全39件 (39件中 1-39件目)
1
「北条中学校」手前で、北条地区を案内していただける地元役員の方と合流しバスはUターンする。一面の田園が拡がる。事前に北条地区の案内書をOBの方から見せていただく。「歴史と文化の香るまち北条 越後北条城山圖」。「歴史のまち北条 ~越後毛利氏と北条城~毛利氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の重臣大江広元(おおえひろもと)の子・季光(すえみつ)が相模国毛利荘(神奈川県)を譲り受け、毛利氏を名のったことから始まります宝治合戦(ほうじのかっせん)でその一族は北条氏に滅ぼされました。この時、本拠地の相模国毛利荘などは没収されましたが、佐橋荘と安芸国(あきのくに)吉田荘は領地として認められ、季光の子経光(つねみつ)が南条に移り住んでいたことから、北条(きたじょう)が越後毛利発祥の地になりました。また、西国最大の戦国大名となった毛利元就は、遠隔地の領地を維持するために安芸国吉田荘に土着した一族の末裔(まつえい)です。経光の長男基親(もとちか)は北条毛利(きたじょうもうり)となり、その子時元を初代城主に迎えた北城は戦国の時代まで続きました。城主の中でも、上杉謙信の重臣として上野国厩橋(うまやばし・現前橋市)に派遣さた北条高広(きたじょうたかひろ)と、御館の乱(おたてのらん)に関わったその子北条景広は、鬼丹後としてともに有名です。北条城は、この御館の乱で景広を最後に約300年間の歴史に幕を閉じました。「石仏のまち北条北条のまちを歩いてみませんか、きっとあなたはたくさんの石仏に出会います。ほほえみかける石仏、歴史を刻む石仏、そのお顔やお姿、そしてそこに彫られた文字は遠い先人たちの暮らしの証です。北条は道祖神の宝庫です(13基)。男女神が肩を抱き合い、お酒を酌み交わす姿はいとおしいばかりでなく、素朴な祈りの心がにじんでいます。盲人米山検校(けんぎょう)の話をご存じですか。検校は宝暦の飢饉(1755 )のとき、私たちの祖先を救ってくれました。出身地杉平には墓があり、十二の木と大角間(おおがくま)にはお礼の塔が建っています。廃村した鷹之巣には「祖霊之碑」があります。この碑は先祖の眠る山河が私たちの心のふるさとであることを教えてくれます。」「北条マップ」。ズームして。「北条の宝物」。「北条小唄👈リンク春はうれしや城山ざくら 唄に流れる 唄に流れる 斧の音(北条城跡)思い出します縦貫道路 可愛いあの娘の 可愛いあの娘の 片えくぼ(縦貫道路)丘のほとけをおぼろに染めて さくら参道は さくら参道は 七曲がり(入定上人遺蹟)夏の涼みは長鳥川よ 闇に浮かんだ 闇に浮かんだ 豆木橋(専称寺の豆木門)とけた情けも大師のふしぎ 千とせ塩ふく 千とせ塩ふく 法の水(弘法の塩水井戸)検校米山困窮塚の むかし語りも むかし語りも 草の底(米山検校)秋は十五夜祇園の拍子 火防係の 火防係の 意気姿(北条の十五夜祭り)想いこがれてトンネル抜けて 逢いに来たぞや 逢いに来たぞや 月あかり(畔屋~山澗トンネル)」手に手結んで大杉さんに なんの願いを なんの願いを かけたやら(中村の大杉)肩を並べて金倉スキー 日本海まで 日本海まで ひと息に(金倉滑降)恋のかよい路吹雪にくれて 広田恋しや 広田恋しや 湯のけむり(広田鉱泉)雪にうもれた愛宕の山に 恋のスロープ 恋のスロープ 花が咲く(愛宕山)「北条の伝承料理丹後のやきもち さしみコンニヤク 手打ちそば北条には、古くから伝わる数々の伝承料理があります。それは、自然の素材を慈(いつく)しみ調理された心温まるおふくろの味です。」。そして最初に案内していただいたのが「佐橋神社(さはしじんじゃ)」。バスを下りると、こんな物がありました。右に曲がって、もう少し上れと言うことのようです。「毛利氏の城館址(じょうかんし)と佐橋神社鎌倉時代、この丘に佐橋庄の地頭毛利氏の居館があった。子孫は各地に分散。ここに残った一族は南条氏といい、上杉氏に仕える。慶長3年(1598)廃城。天和3年(1683)、城跡保護のために神社が建てられ、慶應元年(1865)佐橋神社と改称。」参道を進む。モミジの黄葉。ズームして。石灯籠。土塁跡のような土盛りを、神社の周りで見かけた。「毛利元就ルーツの地」碑。佐橋神社は、佐橋庄の荘園居館のあった場所で、ここを拠点に7が村に及ぶ広大な領地を経営し現在の「鯖石」の語源になりました。鎌倉時代、源頼朝の重臣、大江広元の孫にあたる毛利経光がこの丘に移り住み、その後の越後毛利、西国毛利の発祥の地になったことでも知られています。「三本の矢」の故事をのこした毛利元就ルーツの地であり、学問を好む風土は江戸時代の教育者藍澤南城(あいざわなんじょう)にも引き継がれました。「毛利氏略系図(戦国時代まで)」をネットから「鎌倉殿の13人」で「政所別当 大江広元」役は栗原英雄さん。大江広元は北条親子に次ぐNo.3の座につき、「承久の乱」では大江広元の嫡男だった大江親広は後鳥羽上皇に呼び出され官軍側となり、大江広元と大江親広は親子で戦うことになったのだ。生涯を通じて鎌倉幕府に尽くして幕府の発展を支えた大江広元だが、1225年(元仁2年/嘉禄元年)に激しい下痢を伴う病気を患い、亡くなったと。墓所は源頼朝の墓の近くにありますが、現在の神奈川県鎌倉市にある明王院(みょうおういん)の裏山にある、「五重塔が大江広元の墓所」👈リンク と考えられているのだ。「佐橋神社」の拝殿。近づいて。扁額「佐橋神社」。木鼻の彫刻。神楽殿。毎年恒例の春季大祭時にこの神楽殿で行われている「子供神楽」の写真をネットから。境内の石祠。『毛利氏供養塔』。建立された関修さんは、仕事の関係で福島県いわき市に移住されたとのこと。供養塔の後ろに見える建物は、「ごぼう庵」。「毛利氏供養塔建立の趣意この地は大正十二年まで関修家の居住地であった。往昔、東隣高台に毛利氏の城館があったことから、屋号を「城」といい先祖以来毛利氏の霊牌を奉祀してきた。毛利氏は大江広元の四男季光が毛利庄(神奈川県厚木市)に住む毛利家を称したことにより誕生した。宝治元年鎌倉で三浦氏の乱が起こり、毛利の一族が族滅した。偶然にも季光の四男の経光が生き残った。経光は毛利庄から佐橋庄へ下向し、東隣高台に居館を構い、佐橋庄(柏崎市)と吉田庄(広島県安芸高田市)を支配した。経光の子孫は当地南条から北条、安田、石曽根、善根へ分流し、越後毛利氏を形成した。また毛利元就、同輝元らが出た西国毛利氏の先祖は、経光の四男時親である。兼ねてから関修は毛利氏とゆかりの南条の歴史的価値が永く伝え継がれることを願うとともに、毛利一族の供養を宿願してきた。このたび、知友関喜四郎氏の協力を得て旧宅地を整備し、毛利氏供養塔の建立を志した次第である。 合掌 平成二十四年十一月二十六日 建立者 関 修 施工者 関 喜四郎 撰文 関 久」「墓誌」。毛利経光の戒名は「盛生院法榮佑徳信士」と。竹林前にも案内板が。「妙姫庵跡(みょうきあんあと)弘化元年(1844)、藍澤南城の妹佐和47才が出家して玄妙と名のり、妙姫庵を開いた。玄妙・妙真・貞順・厚順・良仙・仙宗が在庵し、通称観音堂とよばれた。昭和46年(1971)以後に仙宗が小出に去り、廃庵となる。」墓地には無縫塔が並ぶ。関氏の墓地。「先祖 関儀右庄門」と刻まれた碑。多くの石仏が刻まれた石塔。ここにも歴史を感じさせる石碑、石仏。「大乗妙典供養塔」と。衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した仏教経典である「大乗妙典」を一千回以上、独誦したときの記念に建てた石碑であると。「城址殉難者碑」。「城址殉難者碑明治31年(1898)、妙姫庵3代山岸貞順が建てた。同18年(1885)佐橋神社境内から出土した頭骨を埋葬したものである。大正12年(1913)、地元の旧家関周三郎は山口県毛利公爵家にこの頭骨は毛利経光のものではないかと照会している。」大きな墓石、塔婆には「大姉 廿七回 追善供養」の文字が。「祖先累代法塔」「童女」の供養塔・石仏が並ぶ。廃寺の本堂を移築して「ごぼう庵」と名づけてお茶を飲ませてくれる店と。ネットには休業中ともあったが。店の前には、多くの盆栽が置かれていた。「ごぼう庵」店主の趣味なのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.31
コメント(0)
左手に見えて来たのが「ガーラ湯沢駅」。「ガーラ湯沢駅」は、新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。JR東日本のグループ会社が経営するガーラ湯沢スキー場に直結している。JR東日本社員の発案による社内プロジェクトとして、上越新幹線の越後湯沢駅に隣接する保線基地の裏山に開業したガーラ湯沢スキー場への利用客の輸送のために「東京から75分で行けるスキー場」として開業した。そのため、冬季のスキーシーズン(概ね12月中旬 - 翌年5月上旬)のみの臨時駅となっている。当初計画ではスキー場名・駅名とも単に「ガーラ」となる予定だったが、地元からの強い要望で「湯沢」が付いたのだ と。我が地域の小田急線の駅名変更と同じ経緯なのであった。オレンジ色のロゴマークは雪の結晶のイメージであるとのことだが・・・・。塩沢石打SAを左手に見ながら北上する。魚野川に沿って南魚沼市を進む。前方の山は「坂戸山」・634m。ユニークなトンネル入口の形の「六日町トンネル」。このような形のトンネルは他にはないだろう。この形になった理由は??トンネル内は途中から円形になっていたが。六日町IC手前。新潟県には、五日町、六日町、九日町、十日町があるが、その他の?日町の地名が県内にあるのだろうか?左手にあったのが「雪国まいたけ 第1バイオセンター」と。現在も稼働中なのであろうか?右手に標高1778m・「八海山(はっかいさん)」の山頂を見る。ウネウネと上下移動する「関越自動車道」を北上する。この先は「塔の山」の裾野を削ったのであろう。再び「八海山」をズームして。「八海山」は、新潟県南魚沼市にある岩峰群である。最高峰は標高1,778mの入道岳であり、古くから霊山として崇められてきた。越後駒ヶ岳、中ノ岳とともに越後三山(魚沼三山)の1峰で、日本200名山のひとつ。私にとって「八海山」は、日本酒・純米大吟醸「八海山」なのであるが・・・。堀之内PAを通過。越後川口IC・PA手前で、信濃川に架かる越後川口橋を渡る。この左手方向で大きく蛇行した信濃川は、右手方向で魚野川と合流し日本海へと向かっているのである。「信濃川は、新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流であり、新潟市で日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域で、長野県に遡ると千曲川(ちくまがわ)と呼称が変わる。全長367kmのうち、信濃川と呼ばれている部分が153 kmで、千曲川と呼ばれている部分は214 kmと、60 kmほど千曲川の方が長い。ただし、河川法上は千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。日本三大河川のうちの1つである」 とウィキペディアより「山谷PA」手前のメタセコイアの紅葉もエピローグへ。そして更に北上し田園地帯の中にある「長岡南越路スマートIC」で関越道を降りる。ETCバーゲートを通過。そして訪ねたのが知る人ぞ知る「朝日酒造(株)」新潟県長岡市朝日880−1。時間は11:49。当初の計画はここで昼食の予定であったが、予約で塞がっていたのであった。「朝日酒造」という名前を聞いてピンと来なくても、『久保田』という日本酒を知らない酒飲みは、かなり少ないだろう。「千寿」「萬寿」など「寿」がつくサブネームでも知られ、新潟の淡麗辛口を代表する銘柄のひとつなのだ。売店いや試飲コーナーに向かって進む。工場を振り返る。工場内の見学もしたかったが残念!!。朝日酒造前の物販店「酒楽(さら)の里 あさひ山」では蔵里土産の買い物を楽しめるのだ。酒楽は「さかほがひ」とも読み、昔は、酒を醸す(かもす)時の祝福の詞及び、其に伴ふ舞踊であつたのであるが、後には、その醸された酒を飲む事までも云ふ様になつたのだと。飲食店「あさひ山 蛍庵」では地元の食材を使用した料理を楽しめるのであったが・・・。下記写真はネットより。期間限定の酒「越州 里紅葉」。惣菜、菓子の土産コーナー。そして季節限定の日本酒が並ぶ。朝日酒造といえば「久保田」!!。30年を超える伝統をもつ「久保田」。我が家にも長男からもらった「久保田 純米大吟醸」があるが、チビチビと楽しんでいるのである。この日も購入したかったが、往路でもあり「グッ!!」と我慢。帰路に立ち寄って欲しかったと我儘にも。「お酒のできるまで」。左手の試飲コーナーで3種類のお酒をご馳走になりました。魚沼産「新米・新之助」。この「新米・新之助」をこの日に訪ねた北条地区で栽培されている代表者から送付いただき、10月15~16日に行われた、我が地域の「ふるさと祭り」で販売させていただいたのであった。創業 1830(天保元)年創立 1920(大正9)年従業員数 165人(2022年9月現在)の伝統ある工場を後にしたのであった。そして、この日の昼食会場に向かう。左手奥には大きな神社が見えた。翌日に訪ねた「寳德山稲荷大社」であると。神明造(しんめいづくり)の大きな社殿をズームして。そしてこの日の昼食会場「西谷鉱泉旅館 中盛館」に到着。美しい菊が迎えてくれた。そしてこの日の昼食を楽しむ。いわゆる「黙食」に近かったが。玄関にはレトロな調度品が並んでいた。木造観音像。漆塗りの屏風と大きな花瓶。絵画も。能舞の姿か。ここにも「新潟米 新之助」のポスターが。2022年11月、12月に歌舞伎座で「十三代目市川團十郎白猿襲名披露・八代目市川新之助初舞台」の襲名公演が行われたのであった。下の写真はネットより。この地域ではホタルが鑑賞出来るようであった。「西谷ホタルの会」案内板。「湯本旅館」。「この地区の温泉はその昔、動物たちが利用していたところから発見されたといわれています。温泉は弱アルカリ冷鉱泉で20度くらいの湧出温度です。衛生上、ろ過、加温していますが加水はしておりません。切り傷、腰痛、アトピーに効能ありとされており、痔には特効があります。」と。昼食会場を後にして、北条(きたじょう)地区に向かう。信越本線「JR塚山駅」前を通過。国道291号「武石トンネル」を通過。ネットによると「武石峠は八石山を越える旧街道中の北条地区と小国町武石集落との境界線、標高338mに存在する。この街道は、貞享年間(1684-1688)まで、高田藩の年貢米の輸送路であった。また、こうした御蔵米輸送道路としての役割を終えた後も、柏崎方面からの越後ちぢみの仲買商人の往来や海産物等の輸送のために利用された(「小国町史」本文編)。「山地は凹凸起伏の悪道である。しかし當時は北、中部小國郷民の柏崎町方面へ出ずる相當大切な道路であつたらしく」(小国郷土史」)とあるとおり、険しい道であったにもかかわらず、その機能は地方主要道級のものであったといえる。頂上付近には、小千谷の縮商人、宮崎仙次郎奉納の薬師の石仏がある。(「小国のくらし今昔」)。行商におもむく人々が旅の安全を祈願したのであろう。 かつて、峠の柏崎側に程平という集落があった。明治期には石油採掘が試みられたが失敗に終わった(「柏崎文庫」)。昭和39年に全戸が下山転住し、現在では住む人はいない。昭和61年10月25日、この武石峠の真下をくり貫く形で国道291号線武石トンネル(全長830m)が開通した。トンネルの掘削は昭和54年に始まり、湧き水やガス、油に見舞われる難工事であった。このトンネルの開通によって関越道小千谷インターと柏崎が結ばれることとなった。」と。そして右手前方に「柏崎市立北条中学校」が姿を現した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.30
コメント(0)
昨年の事になりますが、11月19日(土)~20日(日)の1泊2日で、新潟県の柏崎市へ大型バスで行って来ました。私の手伝っている自治連合会は新潟県柏崎市北条(きたじょう)地区と『地域間交流のための覚書』を結んでいるのです。新潟県柏崎市北条地区と我が自治会連合会としての交流は、2010年(平成22年)から始まり2012年(平成24年)に『地域間交流のための覚書』を締結)、毎年交互に訪問し防災等の情報交換と親睦を深めて来たのです。コロナの影響で、交流はここ2年以上中断されていましたが、久しぶりに大型バス1台・25名で向かったのでした。私の参加も今回が初めてでした。6:30に地元駅前に集合。そして参加者の到着を待つ。私用で参加できない、副会長も早朝から見送りに来て下さいました。バスに乗り込み、出発を待つ参加者の方々。自治連合会のOBの方々も参加して下さいました。予定通り6:30に出発し、国道467号を利用して、東名高速道路・綾瀬スマートICに向かって進む。「湘南台文化センターこども館」前を通過。しばし、車窓からの景色をカメラで追う。左手に富士山の勇姿が姿を現した。大山の姿も。東名高速道路・海老名JCTから圏央道へ。電線のない場所から富士山を。手前に「相模川」。大山を再び。大山を背に厚木市の街並みを見る。小田急線の「相模川橋梁」。大山の紅葉も始まっているようであった。八王子に向かって進むと渋滞が始まっていた。秋川を渡ると「東京サマーランド」が左手下に。そして「狭山PA」で最初のトイレ休憩。時間は出発から2時間弱の8:22。土曜日であったので、人の数も多かった。香ばしくホッコリと焼きあがると評判の焼ポン栗機での実演販売が行われていた。美味しそうであったが・・・グッ!!と我慢。大粒の栗。京丹波栗であっただろうか?今回利用の観光バス。ガイドは付かず、運転手1名のみ。「鶴ヶ島JCT」で「圏央道」から「関越道」へ。「鶴ヶ島JCT」通過後も暫しの渋滞が。周囲の山々の紅葉を楽しみながら進む。神流川を渡る。上越新幹線の 神流川橋梁も見えた。関越道の高崎市北原町付近から榛名富士、二つ岳、相馬山方面を見る。ズームして。右から、水沢山、二つ岳、相馬山、榛名富士。上越線の高架橋を渡りながら「二つ岳」と「相馬山」を見る。利根川を渡りながら。利根川と小野子山、中ノ岳、十二ヶ岳を見る。「沼尾川」手前から「子持山」方向を見る。ズームして。北西方向の「草津白根山」。ズームして。「片品川」の高架橋を渡る。水上・谷川岳出口まで500m。「谷川連峰」を正面に見る。ズームして。右手が「双耳峰(そうじほう)」ということがよくわかるのであった。谷川岳のトマの耳(左・標高1,963m)とオキの耳(右・標高1,977m)とを「双耳峰」と呼ぶ。頂上がほぼ同じ標高で二つの耳のように並んでいる山の事。この日11月19日は、まだまだ積雪は少なかった。そして「谷川岳SA」で2回目のトイレ休憩。大自然に囲まれたPAでバスを降り、大きく深呼吸。このマスコットの名は???。ハットには「JOY」とあったが。「交通情報、観光情報 案内所」。施設内は木目でログハウス風。「谷川の六年水この水は、谷川山系の雪解け水が、約6年を経て浸透したもので、軟水で癖が無くお茶コーヒー等に最適です。谷川岳からの恵みとしてご利用ください。」空のペットボトルなどの容器に入れる人もいれば、大量のポリタンクを何個も持ってきている業者っぽい人もいたのであった。私も谷川の六年水を味わってみたが冷たかったが味は??・・・・・。そしてバスに戻る。そして「関越トンネル」が前方に現れた。群馬県利根郡みなかみ町の谷川岳PAと、新潟県南魚沼郡湯沢町の土樽PAの間にあるトンネル。道路名と共に、その名の通り関東地方と越後地方の境界となる越後山脈を貫通している。全長は下り線が10,926 m、上り線は11,055 mで、道路トンネルとしては日本最長だったが、2015年(平成27年)3月7日に首都高速中央環状線の山手トンネル(全長18,200 m)が全通したことに伴い、その座を明け渡した。2018年現在、国内では山手トンネルに次いで2番目、世界でも17番目(en:List of long tunnelsby type#Road参照)の長さを有する長大トンネルである。ただし、山岳道路トンネル、また高速自動車国道のトンネルとしては依然として日本最長を維持している。総事業費は約630億円。ナトリウム照明の下、右手にカーブ。最近はトンネル内のナトリウム照明は少なくなったのではないか?LED照明に代わって来ているのであろうか?そして群馬県と新潟県の県境を通過。この上部が「谷川岳」へ繋がる尾根があるのだ。LED照明に変わる。そして7分30秒ほどで10,926 mの「関越トンネル」を通過し、新潟県を走る。魚野川を渡る。新潟県南魚沼郡湯沢町方向の山々を見る。越後中里の山々。湯沢町スキー場。東京電力リニューアブルパワー(株) 湯沢発電所への導水管と越後湯沢駅を出た上越新幹線の高架が左手に見えた。この先で冬季のスキーシーズンのみの臨時駅・「ガーラ湯沢駅」への支線の分岐が始まるのだ。 ・・・つづく・・・
2023.01.29
コメント(0)
小栗上野介忠順(ただまさ)の墓のあった「東善寺」の散策を続ける。「霊廟」であっただろうか?こちらは?水場が手前にあったが。「吊小栗上州公」と刻まれた石碑。「小栗公遺品館」。徳川幕府の役人小栗忠順に関する資料を収蔵・展示する(拝観料 100円 )。境内には多くの石仏が。「首」の文字が確認できた。「黒モミジ」。「黒モミジ黒みをおびたい濃い緑の葉が細かく密生し、秋、枝先から次第に下りてくる紅葉はみごとてある。」「妙音碑慈音いろどる ゆめ詣で 久遠のひびき 東善寺 妙音うれし 花浄土」妙音碑 横手由男 平成四年九月二十三日寄進 沼田運新次郎 二十一世泰賢代」石碑の画はこれ「慈母観音」と。「妙音碑妙音とは観音さまのことです。画・文 雨・横手由男」「小栗上野介顕彰会会長市平治さん(74)」による「小栗上野介」に対する評価は「史実に基づく評価を」との毎日新聞の記事。「悲劇の幕臣・小栗上野介を研究する村上泰賢(むらかみたいけん)さん( 80 ) =高崎の記事。下の写真の記事とは離れるが司馬遼太郎は『明治という国家』という本の中で、日本近代化に尽くした小栗上野介の業績を讃え、「明治の父」と呼んでいる。また大隈重信は後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と言い放った。彼の主な業績を列挙する。■横須賀造船所建設■日本最初のフランス語学校設立(横浜)■フランス式陸軍制度の採用、訓練■鉄鉱山の開発 中小坂鉄山(下仁田町)など■日本最初の株式会社組織「兵庫商社」を設立■ガス灯設置の提唱■金札発行など金融経済の立て直し■郡県制度の提唱■森林保護の提唱■江戸-横浜間に鉄道建設の提唱■新聞発行を提唱■書信館(郵便制度)創設の提唱「官賊と幕臣たち~列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート」紹介記事。「◆肩衣(かたぎぬ)で小栗家の家紋「丸に立波」が確認できた」【小栗上野介の遺品】肩衣(かたぎぬ)下に袴(はかま)をつけると「裃(かみしも)」となる寄進者:萩原ヨシ様(旧秋間村)◆昭和30年代初め、碓氷郡秋間村(安中市)から荻原ヨシさんが「古着の商売をしているがこれは小栗様のものではないか」と広げた品がこの肩衣。麻地に細かな萌葱の江戸小絞がほどこされ、両胸と背中に間違いなく「丸に立波」の小栗家家紋がついた夏の肩衣だった。小栗公の汗の跡も残っている。◆当時、秋間村から権田へ来るには秋間からバスで安中駅ー信越線で高崎駅ー高崎からバスでー権田までと、半日がかりで運んでくれたヨシさんの見識と努力には今も感謝している。◆この肩衣で寺紋1の正式な小栗家の家紋「丸に立波」が確認できた。染物屋・提灯屋・石屋・看板屋等必携の『紋帖』にも記載されることか少ない「小栗の丸に立波紋」である。東善寺は中興開基家である小栗家の家紋を寺紋としているが、昭和12年の火災後再建された本堂屋根に、下部の水が略された家紋2の略紋を使用していた。令和元年の銅板屋根に改修後は正式な寺紋1を使用している。◆3は東京富十美術館蔵「小栗上野介所用」と称する甲冑(かっちゅう)につけられた紋。これまで見たことのない略紋との説明だが、品のないひどい略され方や、文久二年製というが「小栗家家計簿」にそれらしい支出がない、合理的思考をする小栗が遣米使節で米国の進んだ武器類を視察したのに、帰国後に旧来の甲冑を製作するか・・・などから甲冑の真贋も疑問視されている。家紋4は『第一遣米使日記』(日米協会・大正7年)表紙の「OGURI」紋。これもひどく略されているので、アメリカ側の史料によるものと思われる。「寺紋1 正式な小栗家家紋 丸に立つ波」。「東京富十美術館蔵「小栗上野介所用」と称する甲冑(かっちゅう)につけられた紋」。花梨の実が並んでいた。夕方の陽光を浴びて黄金に輝くモミジ。「東善寺」境内の紅葉もエピローグの場所もあった。「東善寺」を後にして、国道146号の車窓から。「上州権田の里 幕末の史跡 小栗上野介埋骨の地」と。そして「岩窟観世音(いわやかんぜおん)」で車を停める。群馬県高崎市倉渕町権田。「岩窟観世音」。「岩窟観世音堂」。極彩色の見事な彫刻。ズームして。「岩窟観音堂の縁起熊谷次郎直実の愛馬権田栗毛は、この土地で育った名馬です。栗毛は源平の合戦に活躍しましたが、一の谷に合戦で傷ついてしまいました。直実は「よくやってくれた。これからは権田で暮らすがよい」と権田へ帰しました。栗毛はなつかしい故郷へ帰ってきましたが、育ててくれた生家は絶えてありません。栗毛は悲しみのあまり屋敷跡でいななきました。その時、栗毛は母衣(ほろ・武士が馬上で背負う矢よけの袋)を落とし、一寸ハ分の観音像が現れました。栗毛は再び熊谷の主君のもとへ帰ろうとしましたが、三ノ倉土城谷戸でカつきて亡くなりました。村人は母衣から現れた観音像を胎内に納めに木像を作り、この岩窟に観音堂を建てて祀りました。「観音清水」は栗毛が権田の里に帰ってきた時、飲んだといわれる泉です。関連史跡・栗毛の母衣を祀ったお母衣明神は、栗毛の生地と言われる権田小池にあります。・三ノ倉土城谷戸の馬頭観音堂跡には馬頭観音が祀られています。△小栗上野介の邸宅跡はこの山の上にあります。扁額「岩窟観世音」。岩の断崖下に建つ「岩窟観世音堂」。脇にも見事な彫刻が。岩の断崖が鞘堂の如くに。道路の反対側に立っていた案内板。「岩窟観音堂」の縁起を記した案内板に、「小栗上野介の邸宅跡はこの山の上にあります。」とも書かれていた。書かれていた場所がここであると。以下5枚の写真はネットから。石碑と案内板「小栗上野介の屋敷跡はこの下の平地です」。石碑の「至誠奉公」の題字は、旧彦根藩主井伊家の第16代当主・井伊直愛(なおよし)氏の筆であると。「慶応戊辰(一八六八年)三月一日、小栗上野介忠順は江戸より移り住み、この丘上に居邸を新築し、村の若き人々の育成を計画、眼下の山峡から太政大臣を出してみせるといった。それは井伊大老の抜擢により、僅か三十四才で、万延元年第一回遣米使節全権の一人となり米国に赴き、近代文化に接し、国会を視察して、将來の新日本建設は封建の垣を超えた若き人々の力に待つことが多い、と観じたからである。然し、事志と違い滞村六十六日で、雄圖空しく逝いたけれども、この地の若人、否、日本の若人によせた公の期待は大きく、遙かなる浅間かくしの峰に、烏川のせゝらぎに、今猶その声は、私たちに語りかけている。本日殉難百周忌を迎え、感新たなるものあり、邸跡に碑を建て公追慕のしるしとする。」「倉渕村指定史跡 観音山小栗邸跡」碑と案内板。「高崎市指定史跡 観音山小栗邸跡指定 昭和五十七年四月一日所在地 倉渕村大字権田字観音山三五八四ー一小栗上野介忠順は、江戸幕府の要職を免ぜられ、慶応四(一八六八)年三月一日、家族、家臣とともに権田村に隠棲した。当初は東善寺を仮住居とし、ここに住宅の建設を始めた。宅地の造成、用水路、田畑の開発を行い、そして三棟の住宅建築にかかり五十余日で、間口十二間、奥行き七間半総二階の主屋一棟が上棟のはこびとなった。小栗日記によるとこれは四月二十八日のことである。ところが、翌二十九日から事態が急変し、江戸城総攻撃のため薩長の東山道軍が高崎を通過の際、小栗に謀反の意志ありとして配下を差し向け、ついに翌月閏四月五日高崎・安中・吉井の三藩に命じて小栗を捕らえ、一言の取り調べもなく翌六日(太陽暦では五月二十七日)烏川の水沼川原で家来三人と共に斬首した。完成を見なかった小栗の邸は、現在前橋市総社町の都丸家の住宅となって現存している。邸跡には礎石など残り、水路は今も利用されている。 平成九年三月 倉渕村教育委員会」「小栗邸」が建っていた場所がここであると。こちらは「岩窟観音」の「南参道」と。南参道にあった「熊谷次郎直実愛馬権田栗毛 岩窟観音」案内板。そして最後に訪ねたのが「小栗上野介忠順終焉の地」。手前にあった「顕彰慰霊碑➡」案内板。現「烏川(からすがわ)」の堤防下、いしがきで囲まれ一段高くなった場所に石碑が建てられていた。車を降りて近づく。「高崎市指定 史跡 小栗上野介忠順終焉の地 👈リンク 指定 昭和五十七年四月一日所在地 高崎市倉渕町水沼字中河原一六一三-三小栗上野介忠順は、安政七(一八六〇)年一月日米通商条約批准書交換のため目付役として渡米し、帰国後、外国奉行・勘定奉行・兼陸軍奉行の要職につき、幕府の重鎮として活躍した。なかでも横須賀造船所の建設は彼の提唱によるもので、当時は東洋一といわれた。慶応四年(一八六八年)、薩長等倒幕勢力に対し主戦論を唱えたがとり入れられず免職され、領地権田村に隠棲した。この頃、野州、武州一帯に起こった暴徒の一隊は、小栗が多額の軍用金を持ち帰ったというデマに踊らされて本村に襲来した。小栗方はこれを見事に撃退したが、これらの行動が「小栗は強力な兵力を持ち叛逆の企図あり」の虚言を生み、東山道総督府がそれを取りあげるところとなり、小栗介追討令が下った。小栗は養子又一を高崎藩に遣わして他意のないことを開陳したが入れられず、遂に囚われの身となり、慶応四年閏四月六日(太陽暦では五月二十七日)、家来三人と共に水沼川原の露と消えた。時に四十二才であった。平成九年三月 高崎市教育委員会」「小栗家家紋 丸に立つ波」、「小栗上野介顕彰会」と書かれた旗。「高崎市指定史跡 小栗上野介忠順終焉の地」碑。平成十八年一月 設置 と。「顕彰慰霊碑」。「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と。小栗上野介の遠い遠い先祖は「小栗判官」として、我が地元・藤沢の遊行寺や熊野の湯ノ峰温泉に伝説が残っているのである。裏面。「小栗上野介忠順終焉の地」を後にして、国道406号を「鳥川」に沿って東に進み「室田」交差点を直進する。群馬県高崎市下室田町。そして県道29号線・あら町下室田線を高崎市街方向に進む。「ドドメキ」交差点を通過。交差点があったのは高崎市本郷町。新しく出来た『西毛広域幹線道路』と県道29号線の交差点。「ドドメキ」の由来についてネットで調べてみた。一説は地名からと。この辺は昔からドドメキと呼ばれていたと。群馬では古くから桑の実のことをドドメと呼ぶ。かつては桑の実を付ける桑の木が多くあったのだと。群馬は養蚕が盛んだったのだ。他の説もありようだ。近くに黒沢川という川が流れていて、かつては水量が多く、ごうごうと音を立てて流れていたことが由来だと。川の水の騒々しさが転じた地名だと。川のごう音・「ドド」とは擬音で、騒々しいことや川の水が音を立てて流れる様子を表すという。漢字を当てるなら「轟」の字としている と。真相は如何に??群馬の「榛名山塊」の山々・右から二つ岳、相馬山、榛名富士、掃部(かもん)ヶ岳、天狗山を見る。そして「関越自動車道」の「高崎IC」に向かって進む。「高崎IC」から「関越自動車道」へ。「本庄 東京」方面を進む。「鶴ヶ島JCT」から「圏央道」へ。八王子方面へ。そして「圏央道」をひたすら南下し「茅ヶ崎JCT」から「新湘南バイパス」に入り、「茅ヶ崎西IC」で降り、「かつや茅ヶ崎今宿店」にて夕食を食べる。そして旅友ご自宅に辿り着き、愛車に乗り換え帰宅したのであった。この日のドライブルート。2日間での累計走行距離は600kmとのこと。Sさん、運転お疲れ様でした。1泊2日のあわただしい栃木県、群馬県の「紅葉狩り」そして「続日本百名城巡り」であった。そして昨秋も大いに紅葉鑑賞を楽しんだのであった。「柏崎市・松雲山荘」👈リンク、「等々力渓谷」👈リンク、「九品仏浄真寺」👈リンク、「天嶽院」👈リンク、「豪徳寺」👈リンク、等々を徒歩で巡り、美しい紅葉・黄葉をカメラに収めたのであった。昨秋も「紅葉前線」は1カ月以上続いたのであった。11月初旬から始まり、北海道から葉が染まってくる。気温が下がるにつれて南に向かって日本列島を赤く染めていき、11月末になると九州に到達したのだ。紅葉の南下スピードは1日平均27kmで、黄色から赤色に変化する期間はおおよそ2~3週間であると、テレビの気象予報士が語っていたのであった。ところで、我々日本人は「なぜ紅葉を見に行きたくなるのか」?日本人が紅葉を好きな理由は、鮮やかな紅葉の後、静かに散っていくことの中に「侘・わび」、「寂・さび」を感じ、さらに自分の人生と重ね合わせているように思うのである。春の桜の花もパッと咲いてパッと散っていくことから、潔く生きるという生き方と重ね合わせている。そして秋になると桜が紅葉することを、「桜紅葉(さくらもみじ)」とも言い、赤みまじりのオレンジ色から黄色まで混じり合い、葉っぱ1枚1枚それぞれに違った色彩の世界が満ちているのだ。よって日本人にとって桜の樹というのは春も秋も人生を思わせる樹にとなっているのではなかろうか。ちなみに紅葉は海外でも見ることができ、私もカナダ、中国、ヨーロッパでも紅葉を観て来たが「秋の日本の紅葉が一番」と感じるのである。中国、欧米は黄色単色が多いのに対し、日本の紅葉が一番美しいと感じるのは、赤や黄色、オレンジ色等があり、常緑樹などの緑色も混ざって多彩で、葉の色彩が陽光を浴びて更に鮮やかに輝くからである。そして日本の文学作品などでは、多くの紅葉を表現する言葉が使われているのである。以下、ネット👈リンクから転載させていただきました。1. 野山の錦(のやまのにしき) 野山の錦とは、紅葉によって野山が色とりどりに染まった豪華さを「錦」という言葉に 置き換えた表現です。錦とは、何色もの色を使って美しい紋様に仕上げた絹織物となります。 紅葉にはさまざまな色合いや状態がありますが、野山の錦は、どちらかと言えば織物のような ゴージャスさをあらわす言葉とされています。2. 紅葉の帳(もみじのとばり) 一面に染まった紅葉を、「帳」に見立てた言葉です。 外からの目隠しに使われる帳は、「几帳」として平安時代の文学によく登場します。 当時は目隠しの他に間仕切りをするレースカーテンのような役割だった帳ですが、紅葉を 組み合わせることで一気に豪華な雰囲気の言葉に変わります。3. 名木紅葉(なのきのもみじ) 庭園や城址(じょうし)などにある紅葉の美しい木々の総称です。 例えば、黄色く紅葉している銀杏の大きな木などにも、名木紅葉という言葉は使えます。 また、漆や柿、櫨(はぜ)といったさまざまな紅葉がある場所で、それらをひとまとめに する意味で名木紅葉という表現を選ぶこともあります。4. 谿紅葉(たにもみじ) 「たにもみじ」と呼ぶこの言葉は、その名のとおり紅葉で彩られた谷の風景をあらわします。 ちなみに、紅葉が深く美しく色づくには、十分な日当たりのほかに夜間の冷え込みや適度な 水分の3条件が必要とされています。そのため、川や滝沿いに色づく谿紅葉は、普通の公園の 紅葉と比べて濃淡が強く出やすい傾向があります。5. 庭紅葉(にわもみじ) 紅葉で彩られた庭を指す表現です。 庭紅葉があらわす光景には、赤や黄といった秋らしい色合いのほかに、初秋の青々とした モミジの繊細な姿もあるとされています。そのため、庭紅葉には、時期や色を気にすること なく使える自由度があります。また、自宅の庭にある小さな秋の光景を、庭紅葉という言葉で 表現してみてもいいでしょう。6. 紅葉筵(もみじむしろ) 「もみじむしろ」と呼ぶこの言葉は、落ちた紅葉が地面を埋め尽くす光景を「筵(むしろ)」 に見立てています。 この時期になると、朝晩もぐっと冷え込むようになり、SNS上でも紅葉の写真がかなり少なく なってきます。 ですが、近所のお散歩などで岩肌や地面を覆うモミジの葉などを見つけたら、紅葉筵という 言葉を使ってみんなに静かな秋の美しさを伝えてみてもいいでしょう。7. 錦秋(きんしゅう) 最初に紹介した「野山の錦」とよく似た表現です。 こちらも、やはり山々などが華麗な織物をまとったような光景を意味します。紅葉狩りに 出掛けた山々が一面の紅葉になっていたときには、「山は錦秋の装い」と形容します。 ちなみに岩手県には、紅葉が非常に美しい「錦秋湖」があります。8. 照紅葉(てりもみじ、てるもみじ) 美しく照り輝く紅葉を、照紅葉(てりもみじ)といいます。 もともと「照る」とは、月や太陽などが光を放つことをあらわす言葉です。 例えば、早朝に紅葉スポットの散策などをしていると、朝日が上がると同時に木々が 自らの力で輝く光景に出会えます。こうしたときに撮影した写真に、照紅葉と名付けて あげるといいでしょう。9. 落葉舟(おちばぶね) 落ちた紅葉の葉っぱが、水面に落ちて小舟のように浮かぶ様子をあらわす言葉です。 「紅葉の筏(いかだ)」や「木の葉の舟」なども落葉舟と同じ意味の表現となります。 11月下旬ぐらいになると山々も寂しい季節になりますが、先ほど紹介した紅葉筵や落葉舟を 使えば、違った形で草木の趣を表現できると思います。10. 初紅葉(はつもみじ) その年、赤や黄色に色づいた紅葉を初めて見るときに使う表現です。 「初」という漢字が、ようやく紅葉に出会えた喜びを伝えてくれる言葉になっています。 今年初の紅葉狩りに出掛けたことをブログやSNSなどに投稿するときには、初紅葉を タイトルに使ってみるといいでしょう。11. 冬隣(ふゆとなり) 冬がすぐ近くまで来ている晩秋に使われる表現です。 この言葉に合う紅葉とは、地面に落ちてしばらく経ち、赤や黄などの色もすっかり抜けて しまった枯れ葉になります。どんぐりなどの木の実と枯れ葉のコラボレーションも、冬隣と いう表現が非常にマッチする光景です。東山魁夷『照紅葉』紅葉しているのはモミジ?それともカエデ?ネットによると「紅葉と書いてモミジと言うように、紅葉が美しい木の代表はモミジには違いありませんが、じつはモミジもカエデもカエデ科に属し、植物学的には同じ系統なので、とくに区別はされていません。そのため正式な植物名はカエデとされ、モミジは日本における呼び名とされています。日本には古くからカエデの自生種が多く見られ、その代表種がイロハモミジといわれています。なお、盆栽の世界では便宜上、イロハモミジのように葉の切れ込みが深いタイプをモミジ、ハウチワカエデのように切れ込みの浅いタイプをカエデと呼んで区別していて、その定義は園芸界全体にわたっています。子どものときからモミジと呼んできた樹が、正式にはカエデという名前だと言われても、どこか納得できない気持ちになりますよね。個人的にはモミジはモミジのままでよいと考えますが、植物学上、カエデであることも頭に入れておいたほうがよいと思います。」と。そして最後に、今回訪ねた和の紅葉・「宝徳寺石庭」を。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.28
コメント(0)
「忠治地蔵(国定忠治刑死場跡)」を後にして、国道406号を利用して帰路に。高崎市に入り南下すると、左手にあったのが「東善寺」。駐車場に車を駐め、道路を渡り山門に向かって進む。「小栗上野介の寺 東善寺」。小栗上野介は幕末の幕臣。慶応 (けいおう)期の徳川幕府を支えた中心人物の一人。江戸の生まれ。幼名を剛太郎、また襲名を又一ともいう。のち豊後守 (ぶんごのかみ)、さらに上野介 (こうずけのすけ)と改めた。1859年(安政6)目付となり、1860年(万延1)には日米修好通商条約批准書交換のため新見正興 (しんみまさおき)、村垣範正 (むらがきのりまさ)に従って渡米、帰朝後外国奉行 (ぶぎょう)となる。1861年(文久1)のロシア軍艦による対馬 (つしま)事件に際してはその折衝にあたり、1862年勘定 (かんじょう)奉行勝手方、さらに勘定奉行、歩兵奉行兼任、1863年陸軍奉行となり、この間、文久 (ぶんきゅう)期(1861~64)に幕府の三兵(歩・騎・砲)軍事改革を行った。1864年(元治1)には軍艦奉行、翌1865年(慶応1)にはふたたび勘定奉行勝手方、1866年海軍奉行、ついで翌年陸軍奉行を兼任し、慶応期の幕政改革を親仏派として栗本鋤雲(くりもとじょうん)とともに担い、横須賀造船所設立をはじめ、幕府の政治、財政、軍事の各分野で改革を推進しようとした。薩長 (さっちょう)に対しては主戦論を唱えたが、幕軍が鳥羽 (とば)・伏見 (ふしみ)の戦いに敗れるや上州(群馬県)へ隠退、新政府軍に捕らえられて慶応 (けいおう)4年閏 (うるう)4月5日斬 (ざん)に処せられた。「東善寺」山門。道元禅師の正法眼蔵「谿声山色」より「渓聲即是廣長舌 (けいせいすなわちこれこうちょうぜつ)」渓流の声はそのまま仏のご説法である と。「山色豈非清淨身(山色(さんしょく)清淨身(しょうじょうしん)に豈非(あらざらんや)」山の景色は仏の清浄なお姿そのものである と。更に参道を上って行った。寺号標石「曹洞宗諏訪山 東善寺」。境内には、昭和二十八年(1953年)八月二十五日に県指定史跡に指定された「小栗上野介忠順の墓 (おぐりこうずけのすけただまさのはか)」があった。その横に「地蔵尊」。「草津街道 信州街道」「右 江戸駿河台へ131.5km 横須賀へ189.2km」裏側「左 草津温泉へ 43.9km、小布施へ 96.9km」。参道の紅葉も西日を浴びて黄金色に輝いて。「掲示板」。「諸行無常 いつかは変わる いつも変わる」。「祝 横須賀製鉄所150周年/日本海海戦110周年特別展 日本海海戦と横須賀製鉄所」ポスター。平成27年(2015年)に開催されたもののようだ。小栗上野介忠順(左)と東郷平八郎(右)の写真が。「小栗上野介情報82対馬事件-1幕末、小栗忠順は米・英・露・仏・蘭、どの国に造船所の建設指導を依頼するか考え・・「ロシアは個人的な人柄はいいが、何か欲しいといきなり爪を出してくるとして敬遠した」と以前に書いたことがある。この対馬事件の顛末がその典型的な事例といえる。幕末、ロシアの軍艦ポサドニク号が九州の対馬に不法に侵攻し滞泊をつづけた対馬事件- 1(「オレが交渉で解決した」と騙(かた)った勝海舟・・・次号2に続く)文久元年(1861)【日】・ニ月三日(露・3月1日、西・3月13日)、対馬の浅茅(あそう)湾にロシア軍艦ポサドニク号(艦長ビリレフ)が船の修理を口実に入航、芋崎浦に居座った事件。艦長ビリレフは船の修理を口実に材木や人員資材の提供を要求。しだいに「イギリスの侵入を防いであげる」と土地の租借へ要求を工スカレートさせた。反発した島民や農兵とのトラブルから殺傷事件も生じた。対馬藩の報告で、遣米使節から帰国後に外国奉行に任ぜられていた小栗豊後守忠順は、幕府から目付溝ロ八十五郎とともに「見回り=視察」を命じられ咸臨丸で対馬へ向かう。」そもそもの発端は英艦の対馬不法侵航◆イギリスの不法侵航がはじまり....1858安政五年の日英条約・日露条約とも「外国船は緊急の 気象避難以外には定められた港以外に寄港してはならない」と定められている。ところが・1859安政六年四月にイギリス軍鑑アクチオン号、十一月アクチオン号とドーフ号が対馬で 不法に測量・上陸した。 (小栗忠順はこの年九月に遣米使節目付を命しられた。その前後の四月と十一月)◆この英艦隊の動きにロシアは焦った 箱館ロシア領事ゴシケヴィッチ は、「英国は対馬を抑えロシアを封じ込めようとしている模様」 とロシア外務省に報告。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・使イグナチェフ(元陸軍将校)も英国・・・・・・って いると露国東洋艦隊イワンリハチュフ・・・・・・。 リハチョフは海軍大臣コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公(皇帝の弟)に報告した。◆ロシア海軍が「私的契約で土地を租価」する方針 *露国外務省は無関係の立場を取った リハチコフ報告を皇帝の前で披露した海軍大臣コンスクンチンは、対馬に軍艦を居座らせ、 既成事実の積み上げで対馬の大名から基地を租借することを提案した。その提案に、皇帝 アレククサンドルⅡ世は日本との外交関係を損なうことを懸念。しかし、海軍大臣 コンスタンチンは「日本で幕府とは関係なく了解を大名の了解を得られれば外交交渉の型式を 取らずに租借が可能」として皇帝の了解を取り付けると、対馬への進航と既成事実の積み上げで 基地租借を図ることを提督リハチョフに指示した。 海軍大臣コンスタンチンにしてみれば各藩ごと藩主に自治権を与えている幕藩体制の弱点を ついた案、のはずだった。露国 外務省は傍観者外務大臣ゴルチャコフはこれまでの日露の外交努力をご破産にしかねないずさんな計画とみたが皇帝の弟の海軍大臣に正面から反対しにくい。「海軍だけで実行してくれ」と一任した。(外務大臣ゴルチャコフは・・・)この席でイグナチェフをこの問題から解放するように私に願い、この問題を外交課題としてではなく純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。(海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡・岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)◆海軍大臣コンスタンチン→提督リハチョフ→艦長ビリレフと海軍独断の指示で起きた事件。◆当然、外務大臣ゴルチャコフは、箱館領事ゴシケヴィチや在北京公使イグナチェフに、対馬で 露国海軍の問題が起きても一切関わりを持たないよう指示を出し、外務省は傍観者になっていた と考えられる。命令され進航・滞泊している鑑長ビリレフビリレフとの第2回め会談(日五月十四日露・6月9日)で小栗から不法滞在・測量を非難されたビリレフは「船の修理をしていたらちょうどそこへリハチョフ提督から命令があって、ついでに海図を作成するように言ってきた。・・・詳しいことは提督か領事ゴシケビッチから聞いてくれ」と小栗に語っている。(日野清三著『幕末における対馬と英露』)。小栗は、艦長ビリレフは命令で動いているから海軍組識の末端で、露艦を退去させるには命令ラインの上部から退去命令を出させなければならないと判断した。末端の艦長を突いてもこの問題は解決しない。もっと上部との外交交渉が必要として江戸へ戻った。「小栗上野介は対馬に派遣されて2周間滞在し、わずか3回交渉しただけで交渉に失敗し、江戸に戻った。」と判断するのは当たらない。「英艦とのにらみ合いで露艦がスゴスゴ退去した劇画のようなイメージは誤りもし提醫リハチョフからの命令なしに「英艦が来たから」と退去したら、艦長ビリレフに間違いなく<任務放棄・命令違反>で軍法会議にかけられる。軍人が一番やってはいけないこと。・箱館奉行村垣範正から再三の講義を受けた箱館領事ゴシケヴィチが、幕府の抗議と江戸における 欧米外交団の下評と反発を伝えたので、提督リハチョフが撤退を決意したのは六月末。つまり、 英公使オールコックらと老中酒井忠毘(ただます)の英艦派遣の相談以前に露艦の退去を決定 している。・和・七月二十三日、英艦リンドーブのホーブ中将が対馬に着き、ビリレフに退去を勧告 ・・・でもビリレフは退去せず。・三日後の和・二十六日に提督リハチョフからの退去指令が対馬の艦長ビリレフに届いた・・・ それでもすぐに退去せず・実際に露艦ポサドニックが対馬を退去したのはホープ勧告の23日も後(和・八月十五日露・ 9月7日)である。 これでは「英艦が行ったので露艦が退去した」とはいえない。☆提督リハチョフはのちに「外交抜きで基地租借交渉する」という指示条件に合わなくなったので、 撤退を決意した。と報告(12月、海軍大臣コンスタンチンあての報告書)している。」【小栗上野介に濡れ衣】「小栗上野介が転封を対馬藩に強要した」とする説( =濡れ衣)が出ています。小栗は対馬を天領としてロシアに浅茅湾を軍港として貸し付ける。・・・追い出される対馬藩から強烈な反発が出るし、対岸の長州も・・・うまみのある対馬経由の貿易が一切不可能になるということで必死の抵抗をするはずである・・・」として、それが理由で「・・・小栗は官軍によって処刑されるが、その原因を対馬問題の時から作っている・・・」(上垣外憲・・・『勝海舟と幕末外交』中公新書・2014平成26年刊・抜粋)と、とんでもないことを理由に6年後の慶応四年に起きた西軍による小栗上野介父子主従殺害を正当化しています。時系列で見ると・三月二十八日 対馬藩は江戸藩邸の協議で藩政の基本方針として移封要望を決議した (日野清三郎『幕末における対馬と英露』)・四月六日 小栗上野介は対馬派遣を命ぜられ→五月七日対馬着。・・・と小栗上野介が 対馬事件に関わる以前に藩では移封を要望することを決議しているのに、なぜ「小栗上野介が 強制した」ことになるのか、根拠史料も示さず「移封を強制した」「ロシアに浅茅湾を貸し 付ける」とするのは理解に苦しむ。 この濡れ衣を元に、西軍によるく小栗父子主従8名を殺害ー家財没収ー入札で売り払いー軍資金と した〉ことを正当化する記述につなげています。・・・以下 略・・・「NHK大河ドラマ『青天を衝け!』小栗忠順がしばしは登場して、将来の日本のために幕末日本の近代化を図るこれまで知られていなかった「真の武士」小栗忠順の姿が視聴者に衝撃を与えています。」・・・以下略・・・「寺務所」。正面から。「拝観受付」。「東善寺」の「本堂」。扁額「東善寺」。「小栗上野介源忠順(ただまさ)」像。「小栗上野介源忠順(一ハニ七~一ハ六八)昭和ニ十ハ年九月横須賀市より贈られた胸像 朝倉文夫制作*橫須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製」。近づいて。「栗本鋤雲(じょうん)」像。「栗本鋤雲瀬兵衛安芸守(せへえあきのかみ)(一ハニニ~一ハ九七)橫須賀製鉄所建設の功労者 函館で開拓、病院開設、蝦夷・樺太千島巡視等に功績あり 慶応三年滞欧中にアルプス登山した最初の日本人小栗上野介とともに 幕末の日本近代化に尽力 明治以後報知新聞主筆として活躍 この胸像は鋤雲の門人大養毅が作らせ御蔵島に蔵置せられる石膏像を原形とする著「匏庵(ほうあん)遺稿」昭和三十一年五月六日元海軍建築局長吉田直殿建贈*横須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製」そして「小栗上野介忠順の供養墓」「小栗上野介忠順供養墓」碑。その奥には「小栗上野介源忠順慶応四年閏四月六日 西軍により無実の罪で村内水沼河原にて斬首さる。四十二歳ここは供養墓で遺体首級とも上の本墓にあり」と。「小栗上野介 遺愛の椿小栗上野介が江戸神田駿河台の屋敷から運んだ鉢植えの椿五月に黒味がかったハ重の名花を咲かせる」。現在では、樹齢百数十年の椿の木と「崑崙黒(こんろんこく)」という、八重咲の黒椿だと。「崑崙黒(こんろんこく)」の花をネットから。「小栗上野介忠順」供養墓碑。近づいて。小栗の戒名は、「陽壽院殿法岳浄性居士」。「小栗上野介忠順の供養墓」案内板。「県指定文化財 小栗上野介忠順の墓指定 昭和二十八年八月二十五日所在地 高崎市倉渕町権田一六九 東善寺小栗忠順は、徳川譜代の旗本で文政十(一八二七)年江戸で生まれ、権田村(三七五石)は禄高二、七〇〇石(九ケ村)の領地の一つであった。上野介を称し、安政六(一八五九)年三十三歳で井伊大老に抜てきされ豊後守に任官、万延元(一八六〇)年 日米修好通商条約批准書交換の遣米使節として新見豊前守正興、村垣淡路守範正と共に米艦ポーハタン号で渡米。任務を果たし大西洋、インド洋を経て帰国。それより外国、軍艦、江戸町、歩兵、陸軍、勘定の各奉行を歴任、フランスと結び幕府の財政や洋式軍隊の創設など幕政の改革に尽くし、日本産業革命の地横須賀製鉄所(後の海軍工厰)をつくった。明治維新の幕府解散で勘定奉行を免ぜられ、慶応四(一八六八)年三月一日、権田東善寺に隠棲す。西軍(明治政府軍)がこれを無実の罪で追捕し、閏四月六日、水沼村烏川原にて斬首。時に四十二歳であった。平成七年十一月 群馬県教育委員会 倉渕町教育委員会」隣にあったのが養子で同じく惨殺された21歳の「小栗又一」の供養墓。戒名「本教院殿樹山貞松居士」。「小栗又一源忠道(養嗣子) 慶応四年関四月七日 西軍により無実の罪て高崎城内に斬首さる 旗本駒井家次男 ニ十一歳遺体首級は高崎市下斎田に葬られる。」「滄野の碑」。「花が咲いた のの花が 滄野に散った 兵士還らず」。*滄野(そうや)…青い海原のこと。*「彼我」とは敵と味方のこと。ニューギニヤの山中で戦病死した弟や味方ばかりでなく、 敵の兵士も含(ふく)めて慰霊(いれい)する碑。*石碑は、「雄二君と遊んだサザンカの白い花びらの形」とのこと*平成7年秋、雨さんの申し出により渋川市の雨さん宅の庭から東善寺境内へ移転設置 とネットから。「滄野の碑弟勇二君と彼我の兵士を悼んで(裏の碑文)文 雨 横手 由男」「裏面」。遺体と館林から盗み返した首級を埋葬した本墓は、供養墓から2~3分登った所にあったのだが・・。こちらが訪ねなかった「小栗上野介忠順と小栗又一忠道の本墓」。以下3枚の写真はネットから。正面から。「群馬県指定史跡小栗上野介忠順の墓慶応四年(一八六八)閏四月六日朝、小栗上野介は家臣三名とともに水沼の烏川河原において斬首された。小栗上野介の遺体(胴体)は、村役人池田長左衛門等によりこの場所に埋葬され、その首級は養子又一の首級とともに館林に送られ、東山道鎮撫総督岩倉具定の首実検を受けた後、法輪寺境内に葬られた。のち、中島三左衛門等が首級を奪取し、一周忌当夜、この地に埋葬するに至った。すなわち、ここが小栗公の本墓である。向って右は、上野介とともに斬首された家臣三名の墓である。所在地 高崎市倉渕町権田一六七番地指 定 昭和二十八年八月二十五日 高崎市教育委員会」石仏、石祠。石仏。六地蔵。墓石群。「頭部を打ち落とされた石仏たち慶応四年三月明冶政府が発した「神仏分離令」により、「排仏(日本は神の国、外来の仏教はやめよう)運動が過激な「廃仏(寺・仏像・仏具をうちこわせ)に発展、頭部が落とされた」その先に「家臣の墓」。境内の小栗上野介父子と家臣らの墓は、明治初年に権田の村人が建立した。正面に小栗父子の墓、左右に家臣と家族、会津で戦死した村人の墓が5つずつ並んでいた。手前には閻魔大王の姿が。5名の墓石が並んでいた。(右から)塚越冨五郎 権田出身 小栗夫人を護衛して会津へ行き 慶応四年九月一日耶麻郡高郷村一竿で戦死 ニ十三歳 一竿に慰震碑がある佐藤銀十郎 権田出身 小栗家歩兵の一人 小栗夫人を護衛して会津へ行き九月十一日喜多方市熊倉て戦死 ニ十一歳 熊倉に葬られ墓がある渡辺太三郎源吉享 江戸からの家臣 上野介に従って権田へ移り 西軍により上野介とともに斬首さる大井磯十郎 権田出身 小栗家歩兵の一人 西第により上野介とともに斬首さる荒川(江幡)祐蔵 江戸からの家臣 上野介に従って渡米 権田へ移り西軍により上野介とともに新首さる 三十六歳」こちらにも「家臣の墓」。「家臣の墓(右から)塚本真彦源勉 江戸からの家臣 上野介随員として渡米 権田へ移り西口により高崎城内て又一とともに斬首さる 三十七歳 又一と共に高崎市下斎田に葬られる沓掛藤五郎 江戸からの家臣 上野介に従って権田へ移り 西軍により高崎城内で又一とともに斬首さる ニ十五歳 又一と共に高崎市下斎田に葬られる多田金之助 江戸からの家臣 上野介に従って権田へ移り 西軍により高崎城内で又一とともに斬首さる ニ十歳 又一と共に高崎市下斎田に葬られる塚本ミツ 真彦の毋 難を逃れ富岡市七日市へ向かう途中 地蔵峠付近の山中で四月ハ日孫チカとともに自害塚本チカ 真彦の長女 難を逃れ富岡市七日市へ向かう途中 地蔵峠付近の山中て四月ハ日祖母とともに自害 七歳位」入口の守護仏(左)・奪衣婆。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.27
コメント(0)
「八ッ場ダム」を後にして、往路と同じ国道145号を引き返す。再び前方に「第二吾妻川橋梁」が見えて来た。「岩島駅前」交差点を右折し県道375号へ。「吾妻川」を渡り「岩櫃山」の勇姿が姿を現した。車窓から暫し「岩櫃山」をカメラで追う。県道58号線・中之条東吾妻線に入り「温川」に架かる「鳴瀬橋」を渡り「大戸」交差点を左折し車を駐めた。」 訪ねたのが「大戸関所跡」。ここは吾妻郡東吾妻町にある国定忠治が破ったとして知られる「大戸関所」の跡地とのこと。現在の「大戸関所跡」は、大きな石碑と復元された門があり、その裏手には「御番屋」と記された休憩所も設けられ、地元の方にも大切にされている場所であるのがよく伝わって来たのであった。「大戸関所」木柱。「大戸関所跡大戸関所は、信州街道の要点をおさえる重要な関所で、近世初頭の寛永八年(一六三二年)に設置された。信州街道は草津温泉を始めとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三侯の廻米や武家商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐ程の活気を呈したともいわれ、江戸と信濃を結ぶ最短距離として重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれた。大戸関所は元和九年五月(一六二三年)将軍秀忠上洛の時に、要害の此の地を守護したのが始まりといわれる。其の後、寛永七年に幕府目付によって、関所見立の巡検があり、翌八年に正式に関所が設けられた。 中山道の脇往還で、碓氷関所の裏固めの意味を持っている。 以後二百三十余年の間、幕府代官の管理の下に運営され、明治元年九月に廃止された。関所は通行手形によって往来の旅人を厳重に取締り、関所破り(関所を避けて山越しなどをした者)は重罪として処刑された記録がある。通行の門限は明六つから暮六つ(午前六時から午後六時)までと定められていた。また要害地域を守る関所付の村として、大戸、荻生、本宿の三ヶ村は関所番人を出し、警備に当たったり、関所破りを監視するなどの負担を義務づけられ、近隣の十一ヵ村は関所普請村に充てられていた。嘉永三年(一八五〇年)十二月に関所破りの罪を受け、侠客国定忠治はこの地で処刑された。映画や講談、浪曲でも知られる處である。 吾妻町観光協会・史跡保存会」「お休み處 御番屋」。「御番屋」の中の壁にあった1960年(昭和35年)ぼ東宝映画「国定忠治」のポスター。60年以上前の面影を強く残す東吾妻町大戸地区には「総天然色」という言葉が似あうのであった。「国定忠治像片膝をつき、たくましい右腕の袖をまくりあげ、鋭い目つきで前方を正視する国定忠治の肖像である。周囲を威圧する顔つき、身構えに一歩も退かない気合と厳しさな感じられる。右手元や左足指先の動きに・・・・な一面も見られる。梅渓時代の嘉永4年(1851)「赤城録」の口絵に描いたもので、忠治に関する伝記的資料として重要である。」ネットから。「東吾妻町大戸にあった大戸宿は、江戸時代に信州と上州を結んだ信州街道の宿場町として栄えた。同街道は江戸と信濃を結ぶ最短経路の一部であり、中山道をしのぐ活気があったともいわれている。北陸の大名が参勤交代に使うため混雑した中山道の迂回路として活用された。飯山、須坂、松代の北信濃の三大名の物流における中継点や、草津温泉や善光寺への往来客の宿泊地としてにぎわった。大戸活性化協議会の黒岩進会長(67)は「かっては70軒以上宿があったが、江戸末期の火災で多くが燃えてしまった」と話す。宿場に設置された大戸関所は北陸の前田家を警戒する幕府の軍事的防御線として重要視された。物流や人の往来が増えるにつれ、一揆に備えた鉄砲の持ち込みや、地方に出る女性の取締が重点的に行われた。同関所は、関所破りなどの重罪で捕らえられた江戸時代の侠客、国定忠治が磔刑に処された場所としても有名で、忠治を弔うために巨大な地蔵が建立されている。宿場の中には江戸時代末期に上州三分限者の一人と言われた加部安左衛門(通称・加部安)の邸宅跡が残る。加部安は大名の年貢米輸送や金融業、酒造業、鉱山経営などで発展し、上州有数の豪商となった。天明3 (1783 )年の浅間山大噴火の際には、八代目加部安が私財をなげうち、避難民の救済に尽力したといわれている。」「加部安の時計👈リンク~天明の祈り~ 天明三年(1783年)、浅間山が大噴火した。その際、地域を救った地元の豪商「七代目加部安左衛門」と救われた住民たちを描いたオリシナルストーリーです。群馬県東吾妻で実際にあったお話を紙芝居仕立ての映像にいたしました!YouTubeで見る事ができます!」「大戸宿 屋籠看板配置一覧図」。「大戸宿大戸宿の言われ北国街道の脇往還である信州街道は、高崎で中山道より分岐し、神山、室田、三ノ倉、大戸、本宿、須賀尾、狩宿、鎌原、大笹、仁礼、井上、福島(須坂市)に至る、途中11の宿場をもつ。大戸宿は高崎より4番目の宿場町で、寛永8年(1632年)に関所が設置された。信州街道は、草津温泉をはじめとする湯治客、善光寺参り、北信濃の三候の廻米や武家商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐほどの活気を呈していたとも言われ、江戸と信濃を結ぶ最短経路であった。文化5年(1808)には、71軒の宿屋があったと言われています。加部安左右衛門上州吾妻郡大戸村に代々、加部安左右衛門を名乗る上州一の分限者がいました。みんなから加部安(かべやす)と呼ばれて親しまれていました。初代は富沢掃部といって、戦国時代に生きた武士だったようです。三代目から加部姓を名乗ります。三代目から五代目までは八右衛門を名乗っていて、六代目から安左衛門を名乗っています。七代目の加部安が立派な人だったようで、酒造業を始めて、麻の仲買いなどもして、財産を蓄えます。八代目も立派な人で、父親の稼業を継いで財産を増やし、巨万の富を蓄えます。天明三年(1783年)に浅間山が大噴火を起こして、鎌原村をはじめとして吾妻郡の村々は壊滅状態となり、避難民が溢れます。八代目は財産を惜しまず、避難民の救済に当たります。翌年の正月、その功績によって、幕府より帯刀を許されます。天明六年の大洪水の時も、避難民たちを救っています。九代目は婿養子で、松井田の分限者、儘田又兵衛の次男だったようです。十代目は八代目の長男で、学問を好みましたが、それ以上に遊興を好み、江戸に出ては、吉原遊廓で派手に豪遊していました。お陰で、父親の残した財産も使い果たしてしまいました。晩年は江戸で暮らしていたようです。十一代目は江戸で生まれて、江戸で育ちますが、郷里に戻って、家業の建て直しを図ります。この十一代目は侠客の国定忠治とも仲がよく、忠治が処刑される時、最期に望んだのが、加部安が造った銘酒「牡丹」でした。十二代目は琴堂と号して、俳諧に熱中します。明治の時代になって、横浜に進出して大きな店を出し、貿易に手を染めますが、どうやら失敗したようです。現在、大戸の関所跡の近くに加部安の屋敷跡がひっそりと残っています。」「大戸関址之碑」。東京高等師範学校長正四位二等嘉納治五郎篆額。碑中に”国定忠治もかつてここにて被刑された”と記されているとのこと。当時の「大戸関所」の絵図。次に訪ねたのが直ぐ南側にあった「加部家跡」。群馬県吾妻郡東吾妻町大戸2770。「加部安」と書かれた木札。「1829(文政12)年、吾妻郡大戸村の豪商の家に生まれた加部嘉重は、家督を継ぎ12代目 加部安左衛門(琴堂)とな りました。1859(安政6)年の横浜開港を契機に横浜弁天通へ大きな店舗を構えて、生糸・麻・呉服・茶・雑貨等を外国人へ売り込み、大きな利益を得ていました。のち経営を使用人に任せた(幼少から才能を発揮していた俳句に打ち込んだためと言われている)ため、経営不振となり、1864(元治元)年に事業から撤退、横浜の店舗を閉めて郷里の大戸へ戻りました。1894(明治27)年歿。商売は13代目 加部安左衛門となった孝重が1874(明治7)年まで続けていました。現在、加部安左衛門の生家跡の一部と墓(大運寺)が残されています。」と。「町指定史跡 加部安左衛門関係遺蹟」案内板。「吾妻町指定 重要文化財加部安左衛門関係遺蹟 昭和五十八年九月十二日 指定」と。「玄関」。「大戸関所関係遺蹟(町重要文化財 昭和58.9.12)大戸関所は、寛永8年(1631)に設置された。大戸の地は信州・草津街道の宿場町で、北信濃地方の物資や旅人の往来などで大変賑わったといわれ、交通上重要な位置を占めた。関所の構造は、番屋・御門・高札場・牢屋からなり、番人4人で「入鉄砲と出女」といわれるように、この二つについて特に厳重な取り締まりを行った。幕未に国定忠治が関所破りの罪によりこの地で処刑されている。」軒下には干し柿が。木製燈籠「大戸宿」。車に戻り2分ほど南に進むと、左手にあったのがバス停「忠治地蔵前」「國定忠治慰霊碑入口 國定忠治処刑場跡」。ここが「忠治地蔵(国定忠治刑死場跡)」。「忠治地蔵尊」四方を竹矢来で囲んだ処刑場には、槍や刀を手にした300人もの役人が警戒にあたった。周囲には1500人もの農民が集まった。はるか遠方からやってきた者もいたようだ。天保の飢饉のとき、忠治が農民の救済に手を貸したことがあったからかもしれない と。以前はこの「忠治地蔵尊」には、観光バスが列をつくった。70年代の終わり頃までは土産物屋も繁昌していた。しかし、80年代に入ると、地蔵尊まえの信州街道を走る自家用車は以前の数十倍に増えたが、土産物屋の前に駐車する車はほとんどない とネットには。「忠治地蔵尊」「忠治処刑場の跡この地を尋ねた俳人等のなかに次に掲げた名句がある。風花や 忠治終焉の 藪川原 八束(東京)任侠の 名やとこしえに 松の花 樗雀(東京)蜩に「忠治の松」の いわれ聞く 空望(千葉)小説新説国定忠治 左保著(東京)昔からこの地蔵尊におすがりすると脳卒中に掛からないという百五十年記念 忠治史跡保存会 大運寺浄友会」「侠客 國定忠治慰霊碑」。「國定一家十二人衆 慰霊碑日光の円蔵 板割の浅太郎 清水の巌鉄 三ツ木の文蔵 松井田の喜蔵 成堺村の美代太郎 足利の權蔵 山王の民五郎 穂積の守之助 安中の清蔵 髙山の定七 滝川の安五郎」「慰霊碑建立之由来」碑。「侠客国定忠治は上州佐波郡国定村に生まれ天明の大飢饉に際し民百姓の日々に餓死する者増大するを見るに忍びず、岩鼻代官所に畜米の放出救済方請願せしも面倒無用の仕様に我慢ならず、子分引き連れ畜米を開放して餓死寸前の庶民に分かち与え、為に代官所破りとして役人の追うところとなり赤城山に籠りたるは有名な物語である。忠治は又郷土の水利不便な土地柄を憂え、私財を投じて貯水池を開発し、以来百有余年今なおその恩恵に近在農民の浴しているなど、民衆の為には身命を賭し善意のものを助けしことは枚挙にいとまなく、その任侠心は大衆の愛するところであったが、大戸の関所やぶりと代官殺害の罪にて嘉永三年十二月二十一日この地において磔の刑に処せられた。その霊を祀る地蔵尊が永い風雪と中風の妙薬ということにて削られ損耗甚だしきを、その義侠心と勇邁なる男の意気とを同じくする大阪市の人石本久吉氏の知るところとなり、ここに更めて碑を建て霊を慰めることとなれり。 昭和四十三年七月吉日 世話人 群馬高崎 茂木好一 高橋定方 富田和雄 埼玉大宮 山本文平 榛名町 中曽根国忠 大戸 土谷貫一」戒名「長岡院法譽花樂居士」と。「侠客 國定忠治処刑跡嘉永三年 十二月二十一日沒俗名 長岡忠次郎享年 四十一歳」日本酒が奉納されていた。桜の老木も國定忠治の墓を見守っていた。「忠治地蔵尊」、「侠客 國定忠治慰霊碑」を振り返って。白の山茶花であっただろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.26
コメント(0)
「岩櫃城跡」を後にして「国道145号」に出て西に向かう。吾妻線「JR郷原駅」手前にあった道路脇の標識には「岩櫃山登山口 1km」と。「赤岩通り登山口」があるようであった。「JR郷原駅」の先を左折して、「県道237号線」に入り、「吾妻川」にかかる「万年橋」を渡り、直ぐ左折して、「岩櫃山(いわびつやま)」の勇姿を楽しめる場所に車を停めた。岩櫃山は、標高802メートルの岩山で、吾妻八景を代表する景勝地。写真の南面は約200メートルの絶壁。奇岩、怪石からなる切り立った山容。まるで、中国の南画のような絶景なのであった。ぐんま百名山のひとつにして、吾妻八景のひとつ、群馬県を代表する名勝。しかし、この岩場は脆く、ロッククライミングは不可能であると。登山道は4つのルートがあり、JR群馬原町駅からアクセスする平沢地区からの「沢通り」「尾根通り」、同郷原駅から古谷地区にアクセスする「密岩通り」と「赤岩通り」がある と。写真の反対側・北側の中腹には武田の三堅城のひとつ、戦国・真田氏の拠点だった「岩櫃城跡」があり、北関東を代表する山城とされているのだ。山頂からの眺望はすばらしく、眼下に市街地、眼前に上州の山々が広がり、晴れた日には遠く富士山を望むこともできるとのこと。来た道を引き返して、正面に「岩櫃山」を見ながら国道145号に向かって進む。「国道145号」を西に進むと右手にあったのが「鳥頭神社」。群馬県吾妻郡東吾妻町大字宮の脇八八九番地。「鳥頭神社(とっとうじんじゃ) 由緒一.所在地 吾妻郡東吾妻町大字宮の脇八八九番地二.祭神 大穴牟遅神(大国主命)他四社三.祭日 春季大祭四月吉日、秋季大祭十一月吉日、茅の輪祭七月吉日四.境内地 二、六三六坪五.沿革 創建年月不評伝承によると吾妻七社の一つで建久年中(ー一九〇)の建立と伝えられている。 古来武将郷民の信仰が厚く元享年間(ー三二ー)岩櫃城主吾妻太郎行盛が社殿を改修したという。 延文三年(一三五八)頃京都安居院で編集された『神道集』によると父が加若和利 (かじゃくかずとし)母が子持御前の御子愛東宮を祭った神と記されている。 叔父藤原成次は元、上野国目代(次官)で、この地に住居し中世は吾妻、西条郷岩下村と称した。 戦国末期は岩櫃城主斉藤氏の庇護を受け永禄六年(ー五六三)十月斉藤氏滅亡後、同九年 海野幸光同輝幸は武田信玄の吾妻領の郡代となり、天正六年( 一五七八)海野長門守幸光は 武田勝頼に忠誠を顕すため鰐口を奉納したが享保八年(一七二三)盗難により現存しなしい。 天正十年(ー五八二)正月真田昌幸より八貫七百文の寄進を受け社殿を修復、同十八年八月 真田信幸沼田入部に際し三貫五百文の寄進を受けた。沼田真氏改易の後貞享三年(一六八七) 検地には境内一反五畝余、森ー反とあり元禄七年(一六九四)十一月京都ト部兼連より正一位 鳥頭大明神の宣旨を賜った。宝歴十一年(一七六一)本社建替着工、明和元年(一七六四)九月に 完成した。なお、宝暦十三年まで正一位鳥頭大明神と称した。 明治十年七月相殿二座を合祀、同年四十年八月境内末社等を合祀した。 撰文 山口武夫」そして鳥居の前、右にあったのが「神代杉」。「神代杉の由来そもそも神代杉(一名・親子杉とも言う)は、その昔日本武尊御東征のみぎりお手植されたと言い伝えられ、以来幾千歳うつ蒼たる神域を近隣に誇りしが、寛保2年(1742年)草津への旅人一夜をこの大杉の虚にて暖を焚き その失火により神代杉は半枯の状態になりしとか、その後天明3年(1783年)浅間噴火による熱泥流は、再びこの神代杉を厄火に包みたり。ときに龍徳寺住職円心和尚は、その焼失の危機を憂慮し神代杉を後世に残さんと余燼のくすぶる中、己れが危険を侵し十米の高所より切倒してその祈念を果たし、今の世に往時の面影を残存したると言う。この神代杉は現在周囲九.七五米余あるが、当村の氏子たち代々に亘り修復を重ねて、今にその姿を伝えるものなり。また、虚内にある杉は約200年前何度か植栽に挑みたるがいずれも枯死したため氏子たち笹原台地の黒土を馬にて運び混土し、杉苗も長尺ものを切株より大空に突出して植えるなど、幾多先人の辛苦により漸くどの目的を達し活着したものと言われしが、それより一名親子杉とも呼ばれこの神代杉の名声を天下に広め、今尚誇りを保ち尊ばれるものである。昭和六十三年十一月 神代杉保存会 吾妻町観光協会」樹齢約400年の老木で中は空洞・・・・??で。いや、その中にはさらに樹齢約200年の杉の木が大きく空へ向かって伸びていた。よって「一名・親子杉」とも言うのだと。廻り込んで。そして左側には「力石」があった。「力石の由来力石とは労動を人力に頼らざるを得なかった時代に発生され、力くらべや、体力を養うを目的にした担ぎ石を指す。すべての作業に若者の人々は強い力を重んじ軽軽と運ぶのが誇りであった。岩島地域の力石は丸石で二石組で保存されている。ちなみに「力石」の大玉が98キロ小玉が47キロである。力石奉納競技で大玉を担ぎ得る若は名誉と称賛を得たると知らされる。岩島地区は他に6ヶ所の力石の所在が確認され、形や同数で在るのは岩島地区は麻の栽培で共通点があり庶民の力比べの文化遺産でもある。「力石」は若者が他の地域との交流を有した証であろうし、有形文化財であろう。力石の文献は無くても、素朴な自然であっても、若者が体力を養い親しんだ「力石」は先人と信仰の先史をたずね後世に伝承すべく保存するものである。 神杉の種舞い降りて力石 初蝶の吹きもされし力石 鳥頭神社力石保存回 平成二十年四月吉日 撰文 小池都史雄」正面に「鳥頭神社」の「拝殿」。創建年代は不詳。一説に、鎌倉時代初期の建久年間(1190年-1199年)の建立とも。古来、武将、郷民の信仰が厚く、鎌倉時代末期の元享年間(1321年)、岩櫃城主の吾妻太郎行盛が社殿を改修した。南北朝時代の延文3年(1351年)に編集された『神道集』の「児持山大明神の事」に登場する突東宮に比定される。児持山七社、あるいは吾妻七社明神の一つ。戦国時代末期には岩櫃城主斉藤氏の庇護を受け、永禄6年(1578年)10月の斉藤氏滅亡後、永禄9年(1581年)には海野幸光と輝幸は武田信玄の吾妻領の郡代となった。安土桃山時代の天正6年(1578年)、海野長門守幸光は武田勝頼に忠誠を顕すため、鰐口を奉納したが、その後盗難に遭い、現存しない。天正10年(1582年)、真田昌幸より8貫700文の寄進を受け、社殿を修復、天正18年(1590年)8月には真田信幸が沼田入部に際し、3貫500文を寄進した。江戸時代になり、沼田真氏改易の後、貞享4年(1683年)、検地では境内1反5畝あまり、森1反とある。元禄7年(1694年)11月、京都卜部兼連より正一位鳥頭大明神の宣旨を賜った。宝暦11年(1761年)、本社の建替が着工し、明和元年(1764年)9月完成した。現在の拝殿は、江戸時代後期の天保年間(1831年-1845年)の改築だという。本殿とともに、向拝下の鳳凰、目貫の龍、木鼻の狛犬と象、手挟の牡丹などの彫刻が見事。御祭神は、主祭神が大穴牟遅神・宇迦之御魂神。相殿に明治10年(1877年)7月に合併した倭健命・建御名方命を祀る。明治40年(1907年)8月、境内末社などを合祀した。合祀神として、大山津見命を祀る。明治45年(1912年)7月19日、神饌幣帛料供進社に指定された。向拝下の鳳凰、目貫の龍、木鼻の狛犬と象、手挟の牡丹などの彫刻が見事。奥の「本殿」は鞘堂になっていた。ズームして。「神楽殿」。ここにも御神木の杉が。「矢倉鳥頭神社社務所」。「鳥居の礎石亨保七年(一七七二)につくられたもので鳥居の改修〇〇にあたり掘り出されここに写し保存する」と。しかし「鳥居の礎石」の写真は撮り漏らしました。この石碑には「??塚碑」と。日清あるいは日露戦争の慰霊碑か?「国道145号」を更に進むと前方に真っ白な斜張橋「第二吾妻川橋梁」が現れた。八ッ場ダム建設に伴い新設されたJR東日本吾妻線。そのなかでつくられたのが第二吾妻川橋梁。吾妻渓谷の程近くにかかるこの鉄道は住民の団結を現すデザインで 4本の独立支柱は世界的にも稀なデザインとのこと。第二吾妻川橋梁は,JR吾妻線の付替え工事として計画された3径間連続PRC斜版中路箱桁橋と単純PRC中路箱桁橋からなり,半径600mの曲線を描いて一級河川吾妻川を渡河する橋梁である。中央スパン167mは、斜版橋では国内最長となる。曲線の橋であることが解る写真をネットから。「道の駅 あがつま峡」に立ち寄って見た。「道の駅 あがつま峡」。「あがつまふれあい公園 天狗の湯」。源泉掛け流しの泉質の良さが魅力で、体の芯から温まる温泉であると。昼食に「蕎麦」を食べようと。しかしあったのは「うどん」のみでこの場所は諦めた。「八ツ場バイパス」の下を潜る。そしてこの先で「八ツ場バイパス」に合流。前方に「雁ヶ沢トンネル」。。同トンネルと「鍛冶屋沢スノーシェッド」「茂四郎トンネル」を合わせて2642mを表示されていた。そして目的地の「八ッ場ダム」に到着。「そば処やんば」で「蕎麦」を食べることにする。「前向き注射でお願いします♪」と意味深長!!最近は、やや説得力が薄らいで来たが。【そばの効果】そばを喰べると、すぐお腹がすくと言われるのはなぜか?それは・・・そば粉の澱粉には他の穀類より(ジアスターセ)による消化が非常に早いからです。そばは腹一杯喰べても胃にもたれずに消化吸収されるからです。(タンパク質・カルシウム・カリウム・鉄分)等多くのミネラルを含んでおります。そばは骨・血液・筋肉を作るのに役立ち、お子様の成長促進に最適です。又、老化を防ぐビタミンEをはじめ血圧を下げる(ルチン葉緑素)が含まれていると言われております。大切なあなた・・・お子様にも是非、健康の為におそばをお召し上がり下さい尚、当店のそばは、地元吾妻産の玄そばを自家製粉し、そば粉八つなぎ粉二、の二八そばです。 麦とろ そば処 やんば「山菜天ぷら蕎麦」を楽しむ。そして、「やんば見放台」を訪ねることに。ジグザグの遊歩道を上って行った。「やんば見放台」に到着。「八ッ場あがつま湖」と「八ッ場大橋」を見る。こちらは旅友の写真で、昔の「八ッ場大橋」下の水没した場所の光景。「ここから見える景色」案内ボード。川原湯温泉街 吾妻川沿いから移設された。八ッ場大橋 標高:586m=ダムの天端の高さ 標高:583m=満水時の水面の高さ不動大橋丸 岩 令和2年3月撮影 ※ 試験湛水中の最低水位時の写真です。「八ツ場あがつま湖」案内ボード。「満 水 時 :標高 583m 最低水位:標高 536.3m 令和2年3月撮影 ※ 試験湛水中の最低水位時の写真です。」「八ッ場あがつま湖」なぜ、この場所にせまく深い谷が生まれたのでしょうか。大地の活動八ッ場あがつま湖は、幅がせまく深い谷地形を利用して作られました。吾妻川は吾妻渓谷を削り込んで東向きに流れていますが、数10万年前には南(長野県側)へ流れていたと考えられています。その後、現在の浅間高原の南側で浅間・烏帽子火山群の噴出物が流路をふさぎ、大きな湖(古嬬恋湖)ができました。湖水は標高の低かった場所からあふれ、今の東向きの流れに変わり谷を削り始めました。加えて、渓谷地域は古く硬い岩石からできているため、切り立った断崖になったのです。人々の暮らし八ッ場あがつま湖は吾妻川の水をためています。吾妻川はかつて「死の川」と呼ばれていました。草津温泉からの水が強い酸性のため、魚や虫が住めなかったのです。また、この水は農業にも使えず、コンクリートを溶かすため、河川の建造物にも影響がありました。そこで、河水を中和する工場が1963 (昭和38)年に草津町に作られました。それからは、24時間、365日休むことなく石灰を上流の酸性河川に投入し中和を行っています。吾妻川は、いまでは魚類が生息する川に生まれ変わっています。石灰乳が投入されている様子。中和工場。「八ッ場ダム」。中央に非常用洪水吐設備。「八ッ場ダム」のこれまで道のりは平坦なものではなかった。建設予定地に吾妻峡(あがつまきょう)という景勝地や川原湯(かわらゆ)という著名温泉街を含むことから、地元住民の強い反対運動が起こった。1952年(昭和27年)の計画発表から半世紀以上たち、やっとダム本体の工事が始まろうかという2009年には、政権交代した民主党によって八ッ場ダム建設中止が発表されて大きな騒動となった。その2年後に中止が撤回されて工事が再開し、ようやく2020年3月31日ついに完成し、4月1日から本格運用が開始されたのだ。「八ッ場ダムの設備」。ほぼ満水であろうか。展望デッキ。「八ッ場ダム管理支所」。奥側を見る。光る「八ッ場あがつま湖」。「八ッ場ダム周辺トイレマップ」。駐車場を見下ろす。「八ッ場ダム」、「八ッ場ダムあがつま湖」も見納め。下流側からの「八ッ場ダム」の写真をネットから。左上の「八ッ場ダムあがつま湖」岸の住宅地は、ダムに沈んだ方々の住宅の移転先住宅で川原湯温泉街とのこと。 「八ツ場もみじ橋」と。「やんば見放台」から下りて駐車場に向かう。歌碑「ダムとなる 村に知人の 家は無く 行き交ふダンプ 枯草ゆらす 義夫」当時の村人の想いが溢れ出ているの歌なのであった。赤い帽子と涎掛けの「地蔵尊」と道祖神碑。「地蔵尊」に近づいて。石仏の姿も。沈んだ村からこの場所に移されたものであろうか?そして車に戻りこの日の帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.25
コメント(0)
「本丸址」に向けてさらに「尾根通り」の階段を上って行った。この辺りの紅葉は今が盛り。「岩櫃城 要害地区略図」をパンフレットから。岩櫃城 本丸と二の丸の間の堀切から延びる竪堀。本丸下の堀を望む。「二の丸跡」。中城から二の丸に向かっては、現代につけられたルートが出来上がっており、階段が何箇所かにあった。全体で百数十段にもなるであろうか。 ルートは、曲輪の外側だったり、曲輪間の横堀だったりしていた。 ルートの外側に土塁らしきものがあった。堀底だと思っていたルートは、上り詰めるといつの間にか二の丸の上部につながり、さらに登ると本丸であった。幟「続日本100名城 2016年NHK大河ドラマ「真田丸」ゆかりの地真田氏上州の拠点 岩櫃城」。「本丸跡」に向かって更に進む。 本丸の一部はさらに高くなっており、そこに「岩櫃城本丸址」碑が立っていた。 「岩櫃城本丸址」碑。「岩櫃城由来記吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮(すけふさ)により築城されたといわれています。城郭の規模は、1.4キロ平方メートルと上州最大を誇り、後ろに甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び、武田領内の三堅城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(一五六三)武田信玄は上州侵略のため、重鎮真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲広)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。天正二年(一五七四)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたと言われています。天正十八年(一五九〇)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重鎮出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長二十年(一六一五))により、四百余年の長い歴史を残し、その姿を消しました。 東吾妻町観光協会」「六文銭」の下に「岩櫃」と書かれた幟。近くには小さな石祠も建てられていた。近づいて。落ち葉の絨毯と紅葉。「櫓台主郭の中で一段高くなっている場所て幅12m、高さ2.5mほどの高台となっている。周囲を観察する櫓台と考えられ、ここから周囲の展望・状況を確認し城内外に指揮連絡系統を結んだとされる。」南東方向の吾妻郡東吾妻町川戸の街並みを見る。堀上の紅葉。「腰曲輪」方向を見る。「腰曲輪南枡形虎口とニの丸から本丸に上る通路で本丸南西を守る郭」竪堀を再び。「本丸跡」を振り返って。祈りの石仏の如き姿。近づいて。標高802メートルの岩櫃山中腹に築かれた岩櫃城から見えた景色。竪堀を見ながら、山を下る。「中城跡」を左手に見る。「案内所」に向かって、上って来た同じ道を下る。そして「案内所」の前を通り左に進んだ場所・天狗丸跡の「岩櫃神社」を訪ねた。この神社は吾妻線・群馬原町駅の南西約1.8kmに鎮座。岩櫃山の北東麓に鎮座するこの神社は鎌倉時代初期に吾妻太郎助亮が築城したとされている岩櫃城の天狗曲輪だった所で、真田氏が支配していた頃には真田忍者の活動拠点であったといわれている。現在はその面影もなく、畑地の中にポッカリと黒々とした森がありそこが神社の社地となっていた。参道途中に立つ根巻鳥居。「岩櫃神社」の「社殿」 御祭神:斎藤佐太郎基国命 祭礼日:4月17日、11月3日 境内社:三社 由緒:御祭神の斎藤佐太郎基国命は関ヶ原敗戦後、昌幸・幸村父子に伴い紀州へ従った275人 の1人です。岩櫃城は吾妻氏に拠り鎌倉時代に築城され、貞和年中(1345~1349) 吾妻太郎行盛の時に、碓井の里見氏に略取されました。約10年の後、行盛の遺児・ 千玉丸は之を回復し、上杉氏に属して斉藤越前守憲行と称し、6代・基国の永録6年 (1563)冬、武田氏の将・真田一徳斎幸盛に攻略されたと言います。 岩櫃城落城後、斎藤佐太郎基国命は元の領民の安否が気になり、神照坊大天狗と化して 岩櫃城へ戻り、旧領地の人民を保護したのだといい伝えられています。扁額「岩櫃神社」。内陣。この石碑には「岩櫃神社祈念碑」と。その右下には末社が3社並んでいた。鎮守の杜の紅葉を楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.24
コメント(0)
国道145号を西に走り「岩櫃城(いわびつじょう)本丸観光案内所」のある「平沢登山口駐車場」に到着。「岩櫃山周辺ガイドマップ」。「現在地」付近をズームして。岩櫃城は、築城時期や築城者は不明ながら、中世に簒かれたとされる山城で、文献に初めて登場する城主は、南北朝時代(1336 ~1392 )の吾妻太郎行盛。戦国時代の永禄6年(1563)、斉藤越前守憲広(基国)の本城であった岩櫃城は、武田信玄の家臣・真田平綱(幸隆)によって落城されました。以後、東吾妻は武田氏、そして真田氏の支配地となり、岩櫃城は、上田城と沼田城を結ぶ真田道の中間拠点として最重要視され、上杉・北条・徳川といった巨大勢力に挟まれた真田氏の領国経営の拠点でした。徳川幕府の開設後も、岩櫃城は真田氏の城として使われましたが、慶長20年(1615)に徳川家康が発令した「一国一城令」によって岩櫃城は破却され、その役割を終えました。岩櫃山は、どの登山口からも1時間程度で山頂に到達でき、時間に追われず登山が満喫できる山。その一方、登山道には岩場や鎖場(誘導用の鎖を伝う場所)も多く、山頂も鎖場を登った大岩の上にあります。「岩櫃山」は標高802.6mの岩山。南面は約200メートルの絶壁。奇岩、怪石からなる切り立った山容は、中国の南画のような趣なのであった。「岩櫃城跡(国指定史跡)岩櫃城は、中世に築かれたとされる山城です。戦国時代の永禄6年(1563)以後、東吾妻は武田氏、そして真田氏の支配地となり、岩櫃城は重要な位置を占めてきました。」駐車場入口前の石碑群。本丸跡へのルート、時間「案内板」。そして「岩櫃城丸観光案内所」。「岩櫃城丸観光案内所」内を訪ねた。「【岩櫃城】周辺立体模型赤色立体地図を作成する際に行った航空測量のデータを元に作成しました。模型により立体感の増した岩櫃城の各曲輪や岩櫃山山頂、現在の市街地などの高低差をぜひ感じてみて下さい。」岩櫃城のジオラマ。岩櫃城の主郭は、岩櫃山の北東尾根上に曲輪を展開しており、南西には岩櫃山、南は吾妻川へと下る急斜面、北は岩山に囲まれた天然の要塞であった。パンフレットから。ジオラマの岩櫃山をズームして。上部に歴代岩櫃城主。写真を加工して。この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが、伝説の域を出ない。後に助亮系の吾妻氏(前期吾妻氏)は姿を消し、下河辺氏末裔とされる吾妻氏(後期吾妻氏)がこの地を支配したが、南北朝時代に南朝方の攻撃で当主行盛が戦死、その子・千王丸は秋間斎藤氏の斎藤梢基に庇護され、山内上杉氏の偏諱を受け斎藤憲行と名乗った。戦国時代、吾妻氏の子孫と称する斉藤憲次が、主君の大野憲直を討ち、岩櫃城を奪った。その子、斉藤憲広は岩櫃城を拠点として吾妻郡一帯の地侍を支配下においたという。永禄3年(1560年)、長尾景虎(上杉謙信)が岩櫃城を攻め落とした伝わる。その後、城は斉藤氏の手に戻る。地元の旧記では吾妻行盛-斎藤憲行-行禅-行弘-行基-行連-憲広(基国)と系譜を伝えている。その後、真田氏は吾妻地方への進出をねらい、岩櫃城を攻略した。その後、上野国北部の利根郡に位置する沼田城(沼田市)・名胡桃城(みなかみ町)と、信濃国の上田城とを繋ぐルート上の重要拠点として岩櫃城の大改造を行った。その後、真田昌幸は岩櫃城を嫡男の真田信幸(真田信之)に委ねた。真田家当主となった真田信之は、慶長19年(1614年)に岩櫃城を破却した。以後は原町(現在の東吾妻町原町)に陣屋を置いて一帯を統べた と。「東吾妻町と真田三代真田氏は、室町幕府の勢力が衰えてきた戦乱の世において、信濃・上州を中心に活躍した武門です。天下取りを目指す戦国武将が入り乱れる中、真田幸隆(幸綱)※父、真田昌幸※子、真田幸村(信繁)※孫は「真田三代」といわれ、幾多の戦いに身を投じました。そして、真田幸隆が攻略した岩櫃城は、真田氏の吾妻郡統治の中心として歴史の表舞台に立ち、また吾妻の地は、徳川家康の一国ー城令が出されるまで、真田氏と深く結びついていました。」。「真田家 家系図」。「真田氏ゆかりの地」「岩櫃城跡の発掘調査東吾妻町大字原町に所在する岩櫃城跡では、東吾妻町教育委員会において埋蔵文化財の範囲確認調査を平成25年度より実施しています。平成2 6年度の調査区は、戦国時代に岩櫃城跡の中心だったと考えられる本丸(主郭)です。今回の調査によって本丸に石垣が構築されていたことや鍛冶が行われていた痕跡などが見つかりました。また、かわらけ(素焼きの土器)や鍋、中国製の陶磁器などの生活用品とともに、鉄砲玉などの金属製品が出土しています。本丸ではこれまで発掘調査された例はなく、今回の調査は岩櫃城跡の利用方法を知る上で貴重な成果となりました。今回発見された遺構や遺物などは、今後の出土品整理や分析などを経て発掘調査報告書として刊行し、正式に公開されます。これら先人達の足跡を、東吾妻町の歴史を探る資料として、活用して頂ければ幸いです。」写真左には、見つかった遺物・かわらけ、鍋、擂り鉢、陶磁器、金属製品関連が。「続日本百名城「岩櫃城」認定証」。「岩櫃城丸観光案内所」のテレビ画面では「岩櫃山」が紹介されていた。群馬県東吾妻町のシンボルで、標高802.6メートルの奇岩・怪石に覆われた山。ぐんま百名山のひとつにして、吾妻八景のひとつ、群馬県を代表する名勝。南側の正面は奇岩が組み合わさったような高さ200メートルの断崖絶壁。この岩場は脆く、ロッククライミングは不可能。登山道は4つのルートがあり、JR群馬原町駅からアクセスする平沢地区からの「沢通り」「尾根通り」、同郷原駅から古谷地区にアクセスする「密岩通り」と「赤岩通り」がある。中腹には武田の三堅城のひとつ、戦国・真田氏の拠点だった岩櫃城跡があり、北関東を代表する山城とされている と。「東吾妻」「真田氏上州の拠点岩櫃岩櫃山源頼朝が狩りの際にこの山を見て「(飯を人れる)お櫃に似ている」と言ったことからこの名前がついたと言われている岩櫃山。東吾妻町のシンボルとなる標高802.6メートルの山で、ぐんま百名山の一つでもあります。南面は、高さ200メートルの断崖絶壁てすが、5つの登山道を持ち、春先から秋にかけては多くの登山者で賑わいます。また、真田氏が上州て勢力を拡大していく際の拠点となった岩櫃城があった山で、N H K大河ドラマ「真田丸」でも物語の主要な場所として描かれました。」NHK大河ドラマ「真田丸」ゆかりの地真田幸隆 真田昌幸 真田信繁」岩櫃城本丸址岩櫃城は現存していませんが、岩櫃山では現在でも縦横多様に伸びる深い堀を見ることがてきます。平沢登山口までは車で登ることが可能で、そこから山道を15分ほど登った山の中腹には岩櫃城本丸址があります。岩櫃城は、武田信玄の家臣・真田由隆によって落城。その後、真田昌幸とその息子である信之・信繁が共に過ごした時期もある城と言われており、全国から真田ファンが訪れています。潜龍院跡(せんりゅういんあと)1582年(天正10年)、真田昌幸が主君・武田勝頼を岩櫃城に迎えるため、本丸から南西約7 5 0メートルの場所にわずか3日て造り上げたといわれる御殿(潜龍院跡)。歴史に「if (もし)」はありませんが、武田勝頼が甲斐から上州の吾妻に逃れ、織田・徳川連合軍と岩櫃城て繰り広げたら、その後の戦国の世はどうかわったのでしよう。御殿は、真田一族の根津潜龍斎に拝領され、潜龍院として名を変え、潜龍院跡と呼ばれています。石垣が並ぶ広大な広場から仰き見る岩櫃山は、とても見応えがあります。「天険の要害 岩櫃城真田氏上州の拠点となった岩櫃城は、岩櫃山全体を機能的に活かした巨大な山城てした。甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び武田の三堅城と呼ばれ、西側・南側は巨岩による絶壁と吾妻川により守られており、上杉や北条を意識して、東側の防御に重きをおいたとされています。現在は本丸址を残すのみてすが、岩櫃山を登る途中に見られる堀や曲輪に、山城の名残を感じることがてきます。」「真田街道マップ上田城 ~ 鎌原城址 ~ 羽根尾城跡 ~ 岩櫃城 ~ 中山城址 ~ 名胡桃城址 ~ 沼田城跡 ~ 片品村真田三代ゆかりの地をめぐる、真田街道の歴史。真田氏の発祥については依然として謎が多いが、現在の上田市真田町を本拠とした東信濃の名門、海野氏の流れをくむ一族といわれています。真田氏が世に認められるようになったのは真田幸隆の時代からでした。武田信玄の配下となって、村上義清の砥石城を落とし、さらに上野国吾妻郡の諸城を次々と攻略しました。その後、真田家を継いだ信隆の三男 昌幸は、天正11年(1583年)に上田城の築城を開始し、徳川の大軍を二度までも撃退して、天下に真田の名をとどろかせました。また、大坂の陣における昌幸の二男 幸村の獅子奮迅の活躍、江戸末期まで連綿と基礎を固めた昌幸の長男 信之など、いまだに真田一族の名声は尽きることがありません。」続日本100名城のスタンプを頂きました。御城印も。「国指定史跡・続日本100名城「岩櫃城」登城記念スタンプ」。これも頂きました。幟・「国指定史跡 続日本100名城 2016年NHK大河ドラマ「真田丸」ゆかりの地真田氏上州の拠点 岩櫃城」。その幟の下に岩櫃城・本丸方向への案内表示が。「奉獻大◯」と刻まれた石碑。「大宮巖鼓神社伝世社宝 祓(はら)いの刀 蕨手刀(わらびてとう)所在地 群馬県吾妻郡東吾妻町原町八一一【蕨手刀】とは、柄頭が早春の蕨に似ていることからその名が付けられました。当社蕨手刀は長い年月一度も土中に入らなかった伝世品です。伝世品としては、全国でニ例のみであり奈良の正倉院一口と大宮巌鼓神社一口です。制作年代は飛鳥時代後期から奈良時代中期と推定され、正倉院の御物と並び「東西の両雄」として一千三百余年今もなお往古の姿を留めています。 (昭和五十五年群馬県重要文化財指定)」【蕨手刀】は、刃の霊力により気力の沈滞を祓い、気力の充湓によって家内安全と交通安全を祈願するものです。そして「岩櫃城」の「本丸跡」に向かって、登山道を上って行った。「岩櫃山登山コース」案内板。「岩櫃山吾妻ハ景を代表する景勝地として知られている岩櫃山は、標高802mの怪岩からなる切り立った岩山です。南面は約200mの絶壁で、その山容は中国画のような独特の趣があります。山頂からの眺めはすばらしく近景には原町、中之条の市街地、遠景には上州の山々が広がり、晴れた日には遠く富士山も望めます。新緑・紅葉のシーズンには多くのハイカーで賑わいます。」前方に「岩櫃山登山口」と書かれた木柱が立っていた。「岩櫃城跡周辺コース」案内板。「岩櫃城岩櫃城は岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた典型的な山城です。頂上より約200m下がった場所(標高593m )に本丸・二の丸・中城があり、この場所を中心に広い範囲を城域としています。また、近くに2つの支城北東側に柳沢城と岩櫃山南側に郷原城を持っています。」。「吾妻町指定史跡 岩櫃城跡」碑。「岩櫃城跡岩櫃城は岩櫃山(標高802m )の中腹東面に築かれた典型的な中世の山城であり、山頂より約200m低い場所に本丸・二の丸・中城があり、これらを中心に広い範囲で竪堀や曲輪が点在します。岩櫃城はその築城時期や築城者については定かではありませんが、文献によれば南北朝の時代に初めて岩櫃城主吾妻太郎行盛の名が登場します。行盛は、南北方の豪族里見氏に攻められ自害したと伝えられます。その後行盛の子、憲行が関東管領上杉氏の支援によって岩櫃城を奪回し、その後、斉藤越前守憲広(基国)まで六代にわたる東吾妻支配の本拠となりました。戦国時代の上州は甲斐武田氏、越後上杉氏、小田原北条氏による支配権争いが繰り広げられ、永禄六年(1563)斉藤越前守憲広(基国)の本城であった岩櫃城は武田信玄の家臣である真田幸綱(幸隆)の手によって落城し、武田氏の西上野支配が確立しました。幸綱の推挙により、武田信玄から岩櫃城代に海野長門守幸光が命せられ、真田の先兵となり十七年の長きにわたり吾妻の地を守りました。天正九年の海野兄弟誅殺の後、岩櫃城は真田昌幸の嫡男信幸を城代とし、弟である信繁(幸村)がここで一時代を過ごしたともわれています。武田氏の滅亡後この地は真田氏の支配となり、岩櫃城は信州上田城から上州沼田城を結ぶ真田道の中間地点として重要な位置を占めることとなりました。徳川幕府開設後も吾妻地域は真田氏の支配となりましたが、徳川家康による「一国一城令」に伴い、慶長二十年(1615)頃、真田信幸は城下町を現在の原町に移し岩櫃城を破脚し、岩殿城、久能山城と並び武田の三堅城といわれた岩櫃城も戦国時代の終焉と共にその役割を終えました。 東吾妻町」「要害地区略図」。「岩櫃山登山口」と書かれた木柱が両脇に。「沢通り 尾根通り 平沢登山口 三合目」と。左に折れ「尾根通り」を進むことにする。「中城経由 岩櫃城本丸跡 500m」と。大きな看板には「注意 クマ出没中 東吾妻町」と。こちらにも「熊出没注意」と。狭い尾根道を進む。杉林の中を。栗林であっただろうか。本当に「熊」が出そうな雰囲気!!堀の下のような場所を上って行った。「尾根通り 本丸跡」➡ と。紅葉真っ盛りのモミジが迎えてくれた。陽光を浴びて赤く輝くモミジ葉。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.23
コメント(0)
さらに「四万川ダム」に向かって進む。「湯薬師トンネル」。道路標識に「四万川ダム」と。「日向見トンネル」。そして目的地の「四万川ダム」駐車場に到着し、散策開始。「四万川ダム」撮影用のフォトフレーム(額縁)。利根川水系四万川に建設された重力式コンクリートダム。堤高の89.5メートルは群馬県が運営するダムとしては最も高い。国土交通省の地域に開かれたダムに指定されており、西洋の城を想起させるデザインが施されているのであった。「四万川ダム案内図」。ダムの目的 1.洪水調整 四万川ダム沿川の水害を防くため、ダム地点で計画高水流量350m3 / sのうち 290m3/ sの洪水調整を行います。 2. 水道用水の供給 四万川ダムは、 中之条町の水道用水として、3,000m3/日(0.035m3/s)を 太田市の水道用水として、 28,5003/日(0.330m3/s)を 群馬県企業局の水道用水として、14,200m3/日(0.165m3/s)を供給します。 (太田市・みどり市) 3 既得用水の安定化、河川環境の保全 ダム下流の四万川既得用水への安定した供給を行うと共に河川環境保全のための流量を 確保します。 4 発電 ダム下に設置された日向見発電所て最大出力1,000 kwの発電を行います。」「四万川ダム」平面図。「ダムの諸元位置 吾妻郡中之条町大字四万字型式 重力式コンクリートダム堤高 89.5m堤頂長 330.0m堤体積 516,000m3ダム天端 EL769.5m」 標高 「貯水地の諸元集水面積 28.4km2湛水面積 0.32km2総貯水容量 9,200,000m3有効貯水容量 8,600,000m3サーチャージ水位 EL764.0m常時満水位 EL751.5m洪水期制限水位 EL728.5m 」サーチャージ水位は、洪水時にダムが洪水調節をして貯留する際の最高水位のことと。 「奥四万湖 四万川ダム」案内板。ここにも「四万川ダム」フォトフレーム。「四万川ダム ドローン空撮動画 配信中です」👈リンク 「四万川ダム ドローン空撮動画 配信中です」👈リンク 四万ブルーを空撮!!「減勢工ダムからいよく水がれると、その勢いで河床(川底)が削られてしまい、下流に土砂が流れてしまいます。そこて、ダムから流れ出た水の勢いを弱めて、河床が削られないようにする必要があります。この働きをするのが「減勢工」です。」「四万川ダム四万川は、過去に幾度となく洪水による災害に見舞われ、多くの死者を出すなど甚大な被害を被って参りました。この為、洪水調整のため作られました。又、水道用水の供給、既得用水の安定化・河川環境係全、発電の目的などににも使われております。このダムは1周4km程度で、新緑や紅葉シーズンは、特に素晴らしい、景色を見ながら周遊できます。」「四万川ダム」。「天端 (てんば)」を望む。「天端 (てんば)」高欄には「陶板画」が並んでいた。「ダム天端高欄の陶板画地元の小学生が作成した陶板画を設置」と。ダムの下の「群馬県企業局 日向見発電所」を望む。別の場所から。エメラルドグリーンの「奥四万湖」の湖面。案内パネル。「網場(あば)湖の水面に、オレンシ色の浮きのようなものがあります。あれは湖に流れ込んだ木やこみが、ダムの放流設備に入り込まないようにしているもので、「網場」あるいは「流木止め」と呼はれ、水に浮く構造になっています。なお中央付近に見えるものは、管理用の船が通るためのゲートです。」この付近に生息しているという「ニホンカモシカ」。「奥四万湖」の湖面に浮かぶ「網場(あば)」を見る。ズームして。「奥四万湖」とその奥に「赤沢橋」を見る。「中之条町の花 ヤマユリ」。天端の中央付近から下を見る。「表面取水設備(選択取水設備)ダムには、「いつも安定した水を川に流す」と言う役目があります。それは、水道用水や農業用水の確保、河川の環境を保っために必要だからです。図のように利水放流(水を使う目的を持って流すこと)の設備は、ダム貯水の全量を使えるようにダムのいちばん底から水を流すようになっています。しかし、底の冷たい水を流すと水田の稲作等に悪い影響をおよぼすおそれがあります。このため、湖の表面近くの温かい水を流す必要があります。四万川ダムの「表面取水設備」は、水面が上下するとそれにあわせて取り入れ口が上下に移動して、いつも表面近くの温かい水を流せる仕組みになっています。この建物の中に表面取水設備を動かす機械が入っています。」これが表面取水設備を動かす機械が入った建物。「四万川ダム利水放流設備名 称 取水ゲート 底部取水口ゲート 制水ゲート型 式 円形多段式ゲート 鋼製スライドゲート 鋼製スライドゲート数 量 1門 (7段) 1門 1門寸 法 Φ1.6m~Φ3.1m 1.5m×1.5m 1.5m×1.5m開閉速度 0.3m/min. 0.5m/min. 0.5m/min.扉体重量 103.2t 4.8t 2.5t取 水 量 8.8m3/s 製作年月 平成10年6月製 作 佐藤鉄工株式会社」「水位計湖の水面の高さを正確にはかる計器が「水位計」です。湖にたまった水の量を計算するのに、重要な役目をもっています。この建物の中に水位計が入っています。」建物の屋根は西洋風に。再び青き湖面を。天端を戻る。「エレベーター塔」【四万川ダムエレベーター 運行見合わせのお知らせ】 当面の間、運行を見合わせとさせていただきますと。エレベーターダムの天端 (てんば:ダムの一番高い部分) とダムの底にある通路を結ぶ管理用のもので、ダムの下の公園にも通じています。このエレベーターで下まで降りる事が出来る期間もあるようだ。見事な自然美。「四万の水四万の清流 四万川ダム」説明書。「うつくしい水誰もが心を奪われる不思議な色。”四万川ダムの青"水の色を表現する言葉として「水色」「青」「エメラルドグリーン」「透明」などが多く使われますが、四万の水、特に四万川ダムの水は、まさに「うつくしい青色」をしています。では、なぜ四万の水は「うつくしい青」に見えるのでしようか?光と色のカラフルな関係自分で光りを出さないもの、ここでとりあげる"水"もそのひとつですが、これらは太陽などの「発光体」から光を受けて、その光りを透過、吸収、反射(散乱)することで、色がついているように見えます。光りの持つ特性は、波の長さである「波長」によって決まります。人の目に見える光は「可視光線」と呼ばれ、その波長は0.4 ~0.7ミクロンの範囲にあることが知られています。例えば、雨上がりに七色の虹を見ることがあります。虹の色も光の波長によって、波長の長い赤から波長の短い紫などの色に別れます。」「四万の青純枠な水は本来、"無色透明"ですが、その水に銅イオン、コバルトイオンや青色の色素など0.6ミクロン前後の光りを吸収するものか溶けている時、その水は"青"く見えます。しかし、分析によると、四万の水にはこれら「青くみえる物質」が多く含まれている、との結果は得られませんでした。福島大学の千葉先生は、名勝地である磐梯高原の「五色沼」の青色の水について次のような考えを発表されています。『極めて細かいアロフェンという粒子が水に分散しておりこの分散粒子が青色の光を反射・散乱するため、水が青く見える。』四万の水について、現在まで、分散粒子の特定はできていませんが、五色沼の青色の湖と環境が大変似ています。特に”pHの低い川の水(四万川)と中性の水が合流してダムに流れ込んでいること”、”温泉の水も含んでいること”などの点で酷似しています。このように四万の水が青く、うつくしく見えるのは、"青い光を散乱させるような微粒子が存在するため”と思われます。」そして「四万川ダム」を後にして、来た国道353号の道を中之条町まで戻り、国道145号を利用して次の目的地の「岩櫃城跡」に車を走らせたのであった。「四万川」に架かる「上妻橋」の斜張橋を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.22
コメント(0)
「名胡桃城址案内所」の係の女性に教えて頂き、近くにあった「11代 彌平治りんご園」を訪ねた。谷川岳・朝日岳のすばらしい姿が見えるりんご園の前にある直売所。先祖の彌平治の名前を代々継いでいるようであった。「新世界」を土産に購入。所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津2387 店の前にあったりんご園には、りんごがたわわに実っていた。りんご園主の名刺も頂きました。県道36号線・「渋川下新田線」を利用して、上越新幹線のトンネルの上を通過し、次の目的地の「四万川ダム」に向かって進む。「赤根トンネル」を通過。前方に「小野子山」1208mが見えた。この先を右折して県道145号線・日本ロマンチック街道を西に進む。岩山が続く。その先にあったのが「西向大塚観㔺音菩薩」。所在地:群馬県吾妻郡中之条町 ロマンチック 街道朱に塗られた「本堂」。「本堂内」。御本尊「観世音菩薩」。「大塚観世音由来記」碑。「大塚観世音堂は、榛名山大坊満行院菩提寺よりこの地に分かれたものと伝えられる。寺伝に拠るとその草創は九世紀弘仁年中(810-824)と云われ、無量山菩提寺と称した。その後応仁の大乱で中絶したが、十六世紀大永年中(1521-1528)に再興して現在に至るという。古来吾妻三十三観音札所のうち最古の霊場とされている。昭和三十九年(1964年)本堂敷地を国より払い下げることとなり、大塚村の各戸より浄財を集め金参万七百円也をもってこれを受け入れた。昭和五十一年(1976年)の国道拡幅工事に際し、西方二十五メートルの地より現在の地に移転しました。たまたま時代の変遷に伴い宗教法人宗学寺の名義を借りて境内地の登記をしたが、実体は大塚村の共有財産として保有し村民一体となり宗教上の儀式はもとより総ての維持管理に当り佛果の鑚仰に力めている。以上子孫のため大塚観世音堂の由来を綴り石に刻みてこれを後世に伝える。」「大塚用水改修記念碑」と「石灯籠」。「大塚用水改修記念碑大塚用水は昭和十三年先人の偉大なる努力により手掘りによる素掘り隧道であり、洪水等の都度土砂が堆積し役員組合員等により手操りによるバケツリレーで搬出し約六十年余の維持管理をして来た。各施設の老朽化が進み陥没漏水等が発生現況施設が民地内及び国道を横断しており交通量の増加等に伴い危険にある。温故知新勇躍意を決し全面改修を決断したのである。補助事業を模索して県営のため池等整備事業(用排水施設整備小規模)を取り入れ尻高用水組合との連帯と強(協)調で百年の計を立てたのである。この用水は灌漑だけでなく防火用水として大きく役立っている。国県町関係機関の強力な指導のもと平成四年度採択平成六年度に完成したのである。受益面積五十嵐、大坊、深町十六町五反五畝四九歩高山分二町八反●畝補助率国五十%県二十五%市町村十%受益者十五%総延長九〇三米改修延長八〇六米既設九七米内訳堤外水路一一四米暗渠工HP二一九米開渠工U字溝四七三米隧道部は国道へルートを変更し用水路を整備し安全を確保した。総事業費参千七百五拾万円で国千八百七拾五万円県九百三拾七万五千円市町村参百七五万円受益者五百六拾二万五千円内高山村並びに受益者分担金百五拾八万五千円大塚分の受益者分担金については基盤整備による一級町道大坊土橋線の用地費を充てた。茲に完成を記念して石に刻み永遠の大塚村尻高村の発展を願い後世に伝えるものである。」。「町重 吾妻三十三番札所再興記念碑」。「吾妻三十三観音」と。「真田忍者の里」と書かれた看板。「中之条町 農村下水 マンホール蓋」。町の花ヤマユリと、町の木であるケヤキの小枝に止まっている 町の鳥ウグイスのデザインだが、蓋を4分割しそれぞれ2ヶ所ずつ描かれていた。「大塚観世音堂(西向観音)」の「本堂」を振り返る。その先の右側の路地の角にあった「大塚用水隧道開設之先駆者 吉田勝三郎頌徳碑 群馬県知事 神田坤六書」と。車に戻り、更に西に進む。県道145号線を進み、吾妻線(あがつません)「中之条駅前」交差点を通過。吾妻線は、群馬県渋川市の渋川駅から群馬県吾妻郡嬬恋村の大前駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。「国道353号」に入り「折田トンネル」を通過。5分ほど進むと左手下に見えて来たのが「中之条ダム」。群馬県吾妻郡中之条町四万。駐車場に車を駐め散策することに。「中之条ダムへようこそ!!〇中之条ダムの目的中之条ダムは、発電と砂防を目的に建設されました。下流にある中之条発電所まで、最大12.57m3/ sの水を約3kmの導水路トンネルで運び、最大11.000kWhの発電をしています。」「〇中之条ダムデータ所在地 吾妻郡中之条町四万型 式 アーチ式コンクリートダムダムの高さ 42.0mダムの長さ 118.2m完成年月日 昭和35年2月」「中之条ダム 群馬県電気局」。「中之条発電所概要図四万湖(しまこ)概要四万湖は、昭和35年四万川に発電・かんがい・砂防の目的を持って完成した人造湖です。ダムの型は、県内で最初の半変形アーチ式コンクリート造りという珍しいダムです。ダムの水は、かんがい用水を含め最大出力11,000kWの水力発電に使っております。また、土砂の流出を止める砂防の役目も果たしています。平成10年より河川維持流量を利用した発電も行っております。(中之条ダム発電所・最大出力51kw)この湖では、下流から見る半円形のコンクリートが自然と良く調和し、優美で四季によって湖水の色彩が変わる特徴を持っております。湖から四万川の渓流をさかのぼると、そこに湯の香り四万温泉があります。どうそゆっくりご覧下さい。」「四万湖(しまこ)」。四万温泉の名前は、四万の湯が「四万(よんまん)の病を癒す霊泉」であるとする伝説に由来。四万温泉の起源は二説あり、一つは桓武天皇(737~806年)の御代に征夷大将軍として蝦夷征伐に来た坂上田村麻呂が、この地で入浴したことが始まりという物。もう一つは、延暦年間(782~806年)に源頼光の家臣で、渡辺綱、坂田金時、卜部季武と共に四天王として勇名を轟かせた日向守碓氷貞光が、越後から上野国に越えるときにこの四万の地に訪れて、山のたたずまいや谷川の響きに心を澄まし、夜もすがら読経をした。夜半の頃、どこからともなく童子があらわれていうのに、『汝が読経の誠心に感じて四万「よんまん」の病悩を治する霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり』 夢うつつにこの神託を聞いた貞光は、覚めて後に湧出する温泉を見つけた。この事に感じた貞光は、一宇の堂を建立して自らの守本尊の薬師如来を安置し、日向守貞光寺薬師瑠璃如来と号し、温泉は「御夢想の湯」と呼び、神託にちなんでこの地を四万「しま」の郷と名付けたという伝説であると ネットから。「慰霊碑」。「中之条ダム」に向かって進む。ダム湖の名が「四万湖」。発電用水の取水用除塵スクリーン。平成10年より「河川維持流量」を利用した発電も行っているのだと。ダムからの放水箇所を見る。「河川維持流量」とは、河川の流水の正常な機能を、渇水時においても維持するのに必要とされる流量。維持用水ともいう。河川の流水の正常な機能とは水質の維持、舟運の利用、河川内で生息する動植物の保護、河川周辺の地下水位の維持、海水の遡上による塩害の防止、河口閉塞(へいそく)の防止などの為の必要水量のことである。ズームして。中之条ダムの四万湖の川上から下ると紅葉を水面に映す場所赤い橋があった。名前は「竹井橋」。半変形アーチ式コンクリート造りという珍しいダム・「中之条ダム」。再び「河川維持流量」確保の為の放水の白き流れを見る。ダムの堤上を歩いて戻る。振り返って。更に「四万川」に沿って国道353号を北上する。「湯原トンネル」を通過。道路脇のモミジの紅葉を楽しみながら。「メロディーライン “いつも何度でも”」👈リンクがあった。「犬麦トンネル」。「高野トンネル」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.21
コメント(0)
そして「名胡桃城」の「本丸」に到着。遺構は馬出し郭・三の郭・二の郭・堀切・本丸・ささ郭と主要な郭が北東に直線に並ぶ連郭式の崖端城で、両側が切り立った天然の要害であった。「本丸」中央に「六文銭」の幟が棚引いていた。長さ50m、幅30mの本郭は当時もっと広かったと。「名胡桃城」復元鳥瞰図を再び。「名胡桃城址之碑」が立つ。本郭の中央に立つ「名胡桃城址之碑」。石材は地元の富士山で採れた安山岩。碑面の文字は徳富蘇峰(とくとみそほう)の揮毫(きごう)であると。裏側には「大正十三年三月 建」??の文字が。「温故知新之碑保存由来記わが郷土の誇りである名胡桃城は天正の頃豊臣秀吉の旗下真田昌幸の所領であった。秀吉一代の悲願である天下統一の最終段階に於て北条氏政と和睦を結ぶにあたり北関東において名胡桃城だけは昌幸の領地として殘された。然る処氏政は私兵を以て当城を攻略した。秀吉の憤慨遂に勅諚を仰ぎ小田原を亡し多年の宿望が完成せらるるに至った。此の様な由緒ある史蹟を保存せんと大正十三年一月を期し内海文之助 高橋茂三郎両氏発起人となり城址保存會を設置し以来地元有志の活動に依り地域を買収して公園と化し本丸には一大記念碑を建てて保存に専念して今日に至った。本年茲に保存會創立四十五周年と明治百年を迎えるにあたり之を記念して副碑を建立しその意義と経圍とを後世に伝え史蹟の弥々全からん事を祈念するものである。昭和四十三年四月二十日保存會長 内海文之助 撰文併書」。「本丸」の先の「笹郭(ささくるわ)」への階段を下る。笹郭と本郭との間は幅約12m、深さ約6mの堀切で断ち切られ、幅1mほどの狭い土橋で連結されていた と。現在は、階段が設けられて渡ることができるようになっていた。堀切の向こう側に見えるのが「笹郭」。その先に案内板。「笹廓(ささくるわ)」案内板。「笹廓(ささくるわ)ささ郭とは、域の主体になる本郭が外に対してむきだしにならないように設けた郭て、唯一この城跡に残存する土塁を両側にもつ狭長な通路でした。ささ郭の先端側には袖郭と物見が続き、尾根づたいに下方に通じていました。ささ郭は長さ約31m幅約14mで、中央には約1 m掘り込んだ幅2 ~ 5mの通路があり、その両側を1mほど盛り上げた土塁で挟んでいました。通路の先端には礎石が4個設置され、搦手門がありました。土塁の内側には、自然石を3 ~ 4段乱雑に積んだ石積みがみられます。本郭との間は、幅約12m深さ約6mの堀切で区画され、幅1mほどの狭い土橋て連結されていました。現在、礎石門址・通路・石積み・土橋などは、保存のため埋め戻されてみられません。また、ささ郭堀切に設置した階段通路は当時の復元物ではありません。」。「ささ廓(ささくるわ)」案内図。写真右に発掘状況が。「ささ廓復元想像図」。「ささ郭」を越えると「袖郭」へ。「袖郭」の先端にも「案内板」が。「案内板」と「石祠」。ささ郭から臨む三峰山先端のささ郭からは北から南に流れる利根川とその向こう岸に三峰山を見ることができます。また、三峰山の麓には真田に敵対していた北条方の明徳寺城も見えます と。「案内板」には周辺の地図が描かれていた。石祠の屋根の上にはお賽銭で作った「六文銭」が描かれていた。5円硬貨、10円硬貨で描かれた「六文銭」。私もやられていない、50円硬貨、100円硬貨で描こうとも思ったが・・・・・???数不足で???正面を。笹郭先端からの見晴らしは非常によく、周囲に築かれた真田氏側と北条氏側の多くの城を見渡すことが出来たのだと。往時は笹郭先端には礎石が4個設置された搦手門があったが、現在、礎石門址・通路・石積み・土橋などは保存のために埋め戻されていて見ることは出来なくなっているようであった。ズームすると前方に国道17号から「月夜野IC」への誘導路が。東方向を見る。利根川に架かる「月夜野大橋」が見えた。袖郭の先端の崖下(比高10mほど)に物見台があったと。本郭や笹郭の方が高い所にあるのだが、東方の山の尾根が邪魔をして沼田城が見えないので、ここに物見櫓を建てて見張っていたとのこと。そして引き返して「本廓」方向に。紅葉の下に「四阿(あずまや)」が。「みなかみ町」の街並みであっただろうか?入口まで戻り振り返る。名胡桃城址は、主郭部と外郭間を国道17号線で断ち切られていた。城址名の大きな看板のすぐ向こうが丸馬出し。「名胡桃城」の幟を再び。「歴史を変えた名胡桃城」の幟の上部。幸村くん、昌幸くん、信之くん、幸隆くん幸隆くんの扱いが??・・・。「名胡桃城址案内所」も再び。「下野(しもつけ)」の花に似ていたが?近づいて。「名胡桃城 般若郭跡」の上に出来た駐車場。駐車場は他の場所に造れなかったのか??駐車場から「名胡桃城 」の「二廓堀切」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.20
コメント(0)
「馬出(うまだし)」部入口には多くの「歴史を変えた名胡桃城」と書かれた幟が立つ。現在は三日月堀は失われ表面再現のみであったが。「案内図」を再び。現在地は、下図の一番右側。「馬出」案内板。馬出とは、城の出入の外側に堀や主塁で造った防御・攻当ー施設て、発達し大型化すると出丸とも呼ばれ、特に大阪城に真田信繁が築いた「真田丸」が有名てす。名胡桃城では、三郭虎ロの外側に径20m程の円形の馬出堀(三日月堀、現在は埋まっています)を深さ約1.2mの平底に掘り、その内側に半円形の小高台を残し馬出としています。馬出と外郭の間は、馬出の西側に橋受溝を堀り、外郭側に基壇を設け、長さ約8mの木橋を架け渡して、直線的に進入できないようにしています。また、三郭と馬出をつないでいた土橋の一部を掘り切って、長さ約5mの橋に架け替え補強されたこともわかりました。馬出の西から南側縁辺にはひな段のような段差が廻っています。西側の堀切は般若郭との間の殿坂を通って崖下へ、南側は外郭と湯舟沢の間にある水の手につながっています。」「馬出」案内図。「馬出は城内から出撃する際に、防御、攻撃をより強固にするための施設で、虎口から直に出入りできないように堀と土塁で造り付けられています。おおまかには、三日月堀による丸馬出とコの字堀による角馬出に分けられ、これらが発達するとそれぞれ出丸と馬出郭とよばれています。丸馬出は山梨県の躑躅ヶ崎館(武田神社)を主とする武田氏の城館こ多く、角馬出は小田原城を主とする北条氏が好んて造らたとされます。さらに、いろいろな虎口構造や櫓と組み合わさって複雑なものもみられます。」「馬出復元想像図」。「馬出」から「三郭」方向を見る。「三郭」の手前の空堀に架かる木橋を渡る。「三郭(さんのくるわ)」案内板。「三郭の規模は約64X26mて、東西に長い郭です。外郭との間の堀切は幅約12m深さ5 ~ 7mあり、西側の堀底は般若郭との間の殿坂と合流し北へ延びています。二郭堀切の土橋外側で幅約3m深さ約1.5m薬研形の三日月堀が検出されにことから、築城当初ここは三郭てなく、馬出があったことがわかりました。その後、三日月堀を埋めて郭や堀切などを新設する大改造を行っていますが、ここは大きな馬出郭であったとも考えられます。郭の西側と南側には石列が残り、基底幅5 ~ 6mの土塁がありました。新にな馬出とつながる土橋は掘り切られていて、再び後世に盛り土されています。追手の虎口には門、郭内には時期の異なる3棟の掘立柱建物がそれぞれ建てられ、そのうち建物1楝と浅いL字溝を組み合わせた施設が、三日月堀を埋め立てた後に造られています。」「三郭」案内図。「三郭」発掘時の写真(左下、右)。「三郭復元想像図」。「三郭跡」「三郭跡」の右奥には墓地があったが、民間の家の墓地であったのか?石仏が立っていた。歴史を感じさせる墓地であったが。「ニ郭堀切」(左・西側)。二ノ郭堀切は二ノ郭と三ノ郭を断ち切っていた。西側堀切は般若郭との間の殿坂(写真奥)へと落ちて行っていた。写真左奥は般若郭。「ニ郭堀切」(右・東側)。「ニ郭堀切」の東側先も急崖になっていた。「ニ郭堀切」に架かる木橋。木橋を渡って「ニ郭南虎口」へ。復元された土塁が左右に。木橋の先にあった「案内板」。「ニ郭南虎口(にのくるわみなみこぐち)」。「二郭は約65X50mの台形で、西側の縁辺は広く崩落して波打った形になっています。中央部に広がる建物敷地は、周囲より1m程低くに造成されていて、西~南~東側には段があり、幅6 ~ 7mの土塁基底部が残っています。郭の北側と南側には、それそ特徴的な虎ロ(別に説明)が確認され、両脇に溝を持つ幅2.5m程の通路が南北の門を直線で結んでいます。南虎口からの通路面は、スロ一プになっています。南北の虎ロ周辺の土塁基底部には石積みがあり、通路協の溝の壁には部分的に石が並べられています。また、東側崖面の中間には腰郭が残っています。この通路の西側からは8棟の掘立柱建物址群がみつかり、般若郭等と同様に3時期に分けて考えられます。復元整備では第2期の3棟が平面表示されています。建物と土塁の間には溝が廻り、排水設備が整っていました。」「ニ郭南虎口」案内図。この平面図によると、道だけでなく堀切も木橋の左右で食い違う(木橋の、二郭にむかって左側が右側に比べて4mほど三郭側にずれている)ように作られていることが判るのだ。。「ニ郭南虎口復元想像図」。三郭側と異なり、食い違い虎口・簡易的ですが土塁の間に見張り台を渡した櫓門となっており、より守りの堅い郭だったようだ。虎ロとは防御施設としての出入口のことで、小口や戸口に虎の字をあてて勇猛さ危険さを意味しています。このニ郭南虎ロは、ニ郭の中が直接見透かされないよう、郭内の建物敷地より一段高い位置に造られています。ニ郭堀切は幅1 1 ~ 13m深さ5.5 ~ 7mで、堀切法面の傾斜は三郭側が45度二郭側が55度と角度を変えて掘られています。また、ニ郭堀切は直線的に設計せず、堀幅半分ずらして掘られています。堀切・土塁・門により左右に曲がりながら進入する敵を、正面や横方向から攻撃できるこの防御構造を喰い違虎ロと呼びます。虎ロ周辺の土塁基底部内側には、2 ~ 5段の川原石の乱石積みが残っています。二郭堀切の土橋薬研形に掘り切られ、4本の脚柱による木橋を架けていました。土塁に挟まれた4本の掘立柱による門址は、北虎ロの礎石門と同じ規模です。」「虎口(こぐち)」と「喰い違い虎口」図。「左側の模式図は、虎ロの手前に的山(あづち)土塁を設けることこより、外から郭内部を見られないようにするとともに簡単に進入させないいため工夫されていますが、堀や土塁が直線上に造られていることから、進入してくる敵に対して正面からの防御しかできません。右側の模式図は、堀と土塁の位置をずらし筋違いに造られていことから、郭の外から門へ続く通路が折れてクランク形になり直に入れなくなります。土塁上からは正面の敵を防御することができ、門の手前では横方向からも攻撃することができ、敵の進入を防ぐことができます。これを「横矢掛け」といい、このような構造を「喰い違い」とよびます。」写真右に発掘状況が。そして「ニ郭」を見る。写真奥には「二郭北虎口」が見えた。二郭の中ほど、舗装してある場所が「掘建柱建物址」。二郭は馬出~ささ郭と一列に並んだ郭の中ではもっとも面積が大きい。だいたい東西の最大幅50m×65m、南北に長い台形をしています。ここがもっともよく復元が進んでいて、南北の土塁と虎口が復元され、いくつかの建物の跡が判るようになっている。よく見ると建物のあった面よりも虎口の位置の方が1mほど高くなっている。これは外部から二郭の中の様子を見通しにくくするための工夫だそうだ。「ニ郭(にのくるわ)」案内板。「ニ郭は約65X50mの台形で、西側の縁辺は広く崩落して波打った形になっています。中央部に広がる建物敷地は、周囲より1m程低く平坦に造成されていて、西~南~東側には段があり、幅6 ~ 7mの土塁基底部が残っています。郭の北側と南側には、それそわ特徴的な虎ロ(別に説明)が確認され、両脇に溝を持つ幅2.5m程の通路が南北の門を直線で結んでいます。南虎口からの通路面は、スロ一プになっています。南北の虎ロ周辺の土塁基底部には石積みがあり、通路協の溝の壁には部分的に石が並べられています。また、東側崖面の中間には腰郭が残っています。この通路の西側からは8棟の掘立柱建物址群がみつかり、般若郭等と同様に3時期に分けて考えられます。復元整備では第2期の3棟カが平面表示されてます。建物と主塁0間には溝が廻り、排水設備が整っていました。」「ニ郭」配置図。「ニ郭」の発掘状況。「ニ郭復元想像図」。前方「二郭北虎口」手前の右手には「見学台」が。「世の中は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける」膳部王(かしはでべのおほきみ)を悲傷(かなし)める歌。この歌は長屋王の変で亡くなった膳部王(かしはでべのおほきみ)のことを悲しんで詠まれた一首。長屋王(ながやのおほきみ)は当時の左大臣で朝廷の政を主導する立場にいましたが、それに対立する藤原四兄弟は長屋王が左道(人を呪い殺す術)を学んで謀反を企てているという噂を流し、それを信じた聖武天皇の許可のもと藤原宇合の軍が長屋王の屋形を包囲して長屋王を自害に追い込みました。これがいわゆる「長屋王の変」。前方にあったのが「ニ郭北虎口」。本郭堀切は幅14~16m、深さ7~9mあり、法面は二ノ郭側より本郭側の方が20度ほど急傾斜で、土橋(木橋の下)の左右で堀幅を変えて、大きくクランク状に進入する構造。「ニ郭北虎口」案内板。「ニ郭北虎口虎ロとは防御施設としての出入口のことで、小口や戸口に虎の字をあてて猛さ危険さを意味しています。ここニ郭北虎ロの特徴は、郭内の通路から続く4個の礎石による門址て、うちひとつは石塔の切石が再利用されています。通路東脇の溝は、門をくぐり暗渠排水として本郭崛切まて伸び、溝横から立ち上がる土塁の腰部には4 ~ 6段の自然石による乱石積みがみられます。本郭堀切は幅14 ~ 16m深さ7 ~ 9mあり、法面はニ郭側より本郭側の方が20度ほど急傾斜で、土橋の左右で堀幅を変えて、大きくクランク状に進入する構造になっています。また、門址の西側に続く上塁の下からは、幅約3m深さ約1.5mの堀が確認され、空堀から土塁へ改築されていました。堀切造成の際に掘り残した橋の基擅上には、6本の柱穴がみつかり木橋が架かっていたことがわかりました。」「ニ郭北虎口」案内図。発掘の状況写真。「ニ郭北虎口復元想像図」。木橋と「本郭堀切(右)」「本郭堀切(左)」。「木橋」の先に「本郭」。「県指定史跡 名胡桃城址」碑と「本郭(ほんくるわ)」案内板。廻り込んで。「本郭名胡挑城址は、大正12年に地元の有志で結成された保存会によって、よく保存管理されてきました。昭和2年、本郭に「名胡挑城址之碑」を建立し、本郭とささ郭に松・桜などの樹木を植え史跡公園として完成させました。この碑文を書いたのは文豪の徳富蘇峰であり、文字の彫りも深く見事で、石材は地元の富士山でとれた安山岩、村中の人たら総出で運び建てました。隣の副碑ば、昭和43年の明治百年記念て建立しています。本郭は長さ約51 m約30mの洋梨形ですが、両側の崖面とも大きく崩落してコンクリートで補強されていることから、当時はもっと広かったことがわかります。郭の縁辺には土塁の基底部分が残っていて、土塁が廻っていました。この城には天守はなく、本郭内の虎ロや建物の状況はわかっていません。」「本郭」案内図。陽光に輝く紅葉を見上げて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.19
コメント(0)
県道262号線を進み「榛名町」に入る。正面に「大峰山」(左)と「吾妻耶山」(右)の姿が再び。次の目的地は「名胡桃城」。「薄根川」沿いを南西に進み上越線の高架を進む。国道17号・沼田バイパスを北に向かって進む。沼田バイパスを利根川に沿って北に進む。前方の利根郡みなかみ町下津の山も紅葉して。「みなかみ町」に入る。「関越自動車道」の「月夜野I.C」への高架下を通過。「月夜野バイパス」の利根川にかかる「月夜野大橋」が前方に。そして直ぐ右側にあったのが「名胡桃城址案内所」。駐車場に車を駐め散策開始。「駐車場」横にあった「般若郭(はんにゃくるわ)」案内板。般若郭は、主体となる郭の連続部の西側に位置し、独立する小さな台地を堀切で区画していて、長さ約85m幅約56mで名胡桃城のうら一番大きい郭です。ここは館跡として、築城以前から存在していたかもしれません。郭の縁辺には、柵塀を建てた溝や柱列が廻っていましたが、南辺や東側の状況はよくわかりません。また、中央部北西寄りには両脇に溝をもつ通路が、ニ郭の通路とほとんど同じ方向で敷設されています。この通路の両側からは、全部で24棟の掘立柱建物址群が整然と並んで確認されました。建物群は3時期にわたり重複し、同時に6~7棟が建っていたと考えられます。掘立柱建物址は9m以上の大型総柱の中心的建物から3m程の小型建物まで規模・形態は様々で、郭の北東端には櫓の様な建物址もみられます。現在は駐車場の下に埋め戻されていて見ることができません。」「般若郭(はんにゃくるわ)」案内図。現在は駐車場の下に埋め戻されていて見ることができないのであった。上空から見た「名胡桃城」のCG。手前に「般若郭(はんにゃくるわ)」。小さな台地を堀切で区画していて、長さ約85m幅約56mで名胡桃城のうち一番大きい郭である と。現在の上空からの写真。「名胡桃城址案内所」が国道17号に面して建っていた。「名胡桃城址案内所」は2010年9月14日にオープン。「名胡桃城址」は戦国時代の真田氏の山城で、利根川と赤谷川の合流点を見渡す河岸段丘の崖端に位置し、「戦闘防衛施設」の面影を残し現在は「歴史の広場」として整備されていた。上杉兼信や真田幸村の領地争いが激しく、豊臣秀吉が小田原征伐”のきっかけを与える「名胡桃城事件」を引き起こし、ひいては、全国平定に繋がった歴史的背景の濃い場所であると。正面に黄金の「六文銭幟旗」が。六文銭は、死者が旅の途中で渡ると信じられている三途の川(さんずのかわ)の渡し賃。三途の川は、現世(この世)と冥途(あの世)を隔てる川で、お金を必要とする最後の機会になる。その渡し賃が六文とされていた。六文銭はいわば最後の交通費というわけ。そして、武田氏の家臣として活躍した戦国時代の武将・真田幸隆(さなだ ゆきたか)が、六文銭をモチーフとした家紋をつくり、旗や兜などに使用したのは有名。六文銭が死後の世界で使われることから、いつ死んでもいいように命をかけて戦うという意気込みをアピールしたもの。家紋は『不惜身命の六文銭』と言われます。戦乱の世の武将として、戦場での駆け引きだけでなく日常においても〝自らの死を惜しまない〟覚悟を、三途の川の渡し賃となる六文銭で表したと。デザインは、円の中央を四角に抜いた一文銭を横に3枚、縦2列に並べたシンプルなもの。「上州をめぐる攻防戦永禄3年(1560) 越後の長尾景虎(上杉課信)が三国峠を越えてはじめて関東へ進攻。この際に 上州の武将はほとんど謙信に徒う永禄9年(1566) 武田信玄が大挙して東進。箕輪城を攻略して、上州西部を支配天正7年(1579) 謙信の死を機に北条氏が上州北部へ進攻。これに対し真田昌幸は武田勝頼の ~17 (1589) 命により上州へ進出。名胡桃城、明徳寺城を攻略し、さらに沼田城まで進出し、 以後、真田と北条が対立。天正17年(1589) 北条と真田の対立に対して豊臣秀吉は沼田領2 / 3を北条領、1 / 3を真田領と 裁定する。真田との境界線にある名胡桃城を手に入れられなかったことが 北条は不服だった。天正18年(1590) 名胡桃事件により裁定を破った北条氏は秀吉による小田原征伐を受け 滅ぼされる。上州南部は徳川家康が入国する。」「郷土を中心とした 戦国時代」と題された年表。1492年… 沼田氏が名胡桃城を築く 1560年… 上杉謙信が上野を攻略 沼田地方は北条、武田、上杉の三つ巴の戦乱地となる1566年… 上杉謙信が沼田衆の小中家成に名胡桃城の備えを堅固にするよう命じる 1578年… 御館の乱に乗じて北条氏が沼田城に進出1579年… 真田昌幸が北条氏の前線基地として名胡桃城を築城(改築?) 1580年… 真田昌幸が小川城主・小川氏と同盟を結ぶ 真田昌幸が沼田城を攻略1581年… 沼田平八朗が処刑され沼田氏滅亡1582年… 武田氏が滅亡 徳川家康と北条が和睦、上野は北条領と取り決められる。北条氏が中山城を築く1583年… 真田昌幸が上田城を築く1585年… 真田昌幸が取り決めを拒否1586年… 北条氏が上洛の条件として徳川家康との和睦の約束(利根、吾妻郡の領有)を要求 真田昌幸が岩櫃城と沼田城の中継地として名胡桃城周辺の諸城を補強1587年… 豊臣秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令した 1588年… 北条家臣・猪俣邦憲は吉田新左衛門に名胡桃三百貫を与える約束をし長井坂城 などを補強 1589年… 豊臣秀吉による裁定が行われ、名胡桃城を含めた全体の三分の一は真田領に、 それ以外の沼田城を中心とする三分の二は北条領と定められた。 北条家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を不法攻略する。これに豊臣秀吉が激怒1590年… 豊臣秀吉による小田原征伐が行われ北条氏が滅亡 全沼田領は真田氏が安堵し名胡桃城は廃城となった「六人衆に与えた武田勝頼の朱印状天正元年(一五七三)武田信玄が没し(五ニ才)、天正六年には上衫謙信が四九才で没した。謙信が亡くなって七十日を経た天正六年五月ニ十三日、布施(旧・新冶村)付近の地衆六人に与えた武田勝頼の朱印状が残されている。その内容は武田家の重臣・跡部大炊助勝資が奉者となって、六人の地衆に対して、武田氏に味方して沼田城を攻略した時には一人に十五貫文を与えるという内容である。この文書は武田氏がどのような手段を用いて上野に更に目標とする沼田城を手中にしたかを知る上で貴重な史料(文書)である。」「条目一.帰城之上、吾妻用心普請、粗略無く 申し付けらるべきの事 付、中山之事一.猿京の用心普請仕置以下、 念に人れ申し付け以一る一きの事 付、庭谷自身体息を計るの事一.沼田城普請仕置以下、厳重に 申し付けらるべし、人夫の儀、当年は赦 免候の間、領主より相雇はるべきの事 付、九人衆の事一.沼田知行割の模様、能々 聞き届けられ、おのおの恐怖せざる様策謀すべきの事一.二箇条の密計、油断なく調 略専一に候事一.佐竹奥州一統の由、その聞え候 然ならば分国中の住還、異儀なきの様 相談いたすべきの事 付、会津表同前の事一.当番衆の普請糾明の事一.来朝儀の支度、油断あるからざるの事 付沼田衆同前の事一.後閑橋の事一.庄内の諸法度以下、前々よりの 定法の如く、申し付けらるべきの事一.藤田・可遊齋・渡邉居住地の事一.一宮御社領の事 付、口上に在り一.野馬の事一.早馬の事以上六月七日真田安房守 殿」「名胡桃城事件を知った秀吉から真田昌幸に宛てた書状北条氏政の將で沼田城代の猪俣邦憲は秀吉が裁定した真田氏の各胡桃城を不法に攻略したことが秀吉に報ぜられ、秀吉から真田昌幸に宛てた書状である。秀吉は北条氏政に上洛し、秀吉の許に出仕することを約しておきながら、氏政は上洛もせす更に名胡桃城を攻略した事に怒りこの書状を昌幸に送ったこの名胡桃城事件が北条氏を討っ導火線となった」「その方相抱ふる名胡桃の城へ、今度北条境目の者共手遣せしめ、物主を討ち果し、かの用害を北条方へのっとるの旨に候。このころ氏政出仕致すべきの由、最前御申すにより、縦へ表裏ありと雖も、その段相構えられず、先ず御上使差し越され、沼田城の渡遣、その外知行方以下相究めらるるのところ、右動是非なき次第に候。この上北条出仕申すに於ても、かの名胡桃へ取りかかり討ち果たし候者共、成敗せしめざるに於いては、北条赦免の儀これあるべからず候。その意を得、境目の諸城共来春まで人数入れ置き、堅固に申し付くべく候。自然その面人数入り候はば、小笠原・川中島へも申し遣わし候。注進候て、かの徒党等を召し寄せ、懸け留め置くべく候。誠に天下に対し、抜公事表裏仕り、重々相届かざる動これあるに於いては、何れの所なりとも、境目の者共一騎懸に仰せ付けられ、自身御馬を出され、悪逆人等の首を刎ねさせらるべきの儀案の中に思し召され候の間、心易く存知すべく候。右の境目または家中の者共にこの書中相見せ、競をなすべく候。北条一札の旨相違に於いては、その方儀、本知のことは申すに及ばす、新知等仰せ付けらるべく候。委曲浅野弾正少弼・石治部少輛申すべく候なり十一月廿一日真田安房守とのへ」「条々一 北条事近年蔑公儀 不能殊於関喫任雅意 狼藉条不及是非然間去年 可被加御誅罰仁駿河大納言 家康卿依為縁者種々懇望候 間以条数被仰出候ヘハ御請申付而 被成御赦免即美濃守罷上御礼申上候事一 先年家康被相定条数家康 表裏之様仁申上候間美濃守被成御 対面上ハ境目等之儀被聞召届有様 可被仰付之間家之郎従差越候へと 可被仰付出候処ニ江雪差上畢家康与 北条国切之約諾儀如何と御尋候処 其意趣者甲斐信濃之中城々ハ 家康手柄次第可被申付上野之中ハ 北条可被申付之由相定甲信両国ハ則 家康被申付候上野沼田儀者北条 不及自力却而家康相違之様ニ申成 寄事於左右北条出仕迷惑之旨 申上候哉と被思食於其儀者沼田可被 下候乍去上野のうち真田持来候 知行三分二沼田城ニ相付北条ニ可被 在之城をハ真田可相抱之由被仰定右之 北条ニ被下候三分二之替地者家康より 真田ニ可相渡旨被成御究北条可出仕との 札出候者則被差遣御上使沼田可被相渡と 被仰出江雪被返下候事一 当年極月上旬氏政可致出仕旨御 請一札進上候因茲被差遣津田隼人正 富田左近将監沼田被渡下候事一 沼田要害請取候上ハ右之一札ニ相任 則可罷上と被思召候処真田相抱候 なくる見の城を取表裏仕候上者 使者ニ非可被成御対面儀候彼使雖可 及生涯助命返遣候事一 秀吉若輩之時孤と成て信長公属 幕下身を山野ニ捨骨を海岸ニ砕 干戈を枕として夜ハに寝夙に おきて軍忠をつくし戦功をはけま す然而中比より蒙君恩人に名を知ら る依之西国征伐之儀被仰付対大敵 争雌雄刻明智日向守光秀以無道 之故奉討信長公此注進を聞届弥彼 表押詰任存分不移時日令上洛逆徒 光秀伐頸報恩恵雪会稽其後 柴田修理亮勝家信長公之厚恩を 忘国家を乱し反逆之条是又 令退治畢此外諸国叛者討之 降者近之無不属麾下者就 中秀吉一言之表裏不可有之 以此故相叶天命者哉予既擧登龍 携鷹之誉成塩梅則闕之臣開 萬機政然慮ニ氏直背天道之正理対 帝都奸謀何不蒙天罰哉古諺云巧 訴不如拙誠所詮普天下逆勅命輩 早不可不加誅伐来歳必携節旄 令進発可刎氏直首事不可廻踵者也 天正十七年十一月廿四日 朱印」暖簾のこの絵は誰?真田昌幸か?「上州沼田 真田街道マップ」。真田街道とは・・・真田氏(真田幸村の祖父・幸隆、父・昌幸、兄・信之) が統治した地を結ぶ街道の通称。現在の国道144号、145号、120号にあたる。 江戸期には、上田市から嬬恋村を通って高崎市方面へ 抜ける街道(現在の国道144号、406号) を上州街道(長野県側の呼称)、信州街道(群馬県側の呼称) と呼び、高崎市から沼田市を通って片品村、 会津方面へ抜ける街道(現在の国道17号、120号) を会津街道(群馬県側の呼称)、 沼田街道(福島県側の呼称)と呼んでいたとされる。「鎌倉時代 国宝模造大鎧」。拓本「名胡桃城址之碑」「続日本百名城 名胡桃城 認定証」。「名胡桃城址」航空写真。「続日本100名城 115 名胡桃城」のスタンプを頂きました。「名胡桃城 御城印」も。「名胡桃城址攻略記念スタンプ」も。そして「名胡桃城址案内所」を出て「名胡桃城址」の散策に向かう。「名胡桃城跡」と。馬出部には「群馬県指定史跡 名胡桃城址」が。「名胡桃城鳥瞰図」。「案内板」が並ぶ。左側の案内板。右側の案内板。「群馬県指定史跡 名胡桃城ここ名胡桃城は、群雄割拠の戦国時代を勇猛に駆け抜けた真田昌幸が築いた上野国利根郡の山城で、10年ほどの歴史にもかかわらず、ここを舞台とした小さな事件が乱世を終わりに向かわせることとなりました。この時期の利根沼田地方は上杉氏・武田氏・北条氏による争いが繰り広けられていましたか、天正7年(1579)頃、真田昌幸が吾妻方面から進出し境目城として名胡桃城を築き、翌年には沼田城を手中に収めました。天正17年(1589)の、豊臣秀吉は北条氏政・氏直親子と真田昌幸による北毛地域の領地争いを裁定しましたが、同年、真田領に残された名胡桃城を北条氏の家臣が攻略してしまいました。それをきっかけに翌年、豊臣秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、事実上、天下統一を果したのです。その後、名胡桃城は廃城になりました。」「名胡桃城址全体図」。「名胡桃城関係年表」。平安時代に書かれた「和名類聚抄」によると、この付近一帯は呉桃郡(くるみのこおり)といわれ、その後も地名とは別にナグルミと呼ばれ続け、域の名に由来しています。名胡桃城址は、利川と赤谷川が合流する南西方向に広がる名胡桃平とよぶ河岸段丘面の一角に立地します。この約6万年前にでき段丘には礫層が厚く堆積し、河川敷との間には比高約70mの崖が連なっています。この城は深い開析谷により侵食され突出した要害地を空堀で区画し、ささ郭・本郭・ニ郭・三郭の主要部分を直に連続させた連郭式の縄張り構造の山城で、西側に般若郭が独立し、南西には外郭が広がります。また、南東を流れる湯舟沢を利用した水の手があり、北東端には物見も見られます。この付近には沼田城跡をはじめ加川城址・明籀寺城址があり、南には権現山城址、南東に富士浅間砦址がみられます」「平成4~12年度にわたる発掘調査により、当時の姿をうかがうことができ貴重な成果をあげました。ささ郭と本郭はトレンチ調査により、ささ郭から土塁の石積みと搦手門の柱礎石が発見され、本郭では周囲の土塁址を確認しました。ニ郭は西側半面を調査し、石積みをもつ周囲の土塁址・喰い違いの南虎ロと礎石門をもつ北虎ロの間を結ぶ中央通路・大型を含む8棟の掘立柱建物址群などがみつかり、土塁や遺構の一部を整備しました。ニ郭堀切と本郭堀切では、土橋を壊して木橋に架け替えたことがわかり橋を架けました。三郭と馬出からは、古い三日月堀・掘立柱建物址群・追手門址・土塁址・丸馬出の全容と新たな三日月堀などが確認されました。また、般若郭般からは、周囲に柵塀を廻し、通路の両側に24棟の掘立柱建物址群が整然と並んだ館跡が確認されました。」「発掘調査概要図」。「全体復元想像図」。「発掘調査で検出された掘立柱建物址などの各種遺構群における規模・方向・重複関係などの構成要素を検討すると、少なくとも3時期に区分することができます。第1期は築城から天正年間半ば頃で、まだ三郭は存在せず三日月堀による馬出があり、各郭は土橋によって連結していました。ニ郭般若郭の建物は通路に平行して大小のセット建てられ、柱間の長さは約8尺が多いです。第2期は天正年間後半部分で、大きく改築補強が行われています。三郭と新たな馬出を増設し、主体をニ郭に移し各虎口を固め、堀切には木橋が架け替えられました。ニ郭の建物は大型で、柱間は約7尺が多くみられます。第3期は天正年間以後で、近世以降も屋敷が存在しました。土塁や柵はわかりませんが、郭間の堀切は土橋が版築されています。建物は小型化し、柱間は6尺前後です。城址全体の保存のため、地下遺構は埋め戻されて見ることはできません。主な整備内容は、名胡桃城の第2期を中心に、ニ郭堀切と本郭堀切の木橋復元、ニ郭の防御構造がわかるように土塁や南北両虎ロの復元的な整備、三郭と馬出は平面的に表示等を行いましたが、門や建物は、復元していません。また、ささ郭・本郭・般若郭(仮設駐車場)では、防災管理を重点に階段通路や安全柵の整備等を行いました。」「出土した陶磁器と鉄砲玉」。「名胡桃城址全景空撮1」。「名胡桃城址周辺の自然植生」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.18
コメント(0)
更に「沼田公園」内の紅葉を追う。「散紅葉」は美しい大地に変身。逆光を浴びながら黄色くそして赤く輝くモミジ葉。青空に映えて。「利根英霊殿」。英霊殿の石段前に鎮座する狛犬が迎えてくれた。利根英霊殿は、昭和9年の創建なので、狛犬も昭和9年の産まれであろうか。「利根英霊殿」碑。この英霊殿には、利根沼田地区の日清、日露戦争の戦没者が祀られているとのこと。この場所は、かつて沼田城の「天守閣」があった場所と推定されているのだ と。「沼田城天守」案内板。「上野国沼田城絵図(部分)」。「上野国沼田城絵図(部分)この絵図は、江戸幕府3代将軍家光が正保年間(1644~1647)に、全国の大名に城の防備体制を絵図に描かせて提出させた、いわゆる正保城絵図の一つで、真田氏4代城主信政の時代の沼田城と城下町の様子が分かる非常に貴重な資料です。原図は国立公文書館内閣文庫に所蔵され、大きさは1 .76m×2.34mもあります。絵図には、城を中心として石垣の高さ、堀や土塁の規模、堀中の流水の有無や城下町の道程等兵法上の秘密となるべき事柄が克明に記されています。真田氏が改易になる天和元年(1681)まで存在していた天守や櫓及び城門等の形態を知ることができます。沼田城天守沼田城の天守は、真田氏初代城主となった信之(幸)が慶長年間(1596 ~1614)に建造したと伝えられ、城絵図や古文書から規模は柱間で9間x10間(推定18m四方)の5層であったとされています。天守は、この右奥に位置していたと考えられますが、幕府に提出したこの絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、最上階には高欄が巡っていた様子が分かります。関東における5層の天守は江戸城以外は沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)も見つかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられます。この名城も、残念ながら5代伊賀守が天和元年(1681)に改易となった後に、幕府によって全て破却されて、以後、天守や櫓は再建されることはありませんでした。沼田城の別称(倉内城、鞍内(くらうち)城、霞(かすみ)城)」。NHK大河ドラマ「真田丸」が放送された際に、英霊殿の近くに設置された石像。沼田城主だった「眞田信之」と「小松姫」。近づいて。更に。「真田信之と小松姫真田の惣領である信之は父の昌幸 弟の信繁(幸村)に勝るとも劣らぬ武将であった真田の軍略を恐れ また惚れ込んでいた本多忠勝は 徳川家康に申し出て娘の小松姫を信之に嫁がせた沼田城の初代城主である信之とその妻小松姫はたいへん仲の良い夫婦であったと伝えられている小松姫は信之の留守中には城を守り また九度山へ流された昌幸と信繁の生活を支えたとも言われている小松姫が体調を崩し草津温泉に療養に向かう途中武蔵国の鴻巣で亡くなると信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという平成二十七年十二月吉日沼田市観光協会 建立」「戦国無双」の「真田信之」と「小松姫(稲姫)」とその先に「旧沼田町役場復元鐘楼」を見る。「沼田の歴史物語沼田城の金箔瓦昭和60年に行われた公園内の改修工事の際、多暈の瓦が出土した。これらの中から金箔が塗られた瓦が発見された。金箔瓦は、豊臣秀吉が築いた大坂で多用されたが、豊臣一門やそれに準じる大名の居城、また秀吉子飼いの大名の居城でも出土している。沼田城周辺では、上田城、小諸城、松本城からも発見されている。沼田市観光協会」再び紅葉を追う。「帰國記念植樹」碑。朝鮮民主主義共和国民が帰国に際し沼田公園のために染井吉野 九拾株八重桜 拾株つつじ 四株 計 百四株植樹した記念に建てられたもの。碑面に「一九六〇年三月(昭和三十五年)朝鮮日本友好親善萬歳帰国記念植樹朝鮮民主主義共和国帰国者一同 在日朝鮮人総連合会沼田支部」とある。その先にあったのが「国指定 重要文化財 旧生方家住宅」。「国指定重要文化財 旧生方家住宅👈リンク指定年月日 昭和四十五年六月十七日所在地 沼田市西倉内町五九四番地沼田公園内👈構造形式 桁行一八・九四〇m、梁間一一・三六四m切妻造、妻入、板葺石置屋根生方家は沼田藩の薬種御用達を勤めた商家で、沼田市上之町一九九番地に所在し城下町の本格的町家として東日本における稀にみる古い遺構であることから国の重要文化財に指定された。建物の年代は専門家の意見によれば構造手法からみておよそ十七世紀未期頃に建てられたものと思われる。その後、元治、明治、大正、昭和と数次にわたり改修を受けながら使用されてきた。沼田市はこの建物を譲り受け沼田公園内に移築保存することとなり、昭和四十八年六月、国・県の補助を受け復元工事を完了した。建物は間口六間、奥行十間、南面に上庇、東面に下屋を設ける。切妻造り、妻入りで屋根は板葺石置である。平面は主屋南面に「上みせ」「下みせ」「通り庭」を配し東側の「上みせ」奥に四室をならべ、家のほば中央には二十畳の広い板の間を設け西の通り庭から北面にかけて上間を設けている。これは町家としての典型的な間取りであり、各部屋の境に壁が多く、柱の密度も高いがこれが古い建物の特色である。小屋組は貫を成りちがいに通した和小屋で、仕上げは大部分手斧はつりで古式を残している。平成二十二年三月沼田市教育委員会」「国指定 重要文化財 旧生方家住宅」。「生方誠(うぶかたせい)について旧生方家住宅の前所有者である生方誠は、明治27年に沼田町で薬種商「かどふぢ」を営む生方弥右衛門の長男として生まれ、薬学を学んだのちカリフォルニア大学へ留学しました。帰国後は第26代当主として家業を継ぎ、太平洋戦争後は公選による初の沼田町長や初代国家公安委員などの要職につきました。誠は政治家などの顔を持つ反面、洋書、演劇そして人形劇に親しみ、絵の腕前も確かな芸術家であるなどの文化人であるという一面もあります。市内に残る文化財建造物沼田市上之町には、文化財建造物が集められています。ここには、群馬県指定重要文化財である旧沼田貯蓄銀行(明治41年頃建築)、国の登録有形文化財である旧土岐家住宅洋館(大正13年建築)、旧日本基督教団沼田教会紀念会堂(大正3年建築)があり、戦後の女流歌人の第一人者で生方誠の妻・たっゑについて紹介している生方記念文庫も併設されています。旧生方家住宅について旧生方家住宅・・・国指定重要文化財(昭和45年6月17日指定)です。17世紀末頃に建簔と推定される切妻造、妻入り、板葺石置屋根の建物で、規模は桁行18.9m、梁間11.4mです。17世紀末頃に建築と推定される、江戸時代の町家づくりの商家で、東日本の町家としてきわめて古い部類にあたります。生方家は、沼田藩の薬種御用達<薬屋>を務めた商家で、屋号は「ふぢや」といいます。通りの角にあったので、いつの頃から「かどふぢ」と呼ばれるようになりました。元は沼田市上之町にありましたが、沼田市が生方家から寄贈を受け、現在地(沼田市西倉内町 沼田公園内)に移築しました。なお、切妻造とは、本を開いて伏せたような形の屋根のことです。また、棟(大棟)と平行な面を平(ひら)、棟(大棟)と直角な面を妻(つま)といいます。平入は平に入口、妻入は妻に入口があります。「切妻造、妻入り、板葺石置屋根の建物」の内部案内。しかし、残念がらこの日・水曜日は「休館日」であった。「旧生方家住宅・生方記念資料館開館時間 午前9時~午後4時 (入館は午後3時30分まで)体館日 水曜日、祝日の翌日、年未年始観覧料 個人 110円(1人当たり) 団体(20人以上) 60円 中学生以下 無料 障がい者手帳等お持ちの方と 付添いの方1人 無料周遊券 (生方記念文庫沼田市歴史資料館等) 330円」「旧生方家住宅」。ズームして。券売・受付所。「旧生方家住宅」パンフレットから。「生方記念資料館は、「旧生方家住宅」の元所有者であった生方誠氏(1894~1978 )が生前収集した資料を展示するため、たっゑ夫人(歌人で沼田市名誉市民・1904 ~ 2000 )が資料と資料館建設費用を沼田市へ寄贈したことにより建設されました。当資料館では、寄贈された資料の中から書画や出土資料等を広く公開しています。なお、常設展示では、生方誠氏の生い立ちや文化人の側面を持つ誠氏の作品等を紹介しています。」く生方家>生方家は、沼田藩の薬種御用達を務めた商家でした。始祖は、沼田近在の屋形原出身で、永禄・天正の頃は生方兵部之介と名乗る武士であったといわれていますが、沼田に定住し薬種商を営むようになった時期は明らかではありません。屋号は「ふぢや」ですが、上之町の角地にあったので「かどふぢ」と呼ばれるようになりました。▲移築前旧生方家住宅は、妻入・板葺の町家で、その様式・技法から見て十七世紀末頃に建築されたものと考えられますが、元治元年(1864年)の大修理をはじめとして幾回かの改築・増築を経て現代にいたりました。東日本では最も古い町家造りの建築物であることから昭和45年6月17日付けで国の重要文化財に指定されました。しかし、沼田市の繁華街の中心(上之町199番地)に在ったため保存に困難をきたし、生方家もこの住宅をこのままの状態で維持管理することが至難であるとの理由から沼田市が譲り受け保存することになりました。そして、文化庁の指導のもとに沼田公園内に移築する計画が進められ、昭和47年2月1日に移築工事に着手し、解体時の調査により、建物の過去の状況が判明しましたので、できる限り初期の建築形態の復原につとめ、昭和48年6月30日本屋の移築工事が完成しました。その後各種の附帯工事が終了し、昭和49年4月1日に一般公開を開始しました。」再びモミジ葉の赤・朱の輝きを追う。案内板が2基が紅葉の下に。「沼田城跡本丸発掘調査沼田城ニノ丸(野球場)から本丸(現在の花壇)の間に設けられた堀は、幕府に提出した絵図(正保城絵図)によると、本丸側に唯一石垣が積まれた沼田城で最も規模が大きな堀でした。絵図には堀幅12間(約24m)で本丸に入る櫓門付近の石垣高は3間(約6m)と記されています。奥に見える池がこの堀の名残で、右側の石垣は天守があった真田氏の頃の石垣の一部と考えられています。平成9年に、この植え込みの中を発掘調査したところ、池の石垣に連なる石垣の一部と堀の中に崩された石や多くの瓦が出土しました。おそらく地中にはさらに北側数十mに渡り石垣の下部が現存し、城が破却された際に埋め立てられたおびただしい瓦や石が埋没していると考えられます。出土した軒丸瓦は三巴紋で、その周囲を巡る珠点は16個を数え、信州の上田城出土瓦などとの類似性が認められています。1間= 6尺5寸=約2 m 軒丸瓦(径16cm)」「沼田城跡本丸堀発掘調査平成27年8月から9月にかけて沼田公園長期整備構想に基づく発掘調査を行いました(図1)。調査箇所は正保城絵図に当てはめてみますと、大門の付近となります。なお、正保城絵図は4代真田信政の時代に幕府から提出を求められたもので、1644年頃に提出したと考えられています。」「石垣と裏込めの断面解説図調査の結果、石垣は堀底から約1m50cmの高さまで残存し、約3mの高さまで裏込めを確認しました。また正保城絵図に記された石垣の高さは3間(約6m)ということを考慮しますと石垣は1/4ほどが残存し、そこから上は破壊されたと考えられます(図2 )。今回の調査では瓦が大量に出土しました(写真1)。これらは塀に葺かれていたものと思われ、城破却時に投げ捨てられたと考えられます。調査箇所に該当する部分の正保城絵図には堀、石垣そして塀が描かれています(図3)。この他、調査により本丸堀の深さが何段階か変遷している様子がうかがえました。」「丸池」越しに「生方記念資料館」(右手)を望む。「沼田の歴史物語小松姫(稲姫)其之弐関ヶ原の戦いの際、西軍についた昌幸・幸村が「孫の顔が見たい」と小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄ったが、小松姫は緋緘の鎧に身を固め、「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と昌幸の申し出を断った。あきらめて昌幸が正覚寺で休息をしていると、小松姫は子供たちを連れて現れ、昌幸の所望をかなえた。これにはさすがの昌幸、幸村父子も感心したといわれている。沼田市観光協会」更に進むと、前方にも二の丸土塁上の石碑が見えた。「壽樂園」と。「壽樂園」碑。「壽樂園」とはこの公園の昔の名前らしい。「壽樂園碑記 篆額泰山磨崖碑金剛般若經集字沼田在徳川氏之世為土岐候封邑其地當毛越之襟喉東南望赤城山蘶然聳雲表東北則武尊山突兀摩空子持在前三峰在右清水三國諸嶺蜿蜒横北方而刀根之水洋々貫流其間形勝之雄城郭之壮図志可以徴焉明治中興撤藩而縣沼田城遂廢既而邑人請官購之墾爲桑田闢為菜圃過者不復省其為城址工學博士久米君家世仕土岐侯少小出郷成名東京從土木之業者數十年嘗回郷升故城墟崇墉毀而濬濠填殘基遺礎鞠為茂草於是低回顧望不能去悵然歎曰噫吾負郷土久矣不図滄桑之變至此也吾将設公園于此以傳城之遺蹟且使郷人遊焉息焉得抒懐舊安土之情庶幾足以自慰歟乃投私財盡買収其地脩治經營築而邱鑿而池運石疏泉植以花木苔徑屈曲窈然而深登髙一望毛越山河歴々在指顧之中園成名之壽樂而邑人輙呼曰久米公園頃沼田町謀建碑園中介入請予記予謂世之富貴而忘故郷者何限而博士則望雲繾綣懐之不已志在報本謀而忠慮而遠為捐巨貲而無所顧惜名園之樂與郷黨偕不敢私諸己其心也公其事也義使人觀感之際油然生利濟之念是安得不記以傳乎哉博士名民之助號空々軒又東山居士嚮選衆議院議員者四素有聲望土之候選者見其起皆止然博士深醜竸進終絶意政界晩經營金剛山鐵道誕延朝鮮竒勝于世因有金剛道人之號 昭和四巳己年十月 早稻田大學教授天行松平康國撰 七十三翁翠堂松木 亮書 東亰青山 石勝鐫」生方たつゑの歌「冬やまの 痩せたる 襞に おきわたす 根雪の光り きびしこの国 たつゑ」「早い年は11月のはじめに降雪がおそってくる山国でした。雪を刷いたように置きわたす初めての雪が、いつ消えることもないまま根雪になり、またそのうえに新雪が重なります。冬山は落葉樹が葉を落としたあとは、骨をむき出したような削ぎ立った山容を見せますから、雪はそのきびしい形を一層きわだって押し出した風景をつくります。どこを見ても山に囲まれたきびしい谷あいの町の沼田に、私は住みつかねばならなくなりましたとき、覚悟はしていましたけれど、この閉じられたために一層きびしい山相にむかいながら、いくたび自然のきびしい鞭を嘆いたことでしょう。自然というより、自然以上にし峻烈な人生を思っていたのです。そこには逃避がありませんでしたから。」生方たつゑ『私の歌自注百首』より と。ここにも一面に「散り紅葉」が。そして上を見上げると。「四阿(あずまや)」も紅葉に囲まれて。「四阿」の「阿」は棟の意味で、四方に軒を下ろした寄棟、宝形造などの屋根を持つ建造物を意味する。 唐風に「亭」(ちん)とも呼ばれる。「本丸堀石垣」。別の場所から。さらに移動して。二の丸と本丸の間に設けられた堀の跡。側面に少しだけみえる石垣は真田氏の頃のものと。そして「観光案内所」前の道路脇の広場の横の紅葉。「観光案内所」前の道路脇の広場のこの穴は発掘跡?それともゴミ捨て場?銀杏の下に大きな石碑。「沼田城ハ天文元年沼田顕泰ガ築キ、初メ蔵内城ト称ス。沼田氏ノ祖ハ三浦氏也。宝治ノ乱ニ一人遁レテ重縁ノ大友氏ノ領地沼田ヘ来タリ景泰ト称シ、以来十二代、荘田、小沢、幕岩ノ三域ヲ経テ此ニ至ル。顕泰城ヲ子朝憲ニ譲リ末子景義ト川場ヘ移リ、永禄十二年朝憲ヲ謀殺シ会津ヘ逃亡ス。沼田ハ上杉、北条ニ代リ天正八年真田昌幸入城ノ翌年景義ハ城奪還の塀ヲ寄セ伯父金子ニ殺され沼田氏滅ブ。翌十年武田、織田滅ビ真田再ビ沼田ヲ領ス。北条ハ五回延ベ十三万ノ軍デ攻メテ敗レ、秀吉ニ乞イ城ヲ得、更ニ名胡桃城ヲ侵掠ス。秀吉怒リ同十八年北条ヲ討チ、沼田領三百石ヲ昌幸ノ嫡子信幸ニ与ウ。信幸ハ夫人小松姫ガ家康ノ曽孫故、関ケ原役ニ秀忠ニ従イ土田城ノ父ト弟幸村ト戦イ、戦後信幸ハ上田領六万石加増サレ、慶長十二年五層ノ沼田城天守閣ヲ建テ、嫡子信義ニ城ヲ譲リ、松代十万石ニ移封サル。信義ハ城鐘ヲ遺シ、三代熊之助ハ早世、四代信政松代ヲ継ギ、信吉ノ末子伊賀守信直五代を嗣グ。信幸以来九十一年間治水開拓シ善政ヲ施ス。然ルニ天和元年十一月幕府ハ伊賀守ノ失政ヲ責メテ改易シ城郭一切ヲ破却領地ヲ測量シ六万五千石ノ内二万石ヲ沼田領トシ、本多氏ヲ封ジ館ヲ新築。黒田氏ヲ経テ寛保ニ年土岐賴稔入封シ、飛地領共三万五千石藩主トシテ十二代百二十七年間ニシテ版籍ヲ奉還ス。沼田市文化財調査委員 岸 大洞 撰文沼田市長 堀江文夫 謹書」「沼田城址」碑。「久米先生遺徳顕彰碑」。近づいて。「久米先生名は民之助 沼田藩士久米権十郎の長男として文久元年八月沼田に生る 幼にして両親を喪う 十五歳の春志を抱いて上京工部大学に学び卒業後教官となり宮内省御用掛を拝命皇居二重橋の造営にあたるつとに先生は将来日本の発展は土木建築にありと洞察 官を辞し欧米を視察 帰りて建設業を始め専ら鉄道新設工事にあたり その業蹟は東北より台湾におよぶ日清日露の戦後 日本の進路は東洋開拓にありと台湾に製氷会社満洲に煙草公司 マレイにゴムの各事業を興し 金剛山電気鉄道による朝鮮の開発に精魂を傾く明治三十一年衆議院議員となり四回当選 其の間特に上越線敷設の重要性を力説す大正八年工学博士となり 業界に重きをなす 他面仏教に帰依し孝慈の徳を積み 能楽に通じ書を能くし多趣多芸の人たり此処は風光天下に鳴る沼田城址この公園こそ先生が郷土のために財を投じ 造園寄附されたるもの築丘植樹配石 工成らんとする 昭和六年五月逝去 時に七十一歳 一木一石今も先生の御魂が宿るを覚ゆ 仰いで高恩に謝し 俯して 愛護を祈るや切なり茲に明治百年を記念し市民及び有志の協力を得て之を建つ 昭和四十三年十一月三日 久米民之助先生遺徳顕彰会」最後にこれでもかと「沼田公園」に輝く紅葉を追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.17
コメント(0)
更に進むとあったのが「沼田の歌」歌碑。「沼田の歌」は、昭和3 1年(1956)、NHKラジオで「ふるさとの町沼田市を訪れて」という放送のため作詞西沢爽(そう)、作曲平井康三郎によってつくられレコード化もされた。作詞者の西沢爽から、著作権が沼田市に寄贈されたことを記念し、歌詞のゆかりの地てある沼田公園に歌碑が昭和56年(1981) 3月に建立された とのこと。「沼田の歌👈リンク 西沢爽1. 春の日を 惜しむ鐘の音 暮れ残る お城の桜 わが町を うるわしと幾たび思う 山の上に 町の灯つづき 山下に 駅の灯ともる 2. 幼き日 母にすがりて おびえたる 迦葉の天狗 うれしきは 秋雨のそぼ降る夜に まどろみつ 滝坂越えし 父の背の ほのかなぬくみ 3. 兄いもと はぐれて泣きし なつかしの 祇園の祭り いまもなお 山つつじ桑の実りんご 山脈の 夕やけ雲と 想い出に 変わらぬ紅さ 4. 大利根や 薄根 片品 ゆたかにも 流れはめぐり わが町は われ生みし父母の町 母こそは 尾瀬沼の花 父こそは 谷川の雪 」北西方向の「沼田八景 公園の展望」を。親切にも「展望案内板」が。これは有り難いのであった!!正面に「子持山」その下に「国道17号」、「沼田駅」も確認できた。「旧沼田町役場復元鐘楼」を見上げる。「鐘楼真田氏が沼田城主時代は城内に建てられていたが、廃城により取りこわされた。明治二十年ごろ沼田町役場(藩役所跡 現市役所)東北隅に楼を建て柳町歓楽院の梵鐘を借りて時の鐘にした。十年後に楼を修復した際その鐘を返し平等寺で保存の城鐘を懸け替えた。以来鐘楼は鐘橦堂と呼ばれ、戦時下にも供出をまぬがれたその鐘の音は、永く市民に親しまれてきた。昭和三十九年市役所庁舎建設に際し撤去されたが、市民の熱望により城の本丸跡のここに移して復元新築された。昭和五十八年三月 沼田市教育委員会県指定重要文化財城鐘は、テラス沼田2階の歴史資料館で展示しています。テラス沼田(沼田市下之町888番地)群馬県指定文化財 城鐘 総高 一一四センチメートル 口径 六七・五センチメートル」以下 略。最上部に城鐘(複製)が垣間見えた。ズームして。本物をネットから。この鐘は、寛永11年(1634) 、に真田氏2代沼田藩主信吉が鋳造させ、沼田城三の丸の楼にかけて時報に用いたものです。総高114 cm、厚さ5cm、口径67.6cm、全体の型として古式を残し江戸時代初期の代表的なものであり、「この瞳の音は領内領民を安らかにし、領主の長久を祈るもの・・・」という意味文が刻まれています。天和元年(1681)に真田氏か改易となったため平等寺の梵鐘になっていたが、その後明治31年頃に旧沼田町役場敷地内に建てられた鐘楼に移され、昭和39(1964)に市庁舎改築で鐘楼が取り壊されるまて市民に時鐘として親しまれていました。昭拓58年(1983)、沼田公園内に復元された「鐘楼」に吊され時を告けていましたが、老朽化のため現住は沼田市歴史資料館(常設展示室内)に展示されています。重要文化財(工芸品) 昭和29年3月30日指定所在地:沼田市下之町888 テラス沼田2階 沼田市歴史資料館(常設展示室内)見学:沼田市歴史資料館の開催中は常時見学可城鐘(複製)がよく見える場所に移動して。更に正面からズーム。「案内板」が並ぶ。「沼田城関係年表」👈リンク。「真田氏時代、沼田蔵内城の絵 北村明道 作」。下の絵は、真田氏時代、沼田蔵内城の絵。絵の一番上、中央に5層の沼田城を見ることが出来ます。またその下にニの丸、三の丸が、さらに石垣や堀、土塁をみることができます。5層の「天守閣」をズームして。沼田公園内の観光案内所に展示されていた沼田城天守の模型。「沼田城 西櫓台跡石垣」手前の広場から「御殿桜」を見る。「沼田城御殿桜」案内板。「沼田城御殿桜(樹齢推定 400余年)沼田城の天守閣が、5層の雄姿を誇っていたところに植えられ、今に残っている沼田城形見の名木である。沼田城は初め蔵内城と称した。沼田氏12代の沼田万鬼斎顕泰が、3ヶ年かかって天文元年(1532年) 4月完成させ、柳町の幕岩城から引移った。顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平八郎景義を城主にせんと企て、永禄12年(1569犖)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年間にて亡びた。以来沼田城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼、織田信長、真田昌幸、北条氏直の支配時代を経て、天正18年(1590年)真田信幸が城主となった。信幸の夫人は徳川家康の曽孫=養女=小松姫である。信幸は関ヶ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年(1604年)この御殿桜の処に3階建ての隅櫓(水の手曲輪門)を築造。ついで慶長12年(1607年)今の利根英霊殿の処に5層の天守閣を築造(間口10間奥行9間)本丸の外郭に土塀を築くなど、名城を完成させた。それから77年の天和元年(1681年)11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を没収され、城郭は跡形なく取壊された。名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしつかり抱き、春ごとに寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。(岸 大洞 文撰)」ライトアップされた「御殿桜」をネットから。 【http://photograph.pro/wallpaper/10041636_FHD.html】より「沼田城跡西櫓台の石垣・石段天文元年(1532)頃に沼田顕泰によって築かれた沼田(倉内)城は、上杉・武田(真田)・北条氏などの有力大名の狭間にあり、その属城として幾多の変遷をたどってきたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡以降は正式に真田氏の所行する城となった。真田昌幸の嫡男信幸は、初代城主として城郭の大改修を手がけ、慶長年間(1591~1614)には五層の天守をはじめ各種櫓や門などを建造して近世城郭として整備を行った。しかし、天和元年(1681)に真田氏が改易になると城は壊された。その後、本多・黒田・上岐氏と城主は代わり明治を迎えたが、城の本格的な復興はなされなかった。発掘調査により発見されたこの石垣や石段は、西櫓台(前方の小高い部分)に件うものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構と考えられる。5代城主信利(信澄)の改易により、翌年城は跡形もなく破却されたと云われていたが、壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て再び往時の姿を現わしたのである。発掘部分石垣石段(全長27.5m 石垣の高さ0.8 ~2.0m 石段の幅2.4m) 沼田市・沼田市教育委員会」「沼田城跡西櫓台の石垣」を見る。手前には空堀が。「沼田城跡西櫓台の石垣」案内板。「沼田城跡西櫓台の石垣」の西側を見る。手前に「石段」。「成田山 沼田 五大尊講」碑。土岐沼田藩の初代藩主、土岐頼稔が城内に不動院という寺を建てたが、維新変革により廃寺となったことから、沼田五大尊講として祀られた等々のいきさつが、台座に刻まれていた。「御肖像傅八十八周年記念傅曰ク御不動尊ノ肖像ハ旧沼田城主土岐頼稔候京都◯◯大内ヨリ賜フ所ナリト案ズルニ候ハ寛保二年京都所司代ヨリ東都ニ入テ客老トナリ臣三浦外記景充ヲシテ新采邑沼田ニ至リ城代タラシメ後城中ニ不動院ナル一寺ヲ建テ之ヲ尊傅セシカ維新変革ニ遇フテ廃寺トナリ其レヨリ沼田五大尊講中ニ於テ之ヲ尊傅致シ今日ニ至ル 昭和二十八年十月建之」。後に訪ねた「天狗堂」方向を見る。前方に石碑が見えたので訪ねた。「村上鬼城句碑」「越後路へ をれまがる道や 秋の風 鬼城」この句碑は、昭和4年(1929)に建てられたもの。村上鬼城は、慶應元年(1865)鳥取藩士の息子として江戸に生まれ、その後高崎に移り住み、高崎裁判所の司法代書人をしながら、正岡子規に俳句の教えを請い、「ホトトギス」に俳句の投稿をおこなっていた と。「平八石」。「平八石の由来」案内板。「平八石の由来沼田平八郎景義の首級を載せた石。平八郎は沼田城(蔵内城)を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄金子美濃守らにそそのかされて、永禄12年(1569年)正月、朝憲を呼びよせて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われ会津逃げた。平八郎は12年の後、沼田城奪還の兵を挙げて沼田に迫った。真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中に居た金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は、己が栄進したいため平八郎に会い武装を解き、こっそり城内に入れて「お前が必す城主になれるようにしてやる。」と偽り、城内へ誘い入れて殺害した。風雲児の最後また哀れだった。時に天正9年(1581年) 3月14日(ー説は15日) 42歳。平八郎の首級は昌幸が実検の後、この石の上に置いた。亡骸は町田町の小沢城址に葬り、沼田大明神として祀ったが首級は此処から亡骸を埋めたところまで飛んで行ったという。 (岸大洞 文撰)」「谷川岳」方面の山々を見る。ここにも山々の「案内パネル」・「沼田八景 雪の上越連峯」が置かれていた。雪に覆われた「谷川岳」方向をズームして。「大峰山」(左)と「吾妻耶山」(右)。戸神山(右)と高王山の砦(左)。「戸神山」の後方に、雪化粧の日本百名山 「上州武尊山(じょうしゅうほたかさん)」。名前の由来は日本武尊の東征の故事によるものといわれ、古くより地域住民による山岳信仰が篤く、修験者が入峰する山あったと。「案内パネル」。「三峰山」。「案内パネル」。「三国山」とこの日に訪ねた「名胡桃城」方向を見る。右奥には「上越新幹線」の高架橋、そしてその手前には利根川に架かる国道17号の「月夜野大橋」。「案内パネル」。そして次に訪ねたのが「捨曲輪跡」の奥に建つ「天狗堂」。扁額「天狗堂」。横壁には「案内板」が。「天狗面の由来このお堂にある天狗面は、昭和34年11月に迦葉山の大天狗面の分身として沼田市観光協会が製作した。顔の長さ3メートル、顔の幅2メートル、鼻の高さ1.4メートル、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇る(彫刻者:吉沢俊三郎氏)。同年、市内の祭りに初めて天狗踊りの行列が登場し、全国でも稀な行事として賑わいを見せた。天狗面は迦葉山弥勒寺の鎮守である中峰尊者の化身だといわれる。弥勒寺は嘉祥元年(848年)に創建され、康正2年(1456年)に天巽慶順(てんそんけいじゅん)禅師によって曹洞宗に改宗した。禅師に随行した弟子の中峰尊者は数十年間に渡り布教と伽藍の造営に尽くした。禅師が大盛禅師に住職の座を譲ると、「吾迦葉佛の化身にて己に権化化行は終わった。よって今後は永くこの山に霊し末世の衆生を抜苦与楽せん」と誓願して案山烽から昇天し、後に天狗の面が残されたといわれる。それを中峯尊と称して祭り信仰を集めている。現在、弥勒寺には地元商工会の有志が奉納した顔の長さ6.5メートル、鼻の高さ2.8メートルの日本一の大天狗面が安置されている。」顔の長さ3メートル、顔の幅2メートル、鼻の高さ1.4メートル、重さ1トンで木彫りの天狗面としては日本一の大きさを誇るのだ と。移動して。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.16
コメント(0)
数日、近況報告で寄り道しましたが、今日から「栃木・群馬県の続日本百名城・寺社・紅葉めぐり」の再スタートです。--------------------------------------------------------------------------------------------------この日は11月16日(水)、「栃木・群馬県の続日本百名城・寺社・紅葉めぐり」の2日目。沼田城跡近くのホテルに宿泊し、この日も早朝起床し、我が部屋からの日の出の光景をカメラで追う。東の空の雲の下端が赤く染まって来ていた。時間は6:26。雲の色合いが刻々と変わって。そしてこの日の日の出。時間は16:41。空も青く染まって来た。この日も天気は良さそうなのであった。ホテルでの朝食前に、ホテル周辺の散策に出かけた。前方に、大きな赤い天狗が収められている建物があった。「街なか天狗プラザ」。「大天狗面」を正面から。沼田市と天狗面の関係は、迦葉山弥勒寺にありあると。天狗プラザにあるこも大天狗面は、商工会議所青年部が発起人となり平成11年に作られた。顔の長さ4.3m、幅2.3m、鼻の高さ2.9m。この天狗面は毎年8月3日~5日に開催される沼田まつりで、女性奉仕者だけが担ぐ天狗みこしとしてまつりに華を添えている と。「天狗面の由来沼田市と天狗面の関係は、市街地の北方約16キロの深山幽谷の地にある迦葉山龍華院弥勒寺にあります。弥勒寺は848年に比叡山三租円仁慈覚大師により国家繁榮、民生安泰の鎮守護国寺として開創され、その後、天巽(てんそん)禅師により改宗開山がなされました。この禅師の高弟に中峰尊(ちゅうほうそん)という僧がおり、伽藍造営の大事業から布教伝道まで、大いに努め、また、山門の岩屋や険しい岩山など到底人力では登れない処まで修行者を導くなど神通力を持っており、十年一日のごとく禅師に師事して、その童顔は少しも変わなかったといわれています。禅師がニ世大盛禅師に住職の座を譲るや、中峰尊は、「吾れ迦葉仏の化身にて巳に権化化業は終わった。よって今後は永くこの山に霊し、末世の衆生の抜苦与楽(ばっくよらく)せん」と請願して案山峰より昇天され、その後に天狗の面が残されていたといわれています。以来、その功徳をたよりその御利益を信じ、天狗面を奉納する習わしとなり、近郷近在からはもとより全国的に参拝の善男善女はその数を増し、天狗のお山として賑わっています。」沼田市において作成された大天狗面 年 目的 発起人 素材 顔の大きさ 安置場所 顔の長さ 顔の幅 鼻の高さ昭和3年 今上天皇即位記念 下之町商栄会 不明 5.45m 2.66m 2.18m 昭和4年消失昭和14年 出兵兵士武運長久 商工会有志 張子 6.70m 4.00m 2.70m 迦葉山中峰堂昭和34年 商売繁盛 観光協会 木彫 3.00m 2.00m 1.37m 沼田公園天狗堂 昭和34年 七夕飾り 市内寿司店 張子 5.00m 3.00m 1.80m 上川田町東光寺昭和45年 交通安全 大天狗奉賛会 張子 4.00m 2.50m 2.70m 迦葉山中峰堂昭和58年 諸願成就 青年会議所 張子 4.20m 2.30m 2.00m 迦葉山座禅堂平成11年 観光PR 商工会議所青年部 FRP 4.30m 2.30m 2.90m 街なか天狗プラザ各地の主なイベントに参加大天狗面は毎年8月3日~ 5日に開催される「沼田まつり」では、女性奉仕者だけが担ぐ”天狗みこし”として市内を練り歩きます。なお、「天狗みこし」は各地のイベントに参加するほど有名になっています。以下 略巨大な「天狗みこし」👈リンク として女性だけで担ぐというのが沼田まつりの名物 。写真はネットから。「街なか天狗プラザ」内の「大天狗」。「沼田大天狗」。反対側から。鼻の高さは2.90m、顔の大きさは縦が4.3m、幅が2.3mと。手前には小天狗の姿も。「街なか天狗プラザ」を振り返って。ホテル ベラヴィータに戻る。群馬県沼田市材木町178-1。朝食会場入口。この日の朝食を楽しむ。ホテルのフロントロビー。照明も立派。フロント。既にロビー内はクリスマス色にあふれていた。そしてホテルを出発し、この日の最初の散策場所は、昨日最後に立ち寄った「沼田城跡」。この日も「沼田市観光案内所」の駐車場に車を駐め散策スタート。入口にあった、見事に黄葉した銀杏の老木をカメラで追う。ズームして。ここは「沼田公園」入口。冠木門前にあった「三の丸」。「「沼田城「三の丸」について城(城の敷地全体)には本丸・二の丸・三の丸といったその場所ごとの命名がされており、この場所は江戸時代の「三の丸」にあたります。「三の丸」は、東西約380 m、最大幅約120 mあり本丸・二の丸の南側に位置し、当時「侍屋敷」が在ったと考えられています。」「沼田市観光案内所」の駐車場入口・「沼田城 三の丸土居跡」横から「沼田公園」入口を見る。「沼田市観光案内所」の駐車場。「日本の歴史公園百選 沼田公園 平成十九年二月十六日選定」。「沼田公園」入口の木製の冠木門には真田家の家紋・六文銭(ろくもんせん)そして「天空の城下町 真田の里 沼田」と。正確には「六文銭」は「六連銭(むつれんせん、ろくれんせん)」または「六紋連銭ろくもんれんせん)」というとのこと。「沼田城の歴史」案内板。「森林文化都市沼田城の歴史 天文元年(1532年)沼田市12代の沼田顕泰が築城し柳町の幕岩城から移る。【上杉氏の支配】 永禄9 (1566年)、顕泰は子の朝憲に城主を譲り、側室とその子平八郎を連れて川場村天神城へ 隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼びよせて殺した。 顕泰・平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃走。上杉謙信が柴田右衛門尉を城代にした。【北条氏~真田氏支配】 天正6 (1578年)謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。天正8 (1580年)6月、 真田昌幸が入城。翌9年3月平八郎は沼田城奪還のため来攻したが、昌幸の策に乗った金子 美濃守に城内で謀殺され、沼田氏滅亡。【滝川氏城代】 天正10年、織田信長が滝川儀太夫を城代にしたが、六月信長が本能寺で討たれ、滝川は去り、 真田の一族矢沢頼綱城代となる。【真田氏城主】 天正17 (1589年)真田氏は北条氏と和し、北条氏の有となったが翌年北条氏が、真田の所領 名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を撃滅し、沼田を真田昌幸に与え、 昌幸の長子信幸が初代沼田城主となる。 元和2年、子の信吉。寛永12年信吉の長子熊之助。同16年、信吉の弟信政を経て明暦3 (1657)年信吉の庶子伊賀守信直五代城主となる。【沼田真田氏滅亡】 天和元(1681年)11月、幕府は悪政を理由に伊賀守を追放。3万石の領地を没収。五層の威容を 誇った沼田城は破却された。【代官時代】 以来5人の代官が在任。【本多氏】 元禄16 (1703年)、本多正永が城を再建。2代正武、3代正矩が城主。享保15年、 後藤庄左衙門が代官となる。【黒田氏】 享保17 (1732年)から11年問、黒田直邦、直純が城主。【土岐氏~明治】 寛保元(1742年)、土岐丹後守頼稔(寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中を歴任)が駿河国 田中から移封されて沼田城主となり、以来12代土岐隼人正頼知が、明治2 (1869年)藩籍を 奉還するまで、127年間城主であった。 沼田市・沼田市観光協会」「沼田市指定史跡 沼田城跡」案内板」。「沼田市指定史跡 沼田城跡指定 昭和五十一年三月三十日所在地 沼田市西倉内町管理者 沼田市沼田城は、天文元年(一五三二)に三浦系沼田氏一ニ代万鬼斎顕泰ガ約三ケ年の歳月を費やして築いた。当時蔵内(倉内)城と称し、沼田市街地発祥のかなめで、当市の歴史の起点でもある。築城して四ハ年後の天正八年(一五ハ〇)武田勝頼の武将真田昌幸が入城し、城の規模を広げた。天正一ハ年(一五九〇)昌幸の長子信幸が沼田領二万七千石の領主となり、慶長年間に五層の天守閣を建造した。天和元年(一六ハ一)に真田氏五代城主伊賀守が徳川幕府に領地を没収され、翌ニ年一月に沼田城は幕府の命により破壊された。その後、本多氏が旧沼田領一七七ケ村のうち四六ヶ村・飛地領合わせ四万石の藩主として入封し、幕府の交付金で城を再興し三の丸に屋形を建てた。次いで、黒田氏ニ代、土岐氏一ニ代の居館となったが、明治になって版籍奉還し屋形も取り壊された。時を経て本丸・ニの丸跡が、現在の沼田公園に変貎した。 平成十二年三月 沼田市教育委員会」「沼田城址」碑。「沼田公園(沼田城跡)」案内板。春の桜をはじめとして様々な花木の美しさが楽しめる公園沼田城跡(本丸・二の丸・三の丸の一部)に整備された沼田市を代表する公園で日本の歴史公園100選に選定されています「現在地」はここ。この後、この案内板を参考に「沼田公園」内の名所旧跡の訪ねたのであった。名称入りの案内地図をネットから。前方にロータリー。ロータリー右のモミジが陽光に黄金に輝く。「黄金の輝き」をカメラで追う。イケメンの「真田幸村」が出迎えてくれた。しかし、実際には幸村はほとんど沼田城にはいなかったはず。「戦国無双 〜真田丸〜(せんごくむそう さなだまる)」の「真田幸村」像。「戦国無双 〜真田丸〜」は、コーエーテクモゲームスより発売されたアクションゲーム。キャッチコピーは「真田一族、熱き戦いの物語。」であると。「沼田の歴史物語真田信幸(信之)其之壱父の昌幸が沼田領を巡る家康からの要求を拒絶し、徳川軍と戦った第一次上田合戦(神川合戦)では、信幸はわずかな兵を率いて徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せ、勝利に貢献するなど、幸村に勝るとも劣らぬ戦(いくさ)上手ぶりであった。そして、乱世における真田家の運命を託せる人物として徳川家康を選び、父昌幸、弟信繁(幸村)と敵味方に分かれた。関ヶ原の戦いでは東軍につき、名も信幸から信之に改めた。」ロータリーの分かれ道。左の「鐘楼・御殿桜」方向に進む。「沼田公園寄贈者久米民之助〈1861--1931年〉旧沼田藩士の子息久米民之助翁は、1861年に現在の東倉内町で生まれ15歳となった明治9年6月に上京し工部大学校(現車京大学)に入学、卒業後宮内省に入りニ重橋の造営などにあたった。その後数々の事業して成功を又め、衆議院議員も務めた人物です。現在の沼田公園は久米民之助翁が自分を育んだ故郷に恩返しをたいと考え、私財を投じて荒れ果てた城址を購入し大正5年9月から、現在の公園の西半分を中心に2か年に亘り造営工事を行い、大正15年に沼田町に寄贈されました。さらに東側の工事が進められている中、昭和6年に亡くなられました。翁の意志は現代に引き継がれ、市民や観光客など多くの人にいこいの場として親しまれています。(平成元年11月沼田市名誉市民となる)」道路の反対側にあった「久米民之助」胸像。ズームして。下部には土木測量用の「トランシット」、そして両ツルハシ、スコップが陽刻されていた。真紅の紅葉を追う。「沼田の歴史物語小松姫(稲姫)其之壱小松姫は名を稲姫。徳川四天王のひとり本多忠勝の長女として生まれた。小松姫の嫁入りについてこんな逸話がある。婿探しのために、大名の子息たちが浜松城に集められた。小松姫は一人一人、髷をつかんで顔を覗き込む。皆が家康の威光を恐れ、されるがままになっているとき「無礼ではござらぬか!」と怒ったのが真田信之であった。これを見て、小松姫は真田信之の元に嫁ぐことを決意したといわれている。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.15
コメント(0)
「菜の花」、「富士山」をこれでもかと楽しんだ後は、「吾妻神社」に向かって「芝生広場」を南に向かって進む。「案内板」が前方に。「縁結びの神様 吾妻神社 工学博士 伊東忠太氏 設計の社殿」と。「吾妻神社」案内板がここにも。二宮の海は「梅沢海岸」と呼ばれているのだ。階段の小路を下って行った。1分ほどで「吾妻神社」の境内に到着。「奉納 吾妻社 改築寄附 金参阡五百圓」と刻まれた石碑。「吾妻宮」碑。以前は石鳥居に掲げられていた石扁額であろうか?こちらが「吾妻神社」の境内入口に立つ「二の鳥居」?か。狛犬(右・阿形像)。昭和5年(1930)建立。狛犬(左・吽形像)。石鳥居越しに「拝殿」を見る。左手に「手水場」。「拝殿」を正面から。石鳥居(右)。「吾妻大權現御寶前」と刻まれた正徳4年(1714)造立「灯籠」一対、右奥に享和3年(1803)六本木奥惣女中により奉納された「手水鉢」、更に奥東に三武社、奉納額を刻んだ石塔が。石鳥居(左)。「吾妻神社 由緒吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まるという。弟橘媛命を祭神とし 日本武尊を配祀する。日本武尊は景行天皇の第三皇子であり、天皇にそむく部族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総に渡るとき暴風突如に起こり、命は夫にかわり 海神の怒りを鎮めるため夫の武運を祈り、別れに臨んで往事を回想され「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノ ホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。その七日後に命の御櫛が海辺に 流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。この海岸に命の 小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。また日本武尊は東北戦 が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ、「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神像は木彫の千手観音で、既に千数百星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に安置されている。吾妻神社は「縁結びの神」として知られ例祭日は 例大祭 一月 第三日曜日 例祭 八月 十五日」「脇障子」には中国故事に因む彫刻、題材は不明だが、左側「岩山で右手に木枝の杖、腰に2つの瓢箪を下げた翁」、右側「満開の琵琶の花、下の方で実を採る仕草の翁」。「吾妻神社の由来吾妻神社は、二宮町吾妻山の山頂(標高百三十六m)にある神社で、創建は第十二代景行天皇の時代と伝えられています。皇子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が三浦半島の走水から上総の国に船で渡る時、突然荒波に遭い、妃である弟橘媛命 (オトタチバナヒメノミコト)が身代わりとなって海に身を投げられ波浪を静めたと伝えられています。後に今の梅沢の海岸に妃の櫛が流れ着き、その櫛を埋めて御陵を造ったことから、この地を埋澤と呼び、現在は梅沢地区の氏神様となっております。また、弟橘媛命の小袖が浜辺に漂着し、これを山頂に祭ったと伝えられており、この辺の浜を 袖ヶ浦海岸と呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命で、【縁結びの神様】として有名です。 ~境内に置いてあった資料~より” 」「吾妻神社 社殿について」。1930年(昭和5年)設計社殿の設計者 工学博士 伊東忠太東京帝国大学名誉教授(慶応3年~昭和29年)代表的設計建築物橿原神宮(奈良県)平安神宮(京都府)弥彦神社(新潟県)築地本願寺(東京都)など多数拝殿の彫刻は、有名な彫刻家である小林直光氏によって手掛けられたものと。歴史110年 (景行天皇)頃 弟橋媛命を祭神として創建741年 (天平13年)頃 僧行基が千手院、東光寺を創立824~834年 (天長)頃 僧空海の弟子杲隣が神願寺梅澤山を建立1218年 (建保6年) 源実朝 雄剣を拳納1580年 (天正)頃 本社を修造(小田原城主 北条氏直)1714年 (正徳4年) 石灯寵 奉納(現存)1750年 (寛延3年) 再建改築1883年 (明治16年) 吾妻神社奉納和歌額 奉納(拝殿内現存)1930年 (昭和5年) 吾妻神社 社殿設計完了 社殿改築等奉賛会 発1942年 (昭和17年) 上棟1943年 (昭和18年) 完成内陣。「拝殿」前から境内を見る。境内の石碑群。「吾妻神社 奉納 御神楽」碑。「奉納 金百五拾圓也」。「奉納 金五百圓也」。「三武社」碑。歌碑「 吾妻山純情 」二宮町 梅沢 袖ヶ浦に伝わる 日本武尊と弟橘姫の神話「白峰紅葉清秋を飾る 敵兵野原火謀を図る 建命静かに草薙剣振るい 救軍迎え火平定仇せり 暴風遮断す走水の浜 愛妃鎮座す水神の前 さねさし相武の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問いし君はも 風凪ぎ全軍雄途に発す 静謐夕陽関津に映ゆ 建命人を恋う吾妻山 探訪漂着山関に到る 愛姫静立主君を迎う 相い約す両人永遠の綸」帰路は「梅沢海岸」方向の参道を下る。参拝者の姿はほとんどなく。竹林を見ながら進む。右手の石段の上には「神明社」が鎮座。神奈川県中郡二宮町山西844。近づいて。小さな社。祭神は大日孁貴(おおひるめむちのみこと)。社の下の右側の石碑群には五輪塔もあった。左側の石碑群。道祖神・石仏が。文字「道祖神」碑。碑型: 兜巾型高さ: 58センチメートル造立年月日: 明治42年(1909年)1月15日「地神」碑。「馬頭観世音」碑。「双体道祖神」碑。「妙法道録神」碑。碑型: 兜巾型高さ: 37センチメートル造立年月日: 昭和10年(1935年)9月参道の紅葉。「一の鳥居」が見えて来た。「一の鳥居」を潜って。「吾妻山公園 梅沢登り口」と。「吾妻山公園」案内図。JR二宮駅まで700m と。道路沿いの水仙。「カップ咲きスイセン」。コスモス。そしてJR二宮駅北口に到着し、歩いたルートを地図で振り返る。この後、二宮にお住まいの先輩に久しぶりにお会いし、喫茶店で近況、体調を語り合う。そして二宮駅南口に立つ「ガラスのうさぎ」を最後に訪ねた。『太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここJR二宮駅(当時国鉄)周辺には艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。この時、目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子さん著)は国民の心に深い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。この像は、私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。』「ガラスのうさぎ」像記念碑文よりそしてこの日の吾妻山からの菜の花と富士山を堪能した4時間を終了し13時過ぎには帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.14
コメント(0)
再び菜の花越しに小田原方面の街並みそして伊豆半島を見る。大木・「エノキ」越しに朝の陽光を浴びた「相模湾」の藍き海原・「光る海」。「吾妻山公園の由来」碑とその右後方に白き富士山の姿が。「吾妻山公園の由来」碑の前には募金箱が置かれていた。『相模路(さがむじ)の 淘綾(よろぎ)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思はるるかも』の歌碑。(万葉集 第十四巻 東歌)「相模の淘綾(よろぎ)の浜の美しい砂のように、あの娘が可愛く思われることです。」淘綾(よろぎ)の浜とは、神奈川県の国府津から東へ、大磯にかけての海岸のことで、現在は「こゆるぎの浜」と呼ばれているのだと。「吾妻山の名は、中腹に吾妻神社があることからこう呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で日本武尊(やまとたけるのみこと)が配祀(はいし)されています伝承では、日本武尊が東征の途中、三浦半島の走水から海路上総に渡る際、突然海が荒れたため、妻である弟橘媛命が 海神の怒りを静めるため、夫の武運を祈願しながら海中に身を投じると、たちまち海は穏やかになりました。7日後に命の櫛が海辺に流れつき、これを埋めて墓とし、又磯辺に漂う命の小袖を取り上げて山頂に祭りました。日本武尊は東征の帰路、この地の峠ではるか東方の海をながめ、海路を開くために犠牲になってくれた妻を偲んで「吾妻はや」(ああ、わが妻よ)と嘆かれたと云ういうことから吾妻神社の名がつき、小袖が漂着した海岸を袖ヶ浦と云うようになりました。このような由来から、縁結びの御利益もあるようです。」とネットから。「吾妻山公園の由来相模路の 淘綾の濱の眞砂なす 児らは愛しく 思はるるかも(さがむじの よろぎのはまの まさごなす こらはかなしく おもはるるかも) (萬葉集 巻十四 東歌)万葉の昔から 淘綾の里 二宮の美しい海浜と それを眼下に一望できる吾妻山は人々のふるさとでありましたしかし 第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で 山は顧みられることもなく 次第に荒廃が進んでいきました 町はこれを深く憂え 子孫に誇れる山として残したいと思い 地権者六十五名の協力と五年の歳月をかけて整備し 昭和六十二年七月十八日に吾妻山公園として開園しました現在では 健康づくりと自然とふれあう やすらぎの場として人々に喜ばれていますこの公園は 名誉町民 第十七代柳川賢二町長の尽力により完成しました。この碑は 公園開園五周年を記念し 柳川賢二顕彰会の有志の寄付により建立されました」「菜の花」、「桜」越しに「真白き富士の嶺」。移動して。「菜の花」に近づいて。「菜の花」と芝生広場のエノキ。ここ吾妻山にはエノキが多いのだが、相模灘に面した小高い丘の山頂には、この一本のエノキシンボル的に立っているのであった。富士山が西側の雲を引っ張っているが如きに雲が次々と裾野に。「富士山頂」をズームして。更に。登山道のジグザグも見えた。富士宮口登山道であっただろうかこれでもかと。これが我がデジカメの限界。「吾妻山公園展望台」を見上げて。撮影ポイント「吾妻山公園 二宮町」。左のとんがった山が「金時山」(1213m)、約22Km先になる。この場所から「富士山」をズームして。富士山の前にみえる丸い山は「矢倉岳」。神奈川県南足柄市にある標高870 mの山「芝生広場」の南側の端には「四阿」があった。「四阿」に向かって歩く。「四阿」。そして相模湾沖の「伊豆大島」がはっきりと見えた。この場所の標高が136mあるので、伊豆大島のこの姿は、標高100m以上の島の姿なのであろうか?この場所からの距離は50~60km程度であろうか?再び小高い丘の上の「吾妻山公園展望台」を見る。「エノキ」が存在感を示していた。「セキレイ」であっただろうか。いつの間にか、猫が日向ぼっこしていた。飼い猫のようであったが。何方かが連れて来た猫か?相模湾、伊豆半島を望む。黄色く色づいた菜の花が一際目を引き、一足早く春を感じられるのであった。国府津、鴨宮、小田原の町並みと相模湾、そして伊豆半島の付け根を。「菜の花」は、春によく見かける黄色い花の総称として使われるが、ふつう見かけるのは 「西洋油菜(せいようあぶらな)」なので「西洋油菜」のことを「菜の花」と呼ぶことが多い。蜂蜜を作る原料として、養蜂業者の方たちは 九州などの暖地から 花期に従ってしだいに北上してその花蜜を集めるらしいが、この日はミツバチの姿は見当たらなかった。再び富士山を。小田原方面の街並みを再び。「小田原城」の天守閣の姿も確認できた。移動して。小田原海岸。小田原市小八幡2丁目付近であろう。「吾妻山公園展望台」の西側に廻り込んで。接写にて。「菜の花」と「富士山」とのコラボを。丹沢の山々。右側には塔ノ岳(1491m)、檜洞丸(1601m)、御正体山(1682m)が。「光る海」には小舟も。漁舟であろうか。ズームして。芝生広場の主(ぬし)のエノキをこれでもかと。ここにも巨木が。「吾妻山 標高一三六・二m」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.13
コメント(0)
相模湾が陽光を反射して「光る海」に。ズームして。『吾妻山公園の由来』碑とその右手後方に白き富士山の姿が。富士山をズームして。裾野には白き雲が棚引いてしまっていたが。榎の老木は葉を総て落として。「エノキ 榎ニレ科 工ノキ属分布=本州~九州、朝鮮、中国実は食べられる。野鳥も好み、方々に運んでゆく。材は建築や器具などに利用する」展望台の中央に、現在地を中心とした関東地方の地図が描かれていた。吾妻山を中心に相模湾、房総半島、伊豆半島、大島等が描かれていた。再び富士山を。富士山の手前に見える山は「矢倉岳(やぐらだけ)」。矢倉岳は神奈川県南足柄市にある標高870mの山である。神奈川県西部の箱根山地と丹沢山地の間に広がる足柄山地にある山で、金太郎伝説で知られる金時山(1,213m)の北側に位置する。おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つため、一目でそれと分かるのだ と。展望台から見える写真の山々の名前が説明されていた。中央に「富士山」。その左側に「金時山」、「明神ヶ岳」、「神山」、「駒ケ岳」。「金時山」。ズームして。「箱根」の山々を更に見る。右から、明神ヶ岳(924m)、明星ヶ岳(1169m)、神山(1438m)、駒ケ岳(1357m)、上二子山(1091m)、下二子山(1065m)。「神山」(右)と「駒ケ岳」(左)。「上二子山」(右)と「下二子山」(左)。。富士山の右側には丹沢の山々が。右から塔ノ岳(1491m)、檜洞丸(1601m)、御正体山(1682m)。そして「大山」。「国府津」、「鴨宮」、「小田原」方面を望む。そしてその先に伊豆半島。伊豆半島を望む。「伊豆半島」方面の山々も紹介されていた。右から「大観山」。「小田原城カントリー倶楽部」。「岩戸山」と「玄岳」。「天城山」その手前に「真鶴半島」「真鶴半島」をズームして。その先の三ツ石をズームして。右から「大室山」、「小室山」、「小室山」の手前に「初島」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.12
コメント(0)
この日は2023年1月5日(木)、今年もJR二宮駅の近くにある吾妻山の山頂に咲く菜の花を愛でに行って来ました。事前にネットで開花状況を確認すると、今年は開花が早く、満開に近いようであった。JR二宮駅ホームからの「二宮町立二宮小学校」の上に見える吾妻山第2展望台・休憩所下の植栽で形どった「二宮町の町章」を見る。「二宮町の町章」をズームして「宮」を図案化したマークに「二」をこれも図案化して配し、飛躍する願いと町民のなごやかな思いを翼と円の形で象徴しているのだと。JR二宮駅の通路にあった「吾妻山 菜の花ウォッチング」のポスター。2023.1.7(土)~2.12(日)まで開催されるとのこと。こちらは「吾妻山(吾妻山)」ポスター。「四季折々の花畑を散策。広々した芝生でのんびりぐるっと湘南一望できます。」「にのみやNINOMIYA guide map」「二宮駅」北口に出る。「にのみや 吾妻山公園 案内図」。「吾妻山」周辺をズームして。「吾妻山」山頂・菜の花畑へのルートは北・釜野口、東・役場口、南・梅沢口の3ルートがあるようだ。「二宮町役場」入口方面に向かって急な坂道を上って行った。右手の建物は「二宮町役場庁舎」の建物。「二宮町役場」への入口。「二宮町庁舎 長寿の里」の上には町章が。神奈川県中郡二宮町二宮961。町の名前は、町内にある川勾神社が「相模国二之宮」であることに由来する。行政区域では湘南に属しているが、市町村合併、ごみ処理広域化などで合意に至らないことも多い。住民の中の若年層の伸び悩みで、活性化が期待されている。二宮町は神奈川県の西南部に位置し、海と山、そして緑に囲まれた約9平方キロメートルの小さな町。気候は相模湾に面しているため、冬暖かく夏涼しいという特徴があり、その温暖な気候などから元気な高齢者が多く住む「長寿の里」として知られているのだ。向かいには「二宮町立二宮小学校」。そして「吾妻山公園」の入口が姿を現した。ここが吾妻山山頂の菜の花畑への東・役場口ルートの入口。「吾妻山公園鳥獣保護区区域図」案内板。「二宮町みどり基金ようこそ 吾妻山公園へ頂上からの眺望をお楽しみ下さい。素晴らしい自然環境を将来へ継承するために『二宮町みどり基金』へご協力をお願い致します。 二宮町」と。「吾妻山公園」と書かれた木製のアーチの先にはいきなり急な石段が続いていた。「かながわの公園50選 吾妻山公園」。ここにも「吾妻山公園 案内図」を再び。「吾妻山公園利用のご案内」開演時間 午前8時30分から午後5時まで と。急な石段を一歩一歩上って行った。最初の石段を登りきった右側には、カフェ・喫茶の「二宮町 ともしびショップ なのはな」があった。そしてその先にも再び急な石段が続く。休み休み上って行った。まだまだ続く石段。振り返ると、眼下には二宮・大磯の街並みそして相模湾が見えた。石段を登り切るとさらに無舗装の坂道が続いていた。「休憩所・第2展望台」に立ち寄る。「JR二宮駅」を眼下に見る。「相模湾」そして「三浦半島」を見る。「江の島」をズームして。ズームすると江ノ島大橋・江ノ島弁天橋 そして烏帽子岩の姿も確認出来た。さらに「江の島」をズームして。「大磯町」の街並みを見る。ここにも「吾妻山公園案内図」。「現在地」周辺をズームして。さらに水仙の咲く坂道を上って行った。紅葉も進んでいた。「寒椿(かんつばき)」。水仙の群生地。「カップ咲きスイセン」をズームして。「吾妻山」山頂に向かって左手方向を進んで行った。左手は「管理事務所 芝生広場」と。右手にあったのが「浅間神社(せんげんじんじゃ)」案内板と石鳥居。「浅間神社祭神は木花咲耶媛、ニ宮町上町地区の祭神で土地の人には、浅間さんとして親しまれ本社は富士浅間神社です木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。この時姉のニ宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて自分の住まいのこの山上に、浅間神社をまつったと言います。」石鳥居の扁額も「浅間神社」。「浅間神社」に立ち寄る。祭神は木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。1193年(建久4年)、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りで起こった曽我兄弟の仇討。曽我兄弟の姉・花月尼は、仇討ちの成功を富士浅間神社に祈り、兄弟が見事に父の仇・工藤佑経を討つと、自身の住居前の吾妻山に浅間神社を祀ったのだと。戻った坂道には、泥濘み(ぬかるみ)防止であろうか、木材チップが一面に敷かれていた。「モクレイシ」の赤い実をズームして。「モクレイシ」とは、ツルレイシに対して付けられた名である。ツルレイシとはニガウリのこと。モクレイシは、果実が割れ赤い種子が見えるのが、ニガウリが熟し種子を出すところと似ているので、ツルに対してモク(木)と名付けられたのだと。崖崩れがあり路が壊されてしまったようで、土留が昨年と同様に為されたままであった。「吾妻山公園・管理事務所」入口前を左折して進む。「吾妻山公園 ローラー滑り台」。園内一の人気の施設が、地形を巧みに活用した「ローラー滑り台」。全長は102メートル、傾斜は約10度。 相模湾を見下ろしながら、一気に下ってこの場所まで滑って来るのであった。平成26年4月に大型複合施設「ジャンボエイトツー」を管理棟前に新設。その周囲には菜の花が植えられ開花を迎えていた。菜の花にズームして。再び水仙群を。ズームして。更に丸太で作った階段を上って行った。右手下にあったのが、大型複合施設「ジャンボエイトツー」。そして更に上って行くと、「吾妻山公園 ローラー滑り台」のスタート建屋が。そして「吾妻山山頂」に拡がる「芝生広場」に到着。 ・・・つづく・・・
2023.01.11
コメント(0)
私の住む地域の「どんど焼き」が昨日1月9日(月)8:00から近くの公園で行われました。今年も、コロナ禍の中、この行事を中止する自治会が多くあるとのテレビ報道でしたが、我が地域ではアルコール飲料少々、マスク完全着用にて、例年より行事規模を縮小して今年も執り行われました。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、■どんどん燃えるから■燃やし始めに青竹がはぜて「どんっ!!」と音がするからなど諸説あり、音の響きからついたようです。我が家の正月飾りも火の中へ。勢いよく燃え上がる炎。正月の我が地区の「恒例」いや『高齢』行事なのであった。知人からの「パクリ」ですが・・・・」。ご自宅の正月飾り、牛蒡注連等を火の中へ投げ込む方々。三々五々に「門松」、「しめ縄」を持って集まって来られる人の数も増えて。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の「お焚き上げ」や「どんど焼き」で焼くというもの。我が住む地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続してどんど焼き」が行われているのです。小正月になると、塞の神(サイノカミ)を祀り、旧年の災いを払い、これから一年の平穏と農作物の豊作を願う「どんど焼き」。正月飾りや書き初め、だるまやお守りを燃やした火で繭玉を焼いたり、酒がふるまわれたりしながら、無病息災を願う昔からの行事なのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に「どんど焼き」の日にちを移すようになったのです。妻が今年も「門松」、「しめ縄」等を一つに纏めておいてくれました。8時からの開催とのことで8時過ぎに公園に着くと、既に火は勢いよく。しかし、火力がまだ強すぎるので、近くに寄る人の姿は少なし。既に「しめ縄」や「正月飾り」が燃やされていました。そして今年も、妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。三つ叉の木は、趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。最近は、三叉のある枝を探すのに苦労しています。「どんど焼き」の火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。地元の国会議員の方?の姿も。炎も小さくなり、団子焼きのスタートです。煙たくないように、風上側から。この場所での、最高記録の団子の数ではないでしょうか?前日の新年会に来た長男も娘(我が孫)を連れて参加しました。火勢も落ち着いて団子を火の近くに。様々な大きさ、形の団子が。「どんど焼き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は非常に大切である事を今年も感じながらの「どんど焼き」だったのです。御神酒も少々いただきました。そして、自宅に戻り、今年の健康を祈願しながら焼いた団子を一家で食べたのでした。 ・・・END・・・
2023.01.10
コメント(0)
さらに「沼田市観光案内所」の展示物を観る。「延宝五年(1677年)間撰 眞田城町割図」。「沼田城跡出土資料」鯱の一部であると。「軒丸瓦(三巴文)本瓦葺きの天守や櫓等の屋根の軒先端に軒平瓦共に使用された。沼田城で使用されたのは大多数が三巴文で、その周囲には珠点が16個巡っている。左巴文が多い。」「軒平瓦(三葉唐草文)」本瓦葺きの天守や櫓等の屋根の軒先端に軒丸瓦共に使用された。沼田城で使用されているのは中央を三葉文とし、その両側に三葉唐草文を配置するものが多い。」赤の甲冑。「真田幸村」(信繁)をはじめとする「真田の赤備え」。緑の甲冑。「赤地に黒の六文銭の旗」は、あまりに有名な真田幸村の軍旗。「大阪夏の陣図屏風」に、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられた。六文銭(六道銭)は三途の川の渡し賃、つまり通行料とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるもの。 真田氏は家紋に六文銭を用いることで、戦争や日頃の駆け引きについて、死をもいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたと。「上杉憲正の没落と北条氏の進出天文21 (1552)年、小田原の北条氏康が初めて上野国(群馬県)に侵入してきた。上野・武蔵国境にある関東管領上杉憲政方の御嶽城(埼玉県神川町)は、2月に氏康の攻撃を受け全山を焼き払われ、数千人の兵が討ち死にしたという。そして3月、氏康は城主安保泰広・泰忠父子を降伏させさらに憲政の本城である平井城(藤岡市)に迫った。北条氏康方には、那波宗俊のほか、御嶽落城の動揺から北条方に寝返った箕輪長野氏・小幡氏・安中氏などが味方についた。また、上杉憲政方には足利長尾景長・横瀬成繋・佐野氏・桐生佐野氏・大胡あい平井城を退去せざるを得なかった。憲政は、横瀬氏や足利長尾氏を頼ったが、支援を拒まれた。その後、憲政は上野北部のみなかみ町付近に隠れ住み、長尾景虎を頼って越後に逃れていった。上野進出を果たした北条氏は、同年中に西上野の小幡氏・安中や東上野の那波氏・赤井氏・富岡氏などを従属させた。その後、北条氏は敵対した国衆に対して進出し、天文24 (1555)年に横瀬氏と桐生佐野氏が、弘治2 (1556)年には、足利長尾氏が従属したとみられる。さらに、永禄元年(1558)には箕輪長野氏・白井長尾氏なども北条氏に従属したという。また、翌2年8月頃には北条氏が沼田城を攻撃し、沼田氏が北条氏に従属した。このように北条氏は上野国の支配権を確立していったのである。」「上杉憲政像」。「沼田氏の内紛北条氏康の沼田城攻略は、沼田家中で起こった内紛が発端となったようである。沼田一族や家臣がニ派に分かれ骨肉の争いを繰りひろげた内紛は、次のような事件であった。天文元年(1532)、関東管領山内上杉氏の重臣であった沼田万鬼斎顕泰は、沼田城(倉内城)を築き、幕岩城から移った。沼田城主顕泰には、嫡子左衛門三郎(憲泰)、次男弥七郎(朝憲)、三男平八郎(景義)の三人の息子がいた。永禄初年頃、顕泰は、憲泰と対立してこれを廃嫡し、後に殺害した。対立の原因は、顕泰が上杉憲政方につき、一方憲泰が北条氏康方についたためという。その後、顕泰は朝憲に家督を讓り、景義を連れて川場に隠居した。ところが、朝憲は北条方についたため、顕泰は朝憲も殺害してしまった。しかし、朝憲の妻が、厩橋長野賢忠の息女であったことから、沼田城は北条方に与する厩橋長野氏の攻撃を受けた。この戦いに敗れた顕泰は、景義とともに越後に逃亡し、この内紛は終結したという。永禄2 (1559)年8月頃、北条氏康は沼田城に沼田孫次郎康元を城代として配置した。康元は北条氏一族の玉縄北条綱成の次男である。康元は、北条氏の沼田城攻略時の軍功により沼田氏の名跡継承を許され、城代として沼田入部を果たしたのであろう。」「北条氏康イラスト」。「沼田城攻略永禄3 (1560)の年8月29日、長尾景虎(上杉謙信)は、上杉憲政を擁して越後の春日山城から関東へ向けて出陣した。景虎は、9月上旬に越山して上野に侵入しているが、その経路は明らかでない。おそらく、春日山城から信濃川沿いに東に進み、三国峠を越えたと思われる。上野に入った景虎は、最初に宮野城(猿ヶ京城)に入城して、利根西(赤谷川流域の地方)を経て沼田城を目指した。沼田城に対する景虎の攻撃は、9月上旬から始まった。沼田城は、北条氏の上野支配の拠点であり、北条氏の有力御一家衆の北条綱成次男である沼田孫次郎康元が城主として守りを固めていた。景虎の攻撃により、孫次郎康元はじめ数百人が討ち取られたというが、康元は落城後も活動が見られるので、討ち死にではなく城に逃れたと思われる。激戦の末、沼田城は景虎に攻略された。ついで、景虎は大軍を率いて明間・岩下の諸城を攻め落城させ〇間は碓井群秋間の秋間城主斉藤氏であり、岩下は吾妻郡岩下城主斉藤氏で両斉藤は同族である。これらの攻撃により、景虎は利根・吾妻・碓井の三郡を支配した。その後、景虎は厩橋に向かい厩橋長野氏を降伏させ、さらに那波に向かい那波氏の赤石城や今村城を攻めた。那波氏は景虎〇に抵抗したが、12月に赤石城などが落とされ、嫡子を人〇して降伏した。」「上杉謙信イラスト」。「真田昌幸、要衝沼田城を攻略する小川城、猿が京城、名胡桃城などを調略した真田昌幸は、武田勝頼本隊の協力を得て上野と武蔵の国境を押さえた。その後、沼田城下を焼き払い沼田城を完全に包囲した。昌幸からこの報告を受けた勝頼は、天正8(1580)年8月、諸将に上野出陣を命じた。昌幸は沼田城の無血開城を実現するために、沼田城代の用土新左衛門尉への調略を行った。用土新左衛門尉は、武蔵国衆藤田泰邦の分家である用土業国の子であった。用土氏は、北条氏康の代に北条氏に帰属させられ、その上当主の座は氏康の氏邦に奪い取られた。さらに藤田氏の実務は富永助盛(後の猪俣邦憲)が執り行っていた。これらのことに用土新左衛門尉は不満を感じていた。こうした事情に注目した昌幸は、国峯城主木幡信貞を介して用土新左衛門尉の説得を行った。用土新左衛門尉はこの説得を受け入れ協力を約朿した。用土新左衛門尉は約束通り、武田軍の攻撃と同時に沼田城内で反乱を起こし北条方を降伏させた。この沼田開城は8月下旬頃であった。勝頼は、用土新左衛門尉に武田家の通字の「信」を与え信吉と名乗らせた。さらに藤田への改姓を許して、能登守の受〇を与えた。また、信吉は引き続いての沼田在城を希望し、勝頼はこれを許した。沼田城攻略後、昌幸は矢沢頼綱を沼田城に配置して守りを固めた。そして昌幸は岩櫃・沼田・白井の三城を統括し、勝頼を補佐する役目を命じられた。」「真田昌幸像」。「沼田平八郎事件沼田平八郎景義は、もと沼田城主の沼田万鬼斎顕泰の末子である。沼田氏の内紛によって父顕泰とともに追放され、会津の芦名氏を頼って逃れた。その後、上野に戻った景義は、新田金山城主由良氏の一族矢羽氏のを妻にして女淵誠主(前橋市粕川町女淵)天正9 (1581)年3月1日、景義は由良国繁の支援を受けて沼田城の奪還に向けて動き出した。3月4日に景義は2千余騎の兵を率いて南越生(昭和村)に着陣した。これを知った沼田衆の多くは景義のもとに参集し、兵は3千余騎にまで膨れあがった。景義は、軍勢を整えるため、いったん阿曾の城(昭和村)に入城した。3月11日、田北の原合戦において藤田信吉、海野長門守幸光ら800騎の沼田城勢は、景義軍に敗れて沼田城に退去した。この後、景義の叔父金子美濃守泰清は、中山右衛門ら300騎を従えて町田観音堂で景義に合流した。そして景義に金子美濃守が「沼田城を明け渡し、景義を主君とする」という偽の起請文を差し出し、降伏を申し入れた。景義は金子美濃守は叔父であることからこの起請文を信じてしまった。3月14日、金子美濃守から町田観音堂に呼ばれた景義は、ここで甲胄を脱ぎ、沼田城に向かった。金子美濃守の案内で水の手曲輪から城内にはいると、迎えとして山名弥惣が姿を見せた。いきなり山名は景義に斬りかかった。それを合図に金子美濃守も三回左脇を刺して景義を討ち取ったという。(『加沢記』)真田昌幸が沼田平八郎景義の首実検をした際に、首を置いたという「平八郎石」が沼田城跡に残っている。」「沼田平八郎像」。「織田信長への従属と本能寺の変天正10 (1582)年、織田信長は、織田信房を主将とする軍勢を上野に3月上旬に派遣した。これを知った国峯城主小幡信実、安中城主安中七郎三郎らの上野国衆は織田軍に降伏した。また、真田昌幸と北条氏との折衝を仲介していた長尾憲景も、北条氏から離反して織田氏に帰属する決断をした。こうした流れを見た昌幸は、織田氏に帰属する決断を下した。信長は、昌幸の帰属を受け人れ、滝川一益の与力とした。信長は旧武田領国の分割を行い、滝川一益には、上野国一国と信濃国全県・佐久郡を与え、東国取次を命じた。この時昌幸は、沼田城と石櫃城などを一益に明け渡した。ー益は厩橋城に入城し、沼田城には甥の滝川儀太夫益重を城代として置いた。昌幸は信長に黒栗毛の馬を贈り、臣下の礼を取った。信長は喜び、礼状を送っている。昌幸は、織田家臣として再出発することとなった。同年6月2日、京都本能寺で信長は明智光秀の謀反により横死した。信長の死を知った上野の国衆たちは不穏な動きを見せ始めた。沼田城に在城していた元沼田城代藤田信吉は滝川儀大夫〇に城の明け渡しを迫った。しかし沼田城は武田滅亡時、昌幸が維持し、信長に献上した城であり、昌幸に返すのが筋であり、〇〇に渡す謂われはないと拒んだ。そして滝川は城明け渡しの〇〇を始め、昌幸が沼田城を受け取った。昌幸は、沼田城に矢沢〇〇岩櫃城に嫡男信幸を配備して守備を強化した。ほどなくして、上野制圧を目指す北条氏直の大軍が上野に向って北上を開始した。ー益は、6月19日、神流川の合戦で北条氏に敗れ信濃に逃れた。」「織田信長による武田領分割」。「沼田領裁定天正10 (1582)年10月29日、徳川家康と北条氏政・氏立父子の和睦が成立して天正壬午の乱は終結した.この時の徳川・北条両氏の和睦条件の中に、「徳川氏は、北条氏の上野国領有を認め、真田昌幸が保有する沼田・吾妻領を引き渡す」という合意事項が含まれていた。これにより、昌幸は徳川・北条両氏より沼田領割譲を迫られたが拒否し、家康と手切れ(断交)を行い、上杉景勝に帰属した。そして昌幸は、徳川軍を上田合戦で破り、北条軍を沼田城の周辺の戦いで相次いで撃破した。その後、昌幸は豊臣秀吉に従属し、また家康も秀吉に従属すると、沼田領問題は棚上げされた。やがて、秀吉が北条氏に従属するよう交渉を始めると、北条氏政は上洛のための条件として、沼田領問題を解決を求めてきた。そこで秀吉は、天正17 (1589)年舂、真田・北条・徳川3氏の言い分を聞いて、載定を下した。裁定は、「上野沼田・吾妻領のうち沼田城を含む3分の2を北条氏のものとし、名胡挑城を含む3分の1を真田領として安墸する。割讓分の替え地は徳川家康が補慣する」という内容であった。北条氏も真田氏もそれぞれ不満であったが、同年6月やむを得ずこの裁定を受け入れ、7年に及ぶ沼田領問題は解決した。秀吉は、7月上使を派遣して沼田領割譲を行わせ、沼田城には北条氏邦の家臣猪俣邦憲が入った。一方昌幸は、旧沼田領の3分の1を統括する拠点の名胡桃城に、鈴木主水重則を配備した。」「沼田領分割図」。「武田氏滅亡天正10 (1582)年1月、武田一族の木曾義昌が、織田信長に内通して謀叛を起こした。これを契機に信長は武田勝頼への攻撃を命じ、武田領国へ侵攻を開始した。勝頼は2月、諏訪の上原城(長野県茅野市)に布陣して織田軍を迎え撃とうとした。ところが、伊那郡の武田方の諸城は、織田軍の前に、一戦も交えず開城となるが、城を捨て逃亡を図り、勝頼を支えることができなかった。また2月28日、駿河国江尻城で徳川軍を迎え撃つ穴山梅雪が謀叛を起こしたので、勝頼は甲斐の新府城(韮崎市)に撤退せざるを得なかった。この穴山の謀叛情報は、武田軍の動揺を招き逃亡者が続出し、十分な戦闘は不可能になった。そこで勝は3月2日、新府城に重臣を招集して軍議を開いた。この軍議では三者の意見が対立した。嫡男信勝は新府城に籠城して敵を迎え撃っべしと主張したが、小山田信茂は岩殿城に移動し、ここで決戦すべしと進言した。真田昌幸は、岩櫃城に勝頼一族を迎え、ここで決戦するべきであると主張した。軍議の結果、勝頼は測近の長坂釣閑斎光竪、跡部勝資らの進言を受け容れ、小山田信茂を頼って岩殴城に移ることになった。昌幸は勝頼と別れて上野岩櫃に向かった。この時、新府城に置かれていた昌幸の人質はすべて勝頼から返還された。3月3日、勝頼は新府城に火を放ち岩殿城を目指して出発した。勝頼はその日のうちに甲府を経て、柏尾山大善寺に着いた。翌4日、勝頼は笹子峠の麓駒飼に到着したが、信茂の裏切けにより峠は封鎖された。11日、滝川一益軍に追いつめられた勝頼は、天目山の麗の田野(甲州市)において自害し、武田氏は減亡した。」「武田勝頼イラスト」。多くのサインも展示されていた。2016年、2018年にTBS日曜劇場で放送され、いずれも高視聴率を記録、熱烈な支持を集めた「99.9-刑事専門弁護士-」が、ついに映画になってくる!と。落語家 笑福亭鶴瓶さんのサイン色紙も。歌舞伎俳優 二代目 尾上松也さんのサイン色紙。そして「沼田市観光案内所」の外に出て、「沼田城公園」入口の黄葉した銀杏の大木を見る。ズームして。そして、沼田城内の散策は、明日の早朝として、ホテルに向かったのであった。この日の宿「ホテル ベラヴィータ」にチェックインし、夕食に向かう。呑み食い処「磯の」。沼田市上之町180-3。魚介料理・海鮮料理の店。ビール・ハイボールを片手に。舞茸の天ぷらも。1.5時間ほどのこの日の反省会を。店内には「暴力団追放」が。「ホテル ベラヴィータ」の建物。2階部の壁の像をズームして。フロントロビーには既にサンタクロースの姿が。クリスマスツリーも。エレベーター前。部屋は5階に。エレベーター前の眼を描いた展示絵画。「モーリンの眼 アラン ウエスト」と。そしてツインの部屋に。ホテルの都合により、和室付きのファミリールームに案内して頂いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.09
コメント(0)
「宝徳寺」を後にして、「渡良瀬川」を渡り、県道68号線・「桐生伊勢崎線」で「伊勢崎市」方面に向かって進み「大原上西」交差点を左折。県道315号線に入り「太田藪塚」ICから「北関東自動車道(群馬栃木区間)」に入りこの日の宿泊ホテルのある「沼田市」に向かって進む。「北関東自動車道(群馬栃木区間)」から西の空の夕焼けを楽しみながら進む。利根川を渡り「高崎JCT」から「関越自動車道」へ入り高崎・新潟方面へ進む。正面に「二ツ岳」、「相馬山」の姿が。「二ツ岳」。標高1,343mの「二ツ岳」は榛名湖から伊香保温泉の途中にそびえる群馬県の山で、その名前の通り雄岳と雌岳の2つの山からなる。雄岳にはテレビ塔が立つ。榛名山群のひとつで、過去に噴火を繰り返した噴火跡が確認できる。「相馬山(そうまやま)」。標高1,411m。二重式火山である榛名山の側火山。榛名山上部の東端に位置する。榛名山中最高峰の掃部ヶ岳に次ぎ2番目に高い山。山頂には黒髪神社があり、石祠・石碑・石像が多数並ぶ。信仰の山。古い文献には黒髪山くろかみやま、躑躅ヶ峰つつじがみねとも記されている。榛名湖から相馬山山頂までの間は榛名県立公園。利根川に架かる関越自動車道「利根川橋」を渡る。左手奥、左の「小野子山」、右の「子持山」の鞍部の奥に見える白い山は「谷川連峰」。左の「小野子山」もズームして。ぐんま百名山の「小野子山」1,208m。 右の「子持山」もズームして。左手に「柳木ヶ峰」、「獅子岩」。さらにズームして。夕焼けを背景に山々が黒くなり山の端がはっきりと。長井坂トンネルを通過する。このトンネルの上にあるのが「長井坂城跡」。戦国時代の代表的な崖端城で、永禄年問( 1558年~ 1570年)の築城と考えられる。永禄3年、上杉謙信が関東出陣の際、この城で沼田顕泰を降した。天正10年、北條氏邦が大挙北上して、真田昌幸を沼田城に撤退させたあと、北条方の白井長尾氏が緊急補強の工事を実施した。その後、天正18年まで北條軍が沼田城攻略の拠点とした境目城で、遺構は北條氏が慣用した築城方式といわれている とネットから。。「武尊山(ほたかやま)」方向を見る。武尊山は、群馬県利根郡みなかみ町、川場村、片品村の境にある標高2,158mの成層火山である。北アルプスの穂高岳と区別するため、上州武尊山とも呼ばれる。日本百名山及び新・花の百名山に選定されている山である。右方向をズームして。「沼田 尾瀬」IC。「沼田」ICで「関越自動車道」を下りる。17時まで時間があるので、この日は「沼田城」のスタンプだけ頂きに「国道120号」を利用して「沼田城跡」に向かう。「倉内通り」に入ると右手には、歴史を感じさせる「なまこ壁のある蔵が建っていた。そして「商工会館前」交差点を右折して「沼田市観光案内所」に到着。時間は16:40。早速、「沼田市観光案内所」に入ると正面に「続日本百名城」のスタンプ置き場があった。「続日本百名城」のスタンプを頂きました。「沼田城跡」の御城印も頂きました。「真田氏関連年表」「沼田市観光案内所」内には様々な案内板や展示品が陳列されていた。真田時代の「沼田城」のジオラマ。廻り込んで。中央に「沼田城」の「天守閣」模型が。正面から。「真田氏初代沼田城城主 真田信幸により1597年(慶長2年) 天守完成」。近づいて。「真田城天守」の「入母屋屋根の構成」。「真田信幸(之)公の萌黄綿毛引威二枚胴具足」。沼田市の汚水用のカラーマンホール。市民から愛される桜の花を中心に置き、背景にある十字と市松模様で真田氏初代沼田城主の真田信之が行った用水整備と都市整備、城の石垣を表現した。城壁や春のイメージを色で表し、歴史のつまった城下町沼田を表現。また、デザインに対象性を持たせることで本来のマンホールに求められるスリップ防止機能も備えたデザインマンホールである と。「続日本百名城」の「沼田城」の「認定証」。「小松姫(こまつひめ)の画像(長野市 大英寺蔵)徳川家康の重臣・本田忠勝の娘18歳。真田家の難しい立場を気丈に支え、真田家の基盤の要として活躍。元和6年(1620年)江戸から草津へ療養に向かう途中、中山道鴻巣にて48歳で死去。沼田市・正覚寺他2カ所に墓がある。」真田信幸の画像(原昌義氏蔵)。真田昌幸の長男、天正18年(1590年) 2万7千石の沼田初代城主。夫人は本多忠勝の娘・小松姫。関ヶ原の戦では東軍に組み、西軍についた父・昌幸、弟・幸村と敵対。沼田城の本格的造営を行う。城下町造りなど城下町沼田の基盤を行うが元和2年(1616年)沼田を長男・信吉に与えて上田に移る。「小松姫(こまつひめ)の画像」。「真田信幸の画像」。「真田幸隆の画像(長野市 長国寺蔵)信濃の豪族、海野氏の出で、元祖は清和天皇の皇子貞元親王が東国に下って名のった海野氏である。真田郷に移り、真田姓を名乗った。天文13年(1544年)武田信玄に仕える。信玄の信濃進出の先兵として活躍。やがて上州・鳥居峠を越え転戦する。永禄6年(1503年)岩堰城を攻略。上州進出の拠点となる。天正2年(1574年)62歳で没す」「真田昌幸の武者画(信玄公宝物館蔵)昌幸は真田幸隆の3男として生まれる。人質として武田家へ預けられるが晴信の信任を得る。永禄10年(1567年)頃、甲斐の名門の武藤家へ養子入、武藤喜兵衛尉と称したが、三河長篠の合戦で兄の宣綱、昌輝が戦死、真田本家に戻る。その後上州進出、謀将として戦国乱世を生き続け、真田氏の家名を動きないものとした。関ヶ原の合戦で敗れ、高野山の九度山に蟄居となり慶長16年(1611年)64歳で没す。」「真田幸隆の画像」「真田昌幸の武者画」。「名胡桃城の事件天正17 (1589 )年11月3日、真田信幸は、信濃国伊那郡箕輪領で替地宛行作業を開始した。同日、北条氏邦の家臣で沼田城代猪俣邦憲が、真田の名胡挑城を奪取した。それは、謀略で城代鈴木主水重則を城外に誘い出した隙を咀ったという。これは豊臣秀吉の裁定に対する違反であった。「加沢記」によれば、邦憲は名胡桃城を奪うために、名胡挑城番衆の中山九兵衛を調略した。中山は、鈴木に真田昌幸の偽書状「今度伊那郡の城普請のため、城取について相談したいので、名胡挑城は中山九兵衛に預けすぐに来てほしい」を渡した。これを見た鈴木は、書状を信じ確認もせずに、岩櫃城に向かって出発した。そして、猪俣はこの隙に軍勢を派遣して城を乗っ取ったいう。騙されたことを知った鈴木は、急ぎ名胡挑城に引き返したが、城はすでに北条勢に占領され、近づくこともできなかった。そこで鈴木は思案して、30人ばかリの家臣をつれ沼田城に行き、降参したと見せかけ、猪俣と対面したら一太刀浴びせようと考えた。しかし、見破られてしまい、沼田城下の正覚寺で自刃した。42歳であっったという。鈴木の妻子は般若曲輪に押し込められていたが、家人高橋主計によって城外に逃れ、岩櫃城にたどり着いたという。昌幸は当時上洛中で、豊臣秀吉のもとにいて、京都でこの事件を知った。昌幸は、ただちに秀吉に北条氏の非道を訴えた。秀吉は裁定を軍事力で破った北条氏に激怒し、小田原征伐を決定した。」「名胡桃城跡(みなかみ町教育委員会)」。「小田原城征伐天正17 (1589 )年12月初旬、豊臣秀吉は配下の大名に小田原攻撃命令を出した。これに対して、上野国の北条方国衆の由良国繁・長尾顕長・和田信業・小幡兵衛尉・安中景繁らには、小田原城への入城が命じられた。また、北条氏邦が厩橋城・倉賀野城・箕輪城・沼田城を管轄し、松井田城には大道寺政繁・直繁父子、金山城には北条左衛門佐、白井城には長尾政景が入って防備を固めた。真田昌幸は、前田利家・上杉景勝・依田康国とともに「北国軍」に編成され、天正18年2月10日、出陣を命じられ、3月上旬に上田城を出陣した。北国軍は白岩城(長野県佐久市)を攻略し、3月中旬には、碓氷峠を突破して上野に入った。北国軍は3月下旬には松井田城を完全に包囲した。4月19日、松井田城への総攻撃が行われ、翌20日、政繁は降伏した。その後、北国軍は政繁を案内者として上野の諸城攻撃を続行した。北国軍は24日、箕輪城を調略により乗っ取り、城代垪和信濃守は追放された。さらに、4月末までに、惣社城・和田城・石倉城・厩橋城も開城させた。上野国で最後まで抵抗した館林城は、5月30日に開城し降伏した。その後、北国軍は5月13日に武蔵国の鉢形城攻撃を開始し、6月14日には城主北条氏邦が降伏した。その後、北国軍は北条氏照の八王子城を攻め、6月23日に攻略した。そして7月5日、北条氏直は降伏した。氏政・氏照は切腹、氏直は高野山へ追放になり、北条氏は滅亡した。」「小田原征伐進軍図(『歴史REAL闘将真田一族』より転載)」。「犬伏の別れ慶長5(1600)年、徳川家康は会津の上杉景勝が謀反を企てていると断定し、上洛を命じた。景勝が上洛を拒否したため、家康は会津征伐を決断し、6月16日に大阪を出陣した。家康は、7月2日に江戸城に入り、諸大名に会津征伐を命じ、21日に会津に向けて出陣した。この時真田昌幸・信幸・信繁父子は、家康からの出兵要請を受け、下野宇都宮を目指した。昌幸・信繁父子は上田から、信幸は沼田から出陣したという。昌幸・信幸・信繁父子は、家康と合流するため、宇都宮に向けて進軍し、下野の犬伏(栃木県佐野市)に着陣した。その夜、昌幸のもとに石田三成が派遣した使者が到着し、7月17日に付の「内府ちかひの条々」と三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)連署状が届けられた。この書状に驚いた昌幸は、信幸・信繁兄弟を呼び、人払いをして、密談を行った。その結果、昌幸と信幸は袂を分かち、昌幸・信繁は石田方に、信幸は徳川方に味方することになった。これが「犬伏の別れ」である。密談の内容は、信幸が徳川重臣本多忠勝の息女(小松姫)を、信繁が豊臣重臣大谷吉継の息女をそれぞれ娶っているので、両者は徳川方と石田方に分かれた。また、昌幸は家康に恨みを抱いていたので石田方につくこととして信繁がこれに賛同したなどといわれている。(『長国寺殿御寺績稿』)」昌幸・信繁父子は、中山道を避け、沼田を経て吾妻街道から鳥居峠を越えて上田城を目指した。」「真田父子犬伏密談図(上田市立博物館蔵)」。「真田昌幸は、信繁とともに犬伏の宿を出発して、夜中に上野国沼田に到着した。夜中の御帰陣は不審であった。父子は、城に入ろうとした。ところが留守を守っていた信幸の正室小松姫は、「この城は伊豆守信幸の居城で私が預かっている。御父子の間といっても、すぐに城内に入れることはできない」と言って、厳しく入城を拒否した。そして無理に城に入ろうどするならば、舅といえども一戦も辞さぬという構えを見せた。さすがの昌幸もこれには困って、ただ孫の顔を見たいのみだと伝えると、小松姫は子供を連れて城外に出て、昌幸に孫の顔を見せ、沼田を去らせたという。(『長国寺殿御事蹟稿』『大蓮院殿御事蹟稿』)昌幸・信父子は翌朝、須川村から中之条に向かい岩櫃城を経て、上田へ急いだ。ー説には、大笹付近で一揆が起こって、昌幸・信繁父子の通行が妨げられたが、吾妻の地侍の横谷左近が助けたと伝えられている。こうして、無事に上田に帰還することができた。一方、信幸は、父や弟と袂を分かつと、わすか4歳であった次男信政を人質として江戸に出した。江戸に到着した信政は重臣矢沢但馬守頼幸に抱かれて徳川家康に参じた。信幸の忠節に感動した家康は、信政に藤四郎吉光(粟田口吉光)の短刀を与えた。この短刀は、真田家では重代の家宝として伝えられ、現在では松代の真田宝物館に収蔵されている。」小松姫蔵(大英寺蔵)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.08
コメント(0)
さらに「宝徳寺」の紅葉真っ盛りの境内を散策、「地蔵のこみち」を歩く。ナムナムの地蔵。二人仲良く目を瞑って。指先には一円玉が。この場所から見渡せる山の名前の案内板。紅葉越しに再び「開運 アンブレラスカイ」ナムナム地蔵のトリオ。3人で合唱中。それともお経を読んでいるのであろうか?「門前の小僧 習わぬ経を読む」!?「紅葉の帳」もピークに向かって。「無縁塚」であっただろうか。頂部には「三界萬霊塔」が立っていた。これぞ「庭紅葉」。こちらの地蔵はネッカチーフ姿で、数珠を持ち。本堂の脇の小高い場所にある「地蔵のこみち」へ。「本堂」の「雙龍殿」の「床もみじ」の窓が見えた。湧き水?による小さな滝の姿も。寺の境内の錦秋。「薄紅葉」を背景に、石灯籠の中に。灯りに代わって、祈り地蔵が。花を抱く地蔵。帽子の上にはモミジ葉が。こちらにも。「名木紅葉」「紅葉」を見上げて。帽子も「紅葉衣(もみじころも)」で。「雑木紅葉」。「本堂」の屋根を見る。そして「本堂」の中には「床もみじ」を楽しむ多くの観光客の姿が見えた。「床もみじ」で見える紅葉の木々はこの奥に。境内の「紅葉狩り」を楽しみ、再び「ザル菊のこみち」を歩く。御朱印はここで。多くの「月替わり切り絵御朱印」。御朱印を頂きました。「宝徳寺のお地蔵さま境内にある地蔵の小道で多くのお地蔵さまが皆さんを優しくお迎えします」。「双龍」の「てぬぐい」も販売されていた。「宝徳寺」の紅葉をこれでもかと。売店では「焼き芋」を販売中。他にも売店が。「なると金時」¥150円と!? いや100gで¥150円と!!でも「焼き芋」の誘惑には勝てなく。「ペット供養塔」。「山門」に向かって進む。春のツツジも美しいのであろう。山門近くには見送り地蔵が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.07
コメント(0)
「床もみじ」を堪能した後は「宝徳寺 石庭」を観る。枯山水とは、水を一切使わすに山水の景色を表現する庭園様式のひとつで、主に石や砂のみで山水を表現しているのだ。美しさや静けさ、穏やかさから、そこにいるだけで心が癒されるような気持ちになる枯山水。日本庭園を造るには広い土地と池や泉など水が使える場所が必要だったため、財力をもつ権力者でないと作れなかったが、室町時代(1336年~ 1573年)の応仁の乱(1467年~ 1477年)によって権力者も経済的に苦しくなったため、狭い土地でも作れ、水を必要としない枯山水が広まったと考えられている。その後、枯山水は褝宗の寺院の庭を中心に発展を遂げた。禅宗では座神や瞑想なと心を落ち着けて一切の邪念を払って無になることが重要な修行とされているのだ。三尊石(さんそんせき)であろうか。「三尊」とは、三人の仏のことで、三人の仏に見立てて主に3つの石を置き、庭の守護とします。3つの石は大きな石をメインに、その脇に小さめの石を添える石組で、大きな石を弥勒言薩(みろくぼさつ)、左右の小さめの石を文殊菩薩(もんしゅぼさつ)と普賢菩薩(ふげんぼさつ)に見立てます。他にも、大きな石を阿弥陀如来(あみだにょらい)、左右の小さめの石を観音菩薩(かんのんぼさつ)と勢至菩薩(せいしぼさつ)に見立てたり、複数の組み合わせがあるのだ と。「枯山水について「枯山水庭園」は省略できるもの全てを省略し水を使わずに、石と砂だけで、自然の美を表現した庭園です。その作意は、禅定三味による禅の教理であり、観る側がどのように、解釈するかは個人の自由です。禅宗ては方丈(本堂)は仏の世界ではなく、自己を見つめる修行道場であると考えます。したがって、華美な荘厳は致しません。しかし自然そのものが仏の世界であり山川草木花鳥風月全てがそのまま清浄なる仏の姿であり、ご説法であると考えます。この前庭は朝には太陽、夜は月さえも庭園の一部に取り入れてしまい、宇宙の森羅万象を写して観ることができます。心静かに仏の姿を看、仏の聲をお聴き下さい。」いつの間にか溢れ出るような観光客がスマホカメラで「床もみじ」を追う。わたしも再び。そして、「床もみじ」を堪能して出口へ向かう。出口手前には、禅宗特有の小さ目な鐘・「殿鐘」があった。よく除夜の鐘に使用される大きい鐘を大鐘(だいしょう)、本堂付近にある大鐘より少し小さめの鐘を殿鐘(でんしょう)と呼ぶと。再び枯山水の庭を。岩や石の配置は、との場所からもバランスよく見えるよう計算されていたり、特定の場所からしかすべての岩や石が見えなかったり、縁側や窓から見るのが一番美しい配置になっていたり、計算されて配置されています。枯山水がとくに有名なのは、世界文化遺産でもある京都の龍安寺である。「龍安寺の石庭」と呼ばれている。「火灯窓」越しに「宝徳寺石庭」を観る。上枠を火炎形または、花形に造った特殊な窓である。ほかに、華頭窓、架灯窓、瓦灯窓などとも表記する。また、石山寺の「源氏の間」に見られることより通称「源氏窓」ともいう。さらに!!本堂の扁額「寶徳寺」。「禅の庭碧層々の庭(へきそうそうのにわ)石庭は水を使わずに、石と砂などで自然を表現した庭園をいいます。この庭は山々を借景とした、不老長寿と吉祥を願う鶴亀蓬莱の庭になっています。神の山である蓬莱山を模した築山や長寿のシンボルである鶴や亀を表した石組み等が配されています。心静かに鑑賞ください。」禅の言葉に「遠山不限碧層々(遠山無限碧層々)(えんざんむげんへきそうそう(えんざんかぎりなきへきそうそう)」があると。「山また山、山の彼方にまた山が連なって、限りなく緑の山が続いておる。そういう風景に無心に対して、天地と我と一枚になった、天地と我と溶け合った心境である。」そしてモミジの紅葉が真っ盛りの境内の散策に。正面に「鐘楼」。今年で8年目、昼間に撞く除日の鐘入山無料、令和4年12月31日(土) 10 : 00 ~ 16 : 00除夜の鐘ではなく「除日の鐘(じよじつのかね)」と。そして境内の「地蔵の道」を巡ったのであった。多くの、そして様々なお顔の地蔵に出会い見ているだけで癒されたのであった。「なで地蔵さん」は、本当にな撫でたくなったのであった。迎えてくれた地蔵に沿って紅葉を楽しみながら歩く。「よろこび地蔵」。親子仲良く。人の数は比較的少なく。「しあわせ地蔵」。二人仲良く。居眠り?地蔵。紅葉真っ盛りの和風庭園。地蔵様の帽子は寄進されたものなのであろうか。笑っているのであった。悩みながらも、ひたすら祈って。茶色の石灯籠。近づいて。さらに「地蔵のこみち」を進む。思いに耽りながらの祈り。井戸もあった。砂利の敷かれた「地蔵のこみち」。「なで地蔵」。わたしも頭をそっと撫でて。「本堂」の西側の石庭。幼顔の地蔵さん。西側から「本堂」を見る。泣き地蔵。地蔵様が次々と。ここにも「仲良し地蔵」が。そして紅葉と紅傘のコラボ。境内の上空に、カラフルな傘約100本がぶら下がっていた。紅葉に負けじ!の色合いで。傘を開いて雨をよけることから「開運」「厄よけ」の意味を込めたという。今夏に初めて飾り、紅葉のこの時季まで続けているとのこと。11月からは土日祝日を中心に、紅葉のライトアップを行っているのであった。「開運 アンブレラスカイアンブレラ(傘)が厄を除け開運をもたらします。丸く敷かれた石の上を歩いてみましょう」と。訪れた参拝客は、紅葉真っ盛りの木々の間に浮かぶ傘を眺めたり、撮影したりして楽しんで いるのであった。更に奥に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.06
コメント(0)
「桐生川ダム」を後にして「県道66号線」をひたすら「桐生市」に向かって進む。途中桐生市の市街に入ると「大町ニ丁目」交差点手前の右側にあった「坂口安吾 千日往還の碑」を車窓から。「堕落論」「白痴」で戦後文学の旗手となった坂口安吾は、1952年2月うるう日、旧友南川潤の世話でここ桐生の名門、書上文左衛門(かきあげぶんざえもん)邸に居を構えた。「夜長姫と耳男」を生み、人の子の親となり「新日本風土記」を執筆の最中、取材旅行から戻った直後にここで急逝。1955年2月17日早朝、48歳4ヶ月だった。通夜には小林秀雄、尾崎士郎、石川淳、檀一雄らも駆けつけた。地元有志は桐生でのこの3年間を比叡山の千日回峰行になぞらえ、「千日往還の碑」を建てたのだと。「本町五丁目」に向かって進む。「本町五丁目」交差点を右折し「県道3号線」で桐生駅前方向に進む。左手にJR両毛線」の「桐生駅」が垣間見えた。渡良瀬川に架かる「赤岩橋」の手前を右折し県道342号線に入る。次の目的地の「宝徳寺」の案内表示が現れた。そして「宝徳寺」手前の、閉校した「川内北小学校」の横にあった臨時駐車場に車を駐め散策開始する。旧「川内北小学校」校庭内の樹も黄葉の真っ盛りであった。ズームして。県道338号線・駒形大間々線を「宝徳寺」入口に向かって北方向へ歩く。左手にあったのが「庚申塔」群。「ベニシダレ」というモミジの紅葉であっただろうか。妻が欲しがっていたモミジ。そして「宝徳寺入口」の角にあった石碑には「桐生半僧坊大権現」碑。側面には、半僧坊様のご利益を戴く祈願の言葉・半僧坊御真言「唵喃那底哩底哩娑嚩呵(おんなんのちりちりそわか)」半僧坊大権現は、静岡県臨済宗大本山方広寺の鎮守の神様です。大本山建長寺(鎌倉)や大本山向嶽寺(山梨)、金閣寺(京都)、真如寺(京都)、平林寺(埼玉)、宗鏡寺(兵庫)などの日本各地の大寺院にお身分けされ、厄除けや家内安全を始め、諸願成就の権現様として多くの人々の信仰を集めています。ここ 宝徳寺では平成20年2月に大本山方広寺よりお見分けしていただき半僧坊の像を京都大仏師村田岱觀師に制作して頂きました。同年10月には大本山建長寺において宗務総長導師のもと開眼法要を営みました。毎年1月3日に半僧坊大祭を行い「幸福を招く大根焚き」と厄除け祈願法要を併せて行っています と。そして反対側の側面には「降伏一切大摩最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」この言葉は「すべての悪をとり祓い、人々の願いを成就させてください」と。その先の参道の左側にも「庚申塔」碑が並んでいた。山茶花の花であっただろうか。そして大菊の厚物作りが並ぶ。正面に「宝徳寺」境内への入口が見えて来た。寺号標石「大光山寶徳寺」。「臨済宗宝徳寺」の掲示板には「生きているだけで素晴らしい」と。ザル菊が参道の石段の両脇に並んでいた。近寄って。反対側にも。近寄って。今年もザル菊をよく見ました!!その先にも見事なザル菊が両脇に。檀家からの寄進のザル菊なのであろうか?「六地蔵」が迎えてくださいました。。「床に映る別世界 reflection 床もみじ」と。四季折々の「床もみじ」の写真が展示されていた。参道のいたるところにザル菊が所狭しと。モミジ葉も紅葉のピークに。「枯山水庭園 碧層〃之庭」への入口であったが、「床もみじ」鑑賞の出口でもあったので火灯窓からの写真は後ほどにしたのであった。入口には扁額「龍鳴」が。その左手にあったのが「原爆の火」。「原爆の残り火「平和の火」この火は、一九四五年広島に投下された原爆の残り火です。福岡県八女市星野村(現八女市)の山本達雄さんが、原爆投下後の広島から故郷に持ち帰り「恨みの火」「復讐の火」として火鉢やこたつにひそかに保存していました。「報復では永久に平和は来ない」と考えを改め、二十三年後の一九六八年星野村役場に提供し、以来同村は「平和の火」として保存しています。一九八八年ニューヨークで開催された第三回国連軍縮特別総会にも運ばれ平和のシンボルとして灯されました。戦後七十周年を迎えるにあたり、戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝えて行く為にニ〇一五年八月六日(広島原爆忌)に八女市より分火してもらいました。 ニ〇一五年八月十五日」外にも「枯山水庭園」が。見事な紅葉と枯山水庭園とのコラボ。波紋も美しく描かれていた。「床もみじ」鑑賞の入口から、先程の「枯山水庭園」入口を見る。「床もみじ」鑑賞の入口。扁額は「透関」と。「四季を感じる禅寺 臨済宗宝徳寺」ポスター。玄関奥には禅の始祖である達磨大使のイラストが。こちらはなんと住職の手描きとのこと。この額縁の書には「無量義」と師匠から。「韋駄尊天(いだそんてん)」像。ズームして。ヒンドゥー教の軍神・スカンダが前身といわれ、破壊神・シヴァの次男で歓喜天の弟とされています。仏教に取り入れられてからは四天王・増長天に従う八大将軍の1人として、仏法と寺院を護る守護神として信仰されるようになりました鬼が釈迦の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を盗んで須弥山に逃げた際、一瞬で1280万キロを駆け抜け取り戻したとされています。そのため足の速い人を「韋駄天」、早い走り方を「韋駄天走り」と呼ばれるようになりました と。「客間」であっただろうか。この部屋には加山雄三氏他のサイン色紙も置かれていた。至るところに枯山水の庭が。「床もみじ」の写真が。毎年11月中旬頃、境内にある100本以上のもみじが紅葉し見頃をむかえる。関東百名山でもある鳴神山の紅葉も宝徳寺境内より見ることができる。周辺の山々とともに、赤色や黄色に彩られた「紅葉浄土」の世界を楽しめるのだ。全国的に数少ない「床もみじ」(紅葉リフレクション)を特別公開(期間限定)しているのであった。紅葉・新緑など季節の自然美が床に映り込む幻想的な「床もみじ」を観に多くの観光客が訪れているのであった。「正面」の写真に近づいて。「斜め」の写真に近づいて。「横」の写真に近づいて。襖絵は双龍、扁額は「雙龍殿」。この写真はネットから。床もみじの特別公開が行われるのは、宝徳寺の本堂。本堂の造りは禅宗方丈様式。これは、室町時代に京都の臨済宗などで盛んに取り入れられた様式で、関東ではなかなか見ることができないにだと。両脇に描かれた迫力ある襖絵「双龍」や、正面に広がる美しい「枯山水庭園」。二つの部屋にそれぞれ龍が描かれているので「雙龍殿」。向かって左奥の部屋の龍。これからは私の写真。本堂の漆塗りの床に反射する紅葉した木々を観賞できる空間。本堂の板の間は28畳。通常は畳の間だが、この期間中には畳を上げて磨いた板を見えるようにしているのだ。関東で床もみじを楽しめるのはこの寺だけと。仏像を見る。右側から「宗祖 臨済義元禅師(りんざいぎげんぜんじ)」。お顔をズームして。右から脇侍 大聖文殊菩薩中央 釈迦牟尼如来像脇侍 大行普賢菩薩 大聖文殊菩薩のお顔をズームして。釈迦牟尼如来像のお顔をズームして。大行普賢菩薩のお顔をズームして。「開山 佛印大光禅師」。お顔をズームして。「???」。「当山鎮守 半僧坊大権現」。「半僧坊大権現」のお顔をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.05
コメント(0)
「樺崎八幡宮」、「樺崎寺」を後にして、次の目的地の「桐生川ダム」に向かって「県道208号線」を進む。北関東自動車道の足利ICの下を通過する。「須花トンネル」を通過し足利市から佐野市に入る。「彦間川」に沿って山を上って行った。車窓から紅葉を楽しむ。「佐野市 飛駒支所」の手前を左折して県道66号線・桐生田沼線に入り進む。道幅が狭くなった林道を進んで行った。旅友の巧みな運転の中、「皆沢川」沿いの紅葉を楽しみながら進む。そして「桐生川」に架かる「梅田大橋」を左手に見る。「梅田大橋」の全景を見ようと「梅田大橋」を渡らず直進する。左手に石碑があったので車を止める。左側の石碑には「県境変更桐生市合併記念碑」と。右手の石碑には「この合併記念碑は水没のため旧入飛駒小学校から移設する。昭和五十八年七月 桐生市長 小山利雄」と。その先にあった碑には「花には水を人には愛を一九八ニ年三月二十日 結成二十周年記念植樹 桐生ライオンズ倶楽部」と。そして「梅田湖 第二駐車場」に到着し「梅田大橋」を見る。その先には目的地の「桐生川ダム」の姿も見えた。手前のダム湖は「梅田湖」と。そして引き返し「梅田大橋」を渡る。「梅田大橋」を渡り左折して「県道66号線」の「梅田隧道」に入る。案内に従い「梅田隧道」を出た直後を左折。そして「桐生川ダム駐車場」に車を駐め散策開始。群馬県桐生市梅田町4丁目。時間は13:30過ぎ。前方に「桐生川ダム」の巨大な勇姿が。駐車場横の黄葉。「桐生川ダムこのダムは、桐生川総合開発計画の一環として、利根川水系渡良瀬川支川桐生川の、ここ群馬県桐生市梅田町四丁目地先に建設された多目的ダムである。本事業は、群馬県において、昭和43年度より予備調査が行なわれ、昭和47年度から実施計画調査に入り、昭和49年度より建設事業に着手、昭和57年度に竣工したものである。事業の目的:洪水調節、かんがい用水、水道用水、発電、 ダムの規模型式 重力式コンクリートダム 総貯水量 12,200,000m3堤頂長 264.0m 有効貯水量 11,300,000m3堤高 60.5m 集水面積 42km2堤頂標高 海抜262.0m 湛水面積 0.62km2堤体積 293,000m2 常時満水位 海抜 253.7m 竣工昭和58年3月 群馬県 施工 鹿島建設・大成建設・佐田建設 桐生川ダム建設共同企業体」「桐生川ダム管理事務所」。「桐生川ダム管理事務所」のフェンスには「桐生川ダム」の写真が展示されていた。更に進み「ダム天端」の見える場所に。チェーンが張られ、一般車の通行は禁止されていた。左手奥の緑地には子供たちへの案内板「桐生川ダムの概要桐生川ダムについて桐生川ダムは、桐生川の水を適切な量に調節して下流に流したり、飲み水の確保や発電などの多くの目的のために造られた<多目的ダム>です。また、ダムに貯めた水の重さや、地震のようなダムにかかる大きな力に対し、ダム自身の重さで抵抗して安定するように設計された<重力式コンクリートダム>でもあります。洪水調節大雨や台風の時、川の水があふれて洪水が起こることがあります。ダムは流れる水の量を上手に調節して、下流の水の量が多くなり過ぎないようにして、下流に住む人々の生活を洪水の被害から守っています。安定した水の補給ダムの下流では農業や養魚に川の水を使用しますが、雨の量が少ない時は川の水の量も少なくなってしまいます。ダムは、雨の多い時に水を貯めておき、雨の少ない時にその水を流し、下流の水の量が少な過きないように安定した水の補給をして、農業や養魚の手助けをしています。桐生川について桐生川は、その源を群馬・栃木両県の県境に位置する根本山(標高1,199m)に発し、両県境に沿って西南に流れ、桐生市天神町付近から東南に流れを変えながら広沢町で渡良瀬川に合流する延長約39.6km、面積約109.6km2の河川です。上水道用水の補給桐生川周辺では、人工増加や生活水準水の向上に伴って上水道用水が足りなくなってきています。ダムは、貯めた水を供給して上水道用水を補う役割を果たしています。発電このダムは、下に流れ落ちようとする水の力を利用して電気を作る「水力発電」を行っています。ダムはこの水力発電で、周辺の地域に電気を供給しています。なお、水力発電は、火力や原子力などのような燃料を燃やして行う発電に比べて、クリーンな自然にやさしい発電とされています。」。こちらには大人用の「桐生川ダムの概要ダムの概要桐生川は、その水源を群馬・栃木両県の県境にある根本山(標高1199m )に発し、両県境に沿って西南に流れ、桐生市天神町付近から東南に流れを変え、広沢町で渡良瀬川に合流する延長約39.6km(内直轄区間9.6km )、流域面積109.6km2の河川です。桐生川沿岸の桐生市は過去において、昭和22年9月のカスリーン台風をはじめとし、昭和23年9月のアイオン台風、昭和24年8月のキティー台風と連続災害に見舞われ、近くでは昭和49年の災害等大きな被害を蒙りました。桐生川ダムはこのような水害による被害の防止と将来の水需要に対処するため、群馬県桐生市梅田町内に建設した重力式コンクリートダムです。ダムの効用洪水調節桐生川ダム地点において、毎秒560m3の計画洪水量のうち、毎秒410m3をダムに貯留し、残りの毎秒150m3を下流へ放流します。このような洪水調節を実施することにより、下流2市で約600haの地域の洪水被害を防止できます。流水の正常な機能の維持桐生川ダム下流の桐生市沿岸の既得用水及び、桐生川の河川維持用水の補給を行います。上水道用水桐生市の上水道水源は、そのほとんどを渡良瀬川、及び桐生川に依存して来ましたが、生活水準の向上に伴う水需要の増大により供給能力が限界に達し、用水が不足してきました。このため桐生川ダムより新たに1日最大34,500m3を供給します。発電群馬県企業局は、桐生川ダム建設にともない、ダムエネルギーの有効利用をはかるため、ダムより最大毎秒1.8m3を取水し、最大有効差39.0mを利用して、ダム直下流の桐生発電所で最大出カ470KⅣ、年間発生電力量1,784MWHの従属発電を行います。設備の概要ダム河川名 利根川水系桐生川位置 群馬県桐生市梅田町4丁目型式 重力式コンクリートダム堤高 60.5m堤頂長 264.0m堤体積 293,000m3堤頂標高 EL 262.0m貯水池集水面積 42.0km2堪水面積 0.62km2総貯水容量 12,200,000m3有効貯水容量 11,300,000m3常時満水位 EL 253.7mサーチャージ水位 EL 258.7m設計洪水位 EL 260.5m堆砂量 900,000m3」「桐生川ダム」の正面図、断面図。「桐生川ダム」の「天端」・「堤頂」を歩く。「梅田湖」の水面は穏やかであった。山の姿が映り込んで。水面には「防塵(ぼうじん)スクリーン」、「網場(あば)」が2本。「網場」をズームして。その先には、先程渡った、人造湖・「梅田湖」に架かるPCラーメン箱桁橋、長さ100mの「梅田大橋」の姿が。「網場ダム湖の水面に、オレンジ色の浮きのようなものがあります。これはダム湖に流れ込んできた木などが、ダムの放流施設に入り込まないようにしているものです。木などがダムの放流施設に入り込むと、それを壊してしまう恐れがあるからです。防麈スクリーン、あるいは網場と呼ばれていて、水に浮くようになっています。」そして「桐生川ダム」の下流側を覗き込む。堤高は60.5mと。四角い白い壁の建物が「発電所」である。「発電所ここから下に見える建物は発電所です。発電所では、ダムから流れ出す水のカで水車を回して電気を起こします。これは、水力発電と呼ばれ古くから水の豊富な日本で行われ方法です。」「減勢工(げんせいこう)ダムから水が一度に流れ出たとき、水の勢いで河床(川底)が削られてしまいます。河床が削られると、下流に土砂が流れるだけでなく、ダム本体も傾く危険があります。そこで、ダムから流れ出た水の勢いを弱め河床が削られないようにします。その働きをするのが減勢工と呼はれるものです。」減勢の形式減勢工の形態は様々で、一般に、代表的な減勢方式として跳水式があげられます。●跳水式 最も一般的な形式で、導流部に連続して設けられた減勢池の水叩き上で跳水(注)を発生させ、 エネルギ-を減勢する方式です。 減勢池の水位を上げるために下流端に副ダムを設けることが多く、洪水吐の減勢方式として 最もよくみられる形式です。 注)跳水 急斜面からの流速の速い流れ(射流)が障害物や抵抗によって流速の遅い流れ(常流)に なるとき、その境界面で渦を伴って水深の増加する現象。再び人造湖・「梅田湖」を見る。「表面取水設備」を恐る恐る覗き込んで。「表面取水設備ダムの目的の一つに「いつも河川に一定の水を流す」ということがあります。それは、水道水の確保や、農業用水の確保などが必要だからです。雨の多いときに水を溜めておき、雨が少ないときに水を流します。そのおかげで、川にはいつも水が流れているのです。貯水池は深さが数十mもあるため、水面に近い水は日光であたためられ底の方に冷たい水がたまります。農作物や、川の生き物の生育のためには、水面に近いあたたかい部分の水を流す必要があります。この設備は、水面が上下しても、いつも表面の水を流せるようになっています。この上にゲートを吊り上げる設備があります.」ダムの下流の右岸に建つのは特別養護老人ホーム「梅の郷」。「桐生川ダム」も見納め。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.04
コメント(0)
正月の風物詩となっている大学対抗の「箱根駅伝」。「第99回東京箱根間往復大学駅伝」は2023年1月2日・3日に開催されたのだ。繋がれていくタスキ、長く熱い戦いが繰り広げられる箱根駅伝を見ないと新年が始まらないといっても過言ではないのだが・・・。そして今日も復路の応援にバスで向かう。降車駅「遊行寺前」の近くにあった「読売新聞藤沢中央サービスセンター」の入口のガラスに貼ってあった今年の箱根駅伝のポスターが2枚。こちらにも。「未来へ続く一歩を踏み出せ」と。バスを降り進むと、ここにも「箱根駅伝のため戸塚茅ヶ崎線は一時通行止めになります」と。県道30号の全区間が箱根駅伝のコースになっているのだ。(往路3区、復路8区)藤沢バイパス出口交差点 - 藤沢橋交差点間は、旧東海道である。藤沢宿が遊行寺・藤沢橋付近にあった。なお、旧東海道は藤沢橋の北側で西に曲がり、遊行寺門前で南へ折れ、遊行寺橋(江戸時代の名称は大鋸(だいぎり)橋)を渡って国道467号、神奈川県道43号藤沢厚木線方面に進む鍵の手が設けられていた。藤沢橋が架橋されるのは関東大震災以降である。復路(6区~10区)のコース。6区~7区の高低差。6区:5区の「山上り」に対して、「山下り」と呼ばれる。 下りは平均すると100mを17秒前半、時には16秒前半までスピードアップすることもあり、 ペースが速い分、テクニックが必要になる。 また下りでは腿に平地の何倍もの負担がかかり、下りきってからの3キロで脚が止まる選手も 少なくない。7区:10区間の中で一番気温差が激しい。 スタートする9時前後は、“山”から来る冷気もあってかなり冷え込むが、太陽が高くなるに つれて気温も上がる。 コース自体は比較的平坦なのだが、それだけにペース配分が難しくもある。 近年、この7区で復路の仕切り直しを狙い力のある選手を起用するチームが増えてい る。8区~9区の高低差8区:レースもいよいよ終盤。優勝&シード権争いも次第に熱をおびてくる区間。 スタートから平坦なコースが続くが、浜須賀交差点で海岸線に別れを告げ、残り9キロあたり から徐々に上り坂に入る。 特にラスト5キロに待ち受ける遊行寺の坂が最大の難所。また後頭部への陽射しがスタミナを 奪い、後半の失速へと繋 がる。意外にもタフで侮れないコース。9区:準エース級の「復路の要」が配される。襷を受けすぐに急な下り坂に入るため、 勢いよく飛び出す選手も多いが、起伏の多い長丁場、冷静なペース配分が要求される。 優勝&シード権争いにとっても重要な区間。近年、多くのドラマがこの9区で生まれている。10区:平坦なコース。 泣いても笑っても、明暗が分かれる最終区間。追われるランナーには重圧が圧し掛かり、 追うランナーには焦りが襲い、ペースを狂わせる。気温の上昇、ビル風…、 ブレーキの要因となるポイントが多く、波乱を巻き起こす。 各校、勝負強い選手を配し、逃げ切り、または逆転を狙う。そして今日は、例年の遊行寺坂の途中の固定カメラの前は、人気の応援スポットであり大混雑、過密が予想されるため、これを避けて、「藤沢橋」交差点直後の「藤沢橋」の中央付近の場所に陣取る。ここは復路8区、平塚中継点から15.4km地点。この場所から100m程で、遊行寺急坂の難所が始まるのである。「藤沢橋」から選手が下って来る、平塚方面を見る。「藤沢橋」交差点。「藤澤橋」橋柱。三輪の白バイであっただろうか。競技者係バス①。「大会会長車」。「技術総務車」。「広報車1」。「規」:交通規制開始を指示するパトカー。「広報車2」。あと、7分ほどで選手が通過すると。反対側の歩道にも見物客が所狭しと。坂の上に「テレビ中継車」が姿を現した。「藤沢橋」を通過する「テレビ中継車」。時間は10:47。1位 駒澤大学 赤星 雄斗 選手 区間記録1:04:37 区間順位4位。 駒澤大学 伴走車。大会本部車。報道車。テレビバイク1。ニ位 中央大学 中澤 雄大 選手。1位と38秒差 区間記録1:04:58 区間順位7位。中央大学 伴走車。報道車。上空にヘリコプター。坂の上に「ラジオ放送車」。「ラジオ放送車」。3位 國學院大学 高山 豪起 選手 1位と6分22秒差 区間記録1:05:32 区間順位13位國學院大学 伴走車。4位 早稲田大学 伊福 陽太 選手 1位と6分28秒差 区間記録1:05:20 区間順位10位。早稲田大学 伴走車。5位 創価大学 桑田 大輔 選手 1位と6分32秒差 区間記録1:05:07 区間順位9位。創価大学 伴走車。6位 順天堂大学 平 駿介 選手 1位と6分50秒差 区間記録1:04:17 区間順位3位。順天堂大学 伴走車。「テレビ中継車」。7位 法政大学 宗像 直輝 選手 1位と6分56秒差 区間記録1:04:16 区間順位1位。法政大学 伴走車。8位 青山学院大学 田中 悠登 選手 1位と7分12秒差 区間記録1:04:50 区間順位5位。青山学院大学 伴走車。緊急対応車①。坂の上に2人の選手の姿が。テレビバイク車。9位 明治大学 加藤 大誠 選手 1位と9分6秒差 区間記録1:05:06 区間順位8位。10位 城西大学 櫻井 優我 選手 1位と9分7秒差 区間記録1:05:35 区間順位14位。明治大学 伴走車。城西大学 伴走車。11位 東京国際大学 宗像 聖 選手 1位と10分4秒差 区間記録1:06:32 区間順位19位。 東京国際大学 伴走車。12位 東洋大学 木本 大地 選手 1位と10分28秒 区間記録1:04:16 区間順位1位東洋大学 伴走車。緊急対応車②。二人の激しい競り合いが。13位 山梨学院大学 伊東 大暉 選手 1位と13分4秒 区間記録1:05:24 区間順位11位。14位 日本体育大学 廣澤 優斗 選手 1位と13分4秒 区間記録1:05:28 区間順位12位。山梨学院大学 伴走車。日本体育大学 伴走車。15位 東海大学 神園 竜馬 選手 1位と13分10秒差 区間記録1:07:00 区間順位20位。東海大学 伴走車。16位 帝京大学 山中 博生 選手 1位と13分18秒差 区間記録1:04:52 区間順位6位。帝京大学 伴走車。17位 大東文化大学 木山 凌 選手 1位と13分40秒差 区間記録1:06:19 区間順位18位。大東文化大学 伴走車。18位 立教大学 山本 羅生 選手 1位と13分54秒差 区間記録1:05:50 区間順位15位。立教大学 伴走車。そして次の選手が坂の上に。19位 専修大学 野下 稜平 選手 1位と15分28秒差 区間記録1:06:17 区間順位17位。専修大学 伴走車。懸命に藤澤橋への坂を下る選手。20位 国士館大学 鈴木 伸弥 選手 1位と17分48秒差 区間記録1:06:07 区間順位16位。国士舘大学 伴走車。OP位 関東学生連合 佐藤 碧 選手 1位と19分16秒 区間記録1:08:18 区間順位OP位。関東学生連合 伴走車。そして総ての選手が通過し「医務車」。緊急対応車③。警備車。交通規制解除「C」のパトカー。最終車両の白バイ。そして再び「藤澤橋」の橋柱を。帰宅してテレビでゴールまでを観戦。往路を制した駒沢大がトップを譲らず、2年ぶり8回目の総合優勝を果たした。駒沢大は、去年の出雲全日本大学選抜駅伝と全日本大学駅伝も制していて、これで史上5校目の大学駅伝三冠を達成した。さらに2日の往路に続き、復路も優勝し完全優勝。胴上げされた駒沢大学・大八木監督。連覇を狙った青山学院大学は復路の遅れで3位。総合順位は以下の通り。我が母校は総合6位と健闘し、シード権を確保した。復路順位。青山学院大学は復路9位。復路での総合順位の推移。総合順位の推移。各区の区間賞。駒沢大学は、6区のみの区間賞で完全優勝したのであった。選手層の厚さが優勝をもたらしたのであった。そして、箱根駅伝は次回大会(2024年1月2、3日)で100回目を迎える。記念大会として全国に門戸を開放するとのこと。10月の予選会には全国の大学から参加が可能。従来の「関東学生陸上競技連合男子登録者」から「日本学生陸上競技連合男子登録者」へと門戸を開放。変更点はこの一点のみで、選考方法は変わらず、各校12人以内が出走してハーフマラソン(21・0975キロ)を一斉に走る。上位10人の合計タイムで出場権を争う。本大会は、シード校10校、予選会を勝ち抜いた10校、さらにオープン参加の学連選抜チームが参加する形で行われるのだと。関東以外の大学が何校予選会を通過するのかが、楽しみなのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.03
コメント(0)
「樺崎八幡宮」をとりあえず後にして「足利氏御廟跡」方向に向かって境内の小路を進む。境内の紅葉も美しかった。ズームして。「樺崎八幡宮」の拝殿を振り返る。境内は、枯れ葉が絨毯のごとくに。何故か、足利市内にある「足利織姫神社」の可愛らしい絵馬が。ネットによると”はたがみ織姫”というキャラらしい!?「2014年足利織姫神社は、産業振興と縁結びの神様として【恋人の聖地】 に認定されました。」とネットには。「江戸総鎮守 神田明神」の絵馬も。神田明神は、TVアニメ『シュタインズ・ゲート』の聖地となっているのだと、これもネットから。「樺崎八幡宮」の「拝殿」前を振り返る。紅葉の中の緑も美しいのであった。「樺崎寺跡」の配置図をネットから。そして前方に見えて来たのが「多宝塔跡」。「多宝塔跡発掘調査では5.7×5.7mの大きさの礎石建物跡が確認され、14世紀には瓦葺きの建物に改修されていることがわかりました。樺崎寺の多宝塔は、1226年に4代住持になった熱田弁僧都重弘により、その父の供養のため建立されたとされています。」。案内板は、日本語、英語、中国語、韓国語で。多宝塔の想像図。鑁阿寺多宝塔を参考にしたと。「多宝塔跡」前から「樺崎寺浄土庭園」を見下ろす。「供養塔覆屋跡」が右手前方に現れた。手前には小さな石祠・「織姫神社」が鎮座。「供養塔覆屋跡」を正面から。3m間隔でくぼみ穴が四隅にあり、建物の礎石が置かれていた。「供養塔覆屋跡山の斜面の岩盤を削りだし、平らにしたところに3 X3mの大きさの礎石建物が建てられていました。お堂の中には義兼の子、義氏の供養塔である五輪塔が置かれていたと伝えられています。」「樺崎八幡絵図には五輪塔10基が並ぶ足利氏御廟の右手に義氏の五輪塔が描かれています。」更に進むと見えて来たのが「足利氏御廟跡」。「足利氏御廟跡発掘調査では南北20. 4m、東西6.5 mの大きさの基壇が確認されました。この基壇の上に五輪塔10基が並べられ、瓦葺の覆屋が建られていたことがわかっています。10基の五輪塔は足利氏歴代の供養塔で、明治の神仏分離令により菅田町の「光得寺」👈リンクに移され現在まで大切に守られています。周辺から出土した瓦には「応永二十年」(1413)と書かれたものがあり、鎌倉公方・足利持氏によって先祖の廟所が整備されたと考えられます。」建物の大きさは、南北約18m、東西約4.2mと推定されていると。「礎石建物跡御廟跡北端の下層から出土した建物跡は3 x 3mの大きさで、周囲は1mの幅で縁が回り、建物の中央奥には石積基壇があります。周辺からは13世紀の瓦が出土しています。足利氏の一族等を供養するための、御廟の前身となる建物跡です。」「礎石建物跡」を横から。3段の石段が前方に。反対側から。この奥にあった墓石群は個人の墓地?だったのであろう。「奥の院街道 三十四町」案内板。北の郷物語その六話 樺崎八幡宮(かばざきはちまんぐう)国道ニ九三号線沿いにある樺崎工業団地北側の山麓に鑁阿寺の奥の院である樺崎八幡宮があります。鎌倉時代に鑁阿寺開基の源姓足利氏ニ代義兼が、奥州藤原氏追討の戦勝祈願のため護持僧である理真上人に樺崎の地を寄進し、開創された樺崎寺で念仏三昧の晩年を送り、生入定したため、家督を継いだ義氏が八幡神に父義兼を合祀して廟墓としました。明治時代の神仏分離により八幡宮のみ残されましたが、本殿の床下には「足利義兼公御廟」と書かれた墓標が立っています。(中島太郎 著)」南側の入口には大きな石碑があった。「道路改修三架橋碑」と。寄附者の名前、金額が刻まれていた。昭和ニ年五月とも。池の周りの遊歩道を巡り戻る。池には野鳥が羽を休めていた。「足利氏御廟跡」への石段が見えた。「樺崎寺浄土庭園」の池の中島を見る。奥州合戦の時、平泉で見た毛越寺や中尊寺などに影響をうけた足利義兼が整備したと伝わる寺院と浄土庭園。それがここ「樺崎寺」。ここにも石祠が。池越しに黄葉、紅葉の「樺崎八幡宮」を見る。「史蹟 樺崎寺跡」案内板。近づいて。寺務所に貼ってあったポスターより。JR東日本「大人の休日倶楽部」2021年12月号からのようだ。「源氏の名門 足利一族の選択鎌倉幕府から室町幕府への奇跡鎌倉幕府を開いた、源頼朝。その子孫は3代で途絶えるが、一方で、源氏の系譜は続き、室町幕府初代将軍.足利尊氏を生んだ。執権として、鎌倉幕府を掌握した北条氏を相手に時を読み、代々の当主が巧みに立ち回った足利氏。一族の故地で、その軌跡を追う。」「名門!源氏の系譜かっては中学の歴史教科書で、鎌倉幕府成立の年号を「いい国(1192)作ろう」という語呂合わせで覚えたものだろう。だが、これは源頼朝が征夷大将軍に就いた年で、現在では、実質的に幕府が成立した1185 (文治元)年説が有力だ。それから150年ほど下って、足利尊氏による室町幕府が開かれる。この二つの幕府が、400年近くにわたる、中世日本の武家社会を形づくっていく。その中心人物となった頼朝と尊氏。二人のルーツをたどっていくと、一人の「源氏の棟梁」に行き着く。「八幡太郎」の通称で知られる、源義家である。義家の名を、東国に高からしめたのは、平安末期に繰り広げられた二つの大きな長い戦い「前九年、後三年合戦」だった。「前九年合戦」の発端は、陸奥の豪族、安倍氏が租税を納めないなど朝廷に謀反を起こしたことによる。義家は、朝廷の命で安倍氏制圧に向かう父・頼義とともに、時には大敗も喫する激しい戦いを繰り広げながら、ついに勝利を得る。その後、今度は安倍氏の旧領で威を振るっていた清原氏に内紛が勃発、拡大する。義家は再び制圧に乗り出す。これが「後三年合戦」である。この二つの戦いが、義家を「武家の棟梁」の確固たる地位へと導くことになった。「強力な敵方との激烈な戦いの様子が絵巻物にも残されているように、二つの戦いは武家が台頭するきっかけとなった象徴的な合戦として語り継がれていきます。特に義家は、飛ぶ雁の群れの乱れを見て伏兵を知り逆襲した、という逸話がありました。つまり武人としての才覚知略に長け、東国武将の人望を集め、武家の棟梁として不動の地位を得たのです。後に武士が合戦場で「我こそは源八幡太郎義家の何代目云々(うんぬん)」と名乗りを上げて戦うさまは、まさに義家のブランド価値を誇示している姿だといえるでしよう」こう話すのは、足利氏の歴史に詳しい元栃木県立博物館副館長で宇都宮短期大学教授の江田郁夫氏だ。義家によって名声を高めた源氏は、東国で着実に版図を広げていく。義家の次男・義親のの系統は鎌倉幕府へとつながり、その弟・義国の方は室町幕府を生むことになる。義国は晩年、下野守を務めた義家から譲られた足利の荘に隠居する。そして、その跡を継いだのが次男の義康。源姓足利氏は、この義康を祖として、足利の地で始まっていく。義康は崇徳上皇と後白河天皇が皇位継承で争った「保元の乱」で兵百騎を率いて駆け付け、平清盛、源義朝とともに活躍したとされている。武将として、足利の統治者として期待されていたのだが、その翌年31歳の若さで病没。それでも、すでに相応の兵を擁していたことから分かるように、一族の礎は築かれ、足利の地で物語が紡がれていく。」「足利一族と源氏・北条氏」系譜。「2代義兼、源頼朝と弟になる頼朝の猜疑心を拭うための秘策足利2代義兼は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あずまかがみ)』にその名がたびたび登場している。つまり幕府にとって義兼は有力な存在だったことがうかがえる。治承4 (1180)年に源頼朝が平氏打倒に決起すると、義兼はすぐにその許へと駆け付けた。以後、側近として合戦に従い、頼朝から絶大な信頼を得て、幕府内でも一目置かれる存在と成なる。その背景に「血縁」の絆があった。義兼の母は、頼朝の母の姪に当たる。また妻は鎌倉幕府の初代執権・北条時政の娘・時子で、その姉・政子は頼朝の妻となっている。つまり、頼朝と義兼は義兄弟なのだ。一説には、時子とのない結婚は、義兼との関係をより強固にしたいと考えた頼朝が仲立ちしたともいわれている。だがこうした関係づくりには、義兼が生き残るために見せた戦術や深謀遠慮をも垣間見ることができる。「弟の義経を減ぼすなど、猜疑心の強い頼朝に疑いを持たれると、足利一族の破滅につながりかねない。その意味で、北条氏との婚姻は頼朝とワンクッション置くことになり、身の保全を図ることになったのかもしれません」(江田教授)その義兼が「世間を憚って「空物狂い」(狂気のふり)をした」との記述が、足利義満に仕えた武将・今川了俊の「難太平記」にある。ー義兼は血筋から見れば頼朝に取って代わって征夷大将軍になってもおかしくない。もし頼朝にそんな疑念を持たれたらどうなるかーー危惧した義兼は行政能力も野心もない、杲けた男を演じていた、というのだ。東大寺で出家し故地で生き入定北条氏から妻を迎えたのは足利氏だけではない。しかし、有力御家人の三浦泰村や安達泰盛のように、権力に近づき過ぎた家は北条氏に減ぼされている。「義兼は、足利の存在を頼朝や北条に認めさせながらも生き残れるように、『近過ぎず遠過ぎず」のバランスを、常に考えていたのでしよう」(江田教授)そして42歳のときに、落慶供養のために頼朝に随行した奈良の東大寺で、そのまま出家してしまう。嫡子となる3代義氏はまだ7歳でしかなかった。義兼に何が起こっていたのか、その理由は伝わっていない。身を保全して生き残るためだったのか、純粋に信仰心があつかったのか足利市の中心街から北東へ約5km、八幡山と呼ばれる小高い山の裾に、史跡樺崎寺跡がある。歴代足利氏の廟所となった場所だ。「頼朝が義経を討ちに奥州平泉へ向かうときの戦勝祈願所として造られた寺です。随行した義兼は中尊寺や毛越寺などの仏教文化に感銘を受け、そのときに見た浄土庭園をここに設けました」(足利市教育委員会文化課・佐藤弘主査)晩年、義兼はこの地で念仏三昧の日々を送り、出家から4年後の歳で「生き入定」(即身仏)したと伝えられている。地元では、現在の樺崎八幡宮本殿の床下に義兼が入定したとされているが、聖域のため、今日まで発掘調査は行われていない。義兼入定の約2カ月前、頼朝はすでにこの世を去っていた。」「伝北条時子姫 五輪塔(法玄寺)密通の潔白を示すために自害した、という伝説を持っ時子。五輪塔は義兼の長子が建立した」。「3代義氏、北条氏の信頼を勝ち取る勇猛果敢に働き、出自の良さも武器JR足利駅から程近い足利市の中心部に、幅7mほどの堀と土塁に囲まれた真言宗の古刹、鑁阿寺がある。堀沿いにひと回りするとほば800m、方形の敷地面積は約1万2300坪。明治維新の廃仏毀釈で約2300戸の人々が住む5万坪以上の土地が寺から切り離されてしまったが、その広さを思うと往時の繁栄ぶりがうかがい知れる。寺名の「鑁阿」は珍しい表記。越忍隆住職に伺うと、インドのサンスクリット語でご本尊の「大日如来」を意味しているという。「昔はご本尊への親しみを込めて『ダイニチさま」と呼ばれていたので、「鑁阿寺」といわれると首をかしげる人が今もいます。街の真ん中にあるのですが(笑)」創建は建久7 (1196)年。2代義兼が邸宅内に建てた持仏堂が始まりで、当初は堀内御堂と呼ばれていたが、義兼亡き後にその法名が寺名となった。実際に堂塔伽藍(本堂など)を完成させ、足利氏の氏寺としたのは3代義氏だった。頼朝の死後に、北条時政・義時親子が頼朝以来の有力御家人を相次いで粛清していく中で、義氏は幕府内で高位の官職を歴任し、存在感を強めていく。その理由の一つは戦場での勇猛果敢な働きにもあったが、出自の良さを見逃すことはできない。母は北条時子で、母方の祖父・時政は幕府の初代執権。そして、世に「尼将車」と称された北条政子とは甥、伯母の関係にあった。義氏は当時、最高の権門の中で生まれ育っていたのである。承久の乱で活躍幕府のナンバー2に北条方の信頼を得た義氏は、3代執権北条泰時の娘を妻に迎えた。そして承久3 (1221)年、かねて反幕府的な後烏羽上皇が鎌倉幕府を倒すために挙兵する。世にいう「承久の乱」である。このとき義氏は、大将・北条泰時の次将として幕府の大軍を率いて都に進撃し、筏を組んで宇治川を渡り、武功を立てている。その後も働きを認められた義氏は、上総・三河二カ国の守護職を得るなど、幕府内で北条氏に次ぐ立場を占めるようになる、また子の4代泰氏の妻にも北条の娘を迎えるなど、つながりをより強化していく。足利氏からすれば北条の娘たちを妻にすることでより強固な血族関係を確立し、幕府内での安泰を図ったことになる。だが北条氏から見れば、娘たちを使って名家の足利一族を、臣下に置くとまではいかなくとも権カ構造に取り込んでいったといえなくもない。実際に、八幡太郎義家から先祖代々続く足利家当主の「義」の名は3代義氏で止まる。代わりに得た「泰」「頼」「時」は北条家当主からの一字。ともあれ、足利一族が幕府への影響力を最大限に高めたのは3代義氏のときであり、それから先は次第に低下していく。義氏は戦場を駆ける武の人だけでなく、典雅な文の心得も持ち合わせていたようだ。「続拾遺和歌集」に義氏の詠んだ歌として、こんな一首が収められている。「あられふる 雲の通ひ路 風さえて をとめのかざし 玉ぞみだるる」「鑁阿寺(ばんなじ)」。「鑁阿寺本堂は国宝で、大御堂とも。日本に伝わったばかりの禅宗様をとり入れた、鎌倉時代の代表的な建築」。法楽寺にある義氏の墓所。江戸時代前半に描かれた「足利義氏像』。法体で、左手に数珠を持つ。鑁阿寺蔵。「時代の覇者、8代尊氏。そして一族の行方江戸時代、再び所領は下野国に八幡太郎義家と足利家時の置文がどのような働きをしたかは知る由もないが、8代尊氏は征夷大将軍となり、室町幕府を開く。義昭までの15代、約240年に及ぶ時代は公家と武家、僧侶らの文化が融合した独自の室町文化が花開く。尊氏は儀礼などを通じて将軍家の貴種性を高め、「足利一門は別格」との認識が確立。江戸時代にも引き継がれ、その例が「5000石の大名」として明治維新を迎えた喜連川足利氏だ。徳川家康は権威づけのため、源義家の孫で新田氏の祖を元とする系図を編み出した。源氏の棟梁として義家から続く喜連川足利氏を、徳川将軍家の家臣と同列にはできない。「高家」として、江戸城内の控室も伊達や毛利など10万石以上の大名のように遇している。栃木県さくら市の龍光寺には尊氏など足利氏の供養塔が立つ。「今も喜連川足利氏直系の”殿様”や家臣の方々が集まり供養することがあります」(龍光寺・深尾宗淳住職)逆賊から名門へ 汚名返上の証し後醍醐天皇と袂を分かったことで政権を手にした尊氏は、長年、逆賊とされていた。その説は、水戸藩が編纂した「大日本史」などで、南朝を正統としたからだとされている。心ない人々から足利の里は「逆賊の町」、名産の織物まで「逆賊織」とののしられた歴史もあった。足利氏の氏寺も理不尽なロ撃を受けてきた。鑁阿寺本堂の大屋根を見上げると黄金の三つの紋章が輝いている。右が足利家の家紋「丸に二つ引」、左が「五七の桐」、そして中央が「菊の御紋」。山越住職が大屋根に目をやりながら話す。「「三五七の桐」は真言宗醍醐寺の末寺となった名残。『菊の御紋』は花園天皇の命で、この寺が玉体の安穏などを祈る勅願所とされたから。それなのに逆賊といわれるのが悔しい、と私の祖父が宮内庁に菊の御紋を返上したいと手紙を出したのです。すると「鑁阿寺は花園帝の御祈禳所です。どうぞそのままで」と丁寧な返事が届きました。菊の御紋は足利氏が逆賊ではない証しです」武家の名門・源氏の末裔として歴史に輝く足利一族。今はのどかな足利に、軌跡は確かに刻まれている。」「足利一族のふるさとへ」。「龍光寺境内の廟所には尊氏像を模刻した座像(上)」と喜連川足利8代恵氏像を安置下(の写真は)土塁で囲まれた約30m四方の地に、歴代藩主などの石塔や石燈籠が60基ほども並ぶ。」お市が『祈ります 山火事なき足利を・・・』と。上杉謙信が『防ぐのだ われらの強敵 山火事を』と。そして最後に訪ねたのが「樺崎八幡宮」の境内社の「天満宮」の如き「樺崎菅公廟」。塩ビパイプ?で造られた鳥居?万中の縦パイプは強度上?、撓み防止?菅原道真の歌「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春なわすれそ」と。源実朝が暗殺される直前に詠んだ歌、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」は この道真の歌の「本歌とり」?「本歌取り」は、パクリではないのだと。過去の名歌の表現の一部を取りいれることによって、より奥深い情趣を表現することになるのだ と。当時の教養人は過去の名歌が全部頭に入っている と。自由自在に「本歌取り」ができることは、教養人の証でもあったのだろう。そして石碑の後ろに梅の木が。「本殿」の如き場所にあったのがこの石碑。文字は「菅公廟」か?「奥の院街道 三十七町北の郷物語 その百二十話 樺崎菅公廟と飛梅菅公こと菅原道真は、荒魂の雷神格の一方、和魂の文神格も勧請されました。明治十四年(1881)に地元有志が第十四区樺崎小学校に天神講の祠廟、菅公廟を建立、合併で北郷第三尋常小学校に移り、変遷を経て昭和三十八年(1963)、足利市立大月小学校に改称、移転した際、裏山に放置されました。平成十八年(2006)、住民の尽力で天神信仰を重んじた源氏の氏神社の樺崎八幡宮境内に遷座し、菅公を慕い京から大宰府に飛来した梅花の飛梅伝説に因み献梅されました』御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.03
コメント(0)
今日は恒例の「第99回東京箱根間往復大学駅伝競走」の応援にバスで向かった。バス停「遊行寺前」で下車し、往路3区(21.4km)の5.8km地点の「藤沢橋」近くに陣取る。往路のコース・区間・距離。「藤沢橋」交差点。既に多くの係員の方々が。陣取った場所から「藤沢橋」交差点を見る。「遊行寺」本堂の大きな屋根が見える場所。荷物車①が通過。競技者用バス①が通過。競技者用バス②も。先行パトカー。上空には日テレのヘリコプター。???警備車両。いよいよテレビ中継車が来る。そして10:261位 中央大学 中野 翔太 選手。区間記録1:01:51 区間順位1位 中央大学 伴走車。 テレビ オートバイ。2位 青 学 大 横田 俊吾 選手。1位と8秒差 区間記録1:02:23 区間順位8位 3位 駒沢大学 篠原 倖太朗 選手。1位と8秒差 区間記録1:01:58 区間順位2位青学大 伴走車。駒澤大学 伴走車。大会本部車。ラジオ放送車。4位 國學院大学 山本 歩夢 選手。1位と1分14秒差 区間記録1:02:07 区間順位5位國學院大学 伴走車。5位 創価大学 山森 龍暁 選手。 1位と1分18秒差 区間記録1:02:58 区間順位14位6位 山梨学院大学 村上 大樹 選手。 1位と1分19秒差 区間記録1:04:31 区間順位19位創価大学 伴走車。山梨学院大学 伴走車。テレビ中継車。7位 順天堂大学 伊豫田 達弥 選手。1位と1分40秒差 区間記録1:02:22 区間順位7位 順天堂大学 伴走車。8位 東国大 白井 勇佑 選手。 1位と1分42秒の差 区間記録1:02:44 区間順位12位9位 東海大 花岡 寿哉 選手。 1位と1分42秒の差 区間記録1:02:21 区間順位6位東国大 伴走車。東海大学 伴走車。10位 法政大学 川上 有生 選手。1位と1分44秒差 区間記録1:02:52 区間順位13位法政大学 伴走車。緊急対応車①。報道車。白バイが集団で。11位 日本体育大学 漆畑 徳輝 選手。1位と2分12秒差 区間記録1:02:36 区間順位10位日本体育大学 伴走車。12位 国士舘大学 山本 龍神 選手。1位と2分14秒差 区間記録1:04:40 区間順位20位国士舘大学 伴走車。13位 早稲田大学 井川 龍人 選手。1位と2分26秒差 区間記録1:01:58 区間順位2位早稲田大学 伴走車。14位 明治大学 森下 翔太 選手。1位と2分34秒差 区間記録1:02:05 区間順位4位明治大学 伴走車。緊急対応車②。15位 城西大学 キムタイ 選手。1位と3分8秒差 区間記録1:02:41 区間順位11位城西大学 伴走車。16位 帝京大学 小林 大晟 選手。1位と3分46秒差 区間記録1:04:12 区間順位17位帝京大学 伴走車。上空に別の?ヘリコプター。17位 立教大学 関口 絢太 選手。1位と4分28秒差 区間記録1:04:01 区間順位16位18位 東洋大学 小林 亮太 選手 1位と4分28秒差 区間記録1:02:33 区間順位9位立教大学 伴走車。東洋大学 伴走車。19位 専修大学 成島 航己 選手。 1位と4分30秒差 区間記録1:03:45 区間順位15位OP位 関東学生 内野 李彗 選手。 1位と4分30秒差 区間記録1:06:17(参 ) 区間順位OP 連合専修大学 伴走車。関東学生連合 伴走車。20位 大東大 入濵 輝大 選手。1位と5分58秒の差 区間記録1:04:25 区間順位18位大東大 伴走車。医務車。パトカー。そして最終パトカー。今年は、アッという間に全選手が通過したのであった。この係員の帽子、ベンチコートが欲しかったのであったが・・・・。「箱根駅伝 The99th」と。東海道・藤沢橋の橋柱。往路の結果は以下の通り。大学駅伝3冠を狙う駒沢大が、19年ぶりに往路優勝を果たした。駒沢大は1区で2位と好スタートを切ると、その後も安定した走り。4区でトップに立ち、そのまま首位を守った。復路は3日午前8時、箱根・芦ノ湖駐車場をスタートし、東京・大手町までの5区間で熱戦が繰り広げられるのだ。2位中央大学、3位青山学院大学。往路の順位推移そして帰路のバスの時間まで直ぐ近くにある「遊行寺」を訪ねたのであった。 ・・・つづく・・・
2023.01.02
コメント(0)
今日は恒例の「第99回東京箱根間往復大学駅伝競走」の応援にバスで向かった。バス停「遊行寺前」で下車し、往路3区(21.4km)の5.8km地点の「藤沢橋」近くに陣取る。「藤沢橋」交差点。既に多くの係員の方々が。陣取った場所から「藤沢橋」交差点を見る。「遊行寺」本堂の大きな屋根が見える場所。荷物車①が通過。競技者用バス①が通過。競技者用バス②も。先行パトカー。上空には日テレのヘリコプター。???警備車両。いよいよテレビ中継車が来る。そして10:261位 中央大学 中野 翔太選手。区間記録1:01:51 区間順位1位中央大学 伴走者。 テレビ オートバイ。2位 青 学 大 横田 俊吾 選手。1位と8秒差 区間記録1:02:23 区間順位8位 3位 駒沢大学 篠原 倖太朗 選手。1位と8秒差 区間記録1:01:58 区間順位2位青学第 伴走車。駒澤大学 伴走車。大会本部車。ラジオ放送車。3位 國學院大学 山本 歩夢 選手。1位と1分14秒差 区間記録1:02:07 区間順位5位國學院大学 伴走車。4位 創価大学 山森 龍暁 選手。 1位と1分18秒差 区間記録1:02:58 区間順位14位5位 山梨学院大学 村上 大樹 選手。 1位と1分19秒差 区間記録1:04:31 区間順位19位創価大学 伴走車。山梨学院大学 伴走車。テレビ中継車。6位 順天堂大学 伊豫田 達弥 選手。1位と1分40秒差 区間記録1:02:22 区間順位7位 順天堂大学 伴走車。7位 東国大 白井 勇佑 選手。 1位と1分42秒の差 区間記録1:02:44 区間順位12位8位 東海大 花岡 寿哉 選手。 1位と1分42秒の差 区間記録1:02:21 区間順位6位東国大 伴走車。東海大学 伴走車。9位 法政大学 川上 有生 選手。1位と1分44秒差 区間記録1:02:52 区間順位13位法政大学 伴走車。緊急対応車①。報道車。白バイが集団で。10位 日本体育大学 漆畑 徳輝 選手。1位と2分12秒差 区間記録1:02:36 区間順位10位日本体育大学 伴走車。11位 国士舘大学 山本 龍神 選手。1位と2分14秒差 区間記録1:04:40 区間順位20位国士舘大学 伴走車。12位 早稲田大学 井川 龍人 選手。1位と2分26秒差 区間記録1:01:58 区間順位2位早稲田大学 伴走車。13位 明治大学 森下 翔太 選手。1位と2分34秒差 区間記録1:02:05 区間順位4位明治大学 伴走車。緊急対応車②。14位 城西大学 キムタイ 選手。1位と3分8秒差 区間記録1:02:41 区間順位11位城西大学 伴走車。15位 帝京大学 小林 大晟 選手。1位と3分46秒差 区間記録1:04:12 区間順位17位帝京大学 伴走車。上空に別の?ヘリコプター。16位 立教大学 関口 絢太 選手。1位と4分28秒差 区間記録1:04:0117位 東洋大学 小林 亮太。 1位と4分28秒差 区間記録1:02:33立教大学 伴走車。東洋大学 伴走車。18位 専修大学 成島 航己 選手。 1位と4分30秒差 区間記録1:03:4519位 関東学生連合 内野 李彗 選手。1位と4分30秒差 区間記録1:06:17(参) 専修大学 伴走車。関東学生連合 伴走車。20位 大東大 入濵 輝大 選手。1位と5分58秒の差 区間記録1:04:25大東大 伴走車。医務車。パトカー。そして最終パトカー。今年は、アッという間に全選手が通過したのであった。この係員の帽子、ベンチコートが欲しかったのであったが・・・・。「箱根駅伝 The99th」と。東海道・藤沢橋の橋柱。往路の結果は以下の通り。大学駅伝3冠を狙う駒沢大が、19年ぶりに往路優勝を果たした。駒沢大は1区で2位と好スタートを切ると、その後も安定した走り。4区でトップに立ち、そのまま首位を守った。復路は3日午前8時、箱根・芦ノ湖駐車場をスタートし、東京・大手町までの5区間で熱戦が繰り広げられるのだ。2位中央大学、3位青山学院大学。そして帰路のバスの時間まで直ぐ近くにある「遊行寺」を訪ねたのであった。 ・・・つづく・・・
2023.01.02
コメント(0)
江の島海岸での「初日の出」、「元旦の白き富士山」の光景を楽しんだ後は、地元の駅まで戻り、地元の神社の初詣に妻と向かう。自転車で5分ほどで到着。神社の名は「亀井神社」。この隣にあるのが、我が母校・六会小学校。所在地:藤沢市亀井野553−5鳥居を潜り「亀井神社」の境内へ。新たに平成五年六月に建った「御由緒」碑。「不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかくつち、火の神様)。當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。」「社務所」。「お焚き上げ場」に昨年の「破魔矢」を納めた。「亀井神社」の「拝殿」に向かう。「手水場」。龍の吐水口からは水が。亀の像も。右手池のほとりのに石鳥居。参道の石段の先に「国旗・日の丸」が2本。参拝の順番を待つ。扁額「亀井神社」。扁額にある「亀」の異字体。「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。内陣。「拝殿」横から境内を見下ろす。社殿脇には「身代わり不動尊社」。こちらの蟇股の彫刻も見事。扁額「不動明王」。「不動明王」と「地蔵さま」。「身代り不動尊」への参道と両側には真っ赤な「幟」が。「社務所」で今年の破魔矢を頂き、「亀井神社」を後にする。最後に地元のもう一つの神社「地神社」に参拝。「地神社」の参道。所在地:藤沢市亀井野2丁目36−4。参道の先に社殿が。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「山之神」と刻まれた石碑が右手に。素朴な「手水舎」が左手に。「社殿」御祭神は「埴山姫命(はにやまひめのみこと)」。日本神話に登場する土を司る神。肥沃な(ひよく)田畑の土、陶器を作る粘土もその支配の範疇で、農業・陶磁器製造業・造園業・土木関係の職業などに縁の深い神様であると。『古事記』によると波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)と波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)という男女二柱の神が存在する とネットから。扁額「地神社」。石灯籠とその横にも石碑が。「地神社」と刻まれた石碑。そして元旦の「初日の出」、「富士山」そして地元の神社2社に詣でて帰宅。我が家の家の前の畑の「自然アート」を発見。農家の温室の影の場所だけ「元旦の初霜」がピラミッドの如く白く残されて。半世紀前に訪ねたエジプト・ギザのクフ王のピラミッド、カウラー王のピラミッドの如くに2基並んで。いやその先にはメンカウラ王のピラミッドも。「亀井神社」で頂いた「破魔矢」。絵馬には「親子の兎」そして「開運招福」と。我が家の神棚にお供えして。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.02
コメント(0)
国道134号の「片瀬橋」を渡りながら、小田急線の「片瀬江ノ島駅」を見る。左手に「江の島」を見ながら、国道134号の歩道を進む。「江の島シーキャンドル」をズームして。ヤシの木越しに富士山の勇姿を。相模湾越しの富士山。ズームして。更に。♫「真白き富士の嶺、緑の江の島」♫「真白き富士の嶺」を見つめて、この女性は何を想う??片瀬西浜からの富士山の勇姿。箱根の山々。茅ヶ崎、平塚方面。元旦の湘南海岸は波も静かに。片瀬西浜にはサーファーの姿はなく。小田原方面。金時山をズームで。再び元旦の富士山に勇姿をカメラで追って。大山の姿も。「江ノ島西浜海岸特設ステージ」。「片瀬漁港鮮魚直売所」であるが、現在は閉鎖されていると妻から。「片瀬漁港」の漁船もこの日は正月休み。親松英治の作品・「海の詩」。そして小田急線「片瀬江ノ島駅」に戻る。「竜宮造り」の新駅舎は2020年5月に完成。正面の望楼の窓には天女が描かれ、周囲には金色に輝く龍の像やレリーフ調のオブジェが見える。また、屋根上には金のしゃちほこならぬ金のイルカ像が5か所に配されていた。海の中から姿を現す龍(右側)。海の中から姿を現す龍(左側)。駅舎の外から「ミニ水族館」を見る。そして駅舎内の「ミニ水族館」にはクラゲの姿が。新江ノ島水族館とコラボレーションした大型の「クラゲ水槽」を設置。クラゲの姿をカメラで追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.02
コメント(0)
「出流原弁天池」を後にして県道293号線を利用して次に訪ねたのが「樺崎八幡宮」と「樺崎寺跡」。足利市樺崎町1723。小川に架かる「太鼓橋」の先にあったのが「樺崎八幡宮一の鳥居」。石造りの「一の鳥居」の先に「二の鳥居」そして参道が続いていた。その奥に見える山の麓に神社の社殿があった。「一の鳥居」の先に「郷社八幡宮」碑。その先にも「太鼓橋」が。左手に見えたのが「樺崎寺浄土庭園」の池。更に2基目の太鼓橋のあった参道を進む。「㋥ようこそ 源氏の里歓迎 樺崎八幡宮 国史跡 樺崎寺跡」と。㋥は「丸に二つ引き」紋で足利将軍家の紋として有名。そして「二の鳥居」。鳥居の奉納は「明治二十六年稔五月吉日」。「大祓 茅の輪神事左・右・左と回って罪穢をお祓い下さい」と。鳥居の扁額は「八幡宮」と。再び「樺崎寺浄土庭園」跡を見る。上空からの写真をネットから。「樺崎寺」の「樺崎寺浄土庭園」の大きさが解るのであった。左側に「手水舎」そして石段の先に「樺崎八幡宮」の「拝殿」が姿を現す。石段の中央の手摺に紅白の横断幕、両脇には「㋥無病息災祈願成就」と書かれた幟が並ぶ、社務所か?「楢崎八幡宮 令和元年 820年祭国史跡 樺崎寺跡」と。掲示板には「樺崎八幡宮 歴史と文化の町 足利足利義兼伝 うずらの鳴かぬ里」中世に生きた武将・足利義兼の壮絶な生涯。人間が持つ業によって、妻・時子が自害してしまう「蛭子伝説」を軸に、「生き入定」(永遠に生き続ける仏になる修行)という悲願の最期を遂げた「鬼の義兼」と呼ばれた漢の生きざまを描く。「世界TOP 1 0 0の認定国際映画祭の一つIndieFEST Film Awardsにて受賞日本のアニメーションの受賞は本作のみ繁村周(文星芸術大学)とRa Von(hashi tokami)監督のアニメーンヨン作品『うずらのかぬ里--足利兼義--』(2020)がIndieFEST Film Awards(アメリカ)にて、Award of Merit賞を受賞いたしました。日本のアニメーション作品での受賞は本作が唯一で、アニメーション部門だけでなく歴史/伝記部門、計二部門において賞をいただくことができたことは望外の慶びです。本作は、中世・鎌倉時代の下野国足利に生き、その生涯を終えた武将・足利義兼(あしかがよしかね)を描いた物語です。歴史資料と伝説を丹念に紐解きながら、仏教信卸を背景に、彼の生きた時代、彼の未来への願いをつむぎ、いまなお争いや疫病に苦しむ現代に生きる人々の希望となるよう、祈りを込めて制作しました。義兼は、妻時子や戦いで亡くなった者の鎮魂のため、仏像(大日如来)の厨子を背負い歩み続けます。最後の入定に至るまでの彼の心情を表現するために、さまざまな映像上の実験を行い、切り絵と実写を織り交ぜた映像と、スチールギターの幻想的な音楽を合わせた表現が生まれました。また、作中の映像で、義兼建立時の樺崎寺平安時代末期の姿を蘇らせたことは、今後、義兼や樺崎寺の存在を多くの人に知ってもらううえで、大いなる指標となるでしよう.本作品は栃木県と市の産学官連携事業として、文星芸術大学教員と学生(19期生・大島捷)、アーティスト、歴史家、足利を想う市民が総力を結集し制作、足利灯りのある街づくり実行委員会主催のライトアップイベントで、義兼ゆかりの鑁阿寺境内で野外上映にて発表されました。「義兼は血で記した遺書に『みな力を合わせて生きよ」と後世に願いを託しました。足利だけでなく、まさに世界に向けてのメッセージ。今回の受賞が、「足利義兼」を見直す契機となり、足利や日本の歴史文化を見直す契機となることを心から願っています。」制作者一同。「足利氏ゆかりの文化財特別公開」平成30年5月12日・13日と4年前のポスターが。「建造物樺崎八幡宮本殿桁行二間 梁間二間 両側面は高欄付縁張銅板葺 江戸時代樺崎八幡宮は、正治元年(一一九九)、足利義兼の入定の地に八幡神を勧請し、義兼の霊を合祀したことに由来する。本殿は、天和年間(一六八一~一六八四)の再建といわれ、昭和六十三年度・平成元年度の保存修理で、本来の造りであった隅木入春日造(軒唐破風)に復元した。この建物は、意匠上においても種々の面で卓抜したものがあり、歴史的由来とあわせて価値の高い建造物である。(昭和六十一年九月二十四日 足利市指定)※ 足利義兼は、奥州藤原氏征伐の後、建久年間(一一九〇~一一九九)、この地に下御堂 (法界寺)を創建した。義兼は正治元年、当地にて入寂、その子義氏は、法界寺の緒堂宇を 整備するとともに八幡神を勧請した。足利将軍家の衰退とともに法界寺もその庇護する ところを失い、現在は樺崎八幡宮を残すのみである」「樺崎八幡宮について(祭神) 誉田別命 源義兼(祭日) 4月19日(春祭) 10月19日(例祭) 1月1日(歳旦祭) 12月31日(大祓)(由緒沿革)鎌倉時代の建久年間(1190~1198)に足利義兼が鑁阿寺を創建し、理真上人にこの地を寄進して、法界寺(下御堂)を建立した。義兼自身も晩年はここに住み、正治元年(1199)に死去した。その子義氏は、ここに鑁阿寺の奥の院として赤御堂を建てた。これは義兼公の廟墓で、御影堂でもある。さらに八幡神をも祀った。八幡宮社殿は八幡山の中腹にあり、本殿床下には「足利義兼公御廟」の墓標が立てられている。(文化財)樺崎八幡宮のスギ(市指定天然記念物)太さ目通り5m、高さ30m、樹齢600年ぐらい」八幡宮の御神木。参道の石段を上って行った。「樺崎八幡宮・史蹟樺崎寺跡足利義兼は、文治5年(1189年)、奥州合戦の戦勝祈願のため、理真上人を開山として、この地に樺崎寺を創建しました。樺崎八幡宮は、正治元年(1199年)に当地で入寂した義兼を、子の義氏が八幡神とともに合祀したことに由来します。以降、樺崎寺は足利氏の氏寺である鑁阿寺(はんなじ)の奥の院、そして一族の廟所として崇敬を集めますが、明治初めの神仏分離令により廃寺となります。樺崎八幡宮を含めたこの遺跡は、足利氏ゆかりの遺産として大変貴重です。」「樺崎八幡宮本殿並びに幣殿拝殿修理経過樺崎八幡宮本殿は、昭和六十一年九月二十四日に有形文化財(建築物)として足利市重要文化財に指定された。長い年月と雨漏りにより腐朽し、軒先の垂下り屋根葺材の変更等修理の急を要してきたので栃木県補助金五百万円・足利市補助金三千三百万円・足利市民文化財団一千万円・地元負担金一千二百万円の予算にて、昭和六十三年度・平成元年度の二ヶ年の継続事業として昭和六十三年六月四日工事着手した。同時に、地元負担で幣殿及び拝殿を新築(一千七百万円)することにした。樺崎八幡宮本殿保存修理及び幣殿・拝殿を新築することについては、樺崎八幡宮社殿改築建設委員会を設置し検討を重ね、足利市教育委員会文化財保護課が担当し工事の実施に当たった。工期は一年十ヶ月とした。」そして、関係者、工事業者、工事等費用 本 殿 六千万円 弊殿・拝殿 一千七百万円 そ の 他 三百十五万円特別奉納者特別寄付者 の名前が書かれていた。「樺崎寺跡」の「樺崎寺浄土庭園」「樺崎寺跡」は源姓足利氏二代目足利義兼(あしかがよしかね)によって創建されたと言われている中世寺院の遺跡。義兼は源頼朝(みなもとのよりとも)のいとこであり、北条時政(ほうじょうときまさ)の娘を妻とする、義兄弟でもある。平安時代末期、源氏と平氏の戦いでは頼朝の右腕として活躍し、鎌倉幕府創設に貢献した。奥州平泉での戦いに臨み、戦勝を祈願するためここ樺崎の地を伊豆走湯山(いずそうとうさん)の理真上人(りしんしょうにん)に寄進したのが寺の始まりとされている。平泉で毛越寺(もうつうじ)や中尊寺(ちゅうそんじ)などの華麗な寺院を見た頼朝以下御家人たちは、それぞれ自分の領地に池を中心とした浄土庭園を持つ寺院を建てたといわれる。義兼も足利に帰ってからは庭園を整備したのであろう。そして晩年はここ樺崎寺で念仏三昧の日々を送り、生入定(いきにゅうじょう)したと伝えられている。鎌倉時代の足利氏は北条氏と姻戚関係を結びながら有力御家人としての地位を築いていく。このころの樺崎寺は足利氏の勢力を背景に堂塔を整え繁栄した。義兼の六代後の尊氏が室町幕府を開いてからは幕府と鎌倉公方の保護を受けた。将軍と鎌倉公方が対立するようになると、御廟の建て直しがされるなど公方家の保護が大きくなると同時に政治的な場として利用されるようになった。戦国期になり足利氏が力を失うと樺崎寺も衰えて行く。江戸時代には足利氏の末裔である喜連川氏によって八幡宮が再建されるが、中世の繁栄は見られなかった。明治政府による神仏分離令により樺崎寺はその歴史の幕を閉じることになるが、境内は樺崎八幡宮として氏子の方々に守られてきた。その後昭和59年度からの発掘調査等により平成13年1月、国史跡に指定されたのだ。「手水舎」そしてその後ろに「樺崎寺跡」の「樺崎寺浄土庭園」。正面に「樺崎八幡宮」の「本殿」。「樺崎八幡宮」の「本殿」は木造平屋建て、入母屋、正面千鳥破風、銅板葺き、平入、桁行5間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。境内の銀杏の大木の下には案内板が。「樺崎八幡宮」案内板。「樺崎八幡宮樺崎八幡宮は、源氏足利氏二代目足利義兼と、その子義氏にゆかりのある神社です。義兼は、この地にあった法界寺で没し、義氏は、父義兼の霊をなぐさめるために、鑁阿寺(はんなじ)の奥の院として赤御堂を建てました。併せて八幡宮をも祀りました。現在の御堂は、天和年間(一六八一~一六八四)の再建といわれ平成元年に修復されました。」「足利市ゆかりの社寺めぐり」案内板。左から●「平石八幡宮(ひらいしはちまんぐう)」 源姓足利氏4代目足利泰氏の創建と伝えられています。●法玄寺(ほうげんじ) 足利義兼の長男・義純が、母(北条時子)の菩提のために創建したと伝えられています。 この寺には時子姫の五輪塔が残っています。上に●法楽寺(ほうらくじ) 足利義氏が建長元年(1249年)に創建したと伝えられています。 本堂は、足利氏15代目義政の建てた銀閣寺を模しています。●吉祥寺(きちじょうじ) 足利頼氏が、覚恵和尚を開山として創建したと伝えられています。6月にはアジサイが咲き、 毎年6月第4土曜日・日曜日にはアジサイ祭りが行われます。●光得寺(こうとくじ) 足利義氏が、鑁阿上人(2代目義兼)を開山として創建されたといわれています。 尊氏の重臣であった高武蔵守師直、南遠州守宗継らの五輪塔19基などがあります。●樺崎八幡宮(史跡樺崎寺跡) 足利義兼の死後、義氏が鑁阿寺の『奥の院』としてこの地にお堂を建て、八幡を勧請して 義兼を合祀したため、本殿が社と寺の折衷式になっています。下に●鑁阿寺(ばんなじ) 足利一門の氏寺。源姓足利氏2代目足利義兼が、建久7年(1196年)、邸内に持仏堂を建て、 大日如来を祭ったのが始まりです。鎌倉時代の武家屋敷を今に伝えており、大正11年3月 『足利氏宅跡』として国の史跡に指定されました。●善徳寺(ぜんとくじ) 応安元年(1368年)、足利尊氏を開基、仏満禅師を開山として創建された名刹です。 尊氏の霊位(位牌)と衣冠束帯姿の木坐像が残っています。「拝殿」の右側にあった「大スギ」。「天然記念物 樺崎八幡宮のスギ」柱が左手に。右手には「御神木 樹齢約五百年大杉長い年月風雨寒暖の日々を耐え、又、ニ回に渡る落雷に合いました大杉に見守られ村々の繁栄を今に伝えております」と。「大スギ」を見上げて。「本殿」を「大スギ」の前から見る。色彩豊かな「本殿」をズームして。「本殿」の「脇障子」を。「建造物 樺崎八幡宮本殿」木柱。「赤御堂跡の石段発掘調査では樺崎八幡宮本殿のすぐ北側で、義兼がまつられた赤御堂へ上がるための石段が発見されました。当時は石段の正面にお堂が建てられていたことが推定されます。義兼は赤御堂のかたわらで生入定したとされ、本殿床下には義兼の墓標が立てられています」。「足利義兼公御廟 西山側」案内柱。「足利義公入定の地義兼公は晩年樺崎寺で念仏三昧の日々を送り、正治元年(一一九九)年三月八日に当地で生入定(いきにゅうじょう)したと伝えられます。樺崎八幡宮はその入定地子で義氏が八幡神を勧請し、義兼の霊を合祀したことに由来します。江戸時代に建てられた現在の本殿の床下には、入定地を示す墓標が立ち、八幡神とともに今もなお厚い信仰を寄せられています。」床下を見る。「足利義兼公御廟」とうっすら書かれた墓標が、写真中央のこれであったのだろうか?右手に「神楽殿」。「足利市立重要無形文化財指定樺崎八幡宮大々神楽」👈リンク。この神楽の由来は明治始めごろ、当八幡宮の宮司の長裕多(ちょうゆうた)により伊勢から大和(やまと)流太々神楽が伝えられたといわれていますが、古絵図や大拍子(だいびょうし,締太鼓の胴が長いもの)に書かれた文字からは、江戸時代中頃にはこの地域で神楽が舞われていたことが分かります。舞の種類は19種類(数え方によっては16種類)におよびます。「足利市内の鑁阿寺から樺崎八幡宮に至る奥の院街道の、三十五町の掲示板奥の院街道 三十五町鑁阿寺から樺崎八幡宮までの街道案内 北郷観光協会北の郷物語 その六十話「樺崎八幡宮と大々神楽」樺崎八幡宮は、康平六年 (1063)、源義家の勧請と伝えられ、樺崎寺で生入定した源姓足利氏二代義兼が合祀されて以来同氏歴代の廟所となり、鑁阿寺の奥の院に位置付けられました。明治時代の神仏分離で樺崎八幡宮として存続が図られ、その後神社政策により合祀した赤坂宮内の示現神社の神楽殿を移築して伊勢からもたらされたと言う大々神楽十六座を氏子が奉納しました。昭和五十六年 (1981)、神楽保存会が発足、平成三年(1991) に神楽殿を一新しています。大々神楽十六座 01 太平の舞 02 導きの舞 03 児屋根の舞 04 岩戸の舞 05 八幡の舞 06 恵比須の舞・火男の舞 07 大国の舞 08 鹿島の舞 09 住吉の舞 10 金山の舞 11 稲荷の舞・白狐の舞 12 水神の舞 13 山神の舞 14 織姫の舞 15 榊掘の舞 16 大蛇退治の舞」「本殿」を横から見る。海老虹梁の曲線が美しかった。「拝殿」・「幣殿」が手前に出来る前の昭和の晩年の「樺崎八幡宮」の写真をネットから。当時から更に色彩豊かな「樺崎八幡宮」であったようだ。「拝殿」に近づいて。「樺崎八幡宮御祭神 八幡宮大神 足利義兼公御本殿 足利市重要文化財 足利源氏義兼公入定碑」扁額「八幡宮」。「拝殿」の内陣。両脇に甲冑が安置されていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.02
コメント(0)
さらに「井伊家墓所」の散策を続ける。14代井伊直憲・正室(春照院殿)の墓。「春照院殿宜室妙貞大姉」井伊直憲継室、有栖川宮幟仁親王王女・宜子。「井伊正弘家代々之墓」。井伊直弼の曾孫となられる井伊正弘氏。井伊美術館館長等を歴任。「清操院殿福賢貞順大姉」の墓。井伊直忠夫人・斎藤ふく。「直心院殿忠山琴堂大居士」と刻まれた墓石。14代井伊直憲(忠正院殿)の墓。「忠正院殿清莭怒堂大居士」。「柳村院殿翆顔智性大姉」と刻まれた墓石。井伊直弼側室・里和(直憲生母)。「覺正院殿端操常道大姉」と刻まれた墓石。14代井伊直憲継室/蓮池・鍋島直紀娘。「柳江院殿心月明◯大姉」と刻まれた墓石。「徳應謙道首座塔」と。これは、井伊直弼の墓所を生涯守り、明治34年に79歳で没した元彦根藩士・遠城謙道の墓なのだと。「櫻田殉難八士之墓」。安政 7年 3月 3日に登城中の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪士等の襲撃を受けた際、主君を護衛し殉難した 8人を顕彰した碑「桜田殉難八士之碑」。殉難した 8人 ( 即死者 4人、後に死亡した者 4人 )、日下部三郎右衛門、河西忠左衛門、沢村車六、小河原秀之丞、越石源次郎、永田太郎兵衛、加田九郎太、岩崎徳之進。裏面には以下の名が順に刻まれていた。(1)日下部 三郎右衛門 ⇒ 森五六郎(水戸浪士)によって、真っ先に切られた人物(2) 河西 忠左衛門 ⇒ 井伊家の剣豪・二刀流、現場で死亡(3) 沢村 車六 ⇒ 森五六郎(水戸浪士)によって、真っ先に切られた人物(4)小河原 秀之丞 ⇒ 有村治左衛門を切るも返り討ちに遭い、腕を切られ眼球が飛び出る(5)越石 源次郎 ⇒ 負傷、帰邸後死亡(6)永田 太郎兵衛 ⇒ 井伊家の剣豪・二刀流、現場で死亡(7)加田 九郎太 ⇒ 斎藤監物(水戸浪士)と切り合い、現場で死亡(8)岩崎 徳之進⇒ 伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡ちなみに、命が助かった他の武士達だが、彼らには後年、主君を守れなかった罪を問われ、重傷者は流罪、軽傷者は切腹、無傷だった者はなんと斬罪が言い渡されたのだと。左に「清純院殿誠徳玄意大居士」と刻まれた墓。右に井伊智ニ郎「清霜院殿真月智梅大居士」 井伊智ニ郎正室「清心院殿梅莟慧香大姉」中央に「清明院積操里○大姉」と刻まれた墓。井伊智ニ郎は井伊直弼の三男、井伊直咸(いいなおとも)。最後の藩主井伊直憲の同母弟。近衛文麿の妻・近衛千代子の外祖父。明治時代は士族に列し、智二郎と名乗り滋賀県で過ごしたという。修復中の墓石が並ぶ。そして国指定史跡の井伊家墓所を後にして入口に向かって戻る。参道左手のドウダンツツジの紅葉。近寄って。「招き猫」の後ろ姿を。「高橋瑞子彰功之碑」高橋 瑞子(たかはし みずこ、1852年12月5日〈嘉永5年10月24日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月28日)は、日本の医師。荻野吟子、生沢クノに次ぐ、日本で第3の公許女医である。当時の唯一の私立医学校でありながら、女子の入学を許可していなかった済生学舎に、女性である自身の入学を認めさせることで、女性の医学への門戸を開かせた。「日下部家墓」、元彦根藩士で書家、太政官大書記、近代書道確立者の日下部 鳴鶴(東作)(くさかべ めいかく)右隣には「日下部東作 徳配琴子之墓」。「日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)」夫妻の墓、題字は呉昌碩。日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある。鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また生涯で1000基の石碑を書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されている。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる と。墓の背面には、「清閑院殿鳴鶴徳音居士/大正十一年一月廿七日歿 享年八十五」と記されていた。近づいて。「鳴鶴先生碑銘」「昭和8年に建てられ、鳴鶴の楷書碑から比田井天来が苦心して集字したもの。綺羅星のごとく居並ぶ門弟の中で、なかなか書き手が決まらずに、 月日が経ち結局集字することになったのだという。碑文は、47字33行、1429字に及び、 若干の文字の不揃いは見えるものの全体としてみれば整然とした楷書が連ねられていて天来の労苦がしのばれる。撰文は、内藤湖南。 篆額は、西園寺公望。篆額を、城所湖舟氏は、「天来書と見ました」と雑誌「凌雲」で述べている」 とネットより。再び「三重塔」を見上げて。「今月の写経の会」案内。そして左に「彦根藩 井伊家の刀剣」展示会のポスター。モミジの黄葉をこれでもかと。陽光を浴びてこれぞ黄金の輝き。「仏殿」を再び正面から。「仏殿」の巨大な屋根。屋根の頂部・大棟には曹洞宗 大谿山(だいけいざん)豪徳寺(ごうとくじ)の寺紋が。この寺は彦根藩の井伊家の菩提寺でもあるので、寺紋も橘紋の中でも彦根橘と呼ばれるもの。井伊家の旗印である「井桁(いげた)」紋。仏殿を振り返って。枝垂れ桜も美しいのであろう。ネットから。「久昌殿」。豪徳寺開基、井伊直考公の戒名「久昌院殿豪德天英大居士」に由来。 檀信徒会館として、写経の会をはじめ、法事法要など各種行事に利用 と。「東門」に向かって進む。紅葉を見上げながら。「東門」は閉まっていたが。引き返して「久昌殿」の東側の真っ赤な紅葉。「久昌殿」横にあった「招き猫」の自販機。「寺務所」前の枝垂れ桜。再び「地蔵堂」を。扁額「地蔵堂」。そして「表門」、袖塀は5本の筋がある「筋塀」。「不許葷酒入山門」。移動して「表門」を振り返る。「城山通り」からの豪徳寺参道の松並木を見る。そして東急世田谷線の「宮の坂」駅から三軒茶屋駅に向かう。「東急世田谷線」の「下高井戸」駅行きの電車。沿線案内の駅名がふだん聞き慣れない駅名ばかりなのでやっぱり旅情が湧いてきます。下高井戸駅 → 松原駅 → 山下駅 → 宮の坂駅 → 上町駅 → 世田谷駅 → 松陰神社前駅 → 若林駅→ 西太子堂駅 → 三軒茶屋駅。線路には雑草が生えて。そして「三軒茶屋」行きに乗る。東急田園都市線の三軒茶屋駅への通路の壁にあったモニュメント。そして東急田園都市線の三軒茶屋駅のホームのポスター。「八代目市川新之助初舞台」の襲名公演のポスター。12月5日に東京・歌舞伎座で開幕した。昼の部は、新之助が9歳で粂寺弾正役に挑む歌舞伎十八番の内「毛抜」で締めくくられた。中村梅玉演じる小野春道の屋敷を舞台に、新之助は粂寺弾正(くめでらだんじょう)役で各見せ場で見得を切り、愛嬌あふれる弾正を持ち前の明るさとおおらかさで表現しているとのこと。「市川海老蔵改め十三代市川團十郎白猿襲名披露 十二月大歌舞伎」ポスター。令和2(2020)年、新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐため、政府からの緊急事態宣言を受け、5月から7月までの3カ月間にわたり歌舞伎座で予定していた「十三代目市川團十郎白猿襲名披露」の公演を延期。この度、約2年6カ月の時を経て延期していた「十三代目市川團十郎白猿襲名披露 八代目市川新之助初舞台」の公演を、令和4(2022)年11月、12月の2カ月間にわたり歌舞伎座にて開催するのだと。そしてJRで渋谷駅経由で目的地の五反田駅に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.01.02
コメント(0)
元旦の朝、妻と湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出を愛でに行って来ました。地元の駅まで自転車を利用し6:05発の小田急線に乗る。コロナの状況から、2重にマスクを付け乗車。久しぶりに満員の電車に乗り藤沢駅で乗り換え、片瀬江の島駅に到着。時間は6:32。「片瀬江ノ島」駅。「弁天橋」から境川の上流を見る。「弁天橋」から国道134号に架かる「片瀬橋」越しに「江の島」を見る。「湘南海岸・片瀬東浜」への地下道を進む。そして「湘南海岸・片瀬東浜」に到着。久しぶりに、すでに多くの見物客の姿が。時間は6:40。殆どの方々がマスク着用、これぞ日本!!片瀬東浜から「江の島」そして「シーキャンドル」を見る。「シーキャンドル」をズームして。三浦半島方向の東の空もオレンジ色に染まっていた。「江の島」に車で渡る「江の島大橋」の下にも多くの人の姿が。今朝は、大潮であったのだろうか。海が引き砂浜が現れ、東浜から繋がっているようであった。先程のNHKテレビ・『「ブラタモリ」×「鶴瓶の家族に乾杯」新春スペシャル』でも「江の島」は陸繋島(りくけいとう)。陸繋島とは、砂州で大陸や大きな島と陸続きになった島のこと。普段は海の底だが、干潮時に海底が現れて、「江の島」と対岸の片瀬の浜が繋がる・「トンボロ現象」が発生しているのであると紹介されていたが。わずかな砂浜に多くの見物客が日の出を待っていた。振り返ると、富士山の姿も確認できた。ウインドサーファーの姿も。そして三浦半島の山の端の上の雲の上端が筋状に輝き始めた。時間は6:49。雲の上端の筋状の輝きも刻々とその姿を変えて行った。「初日の出」を待つ多くのサーファーの姿も。波、風も穏やかな元旦の相模湾。益々筋状の輝きが鮮やかに。「初日の出」もカウントダウン。そして「初日の出」。時間は6:55。見る見る家に、円形の太陽の姿が大きくなってきた。相模湾の水面も赤く染まり出して。そしてオレンジの帯が水面に現れ始めた。半分姿を表した初日。そしてオレンジ色の帯も輝きを増して。説明は不要な景色・空間であった。そして初日が完全に姿を現した。赤く染まった水面をズームして。「シーキャンドル」にも朝の陽光が射し込んで。手を合わせたくなる神秘的な光景そして時間。波打ち際まで何とか辿り着いて。国道134号沿いのマンションの壁も赤く染まって。富士山の頂にも初日の陽光が射し込んでズームして。そして、富士山の勇姿を見に片瀬西浜海岸に移動したのであった。 ・・・つづく・・・
2023.01.01
コメント(0)
「寺務所」に向かって進む。「受付」案内。招福猫児の置き物は寺務所で購入することが可能で、2センチほどの豆サイズから30センチほどの特大サイズまで、いろんな大きさが揃っていた。絵馬やお札、お守りも購入できるほか、御朱印もいただける。御朱印の受付時間は8:00~16:30で、300円。御朱印を頂きました。「本堂」、「納骨堂」を見る。見事な「相輪」を持つ「納骨堂」。「開祖堂」。「書院」前の石庭。紅葉、老松も美しく。「仏殿」の内陣を横から。井伊家の墓地に向かって進んで行った。「三重塔」を振り返る。左手にあったのが「無名戦士慰霊記念碑」。太平洋戦争における戦歿者の慰霊顕彰・平和祈願碑であると。「碑歌」(表面)「いくさの旅に さまよい果てたる はらからよ ここにかえりて やすらい たまえよ 日本大学教授 山田孝雄」「碑文」(裏面)燕が一羽とんできたからといって春がきたのではない。この記念碑が人々の情で生まれたからといって、永遠に平和がきたのだともいえない。けれども深く憂と悲しみの中にたおれた不幸な同胞の御霊の冥福と祖国が再び過ちを犯さないことを私どもは祈りつゞけたい。区内戦没者五千三百余柱の御霊並に九十三柱の御遺骨の供養のために有志相はかり、区民多数の心からなる浄財を集めて慰霊記念碑を建立した次第である。 昭和29年5月3日 平和紀念無名戦士慰霊記念碑建設会 建立」黄葉もエピローグの銀杏の樹の下が墓地への入口。「鳴鶴先生碑銘」。日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日) - 大正11年(1922年)1月27日)は日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。「鳴鶴先生碑銘は、 昭和8年に建てられ、鳴鶴の楷書碑から比田井天来が苦心して集字したもの。綺羅星のごとく居並ぶ門弟の中で、なかなか書き手が決まらずに、 月日が経ち結局集字することになったのだという。碑文は、47字33行、1429字に及び、 若干の文字の不揃いは見えるものの全体としてみれば整然とした楷書が連ねられていて天来の労苦がしのばれる。撰文は、内藤湖南。 篆額は、西園寺公望。篆額を、城所湖舟氏は、「天来書と見ました」と雑誌「凌雲」で述べている」 とネットから。墓門の前に明治34年に建てられた「遠城謙道( おんじょうけんどう) 師遺蹟碑」。遠城謙道は、旧彦根藩士で文政6年(1823年)に彦根で生まれた。15歳で鉄砲隊に入るが、藩医・堀田道策に医術を学んだのを始め、儒学や画を学ぶなどして、特に禅の修行を積んだことで武士の魂を磨いた。桜田門外の変における井伊直弼の死後、悲憤のあまり主君の旧恩に報じようと同志と老中に抗弁するも果たすことができなかった。その後、僧となり墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清凉寺の元で仏門に入り、名を謙道と改める。慶応元年(1865年)、妻と6人の子どもを残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺の豪徳寺に移り、井伊直弼の墓側に庵を建て、読経をして霊を慰めたといわれている。(彦根観光協会HP「石碑 遠城謙道師の碑」より)揮毫は、従二位勲二等伯爵井伊直憲卿。墓地の入口が正面に。背の高い石灯籠が両側に。銀杏も葉を落とし始めていた。「彦根藩主井伊家墓所」の門の手前右側に「六地蔵」があった。石仏。ズームして。漢字で・・・・。門柱の手前に案内板が。「国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所 豪徳寺井伊家墓所」案内板。「国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所 豪徳寺井伊家墓所」案内板。井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正三年(一五七五)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて三十万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永十年(一六三三)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が普提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院般・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(一六五八)に建てられた。直孝が没したのは万冶二年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、幕所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ケ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。」「豪徳寺 井伊家墓所全体図」墓地の中に門から入り進む。右手前方に多くの墓石が現れた。右手の墓石群。右奥にもズラッと墓石が並ぶ。理解のために「井伊家 略系図」を。下図の代数は1代ズレているが、以下の表記は「豪徳寺 井伊家墓所全体図」に従う。「普光院殿運峰◯錦禅童女」と刻まれた墓石。「榮壽院殿圓通智光大姉」と刻まれた墓石。「秀月院殿瑚岳凉珊禅童女」と刻まれた墓石。「普明院殿松月林庭大姉」と刻まれた墓石。「◯珠院殿◯能了◯大姉」と刻まれた墓石。「陽光院殿梅巖淳香大姉」と刻まれた墓石。「實性院殿凉室妙清大姉」と刻まれた墓石。正面に、2代井伊直孝(久昌院殿)の墓。豪徳寺中興開基で、法号は「久昌院殿豪徳天英大居士」。これも右手に6代井伊直恒(円成院殿)の墓。「圓城院殿從四位下前拾遺徳岩道隣大居士」第4代藩主井伊直興の十男。母は大橋氏。第5代藩主井伊直通の異母弟。井伊直矩・直惟・直定の兄。その右側に、9代井伊直禔(いい なおよし)(見性院殿)の墓。[1727~1754]江戸時代中期の大名。井伊直惟の次男。叔父井伊直定の養子。宝暦4年近江彦根藩主井伊家10代となる。在任2ヵ月余の同年死去。「見性院殿従四位下前拾遺観刹了因大居士」井伊直孝(久昌院殿)の墓の左側に10代井伊直幸世子・直富(龍泉院殿)の墓。写真右に2代井伊直孝・側室・春光院殿の墓。左に「青松院殿榮覺祖春大姉」と刻まれた墓。中央に「本光院殿瑞岩禅大姉」と刻まれた墓。井伊直弼の墓に向かって進む。右から10代井伊直幸(いい なおゆき)(大魏院殿)の墓。中央 10代井伊直幸・正室(梅暁院殿)の墓。左 9代井伊直禔・継室(清蓮院殿)の墓。継室は、最初の正室との死別や離婚を受けての当主の正式な再婚により迎えられた後妻を指す。そして13代井伊直弼(いいなおすけ)(宗観院殿)の墓。墓石に近づいて。井伊直弼は井伊直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで寛永3年(1850)4月大老になる。勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ケ国条約に調印。また紀伊藩主徳川慶福(十四代将軍徳川家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜(のちの十五代将軍徳川慶喜)らを抑えるという強い政策を実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、遂に万延元年(1860)3月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。石碑には「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」の文字。因みに以前、世田谷区と東京工業大学が墓の下3 mまで調査したところ石室がないことが判明したとのこと。遺骨は何処に?「彦根城十三代藩主 直弼公募所」。「井伊直弼墓井伊直弼は、文化十ニ年(一八一五)、彦根十一代藩主・直中の第十四子として生まれた。青年期は部屋住みとして城外の埋木舎(うもれぎのや)に閑居したが、兄・直元の死去により十ニ代藩主・直亮(なおあき)の跡継ぎとなり、嘉永三年(一八五〇)に十三代藩主となった。安政五年(一八五八)四月、大老職に就いた直弼は、天皇の許可を待たず日米修好通商条約に調印し、ついで、十三代将軍・家定の後継者を紀伊の徳川慶福(よしとみ)(後の家茂)とすることで決着をつけた。こうした直弼の強い政策に異を唱える者たちを処罰し安政の大獄をはかったが、遂に水戸浪士らの襲撃をうけ、安政七年(万延元・一八六〇)三月三日、桜田門外で暗殺された。享年四十六。」歩いて来た参道を振り返って。13代直弼正室(貞鏡院殿)墓。左は12代藩主井伊直幸・三男、井伊直富・正室(守真院殿)の墓。「守真院殿滿光貞詮大姉」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.01
コメント(0)
皆さん 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2023年(令和5年)のスタートです今年も健康に注意し、つつましく堅実な日々を刻んで行きたいと考えています。--------------------------------------------------------------------------------------------「磯山弁財天」そして「出流原弁天池」を後にして「まちの駅 無料駐車場」に戻る。入口の銀杏の黄葉が水面に映る「逆さ銀杏」を再び。「三番池」に映り込む「磯山」の黄葉を再び「磯山弁財天」の「本殿」の姿も磯山の中腹に見えた。車に戻り「磯山弁財天」の「本殿」から見えた「赤見温泉 フィッシングフラワーパーク」の奥の池に向かい進むが、木々が邪魔して池の全貌、「磯山弁財天」の「本殿」も見えなかったので引き返し、「出流原 フィッシングフラワーパーク駐車場」近くで車を下りて、一人で奥の池に向かって歩く。。こちら側からは池の姿も良く見えた。「五重石塔」。更に奥に進む。池の中にある小島の黄葉、そして磯山の中腹に立つ「磯山弁財天」の「本堂」が見えた。「磯山弁財天」の「懸造り(かけづくり)」の「本堂」をズームで。この姿を見たくてここまで足を延ばしたのあった。小島の銀杏も黄葉のピーク。赤のモミジも。この辺りはこれからがピークか。「磯山弁財天」の「懸造り(かけづくり)」の「本堂」と池周囲の紅葉とのコラボをカメラで追う。陽光が射し込んで欲しかったが。ズームして。そして、旅友の待つ車に急ぎ足で戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.01.01
コメント(0)
全39件 (39件中 1-39件目)
1