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青山学院大学陸上部監督の原晋さんの人生は、山あり谷ありの連続であった。高校時代は駄馬といわれながら、練習とチームワークによって母校の世羅高校が全国高校駅伝で準優勝を果たした。中京大学時代は「おまえはチャラけている」と言われながらも、日本インカレの5000mで、3位に入り、中国電力に入社している。中電時代は足のケガから5年で選手生活引退を余儀なくされながらも、サラリーマンとして1から再スタートし、伝説の提案型営業マンといわれるような存在感を示した。そして、青学陸上競技部の監督に転身して3年目には廃部と監督解任の危機に追い込まれながら、何とかしのいで5年目に箱根駅伝出場、そして11年目に箱根駅伝優勝を果たしたのである。中電では選手生命を絶たれた。青山学院では3年で解雇されそうになった。なかでも1番苦しかったのが中電で選手を引退したときであるという。サラリーマンとして1から再スタートするといっても簡単に割り切れるものではない。そのために、陸上競技に対する立ちがたい未練を完全に断つことにした。以後、試合に足を運ぶこともやめた。テレビ中継を見ないようにした。陸上競技の関連の雑誌、本も買わなかった。つまり完全に退路を断って、28歳からサラリーマンとして再出発することにしたという。原さんは次のような話をされている。芝をある土地から別の土地に移す時、土を付けたまま移植すると根腐れして生育がよくないそうだ。だから、根に付いた土を水できれいに洗い流してから次の土地に植えるのだという。同様に、私たちも挫折して人生を切り替えるときには、根っこをよく洗い流して次のステージに進む必要があるのかもしれない。(逆転のメソッド 原晋 祥伝社 176ページより引用)これは神経症の克服にも参考になる話です。神経症の原因となっている、不安、恐怖、違和感、不快感がなくなるかもしれないと思いながら、森田理論学習に取り組んでいる間は、いつまで経っても神経症は治らないのです。治すことを断念する、絶体絶命になる、退路を断つ、背水の陣を引くことで、はじめて神経症克服の門が開いていくのです。逆説的な説明のように思われるでしょうが、これこそが神経症克服の真実なのです。未練は絶ちがたいのですが、このことは頭の片隅に入れておいてほしいと思います。原さんは人生のどん底で積極的にやったことは、勝利者や成功者の体験本を読み、成功体験を扱ったテレビ番組を見たりすることだった。苦しみから這い上がってきた人たちのライフストーリーはとても参考になった。これは、森田理論学習でいえば、自助組織の生活の発見会の集談会が担っていますね。そういう仲間がいます。宝の山だと思います。人生のどん底に突き落とされたとき、人間には2通りの道があります。一つは、自分の運のなさを嘆き、自分の存在を否定してしまう道です。本来人生には波があるわけですから、大底にあるときは、これから浮上していく流れに入っていくのが普通です。しかし、自己否定して嘆き悲しんでばかりいると、その大底は真の大底ではなかったということです。さらにまだ下に真の大底が口を開けて待っているのです。それが繰り返されると、人生は絶望に変わってしまいます。この悪循環にはまってしまうと、浮上のきっかけは全く掴めなかったということになります。つまり失意のうちに人生の終焉がやってくるのです。二つ目には、どん底を意識し自覚する道があります。現状を正しく分析して、事実を素直に受け入れるということです。問題や課題を認識して、底から這い上がる道を必死になって探す。そして、解決に向かって実際に行動に移していくという道です。こういう人は自己否定するようなゆとり時間は全くないと思います。その路線に入りますと、そこがまさに真の大底で、そこを出発点にして、人生は再び浮上していくのです。正常なレンジの範囲内の波が起こるようになります。谷深ければ、山高しです。その上昇スピードも速くなります。それが自信となり、その人は一回り大きな人間に成長することができるのです。森田理論学習は、そういう人を一人でも多く作り出そうとしているのです。
2020.09.30
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ニューロンは軸索という突起が伸びて、他のニューロンとつながっています。このネットワークのことをシナプスといいます。このネットワークは、生後3年目で1億5000万個になるそうです。これは誰でも共通しています。その後はどうなるか。3歳から15歳の間で、使うネットワークと使わないネットワークの選別を始めるのです。そして、半分ぐらいのネットワークを廃棄するという作業を始めるそうです。生きていくにはシナプスが多すぎて、かえって不都合が起きるのだと思われます。このことを「シナプスの刈込現象」といいます。これも誰にでも起こる現象です。16歳の時点で半分くらいになり、刈込作業は終了します。このようにして、人生の早い段階で、一人一人独自の脳のネットワークが作られて、私たちはこの脳とともにその後の人生を過ごしていくことになります。この過程で大事なことは、3歳から15歳のネットワークの選別と廃棄をどのように行うかということです。これには日常生活をどのように送るかが影響します。この時期にテレビゲームや英才教育を施して過ごさせることはもったいないと思います。親心で子供の意思に関係なく、早くから能力開発を行うやり方も問題です。最近、発達障害、自閉症、統合失調症、うつ状態などが問題になっていますが、その発生原因の一つに関わっているのかもしれません。刈込時期は、特に五感を鍛える必要があります。見る、聞く、触る、味わう、匂うなどの感覚を鍛える経験をどんどん積ませることです。家になかで、じっとした生活するだけでは不十分です。またテレビをつけっぱなしにして、冷暖房を効かせて、清涼飲料水やおやつの食べ放題というのはこの刈込作業がうまくいかなくなるのです。自然の中で、泥んこになって遊ぶ。砂遊び、水遊び、遊戯遊び。魚釣り、キャンプなどなど。犬や猫、昆虫などいろいろな動植物と触れ合う。親や兄弟、友達などとの触れ合う時間をたくさん作る。手を使い、足をつかい、どんどん動き回る。ミスや失敗を含めて、雑多な数多くの経験を積むことが有効なのです。これは感覚的経験を積ませるということです。好奇心の強い子供、興味や関心を持てる子供、粘り強い子供、分析力のある子供、体力のある子供、対人関係の持ち方、打たれ強い子供などはこの時期の過ごし方によって決まるのです。こうした感覚的な経験がないと、この手のネットワークは形成されません。無気力、無関心、無感動な人間になります。神経症の原因となるものです。廃用性委縮現象が起きて、この期間を超えてしまうと、すでに手遅れとなるのです。子育て中の親や祖父母の方は、ぜひとも留意していただきたいと思います。
2020.09.29
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引き続いて馬渕睦夫さんのお話です。以下の話は、「国際ニュースの読み方」(馬渕睦夫 マガジンハウス)を参照、引用しております。アメリカのトランプ大統領は誤解されやすい発言や行動が目立ちます。一般的な評価としては、大衆迎合主義、人種差別主義者、反知性主義者等と誹謗中傷されています。実は私もアメリカの大統領としては不適格ではないのかと思っていました。そういう先入観や決めつけで彼のことを評価しているのは、大変な間違いをしているのかもしれません。表面的な言動やうわさで真実が見えなくなっているのかもしれません。実際のところ、アメリカのマスコミをはじめ、アメリカの民主党、反対勢力が大攻勢をかけているので真実が見えなくなっているのです。しかしアメリカ国民は比較的冷静に見ていると思われます。今度の大統領選挙でその結果が出てくると思います。トランプ氏の考えを一言でいうと、「アメリカファースト」です。これは、グローバリズムに断固として反対する政策を進めていくという明確な意思を示しています。アメリカの繁栄、アメリカ国民の生活を豊かにするという目標を掲げているのです。今まではグローバリストたちの利益を最大化させるために、政治、経済、金融。マスコミが利用されてきました。その結果一部の超富裕層を作り出し、その他多数の人は貧困にあえいでいるのです。そういう社会に未来を託すことはできない。パラダイムの転換を図ることが大事だと彼は言っているのです。2019年9月の国連演説で次のように述べています。アメリカの目指すゴールは「世界の調和」であると強調しました。そして、「平和を望むなら、自らの国を愛せよ、賢明な指導者は常に自国民と自国の利益を第一に考えるものだ」と各国に対し、各国ファーストを情熱的に訴えました。グローバリズムが世界の平和(調和)につながるものではないのです。自国第一主義こそ世界の調和につながり、独自の文化に基づく得意分野を持つ各国が、世界という屋根の下で共存する新しい世界秩序、20世紀を支配してきたグローバリズム変わる世界秩序を生む必要があると熱く訴えているのです。トランプ大統領は、政治をグローバリストから取り戻すと言っています。これまでのアメリカの政治は、特定の政治プロによる特定の勢力のための政治であって、アメリカ国民の利益を無視したものでした。だからこそ、トランプ大統領は「アメリカファースト」と呼び掛けているのです。グローバリストのことを、ディープステートというのですが、政治、金融、経済、司法。マスコミをがんじがらめに抑えているために、トランプ大統領は大変な戦いをしているのです。現在は、もう一つの覇権を目指す中国共産党を倒すために、ある意味ではトランプ大統領とディープステートは協力関係にあります。ところが、ここで問題が解決したならば、トランプ大統領とディープステートは再び生死をかけて闘いを始めると思われます。そういう意味では21世紀は人類が、グローバリストたちから国家主権、国民第一主義の世界秩序を構築できるかどうかにかかっているのです。少なくとも、グローバリズムに反対するトランプ大統領がアメリカ国民から支持されたということは、人類はグローバリズムの拡大に人類の将来を託すことはできないということを薄々感じ始めているのではないかと思うのです。私たちは、そのからくり、真実を観察して選択を誤らないようにしなければなりません。
2020.09.28
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今日は事実にこだわって、日本がなぜ勝ち目のない太平洋戦争に突入していったのか説明してみたいと思います。参考図書は、「コロナ危機後の「未来」がわかる!国際ニュースの読み方」(馬渕睦夫 マガジンハウス)です。興味のある方は、是非馬渕睦夫氏の本を1冊は読んでみてください。沢山の著書があります。読めば近代史の真実に近づくことができます。この本によると、20世紀初頭のアジア各国は、アメリカ、ロシア、ヨーロッパの列強各国の植民地政策で侵略されていた。事実日本以外のほとんどの国は、植民地にされて収奪されていきました。つらい悲しい暗黒の歴史です。これに対して、日本だけがなすがままにされる道は選びませんでした。欧米列強国に徹底的に抵抗していたのです。ここで一言付け加えれば、欧米列強の裏には、巨大な資金を背景にして、陰で金融、政治、経済、司法、国際問題を操っているディープステートといわれるユダヤ系国際金融資本家がいることを忘れてはなりません。ロックフェラーやロスチャイルド家などです。これを理解しないと、表面的な出来事に振り回されるばかりで、真相に迫ることはできない。ですから、現代の国際問題を考える場合にも、ディープステートを抜きにして議論しても混迷を深めるばかりです。しかし日本が欧米列強に対して抵抗すれば、彼らは束になって迫害してきました。常に紛争を仕掛けられていたのです。北からはロシアが迫ってきました。アメリカは、本来水と油の毛沢東と蒋介石を合体させて、抗日運動を画策しました。莫大な資金力、軍事品の援助でバックアップしていたのです。国際金融資本の援助なしでは彼らは戦えなかった。どうしてそんなことをしたのか。欧米列強の利権獲得のためです。両者を戦わせて、足を引っ張り合わせて、弱体化させて、漁夫の利を得ようとしていたのです。つまり日本は巨大勢力と一人で果敢に戦っていたのです。巨大な勢力に対して、日本一国では勝ち目はありません。朝鮮併合、満州国建国にしても植民地政策で収奪することが目的ではありませんでした。自衛のためです。侵略目的と自衛目的では、現地の人に与える影響が違います。日本はもともとアジア各国に対しては、我々と一緒になって、欧米列強の横暴に対して、一緒になって抵抗しましょうと呼びかけていたのです。特に中国や朝鮮に共闘を呼び掛けていたのです。しかしどちらの国も同調してくれることはありませんでした。日本は孤立して、自衛の道しか残されていなかったのです。そういう日本の不遜な態度を列強各国は恐れていました。もし日本が台頭してアジア各国と手を結んで、欧米各国の植民地政策に反対していくことになると、欧米諸国の植民地政策が否定されることになります。アジアから追い出されて、莫大な利権を得ることができなくなります。これは絶対に容認できないと考えたのです。だから日本の思い通りにさせてはならない。日本は我々の世界制覇を拒む憎むべき相手であると認識し始めたのです。その後、アメリカによる日本バッシングが始まります。1939年日米通商条約停止1939年航空機ガソリン製造設備、製造技術に関する権利の輸出を停止1940年日米通商条約失効1940年特殊工作機械の対日輸出制限1940年大統領による輸出制限品目選定1940年航空機燃料の全面輸出禁止1940年屑鉄の輸出禁止1941年日本の在米資産の凍結1941年石油の対日全面輸出禁止最終的には、これが日本を追い込んでいきました。これが直接的な戦争開始のきっかけとなりました。ただし、向こう2年間の戦争に耐えられるだけの石油は確保させました。そうしないと、切羽詰まった日本が破れかぶれになって戦争を開始しないからです。日本は見事なアメリカの戦略にはまり、取り返しのつかない戦争に入っていったのです。また、日本国はそうするしか、道は残されていなかったのです。占領軍の総司令官マッカーサーは、後にアメリカ議会で証言しています。「日本の戦争は実は侵略戦争ではなかった。自衛のためのやむに已まれない戦争であった」つまり国際金融資本家と時の大統領ルーズベルトがシナリオを描いて、その挑発にまんまと日本が引っかかってしまったというのが真相なのです。そして多くの日本人が命を落とし、原爆を落とされ、領土を奪われていったのです。もし日本がその事実を事前に察知していたならば、やすやすと勝ち目のない戦争に突入することはなかったと思われます。日本の国防というのは、ユダヤ系国際金融資本家が、どのように世界戦略を立てて実行しているのかという視点(事実を見抜く眼)を持っていないと真実には近づけないということだと思います。徹底して事実にこだわるという考え方は。森田先生から学んだことです。事実に迫ることで初めて人類の未来を描くことができるのです。
2020.09.27
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ただいま公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団の提供でYou tubeでセミナーが開かれています。ホームページにアクセスしてみてください、期間限定です。9月28日12時までの公開です。今回は神経症の克服体験談を2名の人が発表されています。特におすすめしたいのは、強迫行為を行っている人です。戸締りが気になる、ガスや水道の元栓が気になる。・・・。生活の発見会でも理論的にしっかりしている人ですので、是非ご視聴ください。
2020.09.26
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最近友人から本を読むのならkindleがよいと紹介されました。試しに使ってみました。その内容を説明したいと思います。スマホにkindieをダウンロードしました。次に読みたい本を検索します。内容を確認して、読みたければ購入します。市販のものより安いものが多い。0円の本もあります。例えば、「神経質に対する余の特殊療法」(森田正馬)は無料でした。昨日は「国際ニュースの読み方」(馬渕睦夫)を購入しました。3時間で読み終えました。読みたいと思ったらすぐに手に入ります。送料もいらない。しかも割引価格になります。つぎに、使い勝手ですが、紙ベースの本と比べて格段に良いと思います。第一、読み終わった本が増えていきません。沢山の本をダウンロードして、ライブラリーに保存します。読みたい本を表示させて、好きな時に好きな本を読むことができます。待ち時間や移動時間が有効活用できます。本好きな人は、ここはと思ったところは、付箋をつけられていると思います。これに関してはブックマークという機能があります。この印が付いたものは、マイノートを表示させれば、付箋のついたページだけを表示さて読むことができます。それから、大事だと思うところは、マーカーなどで印をつけられると思います。印をつけておきたい場所は、ドラッグすると、黄色、水色、ピンク、肌色などに色付けされます。これもマイノートを表示させれば、その部分を簡単に見ることができます。後で読み返す時は、このマイノートでポイントを押さえます。私はブログに投稿する文章を書く時は、それらの部分からヒントを得て書いています。紙ベースの時と比べて、ほとんど内容に差はないように感じています。さらに難しい言葉は、その言葉の解説が入ります。それから黒字に白文字表示ができます。これが目に優しい。文字サイズは好きなように拡大できます。視力が落ちてきた人には重宝です。次に、本の表示は、普通1ページが表示されています。1ページに表示された文章は少ないのですぐに読むことができます。読み終わったら、指で右にドラッグすると次のページに移ります。その画面で、ダブルクリックすると連続したページに移行しますので、前後のページにすぐに移動できます。その時のページ数も確認できます。さらにスマホに9分割表示もできます。これを上にスクロールすると、自由自在にページを飛ぶこともできます。ブックマークのついたページやマーカーのついたページにすぐに飛ぶことができます。この部分をクリックすると、1ページの拡大画面になります。目次から読みたい章への移動もできます。途中で中断して電源を落としても、立ち上げるとその部分が出てきます。現在読みたい本は、「怒らない禅の作法」「言い訳」「古事記」「脳はバカ 腸はかしこい」「グローバリズムを超えて自立する日本」「私の財産告白」などです。まだまだいろんな機能があるのだろうと思いますが、今わかっていることは以上です。役に立つと思われた方は試してみてください。
2020.09.26
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相手に理不尽なことを言われたとき、「相手から一方的に暴言を浴びせられた」と思うことはよくあります。これに対して、相手が格下か、同程度の人と判断すると、反撃をすることが多くなります。強い相手には、さらに強い反撃をくわえられる可能性枷あるので、服従するしかない。しかし、その腹立たしい気持ちは怨念となり、きっかけがあれば仕返しをしようと考えます。これは、相手の暴言という事実に対して、被害者意識が湧きあがり、その感情に基づいて、臨戦態勢を整えて実際に戦うことにつながります。ここで注意したいのは、相手が自分の人格を否定するような暴言はいたというのは事実でしょうかということです。それは相手が自分に対して、人格を否定、拒否、無視、抑圧、脅迫するような暴言を吐いたように自分が感じましたということではないでしょうか。つまり、事実は違うかもしれないが、主観的にそのように感じたということです。事実に対して、ネガティブで否定的な感情が湧き上がってきましたということです。ここでは、事実として相手が自分を否定するような言動を吐いた。それに対して、私は不安になった。イライラした。腹が立った。つい反撃しないでは気持ちの収まりがつかないようになった。その感情に後押しされて、それらのマイナスの感情を吹き飛ばそうとした。つまり事実に対して、色眼鏡をかけてみているために、事実をネガティブに解釈しましたということなのです。目には目を、歯には歯をで、悪循環の始まりとなるのです。同じようなことを言われても、人によっては暴言とは思わない人もいます。第三者的な公平な立場から見て、あまりにも理不尽な言動だと思うような事でも、そうは受け取らないのです。貴重な忠告やアドバイスをしていただいた。私の行き過ぎた言動に対して、暴走を抑えてくれている。むしろ相手に感謝しているのです。相手のことをありがたい存在だと認識している。実に不思議な現象ですが、おおらかというか世にも珍しい人がいます。それは普段から信頼関係が出来上がっているからかもしれません。現象としては、同じ事実にもかかわらず、その事実の受け取り方と解釈によって、その後の経過が180度変わってしまうということです。カーネギーの書に、「極悪な犯人でも5分の理を認めよ」というのがあります。どんな凶悪犯人でも、「あの時はああするしかなかった」と言い訳をするそうです。ここで言いたいことは、相手には相手の言い分があるということです。暴言を吐く人にはそれなりの理由がある。その人の特徴かもしれない。成育過程で身につけた習性かも知れない。自分の将来のことを思ってのことかもしれない。その他、そう言わざるを得ないような理由があったのかもしれない。すぐに反撃する人は、事実を無視して自己中心的な面が強く出ている人かもしれません。そして格下の人に対しては、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けてしまう人です。事実を先入観や思い込みで解釈しやすい人です。事実があいまいになり、事実とかけ離れたところで、言い争いをするようになります。腹を立てるのが悪いと言っているのではありません。その前に、相手の言動の真意を確かめるゆとりを持ちましょうと言っているのです。一旦相手の立場に立って、客観的に事実を見るようにする。つまり、事実に寄り添う時間を持ちましょうということです。これだけでその後の展開がよくなるとしたら、望外の喜びになるのではないでしょうか。
2020.09.25
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2014年4月1日に脳細胞のミエリン化について投稿しました。よく読まれている投稿です。ミエリン化とは、今まで有線だった脳細胞の軸索が、光ファイバーに置き換えられるようなものです。情報の伝達が4Gから5G、6Gへとグレードアップされるようなものです。これで動画を大容量で、ストレスなく長時間見られるようになります。情報、教育、医療、生産、物流、交通などの仕組みがガラッと変わるようになります。例えば自動運転で眠っているうちに目的地についてしまう。臨場感のある動画映像が家にいながら楽しめるようになります。脳細胞のミエリン化は、神経と神経をつなぐ軸索に、オリゴデントロサイトが巻き付いて太くなるそうです。太くなると頭の回転が早くなる。1を聞いて2を知るというような状態になります。そうでない人と比べると、一目瞭然です。あの人は生まれつき頭がよいので、逆立ちしても勝てないと思っていることは、実は認識の間違いということです。日常茶飯事、好奇心、興味や関心を持ったことに、一心不乱に取り組んでいるうちに、脳細胞のミエリン化は誰でも可能になるのです。小さいころから楽器の演奏などをしていると、ミエリン化が起きるといわれています。これは以前の投稿でご紹介しました。つまり必要に応じで、脳細胞は作り変えられるものであることを認識した方がよい。必要を感じなければ、脳細胞が成長することはない。廃用性委縮が口を開けて待っているということになります。大学入試の時、全国模擬テストというのがありました。ここで全国1位になった人がいます。ほとんどの科目で100点満点に近い成績を出しています。東大医学部にもトップの成績で合格できるそうです。この人の脳細胞では、ミエリン化が間違いなく起きていたのだろうと思います。その方が脳の鍛え方を紹介してくれていました。これが大変興味をそそりました。徒然草を音読しなからすべて暗記したというのです。徒然草は全部で243段まであります。序段では、「つれづれなるままに、日くらし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものくるほしけれ」で始まります。歌の歌詞を読むようでテンポがよいのです。仁和寺の法師の話は53段にでてまいります。ちなみに意味は分からなくても、どんどん音読して、暗記することが大切です。全部を暗記して、スラスラと口から出てくるようになることが最終目標です。思っただけでも楽しそうです。するとどんなことが起きたのか。自分でもびっくりするくらい、頭の回転が良くなったそうです。知らず知らずのうちに、脳のミエリン化が起きていたのです。数学でも、物理でも、化学でも簡単に理解できるようになってきた。応用問題も次々と解けるようになった。簡単に理解できるから、ますます興味や関心が広がって深まっていく。つまり古文だけではなく、あらゆる方面の学習のスビートが上がってきたのだそうです。だから暗記することを、ガリ勉だなどといって、馬鹿にしてはいけないのです。暗記する力は、脳細胞そのものを変えてしまうのです。徒然草の代わりに古事記でもよいそうです。古事記は森田先生も推奨されていましたね。神話の話で、非科学的な話のようですが、音読して覚えてしまうことは、脳を成長させるということです。森田先生は小さいころ、父親から、漢詩を覚えさせられていましたね。その時は反発されていたようですが、脳細胞が鍛えられて、後々役に立っていたのではないでしょうか。今現在子育てをされている方は、応用されてみたらいかがでしょうか。その際、子どもに押し付けるのではなく、親が率先して取り組むことです。子どもは親の後姿を見て反発しながらも、同じような行動をとりながら成長していくのです。年配者はボケ防止のために、取り組んでみたらいかがでしょうか。私はカラオケが好きなので、歌の歌詞を覚えることが多いです。いっぺんに覚えられなくても、森田理論で教わった連想法を活用すると、いつの間にか覚えてしまいます。すると普段の生活の中で、自然に歌を口ずさむようになります。記憶する努力は、脳細胞を鍛えて、認知症を遠ざけることにつながります。こんなにうれしいことはありませんね。
2020.09.24
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稲作をやっている田舎の人に聞いてみた。米を作って収支はどうですか。1反当り(10m×100m)、30キログラムの玄米が約10袋ぐらい収穫できます。それを1袋6000円台で販売しています。1反では、約6万円の収入です。一般的には1町歩(1反の10倍)ぐらいの農家が多いので約60万円の収入です。都会で働く人で年収60万円というのは、生活保護世帯よりもひどいです。せめて、200万円ぐらいにならないか。それに兼業の収入がプラス200万円から300万円くらいあれば、子どもを育てながらなんとか生活ができる。以前は減反奨励金があったが、今は廃止になったので収支を考えたら米作りなんかできない。支出はどうですか。種代、肥料代、除草剤、農薬代、ヘリやドローンによる防除費用などがかかります。別途水利利用料がかかります。次に機械代がかかります。これが大きい。草刈り機、トラクター、田植え機、コンバイン、軽自動車、乾燥精米機は必須です。トラクターは300万くらい。田植え機は安くても100万円、コンバインは300万円くらいです。外注に出すとそれだけ経費が加算されます。共同にすればよいと言いますが、兼業農家が多く、ほとんど自前です。いろいろ出費がかさみますね。利益は出ていますか。とんでもないです。見ればわかるでしょう。トントンになればよい方です。成育管理、水管理、草刈り、防除などの家族労力は、経費としてカウントできない。労務費を計算すれば赤字です。つまりただ働きということです。それでもやっているのは、先祖の土地を守るという使命感のようなものです。でも私たちの世代が引退したあと、10年から20年すると、やり手がいなくなります。広大な田んぼが雑草だらけという時代がすぐそこまでやってきています。若者が農業をやりたがらないのがよく分かるでしょう。現在田舎では人よりイノシシや鹿や猿の方が多い。危なくて夜は外出できない。田んぼや野菜畑は、電気などの防護柵を設置している。田んぼは現在売ろうとしても買い手は全くいません。それでも固定資産税はかかってきます。もし中国人が来て、1反10万円でよければどんどん買いますよということになれば、喜んで売る人が出てくるでしょう。そうなれば中国人が、米を生産して中国に送ることになります。何しろ中国は食糧の輸入国ですから。日本という形はとっているが、実質的には中国の属国であって、日本人の胃袋に入る米は作っていないということになります。現に北海道の土地がそうなりつつあります。今後中国は日本全国に広げていく考えです。機は熟したとみているのです。現在10キロのコメは市販で3000円ぐらいですが、4000円、5000円、6000円でもよいので売ってくれと言った時に初めて日本人の口に入ります。年収が300万以下の人が1000万人を超える状況で生活はますます苦しくなります。国民を豊かにすることが国家の最大の役割ではないのでしょうか。主要穀物の自給率はここ20年で急激に悪化するでしょう。この惨状は先進国で唯一です。今日食べるものにも事欠くような状態になった時、現在飽食三昧の日本人が生き延びていけるのでしょうか。
2020.09.23
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森田先生はやるかやらないか迷うときは、いったんイエスと引き受けなさいと言われています。やれる自信、能力、時間がなくても、興味や関心があれば、自分を背水の陣に追い込んだ方がよい。そうすれば、何とか課題や目標を達成しようと努力するようになる。チャンスの神様は前髪はあるが、後髪はない。じっくり考えて、より良い結論を出そうとしては遅すぎると言われているのです。ほんとにそうなのか。ある人が会社の採用試験を受けた。会社は経理に精通し決算書が作れる人を求めていた。その人は簿記の資格を持っており、やり方を教えてもらえれば、何とかなるだろうと思って、「できます」と答えた。運良く採用された。ところが決算時期を迎えて、目的が果たせなかった。結局は会計事務所に依頼することになった。その人は解雇されたという。この方は作成能力がないのに、採用されるために安請け合いをしたのである。入社後死に物狂いで、バランスシートや損益計算書の作成、税務申告書の作成方法を勉強すれば何とかなったのではないかと思う。入社できたことが最終目的地で、その後の努力を怠ったので経歴詐称を働いたと思われたのである。森田先生の言われていることは、イエスと答えたあと、何とか期待に応えるために、死に物狂いで努力精進することを前提としている。自信のない事、能力不足なこと、時間不足なことを引き受けるからには、なんとしても与えられた目標を達成するのだという覚悟がいる。もしそれがなかったとすると、軽はずみで、信頼のおけない人だと判断される。自分は赤っ恥をかき自信を無くする。それ以上に他人には迷惑がかかる。これは友達との約束についても同じことが言えます。友人と旅行にいく約束をする。コンサートに行く約束をする。スポーツ観戦の約束をする。飲み会やカラオケの約束をする。研修会や講演会に参加する約束をする。結婚式に参加するという約束をする。自分も興味や関心、意欲があって相手の提案に賛同したのである。一旦イエスといって約束したならば、約束を果たすという責任が生じる。これを忘れたり、安易に取り扱ってはならないと思う。スケジュール表やメモ用紙などに、日時を書いて忘れないようにする努力をしなければならない。当日になって、すっかり忘れていましたと言い訳するのは無責任である。忘れない工夫はいろいろとあります。配偶者に伝えて時間になったら教えてもらう。タイマーをセットしておく。玄関にメモを張り付けて意識づけを行う。電話の取次ぎでも、引き受けたからには、つい伝言を忘れてしまうことは許されない。めんどくさいと思ってもすぐメモしておく。人間は、別の事に関心が移ると、以前のことはすぐに忘れる生き物だからである。当たり前のことを怠ることで、一挙に本人も会社も同時に信用を落とす。こうなると後の祭りになってしまうのです。もっとたちが悪いのは、いったん約束したのに、自分の都合によってキャンセルする場合である。なかでも、ドタキャンは最もたちが悪いと思う。人間性を疑わざるを得ない。自己中心の権化みたいな人で、犬も食わない代物になる。そういう人とはなるべく距離をとった付き合いをお勧めしたい。一旦相手と約束したならば、基本的にはそれを第一優先順位としなければならない。それよりももっと楽しそうなことや大事なことがあっても、それはもはや第二優先順位にとどめるべきである。それを自分の都合や気分によって、キャンセルすると相手に多大な迷惑をかけてしまうことを認識すべきである。そして、ドタキャンの○○さんと噂を立てられて、信頼を失ってしまう。それなのに「カエルの面に小便」のような態度をとり続ける人がいる。そういうのが身に沁みついているので何度も繰り返すのです。そういう人は、安易にイエスといって引き受けるのではなく、最初に断るべきである。あるいは、期限ぎりぎりまで待って判断するべきであろう。この手の人は、森田先生の教えを真に受けていると、とんでもないことをしでかすのである。
2020.09.22
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誰でも過度な依存症は何とかやめようとします。アルコール、タバコ、ネットゲーム、薬物依存症などです。しかし、その快感が脳細胞にしっかりと刻み込まれていて、抜け出すことは容易ではありません。完全に依存症になると、自分一人では治すことはできません。医師の指導の下に薬物療法、入院隔離、リハビリ、自助組織への参加などで回復を目指すことになります。家族崩壊、経済崩壊、健康破壊、人間関係などに悪影響を及ぼさない程度に、回復できればよしとしなければなりません。依存症に陥る前に何とかならないのでしょうか。今日はその方法について、森田理論の立場から説明したいと思います。今日はニコチン依存症について考えたいと思います。タバコを吸わない人は、どうしてあんなものがうまいのだろうと不思議です。私も大学生のころ、タバコを吸うと大人になったみたいでかっこいいので吸おうとしたことはありますが、煙で息苦しいばかりで、しばらくすると嫌いになりました。タバコを吸う人に聞いてみると、一仕事した後のタバコはうまいといいます。あるいは食事の後のタバコは、精神的な安定感をもたらすなどと言います。何かにつけて手持ち無沙汰になると、ニコチンを体内に取り入れて、精神的な安定感というか、高揚感を味わいたいのです。他人にどんなに嫌がられようとも、もともと好きなのです。好きなものは、どんなにタバコが高くなっても、やめることはできません。それを理性で、他人に嫌われるからタバコをやめようと言い聞かせても、自分の素直な気持ちに反することを強制しようとするのですから無駄なのです。むしろ止めようとすれば、意識がそこに張り付いてしまいます。そしてどんなに反対されても、意地でもタバコは止めないということになってしまいます。つまり他人の忠告は聞く耳を持っていないのです。そんな時は、むしろそんなにタバコが好きなら、一日1箱、2箱と言わないで、3箱、5箱と気のすむまで飲んだら良いじゃないですかとけしかけた方がよい。けしかけられると精神拮抗作用が働いて、むしろ自重する方向に働く場合もある。これは逆説療法ですが、森田先生もこの方法を説明されています。森田で言っているオーソドックスな対応方法は次のようなものです。タバコが好きでたまらないという気持ちを否定しない。そういう自分を第三者的な立場に立って、冷静に見つめるのです。それがいいとか悪いとか価値判断をしない。現実の自分をありのままに見つめる。原因追及もしない。「あなたはタバコが好きでたまらないのですね。今吸いたくてうずうずしていますね。分かりますよ、その気持ちは!」タバコを吸う前に、その感情をそのまま味わうのです。感じ尽くすのです。時間は10分ぐらいを目安とする。この10分間という時間は、ぜひとも意識してください。すると不思議なことが起きる。時間の経過とともに、吸いたくてたまらないという衝動的な感情が変化してくる。一山超えて下り坂に向かってきているのが分かる。衝動が落ち着いてきて、多少変化してくるのです。これは経験によってぜひとも検証していただきたいです。これは衝動的に腹が立った場合にも応用できます。感情が高揚したとき、10分間ほど間を置くという方法です。すると衝動的な怒りの感情はひと山登り、下降に向かうのが自然の流れです。森田理論の感情の法則で説明しているとおりです。神経質性格者はせっかちな人が多いのですが、間をとるということを意識してもらいたい。ただ、ここでじっとしていてはいけません。この先が肝心です。薄まった時に、目の前にある課題に取り組むようにするのです。日常茶飯事でもよい。仕事、勉強、家事、育児、趣味でも何でもよい。そのうち弾みがついたらものそのものになって取り組んでいく。気が付くとタバコを吸うタイミングを逃していた。自然に無理なく吸わないで済んだということになるのです。森田では、自分を破滅させるような、衝動的な感情に対してこのような対応方法をお勧めしているのです。ただし完全な依存症は、脳神経の異常によるものですから、効果はないでしょう。そのことはご理解いただきたいと思います。あくまでもこの対応は、依存症に陥る前の人に向けての提案です。
2020.09.21
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昨日はオープンステージでの音楽会に行きました。このグループは、平均年齢70歳を超えています。同じ高校のブラスバンドの仲間たちだそうです。スィング、ラテン、懐かしの歌謡曲などでした。仲間と一緒に音楽に取り組むことはすばらしい活動だと思いました。私も下手ながらちんどん屋のグループに入って、アルトサックスを続けています。人間関係の輪も広がり、ほんとによかった思っております。さて私はこの連休は田舎に帰ります。夏野菜の整理と秋野菜の植え付けです。夏野菜は長雨とその後の日照りであまり良い出来ではありませんでした。ミニトマト、キュウリ、カボチャはよかったのですが、ナス、ピーマン、シシトウはもう一つでした。サトイモは日照りでほぼ全滅状態でした。イチゴもだめでした。サツマイモと黒大豆は豊作でした。これから、ダイコン、ハクサイ、ジャガイモ、ニンジン、キャベツなどの植え付けです。11月に入ってからタマネギを植えます。ハクサイとキャベツは虫よけを取り付けます。ダイコンとジャガイモとラディシュは放っておいてもうまくできます。手がかかるのはニンジンとタマネギです。ニンジンはなかなか芽がそろわないのです。タマネギは生育不良で球太りが悪い。黒マルチをした方がよいのかもしれません。近所の人に教えてもらって、今年こそは立派に生育させたい。このブログでも自家用野菜つくりはお勧めしていますが、初めての方はぜひプランター野菜つくりから始めてみてください。図書館に行けば役立つ本がたくさんあります。
2020.09.20
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森田先生は、自分の観念・主義を押したてようとすると強迫観念のもとになる。価値は常に必ず相対的なものである。これを絶対的に一定したもののように思い違いやすいから、その考え方から、種々の思想の誤謬となり、また強迫観念ともなるのである。強迫観念についても、従来の価値観を打破して、相対性原理を理解することによって、初めてこれを全治させることができるようになったのである。(森田全集 第5巻 520ページより要旨引用)森田先生の話をもとにして、人間関係に相対性理論を応用することを考えてみたいと思います。森田先生は、自分がこれまでの人生の中で身につけた思想、観念、主義などを絶対的な真理とみなすことは間違いであるといわれています。その考えを自分や他人に押し付けると、神経症を発症する。不安はあってはならないものである。他人に非難されるようなことがあってはならない。これらは、森田理論では「かくあるべし」ということなのですが、誰しもこの類の考え方をたくさん持っています。特に神経質な人には理知的でその傾向が強い。これは客観的に見ると、あまりにも一面的な見方であり、普遍的な真理とは言えません。そういう考え方を持つことは構いませんが、それが絶対的真理だとみなすことは弊害が多い。ましてやその考えを自分や他人に押し付けるようなことはよくないことです。自分独自の考え方は、世の中の普遍的な考え方からすると、間違っているかもしれない。別の考え方があるかもしれない。「井の中の蛙、大海を知らず」状態にあるのかもしれない。それは絶対的で唯一無二のものではなく、新しい普遍的な真理にとって代わる運命にあるかもしれない。そういう考え方でいるとよいのですが、自分独自の考え方を持ってしまうと、それにこだわってしまう。他人の話を、聞く耳を持たなくなり、異論に対してすぐに攻撃を開始してしまう。よりよい普遍的な真理を求めるという態度が希薄になり、相手を論破することが目的になる。相手をこき下ろし、対立をあおるので、当然人間関係は悪化します。自分の考え方にこだわり、他の意見を無視するというやり方は、とんでもない方向へと流されてしまうのです。人生そのものの歯車がかみ合わなくなります。森田理論では、自分の考え方をしっかりと持って主張することは大事であるといいます。そうしないと相手の言動に振り回されて、放置すると、最後には相手の言いなりになる。この生き方は苦しいばかりです。ただし、自分の独自の考え方を一方的に他人に押し付けてはならない。自分の「かくあるべし」を押し付けてはならないということです。他人には他人独自の考えがある。それを無視してはならない。それを吐き出させて、理解しましょうという気持ちを忘れてはならない。自分の気持ちと、相手の気持ちの間には乖離があるのが普通の状態です。その溝を埋めて、二人ともwin winの状態に持っていく。調整や妥協の労を厭わないで、粘り強くつきあっていく。これが森田先生の言われている人間関係における相対性理論なのではないでしょうか。「かくあるべし」の強い人は、自己主張が強く、自己中心的な人です。精神的なゆとり、包容力の広さは感じられません。いつも挑発的、好戦的です。2人の人間がいれば、意見の対立は必ず発生する。お互いにそれを出し合い、調整、歩み寄り、妥協を繰り返しながら生活するという態度を持ち続けることが大切になります。
2020.09.19
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私たちの日々の生活というのは、無意識な行動が淡々と繰り返されていると言っても過言ではありません。これは習慣化された生活パターンの事を言います。これを具体的に、私の例で説明します。朝6時20分に目覚ましが鳴るとすぐに起きます。そして布団をたたみ収納します。窓を開けて、空気を入れ替えて、太陽の光を浴びます。そして、ベランダの草花に水をやります。着替え、歯磨き、シェーバーを使い、顔を洗い、トイレを済ませます。パソコンを開き今日アップされているブログの投稿原稿をコピーして、外付けのハードディスクに移します。その時間違いがあれば、すぐに修正します。明日アップする原稿の点検をします。以上で時間は10分から15分くらいです。それから1時間くらいかけて、新たなブログ原稿を作ります。テーマは前日に決めてあります。それが終わると、ドジョウ掬いとしば天踊りの練習をします。そのあとニンジン・リンゴジュースを飲みます。ヨーグルトを飲みます。基本的には朝食というのはとりません。それから忘れ物をしないようにチェックリストで確認して職場に向かいます。家を出るのは8時20分と決まっています。自転車なので途中は腹話術の口上やカラオケの練習を行っています。これらの行動はすべて習慣化されています。習慣化された行動には流れがあります。何をしようかと考えることはなく、すべて体が覚えてくれています。これらは淀みのない小川の流れのようです。会社に行っても仕事のすすめ方はほぼ習慣化されています。それに沿って、基本的には淡々と仕事をこなしているのです。そして家に帰ってからも、習慣化された生活を繰り返しながら日々暮らしているのです。こう考えますと、日常生活は習慣化された行動の積み重ねであるともいえます。意識が入り込む余地がない。無意識の行動になっています。同じ時間に同じことを繰り返しているという状態になります。パズルのパーツを埋めて一つの作品を作り上げているようなものです。生活にリズムがある事が実感できます。この習慣化された行動の数が多い人は、傍から見ているととても行動的に見えます。ある人から、そんなにせわしなく動き回っていたら、疲れるでしょう。マンネリになってイヤになることはありませんかといわれます。本人は習慣化されているので、無意識に手や足が動いているのです。決して意識しながらやっているわけではありません。だから無理がない。むしろ習慣化されたことをやらなかった方が違和感がある。物足りなさというか気持ちが落ち着かないのです。意識的だったのは、習慣化される前の事です。習慣化するまでは、多少のエネルギーを必要としました。習慣化された行動パターンが少ない人は、暇な時間が出てくるのではないかと思います。手や足が動いていないときは、瞬間的に楽ができても、そのうち退屈さを感じる。その時間にすることは、観念の世界でああでもないこうでもないと思考遊びを始めます。これは空虚で味気ないものです。そのためにコマネズミのように、意識的して自分自身に対して、行動をけしかけるような人もいます。動き回れば不安定な精神状態が改善されることがよく分かっているからです。それも一つの手ではありますが、私はよい習慣作りを最低10個から20個ぐらい作ることをお勧めします。この数は多いと思われるかもしれませんが、私が例で示したようにごく小さい習慣作りです。習慣になって日々の生活に組み込まれたら、1日があっという間に経ちます。そういう生活の中で、気づきや発見があると小さな喜びや楽しみに満ち溢れてくるのです。そのためには、小さな習慣作りから始めてみませんか。
2020.09.18
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ピーク・エンド法則とは。最も感情が動いたとき(ピーク)と、一連の出来事が終わった時(エンド)の記憶だけで、ある経験について全体的な印象が決定されるという法則です。つまり、途中でどんなに苦しい事、悲しいことが連続していたとしても、一つの感動体験とそれらを乗り越えて、最後に到達した地点によって、それまでの葛藤や苦悩はすべて清算されてしまうという考え方です。終わりよければすべてよしということです。これは2002年ノーベル賞を受賞した、行動経済学者のダニエル。カーネマンが提唱している理論です。具体的な例で説明しましょう。ディズニーランドなどで人気のあるアトラクションでは長時間の待ち時間があります。2時間とか3時間になることもあるそうです。考えただけでうんざりします。順番が来て、やっとお目当てのアトラクションに乗れました。しかしその時間はたったの5分間ぐらいなものです。待ち時間に比べて、楽しみの時間が少なすぎです。大きな不満が残るのではないかと考えられます。ところが実際には、お目当てのアトラクションに乗れたという結果と満足感によって、長い待ち時間という精神的・肉体的な苦痛は相殺されてしまうのです。ハッピーな気持ちになれるのです。考えてみれば不思議ことですが、それが事実です。これと同じように、私たちは症状は千差万別ですが、それぞれ神経症で苦しみました。幸運なことに、その途中で森田療法に出会いました。さらに生活の発見会という自助組織に関わることができました。葛藤や苦悩の末にやっと光明を見つけ出したようなものです。森田で救われるかもしれないと思った体験は、人生の転機となりました。感情が大きく揺さぶられるピークの体験を一度は持つことができたのです。ところが、そのまま人生が好転したわけではありません。紆余曲折の連続でした。人生を投げ出してしまいたいと思うことも何度もありました。ところが人生の第4コーナーを回り、ゴール地点が見えたころ、森田理論に関わってきて、この人生でよかったのだと思うようになりました。つまり波でいえば、いったんピークをつけて、またずるずると下降して来た運勢が最後にまた上昇して、ついに以前のピーク地点を追い越していたというイメージだと思います。理想通りの人生を歩んできたといっても過言ではありません。もしピーク・エンド体験がなかったらと思うと、ぞっとします。神経症を抱えながら、森田との出会いもなかった。自助組織とのかかわりもなかった。森田理論の深耕体験もなかった。自分の人生は最後まで神経症との格闘の歴史であった。人間に生まれたことは、最大の不幸を背負ったことだった。こうして人生の最終章を迎えた人に比べると、自分はなんと幸せな人生だったことかと思わずにはいられません。運命とは言え、森田と出会い、森田でもまれて、最後には富士山頂に到達することができた。これは望外の喜びであったと思えるのです。つらいと思いながらも、目の前の一歩を踏み出し、歩き続けることで、気が付いてみるととんでもないところに到達していたという気持ちです。森田理論を学ぶ機会に出会えたこと、一緒に学ぶ仲間に出会えたことに感謝したいと思います。そしてその受けた恩恵は必ず後世に伝えてゆきたいと思っております。
2020.09.17
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最近、無気力、無関心、無感動な人が増えていると聞くことが多い。これは、行動するためのエネルギーが少ないか、枯渇している状態なのではないか。ガソリン車はガソリンが空になると車は動かなくなります。この場合は、ガソリン切れになる前に補給することが大切になります。大うつ病の人は、エネルギー切れを起こして、動くことが困難になる。こういう場合は、仕事や家事などは一旦休んで、薬物療法と休養をとることが大切になる。再起不能になる前にエネルギーの補給を考える必要があります。そしてエネルギーが徐々にたまってくるのを待つことが大切になります。慢性的にエネルギー不足の状態にある人は、エネルギーを補給することが必須です。せめて半分以上はため込むことが望まれます。エネルギーはリチウム電池を充電して、再び使用できるようにしているようなものです。コンセントに電源をつないで、他からエネルギーを取り込んでいるのです。携帯電話もそうです。充電しないと使い続けることはできません。人間の場合も、エネルギー切れを起こすことが予想されるときは、全部使い切る前に補給することが大切です。エネルギー切れを放置していると、エネルギーの充電装置そのものが破壊されることがあります。これは株式投資をしている人を見ているとすぐに分かります。自己資金を失った人は、再起不能になり、投資の世界から強制退場させられます。投資するための資金が枯渇してしまったのですから、どうすることもできません。生活することすら困難になり、最悪自己破産することも考えられます。だから投資をする人は、投資する前に資金管理の学習が必要になるのです。エネルギーを枯渇させないで、余力を持って運用することが大切になります。森田理論では、短期的なエネルギーの枯渇防止のために、どんなことを勧めているのか。何も手につかないときは「超低空飛行」をお勧めしています。神経症でのたうち回っていても、最低限の日常茶飯事には手を付けましょうということです。それが習慣化して、自然に行動できている人は、絶えずエネルギー補給を行っている人です。ここで肝心なことは、決して墜落させないということです。一旦墜落してしまうと、再度飛び立つためには莫大なエネルギーが必要になります。なかには、ダメージが大きく、再び飛び立つことができなくなる人も出てきます。これはエネルギーの補給に失敗して、墜落して機体を損傷してしまったようなものです。森田では、エネルギーの補給のためには、目の前の事象をよく観察しなさいと教えてくれています。見つめていると、気づきや発見があります。問題点や課題が見えてきます。興味や関心が湧いてきます。これは行動のためのエネルギーがたまってきている証拠です。事実をよく見て観察するということは、エネルギーを補給していることになります。リチウム電池が切れる前に、充電するようなものです。「みつめよ」という考え方は、「エネルギーの補給を忘れるな」という事なのです。そのエネルギーを使って、実践行動を起こすことになります。その結果、目的の達成や成功は自信となり、さらなるエネルギーの補給になります。次への、挑戦のためのエネルギーを溜める器が大きくなるのです。失敗は、どうしてうまくいかなかったのかを反省することで、エネルギーの補給をしていると解釈すべきです。停滞しているようですが、大きくジャンプするためにはタメが必要になります。腰を沈めて力をため込むことで、大きく飛び上がることができます。ミスや失敗の経験が多いほど、エネルギーが充満して、高く飛び上がることが可能となります。失敗は成功の基ということです。
2020.09.16
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生活の発見誌に次のような体験発表があった。私の誤った認識は、現在ある生活や仕事をおろそかにして、不安や症状を取ることに執着することにより、かえって精神交互作用によって不安を大きくしていたということです。不安を相手にすることにより、「何々が不安なジブン」や「症状のあるジブン」というのは肥大化していくように思えます。それによって実際に社会生活から逸脱して、観念の世界に入り込み、ますます症状を悪化させました。また、学生時代から「かくあるべし」で自分を守っていた結果、実際にあるちっぽけで弱い自分を見ないようにしていたため、自分の成長や他者への配慮よりも、自分本位で、自分を守るために頭の中でやりくりすることに必死で、周囲への批判や自己保身を自分の脳内で一人チャットのように繰り返していたことで自分を窮屈にしていました。(生活の発見誌 2020年8月号 36ページより引用)神経症に陥るということについて、2つの側面がある事を指摘されています。このことが分かること自体大変なことなのですが、よく学習されていると思います。神経症に陥った人は誰でも、生の欲望の発揮という人間本来の生き方を無視して不安や恐怖と格闘してきた。神経症の発症は、森田理論でいう手段の自己目的化が起きていることが第一の原因です。生の欲望に焦点を当てて、人間本来の生き方に戻すことが、神経症克服の道となります。これはその気になれば誰でも取り組むことができます。神経症を治したい人はぜひ取り組んでみてください。そのやり方は先輩会員やこのブログで説明しています。神経症完治に向けてはもう一つの側面があります。「かくあるべし」という観念中心の態度で自分や他人を裁いて、コントロールしようとすることです。この態度が精神的な葛藤や苦しみを生み出しているのです。こういう人は、事実を無視し受け入れないという態度を持ち続けている人です。イソップ物語に狐とブドウの話があります。狐がたわわに実ったブドウが欲しくてたまらない。ところが背が低くて何度ジャンプしてブドウを獲ることができない。そこで狐はどう考えたか。あのブドウはすっばっくてまずいブドウに違いない。自分は何をやっても上手にやれない。ダメな狐だ。こんな自分を生んだ親が悪いと考えた。つまりこの狐は何としてもブドウが欲しいという気持ちを認めることをしなかった。ブドウを手にすることができない自分を受け入れることもできなかった。ここでその二つの事実をそのまま認めることができたとしたら、その後の展開はどうなっていたか。ブドウが欲しいという気持ちと今の自分の状態ではブドウを獲ることはできないという二つの事実です。「かくあるべし」という態度を「事実本位」に切り替えたならば、事態は打開できます。つまり、どうすればブドウを手にすることができるかを考え始めるだろうと思います。手っ取り早いところでは、踏み台や脚立のようなものを探してくる。ブドウを叩き落とすような棒切れを探し始める。自分一人では手に負えないと思えば、仲間を呼んでくる。仲間に相談して知恵を出してもらう。力を貸してもらう。これらは2つの事実を認めることで初めて可能になることです。事実を認めない。受け入れない。事実を隠す。捻じ曲げる。ごまかす。などと言う態度では、いつまで経っても神経症の完治には至らないということです。対応方法は森田理論学習によって身に着けることができます。森田理論以外の精神療法でここまで踏み込んでいるものはありません。
2020.09.15
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森田先生のお話です。個々の患者が、全治後に、「思いがけなく、老子・真宗・黒住教などが、いつの間にか、理解できるようになった」といって、喜びの報告をなすことが多い。これまでは、理論を強いて理解しよう、信仰を得ようと、抽象的に考えたから、わからなかったので、一度自覚ができて後は、これを自分の事実に当てはめて考えるから、初めて哲人や宗教家の心も、自分といくらも違わぬことが分かり、自分などにも、すべて仏性のある事が知られるのである。(森田全集 第5巻 520ページ)森田理論学習で神経症を克服し、その考え方を自然に生活面に応用できるようになると、老荘思想などの言わんとするところが自然とわかるようになってきたというのである。これは一つのことを深耕していくと、人生の普遍的真理を掴むことにつながるということを言われているのだと思う。これは別に森田理論に限らないと思う。学問、研究開発、スポーツ、音楽、絵画、音楽、仕事、子育て、介護、日常茶飯事、料理、株式投資、趣味、野菜作り、花づくり、果樹づくり、物作り、農業など何でもそうである。最初はイヤイヤ仕方なしに取り組んでも構わない。しかしそこで留まっていては進歩はない。自分の与えられた課題に対して真摯に取り組むことができるかどうかにかかっている。一心不乱になれるかどうか。そして興味や関心、気づきや発見、工夫や改善が生まれてくるかどうか。燃えるような情熱が湧き上がってくるかどうかが勝負の分かれ道である。これは観念的にああでもないこうでもないと理論をこねまわすだけでは手にすることはできない。自分で手を出し、足を出して体得することが欠かせない。実践・行動することで、達成感や自信が生まれる。さらに意欲的になれる。その先にコツを会得し、普遍的な真理に到達するのである。これはプロ野球の世界で実績を残した選手の話を聞いているとすぐに分かる。例えば、王貞治さん、イチローさん、落合博満さんなどの話を聞いていると、野球の話をしているようでも、実はその裏に人生の生き方そのものを語っておられるのである。私たちはその話に感銘を受けるのである。一芸に通じた人は、万事に通じる人生の普遍的真理に到達する。これが人間に生まれた最高の到達地点なのではなかろうか。そこに至れば人間に生まれてきたことを喜び感謝できるようになる。少なくとも、自己中心的で、他人と争い富を奪い合うような争いごとは無くなる。己の性を尽くす、他人の性を尽くす、物の性を尽くす、お金の性を尽くす、時間の性を尽くす方向に向かうはずだ。そしてかけがいのない地球を子孫に引き継ぐことを考えるようになる。今の世界の情勢を見ていると、欲望がむき出しで、「今だけ、金だけ、自分たちだけ」が独り歩きしている。それはもともと自分に与えられた問題点や課題に対して真摯に向き合ってこなかったからかもしれない。
2020.09.14
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私は世界を動かしているのは、トランプ大統領や中国共産党などではないかと思っていた。それは前提条件が間違っていますよと教えてくれた人がいた。教えてくださったのは馬渕睦夫さんである。馬渕さんは、元外交官である。穏やかな話しぶりであるが、話の内容は驚くべき真実が隠されている。you tubeの「ひとりがたり」「桜無門関」などの番組で詳しく解説されている。その他ネットで検索してもらうと多くの書籍がある。私は「現代史の正体」「国際ニュースの読み方」「グローバリズムを越えて自立する日本」などから多くのことを学んだ。そして近代史の研究に目覚めた。その中で、世界の政治、経済、メディア、金融、司法、教育、軍事、世界機関などを牛耳っているのは、アメリカのディープステートだといわれている。今や米大統領選挙さえも左右している。もともとはユダヤ系の人たちです。アメリカには700万人のユダヤ系アメリカ人がいる。人口比では2%足らずです。この人たちが、政治・経済・金融の中枢に入り込んでいる。シティやウォール街を支配している。FRBやIMFを牛耳っている。最高裁判所の判事は9名だが、そのうち3名はユダヤ系で占めている。1912年ウィルソン大統領誕生から一貫して、全分野にわたって影響力を行使してきた。経済面では巨大多国籍企業はディープステートによって占められている。もうすでに100年以上にわたって世界を支配してきたというのだ。ディープステートの目的は何か。権力を手にして、世界中を自分たちの意のままに動かすことです。そして世界の富を自分たちのものにすることです。表面的には自由や民主主義を標榜しているが、一般の国民の生活を豊かにすることなどはちっとも考えているわけではないのです。その人たちの生活を犠牲・破壊して、根こそぎ自分たちの利益とすることだけを考えているのです。彼らの政策のかなめは何か。ズバリ言うと国の垣根をなくしたグローバル化の推進です。国の垣根をなくして、物、金、人が自由に世界中を動き回る世界を作り上げることです。この考え方は社会主義化、共産主義ととても親和性があります。その方が彼らが儲けるには都合がよいのです。そのためには、自由貿易、規制の撤廃、民営化、関税の廃止、移民の推進、国民同士や隣国との対立をあおり紛争や戦争を引き起こす。外国政府への政治介入、国内政治家へのロビー活動、メディア支配による世論操作、教育による国民の洗脳などを推進しているのです。今後日本に対して、どのようなことを要求してくるか。国民皆保険の廃止、自由診療の拡大、医療の崩壊、農協解体、種子法の廃止、生命保険、損害保険の自由化、年金制度解体、郵政事業の民営化、グローバル企業の日本進出、外資参入の拡張、主要食料の完全輸入化、教育の民営化、移民の拡大、マイノリティとマジョリティの対立をあおる、軍事費拡大などです。これらを外交交渉を通じて、真綿で日本の首を締めにかかるのです。この方法をとることで、彼らの利益拡大につながるのです。これは日本だけではありません。世界中で展開しているのです。彼らは今は中国共産党つぶしにかかっています。トランプ政権とディープステートが組んでいますので、現実のものとなる可能性が高いと思われます。しかしトランプ大統領のアメリカファーストという考え方と、ティープステートの戦略はもともと相いれないものがあります。中国叩きが終わった後は、今度は徹底したトランプたたきが始まるでしょう。マスコミや世論を誘導して、11月の大統領再選が危ういところまで追い込んでいます。ほぼトランプ氏が再選されることが決定的であっても、トランプが不利であるかのように報道されています。それはアメリカの3大ネットワークが彼らの管理下にあるからです。何とかトランプを落選させたい。それは自分たちの意向に反するものだからです。このように見てくると、私たちは歴史の事実をよく知ることが大切になります。事実が分からないと、ただ単にティープステートの仕掛けた方向に流されてしまうだけということになります。そして気が付いたときは、がんじがらめに支配されて、手の施しようがないということになります。後の祭りです。悲惨なことになります。事実がしっかりとわかるようになれば、対策が立てられます。アメリカでぼろくそにたたかれても根強いトランプ支持者が存在しているということは、アメリカ国民はディープステートの悪行と将来の方向性を見据えている人が増えているということだと思います。その戦いが21世紀に生きる私たちの取り組むべき課題となってきたのです。このまま野放しにして、見て見ぬふりをしていると、人類は滅亡してしまうかもしれません。
2020.09.13
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先日の集談会で大変興味深い話を聞いた。その方は郷土の歴史研究会に所属して様々なことを研究されている。その中に、赤穂義士の大石内蔵助の妻の理玖と三男大三郎の墓が広島の国泰寺にある事を知られた。兵庫県の赤穂市にあるのならば納得できるが、なぜ広島にあるのか疑問に持たれた。興味と関心が高まってきたのだ。早速国泰寺に出向き、本堂と墓を確認されている。写真を撮られ報告書に載せている。寺もさることながら、墓も立派なものだった。そのあとが凄い。さらに好奇心に火が付いたのだ。広島市立図書館に何度も足を運んで半年余り研究された。苦労の連続で投げ出したい気持ちが常にあったそうだ。それでも何とかA4用紙8枚のレーボートにまとめ上げて、歴史研究会で発表された。その内容が素晴らしい。疑問がすべて解き明かされた。感動した。まさに神経質性格のなせる業である。報告書の中に大石理玖と大三郎の詳しい年表を作られている。大石家の家族図も作られた。大石理玖さんは、1669年に兵庫県豊岡で出生。18歳で28歳の大石内蔵助と結婚。その後5人の子供を設けた。1701年浅野内匠頭が松の廊下で吉良氏を切りつける。即日切腹をさせられた。2年後の1703年赤穂浪士の吉良邸襲撃事件が起こる。長男の主税は大石内蔵助とともに討ち入りに参加。妻理玖さんは討ち入り前に離縁させられて、子どもを引き連れて豊岡の実家に戻っている。その後、実家の石束家の家運が傾いてきた。生活できなくなったのである。その時、浅野内匠頭の親戚筋であった広島藩主の浅野吉長が手を差し伸べた。大三郎には1500石旗奉行次席に取り立て、妻理玖には隠居料100石を与えた。このようにして、大石内蔵助の妻理玖、三男大三郎の墓が広島に存在しているのである。赤穂浪士の事件がなければ、赤穂市に墓があるはずだ。この方は、その後国泰寺の来歴、浅野家の家系図、妻が離縁されたときの状況、赤穂浪士の遺児の処罰と赦免、次女の大石ルリや理玖の兄の石束毎明の生涯についても調べられている。さらに討ち入りに参加しながら、引き上げの際に姿を消した寺坂吉右衛門信行についても言及されていた。興味と関心に弾みがついて、どんどんと広がっていったのである。一つの小さな興味や関心を膨らませていくことが、森田理論のめざしているところであるが、まさにその実践の過程を目の前に示してくださったと思うのである。ちなみにこの方は強迫神経症を克服して、日々森田的な生活を送られている。
2020.09.12
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私は、最初の頃、「神経症は治すべきものではない」といわれて、なんと不親切なことを言うのかと反発していた。集談会に参加して、対人恐怖症を治そうとしているのだから、「大丈夫ですよ。必ず治りますよ」と嘘でもいいのでそう言ってもらいたかった。「私は森田療法で神経症を治しました」という人をモデルにして、私もその恩恵にあやかろうと思っていた。その気持ちを最初から打ち砕かれたのだ。今考えると、その通りなのですが、初心者には酷な言葉です。舌足らずでは誤解を招く言葉だと思います。私は初心者に対して、「神経症は必ず治りますよ。その証拠に治った人がこの会にはたくさんいらっしゃいますよ。そのために最低1年は集談会に参加してくださいね。また、生活の発見会に入って、送られてくる月刊誌をよく読んでくださいね。そうすれば、私たち先輩会員が全力でアシストしますよ」ということにしている。実際その通りなのだ。私は、「神経症は治すべきものではない」という言葉は軽々しく使うべきではないと思う。この言葉を使うことで、相手がどんな気持ちになるのか考えてみる必要があると思う。それでは次に、神経症を治そうと努力していては、いつまで経っても治らないという意味を説明してみたい。神経症とは、不安、恐怖、違和感、不快感にとらわれてイライラする。精神交互作用によって、最終的には生活が停滞してしまう。最悪の事態を招かないように、この不安などを取り除く方法を四六時中考えるようになる。そこまでのエネルギーのない人は、嫌なことがあるとすぐに逃げ出す。これは天気の良い日に外に出ると、影ができますね。その影が邪魔ものに思えて、一生懸命に箒で履いて捨てようとするようなものなんですね。どんなに努力しても、本体がある限り影はなくすることはできません。つまり実現不可能なことにエネルギーを投入して、最後には疲れ果ててしまうのです。ドン・キホーテのようなものですね。無駄な努力となります。このことから分かることは、不安、恐怖、違和感、不快感は、それ単体で対応しようとしてはいけないということです。そうするとどんどん増悪して、蟻地獄に落ちていくのです。ではどうすればよいのか。ズバリいうと、欲望と不安の相互関係の中で解決していくということです。本体と影の関係でいえば、欲望が本体で不安は影に相当します。影を無くそうとすれば、何もしなくても、日陰に入れば影は無くなります。不安のことを考える時は、欲望のことも考えないと墓穴を掘ってしまうということです。不安と欲望は相関関係にあります。どちらか片方だけというのは、それこそ片手落ちということです。車でもいくら制御力のよいブレーキを搭載していても、エンジンを動かさないと、決して前には進みません。車の場合はまず加速力、馬力のあるエンジンを駆動することが大切です。それが第一優先順位となります。それから第2優先順位であるブレーキの活用を考えるようにするのです。「神経症は治すべきでない」というのは、欲望の追及を蚊帳の外にして、不安、恐怖、違和感、不快感そのものと格闘してはならないということなのです。むしろ「生の欲望の発揮」を第一優先順位して、それが暴走しないように不安を適宜活用していくというのが順序というものです。そうなりますと、不安はとても大切な役割を果たしていて、なくてはならないものとなります。それはちょうど全身に神経が張り巡らされて、痛みや不具合箇所を感じるようになっています。神経は煩わしいものだからといって切断する人はいません。麻酔を打って、痛みを感じないようにする事もできますが、それでは容易に命を落としてしまうということになります。神経は時として激痛を伴いますが、生命維持に欠かせないものです。不安の存在も同様です。取り去ろうと考えるよりも、生の欲望について考え直すことがより大切なのです。そしてそれを第一優先順位として、生活を維持することで、不安に振り回されることはなくなります。
2020.09.11
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森田先生は、神経症を治すには、不安の特徴や役割を学習して、取り除こうとしない覚悟を養成することが大事だといわれている。ただその覚悟を持っただけではうまくいかない。不安や不快な感情が変化流転するように仕向けることが大切であるといわれている。それを「感情の流転」ということで説明されている。ある人が形外会で「女中が紅茶の入れ方が悪かったというような、ちょっとしたことが癪に障って、3時間も4時間も、不快な気持ちが治まらないことがあります」と質問された。これに答え森田先生曰く。恐怖や不安、憎しみや悲しみ、そういった自分にとって不愉快と思われるものをどうにか排除しようとする。それがかえってその感情に固着させることになり、その感情を引き起こす行動を避けるようになる。あるいは、それを打ち消そうとして余計な行動をする。「このとき癪に障るとか、気長くするとかいうような評価を離れて、その時々に起こる連想の波に、そのまま乗っていく。女中が紅茶を持ってきた。「どうしてこんなに遅いのか。飲んでみれば薄い。一体どうしたのだろう。いつでもあいつはずぼらだ。いっそのこと追い出そうか。しかし今日は雨が降るから明日にしようか。ずいぶんの雨降りだが、これでは桜散るだろう。家の盆栽の桜も咲きかけたが、桜の盆栽もよいものだ」というふうに、自由な心の流転にまかせておけば、連想は連想を引き出して、下手な作為を超越して、全く思いもかけぬ事に移り変わって、女中への腹立ちも、いつしか桜の風流に変化してくる」(森田全集 第5巻 653ページ)連想が連想を引き出すというのは、一つの感情にとらわれるのではなく、谷あいを勢いよく流れる小川のように変化させるということです。これを存分に応用する方法をご紹介します。例えば自家用野菜に取り組む場合のことです。まずは、野菜を植えるために、発酵鶏糞などを散布します。苦土石灰や肥料をまきます。その後土を耕し畝を作ります。マルチの必要なものは、マルチを張っておきます。苗や種を植えて水をたっぷりまきます。ハクサイやキャベツには虫よけネットを取り付けます。トマトなどには雨よけを取り付けます。成育期間中は、水やりや雑草取りをします。土寄せをします。間引きをします。脇芽をとり除きます。虫に食われていないか、病気になっていないか注意します。生育に応じて支柱を立て、ネットを張ります。生育の悪いものには成育促進剤をやります。万田酵素やHB-101などです。精魂込めて世話をすると3か月か4か月すると収穫できるようになります。つぎにいろんな料理法を研究するようになります。たくさん獲れると保存方法、加工技術を考えるようになります。あるいはおすそ分けや道端での販売を考えるようになります。それから次にどんなものを作ると連作障害が起こらないか考えるようになります。つまり輪作体系のことを考えるようになります。合わせてホカホカの土つくりについても考えるようになります。そして野菜の生育日記をつけて次回に活かすことを考えるようになります。このように取り組んでいくと、ただ単に機械的に野菜つくりをするのではなく、次々に注意や関心が移っていくことがお分かりだろうと思います。弾みがついて無我夢中になり、どんどん楽しみが増えていきます。世話をしながら、どんどんと成長する野菜を見守ることは、子育てと同じです。これが森田先生の連想が連想を生むということだろうと思います。一つの感情にとどまっているのではなく、とらわれる対象が次々と変化していくというイメージです。これが神経症のとらわれから抜け出す一つの方法となります。
2020.09.10
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依存症というわけではないが、パチンコなどのギャンブルにはまり込んでいる人がいる。森田理論のお金の性を尽くすという視点から考えると、問題だと思う。あるいは、ネットゲームにのめりこんで、深夜までオンラインゲームをしている人がいる。規則正しい生活を維持して、リズム感のある生活習慣という面からから考えると問題があると思う。いくら森田理論を長年研究し、知識を蓄えていたとしても、行動・実践を見ると真逆なのです。残念なことです。今日はこういう話を集談会などで聞いたとき、どう対応したらよいのか考えてみましょう。1、相手の話を無視する。相手は森田理論を学習して、この理論をもとにして自分の生活や生き方に活用・応用していない。森田不適応の人と判断して、相手にしない。しかし、この態度をとると、相手は集談会に来なくなると思います。2、正義感の強い人は、相手のそういう考え方や生活を変えようとする。森田理論との矛盾点について、すぐさま指摘して説得をはじめる。行動の問題点を分かってもらおうと手を変え、品を変えて説明しようとする。森田理論の内容をよく知っているので、客観的に見ると説得力がある。しかしこれは、よく考えてみると目の前の相手のことはどうでもよいのである。自分の主張を述べて自己満足することが目的なのである。自分の主張に賛同し、なかなかよいことをいうと評価する人が現れれば、さらに気分をよくする。しかし残念ながら相手には何の影響も与えない。こういう人がいると、集談会に参加することが苦痛になる。3、次に受容と共感を心掛けて、傾聴を心掛けている人がいる。時間をとって、十分に相手の話を聞いている。この態度は集談会の中で第一に心掛けることとして、常に幹事や世話人が心掛けていることである。ここで信頼感、ラポールが形成されると、相談者は安心して自己開示していく。つまり、神経症の克服に向かっての出発点に立つことができるのである。ここでの問題は、みんなで寄ってたかって、相手の問題点を聞き出そうとすることである。集中砲火を浴びるようなことになると、相手も窮屈だし不安になる。信頼感の醸成は急がないで、時間をかけて行うことが大切である。特に体験交流の時間は、例えば1時間30分の時間をめいっぱい初心者のために使うというやり方はまずい。6人のグループならば、全員に10分から15分程度の時間を振り分けて、全員に平等に発言してもらう。初心者に片寄ってしまうことはむしろ弊害が大きい。また受容と共感ばかりで、アドバイスは全く行わないのが善であるという暗黙の了解があるが、これも問題であると思う。例えばカウンセリングでロジャーズの来談者中心療法というのがあるが、これは基本的には、相手が自分の進むべき道を、自分自身で発見するのをひたすら待つという技法である。自分で気づけばよいのだが、蟻地獄の底から這い出す手段を全く見つけることができないという人に対しては、適切なアドバイスが欠かせない。そうしないと、初心者は相談者に対してイライラして、カウンセラーに対して敵意を持つようになる。あるいは、自助グループに参加しても無駄だと思ってしまう。受容と共感、傾聴が落ち着いたのち、森田理論の詳しい人は、待っていましたとばかりにアドバイスを始める人がいる。実はこれも問題なのです。相手のことがよく分かった。あとは森田理論を説明すれば、相手は森田理論を受け入れるだろうという「おごり」があるのだと思います。受容と共感でせっかく信頼関係を作り上げたのですから、もう一工夫すれば結果は大きく違ってくるのです。それは何かというと、相手のことが分かった時点で、一気呵成にアドバイスを開始するのではまずいのです。ここでアドバイスしたいという気持ちをいったんは抑えるのです。一呼吸おくということです。まず相手が動き出すのを待つという感覚です。いきなり前に出るのではなく、自分の身を今一歩引くということなのです。相手のベクトルに常に寄り添いながら、一緒に進んでいくということです。マラソンで、目の見えない人に、寄り添うアシスタントの様なものです。いきなりのアドバイスは、相手と自分の立ち位置は、自分が上で相手が下というイメージになります。一歩引くということは、相手と自分は悩める者同士対等なのですよと表明していることになります。お互いがwin winの関係になる可能性があるのです。受容と共感、傾聴の後に、いきなりアドバイスという態度を改めて、いったん自分引いて間を作るということです。それだけでアドバイスが効いてくるのです。それは相手が、この人は自分の歩調に合わせてくれていると、感じ取るからだと思います。ぜひご自分の体験として確かめてみてください。
2020.09.09
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私たちの自助組織では1993年会員数がピークに達して、以後ずっと右肩下がりである。組織が衰退していくことは寂しいものである。何とか会員を増加させようといろいろと手を打っているが、効果が上がっていない。このブログの開設も、森田理論を知らない人にその魅力を伝えたいと思って始めた。アクセス数は毎日800人から1000人ぐらいはある。しかし自助組織の会員増にはほとんど結びついていない。その原因を考えてみた。3つあると思う。1、現役世代が貧困層に陥っている。年収が200万円以下という人たちが1000万もいる。そういう状態は、食べていくことが第一の目的になる。毎日がむしゃらに働いて何とか生き伸びていくことを考えている。心の問題を考えるゆとりはないのである。戦時中は神経症になる人はいなかったという。ガンなどの命に係わる病気を抱えた場合なども、神経症の悩みは無くなる。現代社会は貧困化が神経症という心の問題から遠ざけているのである。これは政治や経済の問題である。私たちが現役の時のように1億総中流社会のようになれば、自然と森田療法は活性化する。私の所属している自助組織もその追い風を受けて会員が増加してくるとみている。そのためには私たちは、どうしても政治経済の在り方に関心を持たざるを得ない。2、神経症の治療法が多角化した。まず薬物療法がある。この方が手っ取り早い。精神療法が多様化した。その中でも精神分析は落ち目だが、認知行動療法が主力となっている。そのほかカウンセリングを受ける人も増えてきた。森田先生の頃は、神経症治療にとって、森田療法が大きな役割を果たしていた。現在はその比重が相対的にどんどん減少してきた。森田療法を第一優先順位として選択されることは少ない。ほとんどないといってもよい。それに伴い、森田理論学習が神経質性格者の人生観の確立の理論であることはほとんど知られていない。3、森田理論は神経質性格の特徴の一つである「生の欲望」が強い人が適応対象者である。ところが「生の欲望」が感じられない人が増えている。誰でも赤ちゃんの頃は、好奇心いっぱいである。そしてなんでも意欲的に取り組んでいたのである。成長するにつれて、やる気がどんどん失われてきた。馬をオアシスまで誘導してきたのに、肝心の馬が水を飲もうとしない状態になっている。過保護、過干渉、無関心な親のしつけや教育が、子供の独立心や生命力をむしばんできた。これは親の教育だけではない。日本という国体もそうだ。日本という国は、国防という面ではアメリカに依存している。経済という面では、中国に依存している。依存すれば楽ができるが、自立して生きるという人間本来の生き方はできなくなる。暇を持て余し、砂を噛んで暮らすような空虚な生活を強いられる。森田理論学習の隆盛は、ひとえに子育て、国の自立の問題と結びついている。これらの3つの問題点が複雑に絡み合って、会員減少を招いていると考えている。この流れを阻止することは、大変難しい。波でいえば現在大底に入る。私たちの役目は、100年以上も続いている、森田理論を過去の遺物としないことだと思う。細々とでもよいので継続させる。捨て去ることは何としても避けたい。そのためには、私たちは大いに森田理論を生活に活用して有意義な生活を送る。理論的には分かりやすい理論として整備する。実践ための具体的な筋道を作っておく。そしていつか大底を抜けて、波が上昇してきたときには、即座に対応できるようにする。
2020.09.08
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森田先生のお話です。井上君が、以前も、今も、不安はなくならないといいましたが、それは我々が、精神の進歩発達とともに、ますます増すものです。小児の時よりも、年をとるほど心配事は多くなる。医者になるにも、病の事を多く知れば知るほど、気になることは多くなり、貧乏よりも、金持ちほど苦労が多く、学者になるほど、疑いと迷いと研究問題が多くなり、ニュートンも、自然の研究発見は、ほんの浜の真砂の幾粒かに相当するものである。ただ疑問は、ますます多くなるばかりであるといってある。エジソンのような発明家になれば、発明したい事が、いくらでも増してくるのである。我々は不安があり、鳥越苦労が多いほど、多々ますます弁じて、初めて人生の生き甲斐を感じるのである。ここで初めて、強迫観念とは跡を断つのである。(森田全集 第5巻 512ページ)森田先生は神経症が治ったからといって、不安はなくならないと言っておられます。歳をとるにつれて、不安の数はますます多くなってくるといわれています。これは成長するにつれて、行動範囲が広がってきますので無理からぬことです。でも絶えず不安に追い掛け回されて、ビクビクハラハラしながら生活している人にとっては、何ともやりきれない話だと思います。それでは一生不安に振り回されながら生きていくしかないのかと思われるかもしれません。こういう人は不安を忌み嫌ったり、不安に対して恐れおののいてばかりです。不安の特徴や役割を森田理論でしっかりと学習することが必要だと思います。認識の誤りを抱えているわけですから、それを解消するために森田理論の「不安と欲望」の学習をした方がよいと思います。大脳では不安や恐怖は偏桃体で感知するようになっています。そして海馬と連動して処理しています。人類の進化の過程で、必要不可欠なものが残り、不必要なものが淘汰されてきました。不安や恐怖を感知する偏桃体は、必要不可欠なものであるために淘汰することはできなかったのだと考えています。危険や恐怖が迫った時、瞬時に不安や恐怖を感じることができないと、無抵抗、無防備ですぐに命を落としてしまうことになります。不安や恐怖を感じる力は、注射針を打たれるような痛みはありますが、人間にとってはなくてはならない大切なものです。それは痛みを感じる神経と同じ働きをしています。神経が体中に張り巡らされているおかげで、身体の不具合箇所はすぐに分かります。すぐに治療などの対応策をとることができます。すい臓がんなどは痛みを感じないので、気が付いたときはすでに手遅れということになります。これではまずいのです。不安というのは信号でいえば黄色や赤色を点滅させてくれているのです。危ないですよ。注意しなさいよ。などと老婆心を発揮してくれているのです。地雷のある場所を教えてくれている、ありがたい存在なのです。その警報に従って、無鉄砲な言動を抑制することができるのです。ありがたい役割を果たしている存在だと認めることが大切です。また不安や恐怖には欲望が暴走したときに抑止力としての役割があります。車でいえばアクセルをふかして、前の車との車間距離がなくなった時、スピードを上げすぎたとき、信号待ちになった時にブレーキの役割を果たしてくれています。ですから不安を排除することにエネルギーを使うのではなく、不安を上手に最大限に活用することにエネルギーを投入することが大切になります。つまり不安の役割を正しくとらえて、欲望とのバランスをとるために活用することが大切です。
2020.09.07
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私は今まで「がり勉」というのは良いイメージを持っていなかった。友達と遊ぶことより、英単語、歴史の年号、漢字、公式などをより多く記憶して、テストの点数を上げるというイメージが強かったからだ。記憶術にたけていても、いずれ忘れてしまう。一時的なものだ。記憶力中心の教育、いわゆる詰め込み教育はよくないと思っていたのです。それよりも、数学、物理などの分野で、難しい問題を解ける人の方が、創造性が豊かであると思っていた。しかしこの考え方は間違いであることが分かった。辞書を見ると、「学ぶ」というのは、「まねぶ」の変化した言葉で、教わるとおりに覚えることとあります。要するに、先生や上司からいわれたこと、そこに書いてあること等をそのまま覚えることが「学ぶ」ということなのだ。「記憶力がいい」というのと、「学ぶ力が高い」というのは同じ意味であることが分かります。個人や国の発展に必要なのは、第一に学ぶ力(記憶力)、第二に創造力でしょう。創造力は、その分野に必要なことをすべて記憶した後に初めて出てくるものです。(「自立国家」日本の創り方 北野幸伯 164ページより引用)覚えること、つまり記憶力を高めるために有効な方法があります。子ども達に、国語の時間に、世界の古今東西の名文をプリントし、それを子供たちにそのまま丸暗記させるのです。音読して、暗唱させるのです。最初は嫌がります。やっても意味のないように思われるからです。そのうち、なかなか覚えられないと嫌になってきます。ところが、意味も分からず、何回も繰り返しているうちに、いつの間にか覚えてしまいます。脳の中に記憶として完全に定着したということです。素読を進めていくと、子ども達は自分自身の力が伸びていることを体で感じ、強い自信を持つ。それがさらにより困難なものに挑戦しようという気概を生む。さらに先人の優れた文章を自分の血肉化することで、生き方や哲学を学ぶ。暗記暗唱は決して子供の個性を奪う学習ではなく、基礎基本の力として子供の学力の土台となって子供たちの高度な学習を支える大きな力となるものである。(同書 175ページより引用)記憶するという学習方法は、とても大きな意味があることが分かります。これを森田理論学習に取り入れることを提案いたします。では何をもって、声を出して素読するとよいのか。最適なものがあります。生活の発見会が出している「森田理論学習の要点」をお勧めします。これには森田理論のエッセンスが詰まっています。このテキストの中に、言葉や用語の説明をしている部分があります。まずその部分を選り出すことです。印をつけていくのです。そして、来る日も来る日もひたすら素読を繰り返すのです。これは自分一人でもできます。最終的には、その文章が自然に口から出てくるようにするのです。みんなで要点の読み合わせのとき、スラスラと口にできたら楽しいと思いませんか。素読の時間は、内容を理解するよりも、ただ覚えることに専念することが大切です。内容や意味は二の次です。それで十分です。内容や意味を考え出すとそこで止まってしまいます。これは十二支の干支や陰暦をそのまま覚えるようなものです。一旦子供の頃に覚えてしまうと、大人になっても口をついて出てきます。実に不思議なことです。これは楽器の練習でいえば暗譜のようなものです。そういう段階にならないと、人を感動させるような演奏はできないのです。その記憶力がもとになって、分析的、生産的、建設的、創造的な精神活動につながっていくということを改めて認識していきたいものです。
2020.09.06
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「知行合一」という言葉の意味するところは、知識と行為は一体と考えることである。本当の知識は実践を伴わなければならないというものです。森田先生は、修養とは、「ともかく実行である」といわれていますので、「知行合一」の考え方に近い。これに対して、知先行後説、主知主義というのがあります。行動よりも先に学習による知識の習得が先である。これによって自覚が深まる。知識による理論づけがないと何も始まらない。知識がないと、どこから手を付けてよいのか皆目見当がつかない。やる気が沸き上がらず、意欲的になれない。これは集談会における森田理論学習の考え方です。神経症はなぜ発生したのか、とらわれやすい人たちの特徴は何か、感情の法則、克服するためにはどうすればよいのか・・・理論的に学習することが肝心である。そもそも神経症で苦しんでいる時は、行動なんてできないのです。苦しみから逃れたいと思っているのですから、苦しみの原因を追究することは当たり前のことです。これはどちらが正しいか是非善悪の判定をしようとしても、不毛な議論になりやすい。強いて言えばどちらも大切だということです。ただここで言えることは、知先行後説、主知主義の立場の人は、実践や行動することを軽視する傾向があるということです。これは問題となります。神経症が治るどころか、ますます強化してしまうという結果を招いてしまうからです。森田理論では理論と行動は車の車輪たとえられます。行動の車輪に比べて、理論の車輪があまりにも大きすぎる状態で、無理やり前に進もうとすると行動の車輪の周りを理論の車輪が回り続けるという現象が起きます。つまり森田理論の膨大な知識を持ちながら、生活の中で応用・活用できなくなります。森田理論の知識がないときの方が葛藤や苦悩に悩まされることが少なかったということになります。森田理論の車輪が小さいときは、実践や行動の車輪が小さくても問題ありません。森田理論の車輪が大きくなった時、実践や行動の車輪はそれに見合った車輪に付け替えなければならないということです。森田理論の学習にのめりこむ人のなかに、性急でせっかちな人がいます。学習だけにそのまま突き進むのではなく、学んだことを、実践・行動によって検証しながら前進していくことが大切です。これが神経症を治すための王道となります。
2020.09.05
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株式投資の世界で次のようなことが言われます。陽極まれば陰となり、陰極まれば陽となる株価がどん底から反転し始めたころはみんな疑心暗鬼になります。このまま上昇するのか。あるいはこれは一時的な上げでまた下がり始めるのではないか。ところが、下がると思っていた人を、振り落として、その上昇トレンドがしばらく続くことがあります。誰の目から見ても、上昇トレンドが続いていると判断できるようになります。すると多くの人が、しばらくはこのトレンドが継続するに違いないと思うようになります。そして自分もその流れに乗り遅れてはいけないと思うようになります。普段株に関心のないような人が、日常会話の中で株の話をし始めます。そして実際に株を買い始めます。こうして陽の極みがやってくるのです。この格言によれば、そこが最高地点で、次は下降トレンドが始まるというものです。世の中はよくできたものです。株というものは、いつまでも上げ続けるということはありません。波の動きと一緒です。上がれば下がる。下げれば上がる。これの繰り返しです。行き過ぎれば、元へ戻ろうとする力が生まれてくるのが自然の法則です。自然現象は、行き過ぎればより戻しが起きると考えるのが自然です。また実際その通りになっています。自然は調和、バランスを求めて変化していくのです。人間の一生を考えてみた場合、いつまでも絶好調を維持しているケースは珍しい。反対に幼少時どん底を味わった人が、晩年になって幸せを掴んでいる人もいます。反対に運命が反転しないで、無念の人生を過ごす人もこれまた多い。それは、人生には陽と陰の波が繰り返されているという事実を自覚していないからではないか。大切なことは、陰の状態の時、今大底の状態にいると自覚することだと思います。大底にいることを認識できれば希望が持てます。自然の法則は、大底にいる波は時間の経過とともに必ず持ち上げられるのです。ただしその状態を悲観、非難、嫌悪、否定していては、決して波は持ち上げられないということです。現実を否定をしていると、さらなる大底に突き落とされます。その状態を素直に認識して受け入れることが大切です。そこを出発点にして、再び立ち上がってきた人に、神様は大底からの脱出の手助けをするのです。ですから反対に、人生の絶好調にある人は、今ここが最高地点で、いつ自分の運命は反転し下降するかもしれないというセンサーを働かせる必要があります。そうしないと、短期間のうちに急激に大底に叩き落されてしまう可能性が高まります。そうすれば、いずれ下降トレンドに入るとしても、下降トレンドがゆっくりで、軟着陸させることが可能となります。森田理論の両面観、精神拮抗作用、調和、バランスの考え方は、私たちの人生の中で十分に活用していくことが大切になります。
2020.09.04
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今日は青山学院大学陸上部監督の原晋さんを取り上げてみたい。原さんは2004年に広島の中国電力の営業マンから転身された。営業成績は周囲が驚くほど優秀な成績をたたき出していたそうだ。広島県世羅高校では全国高校駅伝で2位になった。その時キャプテンをされている。その後、選手としては、大きな成績は残されていない。2009年青山学院大学を率いて33年ぶりに箱根駅伝に出場した。就任後6年目。その時は22位だった。それから7年経過後の成績が群を抜いている。2015年から2018年まで4年連続で箱根駅伝優勝。2019年は2位。2020年は再び箱根駅伝で5度目の総合優勝。17年間で常勝軍団を作り上げた。今は全国から有望選手が集まってくる強豪校だ。最初の頃は、出身高校や大学のつてでやっと選手を確保できる状態だった。それでも6年間で箱根駅伝に出場できるチームを作り上げたのが凄い。原さんの言動は、森田理論の学習者にとって参考になることがとても多い。本日はその一端を紹介してみたい。レースで1分1秒を気にするのに、私生活で1秒を無駄にするのはおかしい陸上での成績と、日常生活は一体化しているという考え方なのだ。成績を得るためにはまず基礎を身につける必要がある。陸上競技にとって、規則正しい生活は、数学でいえば四則計算のようなものだ。これは森田理論でいうと時間の性を尽くすということです。1分1秒でも無駄にしないで、有効に生かし切るという指導がなされている。その姿勢が、物の性を尽くす、己の性を尽くす、他人の性を尽くすに広がっていく。目標管理については次のように考えられている。しっかりと自分の軸を持って、本物を追及していけば、いつか周りが認めてくれる。本物だけが勝ち続けられる。そのために、毎月全部員が実行していることがある。ちなみに部員は50名くらいである。生活面と技術面での目標を設定しているのだ。目標は手の届かない大きなものではなく、少し努力すれば達成可能なものにしている。それが1年12個も達成できれば、達成感が自信となって積み重なっていく。各自の目標が決まると5人から6人のグループのミーティングを開く。ここでは毎回違う顔ぶれのグループを作っている。タイムの速い選手、遅い選手が学年を超えて、お互いの立場を理解し、目標や練習方法を共有する。選手がアドバイスしあうことで自ずとチームに一体感が生まれてくる。また自分の目標を自分で深く考え、客観的に見直し、人に教えることは、個々の成長につながる。この目標管理シートは、食堂に通じる壁に張り出される。目標や行動計画を常に目に触れさせていると、達成への意欲が高まる。この方法は森田理論学習でいうと、実践課題を立てて実践していくということですね。最初の頃は私もそうしていました。そのうち気の付いたことをメモしてどんどん行動・実践に移していきました。それを集談会の体験交流で発表して、参加者からアドバイスをしてもらいました。励ましや評価してもらえるとさらに意欲的になりました。また次につながる貴重なヒントもいただきました。これは一人では難しいですね。みんなで行うと、片寄った考え方も修正されますし、心の安全基地のような安心感が生まれてきます。これが症状で苦しいときに、背後で自分を支えてくれるのです。
2020.09.03
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禅僧の枡野俊明さんのお話です。昔の寺には、必ず石臼というのがありました。胡麻やさまざまな食材を砕いたりするものです。食事の支度をするときにはなくてはならない道具の一つでした。しかしその石臼とて、永遠に使えるものではありません。30年も40年も使っていれば、やがては表面が摩耗していきます。少しずつ減っていく石臼は、もう粉をひくには役に立ちません。あるいは長年使い続けていれば、割れてしまうこともあります。自然のものですから、それも当たり前のことです。では割れてしまった石臼はどうするのか。役に立たなくなったからといって捨てることはありません。石臼としての命は終わってしまいましたが、次なる役目は何かを考えます。そこで割れた石臼を漬物石として使うのです。そうしてさらに30年も漬物石として働いた石は、いつの間にか角が欠けてきて小さくなっていきます。重みが足りなくなった石は、もう漬物石としての役割を果たすことができません。そこで僧侶たちは考えます。何とかしてこの石を活かすことはできないだろうかと。そこで小さくなったその石を、庭に設えるわけです。水はけの悪いところに置けば、雨のときには石の上を歩くことで足は濡れません。あるいは飛び石のように設えれば、庭には新しい表情が生まれてきます。これは禅でいうところの「見立て」というものです。ものを大切にする心は、きっと人を大切にする心につながっていくのだと思います。(限りなくシンプルに、豊かに暮らす 枡野俊明 PHP研究所 16ページより引用)森田理論でいえば、「物の性を尽くす」ということですね。「物の性を尽くす」ことは、そのものの持っている潜在能力や価値を再発見して、命のある限り活用していくということです。「石ころにも命あり」という話を聞いたことがあります。この石臼は、石臼冥利に尽きますね。その石臼の潜在能力や価値を見立てた僧侶の人も、物だけではなく、自分、他人、時間、お金などの有効活用を絶えず考えている人だろうと思います。そういう人はないものねだりをしない人です。欲望が暴走しない人です。あらゆるものの命を大切にして、人の役に立つ実践を心から喜ぶことができる人です。こういう世界に入ると、自己中心的な考えがなくなり、紛争や戦争はなくなると思います。
2020.09.02
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最近、老人の孤独死、墓終、少子化、コミュニティーの崩壊、家族の崩壊などと言う話を聞くようになりました。敗戦前までの日本では全く問題にならない現象でした。敗戦から75年になりますが、日本はその道を突き進んできたように思います。このままでいけば、日本の将来は暗澹たるものになるのではないか。大家族、子孫繁栄、地域の絆、日本の誇りが失われていくのではないか。このような惨状を生み出してきた原因を考えてみたいと思います。私は戦後の日本が、平和主義を国是としてかじ取りをとり続けてきた結果ではないかと思っています。このことをもう少し説明してみたいと思います。戦後の日本は自立することを放棄して、アメリカに依存して、自分たちの生活を維持していこうという安易で楽な道を選択したことだと思います。その最たるものが、国防に対する考え方です。安全保障に対する考え方です。平和主義とは、他国との利害対立が、武力衝突(いわゆる戦争)にいたることなく調整・解決されている状態を何よりも重要とみなし、この状態が維持されることに最大の価値を見出す立場を言います。武力に訴えてでも、日本の安全と国益を脅かすような国はないはずだという考え方を持ち続けてきたのです。(平和主義は貧困への道 佐藤健志 kkベストセラーズ 39ページ)このような依存的な考え方はとても危ういと思います。今の日本の現状を見れは一目瞭然です。経済力、武力、情報、交渉力など、ありとあらゆる手を使って、日本を従属しようとする国にとっては、格好のカモに見えます。カモがネギを背負っているようなものですから、こんなにやりやすいことはありません。日本はいままでアメリカの庇護のもとに、平和を享受してきました。アメリカに依存した平和は別の意味で問題です。アメリカの顔色を窺い、アメリカの強引な要求を受け入れなければ存続できないからです。日本はアメリカに服従することで何とか生きながらえることが許されているのです。窮屈です。本当の意味で自由ではありません。つまり戦後の日本は、自立して主体的に生きていく道を放棄してきたのです。外国に依存して、生き延びていくという道を選択してきたということです。親の年金や財産、遺産をあてにして生きている子供のようなものです。その日本国の態度は、国民レベルにおいても同じような傾向にあります。自分たちが自立して主体的に生きていかなくても、政府が自分たちを豊かにしてくれるはずだ。政府に任せておけば、国民の生活は豊かになるはずだと思い込まされてしまった。ところが政府は財政均衡政策を打ち出し、増税、規制緩和、自由化、民営化、グローバル化を推進してきました。この政策は国民の生活を豊かにするものではありませんでした。国民生活はどんどん苦しくなっていったのです。GDPの伸び率は世界最低で、国民の所得は増えるどころかどんどん減少して、生活はどんどん苦しくなりました。年収200万円以下の人が1000万人を超えるという国になってしまったのです。このような貧困化の中で孤立化、家族の崩壊、地域コミュニティーの崩壊、政治への無関心化が起きているのです。現在は個人が生き延びていくことで精いっぱいです。無気力、無感動、無関心で、絶えず何かに急き立てられ、おびえながら、命だけを延命させている人間を大量に作り出していったのです。この状況に至っても、国民はなすすべもなく、政治・経済、他国の侵略に対して無力です。森田理論では自分のできることは、安易に他人に依存するような生き方は問題だと言っています。自分のできることは、どんなに面倒できついものであっても、自分で手掛けることを基本姿勢として持つことが大切だといいます。それが自立と主体性の発揮の基盤となり、次につながるものです。現状や事実を直視する姿勢を無視したとき、私たちの存在理由は根こそぎ骨抜きにされてしまうのだと思います。森田先生がもし現在の世に生存しておられたら、政治、経済、外交問題について、事実唯真の立場から鋭い意見を投げかけておられるだろうと思います。
2020.09.01
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