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花巡りの一人旅の最後は江の島ウィンターチューリップを訪ねる事を決断。江ノ島電鉄を利用し向かうこととする。江ノ島電鉄線は、鎌倉市御成町の鎌倉駅から藤沢市片瀬海岸一丁目の江ノ島駅を経て同市南藤沢の藤沢駅に至る、江ノ島電鉄の鉄道路線。1902年(明治35年)に藤沢 - 片瀬(現・江ノ島)間が開通し、1910年(明治43年)に小町(現・鎌倉)までの全線が開通した。「江ノ電」として広く親しまれているのです。路線距離(営業キロ)は10.0 kmであり、駅数は15駅。『鎌倉』と書かれた駅名表示板にはひらがな、ローマ字、ハングル文字、中国語でも。 ホームに貼ってあったポスターには湘南海岸と江の島、富士山、江ノ電が描かれていた。 乗車する電車がホームに入って来た。早朝・深夜をのぞき12分間隔で運行され、所要時間は藤沢 - 江ノ島間10分、江ノ島 - 鎌倉間23分、藤沢 - 鎌倉間34分。 稲村ヶ崎駅を過ぎると、相模湾に浮かぶ江の島の姿が現われた。 江ノ島駅で下車し洲鼻通りを江の島に向かって進む。 江ノ島電鉄、通称・江ノ電では「江ノ島駅」、湘南モノレールは「湘南江の島駅」小田急線は「片瀬江ノ島駅」、そして島の名前は「江の島」しかし島の中にある神社は「江島神社」と「の」なし。「ノ」、「の」、有無と使い分けが難しいのです。藤沢市片瀬海岸と江の島を結ぶ橋・江の島弁天橋を渡る。人道橋の江の島弁天橋が架けられたのは明治24年だが、台風でよく流されたため、昭和24年に橋脚をコンクリート杭とし、その後昭和28年、PC橋に改修された。車道橋の江の島大橋は、東京オリンピックのヨット競技のため江の島港が建設されたことによって架けられたのです。 江の島の姿がだんだん大きくなる。 江の島弁天橋を渡ってすぐにあるのが青銅製の鳥居。この鳥居は、1747年(延享4年)に建立され、1821年(文政4年)に再建されたもの。鋳物師:粉川市正藤原国信、世話人:浅草新鳥越の八百屋喜四郎、願主:新吉原の扇屋宇衛門、大黒屋勘四郎、松葉屋半蔵といった名が銘文に刻まれている。寄進者の中には花魁(おいらん)代々山という名もあると。この鳥居から、瑞心門前の朱塗りの鳥居までが江島神社の門前町で、旅館、土産物屋、食堂などが並んでいるのです。鳥居には龍が施された「江島大明神」の額が掲げられているが、以前は「大弁財天」という額が掲げられていたのだと。 江戸時代から今日まで変わらない幅が約2.75mの賑やかな弁財天仲見世通りを通り抜けると見えてくるのが、鮮やかな朱の鳥居。現在の鳥居は、昭和11年(1936年)山田流筝曲の家元・林敏子が再建・寄進したもの。鳥居の隙間から見えるのが江島神社の御神門。竜宮城を模して造られたもので「瑞心門」と呼ばれているのです。 弁財天童子像。「弁財天童子像建立之記」刻印説明文によると『平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。縁起に曰く、「欽明天皇13年卯月12日、戌刻より23日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く 蔽いて、天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神類夜叉羅刹、雲上より 磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後、竭雲収まり軽霞まきしりぞいて、海上に忽ちに 一つの嶋を成せり。即ち江野にまぞらえへて、これを江野嶋という。天女、雲上に顕れ、 白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることと なりしを伺い知ることが出来る。折りしも当神社御鎮座1450年を向へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり。』 江島神社の辺津宮に到着。江島神社の境内には辺津宮、中津宮、奥津宮の三つの宮があるのです。辺津宮は旧下之宮であり、田寸津比賣命を祀る。建永元年(1206年)源実朝が創建。権現造の社殿は延宝3年(1675年)に再建。そして更に歩を進めると中津宮が。中津宮は旧上之宮であり市寸島比賣命を祀る。853年(仁寿3年)創建。権現造の社殿は1689年(元禄2年)に改築。 そして目的地の江の島サムエル・コッキング苑に200円を払い入場。明治時代の英国人貿易商「サムエル・コッキング」に由来した和洋折衷で南国ムード溢れる植物園。江の島頂上部に位置する、ここ江の島サムエル・コッキング苑では、この時期に2万本のチューリップが一斉に花を咲かせ、暖かい太陽の光を体いっぱいに受けているのです。 ウィンターチューリップの特徴はその花期の長さ。一ヶ月以上も素敵な色を見せてくれるのだと。 苑内を巡り、様々な色のチューリップの花を楽しんだのです。 昆明広場(春澤園)。本格的な中国伝統建築様式の四阿(あずまや)騁碧亭(ていへきてい)。 孔雀のブロンズ像が設置されていた。江の島サムエル・コッキング苑から江ノ島ヨットハーバーを見下ろす。 江の島シーキャンドル。海抜106.6m(地上からの高さ46.8m)の江の島展望灯台。再び戻り、様々な色、種類のチューリップをズームで撮影。 夜には江の島シーキャンドルライトアップ『光の大空間』が開催されると。江の島シーキャンドルから360度の範囲に吊るされるイルミネーションを作り上げる『光の大空間』。最大70mを超える直径を有する光の大空間は日本有数の規模を誇ると。 年は、6万個のクリスタルビーズと流木を使用した全長10mの『湘南シャンデリア』青のトンネルが登場。チューリップの上にもイルミネーション用LEDが。 2020年の東京オリンピックのセーリング競技会場は江の島に決定したのです。既にその準備工事が始まっている模様。1964年の東京オリンピック当時は「ヨット」と呼ばれていましたが、2000年のシドニー大会から「セーリング」という名称に変更されたのだと。 江の島弁天橋の巨大な龍の石灯籠。 そして帰路は小田急線で戻ることとし、片瀬江ノ島の弁天橋を渡る。 片瀬江ノ島駅の駅舎は竜宮城を模したユニークなデザイン。 朝6時過ぎから動き回り、熱海梅園、糸川あたみ桜、鎌倉のぼたん園、鶴岡八幡宮、江の島チューリップを訪ねた『花巡りの旅』も終わり16時前に帰宅したのであった。
2017.01.31
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『鎌倉散策 目次』👈リンク鶴岡八幡宮境内配置図。 齋館入口(中央)そして神苑ぼたん園の券売所と入口(右)。源氏池の岸には多くの鳩が。 源氏池の島の中にある旗上弁財天社。 そして流鏑馬馬場を通り、中央参道へ。 手水舎。 舞殿。 舞殿は、1193年(建久4年)に新造された唐破風の入母屋造りの建物。下拝殿とも呼ばれ、各種儀式が行われているのです。酒樽。多くの日本酒酒造メーカーの樽が並んでいます。左下にはビールも。そして本殿に向かう階段手前の左側には大銀杏の切り株が。2010年3月の強風で樹齢1000年の木が倒れてしまったのであった。倒れた幹の根元から新しい枝が伸びています。 階段上には本宮(上宮)が。1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝が遷座した鶴岡八幡宮は、1191年(建久2年)3月4日の鎌倉大火によって焼失。しかし、頼朝はすぐさま鶴岡八幡宮の再建に取りかかり、若宮の再建とともに本宮(上宮)を造営し、1191年(建久2年)11月21日、改めて京の石清水八幡宮の祭神を勧請した。本宮は、町で起こった火災から防ぐため、大臣山の中腹を削り造営されたと。毎年、12月16日に行われている「御鎮座記念祭」は、頼朝が催した石清水八幡宮の「神霊を迎える儀式」(遷宮の儀)を再現したもの。現在の本宮は、1828年(文政11年)、江戸幕府十一将軍徳川家斉の命により水野忠成を奉行として竣工したもの。1923年(大正12年)の関東大震災で倒潰したが修造された(国重文)。本宮祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)と神功皇后(じんぐうこうごう)。本宮(上宮)楼門に掲げられた額の「八」の字は、神聖な神の使いとされている二羽の鳩で表現されている。神仏混淆であったため「八幡宮」の下に「寺」という字があったが、明治の神仏分離によって消されているとのこと。 鶴岡八幡宮の象徴「随身門」の入り口両側には、仁王様でなく、随身(=平安時代以降、貴人護衛にあたった武人)が鎮座している。随身門の守護者である随身像は、向かって右の随身像(阿形)は刀を持って鎮座。向かって左の随身像(吽形)は矢を持って鎮座。 本宮にて参拝。本宮の巨大な正月用のお賽銭箱。 再び楼門下から舞殿を見下ろす。 御祈祷受付所。 御朱印を頂きました。 参道にあった「一筆書」の店。 一筆書きの蛇が幸運・開運の絵として人気があると。参道の巨大石灯籠。1862年(文久2年)、江戸と大坂の砂糖問屋が砂糖船の航海の安全を祈願して奉納したもの。左側が大坂でこの右側が江戸のもので、それぞれ「砂糖店」と刻まれている。左手には鎌倉七福神めぐりの旗上弁財天社への入口。源頼朝の旗挙げに際しては、家運長久の守護神として弁財天が現れ、霊験があったと伝えられ、旗上弁財天社は、北条政子が建立したものとも伝えられている。弁財天は仏教の守護神であることから、明治の廃仏毀釈で破壊されたが、1956年(昭和31年)に再興され、現在の社殿は、鶴岡八幡宮創建800年にあたる1980年(昭和55年)に、文政年間の古図をもとに復元されたもの。太鼓橋。太鼓橋は、1182年(寿永元年)、源平池が造営されたときに架けられたものと考えられていると。将軍家が鶴岡八幡宮に参拝するときは、この橋で輿を下乗したという。当時は朱塗りの板橋であったことから、「赤橋」(あかはし・あかばし)と呼ばれていた。鎌倉の古絵図にも「赤橋」と記されていると。 帰路は小町通りを歩き鎌倉駅へ。先日、旅友のSさんが宴を楽しんだイタリアンレストランの店を確認。小町通りは若宮大路から一本鎌倉駅寄りにある鶴岡八幡宮までの長さ360メートルの商店街。鎌倉のメインストリート的存在で、レストラン・カフェ・お土産・雑貨・ブティックなど250以上の店舗が軒を連ね、多くの観光客で賑わうのです。蜂蜜の杉養蜂園の出店。マヌカ蜜と書かれた幟が店頭に。マヌカとは灌木種の一つで、ニュージーランドにのみ自生するフトモモ科の低木。ニュージーランドの原住民であるマオリ族が薬として使っていた木で、この木の花から集められた花蜜から作られるはちみつをマヌカハニー又はマヌカ蜜と呼んでいるのです。そして鎌倉駅に到着。
2017.01.30
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『鎌倉散策 目次』👈リンク牡丹は中国の国花。赤い花が最高とされていたが、種子から育てると同じ色にならないため接木で増やされたので、牡とみなされ、牡(おす)丹(赤色)から牡丹という名前になったとのこと。それを音読みしてボタンと呼ぶようになったと。花言葉は「王者の風格」「富貴」「恥じらい」「高貴」「壮麗」。そして神苑ぼたん庭園で、様々な名前のついた牡丹が楽しめたのです。「島錦」 「連鶴」「白玉獅子」 「新日月」「百花殿」「紅輝獅子」「紫紅殿」「聖代」 手前の「八千代椿」と奥の「連鶴」「島錦」紅に白絞りの入る美しい花。日本で誕生した突然変異種「島錦」。「島大臣」 「八千代椿」 手入れされた牡丹園。 「富士の峰」 「連鶴」純白色で子房も白色となる千重・抱え咲き品種。 手前の「島錦」と奥の「太陽」 「島錦」 「太陽」 「聖代」 「明日香」ここにも「富士の峰」 湖石の庭。湖石の庭を別角度から。中国蘇州市園林管理局・蘇州市古典園林建築公司の技術者によって自然の太湖石を使って造成された庭。太湖石(湖石)とは、中国江蘇省の太湖という湖の底から掘り出された石灰岩に属する天然の名石。中国の名のある庭園には、必ずといってよいほど湖石の石組がみられるそうです。我が国でも古来より「牡丹には太湖石」を描いてきたようです。絵画では日本人に親しまれてきたものの、実物を見ることができませんでしたが、1984年(昭和59年)、宗之光・李清中国駐日大使夫妻のはからいでここ鶴岡八幡宮の「神苑ぼたん庭園」に寄贈されたのだと。牡丹園の先にある「齋館」とその庭。大きな祭典に奉仕する献幣使をお迎えしたり、神職がお籠りをする館。鎌倉・鶴岡八幡宮の境内の東南部、源平池に沿って造られた廻遊式日本邸園に100品種、1,000株の今が見ごろと咲き誇っている牡丹の艶やかな姿を大いに楽しんだのです。
2017.01.29
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は何故か花に誘われ、熱海の梅、桜の帰りに鎌倉まで足を延ばしたのです。鎌倉駅東口から「バス通り」に出ると、南北に伸びた幅広い道路が。左手に朱の大きな二の鳥居があり、その下に段葛(だんかずら)が見えた。治承4年(1180)10月6日、鎌倉入りした源頼朝は都市つ造りに着手。先ず由比郷にあった八幡(元八幡)を小林郷(現在の鶴岡八幡宮)に移し造営。若宮大路は、養和2年(1182)3月、京の朱雀大路に倣って築造が開始された。若宮大路は、由比ガ浜の一の鳥居まで、1800mに渡って続いている。鎌倉の町造りはこの大路を中心に造られて行ったのだ。狛犬 右 阿像。 狛犬 左 吽像。二の鳥居。 段葛は、頼朝の夫人・北条政子が、二代将軍・源頼家を懐妊した時、安産を祈って養和2年(1182)3月、北条時政以下の御家人と共に、土石を運んで築いた。段葛は、道の中央に段2檀を築き緑石を兼ねる葛石を並べて一段と高い道と云うもので段葛の名はこの段の葛石にちなんでいると。2014年(平成26年)11月から、参道を支える石積みのひび割れ修復と、立ち枯れが目立ち始めた桜の植え替えのため、平成の整備工事が実施され、2016年(平成28年)3月30日に竣功。道は、鶴岡八幡宮に向かって近つ”くほどに狭くなる遠近法を利用して、軍事上長い道と錯覚させる為と云われているのです。 遠くに鎌倉・鶴岡八幡宮が。ズームで撮影。 段蔓の両側に新たに植えられている桜の木々の幹径は約10cm。昔の姿には程遠いが、今春には花を咲かせてくれるであろう。段蔓の両側には寄進された石灯籠が並んでいた。 そして段蔓の中央付近左右には、両側の道に出られる場所が唯一1ヶ所。現在の段葛は二の鳥居から三の鳥居までの約500m。三の鳥居そしてその先に舞殿(下拝殿)そして鶴岡八幡宮(本宮)が。三の鳥居前も交差点。 その先に太鼓橋が。 段葛から大鳥居の傍を通って境内にはいると、すぐ右手に神苑ぼたん庭園が。鶴岡八幡宮の源氏池畔の神苑ぼたん庭園では、「正月ぼたん」と「春ぼたん」が楽しめます。神苑ぼたん庭園は、鶴岡八幡宮の創建800年を記念して造られた回遊式庭園。約100品種1000株の「ぼたん」が植えられていると。 入場料は500円。藁囲いの下に正月ぼたんが。この日は1月19日、大部分の正月ぼたん(冬ボタン)が見頃を迎えていた。これには理由があるのでした。ネット情報によるとここ鶴岡八幡宮の冬ぼたんは鎌倉で栽培管理しているのではなくて、島根県の大根島で育成した冬ぼたんを秋に鎌倉に数千株持ってきて、そして順調に開花したものを神苑ぼたん苑に植えているとのこと。赤も時間とともに変化しているのです。 花の前には、牡丹の名前の札が置かれていた。白いや純白。 大輪のバラのごとし。 正月ぼたんの特徴は それぞれのぼたんが藁囲いで包まれておりその景観は冬季でしか楽しむことが出来ない独特な美を持っているのです。藁囲いは雪が似合うのであるが。 今後もし積雪があれば、藁囲いに雪が積もり、白川郷の合掌造りの如く独特の美が期待できるのです。鎌倉地域に積雪があれば、写真愛好家の方々がカメラ片手に押し寄せること間違いなしなのです。様々な花を順番に楽しんだのです。
2017.01.28
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花の色は淡い紅色で、花径25ミリから35ミリくらいの中輪。一重咲きで花びらは5枚、花びらの形は楕円形。一総につく花の数は1から3輪。散りぎわには花芯が赤味を帯びて来るようである。 手書きのあたみ桜 案内板。 明治4年頃、イタリア人によって、レモン・ナツメヤシなどと共に、熱海にもたらされたのだと。それにしても濃いピンク色。更にアップで。 こちらも頑張って咲いています。 蕾の色は淡い紅色。ブーゲンビリアも濃い紫の花を。しかし、色づいた花びらに見える部分は花を取り巻く葉(包葉)であると。既に散っている花びらも。 ミニサイズの 花筏(はないかだ)。柳橋。ザバーン!波をモチーフにしたダイナミックなデザイン。 波頭の上ではカモメ?がサーフィン中。その先には渚橋。糸川遊歩道終点の、国道135号線(下り)に架かっています。最も海に近い橋。 渚橋の手前には歩行者専用の橋も。こちらも波をイメージした感じ。 渚橋から糸川上流を。 「ぶらり立ち寄りの湯 あたみ桜まつり」の幟。ぶらり立ち寄りの湯は魅力的であったが、ぐっと我慢・・・・。 南欧コートダジュールをイメージした「スカイデッキ」を歩く。ヨットハーバーとその先に熱海後楽園ホテル、山の上には熱海城。 熱海城をズームイン。 遠く初島の姿が。 サンビーチ及びムーンテラスは 「恋人の聖地」に認定されており、テラス尖端の噴水には恋人達が愛を誓い合う事の出来るモニュメントが。 釜鳴屋平七(かまなりや へいしち)夫妻の像とその両側にもあたみ桜が。釜鳴屋平七とは幕末の一揆指導者とのこと。文政11年生まれ。伊豆(いず)熱海村(静岡県)の網主。鮪(まぐろ)網の権利の独占をはかる村役人に対し、網子の側にたち安政6年(1859)韮山(にらやま)代官所に直訴。捕らえられて入牢ののち遠島に処され、八丈島へおくられる途中の大島で文久3年11月4日死去した人物とのこと。 夫婦でどこを見つめているのであろうか? 最期の地 大島?階段の脇の壁には。 沿道に椰子の木が立ち並ぶ、南国ムード漂う綺麗な人口海水浴場「熱海サンビーチ」であるがこの日は人っ子一人いなかった。 ブラジル椰子か? 黄色の実がたわわに。 初島の全景が見えた。熱海から高速船で30分の「初島」、東京から最も身近な離島リゾート地「初島」 公園にあったこのモニュメントは??二代目 お宮の松。尾崎紅葉の新聞小説『金色夜叉』の中で、間寛一とお宮の熱海海岸での別れの場面の舞台になったといわれている。初代の松は道路の中央にあり、「羽衣の松」と呼ばれていたが1919年8月に紅葉の弟子の小栗風葉により、金色夜叉の句碑が建立されたことから、お宮の松と呼ばれるようになったと。初代 お宮の松 は排ガスにやられて枯れてしまったと。当時の姿を思い起させる太い幹が展示されていた。貫一お宮の像。明治時代から多くの文豪たちが居を構え、名作を執筆した熱海。その中でもひときわ有名なのが、 明治30年より6年間「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載された 尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(こんじきやしゃ)。この小説にちなむ「お宮の松」と、「熱海の海岸散歩する・・・」で始まる歌謡が一体となり、爆発的に流布し、主人公「貫一・お宮」はあたかも実在の人物のように 国民の心をとらえて離さない存在となったと。「貫一・お宮の像」そして「お宮の松」は海岸の国道沿いにあり、観光写真スポットとして多くの人が訪れているのだと。観光地・熱海を象徴する存在とも言える貫一お宮の像に、昨年、1枚の金属プレートが設置されたのだ。この縦10cm×横40cmという、小さなプレートが物議を醸したと。そこには日本語と英語で、「物語を忠実に再現したもので、決して暴力を肯定したり助長するものではありません」と書かれているのであった。30年以上前(1985年)に建立された像に、なぜ今さらこんな弁解が必要なのであろうか?? そして海岸道路にあるバス停で熱海駅行きのバスに乗り熱海駅まで戻ったのであった。
2017.01.27
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海岸に向かって下り坂を歩いていくと「早咲き日本一 あたみ桜 糸川桜まつり」の案内板を発見。「市役所第3庁舎」の敷地の「御殿稲荷」とあたみ桜。糸川遊歩道に到着。糸川は「いとかわ」ではなく「いとがわ」のようだ。 熱海市内中心部を流れる糸川は、川沿い300m程の糸川遊歩道に早咲きの「あたみ桜」が約60本植えられていて、例年、開花の時期に糸川桜まつりが開催されるのです。今年は第7回目を迎え、1月21日から2月12日まで開催され、期間中の17時から23時までライトアップされるとのこと。 今年は予定より開花が1週間以上早いようです。この日は祭り開催日の2日前でしたが既に満開状態。糸川に架かる橋の欄干には「あたみ桜 糸川桜まつり」の案内板が。糸川遊歩道マップ。このへんはかつての赤線跡。糸川花街と呼ばれたエリアとのこと。 あたみ桜は、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西に自然分布するヤマザクラとの自然雑種がルーツとされ、開花期は1月で沖縄のカンヒザクラと並んで日本で最も早く咲く桜として知られている。開花期間も1ヶ月以上と長いのも特徴。 遊歩道にはタコのオブジェが。でろ~んと垂れ下がって花見の真っ最中か? ブーゲンビリアも負けじと。 桜の花と戯れるメジロがすばしっこく動き回っていた。花の蜜を吸っているようです。残念ながらミツバチの姿は見かけませんでした。 糸川遊歩道に架かる橋の中でも、一番人気のドラゴン橋 。ユニークな欄干。 反対側の橋脚のドラゴンは口を閉じていました。 亀も花見に。 あたみ桜標準木。 「熱海桜」と刻まれた石碑。橋のたもとには「坪内逍遥 歌碑」がありました。明治の文豪、坪内逍遥(つぼうち しょうよう 1895-1935)は、水口町の双柿舎に移るまでの約9年間、この糸川べりの荒宿(現在の中央町)に別荘を新築して住んでいた。「ちかき山に ゆきはふれヽと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せうえう」 と。後ろにはどこかで見かけた人物の姿が・・・・・。アロエの花とあたみ桜。 残念ながらこの日は青空ではなかったのです。 反対側の遊歩道をもう一度歩く。 ドラゴン橋が再び眼前に。
2017.01.26
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韓国庭園を後にし、帰路は別の道を歩くと前方に紅白の梅花が拡がっていた。 白梅も。 白の清楚。 ピンクの情熱。 黄の自信、こちらの蝋梅も負けじと。 梅園内の初川清流をバックに。 ピンクの梅の花にも様々な濃淡が。 ズームで。 行く時は閉まっていた売店も開店の準備中。春を告げる”ウグイス笛”の店。 「雨風にめげず寄り添う夫婦松」。 かなり背の高い夫婦松。 再び入口正面の皇室献上梅の冬至梅。毎年、天皇誕生日に皇室献上されるところから「献上梅」ともいわれる冬至梅(白)と八重寒紅〔紅)。散策すること1時間半弱。約60種、500本近い梅園の梅たちですが、早咲きの梅の中にはすでに見ごろを迎えているものも多くあったのです。開花のピークは2月初めか? そして坂を下り、再び来宮駅前に。こちら側が駅の正面の様だ。そして熱海警察署の前を通り糸川桜を見に更に歩を進めたのであった。しかし何故に熱海警察署が熱海駅近くになく、来宮駅前にあるのだろうか?
2017.01.25
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熱海の梅園と桜を見に行ってきました。自宅を6:15に出発し、東海道線に乗り換え熱海駅で下車し更に伊東線に乗り換えました。 熱海の次の駅の来宮駅で下車。駅前は南国風情?の背の高いヤシの木が中央に。駅前の桜は熱海桜でしょうか。 駅前には、「熱海梅園 梅まつり」 の幟が並んでいた。 そして坂を上っていくと、駅から10分ほどで熱海梅園前に到着。 熱海梅園内を流れる初川沿いの梅はピンク、白とも満開直前。下の黄色は菜の花ではなくゴールデンモップと言うサワラの仲間。 入口の紅白の梅は五分咲き。 梅まつり(右)と糸川桜まつり(左)のポスター。熱海梅園入口。8:30までは入場無料なのです。昨年、これを知り今年も早朝出発したのです。 真っ先に咲き始める「八重寒紅」と「冬至梅」は三分咲き。その間に梅園と刻まれた石碑。 木瓜も真っ赤な花を。 こちらは黄色の花が負けじと。八重咲蝋梅。 こちらの梅は濃いピンクの花で満開。 木橋「雙眉(そうび)」はその名のとおり、女性の優美な細い眉を連想させる名前。早朝の為、まだ人の姿はなし。 白梅 。五枚の花弁と多くの雄しべそして先っぽの黄色いのが花粉。白梅が紅梅を追いかけて花をひらかせていました。 ズームで。 澤田政廣記念美術館への橋。 韓国庭園 。平成12年9月23日、森善朗内閣総理大臣と大韓民国の金大中(キム・デジュン)大統領の日韓首脳会談が熱海で行われた。翌日、両首脳が梅園内を散策された。それを記念して、平成14年8月29日大韓民国の伝統的様式と手法を取り入れた庭園が完成。朝鮮時代における両班の家。 建物の様式は、朝鮮時代初期(16世紀)、特に朝鮮半島南部の特徴ある一文字形の様式を保ったスタイル。マルと呼ばれる四方に壁のない開放的な部屋には自然との一体感が感じられると。 家屋の中には典型的な朝鮮半島の貴族の人形が。 瓦張り土塀。瓦張り土塀は瓦で細工された塀で、下部は玉石張りに。信長塀と同じ造り。 大門は、朝鮮時代中期の四柱門の様式で、梁の上部には雲の形をした雲板が施され柱の根本には「天・地・人」の宇宙の構成原理を表現した、三太極が彫られていた。 中山晋平記念館の入口門。 中山晋平記念館。 大正初期から大衆音楽の普及に大きな足跡を残した著名な作曲家中山晋平の別荘として昭和10年に熱海市西山町に建築され昭和19年空襲がはげしくなったのを契機に熱海市に移住。昭和27年の亡くなるまで間、作曲活動をしていた建物を日本ビクター株式会社より寄贈を受けて平成3年4月、中山晋平が居住していた当時そのままの姿でこの梅園に移築したのだと。庭には黄花亜麻(きばなあま)が満開に。 インド北部から中国にかけての山地が原産で、中国では、「雲南月光花」とか「迎春柳」と呼ばれるそうです。
2017.01.24
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鎌倉・寿福寺の後は、鎌倉駅まで戻り再び横須賀線下り電車に乗り、衣笠駅を目指す。約20分でJR衣笠駅に到着。この駅で下車するのは高校時代以来半世紀ぶりなのであった。 徒歩で衣笠十字路へ向かう。 交差点で地下に潜り、地下通路を渡り地上に出て右に行くと京急・衣笠十字路のバス停へ到着。 京急バスに乗り15分ほどで「南武(みなみたけ)入口」で下車。東漸寺へ向かう道の石垣のあちこちにピンク色の小さな球状の花が咲いていた。ヒメツルソバ(ポリゴナム)というヒマラヤ原産の植物のようだが? 徒歩数分で東漸寺に到着。 1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵の折、頼朝に味方した三浦義明の五男、義季(義秀)が屋敷を使い、阿弥陀如来を御本尊とする浄土宗の寺院として建立したと。三浦氏の居城、衣笠城を抜けて南西へと走り、林のロータリーで国道134号につながる県道26号線(三崎街道)沿いにあった。「松得山 東漸寺」と刻まれた石碑。階段脇のお地蔵様。六地蔵であろうか?東漸寺山門 山門の扁額「松得山」。「われは今 佛のみ子となりぬれハ 慈悲のふかさに 誰もうらまず」 山門をくぐり更に階段を上ると正面に風格ある本堂が姿を現した。鎌倉二十四地蔵の一つ日金地蔵は、もとは鎌倉の雪ノ下にあった松源寺の本尊であったが、神仏分離令によって長谷寺に移され、さらに転々とした後、大正時代にこの衣笠の東漸寺に安置されたのだと。よって鎌倉二十四地蔵の御朱印を頂きにはるばる衣笠まで。本尊:阿弥陀如来。開基:長嶋義秀開山:性真和尚 本堂右手に動物霊堂。 水子観音。 観音像。 木魚の上で眠る子供の僧侶の下に先程と同じ詩が刻まれていた。 お掃除小僧 。合掌廟。合掌廟内に安置されている阿弥陀如来。境内の稲荷神社。 御朱印を頂きに寺務所に行くと住職の奥様? が朱印帳を預かられ、「御朱印が出来上がるまで、どうぞお堂内でお参り下さい 」 と招じられたのです。境内を戻り靴を脱ぎ本堂に入ると、かの『徳川』家由緒の『増上寺』末寺というだけに、彩色彫刻等装飾の豪華に施された内部にビックリしたのであった。 本堂内。本尊 阿弥陀如来の御姿。こちらにも多くの仏像が。 右手が日金地蔵尊であると、先ほど奥様?から。 日金地蔵尊は横須賀市重要文化財。本堂前にはブルーシートに覆われた鐘の如き姿が。 境内におられた寺の関係者?から鐘楼が改修工事中であると。完成までは2年以上かかると。 鎌倉二十四地蔵尊の第19番の「日金地蔵尊」 の御朱印を頂きました。源頼朝が、伊豆十国峠にある日金山東光寺の地蔵菩薩へ源氏再興を祈願したところ、鎌倉幕府を開く事が出来たことから、それを模した地蔵菩薩を鎌倉・松源寺へ安置したと。 階段を下りると、脇には江戸時代に建てられた石碑が。「南無阿弥陀仏」と刻まれていました。六十六部供養塔でしょうか?表面に六十六?と刻まれた文字が。法華経を六六部書き写し,日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった行者を六十六部行者と言うと。鎌倉時代から流行。白衣に手甲・脚絆(きやはん)・草鞋(わらじ)がけ,背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い,六部笠をかぶった姿で諸国をまわったと。バスで衣笠十字路まで戻り、帰りは線路沿いの衣笠大通り商店街を歩く。衣笠通り沿いに軒を連ねる商店街。全長300メートルほどの片側式アーケードが設けられた衣笠のメインストリートである。昭和のレトロさを感じさせるなんとなく懐かしい雰囲気の商店街なのであった。東漸寺の御朱印を最後に、鎌倉の・鎌倉二十四地蔵尊・鎌倉五山・鎌倉三十三観音・鎌倉十三仏・鎌倉七福神の全ての札所・社寺を巡り御朱印を頂いたのであった。 そして頂いたすべての御朱印がこの御朱印帳に納められているのである。平成27年9月21日にスタートし、約1年4ヶ月で制覇・走破したのであった。 御朱印とは、寺院や神社に参拝していただくことが出来る御宝印や社名を朱で押した印と御本尊名や社名などが墨書きされたもの。その寺社に参拝した証、記念のいただきもの、旅の想い出になるものなのであった。頂いた御朱印は墨色と朱色のコントラストが非常に美しく、また、個性あふれる筆づかいや押し印のデザイン性などから真にアートとしての側面を持っているのです。 古い書体の文字や梵字、寺社にゆかりのある動植物をモチーフにした押し印など達筆で力強いものばかりでなく、可愛いものやユーモラスなものまで多種多様な御朱印を頂いたのです。 御朱印そのものがその場で「墨筆手描き」とあって、普段文字を書く機会がだんだん少なくなった(最近は特に)私にとっては、新鮮に映ったのであった。そして御朱印を頂く為に待つ間の「御朱印ガール」、「御朱印シニア」との一期一会の会話も楽しく、かけがえのない時間・空間なのであった。 そして頂いた御朱印はそれを見ているだけでも心安らぐものであり、記念写真のように楽しい、懐かしい寺社巡りの想い出であること間違いなしなのである。そしてこの御朱印帳は現在は我が家の神棚に保管してあるのです。 そしてnext challengeは、暖かくなってから『 四国八十八ヶ所霊場+四国別格二十霊場(お遍路)』を同じく御朱印帳片手に旅友のSさんと巡りたいと思っているのです。
2017.01.23
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『鎌倉散策 目次』👈リンクこの日は鎌倉・寿福寺を訪ねました。横須賀線の鎌倉駅で下車。西口に出ると右手に小さな広場がありそこに時計台が。時計台は、1916年(大正5年)に建てられた旧駅舎の象徴だったもの。長い間、「とんがり帽子の時計台」として市民に親しまれているのです。鎌倉駅西口を出て駅前正面のロータリーを鎌倉市役所方面に進み、約100m先の「市役所前」の信号を右に曲がり、そのあと道なりに進むこと約10分で寿福寺に到着。寿福寺は、昨年に続いてこれで何回目の参拝となるのでしょうか。鎌倉五山第3位の寺格の寺。その他鎌倉十三佛霊場の第4番「普賢菩薩」、鎌倉三十三観音霊場の第24番、鎌倉二十四地蔵の第18番の古寺なのです。臨済宗建長寺派、寺号は詳しくは亀谷山壽福金剛禅寺(きこくさんじゅふくこんごうぜんじ)。道路脇には多くの庚申塔が並んでいた。 庚申塔には慎みの象徴の三猿や庚申信仰の本尊、青面金剛(しょうめんこんごう)などが刻まれていた。「弘法大師相模二十一ヶ所」という霊場巡礼があるようなのですが、最近ではほぼ廃れてしまったと。しかし寿福寺はその第7番札所のようだ。 「勝の橋」碑。「勝の橋」といっても、橋らしきものは?。よく見ると道路の脇の石塔の中に、石の橋標があるので、なんとかここが勝の橋なんだと確認できるのであった。そもそも、勝の橋は、寿福寺の隣にある英勝寺の開基となった徳川家康の側室「勝の局」がこの橋を架けたことに由来していると。この英勝寺の敷地は、江戸城を築いた太田道灌の屋敷跡。鎌倉市扇ケ谷1ー17ー7にある寺。 寿福寺の惣門。惣門は、横(桁行) 3.3m、奥行(梁間:外側の柱の間) 2.65m。 惣門には「亀谷山(きこくさん)」の額が掲げられていた。寿福寺 境内図 をネットから。 【http://amigokamakura.sakura.ne.jp/02-temple-gozan/g3-jufukuji.html】より惣門から中門まで、まっすぐな石畳の参道が続く。静かで緑に囲まれ、とても美しい参道。この日は日曜日であったが、人の数は殆どなし。源頼朝の妻、北条政子が頼朝の死後、明菴栄西を招いて、頼朝の父、義朝の居舘があったこの地に頼朝の菩提を弔うために正治2年(1200)創建したと言われています創建当時は、七堂伽藍、十四の塔頭を有する大寺院であったとのこと。寿福寺境内 案内板。 中門。中門は、横(桁行) 2.6m、奥行(梁間:外側の柱の間) 2.1mの比較的小型のもの。中門には「寿福金剛禅寺」の扁額。寿福寺は、正月など特別な場合を除いて、境内の公開をしていないため、中門から本殿(仏殿)を覗きました。 1664年の再建。籠釈迦と呼ばれる本尊釈迦如来像、文殊・普賢の両菩薩像、神仏分離で鶴岡八幡宮より移された、仁王像、源実朝像、栄西像(県文)を安置していると。鐘楼。かつての梵鐘は、栄西が宋から持ち帰った「いぼなし鐘」といわれるものだったと伝わる。豊臣秀吉の小田原攻めで、後北条氏によって銃弾に転用されたといわれる。 中門前に「一般観光者はこれより先には入れません」「納経(朱印)及び寺に御用の方は内玄関の受付まで御出下さい」と書いてありました。中門の右手にある庫裏・納経所に御朱印を頂きに向かう。インターホンを押したが中々、応答がなかったが、少し遅れてインターホンから声が。「御朱印を頂きたい」と伝えると住職の奥様?が来られて、住職は体調がすぐれない為御朱印帳への直接書き込みは出来ず、すでに書き込み済みの半紙に参拝日をこの日を奥様が記入したものしか対応できないと。やむなく?それを頂くこととしました。この寺のみ?は、1回に1種類の御朱印のみの対応で、鎌倉十三佛、鎌倉観音、鎌倉五山等何回か尋ねる必要があるのでした。鎌倉五山の御朱印をなんとか頂くことが出来ました。境内を後にして裏山にある「やぐら」という横穴墳墓を訪ねました。裏山に直登する階段は、崩れていて危険との事で閉鎖されているため、裏手の横穴墳墓へは、中門の前で左折して、反時計廻りに大きく歩いて、迂回することで辿りつくのでした。ひたすら山の「崖下」を目指して坂道を上る。 墓地の最奥を右手に折れると多くの「やぐら」が並んでいた。『「やぐら」とは横穴を掘りやすい鎌倉石という砂岩の自然条件の中で、鎌倉時代の中期頃から室町時代の中頃にかけて、巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院をヒントに作られた中世の横穴式墳墓。 平地の少ない鎌倉が人口数万から十万人とも推定されるほどに都市が膨れあがったことや、墓所への思い入れの変化、奈良・京都の石工を含む職能集団の進出を背景に山頂や斜面に作られた納骨を兼ねた供養堂である。 従って鎌倉周辺にしかなく、また鎌倉周辺であっても人口が密集した鎌倉の外にでると急激にその数を減らす。 そして鎌倉が都市でなくなるとともに作られなくなり、その役割は人の記憶から消えていった 』・・・ウィキペディア・・・より。そして最奥手前に北条政子の「やぐら」。 鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる人物の墓。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。 五輪塔には多くの花が手向けられていた。すぐ近くには源実朝のものと伝えられる五輪塔も。 源実朝は北条政子と源頼朝の4男で、鎌倉幕府の第3代征夷大将軍。ただ、源実朝は頼家の子、公暁に鶴岡八幡宮で暗殺されたので、秦野にあるのが首塚とされていますので、ここ鎌倉のは胴塚と言う事に?。 源実朝の五輪塔があるこのやぐらは、牡丹唐草の文様が彩色されていることから、「唐草やぐら」または「えかきやぐら」と呼ばれているとのこと。他にも外務大臣・陸奥宗光、俳人・高浜虚子、作家・大佛次郎などが眠る墓があるとのですが、標識などがある訳ではなく、よく判らなかった。 そして源氏山公園への道を進む。険しい山道が目の前に。特に寿福寺墓地から裏山への入り口部分は隘路になっていてかなりの悪路であった。険しく狭い水路の如き道。大木の根が階段を形成、その先は石段に。そしてここが「太田道灌公の墓」「太田道灌公の墓江戸城築城で有名な太田道灌資長はこの地で生まれ、扇谷上杉家の家宰として活躍しました。その曾孫である太田康資の娘梶(後に勝)は、徳川家康の側室として水戸徳川家の初代徳川頼房の養母となり、徳川家を支えました。彼女は出家後に英勝院と号し、三大将軍家光よりここ源氏山一帯を賜って英勝寺を開きました。この太田道灌公の墓は文政九年(1826年)に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が以前の墓を再建したものです。」ここまでとして、帰路も寿福寺横の細道を戻る。 生誕八百年記念の「源 実朝をしのぶ」と刻まれた源 実朝 顕彰碑。 実朝の事蹟を表面下部に銅版を貼り、之に碑文を記し、裏面には寿福寺前住職であった内田智光師の自筆の漢詩が刻まれていた。平山郁夫書とも表面左下に。再び総門を右側から。門前の石柱には「寿福金剛禅寺」と刻まれていた。帰路も再び鎌倉駅に向かう。帰路の右手にあった八坂神社。八坂大神は、建久3年(1192)千葉常胤の子相馬次郎師常が自宅の守護神として勧請したといい、相馬天王とも呼ぶと。その後、浄光明寺裏山にある網引地蔵付近の岩窟へ、壽福寺本堂脇への移転を経て、この地へ移転。明治維新の神仏分離令により八坂大神と改称、明治6年には村社に列格したと。左手に巽神社。巽神社は、801年(延暦20年)、征夷大将軍に任ぜられ蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したのを始まり。1049年(永承4年)には源頼義が改修し、のちに現在の地に遷座されて壽福寺の鎮守として崇敬された。壽福寺の巽の方角にあることからこの名が付けられたのだと。この蔵・「結の蔵」は秋田県湯沢市に建てられていた造り酒屋の酒蔵。それをほぼ原型のまま移築し、歴史都市鎌倉で土壁等伝統技術を使い、再生させた建物とのこと。 今日は暇だなあ・・・と駅前で人力車の客を待つお兄さん達。JR鎌倉駅・西口とその右に江ノ電鎌倉駅。
2017.01.22
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更に岡山・後楽園の散策を続ける。津田永忠の事績を讃える大きな石碑「津田永忠遺績碑」。ここ岡山・後楽園は、岡山藩主・池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)に一応の完成をみたのだと。水源近くの小川に設置された素朴な水車。 案内板によると「ここから園内に流れ出た一筋の水路は曲水となり池や滝となって優れた景観を作り、旭川に戻っていきます。昔は旭川の約4キロ上流から対岸までひいた後楽園用水を利用していましたが、今は伏流水をくみ上げています。」とありました。水車は小川の浄化用の酸素を供給する設備か?観騎亭(かんきてい)。園内北に位置する馬場に面して建っていた。江戸時代には、家臣が馬術の上達ぶりを藩主の前で披露する行事があり、藩主は、この建物からその様子を眺めたのだと。桜の時期には、180メートルの馬場を桜が染め、花見の人気スポットと。鶴鳴館(かくめいかん)。 元は広間と言われ園内最大の建物。江戸時代から伝わっていた建物は戦災で焼失し、その後昭和24年、山口県岩国市の吉川邸を移築したもので、武家屋敷のたたずまいをよく伝えるもの。江戸時代にあったのは茅葺きの建物で、数室に分かれ、使う人の格や用途に応じて使われていた。時には来訪者をもてなす部屋としても使われたと。現在は、結婚式や同窓会など、広く一般の方に貸し出され利用されていると。鶴鳴館と美しい前庭と池。 鶴鳴館から延養亭へ 延養亭(えんようてい)正面。 藩主の居間で、園内で最も重要な建物であったが、戦災で焼失し、昭和三十五年に当時第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元。園内外の景勝が一望できるように作られており、歴代藩主もここから眺めたのだと。 能舞台・永唱の間。能舞台の周囲の座敷は、能の見所(けんしょ)や接待の場として使われた。 築庭した池田綱政(いけだつなまさ)は、家臣や領民にも能を見せたと。 次の藩主継政(つぐまさ)の時に改築され、戦災で焼失後、その間取りが復元。花葉の池。この池には、大輪の白い花を咲かせる蓮の「一天四海(いってんしかい)」(通称・大名蓮)が夏に見頃となると。 花葉の池に注ぐ延養亭南側に位置する「花葉の滝」の風景。園内の曲水と沢の池から滝の石組の中に巧みに導かれた水が美しく流れ落ちていた。大立石。巨大な花崗岩を九十数個に割り、もとの形に組み上げたもので、築庭にあたり池田綱政が運ばせた。大名庭園ならではの豪快さと石の加工技術の高さがうかがえる。ひとつの石で陰陽を表しており、高さ7.5メートル、周囲23メートルもある巨石。慈眼堂境内の陰陽石・烏帽子岩と同じ。 二色が岡。この一帯は二色が岡と呼ばれ昔は山桜と楓が季節ごとに彩りを変える趣向の林であった。今は杉が中心となり、市街地にありながら、野鳥の飛来する静かな林となっている。ここには茂松庵(もしょうあん)、四天王堂(してんのうどう)、地蔵堂(じぞうどう)などが建っていた。 竹林から陽光が、神秘的な光景。 御舟入跡(おふないりあと)。藩主が城から舟で渡ってきた時の舟着場の跡で、舟溜まりと園内側の土手に御成御門(おなりごもん)まで続く雁木(がんぎ、階段)が。 ここから出入りできたのは、藩主と藩主の特別な許しを得た者だけ。 平成23年、24年の発掘調査で、江戸時代に描かれた絵図と同じ場所から雁木が見つかり、現在はその遺構を展示していると。唯心山(ゆいしんざん)。唯心山は池田綱政(いけだつなまさ)の子、継政(つぐまさ)の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化。 山腹には唯心堂(ゆいしんどう)があり、斜面には石組に合わせて、ツツジやサツキが植えられ、季節には紅白の花で彩られると。 唯心山からみる、釣殿のある御野島、島茶屋のある中の島、そして、太鼓橋の風景、対岸中央にに、慈眼堂と烏帽子岩と鳥居が。 こちらも唯心山から見る、対岸の慈眼堂方面の小径がつくる魅力的な光景。唯心山を下り見上げる。流店(りゅうてん)。中央に水路を通し、色彩に富んだ奇石六個を配した全国的にも珍しい建物。藩主の庭廻りや賓客の接待などで、休憩所として使われた。 戦災をまぬがれた建物の一つで、簡素なたたずまいを今に伝えている。 最初は足湯があるのかと・・・・。流店前のせせらぎに戯れる野鳥。 セグロセキレイ? 頭から背と胸は黒色で、頭の黒色の中に額の白色が良く目立つ鳥なのですが。花菖蒲畑・八橋(はなしょうぶばたけ・やつはし)六月上旬には白や紫などの見事な花を咲かせ、梅雨の季節に趣がありそう。 曲水に板を渡した八橋(やつはし)のそばには杜若(かきつばた)が。『伊勢物語(いせものがたり)』の「東下り(あずまくだり)」の段にちなんだ風雅な粋な情景。妊鯉? 再び岡山城の雄姿。黒漆塗の下見板が特徴的で、この印象から「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、同じ山陽道の隣県の「白鷺城(はくろじょう)」とも呼ばれる姫路城と対比されるのだ。帰路の公園にあった裸婦像。「蒼耀」? そして再び「清輝橋」行き路面電車に乗り、病院へ。この日も岡山のご両親と病院で待ち合わせし、大挙して再び孫の顔を見に行ったのであった。
2017.01.21
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宿泊したホテルは岡山のご両親が取ってくれた豪華ホテル。久しぶりに親子3人で同じ部屋に宿泊。部屋からは遠く朝の陽光を浴びた岡山ドームの姿が確認できた。岡山ドームは、スポーツにイベントに幅広く利用できる「緑の大広場」。天候が気にならない、全天候型多目的ドームで、平成15年4月にオープン。そして岡山駅に入る新幹線の姿も。 チェックアウトする息子と妻。フロントにはすでに松飾が準備完了。 東西連絡通路を東口に降りていくと、駅前の噴水の近くに桃太郎像が建っている。犬、さる、雉を伴に鬼退治にいった桃太郎の若々しい姿。吉備の温羅(うら)伝説にちなむ「桃太郎」の話の主人公。 大きな噴水上のボールからは水が出ていなかった。 午前中は3人で後楽園を散策することにした。JR岡山駅から市内電車東山行きに乗り約5分の「城下」駅で下車。 地下に潜り(しろちか)地下噴水の前を通り、地下を出ると後楽園正門方面と岡山城方面があったが、岡山城方面に向かうと目の前に岡山城の姿が。 旭川の土手に出ると、正面に岡山後楽園の森、左に正門へ行く鶴見橋、右には南門へ行く月見橋と岡山城・烏城が見えて来た。「後楽園」と「岡山城」結ぶ「月見橋」は風流な名前とは違い何故か鉄筋造り。 岡山城は黒塗りの下見板を取付けたことから烏城と呼ばれています。岡山後楽園 案内図。 南門で入場チケットを購入し入園。有難いことにシニア65歳~は400円が140円に。なんと65歳に因んでか65%割引。今気が付きました。 まずは廉池軒(れんちけん)。園内に点在する亭舎の中で、築庭を指示した藩主池田綱政がもっとも好んで利用していたと。現地案内板によれば、この廉池軒は戦災をまぬかれた数少ない建物の一つと。池には丸々と太った鯉がゆったりと。 園内みどころ28か所で、音声ガイドで解説を聴くことができるようです。 さざなみ茶屋。茶祖堂(ちゃそどう)。 幕末の家老の下屋敷にあった利休堂が、明治20年頃にこの場所に移築されたのだと。戦後再建され、岡山の生まれで「茶」を日本に伝えた栄西禅師も一緒にまつられたことから「茶祖堂」と呼ばれるようになったと。新殿。文久3年(1863年)の絵図には、「新御殿」と記されているのだと。高床式構造の建物のため、少し高い目線で茶畑越しに園内の西側を眺めることが出来ると。 再び岡山城の姿。 「沢の池」と呼ばれる園内最大の池が広がっていた。後楽園の中央付近に位置し、池には中の島、御野島、砂利島が浮かんでいた。ここから見えたのは砂利島。赤い毛氈が敷かれた茶屋。 慈眼堂(じげんどう)。池田綱政(いけだつなまさ)が元禄十年(一六九七年)に池田家と領民の繁栄を願って建立し、観音像を祀った。今は、空堂となっていると。 沢の池 北岸にある慈眼堂の前に立っている七重石塔。境内(けいだい)には、花崗岩(かこうがん)を三十六個に割って組み上げた烏帽子岩(えぼしいわ)、門、板張の腰掛などが残っていた。昔訪れた、エジプトの アブ・シンベル神殿の大規模な移設工事を想い出したのであった。御野島(みのしま)。沢の池に浮かぶ島で当初は半島状であったが江戸時代末期に島として造成された。隣にある中の島との間が上道郡と御野郡との郡境で石標が建立された。島には張り出すように釣殿が設けられ中の島との間には橋によって繋がれている。 「沢の池」と岡山城。 寒翠細響軒(かんすいさいきょうけん)。 南側の障子を開けると、唯心山や沢の池が一望できる草葺きの小亭。床付き四畳半。文化12年(1815)2月に、藩主斉政によって新御茶屋として建てられたもので、亭名は当時の藩学校教授万波醒蘆が名付けたと。寒翠はさえた緑色、細響は細やかな響きという意味と。
2017.01.20
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吉備線の12時台の岡山方面への電車は何と1本のみとのことで、時間があるので隣の駅の備前一宮駅の近くにある吉備津彦神社まで吉備の中山の道をブラブラと歩く事を決断。歩き出して暫くすると「鼻ぐり塚」の案内板が目の前に。「鼻ぐり」というのは牛の鼻輪のことらしい。牛の供養の為に鼻ぐりを集めているらしいですが・・・・。 看板には600万の鼻ぐりが納められていると書かれていたが、年に数万個ずつ増えているらしく、現地に置かれている案内の紙には鼻ぐりの数は690万を超えると書かれていた。 宗教法人 福田海(ふくでんかい)本部が大正14年の創設の施設とのこと。ネット情報によると「中山通幽(1862-1936)が明治41年(1908年)創設した宗教。福田とは布施をおこなうことで功徳を得るという仏教思想であり、特に社会救済に重きを置いている。福田海は陰徳積善の功徳を唱え、放置された無縁墓を集めて供養する実践をおこなっている(京都の化野念仏寺の千灯供養、滋賀の石塔寺の供養塔群も、通幽の事業である)。」と。 梵字は『カーン』?不動明王の御印。 中堂は多くの石塔に囲まれていた。49の石塔は、行基の説く「弥勒四十九ヶ院浄土説法」に依るものだと。鼻ぐり塚。大正14年(1925年)に創設された塚には、全国各地から贈られてきた「鼻ぐり」が奉納されていた。病死したり屠殺された牛が残すことの出来る唯一の形見と言うべき鼻ぐりを供養することで、人のために奉仕し尽くして一生を終える畜類への感謝の念を忘れないというのが、創設の趣旨であると。そして集められた鼻ぐりの数は700万個にも及ぶという。この鼻ぐり塚は、元々あった円墳を利用して作られているのだと。横穴式の石室内には、真鍮製の鼻輪を溶かして造られた、阿弥陀の宝号を刻んだプレートが収まっていると。そして墳丘には大量の鼻ぐりが積み上げられており、その正面部分には馬頭観音が置かれていた。そして牛の像も生々しく。豚の像も。余り長くいるのはつらい光景であった・・・・・。吉備の中山 案内板。「真かねふくきびの中山おひにせる ほそたに川のおとのさやけさ」古今集に見える吉備の中山は、岡山市の西部、旧山陽道の南に坐した山塊で、備前・備中の両国にまたがっている。南嶺には四道将軍吉備津彦命のお墓(前方後円墳)があり、西のふもとに吉備津神社、東のふもとに吉備津彦神社があるのだ。四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)とは、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指すのだと。藤原成親遺跡の案内板。平氏打倒を謀った“鹿ヶ谷”の密議が露見し,平清盛によって備前・備中境の有木の別所に流された大納言の藤原成親の配所跡と伝えられ,高麗寺の山門跡の礎石や成親の墓などが残っているのだと。 福田海から十数m、東に足を運ぶと細谷川とそれに架かる両国橋に出た。「まがねふく吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」と古今集に歌われている川。この細谷川は備前と備中の国境でもあり、この川に架けられた小さな橋には「両国橋」の名が付けられ道端に立つ石柱にその名が刻まれていた。山裾の墓地には六地蔵が。 そして吉備津彦神社の脇入口の鳥居がようやく見えて来た。 中央参道まで歩を進めると右手には随神門(市指定重要文化財)が。1697(元禄10)年に池田綱政が造営した三間一戸の8脚門で、2柱の門番が守っています。左には、豊磐窓命(とよいわまどのみこと)。右には、櫛磐窓命(くしいわまどのみこと)。両神共に『古事記』においては、天孫降臨に際して登場する神々。天照大神とその子孫が住む皇居の御門を守護する神で、厄災を追い払い、朝廷や領主が篤く信仰したと。こうしたところが官社たる所以。随神門をくぐると吉備津彦神社境内に。右手にご神木の巨大な銀杏の木。 手水舎。 1697(元禄10)年に池田綱政が社殿を造営した際、永忠の信頼厚く数々の難事業を共に成し遂げた石工で有名な河内屋治兵衛が奉納した手水鉢であると。吉備津彦神社ご祭神:吉備津彦命、ほか多数 創建:不明ご利益等:家内安全・商売繁盛・厄除け・八方除けなど 拝殿でお参り。お賽銭箱そして内部は既に正月の準備が完了?備前焼の狛犬。 酉年の巨大絵馬。 拝殿を斜めから。 拝殿・本殿(県指定重要文化財) 御朱印を頂きました。拝殿横の階段を上ったに先あったのは子安神社。岡山藩主・池田利隆公が子・光政の誕生を慶び創建する子授け・安産の神として祟敬を集めていると。 吉備津彦神社の摂社であり、祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、木花佐久夜姫命(このはなさくやひめのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀り、吉備津彦神社本殿より古い創建になるが、池田綱政によって再建されたと。古来より、縁結び、子授け、安産、育児の神様として多くの人に信仰され、全国からも熱心なお参りがあるのだと。子安神社の北側には、7つの末社が鎮座。手前から、下宮(倭比賣命)、伊勢宮(天照大神)、幸神社(猿田彦命)、鯉喰神社(楽々森彦命荒魂)、矢喰神社(吉備津彦命御矢)、坂樹神社(句句廼馳神)、祓神社(祓戸神)と連なっていた。 吉備の巌。巨大な石室を彷彿とさせる石組の作品。吉備津彦神社と吉備津神社の背後の中山には、巨大な天津磐座や磐境が鎮座していいるため、山全体が神の山として崇敬されていると。それにあやかっての作品? 手前には日本の国歌「君が代」に歌われていて、小石がたくさん含んだ岩・さざれ石が。しかし周囲には何故か立ち入り禁止の表示が。安全上の問題か? 安政の大燈篭。随神門を潜った先の左右には、東洋一と称される安政の大燈篭が。1859(安政6)年に建立されたもので、花崗岩の大基礎は6段に築かれ、それぞれ一石造であると。随神門の前にあったのは、元日の御炊き上げの準備か?鳥居を抜けると神池が吉備津神社と同様に。住吉神を祀った鶴島と宗像神を祀った亀島が左右に。 一の鳥居に向かい、参道を戻ると神池の左右に鶴島・亀島神社が佇んでいた。こちらは亀島神社。御祭神は市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)という水の女神様。神池に3つの島が設けられていることから、三島式庭園と呼ばれていると。国道を渡り吉備津彦神社を振り返る。大鳥居の横に備前焼の狛犬が。大きさにびっくり。吉備線・備前一宮駅に到着。ここも無人駅。ももの里 桃太郎の郷 いちのみや。 暫くすると桃太郎線の派手なラッピング列車が到着。 キハ40系車両2両に、桃太郎伝説をおとぎ話風の作画で描いたデザインと、伝説のモチーフとなったとされている「温羅伝説」の世界を漫画家、出口竜正氏が書き下ろしたデザインを対比したラッピング とのこと。そして岡山駅で家族と合流し、孫の待つ大学病院に向かったのであった。
2017.01.19
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吉備津神社を後にし横にある駐車場に歩を進めると、駐車場の後ろの緑地に各種の石碑、石像が確認できた。 『岡山県関係法務死殉国烈士慰霊顕彰碑』。第二次大戦後、戦犯として処刑された方々の慰霊碑。平沼赳夫氏の養父、元総理大臣平沼騏一郎の名前もあると。『犬養毅』の銅像 。五一五事件で暗殺された第29代内閣総理大臣、立憲政友会第6代総裁。備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男としてうまれているのだと(後に犬養と改姓)。伝承によると、犬養毅の遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命(イヌカイタケルノミコト)、江戸時代には大庄屋を務めた豪家だった。遠祖・犬養健命は吉備津彦命の随神であったとして吉備津神社への崇敬の念強く、吉備津神社の社額も犬養毅の筆であると。 江戸時代の国学者の藤井高尚(ふじい たかなお)の碑。 この備中吉備津神社祠官。通称忠之丞,小膳。松屋(まつのや),松斎と号す。本居宣長有力門人の一人であったと。 先程訪れた吉備津神社拝殿の美しい比翼入母屋造の屋根が見えた。入母屋造の屋根を前後に2つ並べた国内唯一の建築様式。別名 「吉備津造」。破風や屋根の両端で交叉させた千木の木口飾りには黄金の装飾が。駐車場から池の先に雰囲気ある朱色の建物と池が神池と宇賀神社。神池には古木の巨大な松の木が水面をのぞき込んでいた。 鮮やかな朱色の橋吉備津神社境内社『宇賀神社』は商売の神様であり備中一古い稲荷であるとのこと。吉備津神社の横、神池の島の中に鎮座している比較的小さな社殿。 「八重桜 散らぬ男を 迎えけり」。大森風来子の句であると。 宇賀神社のある島に生育している老松の根本。殆ど真横に伸びる幹周2.38m、樹高2m、枝張り13m×20m、推定樹齢200年と。石垣の上に斜めに池の上に張り出していて、人手型の樹形をした名木。幹の迫力もそれなりにあり、枝振りの広さも見事。枝先は良く手入れされて来たことが理解できた。ぐねぐねに曲がりながら立ち上がっており、老松の雰囲気が。根本を踏み固められて、根本の皮もやや剥がれているが、樹勢は保たれているのであった。 神池の横は普賢院の鐘楼と御堂が。 歓喜天が祀られている歓喜天堂(奥)と袴腰鐘楼(手前)と十三塔。八脚門の仁王門である山門を境内から。門前は築地塀になっていた。 住職の住む本坊。 普賢院 本堂。宗派:真言宗 開基:天平勝宝年間(749から757年)に行基菩薩本尊:普賢延命菩薩 。屋根のてっぺんの美しい擬宝珠。炎のような飾りにはどんな意味があるのか?境内には多くの石地蔵尊が。 宇賀神社を普賢院境内から。 宇賀神社を出ると目の前に吉備津神社に繋がる入口が。 駐車場に戻ると、吉備津神社の巨大な案内板が横たわっていた。 吉備津神社の建つ山の法面下が設置場所なのであろう。基礎の型枠が未だ残っている状況。元旦まで残るは3日であったが、無事完工したのであろうか。
2017.01.18
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吉備津神社案内図。「祈願トンネル」とその後ろに「一童舎」 祈願トンネルをくぐる。 「明るい門出」 「勝利をわが手に!」「栄光の旅立ち!」の文字が。勢いのある言葉が並んでいて、神社らしからぬ生々しい表現が。一童舎正面。学問・芸能の神様をお祭りしており、江戸時代の国学者も厚く信仰したと伝えられ、近年では進学を目指す人のお参りが絶えないと。さすがにこの日は年末であり、センター試験まで2週間と迫っているため学生の姿は少なかった。 たくさんのおみくじを結んで「合格」の文字をつくっていた。このアイデアは合格!!御祈祷殿。 参集殿横にある庭園も、見所のひとつ。神社では余り見かけない庭園も、寺院に匹敵する程のレベルで。 多くの鯉がのんびりと。 そして本殿前を通過し長い回廊を進む。 1357年完成の手前・南隋神門とそこから繋がる総延長398mと言われる回廊が続く。ちょっと奈良・長谷寺の登廊や、京都・高台寺の臥龍廊を想い出させたのであった。 左手にえびす宮。商売繁盛・家業繫栄の神様、特に1月9・10・11日のえびす祭りでは縁起物を求めるたくさんの人で賑わうのだと。宮の前には正月用のテントがすでに設営済み。岩山宮の石鳥居。 「岩山宮」 と刻まれた石の神額。吉備の中山の山腹に位置し、吉備国の地主神をお祭りしていると。長い階段の上に岩山宮が見えた。階段の左右にはアジサイが植えられており6月の美しさが想像できるのであった。回廊沿いの「吉備津神社」三社宮。左から春日宮、大神宮、八幡宮。 横に折れた回廊の先には御供殿(ごくうでん)が。300メートルに及ぶ廻廊の端にあるこの建物に大祭の世話人の方十数人が集まり、七十五膳やその他の神饌、神宝類、奉供 物を準備するのだと。七十五膳据神事は春と秋に行われる大祭の献饌行事で、備中の国内の諸郷から新穀をはじめとする産物を一宮であるこの神社に献納し感謝するお祭りであると。吉備津神社本宮社の側にある吉備中山 細谷川古跡。吉備の中山は、備前と備中の国境にある丘陵。東麓に吉備津彦神社、西麓に吉備津神社が鎮座する。南の山頂には両神社の祭神大吉備津彦命陵墓がある。細谷川は、大吉備津彦命陵墓付近を源とする川。『古今和歌集』の「神あそびのうた」に読人知らずとして「まがねふくきびの中山おびにせる ほそたに河のおとのさやけさ」が収められるなど、古くから多くの歌人、文人に親しまれているのだと。本宮舎。岡山県指定重要文化財であると。回廊末端部。 回廊に沿って牡丹園が。 弓道場。 的である「巻藁」が3個。 境内の小水車。 鳴釜神事(なるかましんじ)が行われる御釜殿。鳴釜神事は、釜の上に蒸篭(せいろ)を置いてその中にお米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた時に鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占う神事とのこと。吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられているとのこと。 吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったと。内部は撮影禁止であった。宇賀神社側の吉備津神社入口の鳥居と手水舎。曲線美が美しい回廊とその先に吉備津神社本殿の屋根が。
2017.01.17
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岡山駅から吉備線(桃太郎線)に乗り20分、無人駅の吉備津駅で下車。駅前の細い道を戻ると、官幣神社(かんぺいじんしゃ)吉備津神社と刻まれた石碑が正面に。官幣神社は日本において官(朝廷、国)から幣帛(へいはく)ないし幣帛料を支弁される神社。幣帛は、神道において神前にささげるものを総じた名称。幣帛料は、これらに代えて金銭をお供えする場合に使う言葉。右折すると太鼓橋の先に松並木が。 石の鳥居をくぐり吉備津神社に向かう。 克明に残された神話伝説の「まほろばの里 高松」の塔が交差点の角に。高松地区は、岡山市中心部から西へ約12キロメートルの所にある自然豊かな農村地帯。全国的に知られる吉備路エリアの一部に属するこの地は、古代吉備文化の中心地であり、桃太郎伝説録の吉備津神社・日本三大稲荷の一つ高松最上稲荷・秀吉の水攻めの舞台となった備中高松城址・日本で4番目に大きい前方後円墳の造山古墳など多数の史跡があり、たくさんの観光客が訪れていると。吉備路とは、岡山市北西部(高松・足守・一宮の一部)から総社市にかけての一帯の総称。吉備津神社の表参道松並木の神社寄りには「吉備の野の 藺田(いだ)のさみどり 初詣」と彫られた三木朱城の句碑が。ホトトギス同人で、岡山地方で「旭川」を主宰し多くの俳人を育てた人物であると。 藺田とはイグサを育てる田んぼとのこと。神社前の駐車場にある売店前の赤鬼がソフトクリーム、あま酒を売っていた。 屋根に苔の生えている手水舎。 吉備津神社入口。 表面に多くの苔が生えた矢置岩。 『社伝によれば、当社の西北8キロの新山に温羅(うら)といふ鬼神あり、凶暴にして庶民を苦しむ、大吉備津彦は『吉備の中山』に陣取り鬼神と互いに弓矢を射るに、両方の矢、空中にて衝突して落つ、そこに矢喰宮(旧高松町高塚に現存)あり。また、中山主神は鬼神の矢を空中に奪取す、当社本殿の中に祀る矢取明神はすなわちそれなり、この戦いのとき大吉備津彦命、その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩と呼ぶと、旧記によれば中古より箭祭り(やまつり)の神事あり、願主は櫻羽矢または白羽の矢を献る。神宮その矢を岩上て立てて交通の安全を祈る、のちその矢を御蔵矢神社に納むる例なりき、と、この神事いつしか中絶せしが、昭和三十五年、岡山県弓道連盟の奉仕により復活され、毎年正月三日、ここに矢立の神事を斎行することとなれり。』と。 両側に提灯が飾られた階段を上る。 階段を上がると朱の北随神門(きたずいじんもん)が迎えてくれた。一般には「隋身門」と書くのだが、吉備津神社では「身」の字を「神」としていると。 みやげ物店の並ぶ北参道の中ほどに位置する三間一戸の八脚門で室町中期の1543年(天文12年)築と。屋根は入母屋造、桧皮葺、木部はすべて丹塗りで、壁は白く塗られている。左右には随神を安置していた。 【国指定重要文化財】。門の両側には既に立派な門松が準備されていた。向かって左側。 向かって右側。左右対称に。 北随神門を抜けると、また階段があり、門のような感じの絵馬殿が見えて来た。絵馬殿の「吉備津宮」 とかかれた扁額いや神額か。そしてその下には菊の御紋が。ここ吉備津神社は官幣中社という社格を有する社。 そして絵馬殿を潜るといよいよ拝殿・本殿が目の前に。吉備津神社は応永12年(1405年)に再建し、応永32年(1425年)に遷座 。国の重要文化財に指定されている。 社務所も忙しそうに正月の準備を。 手前には神紋である「五七の桐」紋がズラッと。多くの備中神楽面が展示されていた。「備中神楽」は国指定重要無形民俗文化財であるとのこと。吉備津神社の銅鐘。永正17年(1520)に社務代生石兵庫助藤原家秀らが国家安泰を祈願して吉備津宮に奉納したことが刻まれているとのこと。 国の重要美術品に指定。神仏習合時代に造られたものが享保17年(1732)に境内にあった三重塔破却事件が起こり、元文2年(1737)に幕府裁定が寺院敗訴となって神仏分離運動が加速された遺品の一つだと。今は亡き横綱・千代の富士の優勝額。昭和61年1月場所の優勝額のようだ。なぜここに千代の富士?ネットで調べてみると、 なんでも吉備津神社の氏子さんが横綱・千代の富士の後援会長を務められていたのだと。 千代の富士の出身地は昔訪ねた事のある北海道福島町 であるが。本殿・拝殿を斜めから。 創建は不明。主祭神に大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと・第7代考霊天皇の第3皇子)を祀り、吉備国の総鎮守だったと。その後、吉備国が3つの国に分かれると備中国の一宮になった。足利義満が造営したと伝わる本殿が国宝に指定されているのだと。屋根は前後二つの入母屋造を連結した、比翼入母屋造と呼ばれる独特な外観。 平成29年の酉年の巨大絵馬。 吉備津神社の本殿と拝殿を別の角度から。 おみくじもセルフでお金を投入する方式に。桃太郎のイラストがレトロ調でいい味が出ているのであった。桃太郎の鬼退治の物語が6部に分かれて描かれていた。英語で御神籤の引き方も丁寧に説明されていた。 のどかな自然に囲まれたとある地で、おじいさんとおばあさんが暮らしていた。ある日、おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れてきた。おばあさんはその桃を拾って持ち帰り、おじいさんと一緒に食べようとしたところ、桃の中から元気な男の子が飛び出してきた。おじいさんとおばあさんはその男の子に「桃太郎」と名付け、大切に育てた。桃太郎は鬼征伐の決心をしておじいさん、おばあさんに話すと、日頃桃太郎の強い事を知っていたので大賛成して早速、土地の名物きびだんごを兵糧として沢山作ってくれた。桃太郎はそのきびだんごを網袋に入れて腰にさげ、日本一と書いた小旗を立てて勇んで家を出発した。桃太郎の出陣を知ってイヌ、サル、キジがお供に順次加わった。名物の?白いネコ(本物です)はのんびりと日向ぼっこ中。鬼ケ島につくと両軍たちまち取っくみ合いの戦が始まった。この時かたわらの山から沢山の大ザル小ザルが滑り降りてきて桃太郎に加勢。猛然とおどりかかって来る鬼共目がけて勇敢に立ち向う桃太郎を助けてイヌ、サル、キジが大活躍。鬼共も終には降参した。もう決して悪いことはしませんと改心した印に宝物を全部さし出した。桃太郎の一行は宝物を船に積んでめでたく帰路についたのであった。こうして立派に目的を果し沢山の宝物をおみやげに無事おじいさん、おばあさんの待つ我が家へ帰ったのであった。桃太郎はイヌ・サル・キジのお供にもそれぞれ宝物を分け与えた。その後村々には平和な日が続いた。桃太郎はおじいさん、おばあさんに孝養をつくし二人共やすらかに天寿を全うすると、もう私の役目もすんだというように近くの山へ登ってそれっきり姿を隠してしまったとさ。・・・・おしまい・・・。御朱印をいただきました。「三備一宮」の印が押されていた。延喜式では名神大社と神階の最高位「一品(いっぽん)」を授けられたことから一品吉備津宮または三備(備前・備中・備後)の一宮と称される山陽道屈指の大社なのである。
2017.01.16
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西大寺案内図。現在いるのは赤丸の鐘楼門。 鐘楼門を入ると右手に千手堂。 建立は大正14年、本尊:千手観音(坐像2.5m) 天井絵:198枚(一般公募 124名より)。かっては西大寺の末寺として、瑞雲寺 満願寺 成光寺 清平寺 園蔵寺 安楽院 普門院千手院 般若坊 法泉寺 観音坊があったが、現在の末寺としては千手院のみになっていると。古くは保存講(信者団体)の活動や葬儀等で使用されていたが、平成15年に中国の普陀山より千手観音をお迎えし「供養の道場」として再興されたと。本堂拝観案内板。 白壁の客殿。 客殿入り口には多くの犀の置物が。案内板には『【「犀」の縁起】 777年、大和の安隆上人が奈良の長谷寺で修行の折、「この地に観音堂を修築せよ」とのお告げがあり、直ちに船で海路を急ぎ、西国に下向しました。その途中、吉井川の河口で龍神より「犀の角」を授かりこの地にその犀角を鎮め、お堂を建立しました。当時は犀角を頂戴したお寺、「犀戴寺」と号していた記録があります。 ※当山ではこの縁起にちなみ、犀の置物や犀に関係する物を収集しております。』と。本堂と客殿を結ぶ回廊。 再び本堂に戻る。 絵馬・おみくじ納処。 ここ西大寺は 百八観音霊場 第一番札所。 そして中国観音霊場第一番・百八観音霊場第一番、第二番納経所。 御朱印を頂きました。文字は『大悲殿』。大悲とは観音菩薩の別名で、衆生の苦しみを救おうとする仏や菩薩の広大な慈悲の心を表す。つまり、大悲殿とは聖観音や千手観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物のこと。ここ西大寺は高野山真言宗別格本山で、本尊は千手観音なのです。会陽とは「太陽のように明るく恵み深い春の心にめぐり会う」という意味であるとするのが一般的であるが、なぜ宝木争奪戦を会陽というようになったのかは、良く分かっていない。会陽は、福奪(ふくばい)ともいい、一年の福を奪い合う真言宗の行事で、西大寺以外の寺でも行われている。しかし、西大寺観音院では、福は奪い合うものではなく、授かるものであるとしているので、福奪という言葉は、敬遠されていると。本堂外陣天井にある会陽絵馬はカバーがかかっていた。 左から仁王門、三重塔、本堂。 野球場と勘違いする大きなベンチ。ここは西大寺会陽有料観覧席。 観覧席から会陽の行われる本堂手前の広場を見て祭りの姿を想像したのであった。 吉井川沿いの境内入り口には天下の奇祭 会陽(裸祭り)の看板塔が。毎年二月第三土曜日開催されると。今年は2月18日(土)。 観覧席から石門を見る。 褌一本の男たちによって繰り広げられる壮絶な戦い「はだか祭り」。境内には宝木を手にした男たちの顔出しまで。一人だったので残念ながら・・・・・。 本堂横の火灯窓(かとうまど)。火灯窓・花頭窓は、おもに日本の、寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる、上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊な窓。ほかに、華頭窓、架灯窓、瓦灯窓などと表記すると。 帰路も吉井川にかかる会陽橋を渡る。吉井川には多くの船が係留されていた。 牛玉所殿 を吉井川越しに見る。拝殿・本殿・奥殿と分かれる神仏習合の鎮守堂である事が理解できる光景。 牛玉所殿の前の会陽橋を渡ると、牛玉所殿の前の会陽橋を渡ると、向州公園。公園の隅には大きな犀の像が。先ほども客殿入り口の犀の置物について書いた内容と同じであるがもともとは西大寺は犀角(さいかく)を載く寺と書いて「犀載寺」と号していた。これは宝亀7年(777)、大和の安降(あんりゅう)上人が、犀角を持った仙人(龍神)に「この角を持って観音大士影向の聖地に御堂を移し給え」と霊告され、この地に犀角を鎮めたことに由来する。 その後承久の乱(1221)の折、後鳥羽上皇が執権北条義時への倒幕の祈願を込めた時の御宸筆によって「西大寺」と改められたと 説明版に。西大寺駅の戻る途中の道路脇の植栽の見事な紅葉。ドウダンツツジの紅葉であろうか?民家の壁にもツタの紅葉。 西大寺駅のJR播州赤穂線のホームには会陽(裸祭り)の写真付きの案内板が立っていた。 そして再び岡山駅まで戻り吉備線(きびせん)に乗り換え吉備津神社に向かったのであった。吉備線は桃太郎線(ももたろうせん)という愛称が2016年3月末から使用されていると。
2017.01.15
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昨年末に長男夫婦に第1子が誕生し、出産場所の岡山に妻とともに孫とその母親に会いに行ってきました。年末28日でしたが、何とかのぞみ指定席を別々の席ではありましたが確保し、前夜泊向かいました。 29日は帰省客で大混雑は明らかで席は確保できないとの判断でした。そして翌日のホテルの部屋からの朝焼け。そしてこの日の日の出は我が家から20分以上の遅れ。 眼下には岡山駅の新幹線ホームが見えました。 大学病院でもあり、面会は午後からとのことで、午前中は岡山市内観光に。まずは一度行ってみたいと思っていた西大寺へ岡山駅から赤穂線の電車に乗り20分強で到着。 駅前のロータリーにある西大寺会陽(はだか祭り)の銅像。 「はだか祭り」とも呼ばれ、日本三大奇祭としても全国的に有名な西大寺会陽。厳冬の深夜、西大寺観音院の本堂御福窓(ごふくまど)から投下される2本の宝木(しんぎ)をめぐって、約10,000人のまわしを締めた裸の男たちが激しい争奪戦を繰り広げます。そのさまは、圧巻で勇壮そのもの。この宝木を取った者は、福男と呼ばれ、福が得られると言われています。 今年・平成29年は2月18日(土)に行われるとのこと。 この西大寺会陽が、平成28年3月2日に国の重要無形民俗文化財に指定されたと。 徒歩にて街の中を流れる川沿いを歩き西大寺に向かう。 そして駅から20分弱で西大寺に到着。吉井川にかかる会陽橋を渡ると西大寺境内へ。 正式名称は「金陵山(きんりょうざん)西大寺」といい、高野山真言宗別格本山で、本尊は千手観音。牛玉所殿 。 明治13年(1880)再建の、拝殿・本殿・奥殿と分かれる神仏習合の鎮守堂。複合社殿と言われ、本殿には楼閣を乗せ、軒垂木部分では国内でも唯一の構造を持つなど、極めて珍しい堂であると。薬師慈光堂殿。堂内には薬師如来をおまつりしている。薬師如来は12の大願を発し、瑠璃光を以て衆生の病苦(精神面を含め)を救うと。美しい竹塀に囲まれた水子地蔵尊。 松田壮三郎翁頌徳碑(しょうとくひ)。今はなき西大寺鐵道(さいだいじてつどう)初代社長とのこと。普陀南海観音。中国観音霊場会は普陀山仏教協会の交流10周年を記念して普陀山から十分の一の大きさの南海観音像の贈呈を受け、第一番札所のこの寺に祀られたと。 本堂。文久3年(1863)現在の本堂が再建された。正面12間に側面14間の巨大な構築は県下随一を誇り会陽の宝木投下の御福窓を設けるなど、特異な建築様式を伝えていると。岡山市指定重要文化財。 ネットの先には御福窓が見えた。会陽の際、この窓からシンギ(御福ともいわれる)が投げ入れられる窓であることからこの名前がついていると。梵字「バク」は釈迦如来を表しているのだ。 三重塔と仁王門。 石鳥居の奥にあるのは垢離取場(こりとりば)。会陽裸祭りのとき、熱気で火照った身体を水の張られたこの垢離取場で浄めるのだと。奥には噴水の出る観音像が立っていた。寺宝の西大寺縁起絵巻を見ると、裸たちは吉井川で垢離を取って境内に入っていた様子が描かれているとのこと。鉄道が開通し、水運が廃れて以降、川からのアクセスがなくなり、今は岸辺に建設された道路により吉井川から完全に隔絶されているため、独立した石造りの垢離取場となっているとのこと。三重塔。方三間(5.4m)三重の本瓦葺。典翁上人の発願によって延宝6年(1674)に完成。文政8年(1825)には、花崗岩切石積基檀の上に地上げされたことが、修理棟札や宝珠納入物の結縁文書によって判明したのだと。岡山県指定重要文化財。仁王門を外から。元文5年(1740年)建立。県下最大規模で、門の欄楯(らんじゅん)に正北方から東南西へ廻って、順に十二支の彫刻がめぐらされている。「金陵山」の扁額は釈逸山の書。 仁王門を入ると右手に手水舎。 龍の口から清めの水が。 石門。寺伝によって竜宮の形に造られたもので門の下半分が石で造ってあるので石門と云う。内側に寄進者の名が刻まれているが、これは頼山陽が40歳の時、自ら毛筆で直接に石に書いたものを彫ったものであると。 文政2年(1819年)建立。北向地蔵と千手観音。「地蔵菩薩を北向きに供養すれば土地家屋安穏にして失亡天に生じ、現世には福寿増長、厄難消除下さる」と明示されているのだと。 「佛光普照」の文字が。 佛光は太陽と同じように平等に普(あまね)く照らす と。 多くの方々の頌徳碑であろうか。 恵比寿神社。 脇門か。 輪蔵。経典を納める木造の回転式書架「輪蔵(りんぞう)」を備えた六角堂。輪蔵は高さ4m、幅3.6mの八角柱。側面に突き出た取っ手を押しながら歩くと回転する。江戸時代後期の1854年に建造されたが、老朽化に伴って少なくとも50年ほど前には回転しなくなり、六角堂ごと閉鎖されて来た。同観音院は、本山の高野山(和歌山県)が2015年に開創1200年を迎えるのを記念し、12年から六角堂の修復に着手し2014年3月に完成したと。 高祖堂。1671年(延宝3年)築。弘法大師を祀る堂。本堂を仁王門側から。 見事な鬼瓦とその下の彫刻。 鐘楼門。西大寺本坊の客殿にいたるこの門は、高祖堂と同じ頃に建てられたといわれている。ここにかかる梵鐘は、国指定重要文化財。
2017.01.14
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近くの公園でのどんど焼きの帰り道で、ロウバイ (蝋梅)が咲き始めているのを発見しました。唐の国から来たこともあり唐梅(カラウメ)とも呼ばれ、中国名も蝋梅であったことにちなむと。半透明でにぶいツヤのある花びらがまるで蝋細工のようであり、且つ臘月(ろうげつ、旧暦12月)に咲くからこの名がついたとのこと。半透明でにぶいツヤのある黄色く香り高い花がやや下を向いて咲いていました。 ソシンロウバイ(素心蝋梅)、マンゲツロウバイ(満月蝋梅)、トウロウバイ(唐蝋梅)などの栽培品種があるとのこと。よく栽培されているのはこのソシンロウバイ(素心蝋梅)で花全体が黄色。 鼻を近づけてみると、ロウバイの香りは甘くフルーティで、微かに石鹸?のような香りが。ニホンスイセンの香りと似ているようでもあり??英語名はWinter Sweetで、その名前のとおり「冬の甘い香り」。正月の寒気の中で、春を感じさせてくれる花がこのロウバイ(蝋梅)なのです。
2017.01.13
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先日の日曜日は我が家の新年会。長女家族4人、長男、そして我が夫婦の合計7人の賑やかな宴になりました。長男のパートナーは年末に3050gの第1子の女の子を出産し、岡山の実家で御両親に援けられながら育児に奮闘中なのです。新年会に合わせて、妻がいつもの山陰の海の幸の蟹を注文してくれており予定通りの日時で冷蔵便で無事届いたのです。(有)丸八水産 味覚の王者 「松葉ガニ」 。「松葉ガニ」とは、山陰地方で水揚げされるオスのズワイガニの事日本海の丹後半島から島根県沖の日本海に生息しているズワイガニで、水揚げされる漁港も京都府から島根県の漁港に限定されているのだそうです。動かす脚には漁の船の名のTAGをつけて、俺は由緒正しい本物であると。ここは何処だ?と目をギョロギョロと。 脚を動かしながらにらめっこを。妻が脚を「蟹刺し」 に。脚を根元から切り離し、殻を取り除き数分間氷水につけると、花が咲いたように身がひろがるのです。 牡蠣の殻剥きと同じく妻の「匠の技」で。3人目の孫の誕生を祝い、日本酒・祝彩も金粉入りです。 次回は「祝彩」ではなく「祝樹」と言う酒を探しましょう。止められない、止まらないと男3人の酒は進むのでした。もちろん茹でガニでも。 殻の中のミソを味わったあと、写真を取り忘れた事にきがついたのです。既に酒が回っていました。 そしてすき焼きも。 長女の嫁ぎ先のご両親が年末に送ってくださった高級飛騨牛。下仁田ネギ、春菊は我が菜園から産地直送にて。 生卵で。 妻がいろいろと頑張って様々な料理を準備してくれました。何よりもビックリしたのは1歳になったばかりの孫のSくんが、妻の作った田作り(ごまめ)を1本1本つまみ、これも止められない、止まらないと次々に口に運んでいたのでした。甘みが気に入ったのでしょうか?骨太の男になること間違いなしなのでした。そして長女家族はタクシーで帰宅、長男は我が家に宿泊、そして私は直ちに爆睡。
2017.01.12
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二宮・吾妻山の菜の花畑を楽しんだ帰路に平塚駅で下車。久しぶりに平塚八幡宮を訪ねました。 神奈川県平塚市浅間町(せんげんちょう)に鎮座する神社で、古くは鶴峯山八幡宮(つるみねさんはちまんぐう)と呼ばれていた。毎年5月5日に大磯町国府本郷の神揃山(かみそろいやま)で行われる国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の1社であるが、相模国における式内社ではあらず、また一国一社の八幡宮、鎮地大神と称えられている。 朱の一の鳥居を潜る。平塚八幡宮 境内絵図。半分陰になり見にくいですが。 東御池のカモメ。 鴨と鯉が仲良く。 東御池の島の中にある鶴峯神社。 手水舎。 平塚八幡宮 説明板。平塚八幡宮は第16代仁徳天皇の68年(今からおよそ1630年前)に、第15代応神天皇をお祀りする社として平塚の地に鎮座し、往古は鶴峰山八幡宮と称し、一國一社の霊場として、また鎮地大神として崇敬をあつめて来た。その後も、歴代天皇や源頼朝公、徳川家康公など武家の崇敬篤く、現在でも、武運、勝負の神として、また安産、健康生育など子育ての神として、震災や厄災からの守りの神として崇敬されていると。平塚八幡宮・拝殿。現在の祭神は以下の3柱である。★応神天皇(おうじんてんのう)★神功皇后(じんぐうこうごう)★武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと) 拝殿右に3つの境内外社があり、それぞれに以下の祭神を祀っている。 右から諏訪社・若宮社・神明社。 諏訪社 : 祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)『古事記』では大国主神(オオクニヌシ)の御子神、諏訪大社(長野県諏訪市ほか)の祭神として知られる神様。若宮社 : 祭神は仁徳天皇(にんとくてんのう)神明社 : 祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、事代主神(ことしろぬし)、徳川家康公(とくがわ いえやす)。 事代主神も大国主神の息子であり、国譲りの時にタケミカヅチ〈建雷命〉と交渉した神様。また、恵比寿様とも言われている神様。御神木の前には願掛けの絵馬がたくさんぶら下がっていました。それぞれの年始の熱き願いが。 神楽殿。 浅間社と道祖神。浅間神は安産・女性の守り神とのこと。道祖神は昔の・・・・・・。 横綱・武蔵山碑。 神奈川県日吉村出身で少年時代から怪力の持主で、右腕の怪力を活かした豪快な相撲で大正15年初土俵から7場所で入幕を果たした。昭和7年1月には小結から関脇を飛ばし一気に大関昇進。昭和10年に横綱に昇進が決まりますが古傷が悪化し相撲が取れず在位8場所で昭和14年31歳で引退します。悲劇の横綱と呼ばれたと。(当時は現在と異なり年間2場所)記念碑の後ろで冬青(そよご)が栽培されていました。モチノキ科の常緑低木。山地に自生。葉は楕円形で堅い。雌雄異株で、6月ごろ白い花が咲く。実は丸く紅色に熟す。葉から褐色の染料をとり、材でそろばん珠などを作ると。冬青は別名「正五位(しょうごい)」といい一般的な神社では神前に供える玉串やお祓いをする祓具(はらいぐ)は常緑広葉樹の榊を用いるが、雪深い地方では榊が育たないため冬青の木をもちいるのだと。太子堂。 「建築土木の守り神」を祭ると。西御池。 今年の干支「酉」 。正月のニッポン放送「スズキ・ハッピーモーニング」で鈴木杏樹が下記のごとき話をしていましたので紹介します。【1/2(月) 『"酉"という漢字について』 『酉年』の『酉』という漢字は、私達が日頃目にしている『鳥』という字とは違います。これは『鳥』だけでなく、十二支の全ての漢字が本来の動物を表す漢字とは違っています。十二支の漢字は"植物の様子"を表していて、今年の干支、『酉年』の『酉(とり)』という漢字は"作物が完全に熟した状態"を表しています。(最初の『子(ね)』は"種の中に、新しい命が萌え始めた状態"。最後の『亥(い)』は"草や木の生命力が、種の中に閉じ込められた状態"を表しています)ところが、そのままの字では覚えにくいこともあって、分かりやすくするために、馴染みのある動物の漢字を十二支にあてはめたのだそうです。ですので、十二支の漢字は動物とは全く関係ないものなんです。今年の干支の『酉』という漢字ですが、『酒』という字に関係しているそうです。言われてみれば『酒』という字から"さんずい"を取ると、『酉』という字になります。この『酉』という字は"お酒の壺"を描いたもので、さらに『酉年』は十二支の中で、10番目にあたります。これを12ケ月にあてはめると10月になり、ちょうどお酒造りの季節でもあることから、『酒』という字から"さんずい"を取った『酉』という漢字が使われるようになった・・と言われています。】と。 なるほど、十二支の動物を表す別な漢字が存在するのです。 子(鼠)、丑(牛)、寅(虎)、卯(兎)、辰(龍)、巳(蛇)、午(馬)、未(羊)申(猿)、酉(鶏)、戌(犬)、亥(猪) 動物に何の意味は無かったのです。そして、それぞれの漢字の意味は子:散らばっている様 丑:生命エネルギーの様々な結合 寅:形をとっての発生 卯:さかんに茂ること辰:物がことごとく震い動いて伸びていく生の活動 巳:とどまる、やめる、蛇の脱皮のように気の更新 午:そむく、逆らう、忤う、上昇する陰と下退する陽との抵触 未:成熟して匂いや味がそなわる。 申:のびる、陰気が伸びて老いて成熟する。 酉:壺の中で盛んに醗酵している様 戌:茂るにつうじ、欲求不満が一杯になる亥:一杯になったエネルギーが一気に爆発する核で、生命の完全な収蔵含蓄このように、植物が生長する様の順になっているのです。そして、十二支の順番についても下の如き民話もあるとのこと。またまた勉強になりました。西参道。 弁財天社 案内板。 平塚弁財天社は平成23年3月に平塚市岡崎鎮座駒形神社末社の弁天社より御分霊を戴き、平塚八幡宮境内に勧請された。その御祭伸は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)とも弁財天とも称えられ、その御神徳は芸能や財福の神、また様々な災難を祓い去る力があると。七福神の石像・弁財天。 江ノ島の弁財天とは異なり立像。琵琶を演奏する像。この像は琵琶の名手として知られた太政大臣・藤原師長が信仰していた像とも言われていると。西御池の島の中にある弁財天社。 社務所。 ここで偶然、元同僚の娘さんにお会いしました。元旦からこの場所で、巫女さん姿でバイトをされているとのこと。この日までで終了とのことで、声をかけると直ぐに私と判ってくださいました。参集殿の中には縁起物の熊手が。宝船に乗った七福神、大判小判、松竹梅など様々な飾りが施され「運をかっ込む」、「福を掃きこむ」と。様々な絵馬も。 カラフルな様々な鳥の姿が描かれた酉年の絵馬。 「鎮地大神」と書かれた御朱印を頂きました。 平塚八幡宮は古くは鶴峯山八幡宮と称えられ、仁徳天皇の68年、この地方を襲った大地震に苦しむ人々の様を見かねた天皇が国土安穏を祈り、應神天皇の御神霊をお祀りされたのが創祀。その後、推古天皇の御代にも大地震があり、人々を案じられた天皇は「鎮地大神」の御宸筆を捧げて国家安泰を祈願して社殿を造営し、さらに天武天皇はこの地の税を寄進、文武天皇は宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納、そして聖武天皇は相州一国一社の八幡宮(霊場)として法華経を奉納されたのだと。 西御池。境内は6列でと。初詣時の混雑が想像できたのです。 平塚八幡宮は、仁徳天皇の68年、この地方を襲った大地震に苦しむ人々の様を見かねた天皇が国土安穏を祈り、應神天皇の御神霊をお祀りされたのが創祀。神紋「鶴丸」は鎌倉・鶴岡八幡宮のご神紋と同じ。交通安全祈願場所への鳥居。 平塚駅構内の七夕飾り。 二宮・吾妻山の菜の花そして平塚八幡宮を訪ね帰路へ。
2017.01.11
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菜の花と富士山の見える大パノラマを堪能し、吾妻山を下る。前方に巨大ローラーすべり台用の建屋が。 山頂がスタート地点となっていて、長さ102メートルと長さも十分、滑りも非常よく気持ちよく滑ることができそう。中学生までは無料で滑ることができるが、高校生以上は1回100円が必要とのこと。尻に敷くマットは貸してもらえるのだと。各種水仙も開花の真っ最中。 吾妻山の展望台の下にある吾妻神社を訪ねる。 入り口には「吾妻宮」 と刻まれた石碑が。入り口の狛犬・阿像。吽像。 手水舎。 手水舎にぶら下がっていたタオルには「吾妻神社 相模国 梅澤」と。この二宮町はそもそも「吾妻村」だったのであり、ここ吾妻山は周辺のシンボルに他ならないのだが、吾妻山以外にもこの伝説にまつわる地名が二箇所存在するようだ。ひとつは「梅沢」で、流れついた「櫛」を「埋めた沢(埋沢)」が転じて梅沢となったと伝わるのだと。 石灯籠も立派。 反対側にも。 由緒記によれば、景行天皇の第三皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、三浦半島の走水から海路上総国へ渡ろうとした際、突然の暴風に襲われ、船もろとも海中に沈む かと思われた。その時、妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が海神を鎮めるため、夫の身代わりとなって海中へ身を投じると、たちまち海は穏やかになったと。その後、海岸に妃の櫛が流れ着き、その櫛を吾妻山の山頂に埋めて祀ったの吾妻神社だと伝えられているのだと。弟橘媛命の御神像は木彫りの千手観音。現在は等覚院に安置されていると。拝殿の前にはプラスチックのケースが置かれていて、「ご自由にお持ち帰りください」とあって、中に『吾妻神社の由来』と題した文章をパソコンでプリントした紙が入っていた。この神社は、縁結びの神さまとしても有名だとある。お祭りは1月と8月15日の年に2回あって、縁結祭は1月の第3日曜日に行われる。このお祭例に合わせて「吾妻さんよさこいパレード」が開催され、二宮の町は賑やかになると。社務所がない無人の神社だが、定期的に掃除される神社に関係する方々がいるのだろう。掃除が行き届いていたのであった。吾妻神社 拝殿。 五三桐の家紋が。 吾妻神社から相模湾・二宮の海を望む。二宮の海の先、一号線を下って小田原との境辺りにあたる場所が「袖ヶ浦」。文字通り弟橘媛の着物の袖が流れ着いたと伝承される浜であると。そして、かつて吾妻神社は袖ヶ浦の下社と梅沢の上社という上下社の結構であったといわれる(下社は現存しない)と。 境内には様々な石碑が。 境内全体写真。桜の時期にはこの場所も綺麗そうなのであった。 さらに山を下ると「浅間神社」の鳥居が左手に。浅間神社の小さな拝殿。 本社は富士浅間神社。祭神は木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)。1193年(建久4年)、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りでは、曽我兄弟の仇討ち事件が発生した。曽我兄弟の姉・花月尼は、仇討ちの成功を富士浅間神社に祈ったという。曽我兄弟が、見事に父の仇・工藤佑経を討つと、花月尼は自身の住居の前の吾妻山の山上に浅間神社を祀ったのだといわれていると。再び眼下に広がる相模湾の絶景。 光る海の白と黒の世界が。 第2展望台に下には二宮町の町章がツツジの植栽で造られていた。 これが正式な町章。電線が邪魔していますが。「宮」を図案化したに図案化した「二」を配し、円型と翼型とにまとめ、融和団結と飛躍伸長を象徴するのだと。 そして綺麗な色の「おすい」マンホールを発見。町の木は「つばき」のようです。長年の仕事から何故かマンホールが気になるのでした。そしてこちらは「うすい」用。
2017.01.10
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今年も、東海道線の二宮駅前にある吾妻山の頂上の吾妻山公園に拡がる菜の花畑を見に行ってきました。 二宮駅には「吾妻山 菜の花ウォッチング」 のポスターが駅改札を出たところに貼られていました。吾妻山公園は、関東の富士見100景、神奈川の花の名所100選、神奈川の美林50選、神奈川の公園50選に選ばれている景勝地なのです。今年の菜の花の見頃も1月半ば以降になるのかなと思っていたところ、1月5日のテレビで8分咲きとの情報があり、映像を見ると随分咲いている感じでしたので昨年に比べ1週間早かったのですが訪ねる事にしたのです。。駅を降りて、まずは駅北口役場口近くの観光協会を訪ねました。開いてはいましたが、まだ9時前の為か係の方はいらっしゃいませんでした。 そして吾妻山公園入り口に向かい坂道を登る。 5分ほどで吾妻山公園入口・役場口に到着。吾妻山公園案内図。 300段以上ある急な階段をひたすら上る。 途中、第2展望台から眼下にJR二宮駅が見えた。 そして相模湾と右の鉄塔の上には、茅ヶ崎の烏帽子岩とその右に江ノ島の姿も。 朝の陽光に輝く相模湾、これぞ「光る海」 。階段から坂道に変わったが、脇の斜面には水仙が群生し開花の真っ最中。 そして子供たちが喜びそうなローラー滑り台も。 そして下から20分ほどで山頂の芝生広場に到着。前方には富士山の見事な勇姿が迎えてくれた。 展望台から、雲一つ無い青空の中に富士山の白き姿を。 そして芝生広場の先には菜の花畑が拡がっていました。 菜の花の向こうに見える葉のない木々は桜。桜の開花時期には、また別の美しい風景を楽しむことができるのです。富士山の姿をズームで。手前の尖った山は「金時山」 。金時山は箱根山の外輪山の最高峰(標高1,213m)で、40万年前の大噴火によって誕生したもの。金時山の由来は昔話で有名な金太郎が動物たちと遊んだ場所であることからと言われています。山頂は一面白の世界。 宝永大噴火(ほうえいだいふんか)の跡。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火。現在までにおける歴史上最後の富士山の噴火。噴火は約2週間続き、総噴出量は、約7×10^8 m3と推定されている。噴火による直接の死者は記録されていないが、噴出した溶岩石による火災などで甚大な被害をもたらしたのだ。 吾妻山山頂(標高136.2m)からの眺望案内図。富士山の右手には大山の姿が。 その左に丹沢山塊。 富士山の左側には箱根の山々が拡がっていた。左の山は「双子山」 。吾妻山公園の由来が刻まれた石碑には歌も刻まれていた。 「相模路(さがむぢ)の 余綾(よろき)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思(おも)はるるかも」 相聞歌で民衆の中で歌われていた恋愛の歌。 記念撮影スポット。 そして山の斜面に拡がる菜の花畑。 遠く小田原の町並みと相模湾。8部咲きと言うよりは満開状態。 菜の花畑の先には東屋風の休憩場所が。早咲きの菜の花であろう、何という種類なのであろうか。我が養蜂場所でも栽培したい品種なのであった。 ミツバチの姿は見ることが出来なかった。やはりこの日の山頂の温度が8℃の為であろう。 赤い真弓の実と富士山の姿も絶景。芝生広場とその先に光る相模湾。 幻想的な光景。 海には釣り船が。 そして西湘バイパスと大磯の海岸も確認できた。 見納めに今年も360度の大パノラマを撮影。
2017.01.09
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今年も我が地域では今日「どんど焼き」が行われました。「どんど焼き」とは小正月(こしょうがつ=1月15日)の行事で、正月の松飾り・注連縄(しめなわ)・書き初めなどを家々から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やすという、日本全国に伝わるお正月の火祭り行事なのです。妻が昨日、三色の団子を準備してくれました。最近は毎年、三又の枝を準備するのに苦労するのですが、今年は酔芙蓉の枝を切り準備しました。早朝8時から行われるとのことで、我が家の正月の松飾り・昨年の神棚の注連縄(しめなわ)を持って開催場所の近くの公園に向かいました。既にどんど焼きの火が燃え滾っていました。地元の長老からお酒を紙コップに頂きました。 既に地元の多くの方々が集まっていました。 どんど焼きの火が収まって来たので、皆さん団子を焼きだしたのです。 私も焼きだしましたが、我が団子は焼くにつれてクラックが。 どんど焼きの火にあたったり、焼いた団子を食べれば、その1年間健康でいられるなどの言い伝えもあり、無病息災・五穀豊穣(むびょうそくさい・ごこくほうじょう)を祈る民間伝承行事なのです。 皆さん、大小はありますが赤、白、緑の団子を。 そして色の順番はそれぞれに。我が地域では「どんど焼き」と言いますが、地方によっては他の名称でよばれることもあるようです。静岡県では「さいと焼き」と呼んでいるとの事。そう言えば、私が小さい頃は、我が地域でも村の長老が「今年のさいと、笑ってやれ」と言っていた記憶があります。全国的にも 地方によっては「とんど」、「どんど」、「どんだら焼き」、「どんどろ祭り」「おんべ焼き」、「さいとう焼き」、「ほっけんぎょう」、「三九郎焼き」、「ほじょり」「ほうじょり」などがあり、東日本では「才の神焼き」呼ばれているとの事です。 「どんど焼き」の語源については、火が燃えるのを「尊(とうと)や尊(とうと)」と囃(はや)し立てたことから、その囃し言葉が訛(なま)ったのだとか、又、他にもどんどん燃える様子からそれらの名称がついたのだとかいわれているとのこと。東海地方から西日本では「左義長(さぎちょう)」という呼び名があるとの事ですが、これがどんど焼きの起源とも関わっていると言われていると。左義長(三毬杖)は、正月十五日、平安時代の宮中で、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖(ぎっちょう)三本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師(おんみょうじ)が謡いはやしながらこれを焼いたという行事。それが民間に伝わりどんど焼きとなったといわれていると。しかしこれ以外の説も多々あるようですが。 我が家の団子も十分に焼けました。団子を逆さにしても焼きましたが、何とか火の中に落ちずに頑張ってくれました。 家に戻り妻と焼きあがった団子を一つずつ食べて、今年の無病息災を願ったのです。いつまでも残しておきたい日本の伝統行事なのです。
2017.01.08
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今日は1月7日。 人日の節句(じんじつのせっく)。「人日」とは五節句の1番目の節句で、陰暦1月7日のことをいいます。五節句は、人日(じんじつ)(正月7日)、上巳(じょうし)(3月3日)、端午(たんご)(5月5日)、七夕(しちせき)(7月7日)、重陽(ちょうよう)(9月9日)。「人日()の節句()」の「人日」は、「人の日」で、元日からそれぞれの日に獣畜を当てはめて占う風習が中国にあり、七日目が「人」で、その日を人を大切にする節句にしたとも言われ、中国の風習に日本の風習が結びついたとも言われているとのこと。この日を「七草」「七草の節句」「七草の祝い」などとも言い、「 七草粥(ななくさがゆ) 」を食べる風習があるのです。春の七草は、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロが一般的。 旬の生き生きした植物である七草を粥にして食べれば、自然界から新たな生命力をもらえ、無病息災で長生きができるとされて来ました。かつては、前日に野山で菜を摘み、年棚(歳神を祭った棚)の前で七草囃子(ななくさばやし)を唄いながらすりこ木でたたいたそうです。こうすることで、七草の力をさらに引き出すことができると考えられてました。このように丁寧に細かく刻まれた七草粥は、正月のご馳走に疲れた胃腸をいたわり、ビタミンを補う効果もあるのです。更に春の七草には次のような意味が含まれているのだと。セリ …競り勝つ ナズナ …なでて汚れをはらうゴギョウ …仏体 ハコベラ …繁栄がはびこるホトケノザ …仏の安座 スズナ …神様を呼ぶ鈴スズシロ …汚れのない純白さ。 昨日の午後に我が養蜂場のある菜園に行きその周囲から春の七草を摘んで来ました。まずはセリ(芹)。菜園の下に小川がありそこにセリが生えているのです。和名のセリは、まるで競い合う(競り)ように群生していることに由来するとのこと。本当に競い合うように群生していました。ナズナ(薺)。別名ペンペングサ(ぺんぺん草)、シャミセングサ(三味線草)とも言い田畑や荒れ地、道端など至るところに生えているのです。名前の由来は、夏になると枯れること、つまり夏無(なつな)から、撫でたいほど可愛い花の意味、撫菜(なでな)からなど、諸説ある。「ぺんぺん」は三味線を弾く擬音語で、花の下に付いている果実の形が、三味線の撥(ばち)によく似ているからと。若苗を七草として食用にするのです。ゴギョウ(御形)。ハハコグサ(母子草)とも呼ばれ茎葉の若いものを食用にするのです。 名前の由来は、葉や茎が白い綿毛をかぶっている様子が、母親が子を包みこむように見えたことから、母子草(ハハコグサ)の名がついたという説と、昔は葉を餅に入れて草団子にして食べた「葉っこ草」が転訛して、ハハコグサの名がついたという説があるようです。「御形」の「御」は接頭語で、「形」は人形(ひとがた)のこと。 他にも草もちにヨモギで作られる以前は、ゴギョウ(ハハコグサ)が用いられ、「母子餅(ははこもち)」と呼ばれた。 3月3日の節句に母子の人形を飾り、母子餅が供えられたことから、ハハコグサは「御形」と呼ばれるようになったとも。 ハコベラ(繁縷、蘩蔞)。背の低い草本で、一年草、越年草または多年草。茎は株状になるか1本立ちになり、よく枝分かれして密集した群落を作るのです。 「ハコベ」の名は、万葉集に現われている「波久培良(ハクベラ)」から「ハコベラ」になり「ハコベ」に転訛したものというのが一般的。 ただ、「ハクベラ」の名の由来はよくわかっていないようです。なお、余り一般的ではないようですが、ハクは「布(ぬのきれ)」を意味し、ベラは古い言葉で「群がる」を意味し、小さな葉が群がる様子から「ハクベラ」となったという説もあるのだと。 妻から摘んで来たホトケノザは春の七草ではないとの指摘が。ネットで調べてみると。春の七草のホトケノザ(仏の座)は、コオニタビラコ(小鬼田平子)、オニタビラコ(鬼田平子)など、主としてコオニタビラコで、キク科に属する越年草。この下の写真のホトケノザ(仏の座)とは完全に別種で、こちらはシソ科オドリコソウ属なのだと。長く生きて来ましたが、全く知りませんでした。しかし、なるほどこのホトケノザの葉は、自然界から新たな生命力をもらえ春の七草には?・・・・と納得。また勉強になりました。長年、この写真のホトケノザ(仏の座)を春の七草と思っていたのです。本当のタビラコ( 田平子)はどこに生えているのでしょうか?全く見たことがないのです。それとも気が付かないだけなのでしょうか。スズナ(錫菜、菘)。代表的な野菜のカブ(蕪)のこと。スズナのスズは蕪の形から「鈴」と思っていましたが「錫」との事。錫製の丸い容器に似ていることからついた名前ではないかと。更に「カブ」の語源は諸説あり、頭を意味する「かぶり」、根を意味する「株」、またはカブラの女房詞(にょうぼうことば)である「オカブ」からとされていると。スズシロ( 蘿蔔/清白)。ダイコン(大根)の事。スズシロの「スズ」は「涼しい」「涼む」の「すず」で清涼の意。「シロ」は根の白さで、すがすがしく白い根から「涼白(すずしろ)」が名前の由来とされるとのこと。 春の七草を全て根っこ付きで摘んで来たつもりでしたが、実際は六草でした。 そして今朝はスーパーの「春の七草セット」ではなく自ら野で摘んだ六草での「六草粥」を食べて邪気を祓い、一年の無病息災と五穀豊穣を祈ったのです。実家にいた幼い頃は、正月15日の「小正月」には「あずきがゆ」を食べていた記憶がありますが、我が家では現在この風習はありませんし、既に実家でもやっていないのではないでしょうか。
2017.01.07
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昨年のクリスマス前の事ですが、旅友のSさんから、夕日が富士山の頂上に沈むダイヤモンド富士を見に行こうと誘われ、Sさん宅経由で厚木の相模川河川敷に行きましたが・・・・。しかし夕日は富士山にはほど遠い二子山に沈みそうなのでした。 富士山はやや赤く染まりはしましたが、知らん顔なのでした。 ダイヤモンド富士ならぬダイヤモンド双子を楽しんだのでした。この日、ダイヤモンド富士が見えたのはもっと北の高尾山付近であった模様。ムンクの叫びに似た真っ赤な雲のうねり。 そしてこのまま帰るのはしゃくでしたので、Sさんの罪滅ぼし?に宮ケ瀬ダムで行われている宮ヶ瀬クリスマスイルミネーションを見に連れて行って貰うこととなりました。相模川河川敷から走ること 1時間強で到着。駐車場に1000円を払い車を停め散策開始。入園料はなんと無料。散策を始めるといきなり水の郷大つり橋が目の前に。橋長315mで全長にわたりイルミネーションが施されており、観る者を圧倒。そしてその先には巨大ツリーが。大つり橋横の親水池では虹の妖精という神秘的な噴水が設置されていました。水の動きに思わず見入っていました。宮ケ瀬湖畔園地案内図。 水の郷大つり橋の下を進む。 前方にメイン会場が。 中国の国旗を想わせる赤のイルミネーション。 黄色の★の横に小さな★が4個あれば・・・・。けやき広場のレインボーツリーのイルミネーション。 様々な色に目まぐるしく変わるのであった。 湖畔の高さ30mを超えるの自生のもみの木のイルミネーション。 1万個以上のLED電飾で飾られているとのこと。もみの木には近づくことが出来ませんが、唯一ロードトレイン「ミーヤ号」(有料300円)に乗ると間近に観ることができるのでしたが。光のトンネルが前方に。 光のトンネルの階段を上る。 青の美しい鈴の姿。 ズームで。 別角度から。 光のトンネル上からのもみの木のイルミネーション。 水の郷の広場には沢山のイルミネーションが飾られていました。池の水面に映るイルミネーションも美しかったのです。 ズームで。池には白鳥が。 星とハートがテーマか? 神秘的な緑の世界。 ここにも星が。 こちらはハート、そして後ろに星。青の洞窟。 大きなハートの奥にメインツリーが。 黄色の花の姿も。 多くの青き鹿が戯れていた。 記念撮影場所。 そして再び 水の郷大つり橋。帰路は有料でこの水の郷大つり橋のイルミネーションのトンネルを歩けるのではあったが・・・。開催日程:2016年11月26日(土)~12月25日(日)点灯時間:17:00~22:00(12月/23.24.25は23:00まで点灯)オジサン二人でカメラ片手に仲良く光のメルヘンの世界の宮ヶ瀬クリスマスイルミネーションを楽しんだのであった。
2017.01.06
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年末には伊万里の親友がこの年2回目の天然牡蠣を殻付きで送ってくださいました。今や我が家への年末の定期便となっているのです。そして12月27日には長男夫婦にめでたく第1子の女の子が誕生し、出産場所の産院がある岡山までジジババの顔見せに夫婦で行ってきました。その帰りに岡山のご両親からはむき身の生かきを大量にお土産にいただき帰宅したのでした。「日生 瀬戸内名産 岡山 生かきJF岡山魚連 岡山県産100%」の文字が。フタを開けると巨大な牡蠣がギッシリと。岡山県は、カキの生産量全国3位とのこと。とくに日生で養殖されるマガキは、周囲の島々から流れ出す豊富な養分と、カキの成長リズムに合った海水温の変化のおかげで、大粒でふっくらとしていると。早速、伊万里産岩牡蠣、そして日生産剥き牡蠣も、もちろん生牡蠣で楽しみました。二人暮らしにはさすがに量が多いので旅友のSさんに召集令状を出し、取りに来て頂いたのでした。両方とも海のミルクと呼ばれるにふさわしい風味が口の中に拡がったのです。伊万里産の海鼠(ナマコ)も一緒に送っていただきました。こちらはナマコの酢のもので楽しませていただきました。そして牡蠣フライも。クリームシチューでも。そしてわが菜園のブロッコリーとカリフラワーも一緒に。牡蠣好きの我ら夫婦は大晦日までには「生」そして「調理」し完食したのでした。ごちそうさまでした。贅沢な年末となりました。ありがとうございました。そして一句、「牡蠣食えば 鐘が鳴るなり 大晦日」・・・・詠み人知らず・・・・
2017.01.05
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箱根駅伝観戦の後は、遊行寺に初詣。通称「遊行寺」の名で知られているが、正式には藤澤山無量光院清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)。 開山は俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭であった俣野氏の出身である遊行4代他阿呑海上人。その兄である俣野五郎景平の寄進により正中2年(1325)に創建。創建以来、数度にわたる戦火、火災により堂宇は度々焼失し、その都度復興。永正10年(1513)兵火により全山を失った際は、当時、遊行21代他阿知蓮上人が滞在されていた駿河長善寺に本尊を移動。その後、ようやく藤沢に再興されたのは、慶長12年(1607)とパンフレットには。 ご本尊は阿弥陀如来坐像。遊行寺境内案内図。一般的には寺にない建物が境内の国道側に。神仏分離の為に諏訪神社と遊行寺が分かれていたが、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として習合された神仏混淆(しんぶつこんこう)により、今でも遊行寺境内に諏訪神社の神輿社が残っているのだ。こちらの神輿の最上部には龍が乗ってる珍しい神輿。 こちらは最上部には鳳凰が乗っている神輿。境内の宗祖一遍上人像。 後ろは関東大震災で崩壊後、平成26年に再建された地蔵堂。日限地蔵菩薩を安置。一遍上人像を横から。この一遍上人は入寂の際に「わが化導は一期ばかりぞ(私の教えは一代限りである)」、「一代の聖教皆尽きて、南無阿弥陀仏に成り果てぬ(お釈迦様の教えは南無阿弥陀仏の名号の中にすべて凝縮されている)」と言われたとのことであり、間違いなく一遍上人本人はこの様な銅像になんかなりたくなかった事まちがいなし。そして毎年の正月の人出にウンザリされているのではとも。 本堂の屋根には遊行寺・時宗宗紋・「隅切三紋」 が。一遍の俗名は河野時氏といって伊予国の土豪の家系。この「隅切三紋」は「折敷に三文字紋」とも言われ、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となった。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋としたと。鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた一遍の家系の河野氏もこの家紋であったと。開祖の出身家紋がそのまま宗派の寺紋となったのは親鸞聖人の鶴丸と同じと。 登録有形文化財の手水舎には初詣客の長蛇の列が。 明治100年記念として、手洗鉢が新設。その説明書には「住古より余ってかへる遊行寺の手洗鉢と世人の諺にまで謂われ文化財にも比すべき本堂前の手洗鉢が大東亜戦争の戦災に遭い資源不足のためにやむなく供出され、茲に25年篤志家の御賛同を得て復元いたしました 昭和四十四年三月廿六日」と。初詣のポスター。 本堂には初詣参拝の長蛇の列。箱根駅伝観戦者が一気に参拝に押し寄せたのであった。大きな常香炉は、身を清めるために煙を浴びる参拝客で大混雑。 おみくじ結びところ。おみくじ一つ一つにそれぞれの願いが。 鐘楼。この大晦日の除夜の鐘で新しい年を迎えたのです。人には百八つの煩悩(ぼんのう)があり、その煩悩をはらうために、除夜の鐘をつく回数は108回と。酒井忠重逆修六地蔵。銘文によれば萬治3年(1660)1月15日に酒井長門守忠重が施主となって、遊行十七世慈光(じこう)上人(遊行三十九代)の代に建立された。施主の酒井長門守忠重は出羽鶴岡城主酒井忠勝の弟で逆修のために建立されたと。 この「逆修」とは「生前に、自分の死後の冥福のために仏事をすること」と。 本堂の巨大な屋根を背景に六地蔵を。 酒井忠重五輪塔。この五輪塔には、「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士酒井長門守忠重 九月十八日」と記されている。忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進している。遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから忠重との関係は深いものがあったのではないかと。忠重は下総市川に蟄居中(ちっきょちゅう)に不慮の死を遂げており、六地蔵供養塔・万日堂(念仏堂)の寄進者としてその遺骸(いがい)を遊行寺に葬(ほうむ)ったと考えられていると。 本堂を国道側から。 安政年間に建造された遊行寺で最古の中雀門(ちゅうじゃく もん)。四脚門で、高さ約6m、幅約2m70cm。 紀州藩の徳川治宝(とくがわはるとみ)の寄進。側面の大棟に菊の紋、屋根の下に葵の紋が刻まれていて、フクロウなどの鳥の彫物も素晴らしい。 遊行寺宝物館。 特別展『遊行寺の什宝』 〔1 月 1 日(日)~2 月 13 日(月)〕 が行われていた。 境内には多くの食べ物の出店が並んでいた。以前は骨董市が行われていたが、正月の今日4日(水)と15 日(日)に行われると。 テーブルも並べられて。 高さ16m、幹周り6.84mの樹齢700年と言われている大銀杏の下のベンチでは出店で買った食べ物を楽しむ家族連れの姿が。出店の前の獅子舞人形が可愛らしい動きで楽しませてくれていた。 遊行寺山門跡を出ていろは坂右手には早くも梅の花が。 いろは坂・参道を下ると左手には真徳寺(赤門)が。真浄院は遊行寺山内の筆頭塔頭寺院。 惣門前の巨大灯籠。高さ約2m80cmの青銅製の灯籠で、惣門前に対になって建立されている。江戸講中をはじめとした信徒たちにより建造が望まれ、1848年以降に建立したと。鋳造師は、江戸で活躍した西村和泉守藤原政時。すでに指定を受けている江の島入口青銅鳥居とともに、市内にある青銅製の大型建造物として希少であり、江戸との文化的交流を伝えていることから、市指定重要文化財に指定されている。名古屋・熱田神宮で見た信長塀に似た塀が惣門の両側に。 惣門前の建物のシャッターに描かれた浮世絵。『東海道五拾三次 藤沢(狂歌入東海道)』の水墨画風。遊行寺の側から大鋸橋(現遊行寺橋)と江の島一ノ鳥居を描いたもので、背景にある山は大山。橋の上の人物が担いでいるのは御神酒枠で大山詣を象徴。橋のたもとの高札場など、宿場の様子も窺える。 そして再びバスに乗り帰路へ。途中、源義経公を奉る白旗神社前には、ここも初詣客の「茅の輪くぐり」の列が道路の歩道まで伸びていたのであった。
2017.01.04
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今日も箱根駅伝の復路観戦に2日連続で行ってきました。今年も我が家の近くの旧道沿いの材木屋さんが干支絵の年賀を設置しています。昔はあちこちに材木屋さんがあって、こういうふうに材木を並べてそこに年賀を描いていたのですが最近では非常に珍しくなりました。今年は2017、酉年、 超特大表示で非常に迫力があり清々しく感じられます。そしてこの前で信号待or通過する自動車のドライバーが道路脇に車を停めて下車し撮影する姿も。非常に珍しい光景であることが理解できるのです。そして今日もバスにて遊行寺前駅まで。遊行寺の惣門(総門)から参道四十八段(いろは坂)に。大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)が遊行寺の惣門(そうもん)で、向かって右に「時宗総本山」、 左に「清浄光寺」と彫り込んだ大きな木札がかかっています。今では遊行寺の黒門と呼ばれているのです。それから続く石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれています。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々の憩いを与えています。 地元の人には、いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれているのです。 遊行寺本堂。 そして今日は、第8区:平塚~戸塚(21.5km)の最大の難所でありラスト5キロに待ち受ける「遊行寺坂」に陣取る。ここには固定カメラが設置されており、丁度カメラマンも到着したばかり。よって未だ仮設のカメラ設置場所には三脚のみでカメラマンもカメラもなし。 バイクで応援用の旗を配る読売新聞の関係者から旗を1本頂く。 そして広報車が通過。 そして暫くするともう一台の広報車が猛スピードで。 カメラマンも準備完了か。 そしてテレビ中継車が通過。 共同カメラマン車の荷台には多くのカメラマンが巨大なカメラを構えていた。 先導パトカーが。 1位は青山学院大学 下田 裕太選手。時間は10:51過ぎ。 この時は原監督も独走態勢であり余裕の表情であったがこのあと・・・・。 今日もヘリコプターが上空から選手を追いかけていた。 2位は早稲田大学 太田 智樹選手トップと04:16の大差に。 箱根の復路スタート時は33秒差であったが、じわじわと差が拡がっていったのであった、。第3位 東洋大学 竹下 和輝選手。 ラジオ放送車も通過。 第4位 神奈川大学 大塚 倭選手。第5位 順天堂大学 甲斐 智樹選手。 第6位 日本体育大学 中川 翔太選手。 第7位 中央学院大学 廣 佳樹選手。 第8位 法政大学 青木 涼真選手。テレビ第2中継車。 第9位 駒澤大学 広瀬 匠選手。 第10位 帝京大学 宇佐美 聖也選手が懸命に追い上げ中。 第11位 東海大学 春日 千速選手。 第12位 拓殖大学 新井 裕崇選手。第13位 創価大学 米満 怜選手。 第14位 上武大学 大森 樹選手。 第15位 大東文化大学 林 日高選手。 第16位 山梨学院大学 小山 祐平選手。 第17位 國學院大學 熊耳 智貴選手。この選手以降は箱根で繰り上げ出発でしたので暫定順位なのです。 第18位 明治大学 東島 清純選手。 第19位 日本大学 小坂 太我選手。第20位 関東学生連合(城西大学) 金子 元気選手。対向車線にいつものクラシックカーの一群が通過。 彼らにも沿道の観衆から旗が振られていた。観衆からの拍手に運転しているオーナーも超満足げ。そして最終走者・第21位 国士舘大学 本多 将貴選手。トップから24:30ほどの遅れ。 最終関係車両が通過。 そして、箱根駅伝観戦後は遊行寺に初詣し帰宅。そしてテレビでその後の箱根駅伝・復路を観戦。結果は2日の往路を制した青山学院大がトップを守り、3年連続の総合優勝を達成。青山学院大は去年10月の出雲全日本大学選抜駅伝、去年11月の全日本大学駅伝に続き、今シーズンの大学駅伝3冠を達成。青山学院大は復路ではトップを1度も譲ることなく、2日間の合計タイムを11時間4分10秒とし、2位に7分21秒の差をつける圧勝で、3年連続の総合優勝。3年連続の総合優勝は平成17年まで4連覇をした駒沢大以来、史上6校目。青山学院大は、復路も5時間30分25秒で3連覇を達成。総合順位の2位は往路4位だった東洋大、3位は往路2位だった早稲田大。そして注目すべきは、「幻の区間賞」が最終10区で生まれた事。チーム、個人ともに参考記録扱いの関東学生連合の照井明人選手が、区間1位相当の1時間10分58秒で走り、存在感を示したのだ。 そして自宅テレビの録画画面で我が応援場所を通過するテレビ画面には日本人が最も興奮するスポーツイベントのひとつは、年初めにスタートを切るこの「箱根駅伝」。全行程217.1kmの「箱根駅伝」は、日本では最長距離かつ最重要、さらに世界でも最高峰のリレー競技のひとつとして考えられているのである。2日間で往復区間を走破する「箱根駅伝」は、大学生チーム同士で競われるのも特徴。元旦の行事が一段落した頃、テレビの前で、あるいは選手が走るロードサイドで「箱根駅伝」に手に汗握る日本人は多いのである。第93回目を迎える2017年大会は、注目校が数多く出場するため、どの大学が優勝を手にするかは多くの可能性を秘めていたのであったが。その中に我が母校も・・・・。長時間にわたる競技だけに、ゴールの瞬間までどのチームが勝者となるかが読めないのが箱根駅伝の魅力なのだ。今年も正月の年中行事となっている箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)を2日間ハシゴしたのであった。沿道では走り抜ける選手の息づかい、表情、汗などが一瞬ではあるが、よく分かり、後方の車から指示を飛ばし激励する監督の声がスピーカーから聞こえて来たのであった。それだから、止められない、止まらない我が家の正月初めのビッグイベントなのである。
2017.01.03
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今年も我が家恒例の東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の往路観戦に行ってきました。第93回箱根駅伝は、今日2017年1月2日の往路と1月3日の復路で開催。第92回大会の上位10校(シード校)と、2016年10月に行われた予選会の上位10校に加え、関東学生連合チームを合わせた全21チームが参加して行われるのである。今年は娘夫婦が子供2人を連れて我々に合流して合計6人での観戦となったのです。自宅近くのバス停から神奈中バスに乗り、遊行寺前駅で下車。バス停の横には交通規制の案内表示が。藤沢橋交差点を横断しいつもの応援場所に。既に多くの観戦客が旗を持ち沿道に今や遅しと。応援場所は我が母校の東応援会場。藤沢橋付近の 神中興業(株)様(カーテック神中)。既に多くの諸先輩、後輩が集まっていた。受付を行い、きりたんぽ鍋と甘酒をご馳走になる。今大会では第4区、第5区の区間距離が変更されたのであった。▼区間距離第4区 18.5km → 20.9km第5区 23.2km → 20.8kmこれにより第1区~第10区まで全ての区間が20km以上の区間となったのです。▼変更理由第82回大会(2006年)以降区間距離を延長した第5区の選手に対する生理学的負担が大きく、走行後半に低体温症や低血糖症の症状に陥る例が多数発生していること。また、総合成績に対する第5区の貢献度が大きすぎることに関する検討結果から。※最近11大会で5区で区間賞を獲得したチームが10度も往路で優勝、 7校が総合優勝をしているというデータがある。第82回大会以降第4区の距離を短くしたことで、マラソンに順応できる選手の芽を摘み取っている懸念の検討結果から。 とのこと。 待つこと20分、漸く箱根駅伝 広報車が目の前を通過。この場所は往路・3区21.4kmの6km近くの地点。しばらくすると上空にヘリコプターが。選手が近づいてきたことが解った。そして日本テレビ・第一中継車が通過。1位は神奈川大学 越川 堅太選手。時間は10:29前。2位 青山学院大学 秋山 雄飛選手。遅れること28秒。テレビで見る顔とは違って厳しい顔つきの青山学院大学 原監督が乗車。日本テレビ・第二中継車。3位 駒澤大学 下 史典選手。トップから55秒遅れ。駒澤大学 大八木監督が乗車。4位 早稲田大学 平 和真選手と5位 帝京大学 濱川 駿選手。トップから1分遅れ。孫娘も我が母校の選手に必死に旗を振り応援してくれました。早稲田大学 相楽監督が乗車。孫息子は待ちきれずに?・・・・。6位 東洋大学 口町 亮選手 と 7位 順天堂大学 野田 一輝選手。8位 創価大学 蟹澤 淳平選手 と 9位 日本大学 高野 千尋選手。10位 拓殖大学 今滝 春彦選手 と 11位 東海大学 國行 麗生選手。12位 大東文化大学 下尾 一真選手。大東文化大学 奈良監督。現役時代の奈良監督を妻が大ファンなのであった。13位 中央学院大学 横川 巧選手。14位 法政大学 坂田 昌駿選手15位 國學院大學 土方 英和選手。16位 上武大学 太田黒 卓選手。17位 山梨学院大学 永戸 聖選手 と 18位 日本体育大学 吉田 亮壱選手。19位 明治大学 三輪 軌道選手。20位 国士舘大学 八巻 雄飛選手。21位 関東学生連合 平賀 喜裕選手。トップ神奈川大学から遅れること9分強。そして医務車。緊急対応車(2)。最終関係車両。そして母校の観戦客でこの後の母校選手の健闘を祈り校歌をフルコーラスで合唱したのであった。市長、副市長も母校の後輩であり挨拶。箱根駅伝グッズの販売所。箱根駅伝グッズ定番の各校のタスキをイメージ゙したマフラータオル。第93回箱根駅伝オフィシャルゴールタオル。バスの時間まで、出場大学の幟の立った『ふじさわ宿交流館』に立ち寄る。藤沢市ふじさわ宿交流館とは『旧東海道藤沢宿の歴史,文化等と触れ合う場を提供するとともに,地域の人及び当地を訪れる人の交流の推進を図ることにより,市民の文化の振興に寄与し,旧東海道藤沢宿及びその周辺地域の活性化及びにぎわいの創出に資するための施設』と。時宗総本山遊行寺の参道入り口には多くの初詣客の姿が。そして帰路のバス停に6人で向かったのであった。そして帰宅して再びテレビ観戦。そして青学大が5時間33分45秒で3年連続の往路優勝を果たしたのであった。3区の秋山雄飛がトップに立ち、5区の貞永隆佑がそのまま1位でフィニッシュ。早大は青学大と33秒差の2位でゴールし、3日の復路につながる走りを見せたのであった。 【往路順位】優勝 青山学院大学 11位 帝京大学 2位 早稲田大学 12位 法政大学3位 順天堂大学 13位 日本体育大学4位 東洋大学 14位 拓殖大学 5位 駒澤大学 15位 東海大学6位 神奈川大学 16位 山梨学院大学7位 中央学院大学 17位 明治大学 8位 上武大学 18位 大東文化大学9位 創価大学 19位 國學院大學10位 日本大学 OP 関東学生連合 20位 国士舘大学
2017.01.02
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明けましておめでとうございます。今年も片瀬江ノ島海岸に初日の出を見に行ってきました。5:50に自宅を出て小田急線の臨時電車に乗り片瀬江ノ島駅に到着。竜宮城の如き駅舎。 赤のLEDライトによるイルミネーションも。 境川にかかる片瀬江ノ島の弁天橋から江の島を見る。既に空は明るくなってきていた。 片瀬東浜海岸に出ると既に多くの人が浜辺に。この片瀬東浜海岸での日の出は三浦半島の山の端から。 初日が上がってくる場所の山の端の上には雲が拡がっていた。 湘南大堤防の湘南港灯台の廻りにも多くの初日の出見物の人々の姿が確認できた。振り返ると、東浜海岸の砂浜にはぎっしりと見物客で埋まっていた。 この日の初日の出の時間は6:51。10分前の6:40近くになると、雲の上に赤き輝きが。 上半身裸になり海に入る若者の姿も。しかし寒そうなことはその姿から。 友人であろうか、そんな若者にジェットスキーで近づき急旋回して海水をかける姿も。 初日の陽光が雲の後ろから放射状に拡がって来た。 空が益々赤く染まってきた。 そして初日の出の時間の6:51になったが、初日は未だ雲の後ろに。雲の割れ間から光がそして雲の端にも赤き輝きが。 そして漸く7~8分遅れの6:59前に初日が姿を現した。 水面にも陽光の赤き帯が。 しばし初日の出を見入る。 見物客の顔までも赤く染まっていた。 なぜか自撮り。 西海岸に向かう。国道134号線の境川に架かる片瀬橋からの江の島の姿。 片瀬漁港の入り口にある「海の詩」銅像から江の島を狙いました。 西浜海岸からの富士山の雄姿。 頂上は一面の白の世界。 海水温が高いのか、透き通った富士の姿ではなかったが・・・。 新江ノ島水族館にも朝の陽光が。 新江ノ島水族館(“えのすい”)の入り口。今日は休館日かと思ったが、三が日の開館時間は9:00~。 そして帰りも片瀬江ノ島駅から小田急線で。地元の駅に預けておいた自転車で地元の神社への初詣に。昨年の破魔矢をお焚き上げをの火に焚べ、1500円で今年の破魔矢を購入。 そして自宅への帰路に、地神社へも初詣。 そして帰宅し、ブログを書いているとテレビのニュースで今日、2017.1.1は時刻に1秒を足す「うるう秒」の挿入が1日午前9時直前、世界一斉に行われたと。よって今日は1日がいつもより1秒長いのだと。デジタル時計では、8時59分59秒と9時0分0秒の間に、通常はない「8時59分60秒」が表示されたと。挿入は2015年7月1日以来1年半ぶりで、1972年から27回目となったと。テレビのニュース画面より。現在、世界の標準時は原子時計によって正確に刻まれている。一方、地球の自転は海水の満ち引きなどで少しずつ遅れており、標準時との間に小さなずれが生じる。そこで1972年から数年ごとに、調整のための「うるう秒」が入れられるようになっているのだと。国際地球回転・基準系事業という国際機関・IERSが2016年12月31日に、うるう秒の1秒を追加することを決定したのだと。IERS本部があるパリの時間「2016年12月31日午後11時59分60秒」が追加されたと。日本はパリと9時間の差があるので、「2017年1月1日午前8時59分60秒」が追加されるので、2017年は1秒だけ長いという事になったとのこと。
2017.01.01
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