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昨日の夜、窯焚きは終わった。いつもながら、窯焚きは疲れる。3交代で焼き上げるのだが、私は、担当から離れていても、寝ていてもいつも窯と霊糸線がつながっているかのような感覚だ。薪の投入をストップすると、窯の音も静かになると同時に私自身の内面のざわめきも静かになってくる。今回は、4日かけて焼き上げた。窯のサイズにしては、たくさんの薪を使った。この窯もしっかりと色の濃い雰囲気のモノが多いだろう。次回は、酸化雰囲気に挑戦だ。形は穴窯のようでもある。明るい雰囲気のモノも焼けるはずである。
2007.03.29
昨日から火を入れている。新しい窯は、本当に効率がいい。今は、枯れた松や、共有林で伐採された雑木をチョロチョロと燃やしている。今燃やしている場所は作品とは遠く離れているので、ドロが付いていようが、枯れていようが、生木であろうが、太い丸太であろうが、何でも燃やせる。1000度を超えるまでは、こちらをメインに焚くおかげで、燃料費にかかるコストが少なくて済む。おまけに比較的均一に温度を上げることが出来ることで、焚き割れの率も非常に少ない。しかも、その為に、今までの窯に比べて早く温度を上げることも出来る。29日には、焼き上げることが出来るはずだ。それでも、窯焚きは火を長く見るせいか、視神経の奥に疲れが残り、少なくとも2日間の休養が必要だ。しかし、以前の登り窯に比べて疲労度は格段に少なくて済む。今回作った窯は、分類するならば穴窯にあたるのかもしれない。形は、ギリシャ時代に使われていたという窯によく似ている。私の前世は、イスラエルの地でイエス様が活動をされている時代にも有ったようだが、その時にも焼き物師をしていたらしい。この窯は、その頃使っていた記憶をベースにしているのかもしれない。昔から不思議な感覚が有って、イエス様に対する思いは普通では無かった。(しかし、クリスチャンではなかった)その時代に生きていた記憶が有るとしか思えなかったけれど、さすがに、陶芸に従事していたような感覚は無かった。親しい友人に、江原氏やエドガーケーシーのような能力を持った人がいて、チャネリングでいろんな霊人と話をしていたけれど、その時に、イエス様に対する不思議な感覚の理由の説明を受けて、当時、イエス様に学んでいたコトは納得した。その時に伝えられたのが、私の器をイエス様が使われて、喜んでくださったことがあり、そのコトは、誇りとして魂の光り輝く記憶として残っているとも言われた。私は、イエスを救世主と認めている。もちろん、お釈迦様も、孔子様も、ムハンマドもである。その時代の救世主に器を使って戴ける喜び、それがどれほどのモノであるのかは、正直、まだ理解できないで居る。しかし、そのチャネリングの後、現代、地上に降りられた救世主(私は、そのように認識している)にお茶碗を使っていただき、口を付けられた器が、我が家の家宝として有る。そして、別のお茶碗を送らせていただき、お礼のお手紙まで戴いた。人は、転生輪廻を繰り返し、いろんな人生を送るにしても、似たようなコトをするらしい。イエス様は、救世主として認められるのに死後100年かかった。当時は、罪人と一緒に処刑されたような人である。なぜ、そのようなコトになったのかは、明白である。(私たちの罪のあがないの為では無い)その教えの内容をよく見れば、その素晴らしさが分かるのに、見ようとせず、単純に、見るものの都合、目先の損得、その立場の存続に執着するあまり、本物を見ることが出来なかった、その当時の多くの人々の愚かさの現れだったと思う。目に見えないものをないがしろにしすぎた為に起こった悲劇であろう。目に見えないものを見る。もちろん超能力を勧めるモノではない。時間的、空間的に、見えにくいものまで意識を広げて、常識的に考え、さらに、天帝、神、仏、サムシンググレート、アラー、何でも良いが、全ての人類の親である存在を意識して、その視点から考える努力をしてみると、当然、浮かび上がってくるコトである。「真理」これを見ずして、本物の幸福は無いと思う。
2007.03.25
岡崎嘉平太さんのTV放映に私は映っていませんでした。留学生がお墓参りする時にもいたのですが、残念。むさ苦しいのが映り込んでいるシーンは、やはり、カットですね。以前、教育テレビでわざわざ取材に来て、数時間かけて収録した時も結局、使われませんでした。(この時も陶芸ではなく、意見提言について)多少ミーハーな所が有るのか、やはり、残念。5学生の息子は、自分の通っている小学校が出てきたことが嬉しかったようだ。
2007.03.21
「岡崎嘉平太」元全日空の社長の岡崎嘉平太氏のドキュメント番組が、今日の夜10時から、NHKで放映される。私もその一部に映っているはずですので気にして見てください。うちの窯は、嘉平太さんの親族から譲っていただいた土地です。10年ほど前に、フラクタルの森を実現するために、どこか適切な場所をお与え下さいと、切に祈りをささげた時に与えられた、ご縁の土地であります。嘉平太さんの墓所もすぐ近くに有り、生誕の地です。すぐそばの大和山(owasan)の頂上に望郷の碑が建てられています。毎年、奨学生が記念植樹に訪れ、私たちがお手伝いをしているのですが、昨年のその時の映像も放映されるようですので、そこで汚い格好をして頭にタオルを巻いて動いているのが居れば、それが私です。私は、岡崎嘉平太氏のことをここに来るまでは、全く知りませんでした。知ってみると、以外と私の周辺に嘉平太さんの信奉者が大勢いて驚きました。そして、嘉平太さんの事を聞くにつけ、知るにつけ、彼が、今、天上界でどのような仕事をされているかを考えて見ると、おそらく、今、私が「フラクタルの森」で実現したいと思っている事とも重なるように思います。おそらく嘉平太さんは、天上界で神様達の仲間として、地上の私たちを指導し、インスピレーションを落とされているのではないだろうか。今年の植樹式の時に、時間がとれるならば土ひねり体験もしてもらう計画になっています。また、昨年の暮れには、縁あって教育大学で留学生対象に話をさせていただく機会も与えられました。多くは、中国の人達でしたが、ここで話をさせていただいたおかげで、「フラクタルの森」をいま一歩充実させることが出来ました。今年は、町も絡んでの大和山ハイキングも4月15日に企画されています。道の駅「かよう」に集まって、頂上まで「ことわざの道」をのぼっていただくのですが、宝探しゲームなども企画していますので、機会が有れば参加してみてください。
2007.03.19
先日、友人とアメリカの下院議会で問題になっている「従軍慰安婦問題」について議論してみた。その時、気がついたことが有る。それは、お互い当時の事を実際に知り得ないにもかかわらず、そのように信じているという事である。彼は、ホンダ氏に近い意見。私は、渡部昇一さんに近い意見。私は、世界の戦時下における兵士の性的問題に置いて、比較するなら日本のそれは、諸外国に比べてまともだったと思っている。それは、当時、まだ、武士道が残っていたと思われるからだ。武士道は、武術でありながらその精神性ゆえに「道」がつく。ヨーロッパの「騎士道」もおそらくそうだろう。武士道は、仏教、神道、儒教をその精神性の中に柱として持っている。その心をくみ入れながら武力というものを翻訳し、生き方死に方まで説明いしようとしている。そのような精神性をもちながら、平常心が取れるような場面で、ホンダ氏が言うように軍隊が武力を持って女性を性奴隷として蹂躙するというような破廉恥なことが出来るはずが無い。もちろんいろんな人がいるのだから、はみ出す者もいただろうけれど、基本がそうである以上、そのような汚名をかけられたら切腹にも値する事を、上からの命令で全軍的に行ってきたとするのはいかがなものだろう。そのような見方をする人の中に不純なものを感じざるを得ない。人は、自分自身を見るように人を見るという。そのように見えるという人は、その自分の心が移り込んでいるのかもしれない。そのような状況下ではそのようにするものだと思い込んでいる可能性が有る。当然の事ながら、そのような中に放り込まれると、その人は、そうしてしまうのかもしれない。それ故に、一生懸命に、そのようであってはいけないと頑張っているのかもしれない。または、そのように決めつける事で自分自身の正当性、正しさを協調したいのかもしれない。しかし、どちらにせよ、その時の状況を自分自身の目で見たわけではない。それは、双方共に言える事。結局の所、お互いにそのように信じているにしか過ぎない。慰安婦問題については、いろんな事実が有る。最悪の事実も有っただろう。その状況下での適法なものも有るだろう。当時、公娼制度という援助交際(売春)を法制化したようなものがあった。それは、性病の蔓延を防ぐためでもあっただろうし、このような場所は、違法合法にかかわらず、どこの国のどの時代にも有る。現時点において、それをどのように判断するのか。過去にあった事実の、それを、どのように見るかによって違ってくる。どの部分をクローズアップするか。誇張したり、ウソの情報もあるだろう。どのような立場で見ているかでも違ってくる。結局、自分という色眼鏡で見ている。これは信仰にも等しいという事を知るべきだろう。自分中心教で、片目だけで見ると真実を見つける事は難しいだろう。正しく見るためには、他者の信じている事実も見る。その現実がなぜ起こったのかも考えてみる。その事実として起こったことが、どうしてなのか、その背景、時間経過でも考えてみる。要するに空間(他者の意見と自分の意見)と、時間(原因と結果)とこの二つの要素の中で見る必要が有る。その十字架を、両目で、立体的に見る必要が有る。単一の現象と自分の信仰のみで見ると、正確には見られないだろう。自らの視野、その時空間が小さいという事だ。そのような一神教的自分教の場合、問題の有る見方をしてしまいがちである。 結果 | |他者------自己------他者 | | 原因
2007.03.13
今日は、とても暖かかった。春のようでした。真庭市の勝山町の「ひな祭り」に行って来ました。http://www.optic.or.jp/shozans/hina/index.html縁あって作品を展示していただいているところが有るのでこの祭りの最中に行くのは初めてでしたが、少し街を歩いてみました。通りに面したお家にいろんなおひなさまが飾ってあります。落ち着いた雰囲気で飾ってあり、素敵だったのですがでも、少し不思議な感じもしました。毎年たくさんの観光客の人達が来られるそうです。私自身、男のせいなのかもしれませんが、どうもピンときません。しかし、あるギャラリーで陶芸作家のグループがいろんなおひな様を作って展示されて居るのを見て、以前強く思ったことの記憶がよみがえってきました。私の「フラクタルの森」で扱っているテーマは、陰と陽です。おひなさまの対の男女の姿も、まさに陰と陽です。この宇宙は、全てが陰と陽の要素から成り立っているという考えですがその事を表現してみたいと思った事が有るのです。少し刺激されました。来年は、私も再チャレンジしてみようと思いました。焼き物だけでなく、陰陽をおひなさまというイメージに近づけて何らかの形で表現してみたい。そのように思いました。この気持ちが持続しているようなら、来年までに作って店頭にオブジェとして飾っていただこう。
2007.03.04
今一度、現代のいじめ問題を見てみると、とても深刻なようだ。起きている現象として、不登校、自殺、学級崩壊とか色々有るようだ。昔と比べてその数も、そのレベルも深刻なようだ。そのように結果として、悪い果実が実っているのなら、フラクタルの森で言うところの、結果に及ぼしているその前の3つの要素のどこかが不適切なのだ。 「見て」 「思って」 「行動して」 そして、「結果」が出ている。(思想宗教) (道徳) (制度) (社会)「結果」として不都合なことが起きている以上、何らかの対策が必要となる。そこで出来る対策は、2つ。時間をさかのぼって原因を探すこと。もう一つは、時間を進めて、その「結果」をどのように「見る」かということ。そして、「判断」して、どのような「行動」を起こすかということ。要するに、今を起点に過去と未来、両方へ向かう二つの対策が必要だろう。どちらにしても、この3カ所を適切に埋めていく必要が有る。便宜的に陰と陽の2カ所でも良いだろう。要するに、「思い と 行い」である。NHKの番組でも討論していたけれど、みんな、うまく整理が出来ていないように感じた。出席停止の問題にも触れていたが、その、出席停止は処罰ではないとするような意見が有った。処罰という言葉に抵抗感を示す人もいた。しかし、その「出席停止」という力を使う時に、どのような思いで使うかによって、その効果、結果に違いが出る。討論していた人達の多くが、出席停止は、いじめる側といじめられる側を一時引き離すだけのように見ているのには、正直、驚いた。どうも、その原因は、最初に口を開いた人の処罰ではないという強く出された意見に影響されてしまったのだろうか。結論から言うと、出席停止は処罰である。処罰として有効に働くように使わなければならない。これは、そのいじめの首謀者とその両親に対する処罰とならなければいけない。いじめる側の子どもの家庭の問題も潜んでいるのだろうから、親に対する処罰ともならなければならない。その「主席停止」をくらうということが、親子共々に不都合な事につながるのでなければ意味が無い。そのいじめの状況を維持することが、その子どもにとっても親にとっても、不利益となる必要が有る。学校側が子どもの学ぶ権利が有るとか言って出席停止の子どもに時間をかけてやる必要は無い。勉強したければ、そして、その履歴書に「出席停止」と賞罰を書かれたくなければ、出席停止を警告された時点で心を入れ替えればいいことだ。それでも反省せず加害行為を繰り返すようならば、強制的に出席停止、さらには、少年院なり、刑務所に入ってもらうしかない。子どもの頃にそのように教育しなければ、いずれそうなる事だ。フラクタルの森で考えるとき、いじめなどでの対策でも一緒だが、陰と陽の2カ所、心と現実の2カ所である。(犯罪、戦争、全てに当てはまる)1,良心に訴えること(思想)2,処罰に訴えること(利害)汚い言葉で言うと「脅しとすかし」である。要するに賞罰、「ほめるとしかる」である。通常の場合は、ほめる部分を多くしなければ、子どもの場合は、特に無理がある。8割2割、ほめる所を多くしなければ教育は成り立たないだろう。しかし、現代のいじめは、常軌を逸しているようだ。大人の犯罪レベルが子ども達の世界まで浸透している。これは、早めにくい止める必要が有る。断固として、バツを与えるべきである。もっと簡単に考えると、犬の訓練に学ぶべきだろう。人間と犬とは違うという意見も有るだろうが、本質は一緒だ。以外と、現代では、犬のレベルより低い人も多いのかもしれない。現代は、死後、畜生道という地獄に堕ちている人が非常に多いともいう。犬の訓練も、基本は各家庭で、親である飼い主から無条件の愛情をいっぱい注ぎ込まれる必要が有る。そして、してはいけないことをした時には、その時、すぐに、それがいけないことだと分かるようにしっかりと叱る必要が有る。あとから叱っても効果が無いようだ。私自身の経験でも言えることだが、幼かったり、若かりし頃、愛を持って激しく叱っていただいたことで感謝していることは数多くある。現代社会が、その誉めること、叱ることにおいて、神が裁かれるが如くあって欲しいと思う。学校にあっても、猿山のサルじゃないけれど、先生には、ボスザルとして教室という群れの秩序管理を、しっかりとしていただきたいものである。しっかり全員に慈しみの視線を配り、間違ったことをすれば厳しく叱りつけて欲しい。仏神から見て、誉められるような正義という柱が、教室の中にも立っていて欲しい。
2007.03.03
先日、報道2001に従軍慰安婦問題でアメリカ下院議員のホンダ氏が出演していた。日本に対する非難決議を提出しているというのだが、とてもおもしろかった。おもしろかったと言うよりも、フラクタルの森でいう所の片目で、思考停止している気の毒な人が、アメリカの国民に支持されて、ここにも出ているのだと納得した。子どものように、単純に、なぜ?なぜ?なぜ?と5回くらい繰り返せば、真実に辿り着くのに、その、最初のなぜ?すら問いかけてはいないようだ。正直言って、私は頭が良い方じゃない。記憶力も非常に悪いし。これは、自信を持って言える。AB型の理性派かと思うと、どちらかというと感覚的な所が強い。思いこみが強いのだ。だからこそ、なぜ?なぜ?と問いかけたいのかもしれない。どちらにせよ、頭の回転は悪い。しかし、両目だけはしっかり開けていたいと思う。「従軍慰安婦問題」「歴史認識問題」「南京陥落事件」などいろんな問題が尾を引いている。アメリカで南京事件をテーマにした映画が作られようとしているようだ。その影に中国政府の戦略が見え隠れする。先年の中国国内での反日暴動の扇動は、失敗だったという判断が有ったのか今度は、アメリカなどのメディアを通じて、日本の封じ込め戦略が見えてくる。中国の気持ちは分かる。確かにプライドが有る。中華思想というように、世界の中心に自分たちが居たいとする心情は、これは、おそらく日本人でも一緒だろう。自分たちの存在感を意識したい、アピールしたい気持ちは分かるけれど、今まで、中国が後進国のグループに属していたことは紛れもない現実である。その現実、その原因を自分たち以外のせいにしたい気持ちもよく分かる。だからといって、歴史をねじ曲げ、他を突き落とすことで浮かび上がろうとすることは、恥ずべき事だ。ホンダ議員の話を聞いていて、本当に悲しくなってしまった。そして彼のその正しさの根拠として、先の河野談話の話が出てきたけれど河野洋平氏の発言は、柳沢大臣の失言問題どころではない大きな問題を含んでいる。河野洋平氏の発言に対して多くの危ぐを感じ警鐘をならしていた人達が居たけれどまさに、それが現実となっている。私は、渡部昇一さんなんかの文章で学ばさせていただいたけれど、愚かな政治家がもたらす悪果は、後々までも禍根を残す。河野氏の過去世は、奥州の藤原家を滅亡に導いてしまった人の生まれ変わりのようである。今世でもその愚かな政治手腕の、そのままで脱皮できないで居るようだ。似たような人がもう独りいる。加藤紘一氏、彼は、先の新井白石の生まれ変わりのようである。新井白石も、名前だけは良く知っているが、どうやら時代に仇なす人物だったようだ。現代の加藤氏を見ても、同じ事をしているように見える。個人的には好きな人物だけど、よく見てみると、曰く言い難し。正しく歴史を見ること、それは、正しく自分自身を見、正しく世界を見正しく宇宙を見られなければ、その正しさは、とてもあやふやな独りよがりのものとなるだろう。正しい思想を持っていなければ、正しく歴史を見ることも難しいだろう。歴史認識については、私の次の文章を見ていただきたい。本にしたいと思ってまとめ直したものだ。http://www.kibi.ne.jp/~genmei/furakutaru/8.html追伸・・・・・・オークションをやっていますので、そちらにもどうぞ。
2007.03.01
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