全37件 (37件中 1-37件目)
1
20年ぶりくらいに歯医者に行った。きっかけは左の奥歯の1本が沁みる様になったのである。神経を刺激してチクチクした痛みがある。診察を受けてみると思いもかけないことを指摘された。・全体に歯石がついている。・歯茎に発赤、出血、腫れがある。・上の奥歯の頬側に歯ブラシが届いていません。・虫歯が2本ある。・ただ歳の割には歯がそろっている。グラグラした歯はない。・2本の親知らずは役に立たないので抜いた方がよい。私は元々歯が丈夫であるというのが自慢であった。それに慢心して、歯の手入れに関しては無頓着であった。歯磨きも朝晩しているが2分か3分くらいで終わらせていた。歯科衛生士の人が言うには、シュミテクトを使っているのなら最低5分くらい磨かないと効果はないということだった。下の裏側を2分、表側を2分、上の裏側を2分、表側を2分くらいの気持ちで、ていねいに心を込めて磨くことを心掛けてください。それと歯石は誰でもたまるので、ほとんどの人は定期的に歯医者でメンテナンスをしているのが普通ですということだった。寝耳に水とはこのことを言うのだろう。元々歯が丈夫だということに慢心して、歯については感謝の気持もなく、気にかけて大切にするという気持ちが抜け落ちていた。丈夫な歯を持っていることが当たり前だったのだ。また丈夫な歯を与えてくれた親に感謝する気持ちもわいてこなかった。それどころが、神経質性格者に生んだ親を憎んでいたのである。片手落ちも甚だしいと言わざるを得ない。そういえば集談会で、朝食と夕食後に歯を丁寧に磨くことを森田実践としている人がいた。今考えると素晴らしい実践課題だと思う。ただそれを聞いたときは、あまり共感はできなかった。「親孝行したいときに親はなし」という言葉がある。歯については、歯を痛めた時、歯を失った時に初めて大切さがわかる。そのときに初めて気づいたというのは後の祭だ。私は髪が少ないのが劣等感だった。そちらの方にエネルギーを使っていた。今思えばそこに注意や意識を向けるよりも、虫歯を防止すること。歯石のメンテナンスをすること。丁寧に磨くこと。いつも気にかけてあげること。そして健康な歯を与えてくれた親に感謝すること。いつまでも歯と仲良く付き合っていく方がよほど意味のあることだった。今持っているものにより多く光を当ててさらによりよくしていくこと。森田でこのことをよく学習したはずであったが、灯台下暗しとは自分のことを言うのだろう。これからは気を引き締めて、自分に元々備わっているものに磨きをかけることを目指していきたい。
2022.01.31
コメント(0)
森田先生のお話です。神経質は、その事柄よりは、むしろ自分の身体の感じの方へ、こまごまと注意を集中して、その不快の気分におびえるようになる。すなわちその事件は、とうに過ぎ去っても、ついにはその事実とは、関係を離れて、自分の恐怖のみに支配されるようになる。たとえば、丸太橋を渡るときに、普通の人は、向こうの岸の方ばかりを見つめて、スラスラと渡るが、神経質は、自分の足元ばかりを気にして、少しも向こうの方を見ることができないのと同様である。(現代に生きる森田正馬のことば1 生活の発見会編 白揚社 73ページ)丸太橋を渡るときは、足元や眼下の川の流れに視線を移してはならないと言っておられるのである。そうすると不安が不安を呼び、恐怖が恐怖を増幅させることになる。いったん不安や恐怖に取りつかれると、悪循環が始まり、手も足も出なくなります。私は大学生の頃、神奈川県の丹沢山系で沢登りに夢中になったことがあります。川沿いの15mくらいのほぼ垂直に近い岩場を制覇していくスポーツです。もちろんヘルメットを着けて、踏ん張りの効く靴を履いています。あとは指先の力を出しての体力勝負です。沢登りの専門家の指導を受けていました。指導者は命綱もつけずにものの数分で制覇してしまいます。そして頂上からロープを降ろして、それを命綱として、挑戦していくのです。それでも、結構恐ろしいのです。宙づりになった時は生きた心地はしません。私はなんとか最後まで登りきることができましたが、仲間は途中で早々にリタイヤする人もいました。その時にしつこいくらいに注意されたのは、次の3点でした。・視線は常に目の前か、上に向けること。間違っても眼下に向けてはいけない。・常に手足を使って3点確保を維持すること。残りの1点で、次の新たな確保点を探す。3点確保ができていないのに、次の確保点を探してはいけない。・万が一落下したときは、岩場にへばりつかないで、身体を岩場から離すこと。その方が大けがをしない。ここでのポイントは、視線を目の前の岩場において、3点確保に神経を集中させるということだと思います。少しでも気が緩んで、眼下に眼を落すと、急に体が硬直して、ぶるぶる震えだして体の自由が効かなくなるのです。頭が真っ白になります。最悪の結果となります。こういう緊迫した状況では、常に恐怖が付きまといます。それを回避するためには、目の前のことに集中して、今なすべきことに取り組むしかないのです。3点確保して頂上を目指すという目標に向かって、登っていくことが恐怖から逃れる最大で唯一の方法なのです。一旦登ってしまうと、征服欲が満たされて、自信がつきます。その経験は沢登りのコツを掴むことになり、次へのステップとなります。こういう経験が、どんどん目標を押し上げていくことになるのだと思います。将来はアイガー北壁に挑むという大目標も、最初は小さな一歩からということになります。自己内省はほどほどにして、目の前のことに精魂を傾けて取り組むことが大切になるのだと思います。
2022.01.30
コメント(0)
森田先生のお話です。「何ごとにもとらわれる心」は、同時に「何ごとにもとらわれない心」でありまして、「心は万境に随って転ずる」ことになるのであります。なおここでいうとらわれとは、広くいえば「注意の集中」であり、せまくいえば「注意の固着」であります。心配症の人は、「とらわれる」という言葉は、あまりよい印象がありません。「とらわれる」ことによって、不安、恐怖、イライラ、不快感が襲ってくるからです。でも「とらわれる」ことをなくすることはできません。仮になくすることができたとすれば、無鉄砲な行動で自分の命や社会的な地位、人間関係がすぐに破綻に追いやられます。「とらわれる」ことは、人間の進化の過程で淘汰されずに残されてきたことに思いを馳せる必要があります。「とらわれる」ことは、人類が生き延びるために必要なものだったということです。でも高性能レーダーようなものを兼ね備えて、小さなことにもことごとく「とらわれてしまう」ことはなんとか改善したいと思っています。森田先生は「とらわれたとき」に注意を集中させてはいけない。注意を固着させてはいけないといわれています。そんなことをすれば、天気のよい日に拡大鏡を持ち出して、テッシュや新聞紙の上に太陽の光を一点に集めるようなものです。すぐに炎上してしまいます。そのままにして他のものに燃え移ると大火事になります。以上をまとめると、「とらわれる」ことはどうすることもできない。あるがままに受け入れていくしかない。つぎに「とらわれ」は、ここに問題がありますよ。ここに解決すべき課題がありますよと教えてくれています。あるいは、好奇心や興味が存在する場所を教えてくれています。それをありがたく受け取りすぐに行動に結びつけていく。これが一つの方向です。対応可能で事態が改善に向かうものではこの方向で努力する。それ以外の「とらわれ」(神経症的な不安や不快感)は、あまり深くかかわらないようにする。谷間を勢いよく流れる小川のように速やかに流していくように心がける。そして次々と目の前に現れてくる「とらわれ」に飛び乗っていく。これは「とらわれ」は間断なく現れては消えているということです。2つを比べたとき、こちらの方が本流だと森田先生は言いたいのでしょう。森田のキーワードに「無所住心」という言葉があります。心はどんどん移り変わっているので、集中や固定はできない。またそうしようとしてはいけないということだと思います。そういう意味では鴨長明の方丈記が参考になります。ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
2022.01.29
コメント(0)
みなさん、次のように思い詰めてしまうことはありませんか。職場で何か小さなトラブルがあった時、それがあっという間に、いっそのこと会社を辞めてしまいたいと思い詰める。友だちと言い争いになった時、すぐに絶交だと思い詰めてしまう。結婚を前提として交際中に、言い争いが発生すると、すぐに婚約解消を考えてしまう。夫婦であれば、性格不一致だと判断すれば、すぐに離婚に踏み切ろうとする。子どもが親に反抗的な態度をとると、「今後は親子の縁をきる」などと口走ってしまう。友人でいえば、付き合って得になると思えば、べったりと引っ付き、役に立たないと思えば全く寄り付かなくなる。自分でいえば、一つでも欠点や弱みがあると、自分はすべてダメで、生きている価値や資格がないと考えてしまう。周りの人は気にしていないのに、弱みや欠点、失敗やミスがすぐに自分の一生を左右する一大事に膨れ上がってしまう。こういう考え方をする人は、二分割的思考、二極化思考に陥っている人です。物事を白か黒、0か100、全か無、善か悪、デジタル思考といった見方をする人です。完全欲が強い人の特徴として説明している人もいます。極端にどちらかに自分の態度を決めつけてしまう。中間という考えがないのです。物事には、例えば白と黒の間には無限のグレー部分が存在しているのですが、それを受けいれることができない。完全主義に凝り固まっていて、ほどほどのところで妥協する、相手に譲るという考え方をとることができない。自分がどちらかに態度を決めてしまい、それ以外の立場や考え方は一切受け入れないというかたくなな意地を押し通そうとしているのです。こういう態度の人は、自分自身や相手と常に摩擦を起こします。そしていきなり感情的になって、極端で破滅的な行動に走ってしまいます。後悔しても、後の祭りという最悪の結果で苦しみます。このやり方はどうしたら改善できるのでしょうか。この方法を採用している人は、森田の両面観の見方ができない人です。次に、自分の見方・考え方を自分や相手に押し付けて、意のままにコントロールしようとしています。強力な「かくあるべし」を押し付けようとしているのです。小さなミスや人間関係のトラブルで、すぐに会社を辞めようと考えている人は、両面観の思考方法を身につけることが大切です。辞めれば小さなミスや人間関係のトラブルは確かに帳消しになるかもしれません。一旦は精神的にも楽になります。でも退職すれば生活のために新たな就職先を探さないといけません。今の社会状況では、職を探すのは難しいです。たとえ見つかっても、今よりも収入が下がることが予想されます。では独立開業しますか。資金や資格や特技がない場合はこれも難しい。自己都合の退職では、失業手当は3ヶ月の待機期間があり、しかもわずかしか出ません。その間の生活費はどうするのですか。家族の生活はどうして守るのですか。また、退職したからと言って、住民税、国民年金、国民健康保険料は免除されません。年収が多い人ほど、これが家計費を圧迫するのです。これらのことを考えたうえで、確かな裏付けを持って退職するならまだ救いがあります。基本的にこの問題は、自分一人では解決してはいけない問題だと思います。でも現実問題として、両面観の考えができない人は、配偶者、両親、親しい人、カウンセラー、集談会の仲間の意見を聞いてみることです。二分割的思考が身についている人は、両面観の思考ができない人なので、人生の重要な決定は単独で行ってはいけません。後で必ず後悔します。次に、自分で考えたことを、思うがままにコントロールしたいという気持ちが強いという問題があります。「かくあるべし」を自分にも、他人にも押し付けてしまうのです。その弊害は森田理論で十分に学習されたと思います。観念で考えたことと現実、現状、事実の間には大きな溝があります。それを観念主導で、事実を変更しようとするのは無理があります。また事実を観念の世界に引き上げようとすると、摩擦が発生します。それよりも、どんなに理不尽で受け入れがたいと思っている事実に寄り添っていく方が、葛藤や苦悩が遠のいていくという真実があります。ここまでは森田理論で理解されている人が多いと思います。でも事実本位の態度がなかなか身につかないという段階で、足踏みされている人が多いのでないかと思っております。これはすぐに切り替えることは難しいです。その手がかりは昨年7月11日から22日に「観念中心の態度を事実優先の生活に切り替えるために」と題して詳しく解説しましたのでご参照ください。1年ぐらいの期間で取り組めば大いに改善できると思います。二分割的思考は、摩擦と苦悩をもたらし、後で取り返しのできない事態をもたらします。これを改善するには、森田理論を学習して応用していくことが大事になります。
2022.01.28
コメント(0)
今日は「炎の男」といわれたプロボクサーの輪島功一氏を取り上げてみたいと思います。輪島功一氏は4重苦を抱えたボクサーだといわれていました。それはアマチュア経験がない、デビューが遅すぎる、身長が低い、リーチが短いということです。目が見えない、音が聞こえない、話すことができないというヘレンケラーを想像させます。普通ならばプロボクサーになれないだろう。私なら早々に見切りをつけて次の進路を探すだろう。ここが我々と輪島氏の違うところだ。輪島氏は負けん気が強く、しかも粘り強い人だった。25歳でプロデビューすると、7連続KO勝利でウェルター級の新人王をとった。これで終わらなかった。その後も快進撃は続いた。そして世界ジュニアミドル級(現スーパーウェルター級)のチャンピオンになった。しかも6度の防衛を果たした。圧巻はその後である。一旦世界王座から転落したにもかかわらず、再度挑戦して2度にわたってチャンピオンに返り咲いている。一旦負けてしまうと、引退する人が多い中で極めて異例である。常識的に考えると、ハンディがあるとまともに闘っては勝てない。輪島氏はハンディをアドバンテージに変えることはできないか必死に考えたという。そこで考えたのが「カエル跳び」だった。力仕事で鍛えていた足腰のばねを活かすことを考えたのだ。「カエル跳び」は、まずカエルのように低い姿勢をとって相手の視界から消え、つぎにパッと飛びあがってパンチを繰り出す。電光石火の動きだ。ボクシングの常識を覆す奇想天外な奇襲戦法だった。それを見た人が「あれがボクシングか。ボクシングをバカにするのもいい加減にしろ」と極評する声も多かったという。しかしボクシングのルールには、一度沈み込んでカエルのように飛び上がってはいけないというルールはなかった。この「カエル跳び」スタイルこそが、輪島氏に幸運をもたらしたのだ。輪島氏は4重苦を持ちながらも、そのことを嘆き悲しんではいない。それを補って余りあるものはないだろうかと考えた。自分が持っているもので、相手を上回っているものはないか探したのだ。最終的には、仕事で鍛えた強靭な足腰のバネを最大の武器と認識して、それを活かして勝負することを思いついたのだ。そして一度食いついたら絶対に離さないという目的意識の強さが味方した。これは我々神経質者にも大いに参考になる話である。神経質性格には細かなことが気になるという小心な面がある。ところがそれは感受性が強いという長所でもある。その長所を活かすことは考えられないだろうか。神経質者は高性能レーダーを標準装備しているようなものなのです。持っていない人が喉から手が出るほど欲しいものなのです。でもその人たちは手にすることができない。私たちは生まれながらに備わっているものなのです。あまりに高性能すぎて無用の長物だと否定する前に、どうしたらその機能を活かすことができるだろうかと考える人は味わいのある人生を送ることができる。
2022.01.27
コメント(0)
今日は「条件反射制御法入門」(平井愼二・長谷川直美 星和書店)という本から、依存症がどのようにして引き起こされるかを考えてみたいと思います。ストレス(身体的、精神的ストレス、人間関係の悪化)が加わると、動物的な神経系である第一信号系(動物的な脳)は活動を始め、生きる方向に動きます。つまり生理的報酬(安堵、満足、快感)を獲得するように向かうのです。このとき、過去に頻繁に生理的報酬を獲得した精神活動が反応しやすく、過去の問題行動(仕事をさぼる、暴言や暴力、確認行為、パニック発作、摂食障害、反社会的行動など)が再現されるのです。なぜなら、その問題行動は、生理的報酬により定着した反射連鎖が(無意識的、自動的に)作動することにより生じるものだからです。これは、「やめたくてもやめられない」自己破壊的行動、反社会的な犯罪行動は、あなたの理性が弱いから起きるものではないということを意味しています。人間の脳の仕組みとして、衝動的な「動物的な脳」が理性的な「人間的な脳」よりも、先にしかも強力に作動するようにできているのです。ですから、過去、現在そのようなとの返しのつかない行動を持っていたとしても、あなた一人に責任を負わせて罪を償うことはあまり意味がありません。もし責める必要があるのならば、そのような脳の仕組みに向けられるべきです。また、過去の生理的報酬は、大脳にドパミンやβエンドルフィンという快楽を伴う伝達物質を放出して、再現されることが多いのです。無防備に問題行動の連鎖が続くのです。これらは動物の世界はともかく、人間社会ではとても不都合なものです。ですから動物脳が無意識的、自動的に連鎖して発動することは抑制することが大切になります。その一つの手段として、これらは条件反射として無意識に行われているので、条件反射を遮断すれば、問題行動がなくなるのではないかという発想のもとに考えられた治療法が、「条件反射制御法」なのです。具体的な方法はこの本にこの本に記載してありますので、依存症の方は参考にしてください。ここでは森田療法との関連性についてみておきましょう。森田では、生の欲望の発揮に向かうことを目指しています。しかしついうっかりしていると、生の欲望は暴走してしまいやすいのです。「不安と欲望」のバランスが崩れて、欲望が暴走し始めると厄介なことになります。人間同士が他人を押しのけて自己の欲望を無制限に追い求めるようになるのです。そして他人や他国を攻撃するようになるのです。人間の歴史は、欲望が暴走し争いや悲惨な戦争の連続でした。次に不安やストレスや苦悩を抱えた人は、その苦しみから逃れようとします。神経症で苦しんでいる人も、苦しみから逃れようとします。しかし現実にはなかなかその苦しみから逃れられない。そのような状況に追い込まれたときに一時的に楽になれる方法があります。アルコール、ギャンブル、ネットゲーム、過食、買い物などでドパミンを出す方法です。これらを利用して快感情を作りだして苦しみを緩和しようとするのです。この方法は一時的には有効ですが、長い目で見ると依存症に陥りやすい。バランスのとり方があまりにも両極端に振れやすいのです。依存症に陥ると人間関係が悪化、健康問題、経済問題などを引き起こします。そういう脳の仕組みを自覚することが肝心です。欲望を優先にしながらも、不安を活用して、欲望を暴走させないようにする。綱渡りのようですが、欲望と不安は上手にバランスをとることが大切です。森田理論の「欲望と不安」という単元は、そのことを教えてくれています。もし依存症に陥っている人がおられましたら、この条件反射制御法は学習して活用してみる価値があります。
2022.01.26
コメント(0)
森田先生の言葉です。神経質は机上論の屁理屈をおしすすめているうちに、病の悩みや死の恐怖という一面のみにとらわれ、動きが取れなくなったものが、一度覚醒して、生の欲望・自力の発揮ということに気が付いたのを「心機一転」といい、今度は生きるために、火花を散らして働くようになったのを「悟り」というのである。(森田全集第5巻 705ページ)「心機一転」するには、森田理論学習によって可能となります。単元でいうと「欲望と不安」「神経症の成り立ち」あたりを学習すれば自然に分かるようになります。「神経症の成り立ち」では、最初は誰でも持っているような不安が、不安にとらわれることにより、注意と感覚の交互作用が作動し始め、単なる不安がどんどん肥大化し、ついにアリ地獄へと落ちて行ったことが分かりました。ここでは精神交互作用が問題になります。「欲望と不安の関係」では、この2つは本体と影のような関係にあることが分かりました。神経症と格闘している人は、自分の影がゴミのように見えてくる。イライラして大いに気になり、すぐに箒で履いてゴミ箱に収納しようとしている。傍から見ている人は、あの人は頭がおかしくなってしまっているように見えるが、本人はそのことに全く気がつかない。ますます戦力を増強して、不安を一掃しようとしている。不安の方からすると、大人に小さな子供が相撲で勝負を挑んでいるように見えてくる。体力がつくまで待てば勝負になるかもしれないが、今現在の状況では勝敗の行方は最初から分かっている。無駄なことにエネルギーを投入しているとしか思えない。森田理論を学習すると、その考え方は間違っていたことが分かりました。不安と欲望はコインの裏表の関係にある。2つの関係をどう調和させるかという方向でエネルギーを使うことが理にかなっている。それぞれを単独で取り上げて議論してもあまり意味がない。目指すべき方向は、生の欲望の発揮を前面に押し出すことを優先する。それだけでは、うっかりミスや重大事故が発生する可能性が高まるので、そうならないために不安を大いに活用して、生の欲望の暴走を抑止する。これは自動車のアクセルとブレーキの役割とよく似ている。目的地を目指すためには、どうしてもアクセルを踏み込んで車を前進させる必要がある。ところが二車線、障害物、赤信号、交差点、カーブ、下り坂ではブレーキを作動させて、安全運転を心掛けないと事故を起こす。目的地に到達できないばかりか、その後始末のために大変な苦労を強いられます。アクセルは必要不可欠ですが、安全運転のためにはブレーキを活用ないと、目的地に到着することはできない。森田先生は理屈が理解できただけでは心もとないといわれています。今度は生きるために、火花を散らして働くようになることが大切であるといわれています。不安を仲間に引き入れ、生の欲望の発揮に向かって実践・行動する必要がある。車のタイヤでいうと左右のタイヤが同じ大きさであるということが肝心です。理論のタイヤはトラック並みの大きさで、実践や行動のタイヤは軽自動車のタイヤを取り付けていると、まっすぐに前進しません。軽自動車のタイヤの周りを、トラックのタイヤがグルグル回るようなことになります。こうなりますと、観念中心の悪循環が始まります。元の木阿弥になります。理論が小さいタイヤの時は、実践や行動のタイヤも小さいままの方がよいのです。理論のタイヤが大きくなるたびに、実践や行動のタイヤもそれに合わせて、付け替える必要があるということです。つまりステップアップを意識して、バランスをとることが大切になります。こういう方向で努力すれば、神経症でのたうち回ることはなくなります。
2022.01.25
コメント(0)
守離破という言葉があります。この言葉の意味は、剣術などに取り組む時は、師匠についてまず「型」を身につける。「型」が身に着いたらオリジナリティを加えて改良する。最終的には、全く新しい境地を自分なりに開発するということです。「型」を身につけることから入るわけですが、ここが不十分なままだと次には進むことはできません。「型なし」の状態で「離」の状態に移行すると、独りよがりで見苦しくなる。神髄を会得していないので、自己流で横道にそれるばかりになる。最初は疑問や異議をはさみたくなっても、師匠の教えてくれることを素直に受け入れることが肝心です。楽器の演奏などですぐに上達する人は素直な人です。師匠の教えてくれることを、そのまま素直に受け取り、我慢して練習を続ける人です。ここでは師匠の段階に到達したいという明確な意思を持って、とことん技を盗むという態度が必要になります。自分の気持や欲求は抑えて、日常生活の面まで真似てみることです。入院生の井上常七さんは、森田先生の猫背の姿勢まで真似ていたといわれていましたが、その態度が大事になります。では森田理論学習でいう「型」を身に着けるために必要なことは何でしょうか。まず誰から学ぶかということが大切になります。森田に詳しい人から学ぶことです。当然森田療法の創始者である森田先生から学ぶことです。残念ながら森田先生はもう生存しておられません。次善の策としては、残された書物から学ぶことになります。一番は「森田正馬全集」から学ぶことになります。しかしこれは現実的ではありません。何しろ膨大です。効率的に学ぶためには、「森田正馬全集第5巻」が一番だと思います。それに加えて、「神経質の本態と療法」「神経衰弱と強迫観念の根治法」です。この3冊を何回も繰り返して読み込んでいくことです。ちなみに森田理論の造詣が深い三重野悌次郎氏は300回以上精読されていたそうです。それは無理としても、5回程度は繰り返していきたいものです。読み方は人それぞれ工夫して、自分なりにアレンジしてもよいと思います。ちなみに私は「森田正馬全集第5巻」は分厚い本を3分冊にして読んでいます。さらに、「現代に生きる森田のことば」に引用されている部分をマーカーで印をつけて読みやすくしています。さらにキーとなる重要な内容は、項目別にインデックスをつけて書き出しています。たとえば、神経症の成り立ち、感情の法則、両面観、森田の特殊用語、不即不離、純な心、あるがまま、事実本位、かくあるべし、生の欲望、不安と欲望、行動、劣等感、人間関係などです。これらは弾みがついてくると楽しい作業になります。私は森田理論学習のポイント(いわゆる型)について次のように考えています。1、生の欲望の発揮2、不安の特徴と役割、不安と欲望の関係3、「かくあるべし」(観念優先の態度)の弊害と苦悩の始まり4、事実本位の生活態度の養成これらは森田理論全体像として説明しているところです。これら4つの深耕と関連性について学習を深めていけば、森田理論の「型」が完成します。いったん「型」が身についてくれば、いかようにも対応可能となります。
2022.01.24
コメント(0)
玉野井幹雄さんのお話です。「積極的な考え方をする人」は、「現状を善くするためには、善い部分を増やせばいい」と考え、長所を見つけてそれを活かすように努力しますが、「消極的な考え方をする人」は、「現状を善くするためには、悪い部分をなくすればいい」と考え、欠点を見つけてそれをなくそうと努力します。神経症になっている人は、たいてい後者に属していると思われます。(いかにして神経症を克服するか 玉野井幹雄 自費出版 252ページより引用)「積極的な生き方をする人」は、凡事徹底を肝に銘じて生活されている。生活の中から、問題点を見つけ出して解消すべく努力されている。課題や目標や夢を持って果敢に挑戦されている。つまり森田的生活が習慣となって板についているということだと思います。行動することはエネルギーを消費しますがそれを厭わない。気分本位になってつらい、面倒だ、やる気が起きないと思うこともありますが、気分に振り回されることがない。実践なくして森田はないといわれますが、その方向で真剣に取り組んでおられる。「消極的な生き方をしている人」は、観念的で行動には無頓着な人だと思います。神経症のもとになっている不安は、自分の意思の力で取り除くことができると真剣に考えている人です。地に足がついていない、観念優先な人です。自分の弱点や欠点は人目につかないように隠す。できることならごまかしてなかったことにする。ミスや失敗も隠蔽工作をしてできるだけ隠す。あるいは責任転嫁をして自己責任を回避しようとする。そして瞬間的、刹那的、刺激的、享楽的な快楽追及中心の生活になっている。辛そう、面倒、やる気が起きない事には決して手を出さない。暇を持て余し、いかに毎日楽しく暇をつぶそうかと考えている。着想力やアイデアが湧き上がっても手を付けようとしない。たとえ手を付けても3日坊主で終わってしまう。親に依存して、自分の運命は自分で切り開いていくという気持ちがない人。こういう人は何も思い煩うことがなくて、理想的な生活を送っているように見えますが、実態は砂を噛むような味気ない人生です。ストレスがない人は、それがかえってストレスになると聞いたことがあります。人間は日々、日常生活に真剣に取り組むことが大切になります。生活の中から問題点や課題を見つけていつも真剣に取り組んでいる。凡事徹底の中に小さな楽しみや満足感を見つけることができている。森田では努力即幸福と言いますが、それを宿命づけられているが人間です。本能的な快楽を追い求めても瞬間的ですぐに消え去ってしまいます。苦は楽の種と言いますが、その気持ちを持って悔いのない人生を送りたいものです。そういう人が人生を終える時に生き切ったという満足感と感謝の気持ちを持てるのではないでしょうか。そうでないといつまでもこの世に未練が残り、後悔で苦しむことになります。心残りがあっては死んでも死にきれないように思います。森田学習と実践により終わりよければすべて良しの人生にしたいものです。
2022.01.23
コメント(0)
昨年秋に撮ったダリアです。お気に入りの写真です。
2022.01.22
コメント(0)
12月号の生活の発見誌よりのご紹介です。九州支部の幹部が精神科医であり、小説家の帚木蓬生(本名は森山先生)を尋ねて次のように質問した。「生活の発見会はなぜ会員数が減り続けているのでしょうか」こんな質問は人に聞くのではなく、自分達で考えろと言いたくなるとことろですが、そこは帚木先生。「あんたら、説教と自慢話ばかりしているだろう」と指摘されたとのこと。私はこの回答を聞いて、「まさにその通りだ」とひざを叩いてしまいました。そんな集談会に参加していて、何のメリットがあるのだろうか。素人なのに上から下目線で自分のことを取り扱うのは、会社の中での上司と部下の関係と同じではないか。そこでの葛藤や悩みを相談したいのに、これでは話にならない。さらに克服体験と称して自慢話をしているのではないか。本人は成功体験の話で自己満足できるかもしれないが、そんな話を聞かされる人の身にもなってほしいものだ。これは極端に誇張した話だが、そういう気持ちが少しでもあるとしたら、集談会から足が遠のくのは自然の成り行きではないか。では森田理論の精通した人に森田理論の講義をしてもらうことは意味がないのか。あるいは、神経症の克服体験談を聞くことは役に立たないものなのか。もちろんそんなことはありません。大変役に立ちます。私は森田理論に詳しい人から森田のイロハを学んだ。これは剣術でいうと、師匠の技を盗むことに相当するのではないか。こういうお手本がないと、自分の型はできないと思う。井の中の蛙状態で人生が終わってしまう。普通は頭を下げて、高い授業料を払って入門させていただくのだ。そして森田理論の基礎を教えてもらう。型を覚えて自分のものにしていく。森田の学習や教育は自分を一段と成長させるために必要不可欠なものです。守離破でいうと守を徹底して、自分の型を作らないと次には進めない。集談会ではこれが「説教」として受け取られているのが問題ではないのか。つまり学習する人が、積極的にかかわろうとしていないときに、森田理論を講義してみたところで、「豚に真珠」の現象が起きているのではないか。悩みや葛藤を抱えている人にとっては、それを解決することに関心がある。そのために薬物療法、認知行動療法、その他精神療法、カウンセリングなどがある。要はどれでもよいのだ。そこでいきなり森田的な話を持ち出すのは、違和感があるということではないのか。初めて集談会にやってきた人は、確かに森田療法に一縷の希望は持っている。それよりもまずは自分の葛藤や悩みを吐き出させてほしい。傾聴、共感、受容の気持で暖かく包み込んでほしい。森田理論云々というのはその先にある問題だ。ここは神経症克服のラインナップを紹介してあげることが大切なのではないか。そしてどんな道を選んでも、神経症という蟻地獄から地上に這い出すことはできますのでご安心してください。私もさまざまな療法をあさってきました。最終的には森田療法、森田理論学習が合っていたので、たまたま森田に取り組んできたのです。要は神経症を治したい人は自分に合った方法を選択すればよいのです。ただここで声を大にして分かってほしいことは、神経症の蟻地獄から地上に這い出ても、生きづらさは解消できないことが多いのです。生きづらさを解消したいと思われたとき、森田理論学習が大いに役に立つことを頭の隅に置いておいてください。この点をしっかり伝えて、そのあとのことは相手に任せるしかない。馬をオアシスまで連れて行くことはできるが、水を飲みたい気持ちの馬は当然水を飲む。でも水を飲みたくない馬に無理やり水を飲ますことは、馬に苦痛を強いることになります。私たち先輩会員は、森田によって自分の成功体験を持っており、それを性急に押し付けようとしているのかもしれない。しかしそこで少しでも苦痛を感じた人は、二度と集談会にはやってこないことを肝に銘じておくことが大事になる。私が飛び込みセールスの仕事をやっていた時に思ったことですが、買おうかどうか迷っているお客様はたくさんいました。その時押し付けの態度を見せるとすぐにお客様は逃げていきます。一旦逃げた魚は二度と針には引っかからない。そのときは「残念ですが、じゃまた機会がありましたら」いったん引き下がるのです。見込み客として取っておくのです。そして日を変えて、「近くまで来たので寄ってみました」と口実をつけていくのです。なんども顔つなぎをしていると、気の毒に思うのか、相手の気が変わって成約になることがあるのです。また思い出したように、電話で注文してくる見込み客もいました。性急な態度で「このチャンスを逃すと後がない」と切羽詰まった態度は墓穴を掘ってしまうのです。鷹揚に構えて、自分は愚直に森田道を貫いている方が、かえってうまくいくのではないか。その方が相手にとっては、その人のことが妙に心に残り、いざとなったら集談会があるという安心感につながるのではなかろうか。そういう人がその後長らく森田と関わっていく人になるような気がします。
2022.01.22
コメント(0)
石原加受子さんの言葉です。あなたは、人に依頼されたら、気持ちよく引き受けたり、罪悪感なしに断ったりすることができますか。あなたは、手助けが欲しいと思ったら素直に依頼したり、断られたとしても、相手に悪意を抱かずに受け止められるでしょうか。独立独歩の人と見える人すらも、傷つくことを恐れていて、頼まれると断れないし、断ったら気に病むし、自分からは頼めないという人なのかもしれません。傷つきたくないという思いは、万人に共通するものです。傷つきたくないから「断ること」を恐れ、「頼むこと」を恐れるのです。(「また断れなかった・・・」がなくなる本 石原加受子 河出書房新社 126ページより引用)他人からの依頼を自分の都合に合わせて上手に断ることができる人は、他人に対してお願いや依頼が躊躇なくできる人です。「断ること」と「お願いすること」は表裏一体です。ですから、自分の意志を押し出して「断ること」ができない人は、「他人にお願いや依頼」をすることができない人です。この指摘は耳が痛いです。私のことを言われているようです。私は大学を卒業後、出版社に就職して書籍の訪問販売の仕事をしていました。見も知らない人に書籍を買ってもらうという「お願いや依頼」をするという仕事です。私の気持ちの中には、「書籍は読みたい人が自らの意思で買って読むもの」という思いがありました。だから、読む気がない人に、書籍の販売をするということは押し売りになるという気持ちでした。その結果、本を読むことが好きな人を選別して、その人たちだけに営業をかけることにしました。いわゆる有力な見込み客のみを相手にするという方法です。有力な見込み客から断られると、自分の自尊心が傷つきました。ショックを受けて、次の仕事に向かうことができなくなりました。そして、成果の上がらないダメ社員になってしまいました。成果を出している人を見ると、見込み客の選別などはしていませんでした。断られたらすぐにあきらめて、次の人にアタックする。訪問回数を上げないと成果には結びつかないという信念をもって仕事に取り組んでいたのです。自分が傷つくことよりも、その日1日のノルマを果たすことに全力を挙げているわけです。これは、お願いや依頼したことを相手が引き受けるかどうかは、相手の自由だ。相手に選択権があるというということをはっきり自覚していたのだと思います。私の場合は、有力な見込み客は絶対に買ってくれるはずだ、この人を取り逃がすと後がないという切羽詰まった心理状態になっていたのです。ですから断られると相手を赦さない。能力のない自分を自己嫌悪する。しだいに仕事をさぼるようになる。どんどん悪循環が加速してきました。その反面、人からのお願いや依頼を断ることは、相手が気分を害して、その後の人間関係が悪くなると考えていました。ですから相手の依頼事項はよほどのことがないかぎり、引き受けるようにしてきました。自分の気持ちや意志に反してまで、引き受けるので、辛いこともありました。転職先での事です。ある実力のある営業マンから、翌日大切な要件を頼まれました。私は次の日有休休暇を取ることにしていました。だから明日のことは安易に引き受けることはできなかったのです。私は「明日は有休をとるので引き受けることはできない。他人に依頼してくれ」と言えばよかったのです。ところがあろうことか、「分かりました」と言って引き受けました。私はその依頼事項を同僚に再依頼して有休をとりました。ところが同僚はその案件のことをすっかり忘れて手付かずになっていたのです。次の日大変な状況になったことは容易に想像していただけるかと思います。断ることができない人は依頼することもできない。その心理的からくりは、自分が傷つくことをひたすら恐れているのです。その時の自分の注意や意識は相手の言動ばかりに当てられているのです。ここですっぽりと抜け落ちているのは、素直な自分の感情、気持ち、意志、欲求などです。それらを十分に認めて、できるだけ叶えてあげる、癒してあげることが必要だったのです。これが第一優先順位となります。これがすっぽりと抜け落ちていたので、歯車がかみ合わない原因だったと思います。森田理論学習中ではっきりと気づきました。これに気づくと、訪問販売の仕事の場合、「成果を上げて同僚や上司に評価されたい」という気持ちが強かったわけですから、その方向で努力精進できたはずです。相手の言動に振り回されて、自分が勝手に傷つくばかりというのは避けられたと思います。有休休暇の場合は、自分の都合を優先することですから、事情を話して断ることができたと思います。普段から自分の感情、気持ち、意志、欲求を軽視して粗末に扱い、そのエネルギーを他者の思惑に向けていると、とっさの時に間違った行動をとってしまいます。森田は自分の素直な感情、気持ち、意志、欲求を正しく認識して、それを第一優先順位に位置づけて、対人関係に対応していきましょうという理論だと思います。
2022.01.21
コメント(0)
不眠で悩んでいる人に対して、森田理論では次のように説明されています。最初から一定の姿勢をとって、苦しくてもできるだけそれを変えないで、たとえ眠れなくても体を横にして休養しているだけでいいんだと覚悟していると、いつの間にか苦しいという感じに慣れてきて眠ってしまうものです。楽な姿勢を求めて、上になり、うつぶせになり、右向きになり、左向きになりをくり返していては、なかなか眠れなくなるのです。森田先生は逆説療法も取り入れられています。不眠の患者に、朝まで一睡もしないで起きておくことを勧められているのです。その時の心理状態を観察して、詳しく説明するように指示されています。するとその患者は「寝なければいけない」という歯止めが取れて、朝まで熟睡できたということです。この人は、不眠を積極的に受けいれることで、熟睡しなければという「かくあるべし」がなくなり、その結果熟睡できたのです。いづれにしても神経症的な不眠は、不眠をやりくりして眠る方法を探っている時は、どんどん不眠障害が増悪していく。不眠は天気と同じ自然現象で、人間の意志の自由は効かないと観念してしまえば、いつの間にか眠れるようになる。しかし、眠気が襲ってくれば、昼間2時間程度は昼寝をしていますという人は、夜熟睡することはできません。今日は睡眠の仕組みと役割について説明します。まず仕組みですが、人間はリズムで生活しています。体内時計は24.5時間から25時間のリズムで回転しているそうです。1日の生活リズムのことをサーカディアン・リズムと言います。起床してから14時間から16時間ほど経つと、脳の松果体から睡眠導入作用のあるメラトニンが分泌されます。朝6時に起床している人は、夜20時から22時ごろです。それから1時間から2時間後に眠くなるように設計されています。少なくとも22時から24時には寝床に入ることが必要になります。森田では規則正しい生活を維持することを勧めています。就寝時間と起床時間を確定させて、後目ざめている時間をいかに有効に活用していくのかが肝心だと思われます。つぎに睡眠の役割について説明します。脳全体としては、24時間休みなしに稼働しています。特に自律神経は休みなく稼働しています。大脳辺縁系に海馬というのがあります。情報や記憶の司令塔です。海馬は様々な情報を夜のうちに仕分けをして整理しているのだそうです。特に長期記憶の整理と格納場所を決めているのです。人間でいえば必要な書類をいつでも取り出せるように、インデックスやラベルを付けて、整理整頓し、よく分かるところに保管する役目を果たしています。これをしていないといざというとき必要書類を探し回ることになります。整理整頓と保管がきちんとなされていると、すぐに取り出して利用可能となります。脳科学者の池谷裕二氏は次のように説明されています。海馬は情報を整理しています。睡眠は、きちんと整理整頓できた情報をしっかりと記憶しようという、取捨選択の重要なプロセスなのです。だから「夢を見ない」というか「眠らない」ということは、海馬に情報を整理するという猶予を与えないことになります。つまり、その日に起きた出来事を整理して記憶できなくなってしまう。ですから、睡眠時間は最低でも6時間ぐらいは要るといわれています。もちろん個人差はあるのですが、6時間以下の睡眠だと脳の成績が凄く落ちるということは、2000年頃に科学的に証明がなされました。(海馬 池谷裕二 糸井重里 朝日出版 198ページより引用)
2022.01.20
コメント(0)
九州・沖縄サミット蔵相会合の総料理長を務められた三國清三さんのお話です。三國さんは20歳のとき、スイス・ジュネーブの日本大使館の料理長として赴任されたそうです。あるとき、その週末にジュネーブ駐在の米国大使ご夫妻らを招いての晩餐会の予定があった。こういう機会は、料理長の腕の見せ所になる。普通は、最高の食材や珍しい珍味を取り寄せて、自分の得意料理を披露することになるように思われる。三國さんのそのようなやり方はしないそうです。三國さんは、まずゲストに関する情報を徹底的に調べるのだそうだ。宗教によって、豚肉は駄目、鶏肉は駄目という場合もある。食物アレルギーはないかどうか、好きな食べ物、嫌いな食べ物、どんな飲み物が好きなのかなど。これらはゲストの行きつけのレストランなどに聞けばすぐに分かる。「うちの店に来られたら、いつも決まってこれを召し上がる」といった飛び切りの情報がつかめれば、そのレシピを聞き出して、実際にお出しする。今回は1日休みをもらい、米国大使の行きつけの店に出向き研修をさせてもらったそうだ。厨房に入れてもらい、どんな食材をどこから調達し、どんなものをどんなふうに作っているのか、つぶさに観察をされたという。事前に好みや苦手な食材をすべて調べ上げて、その店に倣ったフルコースを作ってお出しした。その中に「ウサギ肉のマスタードソース」というのがあった。米国大使はそれを口にして、「これは僕の大好物なんだよ」と大喜びだったそうだ。晩餐会は終始和やかなムードに包まれて、日本大使からお褒めの言葉をいただいた。(食の金メダルを目指して 三國清三 日本経済新聞社114ページ参照)この話は、相手の興味や関心を掴んで、それに応えることが、どんなにその後の展開を和やかなものにするかを教えてくれている。自分の身につけた技術、自分の頭で考えたアイデア、自分の人生哲学などを相手にアピールすることも大切である。ところが相手のことをまだよく分からない段階で、それらを積極的に打ち出すのは、いくら優れたものであっても、相手に喜ばれることは少ない。順序としては、相手の趣向、考え、性格、興味や関心などを把握することが大前提になる。そのためには相手のことをよく観察する。相手の話をよく聞く。いったんは相手の話に共感する。受容する。そこに自分が身につけた技術や能力、アイデア、考えなどを提供して、相手の希望を満たしてあげる。そのように心掛ければ、相手から感謝されるようになる。森田理論では、相手に自分の「かくあるべし」を一方的に押し付けてはいけないという。そんなことをすれば相手から反発を食らい、人間関係は悪化する。反対に相手の現状や状況を観察して、相手に寄り添うことにエネルギーを投入するほうがよほど人間関係が和やかになる。いわれてみれば当たり前のことですが、その順序を間違えている人が多いように思われる。
2022.01.19
コメント(0)
今日は感情の特徴と対応方法について考えてみました。今とらわれている感情は、時間の経過とともに、形を変えていきます。同じところに留まることはありません。動きながら変化しています。しかし神経症の人は、いつまでも不安などの感情を手放そうとしません。感情の特徴に反発しているのです。感情は行動に伴って、全く別の感情が湧き上がってきます。凡事徹底に取り組んでいると、感情はスクリーンを見るように常に流れていくのです。つまり感情は、シリトリゲームや連想ゲームのように、いつまでもどこまでも流動変化しているものなのです。いつまでも一つの感情にとらわれていることはできません。これは宇宙の仕組みに連動しています。宇宙という大自然は常に流動変化しています。これに逆らうことはできません。もし逆らえば、宇宙そのものが成り立ちません。感情は、人間の意志の力で、引き留めることはできません。自由に操作することもできません。ドパミンかいっぱい出て、めくるめく恍惚感で一杯になった感情も、このままいつまでも続いてほしいと願ってもすぐに逃げて行ってしまいます。そんな虫のよいことを考えていると、いずれ何らかの依存症に陥るでしょう。反対に、不安や恐怖でいたたまれない感情に取りつかれても、そのままにしておくと、一山登って、すぐにピークアウトして下降線をたどります。不安や恐怖にとっては、相手が戦いの場に出てこないかぎり、試合にはならないのです。空気の抜けた風船のように、すぐにしぼんでしまいます。反対に相手がけんかを売ってくると、不安や恐怖にとっては、働き場所を与えられて、うれしさを隠しきれなくなります。勝負に持ち込めば、最後は勝てるという自信満々なのです。それは今まで敗北したためしがないので、負ける気がしないのです。それなのにあえて勝負を挑むことは、ドン・キホーテの愚を選択するようなものです。感情は過熱したときの水のようなものだと思います。鍋に氷をいっぱいに入れて、加熱するとどうなりますか。氷が解けて水になります。そして暖かい水になります。そのうち沸騰してブクブクと泡立ちます。そのままにしておくと、熱湯は蒸発してなくなります。氷ー冷たい水ー暖かいお湯ーグラグラ煮えたぎる熱湯ー水蒸気というふうに次々と変化していきます。その変化を見極めて、その状態のままありがたく利用させえもらえば万事うまくいきます。氷は水割りなどの飲み物を冷やす。かき氷を作る。冷たい水は、暑いときやのどが渇いたときは何よりのごちそうになります。暖かいお湯は、シャワーやお風呂に使っています。トイレの洗浄にも使っています。グラグラ煮えたぎるお湯は、うどんやそばやパスタを茹でる時に役立ちます。レトルト食品を解凍するときにも役に立っています。水蒸気は蒸気機関車を動かすことができます。タービンを回せば発電もできます。変化を見極めて、その状態のままで活用方法を考えれば、いくらでもアイデアが湧いてくるのです。感情も同じです。これはいい感情、これは悪い感情と価値判断していると、非難・否定するばかりで活用することができなくなってしまいます。感情は選り好みをしないで、良いも悪いもそのまま素直に受け入れて、仲良くしておくことがセオリーなのです。感情をあるがままに受け入れることができるようになると、生の欲望に向かう出発点に立つことができるようになるのです。感情の取り扱い方は、国家試験にして、合格した人には、「感情の取り扱い有資格者」として厚遇してあげるだけの価値があるものなのです。試験には理論編と実技編の2科目をクリアする必要があります。森田理論学習は感情の特徴と活用方法を教えてくれる有難いものなのです。
2022.01.18
コメント(0)
白石浩一さんは、美しく生きるために3つのポイントをあげておられます。1、自分の人生に目標を持つこと。この目標は、観念的抽象的なものではなくて、ひるがえる旗のように具体的で鮮やかでいきいきしたものでなければならない。2、自分の世界というものを持っていること。趣味でも、学習でも、社会活動でもいいから、無我夢中で打ち込めるもの、張り合いを実感できる、自分の世界を持っていること。3、「心にゆとりを持っていること。あるがままを受けいれる、許容の気持ちである。現状をあるがままに受け入れた上で、やるべきことを、ゆっくりと一歩一歩自己実現を図っていく。そういう悠然とした心境である」(生涯森田のすすめ 生活の発見会編 5ページ)この3つは、森田理論で学習した内容そのものですね。みなさんは、日常生活、仕事などに無我夢中で取り組まれていますか。このことを一言で表現すれば「凡事徹底」ということになります。目の前のことに寝食を忘れるほど真剣になって集中するということです。このことを森田では、「ものそのものになる」と言います。ものそのものになれば、気づきや発見が生まれて、感情が流れていきます。課題や目標、夢や希望に向かう気持ちを投げ捨てて、怠惰な生活に陥ってはいませんか。怠惰な生活は、休憩をとってエネルギーをため込むための充電期間が習慣化しているような人です。充電期間は次の行動のためにあるという認識が必要になります。「退屈だ。何か面白い事はないかな」という言葉が浮かんでくるようになると要注意です。日常生活の中で小さな課題や目標に取り組んでいくと、楽しい生活に変わってきます。小さな成功体験で小さな自信がつき、さらに大きな目標への足がかりになります。このことを森田では「努力即幸福」と言います。「生の欲望の発揮」とも言います。この2つの方向に向かうことを、邪魔するものがあります。それは「かくあるべし」という観念優先の思考回路です。「かくあるべし」は、理想主義、完全主義の立場から現実や現状を否定しています。一人の人間が二人に分かれて不毛な争いを繰り返しているようなものです。エネルギーが戦いのために費やされているので、「凡事徹底」「努力即幸福」の方面に振り向けることができないのです。もし事実を「あるがまま」に認める態度になれれば、その時点で葛藤や苦悩がなくなり、逆転人生が幕を開けるようになるのです。森田理論の活用で、観念優先の態度を事実優先の態度に変えていくことが大事になります。
2022.01.17
コメント(0)
辛い人生を送っている人の特徴を考えてみたいと思います。1、問題や課題、目標や夢がない人。あっても意欲的になれない人。2、自己肯定感が持てない人。自己嫌悪、自己否定で苦しんでいる人。3、仲間として受け入れられていない人。仲間内から追い出されて孤立している人。この3つが重なっていると、人間として生きていくことが苦痛になってきます。楽しい人生を送りたい人は、この逆を行うとよいと思います。そのヒントを考えてみました。1、日常茶飯事に丁寧に取り組んでいる人は、小さな問題や課題を見つけて、興味や関心を高めている人です。それらはやがてもう少し大きな課題や目標へと膨らんでいきます。目標をとらえてそこに注意や意識を向けている人は、人間の宿命に沿った生き方をされている人です。自己内省に過度に傾斜することなく、注意や意識を絶えず外向きに持っていくことが大切です。観念中心で思考するだけではなく、河井寛次郎氏の言われるように、「手考足考」で体を動かすことを優先しなければなりません。しんどい、めんどうだ、つらいなどという気分を優先して、楽をする、休むという道を選択していると、人間はどんどん堕落してきます。2、自己肯定感が持てない人は、自分の中で二人の自分が対立している人です。観念中心で問題点を抱えて苦しんでいる自分を、空の上から見下ろして軽蔑の目で眺めている人です。本来一枚岩になって、外から押し寄せる課題に対して対処しなければならないときに、内部で権力闘争をしているようなものです。傍から見ると、これではとても良い方向に向かうはずがないと思えます。観念優先の生活態度を、事実優先の態度に変えていく必要があります。そのためのお手伝いを森田理論学習が行っています。それと自己肯定感は、小さな成功体験を積み重ねて、自信の数を増やし続けた人が獲得できるものです。小さな成功体験不足の人に、自己肯定感は育ちません。凡事徹底に取り組むことが不可欠となります。3、仲間として受け入れられない人は、孤立します。それでもよい。仙人のような天涯孤独を貫くという人もいます。しかしそれはどうも本心ではないようです。多くの人と付き合いながら、楽しい時を過ごす方がよほど豊かな人生になります。他人から嫌われている人は、自己中心が前面に出ている人です。この世の中は自分を中心に回っていると錯覚している人です。別の言葉でいえば、わがままな人です。融通の利かない人です、自分の思い通りに事が運ばないと、すぐに他人と対立してしまう人です。交渉して、調整や妥協点を探るという考え方ができない人です。こういう人は、挨拶さえもきちんとできない。他人に自分の気持ちを押し付けることは得意ですが、反対に他人から非難、否定、強制、指示、命令されることを受けいれることができない。しぶしぶ受け入れても、本音の部分でいつも強く反発している。他人は信頼できない、いつ危害を加えてくるか分からない。絶えず防衛態勢を敷いて、スクランブル発進に備えているのですから、心労が絶えないのです。こういう人は、親との間で信頼関係を築くことができなかった人です。遅まきながら、親以外のところで「心の安全基地」を作る必要があります。配偶者、祖父母、友達、カウンセラー、集談会の仲間など。一人いるだけで安心できます。批判しないで自分を受けいれて、よく話を聞いてくれる人です。いつも会っていなくても、いざというときにはあの人に相談してみようという人を持っておくことです。私は集談会のなかでそういう人を見つけました。それから森田理論では、人間関係のコツとして、「不即不離」を学びました。つきず離れずの人間関係です。自己中心的な人は、広く浅くをモットーとすると生きやすくなります。深く狭く親密な人間関係を目指していくと、いずれ破綻するかもしれません。コップ一杯の親しい友人を数人創るという考えは、大変危険です。人間関係は付き合いが始まると、かならず対立するようになります。付き合っている人が数人しかいない場合、犬猿の仲になると始末が負えなくなるのです。対立したときは距離を置くことが肝心です。こういう時に幅広い人間関係を心掛けている人は、気持ちが落ち着きます。その他人と仲良くなる方法はたくさんあります。私が心がけていることは、1、挨拶はきちんと行う。2、人の関心や喜びそうなことを見つけて、役に立つ情報を教えてあげる。3、自分の気持ちを伝えるときは、「あなたメッセージ」ではなく、「私メッセージ」で伝える。その他、皆さんもいろいろと研究してみてください。
2022.01.16
コメント(0)
広島県はコロナの新規感染者1221人でした。過去最多です。なんとかプロ野球の開幕までには収まってほしいものです。
2022.01.15
コメント(0)
日本人としてはじめて、アメリカのプロバスケットボールリーグの最高峰NBAのプレイヤーになった、田臥勇太選手がいました。バスケットボールの選手には身長2メートルを超える人がざらにいますが、田臥さんは173cmと小柄です。これは大きなハンデではないかと思いますが、田臥さんの認識は違います。「むしろ、背が低いから何ができるのかを探すことが面白い。たとえば、転がったボールを相手より早く飛び込んでもぎ取る。そういうことで差が出ると、すごくうれしいのです」背が低いことを逆に自分の武器にして、大きな選手にはなかなかできないスピーディーな動きや、いろいろなスキルやテクニックで勝負しているのです。体が小さい人でも、足が速い、素早い動きができる、器用であるという特徴を持っていればNBAのプレイヤーになれるのです。しかし現実は厳しいものがありました。デビュー戦からわずか1か月後には解雇されました。4試合に出場して、プレー時間は合計17分でした。ここで意気消沈してバスケットボールをやめてもおかしくありません。しかし、田臥さんは夢をあきらめることはありませんでした。その後もNBA復帰を目指して下部リーグでプレーを続けました。その後、日本に戻り、リンク栃木ブレックスに入団しました。そして、Bリーグで見事優勝に貢献しています。田臥さんは、欠点と長所の関係について考えるヒントを与えてくれています。例え致命的な欠点があっても、逆にその欠点は見方を変えると長所になることがある。普通、人と比べて劣っていると認識すると、そこに注意を集中させて、なんとか人並みの段階になるように修正しようとします。田臥さんは、それは努力目標が間違っていると言っています。人間には短所があれば、それと同じくらいの長所もあります。また短所と思われる裏には、それは短所ではなく類まれな長所が隠れていたということもあり得るわけです。神経質性格は、取り越し苦労をする、内向きになりやすい、こだわりやすい、完全欲が強く観念的で行動力が少ないという面があります。あるだけならよいのですが、それをよくないものと判断して、自己嫌悪、自己否定しています。森田理論を学んで、性格には両面性があることが分かりました。鋭い感受性の持ち主である。物事をより深く分析することができる。目標に向かって努力することを惜しまない。粘り強く努力家である。真面目で責任感が強い。大きな夢や希望を持って努力する傾向がある。神経質者の場合は、欠点や弱みを修正することに専念するよりも、欠点や弱みの裏に隠れている長所や強みを過不足なく評価することが大事だと思います。そして自分の強みや長所で勝負するという気持ちを持ち続ければ、その後の展開が大きく花開いていくいくように考えています。
2022.01.15
コメント(0)
このブログでは、日常生活に丁寧に取り組むことを提案してきました。規則正しい生活、凡事徹底、物そのものになりきるということです。これらは真っ先に取り組むべき森田実践となります。では日常実践にはどんなものがあるのか。第38回森田療法学会でそのヒントをもらいましたのでご紹介します。一般演題、1-10外来森田療法における「作業」の役割からの引用です。ここでは3つに分けておられました。1、生活維持のための作業飲食、排泄、整髪、更衣、掃除・洗濯、整理整頓、献立・調理、買物など2、社会生活のための作業交通機関の利用、公的機関などの利用、仕事、教育、他者との関わり、貢献など3、豊かさのための作業趣味活動、社会参画、体力づくり、休養(身体養生)、セルフケアなど日常生活は毎日取り組んでいることです。これに取り組まないと生活が乱れて停滞してきます。おおむねこの3つに分けて自己点検することが役立ちます。私はこれらに次のようなことを付け加えることを提案したい。1では、家屋の維持と修理、自給野菜作り、加工食品作り、車の洗車などを付け加えたい。2では、仕事や勉強などは多くの時間をかけています。この時間をいかに充実させるかはとても大切です。一心不乱に取り組むことで、問題や課題を発見することが重要です。気分本位になって回避していると味気ない人生になります。やる気を高めるためには、物そのものになることが肝心です。人間関係では森田理論の不即不離を活用することをお勧めします。引っ付きすぎず離れすぎず臨機応変で広く浅い付き合いを目指すことです。これは人間関係の生きづらさを格段に低減させてくれます。社会貢献ですが、集談会の中で世話活動に取り組むことも立派な社会貢献になります。世話活動は煩わしいものですが、関わると人間関係が広がります。また仕事に応用できるノウハウが身につき、自信になります。自信の数が増えてくると、自己肯定感が持てるようになります。3ですが、趣味の数は人生を豊かにしてくれます。それは、自主的で楽しく取り組むべき課題を持てるからです。私は10個以上持っています。ペットや園芸なども手掛けたい。お金がかかりすぎるものは趣味の範疇を逸脱しているものだと言えます。たとえばギャンブルやグルメ三昧などです。それから娯楽三昧の人やテレビを見ることが趣味ですという人がいますが、自分は何もしないで、他人から快楽を与えてくれることを求めているというのは趣味とは違うように思います。瞬間的には楽しいのですが長続きしない。また普段の生活の中で運動することは大切です。特に足腰です。毎日最低でも6000歩、できれば10000歩くらいは歩くことです。携帯にも万歩計がついています。一回計れば大体わかります。それと脳を使うことを心掛けて、認知症を予防したいものです。2025年には約700万人の人が認知症と予想されています。高齢者の5人に一人だそうです。私は毎日このブログを書いて脳を活性化しています。ネタを仕入れるために本もよく読みます。社会貢献と森田学習の深耕と脳の活性化を兼ねています。人間の機能は使わないと廃用性萎縮現象を起こします。一旦萎縮したものは復活しないということを肝に銘じておきたいものです。それから社会活動は地元の公民館活動をお勧めします。公民館ではさまざまな文化活動を行っています。男の料理教室、味噌作り、公民館祭りなどへの参加はとても楽しい思い出です。
2022.01.14
コメント(0)
スーパーなどで鍵をかけるのを忘れて、自転車を盗まれることがあります。こんな時、猛烈に腹が立ちます。相手のことを許せないと思ってしまいます。これは、盗まれたという事実を認めることができないからです。事実を否定すると、頭が固まってしまい、今後の対応策は考えることができなくなります。反対に、事実を素直に認めて受け入れると、今後の対応策を考えることができるようになります。事実を認めた人から耳寄りな対策を聞きました。鳥の糞をの形をしたシールがあるそうです。それをサドルのところに貼っておく。または「呪」「県警本部」というシールを目につくところに貼っておく。これらは忌避剤のような効果があるそうです。そういえば、私はマンションの管理人をしていますが、鳥が解放廊下にやって来て糞をするので、居住者から掃除を依頼されます。鳥の糞で廊下が汚いのは実に見苦しい光景です。鳥の糞がサドルに貼ってあると、盗もうとする意欲がそがれてしまう。こういう工夫は、自分ではなかなか思い浮かびませんが、集談会などでみんなで知恵を出し合えば、あっと驚くような提案が出てくることでしょう。田舎ではよく蛇が出てきます。家の周りに忌避剤を撒いていますが、これもさらに良い方法があるかもしれませんね。今度田舎に帰ったら近所の人に聞いてみたいと思います。男子トイレの周りが汚れていると、そこでは用を足す気になりません。汚されないように、きれいに使っていただきありがとうございます。もう一歩前に出てご使用ください。とか書いてあります。でもそれはほとんど効果がありませんね。老人ホームの慰問に行ったとき、次のような標語がありました。「東や西に飛ばしなさんな、南さまが北なしとおっしゃるので」これは面白いと感心しました。思わずその標語をメモしました。関西国際空港では、一番飛び散りにくい場所に◎をつけてあるそうです。これだと的を射るイメージで用を足しますので、あまり汚れません。誰が考えたのか「座布団3枚」と叫んでしまいました。他人にこんなことはしないでほしいことはたくさんあります。そんなことをされた場合、相手を非難、否定、叱責、禁止、軽蔑するような対応をとると思います。これらは、目の前の事実を素直に受け入れていないと思います。事実と敵対関係にあります。けんかをすると、お互い消耗します。一方事実を素直に認めて受け入れると、対応策を考えることができるようになります。その際、相手が自発的に行動する仕掛け作りを考えることは大変意義のあることだと思います。もう一つ例を出してみましょう。埼玉県の川越祭りにキュウリの串刺しの漬物の屋台があるそうです。そこでは食べ終わった串をその近辺に投げ捨てられていたそうです。そこで店主は、串を入れるための箱を用意しました。その箱が面白い。縦横に仕切り板がある。全部で25のマスがある。横には、10代、20代、30代、40代、50代以上に分けてある。縦には、有名になりたい、金持ちになりたい、幸せになりたい、結婚したい、何も考えていないに分かれている。自分の該当するところに串を入れてもらう。食べ終わるとゲーム感覚で串を入れてくれるようになった。みんな楽しい事、面白い事には目がないのですね。不快な事実を受けいれて、それをゲーム感覚で楽しみに変えてしまうことができる人は、森田の達人のレベルだと思います。
2022.01.13
コメント(0)
昨年行われた第38回森田療法学会に参加した。今回はコロナ禍のため、web開催だった。このやり方が私としては参加しやすいと感じた。この中でご紹介したい論点がいくつも見つかった。今回中村敬先生の講話に刺激を受けたことを取り上げてみたい。不問についての考え方である。もちろん症状不問のことである。高良武久先生、鈴木知準先生、宇佐玄雄・晋一先生の考え方を比較しておられた。3人の中で不問を一番強調し、徹底されているのは宇佐先生である。症状を口にすることはご法度である。言葉で理屈を述べるものは治らない。今現在、瞬間に打ち込みことで頓悟に至るといわれる。臨済禅の影響が大きいといわれていた。その次は鈴木知準先生で、同様に症状不問を重視されている。作業療法を行うことで、不安の濃度を希釈していく。作業療法で全治に至るのは、平均27.6ケ月かかるといわれる。最終的には飛躍があるといわれる。漸吾から頓悟に至る。高良武久先生は、症状不問はほとんど強調されていない。時間をかけてタマネギの薄皮をはがすようにいつの間にか治る。神経症の治り方は漸吾となる。理論と実践の相互作用で治る。高良先生は普通の生活が戻り、適応障害が緩和すれば神経症の克服と判定される。不安や恐怖を完全に取り除くという考え方ではないようだ。森田に精通された先達であり、素人が軽率に口をはさむことではないかもしれない。ただ「症状不問」については、生活の発見会でも様々に議論されていることもあり、ここで私見を述べてみたい。森田先生は、「あるがまま」になろうとしては、すでに「あるがままではない」といわれる。つまりことさら「あるがまま」を強調するような態度は症状克服から離れてしまう。「あるがまま」という言葉を口にすることで、心の奥底に症状を治したいという気持ちがどうしても入り込んでしまう。それが抵抗となって症状克服を拒んでしまう。それはケガをしたときにかさぶたができますが、そのままにしておくとかさぶたが取れてケガが治ります。しかし、本当に治っているとどうか確かめようとして、かさぶたをはがして治り具合を確かめようとしていると、いつまで経ってもケガが治らない。むしろ雑菌が入り悪化してくる場合もあります。「症状不問」という言葉にもそういう面が多分に含まれているのではないか。一心不乱に実践・行動していたら、症状のことは一時的に忘れていた。そういう場面を多く積み重ねていけば、頭の中の大半を占めていた神経症のことは比重を下げていく。そこに「あるがまま」「症状不問」という言葉が入り込む隙間がなくなっている。あえて理論的にすっきりと整理したいというのでしたら、次のように理解するとよいのではないか。症状で苦しいという状態は、それに対応した欲望が大きいということになります。森田理論学習では、不安と欲望はコインの裏表の関係にあるといいます。「症状不問」を問題にしている場合は、不安、恐怖、違和感、不快感のほうに意識や注意が向いています。それに伴い生の欲望の発揮の方への取り組みが不十分になりやすい。私は「あるがまま」「症状不問」をことさら強調されている人の、日常生活を注目してみるようにしています。規則正しい生活、凡事徹底、物そのものになる、生活を楽しんでいる、手足がよく動いている、自分でなすべきことを人任せにしていない、人間関係の幅が格段に広がっている、生きがいを持った生活を送っている。そういう人が、時たま自分の生活を振り返って、結果として「あるがまま」「症状不問」の生活になっていると発言されるときは、素直で謙虚な気持ちで受け入れることができるのです。そういう裏付けを持ったうえで、使用すれば何ら問題はありません。不安と欲望の調和は森田理論が目指しているところです。
2022.01.12
コメント(0)
私は宇野千代さんの大ファンである。「宇野千代 幸福の言葉」(海竜社)は私の愛読書である。宝石のような言葉が散りばめられている。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があります。親しくない仲に礼儀があるのは当然のことで、親しい仲にも礼儀がある方が好いとの意ですが、実はもう一歩強めて「親しき仲にこそ礼儀あり」としたいものです。愛し合う二人の間にも礼儀というものが必要です。お互いに相手の傷にさわらない、傷のあるところは知らん顔して除けて通る、ということです。朝起きたとき、夫婦で「おはよう」とあいさつはしていますか。子供や親にも「おはよう」とあいさつしていますか。これが家族の礼儀です。なんだか気恥ずかしい。とってつけたような挨拶はできない。釣った魚にエサはいらないという気持ちなのでしょうか。そういう習慣は我が家にはない。それはなれ合いになりすぎて、人間関係の基本を無視しているのです。家の中で知らない人と同じ付き合いをしているということになります。一番大切にしなければいけない人を、粗末に扱っているということになる。「ご飯よと 呼ばれていけば タマだった」という川柳があります。犬や猫には優しい声をかけているのに、一番世話になっている人を軽々しく扱っている。近所の人に出会った時、こちらから近寄って、「おでかけですか。よいお天気で気持ちがいいですね」とあいさつしていますか。知っていても知らない顔して通り過ぎることはありませんか。会社や学校では、「おはよう。元気」とあいさつしていますか。挨拶のタイミングがなくて、知らないふりを決め込むことはありませんか。これでは油のない歯車を無理やり回そうとしているようなものです。他人から何かもらった時、親切な対応を受けたとき、メールをもらった時、何かを依頼されたとき、すぐに返信をしていますか。気心の知れた人だからそんな必要はないと思ってはいませんか。これは大きな落とし穴にはまっています。返信しないと、相手は無視されたように思います。恩を仇で返されたと思うようになるのです。人間関係はそんな些細なところから壊れていきます。後でしまったと思っても、すでに時遅しということになります。葬式があった時、万難を排して告別式に参列していますか。特に親戚関係にある場合は、肝に銘じておくことです。どうしても参列できない場合は、通夜だけには行っておくことです。理由をつけて葬式を回避しているととんでもないしっぺ返しがあります。反対に犬猿の仲だった人でも、真っ先に駆けつけて悔やみの挨拶をすると、今までのわだかまりがすっと消えていきます。人間は感情の動物ということを忘れてはいけません。おまえはどうなのだといわれると、お恥ずかしい。気をつけているが時たま失敗をしてしまう人間です。でもその方向でやっていきたいと念じております。人間関係の基本は挨拶からを肝に銘じたいと思います。
2022.01.11
コメント(0)
西田文郎さんが行動力という面から、男女をそれぞれ5つのタイプに分けておられる。森田にも関係するところがありますので、これを私なりに補足して紹介してみたい。まず、男性の場合1、「ツバメ」型(5%)・・・課題、夢や目標を持ち、その実現に向けて積極的に行動している人。森田理論でいう生の欲望に向かって行動している人である。大局的な視点を持ち、リーダーとして人を鼓舞してまとめる力がある。情熱的で野心家で冒険家である。イケイケどんどんタイプ。ただしそれが先行し過ぎると、思わぬ落とし穴が待っている。2、「カモメ」型(10%)・・・「ツバメ」型の不足している部分をカバーして強力に補佐するタイプ。「ツバメ」型のようなリーダーシップはとれないが、責任感が極めて強く、問題点や課題を発見する力があり、事前に予想される障害物をとらえることができる。「ツバメ」型の人とタッグを組むと、1プラス1が3にも4にも増強される。ナンバーツーの役割を自分の使命として全力を投入できる人。良い意味で小さな不安や問題点を見逃さないで真剣に取り組むことができる人。3、「ニワトリ」型(35%)・・・会社では指示・命令されたことは必至でこなしているタイプ。気分に振り回されて、楽な道や逃避することを潔よしとしない。人間としての責任は果たしている人。生きているという実感が持てる人。使命感や責任感があり、堅実に仕事をこなし、仕事以外のこともきちんと取り組んでいる人。会社でも家庭でも堅実な頼りがいがある人として人望が厚い。生活の中で小さな楽しみを味わっている人。社会人として立派な人である。ただし本音と建前が乖離すると、ストレスで苦しむこともある。4、「スズメ」型(45%)・・・指示されたこともきちんとできない。楽をしたい、人が見ていないと怠け癖の体質が身についている人。どちらかというと、刹那的、享楽的、本能的、消費的な生活を続けている人で、生きがい、目標達成、夢の実現などとは無縁の人である。その日その日を惰性で生きている人。少なからずモヤモヤした生き方をしている人。5、「カラス」型(5%)・・・自分や他人を批判や否定ばかりして、いつも対立関係に陥り、喧嘩を売っているタイプ。そうすることで存在意義を見出している人。常時欲求不満で、人生に投げやりになっている人。組織のお荷物になっているタイプで、リストラ候補になっている人。しかし本人にはその意識が希薄である。こうしてみると、好ましいと思われる1から3までのタイプは50%である。生きがいとは無縁で、悶々と惰性で生きている人が50%である。2人に1人というのは、ちょっと多すぎはしないだろうか。私の場合、神経症で苦しんでいた時は、4のタイプだった。時には5のタイプが顔をのぞかせていたと思う。幸い、森田理論に出会い、学習仲間と付き合うようになって、3のタイプに変化してきたようである。そして、生涯学習として森田理論を位置づけることで、多少なりとも1にも2にも近づきつつあるのかもしれない。女性の場合1、「ツバメ」型(5%)・・・男性の「ツバメ」型と同じです。やり手の女性経営者のような人ですが数はそんなにいない。結婚にあたっては、男性の「カモメ」型との組み合わせが、最強コンビです。男性の「ツバメ」型とは、理想のように見えますが、船頭が二人いることになるので、必ずしもうまくはいかないかもしれない。2、「タカ」型(10%)・・・家庭生活、子育て、近所付き合いのことに関しては、男性に変わり、全責任を持って、取り仕切っているタイプ。「おかみさん」タイプ。女性にとっても、男性にとっても安定感・安心感があります。男性の「ツバメ」と一緒になると、大きな成果につながる可能性があります。また男性の「ニワトリ」型とも平和な家庭を築くことができると思われます。3、「カナリヤ」型(45%)・・・家族融和、子育て、仕事、近所付き合い、趣味、ボランティアなどのバランスを維持しながら、毎日精一杯生きている人。次々とやるべき課題が多く生活に張りがあります。小さな幸せのかけらを毎日いくつも味わっているような人。45%の人がこのタイプというのは頷けるような気がします。4、「白鳥」型(5%)・・・変なプライドを持っており、自己主張が強いタイプ。数は多くはないのですが、時々このタイプの人と出会います。本人もつらいでしょうが、なんとなく周囲の人から敬遠されることが多い。理屈っぽいので、一見「ツバメ」型と見間違えることがあるが、その違いはほとんど見るべき成果を出していないことです。5、「ダチョウ」型(35%)・・・扶養家族の地位に安住し、それを最大限に利用して、自分の思うままに自由奔放で刹那的、享楽的、消費的な生活を最優先させている。その日一日を楽しく過ごせればそれでよしというタイプ。そのくせ何か物足りないような生きづらさを抱えている。このタイプの人が35%もいるというのは問題かもしれない。これらは固定したものではなく、難しいことですが、森田理論学習に取り組むことによって、多少なりとも違う型に移れると思っております。以上は、「ツバメの法則」西田文郎著 徳間書店 62~63ページをもとにして投稿しました。
2022.01.10
コメント(0)
森田先生は、人の気質を7種類に分類されています。意志薄弱性気質の人は、いわゆる感情鈍麻で、人生の欲望・向上心に乏しく、下等の感情に支配されるばかりである。神経質者は自分が意志薄弱ではないか、ヒステリーではないかと、悪い方面ばかりを考えて、独り心配し苦労するが、意志薄弱者はそんな事は全く平気で、修養とは全く無関係の人のことである。抑鬱性気質の人は、陽気の人と反対に、陰気で気のふさぐ方で、何ごとも消極的である。時どき神経質と区別の難しいことがあるけれども、この方は、単に気が沈むというだけで、神経質のように、自己内省が深く行われていないのである。偏執性気質の人は、物事に凝り性のもので、やたらに自分の権利義務を主張するとか、学問や発明に熱中するとか、哲学に凝り、宗教に惑溺するとかいう人であって、一般の人間味が乏しくて、何か、ただ一つの事にのみ執着するような人である。その他、感情過敏で自己内省の乏しいヒステリー性気質、陽気で交際上手な発揚性気質、表面と内面が一致しない解離性気質について説明されている。私たちのような神経質気質の人は、自己内省的で、何かにつけて、自分のことを観察批判して用心深く、石橋を叩いて渡るという風である。すべて理知的で感情を抑制する事が強い。したがって軽はずみではないがヒネクレである。自己中心的、他人に対しては、情愛がうるわしくはないが、信頼を置くことができる。悪い方面の事のみを、我事のように自分に引き当てて反省する。人と喧嘩する時でも、神経質者は、自分の欠点や、悪い点を充分に考えて、しかるうえで争う事ができる。(森田正馬全集 第5巻 364ページ 要旨引用)神経質者は、欲望が湧き上がっても、素直にその実現に向けて行動しない。欲望には不安がつきものであるが、欲望の実現に向かって努力するよりも、障害物である不安を取り除くことにエネルギーを投入する。ミイラ取りがミイラになるようなものである。本人は不安をすべて取り除いて、しかる後に欲望の追及に専念したいと考えている。行動している中で問題が出てくれば、そのときに解決策を考えればよいという気持ちはない。不安に注意や意識を向けていると、普通は自己内省的になる。それもネガティブで悲観的な考え方になり、それが悪循環するために、手も足も出なくなる。いつのまにか、欲望の追及が蚊帳の外になる。そして悶々としてくる。消極的で逃避的な自分に対して自己嫌悪するようになる。ますます観念の世界にどっぷりと漬かり、退屈を持て余すようになる。最後には、生きることが苦痛になり、生きていくことがむなしくなる。私たち神経質者はどういう心構えで生活していけばよいのだろうか。まず不安は欲望がある限り必ず発生するものだということをしっかりと理解することが大切になる。そのうえで、欲望をしっかりと意識することだ。目を離さないことだ。神経質者は生の欲望が旺盛というのがその特徴だ。車でいえばアクセルが欲望だ。これを第一優先順位とする。アクセルを踏み込まないといつまで経っても目的地には到着しない。ブレーキ(不安)は欲望が暴走したり、横道にそれたりしないように、適宜利用すればよいのだ。欲望と不安の関係を森田理論学習によって理解すること。それ以外に不安の特徴や役割、欲望の制御の必要性ついても十分に理解すること。理解したら即実行することだ。そして次に観念優先で事実を無視する態度の弊害を理解することも大切だ。事実を優先して、観念・理知は補助的に活用することを学習して自分のものにする。確実に身につけると、あなたの人生はその日から全く新しいものに生まれ変わるのである。ここまで至れり尽くせりで、教えてくれているのが、森田理論学習と学習仲間たちなのである。森田理論学習の醍醐味は大きくはこの2点に集約されると思う。
2022.01.09
コメント(0)
録音機のスピーカーが壊れた。アマゾンでBluetoothのスピーカーを購入した。3000円と安価ながら優れものだった。録音機とは有線でつないでいる。音が大きいので、老人ホームの慰問でマイクなしで使えそうだ。それ以外にスマホやパソコンと無線で繋いでYouTubeの音楽を存分に楽しんでいる。遅まきながら、正月から、新しい世界が始まった🎵
2022.01.08
コメント(0)
彫刻家の佐藤忠良さんの言葉です。人生の80%は準備、雑用だ。これができて初めて創作にとりかかれる。準備や雑用で人生の80%が占められているというのは驚きです。また、そこが出発点になり、目標に挑戦する権利が与えられているという。これは再考してみる価値がある考え方だと思います。雑用という言葉は、小さすぎて取るに足らないもの、無視してよいものと決めつけてしまう傾向があります。雑事、雑用、雑誌、雑記帳、雑仕事、雑念、雑木林、雑草、雑魚などを思い出してみるとすぐに納得できます。こんなふうに、価値のあるものと価値のないものを簡単に区別してもよいものでしょうか。特に神経質者は、料理、洗濯、掃除、片付け、親戚・近所付き合い、洗車、子育ては煩わしいだけで、しなくて済むならばパスしたいと思う人もいます。経済的に許されるなら、煩わしいことは他人に肩代わりしてもらいたい。そして自分は人ができないような大きな価値のある目標に挑戦する。スポーツ、文学、芸術、指導者、経営者などに専念する。そのほうがやりがいを感じるし価値があると信じている。あるいは、とことん享楽的、刹那的、消費的、快楽的生活を楽しむ。雑事から足を洗ってエネルギーを温存したいというのである。私はそういう考え方は、ザルで水を掬うようなものだと思います。掬ってもすぐに流れ出して、果実を手にすることができない。あるいは、砂浜に家を建てるようなものだと思います。しっかりとした基礎ができていないので、いずれ倒壊してしまう。ある女優さんで仕事が忙しくて、子供にはふんだんに小遣いを与えて、子育てを放棄している人がいました。その子供が刑事事件を起こしたとき、「あんなに何不自由ない生活をさせていたのに、どうしてこんなことになるのか信じられない」と弁解していました。できるだけ子供と一緒の時間を作る。一緒に遊ぶ。学校行事にはできるだけ参加する。3度の食事はできるだけ作ることを優先することが大切です。最近、足腰の悪い老人が電動の四輪車で街中を動き回っています。まだ歩けるときに、楽ができるといってそんなものに頼っていると、そのうち足の筋肉が退化して、寝たきりになるのではないでしょうか。そして頭もぼけてきます。これを廃用性萎縮と言います。森田は雑事を丁寧に取り扱う理論です。雑事こそ我が人生という考えです。凡事徹底の中で、小さな達成感、感動や喜びを数多く味わいましょうという考え方です。私はこういう心がけを持っている人に魅力を感じます。普段の生活の中に小さなやりがいを持つことができれば、それが即豊かな人生につながるのではありませんか。私は、集談会の中で、小さな楽しみを見出した人の話を聞くのが楽しみです。
2022.01.08
コメント(0)
今日は大島清さんの「カキクケコ」の法則を取り上げてみたい。「カ」は感動、「キ」は興味、「ク」は工夫、「ケ」は健康、「コ」は恋のことです。大島さんは、「この5つを上手に循環させれば、脳は老化することなく常に若々しい気持ちを維持できるので、人生そのものが快活になる」と言われている。この本の中で、「恋」とは、異性への関心ではあるが、また異性を愛するように他のものを愛する心でもある。たとえば野の花でもいいし、小説でもいい。心が揺れ動くことが恋なのだと思いたい。富士山をずっと撮り続けている男性がいる。朝焼けの富士が撮りたくて、何夜も毛布を抱えて待機している。それも1ヶ所ではない。そこで成功すれば場所を変えて撮りつづける。富士山のことならなんでも関心があり、高山植物から小動物まで、鉱物から地下水まで貯えた知識、そしてその写真の数は相当なものである。恋する対象の全てを知りたい、いつも一緒にいたいと思うことが恋ならば、この男性は間違いなく富士山に恋している。その思いが高じて、ついに富士山麓に別荘を買ってしまった。ある日、「いい写真が撮れました」といって、見事な笠雲がかかる富士山の写真を見せてくれた。恋人に送る熱いまなざしだけがとらえることができる富士のたたずまいがそこにあった。(感動するとなぜ脳にいいか 大島清 新講社 76ページより引用)異性だけではなく、心がワクワクドキドキ揺れ動くことを見つけることが大切だといわれています。恋する気持ちを持つことは素敵なことですね。私は読書に恋しているのかもしれない。常時読みたい本を手元に10冊は抱えている。買ったものではありません。全部図書館から借りているものです。広島市は各区に図書館があり、まんが図書館をなどを含めると、その数は10か所あまりです。その図書館をくまなく回っているわけではありません。広範囲ですからそんなことは不可能です。ネットによる予約システムを利用して、近くの図書館で受け取っているのです。通勤途中にある図書館ですから便利です。予約システムは100冊まで登録できます。本を読んでいると参考文献が書いてあります。それと琴線に触れたものを蔵書検索するのです。驚くほどそろっています。森田関係の本は、「森田正馬全集」も含めてほぼ全部そろっています。それをひとまず予約かごに登録するのです。そのうち貸してもらえる本は10冊までです。借りだし期間は2週間です。借りた本は、目次を見て、最初の50ページを読んでみます。さらに、これはと思った本は、以降斜め読みしています。良本は付箋をつけながら改めて精読します。全体の3割程度です。蔵書にしたい本は、アマゾンやブックオフの中古の本を探します。読み終わった後、要旨を書き出します。それと森田理論を突き合わせて、ブログの原稿を作っています。これを土日を除いて毎日続けているのです。投稿原稿のネタ切れはあまり発生しません。本は古今東西の一流の人の講演を聴いているようなものです。こんなにありがたいことはありません。
2022.01.07
コメント(0)
通勤途中でみるエンドウ豆です。毎日見ています。大きくなりました。成長が楽しみです。私が田舎で育てているものより大きいです。今時期タマネギとエンドウとイチゴくらいです。
2022.01.06
コメント(0)
次のような人事権を持った上司がいた場合どうしますか。・そのことは会議の時に説明しましたよね。聞いていなかったのですか。・この件については通達文書に書いてありますよね。読んでないのですか。・入社の時約束しましたよね。どうしてきちんと約束を守らないのですか。・就業規則にはっきりと書いてあるじゃありませんか。そういわれれば、確かにあなたのおっしゃる通りです。私がいい加減だったので、申し訳ございませんでした。でも、1回言われたことをきちんとしなさいといわれても、ちっとつらいです。何を言い訳しているのですか。見苦しいですよ。そんなに反発するのでしたら辞めてもらっても結構ですよ。代わりの人はいくらでもいるのですから。重箱の隅をつつくような感じだ。責める。叱責する。責任追及する。勢いにまかせて相手を追い込んでいく。相手はついに音を上げる。その後、その上司が恐ろしくなり寄り付かなくなる。人によっては退職する。その人も人間ですから完璧ではありません。間違ったことをする時がある。その方も、たとえば大切な書類の送り先間違いをすることがある。先日は大量の郵便物が宛先不明で返送されてきた。そんなときは、決して素直に謝らない。必ず言い訳をする。あるいは捏造する。下手に出て媚を売る。また自分の上司から叱責されると、悔しくて泣いていることがあるという。他人のミスや失敗には厳しいが、自分のミスや失敗にはとても甘い。始末が悪いが、ラインの課長なのでどうすることもできない。この人の特徴はもう一つある。会社内で小さな仲良しグループ作っている。仲間内では、相手がどんな不祥事をしてもすべて見逃す。そして積極的に味方になって擁護する。周りから見ると、必要以上に持ち上げ、親密なので違和感がある。それが仕事だけではなく、私生活にも及んでいるという。この人は森田理論で分析すると、完全主義、完璧主義の人だ。一度指示したこと、伝えたこと、ルールは完璧に実行すべきだという「かくあるべし」を持っており、伝家の宝刀で相手を一刀両断する。100点満点が当たり前で、それ以外はすべて0点とみなす傾向が強い。仕掛けた網に相手が引っ掛かってくれると途端に元気になる。対抗心で対応した何人もの人が退職に追い込まれた。辞めていった人たちには共通する特徴がある。「俺のことを何だと思っているのだ」という気持ちで話をしている。自己主張が強い。定年前は大きな会社の役職者だった人にその傾向が強い。するとその女上司は「あなたは一体何ものなんですか」という。話がかみ合っていない。こうなると部下は弱い。退職に追い込まれる。私は10年以上になるが、今まで3回ほどはらわたが煮えくり返るような思いをしてきた。今で考えても理不尽なことを言われたと思う。でもやめることなく今まで在職している。それは、下手にけんかをして退職に追い込まれては損だという思いがあった。つまり、できるだけ長く仕事をしたいという気持ちを優先している。その気持ちをしっかり持っているので、どんなに腹立たしいことがあっても、破れかぶれになることはないのだ。少々の腹立たしさはがまんしてきた。私はその人に対して森田理論の「不即不離」を応用しているのだ。相手を全く無視しているわけではないが、距離をおいて遠巻きに眺めている。そして、会議の話は細大漏らさずよく聞いてメモしている。さらに通達文書はよく読んで、実施すべきことをカレンダーに記入している。就業規則はよく読みこんでいる。疑問点は、担当営業マンや同僚に確認して解決するようにしている。その人には補助者がいるので、補助者がいる時を見計らって極力その人に聞くようにしている。これらを実施することで、大事に至ることは避けられていると思う。それでも時々電話がかかってくるが、言いたいことがあっても、すぐに反発はしないことに徹している。その人ににらまれて、不本意ながら、退職に追い込まれると収入が0になるので、それだけは何としても避けようと思っている。読者の皆様の中にも、上司や同僚との人間関係でストレスだらけの人がおられるかと思います。でも、安心してください。人事異動のない役所や会社はありません。いずれは、離れ離れになります。今までの関係はなくなるのです。またそういう上司は、能力がないので降格や左遷されることもあります。早まって、喧嘩をして、退職に追い込まれることだけは何としても避けるようにしてください。一時的には、言いたい放題のことを言ってすっきりしても、後の祭りです。
2022.01.06
コメント(0)
精神科医であり小説家である帚木蓬生氏は森田理論に対しても造詣が深い。福岡県中間市でクリニックを開業されている。私は集談会で協力医を紹介してほしいと質問されたとき、通谷メンタルクリニック(帚木先生)と新倉敷駅前のすばるクリニック(生きがい療法の伊丹先生)を紹介している。今日は帚木蓬生先生の言葉を紹介したい。よい習慣は才能を越える。これは一つのことを毎日3時間取り組む習慣をつけたなら、10年で1万時間になる。そうすればその道では大家になれるということです。これを1万時間の法則というそうだ。この言葉を裏から見ると、「悪い習慣は、しだいに心身を病む」ということではないでしょうか。帚木先生は、朝4時に起きて6時まで毎日小説を書いておられる。昼間は精神科医としての仕事があるから、それ以上の時間はとれない。1日2時間です。アルバイト作家だといわれている。でもそれを30年以上も続けておられる。ここが凄いところです。1万時間の法則は楽々と達成されている。書く時がないときは、へのへのもへじと書いているといわれている。30分で原稿用紙1枚。1日4枚書く。それでも1年経つと1000枚を超える。24時間机に座っている小説家よりも数々の賞を受賞されている。たとえば「閉鎖病棟」では、第8回山本周五郎賞を受賞されている。森田関係では、「生きる力 森田正馬の15の提言」がよく知られています。その他、ギャンブル依存症にも造詣が深いようなので読んでみたい。高良武久先生は、対人恐怖症を克服したければ、一つのことに10年愚直に取り組んでみなさいと言われている。帚木先生は具体的に1日3時間と指摘されている。私はこのブログを始めて約9年目になる。毎日1時間40分である。いまだ1万時間には程遠い。20年くらいで何とか達成できそうだ。話は変わりますが、社会保険労務士試験に合格するためには、1000時間の勉強が必要になると聞いたことがあります。それを励みに時間管理をしていたことを思い出しました。現在50歳を超えている人でも、1日3時間何かに取り組めば、その道の大家になれる。これはこれからの人生に大いに希望が持てるのではないでしょうか。神経症で苦しんだ人も、困難な人生を生き抜いたという気持ちを味わえるのではないでしょうか。仕事、学問、スポーツ、演芸、趣味、教育、料理、マネージメントなど好奇心の湧いたものなら何でも構いません。まだの方は一つ挑戦してみませんか。
2022.01.05
コメント(0)
今日は「啐啄同時」(そったくどうじ)という言葉を取り上げてみたいと思います。卵の中の雛が殻をコツコツとつつくことを「啐」と言います。親鳥が外から卵の殻をコツコツつつくことを「啄」と言います。雛と親が同時に殻をつつくことで、無事に雛が生まれてくるのです。雛がコツコツつついているのに親鳥が気づいていないのでは困ります。雛がつついていないのに、親が早まって殻を割っても困ります。森田先生は、神経症の回復にあたっては、神経症者と援助者が「啐啄同時」の関係にならないといけないといわれています。どうすればそんな関係になれるのか。神経症で苦しんでいる人は、症状を治したいという気持ちを持っているかどうかが肝心です。親が、子供が不憫なので何とかしたいという気持ちが先行して、集談会にやってきましたというのは問題なのです。一歩譲っても、最終的には本人がやって来ることが必要です。つぎに集談会にやってくる人は、様子見でやってくる人が多い。神経症に対しては、薬物療法、カウンセリング、認知行動療法を始めとしてさまざまな精神療法があります。その中の選択肢の一つとして、森田療法があるのです。神経症は、気になる不安を取り去ろうとしているうちに、精神交互作用によってどんどん悪化したものです。日常生活に支障をきたしています。いわばアリ地獄に落ちたようなものです。できるだけ早くアリ地獄から地上に這い出すことが必要です。そのためには、別に森田療法でなくても構わないと思っています。自分に合ったものを見つけて、生活が何とか回りだすということが肝心です。この段階をクリアすると、最悪期から見るとだいぶ状況がよくなっています。これで十分だと思われている人は、森田理論学習の必要はありません。ところが多くの場合、不安にとらわれやすいという面は依然として残っています。今度は生きづらさの解消という課題に取り組む必要があります。集談会における森田理論学習は、主にそういう人を対象としているのです。森田理論学習によって、生きづらさを解消して、神経質性格者として、確固たる人生観を確立したい人がコツコツと殻を打ち破ろうとしているならばその人が適応対象者です。これに対して親鳥にあたる先輩会員はどのように対応すればよいのでしょうか。先輩会員は、森田理論を深耕・活用して、神経症を克服してきた人です。また森田理論に沿って人生観を確立した人もいらっしゃると思います。生活の中に森田理論を応用している人です。いわば成功体験を持っている人です。そういう人にありがちなことは、自分のレベルに相手を早く引き上げてあげようとしてしまうことです。アドバイスも上から下目線でのアドバイスとなります。「小さな親切、大きなお世話」という言葉がありますが、そんなイメージです。相手が見えていないということです。相手を見るためには、自分の成功体験はしまっておいて、まず相手に寄り添ってあげることが大切です。自分が話すのは極力少なくして、相手の話をよく聴く。傾聴と共感と受容の気持ちを忘れないこと。そして相手が少し頑張れば実行可能な課題をいくつか提案してあげる。そしていつも気にかけてあげて、側にいて暖かい声をかけてあげる。相手がその気になっていないときに、自己満足的なアドバイスをしても、ほとんど相手には届いていないと思います。この点に留意すれば、いずれ相手から感謝されるようになります。
2022.01.04
コメント(0)
私の付き合いのある人に、ダジャレを使いこなす名人がいます。笑いが絶えなくて、日常会話の潤滑油となっています。ただ問題なのはあまりにも下ネタに片寄っていることです。でも人生の裏も表も知っていらっしゃる女性には大うけです。年配の男性にはそれほどでもありません。正月休みにインターネットでダジャレ検索をして楽しみました。みなさまもおすそ分けです。パンツ破れた! マタかこのバケツ漏れるね。 ソコまで気が付かなかった隣の空き地に囲いができたんだってね! ヘエ!台所はどこにしましょうか カッテにしろそこの椅子をこっちに持ってきて イッスよ電車のドアが目の前で閉まった時。 ああ、シマッタ梅はうめえな!カッターを買ったーやけどをしたんやけど「醤油、それともソース」「そーすねー」「しょうゆうことか」洒落を言うのはやめなシャレ島根県人にシマネェーことをしたとてもこの砂糖は甘いんでシュガーもう引退してもいいんたいコップの水をコブコブ飲んだぞマルガリータ? ううん、丸刈り―たチョコはどこにあるの? ショコラへんにあるよ野口英世の悪口言うなんてヒデーヨ豚小屋をノックした トントン、トントン
2022.01.03
コメント(0)
神経症の苦しみの渦中にある人は、難しいと思いますが、少し楽になり苦しいながらも生活が回り始めた人にぜひともお勧めしたいことがあります。他人を楽しませることに全力投球することです。その1、川柳を作り知り合いにメールで配信する。その2、おもしろ小話を作り配信する。その3、ひょっとこ踊り、高知のしば天踊り、安来のどじょう掬いを覚えて披露する。その3、美しい四季折々の写真を撮ってラインで送る。その4、楽器演奏を始めて披露する。サックス、フルート、オカリナ、琴、三味線など。その5、一人一芸をマスターして披露する。バナナのたたき売り、手品、獅子舞、ガマの油売り、腹話術、傘踊りなど。その6、you tubeでおもしろい動画、感動動画を見つけて配信または情報提供する。私の知り合いの人は、これに力を入れています。その情報の仲間の輪が広がり、毎日が笑いと感動の嵐ですということです。そういう仲間が全国各地にいるというのはうらやましい限りです。以前は病気などで苦しんでいた人ですが、今では元気になられました。私もそのおすそ分けをもらって楽しんでおります。以上の中から、1つ、2つ選んで、最低1年は続けてみる。たぶん、症状に劇的な変化が起きるはずです。その理由は、あなたに生きる目標ができるからです。そして、人が喜んでくれるのに刺激されて、益々やる気がでてきます。1年経過して、症状を取り去ることばかり気にしていた状態が、少し軽くなっているなと感じるようになれた人は、ほぼ神経症から解放されると思います。そこまできたら、森田理論学習で後付すれば、これからの人生に希望が持てるようになります。
2022.01.03
コメント(0)
ジェームズ・ランゲ説という理論があります。これは森田先生も触れておられます。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだたとえば、お姉ちゃんがお母さんから叱られて泣いている。その泣いているお姉ちゃんを見て、側にいた妹もいつの間にか泣き出す。お姉ちゃんの行動を見て、妹の感情が動いたのである。普通の考えでは、目の前の出来事を見て、まず悲しみや怒りや不安や恐怖などの感情が湧き上がってくる。つぎに、その感情に基づいて逃げるという行動を選択するという順になる。ジェームズ・ランゲ理論では、それは反対だという。逃げるという行動によって、悲しみや怒りや不安や恐怖などの感情が湧き上がってくる。行動が先で、それに基づいて不安や恐怖が発生しているというのである。ここで注目したいのは、問題ある出来事を見て、積極的、前向きに行動した場合は、不安や恐怖の感情は発生しないということです。普通私たちは、些細な不安や恐怖にとりつかれて取り除こうとするか逃げ回ります。精神交互作用でどんどん膨らませてしまうという特徴を持っています。そのような時、意識して積極的、前向きな行動をとると、不安や恐怖に振り回されないようになるということです。このことに注目すると、どのように行動するかは極めて大切になります。その一つとして顔の表情筋を利用する方法があります。顔の表情筋には、笑筋、頬筋、咬筋など実に32種類あるそうです。これらを組み合わせて、笑顔、喜び、感謝、思いやり、イライラ、不安、怒り、悲しみ、嫌悪などの表情を作り出しています。笑顔や嬉しさや喜びの場合は、口を開き頬を上げています。顔が全体的に開放的に広がっているはずです。そして顔が上向きになっています。逆に怒り、腹立ち、嫌悪、イライラの場合は、眉間にしわが寄っています。全体的に顔が縮こまっています。そしてどちらかというと、肩を落とし頭を下げています。不安や怒りで一杯の時、トイレなどに行って笑顔の表情筋の体操をするのです。これ以上ないくらいの笑顔の表情を作り10秒間キープします。つぎに5秒間弛緩させます。そしてまた笑顔の表情を作り10秒間キープします。これを5セット繰り返します。これらの表情筋を鍛えれば鍛えるほど、感情のコントロールがある程度はできるようになり、些細な感情に振り回されなくなります。関心のある方はぜひ取り組んでみてください。(小さなことで感情をゆさぶられるあなたへ 大嶋信頼 PHP 89ページ )
2022.01.02
コメント(0)
今日は初日の出を見て、初詣に行きました。その時の写真です。
2022.01.01
コメント(0)
みなさま明けましておめでとうございます。今年もお互いに健康に留意しながら、生の欲望に邁進したいものです。振り返ってみますと、昨年はコロナ禍で行動が制限されました。私が参加している集談会も休会が相次ぎ、3回ほどzoom集談会に切り替えました。参加者も激減して10名を切ることが多くなりました。元に戻すにはかなりの努力が必要になるように感じています。コロナが治まるようなら、元に戻すことを今年の目標にしたいと思っています。さて、このブログは昨年一年間で約45万件のアクセスがありました。1か月あたり約37500件です。1日あたり約1200件でした。毎日アクセスしていただいた方にこの場を借りて感謝申し上げます。本当にありがとうございました。昨年の実績を踏まえて、今年度の目標を設定しました。年間アクセス数47万件。1ヶ月39000件、1日あたり1300件です。昨年の実績を上回る数値目標を立てました。これにより、総アクセス数282万件を目指します。これをどうして実現していくか。1年間の大目標は以下の通りです。1、これまで通り毎日1本の投稿を続ける。2、アクセス数の多いブログの研究・分析を行う。3、できるだけ写真を載せる。4、宣伝と広報に力を入れる。5、ホームページ「森田理論学習のすすめ方」との連携を強化する。6、1ヶ月の投稿を振り返って、これはと思う記事を「今月のトピックス」として、改めて紹介する。この中で特に4番目の宣伝と広報にはさらに細かい小目標を掲げて取り組む。1年間目指すべき大目標を立てて、それを1ヶ月ごとに落とし込んでいく。1か月ごとの中目標、現状分析、重点課題を明確にする。そして10日ごとの小目標、現状分析、課題を明確にする。それを踏まえて日々の投稿に取り組む。この方針で一年間さっそうと駆け抜けていきたいと考えています。どうか今年もよろしくお願いいたします。
2022.01.01
コメント(0)
全37件 (37件中 1-37件目)
1