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そして環状4号線・横浜市主要地方道18号沿いにある「密蔵院」を訪ねた。横浜市泉区和泉町727。寺号標「高野山 真言宗 南竺山 正覚寺 密蔵院」高野山 真言宗寺院の密蔵院は、澄貴(寛永16年・1639年寂)が開山となり創建したと。「寂」とは涅槃(ねはん)に入る。仏教の僧が死ぬこと。しかし開山は祐海法印で1500年代前半であるとの説もあるようだ。旧和泉村内の神社や石仏、それに出羽三山講の先達としてその名を刻まれているから、かつては和泉村の民間信仰の中心役を務めていたと。 門前の文政4年(1821)建立の「南無大師遍照金剛木食観正」と刻まれた「木食観正(もくじきかんしょう)碑」。江戸時代後期、小田原を拠点に、加持祈祷(かじきとう)などしながら関東地方へ布教し、弘法大師の再現と世間の評判となった1人の民間宗教家が「木食観正」。木食とは、木の実や果実を食べ、米や野菜を常用しない修行を意味し、また、このような修行を守る遊行(ゆぎょう)僧で、一般に僧侶としての資格を持たない、民間の下級宗教者のことでもあったのだと。石碑の最上部の文字は梵字の「ア」であるとのこと。大日如来をさし、すべての最初という意味のある言葉であると。密教の主要な瞑想法である「阿字観」で「ア」が本尊とされることから、極めて重要な梵字であることがわかるのだと。褝宗では仏像などの前で座する「褝」になるが、真言宗における瞑想は阿字観になり、「阿」と書かれた梵字の前で瞑想すると。褝は何も考えず、ひたすら無心で座るが、真言宗は大日如来の世界(宇宙)と一体化するべく真理を追求しながら瞑想するのだと。 【https://kotodama-shodou.com/1753/】よりその下に「南無大師遍照金剛」、「木食観正」と刻まれているのだと。掲示板には「ありがとうの一言が幸せの扉を開く」と。参道の石段を登る。正面に本堂。「本堂」。御本尊は願行作とされる「不動明王」。扁額「南笠山」。「本堂」破風?の彫り物。「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」。修行大師の像。「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場 参詣作法お寺の名前の下の丸い筒の中に夫々のお砂か人っています。合掌なされて、南無大師週照金剛乂はお願い事を一心に念じ乍、一番より順に八十八番までお巡り下さい。最後にお大師様の正面で「南無大師遍照金剛」とお唱え下さい。どなた様もどうそご自由にお詣り下さい。」私の「四国八十八ヶ所遍路旅」👈リンク は2018.03.30に「結願」したのであった。「四国八十八ヶ所 霊場地図」で四国の地図の中に八十八ヶ所の寺の位置が示されていたが・・・・木々が御影石に映り込んでしまい・・・。境内の「稲荷大明神」。扁額「稲荷大明神」。「稲荷大明神」の「社殿」。「鐘楼」は茅葺き。「梵鐘」。「南無大師遍照金剛」と刻まれていた。境内の黄色の蠟梅も開花して。素心蝋梅(そしんろうばい)であろうか。蝋細工のような花で、芳香が周囲に。12月から2月ごろ、冬枯れのなか、葉の展開に先立って花を咲かせていたのであった。鐘楼横には宝篋塔、板碑などがきれいに並べられていた。ネット情報によると写真向かって右から。「建立年不明の宝篋塔(台石の裏側に宝篋塔と刻まれてます)。その横後方、元禄十四年(1701年)阿弥陀如来。手前が板碑、板碑横後方が宝永六年(1709年)合掌した地蔵(と思える)。横手前、元禄四年(1691年)阿弥陀如来。横後方、天和三年(1683年)阿弥陀如来。横手前、慶安元年(1648年)の蓮を持つ聖観音(たぶん)。横後方、慶安二年(1649年)如意輪観音。横手前、建立年不明の合掌した地蔵(と思える)。横後方、貞享四年(1687年)右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵。」とのこと。新装なった寺務所・庫裡・客殿であろうか、立派な大きな建物が「本堂」の右手に。境内の階段上から見下ろす。環状4号線により境内が分断されてしまった事が判るのであった。昔境内にあった銀杏の老木が環状4号線の先の左手で寂しそうに立っていたのであった。今は石段の下から「本堂」の屋根が見えたが、道路が開通する前は、鬱蒼とした木に覆われた急な長い石段の参道があり、寺の「本堂」姿が全く見えなかったのであろう。そして次に訪ねたのが「和泉川」の対岸にあった「稲荷社」。横浜市泉区和泉町966近く。鍋屋の森内にある「稲荷大明神」。小さな「本殿」。「密蔵院」の裏を北に向かって進むと、下和田二丁目の外れにあった小さな社。社の隣には「密蔵院」入口の案内柱が立っていた。横浜市泉区和泉町696-11。神社の先の小さなT字路の角にあった「庚申塔」。横浜市泉区和泉町698-4付近。その先のY字路の「庚申塔」横浜市泉区下和泉5丁目11-19付近。日露戦争に従軍し、明治37年8月22日、清国盛京省の寺児溝西方で戦死された「入内島元治郎」さんの慰霊碑。そしてその隣に小さな堂に納められていた「双体道祖神」。横浜市泉区和泉町1500-4付近。そして北に向かい近くの矢澤家の見事な生け垣の前を歩く。ここの防風用の生垣は、2種類の樹木によって2段造りになっていた。下部は2mほどの高さまで常緑の低木のツゲを、その上には常緑の小高木のモチノキを10mほどの高さまで配していた。側面を垂直に、上部を水平に刈り込んだ緑の壁は、延べ70mにも及んでいるのであった。生け垣からの屋敷内への脇入口。そしてこの場所からは2段でなく、ツゲの木とモチノキが交互に。正面に「矢澤家」の立派な墓地が。右に折れたその先にも小さな神社が左手にあった。そして引き返して、直ぐに右に折れ、細い急な坂道を下って行き、次に訪ねたのが「第六天神社」。横浜市泉区和泉町785。石鳥居と参道の石段。鳥居の扁額「第六天神社」。「第六天神社」という名前の神社はかつて無数にあったが、今は数えるほどしか残っていないのだと。鳥居奥にある狛犬と参道の階段。「第六天神社と酒湧池(さくわくのいけ)鎌倉幕府以前からこの地に祀られているといわれている古い神社です。祭神は「面足能命(おもてたるのみこと)・惶根能命(かしこねのみこと)」のニ柱です。境内の隣には池があり、弁天様が祀られ、弁天池と呼ばれています。親孝行の息子がこの池の水を樽に汲んで病気で酒好きの父に飲ませたところ酒になり、それを知った村人が一儲けしようと池の水を汲んだところ、ただの水になったという「孝子伝説」👈リンクが残っています。」昨年訪ねた千葉・酒々井町にあった「伝説 酒の井」👈リンクにも同様な伝説が残っていたのであった。「社殿」を斜めから。正面から。勧請年代は不詳であるが、鎌倉開府以前からの社と伝える。社前の道は古鎌倉道という伝承があり、近くに陣屋敷、御畝、隠忍坊などという地名が残っている。また社殿の傍らに酒湧地または弁天池と呼ぶ泉があり、孝子伝説を伴っている。和泉町の地名もこの泉から出たという。社伝には延宝年間、領主松平五郎兵衛甫昌の崇敬、社参を伝える。第六天神社の左側の坂道を上って、社殿の裏手に進むと、右側に「酒湧池」の案内が。竹で作られた垣根の間の急な階段を下っていくと「酒湧池」が現れたのであった。「和泉町」の町名の起源はこの池だとも言われているのだと。次に「稲荷神社」を右手に見る。横浜市泉区和泉町1393-3付近。そして「四ツ谷の湧水」付近の和泉川。「四ツ谷湧水」と書かれた案内柱。この日は「四ツ谷湧水」には湧き水の流れはなかった。湧水があれば・・・(ネットから) 【http://tottokocubtaro.seesaa.net/article/107742273.html】より「和泉川」に架かる「草木橋(くさきはし)」。横浜市泉区和泉町 2338 番地 2付近。「魅力発見 泉区散策 ガイド」。現在地は中央の5「四ツ谷の石仏」。そして「草木橋」を渡り東に進むと突き当りに「石仏群」が。近くに平安時代の住居址を中心とする草木遺跡があるのだと。「四ツ谷の石仏」。横浜市泉区和泉町2267。左から、宝篋印塔(ほうきょういんとう)残欠(年代不明)、道祖神塔(明治3年・1870)、地蔵庚申塔(寛文10年・1670)、出羽三山供養塔(文化2年・1805)、石祠(年代不明)などであると。ズームして。そして150mほど南に行った場所にあっ庚申塔。劣化が激しく・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.31
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旧横浜ドリームランドにあった「春日大社」を後にし、「境川」に向かって坂道を下って行くと、「神明社」手前の畦道のT字路にあった2基の石碑。左手の「道祖神」は昭和57年(1982年)銘。横浜市戸塚区俣野町1271。右手に「農地環境整備記念碑」。「農業生産基盤の整備を実施生産性の向上と農業環境の改善を図るため昭和四十七年より二ヶ年に亘り本事業を実施せり」と。そして「俣野神明社」。横浜市戸塚区俣野町1270。「俣野神明社」は、宝暦十年(一七六〇)四月三日の創建である。文政三年二月、明治八年九月それぞれ社殿を改築したが、昭和五十二年九月更に改築を加えて、従来の茅葺屋根を鋼板茸とし、堂舎の面目を一新した。祭神は天照皇大神。例大祭9月19日。狛犬(左・吽形像)。狛犬(右・阿形像)。本殿の横には小さな朱の境内社「稲荷社」が。「神明社」を北に進んだY字路にあった3基の「庚申塔」。左は、笠付庚申塔であるが年代不明、真中のものは、昭和43年-明治満百年とあり、右側面に「至 長後厚木」左側面に「至 藤沢戸塚」と刻印されていると。3基の台座には、右 至 飯田村 と刻まれていると。そして「境川」の堤防上を上流に向かって進む。前方に見えて来たのが「旧俣野堰」と「境川遊水池情報センター」。横浜市泉区下飯田町5−5。ここから横浜市戸塚区⇒泉区に入ったのであった。「境川 俣野遊水池」。境川の治水のために1990年度から神奈川県藤沢土木事務所が総合治水対策「かながわSafetyリバー50」に基づいて着手した俣野遊水地、下飯田遊水地、今田遊水地を県立公園として整備している。当公園で境川に和泉川が合流する。公園の設置は2004年度から事業に着手し、現在、俣野遊水地と下飯田遊水地の一部を開園している。指定管理者は、財団法人神奈川県公園協会。中心管理施設として「境川遊水地情報センター」が設けられている。「境川遊水地情報センター ・境川の自然や遊水地の仕組み・役割などを紹介する展示コーナーや会議室を備えている 情報発信・交流の拠点。 ・公園の利用案内、少年野球場や会議室などの施設の利用申し込み、公園で行う自然観察会等の 受付窓口。 ・公園管理と共に水防時の管理機能を備える。「俣野遊水地」、「下飯田遊水地」周辺案内図を県立境川遊水地公園公式サイトより。現在地は①境川遊水地情報センター上記の地図の右側に続く「今田遊水地」周辺案内図を県立境川遊水地公園公式サイトより。。エントランスホール内の展示品。「境川遊水地に出現した地層」。遊水地の整備工事に伴い出現した地層の、7mにも及ぶ貴重なはぎ取り標本やウラカガミ(二枚貝)の化石を含む、12.5万年前の下末吉海進期にできた地層の化石ブロックを展示していた。「境川遊水池の魚たち」。遊水地周辺の水辺の生き物を飼育・展示している120cm水槽と90cm水槽。私の姿が映ってしまいましたが。鮒(ふな)でしょうか。「境川遊水地 いきものMAP」。「境川遊水地公園に飛来したコウノトリの軌跡」。2014年10月12~15日に飛来したのだと。4日間は確認できたが、その後の飛来は確認できていないのであろうか?翌16日には静岡県焼津市まで移動したと言うこと??「境川の特徴城山湖付近を源とする境川は都県境を南下し、町田市の南端から横浜市と大和市や藤沢市の市境を流れ、江の島付近で相模湾に注いでいます。流域の概要流域面積:210.69km2流域延長: 52.14km流域関連市町村:6市(横浜市、町田市。鎌倉市、藤沢市、相模原市、大和市)※流域とは、地上に降った雨があるひとつの川に流れ集まる範囲を言います」。「俣野堰の変遷の写真」。「1961年の俣野堰(59年前)」この頃の私は、家の近くにプールが無かったため、この堰に溜まった上流側の水場をプール代わりに利用して幼友達と遊び、ここで泳げるようになった事を懐かしく想い出したのであった。1990年(30年前)。この状態の後、ゲートを締めると川の水が溢れ出てくるまでゲートの下流は、水の供給がしばしなくなり、凹みに鮎が取り残されているので、これを捕まえて塩焼きにして食べた事も懐かしく想い出したのであった。1998年(22年前)。そして平成19年(2007)頃の写真であろうか?この頃は、ゴム引布製のチューブに空気を注入・排出することで起伏させる堰・ゴム引布製起伏堰(ラバーダム、バルーンダム)であった事も想い出したのであった。そして遊水地の完成と共にこの堰は無くなったのであった。昭和60年(1985)当時の航空写真。広大な水田が広がっている。赤い線で囲まれた三か所が現在は遊水地となっているのだ。平成19年(2007)の航空写真。今田遊水地はまだ水田跡が残っている。境川遊水地は、俣野遊水地、下飯田遊水地、今田遊水地の3つの遊水地によって構成され、合わせて約30haの広さを有し、最大で約104万m3の洪水を一時的に貯留することで、藤沢市中心部など下流域の洪水被害の軽減を図っているのだと。104万m3と言われてもピンと来ないが、確か東京ドームは124万m3だったと。そして「俣野遊水地」にある「少年野球場」と「境川遊水地情報センター」を見る。「境川遊水地情報センター」を後にし、「天王森泉公園 くわくわ森」に向かって進む。天王森泉公園(泉区)入口三叉路(俣野町)の庚申塚。左:庚申塔(安永5年(1776年)銘)、中央:庚申供養塔(昭和43年(1968年)銘)、右:庚申塔(弘化3年(1846年)銘)。「天王森泉公園 くわくわ森」の入口の一つ。「天王森泉公園」は和泉川沿いに広がる水田,それを縁どる斜面緑地が昔懐かしい農村の面影を今に伝える泉区の南部。台地の崖線から湧く豊富な湧水をいかして、流域には20に上る製糸場が営まれた歴史を持ちます。清冽な湧水にはホタルも棲息し、かつては谷戸中を乱舞したと。「くわくわ森」は、昔この近辺の農家の薪や炭、落ち葉の堆肥を作るためクヌギ、コナラを植樹した薪炭林でした。横浜市から管理委託されたボランティア活動によって四季を感じられる森となりました。 散策はもちろん、植物、昆虫、野鳥観察には手頃な広さであると。 道路脇の「ミツマタ」。花もこれから開花。これが横浜市泉区から発行されている「泉区散策ガイド 水と緑と歴史の散歩道」👈リンク。この日は、下記のピンクと緑の散歩道を左右に行ったり来たりして周遊したのであった。そして「天王森泉館(てんのうもりいずみやかた)」を訪ねた。横浜市泉区和泉町300。入口横にあった「天王森泉公園」案内板。「天王森泉公園和泉川沿いに広がる水田とそれを縁どる斜面緑地が昔懐かしい農村の面影を今に伝える泉区の南部、台地の崖線から湧く豊富な湧水をいかして、流域には20に上る製糸場が営まれた歴史を持ちます。清冽な湧水にはホタルも棲息し、かつては谷戸中を乱舞していました。その一角に雑木林を主体とした面積約35haの面積を持つ本公園があります。正面には製糸場の本館が再生され、今でも水が湧き出ています。」「天王森泉館」。「旧清水製糸場本館 天王森泉館」案内板。「この建物は、1911 (明治44 )年ごろ和泉町内に建てられた市内に残る唯ーの製糸関連施設の遺構で、かっての製糸場を移築して当地で住宅に使用されていたものを公園施設として1997 (平成9 )年に復元しました。建物の特徴は明治期の近在農家に見られた四つ間取りを基本とした木造ニ階建てで、座敷を続きで取る新興産業資本家層の典型的な住宅形式が伺えます。平成10年1月、横浜市歴史的建造物に認定されました。」旧清水製糸工場は大震災などで廃業したが、建物自体は近くの人に買い取られて、住居として現存していたのだと。公園が計画される際、持ち主から市に譲り渡されたと。 「本館正面。向かって左側が復元されました。右側の一階は繭選り場と食堂で二階は女工の宿舎でした。」「本館の後ろに続くエ場内部の様子。通路をはさんでニ列に並んで作業しています。」指定管理者は「天王森泉公園 運営委員会」のようであった。玄関から内部を見る。左手に二階に上がる階段が見えた。玄関付近は板の間構造。和室。縁側。外から見ると、独特の歪み、いや「ゆらぎ」のあるガラス戸を懐かしく見る。輸入品の昭和レトロガラス「レトロン」であろうか。「旧清水製糸場本館 天王森泉館」を後にし、北に進むと右手の山の斜面にひっそりと建っていたのが「辨財天」。ネット情報によると、この後訪ねた高野山真言宗の「密蔵院」が管理している「辨財天」であるとのこと。「辨財天」を通過して進み右に折れ坂道を上っていくと右側にあった「石仏群」。横浜市泉区和泉町287。石仏や庚申塔(右側)をズームで。五輪塔には栗が奉納されていた。石仏や庚申塔(左側)をズームで。更に進むと三叉路にも「庚申塔」。横浜市泉区和泉町357-2。横浜市の汚水マンホール蓋。横浜のシンボルであるベイブリッジを中心に据え、周囲を船の操舵輪でデザインし、「のびゆく港・未来」を表していると。旧横浜ドリームランドの北側に建つ「ドリームハイツ」を見る。下和泉交差点の手前に到着。左-泉中央、右-原宿下和泉交差点の「庚申塔」地神塔-文政12年文字-弘化4年、「下和泉村」。そして「鍋屋鯖神社」を訪ねた。横浜市泉区和泉町705。「鍋屋鯖神社」は、慶長年間(1596-1615)、当地の郷士清水・鈴木の両氏が氏神として勧請したと伝える。元禄二年氏子住民の浄財で社殿の修復が行なわれたが、天保七年五月には神祇管領卜部良長が京都から参向奉幣し、「鯖大明神」の額を奉紳している。往古から氏子の篤い崇敬を集めていたと同時に、格式ある社であったことが知られる。「本殿」。祭神は左馬頭源満仲。扁額は「鯖大明神」。ここの神社の“さば”は魚を表す“鯖”の字を冠している。馬匹の監督・管理を指す「左馬」が、当て字とはいえ「魚」になってしまった。どうしてだろう? 資料の読み込みや伝承を調べていると「かつて境川が氾濫を起こし、水が引いたら辺りの木々に鯖がたくさんかかっていたから」という記述あった。だから「鯖」神社。しかし民俗学者の柳田國男氏(1875~1962)の説もあると。海岸の住民が魚を捕って、これを内陸の農産物などと交易に行くのには、昔は境の神を祭り魚を供へる風があった。漁民たちが鯖を、境の神に供えていたのだと。真相は如何に?紫の----が鎌倉街道上道。鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網で、鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道である。各地から鎌倉を結ぶ街道は関東地方に限らず、ほとんどが鎌倉街道と呼ばれたという。街道は古代の官道や地方道を繋いだり、不足部分は幕府自体が建設したりして造られた。江戸時代に五街道を始め街道が整備されると、その役割を終えたが、中世から江戸期にかけて政治的、文化的に果たした役割は大きい。 鎌倉街道と称される枝道などは数多くあるが、主要な道としては上道、中道、下道の3本の道がある。その内、この日に歩いたのが「鎌倉街道上道」で鎌倉から化粧坂を越え、武蔵西部を経て高崎に至り、信濃、越後へ抜ける古道である。再び「鎌倉街道」案内図。 【http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/kamakura/uemiti/kamakurauemichi1.html】よりこの日に歩いたのが横浜市戸塚区・泉区の境川沿いの「鎌倉街道上道」👈リンク の---の部分。「鯖神社」は横浜市瀬谷区に1、横浜市泉区5、大和市2、藤沢市3の11社あると。それに法人化されていない社が藤沢市に1社ある。これで数は12社。これらすべてが境川流域に建てられているのだ。(江戸時代まで東俣野、現在の横浜市戸塚区俣野と東俣野を合わせた地域にもう1社が存在していたそうだ)そして「さば神社」の“さば”とは、古い官職で左馬頭(さまのかみ)を指す。左馬頭とは馬や馬具、牧など馬匹(ばひつ)に関するすべてを司る左馬寮(さまりょう)の長官のことを言う。祀られているのは平安末期の武将で、左馬頭だった源義朝(みなもとのよしとも)、あるいは源満仲(みなもとのみつなか)。「サバ神社」のリスト。👈リンク ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.30
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我が家から徒歩で15分ほど歩くと横浜市との市境を流れる「境川」がある。その先が横浜市戸塚区。そして北に向かって進むと直ぐに横浜市泉区。1986年11月3日、栄区と同時に中和田支所管轄の地域が戸塚区から分区し、泉区が誕生したのだ。「泉区」案内図を『YAHOO地図』から。心臓のような形の「泉区」。この日は、この戸塚区から入り泉区にある神社仏閣を中心とした古道散策に向かったのであった。泉区内には「鎌倉街道(かまくらかいどう)」そして「柏尾通り大山道」等の古道が通っていたのです。鎌倉街道は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ、また鎌倉海道(かまくらかいどう)とも書く。一方で、現況の道路で「鎌倉街道」や「かまくらみち」と通称される路線も存在するのです。そして今回歩き始めたのが「鎌倉街道上道」。「鎌倉街道上道」として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至る古道で、鎌倉 - 化粧坂 - 瀬谷 - 本町田 - 小野路 - 府中 - 所沢 - 入間 - 笛吹峠 - 奈良梨 - 山名 - の高崎のルートなのです。【http://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi/kamakura/uemiti/kamakurauemichi1.html】よりそして下図がこの日に主に歩いた「鎌倉街道上道」。「境川」に沿って上流・北に上がっていくことが判るのであった。我が市の図書館から「旧鎌倉街道探索の旅Ⅰ 上道・山ノ道編」も借りました。そしてこの日の自宅からのスタート。時間は8:50。我が市から「境川」に架かる「俣野橋」を渡り、横浜市戸塚区に入る。私は「泉区」の南端から入って行ったことが先頭の地図から判るのであった。「俣野橋」から上流を見る。この付近は私が子供の頃と全く変わっていない田園地帯。下を流れる「境川」は東京都町田市相原町大戸の同市最高峰・草戸山(365 m)北東面(町田市大地沢青少年センター付近)に源を発し、東京都と神奈川県の境界に沿って南東に流れる。神奈川県大和市付近から南へ流れを変え、藤沢市の江の島付近で相模湾に注ぐのだ。川の名称はかつて武蔵国と相模国の国境とされたことに由来し、現在でも上流部(町田市最南部まで)は概ね東京都と神奈川県の都県境となっているのだ。右側の「境川」の堤防上が「境川サイクリングコース」になっている。大和市国道246号 ~ 江の島入口間の24.5km。そして「俣野橋」から100m程で「俣野観音堂前」交差点に到着。右手の高台に見えたのが、旧横浜ドリームランドのホテルエンパイアであった建物。現在は横浜薬科大学図書館棟となっている。大林組により1965年(昭和40年)に竣工した。完成当時は地下2階地上21階、高さは建物部の高さが68m、尖塔と避雷針を含めて93mであり、工事期間は僅か1年という突貫工事だった。最上階の21階は回転する構造になっており、回転展望レストランとして使用された。21階という階数は、来るべき21世紀を象徴したもので、ホテルでありながら五重塔をモチーフとした和風建築とし、内装について“桃山時代の文化の復元”を標榜したのは、「日本にしかない、日本でしかできないホテルを目指すべき」という意図によると。五重塔を伸ばして二十段にしたような独特の形状で、高台の上に建っており近くに高い建物や大きな山が存在しないことから、多少離れた場所からでも目立つ建造物で、周辺が田畑ばかりだった完成当初は、ひときわ異彩を放つ存在であった。その後開発によって周辺の宅地化が進んでも、ホテルエンパイアの建物は横浜ドリームランドの観覧車とともに周辺一帯(戸塚区南西部および藤沢市北部)のランドマークとして長年親しまれたのであった。高校の頃、私も21階の回転展望レストランで江の島の姿を見ながら家族、友人と食事をした記憶があるのだが。そしてここからが「鎌倉街道上道」散策のスタート。交差点の角にあったのがこの「俣野観音堂」。俣野景久の守護仏といわれる「十一面観音」が安置されていると。横浜市戸塚区俣野町1023。「俣野五郎景久と観音堂治承四年八月ニ十三日(一一八〇)伊豆に配流中の源頼朝か平家政権打倒のため石橋山に拳兵すると、平家側の総大将として是を襲ったのは藤沢の大庭景親てあったが、弟俣野五郎景久は家臣長尾兄第(上杉謙信の祖)と源氏の先陣佐奈田与一を討ち取り、頼朝軍は敗走辛うじて房総に逃れた。頼朝が源家累代の家臣、千葉一族の協力を得て勢力を恢復し十月鎌倉に人府すると大庭景親を片瀬川畔て梟首し、五郎景久を遠く京都に敗走させて石橋山の報復を遂げた。寿永ニ年五月、俣野景久は平宗盛軍の将とし、頼朝の従弟木曽義仲の軍と加賀の篠原て対戦したが、平家の敗色濃厚で、武将の間から、いっそ源氏に鞍替えしてはとの話か出ると景久は強く反対し「武士としていさぎよく討死」の覚牾を示し、守護仏の観音像を家臣に託して母の待っ故郷、相模国俣野村に送って自らは壮烈な最期をとげた。いま篠原には景久の戦友て共に討死した斎藤実盛の墓はあるが、景久等の墓はない。推うに実盛はまだ三歳だった義仲が殺されるのを救けた生命の大恩人であるが、是に反し景久は徹底した反源氏の将なるが故に、その墓の建立が憚られたものに相違ない。景久に由緒のある観音堂は、茲、鎌倉街道西の道に接してはいるが、治承の昔からこの地に建立されていたかは定かではない。」「俣野観音堂」の横には比較的新しい「五輪塔」が。五輪塔の5つの石材パーツには、それぞれ名称が付いているのだ。仏教における自然界の5大要素といわれる「空・風・火・水・地」という意味合いと名称が五輪塔には付けられているのだ。上から宝珠形=空輪(くうりん)半月形=風輪(ふうりん) 三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)円形=水輪(すいりん) 方形=地輪(ちりん) 各石材には仏教のサンスクリット語(梵字)が彫刻されているのが特徴。仏教における読み方は上から「空(キャ kha)、風(カ ha)、火(ラ ra)、水(ヴァ(バ) va)、地(ア a)」。そして卒塔婆も同様である事を初めて今知ったのであった。 【https://www.otsukastone.co.jp/blog/category/2min】よりそして北に向かって細い畑道・鎌倉街道上道を進むと右手にあったのが小さな「地蔵堂」。堂内には、赤い頭巾を冠り赤い衣を身にまとった地蔵様が白いマスク姿で道を見守ってくれていた。そして次に訪ねたのが「俣野神社」。この「俣野神社」境内に沿う道が古道のようであった。しかし鳥居の脚が骨折し?ギブス固定であったが。これぞ村の神社!!本殿に向かって進む。俣野氏は「桓武平氏良文流の系統で鎌倉党の嫡流景宗の子・景久が相模国鎌倉郡俣野にて俣野五郎を称したことに始まる。俣野は現在の横浜薬科大学一帯で、境川を挟んで藤沢市西俣野から戸塚区俣野町、東俣野町にまでおよぶ。大庭御厨の一部であった。境川は古くは「俣野川」とよばれていた。景久(初代)平安時代末期の治承・寿永の乱において平氏方につき石橋山の戦いなど各地で転戦したものの、最後は信濃国飯山で敗死したためその後の俣野氏の動向は明らかでない。俣野にあった大日堂(現・御嶽大神)は鎌倉景昌ゆかりのものであったが『吾妻鏡』によると景久死後は荒廃していたというから鎌倉時代には既に没落していたものと思われる。」とネットから。手水舎。「俣野神社御祭神:須佐之男命、欽明天皇。古くより欽明天皇御宇の創立と伝えられ、「欽明天王社」と称したが、明治初年「上俣野神社」と改称した。安政3年社殿を再建、明治6年村社に列格。同32年氏子中にて改築。平成16年銅板葺に葺替る。横浜市戸塚区俣野町763。これは「鞘堂」であったことは、このブログを書きながらであった。扁額は「俣㙒神社」。神社の内陣。以下の内陣の写真はネットから。一説によると左甚五郎が彫ったともいわれているとのこと。 【https://meseta.muragon.com/entry/370.html】より見事な彫刻。一度この眼でと!!鐘楼には鐘の姿は無かった。天井には吊り金具のみ。いつ頃から無いのであろうか?天井にも穴が開いて。「俣野神社」を後にし、鎌倉街道を大きくハズレて、途中急な細い坂道を上った角にあった「相州春日神社」と「神鹿苑」を訪ねた。戸塚の遊園地と言えば、今はなき懐かしのドリームランド。その横浜ドリームランドの建設に際し、その発展と繁盛を願って敷地内に奈良の春日大社の分霊を勧請し「ドリームランド春日神社」が建立されたのであった。その後、神社とドリームランドとは敷地・組織とも切り離され、「相州春日神社」と改名。ドリームランドがなくなった今でも神鹿は健在とのことを聞いたので神鹿を訪ねたのであった。横浜市戸塚区俣野町700。社号標「相州 春日神社」。手水舎には可愛い鹿が二頭。この日はコロナ禍の影響で口から清水が出ていなかったが。鮮やかな朱色の楼門が美しかった。奈良の春日大社にそっくりであった。境内には凛とした空気が漂い、気持ちを落ち着かせてくれたのであった。この春日神社は、奈良県の春日大社と同じ神様を祀っているのだろう。扁額は「春日神社」。「由緒当春日神社は、昭和三十九年八月に奈良春日大社の 御分霊を勧請し、ここ俣野の地にご鎮座なされました。 御祭神は皇祖肇国(ちょうこく)の折、神功あらせられた武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめのかみ)を奉斎(ほうさい)し、武甕槌命、経津主命二柱の神は、国土開発の守護神として、天児屋根命は文筆の神と仰がれ学業成就を願う崇敬神として、比売神は安産の神として御神徳いよいよ高くこの四柱の神々を尊崇して春日皇大神(かすがすめおおかみ)と申し上げ、皇室に於かれましても代々御崇拝遊ばされ、又国民等しく敬仰する神々であります。殊に武甕槌命が奈良にお移りの際、本社鹿島の宮を御出発になり、途中無事奈良にご到着になったことから、鹿島立の信仰が生れ、爾来旅行安全、交通安全の神として尊ばれています。此処に横浜ドリームランド開設されるに当り、開発の神殖産興業、安産の守護を仰がれる春日大社の御分霊を勧請し、奉斎されたものであります。」右手に「社務所」。「拝殿」。「拝殿」の内陣。相州春日神社には春日大社と同じ神様・武甕槌神(たけみかづちのみこと)・経津主神(ふつぬしのみこと)の二柱をお祀りしているのだと。境内末社 「正一位稲荷大明神」「正一位稲荷大明神」。境内を右に行くと「神鹿苑(しんろくえん)」。「神鹿苑」。「神鹿について」境内には春日大社から賜わった「神鹿」の子孫が飼育されており、奈良に行かずしても奈良観光の気分を味わう事が出来るのであった。10頭はいたであろうか。社務所にて鹿せんべい(100円)を購入し、直接鹿たちに上げることができると。せんべいをもらった鹿はちゃんとお辞儀をし、とにかく可愛らしいのだと。再び「拝殿」前から「楼門」を見る。神社の敷地からは、旧ドリームランドのシンボル「ホテルエンパイア」が見えた。今は、横浜薬科大学図書館棟となっているのだ。そして「楼門」前の梅の木には既に花が。 ・・・つづく・・・・
2021.01.29
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そして最後に「シントラ」。この紹介にはTBSの『世界遺産「大航海が生んだ!カラフルな天空宮殿」』の画像も含みます。私は2019年2月のポルトガル旅行のオプショナルツアーで「シントラ王宮(Palácio Nacional de Sintra)観光とシントラの街散策」👈リンク に参加したのであった。大西洋を望むロカ岬から続くシントラ山脈の中にある「シントラの街」。首都リスボン近郊にある王族の避暑地「シントラ」。我々が訪ねた世界遺産「シントラ王宮」。白くそびえるのは厨房の煙突。狩りを楽しみ、仕留めた鹿やイノシシを調理したと。「街のシンボル!2本の白い塔」シントラの王宮は、1415年頃、ジョアン1世の建設計画のもとに、建設が行われた。その後、マヌエル1世の時代に、大航海時代の富を投入して、大きな増築が行われた。1497年から1530年の間に、マヌエル様式の窓を施した紋章の間を作り、壁のほとんどにはアズレージョが施されるなどした。近代になると、アラフォンソ6世が、1676年から幽閉され、一歩も外へ出ることもなく、1683年にその生涯を閉じたのだと。そしてオプショナルツアーでは訪ねなかった世界遺産「ペナ宮殿」。どちらかと言うと、二者択一であればこの「ペナ宮殿」を訪ねたかったのであったが。19世紀のロマン主義を代表する宮殿。現在、国の文化財となっているペーナ宮殿は、1836年に女王マリア2世の王配フェルナンド2世により建てられた。十分な教育を受けた未来の王フェルナンド2世は、初めて山に登り旧フラデス・ヒエロニミタス修道院の廃墟を目にしたとき、すぐにシントラに一目惚れした。(旧修道院は、ジョアン2世時代にディオゴ・ボイタクにより建てられた物が原型で、すぐにマヌエル1世により、ジェロニモ修道会へ再び寄進し聖ペーナを讃えるという約束を実行するため岩山の上に修道院が再建された)。ポルトガルのノイシュバンシュタイン城とも呼ばれているペーナ宮殿は、ゴシック様式やルネサンス様式、マヌエル様式、ムーア様式などの建築様式を融合した19世紀のロマン主義を象徴する建築物として、シントラ1番の観光スポット。シントラ郊外の山頂に建築されているペーナ宮殿からの眺望は素晴らしく、特に建物の周りに造られている通路からは、シントラの街や大西洋を見る事が出来る。イギリスの詩人バイロンはシントラを「この世のエデン」と讃えた。ペーナ宮殿は、イスラム様式の玉ねぎ型のドームや装飾過剰のバロック様式の塔など有名な建築様式の特徴を垣間見る事が出来、おとぎ話のお城の様なカラフルな外壁も見もの。岩山に築かれた「ペナ宮殿」。岩がそのまま宮殿の中に喰い込む。巨岩が部屋の中に突き刺さっている。これぞ現代アートか。完成は1885年。緑も少ない昔の姿であると。今は世界中の木々の植栽による人工の森で囲まれているのだと。2つの塔がある門の上に摩訶不思議なオブジェが。この像は、海の守護神トリトン。トリトンは、ギリシャ神話に登場する海王ポセイドンの息子。入口の門は、卵型や三角錐の摩訶不思議な装飾がされている。幾何学的な装飾も。そして巨岩も装飾の一部。現在、ペーナ宮殿は一般に公開され、ユネスコ世界遺産の『シントラの文化的風景』の一部として登録されている。時には、ポルトガル共和国大統領と外国からの賓客の公的行事の場として使用されるのだと。「ペーナ宮殿」の下にはムーアの城跡(Castelo dos Mouros)が。7~8世紀にムーア人によって築かれた城跡で、標高450mの山頂に見事な城壁が残ります。ムーア人とは北アフリカ出身のアラビア語を話すイスラム教徒のことで、当時イベリア半島を北へと侵攻していた勢力の一つ。その後、12世紀にイスラム教徒から奪還され、ムーアの城塞もキリスト教徒の支配下に置かれることとなったが時代とともに荒廃。城壁だけが残ったと。19世紀になってからムーア人の城跡の改修が進められ、現在のように修復されたのだと。この天空の城壁を歩くことができるのだと。再び「ペナ宮殿」の内部。壁にはだまし絵の如き装飾が。彫刻が刻まれた部屋かと思いきや、だまし絵の手法を使い部屋を広く見せているのだと。趣向を凝らした部屋が回廊のごとく続いている。「ネット」👈リンク より以下転載かつての王族の居住エリア。360°アズレージョで飾られた中庭。アズレージョとは、イスラム美術をポルトガル流に進化させたタイルアートのこと。ステンドグラスが展示されているコーナーなどがあり、かつてのポルトガル王家の煌びやかな生活が想像できると。近くにある世界遺産「レガレイラ宮殿」。12世紀にポルトガルの王族の別邸として建築されたレガレイラ宮殿の名前の由来は、1840年にこの宮殿を買い取ったレガレイラ男爵にあるとされています。その後、レガレイラ宮殿は、19世紀の終わりにこの宮殿の主になったブラジル人のモンテイロとフェルナンド2世の離宮であるブサコ宮殿をホテルへと改修を手掛けたイタリアの建築家ルイジ・マニーニの手で大改修され、現在の建物構造や外観になっています。日本の大手電話会社のコマーシャルに使用されていた時期もあります。中世の怪物をモチーフにした石像が建物の至る所に彫られている事もあり、魔宮と呼ばれているレガレイラ宮殿は、建造物や広大な庭園の地下には無数の洞窟や秘密の抜け路が造られ、庭園内のチャペルやイニシエーションの大井戸など思いも寄らない場所に繋がっています。宮殿内部に施されている彫刻や庭園に置かれている彫像は素晴らしのですが、テンプル騎士団や秘密結社フリーメイソンなどのシンボルが刻まれ、見学は出来ませんが最上階には錬金術を執り行ったとされる部屋があり、謎で満ちた宮殿です。これも世界遺産「モンセラートの庭園と宮殿」。パラシオ・デ・モンセラーテは、1858年に大富豪であったイギリス人の織物商サー・フランシス・クックが建てた宮殿です。イギリス庭園風の芝生の丘の上に建つ、インド・イスラム宮殿風の玉ねぎ型のドームの美しい建物。この見事な宮殿であるが、1929年の世界恐慌の影響によりクック家がこの広大な宮殿を維持出来なくなり、売りに出されると荒れ放題になっていたとか。その後1990年から大改修を行い、2009年に今の優雅な姿が蘇ったと。優雅なシントラの町並みにはまるでふさわしくない、原色ギラギラ、変な塔がニョキニョキのその外観は、まるで山の中のおもちゃの城・「ペナ宮殿」!!ここは本当に訪ねたかったが残念!!そして放送の最後は再びロカ岬へ。2年前の2019年2月に訪ねたポルトガルの観光地の一部を、その時には見られなかった視線で楽しみながら、またこのブログを書きながら懐かしく想い出しながら、「新たな海外旅行」!!を楽しんだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・Closed・・・
2021.01.28
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続いて「ブラガ(Braga)」、ここはポルトガル旅行では訪ねていない場所。ブラガは、ポルトガル北西部の都市であり、ブラガ県の県都。ブラガを中心とするミーニョ都市圏は、リスボン都市圏、ポルト都市圏に次ぐポルトガルで第3の都市圏を形成する。ブラガの歴史は古く、ローマ帝国の属州ガッラエキアの中心地ブラカラ・アウグスタ (Bracara Augusta) として繁栄した。ブラガは「祈りの街」と呼ばれる。「リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ポルトは働き、そしてブラガは祈りの街である」という言葉からも明らかなように、ブラガは、ポルトガルにおいて、信仰面で重要な役割を果たしてきている。4世紀には、Patemusと呼ばれる司教がブラガに住んでいたとされる。もっとも、聖オヴィディウス(en:Saint Ovidius)と呼ばれる聖者がブラガにおける最初の聖者とする説もある。5世紀には、アウグスティヌスの友達でもあるパウルス・オロシウス(en:Orosius)がブラガに生まれ、神学、歴史の書物を著している。6世紀には、ブラガの聖マルティン(en:Martin of Braga)が登場し、スエビ族をアリウス派からカトリックへ改宗させた。また、このころ聖マルティンがブラガ近郊のドゥミオに修道院を建設したとされる。世界遺産の「ボン・ジェズス教会」。巡礼者は577段の階段を上り、聖堂で祈りを捧げる。ブラガの小高い丘にあり、庭園、洞窟、彫刻に囲まれたカトリックの巡礼地。18 世紀に建設されたバロック様式の教会。 小高い丘にあり、巡礼者の聖地として知られるボン ジェズス教会。116 m にもわたるバロック様式の長い階段が、丘のふもとから教会へとジグザグに続く。教会までは、徒歩または車で。ポルトガルで一番古いケーブルカーで上ることも出来ると。「山の上の善きキリスト」という意味を持つボン ジェズス教会。現在の教会は 14 世紀の礼拝堂跡地に建てられたもので、1722 年に建築が始まった。以来、瞑想とざんげを求める巡礼者の聖地となっている。荘厳なファサードと両側にそびえる鐘楼。ジグザグの階段を歩くなら、階段の折り返しにある踊り場は必見であると。階段の下段は視覚、聴覚、味覚、臭覚、触角にご利益のあるという「五感の階段」。踊り場には泉があり、それぞれに視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を表す。視覚の泉は両の目から、味覚の泉は口から水があふれ出ており、その興味深い姿は見逃せません。下記の泉の写真は昔の写真のようです。聴覚の泉。臭覚の泉。味覚の泉。感覚の泉。泉を見下ろすように立つ旧約聖書の預言者の像にも注目してみてください。階段を上空から。そして上段は、信仰、希望、博愛を表す「三徳の階段」とよばれる。信仰の泉。希望の泉。博愛の泉。泉を見下ろすように立つ旧約聖書の預言者の像。教会前のモーゼス広場。ポルトガルの庭園建築の中で最も美しい庭園の一つに数えられている。彫刻はキリストの処刑に関わったピトラスなど8人。教会は1784年から1811年に掛けて建てられた新古典用式。ブラガが生んだ名建築家カルロス・アマランテの作。教会の中にある祭壇には昇天するイエス。教会の中にある祭壇には昇天するイエス。教会からは、ブラガの街を一望することができると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.27
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そして次はこれも訪ねた「バターリャ(ポルトガル語でBatalha)」👈リンク。バターリャは、レイリア県にある地方自治体。中心市街地には、7,500人ほど、そのほかの行政区を含めて、15,000人が居住している。北と西をレイリア県の県都であるレイリアと接し、南東部では、サンタレン県のアルカネナ、南西部は、南西部は、ポルト・ド・モスと接する。バターリャの歴史は、ジョアン1世が1385年8月14日にアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王国軍を破ったことを祝して建設したバターリャ修道院とともに始まった。バターリャとは、ポルトガル語で「戦い」を意味する。このバターリャ修道院は、ユネスコの世界遺産に登録されている。聖母マリアに感謝を捧げるため、修道院が建設された。このバターリャ修道院は、ユネスコの世界遺産に登録されている。歴代指揮をとった建築家は15名、100年以上の歳月をかけて築いた。その中でも、6人の建築家の名前(アフォンソ・ドミンゲス、フュゲット、フエルニヤーオ・ド・エヴォラ、マテウス・フェルナンデス、ディエゴ・ボイタック、ジョアン・ド・カスティーリョ)が知られている。また、膨大な人的、物的資源が投入されると同時に、バターリャ修道院の建設を通して、ポルトガルは国内では未知であった建築技術、芸術様式が導入され、独自の発展を遂げた。外観はゴシック様式。バターリャ修道院外壁の石灰岩が時の経過と共に黄土色に変色し、更に雨風に晒される事で黒ずみ、外観からだけでも歴史の重みが感じられ、威容な雰囲気のあるこの修道院。正面の上部窓は幾何学模様のゴシックウィンドウ。西側の広場に面している修道院の入口は、アーチ・ヴォールトの形をとっている。そのヴォールトの中には、78の聖像が飾られている。78体の聖像は6列に分けて並んでおり、それぞれに旧約聖書に登場してくる王、天使、預言者、聖者が天蓋の下に並んでいる。また、ヴォールトから地面へとつながる部分の両脇には、使徒と鎖で縛られた悪魔の彫像がある。加えて、修道院の入口のアーチ・ヴォールトの上部の三角形のような形をしたスペースには、キリストの戴冠の様子が彫刻で施されている。中央扉口左側。使徒と鎖で縛られた悪魔の彫像。中央扉口右側の使徒。ゴシック様式の尖塔。外壁の石灰岩が時の経過と共に黄土色に変色し、更に雨風に晒される事で黒ずみ、外観からだけでも歴史の重みが感じられ、威容な雰囲気のあるこの修道院。2世紀にかけて、15人の建築家が携わり、国内では未知であった様々な建築技術、芸術様式が導入さた事が理解できたのであった。「未完の礼拝堂」は、ジョアン1世の息子のドゥアルテ1世の命でドミンゲスの後を継ぐダヴィ・ウゲットにより着工された。100年ほど工事が続けられたが、1521年に即位したジョアン3世がジェロニモス修道院の建築に集中し、バターリャ礼拝堂の建設を中止したため、未完に終わっている。王の回廊。回廊の装飾はマヌエル様式と呼ばれるポルトガル独自のもの。レースのようにきめこまかに図柄が刻まれている。中庭の緑も美しく。植栽は幾何学的に。回廊の狭間飾り。中央には天球儀、左右にはエンリケ航海王子の十字の紋章が刻まれていた。食堂の入り口の手洗い場を。教会は奥行き80m、高さ32m。ポルトガルで最も古いステンドグラス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.26
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そして次に私も訪ねた「コインブラ(Coimbra [ˈkwĩbɾɐ])」👈リンク。ポルトガル中部の古都、文化的な街として知られる。セントル地方 (Região Centro)の中心都市で、コインブラ県の県都でもある。人口は約15万人、面積は約319.4km2。16の自治体、面積約3372km2が集まってコインブラ大都市圏を構成しており、その総人口は43万人以上。街の中心は丘の上のコインブラ大学。創設は1290年、ヨーロッパでも最も古い大学の一つ。カブラ(山羊)と呼ばれる時計塔。ポルトガル屈指の名門国立大学とされる。大学が街の中心とみなされ、黒いマントを着たコインブラ大学の学生が行き交う。約2万2千人が学んでいる。8つの学部が存在し、その学部ごとにシンボルカラーがある。学部、シンボルカラーは文学・人文学(ダークブルー)法律(赤)医学(黄)薬学(紫)科学技術(青と白)経済学(赤と白)心理学・教育学(オレンジ)スポーツ科学・物理教育(茶色)法学部、文学部などの伝統のある学部の男子学生は黒いマント をはおり、学部独自のカラー・リボンをつけたカバンを持って闊歩するのだと。博学だった18世紀の国王ジョアン5世の名を冠した図書館がある。内部は見学出来なかった「ジョアニナ図書館」。世界でも最も美しい図書館の一つと言われている。16世紀から18世紀の書物がおよそ6万冊収められている。天井には見事なフレスコ画が描かれていたり、金で装飾された豪華なパイプオルガンがあるなど、豪華な図書館をさらに美しい場所にしているのだと。金泥細工の装飾や漆塗りの本棚などが非常に美しい。面白いのが、ここでコウモリが飼われていること。夜になると舞い降りてきて、本につく虫を食べ蔵書を守ってくれるのです。コウモリのいる図書館は世界に2か所あり、もう一つは同じくポルトガルのマフラ図書館。書庫の前には梯子が。館内は3部に分かれており、造り付けの書架にぎっしりと並ぶ蔵書数は、25万冊に及ぶと。書籍のほとんどが、薬学、地学、史学、人類学、化学、自然科学、哲学など学術関連書籍であり、創立者ジョアン5世が、いかに学術を重要視していたかが計り知れるのだと。窓からは陽光が差し込み。ジョアン5世の肖像画であろうか。コインブラ大学の中庭を再び。中庭のラテン回廊。階段の上のポルトガルの紋章で飾られた破風を眺め、階段奥の壁のジョゼ1世像と正義と不屈の女神像の浮き彫りが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.25
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10年以上に渡り途切れることなく続けていた「海外旅行」が、この新型コロナ禍にて途絶えてしまったここ1年以上、更に緊急事態宣言で不要不急のが外出も自粛せざるをえない今日この頃です。よってテレビで旅行気分を味わおうとしていますが、先日のNHK・BSP放送にて「空からのクルージング特別編 ポルトガル・世界遺産を巡る旅」が再放送されていましたのでこの番組を録画しその映像を我がデジカメで撮影しました。ポルトガルは2019年2月に8日間の旅をしましたが、その旅行にて訪ねた場所、しかし建物の中まで見学できなかった場所、そして旅行コースに入っておらず訪ねなかった場所等が放映されていたのです。しかも旅行では自分で眼にすることが出来なかった景色が、小型ドローンにより上空からの映像・写真で紹介されていたのでこれを十分楽しみながら、想い出を懐かしく振り返る事が出来たので、ここに紹介します。まず最初は、もちろん「訪ねた」👈リンク ユーラシア大陸最西端の岬である「ロカ岬」。北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のアゾレス諸島がある。ここには、ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「ここに地終わり海始まる(Onde a terra se acaba e o mar começa)」を刻んだ石碑が立っていた。チョコンと白い十字架を乗せた記念碑が建つのは、140mもある断崖絶壁の上。周りは綺麗に整備された石畳の広場のようになっており、緑の絨毯の中を、遊歩道が巡っていた。18世紀に建てられ、今も現役の赤い屋根の灯台。こちらはカモンイスの記念碑より少し高い160mの断崖上に広がる緑の絨毯の中に建っていた。また、有料だがユーラシア大陸最西端到達証明書がある。5ユーロと10ユーロのタイプの証明書があり、どちらにしても証明書には名前・日付などが入り、裏面には主要国の言葉で書かれた上記の詩が書かれたものを入手することが出来たのであった。その時に手に入れた「ユーラシア大陸最西端到達証明書」の写真。私の名前と訪ねた日・2019.Fev.12の文字が。そして次は訪ねなかった「ギマランイス(Guimarães)」。ギマランイスは、ポルトガル北西部のブラガ県にある都市。ポルトガル王国初代国王アフォンソ1世(アフォンソ・エンリケス)が当地で誕生していることから、ポルトガル発祥の地、ポルトガル王国の発祥地と呼ばれる地。2001年、世界遺産に登録されたギマランイスの旧市街には、アフォンソ・エンリケスが誕生した「ギマランイス城」、そのいかにも堅固な石造の城の下には、洗礼を受けたサン・ミゲル教会など、ゆかりの場所が点在していると。この地を治めていた伯爵の宮殿として10世紀に建造。高さ28mの塔をはじめ、七つの塔をもつ。初代ポルトガル王アフォンソ1世(アフォンソ=エンリケス)が生まれた場所として知られる。12世紀、イベリア半島にはイスラムの小国が乱立していた。キリスト勢力アフォンソはイスラム勢に次々と勝利し、領土を回復、1143年ポルトガル王国が誕生した。王国は20世紀初頭まで続いた。城壁と中央の高い塔(写真の左)が残っていて、両者をつなぐ木造の橋が一か所架けられていると。そして大西洋に向かって南下。そして強く「印象に強く残っている街「ポルト」」👈リンク。ポルトの創設は5世紀より以前にさかのぼり、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。だが、ローマ以前のケルト文化の名残であるシタデルも市外の中心にも残存している。ローマ時代の周辺をコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国が、ポルトガル王国となった。ポルトガルの名はこれに由来する。「ドウロ川」に架かる、ポルトのシンボルともなっている「ドン・ルイス1世橋」。ポルトの中心部とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区を結んでいる。 ギュスターヴ・エッフェルの弟子の一人、テオフィロ・セイリグが設計し、1881年から1886年の間に建設された。エッフェルはポルトにある別の橋、マリア・ピア橋の建設に携わっていた。1886年10月31日、ポルトガル王ルイス1世が出席して開通式を迎えた。「ドン・ルイス1世橋」は幅8mの2階建て構造になっている。上層の長さは395mで、下層の長さは174mである。現在上層は歩行者とメトロ用に、下層は自動車と歩行者用になっていた。メトロの走る長さ395mの上層の橋を徒歩で往復したのであった。そして世界遺産の「ポルト歴史地区」。国名の由来となったポルトガル第二の都市。「ドウロ川」には酒樽を積んだ舟が浮かぶ。甘く濃厚なポートワインの運搬に用いた。18世紀に盛んにイギリスに輸出された。「ドン・ルイス1世橋」の下流側には自動車専用道路橋「インファンテ橋」が。正式には、インファンテ・ドン・エンリケ橋(Ponte Infante Dom Henrique)で、エンリケ王子の名前をつけて、通称ではインファンテ橋と呼ばれている。この橋は2003年に開通したと。右の高台の鐘楼はグレゴリウス教会のもの。高さ70m、18世紀バロック様式。左の高台はポルサ宮殿。我々の観光は、「サン・フランシスコ教会」は外部からの見学だけであった。質素な外観に比べ、内装は当時植民地だったブラジルから運んできた200kgもの金で彫刻を覆い尽くしていて贅沢。これはターリャ・ドゥラーダと呼ばれる、バロック様式の金泥細工による内部装飾。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作といわれているのだと。一面の金泥細工は18世紀に施されたと。当時、植民地のブラジルで金が発見され、金をふんだんに使った内装が流行した。慶長元年に長崎で殉教した長崎26聖人の祭壇。豊臣秀吉によって弾圧を受け長崎で殉教した人々を刻んだ祭壇。キリストの系図 「ジェッセの樹」聖所に登場する人物たち。樹の枝、一段目右には巨人ダビデ王、左にはその息子ソロモン王、トップに立つのはヤコブの子、聖ジュゼ(ヨセフ)、その両脇には聖母マリアの父ジョアキン(ヨアキン)その左は聖母マリアの母、サンタ・アナ。頂上には聖母マリアと幼いキリストがいると。この多彩色の木工細工は、フィリペ・ダ・シルヴァとアントニオ・ゴメスの手で彫られた。ユダヤ王国の12人の王たちとイエスの家系図は、イサイ(ダビデ王の父親)の横臥像とつながる。木のてっぺんには聖ヨセフがおり、下に聖母子の彫刻がある。壁のくぼみには聖アンナと聖ジョアキン(聖母マリアの両親)、『無原罰の御宿り』について記した4人のフランチェスコ会士の像が収められている。正面は主礼拝堂バロック様式であるターリャ・ドゥラーダ(金泥細工)と呼ばれる金箔で覆われた彫刻で彩られた主礼拝堂。バロック の語源はポルトガルのBarocco (歪んだ真珠)だそうで、元々は ”グロテスクなまでの装飾過剰” に対する蔑称だったのだと。そして、ポルトを流れるドウロ川は大西洋に注ぐ。スペインのソリア県を水源とし、スペイン北部を流れポルトガルに入り、名を変え、ポルトから大西洋に注ぐ。全長は897kmであり、ポルトガルを流れている部分においては軽い船なら航行可能である。川の名前は、ケルト語で水を意味する"dwr"から来ていると考えられると。 ・・・つづく・・・
2021.01.24
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「江の島展望灯台・江の島シーキャンドル」の回り階段を利用して展望台より地上に下り再び「ホウセキ FOREST」エリアのイルミネーションを楽しむ。ズームして。ピンぼけ。再び「湘南シャンデリア」。クリスタルビーズを7万個も使っているシャンデリア。なまこ壁の「そば道場 松本館」の前。「江の島展望灯台・江の島シーキャンドル」を何度も。「江の島サムエル・コッキング苑」内の林の中のプロムナードを出口に向かって進む。「湘南シャンデリア」青を横から。紫のこちらも。ズームして。「湘南シャンデリア」と「昆明広場」。ズームして。「湘南シャンデリア」と「江の島展望灯台・江の島シーキャンドル」。再び「LONCAFE 湘南江の島本店」手前。昆明広場の中国伝統建築様式の四阿。「ウインターチューリップ」とのコラボを再び。そして「江の島サムエル・コッキング苑」入口を振り返る。サムエルコッキング苑を出てすぐの「亀ヶ岡広場」もライトアップされていた。。白のプロムナードを進む。前方に富士山の姿が。正面から。富士山をイメージしたオブジェが美しかった。「富士山」。雪原の如くに。オレンジ色も印象的。再び「江の島展望灯台・江の島シーキャンドル」。そして更に階段を下っていくと「中津宮イルミネーション」へ。遠くに江の島ヨットハーバーも見えた。光のトンネル。展望台より。光のトンネルを潜る。花壇が光の園に変身。江島神社 辺津宮・「奉安殿」。「江島神社 辺津宮」。そして「江島神社 辺津宮」の階段下の「手水舎」。コロナ禍の影響で「手水舎」では生花(いけばな)のコーナーに変身していた。今年の「絵馬」。帰路のアシナガオジサンの姿が。階段踊り場の仏像。瑞心門の唐獅子。「随神門 唐獅子中央アジアからもたらされたライオンが古代中国で幻想動物として描かれ、我国には密教曼荼羅の中の唐獅子が九世紀に渡来し定着していきました。以後仏法のみならず邪悪なものと退け国家鎮護を祈念する形代として飾られるようになりました。この瑞心門唐獅子は御祭神の守護と合わせて御参拝の皆さまに厄災なきことを祈願して飾りました。」エスカー乗り場を振り返る。「江の島弁財天仲見世通り」を戻る。「青銅の大鳥居」まで戻る。「江の島弁天橋」から片瀬西浜海岸を見る。パームツリーも色彩豊かに。「江の島弁天橋」のイルミネーション。「江の島アイランドスパ」を振り返る。そして小田急線「片瀬江ノ島駅」に到着。期間中は6色を活用した特別仕様のイルミネーションに変更し、ロマンチックな冬の江の島の夜を演出しているのであった。電車の待ち時間に再び「クラゲ水槽」をしばし楽しむ。そして我が最寄り駅のロータリーのイルミネーションをカメラに納めた。そして19:30過ぎに帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.01.23
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そして「江の島展望灯台・江の島シーキャンドル」の展望台にエレベータで上る。江の島のシンボル的存在である「江の島灯台」。上にいくにしたがって太くなるフォルムと、てっぺんに突き出た避雷針が、ロウソクのようであることから「江の島シーキャンドル」と名付けられたのだ。海抜101.5mの高さの展望台からの、光と色の祭典・江の島「湘南の宝石」。「江の島弁天橋」と「湘南海岸」。展望台から「江の島サムエル・コッキング苑」の灯りを楽しむ。「あしかがフラワーパーク」「東京ドイツ村」と並んで関東三大イルミネーションにも選ばれており、日本有数の規模を誇る空間演出。再び「江の島弁天橋」。案内板を。「湘南シャンデリア」、「ホウセキ FOREST」を展望台から。「山二つ」方面。辻堂、茅ヶ崎方面の海岸線。車の通行も殆ど無く。そして下りは階段を利用して。雨天や強風でない限り下り階段を利用できるのだ。らせん階段式となっており海風を感じながら、イルミネーションと夜景を眺めながら降りる。次第に地上が近づいてくる。そして地上に到着。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.22
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そして「江の島岩屋」から戻り、メイン会場の「江の島サムエル・コッキング苑/江の島シーキャンドル」内に入る。江の島「湘南の宝石」2021に使われている写真。 【https://wsmh.net/3755/】より「湘南の宝石 メインスポット」案内書。「昆明広場」前。中津宮側のフェンスには紫の輝きが。そして青き輝きの下には白きシャンデリアが。シャンデリアを追って。「LONCAFE 湘南江の島本店」を奥に望む。様々な色のチューリップとイルミネーションのコラボ。「湘南シャンデリア」数万個のクリスタルビーズがきらめく青の光のトンネル。パームツリーも見事に輝く。こちらは紫の「湘南シャンデリア」。「ホウセキ FOREST」エリア。「江の島サムエル・コッキング苑内の森の小路が、透明感あるホウセキイルミに包まれます。中を歩くと、不思議な浮遊感に誘われ、迷い込んだような錯覚を覚えます。」再び「湘南シャンデリア」「最高級クリスタルであるスワロフスキー・クリスタルをふんだんに使用したシャンデリアが浮かぶトンネルが、光の大空間へと誘います。トンネル内を舞う250匹におよふクリスタルの蝶が皆様をお迎えします。」「江の島シーキャンドルライトアップ 光の大空間」「江の島シーキャンドルから360度、直径70メートルを超える日本有数の規模を誇る光の大空間。富十山のシルエットとイルミネーションの共演は必見です。」最奥のイルミネーション。「湘南の宝石」。輝きの絨毯が広がる。再びホウセキイルミを観る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.21
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「亀ヶ岡広場」の奥の展望台から江の島の岩場方向を見下ろす。「亀ヶ岡広場」のイルミネーションの鑑賞は帰路とし、「御岩屋道通り」を奥に進む。「江の島展望灯台・江の島シーキャンドル」を振り返る。ズームして。左手に「江の島大師」。江の島大師は、島から仏教寺院がなくなって百数十年を経た1993年(平成5年)、1964年(昭和39年)に廃業した旅館「江の島館」跡地に、最福寺 (鹿児島市)の関東別院として創建された。本尊は不動明王で、室内にある像としては国内最大の高さ6mの威容を誇り、赤不動とよばれている。真っ赤な仁王像(阿形像)。真っ赤な仁王像(吽形像)。入口左手の仏像。こちらにも。灯籠「江の島大師」。暗くなり「江の島展望灯台・江の島シーキャンドル」も輝きを増す。「御岩屋通り」の石垣のイルミネーション。「龍恋の鐘まで続く、起伏にとんだ回廊が、素敵な光-michi となり、皆様を願いのスポットへと誘います。」江の島の頂上部分から岩屋洞窟にかけて続く歴史ある商店街。飲食店や土産物店が並ぶ路。青のLEDライトが美しく輝く。両脇に白の輝きが続く。「山二つ」。中津宮から歩いて約7~8分。大きな海食洞の天井部分が陥没した跡で、上から見ると瓢箪のようにくびれ、ちょうど山が二つに分かれているように見えるのだ。約4万年前のものから遥か1650万年前のものまで、悠久の時を重ね形成された地層が、海側の山、サムエル・コッキング苑側とそれぞれに見る事が出来る。また、削られた山間からは相模湾が見え、独特の風景を楽しめるのだが、この時間では相模湾は既に良く見えなかったが。この場所にも殆ど人の姿がない。幻想的な世界が広がる。「御岩屋通り」の上部にも。「江の島展望灯台・江の島シーキャンドル」の色合いは変わらないようであった。白のLED。そして「江島神社 奥津宮」の石鳥居。「江島神社 奥津宮」。「恋人の丘 龍恋の鐘 入口」。「恋人の丘 龍恋の鐘」に向かって濃青の照明が続く。濃青の世界を見上げる。五連の白のアーチ。アーチを潜って。「恋人の丘 龍恋の鐘」の姿が。「一緒に鐘を鳴らすと、いつまでも幸せになれると言われる、龍恋の鐘が、期間中は幻想的な光に包まれた、願いのスポットとなります。素敵な人と一緒に、光の通路をたどり、願いを込めて鐘を鳴らしてください。」と。「恋人の丘 龍恋の鐘」。想像を巡らし恋人気分になって、二人で???鐘を鳴らしました。金網に南京錠を掛け、鐘を鳴らすと恋愛祈願ができると。「恋人の丘 龍恋の鐘」を後にして来た道を戻る。そして岩場への入口の左から 龍燈松碑、??、服部南郭詩碑、佐羽淡斉詩碑。伊豆半島の灯り。「岩屋・稚児ヶ淵 」。稚児ヶ淵は、幅50mにわたって隆起した海食台地です。大島、伊豆半島、富士山が一望でき、神奈川景勝50選の一つに選ばれています。万治2年(1659)の中川喜雲の『鎌倉物語』などに見られる鎌倉相承院の稚児白菊と建長寺広徳院の自休蔵主が相次いで身を投げたとする話は、文化14年(1817)初演の四世鶴屋南北の「桜姫東文章」にも取り入れられて広まりました。岩屋の上の断崖。岩屋の中へ。(一昨年の写真です)「波の浸食により出来た江の島岩屋(第二岩屋)が幻想的なイルミネーションの光に包まれます。全国でもあまり類を見ない洞窟イルミをお楽しみください。」と。江の島最奥部、悠久の時を経て波の浸食でできた全長152mの第一岩屋と56mの第二岩屋からなる海食洞窟。最奥には龍の姿も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.20
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この日は、2020.11.21(土)~2021.03.07(日)に開催されている『江の島を彩る光と色の祭典「湘南の宝石」』のイルミネーションを見に行って来ました。16時過ぎに自宅を出て、小田急線で片瀬江ノ島駅に到着。構内にある江ノ島水族館のクラゲ水槽が迎えてくれた。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径二メートルの円形で、二・六五トンの海水が入っており、ゆっくり回転するように流れていた。四十匹のミズクラゲがゆらゆら浮遊する様子は、同館で人気を集めている展示水槽そのまま。駅の外から。まだ明るい片瀬江ノ島駅。新駅舎は従来の竜宮城のイメージを引き継ぎ、新たに各所に竜の像や天女の絵などがあしらわれ、日没後は毎日、ライトアップされるのだ。道路面のタイル。「弁天橋」から江の島を見る。時間は16:35。イルミネーションの点灯開始は17:00。弁天橋にある「雲の形」の像。「江の島弁天橋」に向かって進む。街路灯は既に点灯。江島神社御鎮座記念「龍燈籠」(右)龍をズームで。江島神社御鎮座記念「龍燈籠」(左)。龍をズームで。「名勝史跡江ノ島」と「五輪記念」碑とその間に江の島の姿が。東京オリンピックのセーリング競技が行われる神奈川県藤沢市の江の島に大会の開催を記念するモニュメントが設置されているのだ。モニュメントは島にかる江の島弁天橋の北同の入リ口に設置。2m50cm四方で江の島と海を背景にしてセーリンク競技をイメージしたテザイン。東京オリンピックのセーリング競技は、江の島ヨットハーバーで7月26日から8月5日までの11日間、行われる予定であったが・・・・・。「江の島名勝図」。「潮音」。「円弧型日時計」といい、日時計作家 小原輝子の作、長洲一二元神奈川県知事の揮毫になる「潮音」という文字が黒御影石に彫られている。平成元年4月、藤沢のライオンズクラブが結成15年を記念して建てたものである。日時計の位置は、東経139度29分11秒、北緯35度18分09秒。日時計にはこう刻まれている。「時は形がなく見えません。しかし、私達には確かに時が過ぎていくのが感じられます。人々は大昔、太陽の動きをつかまえて、とりとめもなく流れる時に区切りをつけました。それが日時計と時刻です」と。江の島の象徴ともいえる江の島白灯台。灯台前のデッキ部分と外海に面した手すり付きの釣り施設でこの日も釣り人で賑わっているのであった。夕陽が箱根の山に沈む時間であったが一面の雲が。束の間の夕陽。上空には海鳥?が群れをなして。「江の島天然温泉 江の島アイランドスパ・別館」と「江の島展望灯台・シーキャンドル」。「青銅の鳥居」とその先に「江の島弁財天仲見世通り」。人の少ない「江の島弁財天仲見世通り」を進み江島神社の朱の「大鳥居」を潜る。石段の先に「瑞心門」。「瑞心門」。「江島神社全景絵地図」。「御祭神は、三人姉妹の女神様社伝によると、欽明天皇十三年(五五ニ年)に、「欽明天皇の御字、神宣により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳ニ度の祭祀この時に始まる」とあります。これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。」右側には売店と朱の太鼓橋が。「鋏塚鋏塚は昭和39年6月当協會創立35周年を記念して長年使用に耐えた花鋏を供養し斯道の発展を祈念すべく建立されたもので花の字を模した揮毫は当協會顧問日本画家飯田九一先生の筆になるものです。建立25周年協會創立60周年を記念して碑周辺を整備し改めて斯道の発展に寄與せんとするものです。」そしてこの日は「江の島エスカー」に乗り上を目指す。利用者の姿はなく。壁には富士山の勇姿の写真が。弁財天のお姿。更に進んで。「江島神社 辺津宮」前に出る。遠くから光と色の祭典・江の島「湘南の宝石」の点灯のカウントダウンの声が聞こえて来た。「江島神社 辺津宮」。この周辺のライトアップはなかった。「奉安殿」。そして点灯した「中津宮広場イルミネーション」。江の島の中腹にある広場が、あたたかなイルミネーションの光に包まれ、展望デッキからは江の島ヨットハーバーを眼下に見下ろす、美しい湘南夜景が広がります。」エ乗り継ぎのエスカー乗り場前の光のトンネル。再びエスカーを乗り継ぐ。そして「中津宮」。紫色にライトアップされた大樹。そして最後のエスカーに乗り継ぐ。ずっと私専用のエスカーであった。そして「江の島サムエル・コッキング苑」入口手前の広場から「江の島シーキャンドル・江の島展望灯台」のライトアップを見る。 ・・・つづく・・・
2021.01.19
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更に「玉雄山宝泉寺」の散策を続ける。「本堂」前の正面左手には大きな石灯籠とその奥に「六地蔵」が。石灯籠には施主のお名前が赤字で刻まれていた。赤い帽子と涎掛けの「六地蔵」。左から法性、地持、宝性、宝印、陀羅尼、鶏亀地蔵と刻まれていた。本堂に向かい合う様にこちらにも「六地蔵」が。様々な供養碑が。中央に「物故者供養之塔」。「本堂」の隣りにあったのが「瑞泉閣(客殿)」。葬儀・法事等の控室に使用する建物。130坪40畳の部屋が二間。それに洋間、厨房といった形で構成。平成6年に完成。「瑞泉閣」と書かれた扁額。折しも花屋さんが軽トラッの荷台に生花を載せて配達に。境内左側の、左から「閻魔大念珠堂」、「金毘羅大権現堂」、「観音堂」を見る。八角形の「観音堂」。「西國霊場三十三体 観音堂」。「観音堂 内陣」。観音堂に祀られている「三十三観音像」は、第十九世泰山和尚が西国霊場巡礼を果たせなかった母親の願いを成就させるために祀ったもので「遠藤観音」と呼ばれ深く信仰されていると。「金毘羅大権現堂」。扁額「金毘羅大権現」。「金毘羅大権現堂」。「金毘羅大権現堂再建記念碑」。金毘羅堂には大念珠があり、54個の念珠があり、二周回すことで、108の煩悩を払ってくれると。私も一生懸命回しました。扁額は「金毘羅」と書かれているのでしょうか?。「堂内の本陣」。そして「本堂」、「瑞泉閣(客殿)」を振り返る。「西国霊場観音堂建立記念碑」。そして「閻魔堂」。「南無閻魔大王」と書かれた赤の幟。「閻魔堂 内陣」。中央に「閻魔様」のお姿が。「嘘をついたら、地獄で閻魔様に舌を抜かれるよ」という言葉を、子供の頃祖母から何度となく実際、やっとこ形のくぎ抜きは今でも「えんま」と言うのではないでしょうか。「閻魔堂再建記念碑」。再び「瑞泉閣(客殿)」、「本堂」を振り返る。近くに松の木を彫りあげた「慈母観世音菩薩」が簡素な堂の中に。「慈母観世音菩薩」には、沢山の折り鶴が奉納されていた。赤い帽子を冠り優しいお顔、「う~~ん」と??。そして「水子・子育地蔵尊」。左手で赤子を抱え、足下にも二人の稚児が。お顔をズームで。「水子子育地蔵尊建立記念碑」。歴史を感じさせる石仏群。「水子子育地蔵尊」を横から。そして正面に見えて来たのが寶泉大仏像(釈迦牟尼大仏)。「寶泉大仏像」は、高さ10m、重さ8トン、青銅製で、原型は洛陽(河南省)の龍門石窟の奉先寺石窟の本尊釈迦牟尼大仏で、中国上海交通大学及び中国芸術院等の古代芸術研究グループにより中国で制作され、平成8年6月に開眼供養されたと。優しいお顔をズームで。「無畏と降魔の宝泉大仏ーーー印(いん)と結跏趺坐(けっかふざ)ーーー印とは仏さまが両手を結ぶ仕草で悟りなどの境地をシンボル化したものであリます。インドでは古来、手話のように手や指で意思を現す習俗があリましたところから、仏像が造られるようになった初期から、仏さまの内面の意志を、手や指の形で表すといった、インドの生活習慣が自然に造像に取入られ、その後の永い年月の間に、数千にも及ぶ様々な印が定式化されるようになりました。代表的な印相に、合掌の印、禅定の印、与願の印、説法の印、施無畏の印、触地の印があリますが、この宝泉寺の大仏さまの印相は右手が衆生の畏れや不安、苦しみを無くする為の施無畏の印、左手は悪魔を降す降魔の印であリます。仏像は仏さまの内面の意志を、結跏趺坐という坐リ方でも表現しておリます。跏とは足の裏、趺は足の甲の部分のことで、両膝を曲げ、両足の裏を上向きにして坐る坐リ方をいい、右足を先に曲げ左足をその上に乗せるのを降魔坐、左足を先に曲げその上に右足を乗せるのが吉祥坐。左足が右足下に隠れ右足裏だだけが上向く坐リ方を半跏趺坐とよんでおリます。この造像にあたり、制作に当たった中国芸術院のスタッフは如何に、衆生の畏れや不安の、また苦しみの根源を新ち、衆生に心の安らぎをあたえうるか、お釈迦さまの内面の御心の表現に心血を灌ぎました。仏像を拝むことは、仏像を通じて、己れ自身の内面の仏心を改めて見つめなおすことであリます。忙しない募らしのなかで、ひとときの静寂の時を、大仏様と過ごされんことを、お薦めいたします。」日本の大仏は通常右手に梵字の幸福を表し、左手は人々を救うと云う意味で手の平を上に向けているが、寶泉大仏の左手は邪悪なものはおさえると云う意味で手の平を下に向けているところが違うのだと。 更にズームで。坂道を下りながら、正面に山門を横から見る。山門近くの見事な紅葉を見上げる。逆光に映えて輝く紅葉。そして坂道の下から「山門」そして紅葉を振り返る。そして車で数分の場所には宝泉寺歴代大和尚の墓が。宝泉寺の縁起と開山を如幻宗悟、そして後北条氏の家臣である仙波土佐守が開創されたことが刻まれていた。宝泉寺歴代大和尚銘が刻まれていた。 歴代大和尚の墓碑(右)。 歴代大和尚の墓碑(左)。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.01.18
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この日は藤沢市遠藤にある宝泉寺を久しぶりに訪ねたのであった。宝泉寺は、福井県の永平寺と横浜市の總持寺を両大本山にあおぐ曹洞宗の寺院(禅寺)。山号は「玉雄山」。「萩の寺」としても知られている。修行僧に食事、坐禅などの時刻を伝える雲板は市の指定重要文化財となっている。また、境内の森は「ふるさとの森」として藤沢市指定をうけているとのこと。「宝泉寺霊園管理事務所」の前に車を駐めた。「鉄砲馬場と草競馬」案内板。「鉄砲馬場と草競馬明治末期から大正初期にかけて、毎年3月10日競馬が行われました。出場馬の多くは農耕馬や荷馬でしたが、近郊近在からの見物客も多く露店が出るほど賑わいました。」ここ宝泉寺の近くにあった馬場で草競馬が行われたと。その馬場はその距離の短さから「鉄砲馬場」と呼ばれていたと。コースが周回でなく、鉄砲と同じで「行ったきり」だから。また、鉄砲の弾が真っ直ぐ飛ぶことから「鉄砲」には真っ直ぐという意味もあると。賑わいの中から多くの男女が結ばれたことから「見合競馬」とも呼ばれたと。「宝泉寺」案内板。「宝泉寺玉雄山と号し、石川県能登の曹洞宗大本山総持寺(現鶴見のの総持寺)直系の曹洞宗別格の中本山である。本尊は釈迦牟尼如来で、開山は如幻宗悟大和尚。開基は小田原北条氏家臣の仙波土佐守。創立は永正十六年(一五一九)頃と言われる。また、夭正十九年(一五九一)にニ十一石の朱印地を賜った。寺内には市指定文化財の雲板などかある」『寶泉寺縁起』によれば宝泉寺は、福井県の永平寺と横浜市の總持寺を両大本山にあおぐ曹洞宗の禅寺。永正16年(1519年)、相模国高座郡小出村字遠藤(現・藤沢市遠藤)に、開山を如幻宗悟、開基を後北条氏の家臣である仙波土佐守として開創された。開創当時の宝泉寺は境内も広大で、17棟の建物からなる大寺院だったが、1923年(大正12年)の関東大震災ですべての建物が倒壊してしまった。しかし、第二十八世住職龍紋大和尚は檀信徒の御力添えを得て、1926年(昭和元年)、本堂を向山に再建したと。「御所見南部・遠藤の「文化財ハイキングコース」案内板。遠藤・御所見南部の今と昔昭和三十年から遠藤南東部は開発が急速に進み、昔の面影は残っていませんが、いまでも田畑が広がる農村風景が見られ、生活のなかにも共同体としての習慣が残っています御嶽大神や宝泉寺の付近は昔から村の中心で、歌舞伎、神楽、鉄砲馬場などの祭りにはにぎわいました。この地にも大学が進出し、大きな変化を遂げています。その建物が立つ丘陵は、御所見の打戻へ連なっています。打戻は平安時代中期(十世紀)には養蚕を営む人たちが住み、宇都母知神社(うつぼちじんじゃ)を祀ったと考えられています。また自然を生かした遊び学ぶ「少年の森」もできました。獺郷(そごう)は昔は沼地が多く、かわうそが多く生息していたのでそれが村名になったようです。丹沢山系や富士山が見渡せるのどかなこの地域では、歴史の風と新しい文化の風とが語りあっています。」「市指定工芸品 遠藤宝泉寺・雲版雲版(うんばん)とは、禅宗の寺で、寝起き、食事、座禅などの時刻を知らせるために打ちならすものである。銅または鉄で鋳造されるが、宝泉寺のものは青銅製である。その源流は中国にあり、禅宗と共に日本に伝来したものであろう。この雲版は寺に保存されている釈迦涅槃図や修行僧に食事、坐禅などの時刻を伝える雲板は表面に次のように刻まれている。相州遠藤村玉雄山芳泉禅師常住物先打飯破村当寺七世悦堂代修造之者也萩野郷寛永三年丙寅冷月六日 大工木村長拾郎吉次この寛永三年(一六二六)当時の寺号は、開基仙波土佐守の諡(おくりな)「松岩院玉雄芳泉居士」からとったものであるが、後に宝泉寺と称するようになり、今に至っている。宝泉寺の雲版は、湘南地方では最古のものと考えられている。」宝泉寺境配置図。山門への階段を上って行った。何故か「西国霊場観音」と刻まれた石碑。 西国33ヶ所の観音が納められている観音堂が境内にあるから?山門前の紅葉が今が盛りであった。ズームして。宝泉寺の山門。この山門は2005年4月の再建で、左右に仁王様が堂々と。山門の扁額は、山号の『玉雄山』。 紋は五枚、三枚の桐の花を描いた五三の桐、本山の総持寺の寺紋が五七桐紋であることから本山から下賜されたであろうか?織田信長や足利尊氏が天皇に下賜されたのも、この「五三の桐」。山門右に開口の阿形(あぎょう)像。普通、正面から見て門の左側には阿形像、右側には吽形像が安置されていますが、ここは逆のようであったが。ネットによると、この左右の配置は絶対的なものではないようだ。阿形像と吽形像が左右どちらに配置されるかについては、時代によって違いもあると。上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにしていた。左側に口を結んだ吽形(うんぎょう)像。吽形像は怒りを内に秘めた表情。吽形像横の見事な紅葉。「山門」手前左手には「六地蔵」が。正面から。「山門」を潜り更に石段を上る。階段を登り終わると、右手には「書院」が。そして正面に「本堂」。宝泉寺の山門の階段を上がったすぐ右に、「布袋様」の石像が。正面から。近づいて。誰かに似ている・・・との声が聞こえてくるのであったが。斜めから。脇の石碑。何か文字が書かれていたようであったが。その前には、木枠に囲まれた石の玉が置かれていた。私もこの日も下記のごとく試してみたが・・・・、まだまだ修行が足りないのであった。「布袋玉(ほていだま)布袋玉とは布袋様(弥勒菩薩の化身)が持っていらっしゃる玉の事です。この玉を少し持ち上げてみてくださいいったん玉を置き、手のひらで軽く玉を数回叩いて、もう一度持ち上げてみてください。玉が最初より重く感じると思います。次に玉を優しく撫でてから、もう一度持ち上げてみてください。今度は玉が軽く感じると思います。この布袋玉は人の心の内を重さで表します。命持つものを叩くということは、どんな理由であれ心が痛み重くなるものです。又、優しく(慈悲の心で)撫でるということは、心を軽くするものです。布袋様は私たちに慈悲の心を説いています。命有るものに優しく接していれば、相手の心も自分の心も軽やかになるのです。日々、優しい心を持ち続けることが市袋様の願いなのです。」水瓶の表面は氷っていた。境内右手の書院前の石碑・仏像群。「大本山永平寺御開山 仏法房道元大和尚禅師像」。若かりし年代の道元の像のようであった。「十三重石塔」。「大本山總持寺御開山 瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)大和尚禅師像」。「本堂」前の石碑群。「殉国精霊之碑」。「顕彰 曹洞宗大本山總持寺御直末元輪番地」碑。「手水舎」。手水舎に置かれている龍。「曹洞宗 禅宗南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 釈迦牟尼佛大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として 開花し鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となす。 その教義は瑩山禅師によって広く全土に実践強化され今日に至る。教義 人は本来佛性有り。己に佛心の具え有り。 正法の経典を讃仰読経し深く黙照して座し脚下照顧して己の足下を見つめ自然宇宙と 一体なる自己を見極めて、活達なる人生をいかしきるのが、禅の実践なり。経典 修証義般若心経観音経寿量品等を読誦する。本堂のご本尊に先ず合掌」宝泉寺本堂前の「おびんずるさま像(なでぼとけ)」。びんずる尊者は、お釈迦様の16人の偉い弟子(十六羅漢)の一人。体の具合の悪い所に相当する像の部位を念仏を唱えながら撫でると良くなると。 頭を一生懸命に撫でてきましたが時遅しか。「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)おびんずるさま又は撫で仏(なでぼとけ)と申します。ご自身の体の具合いのすぐれない場所と同じところを撫でて頂くと良いと云われております」「本堂」。120坪の本堂は、関東大震災による建物倒壊後、昭和元年に建立。本堂の扉には「五三の桐」の紋が。山号の『玉雄山(ぎょくゆうざん)』と書かれた大きな提灯。『寶泉寺(ほうせんじ)』と書かれた提灯。「寶泉禅寺」と書かれた扁額。靴を脱ぎ本堂の回廊へ。本堂内部にはご本尊の釈迦如来が鎮座。回廊より本堂前の境内を望む。本堂回廊角の釣銅鐘。本堂の屋根下の銅風鈴。 ・・・つづく・・・
2021.01.17
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富士山の雲はしつこく・・・・。僅かに左に流れていたのであったが。「明神ヶ岳」の上に蛇の如き雲が。小さな龍雲?ズームして。右に「明神ヶ岳」、左に「神山」の山の端がくっきりと。富士山の雲も漸く動き出し始めた。すでに日は落ち、闇が動き出し伊豆半島の海と山との境を消し始めていた。高波の如き雲は動かずに。ズームして。菜の花と富士山そして箱根の山々。筋雲も美しく。富士山の山頂も僅かに。マンション「ダイヤモンドライフ湘南」の先に小田原の海そして街並みが。大山そして丹沢山塊を振り返る。菜の花と小田原の海との夕暮。富士山の夕暮。二子山の山の端もくっきりと。街並みには次第に灯りが灯って。薄い夕闇のなかで商店の 灯りも淡く。菜の花を入れて。流れ行く雲が黒い塊となって夕焼けの美しさを引き立てる。大樹の榎の枝が昇り龍の如くに。そして薄暗い中、吾妻山の山道を下り、再び「吾妻山公園 第2展望台」からJR二宮駅を見る。そして湘南の海を。遠くに江の島の展望灯台・シーキャンドルも確認できたのであった。JR二宮駅の眼を通り、駐車場まで戻り帰宅の途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2021.01.16
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二宮・吾妻山山頂の菜の花を楽しんだ後は、箱根の山に沈む夕日の姿、そして刻々と色合いを変化させていく山々の姿を追いかけたのであった。時間は16:18。下には小田原の沿岸の街並みの姿が。広場にあった相模湾沿岸の地図碑。大島の大きさがやや大きいと感じたのであったが・・・。「吾妻山公園山頂からの眺望」案内。同じものをネットからも。これは、以前訪ねた時の写真であるが、上の絵では金時山の位置が富士山に近すぎると感じたのであった。見える姿で描くと、伊豆半島が入り切らず、小さく描くと山の名が判らなくなることは理解するのだが・・・・。小田原の海の輝きも次第に鈍くなり。左から駒ケ岳(1357m)、神山(1438m)、明星ヶ岳(924m)そして明神ヶ岳(1169m)。ゆるやかに、太陽が傾きはじめ日没時間が近づく。富士山の手前でひょっこりと富士山見物に顔を出したが如き金時山(左)と矢倉岳(右)。富士山の前にあるのは「矢倉岳(870m)」。夕陽が下二子山に向かって近づいて行く。迷子になったが如き雲も夕焼けに白く輝いて。伊豆半島上空もオレンジ色に染まり。真鶴半島と先端の「三ツ石」。そして夕陽が下二子山に隠れ始めた。デジカメでひたすら追ってシャッターを。夕映えが、禍々しいほどの赤い色で空と雲を焦がす。そして山端からのこの日最後の陽光が射す。まさに最後の一片の残光も、消えようとした瞬間。そして太陽が下二子山の裏に隠れて行った。二子山をズームで左が下二子山、右が上二子山、そして山頂部の電波塔群。まだまだ下二子山の山端は黄金色の輝きを。富士山も赤く染まりだしたが。上二子山山頂部の電波塔群。上二子山の山頂部には、NTT東日本やNTTドコモの二子山無線中継所があり、箱根の西側にある鞍掛山無線中継所とともに、東京方面と東海地方を結ぶ無線中継網の重要な拠点となっている。正月の箱根駅伝の際などは二子山無線中継所がTV放送の拠点となり、今年も紹介されていた。現在は自然保護のため、一般の入山は禁止されているのだと。そして黄金の輝きは二子山の「谷間」に向かって。国府津に向かう東海道線のレールも夕暮れの陽光を反射して。二子山の「谷間」が黄金色のピークに。なかなか富士山山頂付近の雲はしつこく。陽光を反射した線路に下り電車が。芝生広場の榎の巨木そしてその先の相模湾、上空の雲も淡いピンクに染まって。相模湾上空の雲もピンク色に染まり刻々と色合いを変えて。海の先には三浦半島の姿が。二子山の山端(やまのは)の色合いも落ち着き始める。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.15
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先週、東海道線・二宮駅の近くにある「吾妻山」に菜の花、夕焼けを愛でに、我が車でそしてマスク着用にて訪ねました。「横浜地方法務局 西湘二宮支局」の有料駐車場(500円)に車を駐め徒歩にて吾妻山に向かう。二宮町観光協会発行の「吾妻山 菜の花ウォッチング」のポスター。2021年1月9日(土)~2月7日(土)で開催予定の「吾妻山菜の花ウォッチング」は、イベントを縮小して開催予定のようであった。「吾妻山山頂で6万株もの早咲きの菜の花が1 2月下旬から見頃を迎えます。バノラマで見える丹沢、箱根の山々、相模湾、伊豆半島、そしてお天気に恵まれると美しく真っ白な富士山が目の前に広がリます。新春のこの時期に、黄色、水色、白と心に残る美しい景色をぜひこ覧くたさい。期間中は、レシートラリーや、週末を中心に、地場産品等の販売会などのイベントを開催して、皆さまのお越しをお待ちしておリます。JR東海道線・ニ宮駅から歩いて行くことが出来る136mの小高い山にある公園です。山頂には、芝生の広場や展望台があリ、何といっても富士山をはしめとする山々と相穫湾など360°見渡せる景色は絶景で、撮影ポイントとしても大変人気です。また、子どもたちに大人気のローラー滑り台や、大型複合遊具か設置されています。登リ道には、水仙、つつし、あじさいなどの花々や木々、山頂では、菜の花、桜、コスモスが四季折々にご覧いただけます。また、「日本武尊」とその妻「弟橘媛命」(おとたちばなひめのみこと)の深い愛と思いやリの心がつまった吾妻神社も参拝できます。」JR二宮駅北口駅前にあった「二宮町観光協会&にの屋」は、町民センター1階内へ移転したと。坂道を登って行く。「吾妻山公園」入口(役場口)に到着。入口横の石碑には「長寿の里 ニ宮」と。二宮町は神奈川県の西南部に位置し、海と山、そして緑に囲まれた約9km2、人口約27500人の小さな町。気候は相模湾に面しているため、冬暖かく夏涼しいという特徴があり、その温暖な気候などから元気な高齢者が多く住む「長寿の里」として知られているのだ。「吾妻山公園鳥獣保護区区域図」案内板。野生鳥獣の保護増殖をはかるために、一定期間増殖施設をつくって捕獲を禁止するように指定した区域(禁猟区)。「吾妻山公園案内図」。「吾妻山公園利用のご案内」開演時間は8:30~17:00とあるが・・・・。急な石段を一歩一歩息を整えながら登って行った。右手奥に「神奈川県二宮町民センター」の建物が見えた。階段中央に手摺があるのが有り難いのであった。吾妻山公園「 第2展望台」から二宮の街並み、そして相模湾を望む。湘南海岸、「江の島」の姿が確認出来た。藤沢市では、1966(昭和41)年10月に「江の島」に新しい住居表示を施行。これまで「藤沢市大字江之島」だったが「藤沢市江の島」に変わったのであった。しかし小田急線は「片瀬江ノ島駅」、江ノ島電鉄、通称・江ノ電では「江ノ島駅」そして湘南モノレールは「湘南江の島駅」と。そして島を渡る弁天橋のたもとの標識は「江の島」、橋の途中にある船着き場でも「江の島」の表記、更に弁天橋の真ん中に立つ石碑は「名勝乃史蹟 江ノ島」、「新江ノ島水族館」とややっこしいのであるが・・・・。「江の島」をズームで。再び「吾妻山公園案内図」。詳細図をネットから。吾妻山への登山路は4ヶ所、役場口、梅沢口、中里口、釜野口があるようだ。散策道にはニホンスイセン(日本水仙)が開花中。赤い椿の花も。正面の斜面にはツツジが一面に。再びニホンスイセンを。ニホンスイセンの花言葉は、「自己愛」と「うぬぼれ」と。これらは水面を覗き込んだ自分の美しさに恋をした、ギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスの話に由来していると。ズームで。副花冠が黄色、そして白の花片が反り返って咲く日本水仙。八重のニホンスイセン?も。ここで二差路に別れていたが「菜の花」の案内に従い左手に。「薬草園」の案内板。更に進むと右手の階段の先に「浅間神社」の石鳥居が。学生の姿も。「浅間神社(せんげんじんじゃ)祭神は木花咲耶媛(このはなさくやひめ)。ニ宮町上町地区の祭神で土地の人には、浅間さんとして親しまれ本社は富士浅間神社です。木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、良縁を得られたので縁びの神様として信仰されています。今からおよそ、八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、曾我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。この時姉のニ宮の花月尼はその成功を富士浅問神社に祈りました。その後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて自分の住まいのこの山上に、浅間神社をまつったと言います。」この写真は以前に訪ねた時の「浅間神社」の写真。そして、園内一の人気の施設が、地形を巧みに活用した「ローラー滑り台」。全長は102m、傾斜は約10度。 相模湾を見下ろしながら、一気に下って来るのだと。大型複合施設「ジャンポエイトッー」。いろいろな遊具が合体した、子どもたちに大人気の大型複合遊具。地面にはウッドチップが敷かれていた。そして役場口から15分弱で「吾妻山公園展望広場」の「芝生広場」に到着したのであった。吾妻山山頂は標高136.2m。前方に、日没前の夕日が。そして富士山は前面に雲があるものの雄姿が確認できた。この場所は・関東の富士見百景 ・かながわ花の名所100選 コスモス(神奈川県観光協会) ・かながわの美林50選 吾妻山公園の森(神奈川県)そして大山(おおやま)。丹沢大山(たんざわおおやま)国定公園に位置する大山は、神奈川県伊勢原市を表玄関に、標高1252mのピラミッド型の美しい山容を誇る。大山が別名「雨降山」(あふりやま)と呼ばれるのは、相模湾の水蒸気をたたえた風を受け、雨が降りやすい(また上がりやすい)山容に由来し、別名「あめふりやま(雨降山)」転じて「あふりやま(阿夫利山)」となったためであると。吾妻山公園は360度の大パノラマ。箱根、丹沢、富士山が手に取るような近さに感じらるのだ。夕日は左手の「下二子山」の山頂近くに沈みそうなのであった。そしてこちらは「金時山」。箱根火山の外輪山の最高峰。神奈川県南足柄市、箱根町、そして静岡県小山町との境にある。外輪山の中では最も北にあり、北に足柄峠へ続く尾根を分けている。「金時山」の南東に続く明神ヶ岳や明星ヶ岳は内側が陥没しているが、山頂はなだらか。しかしこの「金時山」は外輪山の上にさらに側火山が、粘性の安山岩質溶岩を噴出させたため、山頂は丸く盛り上がった険しい山容になっているのであった。南に広がる相模湾は、晴れたこの日には大島や初島も見ることが出来たのであった。そして左には伊豆半島、その手前には熱海沖の「初島」の姿。「初島」の右側奥には「大室山」そして更に右側には伊豆半島最高峰の万三郎岳(ばんざぶろうだけ 1,406m)の姿が見えた。そして夕日が沈みかけるまでは、まずは美しい「菜の花」の姿を楽しむ。「吾妻山公園展望台」をズームで。満開の菜の花畑。寒さの為にミツバチの姿はなし。豊かな自然あふれる吾妻山公園の「早咲きの菜の花」が一足早く春の薫りを。展望台からは周囲360度の景色が望め、青くそびえる富士と、斜面いっぱいに広がる6万株の黄色い菜の花との見事なコントラストが毎年見事に。この日が満開!!菜の花と夕日のコラボ。カメラの設定を変えて。菜の花の先に四阿(あずまや)そしてその先に相模湾。四阿(あずまや)の先、左手には大島の姿が。ズームで。榎の大木も存在感を示していた。反対側からもズームで。『吾妻山公園の由来』『相模路(さがむじ)の 淘綾(よろぎ)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思はるるかも』の歌碑。(万葉集 第十四巻 東歌)「相模の淘綾(よろぎ)の浜の美しい砂のように、あの娘が可愛く思われることです。」 吾妻山公園の由来の碑に、この淘綾の浜の歌が刻まれていた。「万葉の昔から、淘綾の里 二宮の美しい海浜と、それを眼下に一望できる吾妻山は人々のふるさとでありました。 しかし、第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で山は顧みられることもなく、次第に荒廃が進んでいきました。 町はこれを深く憂え、子孫に誇れる山として残したと思い、地権者65名の協力と5年の歳月をかけて整備し、 昭和62年7月18日に吾妻山公園として開園しました。 現在では健康づくりと自然とふれあうやすらぎの場として人々に喜ばれています。この公園は、名誉町民 第十七代柳川賢ニ町長の尽力により完成しました。」吾妻山の名は、中腹に吾妻神社があることからこう呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で日本武尊(やまとたけるのみこと)が配祀(はいし)されています伝承では、日本武尊が東征の途中、三浦半島の走水から海路上総に渡る際、突然海が荒れたため、妻である弟橘媛命が 海神の怒りを静めるため、夫の武運を祈願しながら海中に身を投じると、たちまち海は穏やかになりました。7日後に命の櫛が海辺に流れつき、これを埋めて墓とし、又磯辺に漂う命の小袖を取り上げて山頂に祭りました。日本武尊は東征の帰路、この地の峠ではるか東方の海をながめ、海路を開くために犠牲になってくれた妻を偲んで「吾妻はや」(ああ、わが妻よ)と嘆かれたと云ういうことから吾妻神社の名がつき、小袖が漂着した海岸を袖ヶ浦と云うようになりました。このような由来から、縁結びの御利益もあるようです。「この碑は、公園開園五周年を記念し、柳川賢ニ顕彰会の有志の寄付により建立されました。淘綾の海とは ゆるぎ・こゆるぎの浜ともいい、二宮を中心に国府津から大磯あたりまでの白砂青松の海浜をいいます。」石碑には夕焼けを背景にした富士山、箱根の山々が映り込んでいた。桜のシーズンも美しいのであろう。必死に菜の花を追うカメラマンの姿。『菜の花畠(ばたけ)に 入り日溢れ見わたす山の端(は) 暮色せまる夕闇せまりつ 芝生を見れば男這いずり カメラを覗く』・・・詠み人知らず・・・ピンクのマユミの木も負けじと、夕陽を浴びて赤く輝く。 ・・・つづく・・・
2021.01.14
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私の住む地域の「どんど焼き」が一昨日1月11日(月)8:00から近くの公園で行われました。コロナ禍の中、この行事を中止する自治会が多くあるとのテレビ報道でしたが、我が地域ではアルコール飲料なし、マスク完全着用にて、例年より行事規模を縮小して執り行われました。「どんど焼き」という不思議な名前の由来は、■どんどん燃えるから■燃やし始めに青竹がはぜて「どんっ!!」と音がするからなど諸説あり、音の響きからついたようです。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の「お焚き上げ」や「どんど焼き」で焼くというもの。我が住む地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続してどんど焼き」が行われているのです。小正月になると、塞の神(サイノカミ)を祀り、旧年の災いを払い、これから一年の平穏と農作物の豊作を願う「どんど焼き」。正月飾りや書き初め、だるまやお守りを燃やした火で繭玉を焼いたり、酒がふるまわれたりしながら、無病息災を願う昔からの行事なのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に「どんど焼き」の日にちを移すようになったのです。妻が今年も「門松」、「しめ縄」等を一つに纏めておいてくれました。そして今年も、妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。「どんど焼き」の火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。三つ叉の木は、趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。8時からの開催とのことで8時過ぎに公園に着くと、既に火は勢いよく。しかし、火力がまだ強すぎるので、近くに寄る人の姿は少なし。既に「しめ縄」や「正月飾り」が燃やされていました。役員の方が、家から枯れ木を準備して下さり、勢いよく燃え始めていたのでした。その上に我が家の「門松」、「しめ縄」等投げ入れました。私が子供の頃は、正月の書初めを燃やし、火が高く上がると字が上手になると言われていたのですが、最近では書き初めをする子供達も少なくなってしまったのです。ダルマも火炎に囲まれて。多少の風もあり、近くには近づけないほどの火力で。公園内での「どんど焼き」を行うためには、市に対して「公園内行為許可証」そして消防署に対して「煙・火炎発生届」が必要とのこと。併せて消化器の準備もされていました。団子をアルミホイールで覆っている家庭の三叉団子が出番を待っていました。次第に公園には、この地域の方々が集って来ました。子供さんの姿も。そして漸く下火に。例年は、日本酒の入った白の紙コップが口元にあるのですが、今年は紙コップの代わりに白のマスクだったのです。我が家の三色団子。チョット割れ目が。私も団子の焼きに入りました。やはり、近所の方々も、三叉の木を準備するのが大変と。皆さん、マスク姿で、この日はお神酒もなく。焼き頃の火種になって来ました。赤、白、緑の順番は各家で微妙に違っていましたが・・・。子供たちの姿が年々少なくなっていると感じながら・・・の「どんど焼き」。御札も燃えて。団子の焦げた匂いも。丸い団子、やや平べったい団子とこれも各家独特の形が。皆さん、煙を避けて風上に。熱い熱いと言いながら小さな串団子の形で焼く姿も。三々五々に「門松」、「しめ縄」を持って集まって来られる人の数も増えて。そして30分ほど雑談しながらの「どんど焼き」も終えて自宅に戻り妻と焼いた団子をシェアーし、今年の健康を祈ったのでした。そしてこの日は「鏡開きの日」。鏡開きとは、正月に年神様(としがみさま)が滞在していた「依り代(よりしろ=居場所)」である餅を食べることで、霊力を分けてもらい、1年の良運を願う行事なのです。年神様は、穀物の神様。毎年、正月にやってきて、人々に新年の良運と、1歳分の年齢を与えると考えられて来たのです。神棚、床の間からお供えを下げて来ました。プラスチックのお供えの内部にあった餅を焼いてお汁粉にして。「どんど焼き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は非常に大切である事を今年も感じながらの「どんど焼き」だったのです。
2021.01.13
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⑤物資はどこから来たのか?大ピラミッド建造の時代、それは初めて国という形が生まれつつあった時でした。古代エジプトでは周辺地域を巻き込む戦いが次々に起きていました。その原因となった一つがピラミッド建造に関わるもの。再び最古のパピルスが見つかったワディ・エル=ジャラフ。ピラミッドからおよそ200km、紅海沿岸に位置する遺跡。なぜピラミッド建造を記録したパピルスがこの地で見つかったのか?パピルスを書き記した監督メレルはこの辺境の地で何をしていたのか?古代エジプトの港町であったワディ・エル=ジャラフ。訪ねたのは海沿いで砂に埋もれていた遺跡、それは巨大な建物の跡。辺り一面は白い砂が広がる荒涼とした世界。長い歴史の中で取り残されたようにポツンと佇んでいた。衛星写真の地図で発見したこの遺跡。この建物の正体とは、メレルや労働者が営舎として使っていたのだと。海沿いに立つこの建物は寝泊まりする施設、いわば「駐屯基地」であったと考えられていると。実はピラミッドから200km離れたこの場所が、ピラミッド建造のための重要な拠点であったことが解ってきた。ピラミッド建造には大量の銅が必要であったと。ピラミッドに必要であったという銅、海を渡ったシナイ半島の銅鉱山から入手していたと。ここは海を40kmほど渡れば直ぐに銅鉱山に到達できる非常に便利な立地の場所。この時代、鉄はまだ広く使用されていなかったと。最強の金属として君臨していたのが銅であったと。ピラミッドの巨大な石を切り出すため銅器具は欠かすことの出来ない重要な役割を担っていた。銅製錬の再現実験。銅鉱石を窯に入れて熱を加えて行く。そこに燃料としていれるのは何とロバの糞。これにより温度をゆっくり上げて純度の高い銅を精錬し、様々な器具を作ることが出来たのだと。しかし実際に銅のノミを使い石を切り出して見ると、柔らかい金属である銅はあっという間に擦り切れて使えなくなってしまったのだと。石を切り出すためには消耗の激しい銅を大量に手に入れる必要があったのだ。この様な港はシナイ半島の鉱物を採掘するために重要であった。ここに作業員のチームを数ヶ月間配置することで、大量の銅をシナイ半島で採掘し十分な量を確保したのであった。この当時、シナイ半島で採掘された銅は、一つの鉱山で10万トンを越える量であったと。ピラミッド建造に欠かせない膨大な量の銅を調達すること、これこそがメレル達がこの海辺に拠点をおいた理由だったのだ。しかし辺境のこの地で銅を集めることはけっして簡単なものではなかった。周辺地域との戦いに直面する危険なものであったことが最近の調査から見えて来たのだと。その鍵となるのが、最古のパピルスの発掘現場で、新たに発見された無数の横穴。人の手で掘られた横穴の入口には、よく見ると石灰岩を切り出した大きな岩が置かれている。発見された横穴31本の入口全てにこの様な20トン以上にも及ぶ巨大な岩で塞がれていたのだと。プラグの様に巨岩を入口に押し込むことで横穴は貴重品を保管する倉庫のような役割を果たしていたのだ。メレル達はこの横穴で舟を守っていたのだと。銅などの物資を運ぶ舟はこうした横穴の中に収納されていたのだと。この地に派遣されたエジプト人はベドウィンと呼ばれる砂漠の民を恐れていたのだ。ベドウィンはこの横穴に侵入し貴重品を略奪したのだと。横穴の中には火がつけられ、燃えた形跡の残る横穴も発見されたのであった。古代エジプトにおいて、水上交通は最も重要な移動手段。ナイル河や運河を渡り地中海へと漕ぎ出す中で、造船技術は独自の発達を遂げていたのだ。当時の舟はエジプトでは育たないレバノン杉などの木材を使用したものであった。遠くレバノンの地で育った木材もまた貴重な物資の一つであったのだ。そして⑥ピラミッドはなぜ廃れた(すたれた)のか?かって王の威厳を示すため、とてつもない大きさで造られたピラミッド。しかしある時期を境に変化が起きた。これは大ピラミッドが造られてからおよそ300年後に造られたもの。とても小さな簡素なピラミッド。何故、ピラミッドは廃れてしまったのか?ヒントは一人の人物の墓に眠っていた。この場所は墓の中で最も大きく美しい部屋。4300年前のものにも関わらず色鮮やかに残っている。部屋の数は何と32室もあるのだと。この墓の主は「メレルカ」という人物。いったい何者なのか。墓に立つ像の横には、メレルカが生前持っていた数々の称号が刻まれていた。そこには「王の都の監督官」、「司祭」、そして「王の最も親しい友」、実はメレルカは王の下で政治を執り行う「宰相」であったのだ。その称号の数は84にも及んでいたと。途方も無い数の役割を担っていたメレルカ。彼が築いたこの巨大な墓には一箇所不可思議な場所があった。よく見てみると削り取られたような跡。メレルカに使えた召使いは捧げものを持って立っていたが、この壁から完全に除去されてしまったのだ。これは大きな過ちを犯したことに対する懲罰であったと。壁画から消し去ることで、罪を犯した部下が来世には行けないように厳罰を課していたのだと。この時、メレルカ達官僚は、王に変わり強大な権力をふるうようになっていたと。それを可能にしたのが、ピラミッド建造を通じて生まれた成熟した社会、現代に繋がる国という形であった。労働者の食料を調達するために、新たな農場や牧場の運営が始まった。レバノンから木材を調達するために、交際的なネットワークも構築されたのだ。ピラミッド建造という一大プロジェクトによって形作られていった「物流ネットワーク」。それとともに物資の積み下ろしを行う巨大な港やダムの建造などインフラの整備も急速に進められていったのであった。エジプト全土を行き交う莫大なエネルギーはいつしか官僚達が握る一点へ集中していったのであった。巨大なピラミッドよりも建設のために構築されたネットワークやインフラがより重要になっていったのだと。メレルカの墓の壁画には、妻の演奏する音楽を楽しむメレルカの姿。実はこの妻は王の娘であったと。当時の王は権力を握ったメレルカの元に娘を嫁がせていたのだ。メレルカは古代エジプトを牛耳る絶大な力を手にしていたのだ。それまでは現人神である王が中心に行政や神官などが回ってきたのが、それぞれの力が強くなって王の権力が衰えていった。それ以後は巨大な建造物を立てるのは出来なくなったのだと。ピラミッドは王の権力が衰えて行ったことで、次第に廃れて行き、古代エジプト文明は新たな局面を迎えることになったのだと。そして最後に⑦ピラミッド復活の謎三大ピラミッドの間近で大エジプト博物館の建設が進んでいる。敷地面積は実に東京ドーム10個分。建設が進む大エジプト博物館の内部。「ラムセス2世の石像」が据えられた入口の大空間。2020年に全館オープン予定であったが、2019新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、2021年に延期されたとのこと。今まさにこの場所で、古代エジプトの最も有名な王にまつわる調査が行われている。その王こそツタンカーメン。ピラミッドの黄金時代からおよそ1000年後、わずか9歳で即位した少年王である。ツタンカーメンの黄金のマスク人類史上最高峰の宝であると称される黄金のマスクは、20歳前後で亡くなったツタンカーメンの面影を今に伝えている。今からおよそ100年前1922年に発掘されたツタンカーメンの王墓。ほとんど埋葬された当時のまま、きらびやかな副葬品が残されていたため20世紀最大の発見と言われてきたのだ。その副葬品の数は5000点以上。1922年12月:「控えの間」の写真。天界の牝牛の形をした儀式用のベッドなどたくさんの副葬品が安置されていた「控えの間」。ツタンカーメンのミイラが納められていた黄金の棺。全身純金で出来たエジプト発掘史上類を見ない宝物。使われた金の重さは実に110kgに及んだと。ツタンカーメンの黄金の玉座ツタンカーメンの墓に収められていた、2000点以上の副葬品の中の一つ。ツタンカーメンの黄金のの高さは104cm、幅53cm、奥行き64.5cm。玉座の背もたれには、王宮の部屋でくつろぐツタンカーメン王と王妃アンケセナーメンの姿が描かれている。王と王妃はサンダルを片方ずつ履いており、夫婦の仲がとても良かったことを示している。また、背もたれ上部には太陽神アテン神も描かれており、この背もたれのレリーフにある衣服の部分は銀で装飾され、人物の各部分には、赤の鉛ガラスと青ガラスが使われ、目にはアラバスターの象眼がはめられている。椅子の左右の肘掛けにはツタンカーメンの即位前の名前と、即位後の王としての名前が刻まれ、脚にはライオンの彫刻がある。目もくらむほど多くの黄金の副葬品を残したツタンカーメン。しかしその華やかさとは裏腹に埋葬された王墓はピラミッドと大きく様変わりしていた。ツタンカーメンが眠っていた「王家の谷」、歴代の王たちおよそ60の墓が見つかっている。それはまるで迷路のように地下世界へ広がっていた。盗掘を防ぐため王たちピラミッドを捨て地中深く眠りについたのであった。もはやピラミッドは過去の遺産とかしたはずであった。ところが、現代のスーダンに残された古代の墓、その姿は正に正四角錐のピラミッド。エジプトの文化を吸収した人々によってピラミッド型の埋葬施設が続々と広がっていったのだ。大ピラミッドが建造された時代からおよそ2000年、憧れの存在としてピラミッドは永遠のシンボルとなったのだ。古代エジプト文明の象徴たるピラミッドは新たな世界へと広がり受け継がれていったのであった。誕生からおよそ4500年、大いなる謎が続々と明らかになった大ピラミッド、そこには古代文明の叡智や国家の誕生の歴史が刻まれていたのであった。人類とともに有り続ける巨石建造物ピラミッド、悠久の時の中に佇んでいるのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.01.12
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「完全解剖!大ピラミッド七つの謎」のテレビ視聴を続ける。③どんな人々が造ったのか?高さ150mに及ぶ巨大な大ピラミッド、建設に動員された人は数万人とも言われています。照りつける太陽のもとで行われる苦しく過酷な労働、奴隷のように扱われる人々。こうした厳しい環境で働く労働者のイメージは、ハリウッド映画など後世の人々によって作られ広く浸透して来たものでした。これは本当なのか?どのような人々が大ピラミッドを造っていたのでしょうか。手がかりを求めてやって来たのは、ピラミッド発掘現場の最前線。大ピラミッドを建造したクフ王、その孫であるメンカフラー王の神殿。神殿の中に住居の跡があることを発見したと。この様な場所に人が住んでいたことは奇妙であると。しかし実際にこの場所で暮らした人がいたのだと。これまでナイル川の東側は「生」の世界、ピラミッドが立っている西側は「死」の世界と言われて来ました。このため、ピラミッドの周辺には人がほとんど住まなかったと考えられて来たのです。死の世界であるはずのナイル川の西側に人々が暮らしていた痕跡、これはどういうことなのか?さらにどんな人達がどの様な暮らしをしていたのかまで解ってきました。この場所は、ピラミッドの失われた都市の遺跡、単に人が住んでいただけでなく、この地には巨大な都市があったのだと。この街は「ピラミッド・タウン」と呼ばれていると。そしてこの場所に暮らしていた人々こそ、ピラミッドを建造した労働者達ではないかと。ここは10haほどの広さであるが、人が暮らした住居の跡がたくさん見つかりました。労働者の営舎や作業場、下級の役人が住む小さな家、高官が住む大きな家、そして王の施設。古代の人々が実際に暮らした痕跡を詳細に伝える貴重な発掘であったと。この幻の都市が発見されたことで、これまで謎だったピラミッドを作った人々の姿が浮き彫りになって来たのだと。現場では実際に出土した住居が再現されている。ここは東の街の家と呼ばれ、下級の役人が住んでいたと。住居には玄関や台所、寝室など今と変わらない居住空間が拡がっていたと。そしてプライバシーに配慮した構造にもなっていたのだと。こうした家であの最古のパピルスを記した監督・メレルも寝起きしていたのかもしれないと。およそ4000人が暮らしていたと見られるピラミッド・タウン、まさしくピラミッド建造プロジェクトのために誕生し、いつしか忘れ去られたロストシティーだったのだと。ピラミッドタウンから発掘された大きな土器、これはパンを焼くためのもの・パン焼き器であると。発掘された実物のパン、小麦や大麦から焼かれていたと。形や味も様々で種類は27種類にも及んでいたのだと。一人あたり1日2400kcalのパンを食べていたと考えられているのだと。現在の私の必要カロリーと同等であった事に驚きを感じたのであった。更に発掘されたビールジョッキー、醸造もこれで出来たのだと。当時の主食はパンとビール。まだ貨幣が広く使われていなかったこの時代、労働者たちは仕事の報酬として食べ物を受け取っていたのだと。そしてナイル川で採れた魚や良質な牛肉も。あの最古のパピルスにも、労働者にパンやビールが配られていたことが記録されていると。労働者たちがこれほど良いものを食べていたことは大きな発見。当時の支配層は重労働をしている者たちに炭水化物とタンパク質を豊富に与えていた。つまりパンと肉が労働者に十分に供給され満足いく報酬が保証されていたのだと。そして次に④大ピラミッドはなぜあの形なのか?史上最大そして最も完璧と言われるクフ王の大ピラミッド。なぜこの巨石建造物は、誰もが知るこの形に築かれたのでしょうか?解き明かす鍵は、世にも奇妙な形をしたピラミッドにあったと。それは大ピラミッドから南東25kmの場所にある「屈折ピラミッド」。よく見てみると、斜面が途中で角度を変えて折れ曲がっている。他のものとは異なる一風かわった空気を漂わせるピラミッド。造ったのはクフ王の父「スネフェル」という古代エジプト王。実はこの「スネフェル王」こそピラミッド建造プロジェクトを積極的に推し進めた人物であったのだと。5000年前に国が出来上がりまだ争いや内戦が起こり国が纏まっていない中、初めて国として纏まったのが古王国時代の第4王朝時代。「スネフェル王」は国を興した勢いで宮殿の建設や他国への軍事遠征を行った。そして古代エジプトという国家にピラミッド建造という大改革を巻き起こした。人類の中でみても、国の力というものを初めて使えるようになったのがこの時代。国の力こそこのピラミッド建造、すなわち支配者である王の墓の建造に力を入れたのだと。それまで古代エジプトにおいて主流だったのは「マスタバ」という墓であった。アラビア語でベンチを意味する台形型の「マスタバ」は日干しレンガなどを積み上げて造った。遺体を納める埋葬室は地下に造られていたのだ。しかし「スネフェル」は、この墓造りに革命をもたらした。その背景には古代エジプトで最も偉大な神と崇められた「太陽神」の存在があったと。支配者の力というのが、人類史の中では初めてであったが、最も神に近づいた時代であったと。この時代から墓の位置がこれまで地面の中に埋められていたのが、この「太陽神」に近づくために次第に地面より上に埋葬室が移動していった。自らのことを「ネフェル・ネチェル(よき神)」と呼ばせ、現人神である王のために、このような巨大な墓・ピラミッドを造らせたのだと。太陽を神として崇拝していた「スネフェル」が生涯に建造させたピラミッドの数は4基に及ぶと。少しでもその高みに近づこうとして地下にあった埋葬室は地上に移され、ピラミッドの形は変貌を遂げて行ったのだ。「崩れピラミッド」「赤ピラミッド」しかし、それは複雑で緻密な計算を必要とする大工事、天高く真っ直ぐ聳える形が造られるまで何度も挑戦を続けて行ったのだと。斜面が折れ曲がった屈折ピラミッドも高く作る技術が足りず途中で諦めたものだと。やがて高さ、角度、石の数など幾多の試行錯誤の末に、安定した形として最も合理的である完全な四角錐の形になったのだ。こうして歴史の上に誕生した究極のピラミッドこそクフ王の築いた大ピラミッドであったのだ。しかし王の想いだけが究極のピラミッドを生んだわけではなかったと。ピラミッドは仰ぎ見る古代エジプト人にとっても特別な感情を呼び起こすものであった。それはいったい何故なのか?物語はピラミッドが現在とは全く違う景色を見せていた時代に遡る。鍵となるのは世界最長の河・ナイル川。全長6700kmに及ぶアフリカ大陸の母なる大河。古代エジプト文明はおよそ5000年前にこのナイル河を中心に誕生したのだ。一見するといかにも穏やかなナイル河。実は20世紀初頭に上流のダムが建設されるまで、1年に一度夏の時期に水嵩を増し、そのたびに洪水を引き起こして来た。乾いた土地にナイルは肥沃な土壌をもたらしたのであった。すべてはまさに「ナイルの賜物」であったのだ。そんな考えは毎年繰り返されるナイル河の反乱によって人々の心に植え付けられて行ったのだ。水から生まれたこの世界、その中で生命の現れを意味する存在として形造られたものこそピラミッドであったのだ。豊かさをもたらすナイルの水、そこから現れたかのようなピラミッド。古代エジプトの人々に流れる世界観を表すものだと考えられる。ナイルに暮らす人々の想いをエネルギーに変えて、王たちはピラミッド建造を推し進めて行ったのだと。天に向かって聳え立つその姿は、4500年経った今も古代エジプト文明の力強さを示し続けているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.11
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1月5日の夜、NHK総合において、世界の考古学者を驚かせた「最古のパピルス」を手掛かりに、ピラミッドの謎に迫る「完全解剖!大ピラミッド七つの謎」を再放送していたので、これを録画し楽しんだので、全てテレビ映像からの写真を引用・掲載させて頂きその内容を紹介いたします。圧倒的な存在感を誇るクフ王のピラミッド誕生の秘密、巨石を積み上げる驚異のテクノロジーなどを考古学者・河江肖剰氏を案内人に登場させて紹介。さらに、幻の古代都市ピラミッドタウンの発掘最前線、ピラミッドがカギを握る社会の大激動、権力者の野望と愛憎が渦巻く下剋上ドラマなど、世界遺産ピラミッドに秘められた謎と歴史ロマンに迫る番組だったのです。世界遺産「三大ピラミッド」は、エジプト、ギザの砂漠にある、3基のピラミッドの総称。英語ではGiza pyramid complex(ギザのピラミッド群)と呼ばれる。隣接するスフィンクスとともに、エジプトを象徴するイメージとなっている。造営時期は現在より約4500年前の、紀元前2500年頃とされ、いずれもエジプト第4王朝に建設されている。古代エジプト王国のファラオの墓陵であり、被葬者の名をとって写真手前からクフ王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、メンカウラー王のピラミッドと呼ばれているのである。私がこの地を訪ねたのは、40年以上前であっただろうか。クフ王のピラミッドの頂上に上っている人の姿が。後ろにカフラ王のピラミッドが見える。1864(元治元)年にピラミッドを見物し、スフィンクス前で写真に納まった遣欧使節団の武士たちの姿。随行員の手記に「三角山に登山、入窟の者もあり。この山何の故に作りしやと問うに、仏の為という。山後に又二山あり。その下に石首あり。石首の下に本朝人列立して写真をとる」とあるのだと。今、最新の発掘調査で大ピラミッドの全貌を解き明かす新発見が相次いでいると。再び三大ピラミッドを反対方向から。写真手前からメンカウラー王のピラミッド、カフラー王のピラミッド、クフ王のピラミッド。クフ王のピラミッドを上空から。そして番組タイトル「完全解剖! 大ピラミッド 七つの謎」。およそ4500年前に築かれた巨石建造物・三大ピラミッド。クフ王のピラミッドは三大ピラミッドの中で最大で、高さ146.6m(現在の高さ138.8m)である。クフのピラミッドの底辺の長さは約230m。カフラー王のピラミッド。三大ピラミッドのうち中央に位置する。高さはおよそ136メートル(頂上部分が一部崩れているため、創建当時より低くなっている)。頂上付近に創建当時の化粧石が一部残っている。見かけ上、三大ピラミッドの中でもっとも高いように見えるが、それはカフラー王のピラミッドが立っている岩盤が、クフ王のそれに比べてやや高くなっているためで、実際はクフ王のピラミッドの方が高い。メンカウラー王のピラミッド。三大ピラミッドの中ではもっとも小さい。高さおよそ65メートル。ただしピラミッド複合体の規模としては、ほかの2つのピラミッドに劣らない規模を備えている。ピラミッドの南側には、3基の王妃たちの小さなピラミッドが東西に並んでいる。参道も存在し、東へと延びている。北面には大きな傷跡が残るが、これはピラミッドを破壊しようとしたものが破壊できずに終わったものの名残であるという。クフ王のピラミッドの内部紹介。奥へと巨大な空間が延びている。高さ8m、全長47m、これは大回廊と呼ばれている通路。壁面が7cmずつ内側にせり出すことで重力を分散している。大回廊を登り切ると、その奥に現れるのは地上50mに位置する「王の間」。棺の様なものが置かれているが、中身はカラッポ。クフ王のミイラは未だ見つかっていないのだ。現代の土木技術から考えても驚異的な精度で築かれた大ピラミッド。設計図などの記録は今尚発見されておらず多くの謎で満ちているのだ。そして7つの謎のスタート。①どのようにして巨石を積み上げたか?数々の巨石建造物を残した古代エジプト文明。ピラミッドに使われている石の重さは平均2.5トン。最大のものはおよそ60トン、アフリカ像7頭の重さに匹敵する。建造当時は車もクレーンもない時代、いったいどのようにして巨石を積み上げたのであろうか。その方法を巡って今まで様々な説がとなえられて来たと。1.滑車引き上げ説、しかしこの時代滑車はまだ発明されていなかった。2.担ぎ上げ説、木材の上に石を載せてお神輿のように担ぎ上げる方法。しかし持ち上げに失敗すると、石材が下に落ちて来て非常に危険。それでは実際に行われた積み上げの方法とはどの様なものであったのだろうか。その謎を解く手掛かりは以外なところにあると、それが未完成のピラミッド。クフ王と同時代に建てられた墓には、傾斜路が残っているのだと。墓から延びていたのは傾斜路という坂道。この傾斜路こそがピラミッド構築に欠かせないものであったと。しかし大ピラミッド建造に使われた傾斜路がどの様な形をしていたのか今尚様々な議論が続いているのだと。これまで考えられて来たのは大きく3種類。1.らせん型傾斜路2.ジグザグ型傾斜路3.直線型傾斜路その中で最有力なのが3.直線型傾斜路であると。しかし一つ問題なのが、直線型傾斜路であるレベルまで行った事は解るがそれ以上延ばしていくと角度の問題が発生することが避けられない。よってその後にどのような方法が用いられたかが大きな議論になっていると。傾斜路が延びて行くと、ピラミッドを作る以外にも傾斜路を作る為の大量の土砂と膨大な時間が必要となって来る。傾斜路の角度を急にしても、今度は巨石を引き上げる途方も無い力が必要となるのだ。2018年、その手掛かりとなる大きな発見があったと。エジプト中部の砂漠で進む採石場の発掘調査で、急勾配の傾斜路で路面にいくつもの同じ穴が見つかったのだ。この人が入り込める程の大きな穴。穴に柱が立っていて、この柱にロープをかけて様々な場所から引っ張ったのだと。複数のチームが入れ替わりながら巨石を上へ上へと引き上げて行ったと。この柱の利用により傾斜角12度を超えても引き上げが可能となったのだと。巨石の後ろにいても引き上げが可能な土木システムなのであったと。古代エジプト人は傾斜路利用の「マスター」であり、傾斜路と柱を様々な形で工夫しながら大ピラミッドを建設して行ったことが解りつつあるのだと。②どのくらい時間がかかったのか?大ピラミッドの建造は王の即位とともに始まったことは解っていたと。では完成までにどのくらいの時間がかかったのか。最も有名なのは紀元前5世紀、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが唱えた説。「10万人の人間を使い、20年の歳月を要した」と。20世紀にはエドガー・ケイシーによる「建造期間 100年」説も。この謎に迫る資料が遠く離れた場所で見つかったのだと。大ピラミッドから南東に約200km、紅海沿岸の遺跡・ワディエル=ジャラフ。ここはピラミッドが造られた時代の港であったと。今周辺で遺跡が続々と発見されて注目されている場所である。2013年、この2つの岩の間でとんでもない発見が。見つけたものは1000にも及ぶ細かい紙の破片。エジプト最古の「パピルス」であったと。21世紀最大の発見と称されたほどの、エジプト文明の謎に迫る極めて重要な発掘。書かれていたのはクフ王のピラミッドを表す古代の言葉「アケト・クフ」。そいて大量の細かい紙の破片「パピルス」のジグソーパズルが今も行われていると。この最古のパピルスにはクフ王のピラミッドを建造したチームの記録があると解ったと。「メレル」という人物の存在も。最古のパピルスにはメレルが書き残した日々の作業記録、いわばメレルの日誌があったのだと。メレルは中級の役人で、40名のチームを束ね王に関わる物資の運搬を担当、よって大ピラミッド建造に携わっていた監督で重要な役割を担っていたと。そしてメレルの日誌の中に、大ピラミッドの建造日数を解明するヒントが残されていたと。メレルの日誌にはトゥーラという採石場の記録も。メレルはピラミッドの建造現場と採石場や港など各地を日々移動していたのだと。メレルの自筆に因る生々しい記録。そしてメレルの記録には大ピラミッドの建造期間に迫る2つの重要な手がかりとなる記載も残されていたと。メレルが訪ねた採石場トゥーラは、白くて良質な石灰岩の産地であったのだ。これがピラミッドを覆う化粧板に使われたのだと。もともとピラミッドは滑らかな化粧板で表面全体が覆われ、太陽の下で白く輝く存在であった。化粧板はピラミット建造の最後の仕上げとして使われたのだ。その産地であるトゥーラをメレルが訪ねていたことは、大ピラミッド建設が最後の工程に入ったことを示唆していると。ピラミッドの建造は通常、王の即位とともに始まる。それから何年後に仕上げに入ったかが判れば、大凡の建造期間が判明するのではと。そこで重要になるのが2つ目の手掛かり。クフ王の下で13回目の家畜調査が行われたとパピルスに記述があったと。当時エジプトでは、税金を決めるため家畜の頭数を数える調査が2年に一度行われていたのだと。よってクフ王が即位して26年目かその翌年に大ピラミッドは化粧板で表面を多い完成を迎えたと推測できるのだと。これまでベールに包まれて来た大ピラミッドの建造期間が、監督メレルの残したパピルスによって遂にその謎が明らかになったのだと。 ・・・つづく・・・
2021.01.10
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「長生院」から下ってきた坂道を振り返る。「稲葉家基碑と隅切三(すみきりさん)」 時宗の宗紋は、「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」。これは一遍上人が出られた伊予の河野氏の家紋から採られた。稲葉家の家紋は、「折敷に三文字紋」、時宗の宗紋と同じ。寛永4年(1627)、稲葉正成公が真岡二万石の城主となった。正成公は、この偶然に驚いた。この「折敷に三文字紋」は、瀬戸内海の大三島に鎮座する三島神社(大山祇神社とも称される)の神紋であり、大三島大明神を氏神とした越智氏の家紋となった。そして、越智氏から分かれた一族も又、「折敷に三文字紋」を家紋とした。著名なものとしては鎌倉期に河野水軍を率いて瀬戸内海を治めた河野氏、戦国期に活躍した稲葉氏、来留島氏などがあげらる。稲葉氏と一遍上人が出自した河野氏は、活躍した時代は違えども伊予越智氏から分かれた一族であり、それぞれ歴史上に名を残す人物を輩出している。正成公は、「折敷に三文字紋」が証する稲葉家と宗祖一編上人を仰ぐ時宗との縁を大切にしたとのこと。そして「永代供養塔」と「本堂」も振り返る。「俣野大権現」「俣野大権現時宗総本山清浄光寺(遊行寺)は正中二年(一三二五)に遊行第四代呑海上人によって創建されました遊行寺は呑海上人の実兄に当る地頭俣野五郎影平公が大檀越となって広大な敷地と大殿堂を寄進され総本山としての基礎を創られたものであります。影平公は貞和年中(一三四五-四九)に没しておりますが後に俣野大権現として山内に祀られ今日に至っております」そして「酒井忠重五輪塔」。「酒井忠重五輪塔万日堂、六地蔵の寄進者酒井長門守忠重(一五九八~一六六六)の墓所である。酒井忠重 は、下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げたため、生前からの関係からこの地に葬られたようである。」「酒井忠重逆修六地蔵供養塔」「酒井忠重逆修六地蔵供養塔酒井長門守忠重が萬治三年(一六六〇)一月十五日に逆修のために建立した六地蔵である。この付近には、古く塔頭海潮庵があり、万日堂(常念仏堂)建立のために浄財を寄進したのが酒井長門守忠重であった。この万日堂(常念仏堂)は、酒井忠重の戒名である「光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士」に因んで「光岳院」と呼ばれていた。」「逆修」とは生前に、自分の死後の冥福 (めいふく) のために仏事をすること。予修 (よしゅ) 、逆善、逆修善とも言うと。「酒井忠重逆修六地蔵供養塔」の後ろにあった石仏。そして「諏訪神社 神輿殿」。内部に諏訪神社の神輿が二基。屋根に竜の神輿(左)と屋根に鳳凰の神輿(右)左の神輿は明治の終わりから大正の頃に茅ケ崎市下寺尾から譲渡された神輿であると。明治11年頃の二宮梅澤流の製作神輿で当時、下寺尾諏訪神社の境内八坂神社として祀られていたと。そして右の神輿は平塚から譲られた神輿との言い伝えが有り、管理人の調査では平塚市真土から譲渡された神輿(明治20年、愛川町半原大工矢内右兵衛藤原高光の製作神輿で真土神社の境内八坂神社として祀られていた。)の可能性があるのだと。 時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の東門脇に建つ「小栗判官墓所入口」の石柱。石柱の先に、墓所のある長生院への小路が続いているのであった。旧東海道の遊行寺坂側の東側入口。そして旧東海道の反対側には「諏訪神社」👈リンク が。遊行寺境内の駐車場旧東海道側にある石碑群。右から「蓄霊供養塔」。「戦没者供養塔」遊行七十代一求(いちぐ)上人による戦没者慰霊名号碑と同時に、藤沢市戦没者の会によって、供養塔が東門の左側「敵御方供養塔」の側に建立されている。碑には「倶會一處(くえいっしょ) 戦没者供養塔 遊行七十世他阿一求書」とある。趣旨は戦没者慰霊名号碑と同様である。「倶會一処」とは、極楽では多くのもっとも善き者と共に一つの所にいるという意味であると。「藤沢敵味方供養塔」。「国指定史跡 大正十五年(一九ニ六)十月一一十日指定藤沢敵御方供養 総高一四九.五センチメートル 安山岩製この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永ニ十五年(一四一八)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、磨滅していて読みとにくいのですが、次のように解読・解駅されています。南無阿弥陀佛自應廿三年十月六日兵乱至同廿四年於在々所々敵御方為箭刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日応永ニ十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同ニ十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢).刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過きる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(一五九九)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(数)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んています。」そして東側からの参道沿右側にあったのが「鈴木貫介の歌碑」。「もののあわれも知らさりし 少年にてこのみ寺の 小野小町の歌を読みしか」鈴木貫介は、国府津に住み、川田順に師事した歌人。「一遍上人像」の裏にあったのが「清水浩の句碑」「春愁と いふ傘さして ひとりかな 浩」。一遍上人の”花の事は花に聞け、雲のことは雲に聞け、私は知らない”という有名な言葉があるが、その教えに応える”春愁に落ちて孤独に悩んでも、人の助けを借りずに自分で自分を見詰め直しなさい”ということを俳句にしたもののようだ。奇しくも一遍上人像のすぐ後ろに建てられたことに何か強い想いが感じられるのであった。そして境内を時計回りに完全に?1周し散策を終えたのであった。正面に「遊行茶屋」。トイレ・休憩所に立ち寄る。藤棚。5月になれば。 【http://www.jishu.or.jp/hana-migoro】より遊行寺の境内は何度となく散策したが、本堂の裏までゆっくりと散策することは今回が初めてなのであった。完全制覇の残りは「遊行寺宝物館」と「小書院の前の菖蒲園」であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2021.01.09
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そして「歴代上人の墓」に向かって石段を上る。墓所への石段の上に「回向堂(えこうどう)」があった。宝珠を乗せた宝形造銅板葺の屋根が印象的。本堂裏の墓地。墓地の奥にあった「藤堂彦子の墓」。「藤堂彦子の墓筑前国秋月藩主黒田長興と佐竹氏の娘であり、伊勢国久居藩主藤堂高通の正室である。遊行四十二代他阿尊任上人との親交により、当山に埋葬されている。」「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四」。「美術工芸家 藤井 達吉の墓 一八八一~一九六四愛知県出身。近代工芸の革新を志した人物。戦後は愛知県で和紙工芸を振興した。遊行七十一代他阿隆宝上人との親交によりこの地に眠る。ニ〇〇八年に碧南市藤井達吉現代美術館が開館した。」「歴代上人御廟所」案内板に従い進む。「歴代上人御廟所」が石段の上に。中央正面に開山塔、左右に歴代上人の墓塔が。徳川以前のものは多く宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、それが整然と並んでいた。中央正面の「開山塔」。4代遊行上人、藤沢山遊行寺開山の呑海上人と他歴代7人の墓碑。右側の宝篋印塔(ほうきょういんとう)群。その奥に「長生院」の「小栗堂」が見えた。左側の宝篋印塔群。「歴代上人御廟所」を振り返る。更に奥から。そして「長生院」、「小栗判官墓所」に向かう。そして時宗総本山である「清浄光寺(通称:遊行寺)」本堂裏手にある「長生院」入口に到着。「市指定重要文化財(建造物) 時宗板碑二基板碑は、鎌倉時代初めの嘉禄(一ニニ五)頃から、近世初頭の天正・文禄(一五七三~一五九五)頃までの間に流行した卒塔婆の一種である。時宗板碑には「南嘸阿弥陀佛」の名号を刻みつけたものが多いが、その名号には、楷書体のものと行、草書体のニ糸統がみられる。長生院の板脾は、緑泥片岩でつくられた武蔵型板碑である。長方形の板状の頂部を山形にし、その下にニ条の切り込み作る。身部には楷書体でつぎのような銘文がきざまれている。南無阿弥陀佛 延文元年 経阿弥陀佛 十ニ月三日南無阿弥陀佛 本阿弥陀佛百ヶ日為 永和三年巳丁十月十七日延文元年は一三五六年、永和三年は一三七七年にあてられている。このニ基の版碑は、江戸時代末に遊行寺境内から発掘された。」「昭和41年(1966)1月17日指定/総高112.0㎝の延文元年(1356)12月3日銘と、下部欠損の永和3年(1377)10月17日銘の、2基の板碑です。板碑とは鎌倉時代から戦国時代に至る約400年間に流行した卒塔婆(そとば)の一種で、2基はいずれも緑泥片岩製の武蔵型板碑です。時宗の板碑には「南無阿弥陀仏」の名号を刻みつけたものが多く、楷書体のものと行・草書体の2系統がみられ、この2基は楷書体で刻まれています。2基とも南北朝時代のもので、江戸末期に時宗総本山清浄光寺(遊行寺)北方の畑から発掘されました。」【http://www.fujisawa-miyu.net/search/result.html?CN=2272】より「藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造阿弥陀如来坐像当院の本尊である本像は、平安時代後期の作と推定され、市内屈指の古仏である。像高は、五ニ.五cmで、上品下生印を結ぶ典型的な定朝様の尊像である。定朝様は、大仏師定朝が完成した公家好みの様式で、宇治平等院鳳凰堂本尊を代表作とする。構造は、桧材の寄せ木造りで、目は彫眼、頭の螺髪は彫出されている。木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ更に前後に割り矧いでいる。尊顔は穏やかで、尊体の抑揚少なく、彫技は浅く整えられている。頭と躰そして組んだ両足の微妙な均衡、穏やかさと強さの調和に鎌倉期の足音を感ずる。」「木造阿弥陀如来坐像」「平成8年(1996)3月1日指定/像高52.5cm、臂張:30.7cm、膝奥28.3cm、頭長18.8cm、膝張40.0cm、腹厚16.3cm、檜材寄木造、彫眼/長生院の本尊です。螺髪は彫出、木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ、更に前後に割り矧いでいます。頭部や面部は丸みを帯び、面相は穏やか、体部はゆったりとしていますが胸は薄く衣文の彫りは浅く整えられています、定朝様の作風が窺われ、平安後期、12世紀の作と推定される市内屈指の古仏です。」【http://www.fujisawa-miyu.net/search/result.html?CN=2294】より境内入口左の「知恵地蔵菩薩像」。「長生院」。永享元年(1429年)、清浄光寺の塔頭として建てられた。本尊は阿弥陀如来。かつては「長照院」とも表記された。「小栗堂」。寺伝によれば正長元年(1428)頃に照手姫は太空(たいくう)上人の弟子となり、剃髪受戒(ていはつじゅかい)をうけて長生尼と号しました。永享元年(1429)に閻魔堂(えんまどう)のかたわらに草庵を結んでこの処に住まわれたことにより閻魔堂を長生院(ちょうしょういん)と改称して遊行寺の支院となりました。開山は太空上人であり、天正の頃に類焼し、元和年中に再興されています。また年月不詳ですが、享和の頃に復興したといわれています。明治13年11月26日夜の大火によって類焼し直後に仮建築を行い、大正5年に本堂・庫裏を建築、大正12年9月の大震災には後の山が崩れその土砂に圧倒され、庫裏は全壊、本堂は半壊の状態でした。そして同15年2月5日に起工し同7月18日に竣工(しゅんこう)しています。現在の本堂は平成3年に落成したもの。扁額「小栗堂」。「小栗判官墓所入口」案内板。「小栗判官墓所入口門」。「南無阿弥陀佛」と刻まれた大きな石碑。「(伝)小栗十四代城主・小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓由来について」案内板。案内板を抜粋すると常盤の国(茨城県)の小栗地方を統治していた14代城主・小栗孫五郎平満重(小栗判官満重)は、室町時代の応永30(1423)年8月2日、関東公方足利持氏との激戦に奮戦 拙つたなく破れ小栗城は城落した。この城落により満重はその子助重と十勇家臣と共に、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ちのびる途中、相州藤沢辺の悪党横山大善の館(横浜市戸塚区東俣野)で、歓待酒宴で毒をもられ,家臣10名は毒殺され哀れにも上野ヶ原 (藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺 (藤沢市)8 世・(遊行14代)他阿太空上人のご光配によって、藤沢山境内に手厚く埋葬されたという。 満重は、酌女から酒に毒がもられていることを耳打ちされ、厠に行くふりおして、さりげなく酒宴の座を立ち外に出、名馬鬼鹿毛に跨り藤沢めざして駆け去り、難を逃れたという。息子の助重もまた、幸運にも酌女の助けで大難を逃れ、九死に一生を得たといわれている。 父満重の死去(応永33年 3 月16日)後、助重は、十余年を経た嘉吉元(1441)年の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復し、小栗15代城主に就いた。 助重は毒殺という非業の死をとげた十勇家臣の菩を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝謝恩の供養をもって父満重と家臣の墓石を八徳池のほとりに営んだという。 なお、悪党による酒宴で酒に毒がもられていることを耳打ちした酌女の名 は、「照手」と呼ばれ、後に小栗判官満重が探し出し、褒美として宝物を与え たという謂れがある。だが、酌女の「照手」と先述した千光寺の観世音の巧徳で2度も命を救われた「照手姫」とが同一人物であるか否かについてはここでは言及できない と。「照手姫の墓」。「長生院」の「歴代和尚之墓」。こちらもやはり宝篋印塔。「歴代和尚之墓」と刻まれた石碑。「名馬 鬼鹿毛(おにかげ)之墓」。小栗主従墳墓の脇には、満重が酒宴で難を逃れるために騎乗した「名馬 鬼鹿毛之墓」が。「厄除地蔵尊」。照手姫の五輪塔の墓石の前に佇む、照手姫が 建立した 3 体の厄除地蔵尊。地蔵尊は、お釈様亡き後、この世の人々を救ってく れる仏様といわれ、道中安全の祈願のために詣でる人たちで賑わうという。照手姫自らが遭遇した道中での災難などの厄除祈願のために建立されたのかもしれないと。 「照手姫 厄除地蔵尊」案内板。「(伝)小栗十四代城主小栗満重と十勇家臣の墓」案内柱。「小栗判官公並に十勇士の墓」。墓の後ろに見事なサルスベリ・百日紅の木が。ズームして。「小栗判官公並に十勇士の墓」案内板。更に墓碑に近づいて。中央部の背高い小栗判官満重の墓石の両側には、それぞれ 5 基の石塔が並 び、「小栗十四代城主 小栗満重公と十勇家臣の墓」と銘記されていた。「十勇士の墓」(左)。「十勇士の墓」(右)。「小栗判官眼洗之池」。小栗主従墳墓に向かい右側には「小栗判官眼洗之池」と銘記した案内板 が建っており、透明度の高い清水を湛えた小池の中には観音菩が祀られてい た。小池に纏わる逸話などは記されておらず,謂れなどについて は窺い知れないが、往古の八徳池を再現したものなのか、あるいは小栗判官満 重が十勇家臣の弔い・墓参の際、悲涙に濡れた顔面を洗眼した池だったのか、あるいは息子の助重が父満重や十勇家臣の墓参に際し、心身を清める禊の聖水 として使用した池であったのかなどと・・・・。池の中には小さな石仏も。「小栗判官眼洗之池」案内板。石灯籠と手前に「水琴窟」👈リンク と書かれた案内板があった。「小栗堂」を奥から見る。「長生院」からの下り坂を進んでいくと左手にあった石碑には「仁」の大きな文字が。「回向院」の全貌を再び見る。そして次に訪ねたのが、長生院からの緩い坂を下り、左側の墓地に入ると堀田氏の供養塔があった。江戸時代末期諸外国の要求による開国問題(1854年締結の日米和親条約(対交渉役はマシュー ペリー)により開国し下田、函館を開港した後、1858年に締結した日米修好通商条約の前半の幕府側交渉役が外国事務取扱に任ぜられた老中堀田 正睦(対交渉役はタウンゼント ハリス)であった。その後大老に井伊 直弼が就くと意見対立から老中失脚し幕府役職を辞した。ただし自らの辞職というのではなく、直弼派の圧力による蟄居処分だった。つまりは歴史的には修好通商条約の締結決断をしたのは直弼だったため、美味しいところを直弼に取られた老中です。)などの幕政に対応した老中であるが、大老井伊 直弼と対立し、老中を辞して自領に戻り藩政改革に尽力した5代下総佐倉藩主堀田 正睦に至る家系の、安土桃山~江戸初期の堀田氏の中の正俊系を生んだ創家家系です。四基の供養塔が並ぶ。「堀田 正盛 妻 阿栗 供養塔」。「正統院殿華岳宗栄大姉」「堀田 正盛 妻 阿栗 供養塔堀田 正盛の妻 阿栗(一六一七~一六七四) 酒井忠勝の娘。墓所は東京都品川区東海寺・台東区上野現龍院 この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」。「堀田 正盛 供養塔」。「玄性院殿心隠宗卜大居士」「堀田 正盛 供養塔堀田 正盛 (一六〇九~一六五一)老中筆頭 従四位下 武蔵川越 藩主下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。堀田正利の長男で母は稲葉正成の娘。正室は酒井忠勝の娘阿栗。子に長男堀田正信、次男播磨龍野藩主脇坂安政、三男大老古賀藩主堀田正俊、四男北條藩主堀田正英等がいる。春日局との関係から三代将軍徳川家光の信頼を得て、寛永十二年(一六三五)老中に就任、さらに寛永十九年(一六四ニ)下総佐倉藩に転封し十一万石の大大名となる。寛永四年(一六五一)徳川家光の死去にともない、阿部重次とともに殉死をとげた。墓所は東京都品川区東海寺・台東区上野現龍院。この供養塔は堀田正国、脇坂安政、堀田正俊、堀田正英が延宝九年(一六八一)に建立」。「堀田 正利妻・萬 供養塔」「活生院殿東弌房」「堀田 正利妻・萬 供養塔堀田 正利妻の諱萬(一五八七~一六ニ七)稲葉正成の娘。春日局の継子。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」「堀田正利供養塔」「正成院殿覚阿弥陀佛」「堀田正利供養塔堀田正利(正吉)(一五七一—一六ニ九)旗本 堀田正秀の五男。母は浅野長一の娘。通称 勘左衛門。正室は稲葉正成の娘萬。織田信長、浅野長政、小早川隆景、小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦ののち、慶長十年(一六〇五)江戸幕府に出仕した。墓所は、東京都台東区日輪寺。この供養塔は堀田正俊が延宝五年(一六七七)に建立。」供養塔の裏側を見ると夫々顕彰碑になっているようであった。細かい漢字がぎっしりと。少し離れた場所にあった「堀田 正仲墓所」こちらは供養塔ではなく、墓石であるようだ。「常楽院殿其阿法漢映性大居士」「堀田 正仲墓所堀田正仲(一六ニニ~一六九四)徒四位下 下総古河藩ニ代藩主。出羽山形藩主、陸奥福島藩初代藩主。大老古河藩主堀田正俊の長男。母は小田原藩主稲葉正則の娘である。正仲の後継には、双子の弟である堀田正虎が継いだ。」そして「本堂」横にあったのが「永代供養塔」。「犬描慰霊碑」「犬」と「猫」が描かれた石碑。「いつくしむ」と書かれた石碑。「合妃墓」。「水子地蔵尊」。お顔をズームで。小さな石仏が後ろに並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.08
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再び「遊行寺」の「境内案内図」。「特別展 遊行寺の什宝」展が「遊行寺宝物殿」で開催中であると。「遊行寺宝物殿」。桜の枝の影が「遊行寺宝物殿」の白壁に映り込み美しく。正面から。宝物館入り口の前にある袴石(はかまいし)は、もと遊行寺橋際に建てられていた、かつての江の島詣での道者がくぐった鳥居の袴石。一般に江の島一の鳥居とよばれ、最初に建てられたのは明和6年(1769)頃で、寄進者は江戸麹町の秩父屋孫七です。のちに朽ちたが再度建てられ、明治13年(1880)の大川屋火事で焼失したが、その翌年14年4月に三代目として建立されましたが、しかしこの鳥居は藤沢駅通り拡張工事にともなって取り除かれた。この袴石はその時のものです。碑には世話人として「祠官筥崎伝尹」とあります。これが「袴石」であろうか?「明治天皇 御膳水」。明治天皇はたびたび遊行寺にお泊りになったことがあり、その時に使われた井戸であると。「御行在所日 宿泊(大書院)明治元年四月十ニ日 東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる 供奉員は西郷隆盛明治元年十月十日 明治天皇東幸の折り御宿泊行在所となる明治元年十ニ月九日 明治皇還幸の際御休息なされ遊行上人とご対面なさる (遊行五十九代尊教上人)明治ニ年十一月九日 明治天皇東幸の折り御行在所となる明治五年六月十八日 皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月三日 明治天皇・皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる明治五年八月ニ十一日 明治皇還幸の折り御宿泊行在所となる明治九年八月二十七日 皇后陛下箱根に行啓の折り御宿泊所となる明治九年十一月ニ十日 皇后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年一月十一日 皇太后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる明治十年五月ニ十一日 皇太后陛下東京に帰啓の折り御宿泊所となる明治十一年十一月八日 明治天皇北陸からの還幸の折御宿泊行在所となる 供奉員は右大臣岩倉具視・参議大隈重信 井上馨・内務省大書記官品川弥ニ郎・宮内省大書記官山岡鉄太郎(鐵舟)等 五十名明治三十四年十一月三日 東宮殿下(大正天皇)鎌倉御用邸より来山、 上人と御対面なさる(六十一代尊覚上人)明治天皇が度々この遊行寺を訪ね宿泊していることを知ったのであった。次に「黒門」、「中雀門」を訪ねる。まずは「中雀門」。中雀門は安政6年(1859)に紀伊大納言徳川治宝が寄進、建立された。四脚門で、高さ約6メートル、幅約2メートル70センチ。「中雀門」は向唐門造りで、勅使門として使われていたので正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋が。下り棟鬼瓦には徳川家の葵紋も刻まれていた。「中雀門」の見事な彫刻を追う。「中雀門」の精緻で素晴らしい鳳凰など鳥の彫刻群。そして内側からの彫刻。ズームして。「中雀門安政六年(一八五九)に紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)が寄進、建立されました。清浄光寺はたびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治十三年(一八八〇)の藤沢宿大火の際にも焼失を免れた境内現存最古の建物です。大正十ニ年(一九ニ三)の関東大地震で倒壊したものを、引き起こして補修し、今に至っています。向唐門(むこうからもん)造りで、高さ約6.4m、幅は約2.7m(左右柱間内寸)です。正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれています。勅使門としは閉門していますが、現在は遊行上人が出立帰山する時や、開山忌行列等の諸行事に合わせて開門されています。」「中雀門」の右隅にあった大王松は「三宝の松」と呼ばれ親しまれていると。人気の訳は手のひらより大きい松ぼっくりと長い葉。長い3本の松葉は大変珍しく、お守りとして持ち帰る方もたくさんいるのだと。また数年かけて実ることもある巨大な松ぼっくりは、落ちているのを見つけるだけでも非常に幸運であると。ちなみに三宝とは「仏・法・僧」のことであると。大王松の長い葉。左側が藤嶺学園藤沢中学校・高等学校の校門。藤嶺学園の前身は時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の僧侶養成機関「時宗宗学林」です。「時宗」は鎌倉時代、念仏と遊行に徹し、捨聖と呼ばれた一遍上人の開いたものです。本校はその教えを根本とし、宗教的情操豊かな人格の涵養をめざし、1915年(大正4年)に財団法人藤嶺中学校として創立されました。今年で100周年を迎えた歴史と伝統を誇る学校。「黒門」。「時宗総本山 寺務所」と書かれた札が掲げられていた。古図によれば遊行寺の黒門であって、現在は「惣門」を黒門と称しているが、これは明治以降のことであると。しかし、この日は黒門ではなく白門であったが・・・。その奥にある「御番方(ごばんかた)」は行事等の正式な玄関として使用されている。「遊行寺」の受付は近侍司寮(ごんじしりょう)と呼び、信徒・団参の方々は、この「御番方」と呼ばれる入口から入るのだと。この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われている。左側に玄関・寺務所入り口。以前ここで御朱印を頂いたのであった。「御番方(ごばんかた)」の玄関にあった「このお寺の宗旨」。名 称 : 時宗 (じしゅう)宗 祖 : 証誠大師 一遍上人(智真)(しょうじょうだいし いっぺんしょうにん(ちしん))開 宗 : 文永11年(1274)総本山 : 清浄光寺(遊行寺)( しょうじょうこうじ(ゆぎょうじ))- 神奈川県藤沢市<本 尊 : 阿弥陀仏(阿弥陀如来)(あみだぶつ(あみだにょらい))称 名 : 南無阿弥陀仏教 義: 大慈悲の阿弥陀仏に帰命(おまかせ)すただ今のお念が一番大事なことですが 家業につとめはげみ、むつみあって、ただ今の一瞬が充たされるなら、人の世は正しく 生かされても明るさを増し皆倶に健やかに長寿を保つことになります。 浄土へ道はそこに開かれるとする教えです。経 典: 「無量寿経(むりょうじゅきょう)」・「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」 「阿弥陀経(あみだきょう)」)・「六時礼讃(ろくじらいさん)」などの経典を 読誦致します。左から寺務所、御番方、信徒会館。信徒会館を見る。「放生池」越しに「信徒会館」そして「太鼓堂」を見る。「放生池」。「放生池」の中に立つ「聖観世音菩薩像」。「聖観世音菩薩」と刻まれた石碑。「この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄七年十月の日記によれば、金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かっ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべしと記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿一を保っとされている。」「魚鱗甲貝供養塔」。犬や猫の供養塔はよく見るが魚類、貝類は珍しいのでは。「河野静雲の句碑」。「放生池」の池畔に昭和44年4月27日に建立されたこの句碑は、高浜虚子門下の時宗の僧である河野静雲の句碑である。「生きていて 相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌 静雲」「静雲」と刻まれた石碑。「静雲先生は、高浜虚子門下の〇〇太宰府佛心寺○句集○○あり時宗々門有縁諸大徳○晴雲先生主宰の冬野句友、並びに俳句○の協賛のもとにこの句碑を建立し先生の業績を永く、藤嶺〇〇顕彰す」と説明文が刻まれていた。「御番方」を別の角度から。「黒門」から出て「鐘楼」、「本堂」を見る。鐘楼に脇には、左側に「円意居士」と右側に「中里 理安・理益」の墓があった。「円意居士」墓。「円意居士」は江戸鍛冶橋の小林宗兵衛の父で、浅草日輪寺にあった宗学林の建物にあたって、金500両を寄進し、また月供料として15両も施している大施主です。また、『一遍上人語録』の刊行にあたっての施主としても知られた人物。この本宗の篤信に対して建てられたものがこの供養塔。自然石を二個積み重ねたような碑は、円意居士の人柄そのままのようです。「中里 理安・理益」の墓碑。小田原北条氏によって持ち去られた梵鐘は当町大鋸の住人、中里八郎左衛門理安によって、梵鐘は無事取り戻すことができたのである。寺では遊行三十五代法爾(ほうに)上人いらい『遊行藤沢両御歴代霊簿』の裏に、代々の上人の自筆でこの功績を讃えることばと一族の戒名を載せるのが例となった。そのため遺骸も鐘の近所に埋葬されました。現在鐘楼の前には理安の墓と、その子理益の墓碑があります。「南無阿弥陀佛」碑。「中里 理安・理益」の墓碑。「開運招福弁財天 宇賀神 入口」「遊行寺の宇賀神遊行寺の字賀神は、徳川家の祖先、有親公の守り本尊といわれています。有親公は、遊行十ニ代尊観法親王の弟子となり、名を徳阿弥と改めました。応永三年(一三九六)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。字賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていました。のちに、徳川幕府により神殿を奉蚋されましたが、明治十三年遊行寺が類焼にあった時に焼し、現在の神殿はのちに再建されたものであります。字賀神には戝施の意味があり、この宇賀神を供養尊信する者は、金・衣・食・住・田畑・豊穣を授かり、特に金福の徳を授かると伝えられてます。寛政六年(一七九四)十一月に当山が焼失した際に字賀神も類焼し、徳川幕府より白銀参拾枚を再建費としていただいております。」「當山檀墓地」、「歴代御廟所」と刻まれた門碑の奥の右側に「鐘楼」が。「鐘楼」。「銅鐘」。「清浄光寺銅鐘総高一六七センチ、口径九ニセンチ。鋳造は、銘文によると延文元年(一三五六)。遊行八代渡船上人の時にあたる。遊行寺開山以来、ようやく時宗が隆盛期に達した時代であった。治工は、中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人、光連と考えられる。この他の光連の遺作には伊勢原日向宝城坊の暦応三年(一三四〇)銘梵鐘、鎌倉市東慶寺蔵の観応元年(一三五〇)銘梵鐘がある。この銅鐘は、五段五列の乳の配列、上帯の飛雲文、下帯の蓮華唐草文、撞座の蓮華文などに物部様式の特徴を持つが、竜頭部や宝珠の表現にはすでに形式化がみえる。銅鐘の銘文は、藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものであり、中世の時宗の姿や遊行寺を有する当時の藤沢の様子をつたえる貴重な史料である。この銅鐘は、永正十年(一五一三)に後北条氏によって小田原へ持ち去られ、陣鐘として使用された。さらに足柄下郡の寿昌寺に移転されたが、江戸時代初めの寛永三年(一六二六)、遊行寺の檀徒の手により取り戻され、再びここに設置されたものである。」「川田順の一遍上人を讃える長唄」碑。「糞掃衣(ふんぞうえ=ぼろ布を洗ってつづり合わせて作った僧衣)すその短くくるぶしも臑(すね)もあらはにわらんちも穿(は)かぬ素足は 国々の道の長手の土を蹈(ふ)み石をふみ来て にしみたる血さえ見ゆかにいたましく頬(ほほ)こけおちて おとかひもしゃくれ尖(とが)るを眉は長く目見(まみ)の静けく たくひなき敬虔(つつしみ)をもて合せたる掌(て)のさきよりは 光さへ放つと見ゆれ伊予の国伊佐庭の山のみ湯に来て為(な)すこともなく日をかさね吾は遊ふを この郷に生まれなからもこのみ湯に浸るひまなく 西に行き東へ行きて念仏もて勧化(かんげ=仏の教えを説き、信心を 勧めること)したまふみすかたをここに残せる一遍上人 川田 順」歌碑「感傷も今宵はよろし開山忌あがないてもつ葡萄の房を 俊人」。俊人(としんど)は、明治31年8月に藤沢大阪町に生まれ、昭和51年1月13日に没しました。アララギ歌人として知られた、若山牧水に師事し「菁藻(せいそう)」「まゆみ」「創作」を主宰し、藤沢市民短歌会会長を歴任した歌人で、旧制浦和中学校・藤嶺学園藤沢高校で教鞭を執りました。「青木泰夫の句碑」。泰夫は昭和3年に生まれ、昭和63年3月11日に没しました。俳誌「波」を主宰し藤沢俳句協会会長でした。句碑には「泰夫の句風を偲ぶ人々により思い出多き此処遊行寺に最初の句碑を立てる 昭和63年9月18日」とあります。「戦後遠し 働く蟻と 迷ふ蟻 泰を」4脚の台座に載った「五重塔」。「平成三年一月吉日 仙台市真福寺中 寄進高根秀峰」と刻まれていた。「南部右馬頭茂時之墓(なんぶうまのかみしげときはか)」。南部茂時は陸奥国南部氏の十代当主。1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって、鎌倉東勝寺で北条高時一族とともに自刃した。家臣の佐藤彦五郎が遊行寺に葬ったのだと。彦五郎はその後殉死。弟信長は盛岡に茂時の菩提寺「教浄寺」を建立していると。「南部右馬頭茂時墓鎌倉幕府が滅亡した正慶(しょうぎょう)ニ年・元弘三年(一三三三)北条一族に従って戦死した南部茂時の墓と伝わる。南北朝内乱を描いた『太平記』巻十には、鎌倉東勝寺の奥・葛西ヶ谷(かさいがやつ)にこもる北条高時とともに自害した人々に南部茂時の名が記されるが、遊行寺では、茂時は敵軍を突破して当寺に至り、遊行五代安国上人より御十念(ごじゅうねん)を頂いた後、家臣とともに自害したと伝えられる。茂時墓左右にある五輪塔は家臣の墓とされる。江戸時代、南部氏は陸奥国盛岡藩の領主となり、同氏の菩提寺である時宗教浄寺(きょうじょうじ)(岩手県盛岡市北山)には茂時の供養塔が伝わる。」墓石銘文正慶ニ癸酉歳五月廿ニ日(右側面)教浄寺殿正阿清空天心大居士(正面)南部右馬頭茂時之基(左側面)「放生池」を振り返る。「百間廊下」の下を潜る。「百間廊下」は、御番方から本堂へと繋がる幅2.7m総長80mの長大な廊下。当初は側壁はなかったが、雨露を凌げる空間として活用するため今の形となったと。構造・形式:木造平屋建、桟瓦葺、切妻造り。建設の年代:昭和12年。建築面積:221.8㎡。「本堂」の屋根を横から見る。本堂の妻飾りは複雑な造りだが二重虹梁大瓶束式であると。左手は「太鼓堂」に繋がる「百間廊下」。右手は「回向院」に繋がる「百間廊下」。そして「宇賀神社」が前方に。「宇賀神社」の石鳥居。「遊行寺の宇賀神遊行寺の宇賀神は、徳川家の祖先、有親公の守り本尊といわれています。有親公は、遊行十ニ代尊観法親王の弟子となり、名を徳阿弥と改めました。応永三年(一三九六)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。宇賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていました。のちに、徳川幕府により神殿を奉納されましたが、明治十三年遊行寺が類焼にあった時に焼失し、現在の神殿はのちに再建されたものであります宇賀神には戝施の意味があり、この宇賀神を供養尊信する者は、金・衣・食・住・田畑・豊穣の福を授かり、特に金福の徳を授かると伝えらています。寛政六年(一七九四 )十一月に当山が消失した際に宇賀神も類焼し、徳川幕府より白銀参拾枚を再建費としていただいております。」「宇賀神社(登録有形文化財)」。現存の社殿は1880年(明治十三年)に再建されたもの。社殿の見事な彫刻。「木鼻」の彫刻(右)。「木鼻」の彫刻(左)。裏手の湧水でお金を洗えば金運上昇にご利益のある「銭洗い弁天」としても信仰されている。湧水が上部の石碑の裏から。「銭洗い弁天」。「銭洗い」用の多くの柄杓が置かれていた。そして多くの一円玉も。「銭洗い」用のザルも置かれていた。「宇賀神社」境内左手にあった「通暁の句碑」。「日のいりて くれぬや富士の うしろ空 通暁」通暁については藤沢の俳人ではないかといわれているとのこと。「宇賀神社」前から「大書院」を見る。そしてその右手にあるのが「信徒会館」であろうか。再び「大書院」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.07
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今年も「時宗総本山遊行寺」に初詣に立ち寄って来ました。赤い欄干の「遊行寺橋」。江戸時代に大名行列が渡ったといわれる橋で、旧東海道が境川を渡るところに架けられていた橋。擬宝珠のついた赤い欄干のこの橋は、時宗総本山遊行寺の門前の橋である。現在の橋は、昭和35年に造られたPC桁橋である。かながわの橋100選(平成2年度選定)の「遊行寺橋」。歌川広重「東海道五拾三次之内 藤沢(保永堂版)」。「製作時期:天保3年(1832)~天保4年(1833)。板元:保永堂広重には東海道の風景を描いたシリーズがいくつもあり、このシリーズは一般に板元の名から保永堂版東海道と呼ばれています。構図の良さや着眼点が受けて、広重最高傑作シリーズとして大ヒットし、以後風景画の第一人者と呼ばれるようになりました。図は藤沢宿にあった江の島一ノ鳥居を遊行寺を背景にして描いたもので、鳥居の後ろに架かる橋は大鋸橋(現遊行寺橋)です。橋の上で大きな木太刀を持った人たちは大山詣(雨降神社に太刀を奉納する)、手前、鳥居をくぐろうとしている杖をついた人たちは江の島詣(杉山検校の故事にあやかって目の不自由な人たちの参詣が盛んだった)で、藤沢宿が両地への参詣者で賑わっていたことを示しています。」と。「遊行寺橋」を渡ると、正面に「遊行寺」の「惣門」が見えて来た。右手にあるのが「ふじさわ宿交流館」。遊行寺の門前、藤沢宿の広小路と呼ばれていた場所付近にあり、ウオーキングや歴史散策の休憩に誰もが気軽に立ち寄れる施設。「ふじさわ宿交流館」。交流館前には江戸時代の高札場も再現されている。内部の「藤沢宿」のジオラマ。中央に、先程渡って来た「遊行寺橋」が。藤沢宿の地図も。藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであったと。そして「遊行寺」の「惣門(そうもん)」。その両脇には歴史を感じさせる石垣と築地塀も。大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)が「遊行寺」の「惣門」で、右に「時宗總本山」、 左に「清淨光寺(しょうじょうこうじ)」と彫り込んだ大きな木札がかかっている。今日では遊行寺の黒門と呼ばれているのだ。当本山の正式名称は、「藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)」と号す。近世になって遊行寺と通称され、明治時代より法主・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるために通称の「遊行寺」の方が知られているのだ。消防車の車庫のシャッターには藤沢宿の浮世絵が描かれていた。下が本物の浮世絵。『歌川広重東海道五十三次』= 佐野喜版・狂歌入東海道・狂歌東海道 = 《 藤澤 》松吟庵清風うちかすむ 色のゆかりの ふぢ沢や 雲井をさして 登る春かな惣門前に、高さ約2m80cmの青銅製の灯籠が対になって建立されていた。この灯籠については、遊行寺宝物館に蔵されている「籐沢山銅灯籠志記(とうたくさん どうとうろう こころざしのき)」によれば、江戸講中を初めとして遠近の篤志者が一体となって、建造を望んだのだと。時に天保10年(1839)5月であり、江戸講中の者が講元世話人となった。しかし、実際に建立されたのは、天保13年(1842)8月23日ですから、発願されて3年にして実現したのだと。右側の脚(竿)に「籐沢山三十九世他阿上人一如(いちにょ)書」とあり、左側の脚(竿)には「遊行五十七世他阿上人一念(いちねん)書」とあると。鋳造師は西村和泉守藤原政時であると ネット情報から。「傍示(ぼうじ) 門前先通道幅四間ニ尺」と刻まれた石碑。推測するに寺と街道の境目を表示したものと思われるが・・・。「惣門」を潜ると前方に続くこの石畳の坂を、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれている。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、大勢の見物客が押し寄せるのだ。平成19年(2007年)に大改修が行われた。地元の皆様には、いろは四十八文字から、「いろは坂」の愛称で親しまれている。「惣門」を潜った直ぐ左手には「板割浅太郎の墓」と書かれた案内板が。「板割浅太郎の墓」。この墓地群は「真徳寺」の境内のようであった。「板割浅太郎の墓」が正面に。「板割浅太郎の墓」。「板割浅太郎の墓の由来国定忠治への忠義を貫ぬく板割浅太郎(本名 大谷浅太郎 )は、大正5年(1916)に刊行された平井晩村の小説『侠客忠治 』(後に『国定忠治』に改名)に登場する「板割の浅治」や、主題歌『赤城の子守唄』が話題となった昭和9年(1934)公開された映画『浅太郎赤城の唄』の登場人物として知られている。真徳寺には忠治の元を離れた板割浅太郎の後日談が口承されている。天保13年(1872)に忠治がおこした勘助親子殺害事件と大戸関所破りの後、親分であった忠治と決別、無職渡世の足を洗い、時宗金台寺 (長野県佐久市 )住職である列外和尚の弟子となり列成と名を改める。後に遊行上人の導きにより藤沢 の地に移り、時宗総本山遊行寺の堂司(堂守)を勤める事となる。朝タの鐘つきに始まり、札売りや参拝者へのお茶の接待、境内の清掃と、精進を重ね念仏三昧の日々を送り、伯父であるとされる勘助親子の菩提を弔う。仏門に入り改心した姿が認められ、遊行寺塔頭である貞松院の住職を拝命したとされる。以上の口承が昭和61年(1986) 山本周五郎が刊行した『夜明けの辻』に収載された「遊行寺の浅」の元となったとされる。後の列成和尚は、明治13年(1880)に発生した藤沢宿大火により遊行寺が類焼すると、老骨に鞭打ち勧進僧となり、遊行寺復興の為に各地を巡って浄財を募り遊行上人の仏恩に報いた。明治26年(1893)12月30日、74才にてその生涯を閉じたと伝えられている。貞松院跡地に現存する墓石には「当院四十二世洞雲院弥阿列成和尚」と刻まれている。 赤門真徳寺住職」そして「板割浅太郎の墓」の近くの墓石の前には掲示板が立てられていた。「○○○義雄家無縁墳墓等改葬公告墓地利用向上のために無縁墳墓等について改葬する事になりますので、墓地使用者等、死亡者の縁故者及び無縁墳墓等の権利を有する方は、本広告掲載の翌日から一年以内にお申し出下さい。尚、期日までにお申し出なき場合は無縁仏として改葬を致します。」と。右手に「赤門 眞徳寺」。正面から。「三界萬霊」。三界とは、無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界(よくかい)。無色界の上、つまり三界を超越したところに仏様の世界が存在すると。「本堂」。清浄光寺の塔頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。別称は赤門、鎌倉北条氏邸より赤門を寄付され以来、朱塗りの門であるためという。 遊行51代一法はこの寺の檀家から出ているのだと。「本堂内陣」。ご本尊は阿弥陀三尊坐像。そして「いろは坂」を更に進むと左手にあったのが「時宗 眞淨院」。白壁に囲まれた参道を進むと正面に「山門」が。そしてその奥にあった「本堂」。「本堂」清浄光寺の塔頭の筆頭である。住職を本山役僧が務め、講中の宿泊所だった。歴代上人が法燈をつぐ時や、遊行から帰ってきた場合にはここで宿泊することになっていたと。「本堂内陣」ご本尊は阿弥陀如来。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があったと。そして現在は本堂内にあると。柱には時宗の宗紋の、「折敷に三文字紋」、「隅切三(すみきりさん)」が。「遊行寺」境内へ入ると正面に「本堂」、手前左手に「大イチョウ」。「大イチョウ」を反対方向からも。「遊行寺」の御神木の「大イチョウ」。樹木医の治療もされて。「市指定天然記念物昭和四十六年(一九七ー)七月五日指定大イチョウ 樹高約21メートル 幹回り710センチメートルひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが約31メートルありましたが、昭和五十七年 (一九八二)八月の台風で地上6メートルの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の折損のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成四年(一九九二)の調査で686センチメートルだった幹回りは、平成二十年の計測では710センチメートルと太くなっていました。樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約六五〇~七〇〇年と推定されました。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では二五〇年だったので、それ以上の樹齢であることは確かです。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえません。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても十二世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中二年(一三二五)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。例年十一月下旬から十二月上旬に色づきます。平成二十年(二〇〇八)九月〔藤沢市教育委員会〕」1ヶ月前には。 【遊行寺の大イチョウ見学 | チャリで100万キロ (simple-k.com)】より「清浄光寺(遊行寺)境内案内」。境内配置図をズームで。境内の建物、池等が説明されていた。本堂前右手の高台には時宗の「宗祖 一遍上人像」。伊予国の豪族の次男として生まれたが、10歳で母を亡くすと天台宗に出家し教義を修学した。1274年2月から布教のための全国行脚を始めそれを遊行と称した。遊行15年目に過酷な遊行により過労と栄養失調で亡くなったと。戦中に鉄材供出のため撤収されたが、昭和45(1970)年5月23日、林霊雲作「宗祖銅像」が仙台阿弥陀寺から寄進建立された。また台石は川越浄国寺檀徒、さらに築山庭石も信徒から寄進された。静かな境内の中でひときわ印象的な銅像。切妻造桟瓦葺の「手水舎」と蓮華形の「手水鉢」。手水鉢の台部に「明治百年記念 遊行七十一世他4阿隆宝上人御代」の銘が。清浄光寺手水舎は、明治十三年(1880)十一月の藤沢宿大火後に建築された可能性が高く、大正十二年(1923)の大正関東地震によって倒壊。昭和12年(1937)柱の一部など修復するかたちで、現在の位置に再建されている。手水舎の中央に設置された水盤は、昭和44年(1969)3月26日、明治百年記念に、大東亜戦争に供出された水盤を、東京オリンピック聖火台を作成した鈴木文吾氏の手によって復元安置されたものである。その建築様式は、両流造り、二軒繁垂木(しげだるき)、桟瓦葺きで、一般的な水屋に比べて、形態と装飾の優美さが卓越している。しかし「手水舎」はこのコロナ禍で使用禁止中。「本堂」右手には「ダルマ破魔矢 授与所」。そして正面に「本堂」。昭和十二年(1937)再建の入母屋造銅板葺の「本堂」。木造鋼板葺、1937年の再建。「本堂」の前には「常香炉」が。「本堂」を斜めから。「本堂幕」は白地に時宗の宗紋の、「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」。河野氏の家紋「折敷に三文字」は、古代豪族越智氏が奉じた伊予国大三島に鎮座する大三島神社の神紋を用いたものである。すなわち神様に食物などを供える白木の台「折敷」に、大三島神社の「三」文字を組み合わせたものだ。折敷は三方ともいわれ、四角いものを傍折敷、 四隅を切った八角形のものを隅切り折敷、四隅が内側に入り込んだものを隅入折敷とよび分けた。一遍上人が開いた時宗のこの寺紋も「折敷に三文字」だが、 これも一遍上人が河野氏から出たことに由来したものであると。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂に置かれた常香炉。100円で購入できる線香がモウモウと。常香炉にも寺紋・「折敷に三文字紋」・「隅切三(すみきりさん)」が入っていた(以前の写真)。本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な海老虹梁の本堂。「登霊臺」の扁額は紀伊大納言・徳川治寶(とくがわはるとみ)筆。徳川治寶は「中雀門」の建立者でもある。「登霊臺(とうれいだい)」。「本堂 内陣」。「清浄光寺」の勅額は後光厳天皇宸筆。外陣と内陣に分かれ、内陣は僧座・尼座・鏡縁に分かれる時宗独特の様式。欄間の彫刻類が美しい。「いろは坂」を登りつめた処が山門跡で、明治13年に焼けるまで銅屋根の仁王門あり、「藤沢山(とうたくさん)」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)があったと。そして現在は本堂内にあるとのことからこれがそうなのであろう。本堂須弥壇に鎮座する阿弥陀如来坐像..平安時代後期作と伝える。参拝客の数も例年に比べ少なく、初詣の参拝をしながら写真を撮れたのであった。ズームして。「本堂」から「常香炉御堂」を見る。「時宗総本山 遊行寺(ゆぎょうじ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)が正式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれています。宗祖一遍上人は「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」のお札をくばりながら、日本各地をまわり遊行して踊り念仏をおこないました。この遊行寺は正中ニ年(一三ニ五)遊行四代呑海(どんかい)上人によって開かれ「藤沢道場」といわれ時宗の総本山となっています。宝物として、国宝「一遍聖絵(ひじりえ)」重要文化財「時衆過去帳」「後醍醐天皇御像」など多あります。境内には、市指定天然記念物の銀杏の巨木、国指定史跡「藤沢敵御方供養塔」、県指定重要文化財の梵艟、長生院にある小栗判官と照手姫の墓や有名文学碑などもあります。また桜・ふじ・花しようぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。」。「本堂」前右手の「地蔵堂」。露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の地蔵堂。大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊後、平成二十六年に再建。「少病 少悩 ひぎり地蔵」碑。「なでなで地蔵」。私も今更ながらであるが頭を「なでなで」。自由に鳴らせる小さな鐘。昨今、どこの寺も不用意に鐘を突いてはいけない雰囲気。この鐘は、どんどん突いて下さいという雰囲気。小さいのでいくら突いてもかまわない?、響く音も小さい?しかし音色はよかったのであった。扁額「地蔵堂」。木造で高さおよそ3メートルの日限地蔵様をお祀りしている。絵馬「おねがい地蔵」。絵馬「心願成就」。「お地蔵さんの由来地蔵菩薩は、お釈迦様亡き後、この世で私たちを救ってくださる仏様です。なかでも「ひぎり地蔵菩薩」は、日を限ってお参りをすることによって願いがかなえられるので、全国各地で信仰をあつめています。遊行寺の門前は、東海道の藤沢宿として栄え、江戸・明治・大正の頃には、道中安全をお祈りするために、お地蔵さんを詣でる人々で賑わいました。しかし、大正12年の関東大震災で遊行寺も本堂など多くの建物が倒壊し、地蔵堂も倒壊したため、応急処置を施して本堂内に安置されてきました。このたび全国宗門寺院および檀信徒皆様の協力で、平成の大修理として解体修理しましたところ、胎内から『少病少悩』等の文字と「享保六年辛丑年四月廿四日」の日付が発見され、江戸庶民の信仰がしのばれます。平成26年6月に修復を終え、関東大震災から約百年ぶりに再建された地蔵堂に安置されました。輝きを増したお地蔵さんは、偉大な法力を備え、交通安全・安産成就や子どもの成長安寧の他、病魔退散・健康長寿といったご利益を施してくださいます。平成26年9月15日 時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)この地蔵堂は、東日本大震災を機に、震災・風水火災で亡くなられた方々の鎮魂の為に発願し建立されました。」「本堂」の左手手前にも石碑が。文化庁の制定する「登録有形文化財(建造物)」に本堂、宇賀神社などが登録されたのだ。登録されたのは以下の10棟。・本堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積841㎡・御番方 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積226㎡・小書院 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積162㎡・百間廊下 一棟 木造平屋建、瓦葺、建築面積222㎡・回向堂 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積31㎡・宇賀神社 一棟 木造平屋建、銅板葺、建築面積3.6㎡・鐘楼 一棟 木造、銅板葺、建築面積11㎡・手水舎 一棟 木造、瓦葺、建築面積13㎡・惣門 一棟 木造、銅板葺、間口5.0m・石垣及び 一棟 石垣 石造、総延長53m 築地塀 土塀、瓦葺、総延長22m 築地塀 「登録有形文化財 第14-0207~0216号」。「文化財というのは国等の自治体が、後世に残したいものとして指定し、管理を行っていくというのが一般的。それが、重要文化財指定というもの。しかし、国や自治体だけでは把握しきれないものも大多数あり、民間の建造物でも文化財としての価値が見出せるというものがあれば、緩やかでも管理していきましょうと、制度化されたものだと。自治体が指定するわけではなく、あくまで申請者が登録するという制度。どのような価値が登録の基準となるのか。1.国土の歴史的景観に寄与しているもの2.造形の規範となっているもの3.再現することが容易でないものそして、築後50年経過しているもの。」とのネット情報。「おみくじ結び所」。本堂前左手には大きな「南無阿弥陀佛」碑が。藤沢市の遺族会が建てた日中~太平洋戦争の戦没者慰霊碑であると。 ・・・つづく・・・
2021.01.06
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湘南海岸での「初日の出」、「富士山」の姿を見た後は、地元に戻りいつも最初に初詣に行く「亀井神社」へ。母校の小学校の手前にある神社。石灯籠と大きな注連縄。扁額は「龜井神社」。社号標「亀井神社」。境内。お焚き上げ場。手水舎。水の溜まりはなく、竹筒が直に。これもコロナ禍の影響。右手池のほとりのに石鳥居。「本殿」前には国旗・日の丸が。「本殿」。源義経の家臣・四天王の一人、亀井六郎重清が崇敬したと伝えられている。宝永年間(1704~1711年)、この地を知行していた岡部和泉守によって寛永年間に改築され、大正十二年の関東大震災によって倒壊した後、1926年(大正15年)、氏子中によって再建された。明治六年に村社に列格された。また、平成四年には地域の発展に伴い社殿を改築、境内の整備が行われ現在に至っている。「亀井野」の地名は、亀井神社に由来するという。「本殿」にも注連縄が。蟇股の彫刻が見事。「本殿 内陣」。祭神は天軻句突知命(あめのかぐつちのみこと)。「本殿」前から境内を見下ろす。本殿脇には「身代わり不動尊祠」。こちらの蟇股の彫刻も見事。「不動明王」と「地蔵さま」。ズームして。「身代わり不動尊」と「本殿」を振り返る。「身代り不動尊」への参道と両側には真っ赤な「幟」が。「社務所」。今年も「守護矢」を購入しました。そして帰路にもう一つの地元の神社「地神社(じじんじゃ)」にも初詣。「地神社」は「地神の森後公園」内にある。境内。狛犬。右手の阿像。左手の吽像。御神木のイチョウの老木。手水舎。「山之神」と刻まれた石碑が右手に。「地神社」と刻まれた石碑。小さな社殿。御祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)。土を司る神。肥沃な(ひよく)田畑の土、陶器を作る粘土もその支配の範疇で、農業・陶磁器製造業・造園業・土木関係の職業などに縁の深い神様であると。扁額「地神社」。そして帰宅して、年賀状の投函にポストに向かうと、近くの材木屋さんの入り口には今年も「材木干支絵年賀」が。牛の勇姿とともに「迎春 2021」の文字が。「月に吠える牛?」。最近ではめっきり減ってしまったのでは。だからこそ、貴重な「日本の文化」として残してほしいと願うのであった。
2021.01.05
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そして昨日・1月3日は「第97回東京箱根間往復大学駅伝競走」の復路観戦。この日もテレビ画面から。復路の気象予測、気温は上昇せず好条件、ただし海岸では北風が向かい風で吹くかもと。復路の6区(箱根町~小田原 20.8km)スタートは往路の記録の順番に時差スタート。そして10分以上遅れた3校は10分後に同時スタート。1位 創価大学 濱野 将基選手が8:00にスタート。最初から飛ばす創価大学 濱野 将基選手2位 東洋大学 九嶋 恵舜選手 が2:14遅れでスタート。3位 駒沢大学 花崎 悠紀選手は2:21遅れでスタート。4位 帝京大学 三原 魁人選手は2:31遅れ。3位 駒澤大学 花崎 悠紀選手が山下りで2位になりTOPの創価大学を猛追。創価大学が首位をまもり7区(小田原~平塚 21.3km)原富 慶季選手に襷を渡す。駒澤大学 花崎 悠紀選手は山下り歴代3位の57分台の好記録7区に入り、追い上げ開始の早稲田大学・宍倉 健浩選手。創価大学が首位を維持し、7区原富 慶季選手から8区(平塚~戸塚 21.4km)の永井 大育選手に襷が渡る。2位の駒沢大学は7区花尾 恭輔選手から8区佃 康平へ襷が渡る。レースもいよいよ終盤。優勝&シード権争いも次第に熱をおびてくる8区へ。スタートから平坦なコースが続くが、浜須賀交差点で海岸線に別れを告げ、残り9kmあたりから徐々に上り坂に入る。特にラスト5kmに待ち受けるこの遊行寺の坂が最大の難所。遊行寺の坂の日本テレビ固定カメラ。広報車①こちらのパトカーが車両規制開始の合図。先頭の『規』から最後の『C(Clear)』の間は一般車、バイク、自転車は走行禁止。上空にヘリコプターが。テレビ中継車。1位 創価大学 永井 大育選手テレビオートバイ。2位 駒澤大学 佃 康平選手後ろに実況バイクが追う。3位 東洋大学 野口 英希選手4位 東海大学 濵地 進之介選手5位 青山学院大学 岩見 秀哉選手青山学院大学の運営管理車には原監督の姿が。中央でカメラを構える観客は??6位 順天堂大学 西澤 侑真選手7位 東京国際大学 熊谷 真澄選手2台目のテレビ中継車ラジオ放送者8位 國學院大學 伊地知 賢造選手9位 帝京大学 鳥飼 悠生選手こちらは早稲田大学を追う別のテレビオートバイ10位 早稲田大学 千明 龍之佑選手が遊行寺の急坂を必死に上る。2台目のオートバイからの実況アナウンサー。11位 神奈川大学 安田 響選手12位 明治大学 大保 海士選手区間記録まで10秒と迫る激走で8区の区間賞をとる。13位 中央大学 三浦 拓朗選手14位 城西大学 新井 颯人選手15位 拓殖大学 江口 清洋選手16位 日本体育大学 大内 宏樹選手17位 関東学生連合 高槻 芳照選手 18位 国士舘大学 清水 悠雅選手19位 法政大学 糟谷 勇輝選手20位 山梨学院大学 篠原 楓選手21位 専修大学 水谷 勇登選手そして規制解除の「C」のパトカーが通過。8区から9区への中継点でも創価大学がTOPで通過。永井 大育選手から石津 佳晃選手への襷の引き継ぎ9区(戸塚~鶴見 23.1km)に入りシード権争いも熾烈にそして運命の最終10区(鶴見~大手町 23.0km)へ笑顔でタスキをつなぐ創価大9区の石津佳晃選手(右)と10区の小野寺勇樹選手(左)。そして3:19遅れでTOPの創価大学を追う駒澤大学・石川 拓慎選手(右)がスタート1位と2位の時間差がみるみるうちに縮まって来た。御成門の18.1km地点ではその差がさらに47秒差に20km手前で必死にTOPを追う駒澤大学・石川 拓慎選手必死に逃げる10区の創価大学・小野寺勇樹選手馬場先門20.1kmでは15秒差まで追い上げる10区 20.88km地点でまさかの大逆転そして衝撃的なスパートにより一気に引き離し勝利を決定づけたのであった。そしてそのまま駒澤大学が首位でゴール。往路は3位だった駒澤大学が13年ぶり7度目の総合優勝を大逆転で飾ったのであった。惜しくも総合優勝を逃した創価大学が2位でゴールそしてネットにはこんな記事も。『小野寺の力走を見ながら日テレ森アナは「初めての往路優勝がありました。初めての総合優勝には届かなかった。目標は総合3位でした。目標達成とみれば、うれしい準優勝。ただ、悔しい準優勝となったか」と伝えた。そして「“2位で悔しい”と思えるチームになった」。最後は「創価大学、準優勝!この悔しさを来年につなげます!」と結んで、小野寺のゴールを称えた。この実況にネット上では反響が続々。「綿密な取材と寄り添う心があって出てくる言葉だと思う」「胸に刺さりました」「日テレ森アナの実況の言葉がどの立場の選手にも寄り添ってくれるのがまた泣ける、、!」「森アナの一言で涙腺崩壊」「ゴール地点の森アナの実況だけで泣けた」「感動しました!」「素敵」などと相次いでいた。』と。3位は東洋大学4位は12位で復路をスタートした青山学院大学5位は東海大学6位は混戦を制した早稲田大学7位順大、8位帝京大、9位国学院大。東京国際大が10位でシード権を確保した。優勝候補の一角といわれた往路14位の明大は復路7位の巻き返しも及ばず、11時間6分15秒の総合11位でシード権まで26秒届かなかった。12位は中大、そのあとに神奈川大、日体大、拓大、城西大と続いた。復路優勝は2秒差で青山学院大学が獲得した。往路優勝:創価大学 復路優勝:青山学院大学 総合優勝:駒澤大学 と2019年大会以来2年ぶりとなったのであった。同大会は、総合優勝が東海大。往路は東洋大が制し、復路優勝はの青学大だった。 総合、往路、復路のタイトルが分散するのは近年稀で、2019年大会の前は亜大(総合)、順大(往路)、法大(復路)で分け合った2006年大会までさかのぼるのだ。15~17年大会に青学大が3年連続の完全優勝を果たしたように、絶対的な強豪校があればタイトルは重複するのが常。今大会の結果は、各校が戦力を底上げし、激しい競争があったことの証拠に他ならないのだ。そして1~10区の区間賞それにしても、10区間217.1kmのレースでは、連覇を狙う青山学院大や全日本大学駅伝を制した駒沢大、東海大、明治大、早稲田大などを軸とした争いという事前の予想に反し、前回総合9位の創価大が往路初優勝し、前回優勝の青山学院大が往路12位から復路で4位まで上昇するなど、順位は目まぐるしく変わったのであった。その順位変動をグラフで示すと、「戦国」さながらの様相が浮き彫りになったのであった 【https://www.yomiuri.co.jp/hakone-ekiden/20210102-OYT8T50000/】より関東学生陸上競技連盟は、今大会の2日間におけるコース沿道での観戦者数が、約18万人と発表。昨年の前回大会は121万人で約85%減となった。コロナ禍で迎えた今大会は“新様式”で異例の大会運営となった。主催する関東学連は「応援したいから、応援にいかない。」をキャッチコピーに、公式サイトなどで呼びかけてきた。私のキャッチコピーは「感染しない、感染させない、だから観戦にいかない」であったが・・・・????。感染対策も徹底され、大会関係者は2週間前からの体調管理チェックシートを提出。中継所などではサーモグラフィーを導入し、次走者への声かけも認められていない。スタート・ゴール地点での円陣、胴上げも禁止。給水係はゴーグルや手袋を着用した。体調に不安がある選手の出場を回避するため、当日変更枠も4人から6人に拡充されたと。コロナに打ち勝ち100年以上の歴史を有する、そして正月の風物詩である「箱根駅伝」を、来年は沿道で旗を振りながら、「選手の大学名や名前」と「頑張れ」を大声で叫べる正月が必ず来ると信じているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・ゴール・・・
2021.01.04
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正月の風物詩となっている大学対抗の「箱根駅伝」。「第97回東京箱根間往復大学駅伝」は2021年1月2日・3日に開催されているのだ。繋がれていくタスキ、長く熱い戦いが繰り広げられる箱根駅伝を見ないと新年が始まらないといっても過言ではないのだ。日本テレビ 画面より。いつもであれば、中継所やスタート地点等の沿道で観戦、応援に行く方もいると思います。しかし、第97回箱根駅伝2021は密を避けるために、テレビやインターネットで観戦、応援するよう知らせが出ているのであった。そして8:00に大手町読売新聞社前を鶴見中継点に向けてスタート。1区は大手町~鶴見 21.3km。最初は超スローペースで横一列になって。「主催者からのお願い新型コロナウイルス感染拡大防止のため、沿道での応援はお控えください」1区のあと1kmで法政大学 鎌田 航生選手がスパート。2位に東海大学 塩沢 稀夕選手。法政大学が1区TOPを死守し2区へ繋ぐ。東京国際大・ビンセント選手が、9キロ過ぎに2区の先頭に立った。15位から一気に先頭へ、1時間5分49秒の区間新記録を樹立して鶴見~戸塚「花の2区」(23.1km)を制したのであった。そしてそのままTOPで3区に襷を渡す。そして3区・戸塚~平塚21.4kmの藤沢橋交差点近くに。選手が下って来る遊行寺横の下り坂。「荷物車」技術総務車白バイ車。広報車1テレビ中継車が近づく。日テレ テレビ中継車1位 東京国際大学 内田 光選手大会本部車報道車テレビオートバイ2位 東海大学 石原 翔太郎選手バイクアナウンサー3位以降が遊行寺坂を下って来る。3位 創価大学 葛西 潤選手4位 東洋大学 前田 義弘選手5位 日本体育大学 岩室 天輝選手6位 駒澤大学 小林 歩選手7位 神奈川大学 川口 慧選手8位以降が次々と遊行寺坂を下って来る。8位 拓殖大学 新井 遼平選手9位 早稲田大学 中谷 雄飛選手10位 順天堂大学 伊豫田 達弥選手11位 青山学院大学 湯原 慶吾選手12位 城西大学 菅原 伊織選手13位 帝京大学 遠藤 大地選手運営管理車414位 国士舘大学 清水 拓斗選手緊急対応車115位 國學院大学 臼井 健太選手緊急対応車2上空の報道用?ヘリコプター。16位以降が遊行寺坂を下って来る。16位 法政大学 松本 康汰選手緊急対応車317位 中央大学 吉居 大和選手18位 明治大学 小袖 英人選手19位以降が遊行寺坂を下って来る。通過19位 関東学生連合 小島 慎也選手19位 山梨学院大学 島津 裕太選手20位 専修大学 金久保 遥選手全ての選手が通過。医務車最終パトカー・規制解除車両が通過。そして3区 11.6km過ぎに東海大学がTOPに出る。東海大学がTOPを維持したまま4区に繋ぐ。そして4区・平塚~小田原20.9kmの0.9km過ぎで創価大学 嶋津 雄大選手が東海大学を抜いてTOPに躍り出る。創価大学がTOPで4区から山登りの5区に繋ぐ。4区 早稲田大学 鈴木 創士選手が8位から3位まで追い上げたが。創価大学 三上 雄太選手がTOPを維持して山に登る。5区小田原~箱根町 20.8km。東洋大学 宮下 隼人選手が駒沢大学 鈴木 芽吹選手を抜き2位に上がる5区の青山学院大学 竹石尚人選手が足の痙攣の為に何回か立ち止まる姿が。そして往路優勝は創価大学往路2位は東洋大学の宮下 隼人選手往路3位は駒沢大学の鈴木 芽吹選手往路の首位創価大学との時間差。創価大は、1区で3位と好スタートを切り、2区でケニアからの留学生、フィリップ・ムルワ選手が2位に順位を上げて3区でトップとの差を詰めた。そして4区で、去年、復路の10区で区間新記録をマークした3年生の嶋津雄大選手が5キロすぎに東海大を抜いてトップに立ち、区間2位の走りで2位・駒沢大学に1分40秒以上の差をつけた。往路 総合順位創価大は、山登りの5区でも3年生の三上雄太選手が力強い走りでリードを広げ、5時間28分8秒で優勝したのであった。創価大は4回目で初めての往路優勝で、3日の復路で、初の総合優勝を目指す。2位は2分14秒差で東洋大、3位は2分21秒差で駒沢大。早稲田大学は往路11位。総合2連覇を目指す青山学院大は、12位と苦しい往路となった。そして往路5区(山登り)の区間順位往路の区間賞者。 ・・・つづく・・・
2021.01.03
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湘南海岸・東浜から西浜に移動する。片瀬漁港・鮮魚直売所越しに富士山を見る。今年の元旦の富士山には雪は少なかった。「江ノ島入口」交差点に向かって歩く。そして国道134号の「片瀬橋」を渡りはじめ「江の島」を見る。「片瀬橋」を渡りながら橋の中央から。そして「片瀬漁港」入口のヤシの木越しに。「海の詩」の像と月の姿。江の島漁港の整備完了を記念して、「無事故を祈願して」建てられたという「海の詩」の像。 台座の上に大きな鯛のような魚の像があり、その魚に捕まって逆立ちをしている青年?の像が 乗っていた。「海の詩」の像の顔と月のコラボ。そして片瀬漁港・西プロムナード入口まで進むと、正面に富士山の勇姿が。山頂には山肌が見えた。富士山の下には湘南平のテレビ塔の姿が。湘南海岸の眺望。右手に茅ヶ崎、平塚の海岸が。風もあり波乗りする若者の姿が。箱根二子山と箱根駒ヶ岳の姿が富士山の左側に。大島の姿も。大山方面を見る。サーファーが上半身裸になり波と戯れる。富士山頂を再びズームで。月の姿もズームで。そして西浜からの陽光。再び湘南海岸の姿を。左手手前に「金時山」の姿も。「金時山」は、箱根山の北西部に位置する標高1,212mの山である。日本三百名山のひとつ。ヤシの木と江ノ島を再び。そして片瀬江ノ島駅構内のクラゲ水槽。のんびり泳ぐクラゲに癒されたのであった。そして帰路の小田急線の車窓からの富士山。
2021.01.02
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皆さん 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2021年(令和3年)のスタートです。そして、今年も湘南海岸・江の島東浜からの初日の出を迎えに行って来ました。コロナの全国的かつ急速なまん延の中で、外出の自粛要請もあり迷いましたが、風もあり三密は避けられると判断し、例年の電車に乗り行って来ました。そして20分弱で片瀬江ノ島駅に到着。弁天橋からの江の島。江の島シーキャンドル(展望灯台)のライトアップは既になし。境川の上流側を見る。そして片瀬東浜海岸に到着。海岸には、今年も予想外に多く。江の島展望灯台・シーキャンドル。湘南港灯台付近にも今年も多くの人の姿が。初日が昇って来る三浦半島の山の端周辺も既に赤く染まっていた。ズームして。西の空には月の姿も。ズームで。サーフィンボード上からの初日の出見物か?山の端の奥の雲の上部が白く輝きだして来た。湧き上がって来る雲も白く輝きながら。小舟からの見学者も増えて来た。海の水面も赤く染まりだす。雲の輝きがジワジワと増して来た。ズームして。そして今年の「初日の出」。時間は6:51。太陽がみるみる大きくなって来る。水面にオレンジの帯が現れる。モーターボートが高速で横切る。そして上部に浮かぶ雲に隠れ始めた初日。振り返り富士山の姿をズームして。雲に隠れる初日。再び江の島を見る。初費を隠す雲。その横には白き雲が輝く。そして初日の雲からの二度目の日の出。二度目の日の出を追う。二度の日の出を楽しんだ後は、富士山の勇姿を見に西浜海岸に向かったのであった。 ・・・つづく・・・
2021.01.01
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