JINさんの陽蜂農遠日記
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次に訪ねたのが、浄土宗・「觀智院」。戦国時代末期より続く歴史があり、江戸時代に入り大本山増上寺が芝に移転してからは、増上寺の子院の一つとなった。増上寺が芝に移った際、その時の誠諦庵(現:観智院)の庵主である吟察上人が、増上寺の源誉存応上人に深く帰依(深く尊敬・信奉)して、誠諦庵は増上寺の山内(境内)に移り、子院となった。名前の由来は、増上寺の住職であった観智国師が当院に隠棲したことからと言われていると。「南無阿弥陀佛」碑。「觀智院」と。掲示板の横には「眞生」と。「この世の私たちは、仏様に生かされている存在だと考えます。世の中をよくしたいという仏様の願いを信じること、仏様の願いにかなった生き方を少しでもこの世に実現し、ひとりひとりが生きがいのある人生を送ることを「真生」と名付けました。真生主義真生主義は、宗祖法然上人の教えを正しく現代に受け継ぐことを理念としました。此の世は闇の世、苦しみの世界と考えるのは自分の目が曇っていたためで、一歩進んで眼さえ開ければ、光明はどこにもここにも充ち満ちています。至心に念仏申す人は如来の光明をこうむり、いつしか霊性が開発され、現実の世界でそのまま助かる道が感得されます。来世の救済を願うだけではなく、ただ今から未来世を貫く、永遠の生命と無限の向上を求め、人格の完成を目指します と。再び「増上寺 大門」への道に出て「増上寺 三解脱門」越しに「東京タワー」を振り返る。先程訪ねた「廣度院」の「練塀」そして「南門」。「南門」をズームして。歩道にあった「区の花 アジサイ」案内碑。アジサイには、ガクアジサイとタマアジサイなどがあります。関東地方に古くから自生し、花の色が雨などにより変化します。シーボルト博士が楠木お滝に贈ったことにちなみ、学名に「オタクサ」とつけられている国際性も豊かな花です。ユキノシタ科:日本(関東南部)原産・落葉広葉樹」。「区の花 バラ」案内碑。バラは香のよい色あざやかな花で種類も豊富です。日本にも古くから自生するノイバラがあります。現在植栽されているものの多くは外国から渡来し、明治20年には芝公園に「バラ園」が作られた記録があり、国際性豊かな花です。バラ科:日本・中国・欧州原産・常縁落葉低木つる「区の木 ハナミズキハナミズキは東京市からワシントン市に贈った桜のお返しとして、大正4年に渡来し、国際交流の橋わたしをした木です。成木は5 ~ 7m位になります。春には白やピンクの花が咲き、秋には赤い実、紅葉も美しく、小鳥も集まります。ミズキ科:米国南部原産・落葉広葉樹」右手にあったのが「安養院」。浄土宗寺院の「安養院」は、承応2年(1653)増上寺に止住した山城国大原向坊恵隆師の坊舎を創始とするといいます。明治11年に発足した芝区の区役所が当院内に置かれた と。「安養院」。本堂の扁額「安養精舎」。「本堂」を斜め横から。そして前方に「増上寺 大門」が姿を現した。増上寺の総門・表門で、地名の由来になっている門。現在のものは昭和12年に国道の通行整備のため、原型より大きく、コンクリート製に作り直されたが、旧大門は慶長3年に江戸城の拡張・造営により、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものであった。その旧大門は大正12年の関東大震災により倒壊の恐れが生じたので、回向院に移築されたが昭和二十年の空襲により焼失したとのこと。その手前、左手奥にあったのが「常照院」。正面に「本堂」。境内に石碑が並ぶ。「史跡 恋娘昔八丈 城木屋お熊墓所」。「白子屋お熊」というのが実際の名前で、歌舞伎「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」は実名になっている。(明治に作られた芝居だから?)とにかく、実話では悪女ですが、大変な美人だったので芝居になり、人形浄瑠璃では話も美化されたと。なおこの寺は代々市川団十郎家の菩提寺であったと。(九代目が神道に改宗、のちに歴代団十郎の墓も青山墓地に)七代目が寄贈した手水鉢があり、七代目と書かれた石と三舛の紋があった。次に訪ねたのが「花岳院」。「花岳院」は、浄土宗大本山増上寺の山内寺院。江戸時代の永正年間に増上寺六世・知雲上人の隠棲の寺として創建された。増上寺の坊中四十八寺院のうち「七大庭園」とも呼ばれる美しさを誇っていたと伝えられている。徳川家康に仕えた牧野忠成の妹・昌泉院の宝篋印塔も院内にある。春には山門脇の桜が参拝者をやさしく迎え、江戸名所の一とされた芝大門を望む地で、古の歴史と風格を今に伝えている と。「浄土宗 花岳院」。「揚羽蝶の寺紋」が印象的であった。増上寺の子院なので、寺紋は徳川葵と思うも、揚羽蝶の寺紋であった。「本堂」をズームして。扁額「花岳院」。「本堂」入口にも「揚羽蝶の寺紋」。移動して。そして「増上寺 大門」に到着。門の下部にあった案内板を追う。「大本山増上寺 大門平成ニ十八年三月 東京都より無償讓与 同ニ十九年三月 耐震改修工事 十月 大門再建八十周年天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起國豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修禮讓【天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災厲起こらず。国豊かに民安し。 兵戈用いることなし。徳を崇め仁を興し、務礼譲を修す。】(天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も起きず、 国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、 努めて礼儀と謙譲の道を修めます)という意であるとネットから。八十世大僧正 戎譽季生」「大門沿革碑板大門ハ三縁山増上寺ノ総門ニシテ古来江戸名所ノ一 トシテ人口ニ膾炙セリ慶長十年徳川氏増上寺創建ノ際ノ造営ニ係ル明治十一年十月東京府ニ寄附セラレタリシガ其ノ後東京市ノ管理ニ帰スルヤ芝公園内ノ施設トシテ保存ニ務メタルモ近年破損著シク永ク保存ニ堪エザルニ至リシ薦地元芝公園改良期成金並ニ株式会社不動貯金銀行協賛ノ下ニ其ノ原形ニ則リ新タニ復興ノ業ヲ起シ茲ニ其ノ竣功ヲ見タリ依テ之ガ落慶ノ典ヲ行フニ方リ由来ヲ略記シ以テ後世ニ伝フ 東京市 昭和十二年十月 昭和三十三年十二月 全国不動会 再板」「港区指定有形文化財 建設物 大門大門は、増上寺本堂、三解脱門とともに門前から境内の軸線を形成する門で、初代の門は江戸時代に木造で建設されました。現存するこの門は、東京市土木局建築課の設計、安藤組の施工によって昭和12(1937)年に木造から鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されたものです。鉄骨鉄筋コンクリート造を採用しつつも、先代の意匠を踏襲することが試みられています。大規模な高麗門(こうらいもん)です、反りを伴った切妻屋根(きりづまやね)、繰形(くりかた)をもつ持送り、垂木(たるき)、六葉(ろくよう)なども木造さながらの表現となっています。昭和12年の建設総工費は2万円が投じられましたが、そのうちの一万一千円は、大門の向かいにあった不動貯金銀行の頭取、牧野元次郎の寄村によるものてす。また昭和五十年代に実施された大門の塗り替えや瓦の修理は、地元有志の尽力によるもので、大門が地域の人々によって支えられてきたことが分かります。戦災を免れ、地域の象徴であること、増上寺総門としての歴史的意味から、貴重な建造物です。平成ニ十九年九月ニ十七日 港区教育委員会 文化財を大切にしましよう」「川瀬巴水 「芝大門之雪」~新東京百景~」案内板。昭和11年2月写 木版画32✕22cm 版元:渡邊庄三郎(渡邊木版美術画舗) 画像提供:常泉幸雄川瀬巴水は、明治16 (1883)年5月18日、芝区露月町36番地(現、港区新五丁目6番)に生まれた。本名文治郎。明治43年、日本画家鏑木清方に入門。大正7 (1918)年以降は、新しい時代の芸術的浮世絵板画「新版画」を提唱し制作しだ版元渡邊庄三郎の下で、風景版画の絵師として活躍。昭和32 (1957)年11月27日に亡くなるまで、約700図の新版画を制作した。巴水にとって、増上寺は生地に近くなじみ深い場所。「新柬京百景』の第1作で描いたのは、その増上寺の旧総門「大門」であった。紅色の大門に雪を降らせ、巴水自身にも見える傘差す人物を添景とし、情緒的日本風景を表現した。また、紅白の色調は、版画ならではの美的効果を生んでいる。ここに、珍しく自動車を描き、近代都市「新東京」を象徴させた。巳水が描いた木造の大門は、昭和12年、回向院(墨田区両国所在)に移築され、20年、空襲で焼失した。本作品は、往時の大門を知る貴重な資料でもある。 清水久男(新版画研究家)」「川瀬巴水 「芝大門之雪」~新東京百景~」「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」。大門の左手前の歩道にレリーフが掲出されていた。「江戸百景余興 芝神明増上寺」。奥に増上寺の大門、右手に芝神明宮が描かれています。「風景浮世絵の名手、初代安藤廣重が その最晩年の安政五年(一八五八)に描いた芝神明と増上寺で江戸の百景を選び 更に追加したものであろう。増上寺は徳川将軍家の菩提寺であって江戸時代の初めからの名所でありその僧たちや 今と変らぬ参詣見物の大勢の人たちの姿が描かれている。」「江戸自慢三十六興 芝神明生姜市」「芝神明は 平安時代に造られたという江戸有数の古社で 芝居のめ組のけんかなどでも有名である。これは 江戸時代のしょうが市の光景で今日でも九月十一日から二十一日まで長く続くため だらだら祭りの名がある。背景は 二代広重、人物 は 三代豊国の筆、元治元年(一八六四)江戸自慢三十六興の一枚。」「芝 大門」右 「浄土宗大本山 増上寺」左 「黒本尊 勝運 交通安全 御祈願」と。「芝大門 公衆トイレ」。「芝大門」交差点を渡る。再び「芝 大門」を振り返る。次に訪ねたのが「浄運院」。「浄運院」。浄土宗寺院の浄運院は、増上寺の子院で、起立年代等は不詳ながら、文化3年(1806)、文政2年(1819)と罹災してしまったといい、かつては上杉弾正大弼、上杉駿河守、真田弾正大弼、内藤主殿頭の宿坊だったと。本堂に近づいて。枯山水の庭。再び「芝 大門」を見上げる。先ほどとは、道路の反対側から振り返る。更に横断歩道を渡りながら。さらに「浜松町駅」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.01
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