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論語に「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉がある。森田先生もこの言葉を引用している。修養のすすんだ人は、人の気持ちを思いやったり、協調して仕事や家事などをなすことができる。でも、決して人の道に外れたこと、道理にはずれたことに同調することはない。また自分の正直な気持ち、意見、意志、希望はしっかり持っている。安易に妥協して、相手に合わせるということではない。相手の思惑に合わせて我慢したり、耐えたりすることではない。ここで大事なことは、自分の感情、五感の感覚、気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意志、希望を大切にすること。それらを第一に優先して考え、行動していくことではなかろうか。自分の気持ちが楽か、自分の体が楽かを重視する。自分の気持ちに正直に向き合うということです。どんな自分であっても認める。理想としては自分を大好きになる。自分のどんな感情、どんな気持ちも受け入れて味わい、実感する。自分の意志を尊重し、それを実感する。自分のために、自分を自由に表現して生きる。そのためには、自分の気持ち、感情に気づく自分の○○したい。○○したくない、といった欲求に気づく自分の「好き嫌い、快、不快」といった感情を基本にする相手よりも、自分の意思を優先する自分の気持ちを基準にして「断る、引き受ける」を心から認める。これは自分中心の生き方です。森田で言う「生の欲望の発揮」です。まずは車のアクセルを踏み込むことに力を入れる。これが重要です。我々は少しスピードがでればすぐにブレーキを踏みこむ習性があります。だからこの際ブレーキをかけることは忘れてもよい。アクセルを思い切って踏み込むことによって、はじめてバランスがとれた正常な状態に戻っていくのだということを意識するべきだと思います。我々の当面なすべきことは、ブレーキをかけることではありません。アクセルを思い切って踏み込むことなのです。
2015.01.31
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精神科医の高橋伸忠さんのお話です。Kさんという50代の独身の女性がおられました。3年ほど前から耳鳴りがひどくて、10か所以上の大学病院などで精密検査を受けられました。どこに行っても「耳や脳にはまったく異常がない」といわれました。でも本人はつらいのです。「耳鳴りは雪が降っても蝉が鳴く」というような苦しさがあるのです。心理的な影響を疑った耳鼻科の医師が、精神科医の高橋さんを紹介したのだそうです。心理療法のおかげで長い間治らなかった耳鳴りが、1週間前からすっかり解放されたそうです。しかし耳鳴りが治った途端にその女性は自殺されたというのです。普通に考えると耳鳴りが無くなったのだから、自由に生活を楽しむことが出来そうな気がします。この方は、耳鳴りを治すことが唯一最大の目標になっていたのではないでしょうか。ひょっとしたら耳鳴りはなくならないかもしれない。一生耳鳴りを抱えて生きていくなんて耐えられない。と思っておられたかもしれません。ところが心理療法のおかげで、思いもかけないことに完治してしまったのです。すると途端に生きる目標を失ってしまったのです。これは森田で言う手段の自己目的化が起きていたのです。神経症に陥っている人も同じようなことが言えます。私は対人恐怖でしたが、苦しんでいる時はとてもつらいものです。なんとか取り除きたいと思うのは当然のことです。そしてそれだけにとらわれて30年も40年も苦しんできたのです。それだけに注意を集中させて、精神交互作用でどんどん増悪させてきたのです。今は森田理論学習のおかげで、そのからくりと進むべき方向が分かります。つまり症状はある程度抱えたまま、日常茶飯事を丁寧に物そのものになりきってこなしていくこと。そして行動実践する中で見つけた、課題や夢や目標に向かって努力していくこと。人生においては症状をなくすることに集中していくよりも、その方がはるかに意義があるということでした。症状を抱えたままその方に舵を切っていくことができるようになると、一つの能力を身につけたということです。その能力はプロスポーツで注目される人と同じように、素晴らしい特殊技能の持ち主として人の役に立つ仕事ができます。今神経症で苦しんでいる人はその能力を身につけるようになるとよいのです。高橋医師は「何の症状もない百点満点の健康」を生きる目的にしてはいけないと言われています。気になる症状があったら、早めに医師の診断を受けることはごく当然なことです。しかし、複数の医師から異常なしと言われたら、それ以上こだわらないことが大切である。現代は「一病息災」ではなく、「二病息災」、「三病息災」の時代です。いくつもの病気を抱えながらも、前を向いて、人の役に立つ生き方をしてゆきたいものです。(幸せの見つけ方 高橋伸忠 PHP 175ページ参照)
2015.01.30
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鴨長明の方丈記の書き出しである。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。(現代語訳)川の流れは絶えないが、それは、もとの水とは違う。よどみに浮かぶ泡は、消えたり生まれたりして、長く残っているものはない。世の中にある人、家も、またこのようなものである。つぎは平家物語の書き出し部分である。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり沙羅双樹(らしゃそうじゅ)の花の色 盛者必衰の理をあらわすおごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとしたけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ(現代語訳)祇園精舎の鐘の音には、永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある。まんじゅしゃげの花の色は、栄えたものは必ず滅びるという法則を表している。権力を持ったものも長くその権力を持ち続けることはできない。それは春の夜の夢のようだ。 強い力を振るったものも結局は滅びる。それは風の前にあるちりと同じである。この二つは森田理論の「変化流転」「流れにのる生き方」を分かりやすく説明してくれている。世の中のものは絶えず変化している。変化を嫌がり、同じところにとどまる、固定して動かないということはできない。それはすなわち死を意味する。自然の流れにのって生活することが一番安楽な生き方となる。変化を読み変化を先取りする気持ちで生活することが肝心である。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは変化に対応できる生き物だ」という考えを示したといわれています。森田先生は変化に対応するには、体操の時の休めの姿勢の重要性を説いている。つまり、片足で全身の体重を支え、他の方の足を浮かして、つま先を軽く地に触れている態度をとると周囲の変化に対して、迅速に適切に反応することができる。電車の中でも、休めの姿勢で立っていると、吊皮などを掴む必要はなく、読書ができる。電車の動揺にも、決してじたばたすることはない。そのうえ、降りる駅や乗り換え場所を間違うこともない。スリに遭うこともない。手荷物を忘れたりすることもない。変化に対応するということにフォーカスするだけで神経症は克服できると思う。症状は気になるが、いつも横においておくという態度で生活するのだ。そして目の前に起きる変化を読み、変化に即座に対応する態度で生活するのだ。神経症の症状は、いちいちその場で解決して、気分をすっきりとさせて、初めて次に進むというのは間違いだ。不安を抱えたままで、その時その時のなすべき課題に取り組むのである。これは多少難しいが、これができれば症状と縁が切れる。
2015.01.29
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人間の身体はレンターカーを借りているようなものです。あるいは市民菜園を借りているようなものです。あるいは賃貸住宅を借りているようなものです。そう考えられるようになると生き方が変わってくるような気がします。自分の身体は心と一体になっているけれども、自分の所有物ではない。人様のものである。人様からある一定期間、お借りして預かっているのだと考えると、自由自在、自分勝手に使用することはできません。レンターカーや賃貸住宅は返却する時に必ずチェックが入ります。その時傷をつけたり、故障していれば損害賠償を請求されます。使い方が悪ければ、そのつけはわが身に降りかかってくるので、慎重に取り扱うことになります。また借りているものは、嫌になったからといって勝手に処分することは許されません。借りたものは、自分のものではありません。いずれは相手に返さないといけません。返す時に大事に使い、借りた時よりもよりよい状態で返却できれば、自他共に喜びます。また借りたものは、見てくれが悪い、性能が劣ってダメだということはいうことは考えなくなります。自分の好み、予算に応じて、納得して借りているからです。使用するに際しては、レンターカーは傷つけないように大事に使わせてもらう。そして無茶な運転はしなくなります。元の状態に戻してレンターカー店に返却しようとします。市民菜園では、土づくりをして、借りた時よりももっと良い土壌にして返してあげる。この方が農作物もよく育つし、返してもらった人も喜びます。反対に、この身体は自分の所有物だと思っていると、扱い方が雑になってきます。少しでも気になるところがあると、否定するようになります。そして、もっとよい持ち物に買い変えようとします。それは性能のよい新品の自動車をもっている人と比較して優劣の価値判断をして自分を見くびっているようなものです。そして自己嫌悪、自己否定するようになります。これは「かくあるべし」を前面に押し出して、自分の思いのままにコントロールしようとしているのです。もともと持っている存在価値を否定して、利用価値、経済価値、評価価値で自分自身を評価しているのです。これは大変不幸なことです。自分の身体は自分と一心同体ではありますが、いずれは自然の創造主にお返しするものなのだ。そういう視点に立って、自分自身と向き合えば生き方はだいぶ変わったものになります。これは自分の身体だけではありません。自分たちが産んだ子供たちも同じことです。自分の所有物だと考えると、自分たちの子どもだから自由にしつけや教育をして何が悪いということになります。「かくあるべし」を押し付けて育ててしまいます。自分たち親は子どもが生まれてくるきっかけは作りました。でも子どもは自分たちの所有物ではありません。子どもたちが一人前になって一人で生きてゆけるまで、お預かりしているものなのです。そういう考えに立てば、子どもとどう関わっていけばよいのか自然に答えは出てきます。児童虐待、育児放棄、過保護、過干渉に陥ることはなくなると思われます。そのためにこそ森田理論の学習をされることをお勧めします。
2015.01.28
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私は自己中心でどうも相手への思いやりがなくてダメな人間だという人がいます。そういう自分が嫌だというのです。そういう人の頭の中には、自分のことはさておいて、困った人がいればすぐに助けてあげたいという気持ちがあるのです。他人中心の気持ちが強いのです。それは果たして良いことなのでしょうか。ホームから落ちた人を助けるために飛び込んでいく人がいます。川や海でおぼれた人や流されている人を見ると救助に行く人もいます。火災の中取り残された家族やペットを助けるために飛び込んでいく人がいます。それはそれで素晴らしいことです。それは多くの人から賞賛されます。私も否定はしません。それはとても勇気のいることです。でも普通は多くの人は見て見ぬふりをしているのです。なんとかしてあげたいと思いながらも手も足も出ません。それは自分がかわいいからです。人間には強い自己保存欲求が備わっているからです。自然の創造主はすべての人間を自己中心に作っているのです。それが偽らざる事実なのです。すべての人間はもともと自己中心的にできているのです。そう考えることができれば納得できます。だから恥じたり、罪悪感を持ったりすることはありません。むしろ自己中心に磨きをかけることを提案します。言い換えれば、自分の正直な気持ちを押さえつけたり、我慢したり、耐えたりすることはまちがいのような気がします。相手の思惑に沿うように考えたり、行動することは考えものです。これは相手の機嫌を損なわないように、相手に好かれるように思考したり行動するために、自分の気持ちを無視したり、抑圧したり、否定して生きることになります。相手に合わせて生きることです。これは自分中心の生き方を無視して、他人中心の生き方を基本にしているので苦しくなるのです。ですから大切なことは、自己保存欲求に従ってどこまでも自己中心を貫くことだと思います。これが出発点です。基本です。自己をないがしろにして他人中心の生き方は「偽物」だと思います。「人」と「為」をくっつけると「偽」(にせもの)という字になります。生き方が自然ではない。人間本来の生き方ではない。「偽物」ということになります。森田では自分自身の好奇心や興味に沿って、意思、思い、目標、希望を前面に出す生き方を勧めています。これを「生の欲望の発揮」といいます。それを追及していくことが一番です。その次に、生の欲望には必ずそれを制御する気持ちが湧きあがってきますので、それを活かして、欲望とのバランスをとった生活を心がけましょうと言っているのです。この順序を守ることはとても意味があると思います。
2015.01.27
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葬儀社の人が教えてくれました。昔の遺体は軽かった。まさに枯れ果てたという感じがしていた。最近の遺体は重い。棺桶に入れるのも難儀をする。いいものを食っているからだろうか。そうではない。特に身体が不自由になり認知症のあるような老人が、そんなにがつがつと食べるとは思えない。その原因は亡くなる前の病院での治療にあるのである。病院で死を迎える前は完全看護である。皆さんも家族や知り合いが入院されている病院に見舞いに行かれることもあると思う。すると患者は酸素マスクをつけられ、何種類もの点滴をうたれ、ビニールチューブをいくつも装着されている光景を見せられることになります。ものが食べられなくなると完全な医療措置が施されているのである。つまり物言わぬ患者に代わって、医師があらゆる手段を使って水や栄養や酸素を与えていくのである。2011年2月の老年医学会で85歳以上のものがのどを通らなくなったアルツハイマーの患者にどう対応しているかという調査があった。1554人の医師の答えはこうだ。何もしない10%、胃ろう(腹に穴をあけて、そこからチューブを通して、水分や栄養を補給する)21%、経鼻チューブ(鼻から胃までチューブを通して水分や栄養を送る)13%、手や足からの点滴注射で水や栄養を補給する。51%である。点滴注射は絶対に必要だという医師は38%であった。これらの処置をしないと医師は家族からどういわれるか。医師が患者を見放した。手厚い医療を施してくれなかった。藪医者だ。極悪非道の医師というレッテルを張られて隣近所に言いふらされるのである。そんなことをすれば医師の死活問題になる。また医師の方も、家族がもうこれ以上の処置を望まないというと、「餓死することになります」「殺人罪にあたりますがそれでもよろしいのですか」と言われることもあるそうです。これに異を唱える医師がいる。中村仁一医師である。人間というのは、死に際というのは何らかの医療措置をおこなわなければ、夢うつつの気持ちのいい、穏やかな死を迎えるようになっているのだ。それが自然の仕組みとしてもともと備わっているものなのです。側で見ていて、苦しんでいるようで見ていられないというのは認識の誤りだというのだ。それはなぜか。栄養を与えないと飢餓状態になります。また酸素マスクをつけないと酸欠状態になります。すると脳の中では脳内モルヒネが分泌されます。脳で分泌されるモルヒネというのは痛みを和らげる物質です。また水を与えないと脱水状態になります。脱水状態になると意識が遠のいて、夢うつつの状態になります。そして、呼吸困難になりますと、炭酸ガスが体外に排出されなくなり体内にたまります。炭酸ガスは麻酔作用があります。そのおかげで側ではつらそうに見えていても本人はほとんど痛みと苦しみはないのです。自然死というのは理にかなっているわけです。ところが医療措置をすればするほど患者に痛みや苦痛を与えていることになるのです。例えば経鼻チューブというのは違和感があり、患者さんは嫌がるものだそうです。無意識にチューブを引き抜こうとするので、今度は手足を縛って対応するのだそうです。これは一種の拷問ではないでしょうか。水、栄養、酸素を与えるということは、脳内モルヒネの分泌を抑制し、五感を刺激して、七転八倒の痛みや苦しみを感じやすくしてしまっているのです。患者さんは正味痛みや苦しみと闘っているのです。それは最愛の家族に対して、「今まで散々迷惑をかけてきから、せめて死ぬ時ぐらいは楽に思い通りにはさせないぞ。苦しみぬいて死なせてやる。」と言っている事と同じことなのです。これは医者も家族も事実を知らないで、「かくあるべし」に取りつかれている結果だと言えます。森田で言う事実をよく確かめるというのは死に臨んでも言えることです。(大往生したけりゃ医療とかかわるな 中村仁一 幻冬舎参照)
2015.01.26
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夏目漱石は小説「草枕」でこう書いている。「山路を登りながら、かう考へた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」小説家というのはうまい表現をするものだ。これを森田理論で考えてみたい。「智」というのは、「智恵」に通じる。辞書を見ると、智恵とは、物事の道理がよく分かって、きちんとした判断ができて、いろいろなことをうまく処理できることとある。つまり今までの教育や経験によって得た知識を、大脳新皮質の判断力によって物事を適切に処理しようという態度のことである。これを相手に押し付けることを、森田理論では「かくあるべし」と言っている。どちらかというと相手の言うことを聞こうとしないで、自分の頭で考えた理屈で相手を打ち負かしてやろうという態度である。自分の「かくあるべし」を相手にぶっつけていこうとすると、最後には反発されて喧嘩になるだろう。森田が最も嫌うところである。「意地」とは自分の考え方を無理やりに押し通そうとすることである。「智」よりももっと深刻である。「意地悪をする」「意地をはる」「意地きたない」「意地っ張り」などの言葉がある。いずれも自己中心的で、陰湿ないじめや融通性のなさを連想させる。これも「かくあるべし」を相手に強力に押し付ける態度のことである。非難、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒りの言葉に近い態度をとることである。「情」とは、心に感じる働き、目に見えるさま、男女のいとなみ、おくゆかしいおもむきとある。感情、感性、情熱、人情、愛情、実情、表情、旅情等という言葉がある。森田では、喜怒哀楽などの感情、相手を思いやる人情ということがよく出てくる。森田では理知と感じの取り扱いは明確である。森田先生曰く。我々の日常生活は、実際において、まず第一に、時と場合における「感じ」から心が発動し、種々の欲望が起きる時に、それに対して、理知により、理想に従いて、自分の行動を調整していくのであって、すなわち第一が「感じ」で、次に理想が働くのである。それを反対に理想を第一にして、それから「感じ」を出そうとしてはいけない。(森田正馬全集第5巻405ページ)例えば、酒が好きか嫌いから出発する。嫌いな人は、酒をすすめるとき、「どうしてこんなものが飲めるのだろう」という気持ちでつぐと無理がゆかないで、酒好きもうまく飲まれるが、「あの人は酒が好きだから」と自分の嫌いということを離れて考えると、加減なしにやたら追いかけ追いかけ酒をつぐので、酒好きでもたまらなくなる。自分の好き嫌いという感じから出発すると、相手の立場に自分を置き換えて考えることができて思いやりということができる。相手と気持ちが通じる。同情心がでてくる。(森田正馬全集第5巻696ページ)ここではっきりしておきたいことは、理知がよいとか、人情がよいとかということではない。両方とも大切なのである。要はその活用方法が問題なのである。いつでも感じを第一におき、次に理知で調整しながら生活するというスタイルを踏襲するということが肝心なのである。喜怒哀楽などの感情はそれほど大事なのだ。すると苦しいことは多々あるが、胃潰瘍になるほど悩むということはなくなる。苦悩や葛藤でのたうちまわることはなくなるのである。
2015.01.25
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日本マクドナルドの商品に異物混入事件があった。ビニール片、プラスチック、アクセサリー、人間の歯が入っていたというのだ。以前は正味期限切れの中国産鶏肉が問題になったこともあった。今回の釈明会見には、社長は出張のため欠席した。会社の社運を左右する記者会見を欠席するほどの出張があるのだろうか。取締役二人の釈明会見であった。会社の責任回避のような記者会見であった。この対応では悪印象を消費者に与えた可能性が強い。第2の雪印事件のようであった。この事件を元スーパーの店長をやっていたという知り合いに聞いてみた。スーパーではクレーマーいう人がいるそうだ。異物が入っていた。野菜に土がついていた。腐っていた。虫がついていた。萎れていた。あげの果てには、腹が痛くなった。どうしてくれるんだとクレームをつけてくる人だ。当然スーパーでは対応マニュアルを持っている。そういう対応専門の人をおいているところもある。私はそういう時、まず深々と頭を下げて陳謝するのが正当な対応ではないかと思っていた。その人が言うには、それはまずいい対応だそうです。というのは、事実関係がはっきりしないのに自分の非を認めることになるのだそうです。いったん自分の非を早々と認めると、以後の交渉は相手ペースになってしまう。スーパー側がいつも泣き寝入りをすることになる。そういう時は事実をしっかりと把握するという態度を持っていることが大切だそうです。初めてのお客様に対してはすぐに家にいってその商品をよく見る。言われているクレームの対象に対して正確に事態を把握する。そうしてはじめて対応策を考える。スーパー側に問題があれば相手に対してここで初めて陳謝する。そして再発防止策を立てる。何回もクレームをつけてくるお客さんは、クレームねらいで、あわよくばタダにしてもらったり、損害賠償をとってやろうとしている人が多い。「腹が痛くなった。どうしてくれる」と言われれば、「それはお悪うございましたね」「病院にはいかれましたか」「保健所や消費生活センターに訴えてやる」と言われれば、「どうぞそうなさってください。我々は引き留めることはいたしませんので。」等という対応になるそうです。スーパーは生ものを人間が扱っているわけですから、100%完全ということはありません。スーパーに非がある場合もあります。でもクレームが起きた時に、大切なのはどういうクレームなのかをこの目でしっかりと確認することなのです。お客様の言動に右往左往して、しどろもどろになり、とりあえず謝っておけばその場がなんとか穏便にすむだろう等と考えるのは気分本位な態度なのだ。安易であいまいな態度は問題をさらにこじらせていくのだそうです。そういえば交通事故を起こした時にすぐに相手に謝ってはいけないと聞いたことがあります。ましてやけんかを吹っ掛けてもいけない。まず自分や相手にけがはないか確認する。相手の名前や住所、会社名を確認する。車両の被害状況を確認する。周囲の被害を確認する。けががあれば救急車を呼ぶ。そして警察に連絡する。保険会社に連絡する。勤務会社に連絡する。家族に連絡する。確認することややるべきことにすぐ手をつける。どちらがよいとか悪いとか是非善悪の判断を自分たちでしてはならない。それは警察や双方の保険会社がすることなのだ。これは森田理論でいっている事と同じことだと感じました。事実をよく観察する。事実を把握する。事実を認める。大切なのはこのことですね。まさに事実こそが神様なのですね、
2015.01.24
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最近の動物園の動物舎は温度、湿度、日照時間もその動物の生息地に合わせてコンピーターで管理されています。スコールや雷鳴まで自動管理されています。当然食事も必要に応じて十分に与えられます。繁殖相手もあてがわれています。いたれりつくせいです。ところが、ストレスから解放されて、命が危険にさらされることがないにもかかわらず異常行動を示すことがあります。たとえばチンパンジーは自分の手の届く限りの毛をむしり取り、オウムは羽根を全部抜いて裸になってしまうのだそうです。胃潰瘍になる動物もいます。どうも精神状態がおかしくなっているような感じです。動物園の動物は、人間でいえば冷暖房完備の部屋で、テレビやステレオ、ゲーム機にかこまれて出前の寿司やピザを食べているようなものです。これ以上の事を望めば罰が当たるような生活です。どこの家でもよくある光景です。今の日本の子どもでいえば、充分な食べ物やおやつ、有り余るおもちゃ、携帯やゲーム機を買ってもらい、望外な金銭を与えられています。移動は車や電車、たまに家族で外食を楽しみ、そして年に何回かテーマパーク等に出かけています。普段はスポーツ教室、習い事、学習塾といかにも充実しているかのような日々を送っています。大人は数少ない子どもに何不自由のない生活をさせています。でもこれは、恵まれ過ぎた動物園の動物と変わりないのではないでしょうか。こんな話もあります。都会で暮らしている人が、田舎で一人暮らしになった親を都会に呼びよせることがあります。体が不自由になり、一人で暮らすのはさびしいだろうと思ったのです。一人で田舎に置いておくには忍びないという親思いの心です。ところがその親はストレスがなくて悠々とした生活が与えられた途端に、ボケが急速に進行していくというのです。それは都会に移り住んだものの何もすることがないのです。こんなにつらいことはありません。親切心が余計なお世話になってしまったのです。森田がよく言うところの日常茶飯事を丁寧にこなすことは面倒なものです。しかも毎日のことです。それは少なからず大きなストレスになります。ストレスは嫌なものです。ストレスをすべてなくしたいと思う気持ちも分かります。でもこれらのエピソードは適度なストレスは、生きていく上に必要なものであることを示しているのではないでしょうか。「夜と霧」の著者フランクルもストレスについてこんなことを言っています。「人間にとって警戒しなくてはならないことは、過剰なストレスが満ち満ちた、いわゆるストレスフルな状態よりも、ストレスがない心の状態である。」ストレスは人間に生きるエネルギーを与えているのです。適度なストレス状態は人間が生きるためのカンフル剤のようなものなのです。これは我々がなんとしても取り除きたいと思っている不安、恐怖も同じです。不安の裏には欲望があります。その欲望を教えてくれているのは不安です。また欲望が暴走しないように制御してくれているのも不安です。人間にとって不安はなくてはならない大切なものです。不安はストレスと同じように生きるエネルギー源となっているのです。不安常住の状態が精神を健康に保っているということは頭に入れておく必要があると思います。
2015.01.23
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ドイツの詩人カール・ブッセの「山のあなた」という詩です。山のあなたの空遠く「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみ、かえりきぬ。山のあなたになほ遠く「幸」住むと人のいふ。これによく似た話にメーテルリンクの「青い鳥」というのもあります。チルチルとミチルが、「幸せの青い鳥」を見つけにあちこち探し回りましたがどこにも見つかりません。やっと見つけた「幸せの青い鳥」は、自分の家の中にいたというものです。人間はどうも幸せを自分の生活の外にあるように錯覚しているようです。私たちは戦後、物質的に豊かな生活の実現が、人間が幸せになる唯一の道だと信じてきました。でもそれらを実現しても、心の底から幸せを実感することができません。空虚でむなしい気持ちに取りつかれてしまいました。有り余るものに取り囲まれながらも、曇天の中でモヤモヤと生活してるようです。そして今では、幸せそのものを考えることすらしなくなってきました。これは外部に自分の幸せを求めてみたが、実際には外部にはなかったということだと思います。これは贅沢な考えなのでしょうか。これらの詩や物語は、幸せというのは自分のこころの中にあるのだと言っているのだと思います。相田みつをも「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」と言っています。物質的な豊かさを求め続ける限り幸せは決してやってくることはない。自分の心が豊かにならないと決して幸せはやってこないと言っているのだと思います。では心が豊かになるとはどういうことなのか。森田理論で考えてみましょう。森田では「努力即幸福」と言います。「生の欲望」に沿って努力している状態がすなわち幸福そのものである。生の欲望というのはそんなに大それたことばかりではありません。まずは日常茶飯事、雑事と言われているものに真剣に取り組むことだと思います。ものそのものになって淡々と日常生活を積み重ねていくことだと思います。するとどんなことが起きるのか。まず感じが発生します。行動・実践する中に問題点や新しいことを思いつきます。思いもかけない気づきや発見があります。そしてしだいに感じが高まり、緊張感がでてきます。アイデアや創意工夫が生まれてきます。課題や目標が持てるようになります。それらに取り組んでいくとさらに新しい気付きが生まれて、意欲が高まり、生きがいが持てるようになります。しだいに生産的、建設的な生き方が出来るようになります。幸せは遠くにあるのではない。幸せは自分の生活の中にある。自分の心の中にあるというのはこのことではないでしょうか。
2015.01.22
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最近気になることが三点ある。まず最近、佐賀、岡山で鳥インフルエンザが相次いで発生した。佐賀はH5N8型、岡山はH5亜型と言われている。今や鳥インフルエンザは世界中で発生している。その中心はインドネシア、中国等をはじめとするアジアである。ウィルスが鳥から人へと感染するようになると大変だ。パンデミック(伝染病の世界的大流行)が起こると大変なことになるのは目に見えている。可能性は非常に高まってきているとみている。でもこれは正直防ぎようがない。神様に祈るしか手がない。次に大都市直下型地震である。プレート境界型と活断層地震の2種類がある。両方とも日本で起きる可能性がある。活断層も日本中にあることが分かっている。今や日本全国いつどこで起きてもおかしくない状況にある。特に恐ろしいのは長周期振動である。短期振動は振動が1回に往復する時間が1秒以内ぐらいと短い。長周期振動は1回に往復する時間が2秒から5秒ぐらいだそうである。つまり長くゆったりと揺れる地震である。特に大都市での長周期振動は、乱立する超高層ビルを倒壊させる恐れがあることが指摘されている。せめて地震予知能力を最大限に発揮してほしいものである。そして我々は耐震補強、家具の固定、避難訓練、避難経路の確保など事前に対策を立てておくことだ。それ以上は手のうちようがない。さて、最近イスラム国で日本人2人が誘拐された。身代金の要求は200億円以上である。どうにもやりきれない事件だ。イスラム国の言い分が私にはよく分からない。民族対立、宗教対立、先進国と後進国の対立等根深いものがあるのだろう。私には資本主義の悪い面が表面化して泥沼の様相を呈しているように思える。他人を犠牲しての欲望の暴走というのは、人類の滅亡を意味するような気がする。それがテロや紛争、戦争に発展しているのではなかろうか。
2015.01.22
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今シーズン広島カープに復帰する黒田博樹投手は大リーグの年俸20億円を断った。そして今年の年俸は4億円である。金銭ではない。ファンに勇気を届けたい。黒田投手の心意気に拍手である。資本主義の経済第一の考え方からすると異例である。利潤追求第一主義の功利主義とは相いれない行動である。でももうそろそろ経済第一主義、最大利潤の追求ばかりで突き進むと、地球上の環境汚染、森林破壊が進み、テロや核戦争などがおこり、人々の心の荒廃が蔓延して人類の生存はもはや絶滅に近づいている事を多くの人が感じ始めているのではなかろうか。黒田投手の行動はそういう意味の警鐘として受けとれないだろうか。昔もこうした考え方をして生きた人がいた。私がよく取り上げる良寛さんである。良寛さんは、岡山玉島の円通寺で国仙和尚より印可を得ているので、どこかの寺の住職になれた身である。それを放棄しての乞食僧としての生活を選択されたのである。そして50歳近くになって、全国を放浪したのち生まれ故郷の越後に戻ってきた。最初生まれ故郷の出雲崎から3里ばかりの海辺の空庵に住んだ。それを伝え聞いた家人が良寛を連れ帰ろうとするが絶対に聞かない。そこで、着物や食糧をおくろうとしたが、こんなものをもらっても仕方がないと全部返してしまった。それどころか托鉢で余分にもらった食料は人にあげたり動物に与えていたという。その日の食料、その日の薪があればよしとされていたのである。それは日常の食べ物だけではない。生活用品はほとんど所有していない。無所有の生活であった。良寛さんは豊富な知識さえもみんなにひけらかすことはなかった。実は良寛さんは万葉集の研究、懐素の書の研究、寒山の漢詩、そして道元の「正法眼蔵」、老子や荘子の研究は当時としては一流の学者であったのだ。残された作品がそのことを物語っている。当代一の知識人であったのである。その人となりは子どもたちや村人からとても愛されていた。子どもや無学な農民は、本当にやさしいととそうでない人はシビアに見分ける能力を持っている。良寛さんはそれだけの人間性のオーラを醸し出していたのである。現代人が便利、快適、飽食三昧、快楽追及、所有欲、名誉欲、権力欲に翻弄されてうつつを抜かしているのとは異質である。私たちがそうした欲望の充足のためにあくせく働いているのとは次元が違う。良寛さんはどんなことを考えて生活されていたのであろうか。このことに関して中野孝次氏は次のように言われている。「便利・快適というものは、たしかに生活を非常に楽にした。今は越後平野のどこに行っても、冬は充分な暖房があり、車による交通・買い出しはいつも可能であり、冬の脅威はない。だが、そうやって苦しみ、つらさが減じた分だけ、春の到来というなんでもない自然現象が与える喜びも減ってしまった、と言わざるをえないだろう。現代は苦しむことを絶対悪のように見なし、苦の原因はたちまち排除されるが、その代償として、自然の与える喜びを享受する感性は、便利・快適になった分だけ薄くなっていく。このことは自然体験だけではない。人生そのものの味わい深さについても言えるのではないか。」現代の日本人の生活というのは、便利、快適、飽食、所有の生活にどっぷりつかっている。欲望が欲望を産み、それが加速度を増してもう後戻りができない段階に突入しているのではないか。それはギャンブル依存、アルコール依存、薬物依存と何ら変わりがない。人々はみんな欲望依存の時代に突入しているのである。そうした欲望の充足一辺倒の生活の中で、本来人間にそなわった鋭い感性、人を思いやる人情、生きる喜び、ゆとりといったものはどんどん鈍ってきて、しだいに失われているのではないか。もはや生きる喜びは感じられなくなり、生きること自体が苦痛になっているのではないのか。本来人間は遊ぶために生まれてきたのである。苦しむためではない。楽しむために生まれてきたのである。そんな生き方であなたは満足できるのですか。それで果たして人生を謳歌できるのですか。黒田投手や良寛さんの生き方はそんなことを問題提起されているのではないだろうか。最後に良寛さんの短歌を紹介しましょう。埋み火に足さしくべて臥せれどもこよひの寒さ腹にとほりぬ(冬の五合庵で筵の上に布団を敷き、残り火に足を入れて寝ても、寒気はしんしんと身体に透り、寒さが腹の中まできたというのだ)飯乞うとわが来しかども春の野に菫摘みつつ時を経にけり(托鉢に出かけたところ、近くに咲き乱れるすみれの花の可愛さに我を忘れて見惚れて時を過ごしました)つきてみよひふみよいむなやここのとを十とをさめてまた始まるを(人の世の営みは、昨日から今日へ、今日から明日へ、過去から無限の未来へと棒のようにつながり延びているだけではない。来る日一日一日がすべてだ。昨日は去ってすでになく、未来はまだ来ずして存在しない。あるのは生きている「今ここに」の時だけであり、その時をひふみよいむなと力をこめ、全身心できていくことが、生きているということだ)風の良寛 中野孝次 集英社一部引用
2015.01.21
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「八甲田山」という映画ある。高倉健、北大路欣也等そうそうたる役者が出演している。この映画の元となった事件があった。1902年1月日本陸軍青森第8師団歩兵第五連隊の雪山遭難事故である。参加者210名のうち199名が死亡している。実は同時に弘前歩兵31連隊38名も逆コースで冬の八甲田の雪中行軍に参加して全員帰還している。雪中行軍が行われた時は、未曾有の寒気団が日本列島を襲っていた。青森市内でも最低気温氷点下12.3度、最大風速14.3mであり、おそらく八甲田では氷点下20度以下、風速はそれ以上と推定される。両者の生死を分けたものはなんだったのか。考えられる原因は下記のようなものである。1、 弘前隊は38名と少人数で最後まで統率力を失わなかった。一方青森隊は210名という大隊であり、指揮官が何人もいてそれぞれ違う指示を出しており、統率力があいまいであった。2、 弘前隊は地元の案内人7名を付けていた。一方青森隊は案内人がいなかった。3、 弘前隊は過去2年間にわたり岩木山で雪中行軍の訓練を重ねていた。隊員の荷物は必要最低限とし、食料や藁靴等の消耗品、宿泊を現地の民間に委託していた。青森隊は厳冬期の八甲田における防寒の知識は皆無であった。予備行軍では晴天に恵まれ遠足のようで雪中行軍を楽観的にみていた。前日は壮行会が行われており、深夜まで宴会をしていた。当然、心構え、装備も着衣も不十分であり、民間委託は考えもしなかった。4、 弘前隊は天候不慮の時、深さ4メートルの穴を掘り、露営地で待機していた。体力と天候の回復を待っていた。青森隊はパニックに陥りやみくもに彷徨を繰り返し、体力を消耗していった。無駄な行動で気力がなくなり最後は力尽きた。この事件から、森田理論を学習するものとして学ぶことがある。まず森田理論は充分に研鑽を重ねて、森田を実際に応用している人から学んでいくことが大切であるということだ。リーダーを選ぶことだ。協力者を持っているということだ。そして最初は物まねから入っていくことだ。それから自分の形を作っていくことだ。そうしないと自分勝手になってしまう。つまり基本が身につかず自己流になってしまう。そうなると森田の考え方、生活が身につく前に森田に見切りをつけてしまう。実にもったいないことである。知識の浅い人ばかりだと、受容と共感は持てるが、森田理論の深耕には結びつかない。次に、森田理論の学習は手あたりしだいにするものではない。まず基礎編の学習を積み重ねる。次に森田理論体系の全体像を学ぶ。全体像の骨子は4点である。これはすでに何回もこのブログで紹介してきた。この4点の深耕と相互の関連性の学習を徹底する。最後に森田理論のキーワードで肉付けをしていく。そしていよいよ森田を生活に応用していく。これを3年ワンサイクルとして取り組んでみる。そうすれば急速に力をつけることができるはずだ。そして、不安というのは大きくてその数が多ければ、役に立つということである。この認識を持つこと。不安というのは手を出さなければならないものと絶対に手を出してはいけないものがある。ここでの不安は絶対に事前に手を出して問題点の対策を立てて、準備を重ねておくことばかりである。青森隊はそういう不安が全く湧きおこらなかったということが問題である。そういう意味ではこの事件は、天災というよりも人災であった。反面弘前隊の福島大尉は不安を以前に察知して、周到な準備ができていたことが雪中行軍の成功に結びついたといえる。
2015.01.20
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神経症の人は物事を両面感で見ることができません。物事にはプラス面とマイナス面がありますが、マイナス面ばかり見てしまう傾向があります。たとえば訪問営業の仕事をしているとします。プラス思考の人は、断られてもそんなに心にダメージを受けません。自分に必要ないものなら断る、という相手の自由を認めることができます。断られたからと言って表情が一変するということはありません。必要としている人を早く見つけて、契約を勝ち取るぞと一生懸命になります。過去の成功体験を思い出して、アプローチ、商品の説明の仕方、締結の言葉などをさらに工夫してゆきます。そしてさらに成功体験を積み重ねていくことができます。セールスの仕事ほど面白いものはない。体を使ってしんどい思いをしなくても済むし、契約をとれば達成感も味わえるし、会社での評価も上がる。ライバルとさらに競って成績を伸ばしたい。プラス思考の人は、面白そう、自分もやってみたい、どうしたらできるのだろうかと前向きな考え方です。これをマイナス思考の人はこのようには考えません。めんどくさそう。自分には出来ない。難しすぎる。やりたくない。先入観でもって無意識のうちに拒否しているのです。こんな状態で、訪問セールスに出かけると、最初から逃げ腰となっています。自分を守ることに神経を研ぎ澄ましているのです。きっと相手は冷たい言葉で断ってくるに違いない。断られるのが怖い。傷つくのが怖い。だから訪問したくない。断られると、相手を人間性のかけらもない非情な人間とみなしてしまいます。表情も一変して、怯えてしまっています。その態度を見て相手は、ますます劣悪なセールスマンだと思ってしまうのです。悪循環が延々と繰り返されるのです。無意識のマイナス感情は、表面上どんなに取り繕っても顕在化してくるのです。いつもマイナス思考をする人の特徴は、森田で言う「生の欲望の発揮」という気持ちを持つことができません。自分を防御することばかりに注意を向けています。サッカーでいえば、攻撃するのを中止して、ゴール付近に選手を集めて防御を固めている状態です。絶対に相手に負けることはないはずだと思っている状態です。でも何かの拍子にゴールを割られると立ち直ることができないほど落ち込んでしまいます。また仮にゴールを割られないとしても、絶対に勝つことはできません。勝とうとする意志を持っていないからです。サッカーは勝とうとする気持ちとゴールを守るという2つのバランスがとれていないとダメなのだと思います。森田では、このバランスの学習は、「欲望と不安の関係」「精神拮抗作用」を深耕することです。そして認識の誤りを自覚することから始まります。
2015.01.19
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「満月の夕」という歌がある。20年前1月17日神戸をマグニチュード7.2の巨大地震が襲った。寒い日だった。一瞬にして建物が倒壊して、火災が発生して街は廃墟と化した。多くの人は肉親を亡くし、家も失った。その日の夜は満月だったそうだ。人々は満月を見るたびに地震の恐ろしさを思い出す。この歌はそんな状況を歌ったものだ。沖縄の三線が物悲しい。風が吹く港の方から焼跡を包むようにおどす風悲しくてすべてを笑う乾く冬の夕時を超え国境線から幾千里のがれきの町に立つこの胸の振り子は鳴らす今を刻むため飼い主を失くした柴が同胞とじゃれながら車道を往く解き放たれすべてを笑う乾く冬の夕ヤサホーヤうたがきこえる眠らずに朝まで踊るヤサホーヤ焚火を囲む吐く息の白さが踊る解き放ていのちで笑え満月の夕星が降る満月が笑う焼あとを包むようにおどす風解き放たれすべてを笑う乾く冬の夕ヤサホーヤうたがきこえる眠らずに朝まで踊るヤサホーヤ焚火を囲む吐く息の白さが踊る解き放ていのちで笑え満月の夕この歌はなんか自然に涙がでてくる。震災地では多くの人がこの歌を聞いて励まされているという。これ以上ない過酷な運命に翻弄されたにもかかわらず、なんか勇気が湧いてくる歌だ。すべてを受け入れて、運命を切り開いていこうとするその姿に人生そのものを見るのかもしれない。
2015.01.18
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私は事実を4つに分けています。4つに分けて事実を見るようにすると理解が進みます。1、 自然にわき起こってくる感情の事実です。森田理論学習では主としてこれを扱っていると思います。2、 自分の素質、容姿、性格、弱み、ミスや失敗などの事実3、 他人の自分への仕打ち、他人の素質、容姿、性格、弱み、ミスや失敗などの事実4、 自然災害や伝染病、戦争、経済の変動、食料やエネルギー不足、世の中の出来事私は今の事実は何番の事実のことかなと考えるようにしています。そうしないと整理がつかなくて混乱してしまいます。事実には大きく分けて4つの視点がある。これを頭に入れて、人の話を聞いているととてもよく整理できます。1番については欲望があるので不安、恐怖などがでてくる。不安、恐怖は自分にとっては大事なものであるから排除してはいけないし、もともと排除できないものです。「かくあるべし」があると、不安は無限大に膨らむ性質がある。「かくあるべし」を小さくすることが大切だと思っています。感情の事実を受け入れるためのノウハウは、森田理論が理路整然と説明してくれています。2番については言い訳、弁解、隠し事をしないで自分の事実を素直に認めるということです。すると次へ進むことができる。これが一番安楽な生き方になります。認めないと思想の矛盾に陥りいつまでも苦しむことになるのだと思っています。ネックなるのは、是非善悪の価値判断を持ち込むことです。それはとりもなおさず、「かくあるべし」で自分をがんじがらめに拘束することになります。3番については、他人に対して批判、指示、命令ではなく、私メッセージの活用を常に意識しています。その他親業の学習が役に立ちます。「純な心」から出発するというのは、「かくあるべし」からの言動を押さえて、第一に湧き起ってきた感情から出発することを言います。他人の理不尽な仕打ちに対しては、いいとか悪いとか価値判断しないで、その事実を認めることに注力します。4番については、事前に不測の事態を察知したときは可能な限り対策を立てて実行するようにしています。不安は安心のための用心であるというのはそのことです。それでも災難がふりかかってきたときは、それは受け入れてゆくしかないと思っています。好むと好まざるにかかわらず受け入れざるを得ないのです。
2015.01.18
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NHKで「サイレントプア」というテレビ番組を見た。「サイレントプア」とは、物言わぬ心の貧困の蔓延というような意味だろうか。現代の時代をうまく表現しているような気がする。50代の引きこもりの人の話だった。男性である。自分の部屋にずっと引きこもり、本を読んだり、パソコンゲームをして過ごしてきた。かれこれ30年になる。家族と顔を合わせることはめったにない。食事は母親が作り自分の部屋の前まで運ばせて、自分一人で食べている。この方のお父さんは、自分たちが亡くなったあと、その子が生きていけないのではないかと大変心配しておられた。そのことを子どもにもろにぶっつけていくので絶えず喧嘩になる。大学受験に2回失敗したとき、父親から「お前は人間のクズだ」と言われた。また絵描きになりたいと言った時、父親は息子が今まで描きためていた絵画を勝手にすべて焼却した。美術大学に進学することが許せなかったのである。絵描きでは食っていけないと決めつけていたのだ。有名大学に入り、一流の企業に就職して、人がうらやむような人生をおくることが親の務めだと思っていた。息子と父親が第三者に会った時、息子に質問されたことにもいちいち父親が口出しをしていた。森田で言う「かくあるべし」で子どもを教育してきたのである。親の是非善悪の価値判断を子どもに押し付ける教育である。非難、説教、命令、指示、禁止、叱責のオンパレードである。反対に息子の味方になる、存在を認める、ほめるということはしない。だからいつまでも自分に自信が持てない。いつも父親の顔色をうかがう。そのつけが息子の長い長い引きこもりに影響を与えていたようである。ドラマの最後には、「お前の人生をめちゃくちゃにしてきたのは私だった。申し訳なかった」と父親が息子に謝っていた。そして、息子が小さい時初めて自転車に乗った時、転ばないように後ろでずっと荷台を支えていた。そうしないと倒れて怪我をするのではないかと思っていたのだ。でもある時手を離した時、息子はすいすいと自転車を乗り回していた。何もしないで見守っているだけでよかったのだ。それなのに父親は息子のすることなすことが気になって、何かにつけて口出ししてきた。今になって思えば、ガミガミと口出ししないで、見守っているだけにすれば良かった。としみじみと語っていた。父親が膝をついて謝罪したことで、息子も感極まって泣いていた。ついでに私ももらい泣きしてしまった。それから息子は絵を描きはじめた。両親から離れて一人で暮らすことにしたようでした。多分アルバイトでも始めるのだと思います。森田理論を思い出させるようなよいドラマでした。本日夜0時10分から再放送があるみたいです。
2015.01.17
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人間は誰でも、十分な食料を得て、自分の身に迫った苦痛や危険からのがれ、安全な生活をのぞみ、一日でも長く生き延びたいという欲望を持っています。自己防衛本能、自己保全本能、自己保存本能、個体維持本能は生まれつき誰でも持っています。宇宙の創造主は人間をそのように作っています。自己の生命を維持するためにはエネルギー源が必要です。動物にとって、そのエネルギーの大半は他の動物や植物を殺傷して、食べることによって可能になっています。それ以外に自分の生きるためのエネルギーを得ることができません。これも宇宙の創造主はそのように作っていると思います。でも捕食される動物や植物は、それぞれに命のある限り生き尽くしたいというのが本音だと思います。しかし人間など力のある動物が一方的にその思いを中断しています。そうすることで、我々動物は生き続けているのです。よりよく生きてゆきたいと思っても、他の命を頂戴しないことには飢え死にしてしまいます。このことは良いとか悪いとか是非善悪で判断すべきことではないのかもしれません。これは自然の仕組みとしてそうなっているのです。つまり、自然の創造主は、まずすべての動物に強い自己保全欲求を持たせた。それを達成するためには絶えず他の動植物の命を奪うことによって可能になるという仕組みを作り上げた。ところが現代は、人間がすべての動植物の頂点に君臨して、自由自在に自己保全欲求を無制限に追い求めるようになった。今やその点野放し状態である。これは欲望の暴走である。これは将来まずいいことにならないだろうか。自己保全欲求が制御不能に陥ると、子孫の将来は暗澹たるものになるのではなかろうか。アフリカの原始狩猟民族では、集落で狩りをするときは、誰か一頭の獲物を倒しますとその日の狩りは終わりです。我々が「一頭で満足しないでもっともっと獲物をとったらどうですか。たくさんとればもっと腹いっぱい食べれるではありませんか」と助言すると、昔から一日一頭以上はとってはいけないと決められていると言うそうだ。(京大霊長類研究所の故伊谷純一郎氏の話)アフリカの狩猟民族の考え方は驚きます。私たち先進国の人々が便利、快適、快楽を求めて、もうけ主義、経済効率主義で失ってしまった大切な考え方をまだ持っているのです。つまり欲望は制御しないと自分たちの生活は破壊されて、消滅してしまうことをよく分かっているのです。これこそが調和、バランスのとれた健全な考え方ではないでしょうか。我々も以前はこのような制御機能がきちんと働いていたと思われます。欲望が暴走しないように、もともと人間には、不安が制御機能を果たしていたのです。でも現代人は欲望が暴走してしまったためもはや制御機能自体が利かなくなっているのです。もともと持っていた能力は影も形もなくなってしまったのです。森田を学んでいるものとして、とてもつらい思いでいっぱいです。でも森田の欲望と不安の関係を学習したおかげで、欲望の暴走は将来まずいことになるとやっと気がついてきました。
2015.01.17
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対人恐怖の人は人の思惑を気にして苦しんでいる。特に叱責されること、批判されること、無視されることは大変なストレスとなる。それが原因ですぐに相手に反発したり、逃避的生活を送っている人もいる。本人は一方的に被害者のような立場にあると認識しているのではないかと思う。でも案外自分が他人に対して加害者の立場にあるということには気づいていない。例えば、今の職場で150人ぐらいのパートやアルバイトを管理している人がいる。この人は人の思惑を気にする対人緊張の強い人である。その人は毎月、仕事の指示事項を出しているが文章などをよく間違えている。そんな時いつも間違いを隠蔽したり、取り繕ったり、いいわけをしたり、他人のせいにしている。また指示事項も前回の指示を取り消して、新たな指示に取り換えることがある。そのために現場で仕事のやり方に混乱を招いている。その方は自分の非を認めて謝るということをめったにしない。そのまま放置している。反面パートやアルバイトの人に対してはやりたい放題の暴言を吐いている。ちょっとでも気に障ることがあると相手を徹底的に責めまくるのである。親切に教えてあげる気持ちはないようである。「以前に言いましたよね。どうして決められたことをしないのですか」これが口癖である。自分が一回指示したことで、きちんと実施されていないことに対しては、鬼の首をとったような横暴な態度に出るのである。隣の席にいる人は、そこまで言わなくてもと思うことがあるという。高齢のパートやアルバイトの人は、売り言葉に買い言葉で反対に応戦する人もいるが、そういう人はひとたまりもない。最終的にはパートやアルバイトの人をいとも簡単に首にするのである。こういう人が人事を左右している事は大変不幸である。このように、対人恐怖で他人の思惑を気にしている人は、自分より力のない人を見ると、格好のストレス発散の相手としているのである。仕事の部下だけに限らず、配偶者、親や子どもをターゲットにしている人もいるのである。この問題を森田ではどのように考えるのであろうか。間違いに気づいて、間違いを指摘するというのは正しいと思う。放置するとますます間違いが多くなる。間違いを見逃していると、他の人にも蔓延してしまう。仕事にしまりが無くなる。やさしく指摘して、今後の対応を親切に教えてあげれば、ほとんどの場合改善してくれると思う。これは森田でいえば、ミスや失敗の事実を隠したりしないで、すぐに正直に認めるということである。さらにどうしてミスや失敗が発生したのかその原因を追及して次に活かすことができれば申し分ない。ここでいつも険悪になるというのは、普段からけんか腰でお互いの信頼関係が出来ていないからだと思う。指摘すればするほど火に油を注ぐようなことになる。そういう人は、相手に改善を求めるよりも、まず自分の態度を改めていくことだ。反省してみることだ。相手がミスや失敗をした時に、良い悪いの是非善悪で価値判断をしていませんか。さらに人格否定の言葉を浴びせかけてはいませんか。森田では、事実をよく観察する。具体的に正確に事態を把握すること。先入観や決めつけをしないで事実を認めること。間違っても裁判官のように是非善悪の価値判断をしないこと。ましてやミスや失敗にかこつけて相手を人格否定することは言語道断です。森田理論は人はそれぞれに存在価値というものを持っているのだと教えてくれています。ここは事実本位の体得のために是非とも身につけたいところです。
2015.01.16
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神経症が治るということを改定いたしました。次の4段階のステップがあります。 1、精神交互作用の打破2、認識の誤り、特に「かくあるべし」と苦悩の始まりの理解3、是非善悪の価値判断からの脱却4、「生の欲望」に沿った生き方をめざす まず1から4へと段階を踏んでステップアップしてゆくことになります。4までいけば完治となります。 1、精神交互作用の打破神経症に陥った人は一つのことにとらわれて、症状以外のことに目が向かなくなります。注意と感覚の相互作用により、どんどん増悪してゆきます。そして観念上の悪循環、行動の悪循環が際限なく繰り返されるようになります。まず、その悪循環に歯止めをかけることが必要になります。それは、症状はひとまず横において、日常生活のなすべきことに手をだすということです。不安や恐怖をもちながらも、これができるようになれば、第一段階の治るということは達成されます。治った段階で「欲望と不安の関係」の学習をして、神経症の成り立ちについて十分に自覚を深めてください。キーワードは、生の欲望の発揮、欲望と不安の調和、精神交互作用と手段の自己目的化などです。 2、認識の誤り、特に「かくあるべし」と苦悩の始まりの理解神経症に陥った人は、普通の人と比べて多くの認識の誤りを持っています。特に強い「かくあるべし」を持っています。○○しなければいけない。○○してはいけないといったものです。「かくあるべし」を前面に打ち出して、自分や他人、物事を価値判断してゆくと、「現実、現状、事実」はとても我慢がならなくなります。無理やり「かくあるべし」に合わせようとすると強い葛藤や苦しみを生みだします。これが神経症への苦悩の始まりとなります。森田では事実から逃げたり、ごまかしたりしないで事実をそのままに認めることができる。このように「事実唯真」の動かすべからざることを知れば、いまさらいやなものを朗らかにしたり、無常を恒常のものに見替えたり、相対を絶対にしたりする不可能な精神葛藤が無くなるから、ただそれだけで非常に安楽である。事実を素直に認めることは簡単なようで難しい。まずは学習によって、「かくあるべし」がいかに自分を苦しめているかを学習すること。そして実際に応用してみることが大切です。この段階では理論的な理解を深めていくという段階です。必ずしも事実本位、物事本位の生活になっていなくても、理解が深まればよしという段階です。こうした理解が進むと、第二段階の治るということは達成されます。 3、次に第三段階の治るについてみてゆきましょう。森田先生は次のように説明しています。善し悪しとか苦楽とかいう事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥を超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事が大学卒業程度ということであろうか。私たちは事実を見ていてよいとか悪いとか是非善悪の価値判断を下しています。例えば人前に出ればあがる。それはよくないことだ。精神を鍛えて、人前でも物おじしない堂々とした人間にならなくてはいけない。等と普通は考えます。森田の学習が進むと、人前であがるというのは自然現象である。自然現象はどうすることもできないものである。あがるということをやりくりしてはいけない。そのまま受け入れて、事実に服従しなければならないというように考えることができます。ところが心の中では依然として、これが良いとか悪いとかの是非善悪の価値判断をしているのです。これでは本当の意味で思想の矛盾の打破して事実本位を体得することは困難です。この段階では、事実をよく観察する。事実をしっかりと正確に把握する。その事実を先入観や決めつけなどしないでそのまま認めるということが必要です。さらに事実を受け入れて、事実に服従できるようになるということです。事実は比較してその特徴や個性等の違いをしっかりと見極めることは必要ですが、決して是非善悪の価値判断をしてはいけません。これが身につくと、第三段階の治るということは達成されます。4、「生の欲望」に沿った生き方ができるようになる「かくあるべし」が小さくなり、事実本位、物事本位の生活態度が身についてくると、神経質者は強い「生の欲望」を持っていますから、不安というブレーキを活用しながら、自分に備わった能力をどこまでも活かし、運命を切り開いてゆくようになります。これが第四の最終段階です。この段階では、症状を治すということを通り越して、神経質者としてよりよい生き方を目指してゆくことになります。
2015.01.15
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先日貴重な体験をさせてもらった。企画してくれた友人に大変感謝しております。1800人収容のコンサートホールを貸し切ってアルトサックスとピアノの練習だった。国内外ののオーケストラがよく来て演奏するところだ。私もかってジャズと歌舞伎の公演を見に行ったホールである。もうすぐ中村紘子さんのピアノコンサートの予定がある。とにかく舞台が広い。広すぎる。きれいに板をひきつめてあった。舞台から見た客席がきれいでとても大きく見えた。調律済みのグランドピアノが3台もありどれを弾いてもよいという。私はアルトサックスで20曲余り演奏した。ピアノの友人の伴奏の音もとてもよかった。とにかく音響効果が抜群でとても気持ちがいい。普通に演奏していても音がとてもよく響く。隅々まで音色が届いていることだろう。さらに驚いたのは楽屋だった。大きな鏡のついた楽屋が2つもあった。15畳ぐらいの楽屋だろうか。また舞台袖に行くととても広い。ここで演奏家は待機しているのだな。キャッチボールができるほどの広さだった。これなら大人数のオーケストラメンバーが待機するには十分な大きさだ。しかもそれが左右にあるのだ。舞台袖にはいろんな機械が並んでおり、舞台芸術の監督のような人が4名いた。その付近は、あまりに巨大で出入り口を指示してもらわないと迷子になりそうだった。舞台に立っていると、緞帳の下りてくる位置が書いてあった。舞台にいる人はこれを見ているのだなと思った。天井を見ると目がくらむほどの高さだ。とても興奮して、まだ余韻に浸っているのである。たまにはこうゆう体験もいいものだと思った。
2015.01.14
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皆さんは冬の暖房はどうされていますか。電気こたつ、エアコン、赤外線ヒーター、石油ファンヒーターなどではないだろうか。電気か灯油を使われている家庭が多いと思う。私のところは赤外線ヒーターである。そのため冬場の電気代が約1万円程度まではね上がる。今や停電になったり、灯油が手に入らないと生死にかかわる。私が小さかったころを思い出した。その頃の暖房の主力は「掘こたつ」だった。かまどや風呂を焚いた時の「おき」を「堀こたつ」に入れていた。手が寒い時は「ひばち」であった。寝る時は湯たんぽを使っていた。囲炉裏がある家もあった。囲炉裏に鍋がかかっておりいつも温かいものが食べれるようになっていた。その材料となる薪、マキは山で調達していた。炭焼きも毎年行っていた。我々子どもは親について山に行って遊んでいた。そのために山はとてもきれいに手入れされていた。今は放置されて足を踏み入れることはできない。そして家の祖父は冬になると、北風を避けるために防風柵をカヤで作っていた。そこは太陽が当たるととても温かかった。暖房というのはその程度であった。さて現在、暖房が十分に効いた部屋でみんな何をしているのか。本を読んだり、勉強したり、手芸をしている人もいるだろう。でも一般的には体と頭を休ませている人が多いようだ。テレビを見たりゲームをしたり、ごろ寝をしている人が多いのではなかろうか。テレビはよい番組もあるが、バラエティ番組は程度の悪いものがとても多いように感じている。ただ笑いとれればなんでもありの世界だ。ごろ寝というのは精神が弛緩状態になり、風邪をひきやすくなる。これは森田先生が言っているとおりである。気をつけたいものである。私は家にいる時は暖房を切ることが多い。昨年気がついたのだが、上着とか足は重ね着をしていると寒さはあまり感じない。一番寒さを感じるのはつま先である。靴下は2枚がさねではくと多少違う。今年はニトリでつま先を温めるものを買った。つま先をその中に入れておくと寒さはほとんど感じない。また陽だまりにでて太陽が差し込むととても温かい。本を読んだりパソコンを打ったりしている。頭が冴えてちょうどよい。以上、暖房のことを考えてみると、ほとんど電気と灯油に依存している。考えてみれば現代人はガスも携帯も食べるものもほとんど他人に依存している。でも依存するためにはお金がいる。そのお金を捻出するためにあくせくと働かなくてはならない。この仕組みの中から抜け出て生きていくことは不可能である。この傾向は今後ますます加速していくであろう。50、60年ぐらい前は、すべて自分や家族が自前で賄っていた。これは暖房だけではない。洗濯や自給自足の生活にしろ、ほとんど自分たちが自前で賄ってきた。今思えば不便で苦しい生活で、肉体を酷使する面はあったが、心を病むゆとりはなかった。現代は心の病気を抱えている人が多い。また体のほうも一億総半病人といわれている。どちらの生活が心豊かで人間らしい生活だったのか考えさせられるのである。
2015.01.14
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綾小路きみまろの漫談に「人間はおしめで始まり、おしめで終わる」というのがあります。昔元気だった人も、80歳になり90歳になると、記憶力が劣り、骨ももろくなります。杖を持ったり、車いすを利用するようになります。何かの拍子に躓いて転んで足の骨を骨折すると、寝たきりになってしまう人もいます。また認知症になり、物をどこにおいたのかを忘れ、ご飯を食べたことも忘れて、自分の子どもの見分けがつかなくなる人もいます。人ごとではありません。長生きすれば多かれ少なかれ誰もが通る道です。集談会でも介護の話はよく出てきます。家庭で介護をしている人の話です。昔は、パンツは自分でスムーズに穿けていました。ところが最近はもたもたして、うまくはけなくなりました。トイレに行くまでにおもらしすることもあります。トイレに行ってもきちんと用をたすことができません。トイレを利用するたびに掃除をしないといけません。すると介護をしている人はついイライラして叱りつけてしまうのです。「この前まではきちんと出来てたでしょう。今日はどうしてできないの」「もう嫌になっちゃう」すると、まだ頭がしゃんとしている人は、その言葉に猛反発します。「もう世話をしてくれなくてもいい」その言葉を受けて、介護している人は、「あんたはダメな人ね。昔からそんなところがあった」という人格否定の一言が付け加わります。こうなると最悪ですね。家族の人間関係はどんどん悪化してしまいます。毎日毎日そのことの繰り返しです。そんな中、こんな話をしてくれる人がいました。お母さんが認知症になって物を隠すようになったそうです。そして嫁が自分の持ち物を隠したと言ってわめき散らすようになったというのです。本人が物を置き忘れて分からなくなっているだけなのです。その息子さんはそのたびごとに母親を叱りつけていました。「こんなところに置いているじゃないか。忘れた自分が悪い」そんなイザコザが絶えなかったそうです。ある時ふと思いついて対応方法を変えてみたそうです。「ないない。嫁が隠した」とわめいてている時に、「じゃ一緒に探そう」と言って一緒に探すことにしたそうです。大体置き忘れた場所、隠している場所は分かっているのだそうです。容易に見つけることができます。見つかると「あっ、こんなところにあったよ」と言って母親のところへもって行き、見つかったことを喜んであげるのだそうです。お母さんがわめき散らすことはなくなったそうです。私はこの話を聞いて森田を応用した素晴らしい対応だと思いました。介護をしていて叱りつけるというのは、「かくあるべし」を押し付けている態度です。どうして「かくあるべし」がでてくるのかと言えば、以前元気で自分のことは自分できちんとしておられた親と今のもたもたして子どもに介護させるふがいない親を比べているのです。比べるだけならよいのです。比べると同時に是非善悪の価値判断をしているのです。昔のしっかりしていた親はよい親である。今現在介護の世話をさせている親はダメな親である。ダメな親は許せないという気持ちがあるのです。比べるのは仕方ありません。でも是非善悪の価値判断をしているというのは困ったことです。是非善悪の価値判断をすると、現在の状況を否定してしまいます。森田で言う肝心の事実を認める。受け入れる、事実に服従するということからどんどん遠のいていってしまうのです。森田に「純な心」というのがあります。観念や理屈、言い訳が入っていない最初の感情のことですね。ここから出発しなさいと言われます。これは裏を返せば「かくあるべし」という是非善悪の価値判断を前面に出しての言動は厳に慎みなさいということだと思います。つまり良い悪いと価値判断したい気持ちを封印して、事実を素直に認めてゆきましょうということだと思います。
2015.01.13
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五木寛之に「蓮如」という戯曲がある。森田に関係のあるところを書いてみたい。蓮如は法然、親鸞の教えを継いだ人といわれている。時代は1400年代。この時代には応仁の乱があった。また疫病、天災、火事、合戦、一揆、凶作が次々と襲い、極貧状態が続いていた。町中に死者が溢れかえっていた時代である。志のある僧侶は、ボランティアで炊き出しをしたり、弔いや埋葬を手伝ったりしていた。こんな時代にあって、蓮如は5人の女性と結婚し27人の子どもを設けている。性欲の塊のようで、エネルギッシュな人であった。それはともかく、蓮如は念仏を唱えるだけで極楽往生できると説いた。法然や親鸞と同じである。そして蓮如は有名な「御文章」を作りました。これは浄土真宗の法事のときに、住職さんが必ず読むものです。これは元々字の読めない農民とか、最底辺の人たちに暗記してもらい、声を出して朗唱することを前提として作られている。カラオケの歌のようにリズムのあるものである。しみじみとして人生のはかなさを感じる。「人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。・・・・。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。・・・・・・。」浄土真宗の門徒の方はなじみがあるだろう。正信偈等よりもどちらかと言えばこちらの方が心に響く。特に肉親を亡くされた人は心にしみる。蓮如はこの御文章に一体どんなことを託しているのだろうか。五木氏の戯曲から拾ってみよう。「われらは今、荒波逆まく嵐の海に漂っているのじゃ。冬の海は冷たく、体はこごえ、泳いで渡る岸辺も見えぬ。心細く、苦しく、おそろしい。そこへ阿弥陀仏の乗られた光明の船が近づいてきて、仏は声の限りに溺れかかった者たちの名前を呼び、ひとりひとりに呼びかけられる。「おーい、こっちへこーい。さあ、はやくこの手につかまれ」とな。それを疑って背中を向ける奴は後回しじゃ。また自力で泳いで助かって見せると自信をもっておる者もあとじゃ。しかし、その声を地獄で仏の声ときき、なにもかも忘れて一筋に「おたのみもうす」とその無量の腕にすがった者を、み仏はしっかりとだき止められるのじゃ。「この腕につかまれ」「おたのみもうす」この声と声が出会うたとき、人は無明の海から光の船へと乗り移る。・・・・・。」ここで、自力で助かろうとする者とは、森田でいえば神経症からの解放を求めてはからいをする者である。そういう人はなかなか治ることができない。それどころか葛藤や苦悩は増すばかりである。理不尽ともいえるわが身の現実をありのままに受け入れる。そういう人が最後には救われる。このことを言いたかったのだと思う。故玉野井幹雄氏は治そうとすることをやめて、地獄に家を建てて暮らそうと意志を固めた途端に葛藤や苦悩は遠のいていったと言われている。まさにこのことを言っている。森田先生は「症状が治るか治らないかの境目は、苦痛をなくしよう、逃れようとしている間は10年でも、20年でも決して治らないが、苦痛はこれをどうすることもできない。仕方がないとあきらめ往生したときにその日から治るのである」言われています。五木寛之氏は森田理論の真髄がよく分かっている人だと思う。(蓮如 五木寛之 中公文庫参照)
2015.01.12
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木村秋則さんは青森で肥料、無農薬のリンゴを栽培されている。きっかけは奥さんが農薬にとても弱く体に影響がでてきたからだそうである。でもこれは壮絶な戦いだった。虫の重さでリンゴの木がしなって垂れ下がっていたという。800本あった木は半分はやられた。それまでは1年に10回から13回は農薬を散布していたのだから無理もない。リンゴが全くならないのが8年続いた。生活できない。その間はアルバイトをして食いつないだ。そして村八分にあっている。かまど消しと言われていたそうだ。ご飯も炊けない極貧の家のことだそうです。もう死のうと思って山に行かれたそうです。するとそこに病気にもならず元気に育っていたドングリの木を見たそうです。どうして虫がつかないのだろうと思って見ていると、土だと気がついたそうです。手で掘るとほろほろと崩れるくらい柔らかいのです。木のまわりは絨毯の上を歩いているみたいにふかふかなんです。それまで私は、地上の上ばかり見て、目の見えない根っこの方、つまり土は見よとしていなかったことに気がついたのです。リンゴの木にすくすくと育ってもらうためには、まず、バクテリアが生息する豊かな土を作ることが大切だったのです。この話から森田では何を学ぶことができるのか。リンゴを人間の思うがままに育ててはいけないということだ。リンゴだけではない。人間もそうだ。他人を自分の「かくあるべし」で支配しようとしてはいけないという事だと思う。相手を自分の思い通りに操ろうとしても決してコントロールできるものではない。出来ることは相手をよく観察すること。相手の状況をよく把握すること。是非善悪の価値判断をしないで相手を認めていくこと。そして相手を受け入れていくこと。だと思う。さらに相手が意欲を持ったり、挑戦するきっかけを作ったり、積極性がでるようなきっかけづくりができれば最高だ。例えば木村さんはこんなことも言っている。「何もかも自然の力に任せておけばいいかというと、それは違います。」今、自然栽培といっても、リンゴの開花の時に一回、収穫期に入ってから1回草をかっています。リンゴの開花時土がじめじめしていると病気になる。また収穫期の草刈りは、リンゴに秋を知らせるのだそうだ。草を刈らないと土の中はいつまでも温かい。するとリンゴは秋が来たことが分からないので赤くならないのだそうです。きっと刺激を与えているのでしょう。吉田松陰の松下村塾からは多くの優秀な人材を輩出している。改革の戦士だけではない。実業家として成功した人も数多くいる。それは一人一人の目線に立ってそれぞれにやる気に火をつけていったことが大きいようだ。つまり「かくあるべし」を押し付けるのではなく、その人の個性や特徴を見いだして伸ばす教育を実践されていたようである。こういう指導者のもとで学習できる人は幸せだ。精神的な葛藤がないので、自他共にのびのびと生きることができる。
2015.01.11
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王陽明は吉田松陰などに影響を与えた人物だと言われている。王陽明の残した言葉は森田の真髄をついているものがある。他のブログを参考にいくつか紹介してみよう。1、ただ静かに心を養おうとしても事が起これば、心の外の力で圧倒される人は常に実際に起こる物事の上で自己を磨くべきだそうすることで心が確立する2、人生の大病は「傲」(ごう)の一字に尽きるここでいう「傲」とは、思い上がることである3、反省は病を治す薬だが大事なのは、過ちを改めるということだもし悔いにとらわれているだけなら、その薬がもとで別の病気が起こる4、君子は自身の考えを行動をもって示すが小人はただ口で言うだけに過ぎない5、日常生活においても、私欲が大きくなっていないか絶えず確認しなければならない仕事や日常生活においても、私欲に克ち本来持っている善心を発揮しなければならない私の感想を書いてみたい。1は、森田では「物事本位」の態度のことである。「事上練磨」とも言います。自分の仕事なり、あるいは勉強なり、そういう外界の必要なことをよくやっていく。物事をよく処理するような生活態度を続けていけば、それが結果として修養になるということです。2は、不安や恐怖などの自然現象を、自分で思いのままにコントロールしようとする態度のことだと思います。すると神経症に陥ります。3は、不安を取り除くことばかりに神経や注意を集中させている状態のことを言っています。精神交互作用に陥り神経症になります。手段の自己目的化に陥っています。森田では不安の反対には必ず欲望があると言います。大きな不安の裏には大きな欲望があります。不安に学び、不安を活用して「生の欲望の発揮」の方に目を向けていかないと片手落ちです。4は、森田は理論を滔々とよどみなく解説できるようになっても全く意味がない。森田は実際に生活に応用出来ているかどうかである。それは相手の普段の生活のことを聞いたり見たりすればすぐに分かります。5は、「生の欲望の発揮」を無制限に追い求めていては将来必ず破綻してくる。人間には元々欲望の暴走を制御する能力が備わっている。車でいえばブレーキである。ブレーキが壊れて、アクセル全開で突っ走ることは自己の破滅を意味する。快適で便利で依存的、享楽的な生活を追い求めているとすぐにバランスは崩れていく。この点狩猟採集の生活をている人のほうが正常に機能している。現代人はブレーキが壊れた車に乗り、坂道を走行しているようなものである。そのことを森田理論を学習して十分に自覚しなさいといわれているようである。
2015.01.10
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人はみんな目が2つ、耳が2つ、鼻が1つ、口が1つついています。その点では平等です。ところが形は人それぞれ違います。頭をみると髪がふさふさの人がいます。反対に髪がほとんどない人もいます。歯をみると入れ歯をしている人がいます。反対に歯医者にかかったことがないというほど丈夫な自前の歯を持っている人もいます。こうしてみると、二人として同じ人はいません。みんなそれぞれ独特な特徴を持っています。よい言葉でいえばそれぞれ強烈な個性を持っているのです。違いを認めて、違いを自覚することは大切です。そのためには相手と自分をよく観察することが必要です。事実を事実としてみるという態度です。事実をありのままに見て、違いをしっかりと認識するということです。それはとりもなおさず比較して検討するということです。比較するというのは、こちらがいいとか悪いとかを判定することではありません。それぞれの持っている特徴や個性を見極めるということです。それが分かれば、自分の能力、適性が分かり、自分のすすむべき方向が分かります。さらに自分の持っている個性で勝負するという態度になることができます。そこから出発すれば自分も成長できますし、人の役にも立ちます。また自分の能力では無理なこと、適性のないことにも気がつくようになるでしょう。そういう面は他人に任せて、自分は一歩引いて見守ることになります。森田で強く勧めているのはこのことです。ところが普通の人は、他人と自分を比較すると同時に、是非善悪の価値判断を下しているのです。まるで裁判官のように裁いているのです。それも即断しているのです。性急にいいとか悪いとかの価値判断をするということは、事実をよく見ていません。観察がおろそかになっています。せっかちに先入観や思い込みで是非善悪の判定を急いでいるのです。「狭い日本そんなに急いでどこに行く」といった感じです。その判定に使っている物差しは、はたして正確なものなのでしょうか。その物差しは、今までの経験、教育、親の育て方などによって形づくられています。それらが間違っていれば間違った判定をしていることになります。さらにその目盛りは、見る対象物が変わったり、自分の精神状態の変化、見る時期、周りの環境の変化などによってころころと変わるものです。目盛りが伸びたり縮んだりしているようなものです。つまり絶対的に正しいものではない。あいまいな物差しなのです。そんな物差しでシビアな是非善悪の価値判断をしているのです。それはおかしくはないでしょうか。次に価値判断はどのように行われているのかを見てゆきましょう。まず頭の中で考えた理想や完璧な状態と現実のふがいない事実を比較して価値判断しています。次に、他人のよいところと自分の悪いところを比較して価値判断に持ち込んでいます。さらに過去のよかった時のことと現在の悪い状況を比較して価値判断しています。価値判断するに当たっては、よい方の考え方を支持しています。悪い方をよい方に変化させようとする傾向にあります。どうにも変化させることができないと、悪い方を批判したり、否定します。またすぐに逃避したり、排除しようとします。森田でいう思想の矛盾に陥るということになります。これは自分を苦しめる原因を作っています。以上、事実を受け入れ、事実に服従するという点では、この点の理解がとても重要なところです。森田では、比較してもよいが、是非善悪の価値判断をすることはなるべく慎みなさいと言っています。そのためには、自己内省力とちょっとした意志が必要です。森田理論を学び、その方向で生活していれば、よいとか悪いとかの価値判断をしないような人間になることができます。そして、「かくあるべし」に振り回されることのない、事実にしっかりと足のついた生き方ができるようになります。
2015.01.09
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最近は家庭菜園をされている方が多いいようです。土づくりをしてミミズが住みつくような土になりますとヘビなどがやって来るようになります。ヘビというのは苦手な人が多いいようです。ヘビを見つけるとすぐに逃げだすという人が多いと思います。またヘビが恐ろしくない人を呼んできて追い払ってもらう人もいると思います。畑にヘビが入っていたというだけでもう畑には行きたくないと言って家庭菜園をやめたという人もいました。青大将のようなものは大きいですが人間には危害を加えません。ところが蝮のようなヘビは毒を持っています。とぐろを巻いていて一挙に飛びかかってきます。噛みつかれると血清を打たないと命にかかわります。沖縄や奄美大島に生息しているハブなどは猛毒を持っていると言われています。必要に応じてその都度駆除しないといつまでも居座ることになります。危険極まりない状態になります。イヤイヤでも自分で駆除するか、近所の手なれた人に依頼するかしないといけません。逃げて放置することはいけません。その時は一時楽になりますが、強迫観念で苦しむようになります。その際そのヘビをよく観察することです。頭が三角形をしているのが蝮です。これは必ず駆除しないといけません。それ以外のヘビは畑の虫などを食べてくるので放置しても害にはなりません。強迫観念を起こすような人はどうなるか。ヘビを見ただけで恐怖に耐えられないで、一時逃れの安心を得ようとして、顔をそむける。すると、その人の注意は、自分の不安な状態、すなわち自分の胸さわぎ、脱力の感とか、さむけやふるえるということだけに集中し、心を奪われて、現実の対象を忘れ、自分の恐怖、不安の結果がどうなるかということが恐ろしくなる。恐怖を恐怖する状態になる。ヘビを忘れて自己に執着しているのである。ヘビを駆除していれば、その事実が去れば、よかったという歓喜が起こり、大丈夫という自信もできる。ところが強迫観念を起こすような人は、自分の気分を目標にしていて、気分は事実とは無関係にいつまでも自分に内在しているから、日夜その恐怖に悩まされることになる。「煩悩のヘビは追えども去らず」というふうに、実際のヘビとは違って心の中に住み着いたヘビだから、絶えず悩まされることになる。その後、このヘビの気分に対する恐怖を中心にして、人間関係が恐ろしい、夜が恐ろしい、友人の訪問も不安である。寝ても覚めても悩みもだえるというふうに拡がっていくのである。このあたりのことを森田先生は明快に説明されております。気分本位になってすぐに逃げてはいけない。よく観察する。事態を把握する。是非善悪の価値判断をしないで事実を認めていく態度が大切です。さらに事実を受け入れて、事実に服従できると自然に対応策は思い浮かんでくると思われます。(神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 一部分180ページより引用。)
2015.01.08
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51歳の製造業の会社員です。25年勤めているのですが、職場の雰囲気になじめず、みんなから信用もなく蚊帳の外のような状態で苦しんでいます。具体的には、仕事上でのミスが多かったり、それに対して上司がぼろくそに言ったりして、またみんなの前で罵倒するため、年下の者、女子社員等もみんな自分を馬鹿にしているみたいです。給料泥棒とか、「何をやっているんですか、しっかりやってください、本当に大学を出ているんですか」等と言われます。症状としてはビクビクして仕事が手につかない。自信がない。こんな状態で社会生活を営めるのだろうか。廃人になるのではないかという恐怖感があります。これは生活の発見誌に寄せられた相談事例です。この人は現実の自分を自分で認めることができません。いわば自分の中に二人の人間が同居していていつもケンカをしているようなものです。一人は職場でのたうちまわっている自分。二人目はその自分を雲の上のところから見下ろして軽蔑している自分です。この人はもう救われることはないのでしょうか。楽になる道はないのでしょうか。いいえ、もちろん森田理論学習によって救われる道があります。この方は私が思うに、ミスや失敗が許せないのだと思います。失敗してはいけないと思い、そこに注意の大半が向けられていて、目の前の仕事がおろそかになっている。だから単純なミスを繰り返す。それを非難されるからますます自己嫌悪に陥ってしまう。つまり「かくあるべし」が強すぎるのだと思います。人に軽蔑されてはいけない。バカにされてはいけない。能力のない奴だとみなされてはいけない。無視されたりかをからかわれるようなことがあってはいけない。等など。これは現実の自分を完全否定して、観念上理想の自分にすぐにでも引き上げようとしているのです。これを緩めてあげることが必要です。せめて次のように考えられないでしょうか。人に軽蔑されないような人間になりたい。バカにされないような人間になりたい。能力がある人間になりたい。無視されたりからかわれないような人間になりたい。これは現実の自分に軸足を置いている態度です。このように発想できれば、現実の自分を否定することが多少少なくなります。そこから努力していくことが大切です。自分のことは横において、他人の役に立つことを見つけて行動に移していくことが大切だと思います。心配性な人はこうしたらよいなということによく気の付く人です。それを忘れないようにメモなどして小さいことから実践していくことです。そんなことで気持ちが変わるわけなどないと頭でやりくりしないでまずは実践してみることです。それからこの方の場合は、これはよいとかこれは悪いとかの価値判断をしてしまうことが問題です。森田では事実をよく観察すること。事実を先入観や決めつけで勝手な解釈を持ち込まないこと。充分に把握すること。価値判断をしないでそのまま認めるということがとても大切だと言います。現実のありのままの自分とこうありたいという自分の違いを比べてしまうのは一歩譲るとします。比べてもいいのですが、それぞれの違いをよく観察して自覚するだけにとどめることがとても重要なことです。自覚だけにとどめることができる人は成長できます。是非善悪の価値判断をしてしまう人は、森田でいう思想の矛盾に陥ってしまうのです。少しの違いですが、神経質性格を活かして味わい深い人生を送ることができる人と神経症に陥って情けない人生に終わってしまう人との違いになって表面化してきます。いづれにしても生活の発見会の集談会のような自助組織に参加して森田から離れられないようにしておくことが大切です。これは掛け捨ての医療保険に加入しているようなものだという人がいます。これがいざという時に役に立つのです。私も同感です。
2015.01.07
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森田先生は、言葉は符牒であると言われています。つまり人間同士がコミュニケーションをとったり、思索するために作りだしたものである。現在頭が痛い。これは事実である。しかし頭痛が去ったあとに、この感じを思い出して頭痛と名づける。この時にはかつて経験した印象を外界に投影して、客観的に思い浮かべたものである。あたかも自分の顔を鏡に投影したような関係である。鏡の後ろの影はすでに自分自身ではないのである。この外界に投影した模型を事実と思いちがえる時に思想の矛盾が起きる、といわれています。ここが大事なところです。言葉は事実そのものとは相当乖離しているということです。(神経衰弱と強迫観念の根治法 白揚社 117ページ)難しいことを言われているようですが、少し整理してみたいと思います。これは要するに、言葉は事実とはぴたりと一致しないということをいわれているのです。リンゴを思い浮かべてみてください。真っ赤なリンゴを思い浮かべる人もいます。青いリンゴを思い浮かべる人もいます。スカスカの感触を思い出す人もいます。酸っぱい味を思い出す人もいます。ハウスバーモントカレーを思い出す人もいます。蜜の入った甘い味を思い浮かべる人もいます。岩木山のふもとの、真っ白い綿みたいなリンゴの花びらを思い浮かべる人もいます。フラン病にかかった痛々しいリンゴの木を思いうかべる人もいます。リンゴという言葉は、みんな一般的にはほぼ同じことを連想すると思いこんでいます。でもよく考えると、人によってそれぞれ連想することは違うという面もあるのです。つまり言葉とその時、その場で感じる事実そのものは違うということです。言葉は符牒であり、概念であるから100%信用してはいけない。それはあたかも地図を見て概略を理解する程度にとどめる。詳しいことは現地に赴いて自分の目や感覚で確かめることが大切です。地図では見えなかったことがリアルに見えてきます。百聞は一見にしかずということです。悩んだり、とらわれるということは、この信頼できない言葉を100%信用して使っているのです。そして苦悩に陥ったり、自己否定したりしているのです。信用できない言葉を使って、精神交互作用を起こして神経症に陥っているのは少しおかしくはありませんか、ということを森田先生は言われているのだと思います。言葉があるからこそ嫌な感情や不快な感情を増悪させてしまう面があるのです。始末に悪い面があるのです。過去を思い出してイライラしたり、腹が立ったり、人を憎んだりしてしまう。人と比べて劣等感に苦しむ。すべて言葉を使っています。だから不安、恐怖、不快な感情に襲われた時は、それらと向きになって付き合わない方がよいという面があります。これを逆手にとって利用するとよいのではないか。腹が立ったときには、それとは全く関係のないリズム感のある言葉を発するとよいのです。例えば、お寺の住職さんの読経です。これは意味や内容は全く分かりません。でも読経にはリズム感があります。これを口ずさむことによって、精神交互作用が遮断されるという面があります。ある人が、法事で読経を何度も聞いているうちに、読経のリズムに合わせて、こんなものを作りました。読経のパロディ版です。不謹慎だと思わずに読経に合わせて口ずさんでみてください。ニンジンゴボウ筑前煮ガンモや卵はおでんにせい寒い冬にはブリ大根暑い夏には生ビール飲み過ぎ食べ過ぎ即キャべジン精力減退養命酒疲労困憊アリナミン法事はたびたび開けお布施はたくさん包め寺への寄付を忘れるなチーン夫婦円満家内安全交通安全往生安楽国チーン 一同合掌腹がたったり、イライラする時は、トイレに行って一人この読経もどきを口ずさむのです。彼は宴会の席でもやっていました。その時は大きな玉のついた数珠のようなものを持っていました。意外に効果があるので、お試しあれというのです。うけるというより、あっけにとられてしまいましたが、後で考えると意外と「いいかも」と思ってしまいました。森田の理にかなっていたのです。
2015.01.06
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玄侑宗久氏は芥川賞作家であり、現役僧侶だそうだ。玄侑氏がこんなことを言っている。普通世間では「一途」な態度がほめられる。そのほうが本人も楽ですよね。一つに絞ったほうが。しかし玄侑氏は、小説を書いていこうか、僧侶でやろうか随分悩まれたことがあるそうです。師事していた星清先生という方が、ある時おっしゃったそうです。「そんなに悩むのなら両方やってみたら」それで視界が開けたそうです。二足のわらじを履くことにされたそうです。「二兎を追うものは、一兎も得ず」といいますが、たくさん追うのはエネルギーがいります。でも十兎を追うほうが精神衛生上よろしいのではないか。一兎を追うというのは、正しさ、美学をわき目も振らず追い求める姿です。そこから外れるのはよろしくないという少し窮屈な面があります。十兎を追うというのは好奇心に従って楽しみを追い求めているような気がする。どちらも一長一短あります。でも人生はけっこう長いですから、簡単に切り捨てることはない。いろいろと挑戦してみることをお勧めします。森田理論に「無所住心」という考え方がある。これは十兎を追いかける考えです。森田先生は、集中するというのはひとつだけのことにとらわれるのではない。たとえば、森田先生が講義をしている。森田先生は講義だけに集中しているのではない。机の上のコップの飲物にも気をとられる。外の騒音にも気をかける。聴いている人の態度にも気をとられる。その他いろいろなことにあまねく注意を振り向けている。つまり意識の持っていきどころが次々と変化流転していく。この態度が森田先生の言う集中ということです。そうなると一つのことにこだわっている時間が少なくなり、たくさんのことに短時間集中してこだわるという生活になります。神経症の人はこれができない。一つのことに異常にこだわり、それ以外のことは眼中になくなる。こだわりがとらわれとなり、にっちもさっちもゆかなくなり神経症になる。この「無所住心」が体得できるだけで、神経症を克服することができます。
2015.01.05
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年末から正月にかけて妻とこんな口げんかをした。年末スーパーに買い出しに行った。その中に「いなりずし」があった。車の後ろに積んでいたところ何かの拍子に横倒しになり、「いなりずし」のパックが口をあけて荷台に転げ落ちた。いくつかはゴミがついて食べられそうにない。つい妻に八つ当たりをした。「もう少し考えて買い物の袋に入れていれば、倒れなかったはずだ」つぎに正月1日。娘婿から妻に電話がかかってきた。積雪はどうかという電話だ。高速道路に積雪があっては危ないので、今日の里帰りは見合わせたいと言ってきたらしい。ところが妻は、今は雪が小やみになって空は晴れ間も見えるから是非来るように勧めている。私はその言葉を聞いてうんざりした。というのは、男の孫が2人いてやんちゃでいたずら盛りなのだ。3日間も家に来て、家の中のあらゆるものを投げて散らかす。また私の顔を引っ掻いたりするので、遊び相手をするのに多少閉口していた。1泊2日なら少しはましかと内心喜んでいたのである。そこでとっさに妻にこう言った。「無理して来ない方がよいと言えばよかったのに」すると妻は、「あんたは娘や孫がかわいくないのか。一刻も早く会いたいのが普通の親だ。」私は「子どもや孫がかわいくない親はいない」と反論した。後から思うと、「いなりずし」の例では、全部ゴミがついているのか。ほとんど食べられないのか。車の汚れ具合はどうかをよく観察することに専念すればよかった。そして片づける。汚れをとって掃除する。そしてその事実を詳しく話すだけにすれば口喧嘩にならなかったと思う。そうだ。「いなりずし」のような生ものはビニール袋に入れればよい。これを教訓にして次に活かせばよいと気付く。でもその失敗を妻のせいにして、妻の非を責めたのは余計なことであった。私はこういう一言余計なことを言うことがある。この一言で相手に大きな痛手を負わせてしまう。分かっていてもなかなか森田的に対応できない。子どもや孫の帰省について、うんざりするような感情を持っていたことは事実だ。でも一方では子どもや孫と楽しい食事をしたい。愉快な時間を過ごしたいというのも事実だ。その二つの感情の間を揺れ動いていれば、あからさまに「無理して来なくてよい」等という悪態はついていなかっただろうと思う。このことは森田で何度も学習してきたことだ。でも学習通りの行動はできていない。私はせっかちなのだと思う。どちらかに態度を決めないと居心地が悪いという特徴がもろに出やすいのだと思う。まあ、森田を学習していたので、すぐに対応の問題点が分かったのでよしとしておきたい。森田はこんな失敗をしながらしだいに修養、体得できるのだろう。
2015.01.04
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私の田舎のお寺の住職さんは、毎月その時々の思いを手書きの文章にして檀家や近所の人に配布されている。その中にこんな話をされている。中国で、あるお金持ちの夫婦に一人の男の子がいました。父親は自分の子どもに、この生活がどんなに有り難いことかを知らせるために、3日間貧しい田舎の家に預けることにしました。都会の快適な生活が当たり前になっているこの子には、田舎の生活は3日間が限度だろうから、3日間いれば、今の生活がどんなに幸せか思い知るだろうと思ったからです。3日間、田舎の生活を体験した息子が帰ってきました。お父さんは息子にいいました。「ここでの生活とは随分違っただろう」すると息子は答えました。「パパ、その通り全く違っていたよ。パパ、家にはプールがあるけど、田舎にはもっと大きな池があったよ。水がとてもきれいでそこには魚がいっぱいいるんだ。パパ、家には犬が1匹しかいないけど、田舎の家には4匹いたよ。それも首輪をなんか付けてないで自由にどこでも走り回っているんだよ。パパ、うちの家は塀に囲まれているけど、田舎の家には塀なんてないんだ。どこまでも田畑や野山が見渡せるんだよ。パパ、家では音楽はCDで聞くけど、田舎は鳥のさえずりや風の音が生できこえてくるんだ。パパ、家ではパソコンや携帯電話で連絡しあうけど、田舎では人と人が直接話し合うんだ。身振り手振りでね。パパ、家ではパパが忙しいから、いつもママと二人で食事するけど、田舎の家は違ったよ。食事の時は近所の人まで来て、わいわい楽しく食事するんだ。パパ、僕はとても貧しいところにいたんだということを思い知ったよ。でもパパ、最高の3日間ありがとう。」人間だれしも便利で裕福で快適な都会の暮らしにあこがれます。自分では何もしないで楽をしたがるのです。現代ではお金さえあれば、そうした生活を誰でも手に入れることができます。でも、豊かで快適で便利な生活なのに、精神を病んでうつになったり、自殺者が多いというのはどういうことでしょう。反対に、アフリカのその日の食べ物にありつけるかどうかという子どもたちの方が活き活きとしています。目の輝きが違います。飢餓や病気で亡くなる子どもは多いですが、精神を病んで自殺する子どもはいません。神経症になる子どももいないでしょう。これは一体どういうことでしょうか。それは日々の命をつないでいくために懸命に生きているからではないでしょうか。我々はそんなにあくせくと食べ物を求めて働いていません。そのため考える時間が多すぎるのでしょうか。我々は考え方を改めないといけないのではないでしょうか。物質的生活の豊かさを追い求めることは、少しセーブする必要があるのではないでしょうか。そして、自分の身の回りの日常茶飯事は人に依存しないで、自分で賄っていくことが大切なのではないでしょうか。お金を払って人任せにしていると、自分の精神状態はしだいに病んでいくのではないでしょうか。森田ではこのことを「凡事徹底」といいます。これは人間の生きる原点なのかもしれません。田舎の住職さんは、このあたりのことがよく分かっておられる人だと思いました。
2015.01.03
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相田みつをさんの言葉で好きなものがある。わたしは無駄にこの世に生まれてきたのではないまた人間として生まれてきたからには無駄にこの世を過ごしたくない私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだそれが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではないその仕事がなんであるかを見つけそのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに人間として生まれてきた意義と生きていくよろこびがあるのだ相田さんは、人間に生まれてきたということは、それだけで存在価値があるといっている。五体不満足に産まれても、生まれてきたことに価値がある。経済的価値、利用価値、比較価値よりも、存在価値の方が大切だ。我々人間は、不平や不満を言う前に、存在価値を自覚して、存在価値を活用して生きていけばよい。これはとかく忘れがちな言葉である。次に「仕事」という言葉は、「出来事に仕える」と書く。仕事をするということは、人に頼って人に依存することではない。どんなに経済的にゆとりがあっても、人任せにしてはならない。基本的には自分のことは自分でするということである。これが、人間が生きるということの原点である。まず自分の命を自分で守っていくこと。それを日々実践していくこと。自分の食べるものを自分で作り、料理していくこと。生活環境を整えていくこと。安全に気を配り、健康を維持していくこと。次に人間だれしもそれぞれに課題を与えられている。それから安易に逃げてはいけない。目の前に立ち現れた問題点や課題に対して、果敢に挑戦していくこと、真剣に取り組んでいくこと。相田さんは、人間にとって大切なことを2点にまとめて教えてくださっておられるように思う。
2015.01.02
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読者のみなさん、あけましておめでとうございます。いつも読んでいただいてありがとうございます。さて、安倍首相は年頭に当たり、このたびの衆議院選挙で国民の圧倒的な支持を得ました。したがって経済成長をどんどん進めて、世界に誇れるような経済大国日本を作り上げると高らかに宣言いたしました。そして国民一人一人の可処分所得をあげ、全国津々浦々まで豊かで快適な生活を享受できるように強力な政権運営にあたりたいと述べました。具体的には法人税引き下げ、消費税、相続税などの引き上げ、年金の引き下げ、原発再稼働、TPPの推進、強力な外交交渉などです。皆さんは、この方向で日本が突き進んでいくことを如何思われますでしょうか。森田理論を学習したものとして、とても不安に思っています。つまり、これ以上豊かで便利で快適な生活を目指すということは、欲望の暴走に拍車をかけるのではないかと思っているからです。森田では不安を利用して、欲望に歯止めをかけて、不安と欲望のバランスをとるという考え方です。この欲望の充足一辺倒の考え方では、数少ない資源や食糧をめぐって他国と奪い合いになります。これが戦争や紛争の原因となります。また国民は、それぞれの生活の質の向上、維持のために、意思とは無関係に、過酷な労働を余儀なくされてしまいます。欲望の充足のためにあくせく働かせるような結果になります。その結果、今まで以上の身体の健康の悪化、うつなどの精神疾患の増大を招いていくのではないかと思っているのです。政権運営を注意深く観察しながら、問題提起をしてゆきたいと思っています。さてこのブログを開設して3年目に入ります。多くの人に読んでいただき感謝申し上げます。おかげで私もやる気が持続できました。今年も、多くの神経質者に森田理論学習の素晴らしさをもっともっとご紹介してゆきたいと思います。そして一人でも多くの方が、「神経質に生れてきてよかった」といってもらえることが望みです。森田理論にはそれだけの内容があると確信しております。またこのブログは、個人的には、私の森田理論を深めるのに役立っています。ネタはいろんな本をヒントにしています。以前は生活の発見誌にしろ、その他森田関係の単行本にしろ読みっぱなしでした。今考えるともったいないことをしていたと思います。現在はよいところに付箋を付けて、後でページ数と内容をノートにまとめています。その中からヒントを得て、森田理論で考えるようにしています。神経症のみならず、ガンなどの身体の病気、子育て、人間関係、生き方、世の中の動き、事件、環境破壊、原発問題、TPPの問題など森田的視点から意見を述べることができるようになりました。ブログは30分で立ち上げることができます。最初のころ個人情報が流出するのではないかと心配しましたがそんなことはありませんでした。皆さんもぜひブログを始められることを提案させていただきたいと思います。そうすれば皆さん自身も成長できるし、まだ森田理論を知らない人にとっても役立つのではないかと思います。最後に、読者の皆さんにとって、今年1年健康で実り多き年になりますように祈念しております。
2015.01.01
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