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2014年2月号の生活の発見誌より。認知行動療法では、自動思考という概念を用います。自動思考というのは、私たちが体験したときに反射的に出てくる考え方の癖のようなものです。1、「かくあるべし」思考 自分の引き受けた仕事が負担になってきた。自分から引き受けたのだから弱音を吐くべきではないなどと考えること。2、プラス面を無視してマイナス面しか考えない。アンケートをしたら好意的な評価が多かったが、ごく一部に批判的な意見があった。批判的な意見ばかりにとらわれて右往左往する。3、心の読みすぎ。 友人に何度か電話をしたが出なかった。居留守を使っているに違いないと勝手に想像する。4、自己否定する。 親睦会の幹事をしたが参加者が少なかった。私が幹事をしたからだ。5、完全主義的思考 朝6時に起きるつもりだったのに、7時半になってしまった。今日一日がダメになってしまった。6、マイナス化思考 今の仕事は向いてますよねと言われた。自分の学歴でこの仕事では情けないと思った。7、拡大解釈 会議の集合時間に遅れた。みんなの信頼をなくした。このほかにも、「先読みの誤り」「感情の決めつけ」「過度の一般化」などがあります。認知行動療法では、違った角度から別の考え方はないのかを探っていきます。1、 そう考える根拠はどこにあるのか。逆の事実はないのか。そのことを考えることによって、少しずつ思い込みから解放されて考えが現実的なものになる。2、 結果について考える。だからどうなるというのだ。それが本当だとして、どんなひどいことが起きるのだろう。最悪を予想して、覚悟を決める。3、 代わりの考えを探す。現実的で柔軟な考え方を見つける。森田理論学習では認識の誤りというものです。劣等感的差別感、部分的弱点の絶対視、劣等感的投射、防衛単純化、手段の自己目的化なども併せて学習しましょう。まず私たちは現実を無視して、ネガティブに、すぐに飛躍して、突拍子もない考えを持ちやすいということを自覚することから始めましょう。そして具体的な例をもとにして、集談会などでぜひ話し合ってください。最終的には、思い込みを排して、客観的に両面観から見る癖をつけましょう。
2014.01.31
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2014年2月号「生活の発見」誌のセルフケア・プログラムは大変参考になった。まずアサーションについてですが、これは「自己表現」のことだそうです。対人表現には3つのタイプがあるという。1、 攻撃タイプ 「かくあるべし」で相手を責めたり、皮肉を言って相手を責める。2、 非主張的タイプ 相手の反応を勝手に予測して、自分の気持ちを抑え、十分に自分の気持ちを表現できない。我慢したり、耐えたりしてマイナスの感情を蓄積していく。3、 上手な自己表現タイプ 相手を尊重しつつ、自分の気持ちも大切にして、自分の気持ちを過不足なく伝えることができる。例として、やっと終業時間が来ました。車で通勤しているあなたは、旅行用品をゆっくり見て回ろうと思っていました。ところが同僚が、もうすぐ仕事が片付くので車で送ってほしいという。こんな場合1、では、「人の気持ちも聞かずに勝手なことを言われても困るよ」と反発します。2、では、自分の気持ちを抑えて、「ああいいよ」と安請け合いします。でも心の中では、自己犠牲のためストレスがたまります。3、では、「悪いけど、今日は帰りによるところがあるんだ。ごめん。また都合が合えばいつでも送るよ」などと言って丁寧に断ります。3が最も良いことはすぐにわかりますが、現実には1や2の対応が多いのではないでしょうか。特に対人緊張の強い人は、人の思惑を気にして、自分の意向、気持ちを押さえつけたり、無視したり、否定することがあります。そういう小さい我慢をため込んでいくと、処理しきれない大きな問題になってゆきます。仕事をやっていて気づくことですが、その場その場で小さい問題をきちんとけりをつけずに放っておくと、もつれた糸のようにがんじがらめに絡まって、解くことができなくなってしまいます。この場合も同じです。第一に優先すべきは、自分の感情、気持ち、意向です。そういう姿勢を確立することが第一です。そのあとで、相手の意向とすり合わせをしてゆくのです。この順番を守らねばなりません。これが逆になるから、神経症への道を突き進んでいくのです。森田理論学習でしっかりと学び体得していただきたいと思います。
2014.01.31
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家康は、運命そのものは受け入れて、自分の置かれた境遇の中で精一杯生きることを選んだ。過去も未来にも翻弄されないで、現在を生きる。今を生きる。この瞬間を精一杯生きる。そこに活路を見出した。剣道、弓道、砲術、馬術、水術、武芸の稽古に励んだ。読書家でもあり、生薬の調合にも精通していた。徳川家康のことを狸爺ということがある。人にねちねちと嫌がらせをするという意味だそうだ。家康の理不尽な一生を見ると自然にそのように行動してしまったのだろう。「生かさず、殺さず、逆らえば殺す」というのも、自分の運命と無縁ではないと思う。徳川260年の礎を作るにあたって、権力は譜代大名に集中し、財力は外様大名に集中させた。権力と財力の分散を図ったのである。なおかつ参勤交代などで、外様大名の財力をそぎ落とす仕組みは実に見事であった。石橋を叩いてやっと渡るという家康だからこそ出来上がったものかもしれない。家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、 こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。 勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。 及ばざるは過たるよりまされり」運命に翻弄されながらも、それを受け入れて、耐えながらも、少しずつ運命を切り開いていった生き方に、森田理論学習をするものとして学ぶ点があると感じている。
2014.01.30
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徳川家康。生涯経済的に困窮したという経験は持ったことがない。ただ戦国の世にあって、自分が戦いの道具として利用される運命に翻弄された。家族のきずなが絶えず外部の力で分断されて生きてきた。1547年家康4歳の時、信長の父、織田信秀に人質として赴く。その時家康の父、松平広忠は仲の良い夫婦であったにもかかわらず、時代の流れでやむなく離婚している。母と生き別れになっている。6歳の時には今川義元の人質として駿府に移った。家康14歳の時築山殿と結婚し、16歳の時長男信康が生まれた。しかし36歳の時織田信長の命令により、やむなく2人を処刑している。愛とファミリーの絆を大切にしてきた家康にとっては痛恨の極みであった。また家康は部下たちの面倒見の良さが注目される。戦で敗れた今川や武田の家臣も登用した。部下たちは家康のために身代わりとなって死んでいくということも何度かあった。人の気持ちを察することができた。そういう家康でも運命には逆らえない。47歳の時、勢力拡大を恐れた豊臣秀吉によって、当時湿地帯であった関東に領地替えを命じられている。家康はしぶしぶながら、その命を受け入れて江戸に移っている。自分の運命はいとも簡単に、他人の力でいきなり壊され、乱暴に奪われるという過酷な運命をたどってきた。それに対して家康は逆らうことはできない。逆らえばすぐに殺される。運命はどんなに理不尽きわまるものであっても受け入れざるを得ない。
2014.01.30
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森田理論で考えてみよう。生の欲望の発揮という面ではかなりの人物である。ところが抑制力は全く効いていない。最初は効いていたのかもしれないが、弾みがついて全く効かなくなった。生の欲望の発揮を野放しにしておくと、秀吉の晩年のように、自ら崩壊してしまう。秀吉は61歳で亡くなっているが、55歳の時に日本全土の統一に飽き足らず、朝鮮に出兵している。特に60歳の時の第二次朝鮮出兵は狂気の沙汰だった。韓国の人にとって、秀吉は極悪非道の侵略者である。日本では英雄のように扱われているが実態は全く違う。生の欲望が野放し状態にされ、その結果最悪の事態を招くことは、躁状態の人を見ればすぐにわかる。生の欲望の発揮には不安、恐怖の感情による制御が大切である。それらが自動車のブレーキの役割を果たしている。秀吉にはブレーキのない車が、坂道を全速力で突っ走っているようなものであった。誰も止めることはできない。秀吉がどういう結末を迎えるかはすぐにわかる。不安、恐怖は邪魔者にしてはいけない。我々の生活にとってなくてはならないものである。活用すべきである。また神経症真っ只中の人は、生の欲望の発揮を忘れて、不安、恐怖を取り除こうとしたり、逃避するのだが、自然の仕組みを無視した暴挙としか言いようがない。これは秀吉と反対の意味で大きな問題である。生の欲望の発揮は森田理論の出発点となる。ただし正常に機能させるためには、不安、恐怖、違和感などを活用して、バランスをとってゆかねば秀吉のように破滅してしまう。
2014.01.29
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次に一旦は天下人と成り上がった豊臣秀吉を見てみよう。秀吉は貧しい家の出身である。そこから成果を積み重ねて天下人になった人である。生命力があり、精力的でパワーがあった。フットワークがよく、その場の変化に即座に対応することができた。根本的には所有欲、種族保存欲、物欲、性欲の塊だったのだろう。マズローでいう、第一の欲望の人間の基本的欲求と第二の欲望である安全の欲求が前面に出ていた。自己自身の高まり、自己実現という欲望とは無縁である。戦利品を手にして、自分の領土が増えて、家系が繁栄することが生きがいだったのである。さらに大阪城築城では金箔を惜しげもなく使い、豪華絢爛な生活を楽しんでいた。生命の安全を確保する、危険から身を守るためにゴットマザーを中心に一致団結していた。こういう人は、戦乱の時代は生き生きと活躍できる。また終戦後の混乱の中でもいち早く会社を立ち上げて大きくすることができる人である。戦後日本経済をけん引する大企業が数多く生まれたが、秀吉もその資格があった。しかし、余計な感情を持たず、情に駆られて悩むような人ではない。無駄な思考を嫌がる。知性におとり、考えるということはもっとも苦手なことなのである。イケイケどんどんでとにかく体を動かし、損得に目ざとく、利害で動くタイプである。信長の部下としてナンバー2の位置で最も力を発揮した。信長のような上司でも、ひとたび忠誠を尽くすととことん尽くす。
2014.01.29
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光秀は信長の気まぐれな言動に翻弄されながら、我慢して耐えてばかりいた。光秀は一時も気が休まることはなく、常に否定され、批判され、拒否され、抑圧され、心の中には、虚しさ、無力感が積み重なっていった。そのうち抵抗する力がなくなり、信長に抵抗することをあきらめていった。これはメダカのような小さい魚を入れた水槽に、その小さい魚を食べる大きな魚を入れてみるとよく分かる。最初小さい魚は食べられないようによく逃げ回る。ところがしばらくすると、小さい魚はどんなに逃げ回ってもいつかは食べられてしまうと悟ってしまう。するともう動き回ることはしない。抵抗することをあきらめて生きるようになる。夢遊病者のようになるのである。でもあきらめても、光秀の心の中では信長に対する怒り、憎しみ、恨みが渦巻き、一発触発状態になっていたのです。その恨みはただ殺すだけでは気がすまない。出来るだけ苦しませて殺したいというほどに恨みが膨れ上がっていったのである。そんな光秀の心の中を、感情を無視してきた信長が気づくことはなかった。ここで森田理論の学習をする我々が学ぶことは何か。不快なイヤな感情は、我慢したり押さえつけたりすると光秀のようになるということです。我慢したり耐えたりしてはいけない。たとえば小さいうちに、言葉にして私メッセージで吐き出すということが肝心ということです。光秀の場合は信長の前ではなすすべがなかったのでしようか。こういう場合逃げてもよかったのではないか。むしろ一刻も早く逃げることが正解だったのではないだろうか。また信長の部下から降りるという道はなかったのでしょうか。それ以外になんでもいいのですが、自分を守るという行動を探してほしかったと思います。戦国時代はそんな甘い考えは許されないのかもしれない。すると理不尽な運命だけれども、それに従って生きるしかすべがないのかもしれない。何ともやりきれない光秀の一生であった。
2014.01.28
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次に明智光秀。59歳で農夫の竹やりを受けて死んでいる。織田信長よりも12歳年上であった。15年間も信長の部下として仕えた。その間信長の冷たい仕打ちをたびたび受けていた。それが本能寺の変で爆発したのである。明智光秀は元々口数の少ない、物静かで穏やかな人であった。自分の領地では、農民の安定を強く望んでいて、農民の税を減らすように努力していたという。戦いでも力で制圧するというより和議に持ち込むというやり方を好んだ。頭脳明晰で学究肌の風流人であったそうだ。戦国時代というのは、光秀にとっては生きにくい時代であったことだろう。今の時代だと研究室にこもり、自分の研究をまとめて学会誌に発表して生活しているような人だったのです。それが第一線の営業本部長を、有無を言わさず押し付けられているようなものなのである。さらに上司はヒットラーのような独裁者であったのだ。戦国の時代に武将として生きたこと、信長の部下であったことが彼の最大の不幸であった。こんな事件があった。本能寺の変の3年前のことだ。光秀56歳。信長45歳の時のことだ。1579年中国地方平定の一環として、信長は光秀に丹波出陣を命じている。光秀は粘り強く説得を重ね、「命を奪わない」という約束を信長に取り付けてやっと波多野秀治兄弟を投降させて幕引きを図った。ところが信長は、その約束を無視して波多野兄弟を安土にて磔にしたという。光秀の努力も面目も丸つぶれである。何よりも面子を重んじる光秀を深く傷つけた。信長はこうした光秀のプライドを傷つけるような行為を繰り返している。
2014.01.28
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私は、信長を見ていて思うのは、感情を味わう、感情を受け入れる、感情に服従するという気持ちはさらさらない人だと思う。かわいそうだとか、いとおしいだとか、悲しいだとか、心苦しいという感情は抑圧する対象として考えていたのだろうと思う。戦闘の邪魔と考えていたのである。そういう感情は拒否する、無視する、否定するというのが身に染みて、習慣となっていたと思う。すると感性は次第に減退してくる。麻痺して感情を味わえない人間に変化してきた。脳は活動をやめてしまった。そしてロボットや鉄仮面のような人間になってきたのです。これが最大の不幸の始まりだったと思う。いくらあふれるほどの能力があり、積極果敢な行動ができたとしても、司令塔がないようなものである。全体を見通し、何を選択してどう行動するかは、何を感じて、どう考えたかにかかっている。さらに悪いことは、他人も同じように感情を持たないロボットのような存在だと思いこんでしまう。だから自分の言動で対人に不満が蓄積して、そのエネルギーがあふれている状態に気が付かなくなるのである。そして最終的には天に唾するように自分に降りかかってくる。それらをないがしろにした行動は、多くの人を不幸の谷底に陥れるような結果になったのだと思う。織田信長は、感情を無視してはいけない。どんなに不快な感情でもきちんと向かい合い味わい、受け入れるということから逃げてはいけないということを教えてくれている。
2014.01.27
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戦国時代を代表する織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康の生き方を順次森田理論で分析してみたいと思う。まず織田信長。織田信長はすぐれた能力を持っていた。智力に優れ、アイデアマンであり、理論家、理想家であった。良くも悪くも思い立ったらすぐに行動できるという積極果敢でまさに闘争的な人であった。戦さでは、無理と思えるような奇襲戦法を用いた。ワンマンで独裁家であった。ユダヤ人を虐殺したヒットラーのような人であった。血も涙もなく、一向一揆などでは、容赦なく民衆を皆殺しにしている。比叡山延暦寺の焼き討ちもそうだ。森蘭丸以外は腹心でも、血のつながった家族でも容赦のない粛清を行い、約束などは平気で破っていた。明智光秀もその被害者の一人だった。15歳の時斎藤道三の娘濃姫と結婚しているが、政略結婚であったという。女性には冷淡で愛情のかけらもない。織田家は上昇志向、権力志向の強い権威主義、選民意識の強い家系であった。一族は互いに殺し合い、能力のあるものが生き延びるという宿命をおっていた。いつもアドレナリンが出ていて、興奮状態で血管が収縮して戦闘モード状態の人間をイメージしてもらうと分かりやすい。父親の信秀からは、2歳の時に那古野城の城主にされ、スパルタ教育、帝王学で常に先陣を切ることを要求されていた。人間的な暖かいふれあいなどは何の意味もない。他人はみんな敵、人間関係は食うか食われるしかないと思っていた。暖かいおもりやりの感情は無理やり押さえ込んで、憎しみ、恨み、猜疑心、妄想などの怒りの感情を膨らませて、衝動的、異常行動へと駆り立てていった。あまりのひどさに信長は、人格障害の疑いがあるといわれている。
2014.01.27
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子供も巣立ち、定年を迎えた夫に妻が、離婚を切り出すことがあるという。夫にとっては青天の霹靂で、なんで今更。「おまえがそんなことを考えていたなんて考えてもみなかった」という言葉が出てくるそうです。奥さんは年金を分割して、退職金も半分ずつにして自分の人生をもう一度やり直したいと思っているのです。こういう家庭は亭主関白だったのではないでしょうか。旦那は「かくあるべし」で奥さんをあごで使い、奥さんの話は、新聞やテレビを見ながら聞き流す。旦那は自分の好きなように、お金を使い、時間を使い、楽しんできたのです。そのつけが表面化してきたのです。これを森田理論の感情の面から考えてみましょう。よくオーナーワンマン社長で部下を虫けらのように扱い、罵詈雑言を浴びせる人がいます。部下は辞めさせられると困るので、黙って社長の言うことに従います。ところがそんな扱いを受けると、部下は不平不満をどんどん蓄積していくのです。ところが、ワンマン社長にしてみると、素直に従ってくれたので何も問題は起きていないと思ってしまう。このままでも部下はどこまでもついてくると思ってしまう。そういうことが重なると、たまに部下が切れそうになっても、反省するということはなく、無頓着に見逃してしまう。つまり、部下の感性は感じられない人間になってしまっているのです。一方部下のほうは、腹立たしさを我慢したり耐えたりしているうちに、痛みに対して鈍感になり、麻酔をかけたように感性が鈍ってきます。ところが、表面では何事もなかったように見えても、無意識の感性の中では憎しみが積み重なり、恨みへと変わっていきます。さらにはけ口がないと、諦めに代わってきます。さめた人間に代わってしまうのです。これは無意識の中で起きていることで、表面的には穏やかなので、はっきりとは気づきません。ワンマン社長がそういう社員を見ると、オドオドして怯えているように見えるのです。そうするとますますいびり倒すことに拍車がかかってしまう。その悪循環の繰り返しです。しかしいったん諦観者が、反旗を翻すと恐ろしいことになります。感情的にその場限りの反抗では終わりません。執念深く、徹底的に相手を打ちのめすまで冷徹な復讐を行います。夫婦の離婚問題は、このような二人の人間関係が長らく続けられてきたということです。溝は深く修復は難しいと思います。却って、普段から自分の気持ち、感情をお互いにぶっつけあっていたほうが、雨降って地固まるように、夫婦のきずなは深まるのではないでしょうか。それほど感情は大切なものです。感情は押さえつけたり、いい加減に扱ってよいものではありません。最優遇対応で取り扱うべきものです。無くてはならない大切なものです。私は「感情取扱主任技術者」の国家試験を設けてもいいぐらいに思っています。それもレベルによって3段階ぐらいに分かれると思っています。それに合格した人が、結婚して親になったり、あるいはリーダーとして人をまとめる仕事に就くべきだと信じています。リーダーというのは、やりたいという意志と素質があるかどうかが重要です。そうでない場合、自分も部下たちも苦渋の葛藤を抱えることになります。
2014.01.26
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赤ちゃん泣き声分析器というものがある。赤ちゃんが泣いたとき、人間に代わって機械が分析する。今泣いたのは、空腹か、退屈か、不快か、眠たいのか、ストレスかを見分けるのである。親はいちいち赤ちゃんを観察しなくてもよい。考えなくてもよい。空腹に電気が点灯すればおっぱいをやる。不快に点灯すればオムツをかえる。退屈に点灯すればおもちゃを与えたり、遊んでやる。親は赤ちゃんを観察しなくてもよい。機械の判定結果だけを見て育児をすればよい。育児の手間暇を省く画期的な機械のように見える。一見便利なようだが、何か違和感を感じるのは私だけではないと思う。森田理論で考えてみた。大きな問題があることに気が付いた。親が赤ちゃんの泣き声を見て観察するというのは、大きな意味がある。泣き声を聞くとすぐに赤ちゃんのところに飛んでいく。もう長いことオムツを変えていないので、オムツを変えてくれと言っているのかな。あるいは、もうおっぱいを欲しがっているのかな。いろんな感情が湧いてくる。そしてオムツを触ってみたり、おっぱいを与えてみたりする。たまには見当違いのこともあるだろうが、仮説を立てて、実行する。間違っていれば、すぐに修正して次に移る。育児は赤ちゃんの観察、感情の発生、思考、行動という一連の流れの中で行われている。感情の発生、感情の高まりは、赤ちゃんとの絆を深めるためには欠かせないプロセスなのです。それが親子のふれあいをつくり、人間的なつながりを作っているのです。それが泣き声分析器では、感情の発生はなく、いきなり処置を押し付けられる。つまり強制労働をさせられているのと何ら変わりがない。無駄な操作はなくなるかもしれないが、育児の楽しみがなくなり積極的に赤ちゃんとかかわることができなくなる。つまり自主的、創造的かかわりではなく、強制的、義務的行動となる。そういう行動はストレスとなるばかりか、育児に興味が持てなくなり、最後には育児放棄という方向に向かってしまう。だから、たとえ面倒でも、赤ちゃんの観察は機械にやらせてはいけない。親が自分でしないといけないと思う。
2014.01.25
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腹が立つとすぐにきれる人が増えているという。本来は腹が立っても、ストレートに出しては人間関係が一挙に壊れてしまうのでセーブがかかる。反対に神経質者の場合は、すべて我慢する、耐えるという傾向があるようだ。そういう人は配慮過剰型の人間である。他人同調性が高い人である。私はそれがすべて悪いことではないと思う。バランスを意識していないのが問題である。神経質な人に必要なのは、感情はすべて受け入れる。マイナスの感情も、プラスの感情もよく味わう。不快な感情はできるだけ言語化して私メッセージで小さいうちに吐き出すことが肝心であると思う。次にゲーム、アルコール、買い物癖、過食、ギャンブル、セックス、株式投資などにはまり込んでしまう人がいる。のめり込む。中毒化してくるのである。神経質者は動き出すまでは、なかなか時間がかかる。ところがいったん動き出してしまうと、坂道を転がる雪だるまのようになり、弾みがついて止めることが困難になる。この人たちは、人間に備わっている制御機能が、自然に働いてセーブすることができない。すると時間を浪費する。自分の体を壊す。経済的破綻をきたす。人に迷惑をかける。考え方が一つのことに偏り、周りが見えなくなる。視野狭窄に陥り、自己否定するようになり、抑うつ状態となる。こういう人は森田理論学習ですすめていることを実践したらよいと思う。いくら心残りがあっても30分から1時間たつと一旦止めてしまうのである。そして次の作業に取り掛かる。これができるようになれば、そういう能力を獲得したことになる。とにかく生活のバランスを崩してしまうと、森田的生活とはかけ離れてしまうということをしっかりと認識すべきだろう。
2014.01.24
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私は森田理論学習で精神拮抗作用、不即不離の考え方が好きである。世間ではバランスをとる。調和をとるという考えだと思う。宇宙の営み、自然の動きは最終的には調和を求めて動いています。物事にはプラスがあればマイナスがある。両面観で見ないと物事を見たことにはなりませんよ。感じから出発して理知で調整するというのもバランスを意識して行動しなさいということだと思います。私はバランスということで「やじろべい」をパソコンの近くに置いている。バランスを常に意識するためである。私はバランスをとるということではサーカスの綱渡りをイメージしていた。地上からはるか高いところに綱を張って、長い物干し竿のようなもので、バランスをとって前進するイメージである。ところが最近は体操の平均台のようなものをイメージするようになった。平均台は10センチぐらいの幅がある。その上で手を横に開いてバランスをとって前進することは、比較的楽にできる。何も綱渡りのような難しいバランスのとり方をイメージしなくてもよいのではないか。それだったら誰でもバランスは取れるのではないか。平均台の幅にあたるものは何か。それが森田理論の学習だと思う。基礎編として、神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則の学習。応用編として森田理論全体像の学習。「生の欲望」の学習、不安と欲望の関係、「かくあるべし」をはじめとする「認識の誤り」の学習、「純な心」を中心とした事実に服従する考え方の学習。これらを学習すると幅が拡がる。そのうえで、バランスを意識して生活すれば、生活が破たんすることはないと思う。
2014.01.23
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最近帯状疱疹という病気になった。1週間前ぐらいに背中がかゆかった。孫の手でかいていた。ところがその後、腹や胸、わき腹がかゆくなった。そのうち針の先でつついたような痛みが出てきた。その痛さが24時間続くのである。以前痛風の発作が起きた時も痛かったが、今回の痛みはそれ以上だった。最初は皮膚がんだろうか。内臓に問題があるのではなかろうかと気をもんだ。急いで医者にかかりやっと原因が分かった。ウィルスの仕業らしい。人にうつることはないという。薬を飲んで、塗り薬を塗っていればそのうち治るという。あまり痛いときは鎮痛剤を飲んでくれと言われた。原因が分かってやっと安心した。ところが激痛はそのまま続いている。私はその時はっと思った。対人恐怖で会社で孤立していた時のことである。その時とおんなじだ。アリ地獄の底に落ちてもがいていた。自分ではどうしてよいかわからない。心は傷つき、誰でもよいから心の痛みを取ってほしい。なんとかしてほしい。急いで精神科にかかった。抗不安薬をもらって飲んでいた。そして思い切って集談会のベテラン会員に相談した。よく話を聞いてもらった。愚痴を聞いてもらった。相談できる人がいて、話をするだけで随分と楽になった。この人の存在が大きかった。その人のアドバイスに従って布団揚げ、下駄箱、本箱の整理、風呂掃除などに手を付けてみた。一挙に改善はしなかったが、対人恐怖を持ったまま行動できることが分かった。行動していると、新たな感情が湧いてきて、症状のことを忘れていたという経験もした。その時症状を持ったまま、行動できるという能力を身につけて、なんとか会社を辞めずに済んだのだと思う。帯状疱疹も、もう少しこの痛みに耐えながら、ぼちぼちと仕事をしてゆこうと思う。
2014.01.22
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訪問営業の人の認知の誤りを考えてみた。見込み客がいても、「もし断られたらどうしよう」という気持ちになって積極的になれません。何度か断られているうちに、気持ちが及び腰となっています。最低限のノルマを達成することはなく、70%かそれ以下の達成率に甘んじています。上司からはわが社のお荷物だといわれています。数多くの見込み客に合わなければ、ノルマは達成できないのは分かっていますが、断られて自分が傷つくことを恐れています。こういう営業マンはどういう「かくあるべし」があるのでしょうか。・お客さんは自分の提案を快く受け入れるべきだ。・断る時でも、自尊心を傷つけるのは人間性に問題がある。・断られるということは、自分の人間性が否定されるということだ。・断られると、もう自分は何をやってもダメだと思う。・その不快感は絶対に味わいたくない。認知行動療法では、この「かくあるべし」の認知の誤りについて考えて行きます。・たとえ断られても何も損をすることはない。気持ちが落ち込むことはあるが、実質的に実害は何もない。・断られることなく、物が売れるということはあり得ない。車の飛び込みセールスは100件で1件の見込み客が見つかるという。さらに、考えてみると・よく売る人に同行営業していると、よく断られる。嫌な顔一つ見せずに、とにかくよく訪問する。断られる数をたくさん作らないと、結果的に物は売れない。・断りに耐えながら仕事に向かえるというのは、一つの能力だ。訪問営業の仕事をしているのだから、最低限そういう能力を獲得しよう。その行動を後押しするために、自分で自分にご褒美を出すことにしました。7件断られたら、30分の休みを取ってもいいことにしよう。50回断られたら、居酒屋で飲もう。500回断られたら海外旅行をプレゼントしよう。こうして認知の誤りを正していくのだそうです。私はこの事例をもとにして、集談会などで、多くの人から認知の誤りを出してもらって深めていくのが有効だと思います。また行動を後押しするために、自分で自分にプレゼントを考えてみるというのは参考にしたいと思っています。
2014.01.22
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皆さん、こういう体験はありませんか。ドライブ中、CDを聞いているとします。何度も同じCDを聞いているとすると、ある曲が終わって次の曲が始まる前に、次の曲のイントロが自然に口をついて出てくるのです。実に不思議です。口をついて出てくる曲は、間違いなくその曲なのです。15曲から20曲ある中で間違いなく、次に演奏される曲を口ずさんでいるのです。これは意識している部分ではわからないのですが、無意識の感情の部分でははっきりわかっているのです。無意識には恐るべき力があります。人によっては意識している部分は1割で、その裏に広大な無意識の部分が横たわっているといわれます。無意識の感情が我々の生活に大きな影響を与えているということです。顕在意識では、前に進まなけばいけないと思っても、体は自然後ずさりしているというのは、無意識の感情の反応です。無意識の部分は、意識で納得させることはできません。また無理やり、無意識の感情を意識化しようとすると問題が発生します。私はアルトサックスを吹いていますが、一番うまく演奏できるのは、指の動きを信頼して、無意識で淡々と吹いているときなのです。ところが途中、頭の中で前触れもなく意識化が起きるのです。大脳新皮質の前頭葉が動き出すのです。演奏中、一瞬上手く吹けるだろうか。ここはよく間違うこところだ。うまくいくだろうか。なんか不安がよぎることがあります。そんな時はちょっとしたパニックになります。それにとらわれているといってもよいと思います。そんな時は、ほとんど間違えてしまいます。イチローは、試合がある時は、ルーティーンの流れ作業をこなしていきます。起きる時間、いつものカレーを食べて、いつもの時間に球場につく。同じ時間にいつもの機械体操をして、打撃や守備練習をこなす。打席に入る時のストレッチ、打席に入るまでの歩数。打席でのしぐさすべて同じことを繰り返す。私には、これは無意識を意識している行動に見える。意識がししゃり出てくると、意識が分散して気が散ってしまうのだと思う。それがあるとヒットを打つための障害になる。イチローは無意識を意識している。それが打撃で成果を上げるために一番重要だということをよく分かっていると思う。これらのことから言えることは、意識化できていることを第一にして行動を起こすことは思い通りにはならないことが大きいということです。難しいことだが、無意識を信頼して行動していく。それが正道ではないのか。森田理論でいえば、「かくあるべし」ではなく、心の中の自分の本当の気持ちや感情、それを探し出して、その気持ちから出発していく。これが大事だということです。
2014.01.21
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学校に行っていたとき勉強もよくできる、容姿も申し分ない、運動もよくできる、歌や楽器の演奏もうまい。明るく元気で、みんなをよく笑わせてクラスの人気者である。家庭も裕福である。そんな人が一人や二人はおられたかと思います。すべての面で人より優れているのです。平均点以上の人です。私はそんな人のいいところと自分の劣っているところを比較して、劣等感に陥っていました。でも普通は、いいと思うところもあれば、弱点や欠点もあって釣り合いが取れています。「やじろべい」のバランスということから考えてみると、プラスとマイナスがあってそれが釣り合って調和がとれているということです。世の中のバランスは大体そうなっています。すべてがオール5というような人は、多方面に優れているので、自分の進路や仕事の選択に迷うのではないでしょうか。また、これで失敗してもまだ次があるということで、真剣になれないこともあると思います。選択するということは、未練のあるもう一つの方向をあきらめるということです。つらい選択ですが、自分の人生にとっては必要なことです。日ハムの大谷選手なども二刀流といわれていますが、早く一本に絞ったほうがいいのではないのかと個人的には思っています。プロ野球の元楽天の監督の野村克也氏は、プロ野球の選手で走攻守の3つがすべて平均以上という選手はそういるものではない。ましてや、すべての面で超一流の素質を持っている人はめったにいない。またかえってそういう平均的な選手というのは、プロでは使いようがない。それよりも、粗削りだが、これはと注目できる一点を持っている人ほど将来性がある。プロで飯を食っていける可能性がある。つまりどうしようもないものを持っているけれども、何か光るものを持っている凸凹の人が活躍できる可能性がある。そういう個性的な人がよいといわれています。その差が大きく、そしてバランスが取れているということが大切だということです。こうしてみると大きな弱みや欠点は、その裏に大きな強みや長所があるということです。自然にバランスが取れているのです。それを発掘して磨きをかけて生きてゆけばよいのです。これを反対にとって弱点、欠点を無くしていくことに注力すれば、強みや長所はどんどん失われていくのだということをよく認識したいものです。
2014.01.20
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事実は事実通りに見ることができればいいのです。ところが我々は事実をすぐに自分なりに解釈してしまいます。勝手に解釈してそれがいいとか悪いとか価値判断しているのです。例えば一升瓶に日本酒がいっぱいに入っていたとします。半分ほど飲んでしまいました。「わあ、もう半分になってしまった。」といって不快感に支配されてしまうか、あるいは、「まだ半部も残っている。まだまだ飲めるな。」と思うかは大きな違いです。私はネット麻雀が好きで毎日半荘だけ楽しんでいます。私が思うには朝から晩までマージャンにはまっている人がいると思うのです。そういう人はえてして配パイや引きパイがよいのです。つまりよくあがるのです。それが積み重なるとパチンコなどと同じように裏で操作しているのではないのかと勘繰ってしまうのです。マージャンはうまくなると1000回ぐらい勝負をすると大体1位25%、2位25%、3位25%、4位25%の確率で勝敗が平均化されてきます。勝ったり負けたりするのが楽しいのです。人生と同じです。ところが負けが込んでくると自分が勝手に解釈して自暴自棄になってしまうのです。イライラしてどうしようもなくなるのです。こんな話もあります。大手の会社を若くしてリストラされました。すると会社、上司に対して腹が立ちます。自分は真面目に仕事をしてきたのに、会社の仕打ちは何だ。悔しい。この就職難の時代、次の仕事は見つかるだろうか。自分の人生はもう先がないかもしれない。そう考えるとなにもやる気が起きてこない。この場合事実はリストラされた。仕事を失ったということです。それを自分の解釈という色メガネをかけてみると、いかようにも事実が見えてしまうのです。会社や上司を恨んでみたり、自分の能力や自分の将来を悲観してみたりするのです。やけ酒を飲んだり、知り合いにグチをいうことが関の山です。もし事実を認める、受け入れるということに徹することができたら、そこを出発点と考えることができたとすれば、目の付けどころは全く違ってきます。次の再就職のためにキャリアアップのために技術や資格取得の勉強や研修会へ出席するようになるかもしれません。ハローワークで仕事を探す。転職サイトで仕事を探す。知り合いにも尋ねてみる。転職セミナーで履歴書の書き方、面接のしかた、自己の職務経歴書を作成する。自分の強みと弱みを分析する。等のことに取り組むようになります。森田では事実に解釈や価値判断はいらない。事実をよく観察して、事実をその通りに認識する。事実を受け入れて、事実に服従するという態度を養うことを目指しています。大変険しい道ですが、少しでもそういう態度が身につけば、以前とは全く生き方が変わってきます。
2014.01.19
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よく大相撲で平幕が横綱に勝って金星を挙げた時インタビューでこんなことを言っています。「よくもろ差しからまき替えができましたね」「もう無我夢中で、どんな取り口だったか全然覚えていません」勝つことだけを考えて必死だったため、振り返って分析することさえできないわけです。王貞治さんは次のようにいっておられます。「ピッチャーが球を投げてからキッチャーミットに入るまで、0.5秒ほどしかかかりません。その0.5秒の間に球を見極めて、バットを振るか振らないか決め、振る時はヒットやホームランをねらわなければなりません。これはもう感覚いうか、反射的に体が動くかどうかにかかっています。理屈で考えてできる世界ではありません。瞬時に、的確に動けるようにするにはどうしたらよいのか、僕はそういうことをいつも考えていました。」33歳で三冠王を取った時は心、技、体が最高に研ぎ澄まされていました。迷いがなくピッチャーの投げる球に集中できていました。意識が自分の心や身体に向けられるということはなかったといわれています。するとボールが「どうぞ打ってください」と言わんばかりにゆっくりと来たというのです。相手ピッチャーはヘビににらまれた蛙のように、王さんの目つきを見て縮み上がっていたというのです。ここで私が何を言いたいかというと、神経症は自分の意識を内に向けて、自分の心身の状態を細かく分析するようになっています。こういう意識の向け方ばかりをしていると、いずれ蟻地獄の底に落ちてしまうということです。自分の意識は、90%は外向きに向いていないといけません。森田先生がまき割りの時指導していたのは、意識をこれから割ろうとするまきに集中させることでした。意識が内向化して、自分の手の動きやけがをしたらどうしようなどという不安のほうに向いていてはまき割りはうまくゆきません。自分の不安心や身震いする体に意識を向けるのではなく、常に対象に働きかけるという姿勢を堅持しないといけません。王さんのエピソードはまさにこのことを物語っています。
2014.01.19
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森田理論学習をしたものとしてもう一つ考えてみたいことがあります。なぜ訪問販売の仕事が怖くなったのですかということです。それはお客様に断られて自分が傷つくことに耐えられないからです。自尊心やプライドが傷つくと社会的に抹殺されたように感じて、生きていく力がなくなるのです。つまり私には、「人からバカにされるような人間になってはいけない。バカにされるような人は人間のクズだ。」「いつでも人から一目置かれて、尊敬されていないと居心地が悪いのです。」そういう「かくあるべし」で自分を規制しようとする気持ちが強いのです。森田理論の「認識の誤り」で学習しましたが、観念で考えた理想から、現実のふがいない自分をみて、叱咤激励するのは苦しみを生み出します。そのあたりのこと、普通の人はどう考えていると思いますか。ひとつ無理してでも考えてみましょう。「普通の人は断られて不快な気分になるのは当たり前です」「断った人は、何もあなたの人間性や人格を否定しているのではないですよ。ただ必要ないから断っているだけですよ。なんか勘違いして、一人落ち込んでいませんか。」「自動車の飛び込みをやっている人は100件断られて1件の見込み客が見つかればいいほうだという。1件で断られても落ち込んでなんかいませんよ。」「セールスで成績を上げている人は決してセールス話法だけで勝負しているわけではありませんよ。多くの人に会い、最も多くの屈辱の言葉を受け続けた人だという事実を考えたことがありますか」「会う人会う人すべてあなたの思い通りに買ってくれることなんかあり得ないじゃありませんか。そんな常識的なことを考えてみたことはないんですか。」こうしてみると私には多くの認識の誤りがあり、それに気が付かないで流されているために、ますます否定的な考えに支配されていたのですね。この認識の誤りは集談会で聞いてみるとまだまだでてきそうですね。特に「かくあるべし」のほか次の4つの視点から考えてみてください。1.色メガネをかけてみていませんか。一部分しか見ていない。全体的に見ていない。悪いほうだけしか見ていない。よい面は無視している。両面感で見るとどうなりますか。2.物事をマイナス面からしか見ていない。物事には必ずプラス面や前向きな面もあります。その面に注目してみてください。テストで頑張ってよい点を取ったのに、「そんなことは大したことではない」と評価しないなど。3.物事を大げさに、飛躍させていませんか。事実から離れて、小さなことを、大きく膨らませていませんか。4.つい悪いことを予想してしまう。何の根拠もないのに、人は自分を嫌っているはずだと判断する。やる前から悪い結果が出ることを確信している。感じから出発するということと認識の誤りを正していくという、2つの心掛けるべき大切なことがあったのですね。
2014.01.18
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私が以前携わっていた訪問営業の仕事について書いてみます。仕事をしているうちに訪問するのが怖くなりました。私はそんな弱気を出してはいけないと空元気を出して、無理やり仕事場に向かっていました。でも体は正直なものです。顔は引きつり、怯えているのですから、人に会うことすらできません。森田理論学習をしている今だったら、怖い自分の味方になることができます。怖かったら仕事を休んでもいい。さぼってもいい。逃げてもいい。なんだったら辞めたっていいんだ。怖いのに無理することはない。それが正直な気持ちなんだ。仕事を続けるにしても、ノルマなんか達成しなくてもいい。辞めさせられない程度の仕事でもいい。そういうともう一人の自分が、でも辞めたら家族の生活費はどうするんだといいます。そうだなあ。辞めるとたちまち生活できなくなるなあ。また不況だからすぐにいい仕事は見つからないかもしれない。それだけは何としても避けなければいけないなあ。そしたらその真ん中をとって、昇進はあきらめる。ボーナスが少ないのを我慢する。左遷されても甘んじて受ける。嫌な部署に回されても、安易にやめないで移る。人から出来損ないといわれても受け入れる。それだったら何とかできそうだ。家族のために生活の糧をとってくることに徹すれば何とかなる。そして次に自分のやりたいことを見つけておこう。会社の上司や経営者が聞いたら、あきれてものが言えないかもしれません。でも感情を大事にして、理知で調整すると、こういう対応になると思います。自分の心は矛盾を起こしていませんので生きてゆくことができます。
2014.01.18
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私は現在マンションの管理人の仕事をしています。仕事をしていて気づいたことがあります。仕事はやりすぎてはいけないのだなということです。清掃業務があります。解放廊下はごみの拾い掃きをすることと決められています。ところが他棟の管理人さんが、毎日モップ掛けをしていました。居住者の人のためにサービスでしていたのです。それはきれいになるので居住者に喜ばれていました。ところがその管理人さんが都合で辞められました。次の管理人さんは会社での指示通り毎日拾い掃きをしていたのです。すると理事長さんから、「前の管理人さんは丁寧に仕事をしてくれていたのに、今の管理人さんは手を抜いているのではないか」といわれました。その管理人さんにとっては、心外なことです。管理会社に相談したところ、今まで通りモップ掛けをしてくれと言われました。前の管理人さんがサービスで仕事をするのが習慣になっていたため、次の管理人さんも、管理会社もとんだとばっちりを受けたのです。昔から「過ぎたるは及ばざるがごとし」といいます。やりすぎは自分に相手がそれだけのことを期待するのが当たり前になり、元に戻そうとしても無理なのです。私は決められた仕事の範囲内でならどんなに工夫をしていってもよいと思います。それで評価を上げることはよいことです。ところが本来やるべきことに手を抜いて、目立つところで手柄をあげようというのは本末転倒ではないのかと思っているのです。私の現役の時でも営業成績で、史上初のトップの営業成績を上げて表彰されて喜んでいた人がいます。ところが次年度その成績を基にして計画を上乗せされるものですから、たまったものではありません。いつまでも成績を伸ばし続けるというのはよっぽどのことだと思います。私は「ほどほど」な生き方が好きです。ただこの考え方には反論もあることでしょう。
2014.01.17
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考えてみると、私の人生の大半は対人恐怖との戦いだった。家では小さいころから親に指示、命令、強制、脅迫で育てられ、親の機嫌を悪くしないように気を使って育ちました。父親に叱られるということにいつもおびえていた。学校に入ると同級生に仲間外れにされないように、いつもその場の空気を読み、仲間の気に障るような言動は避けてきた。クラブ活動もしないで、学校が終わると急いで家に逃げ帰っていた。唯一大学ではクラブ活動で和気あいあいと楽しく過ごせた。ところが社会人となると途端に対人恐怖症で悩み始めた。上司や同僚、部下などの視線を気にして、一人浮き上がらないようにみんなに合わせてきました。途中たまらず1回転職した。転職した後は、森田に出会ったおかげで、なんとか定年までこぎつけたが、苦難の歴史だった。ギリギリの会社勤めだった。自分を押し殺し、他人の思惑に合わせてばかりだったため、いつも暗い雲が垂れ込めて、いつ雨が降り出すかわからないような心境だった。とにかく砂を噛んで生きているような苦しさだった。しかしそれも私の運命だったのだと思う。苦しかったけれども、そのおかげで森田理論に出会ったということはラッキーだった。すべて自然の流れだったように思う。対人恐怖が無かったら森田理論に出会うことはなかったはずだ。苦しむことがない代わりに、苦しみを乗り越えて一回り大きな人間に成長する機会も与えられなかったのだろうと思う。そういう課題をしっかりと認識できて、日々研鑽を重ねる機会を持てただけでも幸せな人生だと思うようになってきた。今では対人恐怖で悩んでいる人に、私の体験を伝えたい。参考にしてもらって早く克服してほしい。そういう生きがいも生まれてきた。苦しみを克服することは、ただ単に楽になるだけではない。困難を乗り越えるという貴重な体験が持てるということであるし、人生観が変わり、味わいのある人生を送る可能性が生まれるということである。このブログもその一環として考えている。
2014.01.17
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朝目覚めると風邪気味で体がだるい。でも今日は大事な得意先の人が来られることになっている。休むことはできない。こんな時、普通は無理やり布団から起きだして、準備をして出かける。仮病を使って休む人は気分本位の人です。ただこの時、「会社を休みたい。行きたくない」という第一に沸き起こった感情を無視しているか、あるいは受け入れているかは大きな違いです。この時大事なことは、その自分の感情を受け入れているのかどうかということです。反対に、嫌だという自分の感情を目の敵にして抑圧していると大変なことになります。まず、抑圧するためにエネルギーを無駄に消費することになります。本来自分のために使うはずのエネルギーを抑圧するために使わざるを得なくなるのです。次に自分の感情を無視していると感情が鈍化してきます。麻痺して湧いてくるべき感情が湧いてこなくなります。感情を持たない鉄仮面のような人間になってしまいます。さらに、「かくあるべし」で自分を奮い立たせようとすると、理想と現実のギャップで苦しむようになります。そして自分のふがいなさに対して自己嫌悪するようになります。自己否定するようになると、自己が内部分裂します。自分の中にいる二人の自分が争いを開始しますので、自分が確信をもって行動できなくなります。その結果、自分の存在価値は忘れ去られて、他人の思惑に振り回されるようになります。逆に言えば、最初から嫌だという感情を素直に受け入れると安楽になります。葛藤することがないからです。嫌だという感情から出発する。そしてその後、その場の状況に合わせて行動できるような人は、素晴らしい能力を持っているといえます。森田理論学習では、そうしたことが自然にできるよう、その能力を身につけましょうといっているのです。この能力は最初から備わっている人は多くはいません。特に神経質者の場合はそうです。後から獲得できる能力ですから、一緒に学習を重ねましょう。森田理論の核心部分ですが、学習と体得によって必ず身につけることができると思います。
2014.01.16
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2014年1月よりNISAが始まった。株や投資信託などの運用益や配当金などに対して一定額まで非課税という制度である。証券会社や銀行などからNISA口座の勧誘の連絡があったことだろう。普通は中身を確かめないでほったらかしという人も多いのではなかろうか。NISA口座を作るか作らないかはその後差別を受けることになる。今まで運用益や配当金などは、10パーセントが税金として差し引かれその後の90パーセントを受け取っていた。ところがNISA口座を作っていない人は、今後20パーセントの税金が差し引かれることになる。とくに定年退職した人などは、要注意である。このような改正は普段からアンテナを張って積極的な情報をキャッチしていないと見逃してしまう。税理士、社会保険労務士、金融に詳しい人、道路交通法、介護士、医療関係者は詳しい人はいろんな注意すべき情報を持っている。集談会に参加しているといろんな職業の人がいる。そういう人から一口ワンポイント情報として情報提供してもらうことが役に立っている。森田の勉強会で人が集まるということは、こういう利点もあるということです。森田理論の学習ばかりでなく、柔軟に集談会を開催してもらいたいものです。
2014.01.16
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細川元総理が東京都知事選に立候補した。小泉元総理とタッグを組んで脱原発を争点にするという。都知事選は誰が選ばれるかはよく分からない。ただしこの脱原発という主張には重大な関心事をもって注目してゆきたい。私が脱原発を支持するのは、森田理論学習を基盤にしている。森田理論学習では、我々は自然を思うがままにコントロールしてはならないという。感情、自然現象も人間のあくなき欲望のままに、人間の支配下に置こうとするとローマ帝国が滅亡したように、必ず人間社会、自然環境は破壊されてしまう。破壊された後では、元に戻すことは困難をきわめる。コントロールしてもよいのは、将来に明るい展望が開けるものと他の人の役に立つことの2点のみである。原発を推進すると、明るい将来は開けてこない。今生きている日本人はよいかもしれないが、将来の子供たちに核廃棄物の処理を先送りすることである。それも核廃棄物はどんどん増え続き、加速度を増して問題を拡大する。脱原発の世論が一般的になると、ドイツのように原発撤退に向けて動かざるを得なくなるだろうと思う。
2014.01.15
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今の自分をほめてみよう 平木典子著を参考にしています。ある女性秘書の話です。部長から与えられたメモをもとに、パソコンで書類を仕上げる仕事が多く、最初は自分なりに工夫して目立たせる部分を枠で囲ったり、書体を工夫して作っていました。ところが、「これではだめだ。書き直しなさい」と、たびたび部長から突き返されました。本当は自分の考えた通りにするほうが、会社にとってはベターだと思われるのに、その秘書の女性は反論できませんでした。自分の本位を曲げて、部長の言う通りにしました。そんなことを繰り返しているうちに、「だんだんと自分の中でああしたい、こうしたいという気持ちがなくなってきた」といわれるのです。「自分が思った通りに作っても、どうせ気に入ってもらえないのだから、もう何も考えずに、気に入れられることだけを考えて作るようにしました。」これは自分の意見を言いたいという気持ちを押し殺して、無理やり相手に合わせているということです。これは嫌な気持ちがどんどん蓄積されてゆきます。蓄積された嫌な気持ちはストレスとなり、どこかではけ口を求めるようになります。また、そのように自分の感情を押し殺していると、脳のほうはもう感性は必要ないのだなと判断してきます。すると感受性は鈍化してきます。麻痺してきます。腹立たしさ、怒りを感じられない人間になってしまいます。さらにそうしたマイナス感情のみならず、プラスの感情にも鈍感になってくるのです。感情のないロボットのような人間というのはとても気味の悪いものです。人間にとって、感性を拒否しないということはとても大事なことだと思います。
2014.01.15
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NHKのプロフェッショナルに囲碁の井山裕太さんが出ていた。この人は囲碁の7大タイトルの6つを持っているという。雲の上のような人である。井山さんは江戸時代の対局も研究しているような人だ。定石はすべて頭に入っている。その井山さんが次のように話していた。囲碁は人まねでは勝てない。だから常識から外れていても、直感的に自分が信じた、自分が打ちたいと思った手を迷わずに打つ。目の前に強敵がいると、どんな手を打っても、これは間違っているのではないかと後悔していたが、今では自分を信じて打ち切る。これがプロフェッショナルですね。これを森田理論に置き換えるとどういうことになるのだろうか。実に興味深い。これは、私は自分の感性を信じるということではないかと思う。森田理論でいう「純な心」を信じるということだと思う。ふと沸き起こった感情を信じる。不安、恐怖、悲しみ、苦しみ、嫉妬、好きか嫌いか、楽しいのか苦しいのか、快適なのか不快なのか等々の感情を第一に信じる。これではないだろうか。普通はそれらを抑圧したり、無視したり、拒否したり、否定している。その結果悶々とした生活を送る羽目になった。症状として固定して、蟻地獄の底に落ちて来た。「純な心」を全面的に信頼する。どんなに困難なことがあっても、そこから出発するんだという強い意志を持つということ。これが神経症に陥った私たちが進むべき道ではあるまいか。くしくも井山さんがたどり着いたところと同じ地点であった。
2014.01.14
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NHKスペシャルのJAPAN BLANDをみた。元気がでる番組だった。自分たちの国が何十年もかかって作り上げてきた生活インフラは、日本人にとってはそれが当たり前になっている。そのシステムやノウハウの素晴らしさに気が付くことはない。ところが東南アジアなどの新興国にとっては、のどから手が出るほど欲しいものだらけだったのである。たとえば温水の水洗トイレなどは驚きを隠せないようである。番組では、北九州市がベトナムに、水の浄化システムの生活インフラをシステムとして売り込んだという。地方自治体には、生活関連インフラのノウハウの蓄積は素晴らしいものがある。それが彼らに受け入れられた。それ以外に上海にスーパー銭湯の運営のノウハウの売り込み。JR東日本の列車運行システムの売り込み。日本には列車を1分30秒ごとに事故もなく運用できる技術がある。ICカードの利用などは驚くばかりである。またエキナカの商店街の運営、宅配便の運用、移動健康診断車両、学習塾の売り込み事例などが紹介されていた。リサイクル関連で33兆円、水の浄化システムで87兆円、鉄道運行ノウハウ関連で22兆円のビジネスの様子が紹介されていた。今まで日本の経済は家電を中心とした製造業が担ってきた。ところが韓国や中国が追い上げてきて、今や青色吐息である。それらはもう韓国や中国等に任せたらどうだろうか。今や官民挙げて次期成長産業なるものを探しまくっている。なかなかこれといったものがないのが実情なのである。バイオや遺伝子、医療の分野にしてもアメリカなどに後れがちである。そういう新規分野を開拓するのも必要だろうが、もっと自分たちの作り上げてきた生活インフラのシステムを見直してみたらどうだろう。開発途上国に行けば、日本の技術の素晴らしさはすぐにわかる。ところが自分たちは「井の中の蛙大海を知らず」状態になっている。自分たちの持っているもの、長所、得意分野、素晴らしさを再認識することにも力を入れるべきではなかろうか。開発途上国には14億人、未開発国には40億人が暮らしているという。日本の生活インフラの運用ノウハウは必ずや役に立つことだろうと思う。自分たちにしかできないことで、人に役に立つこと、人が喜んでくれることは必ずや成功すると思う。神経症で苦しんでいる我々も、自分たちの持っているもの、長所、得意分野、存在価値を根底から見直して、それらをいかに活用してゆくのかを見つめてゆくべきだと思う。森田理論では、唯我独尊という。自分たちの可能性を見つけ出し、できうる限りの最高の生き方と能力の活用に邁進することである。
2014.01.14
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こうしてみると、認識の誤りは、すべて頭の中で思考していることです。またその思考方法は次のような特徴があります。物事をよく見ていない。具体的でない。先入観が強すぎる。思い過ごしである。否定的である。極端である。飛躍しすぎである。抽象的である。調和に欠ける。自分勝手である。などです。このことを考える前に、よく理解する必要があることがあります。それは森田理論の中に出てくる、「純な心」です。事件や物事に遭遇した時、とっさに感じる感情のことです。最初に感じる感情。直感や初一念といいます。認知行動療法でいう「認知の誤り」というのは、そのことではありません。森田理論でいうと、初二念、初三念といわれるものです。初一念はすぐに忘却の彼方に飛び去って、すぐに初二念などが出てきますが、これが感情だと思っているのです。正確にはこれを認知と言っているわけです。つまり認知行動療法では、頭の中で過去の経験を加味して、解釈する考えには「認知の誤り」があるといっているのです。そういう意味では、森田理論でも認識の誤りは、よく理論学習の中で出てきますので間違いではありません。そういう認識の誤りはよく自覚する必要があります。そして普通の人のように、考え方のゆがみを修正していく必要があります。しかし森田理論は、「認知の誤り」の学習よりももっと重要なことがありますよと言っているのです。ここが最も肝心なところです。それが「純な心」の生活態度を身につけるということです。そういう意味では、私たちの行動は、常に直感、第一に感じる感情から出発する。その後に発生する、頭で考えた認識の誤りにあたることは、基本的に無視するという生活態度になることができればよいということになります。現実には好き嫌い、快不快から出発して、その時、その場に合わせて行動を調整しながら生活するということです。この考えのもとには、認知行動療法は、不安は生活や生き方に悪影響を起こしている憎き相手だから取り去るべきものであるという視点が見え見えです。森田理論では不安は人間にとってなくてはならないもの。親友のようなもの。不安を取り去ろうとする限り、事態はより深刻になっていく。不安に学び、不安を活用して、生の欲望の発揮に向かって進んでゆきましょう。そういう人間賛歌の理論なのです。
2014.01.13
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5、 選択的注目。自分の先入観で些細なことやネガティブなことばかりを気にする。物事を両面観でバランスよく見ることができない。テストでおおむねできているのに、間違ったところばかりを気にして落ち込む。職場での考課表でプラスの面があるのに、マイナスの評価ばかりに目が向き、劣等感に陥る。6、 個人化。自分の周りで良くないことが起こった時、自分に責任がないような場合でも、自分のせいにしてしまう。罪の意識を抱く。罪を償わなくてはいけないと考える。自分の子供が学校の先生にいつも叱られているのは、親のしつけが悪く、優柔不断だからそうなったと考える。自分に関係のないことまでも、ネガティブに自分に関係づける。自分の責任でもないのに、それを引き受けて過度に思い悩んで苦しむ。7、 結論の飛躍。特にたいした根拠もないのに、悲観的な結論を出してしまうことです。たとえば、あなたが大学の先生で、とても素晴らしい講義をしたとしましょう。しかしあなたは居眠りをしている学生を見つけました。実際にはこの学生は前の晩はコンパで飲みすぎて疲れていたのですが、あなたは、「どの学生も私の講義を退屈がっているのだ」と考えてしまうようなことです。8、 自分の感情を根拠に決めつける。自分の感情が現実を証明する証拠であるかのように考えてしまうことです。たとえば、「自分が何をやっても、うまくいかなくダメな人間のように感じる。その感情が湧くことが何よりダメな人間の証拠だ」や「私はあなたに対して腹を立てている。これは、あなたは価値のない人間であることの証拠のようなものだ」などのように考えてしまうことです。9、 「かくあるべし」的思考。自分に対して、他人に対して「○○しなければならない」「○○してはならない」と規範で行動を規制しようとすること。これは森田理論学習で大きく取り上げています。10、 レッテル貼り。自分や他人に対してレッテルを貼って決めつけることです。たとえばスポーツで失敗をしたとき、「私は何をやっても失敗する」と決めつけたり、他人が失敗をしたとき、「あの人は能力のない人」と決めつけてレッテルを貼ってしまうことです。そういう先入観ですべてを判断してしまう態度のこと。
2014.01.13
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認知行動療法では、神経症で悩む人は認識の誤りがあるといいます。普通の人がとらない考え方で、それに影響されると行動がいびつになります。以下10点あります。1、 拡大解釈と過小評価。以前のマイナス経験などを拡大解釈し、自分の人生はもう終わったも同然だと考える。たとえば、会社で事務処理の間違いを起こし、上司に叱られた。すると、みんなから、無能力者扱いされて、もうこの会社での居場所はない。くびになるだろうなどと飛躍して考える。また大きな仕事を成し遂げたにもかかわらず、こんなことは誰でもできる。大したことではないと過小評価する。2、 過度の一般化。わずかな事実や経験から、幅広く広範囲なことを推論する。たとえば、一度恋愛に失敗すると、これからも恋愛はうまくいかないはずだと決めつける。また、私は人と付き合っても、最後にはいつも嫌われて、飽きられてしまうと思ってしまう。3、 完全主義的・二分法的思考。物事には完全かゼロしかないというような極端な考え方で結論を出す。白か黒と決めつけてしまう考え方。この友人は自分にとって役に立つ人かそうではないのかどちらかに決めつける。役に立つと思えればべったりと引っ付き、そうでないと思うと全く寄り付かなくなる。その中間をとった付き合い方は考えられない。4、 恣意的推論。データの裏付けもないのに、自分勝手に否定的な結論ばかり出す。同僚が笑いながら雑談しているのをみて、きっと自分の悪口を言っているに違いないと決めつける。多くの人から評判がよく、有能であると認められているにもかかわらず、たった一人からの評判をくよくよと悲観的に考えたりする。それに振り回される。
2014.01.13
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杉本厚夫氏がこんなことを言っている。ロッククライミングというスポーツがある。初級者から中級者、上級者までいろんなコースがある。それは、これから登ろうとする岩の表面傾斜の難度で決まっている。11段階までのレベルがある。クライマーの能力は彼が達成した最高難度によって評定できるという。技術水準4のクライマーは7の難易度の斜面では心配になり、10の斜面では不安を感じる。また10の技能を持っている人は7の斜面では退屈を感じる。そこでその場合は、片腕しか使わない。危険防止の装置なしで登る。初心者の指導を伴って登るといった何らかの暗黙のルールの適用によって難度を高め、挑戦意欲を高めようとする。これを森田理論的に考えてみるとこうなる。人間は目標を持って生きていくことは大切であるが、過大な目標設定は不安が高まり、不安に押しつぶされてしまう。過小な目標では退屈でやりがいに結びつかない。目標の設定というものは、不安と退屈のバランスのとれた所にあるのではないか。つまり手に届く少し上ぐらいな目標を常に設定していくということが大切である。生活していく中で、解決可能な問題点や不安、違和感などの存在は、生きるエネルギーになるということだ。そうしたものを排除しようとやりくりばかりする。逃げてばかりいるというのは、意欲、希望から見放されてしまう。そうゆう生活態度を心がけてゆきたいものだ。
2014.01.13
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私は日記をつけている。今年で8年目になる。森田先生に真似て簡単につけている。必ずつけているのは、その日の天気。その日の夕ご飯のおかず。これを一覧表にしたこともある。その日の特記事項。社会の動きである。家族の誕生日やイベントは忘れることはない。今は10年日記なので、以前の日記を見ながら書いている。毎年の行動が懐かしく思い出される。またそれに触発されて、今年もそろそろと思うこともある。皆さんはどのように利用されていますか。それとエクセルで家計簿を毎年つけている。集計は自動でしてくれるので便利である。予算を立てて管理している。お金を有効に使うということで、いろいろと考えることがある。家のローンが終わり、子供が巣立っていったのでかなり節減できている。お金にしてみれば、よく無駄遣いを排除して、最大限有効に活用しているので感謝されているかもしれないと思っている。
2014.01.12
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2015年1月以降、相続税法の改正により相続税納付者が増加する。仮に父親が死亡して妻と子供一人の場合、遺産が4200万以上あれば相続税の対象者である。妻と子供二人の場合は4800万以上で対象となる。現預金ばかりでなく、家や土地の不動産、骨とう品などの財産も対象になるのだから、知りませんでしたでは済まない。税務調査が厳しくなるだろう。ちなみに父親が1億円残して死亡。妻と子供二人の場合、相続税は630万となる。大変な金額だ。隠せば重加算税などの追徴課税が待っている。それ以外にも遺産を巡っての親子、兄弟姉妹の醜い相続争いが発生する可能性が高い。あちこちでトラブルが発生している。それだけ不労所得を巡って欲深い人が多いのだろう。子供は親の遺産がないと悠々自適な生活は保障されないと堂々と述べている人もいる。親は自分が努力して貯めた資産を、使い道が分からないまま遺産として残した。それを引き継いだ子供たちがさらに、後世に同じように残していける保証は何もない。また相続が発生するたびに税金で持っていかれるから、いずれ遺産は消えてなくなるだろう。私は神経質な人は、細かいことがよく気が付くすぐれた特徴を持っている。これを生かして、遺産が多い少ないにかかわらず、遺言を書いておくべきだと思う。子供たちが醜い争いを繰り返さないように、前もって準備をしておくことである。私の義理の父親は、遺言を残していた。長男と娘二人だったが、嫁に行った娘たちにはいくらかの預金を、後は家を継ぐ長男と介護の面倒を見てくれた嫁に残すと記載されていた。娘たちはもう少しもらいたいという気持ちがあったようだが、故人の遺言が優先される。私は母が亡くなった時、わずかな遺産を妹と等分に分けた。妹は喜んだが、私は後でしまったと思った。家を継いだ子供は、家の維持、固定資産税、近所の付き合い、親の親せき関係の冠婚葬祭費用はすべて自分持ちである。その金額が馬鹿にならないのである。親せきの葬式があると10万はかかる。さらに49日、1周忌、3周忌の法事にそれぞれ3万はかかる。結婚式の参列も最低10万はかかるのである。妹に頼ることはできない。今思うと2対1ぐらいにして交渉すべきだったと思っている。後の祭りである。皆さんの今後の参考になれば幸いです。
2014.01.12
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森田先生の水の使い方は徹底されていた。風呂の水は洗濯やふき掃除に、庭の打ち水に、草花にと使える限り活用された。無駄に使うということはない。いろいろと工夫して、そのものの持っている能力を引き出して存分に発揮させていこうとする強い意志があった。無駄ものという考えは入り込む余地がない。自分、他人、物、お金、時間には存在価値があるという考え方なのである。人間や物に対する愛が感じられる。そういう視点で、神経症を見ると自分のエネルギーを無駄に使っているように思う。対人恐怖の人は、基本的に他人の思惑、他人の気持ち、言動に注意を払っている。自分のことより他人中心に生きているのである。すると、他人を観察して、他人の思惑の分析や対策に時間をかける。また自分の感情が暴走して破壊活動をしないように、感情を抑圧することに時間を費やす。そして相手に対してどう行動をとろうかと迷うようになる。相手の出方を様々に想定して、行動のシュミレーションをすることに時間を費やす。すると自分のために使う時間というのは限られてくる。5分の1ぐらいしか残されてはいない。これらの時間をすべて自分のことに使うことができるとしたらどうだろう。自分のやりたいこと、挑戦してみたいこと、物を作ること、改善すること。興味や好奇心に従って、楽しいこと、体が喜ぶこと、人が楽しむこと、人のためになること、将来に希望が持てることなどにエネルギーを投入することになるとどうだろう。無駄がなくなり、時間が有効に使えて、自分も周りの人も気持ちがよいのではなかろうか。春のそよ風、紅葉の秋晴れのようなすがすがしさを感じる。ところが神経症にかかわっている人は、自ら暴風雨の中、日本海に船を出しているような状態のような気がする。貴重なエネルギーを無駄にしているのである。
2014.01.12
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近藤千恵さんという方が子どもに「かくあるべし」を押し付けると、子どもは次のような対応をするという。反抗、恨む、仕返しをする、嘘をつく、告げ口をする、非難する、弱い者いじめをする、対抗する、柔順になる、ご機嫌とりになる、同調する、想像の世界に逃げる。親がいつも指示、命令、強制、脅迫で子どもに対応していると決していいことはありません。しだいに子どもは、親に無条件で従い、いつも親の顔色をうかがいながら生きていくようになります。また中学生ぐらいになると、乱暴で注意しても聞かなくようになり手に負えなくなることもあります。小さい時、柔順でおとなしくて、よい子は決してよいことではありません。親の意見に従っていても、自分で考える力や創造力は育っていないのです。これは大きな問題です。しだいに依存性を高めて、人の言うことしかできない、また人の言うことをまっているという人間になってしまいます。これは人間というよりもロボットのようなものです。「かくあるべし」を子どもに押し付けることはとても不幸なことです。こんな短歌があります。「学校に母がいたら便利だろ あれもやらして これもやらして」またこんな子供は反抗期になって親に反発するようになると、客観的に自分の意見を親にぶっつけて、正々堂々と自分の意見を主張するのではなく、反対のための反対をするようになるのです。そして親が右往左往するようになるのです。
2014.01.12
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ハワイでは、夫が妻に「俺についてこい」と言って歩き始める。しばらくして後ろを振り返ると、妻は反対方向に向かって歩いていたという笑い話があります。日本では昔妻は夫の三歩後ろをおとなしくついて来るのがよいとされていたという。そういう意味では日本もハワイ並になってきたようだ。ところが二人がお互いに自己主張するものだから、一向にかみ合わないということで悩んでいる夫婦も多い。それは離婚の増加で見て取れる。最近は結婚件数70万から75万件に対して、離婚件数25万件程度である。結婚しても3件に1件は離婚している。皆さんの周りにも離婚経験者は多数おられることだろう。森田では、同じ性格の人の結婚はよくないという。たとえば、神経質性格同士はよくない。これは実感としてよく分かる。同じ趣味を持つ人同士、同じ仕事を持つ人同士はお互いにメリットがある反面、デメリットも大きい。それはいつも引っ付いた状態だからだ。これは森田理論学習の「不即不離」から見るとバランスが悪い。磁石でもプラスとプラスは反発ばかりする。プラスとマイナスは離そうと思っても自然にくっついてくる。結婚も基本的には、自分とは反対の性格の人同士で一緒になり、お互いの不足を補うというのがうまくいくコツだと思う。また自己中心的な人同士の結婚も難しい。ただし、これは神経質の人のように、自分の気持ちを抑圧しないで、相手にぶっつけているのでまだ救いはあると思う。「雨降って地固まる」ということわざがある。お互い自分の感情や気持ちを吐き出しているのはよいのだが、ピントはずれている。吐き出し方を森田理論学習でよく理解してほしい。つまり自分の感情や気持ちを素直に出しているのではない。自分の「かくあるべし」を相手に押し付けて、自分の意のままに、相手をコントロールしようとしていることが問題になるのである。お互いが、それが当たり前な自然な人間関係であると誤解しているのである。そして、長い間には、相手が自分の思うようにならないと次第にあきらめに変わってくる。放任して突き放してしまうようになる。しかし無意識の感情としては、怒り、恨みがどんどん蓄積されている状態である。いずれダムにいっぱい水が溜まってくると放水せざるを得ない。溜め続けるとダムは確実に決壊してしまう。森田理論学習でいうように、小さな感情を大切に扱う。小さな感情のうちに言葉に置き換えて表現する。私メッセージで自分の感情の状況を相手に伝える。日記に書いてみる。一人で呟いてみる。我慢したり、耐えたりしているといずれ大きな反動が起きてきて自分も葛藤するし、家族を巻き込んで大変な事態になることをよく考えてもらいたい。
2014.01.11
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彼が「そんなことがあったんですか」といったきり感謝の言葉もお詫びの言葉もなかったということ。この後輩は普段からみんなによく思われていなかった人です。するといつも先輩からは疎んじられて、先輩の一言が針で体を刺されるように感じて、苦痛を感じていたことが考えられます。そしてこの事件です。針の筵に座らされた状態です。体がこわばり、顔もチーターに追いかけられている小動物のようにこわばっています。つまり先輩と後輩の人間関係は、敵と味方に分かれて戦っているようなものです。彼は身構えて、戦闘態勢に入っているのです。自分を守ることに必死ですから、先輩を思いやるゆとりなど皆無だということです。どうしてそんな人間関係になったのか。それは普段から、後輩の言うことなすことに対して、先輩が我慢して耐えてきたというつけが表面化してきたのです。今までギリギリのところで踏ん張ってきたものが一挙に爆発したのです。表面的には、我慢して抑えてきたつもりでも、無意識の世界では決して忘れることはできなくて、不満のアスペリティが蓄積され続けていたのです。不満のエネルギーはどこかで解放されます。解放されないで生きていくということは、存在の破壊を意味します。他人の思惑に翻弄されている人は、このように他人の機嫌を取ろうとします。それは自分の気持ちや感情を表に出すと相手と争うようになることを恐れているのです。ましてや争って負けるということになると、相手に服従させられると考えるのです。争うときは、絶対に負けないように身構えてしまいます。すると手も足も出なくなるのです。ますます自分の腹立たしい感情を抑えてため込むという悪循環になります。自分の感情、気持ち、意志をしっかりと持って、問題が小さいうちにそれらを「私メッセージ」で言葉にして表現してみるというという姿勢は極めて大切となります。森田理論学習はそういう生活習慣を作ることを目指しています。
2014.01.11
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会社でお金をごまかす、女癖が悪いなどで普段みんなが快く思っていない後輩がいました。その彼が年末の忙しいときに有給休暇をとって休みました。ところがその間に自分の担当している得意先で大変大きなトラブルが発生しました。上司はその担当者の携帯に何度も連絡を入れましたが一向に電話がかかってきません。業を煮やした上司は、部下数名に命じて事後処理に当たらせました。夜中の12時過ぎにやっと応急処理が完了しました。おさまらないのは部下たちです。「どうして僕たちが尻拭いしなければならないのか。それも雨が降る寒い中、こんな遅くまで。」「僕たちは僕たちでいつもの仕事があるんです。」「それにしてもあの後輩はいい加減な人だ。」「大体トラブルは以前から予想されていたことだ。なんで手を打ってなかったんだ。こんなことになったのは後輩の責任だ。」その同僚に対する不平不満でいっぱいです。さらに彼らを怒らせたのは、休み明けに出てきた後輩の態度です。「そういうことがあったんですか」といったきり感謝やお詫びの言葉はないのです。「どうしてあんなに我関せずといった態度がとれるのだろう。他の人のトラブルの時はいつも理由を作って回避する。一言お礼を言ったり、昼ご飯をみんなに奢ったりするのが普通だろうが。とにかく人格的に問題がある。もう顔も見たくない」よくありがちな話です。森田理論で考えてみましょう。
2014.01.11
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集談会でこんな話を聞いた。あるご夫婦の話です。奥さんが夫にむかって、「もし生まれ変わったらまた私と結婚したい」と聞いたそうです。すると「今度は別の人と結婚したい」といってショックを受けたというのです。そのくせその奥さんも、「私は絶対に今の夫は嫌だ」というのです。その夫は、定年まで勤めて家族を養い、家のローンも完済、子供も大学までやったそうです。何が気に入らないのでしょうか。これは「やまのかなたの空遠く幸いすむと人の言う」ないものねだりの考えではないだろうか。他人と比較して、まだまだ上がいる。まだまだ私たちは物足りない。他人と比較して価値判断するという思考中心の態度ではないのだろうか。森田理論学習でいえば、「かくあるべし」優先の生活態度である。自分が結婚する時の感情を忘れているのである。結婚するときは、妥協したとしても、将来に夢を膨らませてうれしかったはずである。あなたの選択は間違いなかったのです。ところが結婚してしばらくたつと、頭で考えた自分の価値観が前面に出てきて、相手の欠点ばかりが目に付くようになってきた。こういう人は高い買い物をしたとしても後から後悔することが多い。ローンを組んで家を買った。高価な車を買った。その時はこれがベストと思っていたが、しばらくすると友人の家がよく見える。他の車がかっこよく見える。自分は失敗した。取り返しがつかないことをしたといって悩む。これはいつも他人や、他のものと比較して、どちらが上か下かと価値判断している人の特徴です。存在価値をおろそかにして、利用価値、経済的価値、他人の評価価値を最大の物差しにして生活しているのです。そういう人は満足することはありません。いつも満たされない欲望を追い求めて、飢餓状態にあります。こういう人は森田理論でいう、自分たちの存在価値を見直してほしいと思います。また、感じから出発するということをよく学習してほしいと思います。その時々の、自分の好き嫌い、快不快、苦しい楽しいという感じから出発する。他人の思惑を考慮したり、他人と比較して自己否定する必要はありません。自分の気持ち、感情、意志、五感、体感などを優先して、自分本位の生活を心がければ、今がまるっきり違って見えてくると思います。過去のことに思い煩い、将来の不安におびえることは少なくなるのではないでしょうか。
2014.01.11
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集談会で連絡係りを引き受けている。集談会の内容や開催場所、参加者の人数などを教えてあげる係りである。ところが神経症で今まさに苦しんでいる人で、自分の悩みを相談してくる人がいる。それも時間無制限で、何度も、気が向いたらすぐに電話してくる人もいる。私が当初苦しみのさなかにあった時は、藁でもつかみたい気持ちだったので、その気持ちはよく分かる。そこでなるべく私の経験の範囲で話してあげるようにしている。ところがそういう状態が、日常化すると大変なことになる。まず自分の生活が乱れてくる。家族にも迷惑がかかる。また電話をかけてくる人は、同じ内容の話を繰り返されるので、返答のしようがなくなるのです。終いには、自分が苦痛になるのです。その態度はそのうち相手にも伝わります。相手は何度も電話をしているうちに、応対してくれるのが当たり前という気持ちになっています。それなのに冷たいような態度をとった。自分を拒否した。無視した。否定した。というようにとられるのです。これは友人や会社でのクレーム処理や同僚との人間関係の中でも発生することがあります。森田理論ではこの問題をどう考えるのか。私は自分の苦痛を我慢して相談に乗るふりをすることは苦しみを増すばかりだと思います。最後になって爆発することになるかもしれません。優先することは、いまイライラしているという感情を大切にすることだと思います。その気持ちを相手に伝えることです。「今、他にしなければならないことがあるので、日を改めて電話してもらえませんか」「いまイライラして考えがまとまらないんです。冷静になりたいので一旦電話を切らせてもらってもいいですか」「仕事中なので、家に帰って相談に乗りますので夜の9時に電話してもらえますか」「電話は苦手なので、メールをお願いしてもいいですか。」また電話がかかってきたら、「今なら30分だけは時間が取れます。30分経ったら、また別の日にしていただいてもよろしいですか。」とあらかじめ時間をくぎる。とにかくだらだらと対応していると、自分も苦痛になるし、相手も自分の対応に不信感を持ちます。最初が肝心です。まだ相談に乗るかどうかわからない時に、自分の対応のスタンスを相手に伝えておくということが大切だと思います。小さいうちに自分の気持ちやスタンスを相手に伝えておくことです。私は以前有名な先生に講話をお願いしたことがある。以前私に患者の相談に乗るように依頼があったので、融通がきくと思っていた。ところがその先生が言われるには、講話を引き受けるには条件が3つあるといわれる。一つは、聴衆を100名以上集める。二つは、交通費は全額支払う。三つ目は、講師料は5万円以上支払う。二つ目を除いてハードルが高すぎて実現できなかった。その時は腹が立ったが、それぐらい自分の気持ちを伝えたほうが、自分が納得して引き受けられるかもしれないと思った。とにかく、少々相手が気分を害しても、まずは自分の気持ちを優先したほうがよい。気の進まない講話は断るに限ると思う。
2014.01.10
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16、 嫌なこと困ったことが起きた時、逃げないでどうすればよいか考える。17、 自分の欠点や弱み指摘されたら認めるし、失敗したときは責任を取るようにする。18、 好きでない人、気の合わない人とも一緒に仕事をしたり、活動したりできる。19、 やりたいこと、ほしいものなどがあれば、自分で計画を立て実行に移していく。20、 その時々の自分の気持ち・体調などによく気が付いてそれに応じて動ける。21、 腹が立つことがあったら、感情的になることはあっても、相手に伝えようとする。22、 気のおけない仲間とならよくおしゃべりをするが、改まったところでは黙っている。23、 何かをやり始めるとき、「きちんとできないのならやめておこう」と思うことが多い。24、 自分の言うことやすることに対して、人が賛成してくれるかどうか気になる。25、 自分のやりたいことがあったとき、人を誘って一緒にやろうとすることが多い。26、 職場や近所で不満がある時、当人には直接言わず、他の人に愚痴を言う。27、 人の役に立ってあげたり、人の世話をするのは好きだが、ナマイキ・エエカッコシイといわれたくない。28、 自分と違う意見の人や、やり方の違う人と何かするとき、妥協しないで自分のやり方を通す。29、 外で嫌なことがあると、つい家族や親しい人に八つ当たりしてしまう。30、 自分の意見や要望をストレートに言えるが、思い通りにならないと落ち込む。1番から10番までの○の数を数えてください。これをAとします。次に11番から20番の○の数を数えてください。これをBとします。最後に21番から30番までの○の数を数えます。これをCとします。Aの数が多い人は、非常に消極的で、自分の気持ちをコントロールすることや自己表現のできない人、受け身な態度で、すぐに自分が犠牲になってしまうような人がとりがちな行動や感じることです。Bの数が多い人は、精神的自立、自己表現ができていて、積極的に自分を生かしていこうという態度です。Cの数が多い人は、自分自身は積極的になりたいに、まだそれが身についていなかったり、やり方が分からなくてうまくいっていない時の状態です。ちなみに私はAが7個、Bが2個、Cが4個でした。AとCが多く、Bが少ない人は森田理論学習が役に立つ人だと思います。森田理論学習によって、他人の思惑に翻弄されている状態を少し緩めてやりませんか。
2014.01.10
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自分の感情、五感の感覚、気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意志、希望を大切にしているかどうか判定するテストがあります。質問は30あります。○か×でお答えください。どちらかわからない時は、△にしてください。これは「自分でできるカウンセリング」川喜田好恵さんの本に載っています。1、 人から何か頼まれると、困る時でも「いや」と言えず、後で後悔する。2、 困ったことが起きると、オロオロしてしまい、自分で何かをするより人に頼りがち。3、 いやな人・嫌いな人の顔を見られないし、そんな場にはいかないようにする。4、 いやなこと・腹の立つことがあっても、自分さえ我慢すれば丸くおさまるときは、そうする。5、 仕事や家族のグチは、親しい友人にも言わないようにする。6、 自分の意見を困ることが多いし、思うことがあっても人に聞いてからいう。7、 家族の機嫌が悪くなることや、子供がいやがることは、自分がしたくてもあきらめる。8、 失敗したり、嫌なことがあった時は、自分を責め、忘れようとしてもつい落ち込む。9、 人にものを頼んだりするのは苦手だし、わからないことを聞くのも恥ずかしい。10、 自分の好きなことのためにお金を使うのは後ろめたいと思う。11、 自分のできることを人に伝えたり、自分の能力を使って何かをするのが好き。12、 買い物・映画・旅行など、気が向けば一人で行くし、一人で外食することもある。13、 人にものを頼まれたり、聞かれたりしても、できないことは断ったり、知らないといえる。14、 時とともに自分の考えや態度が変わることもあるが、自分なりに納得している。15、 自分が人と違っていてもいいと思うし、違っていても気にならない。
2014.01.10
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私の知っている女性の課長さんで正月3日から仕事をしている人がいた。スーパーなどで働いている人ではない。事務の仕事である。その方は普段も12時ぐらいまで仕事をしていることが多い。みんなが休んでいるのに、その人だけ仕事をするというのはしんどいと思う。「私はこんなに頑張っているのに、どうしてみんなは休んだりできるの」仕事が趣味を兼ねているという人は少ないわけだから、そうした不満はたまっていくばかりだと思う。時には辞めたくなるのではなかろうか。その人はよく「私は要領が悪くて仕事が遅いので仕方ないんです」といわれる。そうして、我慢していると心だけではなく、体調面でも不具合を抱えることになるのではないだろうか。考えてみれば私もそうだった。管理職の仕事を抱えながら、部下と同じ量の実務を抱えて、いかにもできる課長というように仕事をしていた時があった。当然残業続きで、たまには徹夜もあった。朝雀がチュンチュン鳴いている中を、シャワーを浴びに家に帰り、また会社にとんぼ返りしたこともあった。土曜日、日曜日も何時間かは会社に出ていた。心身ともきつかった。そのころは胃潰瘍で、治療を続けながら仕事をしていた。管理の仕事よりも自分の実務の仕事に追われ続けた。これは部下を信頼して任せられなかったのである。部下の思惑を気にして、気軽に仕事を依頼することができなかった。全部依頼してしまうと、部下から不公平だといわれるのではないかと恐れていた。またルーティーンの仕事がないと、自分で積極的に仕事を見つけないといけないというのを恐れていた。つまり他人の思惑ばかりを考えて、自分の意志や気持ちを押さえつけていたのです。その後、自分の実務はほとんど部下に振って、実務の仕事を無くしてみた。すると毎日ヒマで遊んでいられるかというととんでもないことだった。部下が休めばそのフローをしなければならない。仕事が滞っているところには、すぐに介入しないとならなかった。業務の改善にも取り組む必要があった。部下の公私にわたるトラブルにも相談にのる必要もあった。新入社員の教育もあった。他部署や上司との折衝。得意先との関係改善などがあった。今までは手を抜いていた仕事である。管理職になると全く仕事の内容が変わってくる。対人関係の悪化を恐れて、今までのように実務にしがみついていることは、自分もしんどいし、会社も迷惑である。部下も「なんだ、あの上司は。管理能力がないダメ上司」と噂するようになる。先ほどの女性管理者も上司に相談して、実務を部下に降ろして管理職としての自分の役割をはっきりしないと、いずれ破綻するのではないかと思う。他人の目を気にするのはやめて、自分の気持ち、意志をしっかりと持つことだと思う。
2014.01.09
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2014年1月号で青木羊耳さんがプラス思考について語っている。マイナス思考に、「もう60歳になりました」「今更パソコンなんかできませんよ」「どうせ女に生まれたんだ」「どうせ男に生まれたんだ」「どうせ結婚して子供もいるんだ」こんなマイナスの言葉ばっかり使ってはいけない。これらは自分で限界を作って、挑戦を最初からあきらめたり、自分の境遇を否定しているんですね。お先はたかが知れていますね。これを次のように言葉を変えるだけでプラス思考に早変わりします。「やっと60歳になりました」「これからパソコンをはじめます」「せっかく女に生まれたんだ」「せっかく男に生まれたんだ」「せっかく結婚しないで一人身で身軽なんだ」「せっかく結婚して子供もいて孫もいるんだ」魔法の言葉のようですね。将来がまだまだ明るく開けてくるような気がします。また自分の今の境遇を肯定しているような気持ちがします。
2014.01.08
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2014年1月号の「生活の発見」誌に青木羊耳さんの記事がある。あれこれやりたいことがあるが、「これは1時間でやろう」「これは30分でやろう」「これは3時間かかるな」と分かるとタイマーをセットされるらしい。ベルが鳴ったらやめる。もうちょっとやればもっといいものになるのだが、それ以上はやらない。次の仕事にかかる。「森田の達人」は例外なく時間の使い方がうまいのには感心する。森田理論に「物の性を尽くす」というのがあるが、「時間の性の尽くし方」も例外なく上手である。時間の使い方の上手な人は、「己の性の尽くし方」「他人の性の尽くし方」「お金の性の尽くし方」「物の性の尽くし方」も芋ずる式にうまいのである。一つのことにコツをつかむと、その他のことにも極意が自然と分かるのである。岩田真理さんも30分ずつどんどん仕事を変えるといっておられる。森田先生も、「休息は仕事の中止ではなく仕事の転換にある」といわれています。ここら辺りは、森田理論学習の初歩だと思う。森田理論の体得は、これらから手を付けて習慣化すればよいと思う。もう一つ付け加えれば、ダイソーで小さなメモ用紙を買って、それにストラップでボールペンを取り付ける。気が付いたことをできるだけ多くメモするようにする。実行すれば線を引いて消すという試みも効果が大きい。これはできたかどうかよりも、課題をいくつ集めたかということが大事である。いつもメモに課題が満載であるというのがよい。たまにはユーモア小話の題材や川柳などを作ってみるのも面白い。
2014.01.08
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石原加受子さんは、感情を感じることと、思考することは同時にはできないといわれています。あなたの意識が感情のほうに向いているときは、あなたが思考することは止まっています。反対にあなたが思考しているときは、感情は止まっています。どちらか一つしかできないのです。私もその通りだと思います。これを日常生活で利用しない手はありません。思考と感情はどちらを優先するといいのか。森田理論学習をしている人はお分かりと思いますが、当然感情のほうですね。どんな場合でも、苦楽、好き嫌い、快不快から出発するのです。ここから出発すれば、とても自由な生き方ができます。感情を大事にして、感情を味わい、感情を受け入れるためには、いつも感情に焦点をあてていくことが大事です。森田理論では、「純な心」を大切にします。「純な心」とは、最初に感じる感情です。直感とも、初一念とも言います。一瞬ハッとするような感情です。のほほんとしていると、すぐに見逃してしまいます。心してかからねばなりません。初一念を見逃して、しばらく経って頭で考えることは、感情ではありません。感情のように見えますが、「かくあるべし」で思考していることなのです。森田理論学習では、初二念、初三念といいます。これは基本的には無視することです。事件や出来事に遭遇して、最初に感じる感情をキャッチしようとする強い気持ちを持つことが大切です。小さい感情を自分の持っている宝物と同じように扱いましょう。なかなかの関門ですが、生活の発見会の会員はここを目指しているといっても過言ではありません。
2014.01.08
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小さな不快な感情をたいしたことはないと抑え込んでいくと、自分の感情は次第に鈍化してゆきます。他人が自分に嫌がらせをしても、いつも我慢して押さえつけていると、自分が傷ついていることが分からなくなってくるのです。これは大変な問題です。感じる力が弱まってくるのです。感情を拒否、無視、抑圧、否定した結果、自分の本来持っていた鋭い感性が失われていくのです。もともと持っていた能力の喪失現象が起きるのです。恐ろしいことです。感性がなくなると、まず危機に対する反応力はなくなってゆきます。また感動する、うれしいといったプラスの感情も感じられなくなってくるのです。感性がなくなると、行動のもとになる気づきがなくなり、無気力、無関心、無感動な人間として生きてゆかなくてはなりません。感情を持たないロボットのようなものです。考えただけでも恐ろしいことです。さらに小さい不快感というものは、表面では何事もなかったかのように見えても、無意識の領域では不満が蓄積されているのです。それが長い期間にたくさんたまってくると、ひずみとして蓄えられます。地震の原因となる地殻のひずみの蓄積のようなものです。いずれ最後には耐えられなくなります。どうにも我慢ができなくなります。無意識の世界では、なんとかその不満を解消しないと気が狂いそうになるのです。人間は理性で動いているのではありません。感情で動いているのです。理性で動いていると思うのは錯覚です。無意識に蓄積された感情が、理性に優先して働きます。そして最終段階では、後先を考えずに大爆発を起こしてしまうのです。後で必ず後悔します。その責任のつけは大きいのです。こうした事態を避けるためにはどうしたらよいのでしょうか。これには何としても、小さい感情を確実に素早くキャッチすることが大切となるのです。さらにその小さい感情のうちに適切に処理してやるということが重要となります。その方法については今まで何度も投稿してきましたし、これからも投稿します。小さなボヤでしたらまだバケツで水をかければ消すこともできます。感情も同じです。ところが火の手が回ってしまうと自分の力ではどうすることもできないということを肝に銘じておくことが大切です。
2014.01.07
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