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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク本堂脇の永代供養墓。案内書によると、あとの憂いが少しでも楽になるように…近年、皆様のこういうお声を耳にする機会が増えてまいりました。 ★将来ご先祖さまのお墓を継ぐ後継者がいない。 ★独身、離婚などにより自分単身の入る墓を得たいが、供養してくれる人がいない。 ★子供が娘しかなく、家のお墓のために我が子の人生を拘束したくない。 ★結婚により、実家の代が途絶え、お墓の面倒を見ることが難しい。上記のような諸事情でお困りの方に代わり、納骨後永代にわたって総本山が供養 及び管理をするための墓所です と。動物の供養塔。犬が二匹。こちらは猫が仲良く。大悲水子地蔵菩薩像。 菩薩像の後ろにはたくさんの小さな地蔵様が。 本堂も人影は無し。 新しい地蔵堂は、本堂手前の右側に。 内部には高さ3mの木造地蔵菩薩像「日限地蔵尊」が黄金に輝いて。 南部右馬頭茂時の墓。南部茂時は陸奥国南部氏の十代当主。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって、鎌倉東勝寺で北条高時一族とともに自刃。家臣の佐藤彦五郎が遊行寺に葬ったのだと。宇賀弁財天。宇賀弁財天は開運弁財天ともいわれ、俗に銭洗弁天として江戸時代から藤沢宿の人々に信仰された。現在でも銭を洗うことによって、財福を招くと信仰されていると。宇賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていた。遊行寺の庭。立派な石塔が庭に映える。手前は放生池。元禄7年(1694)、5代将軍・徳川綱吉の時代、生類憐れみの令が発布され、江戸市中の金魚・銀魚が集められて、この遊行寺の池に放生されたと。 寺務所。 寺務所玄関内部。 大きな達磨が迎えてくれました。 御朱印を頂きました。 境内の大銀杏は樹齢500年。 中雀門。遊行寺境内の建造物の中で一番古いと。安政6年(1859)。紀州徳川家の寄進。通常は閉まっていますが、開山忌(春・秋)等には開かれると。屋根などに菊のご紋と葵のご紋が。遊行寺は天皇の行在所(あんざいしょ)、天皇をお迎えする為に用意されたとのこと。 見事な彫刻。真浄院。歴代上人が法燈(一宗を代表するような高僧)を継がれるときは、この寺院で旅装をとき、この真浄院住職の先導により、清浄光寺に入山する由緒ある伝統的な慣例が、今日まで続けれらていると。 境内内部。真徳寺(赤門)。清浄光寺の塔頭。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためという。 山門前の巨大灯籠。初代歌川広重「東海道五拾三次 藤澤(狂歌入東海道)」が建物のシャッターに描かれていた。
2016.01.31
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク遊行寺に立ち寄りました。この寺は浄土念仏門の一流である時宗総本山。東門を入り坂を少し上ると右側に 小栗判官墓所入口の石碑が。階段を上がり本堂脇を奥に進むと左手に地蔵様が並んでいた。酒井忠重逆修六地蔵。銘文によれば萬治3年(1660)1月15日に酒井長門守忠重が施主となって、遊行十七世慈光(じこう)上人(遊行三十九代)の代に建立されたと。施主の酒井長門守忠重は出羽鶴岡城主酒井忠勝の弟で逆修(年老いた者が、年若くして死んだ者の冥福を祈ること)のために建立されたと。 酒井忠重五輪塔。この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。細い道(通称 車坂)をたどると長生院という寺に突きあたる。左に折れ奥に進むと小栗判官公並びに十勇士の墓。小栗判官と照手姫の話は人形浄瑠璃でも有名な演目。照手姫の墓。応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が、足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が、家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき妓女照手が助重らを逃がし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。助重の死後、照手は髪を落とし長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、余生を長生院で過ごしたとされています。そして私の大好きな文字も刻まれた石碑を発見。歴代上人御廟所。中央正面に開山塔、左右に歴代上人の墓塔が。徳川以前のものは多く宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、それが整然と並んでいた。道を戻ると左手の土手の上に、一際大きな尖塔角柱型の5つの墓碑が。堀田家三代、堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓の墓碑。堀田正利供養塔。堀田正利 ( 正吉 ) ( 1571 ~ 1629 )は旗本・堀田正秀の五男。母は浅野長一の娘。通称 勘左衛門。正室は稲葉正成の娘萬。織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦いののち、慶長 10年 ( 1605 ) 江戸幕府に出仕したと。墓所は、東京都台東区日輪寺。この供養塔は、孫の堀田正俊が延宝 5年 ( 1677 ) に建立。(案内板より)堀田正利妻(正室) 萬供養塔。堀田正盛 供養塔。堀田正盛は、江戸時代 初期の大名 、老中格 、老中 、大政参与 ( 御側 )。武蔵 川越藩主、信濃 松本藩主を経て。寛永19年(1642年)7月16日には1万石を加増されて下総佐倉藩に転封。よって下総 佐倉藩 初代藩主。堀田家 宗家初代。奇しくも7月16日は私の誕生日、これも不思議な縁?堀田正利の長男。母は稲葉正成の娘萬。母は稲葉正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局。よって正盛は春日局の義理の孫にあたる。堀田正盛妻 阿栗供養塔。阿栗は( 1617 ~ 1674 ) 酒井忠勝の娘。堀田正仲供養塔。堀田正仲は、江戸時代 前期の譜代大名 。下総 古河藩 の第 2代藩主、のちに出羽 山形藩主を経て、陸奥 福島藩の初代藩主。正俊系堀田家 2代。
2016.01.30
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク遊行寺の坂、またの名を道場坂を上っていくと右側にあるのが諏訪神社。江戸時代は藤沢宿大久保町、大鋸町の鎮守社。遊行寺の鎮守でもあったのだ。階段を上って、小高いところにある諏訪神社の境内へ。箱根駅伝の観戦ついでに訪ねたのが何年前であったろうか。この時は階段にも長蛇の列であったがこの日は神社を独り占め。藤沢七福神めぐりのスタンプは、鳥居の手前右の社務所前でした。 諏訪神社も御朱印ではなくスタンプを頂く。諏訪神社の石の鳥居。 本殿を目指し更に進む。 手水舎にてお清め。 本殿。旧東海道沿いのこの諏訪神社は藤沢宿東方面の総鎮守。遊行第四代の呑海が山中鎮護のために勧請したとされるが、鳥居の前で落馬事故が度々起きたために37代上人により慶安年間(1648年~1651年)に風早之谷(諏訪ヶ谷戸)へ一時祀り、元禄12年(1699年)に現在地に移転した。明治維新後の神仏分離令により、遊行寺から独立。祭神は建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)と八坂刀売命(やさかとめのみこと)。いろいろな境内社が。 太子堂。 祖霊神。大黒天社。 道祖神。 諏訪神社四神剣展示館。 この展示館の中に大黒様が鎮座。お参りを終わり階段を下る。寒い日であったがそれにしても人が来なかったのであった。大黒天の赤い旗の下には国道1号線が。 そして目の前には時宗総本山遊行寺の脇門が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2016.01.29
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク今年の1月は地元藤沢の七福神めぐりにも行ってきました。『第19回 新春藤沢七福神めぐり』の行事は昭和28年から行われており、現在の形になってからは毎年曜日に関係なく1月7日~31日までが拝観期間。藤沢の七福神は、白旗神社と片瀬の龍口寺が毘沙門天を祀っていることから、8社寺をめぐる珍しいもの。早い方で3時間、通常で半日弱で回れるコースだが、1日で回る必要もなく、期間中の9時~16時までは専用用紙にスタンプが押せるようになっていました。近場の七福神をめぐり、幸多い一年であるように祈願したのでした。まずは、藤沢橋近くにある感応院(かんのういん)へ向かう。 感応院は高野山真言宗の寺院。山号は三島山。建保6年(1218年)道教を開山、源頼朝が静岡の三島から「三嶋大社」を勧請したのが始まりといわれている。応永5年(1398年)に幸海が中興した。江戸時代の慶長14年(1609年)江戸幕府から檀林所の指定を受け、慶安2年(1649年)には3石7斗の朱印地を与えられたと。感応院の山門・薬医門を潜る。歴史を感じさせる鐘楼。藤沢宿では最も古い寺院とのこと。三嶋大明神。源頼朝が建てたものとされ、堂が360°回転するように造られているとのこと。長谷寺の輪蔵などにも見られるように、経が納められた堂を回転させることで御利益があると。扉の両脇の木の壁には見事な彫刻が。本堂。本尊は不動明王。手入れの行き届いた境内の庭には石造りの十三重の塔が聳え荘厳な雰囲気が漂う。弘法大師修行像。感応院には弘法大師像が2つあり、1つは本堂内にある木造弘法大師像で、相模国準四国八十八箇所の一番。境内中央にはこの弘法大師修行石像があり、これは二十三番。八十八箇所を巡礼する人は、ここに2度来ることになるのです。この境内の一隅に、ちょっと変わった六地蔵を見つけました。右から「六地蔵」と彫られた台座の上に、一枚の石板に六地蔵が線彫りされていた。磨耗してよく見えなくなっているが、確かに6体。寿老人の御朱印を頂きたかったが、御朱印には対応されてないようであったのでスタンプのみとなりました。次の諏訪神社に向かう途中、遊行寺近くの交差点近くには広重作の東海道五十三次「藤澤」の絵が。遊行寺橋と絵の手前に大きな鳥居が描かれている、これは江ノ島弁天の一の鳥居。そしてその横には手前の宿「戸塚」も。早朝に日本橋をたった健脚が、戸塚に到着する頃の夕景が描かれています。「こめや」の看板が目立つ茶屋は、米で作った餅菓子で有名な店。軒下には伊勢参りをする一団(講)の名前を記した木札が掛けられています。 ・・・つづく・・・
2016.01.28
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ブレーカー自動遮断装置 スイッチ断ボールをAMAZONで購入しました。先日テレビで阪神・淡路大震災では「通電火災、復電火災」が大きな火災原因になっていたとの報告を知ったのです。あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、「通電火災」「復電火災」とはどのようなものかは下記の如し。まず、強い揺れが発生すると発電所そのものがストップするだけでなく、送電線に破断が生じるなどして通常の送電ができなくなります。いわゆる停電。しかし、揺れが収まると、電気は他のインフラと比べると早く復旧し、送電が再開されることに。送電が再開されると、逃げる際に消し忘れた電気ストーブなどが自動的に作動してしまう。それによって引き起こされる二次的な火災を通電火災、または復電火災と呼んでいます。阪神淡路大震災では、地域別の復電に沿って火災発生が増加してきたと。ストーブ等が大きく揺れたり、倒れたりすれば自動的にOFFになる装置は付いていますが、この装置部分への落下物で装置部分を破壊したり転倒しなかったため、復電時に近くの落下物に燃焼した可能性がかなりあったと。更に揺れが収まった数日後に火災が発生した事例も確認されていると。神戸では、地震発生後10日間で建物火災が157件発生し、原因が特定された55件のうち、35件が電気が原因の火災であったと。また、東日本大震災では、地震による火災110件のうち、電気が原因となるものが60%以上の71件にのぼったと。 購入したのは、「スイッチ断ボール」という商品。急に大きな地震が起こった場合、自動的にブレーカーを遮断し、通電火災を防ぎます。電動部品は一切なく、手軽に装着が可能。鉄球の重さが60gになり、より確実にブレーカーを落とすように設計された物。 箱の裏側には簡単な取り付けで確実な作動!と。箱の中には青い装置本体とボールそしてブレーカースイッチが契約Aによって変えられる4種のキャップそして延長紐が。これがシンプルな装置本体。下の器の上にボールを載せ、これが地震の揺れで落下すると、この日ボールの紐がブレーカースイッチのキャップに繋がっておりブレーカーが引っ張られ落ちるという極めて単純な代物。水準器も付いており水平設置が確認出来ます。取扱説明書も同梱。早速我が家の台所にあるブレーカーに取り付けて見ました。我が家には、太陽光発電のパワコン用のブレーカーもありますので2個を購入しましたが・・・・・。落下させる震度は「震度調整リング」で決めることが出来ます。3点の震度調整リングは商品に付属。震度調整リング小(なし);震度5で重りが落下震度調整リング中:震度6で重りが落下震度調整リング大:震度7で重りが落下 するとのこと。震度6で重りが落下するようにし、震度調整リングの上に重りを載せ落下TESTも実施しました。大地震が起こったとき、我が家に居るか?そして落ちついた気持ちで、すべての電気を消して回る時間、精神的余裕があるか?高い位置にあるブレーカーを脚立や椅子を運びその上に乗ってブレーカーを落とす余裕があるか?を考えたのです。そして我が家からは火災を発生させない、近所に迷惑をかけたくないと。もちろんこの装置が作動しないことを祈るのみですが・・・・・・・・・・。
2016.01.27
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常設展示横にも展示室が。 当時の江戸を描いた絵画。 歌川広重作 永大橋深川新地佃島。江戸時代町人は,土地,家屋をもつ地主,大家と,借家人である店子に大別されるとの説明図が。大家は、建物の管理を地主から請け負い、家賃の徴収も代行していたと。すなわち江戸時代の大家は、単なる雇われ人。別名を家守(やもり)、家主(いえぬし)とも。家守は、店子から地代・店賃を徴収して地主に納めるほか、店子に町触(まちぶれ)を伝達したり、店子の転入や転出を把握するなど、店子の管理全般にあたったのだと。家主という呼び名には所有権のにおいがしますが、江戸時代の家主は所有権はなかったと。地主という存在が別にいたのだと。今の時代とはかなり異なることを学習。『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』がジグソーパズルになっていたのでTRYしてみました。この作品は後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホによって模写(模写作品『日本趣味 : 梅の花』)されたことから、外国でも広く認知されている絵画。そして以前、オランダのアムステルダムのゴッホ美術館を訪ねた折り、鑑賞した作品。チケットにも印刷されていた歌川広重晩年期の傑作『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』。帰路の階段下からは再び「升田屋」と「相模屋」という名前の船宿が。 船宿の裏は川になっていて、人や荷物を運んだ猪牙舟が泊まっていることが階段上から理解できたのです。 帰路の館内通路には切り絵も展示されていた。先ほど見学した大店「多田屋」。この大店は肥料問屋で、干鰯や〆粕、魚油などを扱っているという設定。正月飾りの竹でしょうか。纏(まとい)持ち。纏というのは、長い棒の先に丸い玉のついた飾り。江戸時代に町火消の各組が用いた旗印の一種。消火活動そのものに使うのではなく、屋根の上で、場所を知らせるもの。深川火消しの梯子乗り。後ろには展示されていた火の見櫓も描かれていた。この日に訪れた、布袋尊が祭られている深川稲荷神社の切り絵も。 深川七福神の江戸のからくり独楽(こま)。 頭の上の独楽を回す事で、人形の手が上下に動いて様々な芸を行う仕掛け。こちらは今年の干支さる。 上野の森美術館では「肉筆浮世絵」美の競艶が開催されていると。 そして再び案山子が見送ってくれました。地下鉄清澄白河駅通路にも深川江戸資料館の案内が。
2016.01.26
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遅い昼食で満腹の後は、近くにある深川江戸資料館を訪れる。地下1階から地上2階・3層にわたる高い吹き抜け大空間に、約150年ほど前の江戸深川の町並みを再現。各家の中には生活道具類が配置され、実際に家に上がりこみ、それらの道具類に触れることもできる。また、人々の1日の暮らしを音響効果(物売りの声や火の用心など)と照明効果によって、1時間で演出していた。入口には、かかしコンクールで入賞した作品が。 入口横でも、かかしコンクールの作品が迎えてくれた。 これも資料館の入り口にあった「江戸飾り獅子」。チケットを購入し入場。第48代横綱大鵬(納谷幸喜氏)の偉大な功績をたたえる「横綱大鵬顕彰コーナー」が、館内でオープン中であった。 白鵬に次ぐ優勝記録32回、6連覇2回、全勝優勝8回など、数々の大記録を成し遂げた昭和の大横綱は、江東区初の名誉区民になるなど、江東区に大変ゆかりのある力士。資料館1階入口ホールに設置されるコーナーは、大鵬のゆかりの品々として、横綱推挙状、優勝賜杯のレプリカ、化粧回しや太刀などが展示されていた。 懐かしく、大鵬の取り組みのビデオも放映されていた。 1Fのロビー展示。深川に縁の人物が紹介され、壁には深川の歴史や江戸のころの生活の様子などが展示されていた。 山東京伝。江戸・深川木場の質屋・岩瀬伝左衛門の長男として深川木場に生まれたと。山東 京伝は江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。寛政の改革における出版統制により手鎖の処罰を受けた人物。 伊能忠敬。 事業に成功したあと50歳の時に江戸にでて、富岡八幡宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていたと。測量旅行出発にあたっては必ず富岡八幡宮を参拝していたことからこの地が縁りの地。江戸時代の商人・測量家。寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした人物。 市川団十郎。七代目 市川団十郎も深川に住んでいたと。 北辰一刀流伊東道場は隅田川沿いの本所深川佐賀町にあったとされると。 資料館の壁には深川の絵図が展示してあり当時の街並みが描かれていた。深川は大川(今の墨田川)を中心に細かく掘割がされている事がよく理解できたのであった。 常設展示の江戸の街並み配置図。 この導入展示を出ると、次は常設展示。階段を下りた下に、江戸の街並みが再現されていた。 屋根には猫が一匹。時々聞こえる猫の鳴き声はこの猫の鳴き声を再現。そしてこの猫の頭が動いているのであった。 深川佐賀町下之橋際という隅田川沿岸の長屋の街並みと。時代は天保年間末期(1830年代末)を想定していると。 八百屋には多くの野菜が並んでいた。ニンジン、大根など現在でもおなじみの食材が並んでいた。まるで本物の如し。長屋は生活感のある部屋が再現され江戸の人が生きていた風景がそのまま再現。長屋ではそこに住む家族を細かく設定されているので、よりリアルに再現されていたのであった。時間の移り変わりとともに鶏の声や物売りの声も聞こえてきた。共有スペースには、井戸やお稲荷さんを祀る小さな祠も。 肥料、魚油(灯油)を扱う大店の前には防火用水が。深川の船宿を再現した場所。猪牙舟(ちょきぶね)は本物の水の上に浮かんでいた。船には乗れないが、宿の中も靴を脱いで部屋の奥まで見学することができたのであった。 火の見櫓。 月と柳のBEST MIX。 天麩羅屋も。 当時は天麩羅はファーストフード?芭蕉の句碑。ここ深川は松尾芭蕉が暮らしていた町。深川の万年橋の橋袂には芭蕉庵があり、奥の細道への旅立ちはここ深川から。
2016.01.25
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深川七福神巡りの締めは富岡八幡宮へ。本堂には参拝者の長蛇の列が出来ていた。 本堂正面から。 本堂へのお参りは列が長いのでパスし、富岡八幡宮境内の西側にある恵比須宮へ。 恵比須神は烏帽子をかぶり、狩衣を着て、右手に釣竿を持ち、左手に鯛を抱き、岩の上に座った姿。最初は、航海安全の神として信仰されてきたが、のちに商売繁盛の神として、ひろく信仰されるようになったと。恵比寿顔といわれるように、笑顔愛敬、和顔愛語の福徳を人に授け、かつ富財の神として、信仰されて来たのだ。 恵比須神の御朱印を頂きました。 そして近くの深川不動尊にも立ち寄りました。 本堂。旧本堂の西側にある外壁に梵字(不動明王真言)を散りばめてある特徴ある建物。 左右の拒魔(こま)仁王?。深川不動尊の旧本堂の手前の階段のそばに、上の写真の仏像が神社で言う所の狛犬の位置に。 境内には巨大な草鞋が設置されていた。小さな草鞋に願い事を書いて、大きな草鞋に結び付けています。足災除け・諸願成就とのこと。 そして再び帰路に仙台掘川に架かる木更木橋を渡る。往路とは反対側の欄干中央に木場名所図会の絵「江戸時代の材木問屋」が。そして昼食は「深川釜匠」へ。 深川めし・深川丼セット を注文。深川めしは、アサリ、ハマグリ、アオヤギなどの貝類とネギなどの野菜などを煮込んだ炊き込みご飯。大根サラダ、漬け物、わかめの味噌汁付き。かやくご飯にアサリが大量に。口に入れた瞬間、アサリの風味が口の中に広がりました。そして暫くするとメインディッシュの汁物の深川丼が。アサリやハマグリ、ねぎ、油揚げで作られる味噌汁をご飯の上にぶっかけて作られる「深川丼」。埋め立て前の江戸深川は海に面しており、アサリの好漁場。「深川丼」は漁師が船上で手早く作れる栄養補給を目的として生まれたと。また、庶民の味としても、酒の風味や大根を加えるなど、家ごとの工夫が行われ親しまれて来たと。現在も清澄白河や門前仲町あたりで、深川丼を提供する料理店が多いと店の女将さんから。真ん中に生卵が一つ。生卵を潰してからめて食べるとアサリの濃厚な味わいで旨いことしきり。アサリがゴロゴロとレンゲの中に、そして長ネギの触感も最高だったのです。頑張りましたが、深川めしは食べきれませんでした。女将さんがテーブルの上のサランラップを使っておにぎりにし、TAKEOUT可とのことでしたので・・・・・・。
2016.01.24
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福禄寿の安置してある心行寺に到着。雙修山養源院と号す。心行とは浄土教で,安心(あんじん)と起行(きぎよう)のこと。 この寺には参拝者も少なかった。元和二年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立された浄土宗の寺で開山は観智国師の高弟である屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室、養源院殿であり、寛永十年(1633年)現在地深川寺町に移った由緒ある名刹である。関東大震災と昭和二十年の戦災により二度も焼失したが、現在の本堂は昭和四十二年に再建された。昭和五十年に福禄寿が安置されている六角堂が完成した。福禄寿の安置されている六角堂に向かう。 この中に福禄寿が。。。。。御開帳は、元旦から1月15日までと。 よってこの日が最終日。御開帳された福禄寿。福禄寿の石像が迎えてくれた。 福禄寿は、星宿の神、南十字星の化身ともいわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神。一説には、中国の宋の時代、嘉祐年間(1056年~)に実在した道士であるとも。福禄寿は、背たけが低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ長寿をつかさどる福神、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え長命と円満な人格を人々に授ける福神。また福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の三つの福徳を授ける神ともいわれてきた。 影窓院地蔵(ようそういんじぞう)。「御府内備考続編」によると、この石造地蔵菩薩立像は、当寺に影窓院と正壽院の二つの塔頭(たっちゅう)があり、影窓院にあったので、この呼称があるとのこと。結緑地蔵として縁結び、願いごと成就の地蔵尊として江戸時代から参詣の人々で大いに賑わったと。 左側には五重層石塔、右側には宝筺印塔も。寺務所入口。 福禄寿の御朱印を頂きました。本堂横の心行寺客殿。
2016.01.23
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更に深川七福神巡りの歩を進める。仙台掘川に架かる木更木橋欄干中央に木場名所図会の絵「木場の角乗り」が。水に浮かぶ角材の上でバランスをとりながら妙技を繰り出す伝統芸能「木場の角乗り」。角乗りは江戸時代、木場の材木業者が水上の材木を乗りこなしながらいかだを組んだことから発展したのだと。そして冬木弁天堂に到着。 冬木弁天堂は神社ではなく 高野山を中心に伝わった大日如来の本地身説をとる古義真言宗のお寺であると。冬木弁天堂は、明治時代初期まで材木商を営んでいた豪商・冬木屋の屋敷内に祀られていた弁天様。当初は屋敷のあった日本橋茅場町にあり、1705(宝永2)年に別邸を建てた際、邸内の池のほとりであった現在地に祀られるようになったと。1870(明治3)年に、冬木家が一般開放してから、誰もがお参りできる真言宗の仏堂に。現在の弁天堂は、震災などで焼失した後で1953(昭和28)年に再建されたもの。冬木辯財天と刻まれた扁額。堂内部。 冬木弁天堂は弁財天で、御利益は芸道富有。弁財天はもともとは弁才天で、音楽の神、芸術の神であったが、弁才天が弁財天となり、財宝の神となったと。 本堂横には手水場が。そしてその奥に銭洗い場も。銭洗いで洗ったお金はどうするのかは、洗ったお金をお財布に入れておくと仲間を呼ぶという説と洗ったお金を使うとまためぐってくるという説があるようです。鎌倉の銭洗い弁天は、確か直ぐに使えとの説であったのでは。本道の脇にある小さな穴は冬木弁財天お己洞。 洞の奥には白蛇がいると?檀家の方が法被を着てお手伝いに。背中には「三つ鱗に白浪」紋が。 これは弁財天ではなく慈眼観音。こちらにも戦災死者の供養塔が。 辨財天の御朱印をいただきました。 次の七福神に向かう途中のゑんま堂。 真言宗豊山派寺院の法乗院で、賢台山賢法寺と号す。日本最大の閻魔大王座像が安置されていると。 全高3.5m 全幅4.5m 重量1.5t 寄木造り。このゑんま堂にはと19もの賽銭口が。 お賽銭を入れると、コンピューター制御で、堂内に照明が灯り、スポットライトが回り、願い事に応じてありがたいお言葉が流れてくるというハイテク闇魔。ここまでやるか??深川七福神のポスターを発見。
2016.01.22
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間宮林蔵の墓の前を通過。林蔵は世界地図にただ1人その名を残した日本人の探検家。 寛政11(1799)年に初めて蝦夷地に渡り、翌年には蝦夷地御用雇となり、箱館で伊能忠敬から測量術を学んだ。以後、文政5(1822)年に松前奉行が廃止されるまで、林蔵はほとんど蝦夷地内で活動し、華々しい成果を挙げた。とりわけ当時ロシアの半島と 思われていた樺太(カラフト)が「島」であることを確認・発見したことにより、その海峡は現在でも彼の名前をとって「間宮海峡」と呼ばれているのだ。 龍光院から円珠院へ行く途中で東京スカイツリーを見る事が出来た。 日蓮宗寺院の浄心寺本堂前を通る。 関東大震災殃死者の蔵魄塔(ぞうはくとう・納骨堂を兼ねた慰霊碑)は半円ドーム型、慰霊碑は角柱。 殃死(おうし)とは、横死とも表記され、事故・殺害・災禍など思いがけない災難で死亡することをいう。有福蓄財の大黒天を祀ってある円珠院に到着。深川七福神には、小さい神社や寺が多いのに驚いたのであった。 円珠院は、先ほど前を通った日蓮宗寺院の浄心寺の塔頭の一つ。よって円珠院も当然日蓮宗そしてここに大黒天が。入口には「深川七福神 大黒天」の文字が。 大黒天信仰には二つの流れがあると。一つは、大黒天を大国主命とする流れ、これは多く神社に祀られていると。もう一つは、インド名をマハカーラという仏神の大黒天、これは多く寺院に祀られているのだと。円珠院に安置されているのは、インドの仏神の大黒天で財宝糧食の神様。すなわち大黒天は人々に財宝を授ける神様として信仰されており、限りない財宝糧食を蔵していることをあらわした小槌と大きな袋を持っていて満面の笑みで出迎えてくれたのであった。 にこやかに微笑まれている大黒天の顔を見ているとホッとするのであった。本堂で参拝。 本堂内部。 円珠院の本尊の大黒天は本堂に安置。 本堂横の社務所に入る。 大黒天の御朱印を頂きました。円珠院の庭に置かれていた石像の肩には大黒天の神使のネズミが。
2016.01.21
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清澄庭園の前を通り、龍光院へ向かう。清澄庭園のこの場所は元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる場所。深川江戸資料館通りを歩く。深川江戸資料館と書かれているオブジェが迎えてくた。正覚院の墓地道路左側の公衆トイレも深川の街の景観に合わせた外観。思わず気が付かずに通り過ぎそうであったが振り返り撮影。「江東区公衆便所」の掛札も深川ならではの意匠。中には入らなかったのであったが・・・・・中は全て和式??。深川七福神巡りのコースには案内用の旗が立っていて解りやすかった。 材木屋の多い深川ならではの正月飾り、俳句がいっぱい書かかれた板が並んでいた。 「酒のめばいとど寝られぬ夜の雪」、「旅人と 我名よばれん初しぐれ」、「百歳の気色を庭の落葉哉」・・・等芭蕉の奥の細道の句が並ぶ。芭蕉の句の書かれた板が並べられているこのお寺は曹洞宗 善徳院の外壁。今年の干支の猿を描いた材木年賀がここにも。 龍光院に到着。 龍光院は、浄土宗雲光院の塔頭寺院で、慶長十六年(1611年)馬喰町(中央区)に創立、明暦三年(1657年)の大火に焼失し、岩井町(千代田区)に移転、天和二年(1682年)の大火に焼失し、同年深川の地に移転。 本堂にてお参り。 毘沙門天はインド名バイスラバンナ(ベイシラマダヤ)の音写で、もともとヒンズー教の財富の神であったクヴェーラ神が仏教に取り入れられ、仏神となったもの。経典によると、毘沙門天は四天王(持国天・増長点・広目天・多聞天)の随一として須弥山の中腹に住み、大勢の夜叉や羅刹を率いて北方を守護。常に仏の道場に在って多くの法を聞き、あるいはその福徳の名声が遠く十方に聞こえることから多聞天と訳され、また財を授けることから施財天ともいわれているとのこと。 形像は,甲冑を着る武神像で,左の掌上に宝塔をのせ,もう一方の手に三叉戟(さんさげき・三つ叉の槍)を持ち、忿怒(ふんぬ)の形相で邪鬼の上に乗る姿が美しかった。 堂の横にある巨大な五輪塔は約3.5mという大きさがあり、1686年制作の銘がある他は詳細は不明とのこと。 五輪の形に歴史が感じられるのであった。本堂階段脇に可愛らしい「ちんねん」の像がちょこんと立って居た。五輪塔との対比を意識している? 白壁に映った木の陰も水墨画の如し。 龍光院の横の入口にも「毘沙門天」の案内板が。毘沙門天の御朱印を頂きました。 深川七福神巡り案内図を参考に次の七福神巡りへ。
2016.01.20
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深川神明宮を後にし、次の七福神の深川稲荷神社に向かう。途中、小名木川(おなぎがわ)を渡る。小名木川は、隅田川から旧中川まで東西に江東区を横断している長さ4640mの一級河川。天正18年(l590)徳川家康の江戸入城に伴い、多数の住民が流入し、米・塩などの生活必需品をはじめ、多くの物資が諸国から江戸へ送られるようになった。そこでその物資の輸送路として水路を開いたのが、小名木川の始まり。小名木川の名称の由来も諸説あり、小名木四郎兵衛の姓をとった説、うなぎがよくとれたのでうなぎ川といわれたのがなまった説、また、女木山谷が小名木沢になった説などがあるのだと。新小名木川水門。小名木川と隅田川の接続点にある水門。高潮や津波の被害から流域の町を守るために作られたのだと。 そして深川稲荷神社に到着。 石の鳥居の上には深川七福神と布袋尊の提灯が飾られていた。深川稲荷神社、深川七福神 布袋尊と赤く刻まれた石碑も。布袋尊のまつられている深川稲荷神社は、寛永七年(1630年)の創立、深川地区では、創立の古い神社です。祭神は宇迦魂命神(ウカノミタマノカミ)。農耕の神、商工業の神、商売繁盛の神としても信仰されていて全国の稲荷神社で祀られている。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神様。スサノオとカムオオイチヒメ(オオヤマツミの娘)との間に生まれ、大年神の妹神とされていると。別名、御饌津神(ミケツカミ)、宇賀御魂命(ウカノミタマノミコト)。布袋尊は、中国五代のころ、浙江省奉化県に実在した契此という高僧。大きな袋を持ち、これに食べ物や日常品を入れ、杖をたずさえ、大きな団扇を手にし、身体は低いが、腹は太鼓腹、半裸身、粗衣をまとい、常に笑顔、清貧にあまんじ、諸国を遊行し、子供と遊び、酒脱、楽天的な和尚として親しまれてきた。また人の吉凶、時の晴雨を予知したといわれたと。後梁貞明二年(916年)三月三日、高齢をもって寂したが、年齢は不詳と。 布袋尊の石像もにこやかに。明治百年記念碑にはこの神社の歴史が詳細に刻まれていた。 布袋尊の御朱印をいただきました。
2016.01.19
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本州の南岸を急速に発達しながら北上する低気圧の影響で、今朝起きてみると一面の銀世界となっていました。我が家の縁側からの真っ白な光景です。昨夜の睡眠時の24時過ぎには、未だ雨でしたが、早朝の4時過ぎから一気に降雪が激しくなり積もったようです。早朝の明るくなった我が家の門周辺です。既に雪は止み雨となっていました。柘植の木の上に詰まった雪の量からして積雪は6~8cmでしょうか。我が家の横のT字路です。車の轍が残っていました。今回の雪は水分が多い湿った雪。私の歩いた跡です。ニュースによると路面の凍結によるスリップ事故や道路での車の立往生、それに電車の運休も各地で起きるなど、交通にも大きな影響が出た模様。既にかなり溶けていますが、明朝も温度が下がるので凍結の心配が。
2016.01.18
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先日、卒業した会社を訪ねる必要がありましたが、午後からで良かったので午前中は深川七福神巡りに行ってきました。きっかけは、正月にテレビ放映が行われていたのも動機の一つ。湘南新宿ラインで新宿へ、そして地下鉄都営新宿線で森下駅まで。そsこから徒歩にて数分で深川神明宮へ到着。鳥居には「深川発祥の地 深川神明宮」の横幕が。徳川氏の関東入国から間もない慶長元年(1596)、徳川家康が当地を巡視されたおりに、深川八郎右衛門を呼びよせ、地名を尋ねたと。「まだ住む人も少なく地名もない」と応えると、家康は八郎右衛門の彼の姓「深川」を地名とするよう命じたのだと。 深川の地名の発祥は、神明さまの鎮座する実にこの地。以来、深川の地は江戸の繁栄とともに賑やかな町となり、深川氏は開拓の功績により代々深川二十七ヶ町の名主を務めたと。 鳥居の脇に由来記なる石碑が。今から凡そ四百余年前、ここ深川の地は葦の茂る三角州。いるのは狐狸や野鳥ばかりの、住む人もいない荒れ地。そこへ深川八郎右衛門という人が、一族を引き連れやって来て開拓を行ったのだと。この深川八郎左右衛門は滅法信心の深い人物だったようで、開拓民の安寧と当地のますますの発展を祈願するため、以前より崇敬する伊勢皇大神宮のご分霊を賜り、屋敷の一隅にお祭りしたのが、この深川神明宮の初めなのだと。 深川神明宮と刻まれた石碑。 日本画家・伊東深水は、明治31年(1898)2月4日、深川西森下町のここ深川神明宮門前で生まれたのだと。深水の雅号は、深川の水にちなむものであるとのこと。日本の女優・タレント・歌手の朝丘雪路は伊東深水の娘。最近、ほとんどテレビで見ないが元気なのであろうか・・・・・・。参道の両側に並ぶ神輿庫とその扉には例大祭の様子が描かれていた。 例大祭は毎年、8月17日に近い日曜日に行われると。手水舎。 深川七福神巡りの新年御開帳期間はこの日が最終日。二月三日の節分・豆まきの案内も。 神明宮本殿。創建年代は慶長年間(1596~1615)以前とのこと。深川において創立の最も古い神社。 ご祭神は天照大御神、伊勢神宮の分霊を祀る。 福徳は延命長寿とのこと。寿老神社。深川七福神の寿老神を祭る。 寿老神は、寿老人とも書き、中国道教の神。また中国の老子の化身の神とも。寿老神は、白髪長寿の老人の姿をして、杖を手にし、杖には人命の長寿を記した巻物を吊し、鹿を伴っている。鹿は、長寿を司る寿老神の神使とされていると。寿老神は、人に延命長寿の福徳を授ける福神として、信仰されて来たのだと。 境内の白梅も既に満開に近かった。 例大祭の写真集も好評発売中とのポスター。 和合稲荷神社。古くは神域内の各所に各々に祭っちていた十一柱(和合大神,稲荷大神,浅間大神,厳島大神,疱瘡大神,鹿嶋大神,大国大神,御嶽大神,金比羅大神,道祖大神,北野大神)の神々を昭和に入って末社として合祀し、和合稲荷神社となったのだと。 深川発祥の地・神明さまの境内に並ぶ十二の町神輿を納めた神輿庫の扉に、各町自慢の神輿を描いた神輿絵が奉納されているのであった。 躍動と静寂、興奮と緊張が十二の画面の中で、見事に表現されていた。 寿老神の御朱印を頂きました。そしてこの深川神明宮をスタートとし深川七福神巡りを楽しんだのであった。
2016.01.17
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東海道線の茅ヶ崎駅で途中下車し、相模線に乗り換え、宮山駅で下車し寒川神社に徒歩で向かう。神池橋の前に到着。神池にかかる太鼓橋。平成23年老朽化により架け直され神池橋と命名。参道は当社境内から南に1kmほど進んだJR相模線の踏切近くにある一之鳥居から始まり、参道途中には二之鳥居(大鳥居)、境内入口のこの鳥居は最後の鳥居となる三之鳥居。 本殿目指して参道を進む。参道の右手に昔の一の鳥居が展示されていた。苔が歴史を感じさせてくれました。 説明板によると寛政8年(西暦1796年)奉納され、安政2年の江戸大地震、大正12年の関東大震災と2度の震災により倒壊したものと。巨大な手水舎。 おみくじが結ばれて美しい姿を。 神門前に到着。 正月のため綺麗に浄められた感じのする寒川神社。神門には毎年、神話ねぶたが飾られるようで、今年は「海幸彦、山幸彦」嫉妬と怒りで攻撃してきた兄の海幸彦に対し、弟の山幸彦が妻の豊玉姫から授かって潮の満ち引きを支配できる珠(たま)を使い、兄を屈服させる姿を描いていると。山幸彦の孫が初代天皇の神武天皇とされる。今年は「丙申(ひのえさる)」で困難や発展の分岐の年とされ「愛する者や協力者と手を携えて難問を解決し、幸せな1年に」との願いを込められていると。神門から本殿を望む。 神域はこの日も初詣の人でかなり混雑。 巨大な注連縄が飾られている本殿。現在の祭神は以下の2柱で、寒川大明神と総称される。・寒川比古命 (さむかわひこのみこと)・寒川比女命 (さむかわひめのみこと)境内に配された「渾天儀」。方位盤は、四正(東、南、西、北)と四隅(北東=表鬼門、東南、南西=裏鬼門、西北)の方位とその周りには十干十二支が象られていた。この方位盤はわかりやすく正八角形になっていた。四正(東、南、西、北)には、それぞれの四神が、東には青竜(せいりゅう)、南には朱雀(すざく)、西には白虎(びゃっこ)、北には玄武(げんぶ)が施されていた。以下、説明板の一部分の写し。「渾天儀(こくてんぎ)は、本来天体の位置、星等を測定する器具ですが、特に星の運行は人々ばかりでなく、国家の命運をもにぎると考えられていたそうです。」神馬舎。神様の乗り物である馬を納める所。昭和天皇ご在位50年記念で建設。平野富山師作の猿に曳かれた神馬の彫刻が納められており、絵馬掛け所が脇に。 願掛け絵馬がギッシリと。 参道横の脇道を戻ると右手に人形奉斉殿が。大切にされてきた人形・ぬいぐるみ等を納めていただく所。 平和の塔 和光。永遠の平和を祈ります。寒川神社の末社の宮山神社は三之鳥居西側に鎮座。 紅梅も開花間近。 神池の噴水。 池の奥にある「石橋」という名前の像。石橋は「しゃっきょう」と読み、寒川神社で昭和45年から毎年8月15日に演じられている能のお題目とのこと。 神池には鯉がのんびりと。 寒川神社参集殿に立ち寄る。 「はじまりはここから」 内部には人力車が。結婚式で利用するものか? 社務所で御朱印をいただきました。 そして御札を頂いてきました。 お土産に八福餅を。寒川神社は「八方除」で有名。これと末広がりの八と招福の意味をこめて「八福餅」が生まれたとのこと。餅に漉し餡を包んだ餅がし(12個1080円)で片瀬龍口寺門前の「ご難ぼたもち」や伊勢の赤福に似た味なのであった。 相模線の駅に戻る途中の目久尻川の穏やかな流れ。 宮山駅から帰路へ。
2016.01.16
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菜の花を楽しみ、吾妻山山頂を後にする。山頂下の建物は、富士山も見ることができる長いローラーすべり台のスタート地点。中学生までは無料で滑ることができますが、高校生以上は1回100円が必要とのこと。お尻に敷くマットは貸してもらえるそうですが尻が火傷しそう・・・・・。 長さ102メートルと長さも十分、そして曲線の変化も十分。 脇道にそれ吾妻神社に立ち寄る。 この神社の創建年代等については不詳であるが、言い伝えでは日本武尊が東征の折り浦賀水道で暴風にあいそれをおさめるためその妃である弟橘姫命が入水し、その後弟橘姫命の櫛が流れ着き、それを祀ったのがこの神社とされるとのこと。なお、この神社は江戸時代の儒学者貝原益軒(1630年 - 1714年)の紀行文などにも記載されているのだと。 手水舎。 本堂に参拝。 境内の石灯籠。 石の鳥居の下には湘南の海が拡がっていた。 そして浅間神社にも立ち寄る。案内板によれば、『祭神は木花咲耶媛、二宮町上町地区の祭神で、土地の人には浅間さんと親しまれ、本社は富士浅間神社です。木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。』 と。下りの林の木の間から、遠く茅ヶ崎沖1.2kmの烏帽子岩、そしてその先に江の島が見えた。冬の石蕗。 山道の両脇の至る所でスイセンが開花し、甘い香りが。二宮から大磯に向かう東海道線も眼下に見えてきた。 更に朝、息急き切った階段を今度は余裕で下る。 二宮町役場入口のモチーフ。母親と戯れる子供の姿が。 マンホール蓋には町の木である椿の絵が。 二宮駅北口に戻る。 連絡橋の至る所に『菜の花ウォチング』のポスターが貼られていた。 先ほど、生で見た景色が。関東の「富士見百景」の一つようだ。東海道線・二宮駅ホームから、吾妻山を見る。 二宮町章がツツジの植栽で描かれていた。 「宮」を図案化したに図案化した「二」を配し、円型と翼型とにまとめ、融和団結と飛躍伸長を象徴しているのだと。5月には何色に変わるのであろうか?
2016.01.15
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今年も東海道線・二宮駅近くにある吾妻山公園へ菜の花見物に行ってきました。昨年までの通勤時の出発時間と同じ7:10過ぎに防寒対策の上、自宅を出発。小田急線、東海道線と乗り継いで二宮駅に到着。駅前北口の観光案内所と土産物屋の建物。観光案内所の横から入り、右手に役所がある坂を登っていくと、吾妻山公園の入口(役場口)が。そしてここから階段登りが始まります。300段の階段を一生懸命登りました。、途中にベンチもありここで休みながらがんばって登っている人々も。寒椿も満開状態。階段を登り終わり、坂道を登っていくと右手に浅間神社の鳥居が。 そして登ること約20分で頂上に到着。頂上には360度見渡すことができる展望台と芝生広場が拡がっています。 相模湾の「光る海」 そして見事な富士山の勇姿が目の前に。 今年は暖冬の為か雪の量が例年になく少ないのです。 そして目の前には朝の陽光に輝く菜の花畑が拡がっていました。 芝生広場の大木の隙間からの陽光。 菜の花畑、そして奥には海に沿って小田原の街、その奥に箱根連山が。 一面に拡がる菜の花畑。この場所は既に「春到来」の異空間。今年は暖冬の為か、開花が半月以上早いとのこと。一面黄色の絨毯。 富士山頂上を望遠で。 波打つ黄金の帯。 ポコっと出ている金時山(きんときやま・きんときさん)は、箱根山の北西部に位置する標高1,212mの山。 右手に白き大涌谷が見えた。そして右から神山、 駒ヶ岳。箱根の外輪山の双子山。 菜の花畑を撮影する私の影も。 菜の花畑の奥には相模湾沿いに拡がる国府津、鴨宮、小田原の街並みが。 手前には花も美しく、赤い実は紅葉後もしばらく残っている「マユミ」の木が黄色の中で赤を主張していました。 菜の花が陽光に輝いていました。しかし去年と異なり未だミツバチの姿は確認できませんでした。 うまく撮れました。遠く真鶴半島、伊豆半島の山並みもスッキリと。大島の全景もスッキリと。青く光る相模湾には釣り船の姿も。 吾妻山は標高136.2mの山。 望遠鏡の下には眼前に拡がる絶景の案内板が。 再び富士山、雲一つ無い絶景かな、絶景かな!! 菜の花畑をアップで。 撮影に夢中になって1時間半も滞在し、人も増えてきたので撤収。 しかしいつまでも立ち去りがたき絶景の空間。
2016.01.14
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退職に伴い、会社から自宅での社内メール用に支給されていた端末&モニターを返却しました。そして古いモニターを接続しようとも考えましたが、長年ワイドモニターを利用してきましたので、その良さを諦めることが出来ずにネットで23.8インチのワイド液晶ディスプレイを購入しました。 これが今回購入したワイドモニターです。 モニターの背面。 設置スペースの関係上、会社から貸与されていたものと同等の横幅の物を探してこれにしました。 背面の端子一覧です。外部機器からの2画面表示が可能であることもこのモニターに決めた理由の一つ。 早速接続して見ました。以前の物より僅かに画面も広く、明るさが気に入りました。 そして専用のリモコンも標準で添付しているので、ボタン一つで入力もラクラク切り替えが可能。やや手が赤いのはアルコールの為せる結果??(笑)早速、私のタブレット「XPERIA Z」 を接続し2画面表示(PIP)の試運転。右上隅にタブレットの画面が無事表示されました。小画面を大きくしてみました。 そして小画面の移動もリモコンにて簡単に。 親画面と小画面の親子切り替えもボタン一つで可能でした。 また一つ、私「アクティブ シニア」のオモチャが増えたのです。
2016.01.13
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9日(土曜日)の夜に日本テレビで放送された『世界一受けたい授業2HSP』を楽しみました。その中で武田鉄矢先生の『あの漢字・あの言葉には驚きの意味が!?本当は怖い!?日本語の由来』が非常に勉強になったので紹介します。まずは漢字の文字の由来について。この日は「怖い漢字、言葉」がテーマ。下記のイラストや写真はネットから転載させて頂きました。★『久』 この漢字『久』の由来はあるものを棒で支えている様子からと。 あるものとは何か? 正解は『横たわる死体』であると。 死んだ人を木で支えていることから『久』。 死んで『永久の人』になることから『久』の字の由来になったと。★『柩』 死んだ人(永久の人)を表す『久』を木箱に納めた形から『柩』★『棺』 中身が入っていないものを棺、遺体が収められたものを「柩」とする説があるのだと。 そして「官」、昔は腰を落ち着けて休むところの意味。すなわち途中この中で休んで あの世に行くのであると。★『道』 この『道』という漢字というのは恐ろしい漢字だというのがいろいろな本に書かれていると。 古代において、道には怨念が宿っていたとされ、その怨念をふり払うために、異民族の首を 切って歩き、それでもって悪霊を追い払うことができると信じられていたのだと。★『東』 日本では東という字は「木」に太陽が掛って日の出を表しているように見えることから、方位の東 を言うといわれている。 しかし甲骨文字と金文の東は本来古代人が常用していた袋を指している。 上古の時代は人は物を運ぶ時、まず地上に一枚の獣の皮を広げ、中に一本の木の棒を置き、 獣の皮の上に物を置き、獣の皮を木の棒に巻きつけるように括るり両端は皮の紐か藤のつるで 結える適当な大きさの袋になる。肩の上に担ぐのに都合がいい。外で野営する時、獣の皮は 床に敷くのに実用的である。甲骨文字の「東」はこの種の袋の描写である。 古代人は太陽が昇った時に起床し、すぐに体の下に敷いてあった皮をまいて、肩にかけ、 木の実を集めたり狩りに出かけたりした。この為「東」は太陽の昇ってくる方向を示す。 これは即ち東が一つの象形造字であるということである。★『赤』 「赤」の漢字は、中国で「大」とその下の「火」の漢字を組み合わせて作られ、 「大きく燃え上がる火の色」を表している。★『取』 右の「又」は、手を表す。 古代中国では、討ち取った敵の左耳を切りその戦功を数えたことから、取の字ができたと。★『最』 戦場で切り取った耳を袋に入れて集め持つ形。 上の『日』はもともとは『月(ぼう)』で頭巾のことであると。 切り取った耳の数が一番の物を『最』と行ったのだと。 最は『とる、あつめる』の意味と『第一、もっとも』の意味になったのだと。★『教』 教育」の「教」の漢字についてはむちを持って打つ「攵」と、ならう意味の「孝」から なっていると。 古代中国の学び舎では、言うことをきかない生徒には、先生から容赦なくむちが飛んだと。 スパルタ教育が行われていたことが、「教」の漢字からわかるのだと。 そして言葉の由来も。★『土壇場』 「土壇」は斬首の刑を行うための、土で築いた台のこと。つまり「土壇場」とは 死刑場そのものみたいなもので、そこに上がればもう死ぬしかないことから、 最終的に追い詰められた状態のたとえに使用するようになったと。 ★『濡れ衣』 奈良時代にあった博多の話。 夫と妻と娘の三人家族、妻を亡くした夫が後妻を迎えた。後妻は元妻との娘(春姫)の美しさと、 それを可愛がる夫の姿に、嫉妬した。継母は元妻との娘を「浅ましい娘」dらると父親に思わせるため、 漁師の濡れた衣を春姫の寝入ったところに被せ、 漁師がこれをを盗まれたという噂を流した。 継母からこれを聞いた父親が、 娘の寝床でこの濡れた釣り布を見て、春姫が盗んだものと 思わせられて、春姫は 「無実の罪」で父親にその場で斬って殺されたという説があるのだと。 博多にはこの説に基づき、 「濡衣塚(ぬれぎぬづか)」という石碑があるとのこと。 春姫を殺めた父親の夢の中に、この春姫が現れ、 無実の歌を詠んだ言葉より、無実の罪と知り、 供養の堂を七つ建て、 罪を償うために出家したとされていると。あっと!!、私が大好きな文字を忘れていましたので最後に。★『仁』 形声文字です(人+二)。「横から見た人」の象形と「2本の横線」から。「2本の横線」の「二」は人と人との間に通う「親しみ」、「いつくしみ」、「おもいやり」を意味するのです。文字通り「人(ひと)」と「二(ふたり)」で、二人が対等に相親しむことを表しているのです。私たち日本人の生活になくてはならない漢字。毎日使っていながら、どうしてその形・意味になったのかは、なかなか理解していない。複雑で難しそうに見える世界には、一体何が隠されているか益々興味が増すのであった。
2016.01.12
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昨日は、早朝から我が家の近くの公園で行われる「どんど焼き」に参加してきました。「どんど焼き」とは小正月(こしょうがつ=1月15日)の行事で、正月の松飾り・注連縄(しめなわ)書き初めなどを家々から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やすという、日本全国に伝わる正月の火祭り行事。神事から始まったのですが、現在では宗教的意味あいは少なくなっています。8時前に、我が家の注連縄や正月飾りを持って到着しましたが既に準備は完了していました。農家の方々が、竹や小枝、藁、杉の葉などで作った山を作ってくれていました。 このどんど焼きは地元老人会の開催。受付で、少額の寄付金を納め、我が家の牛蒡注連縄や正月飾りを山の上に納めました。 幹事の方が、御炊き上げ前に山の周囲に御神酒を奉納。 そしていよいよ着火。この日は幸い風もなく「どんど焼き」 にふさわしい朝となりました。農家の家の神棚に飾られていた巨大な注連縄も。 前日に妻がどんど焼き用の団子を準備してくれていました。我が地域では、三つ叉の枝の先端に三色の団子を挿して焼くのです。 火柱も最高潮に達しました。そしてしばらく待つと火力も治まり、いよいよ団子焼きの開始です。 どんど焼きは、年神様をお迎えするための門松やしめ縄などを、神社の境内や広場に作った山の上に積み上げて火を燃やすのです。その時 もくもくと立ち上る煙に乗って、年神様は天に戻って行くのだと。1年間の無病息災、家内安全、五穀豊穣、商売繁盛・・・を祈願します。この時、「どんど焼き」の火にあたり、「どんど焼き」で焼いた団子や餅を食べるとこの1年無病息災で暮らせるのです。私が子供の頃は、燃やした書初の紙が高く舞い上がると習字が上手になり勉強もできるようになるなどともいわれていましたが最近では書き初めの風習も無くなってしまったようです。今年は老人会の方々が、子供用にと小さな団子と小枝を準備してくれ団子焼きを子供達に体験させて下さいました。我が家の団子も多少焦げましたが、焼き上がりました。 妻と孫も遅れて団子焼きに参加しました。孫も初体験の団子焼きに挑戦しました。 焼き上がった団子を孫も美味しいと行って小さな手で団子を摘み食べてくれました。そしてお土産にとバナナとミカンの入った袋を頂きました。そして孫にもお菓子セットを。火災の恐れやダイオキシンの問題で、都市部ではどんど焼きも廃れている傾向がうかがわれますが、その一方で地域の伝統行事を見直そうという住民の機運が各地で盛り上がり、復活する例も見られるとのニュース報道も。いつまでも、子供達に残し伝えていきたい田舎の伝統行事なのです。
2016.01.11
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我が家の太陽光発電(京セラ 5.76kwh)です。2008年の建設当初から順調に稼働しています。 そして昨年2015年12月の発電実績です。発電量は458kwhとなりました。 そして2015年度の稼働実績です。発電積算量は6845kwhとなりました。自給率は62%。月別の発電量、使用電力量、買電電力量、売電電力量、売電金額を表に纏めて見ました。2015年度の発電量の2/3、68%を売電しているという結果になりました。そして2015年度の売電金額総額は219,216円となりました。年度別発電量の推移です。昨年は例年に比べ秋以降の晴天が少なかった為か、7000kwh越えとはならず、過去最低の年間発電量という結果となりました。
2016.01.10
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク『歩いて見よう藤沢宿』の見学・撮影を終え、藤沢橋まで戻る。この場所の歴史ある橋は実は現遊行寺橋(旧大鋸橋)であり、立派な造りのこの藤沢橋は昭和に入って架けられたものであるということを知らない人も多い。ここは様々な時代で「藤沢宿の玄関」となった場所。鎌倉時代には鎌倉に向かう入り口、そして遊行寺の入口でもあり、江戸時代には宿場町の入口として見附が置かれた場所、更に江の島へと向かうスタート地点等ハブ交差点。石灯籠には下を流れる『境川』と刻まれた文字板が。 遊行寺東門まで足を延ばし境内へ。遊行寺境内案内図。一般的にはお寺にない建物が。神仏分離の為に諏訪神社と遊行寺が分かれてしまっが、昔は仲良くしていたので、今でも遊行寺境内に諏訪神社の神輿社が残っているのだと。 中には遊行寺の神輿が2基そして諏訪神社と書かれた掛け軸が。 本堂前の手水舎では、明治100年を記念して造られたという龍の口から水が流れ初詣の人々がお清めを。本堂の初詣客はだいぶ少なくなっていた。遊行寺は時宗の総本山。正式名称は、「藤澤山無量光院清浄光寺」。「遊行上人のおわす寺」ということから「遊行寺」の名で親しまれて来た。本堂は、関東大震災で崩壊した後、1937年(昭和12年)に落成した東海道随一といわれる木造建築物。 一遍上人像。 時宗総本山遊行寺こと藤沢の清浄光寺にある宗祖一遍上人。1239(延応元)年に河野通広の子として生まれた一遍上人は1289(正応2)年に兵庫観音堂で無くなるまで、念仏を唱えれば仏になれるという教えを踊念仏の形で庶民に伝えた人物。 鐘楼。藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものであり、鋳造は、銘文によると延文元年(1358年)。 遊行寺で最古の中雀門が約5年前に改修されており、特に菊の御紋や葵の御紋もみられ、フクロウなどの鳥の彫物が素晴らしい。遊行寺宝物館。 特別展「遊行寺の至宝」・後醍醐天皇像特別公開中!のポスター。明治天皇御膳水。明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸とのこと。 大銀杏。高さ16m、幹周り6.84mと鶴岡八幡宮の大銀杏と並ぶ巨木であったが鎌倉の大銀杏は・・・・・。境内には多くの食べ物の出店が立ち並び賑わっていた。 本堂を後にし惣門への石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれている。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々に憩いを与えているのだ。地元ではいろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれている。 途中、真徳寺の赤門が左手に。遊行寺の塔頭、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であると。惣門手前の右手に板割浅太郎の墓が。説明板によると『板割浅太郎は、国定忠治の子分であった。ところが、忠次が浅太郎の叔父の中島勘助を裏切り者と疑ったとき、忠次は浅太郎の忠誠心を試すために、浅太郎に勘助の殺害を命じた。やむなく勘助を殺害した浅太郎だったが、そのときに4歳になる勘助の子勘太郎も殺害してしまった。これを悔やむ浅太郎は、遊行上人の手引きにより、遊行寺で出家し、やがて遊行寺の塔頭の1つ貞松院の住職となった。貞松院は今はなく、浅太郎の墓は現在ここ遊行寺内の真徳院の墓地にある。』 と。惣門を再び。日本三大黒門と称する冠木門、通称黒門。遊行寺以外の黒門はどこに?見事な巨大な青銅製灯籠。高さ約2メートル80センチの灯籠で、惣門前に対になって建立されている。 惣門を出て進むと左手に『ふじさわ宿交流館』 が建設中。完成すると、内部には郷土資料展示室を設け東海道五十三次を行き交う人々を描いた絵図や、藤沢宿の名物、旅の道具などを展示し、江戸時代の藤沢宿と東海道五十三次を中心に郷土の歴史を紹介するのだと。浮世絵に描かれている現遊行寺橋から藤沢橋を望む。 自宅に向かう為のバスを待つ。バス停の前には黒い重厚な造りの桔梗屋洋紙店の土蔵が。 自宅への帰路の途中、バスの中から白旗神社を。文治5年(1189年)、閏4月30日に奥州平泉の衣川館で自害した義経の首級が鎌倉へ送られ、6月13日腰越で首実検が行われた後、この神社の付近に義経と弁慶の首級が葬られたという伝承と共に伝源義経首洗井戸や弁慶塚が残され、宝治3年(1249年)に源義経をこの白旗神社に合祀したのだと。 「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」を待つ多くの初詣客が神社前の道路の歩道まで長蛇の列を。そして帰宅し、再び箱根駅伝の復路の激走をテレビ観戦したのであった。
2016.01.09
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク12番『藤澤 五十三次 神谷伊右衛門お岩霊』藤沢宿の立場「四ッ谷」に歌舞伎の外題『東海道四谷怪談』をかけて役者による見立にした作品。左の神谷伊右衛門役に二代中村翫雀(がんじゃく)、右のお岩(霊)役に嵐璃珪(りかく)という二人の大坂の歌舞伎役者が描かれている。上部に描かれた絵は大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居の組み合わせという藤沢宿の風景。 13番『東海道 藤澤(上洛東海道)』文久3年(1863)の十四代将軍家茂の上洛を意識して出版された東海道シリーズで「上洛東海道」と言われているもの。この画は馬方が飾りを付けた馬の足の具合を見ているところ。行列はすでに宿場を抜けようとしていて、馬がそちらを見据えている様子が印象的。背後にある緑の三角は、大山。大山は、丹沢表尾根の東端にあり、富士山のような三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた山(大山信仰)。14番『東海道五十三図会 藤沢(美人東海道)』このシリーズは前面に美人姿を大きく描いているので一般に美人東海道と呼ばれてる。右端に「相州 江の嶋詣」とあるのでこの女性が江の島帰りであることがわかる。女性の脇の駕籠の上に乗っている品物は、江の島名物「アワビの粕漬け」。背景(上段)は藤沢宿の景観。 15番『東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)』このシリーズは図柄の中に狂歌が1首ずつ折り込まれているために俗に「狂歌入東海道」と呼ばれている。保永堂版と反対に遊行寺の側から大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠で大山詣を象徴。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺える。 16番『東海道中栗毛彌次馬 藤澤』このシリーズは大ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛』を摸して作られている。芳幾が弥次さんと北さんの二人が各宿でくりひろげる道中模様をユーモラスに描き、魯文が各宿のテーマとなる文章、狂歌一句と二人の会話をおもしろおかしく記している。(二人が狐拳(きつねけん)に興じているところ。) 17番『武英名馬競 小栗小次郎助重』このシリーズは「武者絵」シリーズと呼ばれ、国芳が武英名馬競(武将とゆかりの名馬の組み合わせ)を描いたもの。この絵は、藤沢ゆかりの小栗小次郎助重と、小栗判官物語に登場する鬼鹿毛(おにあしげ)が描かれている。18番『東海道五十三対 藤澤』このシリーズは、初代広重、三代豊国、国芳の3人の当時代表的人気浮世絵師が分担して描いたもの。この絵は国芳の手による小栗判官照手姫で、いったん地獄へ堕ちた小栗が熊野で本復した様子を描いている。岩を持ち上げているのが小栗で、しゃがんで驚いた様子をしている女性が照手姫。小栗の後方の滝は那智の滝。 19番『東海道五十三次内 藤澤 ひらつかへ二り余』このシリーズは芳員が各宿場にまつわる伝説や逸話を面白おかしく紹介。藤沢の場面では、侍と馬が囲碁を打っているもので、藤沢ゆかりの『小栗判官照天姫伝説』に登場する「鬼鹿毛乗馬の段」を暗示しており、侍が小栗判官、馬が鬼鹿毛、横で見ている女性が照天姫。鬼鹿毛が轡(くつわ)の印の浴衣を着ているのもご愛敬。 20番『双筆五十三次 藤澤』このシリーズは、広重と豊国との双筆(合作、描き分け)で描かれている。人物は『小栗判官伝説』の主人公の一人の照天姫で、地獄からよみがえって土車(つちぐるま)で熊野まで送られた夫の小栗を、車の綱を引いて運んだという当時有名な話を絵の題材にしている。特に解説をしないでも、街道で車を引く女性というだけで照天姫だと分かったもの。21番『東海道五十三次之内 藤澤 小栗判官(役者見立東海道)』このシリーズは「役者見立東海道」と呼ばれ、各宿ゆかりの歌舞伎役者を大きく描き背景にその地方の風景を添えた絵で、こうした趣向を見立(みたて)という。この画は藤沢宿ゆかりの物語「小栗判官照天姫伝説」を描いており、扮する役者は坂東竹三郎(のち、五代坂東彦三郎)、背景は初代広重の保永堂版東海道の構図を使っている。 22番『雪月花 相模 横山の花 照手姫 小栗判官』このシリーズは「雪月花」シリーズと呼ばれ、周延が各地(国)の歴史や伝説上の人物を花に見立て描いている。この絵は、相模の国「横山の花」照手姫を花に見立てて描いたもの。小栗判官物語では、照手姫は武蔵・相模郡代である横山氏のひとり娘と言うことになっている。 江ノ島道の道標。 遊行通りを藤沢駅北口に向かう道には浮世絵ではなく子供?が描いた遊行寺が。藤沢市の市章はフジを図案化したもの。そして市の花、藤の花、市の鳥カワセミが描かれていた。遊行寺本殿そして屋根の上に描かれた時宗の宗紋は、「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)。遊行寺の大イチョウ(藤沢市指定天然記念物)の葉が舞っていた。残念ながらこの桜咲く寺の絵には悪戯書きが。
2016.01.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク「歩いて見よう 藤沢宿」と書かれた、藤沢宿にちなんだ浮世絵箱が遊行通り四丁目商店街より国道467に合流した地点より藤沢橋まで両側の歩道際に22ヶが並んでいる。今まで気になっていたのでしたが、今回、2日間に渡った箱根駅伝観戦の後、徒歩にて見物そして撮影してきました。遊行通り4丁目から藤沢橋にかけてトランスボックスに藤沢宿にちなんだ浮世絵がラッピングしてあるのです。トランスボックスは、街路より電柱をなくし景観を良くするために、地中ケーブル工事にともなう、電力会社の配電箱なのです。デコボコの表面に浮世絵をラッピングしたことにより落書き等がなくなったと。1番 それぞれの下記説明は『http://ecom-plat.jp/fujisawa-chiku/group.php?gid=10070』より抜粋しました。浮世絵箱の下側に書いてある説明文には「十四代将軍家茂の上洛にちなむ東海道シリーズで『上洛東海道』と言われているものの一つ。鳥瞰的な構図で遊行寺坂上から大鋸橋(現、遊行寺橋)まで続く行列の長さが強調されている絵。手前の鳥居は江の島一ノ鳥居です。遊行寺の山門は現在と異なり仁王門となっている。作者: 橋本貞秀 制作時期:文久3年(1863)2番安藤広重作 『東海道五拾三次之内 藤澤』。藤澤は、時宗の総本山である 遊行寺の門前町として生まれ、東海道の宿駅となり発展。藤澤橋の手前の鳥居は、ここから5キロほど先の江ノ島弁財天の入り口を示している。 3番『藤澤』女性の艶姿を前景に大きく描いた「美人東海道」シリーズの一つで、背景には江ノ島一ノ鳥居付近の様子が描かれ、旅姿の女性像の右側には、宮戸連(俳句の結社)其生の「此しゆく(宿)に ゆかりの色や杜若(かきつばた)」という句が添えられている。4番『東海道五拾三次之内 藤澤図』「五拾三次景色入女画」シリーズの一つで、バックの風景画は広重の保永堂版東海道に非常によく似ている。保永堂版に描かれた時間を少し進めたような感じ。後ろの小山は遊行寺で、大鋸橋(現遊行寺橋)付近を表している。5番『東海道 藤澤』十四代将軍家茂の上洛を意識して出版された「上洛東海道」と同じく、宿場の風景に行列を描き込んだシリーズ。朝霧のなか、大鋸橋(現遊行寺橋)を行列が通り過ぎていくところをシルエットで描いたもので、左手前の鳥居は江の島一ノ鳥居。上方の屋根は遊行寺。6番『東海道一ト眼千両 藤沢 弁天小僧菊之助』人気歌舞伎役者をゆかりの宿場を背景に描いたシリーズ。「一眼(目)千両(ひとめせんりょう)」とは、一目見ただけで千両という大金を払う価値があるというたとえ。白波五人男の一人、女装した弁天小僧菊之助に扮する四代市村家橘(いちむらかきつ。のちの五代尾上菊五郎)が「知らざあ言って聞かせやしょう」と見栄を切るところ。7番『東海道名所 藤澤 遊行寺』遊行寺山門の雪景色で、現在よりも急な参道の突き当たりには重厚な仁王門が描かれ狂歌が添えられている。この門は江戸時代に遊行寺が発行している境内絵図にも同様に描かれている。8番『東海道五十三次之内 藤澤(行書東海道)』このシリーズは表題の書体から俗に行書東海道と呼ばれる。画面右に江の島一ノ鳥居、辯才天と書かれた扁額が掲げられている。左の茶色の橋は大鋸橋(現遊行寺橋)。橋の上には御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)を担いでいる大山詣の帰りの一行が描かれている。9番『東海名所 改正道中記 藤澤 江のしまみちの鳥居』三代広重描くこのシリーズは、明治前期の東海道各宿駅の風景が華やかな色彩で描かれている。大鋸橋(現遊行寺橋)には馬に乗った外国人が描かれ、明治時代を象徴。横浜居留地から十里四方以内は外国人の通行が認められていた。10番『書画五拾三駅 相模藤澤 山帰定憩』このシリーズは上部に文人墨客の文章と絵、下部には各宿駅ゆかりの故事、伝承や風景が描かれている。表題の「山帰」の山とは大山(雨降山)のことで、女性のうしろの縁台には、大山詣をあらわす御神酒枠(おみきわく。大山から水や酒を持ち帰る容器)が置かれている。また、右端の「電信柱」が、明治の街道を象徴している。11番『東海道 五十三次 藤澤(隷書東海道)』このシリーズは表題の書体から俗に隷書東海道と呼ばれ、保永堂版、行書版と共に三大傑作シリーズの一つ。藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、にぎわいが感じられる。 ・・・つづく・・・
2016.01.07
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我が家の近くを散歩していると、庭の片隅の蝋梅が黄色の花を開かせ独特の香りを放っていました。中国の唐の国から来たこともあり唐梅(カラウメ)とも呼ばれ、中国名も蝋梅であったことにちなむ。半透明でにぶいツヤのある花びらがまるで蝋細工のようであり、花の色が蜜蝋(みつろう)に似ているからとか、また且つ臘月(ろうげつ、旧暦12月)に咲くからこの名がついたとのこと。種類としては花びら全体が黄色いことからソシンロウバイ(素心蝋梅)。花の少ないこの時期に咲き、辺り一面に水仙に似た芳香を漂わせるので庭木として人気の高い落葉低木なのです。露出を変更して撮影してみました。天気が良くて黄色い花と青空とのコントラストがきれいに撮れました。新年になって最初に咲く植物ではないでしょうか?花が本当に蝋細工のような光沢と透明感を持っているのです。しかしこのお宅はいつの間にか主なき家になっている様子。花は気のせいか、うつむき加減に咲いていました。花言葉は“ゆかしさ”“慈しみ”とのこと。 主なき庭の蝋梅匂い立ち・・・・・詠み人知らず
2016.01.06
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今年も我が家の近くの旧道沿いの材木屋さんが干支絵の年賀を設置しています。昔はあちこちに材木屋さんがあって、こういうふうに材木を並べてそこに年賀を描いていたのですが最近では非常に珍しくなりました。超特大表示で非常に迫力があり清々しく感じられます。そしてこの前で信号待/通過する自動車のドライバーが道路脇に車を停めて下車し撮影する姿も。垂木(だるき/たるき)を並べて描いたもので,地元住民そして通行人への大きな年賀状となっているのです。今年2016年は申年(さるどし)です。青い文字で2016、猿の親子?が2匹、そして赤のひらがな文字で「さる」と描かれています。この垂木は今後どの様に使われるのでしょうか。描かれたペイントは除去するのでしょうか?カンナで削る?それともそのまま使い、最後に再塗装するので問題ないのでしょうか?
2016.01.05
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昨日も箱根駅伝(第92回東京箱根間往復大学駅伝競走)復路の観戦に行ってきました。 時宗総本山の寺院、遊行寺の山門を潜る。正式には藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称され、明治時代より法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の遊行寺の方が知られている。本堂の前には未だ初詣の参拝客は少なかった。 この日は、箱根駅伝を生中継する日テレの遊行寺固定カメラの手前30m程の場所に陣取る。この場所は8区 遊行寺坂 15.6 km地点 復路:57.7 km地点 総合:165.2 km地点。 今年も通過を待っている間に、対向車線をゆっくりとクラシックカーの行列が通過する。待つこと30分以上、漸くテレビ中継車が。 上空にはヘリコプターが。 ぶっちぎりのTOPは青学大 下田 裕太選手 それを追うのは東洋大 山本 修二選手。 3位は駒澤大 馬場 翔大選手。 中央学院大 細谷 恭平選手。日体大 吉田 亮壱選手を追う早稲田大 柳 利幸選手。 明治大 吉田 楓選手。順天堂大 甲斐 智樹選手。 山梨学院大 谷原 先嘉と学生連合(東工大) 松井 将器。周囲から「マサキ、マサキ」の声が。中央大 苗村 隆広選手。 東海大 林 竜之介選手。 大東文化大 立花 克広選手。 日本大学 岡野 佑輝選手。シード権獲得のために疾走中。 帝京大 山崎 渉選手。ラジオ放送車が続く。 バイク中継車も続く。 神奈川大 渡辺 慎也選手。 城西大 松村 陣之助選手。隣から「ジンノスケ ジンノスケ」 と悲鳴の如き女性の声援の声が。そして自然と周囲からも「ジンノスケ」の合唱となったのであった。東京国際大 鈴木 大貴選手。 拓大 白石 海斗選手と法大 土井 大輔選手を追う上武大 上田 隼平選手。 そして全選手通過後、のぼり旗を片づける応援関係者。 多くの人々が観戦後は遊行寺への初詣に。 8区の成績まとめ。 青山学院大は最終10区も区間トップで2日間の合計タイムを10時間53分25秒とし、2位に7分11秒の大差をつける圧勝で2年連続の総合優勝を。青山学院大は復路も5時間27分30秒で2連覇を果たし、往路の1区から1度もトップを譲らなかったのは、1977年の日体大以来、39年ぶりの快挙。総合順位の2位は東洋大、3位は駒沢大そして我が母校は4位をなんとか確保。 第92回箱根駅伝が例年通り開催され、そして今年も2日間のハシゴ応援。箱根の噴火騒ぎで一時は取り止めの噂も流れましたが、無事に行われて良かったと感じているのです。そして帰宅し録画していたビデオを見て、遊行寺坂で応援している私の姿をテレビ画像で発見し、満足した「アクティブ シニア」なのです。そして来年も元気にノーギャラで、この超人気番組に「出演」したいと考えているのです。
2016.01.04
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昨日は正月の年中行事の箱根駅伝(第92回東京箱根間往復大学駅伝競走)往路の観戦に行ってきました。自宅からバスを利用し、遊行寺前で下車し藤沢橋交差点へ。通過40分ほど前であるが、既に多くの観戦客が。 往路は毎年我が母校の応援場所へ。 暫く待つと箱根駅伝の広報車が通過。 テレビ中継1号車が通過。そして先頭を走る青学大 秋山雄飛選手。 ラジオ放送車が続く。 2位は東洋大 服部 弾馬選手。 3位は山梨学大 上田 健太選手。 山梨学大の伴走車には父親の上田監督が叱咤激励中。テレビ中継2号車。 明治大 坂口 裕之選手。 追いかける駒澤大 中谷 圭佑選手。 駒大の大八木監督が続く。中央学院大 塩谷 桂大選手。 後ろには帝京大 畔上 和弥選手が猛追。 順天堂大 松枝 博輝選手。 関東学生連合(国士舘大学) 武藤 健太選手。 拓殖大学 宇田 朋史選手。 城西大 高橋 一生選手。 日体大 小松 巧弥選手と日大 木津 晶夫選手のつばぜり合い。 我が早稲田大学 武田 凛太郎選手と 中央大 市田 拓海選手のデッドヒート。 東海大 広田 雄希選手。 神奈川大 山藤 篤司選手とその後ろに 東国大 照井 明人選手。 大東大 下尾 一真選手。 上武大 山岸 塁選手。 最後は法政大 中村 涼選手。 最後尾に緊急対応車が続く。 そして白バイの後方にはバイクの集団が。 観戦後には母校の集合場所にて選手の健闘を祈って校歌のフルコーラスを歌う。 現役生も元気に参加。 母校の後輩でもある我が市長も挨拶。 3区完了時の通過順位は下記の如し。我が母校は11位と苦戦中。そして帰宅後はテレビ観戦。そして往路の最終結果。青山学院大学は一度も首位を譲らずの往路完全優勝。そして我が母校はその後追い上げ首位と8:22差の5位であった。「紅白歌合戦以外に、年末年始期間において日本人がもっとも注目する行事」として毎年1月2-3日に行われる「東京箱根間往復大学駅伝競走」。現在では毎年100万人が沿道で観戦し、1987年に始まった生中継の平均視聴率も「30%を超える」としたうえで、「日本人が新年の家族団らんの時期に、有名でもない大学生たちの駅伝を見たがるというのは、いささか不可解ではないか」との外国人の声もあるとのこと。その「答え」として、箱根駅伝にはテレビドラマとは異なるドラマ性が存在するのだ。各区間約20キロメートルあり、海沿いや山道など試練に満ちたコースのなかで、優勝を狙う強豪校と、遅れをとっても寒いなかで必死に頑張る弱小校それぞれの選手の人間模様を垣間見ることができることができる。長時間にわたる中継を通じて視聴者は選手たちに感情移入していき「もはや選手たちを見ず知らずの人とは思えなくなっていく」のであると。そんなワケで明日も復路観戦に行こうと。
2016.01.03
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初日の出を迎えた東浜海岸から江ノ島大橋へ徒歩にて移動。すると雲一つ無い快晴の青空を背景に、初日を浴びた富士山の勇姿が。 江ノ島大橋は初日の出の見学を終え島を出る車で大渋滞。 太陽もかなり上部まで上がってきた。右にはヨットハーバーの南端の灯台が。 江島神社入り口。江島神社と書かれた のぼり旗がはためいていた。「江島神社」へ向かう。まずは、神社へつながる参道入り口には歴史を感じさせる青銅製の一の鳥居が。扁額には何と書いてあるのだろうか? 「江島大明神」 ?文字をよく見ると蛇の形?で書かれていた。江島神社は弁財天でもあるので、蛇との関わりは強いものが。しかし参道は大渋滞中。江島神社への入り口となる赤の鳥居そしてこれまた竜宮城を模した瑞心門が見えて来たのであったがその内に一歩も前に進まなくなってしまった。瑞心門手前の階段付近で入場規制が行われている模様。瑞心門には「招福開運・厄除」の横幕が見えたのであったが・・・・・・。今回は参拝を諦めてUターンを決断。 帰路の江ノ島弁天橋からの富士山の勇姿を再び。今年の暖冬を示すが如く山頂の雪は少なかった。それにしても、大晦日のNHKで生放送されていた年越し番組「ゆく年くる年」には雪の光景は皆無なのであった。 相模湾の穏やかな水面が拡がっていた。 富士山の左には、尖った金時山、明神ヶ岳、明星ヶ岳、箱根山、箱根駒ヶ岳、上二子山、鹿鳴山と続く。『名勝乃史跡江ノ島』と刻まれた石碑。ここの文字は江の島ではなく江ノ島。津波情報掲示板と富士山。 江の島岩屋洞窟乗り場からの富士山の姿。 片瀬漁港と富士山。 弁天橋の巨大な龍の石灯籠。 江島神社は海や漁を司る神様なので龍がシンボル。地下道にあった江ノ島浮世絵。広重「本朝名所相州江ノ嶋岩屋之図」 『諸國名所百景相州七里ケ濱』 『相州江の嶋詣』当時とあまり変わらないが、弁天橋はもちろん無し。それでも砂州を歩いて渡れた事が解るのであった。『葛飾北斎 富嶽三十六景 相州江の島』弁天橋からの境川。 朝の陽光に輝く小田急線片瀬江ノ島駅舎の竜宮城の金の甍。 駅ホームから蔦の紅葉。 そして地元に戻り地元の神社への初詣。 亀井神社本殿。 神社の右手の階段には「身代わり不動尊」の赤い旗が沢山並んでいた。 そして地元のもう一つの神社『地神社』 へも参拝。亀井神社で購入した破魔矢。 そして帰宅してみると、既に年賀状が届いていたのであった。そして我がブログは元旦の朝にアクセス回数666,666回を越えたのであった今年も、『つれづれなるまゝに、日ぐらしパソコンに向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ』の精神でブログ(備忘録)をアップして行きたいと考えているのです。
2016.01.02
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明けましておめでとうございます。今年も、片瀬海岸・東浜に初日の出詣でに行ってきました。6時前に自転車で自宅を出て小田急線で。初詣の家族が駅に集まって来ていました。6:30前に片瀬江ノ島駅に到着。車内から多くの初詣客が溢れ出てきました。竜宮城の如き赤い小田急線・片瀬江ノ島駅。海岸に向かって歩くと右手に江の島が見えて来た。 片瀬江ノ島の弁天橋。雲の形という作品。 空には下弦の月が。 片瀬東浜には既に初日の出を待つ多くの人々が。 江の島ヨットハーバーの南端、灯台の立つ突堤にも多くの人々が。東の三浦半島の山の端は既に赤く染まっていた。 水面にはスタンドアップパドル・サーフィンで日の出を待つ人々も。遠くに江の島の江島神社が。 江島神社は日本三大弁財天(弁才天)の1つ。刻々と人が増えていく東浜海岸。 ウィンドサーファーの姿も。 江の島の灯台に上り初日の出を待つ人の姿も。 そして三浦半島の山の端からの2016年の初日の出の陽光が僅かに。時間は6:55。そして初日の出の瞬間。赤い太陽が時々刻々と大きく姿を現してきた。日の出と共に刻々と海面も真っ赤に染まってきた。 周囲から感動の声と拍手が沸き起こったのであった。周囲も明るくなり。 そしてまん丸の太陽が姿を現す。 そして今年は赤く染まった砂浜で一人で記念撮影。ところで『えのしま』は、「江ノ島」と「江の島」どっちが正解?住居表示は「江の島」なので、公的に使う地名は「江の島」。よって島は「江の島」が正解。しかし小田急線は「片瀬江ノ島駅」、江ノ島電鉄、通称・江ノ電では「江ノ島駅」湘南モノレールは「湘南江の島駅」となかなか難しいのである。
2016.01.01
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