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2014年は目黒川沿いを青一色に染め、イタリアの青の洞窟を彷彿させる幻想的な空間を作り出したのは、まだ記憶に新しいく、私も現役時代に仕事を終え訪ねたのでした。混雑がものすごくて中止にならざるを得ず、2015年には開催されませんでした。2016年には警備体制なども強化され、再開。目黒川沿いの約110本の桜の木に付けられた、約30万球の暖かみのあるオレンジゴールドのLEDライトで目黒川は幻想的な空間へと包まれているのです。「NAKAMEGURO JEWEL DOME 2017」と称して12月15日(金)から12月24日(日)(日没~21:00)の間、中目黒駅付近から目黒川沿い往復約1km(宝来橋~朝日橋)までがオレンジゴールドの世界を作り出していたのです。2014年の青の洞窟から変わって2016年は「黄金のドーム」、オレンジゴールドの光が目黒川を彩っていました。オレンジゴールドの中に僅かなブルーが。デジカメの設定(ISO感度、ホワイトバランス、シャッタースピード等々)いろいろとTRY&ERRORで試してみました。 これから先、この光景の美しさに説明は不要です。 水面に映った姿と合わせて、まさにジュエルドーム。
2018.01.31
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百段階団の「神の手●ニッポン展3」を大いに楽しみ、エレベーターで再びロビーに降り目黒雅叙園の内部を最後に散策。配置案内図。クリスマスツリーを再び。ショーウィンドウも見事に美しく飾られていた。回廊の両脇には小さな川、池が。そしてライトアップされた装飾が池の中に。冬を感じさせる光景。「渡来楽人その3」の石像。「その1」も「その2」も見つけたが見当たらなかったが・・・・。回廊に戻って歩いていくと、大きな空間に特大の門が見えて来た。これは「招きの大門」で、旧雅叙園の玄関を移築したものと。大きな壷と小さな神輿。大島神社の神輿伊万里焼「色絵牡丹唐草割龍鳳凰図飾壷」更に回廊を奥に向かって歩を進める。重厚感のある回廊をすすんでいくと、広々としたアトリウムが迎えてくれた。このラウンジは「パンドラ」と呼ばれ、ホテル自慢の美しい庭やとめどなく流れる滝を眺めることができるのであった。美しい浮世絵のある回廊がこちらにも続いていた。階段は上階の結婚式場や宴会場へのアプローチ。以前友人の結婚式に招かれて、階段上ロビーで仲間と歓談したことを思い出したのです。見事な紅葉。外に出て石橋を歩き紅葉、そして滝を楽しむ。こちらにも見事な錦鯉が。トイレを利用。 何と入り口には朱塗りの橋が架かっていた。何故トイレに橋が?と。トイレ内には小川のように水が流れており、まるで小さな日本庭園の如し。天井には日本画がビッシリ飾られていて、いわゆるトイレらしい雰囲気は微塵もなし。まさに豪華絢爛そのもの。ここまでやるか!!上部に飾られた金色の日本画がまぶしい。あまりに上品で、高貴な入口に目的を忘れてしまいそう。入って大丈夫なのだろうか、と心配になるレベル。恐る恐る中に入って見たところ、さらに驚きの光景が広がっていた。 天井画も見事。そしてここにも浮世絵画が。そしてこの後、目黒川のイルミネーション観賞に目黒川沿いを中目黒に向かったのであった。 ・・・END・・・
2018.01.30
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百段階団の最後の99段目まで辿り着き「頂上の間」へ。 「頂上の間」はペットボトルアーティスト 本間 ますみ氏の作品展示。 生活の中で使用済みの空のペットボトルをリサイクル。全ての作品に接着剤や塗料を一切使用せず、人の手のみで新たな価値が与えられ、よみがえる資源、それが「ペットボトル ソフィストケイティド アート」の特徴とのこと。1992年に女子美術大学絵画科卒業、同研究科2年を終了した後、本間は動物園や水族館の設計・施工を行う会社に勤めながら、動植物の知見を深めてきたと。2006年からペットボトルソフィストケイティドアートの制作を開始。生物学見地に基づいた実物大のリアルな作品は、沼津港深海水族館、池袋サンシャイン水族館、滋賀県立琵琶湖博物館、大分県日田市立博物館等に常設展示されていると。月下美人の花びらが次から次と様々な色にライトアップされていた。「翡翠(カワセミ)」 。渓流でイワナの稚魚を捕らえたカワセミ(中央下)。それに驚いて飛び出したトンボ(中央右)、そのトンボを逃してしまったアマガエル(中央の葉の上)初夏のある日。生き物たちの生と死の一瞬を描いている。 「孔雀」。1.5Lペットボトルを600本使用し作られた孔雀。羽を広げた姿は 2m70cmにもおよぶ。美しい羽の曲線美。純白な胴体。「朱鷺(とき)」。1羽につき550枚の羽を重ね、3羽で計600本の1.5リットル大ペットボトルを使用しており1m20cmの実物大の大きさに匹敵する圧巻の作品。「サガリバナとアカショウビン。」「頂上の間」は文字通り、99段の頂上にある部屋。 「頂上の間」の天井画は松岡映丘門下の作品。前室、本間ともに格天井で、本間の床柱は黒柿の銘木を使用していると。 ・・・つづく・・・
2018.01.29
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更に階段を上がり上段へ。 清方の間へ。 紙の建築家 HIROKO氏の作品展。「FERISS WHEEL 観覧車」。紙を90度に開くとポコッと絵柄付きの面が立ち上がるというもの。立体切り絵のプリンセス SouMaの作品。一枚の紙から生まれる驚異の立体切り絵。その驚愕の技術はまさにカミワザ(神業、紙技)。全ての作品は繋がった1枚の紙からできているのだと。本池秀夫氏の作品。レーザーアートの第一人者。「猫」。至宝の編み組みアート 水引工芸家の内野敏子氏の作品。エッグアートの玉手箱・遠藤一恵氏の展示。エッグアートとはその名の通り、卵の殻(エッグシェル)に絵を描いたり、削ったりして装飾を施すクラフト。 「清方の間」。 美人画の大家、鏑木清方が愛着をもって造った落ち着いた静かな茶室風の室。特に奥の間の床柱は径一尺五寸の北山杉の天然総絞丸太でこのような逸材は今日、市場でもなかなか見出せないもの。廻り廊下の北山丸太を扱った化粧軒、障子建具、組子など、細心の造り。 扇面形杉柾板に四季草花、欄間の四季風俗美人画ともに 清方の筆であると。 近代日本の美人画家として上村松園、門下より出た伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であると。 清方が愛着をもって造ったという茶室風の室の欄間には四季風俗美人画も。 神代杉と秋田杉の網代天井にはめ込まれた扇面形柾目板には四季草花が描かれていた。 組子や障子建具など凝りに凝った細心の造りとともに、見応え十分、こころ魅かれる部屋 。 ・・・つづく・・・
2018.01.28
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次の部屋は「星光の間」。 組み木絵アーティスト 中村 道雄氏の部屋。一切着色をしていない数十種類の木材を、厚さ5.5mmの板材に揃え、色味や木目の違いを活かしながら絵として組み込んでいると。材料となる木は、黒はコクタン、黄はカヤ、緑はホウの木、オレンジはケヤキ、焦茶はチーク・エンジュ、赤はカリンと様々だが、それらはほとんどは捨てられる運命にあった端材、これを使用し木材に新たな生命を吹き込んでいく姿はまさに神技。半年以上の時間をかけて素材を探し抜いた葛飾北斎のカバー作品などは必見。『Mt.Fuji』。「Re.Creation / 北斎・神奈川沖浪裏」。版画家・北斎に敬意を表した作品。北斎ブルーと呼ばれる深い藍色に匹敵する材料を探すのに半年以上かかったそうだ。また富士に降る雪のような波しぶきの部分は、糸鋸で丸く切った木を面取りし、一つ一つはめ込んでいる。さらに注意深く見ると、周りの白い部分と、波頭の白い部分が端から端まですべてつながっていることがわかる。 「凧市」。「Tiger」。「淡墨桜」。「????」。「東京タワー」。「かがやき」。「いろり」。「コオロギ」。 「アカウミガメ」。「なめとこ山の熊」。「フレンド」。この作品は「病院で過ごす子供たちのために、子供たちが元気になれるように」と。こんな温かな思いを込めて制作された作品。「ZEPPERIN」。そして中村 道雄氏ご本人の姿も。星光の間。奥の間の床柱は北山杉天然絞丸太で、次の間の床柱は槇出節、両室とも格天井及び欄間いっぱいに板倉星光の四季草花が描かれています。木材に関しては、床脇の床脇の天袋・地袋のゴンザロ・アルベス、前地床にはスクピラと、ともに南米材が使われていますが、これも目黒雅叙園の大きな特徴で、旧1号館~7号館に至るまで、今では手に入らない貴重な南米材が多く用いられていると。 ・・・つづく・・・
2018.01.27
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国道1号線を下り、県立大磯城山公園内にある旧吉田茂邸を訪ねる。この旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967) が暮らしていた邸宅。もとは明治17年(1884) に吉田茂の養父・吉田健三が土地を購入し、別荘を建てたのがはじまり。養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぐ。昭和20 年(1945) より大磯の邸宅を本邸とし、晩年を過ごした。2009年に焼失したが2017年4月1日に再建され公開がスタート。本施設は吉田茂が暮らした当時の邸宅を復原したもの。昭和22 年頃建てられた応接間棟、および昭和30 年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに再建したと。駐車場に車を駐め旧吉田茂邸入口に向かって歩く。駐車場は平日は無料ですが、土曜・日曜・祝日などは有料。大磯城山公園内配置案内図。県立大磯城山公園は、湘南地域の西、大磯町の海辺に位置する公園で、旧三井財閥本家の別荘地跡を利用した「旧三井別邸地区」(左)と、宰相・吉田茂が暮らした邸宅を活用した「旧吉田茂邸地区」(右)の二つの地区がある。旧三井別邸地区には、三井財閥別荘跡地の宅地開発計画が契機となり1980年代に公園とすることが決まり、三井家の茶室として置かれていた国宝「如庵」にちなんで建てられた茶室「城山庵」、大磯町郷土資料館や横穴式古墳群などがある。また、ゆるやかな丘陵につくられた展望台に登れば、相模湾をはじめ遠く富士、箱根、伊豆半島の山々などの雄大な自然が一望できると。 旧吉田茂邸の内門(兜門)。この門はサンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられので「講話条約門」とか形が兜のようなので兜門とか呼ばれています。焼失を免れた貴重な建物であるとのこと。 京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られ、屋根は「檜皮葺き」という伝統的技法が用いられていた。軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ているのだと。内門(兜門)を潜ると右手に日本庭園が。池を中心にその周囲を散策し、自然の移り変わりを愛でるもので「地泉回遊式」 と呼ばれると。吉田茂が存命の昭和41年ごろの景観を再現した日本庭園であると。心字池を中心に配置した池泉回遊式の庭園。吉田茂の嗜好に合わせて、様々な草花やツツジ類、梅などを組合わせた色彩豊かな庭園とのこと。中央に亀の形をした亀島がそして鶴がつがいで。 奥の家はこの日本庭園が2階から借景として。うらやましい限りである。梅の緑の蕾が。高台にあるのが七賢堂。元々、明治36年に伊藤博文が、明治維新の元勲のうちの岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたもの。伊藤博文の死後、婦人により伊藤博文を加えた5人が祀られ、「五賢堂」となった。昭和35年に吉田茂邸に移設され、昭和37年に吉田茂が西園寺公望を合祀し、吉田茂の死後、昭和43年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され、「七賢堂」となったと。兜門やサンルームとともに、焼失を免れ、旧吉田茂邸の歴史を感じさせる貴重な建築物。正面の扁額「七賢堂」の文字は、佐藤栄作元首相が書いたものであると。小さな柿の実が未だに撓わに干し柿状態に。美しい竹林。吉田茂銅像。昭和58年に「吉田茂、澤田美喜両先生顕彰建立委員会」によって建立された。日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けていると。銅像付近からは眺望が良く、富士山、伊豆半島、相模湾、房総半島などが一望できるとのことだがこの日は雲が多く富士山や房総半島は見えなかった。大好きだった葉巻を手に。好みの葉巻は、ハバナ産の「コロナ・コロナ」であったと。庭園から見た、再建された旧吉田茂邸。吉田茂が暮らした当時の邸宅を復原したもの。昭和22 年頃建てられた応接間棟、および昭和30 年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに再建していると。再建された旧吉田茂邸の玄関部分。現存しているサンルーム。吉田茂ご自慢のサンルーム(吉田茂は寒がりだったと)。玄関前から庭園を。あと1ヶ月もすれば賑やかな色合いになるのであろう。 柊 紅葉(ひいらぎ もみじ)。管理休憩棟。100円/人で庭園ガイドをお願いできると。吉田茂のパネル。パネルと一緒に写真が撮れる場所?そして休憩棟内部には旧吉田邸の説明パネルが往時の写真入りで。旧吉田茂邸地区の公園整備事業概要。日本庭園、内門(兜門)説明パネル。出口前にはバラ園も。バラ園は吉田茂の自慢であり、「プリンセス・ミチコ」がここで栽培されて全国に広まったのだと。そしてこの日のドライブを終え、茅ヶ崎の旅友Sさん宅経由で12時過ぎには帰宅したのであった。
2018.01.26
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国道1号線を走り、旧吉田茂邸に向かう途中、左手に大きな神社があったので急遽立ち寄る。東海道線の線路の下を潜る形で進むとさらに住宅街の路地が続く。古くからの参道であったこの場所には、今も樹齢の古い大木が保護され残っていた。そして社頭へ突き当たると大きな人集りが。ここでも消防訓練が行われているのかと思ったが、取り敢えず神社正面の 駐車場に車を駐め外に出る。 すると、消防訓練ではなく、第64回大磯一周駅伝が行われ、ここが中継点であり人々は地元の応援の方々であると地元の応援の方から。そしてしばらくすると、ハンドマイクで我々の車のナンバーを言い、駐車場所を移動して欲しいと。この駐車場所は、走って来た選手の休憩場所であるとのこと。慌てて指示された駐車場へ移動する旅友の愛車を、頂いた地元の地名「国府新宿」の旗を振って見送る。そして神社前には2本の白線が。ここは総駅伝距離20.2km・全6区の2区~3区への中継点であるとのこと。ここまでの2区の距離は、区間最長の4.2kmであると。最終的には12地区チームと23団体チームの総計35チーム(1チームはオープン参加)が参加しているのだと。暫く待つと先導者が通過。そしてダントツのTOPは29:星槎(せいさ)国際高等学校湘南 陸上部。この高校は大磯にある通信制高校であるようだ。以下次々に選手が襷を引き継ぐ。白地のゼッケンは地区チーム、黄色の地は団体チームであると。 以下の写真は上段左から右へ通過順位の順に、そして下段に。2位から7位。8位~14位。3人の六所神社の巫女さんも道路に出て応援中。多くの知人がこの駅伝競走に参加しているようであった。5位~20位。何チームかは男女混合チーム。 21位~26位。27位~32位。33位~35位、そして救急車、会長車、広報車が閉める。さすがに最後部チームは37:大磯警察署チームであった。箱根駅伝も良いが、この様なローカル色満載の地区対抗駅伝も面白いのであった。そしてネット情報によると、総合優勝は我々の前を4位で通過した4:中丸Aチームが追い上げ5区で首位に立ち逆転勝利したとのこと。 そして全選手を見送った後には、相模國総社 六所神社(ろくしょじんじゃ)へ参拝に。六所神社は、相模国の総社で、毎年5月5日には往古神領であった大磯町国府本郷の神揃山(神集山)で国府祭(こうのまち)を催行し、相模国の一宮から四宮および五宮格である平塚八幡宮の神輿渡御を受けるとのこと。当地に元々あった柳田大明神社に、相模国の一宮から四宮まで、および五宮格の平塚八幡宮の祭神を合祀したもので、六社の神を祀ることから六所神社というのだと。境内に入り、参道の左右に神池が。 右手の中に六所ひぐるま弁天社が。左には六所龍神大神社。御祭神の櫛稲田姫命を当地に祀った際に、櫛稲田姫命が龍神を連れてきたと伝わっていると。更に進むと右手に手水舎。左手に神楽殿。神輿庫。5月5日の相模国府祭の際に渡御される大神輿。境内左手に境内社の稲荷神社。拝殿には立派な巨大注連縄が。祭神:櫛稲田姫命 神徳:良縁、困難打開。六所神社は相模国主要五社が祀られた歴史を持つ。五社とは一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮。社務所。先程の巫女さん達も仕事に既に復帰していた。御朱印を頂きました。甘酒で一休み。赤の野点傘の「わび・さび」が似合う70歳代の先輩2人を見守る「若手」の私。ノンアルコールであることを確認済み。昔の懐かしい甘酒の味。サイクル群団も到着し一休みか?境内横にも小さな祠、そして忠魂碑も。そして一の鳥居を潜り国道1号線に戻り旧吉田茂邸に向かったのであった。
2018.01.25
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一昨日22日(月)は関東の南を低気圧が発達しながら通過し関東地方では昼ごろから雪が降り始め大雪となりました。我が家も10:15頃から雪がちらつき始めました。そして雪が本降りになり、16時前には一面の銀世界に。そして翌朝・昨日の朝6:50の姿。前夜に妻が玄関~門周りを凍結前に除雪してくれていました。駐車場への通路も確保済み。そして我が庭の五葉松への積雪。20~25cmの積雪でしょうか。柘植にも真っ白なキャップが。家の横の菜園のソラマメやスナップエンドウの網は雪の重さで潰れずに耐えてくれました。前の畑のブロッコリーは、ほぼ雪に埋まっていました。屋根のソーラーパネルの雪は既に半分ほどが滑り落ちていました。そして東の空は茜色に染まってきました。そしてこの日の我が家近くからの日の出。太陽が姿を現す。雲も黄金に染まって。自宅前の農家の温室の骨格も黒く幾何学的な模様を。屋根の雪も朝の陽光に照らされて。近所の家の壁にも雪の翌日の朝の陽光を浴びて。そして趣味の養蜂場のある菜園の点検に長靴を履いて出かけました。吹きだまりは40cm以上の積雪になっていました。 ミツバチの巣箱の周辺には積雪は殆ど無く、雪に埋もれて無く一安心。しかし、さすがに外に出ているミツバチ嬢の姿は皆無。ミツバチ嬢が一塊になり集まって、女王蜂を護りながらこの寒さを凌いで欲しいのです。 案山子のマネキンの姿はやはりかなり寒そうな姿に。 そして上空は晴れていましたが、富士山の雄姿は雲に隠れていて、真っ白に変身したであろう姿はお預けに。 自宅に戻り、更に除雪の仕上げを。自宅前の道路は、近所の農家の方が農業用ブルトーザで一気に除雪して下さいました。そして仕上げをプラスチックのスコップで夫婦2人で。しかし我が家から少し離れた民家では、自宅の庭の雪を一生懸命?に大量に我が家の前から続く道路に出す姿も。 折しも先程テレビでこの行為は軽犯罪法違反であると。『軽犯罪法第一条左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。 十一 相当の注意をしないで、他人の身体又は物件に害を及ぼす虞のある場所に物を投げ、 注ぎ、又は発射した者。』の条項に該当する可能性があるのだと。我が家の前の道は通学路でもあり、子供達の転倒や車のスリップによる巻き込み事故等が非常に心配なのです。止めて欲しいのですが・・・・自分の家の内さえ良ければ?の行為は淋しい限りです。 東京都心で積雪が20センチを超える大雪になった年は、過去30年間で調べると1994年と2014年だけであったと。我が家も4年ぶりで同じではと。しかし前回の積雪量の方がやや多かったのではと。 再び同じ話になりますが、我が家のこの朝の最低気温は氷点下1度。積もった雪が凍結し、近くの路面は危険な状態。気象予報士は昨日の朝より、今朝の朝の凍結の方が更に深刻と。 転倒によるケガなどには十分な注意が必要です。皆さん凍結場所では、両手はフリーにして足裏全体で慎重に歩きましょう。御安全に!!
2018.01.24
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吾妻山頂上にあるローラー滑り台の乗車場所。園内一の人気の施設が、地形を巧みに活用したこの「ローラー滑り台」。全長は102メートル、傾斜は約10度。 相模湾を見下ろしながら、一気に下る。高校生以上 1回100円、中学生以下 無料とのこと。この日も子供達で賑わうのであろうか? 日本水仙も朝の陽光を浴びて輝いていた。ススキの穂も美しく輝く。倒木の枝にはキノコが。副花冠が黄色、そして白の花片が反り返って咲く日本水仙。吾妻山神社に立ち寄る。お参りする旅友2人。境内の河津桜も早くも開花を始めていた。本宮。本宮の彫刻は見事。相模湾に向かって建つ二の鳥居。帰路はこの鳥居を潜り昔の参道を下山。うねうねとした昔ながらの坂道を10分ほど下ると一の鳥居が見えて来た。 鳥居の先には「神明社」が。小さな祠の神明社には、両側に多くの文字碑や道祖神が並んでいた。いつの時代のものか不明であるが、その様々な形の石像は歴史を感じさせてくれたのであった。頭の無い地蔵様も。ここは梅沢口。言い伝えでは日本武尊が東征の折り浦賀水道で暴風にあいそれをおさめるためその妃である弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が入水し、その後弟橘姫命の櫛が流れ着きいたと。それを祀ったのが吾妻山神社であり、梅沢口というのは、櫛を”埋め”たことに由来するらしい。入り口横の白梅は既に開花。JRの高架橋を渡り線路沿いの狭い路を進む。 純白な水仙も。そしてJR二宮駅南口へ戻る。「ガラスのうさぎ」の裏には「伊達時彰徳碑 (だてときしょうとくのひ)」が建っていた。明治維新以降、この地域の発展と社会福祉の増進に功績のあった一人に伊達時がいると。伊達時は二宮駅の開設や秦野―二宮間の交通網の整備、郷土の子どもたちの教育に尽くした。この碑は昭和26年に伊達の功績を永く後世に伝えるため、町民有志により建てられたと。 旅友の愛車に戻り、浄土宗 知足寺を訪ねる。寺号「知足」(足ルコトヲ知ル)とは、私たちが今現に生きていることが出来るのは、仏のお陰と気付いた時、感謝の心を持って何事にも努力しなければならない、という教えであると。正面に山門が。赤い帽子と涎掛けの六地蔵が迎えてくれた。六地蔵とは地蔵菩薩の6分身をいうと。生前の行為の善悪のいかんによって、人は死後に、地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天という六道の境涯を輪廻、転生するといわれるが、そのそれぞれに、衆生救済のために配される檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の6地蔵をいうのだと。 像の姿は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢(旗)、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていないようだ。 境内の斜面には多くの石仏が水仙の花と共に並んでいた。この寺の「曾我兄弟の墓(伝)」を訪ねるのが目的。境内の墓地の最奥を目指して進む。 「曾我兄弟の墓(伝)」に到着。曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つ。武士社会において仇討ちの模範とされていたと。一番奥に弟の曾我五郎時致(ときむね)の供養塔、(元禄7年・1694年建立)。そしてその隣に兄の曾我十郎祐成(すけなり)の供養塔、(元禄7年・1694年建立)そしてその手前が兄弟の姉の花月尼、手前はその夫の二宮太郎朝忠((あさただ)とのこと。曾我兄弟の墓は全国15箇所もあるらしいが、 戦前では忠臣蔵に匹敵する知名度があったが、今はあまり知られていないようである。「浩宮殿下お成り記念」碑。昭和54年9月12日と刻まれていた。何故、当時の浩宮殿下がこの寺そして曾我兄弟の墓を訪れたのであろうか?旧吉田茂邸訪問の際?それとも、雛の吊るし飾りの観賞?『曾我兄弟の話は『曾我物語』にもなり、現在でも有名な仇討ち物語だが、その舞台のひとつが二宮であると。兄弟の姉である花月(かげつ)は当地の地頭である二宮太郎朝忠に嫁いた。朝忠の邸は現在のここ知足寺の場所にあったとされていると。弟の五郎が出家をやめたために母から勘当された時、居候していたのがこの花月の家。彼女は兄弟の一日も早い仇討ちを願って、吾妻山に浅間神社を建立して毎朝祈願したと伝えられていると。また建久4年(1193年)の仇討ちの後、兄弟の母と花月、十郎の愛人だった遊女の虎御前の3人は五輪塔を建て、特に花月は自宅の隣に庵室をたてて兄弟の菩提を弔った。この庵室を再建したのが知足寺といわれていると。二宮にはこの他にも兄弟に関する伝説が多く、弟五郎が兄十郎のもとに駆けつける際に、吾妻山近くの家で馬を借りた上、生えていた大根を鞭にあてたという話や、花月の信心深さのため吾妻山にマムシが出なくなったという話が残されているのだと。』上記は http://www.town.ninomiya.kanagawa.jp/virtual_museum/rekishi/1442389026108.htmlより転載させて頂きました。 境内にはこの寺の歴史を感じさせる多くの墓石が至る所に。塔身が卵形の無縫塔(むほうとう)は、歴代住職の墓であろうか?多くの道祖神らしき物も。境内では、地元住民の方々の消防訓練が行われていた。毎年1月26日は、「文化財防火デー」。 この防火デーの一環の訓練であると。文化財防火デーの制定は、昭和24年1月26日に、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺(奈良県斑鳩町)の金堂が炎上し、壁画が焼損したことに基づいているのです。知足寺 本堂と二宮消防署員の方々の指導の下での訓練の様子。寺の入り口には「今年こそ 実行するのは このわたし」の文字が。そして次に訪ねたのが「徳富蘇峰記念館(とくとみ そほうきねんかん)」。徳富 蘇峰は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる人物。蘇峰の晩年の秘書を務めた塩崎彦市が、蘇峰の13回忌にあたる昭和44年に二宮の塩崎邸内に建設したもの。 塩崎は早くより蘇峰を敬慕し、戦前より秘書として身辺に侍して蘇峰の逝去に至るまで苦楽を共にした。その誠意に対し蘇峰は、書簡・蔵書・揮毫・原稿・遺品の多数を塩崎に託したと。塩崎は、蘇峰の遺業と精神が新しい時代の青年によって研究されることを願い、託された多くの近代史の資料を公開する目的で記念館を創立したのだと。『 相模湾沿岸地域ゆかりの名士3(湘南編)』展が開催中であったが10時からと。鎌倉や葉山など湘南地域に住んだり訪れたりした政治家、宗教家、文学者らが徳富蘇峰に宛てた書簡や書軸など約80点を紹介していると。 入り口には水仙の大きな花束が生けられていた。記念館前の梅林を訪ねたがまだ殆どが蕾のまま。この木は「NHK 美の壷 で疎痩横斜(そそうおうしゃ)趣 と紹介された老梅」と。「疎痩横斜」とは梅の老成の美を表す語。「疎」は枝のまばらさ、「痩」は木の肌のごつごつ感、「横斜」は横や斜めに延びている様子 とのこと。一本の老梅の一部には白き花が。庭には「棟方志功も描いた樹齢300年のざくろ」が。
2018.01.23
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昨日の1月21日(日)、旅友に誘われ、再び湘南・二宮・吾妻山(あづまやま)に相模湾に上る日の出、そして水仙、菜の花、富士山を見に行って来ました。ところで「サン」と「やま」の読み方の使い分けは「山」の前の漢字が訓読みなら「やま」、音読みなら「サン」と読むのだと以前テレビのクイズ番組から。 自宅を出て茅ヶ崎の旅友のご自宅へ。そして旅友の愛車に乗り替え西湘バイパスを利用して二宮駅南口に。南口ロータリーにある駐車場に車を駐める二宮駅で、この近くに住む元同僚とも合流し3人で吾妻山の階段を上る。そして吾妻山中腹の展望台に到着。ベンチに座り日の出を待つ。まだ周囲は薄暗く、相模湾の上空も漸く僅かに茜色に変わりつつあった。眼下にはJR二宮駅が。 そして少しずつ明るくなり遠くに江の島の姿がボンヤリと。これぞ「薄明」。 時間の経過と共にジワジワと空が茜色に染まって来た。そして雲の合間から太陽が姿を現す。朝の太陽が赤く、そしてその手前には相模湾に浮かぶ釣り船が。太陽がジワジワと昇り丸みを増して来た。デジカメのシャッターを押しながら、空と水面の茜色の変化を楽しみながら追いかける。太陽がほぼ姿を表す。釣り船がもう一隻。「絵になる」刹那の光景を楽しむ。展望台を後にし、陽光を追いかけながら山を上って行った。花芽が僅かに膨らんだ桜の枝の間からの初日の姿。黒と赤の混沌の世界。ズームで。日本水仙も先日より多くの花が開いていた。更に太陽を追いかけながら山道を上る。アオキの実も朝の陽光を浴び赤を更に主張。 そして吾妻山山頂の芝生広場に到着。相模湾の水面にはオレンジの帯が。 静かな穏やかな瞬間を切り取る。菜の花も朝の陽光を目一杯浴びて黄金に輝く。小さな釣り船がオレンジの水面を静かに進む。展望台には何人かの「老老男女」のグループが。東屋にはまだ休む人の姿はなし。榎の大木も黒で存在感を示していた。遠く伊豆半島の姿も。小田原の街並みそして山の上には白き雲が一面に。山の端は明後日の朝には白き雪を被っているのであろうか?オレンジの帯が更に拡がって黄金の水面に。雲が無ければ富士山の雄姿がこの画面に。しかしこの時には完全に姿を雲の裏に。この時期には山頂から日の出の瞬間と振り返れば富士山の雄姿が見られることを確認出来たのであった。朝の陽光を浴びたベンチには白き霜が一面に。菜の花をズームで。雪の前のこの日の昼間は家族で賑わうのであろうか。菜の花の合間に日本水仙の姿も。 ・・・つづく・・・
2018.01.22
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次に「静水の間」を訪ねる。静水の間では、現代切絵アーティスト中村敦臣氏の作品群が展示中。和紙を0.5mmに満たない切り幅でカットした切絵に、アクリル絵の具や金属等の異素材を融合した独自の作品を展示。現代美術と切絵の繊細な技術が融合した唯一無二の作品であると。「Indigo and Mt.Fuji2/群青と富士」。鮮やかな青いアクリル画と切り絵をミックスしたこの作品は、横山大観の作品「群青富士」に感動して製作したオマージュ作品であると。平面的な切り絵では無く立体的な切り絵。「龍」。体の鱗など見事な精細さ。ズームで。 非常に細やか!しかもすべて手作業。「cut of pink」。この作品「cut of pink」では、糸に迫る細さで極限まで用心深く切り抜かれた一本につながる切絵によって浮かび上がる龍の顔が。角の1つにはリボン、そして目の下にも赤いリボンが。 眼は前方を鋭くそして冷たく凝視しており、次の獲物を狙っているかのようにも見える。「wink/ウィンク」。「Personal Justice /私的正義」。a type of Bag walls can wear /壁に着けるタイプのバッグ」。「a type of Bowtie walls can wear/壁に着けるタイプの蝶ネクタイ2」。この作品は切り抜かず=切りかすを一切出すこと無く造られているのだと。そして静水の間の奥の間の床柱は黄檗(きはだ)丸洗と。格天井の秋田杉には池上秀畝の鳳凰・舞鶴、欄間四方には小山大月の金箔押地秋草が描かれている」。次の間の天井及び欄間は橋本静水等の画伯によるもの。小さい部屋ながら格天井や床の間が力強い造りに池上秀畝、小山大月、長嶋華涯、橋本静水らの絵がひしめくなか、揮毫が一番多い橋本静六の名を取って「静六の間」と呼ばれていると。天井には大きな扇が。まず天井から見ていくと、奥の間の天井は今までの格天井とはまた一味違った造りで、格縁は秋田杉を吹寄せにし、扇面に池上秀畝の鳳凰・松が描かれています。四季美人図 娘道成寺。雪景色も美しい扇絵。 ・・・つづく・・・
2018.01.21
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昨夜の就寝前に我がブログにアクセスするとカウンターの数字が1,499,802回と150万回に近づいていることに気がついたのです。 そして先程起床してパソコンを立ち上げ、ブログにアクセスするとカウンターの数字は150万回を通過し1,500,278回を表示していたのです。 管理画面です。昨日のアクセス数は2742と。 昨夜のアクセスレポート画面です。昨年末の時点では1,500回~2,000回/日でしたが、今年に入り何故か?2500~3000回/日と数字が上昇し3,000回/日以上のアクセスを頂いている日がある事が解るのです。 ブログを開始したのは2008年4月。 最初のブログは2008.04.06 「太陽光発電工事開始」でした。 開始日の2008.04.06から今日までの日数です。日数9ヶ年271日、延べ3,558日なのです。そしてブログアップ回数は3,567件となっています。経過日数は3,558日ですのでその数字より大きな数字になっています。これは開始初期の1年は1日に2件のブログアップや、空白の日もあった為なのです。そしてその後はほぼ毎日1件の皆勤賞が続いています。 我がブログの現タイトルは「JINさんの陽蜂農遠日記」 です。いずれも趣味の陽:太陽光発電蜂:養蜂農:農園遠:国内&海外旅行に関する「備忘録」なのです。年を重ねるにつれ、記憶力も下がり、前日の行動さえも忘れてしまうことが多くなりました。その為の日々の「備忘録」であり、海外旅行を初め旅行のブログは、帰宅後に訪ねた場所を復習しその場所の歴史等をネット情報から自ら学習し書き留めて置く場なのです。 そしてこの場所に旅行を計画されている方の、事前の情報として少しでもお役に立てば幸いなのです。 これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい箇所も多々あると思いますが、我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』として日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。
2018.01.20
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続いて草丘の間は、神の手第一期ならびに第二期のアーティスト〜情景王・山田卓司氏、遠近法の匠・島木英文氏、紙の魔術師・太田隆司氏、そして郷愁の箱庭師・タカマノブオ(高間信夫)氏の作品が肩を並べる豪華な一室。ゲゲゲの鬼太郎の世界。神の魔術師「太田隆司」氏の作品。色彩豊かな紙のジオラマ。まるで映画のワンシーンのような風景が広がる。「おいでなんしょ! 松本城」。『嫁ぐ朝』。「破壊神御爾羅」鳥取 『高砂屋(池内ふとん店)』 遠近法の匠・島木英文氏作。そして「草丘の間」。格天井の秋田杉及び欄間には礒部草丘の四季草花絵、瑞雲に煙る松原の風景が描かれています。障子建具は非常に手の込んだ面腰組子。天井、欄間、障子の腰と、すべて磯部草丘の絵画で覆われ、壁面さえ見えない。四方には、四季の風景画が広がる。 天井には15面の秋田杉に花鳥画が描かれています。 四隅の柱や床柱は五寸角(約15cm角)の面皮柱になっています。面皮柱とは、角は丸のまま残し、四面に木目を出したもので、主に茶室に使われるのだと。 ・・・つづく・・・
2018.01.19
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『相模路(さがむじ)の 淘綾(よろぎ)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思はるるかも』の歌碑。(万葉集 第十四巻 東歌)「相模の淘綾(よろぎ)の浜の美しい砂のように、あの娘が可愛く思われることです。」 吾妻山公園の由来の碑に、この淘綾の浜の歌が刻まれていました。 淘綾(よろぎ)の浜とは、神奈川県の国府津から東へ、大磯にかけての海岸のことで、現在は「こゆるぎの浜」と呼ばれているのです。 右の雲は動かずにデンと構えていました。 微妙に撮影角度、高さを変えて。吾妻山展望台を見る。いつまでいても飽きない空間。再び小田原の街並みと青い海・相模湾をズームで。この景色を見に毎年来るのである。この場所が「吾妻山の菜の花と富士山」の第一の写真スポット。300段以上の階段を上って来た疲れも吹き飛ぶほどの素晴らしい景色が広がっていたのです。こちらは立派なカメラと三脚で。撮影スタイルもプロ級!! 山頂の芝生の広場に榎の大木が。吾妻山からの富士山もこれが見納め。いつの間にか多くのカメラマンが第1人気スポットに。 再び相模湾の光る水面を写す。雲の影が水面の青に濃淡を。 山を下ると直ぐに新たに出来た吾妻山公園管理棟。管理棟内部にはこの時期の上空からの写真が飾られていた。ドローンカメラからの撮影か?上の白は日光の反射で。 二宮の鳥(1)留鳥。二宮の鳥(2)夏鳥・冬鳥吾妻宮(吾妻神社)まで足を伸ばす。石鳥居。境内。吾妻神社には、こんないわれがあるのだと。『日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の時、三浦半島の走水から海路、 上総へ渡ろうとすると、突如として暴風が起こり、船もろとも海中に沈む かと思われました。その時妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は 夫に代わって海の神の怒りを鎮め、夫の武運を祈るため海に身を投じると たちまち海は静まりました。その後、海辺に流れ着いた櫛を吾妻山山頂に埋め、ありし日の命を偲び ました。その場所が吾妻神社だと伝えられています。』と。拝殿。拝殿の奥の本殿。吾妻神社ではカワヅザクラの出迎えがありました浅間神社に立ち寄る。祭神は木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。1193年(建久4年)、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りで起こった曽我兄弟の仇討。曽我兄弟の姉・花月尼は、仇討ちの成功を富士浅間神社に祈り、兄弟が見事に父の仇・工藤佑経を討つと、自身の住居前の吾妻山に浅間神社を祀ったのだと。アオキの実も美しかった。山を下る途中に相模湾に浮かぶ江の島の姿が確認出来た。ズームすると江ノ島大橋・江ノ島弁天橋 そして烏帽子岩の姿も確認出来た。JR二宮駅。そしてJR二宮駅南口に立つ「ガラスのうさぎ」を訪ねる。『太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここJR二宮駅(当時国鉄)周辺には艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。この時、目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子さん著)は国民の心に深い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。この像は、私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。』「ガラスのうさぎ」像記念碑文よりそしてJR二宮駅ホームから、吾妻山斜面に有る植栽による二宮町の町章が確認出来た。「二」と「宮」 の文字を図案化したのであろうか? そしてこの日の吾妻山からの菜の花と富士山を堪能した4時間を終了し12時前には帰宅したのであった。
2018.01.18
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この日1月15日(月)は今年も湘南二宮・吾妻山公園の菜の花と富士山の雄姿を見に行って来ました。ここ何年か連続で訪ねているお気に入りのスポット。事前に二宮町のホームページにアクセスし、吾妻山公園花情報2018にアクセスし、菜の花が見頃を迎えていることを確認し急遽決断しました。旅友のSさんにも声をかけようかと思いましたが、術後日が浅く、300段以上の急な階段はまだ早すぎと勝手に考え単独行としました。 自宅を8:20過ぎに出て、小田急線、東海道線を乗り継ぎ二宮駅に到着。二宮駅改札前の構内通路には「吾妻山 菜の花 ウォッチング」のポスターが。二宮駅北口の観光案内所。入口の右側が案内所になっていて、左側が二宮町に関連したお土産物や記念グッズの販売所に。この吾妻山公園は、二宮駅から目と鼻の先にあります。駅の北口を出たら二宮町役場を目指すと解りやすい。近くに吾妻山公園用の駐車場はなし。町役場の駐車場には「吾妻山公園をご利用の方は下の駐車場(町営第一駐車場)へ」との表示。しかしこの駐車場からは入口ゲートまでは徒歩で15分くらいはありそう。観光案内所の横を通り左折し道なりに急坂を上っていくと正面に「吾妻山公園」と書かれたゲートが迎えてくれました。急な階段をひたすら上り吾妻山頂上を目指す。昔に比べ、観光客の増加により、階段幅も50cm以上広くなりました。途中、左手の森の木々の間から相模湾の光る水面が。山道の両脇には日本水仙の群落が所々にあり、楽しませてくれました。我が家にもある花弁が白色で花冠が黄色の日本水仙が今や盛りに。そして花全体が純白の清楚な日本水仙。我が家の庭にも欲しい花種。右手に浅間神社入口の鳥居が。帰路に立ち寄ることに。タチカンツバキ ( 立ち寒椿 )。サザンカと思いましたが「タチカンツバキ」と書かれた立て札が。 巨大な滑り台が迎えてくれました。園内一の人気の施設が、地形を巧みに活用したこの「ローラー滑り台」。全長は102m、傾斜は約10度。 相模湾を見下ろしながら、一気に下って来ます。ここにも日本水仙の群落が。そして吾妻山山頂(標高136.2m)に到着。表示柱の後ろに「三角点」を示す「標石」が埋まっていました。三角点の後ろにこの場所より高い人工物の展望台がありますが 「山の頂上は、山体を構成する岩石圏の最高地点とする。樹木などの生物圏に属するものは、山体の一部とは考えず、また人工的建造物も山体の一部とは見なさない。」 と。しかし「三角点は山頂を示すものではなく、三角測量の実施に都合のよい場所に置かれていますので、地図に記載されている三角点の高さは山の高さではないということになります。山の最高点に三角点があればよいのですが、正しくは三角点の位置≠山の最高点であることに注意してください。」とも。幸いこの二宮・吾妻山は山の最高点に三角点があるのです。 時間は8:25過ぎ、自宅を出てから丁度1時間。今年も青空の下、菜の花と富士山の雄姿が迎えてくれました。 そして富士山の白き雄姿。目の前のこんもりした山は矢倉岳。 おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つ山。頂上の巨大な芝生広場では「エアレーション」作業が行われていました。芝生のエアレーションとは、芝生の土壌に穴をあける作業のことで、芝生の更新作業のひとつ。芝生にエアレーションをすることで土壌の固結を緩和し、芝生が根っこから新鮮な空気や水を得ることができ、更に成長するようになるのです。やや地味な作業ですが、係の方々がコツコツと。 菜の花と富士山のコラボに出会う。桜の時期も人気のスポット。中央に双子山、そしてその右側に駒ヶ岳、明星ヶ岳、明神ヶ岳が。そして小田原の街並み、相模湾が。菜の花畑はほぼ満開。遠く相模湾の奥に大島の姿もクッキリと。こんないに早く咲く菜の花の品種名は?やはり積雪量の少ない今年の富士山。ここが人気の撮影スポット。芝生広場の巨木。吾妻山公園は、関東富士見百景にもなっていますが、関東一の富士見ポイント 。右の雲が無ければ更に美しい・・・と我が儘にも。相模湾を背景に菜の花畑を写す。相模湾の蒼い海が眼下に拡がり爽快な気分を満喫。再び光る海・相模湾。小さな魚船が何隻か浮かんでいました。 手前の矢倉岳は、矢倉岳から金時山の鞍部にある足柄峠を越える旅人を見張る櫓(やぐら)のような山容をしていることから、矢倉岳と呼ばれるようになったといわれている。大山(おおやま)は、神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高1,252mの山。丹沢山などの丹沢の山々とともに丹沢大山国定公園に属し、神奈川県有数の観光地のひとつ。日本三百名山や関東百名山のひとつでもある。大山の左に丹沢塔ノ岳(1491m)、檜洞丸(1601m)、御正体山(1,681m)が連なる。富士山の左手には明神ケ岳、明星ヶ岳、神山、駒ヶ岳そして双子山と連なる。再び富士山。吾妻山公園山頂からの眺望案内板。 ・・・・つづく・・・・
2018.01.17
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私の住む地域の「どんど焼き」が一昨日1月14日(日)8:00から近くの公園で行われました。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の『どんど焼き』で焼くというもの。 我が地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で行われているのです。かつてはどんど焼きが行われるのは小正月の“1月15日”が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこでどんど焼きに参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日にどんど焼きの日にちを移すようになったのです。妻が今年の「門松」「しめ縄」を1つに纏めておいてくれました。 そして前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。どんど焼きの火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。三つ叉の木は、昨年末に養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。 8:00前に公園に行くと、既に多くの枯れ枝や「門松」「しめ縄」の山が。この地域の老人の方々が早朝から準備をしてくれていました。公園内での「どんど焼き」を行うためには、市に対して「公園内行為許可証」そして消防署に対して「煙・火炎発生届」が必要とのこと。こちらも準備万端。そして8:00に今年の「どんど焼き」が始まりました。最初は火力が強すぎるので、近くに寄る人の姿は少なし。太い注連縄も元気よく燃え出しました。そして弱火になって来たので団子焼きの開始。子供達も団子を持って参加。赤、白、緑の三色団子。大きさは家によりまちまち。団子をアルミホイールで包んでいる方も。子供達も熱さを必死に我慢して。お祝いの御神酒も入って。我が家の団子も焼けて来ました。今年は子供の書き初めを燃やす姿も見ることが出来ました。昔から 書き初めを焼いた時に、その炎が高く上がり、この炎の勢いで紙が高く舞い上がるほど字が上手になると謂われて来たのです。我が家の団子も焼き上がり。そして自宅に戻り、今年は風邪を引かないようにと食べたのです。「どんど焼き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は非常に大切である事を今年も感じながら帰宅したのです。
2018.01.16
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次に「漁樵の間(ぎょしょうのま)」を訪ねる。立体切り文字書人 笹尾 真氏の作品コーナー。芥川や漱石などの文豪たちの名文を切り取っては幾重にも重ね合わせる立体切り文字アーティストの写経のような作風。芥川竜之介の小説「地獄変」よりの作品「重ねる」。 句読点を除いた冒頭の121文字を題材に、パソコンソフトで文字が絶妙に重なるようにレイアウト。それをプリントしたものを型紙に用い、余白部分をカッターナイフで無心に切り取っていく。ふと気がつけば、1日12時間カッターを握っていたことも少なくないと。そうしておおよそ2日かけてすべての余白を切り取ると、型紙を少しだけ拡大させた次の1枚に取り掛かる。2017年9月26日の時点で、積み重ねた枚数は128枚であると、そして日々更に重ねる枚数が増えている、 と説明文より。「春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少」「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」 四角錐。「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる 」「ずらす」芥川龍之介「羅生門」より。「ある日の暮方の事である 一人の下人が羅生門の下で雨やみを待っていた 広い門の下にはこの男のほかに誰もいない・・・・・」芥川龍之介「河童」「これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしやべる話である・・・・・・」平面であるはずの文字が、紙の中から浮き上がったり、飛び出たり、零れ落ちたりする奇妙さが不思議。数々の日本の有名小説家の作品を。夏目漱石「坊っちゃん」。「親譲りの 無鉄砲で小供の時から損ばかりしている・・・・・」「漁樵の間」の迫力と豪華な美しさに圧倒される。室内はすべて純金箔、純金泥、純金砂子で仕上げられ、彩色木彫と日本画に囲まれた美しさは息を呑むほどの絢爛豪華さ。床柱は左右ともに巨大な檜で、精巧な彫刻 (中国の漁樵問答の一場面)が施されている。格天井には菊池華秋原図の四季草花図、欄間には尾竹竹坡原図の五節句が極彩色に浮彫されている。格天井。欄間。欄間の浮き彫りが続く。 花見を楽しむ。牡丹を楽しむ。紅葉を船遊びで楽しむ姿。柱の彫刻。左手に斧、右の子供が乗っているのは、枝を入れたわら俵。中国の「漁樵問答」を題材に、山で生きる樵(きこり)と海で生きる魚師との立場の違う会話と口論の中で、ふと気づく、自然に中に生きる姿を表現していると。樹齢280~300年、直径60cmの巨木に深く彫り込まれた極彩色の彫刻に圧倒されたのであった。そしてこちらの欄間の浮き彫りも見事。 展示品の全くない時に、この部屋の美しさをゆっくりと観賞したいと感じたのであったが。 ・・・つづく・・・
2018.01.15
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入場受付でチケットを見せると、ビニール袋が渡されました。百段階段は、宴席が行なわれた7部屋(畳の部屋)を99段の階段廊下で繋いでいる建物の為、靴を脱いでの見学になると。 「百段階段」はどうして99段?・ 昔から奇数は縁起のいい数とされており、例えば日本の五節句は、1月7日「人日の節句」、 3月3日「桃の節句」、5月5日「端午の節句」、7月7日「七夕」、9月9日「重陽の節句」、 他にも、「七五三」、「三々九度」、「三人官女」、「五人囃子」、ひな壇の段数も5段飾り、 7段飾りなどで、その奇数のもっとも大きな数を2つ重ねて99段としたとされる。・「百」という数字は「完璧」「完結」を表す意味があり、一段足りないことで更に上を目指し 続けるという意味が込められている。・「九十九」を「完璧」の意味を持つ「百」の代用とし、日本古来の一歩控えめの文化を 表している。・「百」という数字は縁起の良い数字であり、王様を表すことから、雅叙園の創始者が百段に することを恐れ多いと考え、一段少ない九十九段とした。等々いろいろあるとのことですが真実は如何に???? 階段左には段数表示が。絢爛たる装飾を施された目黒雅叙園内の様子は「昭和の竜宮城」とも呼ばれ、ケヤキの板材で作られた園内唯一の木造建築「百段階段」(実際は99段)とその階段沿いに作られた7つの座敷棟宴会場の内の4つは、2009年3月16日に東京都指定の登録有形文化財(建造物)に「十畝(じっぽ)の間」、「漁樵(ぎょしょう)の間」、「草丘(そうきゅう)の間」、「静水(せいすい)の間」、「星光(せいこう)の間」、「清方(きよかた)の間」、「頂上(ちょうじょう)の間」、計7つ間を含む4棟の座敷棟(十畝、漁樵・草丘、静水・星光、清方・頂上)が登録されたと。 ちなみに現在残っている旧館は昭和6年に着工して昭和10年に完成した旧3号館。「百段階段」というのは、ここに残る階段の通称で、ケヤキ板の階段が微妙に角度を変えながら果てしなく続いていく感じになっていたのであった。 そして階段の天井にも多くの絵画が。 階段の左側に驚くほど広いトイレ。この広いトイレで用を足すには・・・・???? まずは「十畝の間(じっぽのま)」へ。 シャドーボックスのトップランナー・大橋禾苗(かなえ)氏の紹介パネル。シャドーボックスとは、精緻に切り抜いた絵を何層も重ねることで立体感を醸し出す光と影のアート。作品に光をあてると影(シャドー)ができることから、この名がついたと。起源は17世紀にヨーロッパの貴婦人の間で流行した、木工品や陶器などに絵を貼り付ける手工芸「デコパージュ」。その後伝わった米国でアレンジされ、立体の絵を額縁に入れる現在の姿になったと。シャドーボックスの作品が並んでいました。 「最後の審判」(2003年)H940 × W870× D105mm バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたルネサンス期の芸術家ミケランジェロの代表作「最後の審判」。2003年、大橋は絵を求めてバチカン美術館を訪れ、「天地創造」とともに持ち帰り、400人以上の人物を切り抜いては、白い切り口を消し、表情や立体感を出しながら貼り重ねている。制作に6ヵ月の時間と情熱を注いだ大作であると。「天地創造」も、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂に描いた天井画。シャドーボックスアート「源氏物語」。ヨーロッパ各国をはじめ、近年では日本でも芸術として高い評価を受けているシャドーボックス。7~8枚の原画を使い絵を忠実に再現し立体化、平面の絵に命を吹き込んで行くのだと。様々なシャドーアート作品。葛飾北斎「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」。初代~5代目の「市川團十郎」、原作は歌川豊國?鳳凰図 (葛飾北斎筆)。北斎83歳の頃、信州小布施の豪商の援助で屋敷に滞在中に東町祭屋台の天井に描いた絵であると。「帝国の薔薇」? 「ロスチャイルド家」(W1100×H730×D100)。「ベニスのカーニバル」。 浮世絵 歌川広重 日本橋 朝之景。「京都南座」切り絵人 杉本好夫画(2012 年)H530 × W680 × D90mm 十畝の間の天井には前室に8面、本間に15面、合計23面の襖仕立ての鏡面に荒木十畝による四季の花鳥画が描かれている。 黒漆の螺鈿細工が随所に見られる重厚な造りの部屋。螺鈿細工(らでんざいく)と花鳥画が調和する格式の高い部屋。欄間の下の長押、床の間の落掛、床框などに施された、この部屋の螺鈿細工は黒漆研ぎ出しというもので、漆地に研いだ貝殻を文様に切って張り、漆で塗り込めます。それを木炭で一面に研ぎ貝の文様を現すか、小刀などで文様部分の漆膜を削り起こして仕上げをするという、大変手の込んだ細工に。四季の花鳥図が格子天井一面に。 ・・・つづく・・・
2018.01.14
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昨年末の事になりますが、合同展「神の手●ニッポン展3」がホテル雅叙園東京にて開催されている事を知り訪ねてみました。「神の手●ニッポン展3」は、日本人ならではの感性と手先の器用さを活かした、まさに“神の手”のような技巧を持つアーティストたちの作品が集合する合同巡回展とのこと。第3弾となる今回の展示では、海外でも高い評価を受ける「シャドーボックス」をはじめ「立体切り文字」「現代切絵アート」などの紙のスペシャリストや、「組み木絵」、「ペットボトルアート」など素材に新たな命を吹き込む新たなアーティストを中心に、過去2回の参加アーティストの人気作品も見ることができたのです。日本人の感性や手先の器用さを堪能できる作品約80点が集結していました。 湘南新宿ラインで大崎で乗り換えJR目黒駅から徒歩で坂を下り目黒雅叙園へ。ここを訪ねるのは久しぶり。年末であったが目黒雅叙園入口の紅葉は今がピーク。 様々な催しが行われている模様。玄関前ロータリーの「お七の井戸」。八百屋の娘お七は、恋こがれた寺小姓・吉三逢いたさに自宅に放火し、鈴ケ森で火刑にされた。 吉三はお七の火刑後僧侶となり名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、 往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げたのだと。 明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園にかけ、明治13年頃まであったと。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前に お七の菩提を念じながら、心身を浄めたことから「お七の井戸」と言い伝えられているとのこと。目黒雅叙園 エントランス・ロータリー。入口ロビーのクリスマスツリー。この日は12月22日(金)。前庭の休憩所には赤い野点傘(のだてがさ)が。エントランスから施設の中に入ると広々とした豪華な回廊を通ってメインのホールまで向かうことになるのですが、この回廊からホテル雅叙園東京(目黒雅叙園)の魅力を感じさせてくれます。ここの広々とした回廊の横壁には、日本の伝統を感じさせる江戸の女性を思わせる大きな壁画や彫刻が飾られています。江戸の風俗を表した色鮮やかな彩色木彫版がずらりと並ぶ回廊が現れました。これらは一見すると絵画のようですが、よく見ると一枚の木に彫刻し彩色したもので立体になっていました。正面玄関を入って左手にある、きらびやかに輝くエレベーター。エレベーターには、外のドアも内部も全面に螺鈿(らでん)細工が施されていました。ドアを外側から。 螺鈿細工とは貝殻の内側の光沢のある部分を切り出しはめ込む工芸技法。ドアを内側から。 「神の手・ニッポン展3」のポスター。会期は2017年12月1日(金)から12月24日(日)まで。 豪華な螺鈿細工で飾られたエレベーターで上がった先には、谷川俊太郎の詩「もし神に」が展示されていた。『もし神に手があるのだとしたら その手は青空を包みこむほどにおおらかで 蜘蛛の糸を結ぶほどにこまやかだろう 神は独りではない 私たちのふるさとの朝夕には 昔から八百万もの神々がたむろしている そしてその幻の手を 夢見る指を 選ばれた人々に貸し与えるのだ まるで隠された運命のようにひそかに もし神がこの世を創造したのだとしたら 私たちは神の手の繊細さを 路傍の雑草のうちにも見るだろう その巧みに及ぶことはないと知りながら 辛抱強くその手を真似て ささやかな世界の似姿を作る喜び!』 最初に現れたのが総ビーズの着物。次の和衣裳のデザインを考えている時に、祖母の墓参で出掛けた霊園で、大きな藤棚の藤の花の満開に出会いこのデザインを決断したと。総ビーズ織り和衣裳「春曙」(しゅんしょ)大きさ:180cm x 120cm重さ:13kg弱総ビーズ数:約165万2000粒制作期間:延べ3年 とのこと。藤の花は私の住む市花なのである。 ビーズの織姫 金谷美帆氏。 神奈川県立湘南高校、学習院大学経済学部卒。在学中、ミス鎌倉、ミス熱海梅の女王に。IKC(伊豆急ケーブルネットワーク)アナウンサーを経て、1998年よりビーズ創作活動を始めたと。 ・・・つづく・・・
2018.01.13
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昨日1月11日は鏡開きの日。 鏡開きは、正月に神様や仏様にお供えしていた鏡餅を下げ、それを家族で食べるという習わし。鏡餅は、穀物の神様である年神様へのお供え物であり、神様の魂が宿るとされています。よって、鏡餅を食べることで、無病息災、健康長寿、子孫繁栄など良縁が期待できると言われているのです。神棚そして床の間に飾っておいたお供え餅を下げ降ろしました。 そしてお供え餅の部分だけに。白の不透明なプラスチックの器の中にビニールに入った角餅が・・・・。 底のビニールを剥がしてみると、ビニール袋に包まれた角餅では無く、2段重ねの餅が容器一杯に入っていたのです。これは昨年とは異なり想定外。 妻が包丁で細かく切ろうとしましたが歯が立たないと私を呼んだのです。 鏡開きでは、包丁や刃物を使ってはいけないとされています。包丁や刃物で切るのは縁起がよくないとされ、木槌(きづち)で叩いたり、手で割ったりして開くのだと。これは、鏡開きが室町時代の武家の間で行われていたことから、白い餅が重なっている姿は、人のお腹を想起させ、刃物は切腹を連想させるといって、槌(つち)で砕き割ったことに由来するといわれています。武家社会では、「切る」「割る」という言葉が嫌われていたため、「開く」という、末広がりに通じる、縁起をかつぐ言い方になったのです。 さすがに木槌など無いため、やむなく私も包丁で切ることに。しかしながら、我が実家も昔はお供え餅や揚げ餅を「押し切り 」で切っていた記憶も。妻が大根を切りながら餅を切ると良いと。そう言えば、昔祖母から大根はでんぷんを麦芽糖に変えるアミラーゼ??を含んでいるから、餅の表面の粘りが少なくなり、包丁がスムーズに通るのだと。 大根を切りながら包丁を上から抑え、上、下と順に力を入れ何とか小さくすることが出来ました。 そして、今年もお汁粉で夫婦仲良く!!楽しみました。我々夫婦の無病息災、健康長寿、子孫繁栄???良縁???を祈願しつつ。 テレビでは、鏡開きは、関東では1月11日、関西では1月15日に行われるところが多く、地域によって異なるとの説明が。 そして残る正月行事は、今年は1月14日に開催される予定の「どんど焼き」のみとなりました。
2018.01.12
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我が家の近くの民家の庭先の蝋梅が咲き始めています。半透明でにぶいツヤのある黄色く香り高い花がやや下を向いて咲いています。名前に梅がついているためバラ科サクラ属と誤解されやすいが、別属である。花びらがまるで蝋細工のようであり、且つ臘月(ろうげつ:旧暦12月)に咲くからこの名がついたと。ソシンロウバイ(素心蝋梅)、マンゲツロウバイ(満月蝋梅)、トウロウバイ(唐蝋梅)などの栽培品種があると。よく栽培されているのはこのソシンロウバイ(素心蝋梅)で花全体が黄色。葉っぱは、ふつう花が咲く前に落葉するのだと。花の香りが漂ってくると、暖かい春の到来が近いことを感じるのであるが。ロウバイの花言葉は、「慈愛」であると。この花は、人に愛惜しむ(いとおしむ)思いを感じさせてくれるのだと。中国では、ウメ、スイセン、ツバキとともに、「雪中の四花」として尊ばれているのだと。江戸時代初期に日本へ渡来し、ほかの花木に先駆けて咲く香りのよい花が愛され、生け花や茶花、庭木として利用されて来たのです。
2018.01.11
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今年も神奈川県から封書が届きました。発信先は「神奈川県 湘南地域県政総合センター 農政部地域農政推進課」中に入っていたのは本年・平成30年度の「蜜蜂飼育届」。養蜂振興法第3条第1項及び同施行規則第1条第1項の規定により、蜜蜂の飼育を行う者(県内に住所がある方が県外で蜜蜂の飼育をおこなう場合も含まれる)は、毎年1月31日までに下記の事項を知事へ届け出ることが必要なのです。従来から、少量でも蜂蜜等を販売している場合は、趣味養蜂家ではなく養蜂業者と 見なす運用としてきましたが、そのことを明確にするために、今般養蜂業者の定義を 「蜜蜂又は蜂蜜、蜜ろう若しくはローヤルゼリー等を利益を得て譲渡することを主たる目的として、蜜蜂の飼育を継続反復して行う者」との厳格な運用となったのです。私の如く、趣味として蜜蜂を飼育し、自家消費できず余った蜂蜜等 は売っている等の場合も従来から養蜂業者に該当すると扱われているのです。飼育届には現在の蜜蜂飼育状況として飼育の場所と飼育蜂群数を記入します。そして本年度の蜜蜂飼育計画として。養蜂場所と飼育予定最大群数を記入します。そして「土地使用承諾書」も提出が必要なのです。自己所有地以外の土地で蜜蜂を飼育する場合は、届出に「土地使用承諾書」を併せて提出する必要があるのです。こちらは兄に承諾書の記入をお願いしました。更に家畜伝染病予防法第5条1項の規定に基づく蜜蜂の腐蛆病(ふそびょう)検査 が原則年1回、全ての飼育群に対して家畜保健衛生所の検査が行われるのです。 そして越冬中の我が蜜蜂の状況です。巣箱を「プチプチ」で覆い、その上から発泡スチロールの箱を被せ保温をしています。 この日(1月9日)は日中は陽が射し暖かくなってきましたので砂糖水を与えました。 気温も更に上がって来て巣箱の外に出てきました。 蓋の隙間から砂糖水が滲み出て来ているのでしょうか?多くのミツバチ嬢が口を近づけていました。 こちらは別の群です。 プチプチで覆われていますが、ナイフで隙間を与えており僅かな隙間から出入りしているのです。これから寒さのピークを迎えますが定期的な砂糖水を与えていきたいと考えています。 そしてこの日の我が養蜂場のある菜園からの富士山の雄姿です。昨日は我が家は雨が降りましたが、富士山には雪が降ったのでしょうか? 以前より積雪量がやや増えたのではないでしょうか。しかし、まだまだ例年に比べて少ないような気がしますが。
2018.01.10
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我が家の庭の日本スイセンが開花を始めています。八重の花、 柔らかな花の印象 白い花弁の清楚な印象が美しいのです。 葉の中心から高さ20~40cmの花茎を伸ばし その先に5~8個、芳香のある花を横向きに咲かせています。 ナルキッスス・バルボコディウムでしょうか?小型原種スイセンの代表的な種類で、変種や亜種を含めて、ヨーロッパ南西部や北アフリカに広く分布しているようです。 花冠の広がった純白のペチコートのような花を、1茎に1花咲かせています。 黄色+橙色の小型のキズイセン(黄水仙)。キズイセン(黄水仙)の名前は、花の形がニホンスイセン(日本水仙)に似ていて、 色が黄色であるからに由来すると。 そして妻が台所に。
2018.01.09
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク遊行寺の散策を続ける。鐘楼。 延文元年(1356年)鋳造。鋳物師は物部光連と考えられている。藤沢市最古の梵鐘で、後北条氏の時代には小田原にあって陣鐘として使われていたという。その後、足柄の寿昌寺に移され、江戸時代に入って再び遊行寺に戻された。神奈川県の重要文化財。放生池の石の太鼓橋を渡る。放生池の先には御番方そして信徒会館が。元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代、「生類憐れみの令」発布にともない、次のような”おふれ”が出された。「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」。こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池に放生されたと。 遊行寺の受付は近侍司寮(ごんじしりょう)と呼び、信徒・団参の方々は、この御番方(ごばんかた)と呼ばれる入口から入るのだと。この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われている。 寺務所入り口。以前ここで御朱印を頂いた。左から寺務所、御番方、信徒会館。中雀門を御番方側から。中雀門を本堂側から。安政六年(1859)に建立された、遊行寺境内で最も古い建造物。四脚門で、高さ約6メートル、幅約2メートル70センチ。1880年の藤沢宿大火の被害は免れたが、1923年の関東大震災では倒壊しその後、そのままの形で再建され、現在にその姿をとどめていると。大棟に皇室との深いつながりを示す菊の御紋が。正月の御粧し(おめかし)をした今年の干支のワンちゃん。時宗総本山・藤沢山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)の本堂。 時宗の宗紋「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」の横断幕も。これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られたものと。本堂前の大香炉前で初詣客の交通整理に懸命な遊行寺の僧侶の姿。宗祖 一遍上人像。俣野大権現。遊行寺開基の俣野五郎景平が祀られている。開山の呑海は景平の弟といわれ、呑海が俣野領内の廃寺となっていた極楽寺に住んだことが遊行寺の始まりだと。本堂を俣野大権現の裏から。本堂前階段には初詣客の長蛇の列が。ダルマ販売所。破魔矢販売所。木造で高さおよそ3メートルの日限地蔵様をお祀りしている地蔵堂。遊行寺宝物館。「遊行寺の逸品」展を開催中。明治天皇御膳水井。明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸であると。大銀杏。樹高:16メートル、幹周り:6.83メートル。藤沢市指定天然記念物で樹齢700年余りと。時宗 真浄院(しんじょういん)入口。山門。白塀に囲まれた参道。本堂。清浄光寺の塔頭の筆頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。歴代上人が法燈をつぐ時や、遊行から帰ってきた場合にはここで宿泊することになっていたと。 本堂内部。ご本尊は阿弥陀如来。 赤門 真徳寺(しんとくじ)。清浄光寺の塔頭。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためと。遊行51代一法はこの寺の檀家から出ていると。三界萬霊。三界とは、無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界(よくかい)。無色界の上、つまり三界を超越したところに仏様の世界が存在すると。本堂。堂内部。ご本尊は阿弥陀三尊坐像。 板割浅太郎の墓。遊行寺の黒門の手前右に、遊行寺の塔頭真徳寺の墓地があり、そこに浅太郎の墓がある。板割浅太郎は、国定忠治の子分であった。ところが、忠次が浅太郎の叔父の中島勘助を裏切り者と疑ったとき、忠次は浅太郎の忠誠心を試すために、浅太郎に勘助の殺害を命じた。やむなく勘助を殺害した浅太郎だったが、そのときに4歳になる勘助の子勘太郎も殺害してしまった。これを悔やむ浅太郎は、遊行上人の手引きにより、遊行寺で出家し、やがて遊行寺の塔頭の1つ貞松院の住職となった。貞松院は今はなく、浅太郎の墓は現在遊行寺内の真徳院の墓地にある。「當院 四十二世 洞雲院彌阿列成和尚」と刻まれた石碑。時宗総本山・藤沢山無量光院清浄光寺の総門(惣門)・冠木門。右に「時宗総本山」、左に「清浄光寺」と彫り込んだ大きな木札がかかっていた。惣門前の青銅製灯籠・左。江戸講中をはじめとした信徒たちにより建造が望まれ、天保13年(1842)に建立。鋳造師は、江戸で活躍した西村和泉守藤原政時。後ろの石垣と築地塀は国の登録有形文化財。築地塀は、土と瓦を交互に積み重ねて作った土塀に、屋根瓦を葺いた立派なもの。高さ約2メートル80センチの青銅製の灯籠で、惣門前に対になって建立。右側の灯籠。消防車の車庫のシャッターには藤沢宿の浮世絵が描かれていた。ふじさわ宿交流館に立ち寄る。遊行寺の門前、藤沢宿の広小路と呼ばれていた場所付近にあり、ウオーキングや歴史散策の休憩に誰もが気軽に立ち寄れる施設。「ふじさわ宿交流館」と書かれた幟。箱根駅伝参加大学の幟も。館内では「みんなで応援! 第94回 箱根駅伝」が開催中。箱根駅伝の過去の写真が壁に展示され、テレビ放送も放映中。旧東海道藤沢宿関連資料が展示されていた。当時の藤沢宿のジオラマ。藤沢宿の地図も。藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであったと。そして帰路も遊行寺前からバスに乗り帰宅し、再び箱根駅伝の復路10区の選手の激走を楽しんだのであった。
2018.01.08
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク1月3日の箱根駅伝・復路観戦の後は初詣&散策に遊行寺に向かう。道路の反対側にあるのが(大鋸)諏訪神社。建武2年(1335年)、清浄光寺(遊行寺)を開いた遊行上人第四代呑海が同寺院の鎮守として、信州の諏訪から勧請したことにより創建された。慶安年間(1648年〜1651年)には鳥居の前での落馬事故が相次いだことにより風早之谷(諏訪ヶ谷戸、藤沢本町駅付近)へ転座され、さらに元禄12年(1699年)に現在地へ移転した。以来、藤沢宿東方面の大鋸町や大久保町などにおける総鎮守となっている。明治維新後の神仏分離によって清浄光寺から独立したが、現在でも祭事などでの関わりは続いていると。遊行寺の脇入口・東門から境内へ。境内案内図。 右手に一般的にはお寺にない建物が。神仏分離の為に諏訪神社と遊行寺が分かれてしまっが、昔は仲良くしていたので、今でも遊行寺境内に諏訪神社の神輿社が残っているのだと。社殿内には大きな神輿が2基。酒井重忠逆修六地蔵供養塔。酒井長門守忠重が萬治 3年 ( 1660 ) 1月 15日に逆修のために建立した六地蔵。逆修とは、生前に、自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること。生前に、墓石に朱書きで戒名を刻むことも逆修。酒井重忠五輪塔。この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士 酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進している。遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではと。右手の墓地の中にある堀田家三代の墓碑。一際大きな尖塔角柱型の5つの墓碑が。堀田正利夫妻・正盛夫妻・正仲の墓。正利・正盛の墓を遊行寺に新たに建立したのかについては明らかではないと。ただ、正俊は領地を高座郡(神奈川県)にもっていたことと正利は覚阿という阿号をもっていた時宗の信徒であり、その関係から埋葬されたと考えられると。長生院に向かう。遊行寺の本堂裏手にある長生院、別名小栗堂。長生院(小栗堂)。「小栗堂」の扁額が掲げられた入母屋造(後方は宝形造)銅板葺で妻入りの本堂。永享元年(1429年)、清浄光寺の塔頭として建てられた。本尊は阿弥陀如来。かつては「長照院」とも表記された。小栗堂の別名の通り、小栗判官伝説に登場する照手姫が晩年尼となって住んだという伝説が残る。遊行寺塔頭の長生院(小栗堂)には、常陸国の小栗十四代城主・小栗満重(小栗判官)の伝説が残されている。足利持氏に背いて反乱を起こし敗れた満重は、落ち延びる途中で藤沢宿にあった横山大膳の館に泊まった。大膳は、遊女・照手姫をつかって満重とその家来10名に毒の酒を飲ませ財宝を奪おうとしたが、満重だけは照手姫によって助けられた。死を免れた満重は、鬼鹿丸(おにかげまる)という名馬で遊行寺に逃れ、三河に落ち延びた後、横山一党を滅ぼしたのだと。満重の死後、照手姫は長生尼となって、満重と家来の霊を弔ったという。小栗判官と十勇士の墓。小栗判事公と十勇士の墓では宝篋印塔が整然と鎮座。照手姫之墓の宝篋印塔。球状の塔身は五輪塔の水輪か?両側に舟形光背観音菩薩像(左は貞享五年(1688)造立)名馬・鬼鹿丸(おにかげまる)の墓。照手姫の厄除地蔵尊。裏手の墓地からの本堂と回向堂(右)。回向堂を裏手から。墓所への石段の上に建つ回向堂は露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺で大きな裳腰を設けている。歴代上人の墓所入口に立つ銅板葺の高麗門と石塀。中央正面に「開山塔」。左右に歴代上人の墓塔が整然と並んでいた。遊行寺の境内奥にある宇賀神社を訪ねる。 徳川家の祖先とゆかりのある神社と伝わっている。 社殿の裏手にまわると、宇賀弁財天が祀ってあります。江戸時代から銭洗弁天として藤沢宿の人々に信仰されたと。そしてこの宇賀弁財天の後ろからは水が流れ落ちており、ここが「淵沢」・水のある淵⇒「藤沢」の地名となったそもそもの場所であると。 本堂と宗徒会館、大書院を結ぶ百軒廊下を潜る。 右手斜め前に放生池が見えて来た。 南部右馬頭茂時墓。南部茂時は陸奥国南部氏の十代当主。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって、鎌倉東勝寺で北条高時一族とともに自刃した。家臣の佐藤彦五郎が遊行寺に葬ったのだと。彦五郎はその後殉死。弟信長は盛岡に茂時の菩提寺「教浄寺」を建立していると。 ・・・つづく・・・
2018.01.07
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク箱根駅伝往路観戦の後は、徒歩にて白旗神社に初詣に立ち寄る。寒川比古命、源義経を主祭神として祀る。別名は白旗さま。 白旗神社は、藤沢宿西方面の総鎮守。もとは相模一の宮の寒川神社の寒川比古命の分霊を祀り、寒川神社と呼ばれていたというが、その創建年は不明。のちに、奥州平泉で自刃した源義経を祭神として祀ったことから、白旗神社と呼ばれるようになった。境内の巨大な絵馬には源義経の姿と4頭の犬が。 ところで写真右の『平成三十年戉戌歳』、今年は『戉戌(つちのえ・いぬ)歳』なのである。一般に干支と言うと、十二支の「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12種類を思い浮かべるが、本来は、五行思想に基づいた「木・火・土・金・水」を更に陰陽二極に分けた、十干と呼ばれる「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10種類と組み合わせ、合計60通りが存在するのです。戊戌は干支の35番目に当たり、2つ似たような漢字が並んでいる珍しい年であると。ところで十二支と十干の組み合わせで12×10=120⇒120年に一度にならないかの説明は私には解りやすく説明できませんので『干支は何故60通りなのか?』を参照願います。神楽殿 。神楽殿で神楽の舞を見られる時があると。神楽殿内では毘沙門天を祭っている。 社務所の前には色彩豊かな大小の熊手やお札が売られていた。 義経首洗い井戸の案内図も。お札を渡す社務所の巫女さん。 学生?も新年から頑張ってくれています。お炊き上げの火も勢いよく。 境内・神楽殿前から社殿を見上げる。社殿へ向かう階段下から。階段を上がったところにある源義経公鎮霊碑。伝説によると、文治5年(1189年)、閏4月30日に奥州平泉の衣川館で自刃した義経の首は、6月13日腰越の浜で首実検が行われた。その後捨てられた首は、潮にのって境川を上り、白旗神社近くに流れ着き、里人に洗い清められ葬られたと伝えられている。また、『東海道名所記』は、腰越に送られた義経と弁慶の首は、首実検後、夜のうちにこの付近に飛んできたと伝えている。このことを知らされた鎌倉の源頼朝は、白旗明神としてこの神社に祀るよう指示したのだと。平成11年、義経没後810年を経て、義経公の首実検のあった6月13日に白旗神社の御首と宮城県栗駒町判官森御葬礼所の御骸、両地の魂土(たまつち)を合祀し、義経公の兜を象ったこの鎮霊碑を建立したと。社殿。この社殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置。源氏の家紋の「笹竜胆(ささりんどう)」が幕や賽銭箱等あちこちに。拝殿には「忠友殿」の扁額が架かっていた。弁慶の力石。元(霊)玉、神石とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないという言い伝えが。昔、茶店で一服した農家や町内の若者たちが亀の甲羅に似たこの巨石を持ち上げて力比べをしたと。そしてバスに乗って帰宅し、箱根駅伝の小田原から芦ノ湖までの厳しい上りが続く5区での選手の激走を見守ったのであった。
2018.01.06
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元旦に元上司の方から下記の如き年賀状を頂きました。挨拶の最初の部分に多くの漢字が並んでいました。「震食倒毒末金戦帰虎災愛命偽変新暑絆金輪税安金北」 と。最初は戸惑いましたが『恒例の清水寺の世相を表す「今年の漢字」、昨年は「北」でしたね』で理解出来ました。「今年の漢字」は、漢字(日本語漢字)一字を選びその年の世相を表す字であるとして決定、公表する日本漢字能力検定協会のキャンペーン。1995年(平成7年)に開始し、毎年12月に発表しているもので今年で23回(字)目。1995年(平成7年)は阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件(一連のオウム真理教事件)により社会不安が広がった事からこの漢字「震」になった。そして昨年2017年(平成29年)は「北」。北朝鮮のミサイル発射や核実験の強行、九州北部豪雨、北海道産のじゃがいもの不作、北海道日本ハムの大谷翔平選手や清宮幸太郎選手、競馬キタサンブラックなどが選ばれた理由として挙げられたのです。過去には、「絆」や「金」や「愛」など、心溢れる漢字もあったというのに、2017年の漢字一文字は、何とも心と体が冷える一文字「北」になってしまったのであった。そして右の緑の丸の中には「子子子子子子子子子子子子」って何て読む?と。この漢字の羅列は初めて見るもので私にはちんぷんかんぷん。更に読んでいくと答えが書いてありました。 12個連なった「子」の字、これは日本に昔から伝わる言葉遊びで、「ねこのこ、こねこ、ししのこ、こじし(猫の子子猫、獅子の子子獅子)」と読むのだと。嵯峨天皇が国を治めていた平安時代に、文人・小野篁に対して出した問題だとか。子という漢字には、「ね」(十二支ではネズミ)、「こ」(女性名に多い)、「し」「じ」(音読み)の4通りの読み方があるのだと。これに気づいた小野篁は、正解を言い当てたそうです。昔の高貴な方のなぞなぞ遊びだったのでしょうか?それにしても挨拶の内容について、現役時代の上司のお人柄が今でも感じられ、現役時代のお姿を思い浮かべ懐かしさを感じたのです。 そして『言葉遊び』をキーワードに検索すると様々な情報が。★読めない「難しい漢字の食べ物」ランキング私は半分も読めませんでしたが、皆さんは如何に?1位:陸蓮根(おくら)2位:和蘭芹(パセリ)3位:鹿尾菜(ひじき)4位 :鯔(とど)5位 :章魚(たこ)6位 :木通(あけび)7位 :豌豆豆(えんどうまめ)8位 :玉蜀黍(トウモロコシ)9位 :御強(おこわ)10位 :甘蕉(バナナ)11位 :捏(つくね)12位 :湿地(しめじ)13位 :甜瓜(メロン)13位 :外郎(ういろう)15位 :鮟鱇(あんこう)16位 :鰊(にしん)17位 :浅蜊(あさり)18位 :桜桃(サクランボ)19位 :鰈(かれい)20位 :牛蒡(ごぼう)★様々な回分(かいぶん)回文とは、始めから(通常通り)読んだ場合と終わりから(通常と逆に)読んだ場合とで文字ないし音節の出現する順番が変わらず、なおかつ、言語としてある程度意味が通る文字列のこと。有名な和歌には■長き夜の 遠の眠りの 皆目醒()め 波乗り船の 音の良きかな (なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな)■村草に くさの名はもし 具はらは なそしも花の 咲くに咲くらむ (むらくさに くさのなはもし そなはらは なそしもはなの さくにさくらむ)■惜しめとも ついにいつもと 行春は 悔ゆともついに いつもとめしを (おしめとも ついにいつも とゆくはるは くゆともついに いつもとめしを) 「世界一長い回分」はこれと。最近ではパソコンで比較的楽に作れると言いますが・・・・???この長さには感服!!!★様々な回分数(かいぶんすう)回分数は14641のように逆から数字を並べても同じ数になる数。2桁の回文数は以下の9個である。11, 22, 33, 44, 55, 66, 77, 88, 993桁の回文数は90個ある。101, 111, 121, 131, 141, 151, 161, 171, 181, 191, … 909, 919, 929, 939, 949, 959, 969, 979, 989, 9994桁の回文数は90個ある。1001, 1111, 1221, 1331, 1441, 1551, 1661, 1771, 1881, 1991, ..., 9009, 9119, 9229, 9339, 9449, 9559, 9669, 9779, 9889, 9999平方したとき回文数になる非回文数は 26, 264, 307, 836, 2285, 2636, 22865,…である。 ( 例. 2642= 69696 )立方数が回文数になる数は 1, 2, 7, 11, 101, 111, 1001, 2201, 10001,…である。 ( 例. 22013 = 10662526601 ) この日も多くの「学びの場=ブログ」となりました。
2018.01.05
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テレビのニュースで年明け早々の1月2日の満月は、今年・2018年で最も大きく見える満月であると。早速、デジカメを三脚にセットし庭に出て満月を撮影しました。私の説明では、解りにくいと思いますので、国立天文台のホームページから転記します。一昨日、1月2日に月が最大の満月として見える理由を以下の如く説明しています。『月は、地球の周りを公転しています。月の軌道は円形ではなく楕円形をしているため、地球と月との距離は一定ではありません。また、月の軌道は太陽や地球などの重力を受けてわずかに変化するため、月が地球に最も近づく位置(近地点)や、最も遠ざかる位置(遠地点)での距離は、下の図のように毎回異なります。中央付近の1月2日の満月は、朝の6時49分ごろに月が地球に約35.7万kmまで最接近し、その約3時間半後の11時24分ごろにちょうど満月となるのです。(しかし、この時間は昼間であるため、満月の姿は見えないのであった。) 【https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2018/01-topics02.html】より満月における地心距離(地球の中心から月の中心までの距離)は、およそ35万6千キロメートルから40万6千キロメートルの間で変化します。5万キロメートルの違いですから約地球8個分となります。そして、月の視直径(天体の直径を見込む角度で表した値のこと)は、地球と月との距離が近いときには大きく、遠いときには小さくなります。最も大きな満月は最も小さな満月に比べて、14パーセント視直径が大きく、30パーセント明るく見えます。 【https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2018/01-topics02.html】より。2018年で最も大きな満月となるこの日・1月2日には、月は朝の6時49分に近地点を通過し、11時24分に満月となります。満月の瞬間の地心距離は約35万7千キロメートル、視直径は33分30秒角です。2018年で最も小さな満月となるのは7月28日です。月は7月27日14時44分に遠地点を通過し、28日の5時20分に満月となります。満月の瞬間の地心距離は約40万6千キロメートル、視直径は29分25秒角です。』 私が撮影した時間は23:17ですのでピークの6:49から17時間過ぎていましたので少し小さくなっているのでしょうが。 『月を実際の夜空に並べて大きさを比べることはできませんが、上の図のように2018年最大の満月と最小の満月を比較すると、大きさの違いがよくわかります。最近では大きく見える満月が話題にのぼり、注目されるようになってきました。』と。 そして更にズームでこの夜の月を撮影しました。中央下に光条(放射状の光の筋)を放っている「コペルニクス」。直径93キロ、深さ3760メートルのクレーターであると。右に「ティコ」。月面の南部に位置するクレーター。こちらも非常に大きく直径85キロであると。太陽が当たると明るく輝いて、1500kmにも及ぶ光条(放射状の光の筋)を放っていると。地球からの反射光だけでもこの光条を見ることができるのだと。中央左から晴れの海、静かの海、豊かの海そしてその下が神酒の海、中央上が危険の海。ところで、月を見る時地平線近くでみる満月はすごく大きく感じるのに、真上に来たときに見た満月は普通の大きさに見えると感じる事はないでしょうか?朝日や夕日も同じであると。結論から言うと、なんと実際の大きさは、地平線近くの時も、真上の時も、ほぼ同じ大きさだということ。下図の左右の月の大きさは同じなのであるが、視界にビル群が入る右の月の方がやや大きく見えるのです。 しいて言えば、実は真上の時の方が逆に若干大きくなると。これは地球と月の距離に因ると。すなわち、「錯覚」でそう見えているだけとのことであると。なぜ錯覚が起こるのか?まだはっきりとした説明はついていないのだと。上図の如く月の近くに建物や山などの景色が見えて、それと比較できる時とそうでない時で、大きさの感じ方が違うのではないか、という説が有力なのだと。上の図は「エビングハウス錯視」の例。左右のオレンジの丸部分は同じ大きさなのだ。繰り返しになるが対象物の周囲に物があると、それに影響されて大きく見えたり、小さく見えたりする錯覚なのだと。年初からいろいろと勉強になったのです。 しかし不思議なものです。 今年もこの様な好奇心からの学びを増やしていきたいのです。
2018.01.04
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この日1月3日も箱根駅伝の復路観戦に向かう。遊行寺前でバスを降り遊行寺の境内へ。遊行寺門前の境川に架かる橋「遊行寺橋」を渡る。江戸時代に旧東海道が境川を渡るところに架けられた橋。旧東海道からこの橋を渡ると遊行寺の入口。 江戸時代、藤沢は東海道の六番目の宿場町として栄え、 江の島詣の客などで賑わったのだ。 現在の橋は、1960年(昭和35年)に架けられたもの(「かながわの橋100選」)。遊行寺の総門の鏑木門。日本3黒門の1つ。遊行寺は“清浄光寺(しょうじょうこうじ)”とも言って、一遍上人を宗祖とする時宗の総本山。遊行寺境内を横断し、遊行寺の坂を上り、この日の観戦場所に陣取る。この場所は、復路8区(21.4km)の15.6km地点の遊行寺坂。復路の57.7km地点、 総合:165.2 km地点である。未だ日本テレビの固定カメラには人もカメラもなし。暫く待つと宣伝カーが漸く通過。この8区を走る関東学生連合の選手は慶應義塾大学の選手であるので慶大の応援幟を持った学生の姿も道路の反対側に。技術総務車が通過。そして対向車線にはクラシックカーが今年も。テレビ中継車が通過。1位(通過) 青山学院大学・下田 裕太選手。時間は10:48。区間新記録を目指して遊行寺の坂を懸命に上る。2位通過を待つ間にもクラシックカーが。自分の愛車を箱根駅伝観戦の群衆の中で走らせるのが年初の楽しみなのであろう。上空にはヘリコプターが。遊行寺固定カメラのカメラマン。2位 東洋大学・浅井 崚雅選手トップ差:05:34 / 間隔:05:34 と大差がついていた。3位 東海大学・館澤 亨次選手、4位 早稲田大学・大木 皓太選手トップ差:10:41 / 間隔:05:07 さらに大差。母校も私の目の前で東海大学に抜かれてしまった。5位 法政大学・大畑 和真選手トップ差:10:59 / 間隔:00:18 早稲田を必死に追う。6位 日本体育大学・山口 和也選手、7位 城西大学・大石 巧選手トップ差:11:29 / 間隔:00:308位 拓殖大学・白髪 大輝選手、9位 中央学院大学・有馬 圭哉選手10位 帝京大学・田村 丈哉選手トップ差:12:41 / 間隔:01:1211位 順天堂大学・野田 一輝選手トップ差:14:25 / 間隔:01:4412位 中央大学・神崎 裕選手トップ差:15:55 / 間隔:01:3013位 駒澤大学・白頭 徹也選手トップ差:17:06 / 間隔:01:1114位 東京国際大学・佐伯 涼選手トップ差:17:42 / 間隔:00:3615位 國學院大學・松永 拓馬選手トップ差:17:51 / 間隔:00:0916位 神奈川大学・秋澤 啓尚選手トップ差:18:06 / 間隔:00:1517位 大東文化大学・山本 翔馬選手トップ差:19:29 / 間隔:01:2318位 山梨学院大学・古賀 裕樹選手トップ差:20:08 / 間隔:00:3919位 国士舘大学・守屋 太貴選手トップ差:20:22 / 間隔:00:1420位 関東学生連合(慶應義塾大学)・根岸 祐太選手トップ差:23:38 / 間隔:03:16 21位 上武大学・石井 僚選手トップ差:24:16 / 間隔:00:38最後にパトカーが。そしてこの日も、遊行寺境内を散策後にバスで帰宅し、テレビ観戦。そして結果は青山学院大学が逆転優勝。史上6校目となる、4連覇を達成往路2位の青山学院は、トップの東洋大から36秒差でスタート。すると、3年連続で6区を走る山下りのスペシャリスト、小野田 勇次選手が快走を見せた。東洋大を抜き去り、トップに躍り出ると、その後もペースを落とさず、逆に52秒の差をつけてタスキをつないだ。青山学院は、続く7区でも、3年生の林 奎介選手が、初出場ながら区間新記録を更新する激走。さらに8区、エースの4年生・下田裕太選手が、3年連続の区間賞を獲得。王者の風格が漂う、盤石のタスキリレーを展開したのであった。そして我が母校も、最終10区で4年生が意地の走りを見せ、見事2年連続の3位でのゴール。続いて日体大4位、東海大5位。続いて、法大が6位に入った。予選会から出場した3校・城西大、拓大、帝京大が続きシード権を獲得し、10位に中央学院大が滑り込む。順大は追い上げたが届かず11位、駒大は12位、優勝候補の一角の神奈川大も13位に、更に常連の中央大学、大東文化大学、山梨学院大学も10位以内に与えられる来年のシード権を確保できなかったのであった。各校の全区間の順位変動。青山学院大学、東洋大学は2区以降安定した走りで終始し選手層の厚さを示したのであった。 【http://www.yomiuri.co.jp/hakone-ekiden/】より今年も2日間にわたり、日本人が最も興奮する、そして正月の恒例のスポーツイベントのひとつとなっている「箱根駅伝」を生で楽しんだのであった。毎年、この箱根駅伝はどの大学が勝つかだけではなく、各選手によるパフォーマンスも大きな見どころ。特に注目が集まるのは最長距離のコースや、坂道が続くなどの最難関コース。日本最強の若いアスリートたちが極限に挑む姿を生で見ることは興奮は止まらないのである。そして箱根駅伝観戦&初詣をセットで済ませる人の数が益々増えているのを感じたのであった。箱根駅伝中継の裏番組は何をやっても太刀打ちできないのが平和な日本の現実の姿なのである。
2018.01.03
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今年も今日1月2日に箱根駅伝・第94回 東京箱根間往復大学駅伝競走の観戦応援に行って来ました。例年同様、妻と我々の孫2人を連れて長女の家族も一緒に。我が家の近くのバス停に向かうと、途中に今年も材木屋さんの巨大な年賀材木が。中央には今年の戌年と犬、富士山の姿そして2018の文字が。バスの車窓からは雲一つ無い青空の下に富士山の雄姿がはっきりと。遊行寺前でバスを降り、藤沢橋の交差点に向かう。箱根駅伝のための交通規制の案内。藤沢バイパスの完成により、この旧国道1号は神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線と言う名称になっていることを初めて知ったのであった。道路脇には旧東海道・藤沢宿の浮世絵が。初代歌川広重「東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)」。遊行寺の側から大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠(おみきわく・大山から水や酒を持ち帰るためのもの)で大山詣を象徴していると。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺える。藤沢橋交差点には既に多くの観戦客が道路両側にビッシリと。いつもの母校応援場所に到着。受付を済ませ、炊き出しのきりたんぽ鍋をご馳走になる。今年の大会ポスター。 道路には、交通整理員のボランティアの方がユニホーム姿で。母校応援場所近くに陣取り選手の通過を待つ。 この場所は、藤沢橋通過後の上り坂の途中。スタートから約50km、第3区:戸塚~平塚間(全長21.4km)の前半5.7kmの場所。「荷物車」が通過し選手が迫って来ていることを実感。「大会会長車」も通過。共催の読売新聞社販売店のオジサンが応援用の旗をバイクで配る。そしていよいよ「宣伝車」が近づく。「関係者係バス」。「広報車」が通過の近いことを放送しながら走る。観戦場所から藤沢橋をズームで。歩道上には観戦客が溢れていた。晴天、風も無く温度もそれ程厳しくないため今年の出足が例年以上か。先導のパトカーが通過。そして日本テレビの「第1テレビ中継車」の姿が。時間は10:26過ぎ。そして首位を走る東洋大学・山本 修二選手。2位は青山学院大学・田村 和希選手。トップ差:00:12 / 間隔:00:12。3位は神奈川大学・越川 堅太選手。トップ差:00:59 / 間隔:00:47。「大2テレビ中継車」。4位は早稲田大学・光延 誠選手、5位 拓殖大学・赤崎 暁選手そして6位 山梨学院大学・首藤 貴樹選手。この集団はトップ差:01:47 / 間隔:00:487位は東海大学・鬼塚 翔太選手。トップ差:02:26 / 間隔:00:398位 日本体育大学・三原 卓巳選手、9位 中央大学・中山 顕選手。トップ差:03:24 / 間隔:00:2010位 順天堂大学・橋本 龍一選手、11位 帝京大学・濱川 駿選手(重なってしまいました)、12位 駒澤大学・下 史典選手。この集団はトップ差:03:34 / 間隔:00:10。13位 城西大学・島 公平選手。トップ差:03:34 / 間隔:00:1014位 中央学院大学・横川 巧選手。丸坊主に鉢巻きで奮闘中。暑くなったか手袋を外す。トップ差:03:53 / 間隔:00:1915位 國學院大學・青木 祐人選手。トップ差:04:2016位 法政大学・細川 翔太郎選手、17位 国士舘大学・多喜端 夕貴選手。トップ差:04:26 / 間隔:00:0618位 上武大学・熊倉 優介選手。トップ差:04:28 / 間隔:00:02。19位 大東文化大学・川澄 克弥選手。トップ差:04:36 / 間隔:00:08。20位 東京国際大学・シテキ・スタンレイ選手。トップ差:05:44 / 間隔:01:08この後はかなりの差が出来ていた。ご自宅の2Fベランダから観戦する父子。羨ましい限りであった。そして最後尾は(21位) 関東学生連合(桜美林大学)・田部 幹也選手トップ差:10:55 / 間隔:05:11 / (記録:参考)全選手が無事通過し、その後ろから「緊急対応車」が通過。白バイと最後尾のパトカーには「C」の文字板が。そして応援受付場所に戻り、3区~5区の母校の選手の健闘を祈り、いつもの校歌斉唱。老若男女100人近く参加していたのであろうか。母校在学時に応援団に所属していた後輩が指揮。最後に母校後輩の市長が挨拶。帰路もバスを利用し帰宅して更にテレビ観戦。そして往路:東京-箱根(5区間107・5キロ)は東洋大が4年ぶり6度目の往路優勝を果たしたのであった。1区で首位に立つとその後もトップの座を譲ることなく芦ノ湖のゴールに飛び込んだ。4連覇を目指す青学大は36秒差の2位、3位には母校・早大が入ったのであった。そして観戦した第3区の区間賞は先頭を走った東洋大・山本修二選手で1時間2分17秒。 更に4区は8人が区間新のハイレベルな戦い!!実は昨年からコースが長くなっており区間新記録は昨年の記録のみなのであった。5区の区間新、往路区間新記録も同様なのである。 往路結果速報。 そして先程妻から『 箱根駅伝「薄底vs.厚底」靴の知られざる闘い』もあるのだと。 明日は8時に箱根をスタート。トップから10分以上遅れた17位大東文化大学からは一斉スタートとなる。 そして明日も遊行寺坂付近にて復路の観戦予定なのである。
2018.01.02
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皆さん 明けましておめでとうございます。2018年のスタートです。今年も、妻と2人で湘南海岸・江の島東浜からの初日の出を迎えに行って来ました。6時前に家を出て小田急線で片瀬江ノ島駅へ。電車は初日の出へ向かう人々でかなり混雑していました。ライトアップされた竜宮城の如き片瀬江ノ島駅。弁天橋からの江の島。既に?江の島シーキャンドル(展望灯台)のライトアップはなし。東浜海岸に出ると既に海岸には初日の出客がぎっしりと。東浜からの江の島。東の空はだんだんと赤みを増して来た。波打ち際にも初日の出客が列をなしており、砂浜に打ち寄せる白波の姿は殆ど見られないほどにギッシリと。これぞ日本の姿。日本は年始を重視し、欧米諸国は年末を重視すると。日本は初物に縁起を担ぐ風習があるが、欧米は年末恒例のカウントダウンでニューイヤーを祝うだけ。それ以前にキリスト教国ではクリスマスという大イベントを祝っているので、これが日本で言うこの正月に当たるとのだと。海鳥も仲間達と一緒に初日の出見物か?時間は6:41過ぎ。三浦半島の山の上の雲の上端が赤く輝きだした。1週間前の天気予報では曇りであり初日の出を見るのは難しいとのことであったが、山の上の僅かな雲のみで初日の出が見られること間違いなし。そして2018年の初日が姿を現す。時間は6:55過ぎ。上空の白き雲そして空も朱に染まって来た。真っ赤な太陽が顔を出すとともに一筋の光の道が相模湾の水面を渡ってのびて来た。そして水面に縦に長い赤き帯も輝きを増す。そして太陽が完全に姿を現す。時間は6:57過ぎ。周囲もかなり明るくなってなって来た。水面にはウィンドサーファーの姿と多くの海鳥が。波打ち際の人々はカメラを頭の上に翳してシャッターを押し続ける。今年も良き年になりますようにと。光の赤き帯は時間とともに輝きを増して、赤い太陽は海に空にと光を配る。いつまでも光の帯を追い続けたのであった。気温も厳しくなく、風も無く波も静かな正月の湘南海岸。そして東浜から江の島弁天橋の下の地下道を渡り西浜に向かう。大きな石灯籠にも今年の初日の陽光が。江の島弁天橋の椰子の木にも陽光が。そして片瀬漁港にある「海の詩」像。そして富士山の雄姿。今年は雪の少ない富士山。この時間の西浜海岸の人の姿は少なくなっていた。富士山と右側には丹沢の山々が。富士山の雄姿を見入る女性の姿。静かな相模湾にはサーフィンの若者の姿が。「♪♪真白き富士の嶺、緑の江の島・・・・・♪♪」気がつけば周りは朝の空気に包まれて、いつもの午前7:30過ぎの空の色をしていた。江の島シーキャンドル(展望灯台)をズームで。再び小田急線各駅停車で帰路に。そして地元の神社に初詣。昨年この神社で購入した破魔矢をお焚き上げとして納めた。そして今年の破魔矢を購入。身代わり地蔵も赤の綺麗な帽子と涎掛けでお色直し。そして帰宅は8:20過ぎ。自宅前の畑は未だ霜で真っ白。雪が降ったが如しだが地面はコチコチ。湘南地方であるが我が家は標高41mの地に。元同僚の先輩は昔、「ここは湘南ではない」と。一歩譲ってズバリ「湘南のチベット」とも。我が菜園の苺の葉の紅葉と白とのコラボ。ブロッコリーの葉も白く変身。これぞ自然の芸術作品。この寒さの中でミツバチは頑張ってくれているか?お年玉代わりの砂糖水をプレゼントする為に趣味の養蜂場に向かったのであった。
2018.01.01
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