、さぼる気もない。自発的に動くことはなく、他力を加えないと動かない。教えられ続け、説明され続け、指示され続け、世話をされ続けないと動かない。力を加えてさえいれば、それが作用する範囲内でいつまでも動く。感情が湧き起こることがなく、飽きるということとは無縁になる。いつまでも指示・命令どおり完璧に動く。間違いなど起こさない、というよりも起こせない。頭で分かっていることだけをやり、分かっていないことは何一つやらない。状況が変化しても、決してそれには対応しない。人間のロボット化とは感情を抑圧するようになる。その結果、感情が希薄になる。あるいはなくなる。うれしい、楽しい、つらい、苦しい、イヤだ、悲しいなどの感情が湧き起こらなくなってくる。他人から言われたことだけを淡々といつまでも機械的にこなすだけとなる。つまり感情が湧き起こること自体がじゃまものになってくるのだ。これで喜ぶのは人間を自分の思いのままにコントロールしようとしている人達である。産業革命以降は、人を原材料、資本、情報と同じ材と扱ってきた。反発しないで、言われたことをきちんと責任を持って、やり遂げる人間を求めるようになってきたのだ。つまり創造性、問題解決力を発揮する人は不要な存在となったのである。これに対して、本来の人間の特徴は何か。まず、夢を持たずにはいられない。問題を背負って悩みは果てない。困っている日々のごとしだ。問題意識もあれば、頭の中は疑問でいっぱいだ。やる気もあれば、さぼる気もある。他力によって動くとは限らず、しかし自発的に動く。指示・命令どおり完璧に動くのは難しい。よく間違いを起こす。頭では分かっていないことでも、やらざるを得なくなればやる。状況が変われば、即それに対応する。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 76ページより要旨引用)人間は感じて動く生き物なのだ。家の中で火災が発生すれば、足が悪い人でも必ず逃げる。ロボットは逃げない。大火事になってもその場にとどまる。目の前の物を観察していると、感情が湧き起こる。問題点を発見する。それをなんとかしたいと考えることが出来る能力を持っているのが人間である。その特性に沿って生きていくことが人間の宿命である。今の世の中は、その人間力をできるだけ発揮しないように仕向けているのかもしれない。そして人間力を弱体化し骨抜きにさせようとしているのかもしれない。教えられ続け、説明され続け、指示され続け、世話をされ続けることは、一見合理的な生き方のように見えるが、生きがいを見失い、いつの間にか人間のロボット化に拍車をかけているように思える。私は感性を大いに刺激して、感情豊かな人間として生きていきたい。関連記事を2016年3月27日に投稿していました。再録記事としてお読みください。
2020.01.12
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子どもに「早く風呂に入りなさい」「早く食事をしなさい」「勉強しなさい」などと強制することがあります。会社では上司が部下にノルマ達成のために指示命令を出して強制する。集談会でも遅々として行動が伴わない人に、実践・行動するように強制している。強制と言うと、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けて、無理やり行動を押し付けているように思う。「かくあるべし」を押し付けると、相手は反発する。人間関係は悪くなる。相手も自分がやりたいと思ったことではないので、意欲が持てない。イヤイヤ行動することは、苦痛である。強制労働ほど人間性を棄損させるものはない。これに対して、藤田英夫さんは、強制力は人間力を発揮するために必要なものだ言われる。その理由は、我々人間は、頭では立派なことを考え、それらを口にしながらも、ついついそれとは逆の易き方へと流れていってしまうという特徴を持っているからである。生産的欲求は、消費的欲求にしてやられてしまうからである。ですから強制力のマイナス面ばかりではなく、プラス面も見ていく必要がある。我々人間は、諸状況による強制の中で活かされ、生きているのではないか。自然から与えられている環境も、時間も、人間によって作られた法、社会的な制度やルールも、躾も、総ては人の自由を縛る強制力を有している。我々は外からの力による強制だらけの中で人生を味わい、過ごしているのだ。藤田さんは、すべての強制を是としているのではない。それは誰のための強制かではっきり分かれる。対象たる我が子、我が生徒、我が部下のためのそれなのか、自分のため、自分の都合、「自己満足」のためのそれなのかである。「人間力」を出させるための強制か、「道具力」を出させるための強制かである。「人間力」、中でもそれが枯れ果てている人のそれを芽生えさせるには、当事者からすれば、暴力的とでも感じられるほどの他力を要する。それこそが、その当事者にとっては至高の助けになるのである。もちろんそれが、人びとをして切れさせ、さらにだめにさせてしまうリスクもある。助けになるかその逆になってしまうか、それは紙一重のことかもしれない。それを分けていくのは、一に「上」の人間としての有り様にかかっている。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 308ページより引用)たしかに人間は意欲的、創造的、生産的に生きていきたいと思っている。反面、楽したい、さぼりたい、現状維持に甘んじたいという気持ちもある。両者が綱引きをしているようなものだ。現在に満足してしまうと、それ以上に挑戦することはしなくなる。苦労や困難に立ち向かうことはしなくなる。消費的欲求がますます強くなり、他に依存していくようになる。そこには生の喜びは感じられない。ただ生きながらえているだけで、精神的には耐え難い苦しみが発生する。それを打ち破るには、他からの刺激である。いわゆる強制力がそのきっかけとなる場合があるということだと思う。自分の自己満足や征服欲、コントロール欲求を満たすために「かくあるべし」を相手に押し付けることは厳に慎まなければならない。相手の「人間力」を目覚めさせるための強制力は、ぜひとも発揮させなければならない。何年か経って、あの時のあの人の強制力を持った言動で、今の自分があると感謝されるような強制力を発揮していきたいと思う。
2020.01.11
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「サケトカメ」という言葉があります。酒と亀ではありません。出かけるときに忘れ物はないか確かめる言葉です。「さ」は財布。以下携帯電話、時計、玄関のカギ、名刺だそうです。これを玄関ドアに貼っておいて出かけるときに、声掛け呼称するのです。ほとんどの人はいろんなところ、場面で活用されていると思います。私は出かけるときは、ハンカチ、ティッシュ、本、パスピー、健康保険証、録音機、スピーカー、眼鏡、車やバイクのカギも付け加えています。勤め先では、部屋を出るときは、カギ、部屋とトイレの電気、行き先表示版、名札、帽子止めなどを入口に貼っています。これによって時間の短縮、不安の解消につながっていると思います。慰問活動ではチンドン屋、獅子舞、浪曲奇術、腹話術、どじょう掬いごとに用意するものが違います。必需品を一つでも忘れるととりに帰らないといけなくなります。遠方に出かけたときは引き返すことができません。すると演目構成に穴をあけることになり、他の人に迷惑をかけます。私は演目ごとに用意するものを忘備録として作っています。これで忘れ物をすることは滅多にありません。たとえば、チンドン屋では、楽譜、譜面台、ストラップ、リード、練習棒、アルトサックス、チューナー、コルクグリス、付箋、ホカロン、靴ベラ、タオル、ハンカチ、ティッシュ、扇子、鏡、スマホ、財布、ボールペン、スケジュール表、家のカギ、車のカギ、名刺、眼鏡、衣装として帽子、洋装、ワイシャツ、胸につける花、蝶ネクタイ、白のズボン、白い靴、白の靴下などです。たかだかチンドン屋のアルトサックスの演奏ですが、準備事項はこんなにあるのです。興業の前日にはこのリスト表を見て準備を整えておきます。これは今までの失敗の経験を経て作り上げたもので、無用な心配をしなくて済みます。集談会ではガスの元栓、テレビ、エアコン、電気の切り忘れ、水道の出しっぱなしを気にして引き返すことにとらわれている人がいます。そういう人に「忘備録」は作っていますかと聞くと、それは頭に入っているから大丈夫ですと言われる方がいます。これは問題だと思います。そういう人は忘れものでいつか大きな問題を起こす可能性が大です。携帯を充電していて、持って出るのを忘れることだってあります。これだけでも困ったことになります。つまり自分が気になることには、過度の注意が向いていますが、他の面では注意散漫になっているということではありませんか。仮に自分の気になることはきちんと確認できたとしても、他の面で物忘れをすることが起こるのではないでしょうか。実際には物忘れがなくても、大いに気にはなると思います。ガスの元栓の締め忘れが気になる人は、意識や注意を他に向けるやり方をとるという方法も考えられたら如何でしょうか。数多い確認リストの中にガス、電気、水道、玄関の鍵、窓の開閉も入っていて、呼称確認で一つ一つ確認をするのです。その他外出するときの持ち物も入れます。確認事項が多いいと一つのことにとらわれることが少なくなるかもしれません。すべてOKということになると、心置きなく出かけることができるかもしれません。これを森田理論で理詰めで納得させようとすると、ますます注意や意識を引き付けてしまうということが考えられませんでしょうか。理論として知っておくとともに、忘備録を作って必ず呼称確認を行ってもらいたいと思います。これらは社会生活の基本事項なので、何だと思われる方はスルーしてください。
2020.01.10
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神経症の不安や不快感などは、いわば自己の内部での葛藤といえるかもしれません。取り除いてすっきりしたという気持ちに突き動かされて、やりくりしているうちに、次第に蟻地獄に落ちてしまうというものです。日常生活、社会生活、対人関係などで悪循環に陥ります。ただし、そのために直接周囲の人を攻撃して危害を加えるということはまれです。それに対して、怒りや悲しみ、本能的な情動を直接周囲の人にぶっつけてしまう人がいます。気に入らない情動や本能的な情動を外部に吐きだしてしまう人です。些細なことで過剰反応したり、極端な言動となって現れたりします。その変動の激しさが、時として、周囲の人を巻き込んでしまうのです。こういう傾向は、「境界性パーソナリティ障害」の特徴とされています。情動がコントロール不能となり、暴走してしまう人の特徴は2点あります。第1点として、気分や感情の微妙なコントロールがうまくいかず、気分のアップダウンが激しいということです。2点目として、とても傷つきやすく、一間些細に見える出来事に対して、過剰な情動反応を起こすということです。神経症に境界性パーソナリティ障害が同居しているととても厄介なことになります。日常生活、社会生活が後退し、対人関係が不安定になります。絶えず周囲の人を巻き込んで、トラブルをまき散らすということになります。皆さんの場合はどうでしょうか。私自身はこの傾向が強いと感じています。普段は人に嫌われないように細心の注意を払って、耐えたり我慢しているのです。ところがその我慢の限界を超えてしまうことがあります。ダムの貯水量が小さいので、少しの大雨ですぐにあふれ出てしまうのです。あるいは決壊して、後で修復困難という状態に陥ります。それの繰り返しでした。すると次第に他人が寄り付かなくなるのです。孤立して味気ない人生を過ごしていかざるを得なくなります。まずは自己診断でこういう傾向があるかどうか自覚することが必要です。アメリカの精神医学会の診断基準(DSMーⅣーTR)が役立つと思います。こういう傾向が強い人は、医療面での治療が必要となります。薬物療法、認知療法、行動療法などがあるようです。医師やカウンセラー、自助グループの助けを借りることです。次に、こういう傾向が時々現れるという人がいます。一般的にはこちらの方が多いと思われます。日常的には問題はない人です。ところが、お酒を飲んで酔いが回ると顕著にその傾向が出てくるという人がいます。こういう傾向のある人は、みんなと一緒の飲酒は控えることが賢明です。どうしてもというときは、親しい人に訳を話して制御機能をお願いしておくことです。注意されたら素直に従うことです。また気分や体調を理由にして、途中退席することです。寄り道しないで、タクシーでまっすぐに家に帰ることです。情動の暴発というトラブルを回避するためには、この方法が一番だと思っております。情動の暴発を抱えている人には、参考図書として、「境界性パーソナル障害 岡田尊司 幻冬舎新書」をお読みになることをお勧めいたします。
2020.01.09
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森田では「かくあるべし」を少なくして、事実や現状に立脚した生き方を目指しています。これは言うは易く、実行は難しい。どうして難しいのかを考えてみたいと思います。1、私たちは不快な事実、不都合な事実に正面から向き合おとしない。目の前の事実を、ありありと、あますところなく見ようとしていない。ありありとというよりも観念的に見てしまう。あますところではなく、その一部をもって、全体を理解しようとする。目の前の事実よりは、今までの記憶や経験で安易に分かったつもりになってしまうということです。それで事実を正しく見たつもりになって対応しているということです。2、自分の都合で状況を見てしまう。人間は本能的に自分の持っているイメージに合わせて対象を見ようとする。つまり自分の合わないものを、意識的、あるいは無意識のうちに無視したり、切り捨てたりする。つまり色眼鏡をかけて事実を歪曲してしまっているのです。3、不安や恐怖、不快な事実から「遠ざかろう」とする。人間は誰でも、困る問題を見たり、聞いたり、抱えたりすることを避けようとする。それはまずいと思いながらも、「見ざる、言わざる、聞かざる」になっている。4、問題ある事実をもみ消そうとする。現れている現象は氷山の一角、その下にはそれらを生みだす原因ががっちりと根を下ろしていることを察知しつつも、とりあえずは「臭いものに蓋をする」という「モグラたたき」に走ってしまう。不都合な事実は、それを正確に知ろうとするよりも、その不都合な事実がなかったものとして細工しようとする。5、事実をごまかす。言い逃れをする。隠す。責任逃れをする。これらが習慣となっていて、とっさに言動となって表面化する。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 201ページより要旨引用)事実本位の生活態度を身に着けたいと思っても、実際には周りを敵に囲まれたような状態になっているということです。ですから「はい、分かりました。今日からそうします」というわけにはいかないのです。ただ森田理論をコツコツと学習している人は、その重要性には気づかれていると思います。あとはどこから手をつけていくかということです。先入観や決めつけで事実を分かったつもりにならない。事実をごまかす。言い逃れをする。隠す。責任逃れをしないようにする。事実をより詳しく観察して、事実の裏付けをとったものを大切にして行動する。抽象的な話を避けて、具体的に話するようにする。包み隠さず、赤裸々に話すことを心がける。相手の話をよく聞く。自分の考え方に、事実誤認がないか謙虚な気持ちで周りの人に聞いてみる。「かくあるべし」が出てきた時は、「純な心」に立ち戻るように心がける。「あなたメッセージ」から「私メッセージ」の発信に心がける。これらは、取り組む気持ちがあれば、実行可能なものです。この中のことが1つでも習慣になれば、事実本位に近づいているといえるでしょう。
2020.01.08
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今日は精神拮抗作用について考えてみよう。たとえば、時間がたてば腹がへり、御馳走を見れば食べたくなります。これが欲望です。欲望は、その時々のことに真剣に取り組んでいれば、おのずと自然に発生します。基本的には日常茶飯事を手を抜かないようにすることでいくらでも欲望は生まれてきます。欲望が次々に出てくると、行動への意欲が高まってきます。いったん行動すると、弾みがついてドンドン活動的になってきます。欲望の存在は、人間が生きるということを考えてみた場合、とても重要なことです。欲望のない人は、哀れです。本来の人間の生き方とは言えません。ところが、その欲望の追及が果てしがないということになると、困ったことになります。食べることでいえば、飽食三昧、あるいはグルメと言われるような状態になります。体重が増えて体形が崩れてきます。歩くのもしんどくなります。生活習慣病検診を受けると、肝機能、胃腸の障害、血液の異常、代謝の異常などが見つかるようになります。糖尿病やガンなどの病気にかかりやすくなります。これは、好きなものを腹いっぱい食べたいという欲望が暴走した結果です。普通の人間は、欲望の暴走に対して、自然に制御機能が働くようになっています。この二つがあざなえる縄のごとくけん制し合って適正な行動につながっているのです。食べることでいえば、食べ過ぎると太るので嫌だな。この前の健康診断で、高脂血症が指摘されたので、食べ過ぎには注意しようという気持ちになるのです。アルコールについても、こころゆくまで飲みたいけれども、二日酔いになって次の日に苦しんだことが思いだされて、自重するようになる。本能的な欲望に対しても、こんなことをすると家族に迷惑がかかる。あるいは社会から追放されるかもしれないと思うと思い留まることができます。制御機能は、不安、恐怖、違和感、不快感などです。神経症の人はこれらを目の前の敵にして取り除こうとしているわけです。あるいは逃避することを考えているのです。制御機能は人間に元々備わった生きていく上でなくてはならないものです。欲望を追求するうえにおいては、なくてはならない役割を持っていると認識を新たにする必要があります。自動車はアクセルペタルを踏み込まないと前には進みません。でもそこにブレーキというものがないと、スピードをコントロールできないので事故につながります。欲望を優先しつつも、きちんと制御機能を活用していくということが欠かせません。欲望の特徴としては次のようなことが問題になります。欲望は一旦弾みがついてしまうと、その制御機能は十分にその機能を発揮してくれなくなります。車でいえばブレーキが壊れた状態です。欲望が欲望を膨らませて、歯止めがつかなくなってしまうのです。そういう人はたくさんいます。双極性障害の躁状態の症状とよく似ています。国と国との問題も、国益を求めての欲望の暴走にはよほど注意する必要があると思います。欲望が暴走してしまうと、後で制御することは不可能と心得ることです。自他ともに不幸になりますし、これが人類の滅亡にも発展してしまいます。過去栄えた4大文明も欲望の暴走の結果、すべて滅亡してしまいました。この歴史に学んで、今後に活かすことが大切なのではないでしょうか。
2020.01.07
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森昭三氏は、生活の発見誌11月号の中で、学校教育の中に森田理論を導入することを提案されている。森田療法の考え方を知ることは、学校本来の心の健康を保つ教育機能を補強し発展させることに有効であると考え、積極的に導入するよう活動を展開しています。森田療法が症状の改善に留まらず、性格を陶冶し自己をよりよく生かすことを目標としているので、私は「人間形成的森田教育理論」や「予防・開発的森田教育理論」と呼ぶことができると考えているのです。私はこの考え方に賛成です。学校教育のみならず、社会教育、家庭教育として国民があまねく学習してほしいものだと考えています。特に人間関係の心構えは役に立ちます。森昭三氏は、森田の基本的な考え方を2つ紹介されています。まず、森田理論では事実を拠り所にして判断し、事実をありのままに認めるということです。事実唯真、あるがままの体得のことです。「かくあるべし」を減らしていくことです。自分の頭で考えた観念、理想、主義を優先して、それらを現実に適用しようとする態度ではありません。どんな状況でも現実や事実を重んじて、受け入れて認めるという態度を養成することです。つぎに、不安と欲望は表裏一体の関係にあります。緊張感や不安が強い人ほど、その裏側にはそれと同等の欲望があるのです。欲望に沿って生活すればよいのです。生の欲望の発揮のことです。しかし緊張感や不安を取り除くことを目的にする人が多いのが現状です。その努力は精神交互作用によって、泥沼に陥ってしまいます。私もこの2つの考え方が森田理論の核になる考え方だと思います。この考え方を分かりやすくして学校教育、社会教育、家庭教育に応用していく必要があると思います。私は「心の健康セミナー」に出席して感じたことは、ガンや難病、慢性疼痛、慢性皮膚病、うつ状態、不登校やひきこもり、人間関係、家族、子育て、教育、社会の諸問題などの身近な問題を取り上げて、森田理論を応用した話題を数多く提供していくことが効果があると感じています。
2020.01.06
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生活の発見誌の11月号に次のような記事がありました。(49ページ)阿川弘之さんが伝記を書く際の基礎的な心構えの一つとして、次のように書いています。「説明せずに描写せよということです。美しい花、美しい花と、いくら書いても、読むほうは美しいと感じられません。事実だけ述べて、読むものに「なんて素晴らしい」と感じさせる。それが描写であります。」学習会で、何回も、例えば「あるがままに」とか「事実唯真」が大切と言葉の意味を繰り返し説明しても、「わかった」という納得には至らないでしょう。貴方メッセージよりも、「自分の体験を伝える(事実)」私メッセージで示唆し・対話したいものです。なにげない説明ですがとても大切なことを云われていると思います。基本的な森田理論学習の心構えのことだと思います。森田先生も「具体的に話す」ということを重要視されています。抽象的なことことばかり訴えて「つまらない事を気にする」、とか「目上の人に気兼ねする」とか、「死ぬ思い」とかいう風に、あるいは人情の当然の事や、あるいはなんの事か、少しも見当のつかぬ漠然たる事をいって、いたずらに人の同情を求めようとする。神経質がすべて自分の苦痛を抽象的に・独断的・自分勝手にいわずに、事実を具体的に表現する工夫をすれば、それだけでも、その症状は、容易によくなるのである。(森田全集第5巻 226ページ)森田には「純な心」「はからい」「精神交互作用」「かくあるべし」「あるがまま」「事実唯真」など聞きなれない言葉が出てきます。それらの言葉の意味を学習して理解することは大切です。しかし理解できた段階で満足してしまっては、症状の改善や人生観の確立にはつながりません。たとえば「かくあるべし」の学習をすると、自分の頭の中で考えた観念、理想のことだと理解できます。「こうでなければならない」「こうであってはならない」などというものです。それを優先して生活していると、実際の事実、現実がその通りにならないので、葛藤や苦悩が生まれてくることが分かります。神経症というのはそれが増悪したものだと理解できます。理解できたら次の段階に進むことが大切です。ここがポイントです。自分の「かくあるべし」はどんなものがあるのだろうと考えてみることです。理論を自分の場合に当てはめて分析してみることです。対人恐怖症の人は、「他人から評価されるような人間にならなければいけない」「他人から批判、否定、軽蔑されるような人間にだけはなってはいけない」などというようなものかもしれません。そいった「かくあるべし」が現実の生活の中でどんな問題を生じさせているのか。自分の葛藤や苦悩を振り返ってみることです。実態が十分に理解できれば、どうすればその葛藤や苦悩を小さくできるのだろうかと考えるようになります。「かくあるべし」を少なくして、事実本位に近づくにはどう行動すればよいのか、しだいに見えてきます。森田理論にはそれを援助するための考え方が幾つも用意されています。こういったところに踏み込んで学習していくと、森田理論学習は本当に役立つものになります。ですから理論学習だけで「森田の云わんとするところは分かった」で終わるのではなく、果たして自分の場合に当てはめるとどういうことなのだろうと考えてみることがとても大切なのです。そして実践しながら、確信へと高めていくいくと素晴らしい人生に変わっていきます。
2020.01.05
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日記を書くことの効用について考えてみたい。森田先生は35年にわたって日記を書いておられた。実に素晴らしいことである。私は森田先生に触発されて、日記を書き始めて13年になる。続けられたのは、意気込んでいないからだと思う。書くことがないときは、天気、夕食の内容。その日の仕事内容ぐらいである。夕食の内容はすぐに書かないと、忘れてしまうことがある。尚夕食のおかずは一覧表にしたことがあった。同じようなメニューの繰り返しであった。そこで1か月に1つづつ新しい料理に取り組むことに挑戦したこともある。後、ブログの投稿内容の見出しを書いている。考えてみれば、このブログ自体は、日記のようなものである。その日に触発されたことを、森田理論に沿って練っていく作業である。これは今では楽しい作業になった。これで森田理論が深まる。人生観がより深く深耕できる。望外の喜びである。今では習慣になり書かないと気持ちが悪い。最初の6年間は3年連用日記であった。その後は10年連用日記に変えた。10年は毎年の流れがよくわかるのでお勧めである。1年が終わると、その1年間の日記を読み返して、その年のトピックスを書きだしている。結構いろんなことがあったことに気づく。自分の取り組んだこと、病気のこと、家族のこと、生死にかかわること、社会の出来事など。これが意外と役に立っている。家族の誕生日や命日などは、10年日記の一番上に書いてあるので忘れることはない。それから、その日にやったことを書いていると、次の年の参考になる。それに触発されて行動を起こすこともある。たとえば、野菜の苗を植えた。梅の収穫をした。魚釣りで小イワシがたくさん釣れた。菊花展に行った。菖蒲園に行った。バラ祭りに行った。老人ホームの慰問でどこに行ったとか。演奏曲目、演目なども参考になる。その他、誰とカラオケに行き、どんな歌を唄ったか。今度そこで聴いた歌を覚えたいと思ったなどなど。日記を書いてない人は、やろうと決めても3日坊主になるのかもしれない。毎日日記を書くことはしんどいし、後で役に立つとは思えないと思っているのかもしれない。たしかに1日1日をとってみると、特段役に立つことはないと思う。ところが日記というものは積み重なっていくのだ。この積み重なっていくことに意味があると思う。塵と積もれば山となる。森田先生の35年の日記は、森田理論確立の歴史そのものであった。私たちも日記を書くことで、自分史を作っているのだと思う。これを10年ぐらいしてまとめてみると、次の10年の目標が見えてくるかもしれない。自分が何を考えて行動して今に至り、今後どういう方向に行こうとしているのか。人間には自分の考えていることを口に出してしゃべることで、精練された考えに高めていく人がいる。その一方で、紙に書くことによって、ぼんやりとした考え方が形となって、まとまってくるタイプの人もいる。私たち神経質者は、論理的、分析的に思考することが得意なので、紙に書く習慣を作ることのほうが強みを発揮できると思う。その強みは日記を書く習慣を作り上げることでさらに加速する。日記を始めたい人は、気張らずに1日3行日記から始めたらどうだろうか。・今日食べたもの。アルコールの量、体調。今日の天気や温度。・今日の行動。うまくいったこと、思い通りにならなかったこと。・今日1日の中で小さな感動体験。他人からしてもらったことなど。とにかく、無理しないで「継続は力なり」という気持ちで取り組んでみましょう。
2020.01.04
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今年は1月2日、大型ショッピングセンターで初売りのにぎやかしでチンドンミュージックを流してきました。今年で6年連続でお呼びがかかりました。竹とすずめ、千鳥、美しき天然、黒田節、1月1日、さんぽ、アンパンマンのマーチなどでした。写真は仲間のエイサーの踊りです。4日は老人ホーム慰問で獅子舞とチンドン音楽をします。8日はチンドン音楽隊の練習日、9日は集談会仲間とカラオケ。11日は別の老人ホーム慰問。同じく獅子舞とチンドンです。18日仕事仲間とのカラオケ。19日集談会参加。26日新年会とカラオケ。充実しているというか、毎日楽しいです。仕事も忙しいので、風邪をひく間もありません。今年もこの調子で突っ走りたいと思います。
2020.01.03
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喜んでやりたいことばかりならよいのですが、日常生活の中には、やらなければいけないことだけれども、やりたくないこともたくさんあります。どうしてもやるになれない。自分のミスや失敗などは、できればごまかして責任を免れたい気持ちにもなります。森田では、イヤイヤ仕方なしにボツボツと手をつけましょうと言います。どうすればやりたくないという気分本位の気持ちに打ち勝つことができるのでしょうか。こうしたときの対処方法の一つをご紹介します。次の2つの方向から検討してみるのです。一つは「やりたくないからやらなかった時のデメリット」です。もう一つは、「やりたくないけれどもやったことによるデメリット」を書きだすのです。2つを見比べて検討するやり方です。実際の例でご説明しましょう。たとえば、「クレームを言ってきた顧客に折り返し電話をしなければならない」場面があったとします。電話したくないからしなかったときのデメリットはどんなことが考えられるでしょうか。・さらに顧客が激高して収拾がつかなくなる。・会社の信頼を失われる。以後の取引に悪影響があるかもしれない。・上司や同僚から無責任な人だと叱られて軽蔑される。・責任のある仕事は任せられなくなる。・格下げや移動させられるかもしれない。・損害賠償に追い込まれる場合も発生する可能性がある。次に電話したくないけれども電話した場合のデメリットも考えてみましょう。・顧客から辛辣な批判の言葉を聞かなければならない。・時には人格否定の怒りの言葉があるかもしれない。・損害賠償やお詫びの言葉を要求されるかもしれない。・電話が長引くと他の仕事に影響があるかもしれない。・きっと一日、気分が悪いままになるかもしれない。・さらに上司などに影響が及ぶかもしれない。・一回の対応では済まないで、さらなる対応を求められる可能性がある。この2つを考えていくと、将来に向かって明るい見通しが立つのは、電話したくないけれども電話をしたほうだということが分かります。電話をする方がよいことが分かれば、あとは戦略を練ることです。相手を過度に刺激しないこと。事実関係があいまいなら事実の究明に力を入れること。自分一人で対応できないなら、同僚や上司に相談して協力を仰ぐことなどです。気がのらないことに手をつけることは、太い注射針を刺されるようなものです。痛みは大変なものがあります。でもその注射を打つことで、激痛が緩和されるのでしたら、グッと我慢して受け入れることが得策となります。(自律神経が整えば休まなくても絶好調 小林弘幸 ベスト新書 148ページより要旨引用)
2020.01.03
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岡田尊司氏は「境界性パーソナリティ障害」(幻冬舎新書)という著書の中で次のように述べておられる。この障害の人が回復に向かい始めたとき、共通して見られる兆候がいくつかある。その一つは、刺激的なことよりも日々の日常的なことを大切にし、瞬間的な楽しみよりも持続的な喜びを与えてもらえるものに、多くの関心とエネルギーを注ぐようになることである。大きな夢や他人があっと驚くようなことを成し遂げなければ、自分はつまらない存在だと思いこんでいた人が、地味なことに対して、地道な努力を続けるようになる。成果の華々しさよりも、その努力自体を楽しむようになる。これは神経症を克服した人も同様ですね。他人の目を引き付けて賞賛を浴びることばかり考えていた人が生活スタイルを一変させています。その辺にいくらでも転がっている、小さなしあわせのかけらを大事にするようになります。毎日小さな感動を数多く味わうことができるようになります。平凡な生活の中で、満ち足りた穏やかな気持ちで生きていくことができるようになります。自分が生きていること、周りの人や自然と調和していることに心から感謝できるようになります。以前のその人の生き方が、まったく新しい生き方にとって代わっているのです。森田理論学習ではこのような人生観の確立を目指しているのです。岡田尊司氏はもう一つの特徴をあげておられます。その人を囚えていた激しい怒りが薄らぎ、心が穏やかになるとともに、これまで生きてこられたことへの感謝の思いが兆してくることである。生まれてこなければよかったという思いに囚われ、自分を産み育て親に怒りと憎しみをぶっつけていた人も、自分に生を与えてくれたこと、そして、この世に今こうして存在することの奇跡に深い畏敬の念を覚え、素直に感謝の気持ちを口にするようになる。これはどうでしょうか。感謝即幸福の状態です。これはハードルが高いと思われるでしょうか。私は長らく父親を憎んでいました。神経質性格は父親のせいだ。父親が自分を否定するばかりで、片寄ったしつけや教育をしたおかげで対人恐怖症になった。どうしてくれるんだ。責任をとってくれと気持ちだったのです。森田とかかわっていま感じていることは、父親も父親の親父から、非難や否定されて育ってきたのだと思います。対人恐怖症を抱えて、アルコールに逃げて、最後には肝硬変で52歳という若さで亡くなってしまいました。森田に出合うこともなく、きっと後悔の残る一生だったと思います。一人で苦しみなすすべもなく亡くなったのです。その父親は私に神経症という人生の課題を残してくれました。どうだ、この神経症から逃げないでなんとか乗り越えて見せてくれと言う気持ちだったのではないかと思います。私は苦しみのたうち回る中で、幸運にも、森田理論と生活の発見会活動に出合うことができました。ひとすじのかすかな光を見つけることができたのです。幸運以外の何物でもありません。神経症にならないで順風満帆な人生もそれはそれでよいかもしれません。でも神経症になったからこそ、森田理論に出合い、人生をより深く見直してみる機会を与えられていたということです。人生はどんなことでもいい。やるべきことや問題や課題を持つことが大切だと思います。だれでも持っているのですが、それに気づいて、何とかしようと思って取り組むことが「努力即幸福」なのではないでしょうか。親父にはその課題を与えてくれた存在として、感謝するこそすれ、憎む相手ではないと思います。今も生きていたならば、神経質性格同士として、生き方をつまみにして酒を酌み交わしてみたいと思っています。しかし「親孝行 したいときには 親は無し」昔の人はうまい事を云ったものです。
2020.01.02
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今日はとても温かく春の陽気でした。参拝者が例年になく多かったです。
2020.01.01
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新たな気持ちで新年をお迎えのことと思います。今年一年一日一日を大切にして充実した年にしていきたいものです。昨年を振り返れば、自然災害の多い年でした。私の田舎でも3年前の土砂災害の復旧工事は手付かずの状態です。無残な山肌をその当時のままにさらけ出しています。大型台風や豪雨よる土砂災害は今年も発生する可能性が高いようですね。それに南海、東南海などの巨大地震も心配ですね。できる限りの備えをして、なんとか命だけは生き永らえるようにしたいものです。さて、このブログはほぼ毎日投稿してきました。これは今年もぜひ継続していきたいと思っています。今年は8年目に入ります。10年間はぜひ継続してみたいと思っています。できれば生涯にわたって続けたいという気持ちにもなっております。昨年一年間は約37万人の方のアクセスがありました。1日当たり約1000人近くの方がアクセスしてくださいました。日記を見ると1年目3万人、2年目8万人、3年目198000、4年目421000、5年目724,000、6年目1090000、7年目1460000人でした。この数は私のモチュベーションの維持に役立っています。読者のみなさまには、大変感謝しております。ただ現在のところは1000人から1500人程度でそれ以上には増加しなくなりました。改善を加えないと1500人以上にはならないと感じています。次のステップに移行していかないと、森田理論学習の大衆化は難しいと思っています。森田理論の大衆化のためのヒントがありましたら是非ともお知恵をお借りしたと思っています。どうかよろしくお願いいたします。森田先生は神経症の治療として1919年に森田療法を確立されました。そして長らく神経症治療として活用されてきました。多くの成果を上げてきました。ところが昨今では薬物療法、カウンセリング、認知行動療法を初めとする他の精神療法に押されて、その活用の幅はどんどん縮小傾向にあります。私は森田の考え方を現代によみがえらせるためには、神経症の治療としての活用だけでは限界を迎えると考えています。人間の生き方、人生観の確立、夫婦や会社や学校での人間関係の在り方、国と国の付き合い方、子育ての在り方、教育問題、強欲資本主義の改善、人間と自然との共生などに多くのヒントを与えてくれているのが森田理論であります。これらの問題は、精神科医やカウンセラーの守備範囲以外の領域かもしれません。しかし森田理論は、その方面で大いに活用の道を探る時代に突入していると考えています。このような方向で森田理論を活用することを考えてみたとき、とてつもない無限の可能性を感じるのです。森田理論は、理論として普遍的で一貫性を持ってると考えています。森田理論は、日本全国の人、世界各地の人が、全人類の貴重な文化遺産として、学習して応用すべきものとなるのではないかと考えています。そのためには森田理論の考え方がもっともっと身近なものとならなければいけないと思います。分かりやすい本も必要でしょう。SNSやyou tubeなどで積極的にとり上げることも必要になるでしょう。森田療法は確立から今年は101年目を迎えます。100年を一つの節目と考えたとき、森田理論の次の活動のステップに向けて、幅を広げていかなくてはなりません。そうしないと、次の新しい時代は開けてこないと思っています。ゆくゆくは英語版なども付け加えて、世界各国の人に森田の考えを紹介していきたいものです。森田理論の素晴らしさを感じている人は、手を携えてその普及のために協力していきましょう。以上が年頭にあたり私の決意表明です。
2020.01.01
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