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喜平じぃは並ならぬ人物であった。 この集落のうちで、最も長命を得てきた喜平じぃは、年を重ねるごとに、驚くべき量の物語をたくわえていった。 目はかすんでいたが、そのおぼろげな視界の中で、彼は誰にもかなわない明晰さでものを見ていた。耳も遠くなっていたが、なにか重要な事柄がその耳に届かないことはなかった。 そして最近、もっとも並はずれたことが起こり始めていた。 いまは衰えつつある五感に頼ることなく、喜平じぃは生きとし生けるもののすべてを感じはじめていたのだ。 少年のころから、彼には特別な賢明さがそなわっていたが、これと比べれば問題にならなかった。自分は年老いた、疲れたという気分を感じるどころか、喜平じぃは自分のなかに生まれたこの奇妙で謎めいた力に、おおいに勇気づけられていた。 しかし、長い時間の果てに訪れたこの力を、喜平じぃはある徴(しるし)ではないかと考えはじめた。 今日、豊と語り合っているときもそれは訪れた。 真空が彼を包み、頭がぐるぐる回りはじめ、つかの間、自分が向こうの世界に入り込んでいたと錯覚したあの時。 あれは啓示だったのかもしれない。 喜平じぃは彼自身の人生を終わりにする合図だと思いはじめていた。 そして彼はこの考えをすっかり受け入れると、彼の妻として、ずっと長い間連れそってきた老女に優しく声をかけた。 ──もう、眠るとしよう。 それから、ある不思議なことが起こった。 喜平じぃはふと外から幼い頃の呼び名で呼ばれたような気がして、ひとりで縁側に立った。 あたりは誰の姿もなかった。 雪の音が聞こえる、と喜平じぃは思った。雪片のひとつひとつが、大地に落ちる音が聞こえてくると思った。 この世のものならぬ響きに包まれて、喜平じぃは冷気の中に立ちつくした。 ──わが名をよびてたまはれ。 いとけなき日のよび名もて わが名をよびてたまはれ あはれいまひとたびわがいとけなき日の名を よびてたまはれ 風のふく日のとほくよりわが名をよびてたまはれ 庭のかたへに茶の花のさきのこる日の ちらちらと雪のふる日のとほくより わが名をよびてたまはれ よびてたまはれ わが名をよびてたまはれ 喜平じぃは詩(うた)を唱えはじめた。 ちょうどその時だった。 喜平じぃの大いなる叡智は、相生の民に向かって崩れ落ちた。 人生の終焉にあって、喜平じぃは生命のある頂点に達し、そのまま肉には戻らなかった。 彼は鳥取の大地そのものとなったのだった。 次の朝、無限のやすらぎが喜平じぃの命の糸を引っ張ったのを、じぃの愛してやまなかった家族が見つけた。 陽の光が縁側にこぼれおちて、喜平じぃの身体の上に大きく暖かな輪を作っている、うららかな早春の日のことだった。 鳥取物語 三年生編・完 本日の日記--------------------------------------------------------- 今日で三年生編と四年生編に分かれる鳥取物語の、前半が完結したことになります。 八月下旬より、皆さまの温かい応援のおかげさまで、毎日更新がかない、今日という日を迎えることができました。ほんとうにありがとうございました。皆さまに心からの感謝を申し上げたいと思います。 当時、鳥取の小学校では、なによりも毎日の日記を重視していました。 私は今、母が数々の引越しにもめげずに執念でとっておいてくれた自分の大量の日記を前にしています。日記をつけることを教育の念頭においていた、鳥取の橋本先生に感謝いたします。 明日より番外編●呪の子●が始まります。小夜が越して来るずっと前の、ある出来事にまつわる秘密めいたお話です。相生の民が隠す秘密を、探しにきなんせ。
2005年09月30日
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そんな折り、ある日の昼下がりに、豊は喜平じぃを訪ねた。 呼び入れられて、囲炉裏のもとに腰を落ち着けると、置き火のぬくもりが豊をすっぽりと包んだ。 幸せな、秩序の保たれた雰囲気を感じ取り、豊は口を開いた。 ──これは、善い火だっちゃ。 喜平じぃがそれに和しておだやかに答えた。 ──わしの歳になると、善い火はなによりもありがたいが。 ふたりの静かな会合は、夕刻まで続けられた。 喜平じぃが見るかぎり、この少年には機知があった。 もともと豊はおおげさな身振りのない子だったので、その魅力は表立ってはいなかったが、じぃはその独特の個性をちゃんと見極めていた。 喜平じぃは人間を判断する上で、この機知する余裕というものに何よりも重点を置いているのだった。 この子には知性があふれ、笑みが多い。 ふと豊が気がつくと、炎をじっと見つめていた喜平じぃのまぶたが次第にふさがってきた。 豊は身じろぎし、この老人が横になるために帰りじたくをはじめるべきかと迷った。 しかし、ほどなくうとうとしていたとばかり思っていた喜平じぃの目が開き、豊はその目の輝きに驚かされた。 まるで満天の星のようにきらめいている。 そして彼は少年の肩に手をおくと、こう言った。 その声はかすかにはずんでいた。 ──この人生にはたくさんの道があるだ。 んだがたいていのもんはそのなかで最も重要な道を歩いていくことができないっちゃ・・・。 それはまことの人間の道だ。おまいたちこの相生のもんはその上を歩いていると、わしは思う。 それを見ているのはいいもんだが。わしの心にとって善いことなのだが。 この言葉は豊にとってはまるで唐突に語られたものであった。 しかし、豊はその言葉をそっくりそのまま記憶の中に刻みこみ、いつも大切に扱うことにした。 彼はこの言葉を、自分の呪(まじない)の一部としたのだった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 中国ネタでひっぱります。 居直り強盗的ではありますが、めでたく中国留学を果たした私は、故宮を見下ろせる好位置にある八畳くらいの自室を、快適に整えることにしました。おりしもその晩は大雨で、私は夜陰に乗じて王府井を徘徊しました。 「中国は、ないけどある」というスローガンのもとに巷に繰り出せば、家財道具くらいはなんでも見つかると思ったのです。 果たして、畳一畳はある大きな机と、小さめの机が捨ててあるのを見い出しました。大きな机は簡易的なキッチン台に、小さいのはダイニングテーブルにしようと、雨の中、女手ひとつでズルズル引きずって帰りました。 折りしも、留学生楼(宿舎)の隣では、何らかの用途を持つ塀が建設中でした。私は盗っ人のように(厳密にいえば盗っ人ですが)そこからレンガを何個か持ち去りました。電熱器の台にして、小さなかまどを作ろうと思ったのです。そしてそれを実行しました。 布団のたぐいは、管理人のおばさんのところにずぶ濡れのまま飛んでいき、「中国が共産主義であること」「持てる者は持たざる者に施しをすること」などを身振り手振りで熱弁し、「施しこそが中国ならではの大人(たいじん)の証」と締めくくると、これまた何人かで合宿できるほどの大量の布団をいただくことができました。 一晩で、部屋はとても快適になりました。 けれども、真夜中にエレベーターから粗大ゴミとともに降り立ち、管理人部屋から何人分もの布団を持ち出した私のことは、他の留学生の間ですぐに有名になり、翌朝は私の部屋の前に世界各国からの見物人が並んでおりました。(つづく・・・かもです)。 明日は鳥取物語三年生編の最終話●喜平じぃの詩●です。 皆さま、三年生編を読んでくださり、本当にありがとうございました。 四年生編も、よろしくおつきあいくださいませ。 明日また、タイムスリップしてきなんせ。喜平じぃが、ごあいさつします。
2005年09月29日
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──さわ(泉が湧き出ているところ近くに棲む不二一族の屋号)のゆたぁがか! 相生の大将選任会議の顛末は、あまっちょたちにもすぐに伝えられた。 また、他の三つの集落の大将たちは、それぞれの密使だちが持ち帰ったその噂に翻弄されていた。 神生(かにゅう)の大将に気性の荒い森雅弘がなるべくしてなってい以来、相生の新しい大将については、とんと確信のある話はなかった。 それでも、年功序列からいって、綾一郎か尚敦に落ち着くであろうと見当をつけていたのが、ふたを開けてみれば、なんとそれを決めたのは豊だという。 ──すせりながなるとしても、いまはごたごたで相生は弱いだが。 そう考えて、もともと学年においては武人より一コ下の大将であったために、代替わりのない皆生(かいけ)と己生(おのき)は余裕のたたずまいであった。 なんとなれば、相生を攻めて属国や植民地なぞにできるかもしれない。 これまでは武人が優れた政治家であることを周囲に知らしめていたので、さすがにおいそれと手出しはできなかったが、相生の代替わりは他集落の大将たちにとってみれば、すなわち絶好の機会であった。 彼らは綾一郎に次期大将として目を付けていたので、相生の状況は手に取るようにわかっていた。新米大将の綾一郎相手の作戦も、ずいぶん前から考えられていた。 しかし、任命主が豊とあっては、勝手が違ってしまった。 彼らにとっては、豊は得体の知れない人物だった。 豊といえば、騙しもしないが戦いもしない印象が、それぞれの胸にあった。 しかし、豊に決めさせたのは、他でもないあの名将日野西武人であるという。これはなにか裏があるに違いない。下手に手は出さないほうがいい。いずれどこかの集落が攻めるか、相生がちょっかいを出してくるか、それまで動向をうかがうべきだ。 やぶへびの豊の名によって差し控えられたこれらの無益な闘争は、武人の思うところとも合致していた。 大将が代わった直後は、どうしても集落の子供たちの結束に乱れが生じる。そこを狙うほかの集落との闘争は必至のことであり、統率が遅れてそれに乗じた乗っ取りもありうる。 武人は臆病者ではなかったが、自分の不在の当初は、賭けをするよりも地を固めることが先決であることをよく知っていた。 そんなわけで、この奇妙な采配によって、しばらくは相生の平和が守られることになったのだった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 中国ネタですが。 私が中国語をそうとう話すことができるとお思いですか? そう思っていただけるには嬉しいのですが、実際の私のレベルはこの程度です。以下にクリックする箇所を示しておきます。 あ。これ、友人のおすそわけメールからいただいたものです。好き嫌いがあると思うのですが、たまには息抜きということで、お許しください。(画面が変わると音が出ます。ご注意ください)。 では、見聞きしたい方はこちらへジャンプ 参考文献:http://www.mediatinker.com/yamanote29/archives/images/shinbashi.swf えと。気をとり直して・・・。 明日は●豊、喜平じぃを訪問す●です。タイムスリップして、喜平じぃの屋敷に寄りなんせ。耳をすませば、このふたりの静かな語らいが聞こえてきます──。
2005年09月28日
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さて、綾一郎にしてみれば、これははじめは手ひどい失望だった。 大将になれたことは考えの外にあった。 それはおろか、階級を格下げにされるのにも匹敵するだろうか。 ひどい落胆だった。 武人の賢明さのすべてが、綾一郎をただで大将にするのは誤りだと告げていることが、会議の中の武人の言動に見てとれた。 綾一郎は不覚にも涙をあふれさせた。 相生において、人を任命するということは、命名行為と同じ重さに匹敵する。 豊が大将を選ぶ。 これは、彼に聞け、ということなのだ。 すなわち、任命した者は任命された者に対して責任を負うかわりに力においては優位に立つ。 「相生にいしきなあり」とうたわれた武人に、綾一郎は任命して欲しかった。それどころか、あまつさえその武人の大将としての最後の言葉が、自分ではなく豊に向けられたものであったのだ。 そうやって綾一郎は、ぼんやりと冬の木立の並ぶ帰り道をたどっていた。 そこへひたひたと足音がし、雪かきのしていない道を、誰かが自分と並んで歩き出すのが見えた。 綾一郎は足音の主を伏し目から盗み見てぎょっとした。豊だった。 自らの気を消すことのできる豊が足音をたてるということは、何かこちらに用があるに決まっている。 綾一郎は泣くのだけはせめてやめようと、洟をすすりあげた。 ──いしきなは、まことおまいをかいよるな。 綾一郎と肩を並べながら、豊はこんなふうに話しはじめた。 ──ああ。そうさな。 綾一郎はきまり悪くて返事もしたくなかったが、仕方なくそう答えた。 これが大将になる者かと、我ながら思うほど覇気のない返事になってしまった。 ──おまいを甘えさせなんだ。 豊はそんな綾一郎にはおかまいなくそう続けた。 こうして話の核心が口にされると、豊はふいに綾一郎から離れて、どこぞへと消えていった。 豊の後ろ姿を見ながら、綾一郎は一発自分を張り倒してやりたかった。 綾一郎は自分の愚かさに目をすがめた。 今までのは、わがままというものからの、汚い物思いだった。 そして綾一郎は、なぜか自分の中の憂鬱が消えていくのに気がついた。 かわりにその場所には、昂揚感が生まれてきた。小さく感じていた自分の器が、大きくなるようだった。 子供たちを統率するというこの大役を引き受けて、無私のうちに集落に尽すことを、綾一郎はすぐ心待ちに思いはじめた。 武人がいった、相生の相生たるところを、よく示せるような大将に。 綾一郎は、武人がただでは大将をゆずらなかった理由が、今やよく理解できた。大将は、有頂天になったまま負える責任ではないことを、彼は教えようとしたのだ。 さっきまでの心の痛みは、消え失せてしまっていた。 綾一郎は道々、この変化について思い巡らせた。もう自分は打ちひしがれた気分ではない。それは、大将たる者について、自分が理解できたということと関わっているのだろうと綾一郎は思った。 そして自分が名将いしきなに甘やかされなかったということも。 第十一章のおわり 本日の日記--------------------------------------------------------- 本文中ではないのに、作品の内容について書くのは本意ではありませんが──。 今後、日野西武人という少年はこの物語には登場しません。 彼はこれまでの物語の中の登場人物としても大変に人気が高く、私も何度もこの物語のスーパーバイザー的な存在として彼を登場させてみようかと試行錯誤しましたが、その過程の中で、私の中の三年生以降の記憶に、彼の影がまったくないことに気がつきました。 引き際──。 そこで、私はこの言葉に思い当たったのです。 武人は相生にある四つの集落にその名を轟かす名将であったのに、綾一郎に大将の座をゆずってからは、その後一度も子供たちの輪に関わってはきませんでした。 彼は、そういう人なのです。 世の中に、自らの引き際を逃している人間が多い中で、鳥取には確かに、自分の本分をやりつくした後は、その場から姿を消して、二度とは現われなかった小学生が──自らの引き際を見事にわきまえた少年があったのです。 以降、私は自分が小さい器であることを知りながらも、中高時代の部活で代替わりがあるときなどには、心して引き際について思いを巡らせるようにしました。 武人が去った後、綾一郎率いる相生の子供たちはいや増して日の出の勢いを獲得していきます。 武人は、自分を欠いた相生の少年たちが消沈するのをよしとしませんでした。ひるがえって、自分の力量を見せつけたいがために、自分のいなくなった後の社会の発展をこころよく思わない人が、世の中にはいったいどのくらいいることでしょうか。 大将として自分の出しうる力をすべて出しきった後、身を引いてからは、集落の子供たちの更なる発展を俯瞰して楽しむ──これが本当に「自分の才ではなく、子供たちのすべてを愛していた」ということなのでしょう。 いしきな。お疲れさまでした。 あなたはこの物語の前半のすべてを導いてくれました。 明日は鳥取物語三年生編の最終章、第十二章●わが名を呼びて●が始まります。それぞれの集落でも新しい大将も決まり、相生村にふたたび平和が訪れます。斥候を放ってまで相生の大将任命の行方を気にしていたほかの集落の大将たちに混ざって、「綾一郎新大将」の一報を耳にしにきなんせ。
2005年09月27日
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それからまもなくして、武人はおのこのみの会議を招集した。 混乱のうちにはじまり混乱のうちに終わっていた最近の思惟とはちがい、いまの彼は自分がなにをしたいかはっきりと承知していた。 最後のひとりが二の丸の小屋の自分の席に着く前から、彼は心の中である計画を練りはじめた。 今度一緒に中学にあがる、自分の右腕であった剛の開会の宣言に耳を傾けながら、武人は計画をもっともうまく実行にうつす手立てを考えていた。 武人は会議を短くおさめようとした。長引いたあげく何も決まらない話し合いの類が、彼は好きではない。 そして武人の頭には明快きわまるひとつの指針があった。 さて頃合いというとき、彼は雄弁にすばらしく理路整然とした演説をくりひろげ、新しい大将に必要な類まれな勇気、集落を守るというたったひとつの目的、責任と影響力についてひとつひとつ語った。 そして最後に、新しい大将を決めるに当たっては、そのことがそのまま集落の命運を分けることを念頭に置き、一番善かれという人物を選ぶよう話をしめくくった。 話が終わると長い沈黙が落ちた。誰もが彼の言うとおりだと感じていた。 ややあってから、武人の語りの余韻もおさまったころ、武人はあたりをさりげなく見わたして、豊が常なる静かな面持ちであかりのそばに座っているのを確認した。 彼は手首にまわした数知れぬ腕釧の玉をぼんやりとつつきながら、焦点のさだまらぬ目で炎を見ていた。 武人はあえて声をかけないままでいた。 子供たちにとっては永遠とも思える長い沈黙が落ち、やっと豊は自分が武人の凝視にあっていることに気づいて、顔を上げた。 ふたりの目が合ったとき、武人は言った。 ──ゆた。おまいはどう思う。おまいの考えを聞きたい。 はじめ豊は、なにも答えなかった。 だがその茶緑色に透ける瞳は、武人の魂をまっすぐのぞきこみ、豊のおだやかな表情に、武人は大将としての今までのすべての出来事が労われたかのような安らかさを覚えた。 それから、武人を見つめる豊の口元に屈託のない笑みがよぎり、精神の静けさを感じさせるあの声が、二の丸の小屋にしみわたった。 ──皆で大将を選ぶのが正しいとは思えん。大将たるをようわかっとる者が、それに見合う者を決めればええが。 返事をする武人の目が一瞬、小さくきらりと光った。 ──皆で決めはせん。んだが大将はあんちょくにゆずれるもんでもない。 それは善いやっちゃがやらねばならん。相生の相生たるところをよく示せるもんが。 ここで彼は言葉を切り、目を閉じた。 一分が過ぎ、武人は頭の中で、信頼のおける仲間たちの顔を次々に思い浮かべ、自分の在任中のその労をねぎらった。 そして、武人はつかのま目を開くと、豊にこう告げた。 それは、名称いしきなの、大将としての最後の言葉であった。 ──おまいがやるだ。おまいが、大将を選べ。 一同が話しの急展開に息を詰める中、ややあって豊の声が静寂を切り裂いて、二の丸に響いた。 ──すせりなを大将に。あかえを副将に。 会議はおさまるべきところにおさまって終わった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 言葉が違おうが、習慣が違おうが、おてんとさまとお米はどこにでもついてくる──。 私にそういう確信があるのは、鳥取時代を過ごしたからだと思うのです。 プロフィールを読まれた方々から、中国留学時代について書くようにとのリクエストを、ひとりならず(ひとり‘だらず’じゃないで!)からちょうだいするので、鳥取のこともまだたくさん書きたいのですが、今日は少し、中国留学のさわりだけでもお話しできればと思います。 中国大陸の奥深いところは、 「なくてもある」 という一言に尽きます。 商店やレストランでも、客が要求しているものが「ない」ことはしばしばですが、おとくいさんや馴染みの客があらわれると「ある」に変わることは周知のところです。 これは省庁の手続きでも同じことがいえます。 私は甘粛省は敦煌に三ヶ月間滞在した後、そのまま帰国するのが当初の予定でした。敦煌には朝日新聞の制度の一員として派遣されていたからです。 けれども、三ヶ月の研究期間を終えた後、二週間ばかりタクラマカン砂漠を横断、トゥルファン、ウルムチ、クチャ、キジル、クムトラなどなどをまわり、高昌故城で玄奘三蔵が孫悟空たちと飲み会をしたときのビール瓶のかけらなどを集めながらも無事北京にたどりついたとき、私の胸のうちにあったのは、 「もうこの国から離れまい」 という強い思いでした。 で、至極当然のごとく「留学しよう」と思ったのですが、三ヶ月も中国大陸のただ中にあって、私はもう中国の体質を理解していました。 北京に着いたその足で中国外交部(日本の外務省)に押し入り、「あたし、今日から留学したいんだけど、手続きしてください」 とフツーの顔をして言い切りました。「北京大学には空きがない」というので、「じゃ、美術史のある大学ならどこでも」と要求し、 中央美術学院(日本の芸大に相当するから、ちょっと違うんだけど)ならあるというので、「わかった。今日その大学に行きます」と答えました。 その場で推薦状を書いてもらい、大学に赴いてそれを提出し、めでたく留学が決定。その日のうちに王府井(ワンフーチン)にある、故宮を望める留学生宿舎の八階に落ち着くことができました。 これが日本だったら、どうでしょう。 リュックをしょった小汚い外国人が、外務省に入っていって「今日から留学します。でも今まで手続きはなにもしていないので、こちらで今してください」と言ったとしたら。留学の手続きなど、半年も前に完了していなければならないものでしょう。 日本は、「ない」ものは「ない」のです。 中国は、「ない」ものは「ある」国なのだから、こちらが「ある」といえばすぐに「ある」の方に筋道をつけてくれます。 私の場合、パスポートも旅行者用のものでしたから、ビザの申請はそれから13回も行い(ほとんど不法滞在です)、朝日新聞からいただいた帰国用の航空券で一時帰国したのは、それから半年後のお正月のときでした。ビザの申請が13回もされていたので、もちろん成田空港では「ありえない」と捕獲され、「ありえたんだって」と説明するのが大変でした。 日本人って、こんなにアタマが硬かったっけ? と思ったものです。 日本の官僚さんたち、政治家の皆さん、中国に外交上「NO」と言われても、「YESって言ったの?」と言い張っていれば、いつのまにか「YES」になってるんだから、もっと押しを強くして頑張って! 以上が私の中国留学のプロローグです。おそまつさまでございました。 明日はこの章の終わり●綾一郎と豊●です。このふたりは、この先とても仲良しになるのですが・・・。タイムスリップして、まずはご挨拶といったところをご覧あそばせ。
2005年09月26日
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(在校生代表) 久松山の、夜明けです。 たくさんの光が、射し込んできます。 醇風創立、150周年の・・・ (中略) 今日、ご卒業の皆さま、おめでとうございます。 (在校生全員) おめでとうございます。 (卒業生代表) ありがとう。 (卒業生全員) ありがとう。 三月に入って、分校でも卒業式の練習に余念がなくなってきた折も折、同じ六年である神生(かにゅう)の宇佐美博道が、その大将の立場をあらたに森雅弘にゆずった話が流れると、武人はことの重大さを実感しはじめ、ある日の午後、学校がひけてから彼は喜平じぃの家をふらりと訪ねた。 老人は機嫌がよかった。 彼は子供たちを率いる者に足る強靭な意志と、それに見合う優しさを持った武人を愛しており、自ら出向くわけでなくとも、この少年が会いにきたことは、彼を喜ばせていた。 ふたりはしばらくのあいだ、黙ってあぐらをかいていたが、やがておもむろにあたりさわりのない雑談をぽつぽつと交わし始めた。 しばらくして、喜平じぃは会話をある核心までひきこんだ。 彼は武人に向かって、大将の観点からこの春休みに子供たちにとってなにか悪い徴(しるし)のようなものごとは起きたであろうかと尋ねたのだ。この問いには、武人は今のところはないとだけ答えるのがやっとであった。 喜平じぃは、武人がなにごとかに煩悶しているであろうことを敏感に感じ取った。 それから、人生の達人らしい手管を弄して、さりげなく善い徴(しるし)となりうるものはどうかと聞いた。 ふたりの目があった。 ──ひとつ、あるだ。 武人は言った。 そう言ったとたん、彼は両手の縄が解かれたかのような安堵を感じた。 一節がすらすらと口から流れ出した。 新しい大将のこと、綾一郎、尚敦のこと、そして豊のことが。 武人は話し終えると、喜平じぃはふうと息を吐き出した。 ──おまいはいつも善い物思いをするな、いしきな。それによくものを見通す。 喜平じぃはにこりとした。 ──では言おう。 彼は言った。 ──おまいは、おまいのすべきことを、したいようにするがええ。 本日の日記--------------------------------------------------------- 喜平じぃは、当時ですでに卒寿を超えていたという記憶があります。 ──元気よのぅ と賞されるたびに、 ──死に方を忘れてしもた。 と笑っておりました。 重い病気の人があっても、 ──あれは死ぬための優待キップをもろたんじゃ。 と、とても善いことのように言うのです。 村で喜寿のお祝いがあったとき、 もちろん喜平じぃも呼ばれてその場にいたのですが、 喜寿(77歳)の人たちに向かって、 ──少年団。 と呼んでおりました。 というわけで、 おとといは親戚の喜寿のお祝いだったのですが、 私はひそかに、親戚と親戚の同期の方々を見上げて、 おお、少年団だ・・・。 と思っておりました。 このブログを読んでくださっている、生まれも育ちも鳥取の方が、 ──わたしは現在五十代ですが、この先何百年も生きるつもりです。 とメールをくださいました。 鳥取の人は、いきがいいのです。 彼らの言葉がすべてを物語る。 都会の人間は強いというより、押しが強いだけ。 鳥取の人と比べれば、多弁・雄弁ではあるでしょうが、 喜寿の人を少年と呼び、先は何百年も生きると言い切る、 この気迫に追従できる者がいるだろうか。 私はもっと心がけて、自らの多弁をいましめよう。 明日は●大将の任命●です。子供たちがいよいよひとところに召集されます。タイムスリップして、名将いしきなの采配に耳をそばだてにきなんせ。
2005年09月25日
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武人は六年生だった。 ということは、来年は中学生として市内の中学校に遠路はるばる通うことになる。 そして、分校を卒業すると同時に、地元の大将の役割も継ぎの者にゆずるのが、この集落の子供たちのならいだった。 早いもので、もう二月が過ぎていた。 そして、例年では継ぎの大将が決まっている頃であるのに、その名はまだ誰にも報告されていなかった。 武人は新しい大将決めのことを、自分の胸の中だけにしまいこんでいた。 彼はこのところずっと自分自身と向き合って過ごし、心をかき乱されながら、真実を必死につかもうとしていた。 しかしさんざん考え抜いたあげくにも、浮かび上がってくるのは、ただひとりの名ばかりであることを、彼は自分に対して認めざるを得なかった。 ゆた── これを結論にしてしまうと、ある意味でさらに多くの問題を生み出すものだった。 こうも考えあぐんで、ゆたの名が消えないということは、確かにあの少年がなんらかの形で相生の命運と結びついているにちがいない。 だが周知のとおり、豊は孤高の少年であり、徒党を組んだ際の働きといい、また年功序列からいっても来年度に六年生になる斥候の綾一郎が次期大将には自然であった。 その一コ下には、これまた斥候としての覚えめでたい尚敦がひかえている。 相生を守る者として、他の集落にもよくその力量が知られている綾一郎と尚敦のどちらも適役に違いなく、まったく問題なく決まるはずの新大将と副将だった。 少年として、大将の地位を願わない者はない。 武人にしても、今までの働きの報酬として、自分の機動力としての右腕だった斥候の二人に、大将、副大将をゆずってやりたかった。斥候の後任としては、てつが動いてくれるだろう。 だが自分の選択に素直になればなるほど、どうしてこうも豊の影がちらつくのか。 武人はそこから意味を読み取ろうとしたが、いくらがんばってみても納得のいく理由はあがらなかった。 いままで経験した何にもまして、この袋小路は彼を悩ませた。 他の子供たちは武人の沈黙を気遣う気持ちとうらはらに、何事もないように毎日の遊びに参加していた。 本日の日記--------------------------------------------------------- さあさあ皆様 お唄いなされ 唄じゃ御器量は下がりゃせぬ 甚句唄うよな いなせないなせな姉さんと 共に苦労がしてみたい── 突然ですが、皆さまは‘甚句’をご存じですか? ‘じんく’と読みます。聞いたことがある方もいらっしゃると思います。 甚句は、江戸時代の中期から各地に誕生したもので、ルーツは定かではないのですが、各地方での謡として、また民謡として今日親しまれているものも多いのです。 長い物語をうたう口説(くどき)から変化したものともいわれ、仕事うたや盆踊うた,酒宴の席の三味線うたなどいろいろな用いられ方をしています。 各地の甚句の共通したものとしては、歌詞が七七七五であることがあげられます。 起源については、[1]元禄期に流行した兵庫口説のなかに甚九郎という者をうたった節があり、それを甚丸と呼んでひろめられたという説。[2]各地に発生した土地の句を地ン句と称したという説。[3]神に供えるうたという意味の神供(じんく)からきたものという説。 など諸説があり、いずれも決定的なものとはなっていません。 さて、鳥取では、傘おどり、三朝小唄、貝殻節などが甚句のルーツを持ちますが、相生村においては、作業唄や宴の余興として次第に喉自慢、唄くらべとなって、名歌手は様々な場面で喜ばれます。 こんなことを突然書いたのはですね── 昨日、父方の親戚の喜寿祝いの式典が都内のホテルであったのです。 で、来賓の祝辞のほかにも様々な披露があったのですが、客のノリが悪すぎ。トウキョウだから、仕方ないのですが。 これが鳥取だったら、誰かが一声出した時点でやんやの盛り上がりになり、歌なら歌い出しの一拍目から手拍子合いの手が入るのになぁ~と懐かしく思い出しておりました。 父がお正月に村の人とともに宴会をした時の甚句は忘れられません。 もし、甚句をご存じない方のためにここに書きますが、甚句ご紹介以上の意味はありません。甚句はもとより、即興で人をほめていい気分にさせるものですから、内容についてはあまり深い意味のないものです。ただここに、これだけの詩文を即興でおこし、唄つきで歌った者が相生村にいたことを、知っていただきたいのです。 中村さんとおっしゃる方が即興で作った甚句、聞いてごしなれな。 人は一代 その名を興す アー 生まれは満州大連で 苦難の末に引き揚げてホイ わずか九つその若さ ●●の道に合格しホイ 緑のお江戸は本郷の ●●●●進みたる 姓は山口 名は●●ホイ あれから足掛け十五年 本省勤務の公僕がホイ 世の人々の手助けの かたわら中国残留のホイ 孤児問題に尽力し 多く社会に貢献す 多忙な仕事かたわらにホイ ●●●●研究は、 古今稀なる見識で はたまた●●友の会ホイ 多彩な活動続けたり 時は流れてここ節目ホイ 転勤族もひと区切り 豊かな経験実績を 活かして進む鳥取県ホイ これから更なるご発展 春風さわやか このよき日 めでたく迎えし正月祝ホイ お世話になりよる ご来賓 お友達やら皆さまと 挙げてお祝いヨーホホイ申します 中村さん、宴の華よ! ひとり言が長くなってしまいました。明日は●武人、喜平じぃを訪問す●です。タイムスリップして、喜平じぃという大樹のもとに寄りなんせ。
2005年09月24日
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鳥取の冬はどこもかしこも新雪で包まれていた。 子供たちや小動物が踏みならわしても、また晩にはその上にしんしんと雪が降り積むからだ。 ここはまさに別世界だった。 この季節、相生は外界からまったく遮断され、古来より独特の生活が展開した。 出稼ぎに行く人はいなかった。大人たちはスキーかかんじきを履いて狩りのために雪山をわたり、吹雪が始まると土間でわらを打ったり工芸品を作ったりして過ごした。 子供たちの遊びも、冬は冬なりに豊富であった。 そりすべりやクロスカントリーは、ひがな一日やっていても飽きなかったし、天気の悪い日には家近くの作り置きのかまくらに入って、手作りのおこし片手におしゃべりに興じた。 一瞬の遊びとしては、なにやら謎めいたものも二、三あった。 鳥取にも雪倒れになった子供たちの供養として、東北地方の「雪わらす」に似た「雪わらしこ」という信心があった。 それにまつわるもので、みんなで輪になって目をつむったままひとりづつ数を言っていく。 人数分数え終わったら、今度は逆に数えて一番の子に戻す。 たとえば、八人で遊ぶならば、こういうふうに数えていく。 1、2、3、4、5、6、7、8、 8、7、6、5、4、3、2・・・ ところが、はじめに一番と言った子が、ときによって「一番」をとなりの子に先に言われてしまうことがある。 自分まで数がまわらないのだ。 つまり、人数がはじめに数えたときより、その分が増えていたことになる。 これはどういう現象なのかいまだによくわからないが、子供たちはさして気味悪いような気分にもならないで、よくこの遊びをやったものだ。 そして、本当に何回かに一度は人数が増えた。増えたのは、雪わらしこが一緒になって遊んでいると考えられていた。 また、もっと実際的に雪わらしこと遊ぶ方法として、以下のようなものが考案されていた。 みんなで目をつむって肩を組み合わせ、顔を雪にくっつけて雪の上に顔型をとり、そのまま右にずれてもう一度となりの子が押し付けた部分に自分の顔をつける。 それから、ふたたび左にずれて最初に自分がつけた顔型に戻る、という作業をする。 すると、人数分の顔型以外に、一番右側の子のみの顔型がひとつ増えているはずだが、見ると、左側にも誰か判別のつかない顔型が残されることがある。 これが雪わらしこの顔である。 それが現われる度に、おほーっと小夜たちは感心したものだ。 小夜は歩けばなんとかなる単純なスキーにもすぐに慣れ、年も明けるとみんなのクロスカントリーにも邪魔にならない程度についていけるようになった。 豪雪地帯の冬休みは長い。 小夜たちは毎日お弁当を腰に結びつけ、たいこうがなる(久松山)にくり出して、山スキーを楽しんだ。 動物の足跡を見つけると、男の子たちは、その正体を見るまで追跡をやめなかった。 足跡の先には、たいがい狐か雪うさぎがいて、子供たちを見ると一目散に逃げていくのだった。 小夜も何度か見慣れていくうちに、足跡だけで何の動物かがわかるようになっていた。 それは、夏の時分に、抜け殻だけでセミの種類を当てられるようになったことと同じくらい、小夜には誇らしいものであった。 夏は夏で、冬は冬で、長い休みはすなわち冒険の始まりだった。 そばには心通いあう仲間たちと、信頼に足る大将がいつも一緒だった。 このように、当時の小夜の冒険とは、常に安心がついてまわるものであった。 冒険とは、本来そのようでなければいけないのではないかと思うのだが、皆さんはどうであろう。 第十章のおわり 本日の日記--------------------------------------------------------- 冒険といえば──。 植村直巳がマッキンリーで消息を絶ったのは、私が中学に入った年のことでした。 1970年8月、マッキンリーの単独初登頂をなしとげた植村直巳は、1984年2月12日、43歳の誕生日に冬季単独初登頂を果たしましたが、翌朝の無線交信を最後に消息を絶ちました。 捜索隊は雪洞に残された遺品や頂上に立てられたピッケルと国旗を持ちかえりましたが、彼の行方はついにつかめませんでした。 捜索隊には、冬のエベレスト北壁に挑戦して帰国したばかりの人も何人か含まれていましたが、捜索から帰るなり「あの山は実際の高さより1000mは高い、ヒマラヤの7000mと同じ厳しさだ」と報告したのです。 冬には想像を絶する風速60m/hの強風が吹き、気温は氷点下60度を記録する中、植村直巳の遭難から5年後の2月、当時日本最強の登山家といわれた、山田昇と2人の仲間もマッキンリーのこの過酷な気象に命を奪われました。 さて、私に強烈に印象付けたのは、捜索が打ち切られた後の関係者による記者会見の中継の模様でした。 その席で、植村直巳の夫人が、 ──夫は探検家であり冒険家でもありました。 冒険とは、生きて帰ること。 自らを冒険家と称す者が、命を落とすような冒険をしたことは、 だらしがないと思います。 と怒りにふるえて言い放ったのを、ほとんど泣かんばかりにして聞いたおぼえがあります。 冒険から戻ることのなかった冒険者を、死んだ愛する夫を、だらしがないと一刀両断する──。 亡き夫の気持ちをただ代弁するだけの妻と違い、夫と真に冒険者という魂を共有していたからこそ言えた言葉だと、私は深く心を打たれました。 手前味噌なお話ですが、私の父は山男でした。 中高時代に山岳部に入り、縦横無尽に山を歩くのが好きな人でした。 植村直巳が消息を絶ったのち、父は単独グレートマッキンリーに入り、彼を捜索しようとしました。 父も消息を絶ったかと思いきや、ある日マッキンリーのワッペンの付いたTシャツを大量にお土産に抱えてひょっこり戻ってきました。 「いやぁ~。植村さんには会えなかったなぁ。でも植村さんを知ってる人には何人も会ったよ~」と笑いながら。 その父もガンには勝てず、五十七歳で亡くなりました。 この一章を、鳥取を愛した父に捧げます。 明日は第十一章のはじまり●大将たる者たち●です。 相生の大将が代替わりの時を迎えます。 タイムスリップして、名将いしきなにねぎらいの言葉を!
2005年09月23日
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そんな風に家で過ごしているうちに、三日目の早朝に吹雪が晴れた。 小夜は登校の時間を待ちかねて、すぐ外に出ようとしたが、父に静止された。雪に降り積もられていて、このままではいつもの玄関を使っては、外に出られないそうなのだ。 冬の間、村の人たちは中二階にあらかじめ造られている冬用の扉から出入りするという。 小夜の父は、一階と二階の間にある、小窓と呼ぶにはなるほど扉に近い、これまで開かずのドアだったところを、小夜の目の前でこじ開けてみせた。 ──うわーっ。 朝日がまぶしい。 ましてきらきらきらきらまぶしいのは、一面の銀世界だった。 小夜はあらかじめ綾一郎のおんちゃから譲ってもらっていた子供用のスキー板を持ってきて、いつでも履けるように外に突き立てた。 そして朝ごはんをかきこむと、ぴょんっと表に躍り出た。 すぐさま脚が腿のところまで雪に埋まってしまう。小夜は自らの身にに起こった現象を見て、深く感激してしまった。 足の下にはさらに1メートルを超える雪が積もっているのだろう。 こんな積雪は見たことがなかった。こんなに無尽蔵で、一点の汚れもない鏡のような雪は。 小夜は感動に突き動かされて、自分の足元を掘って掘って掘りまくった。 ずずず・・・と雪の壁がくだけて、地面に着くどころか、小夜が生き埋めになりそうだった。すばらしい。 見渡すと、道などはとうに雪の底になっていて、雪に突き出た家々はまるで奇妙に白くにごり果てた海原に浮かぶ島々のようだった。 小夜はそのけったいな光景に目をみはり、しばし視覚の遠近感を慣れさせようと苦心してみた。 そうしてじっと立ち尽くしていると、やがて白い海に浮かぶ島々の一戸から小さな人影が元気に現われ、それが次第にこちらへと近づいてくるのが見えた。みくまりだ。 みくまりはスキーをはいていた。 彼女はそのまま雪原の上をすいすいと渡ってくると、小夜の前できゅっと雪の音をさせて小気味よく止まって見せた。 そして、小夜に三日ぶりの声をかけた。 ──あんたぁが、スキー初めてとちゃうかと思うての。 そのとおりだった。小夜はおそるおそる訊いてみた。 ──むつかしいだか? ──むつかしいことなぞ、なんもないっちゃ。 みいやは頼もしくも即座にそう答えた。 ──スキーなしで歩くんが、よっぽどたいぎだが。 そしてにこりと笑った。 ──要は杖に体重をかけて、前へ前へと身体を押し出すのえ。ともかく履いてみ。滑りもうて、教えるが。 相生でのスキーとは、全く雪道を歩くだけのために使われる、この手作りの冬道具のことである。 それはいわば、クロスカントリー用の造りになっていて、板は細く、踵は固定されていなかった。 そして両手にはストックならぬ自分の身長に適当な長さの木の杖を持って、雪の上を進むために一心に漕ぐのだ。綾一郎のおんちゃはまめな人で、小夜の板にはたっぷりと蝋が塗ってあった。 ──さーて。まずは杖ついたまま、その場で両足を前後ろに動かしてみ。 みくまりに言われたとおりにやってみて、小夜はその感触に驚いた。 ──わっ。自分の足でないみたいだが! ──すぐ慣れるて。 みくまりはわけなく言うと、ずんずん前に歩き出してしまった。 ──待ってぇな! 小夜はスキーを履いて歩いたことがないのも忘れて、遅れはせじと夢中でみくまりを追いかけた。 何度かコントロールを失い、つんのめりすっころびながらも、その都度体勢を立て直して頑張っているうちに、汗びっしょりになってしまった。 ──みくまり、うちもういけん。もう歩かれんが。 小夜が情けない声をあげると、みくまりはやっと立ち止まって振り返ってくれた。その顔は笑っていた。 ──がんじょせんと。連中に追いつかれてしまうが。 案の定、やがて後方から複数の声が聞こえてくると、あっというまに小夜たちは追いつかれて、他の子供たちの冷やかしの的になってしまった。 ──ねねが、なにやらちんたらやっとるぞい! ──学校、遅れるでないぞ! 小夜を口々にからかいながら、彼らは巧みに滑走と闊歩の技術を使い分けして、もはや前方の茂みの影に消えていた。今の小夜の調子と比べれば、全員が‘わかとり国体’に出られそうな勢いである。 さて、みくまりの言うとおりで、このスキーは要は歩けばいいのだ。 パラレルやウェーデルンなどの技もいらない。 そんなわけで、もうしばらくたつと、小夜はだいぶ自分の身体で体得できてきたことを実感するまでにいたった。 少し余裕ができてあたりを見渡すと、小夜はこの地域でも滅多に見られない現象である、ダイヤモンドダストに自分が包まれているのを発見した。 朝から天空が異様にきらめいていたのは、このせいだったのだ。 ミクロの氷粒が、七色に光りながら降り注いでいる。 不純物のない空気にのみ、ありえるこの現象。りんとした朝の気が、汗ばんだ身体に心地よい。 ──ねねぇ、だいぶ慣れたんとちゃう? みくまりは小夜をふりかえって、笑いながらそう言った。 気がつくと、前方には分校が見えていたのだった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 氷之山と書いて‘ひょうのせん’と呼ぶ・・・。 スキー場といえば、苗場でもキューピットバレーでもなく(新潟の人ごめんなして)、氷之山ですよ。 なにがええて、氷之山のロッヂで食べることのできる、カレーライスと三枚のたくあんだが。 やっぱり、カレーにはたくあんだっちゃ。 ??? 鳥取だけぇ、らっきょでないだか? でも、なんしてこげにおいしいだ? あんまりおいしいんで、うちは食堂のおばさんにねだって、新聞紙に包んで毎回一本ずつ持って帰らせてもらっとったわ。そのたくあんはもちろんおばさんの手作りだっちゃ。たくあんようけ入れた樽を外に出してあったんで、そこから一本ずつもらって帰るんよ。 家でも絶賛やったが。 おかげで今でも山口家ではカレーライスにたくあんだが。 あげにおいしいたくあんではないけども。 ──っちゃなんで、皆さまついてきてくださっていますか? 最近は私も鳥取弁を思い出しまくってきて、そうなると、鳥取の話は鳥取弁でしか語れなくなってしまい・・・。 最近なに書いてるのかわからない! だらずって何? わったいなやってどういう意味? などと他県の方にメールでお叱りを受けながらも、特に解説もせずにそのまま鳥取弁の道を突き進もうとしている私を誰かとめて。 他県の方も、ここまでの鳥取弁を聞いたことはないんじゃないかな。 でもね、小夜もそうだったんですよ。 最初は鳥取弁、ぜんぜんわからなかったです。 三週間、がまんしてみてくださいな。 そのうちになぜか、ぱっと霧が晴れたように言葉が理解できるようになりますから。 明日はこの章のおわり●雪わらしこの出た里●です。 おるだよ。ほんにで出ただよ。うっちゃこの目で見たもの。タイムスリップして、雪わらしこと一緒に遊ぼうで。 それから明日なぁ、うちがこのブログ開設してちょうど一ヶ月目に当たるんえ。8月23日に初めてプロローグをアップしたですよ。 ここまでこられたのも、毎日お会いできる皆さまのおかげです。 小さな小さな物語ですが、これからもよろしくお願い申し上げます。
2005年09月22日
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小夜の昔のクラスメートの手紙には、二十世紀梨は二十一世紀になったらその名を変えるのか、という質問がまるで判を押したように並んでいるのにも閉口してしまった。 小学校低学年にしてはなかなか鋭い疑問であるともいえなくもないが、こうも同じ内容の手紙が届けられたとなるとそれだけでもう野暮である。 小夜は、その頃にはもうそらで説明をすることができた二十世紀梨のあらましを頭の中に思い浮かべた。 二十世紀梨という品種は、八雲、菊水と並んで日本梨の一種である。 松戸覚之助が発見した偶発実生で、1898年に命名。もうすぐ100年の歴史を経ることになる。 果実は黒斑病に弱いため、幼果期に小袋をかけ、ついでにパラフィンの二重袋をかけて栽培する。 つまり、二十世紀梨とは、この姿美しくも美味な偶発果実が二十世紀近くに発見されたから名付けられたのであって、たとえ二十一世紀を迎えようが‘二十世紀梨’の名はいつであっても不変であるべきなのだ。 民俗学的な見地から言うと、日本人は梨の語音が‘無し’に通じるため、財産や幸運がなくなるとか、人が亡くなるとかいって屋敷に植えるのを忌み、縁起ことばでアリノミと言い換える地方もある。 そういった地方では、梨を食べると疳(カン)の虫がわくといい、梨を食べる夢を見ても悪い徴とされる。とくに妊婦は梨を食べると腹が冷えるといって、梨を口にするのを禁じている地方も多く、妊婦が梨の木の下を通ってもいけないという。 また、その芯を食べると背が伸びぬとか、腫れ物ができるなどともいう。 実際に梨の芯は固くて酸っぱいものだから、うっかり食べないように「梨は昼食え、桃は夜食え」という言いなしもあり、一説にはこれは梨につく虫を食べぬようにと言い伝えられたものでもあるらしい。 このように、桃を文句なしの吉祥果とするなかで、日本全国梨を嫌う地方は多いのだが、ここ梨の産地の鳥取での言い伝えは、それに真っ向から異を唱えるものであった。 すなわち、鳥取では、家の建材に梨を使えば「何もなし」で盗難に遭わぬといい、鬼門に植えて「鬼門なし」だと喜ぶ。 梨は相生では麻疹よけのまじないや咳止め、解熱の薬としても使われる。また、なぜだか歯痛の呪(まじない)によく用いられた。歯痛の時に初梨を神に供えたり川に流すほか、梨を三年断って歯痛の生涯起きないことを神に祈願する風習もあった。 天候については、梨の実が多いと大風、大水になるといい、梨の花の返り咲きは変事の兆しという。 もっとも、伝統的に梨を嫌う地方があったとしても、それは旧来の種についてであって、二十世紀梨のことではよもやあるまい。 小夜は都会の子供たちの疑問に対して理路整然とした返答をしてやろうと思い立ったが、鉛筆を尖らせたところでふと手をとめた。 二十世紀梨について小夜がどんなに熱心に語ったところで、都会の子供たちは彼女が能書きをたれているようにしか感じないだろう。 その日、彼らは自分たちの舌で二十世紀梨を味わい、瞠目したことであろう。 おそらく彼らがはじめて二十世紀梨を食べたのは、転校していった女の子が送ってきたのを、先生が教室でむいて与えたものだった──その味と光景は、彼らの記憶に残るであろう。 もうそれでよい。 梨の返礼としての手紙の中に、ひとつだけ心に残った文章があった。 クラスメートだった男の子からのもので、それには「早く帰ってこないと、おしりぺんぺんだよ!」と元気な筆づかいでしたためてあった。 ──帰る・・・。 どこに。 横浜にか。 あの制服を着て通うコンクリートの学校にか。 小夜は、最近横浜のことをちらとも思い出していなかったことに気づかされた。小夜は自分の中で横浜での生活への思いが、もはやまったく薄れていたことを、認めないわけにいかなかった。 そのこととは、小夜が今、都会の子供たちがそこで七度生まれ変わったとしても経験し得ない大冒険の、そのただ中にいることが大いに関係していたのであろう。 本日の日記--------------------------------------------------------- 鳥取の方にしてみれば、ツッコミどころ満載の「小夜による二十世紀梨の説明」だったと思われますが、まだ三年生だけぇな。こらえてつかんせ。 二十世紀梨のお菓子といえば、梨のゼリーがあらしませんかいな。 まあるくて、真ん中に四つの小穴が開けてある透明なお菓子だが。 おそらく、輪切りにした梨を模したようなかたちの・・・。 果実ゼリーっちゃなんは子供のころはよう食べつけんかったですが、この梨のゼリーはほんにおいしいと思ったっちゃ。最近よくある梨のゼリーとちゃうで。ほとんど、飴のような食感のあれだが。あれ、なんていいましたかいな? サイトが見つからんかったけど・・・。 あと、ふろしきまんじゅうな。 あれは国道沿いにあって、市内からもえらい遠いだが、わざわざ車で行って買いよった。ふかしたてのを、その場であついお茶もろて食べたがな。なんぼでも食べられたが。小さいのが八個で四百円もするだが。せぇけど、ありゃぜったいに日本一じゃ。 こっちでもデパートやぁで‘鳥取フェア’やるときもあるですわ。 でも、ふろしきまんじゅうはぜんぜん出んが。 二十数年で、たった一度だけ、横浜の三越のフェアで出品があっただけ。 広告入って、すぐに母と駆けつけましたが。ふたりしてようけ買いこんで、幾人にも配りもうて帰りました。あげた人たちはみんな、そのおいしさに驚きよったが。 とんねるずの番組で、‘食わず嫌い王選手権’いうのがあるでしょや。 あれの前振りで、それぞれがお土産を持ち寄る企画があるが。 なんで‘ふろしきまんじゅう’持ってこんの、と見るたびに思うだよ。 他のなんもおいしそうに見えんわして。 沢田研二なり、ピアニカ前田なりが呼ばれたときに、なんぞふろしきまんじゅうでももってかんかと誰か伝えてくれんかいの。 そういうわけで、鳥取の銘菓といえば、うちはふろしきまんじゅうと梨のゼリーっちゃなんが好きだったですわ。 倉吉の‘天女の忘れ物’はまだ食べたことないです(おとといの頁を参照してごしなんせ)。 明日は●吹雪の晴れた朝●です。なにやらハイジにあるような題名になってしもうたが。タイムスリップして、小夜が雪に埋もれた家のどこから這い出てくるか、見晴らしにきなんせ。
2005年09月21日
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木々はすっかり葉を落としていた。 季節はゆっくりと、しかし確実にめぐっているようだった。 それは早い冬の訪れだった。二,三日前からちらちらと降っていた初雪は、実はその後のすさまじい吹雪の前触れだった。 分校は大雪の間は休校になり、子供たちはまる二日、それぞれの家にこもって、雪の晴れ間を待っていた。 大雪になる前に、小夜はみくまりからある心あたたまるまじないを教えてもらっていたので、家に閉じ込められていてもそのことばかりが気になって、たいくつすることなど微塵もなかった。みくまりが言うことには、 降る初雪を懐紙で受け、雪の乾かぬうちに、 ──しろたえの 袖ふりかへす 恋なれば 妹(いも)の姿を 夢にし見ゆむ と書きつけたものをその晩に枕の下に入れて眠ると、生涯の伴侶となる異性の夢をはっきりと見るという。 小夜はもちろんそれをひそかに試行してみたが、初雪というのはその季節に初めて降った雪という広義の意味での初雪ではなく、初雪の中でもいっとう始めに降りてきた雪のひとひらを受け止めなければならなかったのではないかと、気が気ではなかった。 もっとも親しい賢者であるみくまりにふたたび尋ねてみることも考えたが、なぜそんなに真剣になるのかと尋ね返されたらなんだか困るような気がして、結局小夜のはじめてのまじないは、自己流で終わることになった。 果たしてその晩の夢は、やはり小夜の呪(まじな)いのやり方に不手際があったのか、きわめて抽象的な像を結ぶのみであった。 とある背の高い青年が、いずこかの屋敷の中にしつらえられている重厚な階段をとんとんとんと身軽に降りてくるのに、小夜は夢の中で行きあった。 だが、忘却の朝に、その青年の顔は忘れられた──。 さて、小夜にとっては、このわくわくするような大自然に翻弄される生活も、地元の人にとっては非常事態でもなんでもなかった。 毎年雪の季節になると、学校はしばしば休校に追い込まれ、かろうじて外界との接点となっている郵便物や新聞も、一週間に一度、七日分をまとめて配達されるのみの、閉ざされた世界になるのである。 また、相生村から市街に向かう便も、一週間に一度。買出しためのライトバンが村人の御用聞きを集めた紙を携えて、鳥取市に向けて出発する。 小夜も何度かそれに乗せてもらったことがあるが、大丸の駐車場は割高だというので、ダイエーに車をおいて大丸まで品物を買いに赴くのだった。 後に小夜は他県の人に、鳥取とは西日本にあるから暑い地域なのだろうと言われて、唖然として答えが返せなかったことがある。 否。鳥取とは、豪雪地帯である。 鳥取は夏暑く、冬寒い。彼岸になると、あたかも帳(とばり)が切って落とされたかのように、鳥取の季節はまことに潔よく寒暖を決する。 さて、学校のない二日間のおかげで、小夜は最近届けられたばかりの、横浜でのクラスメートからの手紙をゆっくりと読むことができた。 一ヶ月ほど前に、小夜は手ずから摘んだ二十世紀梨を聖ヨハネ学園の三年A組宛に送っていた。 今回届いた分厚い茶封筒は、クラス全員からの感謝状であるようだった。 包みを開くと、原稿用紙にひとりずつ、教わったばかりと見受けられる型のそろった書き方で手紙がしたためてあった。 ──山口さん、なしをありがとうございました。 宮下先生が、四時間目の国語の時間からむきはじめて、みんなでおべんとうのときにたべました。ほんとうにおいしかったです。 皆が皆、必ずと言っていいほどこの書き出しから始まっていた。 四時間目から延々と一クラス分の梨をむいて下さった宮下先生にはお疲れ様なことではあるが、二十世紀梨は二十一世紀になったらその名称をどう変えるのか、という質問が、まるで判を押したように並んでいるのには、さしもの小夜も閉口してしまった。 さすが──というかやっぱりというか。街の子たちの作文ではある。 梨はどうやって作付けするのか、また梨を実らせる上での苦労など、誰かひとりくらいは知りたがってくれてもよいのではないか──小夜は小さな眉を寄せて思った。小夜はそれに対する答えを、たくさん用意して待っていたのだ。 仲のよかった友達の名前も見つけたし、その中にはいまだに文通している子もいないではなかったが、実のところ、小夜の人間に対する魅力というものは、鳥取の子供たちに移ってしまって久しかった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 私が鳥取にいた頃は、デパートといえば大丸かダイエー、そして大きな店舗としては「うしお電気」というお店を覚えています。 ダイエーだかに、「キャプテンクック」というそのデパートならではの自社ブランド製品があり、言霊を重んじる相生の子供たちの中で「キャプテンクック」という名前の響きがおおいに興味をそそられ、みんなで手分けしてその人物について調べた覚えがあります。 それによると、「キャプテン」とは「船長」のことで「クック」が名前であることがわかりました。「キャプテンクック」とは、「クック船長」のことだったのです。 また、彼は人類史上最も偉大な冒険家の一人であることもわかりました。 大航海時代の末期、全長わずか30メートルのちっぽけな木造帆船の上で94名の乗組員を統率し、月へ行くのとほぼ同じ距離を航海したキャプテン。 三年をかけて地球を一周する航海の厳しさは、相生の子供たちの想像力をおおいに刺激しました。 当時としては珍しく、クックは「未開の異文化」を尊敬する人間でした。 イギリスのヨークシャー州に農夫の子として生まれ、階級社会の壁を乗り越えて偉業をなしたクックだが、意外にもその人物像については謎が多く、私たちはこの偉大なキャプテンの内面に迫るべく、子供の想像力を総動員してあれこれと語り合いました。 けれども、今思うに、この物語との出会いを相生村の中で一番に欲していたのは他ならぬ私であったのだと思います。 歴史学者のバーナード・スミスがいうとおり、「ほかのだれよりも世界をひとつにすることに貢献した」キャプテン・クック。 世界を変えた男の物語として、そしてその後の世界のあり方を考える意味でも、私は鳥取時代にキャプテンクックの冒険譚に触れていてよかった。 ビバ!ダイエー!!(おりしも創始者はおととい亡くなったけど) 鳥取市内のデパートは、今ではとても増えたのでしょうね。 明日は●二十世紀梨とは●です。小夜なりに、一生懸命鳥取の梨の説明をします。タイムスリップして、あらあらあらと首を傾げにきなんせ。
2005年09月20日
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その日の午後、みくまりは小夜の姿が見当たらないので、ひとりで釣りを楽しむことに決めた。 秋の柔らかな陽を浴びて、のんびりと釣りをしながら、みくまりは“お小夜ちゃん”の名前を思っていた。 なんだかおかしな名だ。 名前に‘夜’という字が含まれている。 ‘さ’は接頭語なので意味に含まれないとするならば、小夜というのは、ただの‘よる’という意味の名前になってしまう。 みくまりは小夜が里の子にもはや完全に溶け込んでいることを、胸のうちで誰よりも喜んでいたのだが、小夜の名を呼ぶときにだけ、同じ里の子として一抹の違和感を覚えずにはいられなかった。 それが他の子の仮名(かりな)に比べて、あまりにも戸籍の名前に準じた呼び名であったからかもしれない。 小夜が仲間になってそうそうに、とりあえずから呼び始めた当たりさわりのない呼称。 みくまりは、至極当然に自分が小夜の仮名をつけることを思い立ったが、言霊を信じるこの国の人間たるもの、命名行為というものは、名づけ親になるという誇らしさがともなうぶん、ある意味で非常に重い一件であった。 ことこの地方には、‘方言’とひとからげにしては説明しがたい言葉が散在していた。 たとえば、“たいこうがなる”は、単なるその地方での山の固有名詞ではなく、山への畏怖がこもった一種の「言霊」である。 畏敬の念を込めたこの言葉を人々が口にするたびに、山の神を鎮め、それがひいては善い結界となり、その土地を守る。 古くからある名は、それだけで呪詞(まじないことば)なのだ。 ひるがえって、命名という行為において、その者に名前という呪詞を授けた者こそが、授けられた者よりも高位に立つ。 その昔、久松山を‘たいこうがなる’と呼びならわした者のみが、この山の神を従えることができたのである。 つまり、命名行為は所有を宣言することでもあるのだ。 そして、名づけられた者に対する全責任を負うことにもなる。 しかし、みくまりはこれまでの小夜を見てきて、自分は重責を負ってでも、それをすべきであると勇敢にも判断するに至った。 相生の子たるもの、相生での仮名(かりな)を持つべきなのだ。 ことにあのような、里の暮らしに途中から入ってきたというような、特異な子の場合はなおのこと。 さて、皆が心を込めて呼んであげられるような、あの子にぴったりの何かよい名はないものか──。 みくまりは注意深く小夜のまわりの徴(しるし)を読み取ることにした。 ──みくまり。 小夜が彼女に声をかけたのはその時だった。 小夜は熱心に手をふって、離れた先のみくまりに合図を送って寄越した。 小夜はそのまままっすぐみくまりのもとにたどりつくと、とすんと彼女の横に腰をおろした。 みくまりはというと、めずらしく黙って、小夜が手にしているわれもこうの小枝に目を落としていた。 みくまりには実に面白い光景だった。 彼女は、自分がひどく重要なものを、今まさに見ていることを知っていた。 それは“お小夜ちゃん”にまつわる、ひとつの答えをもたらすものだった。 これこそが彼女の名だと、みくまりは確信した。この子の性質にぴったりとくる。 そして、みくまりは野原の向こうに暮れ残った陽光を見つめながら、その名を呼んだ。 ──ねね(紅の花)! 本日の日記--------------------------------------------------------- 地鎮する名か・・・。 私は現在は東京に住んでいるのですが、東京ってどうよ。 江戸でしょや。 江戸湾からの莫大な気をせきとめられるのが、江戸という地名なのです。 私のすまいは中原街道と旧中原街道にも近いところですが、街道筋の土地の名前も変えてはいけません。街道筋の土地の名は、その道を通る旅人を守っているのだから。 場所は特定しませんが、泪橋なども、絶対に変えてはいけない地名のひとつです。むかし、仕置き場(刑場)に連れて行かれる罪人たちが、今生の別れに涙した橋・・・泪橋とつけて、罪人たちの霊をなぐさめているのです。 人さらいにさらわれた我が子の特徴をしたためた紙を、母たちが欄干に貼ったことから名づけられた、切ない名前の橋もあります。 相生では、地名のことを‘うつくしことは’と呼びかえて特別に大切にしていました。 今、私にとって最もうつくしい言葉は、‘鳥取’です。 明日から第十章●雪山賛歌●です。 初雪の晩にすると将来の伴侶の夢をみるというおまじないを、みくまりに教えてもらいましょう。 帳面を持って、タイムスリップしてきなんせ。
2005年09月19日
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長い静寂がおち、小夜はこっくりこっくりし始めていた。 ふいに小枝の折れるぽきりという小さな音が近くでして、小夜は我に返った。見ると、喜平じぃがせせらぎに、手折ったばかりの紅の小花ひともとをかざしていた。 ──お小夜、この花は「われもこう」いうだが。漢字で書くなら「吾亦紅」じゃ。 喜平じぃはやがて静かに語り始めた。 ──むかし、このあたりをおさめる山の神さんが、家来たちに命令しよったが。赤い花が好きな姫さんのために野に咲く赤い花を全部集めてくるように・・・・とな。 家来たちが野を歩き、山に分け入り、目についた赤い花という赤い花を全部摘み取り、さあこれくらいでよかろうと立ち去ろうとしたときのことじゃ。 草の間から小さな声が聞こえたっちゃ。『吾も紅なり』。驚いてよくよく目をこらすと、小さな小さな赤い花が木の実のようにかたまって咲いとっただ。 小夜は、なぜかみたされていく思いがしながら、静かに聞き入っていた。 ──「われもこう」は、決してはなやかなたたずまいではないが。 んだが、どことなく人の心をはなさないような花だっちゃ。 いっしょうけんめい、自分を摘んでくださいと訴えかけている様子が目に浮かぶような、一途で健気な花だが。 喜平じぃの言葉に、小夜は曖昧にうなずいた。 喜平じぃは小夜にそうなってほしい、と言いたかったのか。 今となってはもう知るよしもないが、ともかくこれは、ある大長老がいつか出会う小夜のために身の内にたくわえておいてくれた、彼の長い長い人生のうちで、小夜だけに語られた民話であった。 小夜もいつかこの民話を待つ誰かに語るのだろう。 そうやって数知れぬ人生を宿した物語ほど、物語自身が力を持ち、途切れることなく語り継がれてゆくのだ。 本日の日記--------------------------------------------------------- このところ鳥取出身の方、または鳥取に住まわれている方にもご訪問いただいており、嬉しいかぎりです。 ところが、鳥取物語では実際の地名、モデルとしての地域は存在するがあくまでも架空の地名、その両方を本文中にごちゃまぜにして書いているので、混乱する方もいらっしゃるようです。 なので、トップページに一文を書き添えてみました。 この物語に出てくる地名は、実在のあるなしに関わらずすべて仮称のものです、といった内容です。 鳥取という地域の雰囲気は綿密に書き込みたいのですが、鳥取のどの地域なのかを限定するという作業に関しては、それほど重要視していなかったので、実際に住んでいらっしゃる方からご指摘をいただくようになったのだと思います。 顧みれば、この物語を書き始めた頃より、会話文などから‘相生村’は因幡の国にあるであろうとの図星の推測をはじめ、‘相生村’はたいこうがなるの北側なのか等の鋭いご指摘もメールでいただいたりしておりました。 地域性を重んじる鳥取の方々の心を、ここにきてふたたび思い出せたような気がして、懐かしいような気持ちになります。 ‘相生村’は、鳥取の因幡の国のどこかにあるのだけれど、日本一目立たないので誰も知らない─とでも流してごしなんせ。 さて、民話といえば、広義の意味でブログの世界などもそれに相当するのだと思うのです。 誰かがブログの中で語り、それを読む人もまた、自分のブログの中でなにかを語っている。それがめぐりめぐって世界を作っている。 最近、‘お題を持ち帰る’というインターネット特有というべき風習も知りました。‘バトンを渡す’とも。 早くからネットの世界に住んでいた住人たちが作り出した慣習を、聞き手が持ち帰って、さらに現在に伝えてきたのでしょう。 これが民話と呼ばずになんと呼ぶのでしょうか。 似て非なる例としては、‘チェーンメール’などがあると思います。悪しきものだとわかっていても、‘チェーンメール’の一員になってしまう人もいるでしょう。 日本人だから、仕方ないのです。 鳥取で幼心に思ったこと。 日本人は生きていくなかで、自らも気がつかないうちに語り手となり、民話を生み続けるという宿命を持っている──。 この宿命がなくては、現代の民話ともいうべきインターネット上の日本人特有の諸々の慣例など、あり得ません。 現代日本人は意識して民話を語り伝えるのではなく、日本人である証として、自分でも気がつかないうちに語り伝え、だからこそブログの世界などの慣習も普遍性を帯びるのだと思います。 聞き手の日本人も日本人であるだけに、数々の人々から伝えられてきた力ある言葉に敏感です。人気のあるブログなどは、なにかしらの言葉の力を持っているのでしょう。 私はことさら‘日本人’を強調するつもりはありません。 けれども、ほかの諸国の人々がよくするように、「自分の言っていることを聞いて欲しい」と主張するよりむしろ、日本人は「誰かの言っていることが聞きたい」ひいては、「誰かの言っていることを語り伝えたい」民族なのだと感じるのです。 その是非は別として、民話を語り継いできた日本人の民族性から鑑みると、私はそのことがよく理解できるのです。 長々と私見を論じてしまいました。 明日は●小夜の正しい名●です。タイムスリップして、言霊の世界に飛び込んできなんせ。
2005年09月18日
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たいこうがなる(久松山)の秋は、また格別の趣があった。 人間界の見地からいうと、今年は今年は必ずしも実りの秋とはいえなかったが、それでも山は紅葉に燃え上がった。 そして林の中にあっては、紅や黄の心踊るような軽快な色調に彩られていた。 小夜は教えられるままに、あけびや山ぶどうを摘んで帰った。 中でもあけびは山のバナナと呼ばれているだけに、実は濃厚な甘さがあり、つるも茹でて卵に合わせればまさに秋の味覚ともいうべきおいしいおかずになるので、みんな毎日のように採っていた。 そんなある秋の日の午後のこと、小夜はみくまりに作り方を伝授してもらったばかりの、すすきの穂でできたふくろうを、ふと思い立って喜平じぃのところに捧げに行った。 何個か作ったものの中から、一番よくできているふたつを選んで届けたのを、彼はことのほか喜んでくれて、小夜を散歩に連れ出した。 ──どれ、お小夜とそぞろ歩きでもするだか。 ──ああ、いい場所があるっちゃ。 小夜はすばやく立ち上がり、一、二歩後ろにいつに変わらず矍鑠として喜平じぃを従えて、蛍に囲まれた豊に偶然にも出会ったあの日に、ひとりでたどった沢への小径へと彼を導いていった。 小夜たちは無言のまま、自分たちの柔らかい足音、松の枝の擦れあうさやさやという音、そして川べりに遊ぶ鳥たちの啼き声を聞きながら歩き続けた。 そして、ふいに地面が落ち窪んで淵になっているあの場所にたどりつくと、小径が途絶えてそれ以上は前に進めなくなった。 黙ったままふたりは、淵に面した大きなブナの木の前に腰をおろした。 どちらもなにもしゃべらなかった。 長いあいだ、喜平じぃは口を開こうとしなかった。 喜平じぃは、自分の懐に長い間しまっていた、ある民話がの時が満ちたのを感じた。 喜平じぃは、今やこの辺り一帯の押しも押されぬ族長であるが、若いうちは語部(かたりべ)の役割を持っていた。 今でも折を見て彼は、この地方に伝わる民話で、その子供に適ったものを、ひとりひとりに話して聞かせるようにしている。 民話には「むかしむかしあるところに」からはじまる普遍的な昔話として誰でも知っているものと、「これはあったることだが」と実際にあったこととして口伝えでひとりずつに語られるものとがあることを、喜平じぃは知っていた。 そしてそのどちらにしろ、民話は子供たちだけが、大切に守りえるのだ。 本日の日記--------------------------------------------------------- ‘民話’と聞いて何を思い浮かべるでしょう? 私にとって、鶴の恩返しやかさこ地蔵だけが民話ではありません。 私が鳥取にいたとき、「口裂け女」の話が日本全国区で大流行を見ました。そのとき、私は「これは現代の民話だっちゃ・・・」と思ったのです。 沖縄では、ひめゆりの塔で月夜の晩に髪をとかしている少女たちを見るかもしれないと思っていました。また、日もとっぷりくれて月明かりしかない沖縄の夜に、読谷のさとうきび畑の中に分け入って、キジムナーという妖怪に本気で出会いにいったり。 私が民話に対して特別に興味を持っているとお考えですか。 けれども、いまも巨大な現代社会の中で、新たな民話がふつふつと生まれ、語り継がれています。 私と同世代の方で、「口裂け女」を語らなかった人はいないでしょう。「人面犬」の話も耳にしてすぐに誰かに伝えた人がいるかもしれません。あなたも語り部だったのです。 私はいろいろな国の人を見てきましたが、日本人はとかく民話が好きです。そこかしこから、今でも民話が聞こえてきます。 喜平じぃは現代民話の第一人者でした。 口裂け女は山陰地方で生まれた民話で、昭和55年にはもう岡山・鳥取でその名を轟かせていたそうです。裂けている口をマスクでかくし、異形であることを自ら知っていながら、人に出会うと「わたし、きれい?」と問いかける悲しい女──。 喜平じぃは言います。 ──山陰には、せつない物語が多いっちゃ。 明日は●小夜の民話●です。タイムスリップして、数知れぬ人生を宿して語っていかれる民話の世界に、魂を遊ばせに来てください。
2005年09月17日
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傘さして ぐみを摘むなり 町育ち これが先生の読み上げた豊の句だった。 小夜はこの句を耳にした途端に唇を噛んだ。 あの場面を豊に目撃されていたことは知らなかったが、これは間違いなく自分のことだった。それもたった今さっきの。 小夜は豊の一句の内容を反芻した。そして、これはいじわるだと判じた。 確かに小夜はどう頑張ったとしても、この集落の子供たちはと異質であることは否めない。 しかし、あの時小夜はこの土地の子として生きることについて、真剣に思いめぐらしていたではないか。そんな物思いも知らずに、町育ちだのと詠んで──。 だいたい傘にしたって、雨が降ったらさすのが当然だろう。それがいかにも物めずらしい光景のような言いっぷりではないか。 思わず頭に血をのぼらせてから、小夜ははたと考えを止めた。 傘、傘だって? そういえば、ここの子供たちは傘を持って登校していただろうか。 小夜が自分に出した答えは、“持ってきていない”ということだった。 山陰地方は、“弁当は忘れても傘は忘れるな”などとよく釘をさされる。 雨の日は少なくなかったが、子供たちは皆、少々の雨ならば里いもの葉をふりまわして雨水をはらっているのだった。 こうなったら、金輪際ぜったいに傘を持ち歩くまい。 小夜は薄い唇を真一文字にして小さな胸に誓った。 ─── そういえば、現世では国語の授業中であったのだ。 ──これは何を詠んだん? 先生はひとしきり感心したように豊の句を鑑賞していたのだが、ふいにそう尋ねた。 ──あるがままを詠みましたが。 教室の後ろから、いつに変わらず恬淡とした豊の声。 小夜は我に返ったのは、その声のせいであった。 あるがまま。 この言葉が小夜の頭に鳴り響いていた。 ためらいもせず傘をさした小夜の姿を、豊は「あるがまま」と詠んだ。 確かにあれは小夜のあるがままにさせた行為だった。 誰かに合わせたというのでもない、何かの流儀を意識したわけでもない。 彼は自作の句に込めて、それでいいと言ったというのか。 小夜の心は豊のクリアーな感性に対して恥じ入った。 相生の生活にどっぷり浸かっていく過程の中で、もっとよい暮らしがあったのかもしれない、という思いが、チラとでも脳裏をかすめていたことはなかったか。 生をうけてからのこの八年間というもの、引越しを都度々々経験し、あまつさえ小学校に入る前から受験を経験し、より個人の益を追及する生活に身を置いていた小夜である。 この相生にきてからは、小夜は初めて自分の属す共同体を得たのだが、その内包にあずかったとしても、ただただ皆の真似をすることにより多くの時間を費やしてきた。 それまでの小夜の生きてきた世界では、学校が終わったあと、お友達はバスか電車で去っていった。 それゆえに、一日のすべてを共同体の一員として参加する機会は、小夜にはほとんどといっていいほどに経験のないことであった。 ここは違った。 相生の民の住むはるかなるまほろばの世界は、都会人たちからはおよそ想像し得ない、だがそれこそが人間の本質を内在させている世界であった。 そして、小夜の目にはその本質というものがすでに見え始めていた。 彼らは他への分かち合いによって生き、永らえてきた民族だった。 分かち合いこそ、農耕牧畜を営む彼らが自分たちのあやふやな運命を統率する手段だった。 原生的で美しい彼らの生き方の中では、幼い頃よりそうした分かち合いが物心ともにお互いの間でずっと為されてきた。 分校維持費の3000円を用意できない彼らを、誰が貧しいと言えるのだろう。 この美しい土地と、そこにあるすべてのものはお互いに思いやり、分かち合って生きてきた。それは、とりもなおさず衰えることを知らない富であろう。 いつの時代も、中央に立つ者たちは、過疎の村に資金を施すことがなぜ解決策にならないか知るがいい。 彼らは貧しくはなかったのだ。 もし、それでも農村の困窮を声高に語る人がいるなら、小夜はその人に言うであろう。 キリストもブッダも、汚く、みじめで、さみしい人だった。しかし、それだから尊い人だった。 小夜は幼いなりに相生の民にある種の尊さを見いだし始めていた。 小夜は豊の句に触発され、この集落で自分がいかに立ち回るべきか、やっと正しく理解した。 そして同時に、あらゆる疑問が霧の晴れるように消えていった。 小夜はもはや自分を偽らなかった。 相生の子になりきることを考えはしなかった。しかし、彼らとともにいる限り、同じ生き方に仕えることになるのだ、と幼心に理解した。 一通りの俳句を先生が読み終わってしまうと、教室は六校時(六時間目)との放課に入ってふたたびざわつきはじめた。 小夜は何か言おうとして豊を探した。 しかし、豊はまた彼らしい、謎めいたやり方で姿を消してしまっていた。 本日の日記--------------------------------------------------------- 分校では、一度だけ泣いたことがあります。 いじめられたわけでもなく、「だらず」などのお国言葉がわからなかったわけでもなく──ハーモニカが吹けなかったのです。 鳥取の小学校では音楽の授業にハーモニカを使うのでしょうか。横浜の小学校では、メロディオンという楽器を使っていました。 ハーモニカなど、手に持ったこともなかったのです。 みんなが上手にハーモニカで「緑のそよ風」を吹くのを聞いて、私はやおら席を立ち、「うち、ハーモニカ吹けません」と言ったきり、机に突っ伏してしくしくしくしく泣き出しました。 落ち着いてから、横浜ではメロディオンを弾いていたことを話しましたが、今度はメロディオンというしろものが何なのか、理解してもらえないのです。鳥取ではメロディオンをピアニカと呼ぶのだと知ったのは、それから一年も経ってからでした。 からかわれても、言葉がわからなくても泣かなかった私が、なぜあの時突然に涙をあふれさせたのか──。 おそらく自分がハーモニカを吹けるようになるまで長期間を要すると刹那にわかったからなのでしょう。 今は上手にハーモニカを吹けますよ。敦煌などでは、路上で「月の砂漠」を演奏し、西域の人々の喝采を浴びたものでした。 明日から第九章のはじまり●晩秋の民話●です。 タイムスリップして、喜平じぃの話す豊かな語りの世界に耳を澄まそうではありませんか。
2005年09月16日
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分校維持費を集金した日の翌日、橋本先生が“幕の内弁当”なる制度を発表し、小夜の目からうろこが落ちることになった。 先生が子供たちのお弁当を回り、ひとつずつおかずを集める。 そして、自分のお弁当にもの足りなそうにしている子供たちが、集められたおかずを好きに足せるというのだ。 これがほんまの幕の内、と先生は笑った。 その日の昼休み、小夜はしばしまわりの喧騒から離れるべく学校裏の雑木林に入り込み、散策しながら思案をはじめた。 今は考えなければ。小夜は薄いくちびるを引き結んだ。 里の子になっていたと思い込んでいた小夜は、ふたたびその確信が揺らぎ始めたのを敏感に感じていた。 学校が始まって以来、小夜はまた、自分がたったひとりで鳥取の生活と交わろうとしていることに気づかされていた。 分校において、小夜はやはり横浜(ハマ)っ子の代表として、鳥取の子供たちの中に入っていた。彼らの流儀からすると、小夜はいまだあまりに都会の匂いのする子だということが、教室の中にいればいるほど知覚された。 小夜は相生においてはもはや都会の代表ではなくなっていることを、自分ではよくわかっていた。 ところが、四つの集落の子供たちが一同に会する分校に到っては、自分のすべての動静を皆に合わせようと努力をしているのだった。そして小夜自身、そのことに“努力”を要するということが、よからぬ心の動きであることがわかっていた。 そうした考えを堂々巡りさせているうちに、小夜は前方に真っ赤に熟れたぐみの実が、たわわに実っているのに気がついた。 みくまりたちに摘んで帰ることを思い立って、少し楽しい気持ちに返って近づくと、おりからの秋雨が落ちてきた。 小夜はおこたりなく用意していた小さな傘を広げ、雨に降られることなくそのひとときを楽しんだ。 昼の放課(休み時間)がひけると、小夜はたくさんのぐみの実とともに、分校へと戻った。 ─── 次の校時(5時間目などの授業の単位)は、国語だった。 先生はその時間の全校の課題として、雨をお題にした俳句を一句作らせることにした。 皆にとっても俳句をひねるのはもちろん初めての試みで、年の小さい子は鉛筆をなめなめ、上級生は墨を磨りながら教室はしばらく静まりかえった。 ──なにもむつかしいことはないが。おもての雨ふりをよーく見て、いつもは感じんようなはっとさせられたこと、そのまま短くして書けばええ。出来上がったのからみんなに読むで。さぁ、はじまり。 先生の言葉に、皆は筆を持つ手にさらに力を入れた。 しばらくたつと、もう誰かのカタンと席を立つ音がした。 教室はざわめいて、一斉にその豆俳人を探した。 五年の不二豊だった。 分校において、豊は呪(まじない)の子が身につける装身具を着衣の下にしていたので、その黒々とした髪が夏の前に切ったまま伸びてしまって、あたかも鳥取名物鬼太郎を彷彿とさせている以外は、別段まわりの子供たちの風体と同化していなくもなかった。 皆のする好奇の目の中を、彼は誇りも、かつ照れもしない表情のまま、先生に自作の句を書きつけた半紙を渡しにいった。 ──傘さして ぐみを摘むなり 町育ち これが先生の読み上げた豊の句だった。 本日の日記--------------------------------------------------------- オッス、おら悟空。 じゃなかった。小夜子です。 昨日深夜に沖縄から帰ってまいりました。留守をまもってくださったあきこさま、本当にありがとね。 沖縄にいる間、一人旅について考えていました。 私は一人旅が多い人生なのだと。鳥取もそうであったように、その後から今にいたるまで、気持ちの上では一人旅を続けてきました。でも、それはもちろん私に限ったことではなく、人生においては皆一人旅をしているのだということも承知しています。 このブログなども私にとっては一人旅に譬えられるものです。私はこの五月末にパソコンを買った新参者で、けれどもすでにブログの住人だった方々が、新しい者が入ったといっては訪ねてきてくれて、どんな子なのかひととおり観察し、それからはこまやかに気づかってことづてを置いてくれる──それはまるで、私にとっては鳥取の日々が戻ってきたかのような経験なのです。ブログの画面を開いている今、たった四日離れていただけだというのに、皆さまの名前を見上げて懐かしさがこみあげてくるのです。 沖縄は如何に。 なまこを何万個もみました(←ここ、笑うとこです)。 明日は第八話のおわり、●きみよ、あるがまま●です。 タイムスリップして、ひとりぼっちの小夜の隣の席に座ってあげてください。 追:魚って、生まれるときも死ぬときも、海の中なんですね。
2005年09月15日
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●きみよ、あるがまま 学校が始まってしまうと、日々はまた田園風景的な日常に落ち着き、何事も起こらない日々の移り変わりは、小夜に地上でたったひとつこの村しか存在しないように思わせた。 小夜は学校の往復の道のりや新しい授業環境にも、もうずいぶんと慣れてきた。 さて、その日は新しく集金係に任じられた小夜が、全校の皆から九月分の維持費を集める日に当たっていた。 分校には給食がない。みんなめいめいお弁当を持ってくるので、給食費はいらないのだが、維持費として毎月3000円ずつを集めるのである。 小夜は母から持たされてきた自分の分を集金袋の中に入れると、さっそく任務を果たすべくクラスの中を回って歩いた。 ──義之、今月の集金だが。 小夜は己生(おのき)の前田義之の前で、名簿をひらひらさせた。 ──あぁ、都合つかんかった。 義之は一言そう言うと、何事もなかったかのように悠々と小夜の前から去っていった。 忘れたのだろうか・・・と思い直し、小夜は忘れ印をリストの義之の欄につけておいた。 次に、二年生のめっかちこと山根浩昭と、その姉で五年の山根芳子。 弟はご存知のとおりその特徴ある目の動きから、めっかちと呼ばれているが、芳子の仮名(かりな)は、いわれ(大柄な長女という意)である。 ──めっかちといわれ・・・。 ──悪ぃ、今月は払えんよって。 ──・・・・? 黙ってしまった小夜に、向こうから先生が慌てて声をかけた。 ──お小夜ちゃん、これ忘れとったわ。 橋本先生は小夜をそばに寄せると、小さな紙切れを握らせた。 ──ここに載せてある人、集金せんでええから。 ──はぁ・・・・。 小夜はすぐさま渡されたメモを開いて、これはどういうことかとしげしげと眺めた。 なぜなら、そこには全校のほとんど半数にあたいする名が連なっていたのである。 ─── その日学校がひけて家に戻ってきた小夜の耳に、家人のものではないが耳慣れた声が聞こえてきた。 小夜は立ち止まり、玄関先のたたきで耳をすませた。 声から察するに、訪問客はみくまりのちゃん(お父さん)であるらしかった。 彼もまた、小夜の父と同じく県庁に勤めている人だった。 開き戸のすきまから中を伺うと、果たしてみくまりのちゃんの背中が見えた。 小夜の家は相生の人から借り受けた古い民家で、当然のように囲炉裏がしつらえてあった。その囲炉裏をはさんだ向かいに、小夜の父が対峙している。 ──今年は不作でしただ・・・。 今度はみくまりのちゃんの言葉が、小夜の耳にはっきりと聞き取れた。 そしてふと漏れ聞いたこの言葉によって、小夜は今日学校で起こったことのすべてが腑に落ちた。 不作だったからといって、月3000円の維持費が払えなかったというのか──。 小夜の心に、一生うなされそうなみくまりのちゃんの言葉がこだました。 小夜の父からもまた、返事はない。 当時の彼は30代半ば。 彼にあるものは農村に対する熱情と若い体力だけであって、中央に物申すことのできるほどの権力ではなかった。 終始言葉もなかった父親の気持ちが、小夜の心にちりちりと、痛いほどに理解できていた。 小夜は土間に立ち尽くしたままでいた。 黒いランドセルをおろすこともしないで。 本日の日記--------------------------------------------------------- 皆様、朗報です!明日、小夜子姉貴が帰ってくる予定です。 更新するだけでやっとの私でしたが、ちょっと管理人もどきになれて楽しませていただきました。至らぬ所もありましたが、お許しくださいませ。 これからは、また読み応えのある日記になると思いまーす。お楽しみ――に!それでは、さらばじゃあ・・・どろん。。。 明日は●小夜、豊にからかわれる●です。 タイムスリップした本人が帰ってくる予定です。
2005年09月14日
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──おのこ、おのこ、 後ろの席から神生(かにゅう)の男子が嫌味な口調でささやいてきた。 小夜のランドセルのことを言っているのだ。 彼女のランドセルは前の学校の規定のものをそのまま使っているので、黒色だった。 学校に通うようになり、小夜は名実ともに転校生となったわけだが、それはとりもなおさず受難の日々に他ならなかった。 相生の皆と仲間になっておいてよかった、とこの時期ほどありがたみを感じたことはない。ものめずらしさと、この年齢特有の排他精神とがあいまって、転校生には容赦のない言葉がぶつけられた。 ──なんだぁえ、あなた。 女性が“あんた”を使うのはこの地方の方言であって、決してぞんざいな言い回しではないのだが、小夜にとってはいまだ普通には使いこなせない言葉のひとつだった。 それに新入りは事実なのだし、あまり横柄にしてもいけないと思って、一応このガキんちょにもあなた、と称しておいたのだった。 ──あなただとぇ? ──奥さまだっちゃ。 ──ヤスと、このあまっちょはアッチッチだが! 転校生はどう出るか、と固唾を呑んでいた悪タレたちは、新しいネタを見つけていっせいにはやしたてはじめた。 小夜は、ちょっとやそっとのこういった軽口にはもう慣れっこになっていた。これしきのこと、みくまりや芳子の応援を乞うまでもない。 ふんっと頭をふって前をむくと、向こうで剛が、クチパクで“ほっとけ”と言っていた。 芳子とも目が合う。 芳子は小夜の目がすがるようでないのを確認すると、大きくうなずいてみせた。 背後ではまだあきもせず何だかんだとはやしていたが、自分には味方がいる、その確信によって小夜はその後も背筋をしゃんとしつづけていられた。 相生の皆は小夜を見て見ぬふりしているわけではない。 ──やめぇや。 第三者のこの正義に満ちた一言も、それが他集落の者から出た場合には、最悪、子供たちによる集落闘争にまで発展しかねないのだ。 いくら一言いってやりたくても、皆不用意な発言を控えているのである。 小夜にしても、あまり皆に頼りっきりはよくないことだと自分にいつも言い聞かせていた。どうしても誰かの手助けがいるという事態は、なるたけ減らしていかなければならない。 できうるかぎり、自分で戦うのだ。 第七話のおわり ------------------------------------------------------------------- 明日から第八章●きみよ、あるがまま●です。 あなたのお越しをお待ちしております。
2005年09月13日
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小さい平屋建ての木造校舎が、集落の子供たちの学び舎だった。 教室は一つで、複式学級。 一年生から六年生まで各学年一列で、相生(あいおい)、皆生(かいけ)、己生(おのき)、神生(かにゅう)の子供たちが、ぜんぶ一緒に机を並べる。 他には先生の部屋と予備の部屋と手洗いだけ。 校門から校舎までは、だだっぴろい校庭があった。 分校でも、もちろん敷地だけは有り余るほどあったので、校庭は一人前の広さがあった。他のすべては市内にある小学校と比べて、10分の1にも満たない規模であったのだが。 子供たちを迎える先生は、教室の数と同じでたったの一人。 これで小夜の新しく入った学校紹介は終わってしまうのだ。 ─── 鳥取市立醇風小学校相生分校は、全校児童で43人。 課目は「みなさんご一緒に」、といった具合である。 毎日2時間は国語、音楽、体育、図工のどれかに時間割が当てられていて、これらの時間は全校で行なう。 言ってみれば、算数以外はほとんどの課目を、皆で学んでいたような気がする。先生がひとりしかいないから、仕方ないのだ。ちなみに、お弁当も掃除ももちろん縦割りだった。 それにしても、心情的には皆、全然一緒ではなかった。日本全国どこのクラスにもそれなりに派閥というものがあって、互いに牽制しあうものなのだろうが、ここでは集落意識もあってか、特にそれが顕著であった。 担任の橋本早苗先生もそれに気がついてはいたが──地元の子は小さい時から序列が決まっている。 そこへきて分校では他の集落の子と交わることによって、勉強や運動、発想面でもいい刺激をお互いに与えることになる。 牽制しあいながらも、互いに学んでいるところは多いはず、と最初の登校の日、挨拶に出向いた小夜の母に先生はそう話していた。 本日の日記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー どうか、この物語が無事に皆様に届きますように。。と願うばかりです。沖縄は、晴天なり。だそうです!by小夜子姉貴明日は、●黒いランドセル●ですよぉ。
2005年09月12日
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──見てんか、見てんか。これがあんたぁのまぶた刺した、にっくきはちの針だがな。 みくまりがまじめな顔をして、手にしたそれを小夜の目の前にちらつかせた。 皆も集まってきて、みくまりがご丁寧にも採集しておいてくれた毒針を、しげしげと眺めた。 登校の朝である。 ──あッ、オタマジャクシだが! 今度は向こうの方で、めっかちが突然声を上げて道ばたの水たまりをのぞきこんだ。 ──あほ言うな。この時期に・・・。 子供たちがそっちにも駆け寄り、登校の列が乱れた。 そうやってつぎつぎに集落の家をまわり、分校に通っている仲間を誘い出すと、田んぼのあぜや牛舎の横手だとかにまずたむろって、登校するまでの時間をたっぷり遊ぶ。 そしていいかげん遊びつかれたころ、 ──おーい、たいがいにせんと遅れるだぞ。 と武人の声がかかる。 ふたたびランドセルをカタカタ鳴らしながら、山道を下り始める。 回廊のようなまがりくねった道を、約2キロほど歩いて分校に着く。 道すがら、山菜採りをする村の人に、 ──おはようさーん。 皆で大きな声であいさつする。 ──向こうに蛇いちご、ようけなっとっただよ。 とのおばさんの報告に、またして皆で山に分け入っていちご採りに熱中。 時にはまむしをつかんで来る子もいる。 そのころになると、学校をめざしてそれぞれ同じくらい離れた集落の子供たちが、山道に姿を見せはじめる。 他の集落と合流すると、子供たちはお互い黙り込んでしまう。 ちょうど他人と出くわしたエレベーターの中の心理のようなものだ。 そしてこの沈黙は、学校の門を入って、集落単位の集団登校の輪が解かれるまでつづく。 本日の日記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 本人が四日分の本文を書き残して旅行中なので、更新の手続きを代打でしている者です。 まだまだ不慣れで、小夜子姉貴のようにはいきませんが、どうぞどうぞあたたかくお見守りくださいませ! 実は、私、一度小夜子姉貴に鳥取へ連れて行っていただいたことがあります。そのときの風景と人々の温かさは素敵な思い出になっています。鳥取が大好きになりました。 この物語を読むとそういう体に染み込んだ感覚が思い出されるんですよぉ。 明日は、●小夜の学校について●です。どうぞ、タイムスリップしにいらして下さいね。
2005年09月11日
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ひかえめに言っても、小夜は仰天していた。 目前に豊を見たのはこれがはじめてのことではなかったが、月光に輝くその豪奢な立ち姿に、小夜は子供としての純粋な目をもすっかり奪われていた。 夜半には涼しい季節にさしかかっていたが、豊は上半身を夜風にさらしていた。 あらわにされた上腕には、僻邪(へきじゃ)のついた腕釧(わんせん)が、両手首には数多くの水晶細工の臂釧(ひせん)が、胸には双獣が連珠を咬む意匠の胸飾(きょうしょく)が下がっていた。 耳朶には鳥取のいずこの泉から産出するという月光色の奇石がひっかけられていた。 相生の呪方(まじないかた)は、先祖からひきついだ呪文の数々をすべて装身具に込めて肌身離さずにいるという。豊のそれは、もはやただの光り物としておさまりきってしまった現代人のアクセサリーには見いだすべくもない、はるか太古からもたらされるいまだ呪術的な力を持った装飾意匠の宝庫だった。 誰が彼を過疎の少年と呼べるのだろうか。豊は国宝の曼荼羅に描かれる、三千世界の天部と寸分違わない宝飾品を身につけていた。 目の前につきつけられた宝飾品の持つ力に、その生きた貴石をあまりに屈託のないようすで身につけこなす、高位の少年神が立ち現われたかのような光景に、小夜はそれまでのなにものかに対する些末な信心をすべて打ち砕かれていた。 ─── 豊は忽然と現われた少女に、またしても狐を思っていた。 豊が自然と一致できることは、村の人々にも知られている事実で、わずらわしさから逃れるために、豊はだいたいにおいて自分の「気」を自然に溶け込ませていた。 すなわち、目に見えていても、雰囲気が消える、ということだ。 これは平家の落人伝説のあるこの村に伝わる秘術であって、追っ手をおそれた平家方の行者が体得した術が、そのままこの土地に残されたと考えてほぼ間違いない。 たいへんに高度な体術であるが、だいたいの秘術にかけては、豊は兄たちが苦労しているのを尻目に、らくらくと聞き覚えてしまっていた。しかし彼はそのことを決して口外しなかった。言えば、呪師の継承は自分にまわってきてしまう。そんな面倒なことは御免こうむる。 あきれたことに、豊はこの秘術中の秘術と呼びうるものを、全能の父親の目を封じ、幼い弟や妹たちの世話という面倒な仕事から離れ、家業を維持するためのいつ果てるとも知れない雑用から逃げ去るためだけに使ってはばからないのであった。 だがいくらその術の用途が不純であれ、いずれにしても、よほどの探す意思のある人間でない限り、自然の中から豊を識別することはできないはずだった。 ゆえに、ごく自然に豊は狐のしわざを思った。 ──もし狐なら、尾っぽを水に浸けたのを見られた者かの。 豊はこの夏のはじめに、一匹の子狐が小川を渡る際に、尻尾の先をちらとだけ水に浸したのを見てしまったことがあった。 狐はふらりと垂れた尾の先が水に触れるや、とりかえしのつかないことをしでかしたことをさとり、後悔に目をすがめた。その視線の先がふと上を向き、樹上の豊の姿をとらえると、狐は己が身を恥じ入るように、ただちにその場を駆け去った。 狐は尾が水に触れるのを、極度に忌むべきことと考えている。 ふつう、狐は一生涯をその尾を水につけることなく過ごす。尾が水につくことは浄化を意味し、狐本来の持つ魔力が激減してしまうのだ。 小川を渡るようなときは、狐は尻尾を高く上げて注意深く水滴から守る。だが、もちろんあの子狐のような粗忽者は、どこの世界にもいる。 豊に言わせれば、自分のしくじりを彼に目撃されたその子狐が、ここのところちらちらとまわりをうろついて、豊がたいこうがなる(久松山)の磐倉に祀られる大狐神に告げ口はしないかと始終あとをつけて見張っているかのように思われたのだ。 それにしても──と豊は小夜のひいでた額に視線を移した。 豊は狐が化けていようがそうでなかろうが、この少女が、せんにはちに刺されてひっくり返った子だということはわかっていた。その特徴ある額が、執着心の薄い豊の記憶にめずらしく印象付けられていた。なんといっても、おでこが腫れている! 豊はすっかりおかしくて仕方がなくなってしまった。 ──や、でこさん。 長い沈黙ののち、豊は小夜にそう言って、くっと笑いをこらえた。 今度は小夜の方が驚いて豊を見上げた。再び彼らの間に沈黙が落ちた。 ふたりのまわりには、さらに延々とつづく蛍の燐光が、果てしない大空を横切っていた。 夏休みが終わった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 夏休みが終わった──のですが、かねてお伝えしていたとおり、私は明日より夏休みをいただいて沖縄旅遊に行ってまいります。明日の朝10時、鳥取上空で「きゃー鳥取鳥取!」と無闇に騒いでいる者がいるとすれば、それが私です。 それはさておき──今回の本文について、中四国地方にお住まいの方にお伺いしたいことがあるのです。 ゆたが小夜に言ったくだり、「でこさん」という言葉が出てきますが、私はそれを聞きなしのとおり、「(お)でこさん」と呼んだと思ったのです。なんと言ってもハチに刺されておでこが腫れていましたし、小夜は小さいときからとても額が広いのです。 ところが、この原稿をみくまりに読んでもらったところ、「でこさん」というのは、「でく(木偶)さん」が訛ったこの地方特有の言葉で、ゆたは「お人形さん」という意味で呼んだのではないかと言うのです。 たしかに、豊が小夜のことを「狐かも」と思っていたと考えるならば、「よく化けられているよ」という意味で「木偶(人形)さん」と言ったということは、大いにありえることです。「おでこが腫れてるよ」「よく化けられてるよ」 ゆたはどちらの意味で、小夜をからかったのでしょうか。今は知るよしもありません。この地方の方でお心あたりがあれば、どうか教えてください。 さて、明日から四日間の更新は、我が親友が行います。私はいつもだいたい朝に更新するのですが、彼女はお仕事を持っているので、更新の時間がバラつくと思います。 私事でいろいろとご迷惑をおかけいたしますが、どうかよろしくご通読お願い申し上げます。 明日から第七章●学校が始まって●です。タイムスリップして、小夜の通う学校を見に来てください。
2005年09月10日
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あの事件から初めて皆と一緒に遊んだ日の夕方、それぞれと別れて家に帰る道すがらに、小夜の心には様々な物思いが去来していた。 小夜のはちに刺された傷は、こうして外で遊べるまでに回復していた。 そして、今日、皆に会って、数々の後日談をそれぞれの子の立場から何十通りとなく聞かされたことで、改めて小夜は豊がいたことによってあっけなく収束したあの日の午後の事態を再認識させられていた。 あの時、小夜は額に汗して何かを唱える豊を見上げながら、これは癒しの祈りなのだろうと本能的に感じていた。それは同時に小夜を癒す力の言葉であった。恐慌が去り、疲れきってぼんやりとした思考のうちに、身体の力が少しずつ戻ってくるのが感覚できた。 脳裏には、豊の身につけた水晶装飾のたてる音が、地を揺るがす鳴り物のように響いていた。 革紐に付けられた鈴の音は、もはや連想されるような可愛らしいものではなかった。豊が馬上で身じろぎをするたびに、縒った鎖を振りおろすような激しい音が耳元で鳴っていた。 すべてが小夜の生気を促すが如く、荒々しくその五感に迫った。 ここまで思い出してから、小夜は至極当然なことのように豊に会わなければ、と思いついた。 しかし、どうすれば会えるのかは、見当もつかなかった。夏の間、豊が何をして過ごしていたのかは知るよしもないが、子供たちの中に彼の姿を見かけることはなかったし、彼をみかけた者もなかった。 思い返してみれば、小夜はここに来てからまだ片手の指で数えられるくらいにしか、彼に出会えていないのだ。 ハチに刺されたその日も、子供たちの知らせに小夜の母が驚いて自家用車で診療所に向かったときには、診療室で小夜がひとり手当てされている以外は、待合いにも豊の姿はなかった。 治療が終わった小夜を家に連れ帰った後、両親は大きなざぼんをひとつ抱えて、ゆたの住む家に向かった。ところが、つい先ほどまで夕食をともにしていたと話す家人が、どこを探しても豊の姿は見いだせなかった。 ──今しがたそこで食べよりましたのに・・・はぁ、うちのが診療所に? さぁわざわざそんなことでおいでいただいて、本人もよう話しませんので、なんだかようわかりませんが、なんも大したことしてないと思うですちゃ。こんなしてもらって、かえってすみませんですわ・・・。 と、反対に頭を下げられてしまったという。 そんなことを反芻しながら家路を急ぐ小夜の目の隅に、何か映るものがあった。 あれは小川の方だ。流れの向こうに彩りのあるものが反射している。 あたりには夕闇がせまっていたが、小夜は吸い寄せられたように、小川の方に足を向けた。 象牙色の月がみるみるうちに原生林の上に昇り、月影が蒼く森を照らした。さながら、新しい世界が訪れたかのように、あたりはのどかな昼の風景から一変した。月の表面に地図がくっきりと浮き出てきた。 太古からの手つかずの自然。このすべてを探索せよと小夜に迫るが如く。 月の地図に導かれるようにして小夜は歩を進めた。 薄闇を透かして見ると、前方の地面が下に落ち込んでおり、小川がさらなる小さな支流にわかれて流れていっていた。 そしてそこに小夜は見たのだ。 幾千の蛍に囲まれて流れのなかにたたずんでいるのは、まぎれもなく豊その人だった。辺りは闇だったし、彼も以前にもまして肌が黒く灼けていたが、小夜にはひと目でわかった。 無意識に小夜は立ち止まった。 ──ゆた・・・・。 蛍がゆれて、豊が小夜を見た。 本日の日記--------------------------------------------------------- 明日突然に申し上げるのもよろしからぬことですので、今日お伝えしてもよろしいでしょうか。 わたくし事なのですが、あさってから、遅い夏休みをいただいて沖縄に行ってまいります。11日の日曜日から14日の水曜日までの予定となっています(台風が来なくてきちんと帰れたら)。台風15号の声も聞こえるので、戦々恐々としておりますが、なんとか楽しんで来れたらなと思います。 ただ、11日は朝8時の飛行機で、14日も夜10時着の飛行機なので、ブログの方がしばらく更新できないことになってしまいます。いちおう、この章が終わってきりのいいところではあるのですが、せっかく通読してくださる方がいらっしゃるので、私の親友に更新をお願いすることにいたしました。 彼女は遠隔操作で更新しなければならないので、日曜日から四日間は第七章の本文のみアップさせていただきます。私が帰宅の後、写真などアップし直しますので、あしからずよろしくご訪問いただければとお願い致します。 親友には、本文の後に日記も書いて欲しいと言ってあります。ただ、大変におくゆかしい子なので、本文のみで遠慮してしまうかもしれません。彼女とは中学生の時からずっと一緒に育ってきました。学生時代、鳥取にも一緒に行きましたよ。以来、鳥取大好きっ子です。喜平じぃファンです(笑)。名前はあきこといいます。彼女、京都生まれのたいへんな美人さんですよ。あさってから四日間の管理人です。皆さま、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。 今日、不在者投票に行ってまいります。こちら東京3区はニュースでもよくとりあげられるような激戦区で、なかなかおもしろいのです。 明日はこの章のおわり●小夜、みたび豊と出会う●です。タイムスリップして、ふたりのまわりに飛んでいる蛍を見にきてください。
2005年09月09日
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さて、その豊は夕刻の牛馬を率いて里に下りる道々にあった。 一匹の馬のちびが、すぐに道ばたの花などに興味をもつので、群れから遅れていた。別段急いでもいなかったので、追いたてようとは思わなかったが、いつしかそっちに気をとられて、豊は自分を呼ぶ声のあることにはしばらく気づかなかった。 だが、里が見えることになると風向きが変わって、二人の斥候の呼ぶ声が、小さいけれどもはっきりと豊の耳に届いた。 ──ゆたぁ、出てこんかぁ・・・・。 何かあったのだろうか、いやあったに決まっとる──豊はひとしきり考えてみたが、思い当たるふしはなかった。 村は最近とても平和で、豊がなにかの要員として呼び出されることはないはずだった。 してみると、迷子か神隠しか・・・・やれやれと豊は肩をすくめ、馬をだく足にさせた。 声が一段と近づいて大きくなった。 思うまもなく前方の藪から斥候たちが弾丸のように飛び出してきた。 ──お小夜が、すずめばちに刺されただ。いしきなが、すぐに医者に連れてかな、いけんって。 綾一郎が豊の乗った馬に駆けよって、喘ぎながらまず言った。 ──あぁ、ほれ、あの横浜から来たあまっちょだが。 反応を返さない豊に、尚敦が続けて注釈をつけてやった。 豊ははたと思いついて、口を開いた。 ──はちに刺されただ? それだなら・・・・。 ──しっこひっかけるだけな、いけんだが! 綾一郎は豊の言葉をさえぎった。 ──汗もかかれんで、身体が熱くなりよるだが! 三人の間に、一瞬沈黙が流れた。 ──だけ、早う行ってくれ! こいつらはわしらが牛舎に返しとくが! 一秒後、豊は馬に声をかけた。 馬は軽やかに駆けはじめ、綾一郎と尚敦はそのままその場に残った。 ─── 小夜は何分かの間、みくまりに手を取られて木陰に寝かされていた。 いまや小夜のたったひとつの望みは自分の目の上の痛みを消し去ることだった。頭にはそれしかなく、小夜には豊が近づいてくる物音は聞こえなかった。小夜の顔の半分は右目を中心にしていまや倍に腫れあがり、お岩さんも腰を抜かすくらいの有り様だった。 小さな子供からしてみれば、なにも処置されずにいるにはもう限界に近かった。 さて、どのくらいたったのだろうか。 武人の声と、何人かの声が入り混じって聞こえた後に、小夜は自分が抱えあげられ、何かに乗せかけられたのがわかった。 それは馬の背であるらしかった。小夜はくにゃくにゃと乗ったとたんに転げ落ちそうになったが、また誰かの手に支えられた。 ──馬使いのおまいだ。任せたが。 武人の声。 豊が片手で小夜を支えながら、なんとかその後ろにとび乗った。 それから小夜の身体の向きをかえようとしたときだった。 怯えて手足をばたつかせた小夜のつま先が、その拍子に豊の片腹を強く蹴り上げた。さすがにあっと小夜がひるんだ瞬間、 くすっ。 だが、小夜の耳に聞こえてきたのは、豊の思わずといった具合に吹き出した音だった。こんなときに笑うなんて── 「わたしは大丈夫なのかもしれない」 にわかにそのことが腑に落ちた小夜は、恐慌と緊張が一気に解けて、馬上でわあわあ泣き出した。 豊は眉ひとつ動かさずそんな小夜の頭の後ろに手をやって、傷ついていない側のおでこを自分の胸にもたせかけてやると、まるで悲しみにうちひしがれた妹をいたわる兄のような恰好で、診療所のある方向へと馬を走らせた。 小夜は豊の衣を涙と鼻水でくちゃくちゃにして、しきりにしゃくりあげていたのだが、いつしか泣き疲れてこっくりこっくりし始めた。 ある時、小夜は身じろぎし、薄目を開けた。 すっかり腫れあがった右目はうまくものを捉えなかったが、一緒にいてくれているのは豊なのだろうということだけはわかっていた。 そして小夜の耳は何か聞き慣れない、しかしなぜか懐かしいような響きを聞いていた。 ──みけむかう、ながほのあきの、おんばたてたる たてばとうたりとうたり・・・・ 豊はかすかな声で癒しの御詞(みことば)を繰り返しているのだった。 小夜はもはや、何をも思う気力がなかった。 ただぼんやりと感じていた。 顔に押し付けられて目の前に展開している、布目の不思議な模様を、 夕焼けを反射する、無数の装身具の煌めきを、 痛むひたいをときおりくすぐる、馬の長いたてがみの残す軌跡を。 本日の日記--------------------------------------------------------- 温暖化が叫ばれるようになって久しい今日この頃、やっぱり原因のひとつには車の排気ガスなども挙げられるのではないでしょうか。 20世紀に入るまでは、人間の乗り物といえば世界中どこでも、おおむね馬でした。(ところによってラクダもありえますが・・・)。それが今では、車の出力などに「馬力」が基準とされているという一部にのみ、その名残をとどめるだけとなってしまいました。 話は変わりますが、今でもハチは怖いです。恐怖症、といっていいほど、おそろしく感じます。今時分、歩いているときにハチを見かけたりすると、道の反対側に渡って避けるなどの過剰反応はおろか、その場に立ち止まって動けなくなってしまうほど‘おとろし’いのです。 明日は●小夜、豊を探す●です。タイムスリップして、どうか一緒に豊を探しにきてください。
2005年09月08日
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●はちに刺された!(これに刺されたのです↑涙)三年生の女の子による主観的な実物大です。 幼い頃に流れていた時間は、いつ果てるとも知れぬ永い時間だったような気がするが、もはや八月も終わりに近いことは、もうだいぶ研ぎ澄まされてきた自然への感性によって、小夜も感じていた。 季節はまたゆっくりと、だが確実に移り変わっていくらしかった。 小夜はこの夏三度目の皮がむけはじめていた。そして文字通り、一皮むけるたびに里の子色に染められていった。 夏休みも残すところあと一週間になったある日のこと、その日相生の子供たちは久しぶりに近場で遊んでいた。 相生は冬が厳しいので、冬休みを多くとる分、二学期は8月下旬に始まってしまう。もうそろそろ夏休みの宿題をやりとげなければ。 ひぐらしが鳴いている。 気がつくともう夕方近くになっていた。海よりの風は松の葉がすれの音を運んできた。涼しくなった──と小夜は思った。 小夜たちは、夏の名残のビーチボールで、ドッヂをしていた。 ゲームも佳境の折り、ボールを手にした清二郎の目が、敵方の内野に残っている小夜の姿を捉えた。 ──このあまっちょ! そういうや、清二郎は殺意のこもったボールを小夜に向かって投げつけた。 ──当てられる。 清二郎と目が合った瞬間に小夜は悟り、彼に向き直った。 清二郎の手から離れたボールは、小夜の真正面に飛んできた。はっし、と小夜は両手でそれをつかまえた。 ぶーん。 途端、ボールの影から奇妙な音が聞こえてきて、小夜の耳をかすめた。 音の正体を推測しかねて、小夜はボールをかかえたまま、くるくると首をまわして自分のまわりを確かめようとした。 ──お小夜、逃げぇ、はちだが! 事態にいち早く気づいた清二郎の切迫した声が飛んだその時、小夜の右の目に黒い物体が物凄い羽音をたてて接近してきた。 一瞬後、電撃に撃たれたような痛みが右のまぶたからわき起こった。手からボールが転がり落ち、小夜は右目を押さえてその場にしゃがみこんだ。 大げさに言うなら、その時には右目に局限していた痛みが拡散して、身体中のどこもかしこも焼け火箸を当てられているような痛みだった。これが、毒が身体に回る、というものなのだろうか。 ──はちに刺されたっちゃ! ──すずめばちだが! まず、一部始終を目撃していた清二郎とめっかちが同時に大声で叫んだ。 小夜のまわりには、まだあの恐ろしい音が響いていた。小夜は恐怖にかられて、闇雲に手を振り回して音の主を遠ざけようとした。 ──手ぇ出すでない! じっとしとけ! 武人が小夜のところにすっとんできた。 子供たちを再度狙って低空飛行をする蜂の姿をとらえると、武人は自分の側にいっぱいに引き寄せておいて、やおら足を上げてそのまま踏み降ろした。地面にはつぶされて神経だけが動いている、巨大なスズメバチの死骸が残った。 小夜は今や頭まで痺れてきていた。 何がなんだかわからない。何が起こったのかも、自分がどうなっているのかも、神経を集中して考えないと把握できない状態だった。 武人はすばやく頭を回転させた。事は一刻を争っている。 だがこの地域の唯一の医院である谷口診療所はあまりに遠く、ここから入り組んだ道で7キロはあろう。しかし、小夜の家に連れて帰って大人を呼んでいる場合でもない。 次に武人は、馬を走らせることを考えた。里の子供たちはみな、一様にして馬に乗ることはできた。しかし、考えてみると自分も含めて馬に二人乗りするという訓練は受けていなかった。しかも、今回乗せるのは20キロはあろうかという砂袋を詰めた人形のようなものなのだ。 武人は至極必然的に馬使いの豊を思いついたが、豊にしても馬を扱う細かな技術を専門的に教わった経験は一度もないはずだった。 しかし、ここまで考えてきて、武人は自分の思いを打ち消した。 そして思い出した。こと馬に関しての豊のカンには特別なものがあった。 人とはさっぱり心が通わせることのできない豊は、だが動物とは心を通い合わせることができた。特に、豊がひとたび馬の背にまたがると、互いを隔てる壁が消え、人馬が一体となることを武人は知っていた。 ──そこらにゆた、おらんかい! 武人の鋭い声が辺りに響いた。 本日の日記--------------------------------------------------------- はちに刺された小夜ちゃんもかわいそうですが、それはひとまず明日においておいて・・・鳥取の方たちは昨夜ご無事だったでしょうか。台風は通過して行きましたか? 梨の実が落ちてしまったただろうなぁ・・・。鳥取に限らず、九州。中四国の被害は凄まじいですね。80年代に比べると、災害の規模が確実に大きくなっているような・・・。これも温暖化などの影響なのでしょうか。おそろしいことです。台風の通った地域の方にお見舞い申し上げます。 大水といえば、鳥取市内に住んでいたときに、一度だけ大人の腰までの浸水があったことがありました。 実は、鳥取物語では便宜上三年生編と四年生編に構成しておりますが、私は二年生の七月から鳥取に住み始めました。二年生の時は、市内に住んでいたのです。片原町、薬師町、げんこう公園、三角公園などが遊び場でした。 市内全域が水に浸かった時は、本当にぎょっとしたものです。 でも、関東地方ではなかなか上陸しないがゆえに、それまで見たこともない災害というものに、子供らしい好奇心も覚えたことを、私はここで白状するべきでしょう。でも今は大人になりました。農作物などの、秋のみのりへの影響が心配です。 明日は●斥候、ゆたを見いだす●です。台風一過、暑くなりそうですね。明日もタイムスリップして、小夜の様子を見に来てやってください。
2005年09月07日
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小夜たちがそのまま待っていると、ほどなく武人が息をはずませて戻ってくるのが見えた。武人は岩場に立っている小夜たちに向かって、遠くから両腕でもって“まる”をしてみせた。 ──おーい、おまいら。お小夜がブイまで泳ぐとや! そして武人は大声でそのへんの子供たちに言い渡すと、ふたたび絶壁の上に駆け上っていった。 ──見物するだ! 他の子供たちも、口々にそう言って浜辺に集まってきた。 ──よーし。 もう後にはひけない。 小夜はためらうことなくざんぶと海に飛び込むと、必死に海面をかきはじめた。すでに底に足がつかなくなっているのがわかる。 息を吸いに顔をあげる小夜の左の視界に、小さな海上巡視船が港から出航していくのが写った。 右の視界には、岩場を隔てた砂浜で口を開けて見つめる皆生の子供たちの姿が見てとれた。 ──誰だ、ありゃあ。 ──相生のあまっちょだぁ? ──誰ぞ、競争してこいっちゃ! 彼らのそんなことを言い合う声が、小夜の耳にも届いた。 皆生の浜からおのこの一人が、ブイに向かって泳ぎ出していた。 小夜はそれには意に介さずに泳ぎ続けた。彼女にとっては、海をこんなに泳ぐのははじめてのことだった。そしてこれは、はじめて小夜が相生の子供を代表して取り組む事業であった。 小夜の心は躍っていた。少しいたずら心が起きて、小夜はくるりと一回転してみた。再び海面に頭を出すと、相生の子供たちの応援する声が響いてくる。小夜はまたゆうゆうと抜き手を切って泳ぎ始めた。 あと10メートル。皆生の子は小夜に遅れている。 残り5ストロークでブイにたどりつくと、浜ではまた歓声が上がった。 ブイまでの遊泳は、そんなに辛いものではなかった。 ──勝った。 追ってきていた皆生の子は、小夜がブイに先に着いたのを見ると、所在なさそうに踵をかえして泳ぎ去っていった。 小夜はそのままブイにしがみつくと、浜辺のみんなに手をふりながら、しばし心地よく海面を漂った。 沖つ国に行くことは思わなかった。 小夜にしてみれば、掛け値なしでまだ余力はあったし、当初の気持ちとしてはブイの向こうの沖つ国に到達してみたいという願望があってのこの冒険だったわけだが、もうせんからその初心は消え失せていた。 里の子供たちがブイに近寄らないのは、沖つ国を畏れているからであることを、小夜は思い出していた。 この‘畏れる’というのは、すなわち‘冒すべからざる’ということと同義であろうことに、小夜は冒険のただ中に思い当たったのだ。 字に書くが如くなのだから、それはとりもなおさず、‘冒険するな’ということなのだろう。 小夜は里の子たちの尊厳を守ることに決めた。 ブゥーン。 気がつくと、さきほど港から出航したはずの巡視船が、小夜の方に近づいてきた。 巡視船のおじさんは、器用に船を操ってブイのぎりぎりまで寄せると、無言でおにぎりを放ってきた。 小夜は巧みにそれをキャッチすると、礼を言ってすぐにほおばった。 おいしかった! なんと言っても、抜けるような空と限りない海の間を独り占めしておにぎりを食べているのだ。海の塩がきいて、なんともいえない美味なのである。 小夜はなんとかこのわきあがる感謝の気持ちを表現しようと思って、おにぎりを食べ終わるやいなや、里のおのこたちがよくそうやって遊んでいるように、おじさんの乗っている船底を潜って反対側に顔を出してみせた。 (↑このことは私の母には言わないでください。心臓麻痺を起こします) ──わあ! なにしよるだえ! おじさんは虚をつかれたように目を丸くし、それからにやにやした。 浜のみんなの喝采の中で、小さなめっかちが武人に質問していた。 ──おっさん、何しとるぅえ? ──お小夜が溺れたら、飛び込んで助けるつもりでおるんだろうて。 ──それはおまいも同じだったろうよ。 武人の言葉に、小さな声で剛が和した。 見ると、小さな巡視船は用済みとばかりに、そのままブイをすいーっと離れていくところだった。 ─第五章のおわり─ 本日の日記--------------------------------------------------------- おはようさんです。大山で鉄砲水が出たとか。 台風は来るんでしょうか。みなさん、お気をつけください。 台風といえば、「地震、雷、火事、おやじ」って言いますよね。この最後に来る「おやじ」に関しては、いわゆる語呂合わせの言葉遊びと思っている方が多いと思いますが、鳥取(相生村)では、「おやじ」とはズバリ「台風」のことを言うのです。もちろん、鳥取の他の地方でも言うと思います。 つまり、「し」あるいは「す」という古語が、「風」をあらわし、その「親」だから、「大風」=「台風」というわけです。つまり、「地震、雷、火事、台風」の四つの自然災害が怖い、ときちんと言いなしているのです。 用法としては、相生には‘すせりな’という仮名を持つ子がいますが、この語頭の「す」が「風」です。ぜんぶの言葉を合わせて、「風のようにすばしこい」という意味なのです。 明日から風雲急を告げる第六章●はちに刺された!●です。 こちらも災害ではないですが、‘忘れた頃にやってくる’あの人の名前を久方ぶりに聞くかもしれません。タイムスリップしていらしてください☆
2005年09月06日
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小夜はその日、皆生側の夏炉(かろ)という港で、みくまりに日本泳法なるものを教わっていた。 いかにも夏には灼熱地獄を想起させる名称だが、実際にはこの小港の周囲には常緑のタブ、シイノキ、アカガシ、ヤブニッケイ、トベラ、モチノキ、カクレミノ、クロキなどの低木が育ち、日本海岸地方の原始林景を残している貴重な樹叢として、この小港全体が天然記念物として指定されている。 小夜は泳ぎが好きだった。 そして、みくまり式長距離泳法をだいぶ体得したころ、小夜の心に、ある決心が自然に芽生えてきた。 まだ小さいくせに、小夜は遊泳区域と非遊泳区域とを区別している沖のブイを見ては、いつかあそこまで行ってきてやるという気でいたのだ。 ブイの向こうには、子供たちが“沖つ国(おきつくに)”と呼び習わしている大きな一枚岩が、海岸から遠くそそり立っている。 さて、その日はいつものごとく磯で泳いでいたのだが、沖つ国の偉容を目にした途端、小夜は、小夜自身が今何をやりたがっているのかを認識してしまった。 波うち際から沖つ国までは、おおよそ200メートルくらい。 ──今ならいけそうだ。 一体どこから湧いてきたのかさっぱりわからない冒険心を抑えられなくなって、小夜はすぐに作戦を立て始めた。 海の深さはわからないが、子供たちは泳ぐにしても、沖つ国と現世を隔てているブイとは、いつも適当な距離を保っているようだった。 地元の子供たちさえ用心しているようなところまで到達するには、まず武人に伺ってみなければならないが、果たして大将は小夜の泳ぎの力量を信じてくれるだろうか・・・・・。 ともかくも、小夜はみくまりをまず味方につけることにした。 ──みくまり。 ──はいなぁ! 海の底からみくまりがゆっくり浮上してきて、息も乱さずに元気よく返事した。ツブ貝を両手にわんさか採ってきたらしい。 ──うち、ひとりでブイまで泳げるやろか? ──ぶいぃー! すっとんきょうな声をあげたみくまりであったが、小夜はみくまりの旺盛な好奇心を知っていた。最終的にこの突飛な申し出は、みくまりの興味をひいた。 小夜たちは綿密に計画を練り、恐れ多くも武人をモノで釣る、という戦略に頼ることにした。 小夜とみくまりは午前中いっぱいかかって、文字通り武人の釣りの餌となるゴカイを沢山集めた。 “ゴカイは特に夏炉の水に浸しておくと長く生きる”という、清二郎のあやしげな助言も真に受けて、そのとおりにした。 完璧だ! そして岩場の突端で気持ちよさげに甲羅干しをしている武人のところに走った。 ──これ、集めたから、使ってぇな。 下心みえみえの小夜の甘え声に、武人は起き上がって白い歯を見せた。 ──へーえ、ようけ集められただなぁ。 みくまりが推測するに、この時の武人はことのほか上機嫌だった。みくまりは意を決した。 ──あんなぁ。 ──なんだ、頼みたいことでもあるんか。 武人は小夜たちの顔をいたずらっぽい顔をしてのぞきこんだ。 ──お小夜ちゃん、あすこのブイまで、行ってもええ? ──ああ、ええよ。 意外にも、武人は即答を返してきた。 子供たちから頼まれる、ありとあらゆる無理難題をクリアしてきた武人にとっては、こんな頼みはたいしたものではなかったのだろうと、小夜は拍子抜けしてしまった。しかし小夜はある重要なことを忘れていたのだ。 武人という少年は、じゃりの誰かが何かを願うと、自分の知恵と力の及ぶ限りでそれを叶えてやろうとする心構えを持っている、という彼の本質を。 ──うち、がよ? 小夜は武人に念を押した。武人はうなずいて、 ──ちょっと待っとれ。 と言ってすとんすとんと岩壁をおりてゆき、漁港のある方へと消えていった。 本日の日記--------------------------------------------------------- 本文とはあまり関連性がないのですが、鳥取には「わきあがる力」という県歌がありますよね? ♪大山はさやかに晴れて──というあれです。 私は大山からは遠い地方にいたので、♪梨の実は枝もたわわに──から始まる二番の歌詞の方が好きでした。 私が鳥取にいた当時、県章と県歌が作られて、県庁にいた父は、なんと「わきあがる力」の小さなレコードを20枚以上買って帰宅しました。 そういうわけで、今でもそのレコードが手元に残っています。 父はよほどこの曲が気に入ったのか、毎晩大音声でレコードをかけて悦に入っていたので、私は今、三番まで歌えと言われれば歌うことができます。 團伊久磨さん作曲の曲調は覚えやすくて、頭の中に浮かばせただけでも元気が出ます。わかとり国体の時に「わきあがる力」がかかって、子供心にもいい曲だなぁなんて思いました。 考えてみれば、鳥取で覚えた曲はたくさんあるなぁ。県庁では午後5時になると、「みどりのそよ風」がかかるそうで、父はそれもいつも鼻歌で歌っていました。 明日は●小夜、海上でおにぎりを食す●です。今日もいいことがありますように。明日もタイムスリップして、息抜きしにいらしてください。
2005年09月05日
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相生の子供たちは、砂丘の性質上、昨日はあっち今日はそこ、と場所をかえては遊んでいたが、たまに己生の子供たちに遭遇することもあった。 むこうさんも遊牧民のようにして遊び場を転々としていたので、ふたつの集団が出会うことはまれなことだった。 ──いしきなぁ、戦争せんかぁ。 砂漠の騎馬民族の王子のような黒い顔をした己生のリーダー田中俊介は、よほど闘争がお好きらしく、武人に会うといつもそう言って挑発したが、武人はそのたびにこの物騒な申し出を一蹴していた。 ──砂丘でやるは、わしらに不利だっちゃ。 ──さては相生は怖気づいただな。わしらは毎朝、砂でからだこすっとる。だけ、こないに強いだが。 怖気づいたと言われたとあっては、武人も黙ってはいない。 武人はつかつかと前に進み出ると、不敵な笑みを浮かべつつ、 ──んなら、わしもおまえにそうやってええだな! と砂を握って俊介に挑みかかった。 俊介がどうと倒れこむと、そのまま二人は上になったり下になったり、激しいつかみあいをおっぱじめた。 武人がキレると、もう剛にだって止められない。双方のじゃりどもも、大将の“かかれっ”という声がないと勝手に手を出せないことになっている。 それでこんな時には、手に汗握って声の限りに、それぞれの大将に声援を送るのだ。 その後、世にスクラブ洗顔が出回るようになったのを俊介がそう思っているのか、今なら聞いてみたい気がする。 ─── そんな日々にあって、ある夜、小夜は鳥取の物音の中に身をまかせていた。 夏掛けにくるまり、今日の日について思い返して、実に良い日だったと覚えることができた。 心地よい一日の余韻──それは毎晩続いていることだった。 こうしてござの上に寝転がって、小川のほとりで啼くふくろうの声に耳を傾けていると、前の世界では、こんなふうに一日を良いものとしてしみじみと感じたたことはなかったのではないか、という思いが脳裏をかすめた。 横浜での暮らしには、ほとんどなんの不自由もなかった。 小夜は制服を着て登校し、制服のままコンクリートのグランドで遊び、日曜日にはカトリックの教会に行き、きちんとしていた。 しかし、今や小夜は自分の中で横浜の生活への懐かしさがどんどん薄れていくのを感じていた。そのこととは、小夜を取り巻く圧倒されるばかりの大自然のただ中にいることが大いに関係していた。 だが、その最も大きな理由として、仲間たちの存在があった。 相生の子供たちには、ある種の聡明さがあった。 何の道案内もなく原生林に入っていくそのたくましさが、都会の子供たちの誰に見いだせるというのだろう。 相生の子らは仲間のうちにあって、なにが自分にできるかをいつも考え、自分に課せられた仕事を誇りを持って完遂しようとし、大将の前では立場をわきまえ、さらには天衣無縫に遊びまわる。 小夜にとって、彼らにはまぎれもない魅力があった。 もしこのまま横浜に戻ることがなくても、自分は消して大切なものを失うことにはなるまい。 小夜はそう考えて、自分でも安心したのか急に眠気を覚える。そして小さなのびをひとつして、朝までぐっすりと眠るのだ。 (第四章のおわり) 本日の日記--------------------------------------------------------- 昨日に引き続き、砂漠の駱駝といえば、私はキャメル号に乗って鳥取に帰ったことがありますよ。東京は品川駅前から出ている(今も出ているのかな)、小さなマイクロバスです。夜10時に出発して、早朝に鳥取駅に着きました。鳥取時代にお世話になっていた、 中村さん(本名)というスキーとひょっとこ踊りの得意なお祭りおじさんが、ひとりぽつねんと待っていてくれたのを懐かしく思い出します。私は大学生になっていたので、お互いよく顔が思い出せなかったのですが、 ──小夜ちゃんかぁ・・・。 と鳥取弁で声をかけられた時に、もう一瞬でタイムスリップして小学生の私に戻っていました。 明日から第五章開始になります。 ●小夜、大将に申し出をする●です。明日も全国的に暑そうですね。タイムスリップして、息抜きしにいらしてください☆
2005年09月04日
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子供たちの夏の遊び場としては、砂丘もあった。 この砂丘は、日本一の広大さを誇るもので、その風紋の美しさ、夕日に黄昏(たそがれ)て綿々と連なる様に、有島武郎や与謝野晶子など、数々の文人が心揺さぶられ、詩を書き残していった。 風の方向によって日々表情を変えていく砂丘は、まるで黄土色の巨大な生きものだった。人間はその上にあって、大地の胎動、のようなものを感じるであろう。砂丘はなにかをはらんでそこに存在し、訪れる人によって違うものをその心の中に生みつけるのだ。 さて、村の子供たちも砂丘のその神秘の息吹をかぎとってはいたが、そんなことは些末なことであった。 夏の砂丘はまったくもって灼熱地獄だったが、子供たちは日本一のお砂場で遊ぶという誘惑には勝てなかった。さらに悪い条件として、子供たちはいつでも裸足なのだった。だが、それも慣れてしまえば天然の熱というものは心地よい。 砂丘で何をして遊ぶのかというと、まず、主観的な視覚からはほとんど垂直に近くそそり立つように見える砂山から、ダンボールで一気にすべりおりるのだ。これは傾斜が長いと20メートルは乗っていられて、スリル満点なのである。 それから、木の棒をひろって、自分の名前の一辺を何10メートルにもして砂丘に彫っていくのも面白かった。砂山は、すなわち天然の大画面だ。小夜たちはその日誰が一番大きく字を書いたかを競い合った。 この遊びはそのうちにルールがだんだんと高度化していき、難しい字を一番大きく、しかもきれいに書くというのにまで発展した。例えば、‘顔’などの文字はよく採用されたものだ。自分の身長の10倍以上もの線を使って文字を書くことは、なかなか壮快だった。 己生(おのき)の大将から字遊びの痕跡を消して帰るように言い渡されていたが、子供たちはいつもそのままにして帰ってしまっていた。 一文字が10平方メートル以上にもわたる彫り跡を消してまわるのは至難であったし、第一その必要はなかった。一晩もすれば日本海よりの風が吹いて、砂丘の表面を大きく様変わりさせるからだ。 事実、砂丘は刻一刻とその姿を変えるので、昨日あったはずの大すりばちがどこにも見当たらず、ずっと離れたところに新しく出来上がっている、といったことが常であった。 武人にしてみれば、砂丘も海と同じく、子供たちみんなに目を配らなければならない危険区域に他ならなかった。 夏はそれでなくとも砂丘の地表は40度くらいになり、日中にもなればそれを超えることもある。それで、武人は砂丘に遊びに行くにしても時間を選び、選んだとしても熱射病対策にも気を配っていた。 すなわち、どんなに遊びに夢中になっていたとしても、武人は二時間で切り上げて砂丘から非難するようにしていた。 また、一面の砂はいくら転げまわったところで怪我をするわけもないが、しかし一旦風が吹き始めると、そこは一転して危険な地帯に豹変する。 砂ぼこりは、つまり目に入れば誰も知るようにたまらなく痛いものであるし、風に巻き上げられた砂塵がふくらはぎなどの柔肌に吹きつけてくると、立っていられなくなるほどの痛みが走るのである。 それはちょうど、ガラス工芸で砂の粒子を吹きつけてすりガラスを製作するおり、手を傷つけないように厚い手袋をするのを忘れてしまった時のような刺激なのである。 砂塵が舞い上がるようになると、年端のいかない子供たちなどはしゃがみこんで動けなくなる。武人は夕刻の風の吹きかわりを読み取って、みんなを退避させねばならなかった。 その他にも、危険は多い。 砂山の絶壁でそりすべりや字遊びをするにしても、それがあまりに急な傾斜面だと、上の方はちょうどサーフィン映像によく出てくるような、波がそのまま固まったような形にえぐれているものがある。 そういう場所は気をつけなければならなかった。大声を出したり、何かの振動を加えただけで、張り出している砂の爪がなだれを起こすことがままあるのだ。 さらに鳥取大砂丘は、国の天然記念物に指定されているが、実際に指定をうけているところは一部分で、そこは立ち入り禁止区域になっている。 子供たちはそんなことにはもちろんお構いなく、誰かがすりばちを見つけたといってはそこへ走ったりして、東奔西走して遊びほうけているのだが、景色が変わらないため、あまり遠くにいってしまったという感覚がなくなってくる。 当時は砂丘を甘く見て足を踏み入れ、命を落とす人も、まだ、あった。 武人はあっちへ行くな、それはやるななどとは一言も言わなかったが、そのかわり、じゃりともが砂に埋まっていたり、迷子になっていはしないかと、しじゅう目を配って、数を確認していた。武人の指が1,2,3,4・・・・と順に折られていくのを見ると、剛もそれに気づいて、黙って子供たちの頭数を数えた。 この強くて優しい年上の少年二人の絶妙なコンビネーションによって、子供たちの安全はいつも守られていたのだ。 本日の日記---------------------------- 砂丘といえば、プロフィールにあるように、私は8年前、中国のゴビ砂漠やタクラマカン砂漠に3ヶ月滞在していました。 敦煌では鳴砂山と呼ばれる大砂丘で駱駝使いの人と仲良くなって、お客がいなくなった深夜にラクダを貸してもらって、遠出をしては砂漠に寝そべり、ただずっと天体を見上げていました。 敦煌の砂漠は、迷子になって命を落とす人も多い場所です。でも私は平気でした。鳥取で大将たちに教わって培った砂漠のカンというものを、信じていたからです。 深夜の鳴砂山は、降ってきそうな星と世の終わりのような闇、宇宙ステーションでさえもはっきりと見えました(本当です。私は視力2.0以上です)。 あらら。そういえば、今日も本文は長い説明文でしたね。 明日は●己生の大将あらわる●です。タイムスリップしてきてくださるのを、お待ちしております。
2005年09月03日
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武人や剛が目を配っているにも関わらず、海ではちょっとした不慮の事件もたまにはあった。 ある日のこと、子供たちは朝から海で平和に遊んでいた。向こうの腰まわりの深さのところで、すせりな(御詞ですばしこいの意)の仮名を持つ綾一郎とあかえ(実直の意)と呼ばれる尚敦の斥候同士が互いに水をかけあってはしゃいでいる。 と、尚敦が突然泣き声をあげた。 ──いしきな! くらげに刺されたっちゃ! 岩場の突端で剛と並んで釣りを楽しんでいた武人は、悲鳴を聞くと手製の竿を放りだしてすぐさま立ち上がった。 ──わぁ! まだひっついとる! ばしゃばしゃ水を跳ね上げて近寄ってきた綾一郎が、尚敦の足元を見てそう叫ぶと、つられて自分の足を見てしまった尚敦は、度を失いそうになった。 それに気づいた武人は、間髪を入れずに尚敦に喝を入れた。 ──なんやあかえ、しっかりせえよ! すせりなも早うとってやらんか! ──わし、ようとれん・・・・。 普段は斥候として武人の右腕を任じている綾一郎までもが情けない声を出し、武人は眉をひそめた。 ──今からそっちへ行くけ、おとなしゅう待っとれ。 武人は走り、剛が後に続いた。 そして顔をゆがめて海の中に立ち尽くしている尚敦のもとにたどりつくと、武人はこの弟分の右足に、べったりと電気くらげの王さまみたいなやつが貼りついているのを見た。 うす緑色のそいつは、尚敦のふくらはぎ一帯に触手を張りつかせて、水中に揺らめいていた。 武人は眉ひとつ動かさずに、片手でくらげをひっぺがしてうんと遠くに放り投げると、尚敦を抱え上げて傷ついた足を海中から救い出した。 尚敦の足には、、まだちぎれてひくついているくらげの触手が残っていた。浜辺につくまでに、剛がていねいにそれを取り除いてやったが、赤くただれた傷の痛みは、潮にひたされて相当なものになりそうだった。 ──すせりな、ますら。皆生から真水もらって来。 浜に降ろされた尚敦を囲んで、痛々しそうに見下ろしている子供たちに向かって、武人はてきぱきと指示を出しはじめた。 ますら(次男坊の意)は、清二郎の仮名である。命令をうけた綾一郎兄弟は、皆生と聞いて、一瞬躊躇した。 ──向こうの浜におる皆生の大将に、相生にくらげに刺されたもんがおると言うだっちゃ。ほしたら水くれるで。 武人の的確な言葉に、俊足の兄弟はさっと走り去った。 ──痛、痛いよぅ・・・・。 尚敦が大将の頼もしさに甘えるように、鼻をぐずぐずさせはじめた。 ──くらげに刺されたんだも、そりゃ痛いがな。我慢せぇ。 武人は笑って、尚敦のうすい肩に手をやった。 ──それにしても、赤剥けだのぅ。こりゃ因幡の白うさぎだっちゃ。がまの穂の上にでも寝かせてやるだ。 武人の言葉に、集まっていた子供たちがみんなして笑い、つられて尚敦までもが引きつっていた頬をゆるませた。 ややあって、綾一郎兄弟が真水の入ったバケツを大事そうにひとつずつ抱えて、戻ってきた。 見ると、年少者ふたりにバケツを持たせて、悠然とそのあとを歩いてくるのは、なんと皆生の大将だった。 この皆生の大将、すなわち池田和彦はしょうもなくたかびしゃで、更には大柄なやつで、池田という名字をいいことに、自分の先祖は因幡の国の池田藩主であるなどとうそぶいてみたり、彼の誕生日が天皇誕生日(現在のみどりの日)と同じであることにわけのわからない誇りを持っているようながきんちょであった。 ──電気くらげか。おぼれんでえかっただな。 とはいえ、さすがは海の大将。和彦は尚敦の傷をひと目見てそう言った。 ──びっくらこいて、そのまま溺れてまうやつもおるっちゃ。 ──つれて帰るがええだか? ふり返って武人が尋ねた。 ──たいしたことないっちゃ。すぐにひっぺがしだんであろ、毒針がよう取れとる。 そう言って、和彦はぽんと手を打った。 ──やぁ、ちょうどええ。おまいら、しばらく残っとけぇよ。小一時間もすれば、地引網はじめるで。 和彦がそう言うやいなや、相生の子供たちから歓声が上がった。なんといっても地引網漁だ。大量なら浜で焚き火をして、獲れたての磯の香りのする焼き魚をたらふく食える。 ──こら、おまいも来るがええ。そん頃にはもう治っとるが。 和彦は尚敦の頭をはたくと、ひとしきりヒロイックな余韻を楽しんだ。 そして武人に大将同士としての礼儀をもって慇懃に黙礼すると、なんてわしは寛大なんじゃといった風でその場を歩き去った。 大将のくせに、ちまちましているところもあったが、総じて池田和彦はいいやつなのだった。 本日の日記---------------------------- 私もくらげに二回刺されました。ひじと肩に今でも小さな痕がついています。来週あたりにはちに刺されたいきさつをお話することになると思うのですが、鳥取では縦横無尽に遊びまわっていたせいか、くらげ、はち、へび、ブヨ、いろいろなものに食いつかれました。でも一番怖かったのははちかな。今でもはちには恐怖症です。へびに咬まれたのは、気がつかなかった。いしきなに見つけられて、足にふたつの歯痕があるのに気づいたのです。 明日は●鳥取砂丘を遊び場にする子供たち●です。タイムスリップしてきて下さい☆
2005年09月02日
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♪(前略)あ・な・た~と、わ・た・し~のステキなチャンネル♪ ♪た、た、楽しいんだもん。み、み、みんなでね~ うちじゅうそろって日本海テレビ~ 決めた♪ 相生の子供たちは、来る日も来る日も相皆平和条約によって治安が守られているところの、この日本海の浜辺で、磯遊びを満喫していた。 幼い子たちは、この広大なお砂場を得て、しゃがみこんだまま砂遊びにひねもす熱中しているのだが、比較的年長の子供たちは、海に入っては岩場のウニや巻貝、ひとでをとって遊ぶのが常だった。 そうして何日かすると、里の子供たちの肌は、もう黒としかたとえようのない色になっていき、とうとう黒光りするまでに至るのだった。誰もかわいらしい水着などでめかしている者などいない。浜では男の子女の子の区別なく、皆してスクール水着でそこら中を転げまわって遊んでいた。 ──あまっちょ、追っかけるだ! おのこたちは、思いつく度に小夜たちあまっちょを追いかけまわしにやって来た。 ──いややぁ! ──やめてんか! 彼らが徒党をなして追ってくると、女の子も口々にわめきながら走り回ったが、しかしそのリアクションには、追いすがる異性を前にした自分たちの無力さに、甘い恐怖を楽しんでいる感もなきにしもあらずだった。 小夜はそんな仲間の輪のうちにあって、たまに腰をのばして遠く遠くに目を移し、海の眺めを満喫した。 眼前には広々と日本海が横たわっている。皆生の海岸は、山陰海岸線といって、その男性的な景色で名を馳せていた。 相生の里からも海は見はるかせたが、その絶景を目の前にするのとでは、身にせまりくる迫力が違う。 日本海は、太平洋のように甘い海ではない。 どんなに風が凪いだ日も、不機嫌そうに白い牙をちらつかせてうち寄せてくる波。その波に悠久の永きにわたって削られていった断崖。深い海溝を隠しているため、陽の光を反射せずに黒く灰がかったような色の水平線。はるか天との境、海原をゆく船。あれはどこかの外国船だ。 そして、浜から少し離れたところには、松の大木が十六本自生している。この自然の堤防は、その名も十六本松という固有名詞が付けられており、カッと照りつける浜辺の太陽に、その松風の音が涼しさをそえて和らげてくれるので、村の人々に親しまれているのだった。 小夜はこのような海が大好きだった。そしてまた特に波の音が。海は月の引力によって悠久のあいだ忠実に満ち干きを繰り返す。 波には拍(はく)がない。風にそよぐ松葉の、一本一本のかすかなざわめき。大いなる原則の上での、小さな乱れ。そういったものが、人の心をこんなにも和ませることに、小夜は心を動かされた。 村の人が使う御詞(みことば)にも、訴(うたい)の唄(うた)にも、このような心地よい乱れが感じられた。 本日の日記--------------------------------- 冒頭の日本海テレビのCMって、まさか今はやっていないと思うけど・・・というか、日本海テレビってまだあるのかな(あったらごめんなさい!)。 当時の日記だけをもとに書いているので・・・参考書に“るるぶ”くらい買えよとまわりにも言われているのだけど、買ってません。だって“るるぶ”って最新の鳥取のことしか書いてないじゃんね。私は四半世紀も前の情報が欲しいんです。 今日も説明文のみでごめんなさい。説明文は今日で終わりです。 明日は●あかえ、クラゲに刺される●です。お待ちしております!
2005年09月01日
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