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近畿大学生物理工学部准教授の島崎敢先生が地震対策についてSNSで説明されていました。これを基にして自分なりに考えてみました。・震度5から6以上の地震は甚大な被害をもたらします。1年というスパンで見ると、体感地震は必ずやってくると考えて対応策をとることが重要です。・ケガをしない対策が重要になります。そのために家具の固定は必須です。これはほとんどの人がすでに取り組んでいらっしゃると思います。それに加えて家具の数を減らすことや低い家具を選ぶことも効果的です。リビングや寝室など長時間過ごす場所には高い家具は置かないようにしましょう。テレビや冷蔵庫など電化製品の固定、大きな掛け時計やガラスに入った額縁などは片づけておく。・耐震基準を満たした新しい建物が倒壊する可能性は比較的低いと考えられています。可能な限り耐震性の高い建物に住むこと、必要に応じて耐震補強をすることを心がけましょう。耐震化の筋がいを入れるだけでもかなり効果があるそうです。・日常的に利用する場所、例えば職場やよく買い物をする店舗などの耐震性も確認しておくべきです。普段歩く経路にどのような建物があるかを確認し、可能であれば耐震性の低い建物が並ぶルートを避けることが大切です。日常生活のあらゆる場面で「今、揺れたらどんなことが起きるか」「どこに身を隠すか」を想定する癖をつけることが、被害を軽減する重要な一歩となります。・南海トラフ地震による想定死者数約32万人のうち、約23万人が津波による死者数とされています。津波は30センチの津波でも人間は立ち続けることはできません。また津波は勢いを増幅して次々と襲ってくるのは周知のとおりです。・可能であれば、高台や内陸部など、津波の影響を受けにくい場所に住むことをお勧めいたします。しかし、仕事や生活の都合で津波のリスクの高い地域に住まざるを得ない場合もあるでしょう。まず、自宅や職場からどこまで逃げれば安全なのか、そこまでの経路や所要時間を確認し、実際に歩いてみることが重要です。途中にある頑丈で高い建物や、建物の入り口の施錠状況なども確認しておいてください。ハザードマップを見るときは、津波の浸水域や浸水深だけではなく、津波の到達時間も必ず確認し、避難をシミュレーションしてください。・家族や同僚との間で、「各自が自力で必ず助かる」という約束をし、この認識を共有しておくことも大切です。お互いを探すために危険な場所に戻ることで発生する二次被害は避けなければなりません。・最大規模の地震が発生すると物流が遮断されて周辺地域からの援助は期待できません。ある程度の食料や水、最低限の必要生活物質の確保は普段から用意しておくようにしましょう。最低3日間を生き延びることを考えるべきです。簡易トイレなどの用意も必須となります。・地震情報はリアルタイムで一日中配信されています。その中でもyou tube配信のティーファイブの情報を確認することをお勧めいたします。
2024.11.27
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今日は「かもの法則」について説明します。聞きなれない言葉です。これは脳の仕組みの話ですが、これからの人生に大いに役立ちます。参考図書は、西田文郎さんの「かもの法則」(現代書林)です。その他西焼津クリニックの林隆博先生の論文を参照しています。私たちの感情はまず大脳の扁桃核に入ります。好きか嫌いか、快か不快か、良いか悪いかなどの感情です。扁桃核はこの感情の選別を行います。肯定的でポジティブな感情(1)と否定的でネガティブな感情(2)の選別です。1、好き、快、良い、やりがいがある、楽しい、うれしいといった感情。2、嫌い、不快、悪い、イヤ、不安、怖い、苦手といった感情です。扁桃核で区分けされた感情は神経伝達物質によって他部署に送られます。1の感情は、ドーパミンいう神経伝達物質によって、側坐核、腹側被蓋野(A10神経)などに送られます。側坐核はやる気を鼓舞する役割を果たしています。腹側被蓋野(A10神経)は快楽・報酬神経系に属しています。ここが司令塔となり、報酬系神経のネットワークや前頭前野などの部位を刺激しているのです。前頭前野が活性化すると、生産的、建設的、創造的な行動へとつながっていくようになっています。これを報酬系回路の賦活と言います。関連する部署が一斉に活性化します。「できるかも」「やれるかも」「うまくいくかも」「成功するかも」と肯定的に思案することは、この報酬系回路を活性化することになります。「肯定的なかも」というのは、将来の予測をしているだけですが、頭の中では報酬系回路が連鎖的に作動しており、さらに目標を達成すべく前頭前野がフル回転しているのです。分析力や創造性を担っている前頭前野が動き出すことが大きいのです。一方、2の感情は、ノルアドレナリンという神経伝達物質によって青斑核(A6神経)に送られます。青斑核は、防御系回路に属する神経組織にその情報を伝えます。視床下部、扁桃体、海馬、中隔、前頭前野などに送られて、不安や恐怖や危機感の情動反応を起こして、コルチゾールの血中濃度を高めます。これにより、血管を収縮させて血圧上昇、血糖値上昇、抗炎症反応が増進されます。青斑核は12000個から25000個と数は少ない部位ですが、数10億の防衛的神経組織に影響を与えています。つまりネガティブで否定的な考えが大脳を駆け回っているということになります。青斑核は脳全体に防御態勢、戦闘態勢を敷くように指示しているのです。大脳が防衛系回路に支配されるようになると、専守防衛が基本的対応となります。逃避、回避、抑制、防御中心で、積極的で生産的・建設的な行動は抑制されています。今はそこにエネルギーを投入すべき時ではないと脳が判断しているのです。このときやる気の脳と言われる側坐核やそれにつながる報酬系神経組織はお休みしています。だから無気力・無関心・無感動になってしまうのです。防衛系システムが稼働しているときは、悲観的、否定的、ネガティブ、弱気、原因探し、無気力で覇気がなくなります。やる気がないという人は、その人の人間性に問題があるわけではありません。「このままではうまくやっていけないかも」「失敗してしまうかも」「仲間外れにされてしまうかも」「自分の人生は苦しいだけかも」という否定的な「かも」が、大脳の防衛系回路を賦活して、生産的、建設的、創造的な活動を抑制するような状態になっているのです。ここでいう「否定的なかも」は高良武久先生が言われる「適応不安」のことです。この防衛回路が作動している人に、もっとやる気を出して仕事や勉強しろと叱咤激励しても、ほとんど効果がないということになります。本音の部分が停滞して拒否しているからです。建前の部分で無理やり行動しても苦しいばかりです。長続きしません。むしろそれがストレスとなり心身の異常を招きます。しかしこの防衛系回路は、人類の生存には欠かすことができないものなのです。人間が防衛系回路を兼ね備えていることは敵の攻撃を回避して生き延びるために必要不可欠だったのです。危険に対して警戒心を無くした人間は、簡単に相手の餌食にされてしまいます。しかし現代社会では報酬系回路とのバランスが崩れていることが大きな問題です。「できるかも」と「できないかも」は、たいした違いはないように思いがちですが、大脳の活性部位が全く違うということに思いを馳せる時、これは見過ごすことができない問題になります。森田理論学習で人生観を確立したいと思っている人にとっては、とても大切なところになります。私たちはこの違いを理解して、なんとしても日常生活の中に「できるかも」という「かも」を育てていくことが大切になります。ではどうやって「できるかも」という「かも」を育てていくのか。これについては明日の投稿で説明します。
2021.11.26
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森田先生は事実には、「主観的事実」と「客観的事実」があると言われている。たとえば心臓麻痺恐怖の人がいるとする。医者が検査してあなたの心臓は問題はない、大丈夫だという。これは客観的事実である。しかし本人はやはり恐ろしい。医師の診断に納得できない。これは、主観的事実である。この時、患者は大丈夫だという客観的事実と、自分は怖がるものであるという主観的事実とを認めなければならない。神経症に陥っているような人は、客観的事実を無視して、主観的事実に重きを置いている。本来は客観的事実と主観的事実を天秤にかけて、調和のとれた考え方や行動をとることが大事なのである。バランスのとれた思考ができなくなって、主観的事実に振り回されている状況である。傍から見ているとなんでそんなに強情なのだろうと見えてしまう。でも本人は真剣である。真剣であればあるほど滑稽で異質に見えてしまう。もっとわかりやすい例がある。イソップ物語のすっぱいぶどうの話である。腹を空かせたキツネがぶどうの木を見つけた。ところがぶどうの木が高くて手が届かない何回ジャンプしてもぶどうを取ることができない。そこで狐は負け惜しみで、あのぶどうはきっとまずくて食べられるようなものでは無いはずだ。自分のぶどうを採って食べたいと言う気持ちを欺いた。そして自分はもともとぶどうは好きではなかったのだと思おうとした。また、そのぶどうを取る力がない自分に対して「自分は何をやってもダメだ」と自己否定をした。ここでの紛れもない主観的事実は、ぶどうを採って食べたいという気持ちである。しかし、努力しても、その欲望が叶えられないので、逆にその気持ちを抑圧しようとしたのである。森田理論では、腹が立つ、悔しい、嫉妬する、不安である、悲しいなどのネガティブな感情でも人間の意志の力でなくしてしまおうなどと考えてはいけないといういくら理不尽で嫌な感情であっても、感情自体に良いも悪いもない。どんな感情でも価値批判しないでそのままに受け入れることが大切なのである。この場合の客観的な事実は何であろうか。自分は背が低くて葡萄に手が届かないということである。それでもぶどうを食べたいという気持ちがあるなら、その障害を取り除くべく、なんらかの手立てをする必要がある。例えば、何か台のようなものを持ってくる。あるいは脚立のようなもの探してみる。いずれにしろ、目的が達成できるようにいろいろと工夫をするようになる。ただし、ぶどうが食べたいという主観的事実を無視していると、そのような建設的な方向には向かない。感情をねじ曲げたり、自己否定、自己嫌悪の方向に向かう。ここで大事なことは、主観的事実をありのままに素直に認めるといういうことである。これを無難に通過すると、客観的事実のほうに注意や意識が移っていく。するとそこに存在する問題や課題を解決するために、いろんな気づきや発見が生まれ、やる気やモチベーションが次第に高まってくる。そういう意味では、主観的事実と客観的事実は「かくあるべし」でやりくりをするのではなく、どこまでも事実に忠実に従うという態度をとることが大事になる。主観的事実と客観的な事実を、今の自分にとっての主観的事実とは何か、あるいは現実に目の前に立ちはだかっている客観的な事実は何かに分けて、どちらの方にも偏ることがないようにバランスを意識することが大切なのだと思う。
2017.07.10
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樹木希林さんのお話です。私ね、自分の身体は自分のものだと考えていたんですよ。とんでもない。これ、借りものなんだっていうふうに思えるようになってきました。親から産んでもらったこの体をお借りしているんだ、と。そこにね、私というなんだかよくわからない性格のものが入っているんだ、と。ところが、その借りものをさあ、若い頃からずっとわがもの顔で使ってきたわけじゃない。ちよっとぞんざいに扱いすぎたかなぁ。今頃になって気づいてさ、「ごめんなさいねぇ」って謝っても、もう遅いわねぇっていう感じかな。家や土地っていうのもさ、なんか自分で買ったんだから、自分のものだと思っちゃうじゃない。でも、これって、地球から借りているものなんだよね。・・・突き詰めて考えてみれば、地球からお借りしているものなんだっていうふうに思ったの。その時にスコーンとね、「これが欲しい」「あれが欲しい」っていうのがなくなっちった。病気してからね、病気をして死に至ったと時にね、持っていかれないわけだから。それでなんか腑に落ちた。物欲がね、スッとなくなっちゃいましたね。これだけたくさんのガンを持ってると、「いつかは死ぬ」じゃなくて、「いつでも死ぬ」、という感覚なんですよ。それに関しては「あっ、ごくろうさま。お借りしていたものをお返しいたします」という感覚でいるからね、すごく楽なんですよね。(この世を生き切る醍醐味 樹木希林 朝日新書 195ページより引用)私もこの考え方を支持しています。自分の身体の中に、私という魂というか、心というか、意識というかそういうものが入りこんでいるのではないか。もちろん証拠を見せろと言われたらお手上げです。でもそういう仮説を持って生活をすることのメリットは大きいものがあります。肉体が死を迎えたときに、魂が肉体から離脱して、元にいたところに帰っていくのではないか。それが間違っていても、何もダメージを受けることはありません。そう信じて生活するということは、自分の身体との向き合い方が変わってきます。自分の身体は、レンターカー、賃貸住宅、市民菜園を借りているようなことになります。あるいはリース契約をして、自動車、コピー機、パソコン、建設機械を借りているようなものです。所有者は自分ではありません。自分は使用者という存在です。乱暴に扱うと、傷がついたり、故障します。そうなると損害賠償をしなくてはならなくなります。反対に人様のものを一時的に預かり、利用させてもらっているのだと考えれば、傷をつけないように丁寧に扱うようになります。自分の魂が身体を借りてこの世でやりたいことをやらせてもらっているのだと考えれば、自分の身体をいとおしむことにつながります。自然に感謝の気持ちが湧いてきます。家庭菜園でいえば、お借りしたときよりも、より豊かな土壌に作り換えてお返しをしたとすると、貸した人は感謝すると思います。出来ればまたこの人に貸してあげたい。人間の身体も同じです。病気をしないように、食事に気を配る。酒を飲みすぎないようにする。ストレッチや運動を心がける。笑いを心がける。規則正しい生活を心がけ、睡眠を十分にとる。絶えずメンテナンスをして、身体も精神面も健康体を心がける。そういう人には、条件の良いところでもっとその能力を開花させてあげたいと思うのではないでしょうか。そういう考え方をしていると、身の周りのものに感謝してあるものをできるだけ有効に活かしていきたいと思うようになります。
2020.02.09
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阿久悠さん作詞の「北の宿から」を、森田理論を踏まえて考えてみたい。あなた変わりは ないですか日毎寒さが つのります着てはもらえぬ セーターを寒さこらえて 編んでます女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿吹雪まじりに 汽車の音すすり泣くよに 聞こえますお酒ならべて ただ一人涙唄など 歌います女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿あなた死んでも いいですか胸がしんしん 泣いてます窓にうつして 寝化粧をしても心は 晴れません女心の 未練でしょうあなた恋しい 北の宿この歌詞について、歌手の淡谷のり子さんが怒っていたという。「何なのよ、あれ、別れてしまった男のセーターをまだ編んでるなんて、みっともないでしょう」辛口審査員として鳴らした淡谷のり子さんらしいコメントです。阿久悠さんは、このコメントを聞いて、全く反論しなかったという。普通この歌詞を見ると、別れた男性に未練たらたらで、なんとかよりを戻したいという耐える女性を連想させます。私の思いを推し量ってどうか私のもとに戻ってきてください。私はどうしてもあなたのことをあきらめきれないのです。どうか私の願いを聞き届けてください。私はいつまでもあなたが私のもとに戻ってくるを待っています。この見解に対して、阿久悠さんは「饒舌の世代と寡黙の世代」と題するシンポジュームで反論している。この女性がセーターを編むのも、寝化粧をするのも、徳利を並べるのも、すべてセレモニーなのだ。一時は分かれの悲しみに身をやつそうとも、セレモニーを終えれば、悲しみと決別して新しい人生に旅立っていく。すべてこの女性は自分で判断し決断し、過去の人生をリセットするのだ。この歌詞の中で、「女心の未練でしょうか」とは書いていません。「女心の未練でしょう」と書いている。ここがポイントです。歌詞に「か」があるのとないのは大きく違う。歌詞に「か」が入ることで他者に答えを求める依存する女になるが、「か」がなければ自己判断する女性になる。ここでは、「女心の 未練でしょう」と自己判断する自立した女性をイメージしているのです。一度でも心を通い合わせた男女が分かれることは、辛いことだと言っているのです。特に女性の場合はそうです。阿久悠さんは、この女性を決して過去の男性に未練たらたらで、悲壮感に満ちた女性として描いているのではない。セーターにしたところで、編み上げたらポイとだれかにあげて気持ちにケリをつけることを想定していた。心の整理をつけ、けじめをつけたいという女性を想定していた。今までの楽しかった彼との生活にきっぱりと決別するためにはセレモニーが必要だったということです。すべての過去を断ち切って、新たな人生を切り開いていくための儀式を一人で行っていたということです。彼女の頭には、いまだに断ち切りがたい思いも確かにある。しかしそれにすがってばかりでは、自分の人生は終わってしまうかもしれない。切なく苦しいけれども、彼との関係は終わったという事実を改めて受け入れて、明日からは新たな旅立ちにしたい。そういう内容の歌詞なのです。淡谷さんのように表面的なところだけ見ていると、この歌詞に含まれた深い内容は分からないのです。森田理論と突き合わせてみましょう。彼とはどういう理由で分かれることになったのかはわかりません。性格の不一致、自分勝手な行動、金銭トラブル、生活の行き詰まり、相手の背信行為など様々な原因が考えられます。このような場合、普通は相手の非を訴えて示談にする。あるいは家庭裁判所の審判を仰いで、慰謝料で解決という流れになるかもしれません。自分のことは棚に上げて、相手の上げ足をとって、自分の有利な展開に持ち込むことばかりを考えるようになります。最終的にはそういうことも必要になるでしょう。ただここで森田が言いたいことは、別れることになったという事実にどう立ち向かっているかということです。将来の生活や子どものことを考えると、受け入れがたい事実かも知れません。でもそういう現実をつけつけられたとき、覚悟をきめ、けじめをつけて、その理不尽な事実を受けいれることができるかどうか。ここが運命の分かれ道です。その事実を受けいると、相手を罵倒し続け、いつまでも相手に未練を抱いたりすることはなくなります。そのエネルギーを自分の将来の生活設計、子供の養育などに振り向けることができるようになります。離婚という試練を乗り越えてもう一回り器の大きな人間として成長できることになります。下降ばかりの人生が、事実にきちんと向かい合うことで、上昇に転じるというきっかけとなります。反対に事実に反旗を翻すことになりますと、自分の人生は恨みつらみで暗澹たるものになります。(阿久悠 詞と人生 吉田悦志 明治大学出版会 159ページ参照)
2021.04.21
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岡田尊司氏は愛着障害という本の中で、愛着障害持って困難な人生を送った人を数多く紹介されている。(詳しく知りたい方は愛着障害 岡田尊司 光文社新書を読んでもらいたい)川端康成、ルソー、夏目漱石、太宰治、ミヒャエル・エンデ、クリントン、ヘミングウェイ、中原中也、ウイニマット、エリクソン、ジャン・ジュネ、谷崎潤一郎、チャップリン、高橋是清、種田山頭火、マーロン・ブランド、マーガレット・ミッチェル、スティーブ・ジョブズなどである。いずれも大きな仕事をやり遂げて、後世に名を残した人ばかりである。愛着障害をバネにして愛着障害を引きずりながらでも、世の中の人の役に立ってきた人たちもいるという事の証明である。もしこの人たちに愛着障害がなかったとしたらすぐれた作品、業績は残しえなかっただろう。でもその人たちのやりきれない苦悩を思いやってみる時、出来れば安定した愛着形成期を過ごし、無難な人生を送ることの方が幸せのような気がする。その中の一人川端康成に焦点を当ててみよう。川端康成は2歳にならないうちに父親を亡くし、その後すぐに母親も亡くしている。二人とも結核だった。結核感染予防のため両親と隔離されて十分な愛着形成期を過ごすことができなかったことが推測される。また幼児期に両親を相次いで亡くするという事が、どれほどの心のダメージを与えたのか察するに余りある。育ての親は祖母と祖父であった。その祖母は康成7歳の時、祖父は15歳のときに亡くなり天涯孤独となる。康成は愛着障害の中でも回避性愛着障害といわれている。人との交流を拒むタイプである。25歳ら28歳の元気のいい時期に伊豆湯ヶ島で世間の喧騒から逃れてひっそりと暮らしていた。繊細すぎる神経が、人里離れた静けさと、都会との距離を必要としていたのであろう。川端康成の代表作に「伊豆の踊子」がある。川端は愛着障害でもがき苦しむ活路を小説を書くことで昇華しようとしていた。この小説はその癒しの過程で生まれた作品である。「いい人ね」「それはそう、いい人らしい」「ほんとにいい人ね、いい人はいいね」これは小説「伊豆の踊子」の中で、伊豆大島からきた踊り子が連れに話す場面である。川端はうれしかったのだろう。自分自身もいい人だと素直に感じることができた。20歳の川端は自分の性格が天涯孤独で歪んでいると思い、その息苦しい憂うつに耐えかねて伊豆の旅に出てきたのだ。踊り子に「いい人ね」といわれることが、どれほどの心の癒しになったことだろうか。愛着障害で悩む人はこういう第三者の支えが重要である。心の安全基地を持つということだ。伊豆から戻った川端は、それまでの悶々とした生活に終止符をうち、積極的に社会体験を広げていった。受け入れられ、価値を認められる体験が、回避的愛着障害の修正に寄与し、川端の脱皮の一つのきっかけになったのである。愛着障害陥った人は、後々の人生に多くの困難と障害を発生させる。しかし修正が全く不可能という事ではない。手掛かりはある。岡田尊司氏はその点も言及されている。明日はその手掛かりを求めて考えてみたい。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書参照)
2015.10.03
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先日、プロフェッショナル仕事の流儀で広島カープのスカウト苑田聡彦さん(72歳)の放送があった。広島カープは親会社を持たず独立採算性を入れており、地方球団ということもあって、潤沢な資金があるとは言えない。したがって、他球団のようにフリーエージェント制度を利用して、実績のある選手を獲得することができない。隠れた逸材を見出して、それを自前で鍛えあげて中心選手に育て上げるというのがチームの方針である。中心選手に育っても、これからという時に、 フリーエージェント制度を利用して、 金に糸目をつけない他球団に移籍する例が後を絶たない。残念だがそれが現実だ。ドラフト制度がない頃は、有望選手は意中の球団を逆指名することができた。その時、業界では「誠意を見せるのは金だ」という風潮が蔓延した。当然金のある球団に有望選手が流れていった。カープは資金難からその波に乗ることができなかった。ずっと弱小球団のままだった。そんな時どういう戦略をとったのか。他球団に騒がれない選手を見つけて、足しげく通いつめるという戦略だった。そうして獲得したのが北別府学、江藤智、金本知憲、野村謙二郎、黒田博樹であったという。黒田投手は他球団が目を付けていない専修大学の1年生の時から見続けてきた。頭角を現した黒田投手はドラフト前には他球団から1位指名の候補に挙がっていた。金の面では全く勝ち目はなかった。そんな折、ドラフト3週間前になって、黒田投手が他球団に指名されてもカープに入団すると公言したという。縁もゆかりもないカープを逆指名したのだ。当時としては大変な驚きであったという。黒田投手は、無名のころから注目して励ましてくれた人に、誠意で応えないわけにはいかなくなったのだという。他球団の札束交渉を断った。金ではない誠意だといってはばからない。苑田さんは、選手に惚れぬいて、足しげく通いつめるという誠意を見せ続ければ、いつかは野球の神様が応えてくれる時があると言われるている。粘り強く、できるだけ他球団と競合しない無名の選手を発掘して、注目して見ているという誠意を見せる。働いてもいないのに、いくらくれるのかというような選手はすぐにわかる。そういう選手はカープのカラーに合わないという。苑田さんの選手を発掘する方法はとても面白い。丸選手は高校時代、ピッチャーだったが、注目したのはハンドワークが柔らかく、フォローが広いというバッティングであったという。三振にも素晴らしい三振があるという。タイミングが合って思い切ってスイングする選手は見込みがあるという。そういう選手こそ、その後も何回も見て見極めをしたいという。高校生の段階で、打率がよいとか、通算ホームランは何本打ったとかいうのは、あまりアテにならないそうだ。だから球場に足を運んで自分の目で確かめないと見極めなどできないという。今年ドラフト2位で熊本工業の山口翔投手を指名した。山口投手は肘が柔らかく、軸がぶれないという長所があるという。ところが、コントロールが悪く、5、6球に1球ぐらいしかいい球がこない。フォアボールを連発して自滅するタイプだ。しかしフォアボールを連発しても、決してうつむいたりしない。ここが彼の最大の長所であるという。プロでは逆境に耐えうる強い気持ちを持っているかどうかが不可欠である。例えばインコースに投げてホームランを打たれても、次の打席で意識してインコースを投げて、「打てるものなら打ってみろ」と言うような負けん気の強さがプロ向きの選手であるそうだ。負けず嫌いでも、大のつく負けず嫌いでないとその後大成はしない。山口投手はそれを持ち合わせている。このような選手は昨年は関東にはいなかったという。フォアボールを連発するのはリリースポイントが一定でないからである。これはプロに入ってから修正できるので、今の時点では問題ないという。ドラフト4位では二松学舎大付属の永井敦士選手を指名した。これは現場サイドから内野手をピックアップしてほしいという要望に応えてのものだった。現在の内野はセカンドに菊池、ショートに田中という選手を擁しているが、バックアップ要員が不足しているという。しかし今年はめぼしい内野手が見当たらない。そこで目をつけたのが永井選手だった。永井選手は、現在センターを守っているが、打球処理の足の運びをビデオで見ていると、内野手に転向しても十分に対応できる能力があると判断した。緒方監督も納得した。何より強い身体、そして50メートルを5秒で走るという優れた脚力を持っている。苑田さんは、かって3球団競合の末にドラフト1位で川島堅投手を指名したことがある。ところが、川島投手は肘を壊し一勝しかあげられなかった。その後引退し今では接骨院を開業している。苑田さんは、その接骨院にずっと通っているという。引退しても自分の指名した選手には目をかけているのである。人間的な優しい面も持ち合わせている。スカウトは野球が好きでないとできないという。球界最年長スカウトとしてこれからも精進してゆかれるそうだ。
2018.01.18
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中国の諺に「狡兎に三窟あり」というのがあるそうです。この意味は、賢い兎は3つの隠れ穴を持っているという事だそうです。これはリスクを分散して、生命の危険を防衛していることだと思われます。神経症で悩んでいる時は、頭の中の大部分が症状のことで占められています。症状を克服するという事は、その比率を下げていくことが重要になります。そしてあれもこれも気になり、いつまでも神経症だけにかかわっておられない状態になればしめたものです。そのためには、内向している精神を少しずつ外向きに変えていくことが大切です。具体的には、普段の生活をいくつかのジャンルに分類してバランスをとっていくということになります。大きく分けると、仕事、勉強、家庭生活、交友関係、地域活動、趣味や習い事、運動や健康、自己啓発などがあります。神経症で苦しんでいる人は、主として職場での人間関係で苦しんでいる人が多いと思われます。そうなりますとたちまち苦悩と葛藤で精神的に追い込まれてしまいます。生活内容が多方面に展開してくると、注意や意識が外向きになって神経症とは無縁になってきます。仕事をする第一の目標は、自分と家族の生活を維持していく為です。そのことをしっかり自覚して、まずはタイムカードを押しに行くことに専念しましょう。最初から仕事が楽しくて仕方がないという人はいません。誰でも最初は生活のために嫌々仕方なしに仕事に取り組んでいるものです。そのうち、トラブルが発生したり、あるいは弾みがついて一心不乱になることがあります。そうなると感じが高まり興味や関心が出てきます。気づきや発見も出てきます。そうすると、意欲ややる気が出てくるようになるのです。しだいに仕事が面白くなり弾みがついてくるのです。家庭でも、炊事、洗濯、掃除、家計のやりくり、近所との付き合いは必要最低限の仕事になります。そのことだけでも、一日のうちの多くの時間を費やすことになります。子供がいる家庭では、子育てに割く時間も要ります。介護の必要な家庭では、そのための時間も必要です。神経症に陥ると、それらに割く時間が極端に少なくなります。おざなりになり、他人に依存するようになると精神状態も不安定になってしまいます。逆に日常茶飯事を丁寧にこなすようになると、神経症は少なからず克服できるようになります。それは行動・実践によって精神交互作用が断ち切られるからです。地域活動には、自治会の活動、講中の活動、マンションでは管理組合の活動などがあります。私は集談会の活動はこの地域活動の一環ではないかと考えています。これらを見てみぬふりをして生活するということは褒められたものではありません。積極的にとは言わないまでも、ある程度の地域活動に参加しないと生活しづらくなってきます。いざというときに助けてもらえる人がいなくなってしまいます。少しでも活動に参加することによって、近所で知り合いが増え、円滑な人間関係を築くことができます。神経質の人は、好奇心が旺盛です。あれもやってみたい、これもやってみたいと思っている人が多いようです。その気持ちに沿って、何でも手を出してみる事は、自分の人生を豊かにしてくれるように思います。私は老人ホームの慰問活動を年間30回ぐらいは行っています。。サックスの演奏、どじょうすくい、獅子舞、浪曲奇術、腹話術などの芸を日々磨いています。それぞれの人の趣味は様々に違うと思いますが、いくつかの趣味に取り組むと生活が豊かになるようです。次に歳をとってくると、ほとんどの人はいろんな持病を抱えています。健康に暮らしていくために、食べ物、運動、やりがい、経済的な自立、認知症について、普段から手を打っていくことは、人生90年時代といわれる今日ではとても大事なことだと思います。それらを無視した生活をしていると、仮に長生きをしても、ガンなどの難病に罹りやすく、最後は寝たきりになり、脳の機能が失われることになりかねません。このように意識して生活の幅を広げることを心がけて、バランスのとれた生活をしていると、ちょつとした不安や問題があるたびに大きく落ち込むという事はなくなってくると思われます。
2018.04.15
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「太陽の塔」をデザインした岡本太郎さんは、「生きることは遊びだ」と言っている。「生きることは遊びだ。お遊びじゃないよ。お遊びは無責任なものだ。だからお遊びなんて、いくらやったって空しんだよ。いのちを賭けて、真剣な遊びをやらなくちゃ」「趣味なんかで人間はほんとうに生き甲斐を感じて、全人間的に燃焼することはできない。私は好奇心も強いし、何にでも新鮮な興味を覚えるタチだから、ヒョコヒョコと動き回っているが、それは自分の貫いている生き方のスジにかかわってくるものだから面白いのだ。遊びだが、その瞬間に全存在がかかっている。命がけの真剣な遊びなんだ。」「目的が大切なんじゃない。目的を定めて、突き進む、その姿勢、ダイナミズム、緊張感こそ生きている意味がある。それをみんな勘違いして、目的達成、目標まであと何歩、と自分をウツロにしている。目標に振り回されているから、達せられなければ、がっくり落ち込んでしまうし、達成されればしたで、あとどうしていいか解らない。空しくなってしまう」「たとえ成功しなかったとしても、その人は存分に遊んだ、十分に生き甲斐を味わったはずだ。だからそれでいいじゃないの。結果はどっちでも、もう報われている。遊びというものはそういうものなのだ。過程が問題なのだ。やっているときが面白いのだ。何かを達成して終わる、というものではない」(いま生きる力 岡本敏子 青春文庫より引用)岡本太郎さんはここで大事なことを2つ言っているように思う。まず「お遊び」と「遊び」は違うということだ。「お遊び」は神経伝達物質のドーパミンを出して、快楽神経のエーテン神経を刺激するものだと思う。でもこの手の快楽は決して長続きするものではない。「お遊び」で継続して快楽を得ようとすると、絶えず刺激を与え続けなければならない。また慣れると快楽が薄まってしまうので、しだいに強い刺激を与えることも必要である。ギャンブル、飲酒、グルメ三昧、異性との交際等が代表的なものだ。「お遊び」は人生の醍醐味という点からすると底が浅い。本来の「遊び」というものは、目先の刹那的快楽を追いかけるようなものではない。自分の関心や興味のあるものに取り組んでいくうちに、気づきや発見が次から次へと出てきて、感じが高まっていくものだと思う。そして課題や目標が進化し発展していくものだと思う。これは本来の人間の生き方にかかわるものである。こういう生き方を続けていくことが出来る人は素晴らしいと思う。森田的生き方もまさにそこにある。二番目に岡本太郎は、森田理論でいう「努力即幸福」のことを述べている。たとえ目標が達成できなくたって、十分に楽しめた。生きがいを味わったということに意味があるのだ。目的を定めて、突き進む、その姿勢、ダイナミズム、緊張感こそ大切なところだと言っている。目標達成至上主義に陥ってしまうと人生は苦痛になってしまう。全くその通りであると思う。
2016.04.07
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作家の三島由紀夫は強い完全主義者であったと言われている。彼は約束事を重んじることで有名だった。自分自身、遅刻したこともなかったし、誰かが遅れてきたときには15分以上待つこともなかった。作曲家の黛敏郎とオペラの仕事をしたとき、黛敏郎の作曲が締め切りに間に合わなかった。黛敏郎は詫びを入れ、上演時期の延期を申し出たそうだ。ところが三島由紀夫は、そのその提案を無視して作品の上演自体を取りやめた。以降、三島由紀夫は、黛敏郎と絶縁した。最初、予定された通りでなければ、妥協してまで行おうとはせず、むしろ白紙に戻してしまうのである。約束を破る人を大目に見るということはできなかったのである。彼の完全主義は他人に向けられるだけではなく、自分にも向けられていた。彼は大蔵省に勤めていたとき、家では午前2時ごろまで執筆して、朝早く仕事に出るという生活だった。睡眠時間は3時間から4時間だったという。さらに、原稿の締め切りを1度も破ったことはない。どんなに酒席で盛り上がっていても、 10時になるとさっと切り上げた。極めて厳格的、禁欲的で、自己コントロールの利いた生活ぶりだったのである。三島由紀夫の小説家としての絶頂期は、 29歳の時に刊行した「潮騒」、31歳の時の「金閣寺」、 「永すぎた春」である。残念ながら、その後刊行した小説の売れ行きはよくなかった。三島由紀夫の不振とは裏腹に、大江健三郎など、次世代の作家の作品が世間の話題をさらい、売れ行きでも三島をはるかに超えるようになった。さらに追い打ちをかけたのが、川端康成がノーベル賞を受賞したのである。三島由紀夫自身も毎年ノーベル賞候補に挙がっていたが受賞することはなかった。40歳を過ぎた三島由紀夫の関心は、自分の人生をいかに劇的に締めくくるかに向けられていたようだ。自衛隊での自決当日に最後の作品が編集者に渡るように段取りしていたという。最後まで原稿の締め切りを守り、予定していたシナリオ通りに人生の幕もおろしたのである。完全主義といえば、ノーベル賞作家のヘミングウェイや川端康成もそうだった。不完全な人生に耐えられなくなって最後は二人とも自殺している。あまりにも完璧を目指す生き方は、順風満帆で成功している間は問題はない。でも人生山あり谷ありが普通である。完全主義者は谷の時につまずく。一度歯車が狂い、自分が思っているように事が運ばなくなると、不完全な自分を許せなくなるのである。長所も欠点の数だけあるという見方ができないのである。また人生には波があるという認識がないのた。歯車が狂うと全部が悪いような気がしてくる。考えてみれば、私たち神経質者も完璧を求める傾向がとても強い。完全主義者である。普通神経症の人はちょっとした体の不調を見逃すことができない。何度も病院で検査を受ける。対人恐怖症の人は、必要以上に他人の評価が気になり、人前に出ることが億劫になる。不完全恐怖の人は、取越し苦労だと分かっていても、戸締まりやガスの元栓にとらわれる。完璧を求めるあまり、日常生活が停滞し、自分を否定し、対人関係がぎくしゃくしてくる。岡田尊司氏は、完全主義に陥る原因は、一つには親の育て方に問題があると言われる。完全主義にこだわる人は小さい時から、優れた結果を残したときしか評価されなかった人である。優れていなければ、価値がないという親の価値観に縛られて育っていることが多い。つまり、それは本当の意味でその子の価値を肯定され、愛されたと言うよりも、優れているという条件付きで、愛情や承認が与えられたということなのである。親の要求水準に達しない期待はずれの子どもは、否定され叱られることが多かった。親から無条件の肯定という形で、承認を与えられてこなかったのである。それが、大人になっても完全・完璧な人間でなければ、自分は社会に受け入れてもらえない。他者から愛されることがなく、認めてもらえないと生き延びていくことはできないというトラウマになっているのである。岡田氏は、不完全な存在こそが安定したものであり 、それを受け入れ、さらけ出せることが、人から受け入れられ、愛されることにもつながるのだといわれる。うまくいかないことや、思い通りにならないことがあっても、それはそれで人生の醍醐味だと受け止める。うまくいかないことにも何か意味があるはずだと、そこから何か宝物を見つけ出す心がけが、その人を幸福にしていくことだろう。苦労や失敗もまた楽しめばよいのである。もちろんうまくいっているときには幸せを満喫すればよいが、うまく行かない局面では、またそれだけの味わいがあるものだ。後から考えれば、うまくいかないことばかりで苦しんでいたときは、 一番必死に生きていた時だという感慨を覚えるものである。成功する時の輝きもよいが、苦悩し悶々と過ごす日々は、もっと深い人生の味わいを教えてくれる。なんともいえない切なさや悲しみ、悔い、無念さ。そうしたネガティブな感情こそ人生を人生たらしめているものなのである。幸福なだけの人生など、甘いケーキばかり食べさせられるようなもので辟易してしまうだけである。幸か不幸か、誰の人生も良いことと悪いことがほどよく織り交ぜられているものだその人がどれだけ幸福かは、よい事が人より多く起きるということではなく、悪いことにもどれだけよい点を見つけられるかなのであるといわれている。この考え方は森田理論に通じている。(あなたの中の異常心理 岡田尊司 幻冬舎新書参照)
2017.04.19
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このイラストはよく見かけますのでご存知の方も多いでしょう。初めて見る方にお尋ねします。後から見た若い女性に見えますか。それとも物悲しい表情のお婆さんに見えますか。私は最初若い女性に見えました。お婆さんに見えるなんて、目が悪いのではないかと思いました。お婆さんに見えるという人の説明を聞いて、「そういえばお婆さんに見える」と納得できました。若い女性のあごにあたる部分が、お婆さんの鼻にあたります。若い女性のネックレスがお婆さんの口にあたります。これは事実の見方に問題提起をしていると思います。いったん「こうだ。間違いない」と思ったり考えたりすると、他の事実は見えなくなってしまう。そして、自分が決めつけた見方に固執してしまう。他を排除するようになる。それが昂じると喧々諤々言い争いが始まります。宗教戦争なんでそうですね。私たちは、森田理論学習によって事実は軽々しく扱ってはいけないと学びました。先入観や決めつけで事実を見誤って行動するととんでもない方向に進んでしまいます。できるだけ事実に近づくことができれば、仮に方向性が間違っていても被害は最小限で済みます。また、一つの考え方に固執しなくなりますので、柔軟性が出てきます。人間関係の軋轢から逃れることができます。そのためには、自分の考え方に反発する人や異議を挟む人は、貴重な存在です。自分の固執した考え方を見直す機会を提供してくれているからです。反発したくなるでしょうが、まず相手の考え方をよく聞いて理解することです。そしてその違いを把握するように努めることです。つぎにその溝を埋めることができないか考えてみることです。そのためには、自分の気持ちや考え方を相手に伝えなければなりません。冷静に話し合いをしていけば、もう一段階高い新しい考え方ができるようになります。別の考え方を加味して新たなステージに立つことができるのです。途中で喧嘩になりそうなときは、しばらく冷却期間をおいて、論点を整理して話し合うとよいでしょう。なかには自分のことを毛嫌いして、反対のための反対意見を述べている人もいるかもしれません。そういう人は少し話を聞いただけですぐに分かります。自分の意見というものがないのです。そういう人とはすぐに距離をとるようにしましょう。
2019.11.30
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達磨大師の仏性論に次のような言葉がある。「故に至人は、その前を謀(はか)らず、その後ろを慮(おもんばか)らず、念念道に帰す」森田先生はこの言葉を次のように説明されている。至人、すなわち達人で悟った人は、金をなくしたとかいって、以前のことの繰り言をいったり、「来年のことをいうと鬼が笑う」というように、当てにもならぬ未来のことを空想するようなことをしない。ただ念念道に帰して、そのときどきの現在に対して、全力を尽くすというくらいのことであろうと思うのである。(森田全集 第5巻 385ページ)私たちの心の中は、絶えず過去のことを後悔し、これから先のことを取り越し苦労しています。望月俊孝氏はこの2つでエネルギーの90%を奪われていると言われている。「今、ここ」に集中している時間はせいぜい10%程度だと言われているのです。(自分が変わる本 フォレスト出版 101ページ)集中しなければならないときに、他のことに気を取られてしまうと、心がついうわの空になってしまいやすいということです。特にネガティブな過去の出来事や将来の予期不安がでてきてお節介を焼くのです。潜在意識の中には行動に待ったをかけるネガティブでマイナスの記憶がいっぱい詰まっています。うわの空で行動すると集中できないので出鱈目になってしまいます。「今、ここに」注意や意識を持ってくる方法としてはマインドフルネスがあります。そのなかに、「食べる瞑想」というものがあります。例えば、おにぎり一つを、五感をフルに使って感じながら、30分ほどの時間をかけて食べるといった方法です。まず心を落ち着け、おにぎりをじっくり観察します。おにぎりの形や一粒のお米の色つやをよく見たり、匂いを嗅いだり、手にもったときの重さや温度、手触りを感じたり、それから一口ずつ、ゆっくりと味わって食べます。十分に噛んでから飲み込み、口にしたおにぎりが胃に落ち着き、少し重みを感じる様子まで感じ取ろうとします。(願望実現脳は1分でつくれる 山富浩司 大和出版 214ページ)これを山富浩司氏は、「3段食べ」と呼んでおられます。まず、食べる前。食事を見て、「おいしそう」と思います。次に、食事の最中、食事に集中して味わい、「おいしい」と食べます。テレビを見ながらといった「ながら食べ」はしません。食事を楽しむことだけに集中します。最後に、食べ終わってから、「おいしかった」と食事の余韻を味わいます。こうして食べると、一度の食事で「食べる前」「食べている最中」「食べた後」の3回も感動できます。感動を覚えたとき、脳内ではドーパミンというホルモンが出ることが分かっています。ドーパミンが出やすくなると、小さなことにも喜びや幸せを感じられる「幸せ体質」なっていきます。そこが重要なのです。その他、山富浩二氏は、「今 ここに」に集中するために、マインドフルネスタッピングを指導しておられます。これは比較的取り組みやすいので毎日のルーティンに取り入れています。
2024.09.12
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「ものを頼むときは忙しい人に頼め」という言葉があります。少々高くても、法律問題は行列のできる法律事務所に頼む。資格試験の学校を選ぶときは、過去一番多くの合格者を出しているところを選ぶ。少し待っことはあっても、行列のできるラーメン屋さんに行く。すぐには引き受けてくれなくても、仕事を頼むときは仕事をいっぱい抱えている人に頼む。自助グループでもあの人は忙しすぎて、世話役にはならないだろうという人に依頼する。家でぶらぶらしている人だから、時間は十分あるだろうというような人には依頼しないことだ。時間が有り余っている人に頼んでも、思っているほどの成果を期待することは無理だと思う。森田理論を学習した人は、「なるほどその通りだ」と思われる人が多いのではないでしょうか。普通に考えると、忙しい人は頼みごとを雑に扱うので、やることなすことが雑でスキだらけになると考えがちです。忙しい人よりは、時間がたっぷりあって余裕やゆとりのある人がある人のほうが、丁寧に取り組んで期待以上の立派な仕事をしてくれるに違いないと思いがちです。それは私の経験では間違いだと思います。考えていることと実際があべこべになるのです。森田でいう「思想の矛盾」でがっかりすることになると思います。これは精神の活動レベルの違いから起きる現象です。忙しい人は、精神が昼間活動しているときは緊張状態にあります。暇な人は精神が弛緩状態にあるのです。この差は見逃すことはできません。森田理論に「無所住心」という言葉があります。精神状態が四方八方に張りめぐらされて、昆虫の触覚がピリピリとアンテナを広げているような状態です。こういう状態にあると、気づきや発見が泉のようにこんこんと湧き出ているのです。工夫や新しいアイデアが次から次へと浮かんでくるのです。すると物事に取り組む意欲が高まり、行動的になります。失敗することがあっても、失敗を糧にして、さらに創造力が高まっていきます。それらの経験がどんどん蓄積されていくわけです。精神が弛緩状態にある人と比較すると、どんどん差が拡がってくるということになります。ですから「行列のできる・・・」に頼みごとをすると早い、出来栄えがよいという結果ができやすいのです。これは森田的な実践をしていく中で、検証できた事実です。これを体験して会得すると、行動実践はより活動的になると思います。森田理論に「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」という言葉があります。昼間活動しているときは、ぼんやりしている時間を少なくして、次から次へと物事本位で家事や仕事を片付けていく習慣を作れば、誰でも精神緊張状態を作り上げることができます。そういう人のほうが、人の役に立つ人間になれるのだということを意識したほうがよいと思います。
2019.06.05
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セロトニンのような働きをしているオキシトシンというホルモンがあります。オキシトシンの知識は、森田的な実践をするために役立ちます。オキシトシンは、他者と触れ合う、交流を図る、寄り添う、世話をする、スキンシップを図るなどによって精神的な安心感、安定感、幸福感、癒し効果をもたらします。セロトニンよりもさらに強力な効果があります。これは脳下垂体から分泌されています。赤ちゃんを産んだ母親は自分のことよりも、寝食を忘れて赤ちゃんの世話をしますので、オキシトシンが多量に分泌されています。多幸感に満ちて安定しています。親子関係、夫婦関係、友人関係、仲間の絆、コミュニティへの参加、ペットの世話、観葉植物の世話、野菜つくりなどによってオキシトシンは増えてきます。意識して取り組むことでオキシトシンは増えてくるのです。広くて薄い人間関係を広範囲に広げるという気持ちがあれば、たくさんのふれあいの機会が増えますのでオキシトシンが増えてきます。それに犬や猫、鳥や金魚を飼う。ベランダを花でいっぱいにする。自家菜園に力を入れる。生活の楽しみが増えてオキシトシンが増えてくるので一石二鳥です。オキシトシンの健康効果をまとめてみました。1、愛情ホルモンと言われています。「愛され感」「癒され感」「やすらぎ」「協調性」「共感や受容」「許容性」をもたらします。2、身体の健康にします。リラックス効果により、血圧や脈拍を下げます。免疫力、細胞修復力、自然治癒力が高まります。痛みが緩和されます。心臓疾患のリスクが低減されます。3、心の健康を増進します。ストレスホルモンのコルチゾールを下げます。扁桃体の興奮を抑制します。不安を弱めます。副交感神経の活動を高めてリラックス効果をもたらします。セロトニン神経系を刺激します。4、脳を活性化します。記憶力、学習能力を高めます。好奇心を刺激します。(3つの幸福 樺沢紫苑 飛鳥新社 87ページ参照)なお関連記事の投稿が、2015年10月6日、2017年3月8日にあります。特に3月8日の記事は男性によく出るバソプレシンというホルモンについても説明しています。子育てするうえで大切なホルモンです。関心のある方はご参照ください。検索方法は、新着記事(全○○○○件)を押すと「月別記事」ボタンがあります。日付順に並んでいます。ここからお入りください。
2022.03.17
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東レで管理職を勤められた佐々木常夫氏の映画のお話です。主人公のベンは、定年退職後に妻に先立たれ、観劇や旅行を楽しもうとしますが、何をしても虚しい思いが拭えず、思い切って再就職します。自分よりも40歳も若い女性社長が経営する、若い人ばかりのファッションサイトの会社だったのです。彼はそこで、最初は雑用のような仕事ばかりさせられます。前職の企業で部長まで務めそれなりのキャリアを持つ人でしたが、それを活かせるような職場ではありませんでした。でも、ベンはそうした雑用を嬉々として引き受けます。「会社に貢献できるなら、若い人たちの役に立つなら大歓迎」と言わんばかりに行動します。そういう気持ちで仕事に取り組んでいると、職場の人たちから信頼されるようになり、最初はベンを疎ましく思っていた社長も相談事を持ち込んでくるようになります。ベン自身も、「人のため」に働くことを通して、自分自身のやりがいや喜びを見出すようになります。作品のラストでは、ベンの支えを得て会社の危機を乗り越えた女性社長が、彼にお礼をいおうと、公園で太極拳をするベンのもとに駆けつけます。そしてベンと調子を合わせながら、自らともに太極拳を舞いはじめ、二人で息を合わせながら太極拳をゆったり楽しむところで映画は終わります。(60歳からの生き方 佐々木常夫 海竜社 73ページ)この話を聞いての私の感想です。人間いくつになっても、目標や目的を持ち続けることが大切だと思います。これは別に仕事でなくても自分の好きなことや趣味などでもよいと思います。また人様に何らかの貢献をしていく活動をすることも必要だと思います。定年退職して、仮に目先の楽しみばかりを追い求めていると、むなしくなってくるのではないでしょうか。生の欲望が強いという神経質性格者はそれでは満足できないと思います。ベンは悠々自適の生活、消費一辺倒の生活から仕事をすることを選択しました。再就職ですから、今までの経歴は通用しません。一からの出発です。最初は掃除や小間使いのような雑用ばかりさせられました。もしお金儲けだけが目的ならイヤになって辞めていたかもしれません。また会社に対しても大きな貢献はできなかったでしょう。ベンは収入を得るだけではなく、別の目的を持っていました。今までの経験を活かして、会社の若い人たちの役に立つことをしたい。仕事を面白くこなす方法や仕事に取り組む姿勢を教えたい。恋愛に苦しんでいる人の相談に乗る。人間関係を良好に保つコツを教える。経営の問題を抱えている女社長には、どうすれば経営が好転するかを一緒になって考える。最後は女性経営者に太極拳まで教えている。ベンは与えられた仕事をこなすなかで、収入を得ること以外に、自分独自の課題や目標を設定していたのです。どんな仕事でも、仕事をより面白く楽しむためには、ここらあたりがポイントになるかも知れません。私はマンションの管理人の仕事を1日5時間しています。その目的の一つは、もちろんある程度の収入を得たいことです。2つ目は、この仕事は棟内を歩き回って体を動かすので、結構な運動になることです。万歩計の数字が上がるのはうれしいものです。3つ目は、居住者や管理人仲間や管理会社の人との交流があります。自分の仕事ぶりが役に立ち感謝されることはうれしいものです。4つ目は、小さな問題点や課題がいたるところで発見できます。これに取り組むと意欲的になれます。問題点や課題を見つけたらすぐにメモしています。ポケットにメモ帳、首からボールペンをぶら下げています。たとえば鳥の糞が落ちている。落ち葉が散乱している。電球が切れている。自転車置き場が乱雑になっている。居住者から苦情や伝言を頼まれた。エレベータの溝にゴミがたまっている。落とし物を見つけた。これらは自分にとって宝の山だと思っています。問題点や課題に取り組むことは、自分自身の行動意欲を高めてくれるからです。そのため無理のない範囲で、できる限り長く仕事を続けたいと思っています。何しろこの会社は定年がないのでうれしい限りです。現在最高齢者は82歳ですが、この会社で最年長記録を更新することが夢になっています。
2022.12.09
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この言葉は私が尊敬している玉野井幹雄氏の言葉です。この言葉は玉野井氏の闘病体験と関係があります。玉野井さんは、10年間は老人性うつ病で苦しんだといわれる。その前に対人恐怖症で30年間も苦しんだといわれる。対人恐怖症はその後良くなったのですが、その時のキーワードが「地獄に家を建てて住む」ということだったそうです。玉野井さんは、「症状があるままやるべきことをやってきた」にもかかわらず、対人恐怖症の苦境から抜け出すことができなかった主な原因は、どうしても「不快感がなくなることを期待する心がなくならなかった」からであると説明されています。その心がなくならないと、すべての行動が「不快感をなくするための手段になってしまって」、つねに結果を期待することになりますから、うまくいかないわけです。そのために「森田」がいつも言っている「あるがまま」とか「事実本位」とか「目的本位」という言葉も、一時的には効果があるような気がしましたが、本当のところを体得することができず、問題を根本的に解決するには、ほとんど役に立たなかったのであります。そういう苦しい状況が永くつづいた末に、ようやく自分の中から最終的な結論のようなものが出てきました。それは、「どんなことをしても、この苦しい状況からは抜け出すことはできない」「このまま、できるだけのことをして、命のあるかぎり生きるしかない」というものでした。そのときの私は、もう力尽きていましたので、それが如何なる結果になろうとも、それに従って生きるしかないと覚悟せざるを得ませんでした。そしてやむを得ず、「自分の救いを断念して、自分がどのようにして駄目になっていくかを見届ける態度になった」のであります。(いかにして神経症を克服するか 玉野井幹雄 自費出版 47ページ)この話を基にして私の対人恐怖症を振り返ってみました。私の症状は他人から非難される、否定される、バカにされる、からかわれることに振り回されるということでした。そういう場面が予想されると、すぐに逃げ出してしまうのが問題でした。その裏には、良い評価をされたい、一目置かれるような人間になりたいという強い欲求がありました。私は玉野井氏が言われるような覚悟を決めることができませんでした。それは、逃げ回りながらも、何とかなっていたからです。つまり絶体絶命の気持ちになれなかったのです。そういう状況では「地獄に家を建てて住む」というような気持ちにはなれません。私が症状から解放されるきっかけは、森田全集第5巻のなかで森田先生の宴会芸の話を読んだ時です。森田先生が余興で鶯の綱渡りという芸を披露されたというのです。(森田全集 第5巻 293ページ)私は直感的にこれはいけると思いました。そういう視点で森田全集第5巻を読んでみると、例えば大岡越前の三方一両損の寸劇の話も紹介されていました。そのとき私は森田理論を理解することばかりにエネルギーを使うよりも、みんなが喜んでくれるような一人一芸の習得にかけて見ようと思ったのです。そのときは、この取り組みが症状の克服に役立つものとは思いませんでした。森田理論を何年も学習しているのに、はかばかしい成果がないので仕方なく方向転換をしたという感じです。今考えると、この取り組みをしているときは神経症のことは忘れていました。今まで神経症にどっぷりと漬かっていたのですが、症状以外のことに注意や意識を向けたことが大きかったと思います。また、この取り組みは、利害関係のない温かい人間関係を作ることができました。対人恐怖症の私にとっては水を得た魚のような気持になりました。私の場合、玉野井さんが言われる「救いを断念する」ということは、一人一芸に取り組むことで、意識しないうちに結果的に達成されていたのではないかと思っております。なお一人一芸は、獅子舞、浪曲奇術、どじょう掬い、腹話術、アルトサックス、傘踊り、チンドン屋などです。どれも名人芸までには至りませんでしたが、神経症の克服には役立ちました。これ等を携えて老人ホームの慰問、地域のイベントなどには数多く参加しています。山口県角島大橋
2023.06.02
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佐野有美さんは、愛知県出身で、先天性四肢欠損症としてこの世に生を受けました。両手と右足はありません。短い左足に3本の指がついています。でもほとんどのことは自分でこなしています。この指を使って器用に字を書いています。移動は車椅子です。結婚もして、子育てをしています。その生活ぶりは、you tubeにアップしています。「歩き続けよう」という歌を作って、自ら歌っています。その他、講演会活動などを行っています。「歩き続けよう」という歌詞の一部をご紹介します。歩きたい 走りたい 二本の足で手をつなぎたい 抱きつきたい 二本の手で誰もがやっている簡単なことだよねなんでもないことなのにわたしにはできない悔しいよ 涙で思いはぐちゃぐちゃで受けとめられない自分がああ悔しすぎるよだけど信じてもいいよね笑顔でいる人には生きててよかったと思えるときが必ずくるって生まれてきただけで感謝 感謝心と一緒に歩き続ける魂を込めて歩き続ける歩き続けよう 歩き続けよう 歩き続けよう佐野有美さんが大切にしている言葉を紹介されていました。・ありがとう・笑顔・支え合い・絆私たちは五体満足に生まれてきたにもかかわらず、感謝を忘れてないものねだりばかりしています。グチや不平不満ばかりを口にしているように思います。人間に生まれたことを日々感謝し、与えられた特徴や能力を最大限に活用することが肝要はないでしょうか。遺伝子研究の村上和雄先生は、我々は遺伝子の5%しか活用していないと言われています。ないものねだりをするよりも、残り95%の自分の潜在能力を掘り起こすことに目を向けていきたいものです。
2024.11.24
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次の項目で自分が普段他人を受容しているかどうかを判定してください。Aはそのようには思わない。Bはどちらとも言えない。Cはそのように思う。深刻に考えないで直感で判断してみてください。1、 自分の周りには気のきかない人が多いと思う。2、 他の人の仕事を見ていると、手際が悪いと感じることがある。3、 話し合いの場で、無意味な発言をする人が多いと感じる。4、 知識や教養がないのに偉そうにしている人が多い。5、 他の人に対して、なぜこんな簡単なことが分からないのだろうと感じる。6、 自分の代わりに大切な役目をまかせるような有能な人は、私の周りに少ない。7、 他の人を見ていて「ダメな人だ」と思う事が多い。8、 私の意見が聞き入れてもらえなかった時、相手の理解力が足りないと感じる。9、 今の日本を動かしている人の多くは、たいした人間ではない。10、 世の中には、努力しなくても偉くなる人が少なくない。11、 世の中には、常識のない人が多すぎる。結果はどうでしたか。私は症状の強く表れていた時はCのような気持ちが強かった。現在は相手が自分の期待しているように行動してくれないとBやCのように考えやすい傾向があります。森田理論学習を続けてきたので多少は自覚できているのかなと感じています。つまり自分のことはさておいて他責の気持ちが強いのです。すると傾聴、受容、共感の気持ちにはなりません。自己中心的な言動が目立つようになります。人間関係は悪化の一途をたどります。どのように改善したらよいのでしょうか。森田では、基本的に不安、恐怖、違和感、不快感はそのまま受け入れましょうと言います。それは自分自身に対しても言えます。どんなに考え方の悪癖があっても、引っ込み思案であってもありのままの自分を受け入れる。どんなに困難な状況に陥っても自分を見捨てない。いつも自分の味方になってかばってあげる。でも実際にはどうでしょうか。自分ほどダメな人間はいない。自分に自信が持てない。生きている価値のない人間だと思う。容姿、性格、資質、置かれた環境のすべてに不平や不満を感じている。やることなすことすべてが気にくわない。こういう状況の中で、いくら自分に目を向けて自己改造を試みても難しいと思います。無駄な努力に終わることが多い。別のやり方で目的を達成できる方法があります。そのためにはまず、自分の不安、恐怖、違和感、不快感には一時棚上げにすることです。そして他人の話をよく聞く。先入観や最初からきめつけてしまわないで、正確に聞きとる。他人の話を受け入れるという姿勢を持つ。じかに反論はしない。自分の意見を述べるときは、「あなたはそのように考えているのですね。私はこう思っています。」つぎに他人の考え方に共感できる面を探す。最初は共感できなくてもよいのです。相手の立場に立って考えてみることが大切です。このようにして他人を受容できるようになると、結果として自己受容も可能になるのです。手段を変えるだけで大きな成果を手にすることができるようになります。これは生活の発見会のオンライン学習会などでよく感じることです。相手の顔も息づかいも分からない中で学習会を進めて行きます。するとちょっとしたことで感情の摩擦が発生しやすいのです。だからオンライン学習会では、一言いいたいことがあっても決して相手を批判してはならないのです。反対に傾聴、共感、受容を推し進めていけば、最後は家族のように一体化して離れがたい人間関係を築くことができるのです。気づいてみれば自分自身の自己受容力が高まっているのです。こんなにうれしいことはありません。(他人を見下す若者たち 速水敏彦 講談社現代新書参照)
2015.09.10
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不快な感情はいろいろある。イライラする、腹が立つ、絶望的な気持ちになる、悲しい、つらい、苦しい、怒り、恨み、憎しみ、不安、恐ろしいなどなど。これらに対して、しみじみとその感情を味わっている事はあるだろうか。神経症に陥っている人は、とらわれを取り去ろうと格闘したり、逃げたりすることが多いのではなかろうか。水島広子氏によると、イヤな感情は十分に味わうことをしないと、いつまでもつきまとわれて、抜け出すことが困難になるという。イヤな感情は、最初は否認しますが、どうにもならない感情は絶望に変わります。ところがイヤな感情にきちんと向き合わないで、ごまかしたり逃げたりしていると、十分に絶望の時期を経過していない。そして絶望を乗り越えることができなくなってしまう。これが大問題だと言われているのです。私たちが不安にとらわれて神経症に陥ってしまうのは、イヤな感情に対する向き合い方に問題があるのかもしれません。Aさんは結婚を約束していた人をバイク事故で亡くした。彼の父親から連絡があったが、ショックのあまり自室にこもりきりになり、顔を見に行くこともできなかった。お通夜、葬儀に参列できなかった。その後やっと1カ月過ぎて普段の生活に戻ったが、半年経っても気持ちが晴れることはなかった。それどころか、食事がとれなくなり、明け方目覚めては彼のことばかり考える。不眠に悩まされ、受診した病院でうつと診断された。水島氏は、彼女が、彼の死に直面するための儀式をすべて避けてしまったことが問題だと言われています。お通夜やお葬式というのは、形式的なようでいて、案外重要な儀式です。そこに行けば、嫌でも相手が亡くなったという現実に直面するからです。また、親しい人同士でともに悲しみ合う場としても重要です。「お葬式に行ったところで彼が生き返るわけでもない」と、儀式を避けていると、悲哀のプロセスが「否認」のところで止まりかねません。Aさんは、彼との思い出のものをすべて避けて暮らしていました。これも同じように問題です。彼との思い出の場所を見ては、「ああ、彼はいなくなってしまったんだ」ということを改めて認識する。彼にもらったものを見ては「ああ、彼がこういうものをくれることはもうないんだ」ということを改めて認識する。そして、思い出の品を整理して処分したり、別の場所に位置づけたりする作業を通して、少しずつ現実に直面していくのです。。これらは、心の中での小さなお葬式の積み重ねということができるでしょう。悲哀のプロセスを「否認」から「絶望」へと進めていくためには、不可欠の儀式です。この時期、悲しいのは当たり前だとして、むしろ積極的に悲しみに直面していくことが大切です。そうすることで、悲しみという感情から抜け出すことが可能となるのです。(自分でできる対人関係療法 水島広子 創元社 56ページより引用)
2015.12.07
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森田理論学習の「純な心」でいつも例に出されるのが皿を割った時の話です。「しまった、おしいことをした」驚いて思わず繋ぎ合せてみる。ここから出発すればよいが、「こんなところへ皿を置いておくのが悪い」「いまさら繋ぎ合せても仕方がない」「どう言い訳をしようか」等と考えて対応策を考えていると状況は悪化していくということでした。平井信義さんが、子どもがお母さんの食器の収納の手伝いをしていた時、持っていた皿を割った時の対応について説明されています。皿を割ったことにこだわっているお母さんはこんなことを言います。「なにやってるのよ」「あんたがちゃんと持たないからこんなことになるのよ」「不注意な態度のあんたが悪い」「もう手伝わなくていいから、あっちに行ってらっしゃい」言葉だけではなく、なかには叩いたりして体罰をあたえる親もいます。そのうち、「あなたは普段から落ち着きがないからこんなことになるのよ」などと、皿が割れたこととは関係のないことを持ちだして、子どもを非難します。人格否定です。子どもは親から叱られるのをじっと聞いていると嫌になりますから、手遊びなどを始めるでしょう。そうしますと、「人の話をちゃんと聞いていない」などと言って、さらに叱ったり叩いたりします。子どもは皿を割った瞬間「しまった」と思っています。だから親はそれに輪をかけて叱りつける必要はないのです。皿は壊されたけれども、これを機会に、それを子どもの人格形成に役立たせるにはどうしたらよいのか考えてみることです。それには、失敗の体験を成功の体験に変えてあげることが大切です。そのためには「この次には頑張って上手に持ってね」と励ますことが必要です。こうした励ましの言葉によって、子どもは「この次にはこわさないで運ぶんだ」という決意とともに、困難に挑戦しようという意欲が盛んになります。そして子どもが次に挑戦してくる機会を待つことです。次に挑戦してうまくいくと、「ヤッタア」という気持ちになります。親は両手をあげて喜んであげましょう。こういう態度でいると、子どもは小さい成功体験を積み重ねて自信をつけて、自己の存在意義を確かなものにしていくのです。後始末はどうしたらよいでしょう。「自分でしたんだから、自分で片付けなさい」あるいは、「じゃまだからあっちに行ってらっしゃい」と命令し、自分でさっさと片付けてしまうのはいただけません。子どもの人格を伸ばそうとしているお母さんは、こわれた破片がどのように飛び散っているか、それをどのようにすればきれいに後始末できるかを、子どもに教えるために、子どもといっしょに後始末をするものです。大きな破片を取り除いた後、小さな破片は、新聞紙を水でぬらしてそれをちぎってばらまき、それらをほうきで掃くとか、ガムテープを使ってそれに貼りつかせるとか、いろいろな方法がありますから、それらを子どもに教えることは、次に失敗をしたときの後始末を自分できちっとすることのできる子どもを作っていくわけです。つまり子どもは、親がいなくても、壊したものを適切に処理することができるようになるのです。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.27
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集談会で発達障害の子供さんを抱えて苦労されている方がいらっしゃいました。そこでご自身も発達障害だったと言われている精神科医の星野仁彦氏の著書を読んでみることにしました。星野先生は一人暮らしになって物が片づけられなくなり、ゴミ屋敷状態で生活されていたそうです。本を読んで分かったことは、発達障害は100人100様であり、一言で説明できるようなものではないということでした。したがって診断にあたっては専門家による検査と分析が必要になります。また、これまで発達障害といえば、「知能の遅れがあって学業についていけない子ども」「家や社会から引きこもっている人」というのが一般的な理解でした。これは明らかに誤解と偏見であって、場合によっては健常者よりも学業成績のよい発達障害児が存在するなどとは、親も教師も想像できなかった。ベートーヴェン、アインシュタイン、ピカソ、モーツァルトなども発達障害児だったわけですから。一般的な発達障害は以下のものです。①注意力に欠け、落ち着きがなく、時に衝動的な行動をとる「注意欠陥・多動性障害」(ADHD) ・後先のことを考えず思い付きで行動してしまう。・本能のままに行動してしまう。自分勝手な行動をしてしまう。・心配事や不安が湧き上がると、行動の暴発を招いている。・その場の空気を読めず、相手が傷付くようなことをすぐに口にしてしまう。・自己肯定感が弱く、自己嫌悪、自己否定感が強い。・飽きっぽく、一つのことが長続きしない。・責任感のある行動がとれない。・整理整頓ができない。②社会性(対人スキル)やコミュニケーション能力に問題がある「広汎性発達障害」(PDD) があります。 この中に自閉症、高機能自閉症、アスペルガー症候群(AS)が含まれます。③学習障害(LD) ある特定の学習能力の習得に困難を伴う。④運動や手先の不器用さがある「発達性協調運動障害」発達障害は、幼少時に顕在化してくる場合があります。また学生時代までは周囲の人が気づかないことがあるが、社会に出て初めて大きな問題として顕在化してくる場合もあります。発達障害の原因について諸説ありますが、星野仁彦氏は次のように説明されている。生まれつき、あるいは乳幼児期に何らかの理由(遺伝、妊娠中、出産時の異常、乳幼児期の病気など)で脳の発達が損なわれ、本来であれば、成長とともに身につくはずの言葉や社会性、協調運動、基本的な社会習慣、感情や情緒のコントロールなどが未発達、未成熟、アンバランスになるために起こると考えています。一言で言えば、脳の発達に凹凸が見られるということです。星野先生は発達障害という言葉は、「発達アンバランス症候群」と言い換えるべきだと指摘されています。ですから発達障害の人を本人のやる気や性格のせいにして、非難してのけ者扱いするというのは大いに問題があるということになります。専門家の分析により、自分の悩みが「発達アンバランス症候群」だと理解できれば、気が楽になり親の教育や自分自身を否定することがなくなります。また今後の対応が大きく変わってくるように思われます。(発達障害に気づかない大人たち、発達障害に気づかない大人たち職場編 星野仁彦 祥伝社)
2024.11.26
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「生活の発見」という機関紙(自助グループ「生活の発見会」の会員登録をすれば送られてくる)がある。神経症の人には大変役に立つ本である。これだけで神経症を克服していく人もいる。神経症の人で苦しんでいる人には是非読んでみることをお勧めしたい。さて今月号に神経症の悩み相談が載っていた。こういう相談があった。嫌いというわけではないが、ある特定の人と二人きりになると、何を話してよいのか混乱して、頭が真っ白になりパニックになる。どうしたらよいでしょうかという相談です。その方はああでもない、こうでもないと話題を探す。でもお天気ぐらいのことしか思い浮かばない。話題が思い浮かばず沈黙するようになる。その時なんともいえない重苦しい気持ちになる。身の置き所のない居心地の悪さ、不快感が襲ってくる。そこでその場を取り繕うとする。あるいはその場から逃げる。最終的にはそういう人を避けるようになる。それではいけないと思うので何か改善策があればアドバイスしてほしいと言われていた。私も体験がある。ここで嫌いではないがある特定の人というのはどういう人だろうか。それをまずはっきりさせよう。職場の同僚、学校の友だち、異性、上司や部下、父親等ではなかろうか。これらの人と二人きりになったとき話が続かずに気まずい気持ちになる。ではどうすればよいのか。私の経験から2つのことを話してみたい。まず、話すことが見つからないというのは、相手のことが見えていない状態だと思うのです。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という話があります。相手が見えてないと疑心暗鬼になります。相手の情報がいろいろと分かっていれば話の糸口は容易に見つかります。相手が今抱えている問題は見えていますか。仕事、家庭、人間関係、家計、趣味など関心を持って観察していますか。神経症に陥ると自分の症状ばかりにとらわれています。頭の中は自分の症状のことばかり。相手のことが見えていないので、話題が見つからないのではないですか。その人がどんなことに悩み、どんなことに苦しんでいるのか。どんな生活をしているのか。どんな目標を持っているのか。どんな欲望を持っているのか。あるいは最近テレビニュースではどんなことが話題になっているか関心を持って見ていますか。事件、政治、経済、スポーツなどなど。外に目を向けていればいくらでも話題は見つかるのではありませんか。新聞を見る。ニュースをみる。相手のことが分からなければ人から情報を得る。外に目を向けずに、自分が相手にどう思われているのか。相手が自分をどう取り扱ったかばかりに注意を向けていると話題は自分の悩みしかなくなります。それを話題にするわけにはゆきません。つまり目の付け所が違うのではないでしょうか。そして気持ちが内向きになり、相手との間に身の置き所のない不安感がある。その不快感を取り去っていつもスッキリとしていたい。不安は自然現象でどうすることもできないのに、できないことをしようとしているのではありませんか。その不安を持ちこたえ、そのエネルギーを相手の観察などに振り替えていく必要があるのではないでしょうか。次にその人といるとバカ話ができない。一緒にいるといつも緊張してしまう。リラックスできない。身構えて固まってしまって、ありのままの自分を出せないという場合があります。無言の圧力を感じて、萎縮して、親しく話をする状態にはないということです。そういう関係は対等な人間関係にはなっていないと思います。たとえばその人が親分で自分は子分か手下のような関係にある。人間関係に上下があるのです。しかも自分がいつも下にいる。いつも相手のいいなりになっている。また相手が自分に対して敵対関係にある。自分の存在を軽く見たり、無視したりしている。そのような人に対してフレンドリーな人間関係を築くことはできません。敵対関係になるか、その人を避けるようになると思います。そういう人とは誰でも心を開いて話はできないと思います。もともとソリが合わない人です。そういう人とは森田理論学習で言う不即不離を応用するとよいと思います。この場合は強いて親しく話しかけなくてもよい。むしろ離れることを選ぶ。でも挨拶だけはきちんとする。愛想笑いをする。仕事上の最低限の会話だけにする。これだけを心掛ける。人間関係というのは、必要な人と、必要なときに、必要なだけ付き合っていくのが基本だと思います。またコップにいっぱいの人間関係よりも、コップに少しだけ飲物が入っているような人間関係をたくさん作っておく。そういう気持ちでいるとある特定の人に振り回されることは少なくなると思います。自分を叱咤激励して無理矢理、親しそうに会話しようとすると、苦しくなります。苦手意識のある人の前でも、堂々として、うまく立ち回れる人間にならなくてはいけない。どんな相手でも、相手の気をひく話ができなければならない。等と考えていると「かくあるべし」で葛藤と苦悩が出てきて対人恐怖症にまで増悪してしまいます。
2016.12.03
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「こだわり」と「とらわれ」の違いについて考えてみた。共通点のあるような言葉でありながら、その本質はかなり違うと気がついたからである。私たちの問題にしている「とらわれ」がより深く理解できるようになるかもしれない。「こだわり」を持っている人は頑固であるというイメージがある。人の言う事はあまり聞かない。融通が効かない。言い出したら梃子でも動かない。わが道をどこまでも突き進む。一途に自分の信じた道を貫く強さがある。うんちくを人に語り出すと止まらない。自分の持ち物については気にいったものをずっと使い続ける。健康志向にこだわっている人もいる。食事の内容、体を動かすこと、睡眠、ストレスの発散、趣味、温かい人間関係の構築などに気を配っている。特に食べ物については、無農薬、遺伝子組み換え食品、生産地、消費期限を気にする。そして食事のバランス、サプリメントにこだわる人もいる。生活習慣病にはいつも関心を持ってチェックしている。長寿そのものよりも、心身の健康年齢の延命を心がけている。特にがん等の難病、認知症等を警戒している。つまりこだわりのある人は、その内容を重視しているのである。さらに自分が主体性を持って自分の所有物や身の回りの人に接しているのである。それだけに「こだわり」のある人は味がある。芯の強さを感じるのである。つぎに「とらわれる」人の特徴はなんだろう。目先のことに「とらわれる」という言葉がある。ちょっとしたこと、とるに足らないようなことに簡単に「とらわれる」のである。これは心配性の性格を持っている我々に当てはまることである。とらわれる人は、不安や不快感を流せないで、いつまでも抱え込んでしまう人である。どうにもならないこと、気になることに注意を集中させて、不安や不快感をできるだけ早く無くそうとする。それ以外のことに目が行き届かなくなり、生活が後退する。観念上の悪循環が始まる。つまり自分の生活が不安や不快感に乗っ取られた状態である。不安や不快感が頭に浮かんできて、なんとか取り除くように自分に迫り、その不安を解消するために手あたりしだい何かしないではいられない。強迫観念で自分を追い込み、強迫行為をするようになるのである。ちょっとでも頭が痛い、腹の調子がおかしい。すぐに何か命にかかわる重大な病気にかかっているのではないかと気にする。そして病院にかかり薬を処方してもらう。私ものどにものが引っかかったような不快感が気になり大学病院に行ったことがある。診察した先生は、「この病院は開業医の紹介状が必要です。あなたのような一限の患者さんが直接来院するのは手順が違う」と言われた。事実のどの痛みはヒステリー球という精神的なストレスが原因でしょうと言われた。紹介状が無いので高い料金を請求されて、すぐに追い返されてしまった。考えてみれば、大学病院は命にかかわるような人が来るような病院だ。でも私はガンになったのではないかと気が動転して、一番信頼のおける病院でよく見てもらおうと思ったのである。これがとらわれの悪循環に取りつかれた人の特徴である。やることなすことが極端で、後先のことを考えないで短絡的である。不安や不快感に対して対症療法で簡単に応急処置をとろうとするのである。健康でいたいという気持ちが強いが、不快感や病気が発生したときに、その原因を特定して誰かに取り除いてもらおうという気持ちが強い。「こだわり」を持っている人のように、自分の立場を明確にして人や物事に対しているのではない。主体性に欠ける人である。「とらわれる」人は不安や不快な気分を気にしているのである。安易に気分本位の行動をとっている人なのである。その時の気分に翻弄されるばかりであるから、不安定なのである。
2015.09.02
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外科医の土橋重隆(つちはししげたか)先生は、ガンになる人は基本的に真面目に生きた人ですと言われています。ガンは頑張る人がなるというのは本当です。性格的にいいかげんな人は一人もいない。肉体的に頑張ったのか、性格的に頑張ったのか、自分の本音を抑圧して建前優先で頑張ったのかによってガンの発生場所が違ってくる。たとえば乳ガンですが、乳ガンの場合はストレスが関係しています。過去のある期間、強い肉体的ストレスを受けた人は左乳ガン、長い期間をかけてじわじわと、精神的なストレスが蓄積された人は右乳ガンになりやすいのです。左乳ガンの人は、誰かの下で働くことで能力を発揮する。その要求に、つい頑張って、肉体を酷使してしまう。激しいこともできるし、深夜残業もこなす。肉体的にボロボロになるまで頑張れる人です。ですから、左乳ガンの人は「あの時の無理がたたったのだ」と思い出すことができる。右乳ガンの人は、潜在的に職場や夫婦などの人間関係のストレスをため込んでいる。人間関係に問題を抱えている人は、自分の思い通りに相手をコントロールしたい人です。相手と対立して勝ち負けを争っている。和解、妥協という気持ちが持てないで、主導権争いを繰り返しているとストレスとなります。自己中心性が強くて、職場で四面楚歌になっている場合は危ない。肺ガンの患者さんは、病気が怖いのです。肺ガンであると知らされた途端に、一気に衰えてしまう。なんでこんなにガタガタになるのだろうと思うくらいです。そのショックが免疫力をさらに落としていく。その恐怖を不安の程度に落とすことが大切です。胃ガンや十二指腸ガンの人は、とにかく生真面目なのです。言われたことに対して、なにごとも真面目に取り組まれますね。自分の本音としては、断りたいのだけれども、相手のことを考えると建前上引き受けないとまずいことになると考えるような人です。他人からものを頼まれると、引き受けるかどうかをとことん悩むような人がかかる。肝臓ガン、胆のうガンの人はとりあえず引き受けてしまう。引き受けてしまってから、あれこれと悩む人が多い。胆のうガンの人は結構ユーモアのある人が多い。サービス精神が旺盛です。相手を思い、気遣うようなところがあります。すい臓がんは、「弱音をはかず、最後まで凛としている。芯が強い」人がかかる。昭和天皇がすい臓ガンでした。侍従長でさえ、昭和天皇がまどろんだところを見たことがないというのです。すい臓ガンの人は、葬式の準備までして終わるような人ですよ。とにかく立派な最後です。考え方、生き方、行動、食生活の偏りが、身体に無理やストレスを与え、それらが蓄積された結果、ガンが発症している。これを逆手にとって、自分の思考パターン、行動パターンの傾向を自覚して、片寄っているなと思った時は、すぐに修正してバランスを回復できる人はガンにかかりにくいということができます。遺伝子研究の村上和雄先生が指摘されているように、ガン遺伝子のスイッチがONにならないということだと思われます。そういう意味では、森田理論はバランスを取り戻すことをことさら重視している理論です。バランスのとれた生き方を身に着けるために、森田理論という人間哲学を学ぶことをお勧めいたします。(土橋先生の著書の紹介) 「ガンをつくる心、治すこころ」(主婦と生活社)、「ガンを超える生き方」(徳間書店)、「病気になる人、ならない人」(ソフトバンククリエイティブ)、「突き抜ける生き方」(あ・うん)、「50歳を超えてもガンにならない生き方」(講談社)、「生きる。死ぬ。」(ディスカバー21)など。
2024.11.09
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諸富祥彦氏は「人生を半分あきらめて生きる」(幻冬舎新書)という本の中で、「脱同一化」について説明されている。これは一言でいえば、自分を否定する気持ちをただそのまま、認めて、眺めるということだそうだ。この方法は、元々、仏教の瞑想法、特にベトナム禅のマインドフルネス瞑想から生まれたものだといわれている。自分の中から生まれてくるすべての想念に対して、それがどんなものであれ、すべて「ただ、そのまま、認めて、眺める」姿勢を持ち続けることで、どんなにつらく激しい気持ちであれ、それは自分とイコールではなく、自分の一部でしかないことを自覚的に体得していく方法です。たとえば、「こんな私じゃ、だめ」「こんな私は、嫌い」という思いが湧いてきたら、「そうなんだね。わかったよ」とただそのまま、認めて、眺める。そう言われて、「こんな嫌な自分のことを認めるなんて、できない」という気持ちが湧いてきたら、その気持ちも、「そうなんだね。わかったよ」と、ただそのまま認めて眺める。こうやって、どんな自分が出てきても、「ただそのまま、認めて、眺める」のをたびたびひたすら繰返していると、このような落ち込む気持ちと、それを眺めている自分とは別であること(脱同一化)、それを眺めている自分こそ自分であり、落ち込んだ気持ちはどれほど強烈であれ、それは自分のごく一部にすぎないことがジワーッと自覚されてきます。すると、自分の気持ちと自分自身の間に自ずと「距離」(空間・スペース)が生まれてくるのです。これは腹立ち、イライラ、不安、恐怖、違和感、不快感などの感情の対応法の一つとして考えられたものだと思う。そういうイヤな感情を客観的に見て、距離を置いて眺めるということでしょうか。森田理論ではそれらは自然現象である。自然現象は人間の意思の自由は効かない。自然現象はそのままに受け入れる。好むと好まざるにかかわらずそれしか対応方法はないといいます。そんなことをしたら、押しつぶされることになるのではないかという強烈な不安が襲ってきます。それに対しては、すべての自然現象には必ず流れと動きがある。じっと留まっていればそれらに押しつぶされてしまうでしょう。でも動きと流れがあれば、次第に薄まってゆき、無意識の領域に押しやられてしまう。そのことは、たとえば方丈記で鴨長明が見事に説明している。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」客観視するというのは観念では理解できますが、実行は難しいのではないでしょうか。不安や不快感などに対しては、やりくりだけはしないという強い意志を持って、時間が経過するのを待つ。というのがよいのかなと思います。その間やるべきことはいくらでもあるわけですから、不安や不快感を抱えたまま、それらに取り組んでいく。という森田理論はスッキリと納得ができるように思います。
2016.10.13
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月刊誌「生活の発見」の27ページにこう書いてあります。不安の裏側には欲望がある。だから、不安はそのままにして、欲望にそって行動しましょう。「生活の発見会」では耳にタコができるほど言われます。でも、自分の欲望が何なのかよく分からない。欲望というと、何か立派な価値のあることでないと欲望と言えないのではないか、と構えてしまう人もいるようです。なるほど。森田先生の言われている欲望は次のようなものです。1、病気になりたくない。死にたくない。長生きしたい。2、よりよく生きたい。ひとに軽蔑されたくない。人に認められたい。人に褒められたい。3、いろんな知識を広めたい。勉強したい。4、偉くなりたい。幸福になりたい。5、向上発展したい。つぎに生活の発見会相談役の山中先生は、欲望について次のように指摘されています。「われわれが欲望と呼んでいるものの中には、世間から押し付けられたいろいろなものが、入ってきている。森田先生は、人並みに自動車が欲しいとか、世間的にもっともらしい配偶者を得たいなどというのは、かならずしもその人のほんとうの欲望ではない、といわれます。いわゆる神経症的な欲求なのか、ほんとうの自分の欲求なのかを見極めるよう心がけて、あまり世間常識にふりまわされないことが大事です。」普通世間では欲望というと、食欲、物欲、性欲、睡眠、安全欲などのことを指しているのではないでしょうか。これらは人間の基本的・生理的な欲求であると思う。山中先生はこういうものは森田でいう本来の欲望ではないといわれているのです。たしかに物欲、所有欲の果てしない追及は、我々の長所である豊かな感受性がどんどん削られていくことになります。少々のことでは感動、喜びを感じることができなくなります。また低次の欲望にしがみついていては、高次の欲求である「自己実現」「向上発展」等の本来の欲望の発揮に向かうことはありません。山中先生は、そうしたところに森田の言う「生の欲望」はあるのではないかと指摘されているのです。自分の持っている物、備わっている能力を活かして、一歩高い夢や希望、目標を設定して、命あるかぎり前を見つめて挑戦していくこと。こういうことではないでしょうか。自分にないものを求めるのではなく、今現在の状況の中から出発することが大切です。森田でいう努力即幸福ということです。たとえば凡事徹底という言葉があります。自分のできる日常茶飯事や雑事は、なるべく人任せにしないで自分が手足を出して処理する。物そのものになりきって丁寧にこなしていく。そんな小さい欲望なんてと思われるかもしれません。神経質者はともすれば、大きな夢、希望、目標を設定しがちです。クリエイティブな創作活動、大勢の人から注目を浴びるようなことばかりに目が向きがちです。でもそれらはどこから手を付けたらよいのかわからない。反対に小さなことは馬鹿にして最初から無視してしまう、という人が多いのではないでしょうか。神経質な人はホームランバッターよりも、バントやシングルヒットを打つことが向いているように思います。それは感受性が強く、いろんなことによく気が付くという特徴があるからです。その特徴を活かさない手はありません。そのためにはちょっとした気づきやアイデアをきちんと捕まえなければなりません。メモやボイスレコーダに記録しておかないとすぐに忘れ去ってしまいます。結果として自分の長所は活かされないことになってしまいます。大きな夢や希望、目標は、小さいハードルを一つ一つ超えていくうちにしだいに見えてくるものです。とりあえず、欲望は常に自分の身の回りに存在するということを忘れてはならないと思います。
2014.10.05
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親や会社の上司などが「かくあるべし」を振りかざして自分のことをバカにしてきたらどうすればよいのか。その言動に対して、 「なめられてはならない」 「この腹立たしい気持ちを取り去りたい」という態度で対応しようとすると、相手と言い争いになる。我慢すると憎しみがどんどんエスカレートして、恨みに変わってしまう。相手の理不尽な言動に対して、相手といがみ合う方法は、決して良い結果をうまない。こういう時は森田理論の「純な心」を応用したいものだ。親や会社の上司に注意や意識を向けて、腹を立てて反発しようとする気持ちがわき起こってきたら、すぐに初一念思い出すことだ。初一念に引き続いて、初二念、初三念が湧き起こってくるのですが、こういう時は初一念に立ち戻るという癖をつけていくのです。この能力を身につけたいものです。 1番最初自分にどんな感じがわき起こってきたのだろうか。自分はその感情に対してどういう気持ちになったのか。その感情を受けてどうすればよいのか。どうしたいのか。その気持ちを相手にどう伝えたらよいのか。つまり売り言葉に買い言葉で相手と対応するのではなく、 1番最初に感じた初一念から出発するのである。それは五感・身体を通じて湧き起こってきた感情であり、一切夾雑物が入り込んでいない素直な感情なのである。この感情を、「私メッセージ」を使って相手に伝えていくのだ。例えば会社の上司で、仕事上のミスをして叱られたとする。「バカかお前は。こんな初歩的なミスをして。能力がないのならさっさと辞めろ」まさかこんなことをあからさまに言うような上司はめったにいないかもしれません。例えばの話です。こんな時後先考えないと、すぐに破れかぶれで反発するか我慢します。そして会社にいられなくなるかストレスが溜まり精神障害を引き起こします。そんな時森田の「純な心」で対応するのです。私「ミスをしたことは謝ります。申し訳ありません。でもバカだ、無能力者だと言われて、私はとても傷つきました。」上司「なにを子供みたいなこと言っているんだ。そんなこと言うからバカだって言われるんだ」私「そのような人格否定をされると、私は恐ろしくて何も言うことができなくなります」上司「恐ろしいだと。俺のどこが恐ろしいんだ。俺は正当なこと言ってるつもりだ。本当にお前は馬鹿なやつだ」私「そんな風に言われるとますます嫌いになってしまいます」上司「それはお前が会社のお荷物になるようなことをしたのだから当然のことだろう。反省して、おとなしくしておれ」私「課長はそういう気持ちなんですか。私はあなたには失望しました。お話する気力もありません。残念です。失礼します」これは言い訳をしたり、相手にこびて服従しようとしているのではありません。私は上司の言動が恐ろしくて仕方がありませんという「初一念」の気持ちを伝えようとしているのです。あくまで自分の素直な感情を伝えようとしているのです。森田でいう「純な心」です。そうすると、上司は最後の言葉で返す言葉を失ってしまいます。気が抜けたような気持ちになります。この上司と話をしても時間の無駄だと部下は判断しているのか。もうこれ以上自分と話をしたくないという事は、自分にはついていけないと思っているのか。それが噂をよんで、他の同僚や私の上司に知れ渡ったらまずい。自分には部下を育て、組織をまとめあげる能力がないとみなされるのはイヤだ。自分の言葉は、天に唾するようなもので、最終的には自分に降りかかってくる。自分の最初に湧き起こってきた感情を思い出して、そこに焦点をあてて自分の気持ちを口に出していくと最悪の事態に至らず、しかもストレスをため込むことがありません。そんな対応ができないから苦しんでいるのだという反発があるかもしれません。すぐに自分の初一念や気持ちを上司に向かって伝えることはできません。理屈が分かったからといっても、そのような行動がとれるのは別問題です。まずはその方向が神経症に陥らず、自分を救う道なのだということをしっかりと理解することが大切だと思います。
2019.01.02
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普通自分が神経症で苦しんでいるのは、親の子育てに問題があったからだと考えます。これは、フロイトの提唱した原因―結果論の考え方です。この考え方に立つと、親の子育てを非難・攻撃するようになります。親を非難・攻撃したところで、症状が改善できるわけではありません。いつまでも親といがみ合い、親子の人間関係はますます悪化しそのうち犬猿の仲となります。それだけでは済みません。今度は自分が親となったとき、自分の子どもに対して同じような子育てをするようになります。その結果子どもがさまざまな問題を抱えて苦しみ、親である自分を恨むようになるのです。負の連鎖が繰り返されるのです。確かに、幼児期のなんらかの経験が現在に影響を及ぼしている可能性はゼロではありません。しかし、その人の現在の行動を決めているのは、現在までのありとあらゆる学習体験であり、家庭環境であり、対人関係であり、遺伝的要因であり、それに偶然が重なったものです。つまり、なにが直接的な原因であるかということの特定は不可能です。アドラーの考え方は原因―結果論ではなく「目的論」という考え方をします。過去にこういうことがあったから、今現在こういう問題を抱えて苦しんでいるのだというのではなく、行動するにあたっては必ず何らかの「目的」があり、その「目的」を達成するために、過去の問題行動を利用しているのだという考え方です。アドラーの「目的論」に添って自分を分析してみました。私は他人から非難・否定されて、傷つくことに耐えがたい苦痛を感じます。他人にうかつに近づいていくと、いつか回復できないような大きな痛手を負ってしまうだろう。傷つかないためには、どうするか。自分の方から積極的に他人に近づかないようにした方がよい。そうだ。車間距離を十分に確保すれば他人の言動で自分が傷付くことはない。他人が自分のテリトリーに入り込込んできたときは、排除するようにした方がよい。そういう気持ち(目的を持って)で他人と付き合ってきたわけです。いつも警戒態勢を崩さないので、他人との付き合いは希薄になります。対人関係はぎくしゃくし、対立的になります。最後には孤立してきたのです。しかし、人間には「所属欲求」があります。人の輪に加わっていないと、生きていけません。自分の居場所がなくなります。そのために私がとった対策は、みんながびっくりするようなことをして、居場所を確保しようとしたのです。この対策は途方もない労力がかかる割には期待したほどの成果に結びつかない。居場所が確保できないばかりか、総スカンを食らいました。これは今考えるとやり方が悪かったとしか言いようがない。どうすればよかったのか。仕事で自分に与えられた責任をきちんと果たす。常識的な付き合いを欠かさない。相手の役に立つようなことをする。人間関係ではあいさつをきちんとする。相手が不愉快になるようなことは口にしないようにする。不快な感情を爆発させるようなことをしない。人間としてあたりまえのことをきちんとこなしていれば、自分の居場所は確保できたのではないかと思われます。(アドラー実践講義 幸せに生きる 向後千春 技術評論社 参照)
2024.09.11
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長谷川洋三氏のお話です。森田先生は、「従順」と「盲従」とを峻別している。「従順」とは、気がすすまないが、とにかく必要なことはやる、あるいは半信半疑だが、一応はいわれたとおりにやってみるという態度である。そこには批判精神が働いている。これに反して「盲従」とはこの批判精神が働かず、唯々諾々と、「右を向け」と言われれば何の疑問もなく何の疑問もなく右を向き、「左を向け」といわれれば左を向くといった態度であって、森田先生はこの盲従的態度をきびしく戒めている。最近の言葉でいえば、「従順」には主体性があるが、「盲従」には主体性が失われているのである。(生活の発見誌 11月号 20ページより引用)「従順」も「盲従」も行動することは同じなのだが、この2つは月とすっぼんだといわれているのである。その違いをはっきりさせておこう。普通は実践・行動することで、物事の方に注意や意識が移っていく。そして気づきや発見がある。興味や関心が深まっていく。工夫やアイデアが浮かんでくる。それが弾みとなって、やる気が湧き上がってくる。最初は他人から指示された事であっても、イヤイヤシブシブ取り組んでいくうちに、感情が動き出してくるのである。感情が変化して動き出してくると、主体性の発揮につながる。主体性の発揮がきっかけとなり、新たな行動へとつながっていく。盲従の場合は、指示されたことだけを早く仕上げて、自分の手から離したいという気持ちが強い。指示されたことをとにかくやってしまえば、何も問題ないでしょうという気持ちが強いのです。その結果が不十分で問題だらけだろうが、本人は馬耳東風なのです。どこまで行っても、主体性の発揮とは無縁なのです。これでは感情は動き出さない。実践や行動によって、元の感情を速やかに変化させて、流していくという目的から見ると、これは大きな問題ということになります。従順というのは、最初は相手の指示に対して反発しています。どうして私がやらなければいけないのか。他の人に頼めばよいのにという気持ちがあることも多い。それこそイヤイヤシブシブ引き受けて行動するということになります。考えてみれば、人生の三分の一を占めているといわれる仕事もそうですね。最初から仕事が面白くて仕方がないという人は、ほとんどいない。その証拠に高額な宝くじが当たれば、すぐに退職したいと思っている人が多い。これが普通の状態であり、何ら問題はないのです。問題はこの先にあります。イヤイヤ引き受けた仕事に対して、ものそのものになって取り組んでみたかどうかが問われることになるのです。仕事でいえば、大きな不具合や問題が生じて、それを解消するために必死になって取り組むようなことがあります。こういう状態になると、感情が動き始めます。気づきや発見、工夫やアイデアが泉のようにこんこんと湧き上がってくるようになります。不具合や問題が生じなくても、主体的に取り組むことで、感情は動き出します。森田理論は、物事を観察することで、感情が生まれ、その感情を速やかに流すことを目的としている理論なのです。特に不快な感情はそうして解決していくのです。谷あいの小川を勢いよく流れる水のごとくです。これがお城に停滞している水のような状態になると、汚く濁って雑菌がはびこってしまいます。これが神経症を引き起こす大きな原因となっているのです。最初はイヤイヤ仕方なしの行動で何ら問題はありません。それがむしろ普通の状態です。問題はその先にあります。森田先生の言葉に、「ものそのものになってみよ。天下万物すべて我がもの」というのがあります。どんなに気が進まない事であっても、一旦は時間を忘れるくらいの気持ちで取り組んでみることが大切なのです。その方向を目指していると、自分の人生はとても味わい深いものに変わっていくのです。
2020.11.02
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アドラー心理学では「すべての人間の行動には目的がある」という。他人を自分の思うように操りたいという目的を持っている人は、他人が自分の期待通りに行動してくれないと、腹が立って相手を攻撃したり、無視したりする。それは自分の目的を達成するために、怒り等の感情を手段としてうまく利用しているというのである。意識するにせよ、しないにしろ目的達成の為に怒りの感情は相手にとってはとてもインパクトがある。叱りつける。非難する。拒否する。無視する。否定する等という行動は他人をコントロールするという目的を達成するために、自分が選びとった方法なのだ。私は、怒りの感情について、そのような見方もあるのかと驚いた次第である。ここで会社に行く目的を考えてみたい。究極的には労働力を提供して、生活費を稼ぐことが目的である。この目的を見失ってはならないと思う。私のような対人恐怖症の人はしばしばその目的を忘れがちである。対人的なトラブルを起こすとすぐに会社を辞めたいと考える傾向がある。人間関係を良好に保つことが最大で唯一の目的になってしまうのだ。辞めてどうやって生活費を工面するのか。どのように家族の生活を支えていくのか全く考えていない。とりあえずこの不快な感情をなんとかして取り去りたいのだけなのである。後先のことを考えない向う見ずな気分本位の態度である。自分にとってだけではなく家族全体にとっても迷惑な話だ。よく考えてみてほしい。会社員になってしまえば、社会保険に入れる。健康保険に加入できる。家族も被扶養者として加入できる。厚生年金にも加入できる。それは将来の年金として跳ね返ってくるのだ。雇用保険にも労災保険にも加入できる。仮に退職すればすべてを失ってしまうのだ。そんなことを少しでも考えてみた後での決断なのだろうか。出来の悪い営業マンと言われようが、みんなの足を引っ張っていると言われようが必死になって生活費を稼いでくるという目標にしがみつくことだ。月給鳥という鳥になって、せっせと餌を運んで来る鳥はよい鳥だ。餌を運ばない鳥は、自分にとっても家族にとってもなんの役にも立たない。仕事は、会社に大きく貢献しなくてもかまわない。超低空飛行で墜落しない程度でもいいのだ。ましてや昇進などはあまり考えない方がよい。係長、課長、部長、取締役と出世することは男のロマンのように言う人もいるが私はそうは思わない。役職者になると権限もあるが責任も取らされる。せっかく課長になっても責任を果たすことが難しい課題を与えられているのだ。そして課長の資格なしと烙印を押された人はみじめだ。降格を許されることは少なく、そのまま責任をとらされて退職に追い込まれるか、出向の道を選ぶかどうかである。そういう人を数多く見てきた。私はある程度のところで引いて、退職金を満額ゲットできた。次に結婚の目的について考えてみたい。結婚の目的は育ちも考え方も違う男女が一緒になって子どもを産んで育てて、喧々諤々と言い合いをしながらでも、一人では得られないうるおいのある生活を楽しむことではなかろうか。自分とは全く違う人と力を合わせて1プラス1を2にするのではなく、3にも4にもして、自分ひとりだけでは味わえないような喜びを共有することではなかろうか。結婚するということは、ふたりの意見が違う時は、お互いの言い分をよく聞いて、譲ったり譲られたり、妥協点や落とし所を見つけていく作業を最後まで続けていくことに尽きる。そういう目的がしっかりしていれば、けんか別れして離婚したり、家庭内別居状態にはならないと思う。現実はどうか。結婚したときは趣味も考え方もよく似通っている。やさしい人だしこの人なら私を幸せにしてくれるはずだと思って結婚する。夫婦はいつも対立して険悪になることが多いいのに、最初からそんなことはないと思っているのである。あの人はいつも私の言うことは素直に聞いて、きっと私に合わせてくれるはずだと思い込んでいるのである。そんな考えはいつも裏目に出る。片方がそう思っているだけならまだ救いがある。双方がそのように思っていることは同居していること自体が重苦しくなってくる。夫婦のあり方や目的を誤っていると結婚生活は最悪となるだろう。アドラーにしろ、人間関係療法にしろ、一番大事な人間関係は家族であると言っている。それが破綻しているということは、人間関係の土台が崩壊の危機にあるということだと思う。
2015.12.20
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阿久悠という作詞家がいた。この人の作詞した曲に「ジョニーへの伝言」というのがある。ジョニーが来たなら 伝えてよ2時間待ってたとわりと元気よく 出て行ったよとお酒のついでに 話してよ友達なら そこのところうまく伝えてジョニーが来たなら 伝えてよわたしは大丈夫もとの踊り子で また稼げるわ根っから陽気に できてるの友だちなら そこのところうまく伝えて今度のバスで行く 西でも東でも気がつけば さびしげな町ねこの町は友だちなら そこのところうまく伝えて今度のバスで行く 西でも東でも気がつけば さびしげな町ねこの町はジョニーが来たなら 伝えてよ2時間待ってたとサイは投げられた もう出かけるわわたしはわたしの 道を行く友だちなら そこのところうまく伝えて うまく伝えて場所はアメリカのど真ん中にある町の、バス停を兼ねたドライブインのようなところです。この町で一緒に暮らしていた男女が、生活のために新天地を求めてこの町を出て行くことにしました。このドライブインで待ち合わせをしていたのですが、相方のジョニーはやってきません。ジョニーがやってくるのを待ちながら、彼女が顔なじみのバーテンダーかウェイターかと話ししている場面です。彼がやってくるのを、もう2時間も待っているのに、一向にやってこない。そう多分私はジョニーに捨てられたのです。わたしは、2時間待って、ジョニーに対しては、充分すぎるくらいな誠意は尽くしました。それは今でも未練はあります。今まで一緒に暮らしていたのですから。でももう来ないなら来なくてもよい。きっぱりと未練を断ち切って私は一人で生きていきます。男手なしで、女一人で生活していくことがどんなに大変なことはよく分かっています。でも私を見捨てたジョニーに未練がましく電話をする事なんか決してしません。また彼の不誠実さを攻め立てることもしません。それが私の運命だったのですから。例えそれで無理やり元のさやに納まったとしても、またすぐに気持ちが離れていくことは目に見えています。だからネチネチと彼に追いすがることは止めようと思っているのです。私は幸いダンサーとして生きていくあてがあります。東に行けばニューヨーク、西に行けばロスアンゼルスあたりでしょうか。風来坊の大変な生活が待っていますが、私はその道を選んでこの町を出て行きます。もう決して会うことはないでしょう。「気がつけばさびしげな町ね この町は」という言葉は、ジョニーと過ごした楽しかった過去の生活とは、もはや決別しなければならない時だということを暗示しています。私はその覚悟を固めました。もう決して後ろを振り返ったりはしません。自分の力で新たな道を歩んでいきます。わたしはこの話を聞いて感じたことは、森田理論の「事実唯真」です。名前は書いてないですが、登場人物の彼女は、ジョニーのために精一杯尽くしていたのでしょう。ところがジョニーは自分に対してはつれない態度をとった。ジョニーは、別な女性と暮らすことを選択したのかもしれません。女性の立場に立てば、決して笑って許せるような事ではありません。普通なら誰でもそんな事実を素直に受け入れることはできないでしょう。多分離婚訴訟を起こして、できるだけ多くの慰謝料をふんだくることを考えるでしょう。登場人物の彼女はその理不尽極まる事実を仕方なく認めて受け入れています。そして過去の未練を断ち切って、視線をこれから先の生活に向けている。ここが凄いところです。これは、「かくあるべし」という観念の世界にどっぷりと身を置いていては決してできないことです。事実を事実として正しく認識することで、初めて可能になるのです。どんなに受け入れがたい事実でも、それに反旗を翻すと、一時的にはすっきりするかもしれません。でもそうすればするほど、自分が益々みじめになることが体験的に分かっているのでしょう。彼女のような方向に舵を切ると、初めて逆転の人生が幕を上げるということになるのです。阿久悠さんは、今までの歌謡曲というのは、女性が男性に捨てられて、嘆きかなしむ「怨歌」だった。あるいは未練たらたらでドロドロした男女関係を歌った「艶歌」だったと言われている。そういう歌詞は私は書かない、書きたくないと言われている。みじめで、キズをなめ合うことになってしまうからだ。共依存の関係に陥ってしまう。不幸や理不尽な出来事を逆手にとって、自立する女性を応援する歌詞を書きたいと言っておられます。事実を認めて受け入れるという事実唯真の立場に立つと、たちまち「怨歌」や「艶歌」が、前向きな「援歌」に変わるのだと言われているように感じる。(阿久悠 詞と人生 吉田悦志 明治大学出版会を参照しています)
2021.03.06
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生活の発見誌10月号に面白い記事がありました。ドイツ参謀本部の人材登用の基準は4つに分類されているという。優先順位1 能力あり 野心無し優先順位2 能力なし 野心無し優先順位3 能力あり 野心あり優先順位4 能力なし 野心ありドイツの参謀本部といいますとナチスドイツの軍事政権を思い出させます。この組織は独裁政権で、組織内の上下関係が明確でした。為政者や上官に逆らうことはタブーとされていました。ここでのポイントは能力の有無よりは、野心の有無が重要視されているということです。能力があった方が良いに越したことはないが、そんなに重要なことではない。それよりも上司に反旗を翻すような野心家は許せないということになります。為政者や上官のやり方が間違っていても絶対服従が求められる。イエスマンや太鼓持ちや腹心の部下達で周囲を固めることになります。その方向は最終的に組織を弱体化させることになることに気づいていない。自分のやり方を批判・反対するような人材は好ましくない。そういう人間を見つけると、反逆者としてすぐに組織内から排除する。「野心家」という言葉はあまり良い意味では使われません。今いる権力者や上司を押しのけて、自分がそれにとって代わろうと虎視眈々と狙っているような人だからでしょうか。自分が他人を自由自在にコントロールするか、あるいは他人に絶対服従のどちらかしかないと考えているからでしょうか。基本的に人間関係は支配するか支配されるしかないと考えているような人です。プライドが高い人と言われている人がこれに該当します。これはアドラーのいうタテの人間関係です。「かくあるべし」を他人に強引に押し付けている人はタテの人間関係の中で生活している人です。こういう人は人間関係は勝ち負けをかけた権力闘争だととらえています。負けず嫌いで相手の上に立って称賛されることを考えています。まわりの人から一目置かれる存在を目指しています。相手がミスや失敗、スキャンダルを起こすと嬉しくなる人です。そんなとき徹底的に相手が立ち上れなくなるまで攻撃してしまう。また相手に攻撃されたときのことを考えて、いつも防衛的、敵対的・攻撃的になりやすい。精神的に気が休まるときがありません。太古の昔人間は力のある肉食獣と生死をかけて生活していました。身体能力で劣る人間は社会をつくり協力し合ってこの難局を切り抜けることを考えました。人間同士が助け合い援助し合うことは、種族保存のための強力な武器となりました。そのDNAは現在も引き継がれています。人間同士はそれぞれ能力の差があります。自分の得意な面で他の人の役に立つこと、適材適所の仕事を分担することで、より豊かな社会を目指してきたのです。人間関係の基本はもともとヨコの人間関係だったのです。森田でいう「己の性を尽くす」「他人の性を尽くす」という人間関係を目指していたのです。現代の人間は、人間関係の基本を忘れて、特定の人間がその他大勢の人間を自由自在にコントロールしようとし始めたのです。このままでは人間同士の戦いが加速して、人類が消滅するということになります。早くそのことに気づき、基本に立ち返ることが大事です。今年は秋野菜が大豊作でした。白菜の代わりにキャベツを使った鍋も絶品です。現在白菜やキャベツが高いので隣近所や友人におすそ分けしています。
2024.11.25
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自分は人の思惑ばかり気になる。いつも人の動向が気になる気の弱い人間である。自信を持って積極的に行動できない。いつも他人の思惑が気になる。人が恐ろしくて雑談の輪に加われない。異性と気軽に話すことができない。自分はいつも仲間外れにされて孤独である。人前にいるよりも一人の方がほっとする。そんなふうに自分のことを感じて、そうでない自分に変身しないといけないと考えているとしたら、葛藤や苦悩が始まります。仮にできたとしても、いつも人前で明るく、楽しい自分を演じているととてもストレスを感じます。それは自分を押し殺して、いつも他人の言動に一喜一憂しているからです。本来の自分とは違う自分を演じているからです。自分の人生を生きていないからです。そんなことを思っている人がまず心がけたいことは、そんな自分の事実を素直に認めてやることです。人のよい点と自分の欠点を比較して価値判断をしてはいけません。他人の思惑を敏感に気にする、現実の自分をよく自覚することです。もっといいのは、自分はそういう「特徴」を持っている。そういう「個性」を持っている人間であると認識することです。そこがこれからの人生の出発点となります。そうした自覚ができてくると不可能なことを可能にしようとする努力はしなくなります。その個性をいかに活かしていくという方面に意識が向いてゆきます。成長してゆける道が開けてきます。自分の特徴や自分ができることは何かを考えるようになります。それを活かして生きてゆこうとするようになります。自分の元々ある「特徴」や「個性」を活かして人生を楽しむことができたり、人の役に立つことができるようになると目の前の視界はずっと良好になります。人の思惑を気にして、小さい事が気になるという心配性は、反面「するどい感受性」を持っているということです。人の気持ちもよく察することができるし、芸術や文化、スポーツの方面でも活躍できる素質があるということです。孤独であるという事は、人の意見に煩わされないで、一人で思索して、より深く分析できることです。その特徴を最大限に活かしてやればよいのです。また、孤独であるということを活かして自分だけの生活を楽しむ方法はいくらでもあります。孤独であると自分を否定して、卑下する必要は全くありません。孤独でないとできないこと、孤独を活かして楽しむということ、これをまず前提として、しっかりと土台を築いてゆけばよいと思います。その土台がしっかりしていれば、なんとか生きていくことができます。若いうちは苦しみでのたうちまわっていても、森田理論でそのからくりが分かってくれば、しだいに味わいのある人生に変わってゆきます。
2013.08.18
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