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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『浄泉寺』を下り、坂道を降っていくと右手にあったのが『鳴海万福寺』の扁額が掛かる表門。表門の奥に石段が続き『万福寺』山門が現れた。階段の途中から、この前に訪ねた『浄泉寺』の鐘楼(右)、納骨堂(左)が見えた。『手水舎』。『鐘楼』。『本堂』。『万福寺』。享栄年間 三井右近太夫高行の創建 真宗高田派。永禄3年(1560)兵火で焼失したが再建され、江戸時代末期にも再々建された。明治6年(1873)に鳴海小学校仮校舎となり、校名を広道学校と称した。境内のツワブキ(石蕗)の花も美しく。寺務所であっただろうか。見事な彫刻。街道に戻って『枡形』を曲がる。鳴海町本町の旧東海道を進む。左手に緑生涯学習センターがあるが、敷地手前角にあった石碑には『旧愛知郡鳴海町役場跡地』と刻まれた石碑が。ここは現在「緑生涯学習センター」があるが、ここはかつての『東の問屋場跡』であると。『東海道の宿場 鳴海宿』。鳴海宿には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒、宿の東と西に常夜灯が両方残されており、約1.5㎞の宿場町であったと。江戸から87里(341.7km)、京へ38里21丁 人口約3,650人。『本町』交差点を右に折れると左にあったのが『来迎山誓願寺』。天正元年(1573)、僧・峻空の開山で、西山浄土宗、山号は来迎山。本尊は阿弥陀如来で境内に芭蕉供養塔、芭蕉堂がある。この供養塔は、元禄7年(1694)10月(芭蕉死去の翌月)の命日に建立された。芭蕉の供養塔としては最古のもので、昭和52年、名古屋市指定文化財になっている。芭蕉堂は、安政年間に永井士前という門人の建立で、芭蕉手植えの杉の古木で彫刻した芭蕉像が安置されている。徳本の『南無阿弥陀仏名号碑』。德本上人(徳本上人)の独特の字体で南無阿弥陀仏と書かれていた。徳本上人は,江戸時代の念仏行者で全国的にも高名であり,ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えて日本各地を行脚し,庶民の苦難を救った清貧の思想の持ち主です。信者は,近畿,東海,北陸,信州,関東地方にまでも広がり,現在でも「徳本講」は引き継がれ,その気高い生き方は時代を超えて人々に大きな影響を与えて来たと。境内の奥の石碑の場所を寺の関係者?に教えていただく。『芭蕉翁』 と刻まれた最古の『芭蕉供養塔』。「芭蕉最古の供養塔誓願寺の芭蕉堂南東脇に建てられた高さ60cmほどの青色の自然石で、表面に「芭蕉翁」、背面に「元禄7年(1694年)甲戌10月12日」と没年月日だけが刻まれている。芭蕉が没した翌月の忌日、当地の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられたもので、その後、翁の門人下里知足の菩提寺である当寺に移された。芭蕉最古の供養塔で昭和52年市の史跡に指定。」『芭蕉堂』。安政5年 (1858)に永井士前始めその門人により建立された。『碓氷君徳政碑』鳴海代官だつた碓氷清八郎重治の顕彰碑である。『碓氷君徳政碑』の文字が確認出来た。県道に面して建つ『観音堂』。『聖観世音菩薩』と刻まれた石柱が『観音堂』正面右に。観音堂の前の道路の向かいにあったのが『鳴海宿高札場』。『東海道 鳴海宿高札場(復元)』案内板。東海道 鳴海宿では、江戸時代、宿場に中央にあたる東海道と鳴海駅前通りの交差点東北角に大きな屋根付きの高札場が作られ、高札が掲示されていました(ここより南に約70mの場所)。この高札場の図面や絵図などは残されていませんが、東海道宿村大概帳によると、高さ二間二尺、長さ三間、幅一間との記述が残されています(一間:約180㎝、一尺:約30㎝)。また、当時の高札八枚が名古屋市博物館に保管されています。宿場間の駄賃や人足賃を示した高札は、宿場町ならではのもので、当時の様子をうかがい知ることができます。現存する鳴海の高札 高札場には、現存する鳴海の高札8枚のうち①~⑤の5枚のレプリカを掲出しています①太政官高札:慶応4年(1868年) 「徒党・強訴・逃敗を禁ず」②太政官高札:慶応4年(1868年) 「外国人への乱暴を禁ず」③江戸幕府高札:正徳元年(1711年) 「キリスト教を禁ず」④江戸幕府高札:慶応3年(1867年) 「駄賃人足賃を記す」⑤太政官高札:慶応4年(1868年) 「五倫の道を記す」⑥太政官高札:慶応4年(1868年) 「逃散を禁ず」⑦太政官高札:慶応4年(1868年) 「キリスト教を禁ず」⑧行政官高札:慶応4年(1868年) 「金札の流通の妨げを禁ず」高札の実物は名古屋市博物館に保管されています東海道 鳴海宿 東海道鳴海宿は、東海道五十三次の四十番目の宿場です。東海道五十三次とは、江戸時代に整備された五街道のうちの「東海道」の五十三の宿場のことをいいます。」そして坂道を上るとその先にあったのが『史跡 鳴海城阯』。『史跡 鳴海城阯』石碑。『天神社(鳴海城址)』『社殿』。近くの乙子山に鳴海神社の本社があるから、その境外末社の『神明社』のようです。右手に『成海神社御旅所竣工記念碑』。まだ新しい石碑。『御旅所」とは、『成海神社の祭神が故地(ふるさと)を訪ねられる際に、お寛ぎ(くつろぎ)になられるようにと願って造営されたもの』とネット情報より。『鳴海城跡碑』。「鳴海城跡根古屋城ともいい、応永年中(1394-1427)安原宗範の築城といわれる。永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後まで立てこもって奮戦した。その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590)廃城となったと伝えられる。「尾張志」 は東西75間、南北34間で四面に堀跡、本丸と二・三之丸にも堀を残すと記している。」高札場のある三菱東京UFJ銀行の裏手に真宗大谷派の『竹林山圓龍寺』があった。『竹林山圓龍寺』は、当初、天台宗の善正寺と称したが、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの前哨戦で寺が焼失し、寛永10年(1633)この地に再建され、浄土真宗竹林山圓龍寺と改称された。そして下に戻り、道路を渡ると『圓道寺』の『山門』が。曹洞宗の『庚申山圓道寺』。圓道寺は、天正年間(1573-91)の創建で、当初庚申山猿堂寺と称していたが、本堂は有松に移転し祇園寺となった。一方、旧地に残った地蔵堂は安永3年(1774)に庚申堂と改称し、昭和17年(1942)に圓道寺となった。本尊は青面金剛で、山門には『見ざる・聞かざる・言わざるの三猿』が扁額代わりに?『本堂』。屋根にも 「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が据えられていた。ズームで。本堂の扁額には『庚申山』と。一面六臂の青面金剛(左)、くくり猿柄(右)。『青面金剛明王』の幟が並んでいた。『秋葉社』。『弘法堂』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『毛越川』にかかる『鎌研橋(かまとぎばし)』を渡る。この『毛越川』はこの先で『扇川』に合流していた。旧東海道を『鳴海宿』に向かって進む。しばらくひたすら歩くと『月日教おうかんみち教会緑教会』が左手に。『月日教おうかんみち教会緑教会』どのような宗教法人なのであろうか?右手に『神明社』経の階段が。階段に立札があり、この神社は 「元伊勢伝承の神社です」 と記されていた。 「元伊勢」というのは、倭姫が天照大神の鎮まる場所を探して各地をさまよっているとき、その御神体である八咫鏡(やたのかがみ)を一時的に祀った場所をいい、元伊勢と称する神社は愛知県にもいくつかあるのだと。石の鳥居の先に拝殿が。『神明社』の創建年代等は不詳であるが、境内には宝暦6年(1756)の「宿中安全」と刻まれた『手水石』があった。そして『拝殿』。「『愛知縣神社名鑑』の諏訪社(諏訪山)の項を見ると、「昭和27年8月鳴海町字神明千八番地もと村社神明社を合併、飛地境内神社とした」とある。現在は曽根という地名になっているこのあたりは以前は神明という地名だったようだ。曽根の町名は昭和51年以降のことで、字名の曽根田から来ている。」とのネット情報。『平部北』交差点を渡った左手にあった『常夜燈』。ここが『鳴海宿』の東の入口。「平部町常夜燈東海道品川より40番目の宿場町、「鳴海宿」の東の入口平部町に建てられたものである。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜灯」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。文化3年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影をしのぶことができる。」現名古屋市緑区鳴海町平部の『鳴海宿』の旧東海道を進む。『鳴海宿』の『鳴海』は古くは成海とも書き海に面していたが、今は土砂の堆積で海は遠く離れてしまった。鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代は織田・今川両勢力の接触地点で、鳴海城が設けられた。江戸時代から始まった木綿の鳴海絞は東海街道の名産品として人気をはくし、現在も伝統産業として続いている。本陣:1、脇本陣2:、旅籠68:、人口:3,643人『鳴海宿』の町並みは平部町東端のここ秋葉常夜燈から始まり、平部町から中島町まではほぼ直線の旧東海道が走り、中島橋で扇川を渡ると相原町に入って行くのであった。街道右手に曹洞宗の『紫雲山金剛寺』が。「紫雲山金剛寺宝暦10年(1760)瑞泉寺20世呑舟和尚が創建、本尊は行者菩薩像。そのことから行者堂と云われた。昭和17年(1947)瑞泉寺31世道本蜜成和尚を寺号開山とし、本尊行者菩薩の金剛杖や金剛般若経と縁深いところから、紫雲山金剛寺と改称した。堂前の石仏三十三観音は明和4年(1767)に作られ、以前は街道に面して並んでいた。本尊行者菩薩のほか薬師如来像、なるみ焼きの十六羅漢像が寺宝としてある。町並みの中にある寺だけに、江戸時代には寺子屋として使われていた。」『金剛寺本堂』。扁額には『金剛寺』。『クロマツと旅姿碑』先に進むと左手の民家前にクロマツがあり、その傍らに『旅姿碑』が建っていた。編笠女と手代?飛脚?の『旅姿碑』。『中島橋』の手前を左折して扇川と手越川の川縁を回り込んで行くと、標識の先10m程先に『中島砦跡(なかじまとりであと)』の案内板が民家のフェンスに。名鉄鳴海駅より扇川に沿って約500mほど歩くと、扇川と手越川の合流地点に。(橋の袂に案内板がある。)中島砦は、この三角州に築かれていた砦なのだと。現在は、遺構は何も残っていないようだ。永禄2年(1559)織田信長が今川義元の尾張進攻に備えて築いた砦であり、桶狭間の戦い後、その役目を終えたのだと。『中島砦跡(なかじまとりであと)』の案内板があった個人宅の庭に1927年(昭和2年)に鳴海町により建立された『中島砦跡』碑が隠れるようにあったのであった。そして旧東海道に戻ると前方に橋が。『中島橋(なかしまはし)』と濁らないようであった。下を流れる川は『扇川』。『扇川』に架かる『中島橋』を渡ると相原町へ入って行くのであった。そして右手前方に立派な山門を持つ寺が現れた。『瑞泉寺』曹洞宗大本山総持寺直末の『龍蟠山瑞泉寺』。瑞泉寺は、鳴海根古屋城主安原宗範が応永3年(1396)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。 初め瑞松寺と称し、その後、兵火により焼失し、 文亀元年(1501)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。山門は、切妻屋根の中央部が上方に突き上がった、宇治の万福寺の総門を模したもので、県の有形文化財に指定されている。『禅(曹洞宗)大本山総持寺直末 龍蟠山瑞泉寺』と刻まれた寺標石柱。「龍蟠山(りゅうばんざん)と号す曹洞宗の寺院である。鳴海根古屋(ねこや)城主安原宗範(やすはらむねのり)応永三年(1396)に創建したと伝えられ、大徹禅師を開山とする。初め瑞松寺といった。その後、兵火により焼失。文亀元年(1501、永正元年等の説も)現在地に移り、後に寺号を瑞泉寺と改めた。二十世呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により、宝暦五年(1755)堂宇を完成した。山門は、宇治市の黄檗宗(おうばくしゅう)万福寺総門を模した中国風の形式の門で、県の有形文化財に指定されている。」「アメジストセージ」?の花が参道脇に。実物はもっと赤紫色をしていたが、写真に写すとこんな色に・・・・。白塀に映る陰も美しかった。京都府宇治市の黄檗宗万福寺総門を模したという宝暦5年(1755)の『山門』。『山門』は、三間一戸の重層門で、主柱の前後に控柱を4本たてた四脚門の形式をとり、屋根は本瓦葺で、中央を一段上げて造られていた。山門の左右に接続している建屋が、ただの塀ではなく、回廊であった。屋根両端に鯱(しゃち)。『山門』から『本堂』を。山門に掛かる「曇華峰(どんげぼう)」の扁額。曇華峰は山号の別称。天保11年(1840)の手水石が置かれた『手水舎』。寛延元年(1748)の『鐘楼』。扁額の文字は『???』。宝暦5年(1755)の『瑞泉寺本堂』。『本堂』に近寄って。前庭には見事な景色で小石が敷き詰められていた。本堂に掛かる『龍蟠山』の扁額。『本堂』内部を撮ったのであるが・・・。慶應3年(1867)の『僧堂』。僧堂に掛かる『選佛場』の扁額。『弘法堂』。『境内』。『瑞泉寺』から鳴海の町並みを見る。次に右手路地に入り『万福寺』山門の前を通って『木林山 浄泉寺』を訪ねた。浄土真宗の寺院がある。永享四年(1432)鳴海の領主森山左近三郎吉勝が帰依し入道浄空となって浄泉寺を創建したのが始まりという。文明十年(1478)兵火により三町(330m)南の現在地に移転していると。『山門』と『鐘楼』。『山門』。扁額『木林山』。『境内』の正面に『本堂』。斜めから『本堂』を。『手水舎』。『納骨堂』。扁額『横超門』??『鐘楼』。『日本武 天に森山 地に熱田 草薙鳴海』と刻まれた石碑。『浄泉寺』から『万福寺』を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道筋の祇園寺手前から北へ入り天満社の鳥居までの約 150m程で天満社山道へ導く参道を進む。この間に名鉄本線の踏切があった。 頻繁に電車が通過、朝は開かずの踏切になっているのではと。後ろに見えるのが名古屋第二環状自動車道の高架橋。『有松天満社』の一の石鳥居と扁額には『天満宮』と。天満宮らしく梅の御紋が鳥居の扁額の下の左右に。『有松天満社 施設案内図』。そして二の鳥居。二の鳥居前の車止めも神社ならではのユニークな形状。『有松天満社 由緒』「菅原道真公を祀る。元祇園寺境内の神祠であったが、寛政10年(1798)この地に奉遷せられ、当地新興特産の絞り業最盛期を迎えて文化7年(1810)八棟造りの荘麗な社殿が建立され、以来絞り産業の町、有松の産土社と仰がれている。例祭(3月第3日曜)は有松天神春祭として親しまれ、進学祈願祭並びに秋祭り(10月第1日曜)も近在に広く聞こえている。特に秋祭りに曳き出される山車3台は布袋車(延宝4年製作)唐子車(天保年間製作)及び神功皇后車(明治8年製作)相共に屋台にからくり人形を載せて精巧優美な伝統芸術の粋を誇り、昭和48年名古屋市の有形民俗文化財に指定されている。」 一つの山が全て神社かのよう。 中に入ると『虹橋こみち』と刻まれた石柱がありここを上って行く。太鼓橋・『虹橋』を渡る。更に石段を上っていくと三の鳥居が前方に。三の鳥居の先には『手水舎』が。更に『有松天満社』と書かれた紫色の幟が両脇に立てられた長い石段を上って行く。『有松天満社』と書かれた紫色の幟。そして更に四の鳥居が前方に。更に拝殿への石段が続く。石段を上りきると正面にあったのが『神門』。門は閉ざされていた。変わった形の『献燈』。『天満社と鷽(うそ)』「鷽は鳥の一種、日本の130円切手のデザインにも使われている美しい鳥で、菅原道真公の愛鳥だったと伝えられています。道真公が大切な神事を行っていた時に無数の蜂が襲来し、そこへ鷽が飛来して蜂をすべて食べ尽してくれたという伝説より、「災いや悪事を嘘(鷽)にする」と云われ、災いを排除してくれたいわれから道真公のご仁徳の賜物で、ついてしまった嘘(鷽)や災いが真(まこと)や幸運に換える縁起物として祀り伝わっています。」『天満社 由緒』がここにも。『神門』から見た『天満宮拝殿』『臥牛』。道真公は丑(うし)年の生まれ(承知十二年(845年)六月二十五日「丑の年の丑の日の丑の刻」生であるという伝説的な話)や、 大宰府で生涯を閉じ、亡骸を牛車に乗せて運ぶ途中、牛が伏して動かなくなり、「これは道真公の御心であろう」と、その地に埋葬されたことなどから、牛は「天神様のお使いの牛(神使)」、「前進」「隆盛」「幸福」の象徴として夢を叶えてくれると云われ、道真公を祀る天満社には臥牛が置かれているのだと。自身の身体と同じ『臥牛』の部位を祈願しながら手で撫でれば、身体は健全に病気は快癒すると云われ、また筆で頭部を「頭が良くなりますように」と撫でれば、知恵が付き賢くなると云われているのだ。『筆塚』碑。「祭神・菅原道真公は学問の神様です。学業上達のためご精進された古いお筆をここにお納め下さい。」『天満社の境内神社』一、神明社 天照大神(あまてらすおおみかみ) 日本の神様の中で最高神の地位の神様であると共に太陽の神様であり、 高天原(たかまがはら)の主祭神です。総本社は三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮です。一、稲荷社 宇迦之御魂(うかのみたま) 京都府の伏見稲荷大社が総本社であり、「お稲荷さん」として広く信仰されています。 農耕・商工業・商売繁盛の神様として、全国の稲荷神社で祀られています。一、秋葉社 火之迦具土神(ひのかぐつちかみ) 静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社が総本社であり、愛宕神社や野々宮神社等でも 祀られています。「火之迦具土神」の名前には「輝く火の神様」「ものが燃えている においのする神様」という意味があることから、火・鍛冶・火伏の神様として信仰されて います。一、琴平社 大物主神(おおものぬしのかみ) 香川県の金刀比羅宮が総本宮であり、五穀豊穣・開運除厄・酒造り等の神様として 祀られています。これは大物主神は蛇の御姿をしていることから、水神や雷神としても 信仰されています。 また、「大国主(おおくにぬし)」という別名があり、「大黒天」として祀られることも あります。一、御鍬社 金山彦之神(かなやまひこのかみ) 神名の通り「金山(かなやま、鉱山)」を司る神様で、鉱業・鍛冶等金属に関する 技工の守護する神様として祀られています。お参りを済ませ階段を下る。四の鳥居、そして石段を振り返る。そして再び名鉄名古屋線の踏切を渡る。旧東海道に向かって歩くと、正面に見えたのが『神功皇后車(西町)の山車庫』「神功皇后車(西町)の山車庫ここ西町の山車庫には、「神功皇后車」と呼ばれる山車が格納されている。かつて祭礼に曳航した山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。昭和二〇年以前の木造の建物で、町並みの景観になじんだ造りとなっている。神功皇后車は、明治六年(1873)、西町が名古屋の大工 久七に発注して造ったもので、有松に現存する三台の山車の中で最も古くから曳かれている。昭和四十八年(1973)、市の文化財に指定された。毎年十月第一日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる。」『東海道五十三次二代目松』とその『石碑』は『西町年行司』の前に。『東海道五十三次二代目松』碑。村に最初から生えていたといわれる樹齢300年の松の古木があったが、初代の松が枯れて現在二代目が植えられているのだと。隣に『梅屋鶴壽の歌碑』が。「あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ 梅屋鶴壽」「梅屋鶴壽幕末の狂歌師、享和元年(一八○一)江戸神田佐久間町に生まれる、 姓はは諸田、通称は初め佐吉、後、亦兵衛と称した、株をあきない、尾州家の御用を勤める。 若い頃から狂歌を得意とし、始めは長屋姉子、又は松枝鶴壽とも号したが、 後に長谷川町に待合茶亭、梅の屋を出し梅屋鶴壽と言うようになった、 狂歌人物誌に「花街戯場のことをよくうがちて秀吟おほし本町側糸巻連の魁首にして其名四方に鳴る」とある。 老後は号を株翁とも言うようになった元治元年(一八六四)正月十二日享年六十三歳で亡くなる。」東海道より古い道・「長坂道江戸時代以前から、祇園寺前から桶狭間を通り大府や刈谷へ行く古道があり、戦前までは多くの人に利用されていた道であった。現在は小道が1号線まで続いています。」有松の西、祇園寺門前から国道 1 号線に通じる道幅 1 間ほどの小道の入口があった。 この道は天保 12 年(1841)の桶狭間村絵図にも記載されている東海道より古い道。 古道北端は祇園寺で、当時は東西をつなぐ重要な道であったと。別名桶狭間村道、 刈谷街道と呼ばれていた。絞りで繁盛した時代、商家の裏道でもあり、道脇には紺屋(こん や)などの絞りの下職が点在していた。 右手に『祇園寺』の『山門』が。山門前に例の「不許葷酒入山門」の石柱が立つ。『曹洞宗 祇園寺』寺標石柱。『本堂』。1592年から1595年(文禄年間)の創建。当初は円道寺といい、鳴海にあったが1706年(宝永3年)に猿堂寺と改称、1755年(宝暦5年)現在地へ移動し祇園寺と改められた。境内に33観音石仏や奈良薬師寺の仏足石を模したものがあり、その横には1828年(文政11年)の豪潮の歌碑が建っていると。又、本堂西には お釈迦様の足跡に由来する仏足石があり、文政 11 年(1828)に作られたもの。 奈良の薬師寺の模写ですが歌碑には光明皇后(こうみょうこうごう)によるもので「御跡つくる 石の響は天に至り地さえゆすれ父母がために諸人のために」と刻まれていると。 現在は幼稚園が同じ敷地内に。この日は境内でこの幼稚園のバザーが行われ、混雑していた。ここにも有松絞りの『絞』の暖簾が街道沿いの店頭に。有松絞りの染め工場はこの日は休みのようであった。美しい有松の町並みもここで終わり。名古屋第二環状自動車道・(名二環:伊勢湾岸道方面)の高架橋。高架橋下に『有松一里塚』碑があった。鎌研橋(かまとぎばし)一里塚とも言われ江戸から『八十七里』。比較的新しそうな『有松一里塚』碑。江戸から87里。ここ緑区史によると、「有松一里塚の大きさは、方五間(約 9.1m)で、松並木から目立つ様に塚頂上に榎を植えた。鳴海町字鎌研4・5番地の両側に完全な姿の一里塚が残っていたが、 大正13年国から民地に払い下げられその後 塚が消滅した」と記載されていると。 民地に払い下げられて無くなってしまったが、名古屋環状2号線整備に合わせ2012年に90年ぶりに復元されたようだ。「有松一里塚一里塚は、慶長9年(1604年)、幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、 道程一里(約4km)ごとに道の両側に5間四方ほど(約9.1m)の塚を築き、 榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、 荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。 この辺りに、江戸から87里を示す一里塚がありましたが、大正13年、払い下げられ民地となり、無くなりました。 しかし、歴史ある有松の地の発展を願う地元の強い熱意により、平成24年、当地に復元されました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次再び『服部家住宅』、屋根には『卯建(うだつ)』が。『卯建』とは切妻の屋根の妻側(棟(むね)に直角に接する側面)の壁。特に、これを屋根より高いところまで延長して小さな屋根をつけたもの。おもに近畿地方の町屋でみられた。家の格式の象徴とされ、瓦(かわら)や漆喰(しっくい)を施したものは、防火・防風に役立った。店舗並居住部 一棟、井戸屋形 一棟、 客室部 一棟、土蔵・絞倉・藍倉 六棟、門並門長屋 二棟。当住宅は東海道に面する町屋建築の遺稿であり、有松における絞問屋として代表的な建物である。主屋は塗籠造りで卯建を設け、倉は土蔵造りで腰に海鼠壁を用い防火対策を行っている。服部家は屋号を私にも身近であった「井桁屋」と言う。板塀の後ろには老松が旧東海道を覗き込む如くに。『つつみ病理 診断科クリニック』の看板が。ここは枡屋、山口邸のあった場所だが。更に『重要伝統的建造物群保存地区』を進む。右手に『中川橋』と刻まれた石碑が。中町と東町の境を流れる中川は、現在は暗渠でそのまま手越川に流れている。その上が遊歩道で、入口にこの碑が建っている。「天保村絵図」(1841年)によると当初は板橋で、ここから西町の一部まで尾張藩の除地(無税地)が設定されていた。右手にあったのが『中濱商店』。中濵家住宅は、有松東海道に面して建つ町屋で、主屋を中心に西側に土蔵、東側に塀・物置と、有松の大規模な絞り問屋に見られる典型的な屋敷構えとなっています。建築面積240㎡、木造、厨子(ツシ)2階建、切妻造桟瓦葺、平入りの商家で、1階は正面全体を木格子で統一し、江戸期の蔀戸を採用せず、雨戸を入れたり出格子を採用し、内部には、入口から裏口までの片土間式を採用しています。2階は、軒を出桁造とし、虫籠窓を並べ、黒漆喰で塗籠めています。屋敷を囲む塀および石垣は、西側の塀は腰を杉皮張りとし、東側は人の頭の大きさの玉石を積んだ擁壁が連続し、北側手越川面は切石を積み上げた精密な亀甲積みの擁壁となっています。明治時代に遡る遺構と考えられ、これら敷地境界の石垣も手越川沿いの歴史的景観を形成する貴重な工作物となっています。塀に沿った山与遊歩道から塀、石垣が観察できます。 建築年:明治中期頃 国登録有形文化財(2008年) 現在の使用:絞り商 『中濱商店』前の歌碑。「上代より 千世の契りや 有松の 千しほ八千しほ くくり染けむ 加茂季鷹」。『登録有形文化財 中濱商店』。藍と有しぼりの店。ここも有松絞りの店『十八番』。多くの有松絞りのTシャツが。欲しかったが・・・・・。振り返って。県道237号線・新田名古屋線との交差点まで進む。この交差点から北東に500mほどの場所にあるのが『有松天満社』。『有松天満社 由緒』「有松天満社は寛政年間の始め(一七八九~)に旧東海道の私面すの回せ文章によって現在地に遷座され、文政七年(一八二四)現在の「八棟造」の社殿が造営され、今日まで守り続けられてました。有松天満社と菅原道真 有松天満社は菅原道真公を祭神として祀られています。道真は平安時代の貴族で優れた学者で あった事から朝廷では要職についていましたがある日、太宰府(福岡県)へ島流しとなり 波乱の生涯を閉じました。道真の死後朝廷は「天満大自在天神」の神号を贈り神格化された 実在の人物です。江戸時代は寺子屋にも道真を祀り 天神ま」は学問の神様として 親しまれてきました。有松天満社の祭礼春季大祭 毎年三月第三日曜日 道真の命日が旧暦二月二十五日に当たる事から以前は三月二十五日に行われていましたが 昭和三十九年から毎年三月第三日曜日に行われる様になりました。 春季大祭は天満社境内において学業成就・厄除け・家内安全・商売繁盛等を祈願する行事が 行われます。周辺には屋台の出店も多く大変販やかな一日となっています。秋季大祭 毎年 十月第一日曜日 その昔秋祭りは五穀豊穣を祈り感謝の祈念を捧げ、盛大に祝ってました。明治時代に入り、 町の繁栄と共に山車による豪華な祭りへと変わり、今日では名古屋市文化財に指定された ニのからくり山車が旧東海道を現行されます。 山車から流れるお囃子の音色は雅楽の流れを汲み優雅と言えましょう。 夜は色とりどりの提灯に飾られ、山車は幻想的雰囲気に包まれます。年間祭事 元旦祭 一月元日 初天神前夜献灯 一月二十四日 初午前夜祭 二月五日 初午祭 二月二十五日 金毘羅春祭前夜献灯 三月九日 春季大祭前夜祭 三月第三土曜日 春季大祭 三月第三日曜日 津島祭迎え 七月十五日 津島祭中祭 八月二十三日 津島祭送り 九月三十日 秋季大祭前夜祭 十月第一土曜日 秋季大祭 十月第一日曜日 金毘羅秋祭 十一月九日 新嘗祭 十一月二十五日 秋葉大社祭 十二月十六日」県道237号線・新田名古屋線以西の有松の建築物の案内図。『山田家住宅・旧山田薬局』にあったこの大きな白玉は?これは絞りの提灯の様で、不思議な形に見えるのは、絞りの提灯カバーによるもの。その先の店舗のこちらは浴衣の生地であろうか。『唐子車(中町)の山車庫』が『山田家』の先右側に。「唐子車(中町)の山車庫ここ中町の山車庫には「唐子車」と呼ばれる山車が格納されている。 かつて祭礼に曳航した山車は、祭が終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。 平成十七年、土地区画整理事業にともない、本来建っていた場所より多少東側(右側)の現在地に新築された。 木造で、街並みの景観に配慮された造りとなっている。 唐子車は、天保年間(一八三○~四四)に知多内海で造られたものを、明治八年(一八七五)に中町が購入した。 昭和四十八年(一九七三)、市の文化財に指定された。 毎年十月第一日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる。」『中舛竹田荘』「デイサービス 松柏苑」と書かれた木札が。『中舛竹田荘』「中舛竹田家は、旧東海道の歴史的な町並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられています。老朽化が進み建物と町並みの存続が危ぶまれる状況の中、保存について検討がなされ、所有者である竹田様と地元の方々・名古屋市・事業者・市民の協力で、「有松まちなみ保存ファンド募金」を活用し、梁などの材料を活かしつつ、外観は江戸期の様式を再現しました。」左手に案内板が。『名古屋市有松伝統的建築物群保存地区 名古屋市有松街並み保存地区』案内板。「まちの成り立ち 慶長13年(1608)、有松は東海道の鳴海宿と池鯉鮒(ちりゅう)宿の間に尾張藩によって 開かれました。東海道を往来する旅人の土産物として絞り染め(有松絞り)が考案され、 以降、有松絞りとともに有松のまちは発展しました。 町並みの特徴 東海道約800mの区間に沿って、広い間口を持つ絞商の主屋や門・塀が数多く見られます。 比較的ゆったりとした町並みが継承されています。 また、江戸後期から昭和前期までの様々な時代の建物がみられ、全体的にゆったりとした印象の 町並みとなっています。」 『重伝建保存地区並びに町並み保存地区』。左手に『竹田家住宅』。竹田家は、有松絞の開祖竹田庄九郎の後裔で300年以上の伝統を持ち、有松における代表的家系の一つです。江戸末期における屋敷全体は、小田切春江によって描かれた俯瞰図でもうかがい知ることができ、正面外観の様子は、同じく春江の筆「尾張名所図絵巻之六」でも知られます。俯瞰図の右上に描かれている「申々居」は、春江院(緑区大高町)に移築され現存しており、棟の鬼瓦には、家紋の菱印が認められます。主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入りですが、明治から大正にかけて屋根を上げ、しっかりした2階形式にし、表側に下屋(庇)を付設し土庇にしたり、出格子窓を造り、併せて、「申々居」移築あとの敷地に新たに書院が建造され、主屋と書院との間の間取りも大幅に改築されています。また、屋敷内の南方に、築200年以上とされる茶室「裁松庵」がある。同家の造りは、絞問屋としてはもとより、接客用としての性格も強く、右側の門や玄関、書院、茶室などはこれらを具体的に示すものです。外観の偉容は、全盛時代の有松の豪華さを誇った代表的な建築の面影を偲ぶことが出来ます。『竹田家住宅』「市指定有形文化財(平成7年) 主屋一棟、書院棟一棟、茶席一棟、宝蔵一棟、一・二番蔵一棟、縄蔵 一棟、附属棟(西門・長屋門・味噌蔵)三棟当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。 建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。 とくに主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的にたいへん優れている。 竹田家は、屋号を笹加と言う。」看板には屋号『絞染類 笹加』と。のれんの上の屋根に「明治期のガス灯」が残る。有松絞りの傘が入口に。玄関?の看板には「竹田嘉兵衛商店」という会社名も。内部。左側前方に『木全家』、『岡田家』、『山田家』そしてその先に『岡家』。左手に『岡家住宅』が。当住宅は、江戸時代末期の建築で、当時は丸屋丈助の店として、小田切春江の錦絵にも描かれています。敷地は奥行が深く、主屋は木造切妻造二階建、桟瓦葺、土庇付の建物で、二階窓は優美な縦格子、塗篭漆喰塗になっています。お勝手の釜場の壁は、防火上の配慮から柱を巻き込んで塗りこめられた土壁が、独特の波形を描いています。主屋の裏の敷地に、座敷、作業場、東倉、西倉が立ち並んでいます。有松の幕末における典型的な町屋形態を示しています。『広重 東海道五拾三次 鳴海 名物有松絞』駕籠に乗った女性と馬に乗った女性が供を連れて街道を行く。絞りを買いに来たのだろう。主屋 一棟、 作業場 一棟、東倉 一棟、 西倉 一棟当住宅は、江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗籠であり、このような形式では現存する唯一の例で、意匠的にも優れている。『名古屋市指定有形文化財 岡家住宅』。「岡家住宅市指定有形文化財(昭和六ニ年)主屋一棟、作業場一棟東倉一棟、西倉一棟当住宅は江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗篭造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗篭であり、このような形式では、現存する唯一の例で意匠的にも優れている。」『岡家住宅』内部。有松に関する様々な紹介パネルが展示されていた。『有松の町並み』と『有松の沿革』。『江戸後期の代表的な建物』「竹田家住宅(竹田嘉兵衛商店)」『江戸後期の代表的な建物』「服部家住宅(井桁屋)」服部家は1790年創業の絞り問屋。屋号が井桁屋。11棟の建物が県の有形文化財。主屋の2階は黒漆喰の塗り籠造、屋根に卯建が上がる。土蔵は漆喰の塗り籠造、腰はなまこ壁で防火対策を行っている。連子格子、虫籠窓等、美しい姿の江戸時代の建物。『岡家住宅の概要』『明治期の代表的な建物』「中濱家住宅」『その他の代表的な建物』「棚橋家住宅」、「小塚家住宅」、「服部良也家住宅」。『岡家住宅』の屋根の明り採り。この「絞りはっぴ」を着て記念撮影ができるとのこと。畳表も美しく。天井を見上げる。右手にあった建物の郵便ポスト。前方に「名古屋第二環状自動車道」の高架が見えて来た。正月の牛蒡注連の如きものを縦にし連子格子に取り付け花挿に。『小塚家住宅』『小塚家住宅』「市指定有形文化財(平成四年) 主屋一棟、表倉一棟、南倉一棟当住宅は、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。 主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁、隣家との境に卯建があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。 小塚家は屋号を山形屋として明治まで絞問屋を営んでいた。 」「祝 重伝建選定記念」の短冊がぶら下がっている有松絞提灯。提灯を有松絞りの絞りを施して包んでいるのであろう。『重伝建』とは『重要伝統的建造物群』保存地区の事。ここにも『卯建(うだつ)』が。左手にあったのが『文章嶺(ふみのみね)天満宮』社標石柱が。有松天満社がこの先100mの場所にあると。天満社が有松に勧請された年代は詳(つまび)らかでないが、江戸時代後期の『尾張名所図会』によれば次のように記されている。文章嶺(ふみのみね):祇園寺の後の山をいふ。天満宮を安置す。神廟もと祇園寺境内にありしが、寛政の初め、寺僧卍瑞(まんずい)の開基にして、数千人より捧げし詩歌文章等をこの山頂に埋め置き、文政七年(1824年)、その上に今の神廟を基立し、あらたに八ツ棟造りの高廟を構え、以前に百倍の荘厳とはなりぬ。こは当所有信のやから、莫大な資材を寄附せしとぞ。それよりして文章嶺と称す。山の中腹に滝あり。いろはの滝という。これ御手洗なり。また瑞垣の内に、冷泉為泰卿御自筆の御詠をそのまま石に彫りて建つ。今左に記して以て世に公にす。有松天満社の祭神は、菅原道真公。社標石柱の前には『切通し』の文字が。東海道筋の祇園寺東から北へ入り天満社の鳥居までの約 150m程で天満社山道へ導く参道。この切通し入り口には、天保 13 年(1842)建立の常夜燈一対が立ち、それには刻銘が以下の ように刻まれていた。 東側(正面):文章嶺天満宮(右)神徳昭 昭光放家門 祖業繁栄永福兒孫 西側 正面):文章嶺天満宮(左)天保十三年壬寅春正月吉日 竹田庄九郎直行・服部清兵衛守信 久田伊左エ門庸治 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次地蔵堂の先のY字路左に橋があり、この橋を渡ると『有松宿』に入って行くのであった。東海道五十三次、40番目の宿場が鳴海宿。一方の有松は、尾張藩の命によって鳴海宿と池鯉鮒(ちりゅう)宿(知立市)の間に開かれた間宿(あいだのしゅく)。有松といえば、江戸初期に人々の生業として導入された絞り染め。尾張藩の保護もあり、東海道随一の名産品として育ち、「有松絞り」「鳴海絞り」として生産や取引が大きく伸びた。町には重厚な造りの絞り問屋が軒を連ね、大層栄えたのだ。『近崎道』のスタート地点有松の『松野根橋』。有松から近崎村(ちかさき)、現在の大府市北崎町に向かう道が『近崎道』。桶狭間合戦で織田信長や今川義元の両軍がこの道の一部を通ったと云われる道であると。東海道の有松の『松野根橋』の手前を右に曲がる道が出発地点だと。この細い道の先は国道一号線に出るようであった。『手越川』に架かる『松野根橋(まつのねはし)』を渡る。ここからが『有松宿』。有松は、旧東海道の鳴海と知立の宿の間に、慶長13年(1608)に、合宿(あいのしゅく)として開かれた。尾張藩の奨励により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九郎により、絞り染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞は有松名産として、全国にその名を知られた。有松はこの絞と共に繁栄したが、天明4年(1784)、大火が起り全村ほとんどが焼失した。村の復興に当り、建物は従来の茅葺を瓦葺にし、壁は塗籠造り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。商家の建物は、中2階建切妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞の店頭販売の為に、大きく開かれていたが、今は格子がついている。名古屋市は、有松を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物や、町並み保存上必要な物件を定め、古い町並みに調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助を行っている。欄干には「有松絞り」の絵柄が嵌め込まれていた。『有松駅』東の建築物配置図。更に『ありまつ』絞りの暖簾が家ごとに。『ありまつ』しぼりの暖簾。路面のマンホール蓋にも『有松絞り』の絵柄が。右手には白壁・なまこ壁の土蔵が。なまこ壁という名前は、この盛り上がった漆喰の形状が海に住む海鼠(なまこ)に似ているから名づけられたと言われている。このなまこ壁は、風雨から建物を守るため、そして、火災の延焼を防ぐという目的も。雨に弱い土壁の表面に、防湿のために平瓦を並べて貼り、その目地を漆喰で厚く塗ることで耐久性も高まり、長い年月の風雨に耐える造りになっているのだ。古い有松の町並みが前方に拡がる。中2階建切妻平入り、壁は塗籠(ぬりごめ)造り、2階の窓は白の『虫籠窓(むしこまど)』。虫籠窓は、窓の形式の一つで、目の細かい縦の格子が等間隔に並ぶ虫籠格子(むしこごうし)をつけた窓のこと。 虫籠窓は、「虫篭窓」、「虫子窓」、「蒸子窓」とも書かれ、形状が虫籠(むしかご)に似ているところからこの名があるとも、竹を編んで作った蒸子(むしこ、蒸籠)に似ているところからとも。『愛知県絞工業組合』の建物は『森井家』。「『愛知県絞工業組合』では伝統工芸品「有松鳴海絞」の技術の継承、発展、また将来絞り産業に何らかの形で携わる人材を育成するために絞りの体験教室を開設していると。本事業は伝統工芸士による直接指導をする機会を提供することにより、養成された技術を活かし、当産業の絞り技術者として従事し、伝統工芸品の発信する豊かなメッセージによって個人の感性が養われると共に、日本固有の歴史や文化に対応する関心・理解が求められ、伝統的工芸品産業のみならず芸術・文化の継承・発展に貢献することを目的としています。」とネットには。『絞りLab』の看板が入口の上に。『愛知県絞工業組合』先のここにも『地蔵堂』が。中の『地蔵様』。『有松郵便局』にも『ありまつ』の暖簾が。『有松郵便局』を振り返る。右手には板塀のある建物・『加藤家』が。ここも中2階建切妻平入り、2階の窓は虫籠(むしこ)窓。左手の建物・米穀商『永井家』は、店での取扱商品をムーミンがいろいろな衣装で紹介していた。有松絞りの『暖簾(のれん)』が様々な絵柄で。更に有松宿の散策を楽しむ。電柱・電線がモール化されていたのであった。右手に有松絞りを行い繊維製品の製造を行う会社・橋爪合資会社。愛知県名古屋市を拠点とし、有松絞りを行い、繊維製品の製造や卸売を手掛ける。また不動産管理も取り扱う会社とのこと。『有松山車会館』。有松にある山車三輌〔布袋車・唐子車・神功皇后車〕を毎年交代に展示し、まつり文化を紹介している。慶長年間より現在まで400年を経て、まちなみも江戸風情を残し落ち着きと潤いを感じさせてくれるとともに、生きた歴史資料として貴重なものと。この日は残念がら閉まっていたのであった。「布袋車(東町)の山車庫奥に鎮座する大将人形が、七福神の一人・布袋であるところから「布袋車」と呼ばれている。明治二十四年(1891)に玉屋町(現在の中区錦)から有松に譲られた。延宝三年(1675)から若宮祭へ参加している記録は残っているが、いつ製作されたかは明らかではない。この山車には、布袋、文字書き唐子、蓮台を廻す唐子とざい振童子の四体のからくり人形が乗っている。大幕四枚(鳳凰、亀、龍、麒麟)の下絵は、山本梅逸であり、猩々緋(しょうじょうひ)に金糸で刺繍されているのは、市指定文化財の山車では唯一である。毎年10月第一日曜日の「有松祭」に曳きだされる。」『寿限無茶屋(じゅげむぢゃや)』は『服部家』。創業昭和59年2月、ここ町並み保存地区有松で開業。 以来、築100年の名古屋市の「伝統的建造物家屋」の店とともに、町に溶け込むような感じで独特な風情をかもし出しているのであった。店の中程にある大黒柱は、明治後期の濃尾地震、昭和初期の三河地震、二度の大震災のためか、ねじれているのが確認できたのであった。『有松・鳴海絞会館』が左手に。『昭和六十一年十一月十日 皇太子殿下 皇太子妃殿下 行啓(ぎょうけい)記念』碑。「行啓」とは太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫などのお出ましの事。『有松・鳴海絞会館』入口と右側の石碑。左の石碑は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人で幕末、明治維新から昭和の戦前期まで広く影響を与えた『日本外史』(幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書)などの著者、頼山陽(らい さんよう)が1813年11月、有松 井桁屋に一泊することになった時に見た当時の有松の街、絞り染めのすばらしい衣、桶狭間の古戦場を、 頼山陽の感性によて見事に描かれた漢詩・『過 有松邨』であると。右手は『旧知多郡有松町役場跡地』そして『有松・鳴海絞会館』に入る。右に『有松・鳴海絞会館』の案内、左に表にあった頼山陽の漢詩の案内板が。中央の版画は『東海道五十三次 鳴海 (名物有松絞)』。鳴海は絞り染の名産地であり、店が並んでいた。この図は鳴海より約一里東にある有松絞を売る店を描いたものである。建物や樹木を暗く着色し、地面も単純に描き、店の中に目が行くように描かれている。駕籠、馬、徒歩と、女性の旅人が通る。歌川広重「丸清版・隷書東海道五十三次」より「鳴海・名産絞り店」。有松絞で知られた尾張の国、鳴海宿を描いた歌川広重の隷書版東海道五十三次中の一図。この図で、広重は商店や旅籠(はたご)が軒を並べる宿場町の景観を、透視遠近法を用いて描きだしている。伝統工芸である有松の鳴海絞りを知れる博物館のようになっていた。1階は、絞の種類や作り方をパネルで紹介。ハンカチから洋服まで幅広い商品が販売されていた。値段も比較的安いものがあり、土産にも最適ではと。時間があれば、2階は資料館として有料施設になっていた。職人さんの実演も見学が出来るのであったが。左上に、「幕府が管理した江戸~大阪の東海道五十七次」の案内地図が。様々な有松絞りの作品が販売されていた。見事な絞り模様。「代表的な有松しぼり」案内。三浦絞、手蜘蛛絞、縫(杢目)絞、鹿の子絞、手筋絞。実演の紹介コーナー案内も。傘や毛布?やソファー用クッション等も。和服様帯。紅葉も映えて。『有松 名古屋 日本』と。『揚輝荘』のポスター。揚輝荘は、大正から昭和初期にかけて(株)松坂屋の初代社長15代伊藤次郎左衛門祐民によって構築された別荘。かつては迎賓館、社交場として華やぎ、国際的なコミュニティを形成した場所でもあったと。その後、世の移ろいを経て、5棟の文化財と庭園が残されていると。場所は名古屋市千種区法王町2-5-17 。外にある頼山陽の漢詩の石碑の案内がここにも。売 絹 小 市 絹綿の絞を商うこの町枕 隆 坻 両側が起伏した谷間の村で一夜を泊まった聞 説 英 雄 織田・今川の合戦史を聞き此 折 旆 勝敗決して今川方は破れ碧 血 爛 斑 決戦の様相古戦場の姿は 千 載 在 永久に書き残されている纈 文 染 上 九九利染めの古文書を知り 女 児 衣 優雅な衣料を見た 過 有 松 邨 有松の村を通り歩くと邨 民 粥 撮 村人は縫い絞を手業とし縫 為 業 村 村の産業となっている東 即 桶 峡 村の東端に桶狭間がある山陽 外史 妻への土産のスカーフ?を購入して外に出る。この周りが『重要伝統的建造物群保存地区 名古屋市緑区 有松 (染織町)』。『服部幸平家住宅の倉』。「服部幸平家住宅の倉服部幸平家は、西隣り(左側)の絞問屋・服部家から分家した家柄であり、かって屋号を井桁一といった。 明治時代中期、分家の際に譲り受けたこの倉は、切石の土台の上に建てられた木造切妻二階建桟瓦葺で、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とし、江戸時代の様相を呈している。 服部家住宅と一体をなしている点で、有松の街並み景観上、非常に重要である。 昭和六十二年(一九八七)、県の有形文化財に指定された。 」『服部家住宅』。有松の町並み保存地区内にあり、主屋は1階が連子(れんじ)格子、腰は簓子(ささらご)下見板張り、2階は虫籠(むしこ)窓で連続して設けられ、妻側に卯建(うだつ)のある黒漆喰の塗籠(ぬりごめ)造り。土蔵は白漆喰の塗籠造りで、腰は海鼠(なまこ)壁としています。主屋と土蔵は有松の絞問屋の代表的な造りであり、町並み景観を形成する建物の一つ。「服部家住宅服部家は、寛政二年(一七九○)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。 屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。 中央部に店舗及び居住として利用する二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍蔵、門など合わせて十一棟の建物が有力な絞問屋の屋敷造構の典型として、 昭和三十九年(一九六四)県の有形文化財に指定された価値のある遺構となっている。 主屋の二階は黒漆喰の塗籠造、屋根両妻に卯建を設ける。 土蔵は漆喰の塗籠造で、腰は海鼠壁とし、防火対策を行っている。 有松を代表する価値ある建物群である。」『服部家住宅』の入口には『愛知県指定文化財』と書かれた木札が。『有松山車祭り』の写真・『凛として、有松』と。『有松山車祭り』、有松天満社秋季大祭として、毎年10月の第1日曜日の前日及び当日に分かれ、それぞれ前夜祭、本祭があると。前夜祭・本祭・夜祭と構成されている。『有松山車祭り』で使用される山車は名古屋市の有形民俗文化財として登録されており、全3輌が曳きまわされる。夜祭では提灯を灯し、とても幻想的で美しい山車が曳かれ、夜の車切りが行われると。舞妓さんの姿で有松散策の様子も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次桶狭間古戦場の向かいの高台に高野山真言宗の『香華山高徳院』があった。高徳院の創建年代等は不詳であるが、幾多の変遷を経て明治26年(1893)に高野山より寺の名を請い受けて高徳院とした。桶狭間合戦当時にはなかったが、この地は今川義元の本陣があったとされる場所であり、境内には今川義元公本陣跡碑があり、本堂には今川義元公の位牌を安置している。写真右上の朱の塔が『高徳院 永代供養塔 瑜祇塔』。『高徳院』と言う名前はどこかで聞いた覚えがあったが、考えてみると鎌倉・長谷大仏の寺であった。『高徳院 永代供養塔 瑜祇塔(ゆぎとう)』。瑜祇塔は金亀の上に立つ多宝塔を指し、屋根の上に五本の相輪があるのが特徴である。元々のモチーフは、池に映った月と池の亀に立つ瑜祇塔というもの。亀に立つ塔のため「涌亀塔」とも呼称される。平安時代の実運(1105~60)撰『瑜祇経秘決』には、塔の下の「金亀」が「世界建立」を表し、塔の上の五本の相輪(「五峯」)に布された梵字が、金剛界三七尊を表しているという。『仁王門』の『山門』高徳院金剛生門(仁王門)。高徳院は、真言宗高野山において9世紀に「高貴徳王菩薩」を本尊として建立され、明治26年、桶狭間の合戦の戦没者の供養と布教のため、豊明村(現豊明市)に移転された。この金剛生門は昭和62年(1987年)11月に落慶竣工。山門に掛かる「金剛生門」と書かれた扁額。向かって右方が、開口の「阿形(あぎょう)」。金剛、金剛力士といわれる。左手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち、右手は金剛手印。上半身をズームで。彩色が忿怒の相をいっそう際立たせる。心を開き真実を見ることを諭す阿形。衆生を救済するため、門前で諸悪を断ち切る手印とされる右手の金剛手印。下半身。右脚を右斜め前に踏み出して構えている。左方は、口を結んだ「吽形(うんぎょう)」。力士、密迹(みつしゃく)力士ともいわれる。左手は、五指を開き正面を向け、右手に金剛杵棒(こんごうきねぼう)を担ぐ。上半身をズームで。心閉じて、煩悩を断ち切れと諭す吽形。右手で担ぐ金剛杵棒。智恵(ちえ)をもって煩悩を打ち砕く武器。左手の金剛手印。五指を開いた形は、敵の攻撃に対し盾、剣のように敵を切り倒す強力な武器。下半身。左脚は左斜め前に踏み出して構える。そして『仁王門』を潜り境内へ。『今川義元公本陣跡碑』今川義元が織田信長に討たれた地はよくわかっていないらしく、名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園(田楽坪)という説もあるのだと。戦国時代の一ページを飾る重要な場所であるにもかかわらず、ここ豊明市側の桶狭間古戦場跡には資料館ひとつないようだ。別のページには「名古屋市側の説によると緑区にある「おけはざま山」に、豊明市側の説では現在の「高徳院の敷地内」に今川義元の本陣があったとされています。どちらの説が正しいのかは現在も定かではありませんが、名古屋市側の方が今川軍の武将の陣地や信長の進軍ルート、また義元を討ち取った時の様子など具体的な仮説が多いことから名古屋市側有利との声が上がっています。」と。いずれにせよ、それぞれが、ここが本当の「桶狭間古戦場」と主張しているのだと。『大正天皇 東宮殿下御時行啓』碑。『鐘楼』。鐘の中央に、『南無当山代々先師尊霊』の文字が鋳込んであると。角度を変えて。背後に見える建物は、『高徳院愛昇殿』と呼ばれる、葬祭施設。『高徳院持仏堂』。御本尊は弥勒菩薩。石段の上の、一段高い場所に。本堂に掛かる『高徳院』と青字で書かれた扁額が鮮やかに。『徳親龍神堂』。紫の帽子に前掛け姿は、地蔵様の普段着だが、どういった訳か、この地蔵様はポシェットを肩に掛けられていた。これからお出かけでしょうか。『本堂』前の紅葉も美しかった。『本堂』。『本堂』の階段を上がって。『本堂』内部。本尊:高貴徳王菩薩。『本堂』の建物の軒下光景。吊り下げタイプの灯篭。『持仏堂』の奥に『高徳院 永代供養塔 瑜祇塔』が見えた。場所を変えてズームで。境内のこちらの紅葉も進んでいた。竹林の中の『石仏群』。竹林に『石仏群』は似合うのであった。『子安観音像』。小ローソク、お線香が売られていた。『タブの木』の巨木。『松井宗信の墓』。明治9年(1876) 有松の住人 山口正義が建立した。 今川家重臣 松井宗信(二股城主)の墓碑で、隣に七石表二号碑があり、宗信戦死地と伝わる。駿河今川氏の臣。貞宗の子で通称五郎八、兵部少輔。享禄二年、兄信薫の病没後に家督を嗣ぎ遠江二俣城主となる。永禄三年、今川義元勢の先鋒を務めての上洛途中に尾張桶狭間(田楽狭間)で織田信長の奇襲を受け、奮戦及ばず戦死した。そして『香華山高徳院』裏の墓地の奥にあったのは『瑜祇塔』。瑜祇塔は、屋根に5本の相輪がある多宝塔、RC造、高さ29mであると。永代供養納骨堂『瑜祇塔』。『石仏群』。再び『今川義元公本陣跡碑』。香川景樹の『桶狭間古戦場 歌碑』。「跡とへは 昔のときのこゑたてゝ 松にこたふる かぜの悲しさ」。御朱印を頂きました。『高徳院』を後にすると、道路の反対側にあったのが先程訪ねた『桶狭間古戦場跡』。国道1号線に戻ると、中京競馬場駅のホーム下に『よろいかけの松の旧地』碑。信長が桶狭間の戦いで勝利した後に鎧をかけたと伝えられる松が大正12年まであったのだと。直ぐに旧東海道は国道1号線から分岐し有松に向かって進む。そして再び国道1号線に合流するが『大将ヶ根』交差点から旧東海道は再び右手に分かれる。分岐場所にあった『地蔵』様。ここ大将ヶ根の信号交差点を渡ると、私たちは名古屋市へ入って行ったのであった。路面には『東海道』の文字と『弥次さん喜多さん』の姿が。旧東海道を進むが車の数は少なかった。古い建物が左手に。ここは名古屋市緑区境松1丁目。伝統工芸有松絞りの製造元の株式会社・近喜は 創業明治32年より絞りゆかたの製造一筋に110年余の歳月を数えていると。道路脇右手、Le abbollire前の歌碑。「たちならぶ 花にしきと家ごとに かけ渡したる くくり染かな」。と有松染に関する詩。作者は鈴木 朖(すずき あきら、1764~1837)。原典は国学者らしく万葉仮名で書かれているのだと。「多知奈羅夫 波那能二志畿能以敝吾登爾 加計和多之太留 玖々里曽米迦奈」 発巳仲夏 離屋 鈴木 朖。鈴木朖歌碑の直ぐ先、右手に『地蔵堂』が。中には平たい石が祀られていた。そして旧東海道沿いの両脇の建物には『ありまつ』の暖簾が増えて来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次前後駅前交差点を渡った最初の右手筋を入ると、Y字路中央に『地蔵堂』があった。『地蔵堂』をズームで。『地蔵堂』には、陽刻の地蔵尊が祀られており、碑面には文字が刻まれ、道標を兼ねているようである。街道に戻ると5~60m程先の右手に『道標』(写真右)が建っていた。この道標は風化が激しく文字は正確に判読できなかったが、ネットで調べてみると「祐福寺ふくた原道」 「文化四丁卯年」 などの文字が確認できるのだと。祐福寺はここより4km程北にある浄土宗の寺院で、桶狭間の合戦の前日に今川義元が宿泊したと伝えられているのだと。道標の直ぐ隣に連子格子の『旧家』。旧東海道を更に進むと、右手に『神明社社標』と明治43年(1910)の『常夜燈』が建っていた。右手に折れ進んでいくと、その先国道1号線を渡ったところに『神明社』があった。昔の参道が、国道1号線によって分断されてしまったのであろう。『手水舎』。『神明社拝殿』鎮座地は、愛知県豊明市前後町宮前、祭神は天照大神。『末社案内板』。■『津島社』祭神 素戔嗚尊創建勧請年月日は不詳伝説によると寛延二年(1749)五月本殿、拝殿建て替えと同時に創建と言い伝えれれており御神体は現在の愛知県津島市明神町より鎮座と伝えられており、厄除け・諸災害祓い病の御利益がある■『秋葉社』祭神 加具都知命創建勧請年月日は不詳伝説によると寛延二年(1749)五月本殿、拝殿建て替えと同時に創建と言い伝えれれており、御神体は現在の静岡県周智郡春野町より鎮座と伝えられており。鎮火・防火守護神の御利益がある。■『山神社』祭神 大山衹命創建勧請年月日は不詳伝説によると明治五年(1872)七月に三ツ谷部落より勧請したと言い伝えられており、御神体は現在の愛媛県越智郡大三島村より鎮座と伝えられており、家内安全・商売繁盛の御利益がある。鉄柵に覆われた『境内社』。国道1号線への合流地点手前。国道1号線に合流し左に折れ藤田外科病院前を進む。前方に名鉄名古屋本線のガードが姿を現す。ガードの手前、『競馬場前』交差点。交差点角にあった巨大な馬の蹄鉄とその上に競走馬の姿のモニュメント。この場所から3~400m先が『中京競馬場』正門。名鉄名古屋本線のガードを潜る。そして次の信号のある交差点には『桶狭間古戦場』案内標識が。T字路交差点には『桶狭間古戦場まつり』の横断幕が。T字路交差点を左に折れ進んで行く。そして『国指定史跡 桶狭間古戦場 伝説地』に到着。『伝説地』の表示が意味深長なのであった。『桶狭間古戦場伝説地』入口。『史跡 桶狭間古戦場』の石柱が入口に。『古戦場』案内板。「この地は、永禄三年(一五六○)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。 今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和八年(一七七一)七石表が建てられた。 文化六年(一八○九)には、桶狭間弔古碑が建立された。 また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。」一帯は公園になっており、遊歩道を進む。道路沿いの『一号碑』。今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和8年(1771)『七石表』が建てられ、文化6年(1809)には桶狭間弔古碑が建てられた。『七石表(1号碑)』「桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。 明和八年(一七七一)尾張藩士人見弥右衛門黍、赤林孫七朗信之により建てられた。北面 「今川上総介義元戦死所」東面 「桶狭七石表之一」南面 「明和八年辛卯十二月十八日造」と刻まれている。」道路を隔てた竹藪の法面にも多くの石碑や石仏群が立っていたのでこの後に訪ねた。『今川治部太輔吉元(いまがわじぶだゆうよしもと)の墓』『今川治部太輔吉元の墓』。「駿河・遠江・三河の国守、今川義元は西上の途次、永禄三年(一五六○)五月十九日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。 ここには、その霊が祭られている。以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治九年五月に、この墓を建てた。」『桶狭間の戦いと進軍ルート図』と『桶狭間古戦場 石碑配置図』案内板。戦国時代の武将である今川義元(いまがわよしもと)は、三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)の領主でしたが、さらに領地を広げるために、織田信長の領地である尾張への侵攻の機をうかがっていました。鳴海(なるみ)城、大高(おおたか)城を織田家から奪った義元に対し、信長も鷲津(わしづ)砦、丸根(まるね)砦を築くことで対抗します。このような動きを阻止すべく義元は1560(永禄3)年に国境の沓掛(くつかけ)城に入城します。義元の命により松平元康(のちの徳川家康)は丸根砦と鷲津砦を落とし、信長は義元への応戦を決意します。信長は5月19日の明け方、出陣前の清洲城において「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」というフレーズで有名な幸若舞(こうわかまい)の「敦盛」を舞います。清洲城を出発した信長は、熱田神宮で戦勝を祈願します。信長はこの熱田において鷲津砦と丸根砦から煙が上がっているのを知ったと言います。昼になり信長軍は中島砦より出撃を開始します。3,000という少数の兵で進軍した信長軍は、相手に気づかれることなく桶狭間で休息中の今川義元本陣を急襲しました。この急襲に際し信長は「運は天にあり、敵が懸(か)からば引け、退けば押せ、個々の巧名争いを避け、常に組織的に行動せよ」との訓示を兵に与えました。先遣隊が敵を引き付けて、残りの2,000の兵が本陣を攻めたのです。この際、空が曇り大風雨が起こります。敵の攻撃拠点を落とし安心していた義元ですが、豪雨が止んで視界が開けると信長軍が目前に迫っており、急いで陣を引き払い退却します。しかしこの退却の混乱の最中、義元は討ち取られてしまいます。『桶狭間古戦場 石碑配置図』案内板。七石表は、古戦場伝説地の中で一番古い史跡で、明和8年(1771)12月18日に尾張藩士人見弥衛門・赤林孫七郎により建立された。全部で7本あり、全てに「桶峡七石表之一」と彫られ、6本は伝説地内にあり、一号碑には、「今川総介義元戦死所」と刻まれている。二号碑は高徳院墓地内にあり「松井八郎塚云五郎八」と彫られている。『桶狭間古戦場の古絵図と古写真による変遷』案内板。『桶狭間合戦戦場 地形図と戦いと進軍ルート』『今川義元公 生誕 五百年』案内板。『今川義元公 肖像画』以上の案内板の前で、ボランティアのオジサンが我々二人に『熱く』説明してくれたのであったが知識不足の私には少し辛い時間でもあったのだ。『桶狭間古戦場趾 愛知縣』石柱。『弔古碑』。下記の如き内容が書かれているのだと。1、永禄3年駿河の今川義元侯が西へと軍を進め、5月19日桶狭間山の北に陣をしいた。 織田公奇兵をもって之を襲い義元侯を滅ぼした。2、今川義元は大軍を率いて尾張に侵入、鷲津・丸根の砦を攻めて陥落させ 『明日、朝食する頃には清洲城は取れているだろう』と豪語 した。家臣たちは勝利を祝賀し、 陣中で祝い酒が出された。その時、黒雲が沸き起こり暴風雨となった。 織田軍が攻め込む振動音と鬨の声が背中のほうから聞こえたが、誰も突然襲われると思って おらず、本陣は大混乱となり、格闘するが2500人の死者が出た。この碑を建立した津島神社の神官 氷室豊永は、この戦いで戦死した今川家の重臣 松井宗信の子孫で、24歳で氷室家に養子に入った。 碑文の内容は、松井家に代々伝わる今川側の「戦いの状況」と思われる。 また、碑を建てるに当たり、この文面と建立場所は尾張藩の初代藩主徳川義直書いた『成功記』と一致しており、尾張藩は正しいと認め、建立を許可した。と。「弔古碑文化六年五月(一八○九)津島の神官、氷室豊長が建てたもの、碑の表面は「桶狭間の戦い」を回顧する文と往時を偲ぶ詩、裏面には建碑の趣旨が彫られている。 文章は尾張藩の儒学者秦鼎(号は滄浪、字は士鉱)、碑面の文字は尾張藩の大阪用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。 石工河内屋孫右衛門の手により刻されたものである。 」『3号碑』。桶狭間大きさ15×15×95 (全長123.5cm) 東 人見弥右面門あつし 赤林孫七郎信之西 士隊将塚南 本田尚澄書北 桶峡七石表之一『4号碑』。大きさ 15×15×84東 人見弥右衛門あつし 赤林孫七郎信之西 士隊将塚北 桶峡七石表之一『5号碑』。大きさ 15×15×90東 人見弥右衛門黍 赤林孫七郎信之西 士隊将塚北 桶峡七石表之一『6号碑』。大きさ 15×15×90西 桶峡七石表之一南 士脇将塚『7号碑』。大きさ 15×15×105東 人見弥右衛門疫 赤林孫七郎信之西 士隊将塚北 桶峡七石表之一小さな池には水はなかったが石橋が。『句碑』が小高い場所に。『香川景樹 句碑』歌人香川景樹(桂園派の巨匠)が江戸での会派獲得の為、京より出府した。 だが失敗、失意の帰郷のおり文化15・文政1年(1818)、この地を訪れ弔古碑の前で詠った歌が刻まれているのだと。「あと問へば 昔のときの こゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ 景樹」小高いこの場所には『東屋』。『東屋』。『とよあけ桶狭間 ガイドボランティア案内書』とトイレ。古戦場伝説地の脇の道路を挟んで反対側の高台には「高徳院」という寺が堂宇を構えていた。実はこの高徳院の斜面に多くの墓石や石仏群が安置されていた。道路を渡る。『徳本行者名号塔』江戸中期の浄土宗の僧。庶民の教化に努め、その足跡は畿内・北陸・東海・関東に及ぶ。桶狭間古戦場を訪れたことは明らかで、豊明市内に数基建てられている。『今川義元の仏式の墓碑』。万延元年(1860)建立者は「某」と刻まれて不明。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔形式で、戒名が刻まれている。 そのため「今川義元仏式の墓」と呼ばれている。『阿闍梨諦念墓』 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年1月19日(日)、『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日。前日の出発予定であったが、箱根周辺の積雪が予想されたため1日出発をずらす。そして、この日の朝も箱根の山越えは、路面凍結の可能性があるため、茅ヶ崎から県央自動車道、東名高速道路で富士川スマートICまで行き。ここから一般道に降り西に進んだのであった。そして、前日1月17日~18日の降雪で車窓からの富士山や周囲の山々は白く輝いていたので車窓からカメラで追いかけ続けたのであった。これぞ『絶景かな!!絶景かな!!』。圏央道の下河原付近からの富士山をドアのガラス越しに。ズームで。目久尻川の橋を渡って。大山も全面に積雪が。海老名JCTから。新東名高速道路に入って再び大山を見る。東名高速道路のバス停『東名大井』手前から。周囲の山々も樹氷の如くに。東名高速道路・左ルートを走る。駿東郡小山町小山付近から。富士山の南に広がる愛鷹山塊(あしたかさんかい)。愛鷹山は富士山の南隣に位置する火山。最高峰は標高1504.2mの越前岳。そして富士川SAにてトイレ休憩と絶景撮影。南面の雪は溶けて?富士市内の紙パ工場の煙突からは白き蒸気がもうもうと。愛鷹山塊。左から越前岳、そして中央に位牌岳、右に愛鷹山。越前岳をズームで。愛鷹山をズームで。富士山頂。富士川サービスエリアのビューポイントから。『覗き富士・穴富士』から。『絶景かな!!』。そして『薩埵峠』に向かうことにする。『薩埵峠』薩埵峠に向けて旧東海道の狭い道を上って行く。そして薩埵峠の駐車場に到着。この駐車場は、かつて山之神、「鞍佐里(くらさり)神社」が祀られていた場所だと。薩埵峠展望台を訪れるのは今回で4回目。「薩埵峠山之神遺跡」の石碑。「薩埵峠山之神遺跡」の石碑の隣に、幸田露伴の次女である「幸田文(こうだあや)・文学碑」があった有名な随筆「崩れ」の中の一節が刻まれていた。『由比の家ある風景をみると、その安らぎがあってほっとしたのだが、佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう。 草木のあるなんでもない山なのだ。だが、そこを見ていると、なにかは知らず、土よ、いつまでも平安であれ、と念じていた』と刻まれていた。奥に向かって歩くと木製の小さな展望所があった。展望所からの絶景!!富士山とその右に愛鷹山塊。足下の交通路は海側から東名高速道路の上下道、国道1号線の上下道、JR東海道線が見えた。東名高速道路はこの展望台の下からトンネルに入るのだ。安藤広重(歌川広重)の浮世絵「東海道五十三次 由井」さてさて、安藤広重の浮世絵と比べてどうでしょうか?崖の様子がだいぶ異なる事が解ります。浮世絵ということでデフォルメされていることもありますが、もうひとつ理由があるのだと。それは安政の大地震の影響だと。現在は私の写真のように、薩埵峠の崖下に道路が通っています。ところが江戸時代までは、浮世絵のように断崖絶壁の下は海であり、道路を作れるような陸地は無かったのだ。江戸末期(1854年)の安政の大地震により地面が隆起して陸地ができ、海岸線の通行が可能になったとのこと。それにしても『絶景かな!!絶景かな!!』4回目にして、初めて雲ひとつ無い快晴の下、白銀に輝く富士山の姿を見ることが出来たのであった。そして、昔の東海道五十三次を旅する人もこの景色を見て癒された事だろうと思いながら興津に向かって薩埵峠を下ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2019年11月23日(土)、『旧東海道を歩く(豊明駅~桑名宿)』の1日。岡崎城近くのホテルに前夜泊し6:30からの朝食を取る。この日は『旧東海道を歩く』のスタートとなる豊明駅近くまで車で行く事とする。前回の『旧東海道を歩く』で訪ね残った刈谷市今岡町日向にある『洞隣寺』の何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)『中津藩士の墓』を訪ねた。『本堂』左手最奥に『中津藩士の墓』はあった。これは、前回の『旧東海道を歩く』の『洞隣寺』のところで「ブログアップ済み」。👈リンク。そいて豊明駅前の「豊明駅東」交差点手前角の駐車場に車を駐める。24時間で500円の格安駐車場。そしてまずは『豊明駅』前を訪ねた。駅前ロータリーの隅にあった彫像。平成9年8月設置の鷲見香治氏作の『花舞』という作品。『舞』の文字が、ひまわりの花であろうか。旧東海道に戻り直ぐに右の路地に入ると『むつみ保育園』が左手に。真宗大谷派西蓮寺にて農繁期託児所をしていたのが基となり、昭和24年5月に豊明市で最初の保育園として、私立むつみ保育園を開設したと。そしてその先左手にあったのが真宗大谷派の『西蓮寺』。西蓮寺は、明応年間(1492-1501)の創建で、了祐による開基である。本尊は阿弥陀如来。『怡雲山西蓮寺』と刻まれた寺標と境内の『鐘楼』。『鐘楼』とその奥に『本堂』。早朝の為、まだ山門は閉まっており境内には入れなかった。境内には親鸞聖人幼少像もあるようであった。更に狭い路地を進むと右手にあったのが『照栄寺』山門。『曹洞宗 瑞雲山 照栄寺』は、桶狭間十三佛巡りの第5番の寺で御本尊は阿弥陀如来 。豊明市の汚水マンホール蓋は「桶狭間古戦場」のデザインと。そして旧東海道(国道1号線)に戻り進み「正戸川」に架かる「正戸橋」を渡り直ぐに右折し「正戸川」沿いに進むと正面に『琵琶ケ池水辺公園』がありその手前に歌碑が。『東屋治平(あずまやじへい)の歌碑』「水鳥の友 呼つれておもしろや 松が琴弾ひ わか池かな」「琵琶に合わせて松が琴弾く風情のおもしろさに水鳥も仲間入り。嘉永元年(1848)画工小田切春江によって刊行された、「名句小景」に載る。詠み手は知多半田、東屋治平である。」『琵琶ケ池水辺公園』の紅葉。そして県道57号線下に戻り「池下」交差点を右に曲がり県道57号線下を潜り旧東海道へ。『けやき通り』が『旧東海道』。『東海道』を進むと直ぐに『阿野一里塚跡』に到着。写真は街道左の南塚であるが、 ここは江戸日本橋から数えて86里目の一里塚である。『国指定史跡 阿野一里塚』。塚上に文化5年(1808)の道標、そして『市雪句碑』が建っていた。 『春風や 坂をのぼりに 馬の鈴 市雪』。「東海道の阿野一里塚から 「前後」 に向かって坂を登りつめると、名医のほまれ高い三田邸があり、「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる。」 の意である。 この句は愛知郡下之一色の森市雪の作で、嘉永元年(1848)刊の 「名区小景」 に載る。」こちらは街道右の『北塚』。右手に『史跡阿野一里塚碑』。『国指定史跡 阿野一里塚』。「徳川家康は慶長9年(1604)、すでに整備した東海道の宿駅・伝馬制に加えて、道の両側へ塚を築かせ、一里ごとの目印とした。 県内の東海道には、18の一里塚があったが、現存するのは4か所、そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と、知立市のみである。 昭和11年12月に指定を受けた。」更に旧東海道を進むと左手にあったのが『豊明市立豊明小学校』。『豊明市立豊明小学校』の入口にも『石碑』が。校訓の「強く 正しく 明るく」と刻まれているようであった。更に旧東海道を西へ進む。先に進むと豊明小学校の先左手に、医家であった三田家の庭内に明治天皇東阿野御小休所碑が建っているのであった。右手に『坂部善光寺』・『坂部区公民館』。『坂部善光寺』は、三田柳庵が善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像を受け、開眼供養したもの。公民館前にあった『坂部善光寺の由来』。「坂部善光寺は、地元の三田家11世医師三田柳庵氏が明治5年に善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像をお受けし、開眼供養したことから始まる。明治28年には三田柳庵氏から同寺建設用地を提供され、地元有志によりお堂を完成させ、併せて善光寺別当大勧進に寄進された。 それとともに地元信徒の賛同を得て、善光寺講を結成し、戦後の混乱期まで法燈を守ってきた。昭和22年、本堂の傷みも激しく、一旦本堂を取り壊し、仮建物内に弥陀尊像を仮安置した状態が続いてきたが、昭和61年、本堂跡に建てられていた坂部公民館改築、 同時に老人憩いの家建設の計画を機に、仮安置のままであった坂部善光寺本堂の再建とともに坂部善光寺の再組織が図られた。さらに坂部善光寺の再建をより強力に推進するとともに、同寺を地域の人々が末永く支えお祀りしていくために同敷地の所有権が善光寺大勧進から坂部善光寺講に譲渡され、その後坂部区に移転された。」『坂部善光寺』から程なく、前後駅前交差点の右角段上に真宗大谷派の『上宮山西雲寺』が。そして階段の上に『山門』も。『真宗大谷派 上宮山 西雲寺』寺標石碑。『本堂』『鐘楼』。ズームで。『前後駅前』交差点。とりわけ印象に残った駅名『前後駅』。いったい何が「前」で、何が「後」なのか?こんな変わった駅名は日本でここだけではとネットで調べてみました。ネットには下記の如くの説明があった。【https://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=501&comment_sub_id=0&category_id=190&page=2】より転載させて頂きました。「昔この近くの桶狭間で信長が今川義元を破ったという話は有名で、この戦いで亡くなった兵士たちの首を「前後」に並べたところから生まれたという伝説があります。駅から10分余り歩いた小高い丘の上に「戦人塚」という塚が残されています。永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いによる戦死者を地元の曹源寺の和尚が弔ったものとされています。でもこの説は、後世の人の作った語だと考えておきましょう。「前後村」という村名が生まれたのは明治初年のことと言われています。それまでは「五軒家新田」という村でした。その「五軒家新田」のルーツは江戸時代の初期の「間米(まごめ)村」にまでさかのぼります。その「間米村」の枝郷として次の3つの集落ができたのは17世紀のことでした。 「五軒家」…慶安元年(1648) 「八ツ屋」…寛文年中(1661~73) 「三ツ谷」…出来年不詳これらの数字はいずれも軒数を示しています。東京の「四ツ谷」も同じです。間米村の本郷(元の村)から見ると、「八ツ屋」は南に位置し、「五軒家」はさらに南にありました。本郷から見て「南」にあるので、「前郷」(ぜんごう)と呼ばれたという話です。でも、これだけではまだ納得できませんね。「南」にあれば「前」になるかと言えば、そんなことはないはずです。北半球では「南」が「前」で、「北」が「後」というのは何となく言えても決定的な根拠にはなっていません。その決定的な根拠は実は「東海道」にあったのです。間米村の南に位置する五軒家新田は旧東海道に面していました。今でも前後町の「五軒家」として地名は残っています。何といっても「東海道」は人々の往来による文化の流通ルートでした。周りの村々から見れば「前」に見えるのは当然の結果と言えるでしょう。この五軒家新田はそれ以降間米村の「本郷」に対して「前郷」と呼ばれるようになり、それがいつの間にか「前後」に転訛したというのが真実です。「前後」の「後」には意味はなかったのです!」と『前後駅前』交差点の時計塔は8:20を示していた。『とよあけし おすい マンホール蓋』のカラー版。「桶狭間の戦い(1560年)」の舞台となった地が豊明で、国指定史跡の「桶狭間古戦場伝説地」など、織田信長と今川義元にゆかりのある史跡が数多く遺されている。このデザインの蓋は1988年の下水道供用開始からだそうだが、カラー盤が路上に設置されたのは2017年からであると。これも『朝』・鷲見香治氏の作品。三体の裸婦像。鳥のさえずりが聞こえてくるような、爽やかな朝の風景を描いたものでしょうか。こちらは『きのっぴい』。設置当初は定時に時計の周りの人形が動いていたと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『本興寺』を後にし、もう1箇所の立ち寄り予定の『古宮城跡』に向かう。『古宮城』は元亀2年(1571)に奥平氏監視のために、武田信玄の重臣・馬場美濃守信房が甲州流の縄張りで武田軍の最前線基地として築城。2年後、奥平・徳川連合軍の攻撃により自焼陥落した。現在も縄張りがほぼ完在しており、城郭ファンにおススメの城跡とのこと。市指定天然記念物の大ヒノキが虎口にある。浜名湖の北側の国道301号線を走る。右手に奥浜名湖の『松見ヶ浦』が。猪鼻湖を右に見ながら進むと三ヶ日町に入り国道362号線に合流し、ここを左折して『高橋』交差点を右折。国道301号線をひたすら北上。県道392号線に入り新城市にある豊川に架かる野田城大橋を渡る。そして国道301号線を北上すると新東名高速道路の高架をくぐる。『古宮城跡(ふるみやじょうあと)』は「愛知県新城市作手清岳字宮山15ほか」にある「続日本100名城」となっている城。続日本100名城のスタンプは『作手歴史民俗資料館』に置いてあるとのこと。そして開館&スタンプ押印は15時までとのことで小雨の中急いでなんとか到着。時間は14:56。『作手歴史民俗資料館』の建物。この建物は、周辺に数多く点在する城郭から城風の外観となっていた。『作手歴史民俗資料館』正面。『作手歴史民俗資料館』入口は天守風。階段横には少女像『ふれあい』と『ポットホール』と『力石』『ポットホール』とは、川底にある岩が、水流で回転する石や岩によって徐々に徐々に削られてできた穴のこと。穴単体のものもあるし、穴を作った石や岩自体が穴の中に残っているものもある。館内に入ると作手地区のジオラマが。『作手歴史民俗資料館』の中には民家が再現されていた。民家の部屋の様子。懐かしき農具も。湿原のジオラマ。『続日本百名城認定書 古宮城』スタンプを頂きました。係員の方に尋ねると閉館後や休館日など、不在時のスタンプ置き場は『国道301号線へ左折した200mほどの、Y ショップ(コンビニ 7:00~20:00)にておすことができます』とのこと。慌てて車を走らせて辿り着いたのであったが・・・。『古宮城跡』に向かって車は戻る。途中ガソリンスタンドで給油。この日は11月22日でオロナミンⅭをもらえる「勤労感謝の日」。」何故かそして本来は車1台につき1本のところであったが、2人で『オロナミンC』を3本頂いたのであった。そして『白鳥神社』・『古宮城跡』に到着。白鳥神社は日本武命を祭神とし、村民は古宮と称して崇敬したという。 例祭日は10月7日。神社の裏山が古宮城址で、元亀2年(1571)甲斐の武田信玄が三河の徳川家康攻略の拠点として馬場美濃守信房に命じて宮山(標高580m、比高差80m)に築城、県内唯一の甲州流築城術といわれた。要害を誇ったこの城も天正元年(1573)8月、奥平・徳川連合軍の攻撃により自焼陥落した。古宮白鳥神社の社殿の前には 「新城設楽の巨木・名木」に選ばれている杉の大木が、社殿の裏には 市指定天然記念物の 大ヒノキ があった。『古宮城跡案内板』「当城址は甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため、宿将馬場美濃守信房に命じ元亀(1571)に築城したと伝わる。城址は南北約200m、東西約250mの独立した小山全体からなってぃる。当時は南東北の三面か湿地になっており、西方は塞之神械に通じ主腰部が東西に分かれた一部別郭式の要害堅固な城であった。北側から南側にかけて、中央郎に全長140mの豪壮な堅濠があり、東城と西城に分離している。この堅濠な北側下端には、井戸址と、三方を高さ1.5mの土塁で囲んだ約2.5aの溜池がある。西城の本曲輪は、約4.2aで、その東側土塁には左右2箇所の虎口を設けているのが特徴である。また酉五重の濠を擁して西方からの攻撃に備えてぃる。東城は頂部において幅約4mの通路で西城とつながり、約3.8aの本曲輪に並んで二の曲輪がありその北部は多数の曲輪が見られる。東側下端は長さ250m最大幅30mの馬場を備えており県内唯一の甲州流築城といわれる。尚、肇害を誇ったこの城も天正元年(1573))に奥平・徳川連合軍の手によって落城した。」『村社 白鳥神社』社標石碑と石鳥居。扁額は『古宮白鳥神社』。『白鳥神社』拝殿。境内の南側から眺めた、白鳥神社の拝殿光景。ネット情報では、『天和3年(1683年)再建された。新城市裏野にある曹洞宗永住寺(新城市)の有する銅鑼は、もと当社が有していたともいう。この銅鑼は長享2年(1488年)の紀年銘がある』との記述もあった。新城市作手清岳宮山に位置し、古宮城址の一角になります。古宮城が造られる前からあった神社の可能性が高いとのこと。白鳥神社脇の階段の光景。古宮城が現役時代には、西側の虎口を経由する以外ほかにはなかった出入口の階段。古宮城を築城した馬場信春(信房)は、戦国時代の武将で、武田四天王の一人に数えられると。教来石氏時代に足軽大将の山本勘助から城取(築城術)を教授されたと伝わり、後に築城の名手と称せられたと。階段を上ると小さな祠が。これは境内社か?『大ヒノキ』の案内板。更に進むが、『大ヒノキ』は姿が見えなかったので諦めて引き返す。ネット情報によると大ヒノキのある場所は、古宮城址の両袖枡形虎口と呼ばれる枡形(ますがた)の上とのこと。樹齢が600年以上のとても古いヒノキで、幹周5.85m、樹高29mと。 【http://tree-flower.jp/23/furumiya_hinoki_1998/furumiya_ohhinoki.html】より。古宮城址の見学の後、前方の山を見ると『亀山城址』と書かれた案内板があった。『亀山城』は、応永31年(1424)に奥平貞俊によって築城された。貞俊は、天授年間(1375~1380)に現在の群馬県からこの地に移り住んで川尻城を築いた後、亀山城を築城してここに居城したとされている。その子孫は、この地で支配者としての地位を確立し、後に山家三方衆と呼ばれる有力土豪となった。16世紀になると、今川氏、松平氏、織田氏といった武将の配下を転々としながら、天正3年(1575)に徳川方となって長篠城の城主となった奥平貞(信)昌の長篠の戦いでの功績により、奥平氏は歴史に名を残すこととなった。存続期間については、応永年間から城主が長篠城へ変わる天正年間の時期と慶長7(1602)~15(1610)年に奥平信昌の四男 松平忠明が城主となっている2時期が知られている。前方にあった『道の駅 つくで手作り村』でしばし散策&休憩。『石橋城(弾正屋敷)址・慈昌院 』が道の駅の前方にあった。この石橋城(別名:弾正屋敷)址は現在「石橋山 慈昌院」と呼ばれ、ご本尊に釈迦如来を安置し、臨済宗のお寺となっている。作手三弘法 の一つ。「 天文6年(1537)9月22日一族奥平弾正(父は貞久の二男久勝)は公(貞勝)の若年なるに乗じて、不軌を図らんとす。公之を探知するや土佐定雄(貞久公の五男和田出雲貞盛二男)をして、その居館を急襲せしむ。定雄賜う所の長槍を揮うて弾正をたおす。」 と、中津藩史貞勝公の条に記されているのだと。そして東岡崎に向かって車を進める。車窓の紅葉、黄葉を楽しみながら進む。『鬼久保ふれあい広場』のモニュメント。愛知県道37号岡崎作手清岳線を進む。左に行くと『こども自然遊びの森 わんPark』。その後、昔訪ねた『くらがり渓谷』の前を通過し進む。県道37号線の上の『新東名高速道路』。真下から新東名を見上げる。そしてその後、国道1号線に入り、以前歩いた道も通過しながら東岡崎駅近くにあるホテルに到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『本興寺』大書院、庭園を後にし、参道を本堂に向かって進む。参道の左側には『定』が。『定』。「静岡懸濱名郡鷲津町 法華宗 本興寺 ー、建物ヲ汚瀆毀損スルコト 一、午睡又ハ遊戯ヲ為スコト 一、喫煙ヲ為スコト 一、猥リニ火ヲ用ユルコト 一、土足又履物ノ儘上ルコト 一、建物ニ落書スルコト 一、建物ニ廣告等丿類ヲ貼付又ハ打付ルコ卜 右各條ゝ堅ク令禁止者也」右手に『中門』。先程内部を訪ねた『客殿』。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされていた。平成23年度から24年度の行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺型銅板葺きに変更されたのだと。木々の中に石碑が。最初の『花』の字は判ったが・・・。『句碑 星野立子「花の寺 静かな人出 中に歩す」星野立子は、俳人・高浜虚子の次女として東京に生まれ、昭和初期の女流俳人中村汀女とともに双璧と並び称されます。この句は本興寺花祭りに訪れた際に詠んだもので、句碑は昭和五十二年に建立されたものです。本堂入口の木柱『南無妙法蓮華経 奉備門祖南無日陣尊聖人第六百御遠忌併修本堂保存修理落慶法要報恩謝徳之妙塔也』『本堂』への階段横にも句碑が。句碑。『詠 北原白秋』「水の音 ただにひとつぞきこえける そのほかはなにも 申すことなし」階段の両脇には『開山杉』。「開山杉樹叫六百年余と推定きれるこの老杉は、永徳三年(一三八三)門祖日陳聖人の東海巡科の折、改宗した当山の開山杉として植えられたものと伝えられています。京都本山本禅寺を建立された日陳聖人は、応永十三年(一四〇六)越後への帰路に再び当山を訪れ、寺門の隆盛を喜ばれ、開山記念として杉樹を御手植えされたと伝えられています。樹齢:約六百三十年樹高:約十六メートル(落雷により樹高止まる)胴廻:右・・四・四メートル 左・・三・七メートル科目:スギ科スギそして『本堂』。『常霊山大悲院本興寺』「本堂当寺はもと真言宗の寺院で、永徳三年(一三八三)に開山日乗聖人により法華宗に改宗したといわれています。戦国期には今川氏や徳川氏から寺領を安堵され、天文二十一年(一五五二)九世日礼の代に再建されました。建物は桁行五間・梁間五間の茅葺で、大仏様・禅宗様の二様式と、伝銃株式てある和様を巧みに取り入れ、三様式を折衷した室町時代の特徴をよく遺しています。本尊は本仏釈迦牟尼世尊及び十界勧請の諸尊を祀っています。」『國寶本堂』と刻まれた石柱。本堂は約百六十七平方m、寄せ棟造りのかやぶきで密教様式の構造。本興寺の金原日達住職(83)によると、室町時代の建築様式をよく残しているとして、一九〇七年に特別保護建造物に指定、さらに国宝指定されたが、五〇年の文化財保護法で重文に変更された。建築年は不明だが一五五二年に修復した棟札が残り、建物は当時のものとされる。伝統様式である和様式に、鎌倉時代に宋より輸入された唐様(よう)(禅宗様)や天竺(てんじく)様(大仏様)など二様式が巧みに折衷されているのが特徴という。2019年2月に本堂の茅葺屋根の葺き替えが完了したと。『国指定重要文化財』本堂 壱棟天文二十一年(一五五二)建立天竺、唐、和三様式折衷の建造物 三宝諸尊安置『本堂』内部をと。『本堂内部』。更にズームして。『本堂』の右側周辺。『本堂』を斜めから。『三十番神堂』。『三十番神堂』「番神堂は、日替わりの守護神である三十番神を祀る建物で、文明4年(1472)五世日暹の代の創建。現在の建物は文政4年(1821)二十九世日壇の代に再建されたものです。建物は前舎・後舎にわかれ、前舎は桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、前方に一間の向拝があります。前舎の背面に接続する後舎は切妻造りで、三十番神を安置した客殿があります。前舎、後舎とも桟瓦葺きでしたが、平成25年度の保存修理工事により、瓦葺き型銅板葺きに変更されました。改修前の屋根は、中央に二つの峰を持つ特殊な瓦を配置し、左右逆方向に瓦を葺くという特徴的なものでした。」『弁天堂』。『弁天堂』「元禄13年(1700)19世日芳の代に大檀那渡辺越中守方綱(正綱)夫人の寄進により建立されました。音楽、弁財、財福、智慧の徳がある弁財天女が祀られています。嘉永3年(1850)32世日宗の代に再建され、京都の岩倉実相院義賢大僧正の扁額があります。」『鐘楼』。『鐘楼』「宝永2年(1674)17世日観の代、上総国佐貫藩主松平山城守重治夫人の発願により建立されました。入母屋造りの袴腰付き鐘楼で、組物など細部の意匠に技巧的な特徴が見られます。文政5年(1822)二十九世日壇の代に再建、大正4年(1915)三十八世日受の代に修復されました。昭和17年(1942)、太平洋戦争に伴い梵鐘は供出されましたが、昭和34年(1959)四十三世日猷の代に口径二尺七寸の大梵鐘が再鋳され落慶法要が営まれました。」『本堂』前から『山門』への参道を見る。墓石群。広い墓地。『西郡局供養塔』『法界供養塔』と。『西郡局供養塔』「西郡局は、三河国西郡(蒲郡市)の城主鵜殿長忠の娘。長忠の父鵜殿長持は、天文21年(1552)本堂建立に尽力した人物です。西郡局は永禄7年(1564)徳川家康の側室となり、翌年、岡崎において家康の二女督姫を生みました。慶長11年(1606)伏見城において没し、京都本禅寺に葬られました。法号は蓮葉院殿日浄尊儀。当山十世日梅は、西郡局の舎弟に当たることから遺品を納めて供養塔を建立しました。」様々な墓石が。『千仏堂』。『千仏堂』「千仏堂は、元禄13年(1700)十九世日芳の代、渡辺越中守方綱(正綱)夫人の発願により建立、天保13年(1842)三十一世日融の代に再建されました。渡辺方綱は、寛文8年(1668)武蔵国野本藩主となり、延宝8年(1680)没。方綱夫人が娘で方綱の養子基綱夫人の息災延命を願って千体仏とともに寄進したものです。構造は桁行・梁間ともに三間、屋根は宝珠造で単層の桟瓦葺きで、細部の手法から禅宗様の建築様式を備えています。」『千佛堂保存修理竣工記念』。『西郡局供養塔』、『鐘楼』そして『本堂』を見る。『客殿』を正面から。『客殿』。「客殿は寛永14年(1637)、13世日渕の代に建立され、安永2年(1773)25世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています。平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き?型板葺きに変更されました。」『客殿』を斜めから。工事中であった『中門』。『中門』「大書院の本玄関に通ずる中門は、朱塗りの門であることから別名朱門(あかもん)とも呼ばれています。貞享3年(1686)十七世日観の代の建立とされ、本柱と控柱の直上に切妻屋根を載せた薬医門といわれる門です。薬医門は、元来桃山時代創始の城門の一種でしたが、江戸時代には寺院の門として多く用いられました。当初は、客殿正面に建てられていました。」「夕早き庫裡のはひりは日たむろと 築地めぐらして朱き中門 北原白秋」『護國塔』。『大黒堂』。『大黒堂』。「貞亨元年(1684)十七世日観の代の建立で、延亨元年(1744)二十二世日禅の代に再建されました。現世安穏、後世善処を願い招福、開運、学問増進の神である大黒天が祀られています。建物は、桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、外陣の外側には扉や板壁などがなく、吹き抜けになっているのが特徴です。」そして参道を山門に向かって進む。本興寺 掲示板。『本堂』を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『奥書院』から『遠州流庭園』を見る。奥に見える屋根は『大書院』の屋根。『大書院』は、二十九世日壇の代の文政10年(1827)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立された。完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の対十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水壁画」が描かれ、このことから当寺は「谷文晁寺」とも言われている。下段の間には岸良筆の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれていた。『谷文晁の間』『文晁之間』本興寺 大書院襖谷文晁筆大書院は、文政十年(1827)建立、上段の間十五畳、中之間十八畳、岸良の間十八畳からなる。『花鳥図屏風』(左)と 『四季山水図』の『秋の景色』(右)『花鳥図屏風』『花鳥図屏風』 1双「作者製作不詳「桃山風金屏風」と伝えられ、群青や緑青豊かん花鳥が描かれている。吉田城久世広之の寄進と伝えられる。」「六曲屏風二帖」=「六曲屏風一双」。『谷 文晁』「詩人谷麓谷の子として、宝暦恰三年(一七六三)江戸に生まれた。画をもって田安侯に仕え、松平定信の庇護を受けた。円山派の波辺南岳、北山寒巌の北画風をはじめ、宋、元、明の諸家の名蹟に学び、あらゆる画風の長をとって折衷した。山水、花鳥、人物など一つとして可ならざるはなく、大和絵までこなし、光琳瓜、四条派瓜をとり入れるなど。その画風は江戸期の全流派を集大成した感じがある。旅を愛し、最も得意とするところは山水画で、北宗的な堅い筆法と南宋的で柔和な空問のひろがりを総合して一派を創始、南北総派の祖といわれる。山水画の中でも三十歳前後の作品は、賦彩や濃淡のニュアンス、構成の新しさにおいて当代無類、江戸第一の大家と目され、この期の作は世に「寛政文晁」と珍重される、学才にもすぐれ「画学大全」、「歴代名工両譜」など著述も多い。晩年には流行におぽれて乱作したが。渡辺華山などを門下に輩出、先近代的な画壇形成に力があった。天保十二年十二月十四日(一八四一)七十八才にて没。大書院壁画谷文晁筆・『冬の景色』(中央)と『其三』(左)『冬の景色』(左)、『晩秋の景色』(右)別の角度から。本興寺 大書院壁画谷文晁筆(其一)・『晩秋の景色』本興寺 大書院壁画谷文晁筆(其二)・『春の景色』。大書院から見る庭園。蘇鉄の後ろにある茅葺屋根の建物は奥書院で、山門同様吉田城からの移築と。本興寺大書院の板戸絵16枚は湖西市指定文化財になっている。『瀧の山水画』・『河寺七瀧之由来』『大衝立 安房宮之図』暁堂筆。阿房宮は秦の始皇帝が即位35年(前212)一万人を入れる客殿を造営したところという。『国指定重要文化財 絹本著色』「法華経曼荼羅図 四幅鎌倉時代の作、法華経の経意を四幅にして絵解きに資する絵図。」そして『大書院 一棟』「文政十年(一八二七)建立、上段の間十五畳、中之間十八畳、岸良の間十八畳から成る。」『国指定重要文化財 絹本著色 法華経曼荼羅 四幅』鎌倉時代の作、法華経を四幅にして絵解きに資する絵図。回廊。回廊を伝って客殿に向かう。庭園は「遠州流庭園」となっており、小堀遠州の作庭と言われています。歌人北原白秋は「水の音ただに一つぞ聞へける その外は何も申すことなし」と詠んだと。四季折々の趣があり、特に春は桜の名所となると。静寂な佇まいが心を癒してくれたのであった。客殿。客殿内に展示されていた駕籠・『網代乗物』網代駕籠(あじろかご)の上等なもの。江戸時代、一定の身分に限り乗用を許された。『客殿内部』。客殿は寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建された。『客殿』より外を見る。『客殿』の『仏間』『ごぼち凧』には本興寺の『寺紋』が描かれていた。昔、遠州・鷲津(湖西市鷲頭)には、『ごぼち凧』という独特の凧があったとのこと。特徴は、凧の足の部分(ひらひらした)がないことと。『十一面観音像』か。御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2019年11月22日、『旧東海道を歩く』の『豊明駅~四日市宿』を歩くために起点となる東岡崎まで旅友Sさんの愛車で向かう。途中、以前に立ち寄れなかった静岡県湖西市鷲津にある『本興寺(ほんこうじ)』を訪ねたのであった。雨の中、茅ヶ崎からひたすら一般道を走り、本興寺駐車場に到着し散策を開始。時間は12:52。本興寺は、法華宗陣門流の東海別院。山号は常霊山(法華経自我偈の一句「常在霊鷲山」にちなむ)。院号は大悲院。本尊は三宝尊。塔頭が四院ある(長勝院、光明院、玉葉院、東光院)。永徳3年(1383)日乗上人の開山で、今川氏の帰依や徳川家康からの朱印地拝領により、十万石の格式を誇った。老杉の茂る広い境内に10余の堂宇が残り盛時の面影を伝えている。天文21年(1552)修復の本堂は単層寄棟造、和・唐・天竺の三様を巧みに取り入れた折衷様式の端正な建築物で重要文化財(国指定)になっている。『山門』。山門の扁額は『常霊山』と。『山門(惣門)もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝二年(一六七四)十六世日穏の代に吉田城より移築したもので、高麗門と言われる形式の門です。改築される前は、上端が薄く下瑞が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた風格のある門でたが、移築時に柿葺きに改修されました。その後、亨保十年(一七二五)に硯在の本瓦葺きに改修されました。なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています。」『寺名標』には「南無妙法蓮華経 法華宗別院 本興寺」と。『門祖日陣尊聖人 東海巡化御聖跡 鷲津弘通所(わしずぐづうしょ)之處』と刻まれた石碑。「聖跡 「鷲津弘通所「当法華宗陣門流の祖、南無日陣尊聖人東海巡化の卸聖跡「鷲津弘通所(ぐづうしょ)」とは室町時代すなわち永徳三年(北朝)弘和三年(南朝)[西暦一三八三年]この地を巡教され、法華宗に改修された聖跡である。門祖聖人の御消息の中に布教の重要拠点として「鷲津弘通所」と命名されたところ。この度、門祖第六百御遠忌に当りその記念としてここに顕彰する石碑である。」「弘通」とは、仏教が広く世に行われること、また仏教を普及させること であると。『本興寺 境内地図』。境内26,000坪の広さがあるのだと。塔頭の『東光院』の『山門』とその手前のモミジの紅葉。『脇門』には『東光院』そしてその参道が。巨石には『日陣聖人・・・』と刻まれていた。日陣聖人は法華宗陣門流の開祖。塔頭『東光院』。『東光院』から同じく塔頭の『光明院』を見る。『本興寺』の『参道』を進んで行く。『参道』の両側には更に塔頭の『玉葉院』、『長勝院』があった。「参道浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長三百メートルに及ぶ参道には、山門に続き四坊の塔頭寺院が両側に配され(江戸末期には八坊)、本堂手前右側に方丈があります。文化十四年(一八一七)二十九世日壇の代に山門から本堂にかけて石垣普請が行われ、天保九年(一八三八)三十一世日融の代に再整備されました。平成の大修理事業の一環として、平成二十八年に幅員六メートル、全長百四十メートルにわたり完全舗装整備を行いました。」『光明院』の『山門』。『光明院』の『本堂』。『本堂』内部。『玉葉院』の『山門』。『玉葉院』の『本堂』。『玉葉院』の『本堂』の前庭。更に紅葉の始まった『本興寺』参道を進む。『長勝院』の『山門』。『朱雀石』と書かれた石柱が。赤碧玉(せきへきぎょく、レッドジャスパー、に似ているが、赤鉄鉱を含んでいる為に赤色をしているのであろう。『長勝院』の『本堂』。立派な藤の大樹と藤棚。更に紅葉を楽しみながら『本興寺』参道を。そして右手に『本興寺』の『山門』が現れた。「大書院大書院は、二十九世日壇の代の文政十年(一八二七)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われてぃます。また、下段の間には岸良の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれています。」「奥書院もと三河国吉田城内にあった建物で、延宝二年(一六七四)十六世日穏の代、山門とともに当山に寄進されたものです。構造は、木遣平屋建てで、桁行八間・梁間五間の寄棟造りの茅葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではありませんが、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。平成二十四年度から二十五年度に行なわれた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。」『本興寺 山門』を正面から。「遠州流庭園裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で当地方の作庭に大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわえています。広さは約三百坪に及び、『池中に鶴島、亀島の二島を浮かべ、山畔には枯滝口が築かれ庭園の起源は不明ですが、永禄六年(一五六三)五月の今川氏真判物に「寺中園林」とあることから、古くから池泉があったことが想像されます。「水の音ただにひとっぞきとえける そのほかにはなにも申すことなし。」<『紙本水墨四季山水障壁画』。「大書院上段の間には、壁画七面、襖四本の両面の計15面に、谷文晁によって描かれた四季の山水画があります。文晁は江戸時代後期の画家で、四条派、土佐派、洋風画からも影響を受け、さまざまな様式の作品を残しています。また、田原の渡辺崋山ら門人たちとの人脈の広さは、当時の絵師の中でも際立つものがありました。所蔵の絵は、文政10年(1827)29世日壇の代、大書院を建築した際に文晁に依頼して製作してもらったものです。」『本興寺』の『方丈』入口。禅宗寺院で長老や住持の居室または客間をいう。方丈(寺務所)で受付をすると、奥書院、大書院、客殿等の内覧が出来た。『大衝立』と『山水画』。最初に目を惹くのが「大衝立・阿房宮之図」暁堂筆、阿房宮は秦の始皇帝が即位35年(前212)一万人を入れる客殿を造営したところという説明がされていた。様々な『古文書』類。『山門改修資料』。『本興寺庭園』の光景を楽しむ。『本興寺』は南北朝時代に創建された古寺で、書院には小堀遠州により桃山末期〜江戸時代初期に作庭されたと伝わる遠州流庭園が残ります。遠江国に残る“遠州三名園”の一つ。小堀遠州の作庭と言われる奥書院・大書院に面した蓬莱式の池泉鑑賞式庭園の池泉は、戦国時代の最中に記録された今川氏真の判物(書物?)にも“寺中園林”とその存在を記されていたと。『奥書院』。『御朱印籠』。『奥書院』には徳川家康公以来歴代の位牌が祀られていた。『徳川家歴代将軍御霊屋』について。『徳川家御霊屋』『徳川将軍歴代譜』には院号、没年月日、墓地の場所も記載されていた。『仏殿』。最下段の両脇には当山の護持に功績があった家康の側室西ノ郡局、小田原城主大久保忠世及び鵜殿休庵の位牌が祀られていた。家康の花押入の文書・判物であろうか。『徳川家御霊屋』「家康公以来十四代家茂公迄徳川歴代の御位牌が安置されています。十五代の慶喜公は在職三ヶ月で大政を朝廷に奉還しましたのでここには祀られていません。黨山は徳川幕府より拾萬石の寺格と御朱印を受けておりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を更に進むと連子格子の建物が左手に。更に北西に約180m向かって進むと、刈谷城主三浦明喬・土井利信の位牌が祀られている『乗願寺(じょうがんじ)』の『山門』が左手にあった。『乗願寺』。「天正15年(1587)の創建ではじめ地蔵寺といった。当初は真宗を内に表向きは浄土宗としていたが、のち真宗木辺派に改めた。本堂に刈谷城主の位牌が祀られている。」脇門には『天林山 乗願寺』の寺標。『真宗木辺派(しんしゅうきべは)』。真宗木辺派は、滋賀県野洲市の錦織寺(きんしょくじ)を本山とする浄土真宗の一派。親鸞の門弟性信が率いる下総国横曾根(現在の茨城県常総市豊岡町)の報恩寺を中心とする横曾根門徒の流れを汲む。末寺数、約200寺と。『乗願寺』の『本堂』。『乗願寺』は、天正15年(1587)の創建で、はじめ地蔵寺といった。 当初は真宗を内に、表向きは浄土宗としていたが、のち真宗木辺派に改めた。本堂の旧鬼瓦。旧東海道に戻ると、その先も街道を挟んで数軒の旧家が建っていた。乗願寺から程なく、右手に連子格子の大きな旧家が。旧家のある街道を進むと、右手に真宗大谷派の『今川山乗蓮寺』の入口が。『乗蓮寺・シイ』「真宗大谷派の寺院で、江戸時代前期の草創とされる。今川山と号す。境内にあるシイは、樹齢850年と推定され、昭和33年には市天然記念物に指定された。幹の根元に大きな空洞があって、昔タヌキが棲んでいたと言い伝えられる。昭和34年の伊勢湾台風で、大部分に損害を受けたが、現在は樹勢も回復し、今では実も付き始めている。」『山門』をズームで『乗蓮寺』は江戸時代前期の草創と言われ、境内には推定樹齢850年のシイがあり、市天然記念物に指定されていると。幹の根元に大きな空洞があって、昔タヌキが棲んでいたと言い伝えられているのだと。疲れもあり、この寺は入口からの撮影だけであった。そして『富士松駅前』を左奥に見る。乗蓮寺を出ると左手に名鉄名古屋本線の富士松駅があり、駅前ロータリーに池の中に『サッカー少年のモニュメント』と駅改札正面に小さな『お富士松』があると。桶狭間の合戦のあと、今川勢が東海道を西へ急ぐ旅人を織田方の回し者として切り殺してしまい、これを見た村人は旅人を丁寧に葬り、そこに1本の松を植えた。この松が富士松の地名の由来。お富士松は当初ここより約200m南東にあったが、昭和34年の伊勢湾台風で枯れてしまったため、ここへ新たに植えられたのだと。再び刈谷のおすいのカラーマンホール蓋は『かきつばた』。よく見ると周囲に『KARIYA』と書かれていた。こちらは消火栓マンホール蓋。駅前の道路に架かる今川歩道橋を渡り旧東海道を更に進む。『地蔵堂』先に進んだ逆Y字路の中央に地蔵堂があり、地蔵尊が安置されていた。2体の『地蔵尊』。地蔵堂の先『今川町』交差点で旧東海道は国道1号線に合流し分断されていたが、その先、国道1号線を越えた延長線上に旧道が続いていたのであったが地図を確認すると短距離で再び合流するので国道1号線を歩くことに。国道1号線を進み、日本橋から343.7km地点。前方に左斜に進むと四日市方面、名古屋高速そして伊勢湾岸道の案内標識が。小さな川・発杭川(ほっくいがわ)を渡る。奥に名鉄名古屋線が見えた。先程の案内標識下を通過。空港への案内板も。『境川』に架かる橋を渡ると『豊明市(とよあけし)』へ。『境川』に架かる『新境橋』を渡る。そして2020年1月19日の四日市に移動の際に、歩き残った旧東海道の『境橋』を渡る。下を流れる川は『境川』。愛知県の中央部を流れる境川は、むかしの尾張国と三河国の国境とされてきた。現在では、尾張国の東郷町、豊明市、大府市、東浦町と、三河国の刈谷市の境界となっている。橋を渡った直後の右側には石碑が。この境橋を詠んだ歌。『うち渡す 尾張の国の境橋 これやにかわの 継目なるらん』。「うち渡す 尾張の国の境橋 これやにかわの 継目なるらん 光廣」狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文六年(一六六六)当時の境橋は、尾張側は木橋、三州側は土橋の所爾継橋として有名であった、詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正ニ位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸と称された。」『境川』と右手に『境橋』。『境橋』。2020年1月19日の散策はここまで。再び左に『名鉄名古屋線』が。『新境橋』を渡り終えて左側の歩道を進み、国道1号線の下に出て進む。そして伊勢湾岸自動車道の高架を潜り進むと名鉄名古屋線『豊明駅』前に到着。今回の『旧東海道を歩く』はここまでとする。豊明駅前の大きなモニュメントは船のプロペラ?の如き姿。11/3に『豊明秋まつり』が行われるとポスターが。『豊明市 観光マップ』。愛知県豊明市は名古屋市緑区に隣接する町。豊明市の一番の特徴は、桶狭間の戦いが行われた場所であること。桶狭間の戦いに関連した観光地を中心に、歴史好きな人たちが、よく訪れる観光地。特に「桶狭間古戦場伝説地」はNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の誕生のきっかけとなったことで人気となった。歴史的観光地以外にも中京競馬場もあるなど、魅力のある観光地が満載な豊明市であると。駅舎のステンドグラス。『豊明』豊明駅ホーム。先ほど渡った『新境橋』を見る。東岡崎駅で下車。駅前にあった徳川家康の手形をかたどった石碑。この手形の石碑はどのようにして作られたのでしょうか??『東岡崎駅』を振り返る。ホテルに向かって進む。『乙川』に架かる『明代橋』を渡る。途中、左手にあった『専福寺』を訪ねた。『専福寺』は伝馬の交差点から南100mほどで、モダン通りに面した風格ある寺。石垣と隅櫓が特徴で一見城郭のようにも。往時の住職 祐欣は家康と親交があり、一向一揆の時に家康に和議を進めて怒りをかい、寺は破却され住職は岡崎を去ったと。石川数正の母芳春院が家康公に嘆願して、20年近くたって再興されたと。『本堂』は改修工事中であった。岡崎観光きらり百選『岡崎観光文化百選 専福寺』案内板。「寺の旧記には、もと木町大手口(今の材木町)にあったと書かれています。その後の住職祐欣(ゆうきん)は、家康が岡崎城にいたころ親交があり、一向一揆の時、家康に和議をすすめて怒りをかい、この地を去りました。石川数正のの母芳春院が家康に嘆願して、天正8(1580)年ごろ再興されたと言われています。 往事、東海道が北を通るなど、交通の要衝に位置しており、敵を防ぐ拠点ともなっていたことが、高い鼓楼(寺院で、時を知らせる太鼓をつるす建物)などからうかがえます。」『鐘楼』。『角櫓』。一見武家屋敷を思わせる『専福寺』なのであった。『「岡崎の二十七曲り」と田中吉政の都市改革』今宵のホテルへ戻り、旅友Sさんの愛車で帰路に。御油宿から岡崎宿へ向かって歩いている時気になった、名鉄名古屋本線の『本宿駅』へ立ち寄る。駅前に展示されている旧駅舎の模型。 駅は大正15年に開業。模型のモチーフとなった旧駅舎は昭和9年に建てられたもの。平成4年に現在の高架駅が完成したと。ズームで。『本宿駅の由来と歴史』「本宿駅は大正15年(1926)4月、愛電(現名鉄)が東岡崎から小坂井まで開通したとき誕生した。昭和9年(1934)1月、念願の鉢地坂トンネル竣工。本宿と蒲郡を結ぶ県道が開通した。風光明媚、箱根に似ているところから「新箱根観光道路」と命名され、一躍東海の新名所として脚光を浴びた。』帰路に、いつもの道の駅「掛川」で夕食を取る。『かつ丼』を注文。そして車に戻ろうとすると上空には満月が雲間から顔を見せた。そして渋滞もなく順調に走り箱根越えに向かったが、国道1号線の三島塚原インタを上った辺りで緊急工事のため『通行止め』。このため来た道をUターンして、長泉インタから国道246号線を走り御殿場経由松田から国道1号線へ戻ったのであった。箱根路の緊急通行止めは台風19号の影響で土砂崩れだったのであろうか。また国道1号線ではJR二宮駅前で交通事故で渋滞、このため茅ヶ崎の旅友の家には23:45に到着。そして我が家に0:30前に辿り着いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.01.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次天合寺門宗 流汗不動『総持寺』この寺は大正15年に再建されたもので、知立神社の別当寺であった。徳川家康側室お万の方の誕生地である。正面に『山門』の『竜宮門』。『仏法大師 御自作知立不動尊』と刻まれた石柱。『徳川秀康之生母 於萬之方誕生地』碑。『本堂』「神路山 総持寺は、三河国二宮「知立神社」の別当寺として創建されています。嘉祥三年(850年)、慈覚大師円仁が巡錫でこの地を訪れた際、毒蛇に噛まれ重篤となり知立神社に祈願したところ忽ち治癒しました。大師は神意に感謝し、別当寺院となる神宮寺を開いたと伝えられています。この時創建されたのが神宮寺七坊であり「玉泉坊、西林坊、一乗坊、宝蔵坊、小泉坊、吉祥坊」などが創建されたそうです。総持寺は、塔頭の一つ玉泉坊が承応二年(1653年)、当時の住職宥海が寛永寺住職天海大僧正に師事したことから寛永寺の末寺となり寺号を現在の総持寺に改めました。創建の経緯もあり、当時から神仏習合してきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により住職が知立神社の神官となったため、廃寺となります。その後昭和二年(1927年)に再興され現在地に境内を移して堂宇も再建されました。又、徳川家康の側室お万の方は知立神社の神官氷見氏一族から出たことからお万の方の生誕地とされています。」『本堂』の手前には『白寿観音』本堂内部『本堂』正面左手。本堂の扁額『神路山松智院 流汗不動 總持寺』。『一願出世不動』。『観音堂』。『観音堂』内部。手前に『地蔵堂』、その奥に『六角堂』。『六角堂』・『愛染堂』扁額。愛染堂内部の『愛染明王像』。ズームで『愛染明王像』を。『留翠微笑観音堂』。『留翠微笑観音像』。広くない境内に様々な石仏、建物が。この仏様は、どの堂におられたのであったか?『地蔵堂』『地蔵堂 弘法大師』と書かれた扁額。『地蔵堂』の内部正面には『おもかる地蔵』が置かれていた。抱き上げたときに軽く感じれば願いがかなうという占断装置だ。試しに抱き上げたところ、思いのほか軽かったが・・・・。そしして地蔵堂の内部。『流汗不動 総持寺』の『裏門』『三河 新四国 三不動 一番札所霊場』の石柱が裏門前(写真手前)に。『流汗不動明王』の御朱印をいただきました。そして旧東海道に戻り進むと、逢妻川(あいつまがわ)に架かる『逢妻橋(あいずまばし)』が姿を現す。『逢妻橋(あいずまばし)』下を流れる川は『二級河川 逢妻川』。『逢妻川(あいつまがわ)』。隣の橋は国道1号線に架かる『逢妻大橋』。欄干には知立神社の多宝塔の姿が。知立神社の『知立まつり』の山車の姿も。そして国道1号線に合流。そして国道1号線を進む。そして刈谷市へ入る。懐かしき青の#のマークのある建物が左手に。『住友建機教習所 愛知教習センター』。フォークリフト技能講習、クレーン、玉掛け特別教育等を実技しながら説明講義してくれ、様々な資格を取得できると。刈谷市一里山町歩道橋の階段の下にあった『一ツ木一里塚』跡は日本橋から85里目の一里塚。「慶長9年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として東海道をはじめとする主要街道に、1里ごとに土を盛ってエノキや松を植えて一里塚を築かせた。この地は松であったといわれる。国道1号線の開通によって当時のおもかげはないが、明治18年の地籍図をみると、東海道の両脇に塚と記載されている。ここより東には、来迎寺一里塚(県指定史跡、知立市)、西には阿野一里塚(国指定史跡、豊明市)がある。」『旧東海道入口』をズームで。先に進むと国道1号線の右側(北)に旧道が残っていた。この旧道は左を流れる水路に沿っており、程なく国道1号線に突き当たって分断されるが、反対側の延長線上の旧道へ続いていたのであった。しかし、国道1号線を渡る横断歩道が近くにないため、諦め国道1号線を進む。国道1号線の『工業団地入口』交差点を通過。『旧東海道出口』もズームで道路の反対側から。国道1号線に突き当った旧道は、反対側の延長線上へ続いていのであった。近くにある今岡歩道橋手前で再び旧東海道に入って進む。旧東海道は国道1号線から別れて左方向へ進む。刈谷市のおすいマンホール蓋のデザインは『かきつばた』。『十王堂』。旧道に入ると、直ぐ右手の民家に組み込まれた十王堂があった。堂中には三面六臂の馬頭観音、地蔵菩薩半跏像、弘法大師が安置されているとのことであったが・・・・。『長屋門』。十王堂の直ぐ先、左手に大きな長屋門の旧家があった。次に旧東海道沿いにあった『洞隣寺(とうりんじ)』に立ち寄る。寺の入口にあった『常夜灯』は、寛政8年(1796)の年号が刻まれていた。「洞隣寺曹洞宗の寺で、天正8年(1580)の開山といわれ、開基は刈谷城主水野忠重とされる。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいる。寺の入り口にある常夜燈は、寛政8年(1796)の年号が刻まれている。墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある」正面に『本堂』。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいた。境内の建物。庫裡であろうか。境内の石仏。大きな達摩の姿の石仏。新たな『本堂』を建設中なのであろうか?実は、この時に『洞隣寺』の案内板に書かれていた「墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある」の墓を訪ねていないことに、帰宅してブログアップされていた旅友Sさんが気づき11月23日の「旧東海道歩き」時に立ち寄ったので併せて以下の写真4枚とともに記載する。『中津藩士の墓』と『めったいくやしいの墓』案内板。「中津藩士の墓」寛保2年(1742)豊前国(大分県)中津藩の家臣が帰国途中、今岡村付近で突然渡辺友五郎が牟礼清五郎に斬りつけ2人とも亡くなったため2人の遺骸は洞隣寺に埋葬された。ところが2人の生前の恨みからか、いつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうので、村人は怨念の恐ろしさに驚き、墓地を整理して改めてあつく葬ってからは墓は傾かなくなったといわれる。「めったいくやしいの墓」昔、洞隣寺の下働きに容貌は悪かったが気立てのよいよく働く娘がいた。ある時、高津波村の医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれした。しかし、青年僧は仏法修行の身であり娘には見向きもせず寄せ付けなかった。娘は片想いのため食も進まずついに憤死してしまった。洞隣寺の和尚はこれを聞いて亡骸を引き取って葬ったが、この墓石から青い火玉が浮かび上がり油の燃えるような音がしたり、「めったいくやしい」と声になったりして火玉は医王寺の方へ飛んで行ったといわれる。女の情炎の恐ろしさが語り継がれている。」案内板を頼りに進むと傾いている『中津藩氏の墓』と『めったいくやしいの墓』が見つかった。その周囲には歴史を感じさせる多くの「無縫塔」(卵塔)の墓石も並んでいた。『にごりなき 心の水に住む月は 波もくだけて 光とぞなる』この和歌は道元禅師が坐禅の境地をあらわしたとされるもの。img src="https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/ddd738e86192974e71e45726086c24dc615a5270.15.2.9.2.jpeg" border="0" name="insertImg" />旧東海道沿いにあった『津島社』とその手前に『案内板』が。ここ今岡村は今川村・一ツ木村などとともに池鯉鮒宿の助郷村のひとつであり、道路の管理や人馬の供出などの負担を強いられた。村域には東海道沿いに何軒かの茶店があり、洞隣寺の北側には「いもかわうどん」発祥の地の碑が建てられていた。『いもかわうどん』きしめんのルーツとされるいもかわうどんは「芋川」の名物であるが、芋川は今岡村の一部だったとする説、芋川=今岡村とする説、芋川=今川村とする説など諸説ある。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や井原西鶴の『好色一代男』には平打ちうどん(いもかわうどん)が登場し、膝栗毛には「今岡村のたてばにいたる。此ところはいもかはと云めんるいの名物、いたって風味よしときゝて、名物のしるしなりけり往来の、客をもつなくいもかわの蕎麦」という記述がある「江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現在に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。」旧東海道を更に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次了運寺の西側の旧東海道を進むとT字路が。その角に看板が「銃砲 小松屋」とあるが「小松屋本家」。「銃砲」とあるが、裏で?取り扱っているのであろうか?『元祖あんまき 小松屋本家』店の角には『常夜燈』があり柱には『地鯉鮒大明神』の文字が。この後訪ねた『知立神社』は『池鯉鮒大明神』と呼ばれ、江戸時代東海道三社の一つに加えられた名社。『常夜燈』の柱の横には『永井左京』の文字も。『永井左京』はこの常夜燈の奉納者?この人物はどの様な方?このあと、名物『あんまき』を岡崎にお住まいの旅友Kちゃんから差し入れをいただき知立神社の休憩所でご馳走になったのであった。長方形に焼かれた薄めのどらやき生地であんこをくるっと巻いたお菓子。少しモチモチした生地と甘いあんこが絶妙にマッチで疲れた体を癒やしてくれたのであった。旅友のKちゃんと『小松屋本家』近くでわかれ、我々は緩い坂を下り国道155号線とぶつかり地下道を潜り向かい側へと旧東海道を『総持寺』を目指す。国道155号線の地下道を渡るべく。階段を下る場所に案内板があった。『総持寺跡大イチョウ』。「イチョウ科の落葉喬木で雌木である。 このイチョウは雌木である。イチョウは病虫害が少なく火にも強いため、神社寺院に植えられて巨木となって残る例が多くこの木もその一つである。樹齢二百余年を経た今も樹勢未だ衰えていない。 総持寺は、嘉祥年中(八四五~八五一)に創建されたと伝えられ、知立神社の神宮寺と考えられてきた。戦国時代に消失したが、学頭玉泉坊がここに再建され、承応二年(一六五三)寛永寺末寺となり総持寺に改められた。明治五年(一八七二)廃寺となったが 総持寺はその後大正十五年(一九二六)に西町新川に再建され、現在に至っている。」『延喜式内知立神社』と刻まれた石柱が右手に。ここを右に曲がると『知立神社』へ。旧東海道から知立神社への入口に『池鯉鮒大明神』と刻まれた『常夜燈』。知立神社への途中、左手前に知立公園内に造営されている『土御前社(つちのごぜんしゃ)』が。そして参道正面には石鳥居が。鳥居の奥に、吉備武彦命を御祭神とする土御前社。社殿をズームで撮ったがピンぼけ。左には「明治神宮御分譲 知立花菖蒲苑」と刻まれた石碑も。『知立公園の花菖蒲について』「当公園の花菖蒲は昭和30年、仝32年、仝35年の三回に亘って明治神宮から特に御下賜いただいたものであって明治天皇並びに昭憲皇太后御遺愛の名品種約60種類が年々其の姸を競い5月の八橋の杜若と共に当知立市に於ける名花の双璧と謳われて居る。花の見頃は6月の5日から18日頃までの間であって6月の花期には毎年菖蒲祭りの期間を設けて茶会、宝物展、学童の写生会、写真の撮影会等の諸行事が催され、尚、花期直前には「さつき展」も行われている。」そして正面に『知立神社』の『多宝塔』が見えた。『知立神社 境内図』境内左(西側)『養生館』前に『明治天皇 駐駕館碑』が。『養生館』は明治19年12月、碧海郡役所の東隣に明治用水事務所および議事堂として建築された。明治23年、陸海軍合同の大演習に際し、明治天皇のの御座所として使用され、その経緯が『明治天皇 駐駕館碑』刻まれていた。現在、養生館は「老人クラブ 憩いの家」とされているようです。『延喜式内知立神社』石柱と正面に『多宝塔』。『知立神社と知立公園案内図』。●知立神社(112年創建) 東海道屈指の名社であり、霊験もあらたかである。分K剤には、多宝塔、古額、舞楽面などが あり保存されています。例祭(5月3日)には、山車文楽や山車からくりなどが奉納されます。●花菖蒲園(はなしょうぶ園) 明治神宮より特別下賜された数十種の花菖蒲が6月上旬に美しく咲き誇ります。『大鳥居』を境内側から。『知立神社由緒』。「当神社は池鯉鮒大明神とも称え奉り、延喜式の古大社であって、第十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊の東国平定の行路 此の地に於て皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い、御帰途奉賛のため創建あらせられしと云う。延喜撰格の際は官社に列し、歴朝或は神階を奉られ或は昇叙せられて、原稿襲来に際して異国調伏の勅願あり、明治元年明治天皇御東幸の際に勅使を差遣して国運の発展を祈願し給う等、古来朝廷の御崇敬厚く、又歴代各藩主も或は土地を献じ或は社殿を造営し或は神饌幣帛を献する等、夫々赤誠を捧げた。亦衆庶の崇敬も厚く、古来より蝮除け雨乞い安産等の御霊験を以て全国に聞え、御分社は県内は固より遠く関東関西に亘って所々に奉祀せられ、崇敬者は全国に散在してその数を知り難い。又当社は弘法大師の崇敬殊に厚く、三河三弘法巡拝社の必ず当社に詣ずるは蓋し大師の敬神の精神を体するものである。」『多宝塔』。『知立神社多宝塔』。「嘉祥3年(850)僧円仁が神宮寺を創建して知立神社の別当寺とし、多宝塔を創立したと言われます。その後天文16年(1547)兵火により寺は焼失しましたが、多宝塔は永正6年(1509)再建と伝わっており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構と考えられます。相輪先端までの高さは約十四・五メートル、屋根は柿葺(こけらぶき)、四隅に宝珠を置きます。これらは明治の廃仏毀釈の際に取り外され、神社の文庫として難を逃れたもので、大正九年(1920)の解体修理の際に復元されました。本尊であった愛染明王は廃仏毀釈で撤去されたまま現在は総持寺に安置されています。和様を基調とした均整のとれた多宝塔であり、全国的にも遺構の乏しい神宮寺の建築を知る上で貴重なものです。」『知立神社本殿』創建は社記によると、景行天皇42年(112年)「日本武尊東征の帰途、伊知里生命をこの地にとどめ、仲哀天皇元年に社殿を造営したという。平安時代末期には後白河天皇の皇女、安徳天皇、後鳥羽上皇の皇后殿富門院などの御祈願所でもあつた。古来より、雨乞い、安産などに霊験あらたかと信仰を集め、江戸時代には東海道三社の一つに数えられた。毎年五月の例祭では豪華な山車が出る。桁行六間梁間三間、切妻造妻入、檜皮葺で、間口一間、切妻造の向拝を設けて屋根を重ね、正面性を強調する。平面は前方二間分を土間として奥を板敷とする。縦長に配置され、後方の祭文殿や廻廊とともに、尾張造と呼ばれる社殿配置の三河地方への伝播を示す遺構。祭神は次の6柱。主祭神4柱に相殿神2柱を併祀する[1]主祭 ・鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) - 主神。 ・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) - 鸕鶿草葺不合尊の父。 ・玉依比売命(たまよりびめのみこと) - 鸕鶿草葺不合尊の妻。 ・神日本磐余彦尊 (かむやまといわれびこのみこと:初代神武天皇) - 鸕鶿草葺不合尊の子。 ・青海首命 (あおみのおびとのみこと) - 碧海地方の開拓にあたったと伝える人物。 ・聖徳太子『千人燈』。戦前の常夜灯。側面に彫られた「献身報国」という文字が。『太鼓橋』。花崗岩で作られた石橋。その下に『神池』。池の水面には『片目の魚』が。『片目の魚』をズームで。「知立神社の御手洗池の鯉は片目であると本に書かれたり、また、言い伝えられたりしています。その話は、知立の西町に住んでいた長者の家は、代々目の悪い人が多かったということでした。あるとき、長者の家のかわいい娘さんが重い病気にかかりました。いろんな手当をしてもなかなか治りませんでした。その上、かわいそうなことに目が見えなくなりそうになりました。両親は大変心配して、これはもう明神さま(知立神社はその昔、知立大明神といわれていた)にお願いするほかない。「娘の目が治りますように」と、願をかけ、毎日、毎日、一心にお参りしました。二十一日の満願の日、不思議な事に娘の片方の目が見えるようになりました。大変喜んで明神さまにお礼参りをしました。それから、御手洗池の鯉は片目になったということです。明神さまのお使いの鯉が自分の片目を娘さんにあげたからです。やがて、その話が伝えられて、御手洗池の水で目を洗うと目の病気が治ると信仰されるようになりました。その頃は、池の水は透きとおるようにきれいで、本当に目を洗うという人もあったということです。池には目を洗う人たちのために橋のすぐ脇に、柵の無いところがあって、水面近くまで降りられる階段が今でも残っています。」『知立神社石橋』。「この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長6.6m、幅2.4m、高さ1.68mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。欄干南側右柱には「享保17年(1732)11月吉日敬白」と刻まれている。『東海道名所図会』には「石橋は神籬の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある」境内には親母神社や合祀殿・小山天神社などの境内社が並ぶ。『秋葉社』。祭神は、火之夜芸速男神、またの名を火之迦具土神。宝暦4年(1754)五ヶ町衆が駒場・一ツ木とともに遠州秋葉神社より金山(現在の逢妻町)に勧請し、享和3年(1803)、本社南の山林に移転、さらに昭和36年(1961)国道155号線の開通により社地が分断されることとなり、現在地に遷る。『神馬』。ガラス越しに。『親母神社』。 祭神:豊玉姫命 祭神は鸕鶿草葺不合尊(本殿主神)の母。社殿は一間社流造で朱塗で彩られ、屋根は檜皮葺。 明治期の造営で、摂社としては規模の大きいものになる。この社殿は国の登録有形文化財に 登録されている。『小山天神社』。 祭神:少彦名命。『合祀殿』。 祭神:天照皇大神など。明治6年(1873年)の神社合祀令に伴い、 知立神社境内外の小祠を合祀。『シャシャンボ(小小坊)』【分類】ツツジ科 スノキ属【樹形】常緑低木~小高木.高さは2~5mになる。【 葉 】互生.葉身の長さは3~8cmで,ふちには鋸歯がある。【樹皮】縦に裂けて剥がれる。【 花 】総状花序に白い壺形の花をつける.花期:6~7月。【果実】液果.6mm位の球形で,黒紫色に熟す.果期:10~11月。【分布】本州(千葉県以西,石川県以西),四国,九州の丘陵帯。【別名】-【名の由来】小さな果実が多数つく様子から。休憩所で一休み。『愛知の山車 百輌総揃え』。『凛として』。日本ほど国旗を掲げない国民はいないのではと・・・・。そう言う私も。『知立まつり「知立の山車文楽とからくり」』が平成28年12月にユネスコ無形文化遺産に登録された。旅友が差し入れてくださった「あんまき」をご馳走になる。休憩所裏の『養正館』。休息所隣の『トネリコ』。この名前は初めて。「モクセイ科の落葉小喬木で、別名サトトネリコ。本州中部以北の山地に自生し、人家や田の畦にも植える。葉は羽状複葉で、春に淡緑色の細花をつける。雌雄異株。 樹皮を秦皮(しんぴ)と称し、神経痛・リュウマチ・赤痢などの治療に用いる。また材は堅く弾性があるため建築・家具材や野球のバットにも用いられる。 このトネリコは、西三河地方では最も古木と言われている。高さは6m、南北の枝張りが8.3m、根回りは3.4m、幹の太さは1.95mに及ぶ。」『芭蕉句碑』『芭蕉句碑』「『不断堂川 池鯉鮒の宿農 木綿市』 芭蕉翁元禄5年(1692)秋9月に江戸深川で詠まれた芭蕉の句である。池鯉鮒の馬市は歌川広重の浮世絵に描かれて有名であるが、それと並び木綿市も年間を通じて行われ、賑やかであったことがうかがえる。池鯉鮒の蕉門の俳人井村祖風が寛政5年(1793)この句が作られて100年にあったのを記念し、同好の士15名に働きかけて建立されたもので、その名は碑陰に刻まれている。」『二宮金次郎像』。『社務所』。御朱印を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に『知立の松並木』の下を進む。『やすらぎ』『山屋敷用水碑』。大きな碑石だが、文字はとても解読意欲の起きない不鮮明さである。大正5年(1916)年建立の山屋敷用水開削を記念した碑のようであった。『知立松並木』「慶長九年(一六○四)江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅七m、約五百mにわたり凡そ百七十本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢多鼻能 知師爾 長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている」左に『万葉の歌碑』、右に『馬市句碑』。昭和28年建立の万葉歌碑には「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能知師爾」と刻まれている。大宝2年(701)10月に持統上皇が三河國に行幸の砌、随行の長忌寸奥麻呂が詠んだ歌である旨刻まれている。この付近を引馬野と呼んだことから浜松市・宝飯郡御津町に並ぶ持統上皇行幸の推定地として建立したものである。裏の撰文・書は当時の知立町長加藤玉堂。『池鯉鮒宿 馬市之趾』三河は、奈良時代から度々馬を献上し、古くは鎌倉街道に近い牛田周辺に馬市が開かれていたそうです。東海道が整備されてからは、池鯉鮒宿近く、慈眼寺あたりに移り、街道一の賑わいを見せました。裏面には、麦人の句が刻まれている。「杜若 名に八ツ橋の なつかしく 蝶乙鳥 馬市たてし あととめて」『馬市句碑』は『池鯉鮒宿 馬市之趾』の裏に。 「かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて」 俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。『万葉の歌碑』 「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」 この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。『歌川広重 東海道五拾三次之内 池鯉鮒 首夏馬市』 天保3~4年(1832~1833)頃「歌川広重が浮世絵東海道五十三次の池鯉鮒で描いているように、当地では馬市が盛大に行われていた。 鎌倉時代の初期に書かれた「海道記」に「池鯉鮒が馬場を過ぎて・・・」とあり、早くから馬にかかわる地であったことがわかる。 また、江戸時代の浅井了意の「東海道名所記」、梅月堂宣阿「富士一覧表」、井原西鶴「一目玉鉾」、秋里籬島「東海道名所図会」等に、馬市の盛大な様子が述べられている。 これらによると馬市は毎年4月から5月はじめ頃まで開かれ、遠く甲斐や信濃から馬が集められ、その数は4~500にもおよんだ。馬を売買する人はもとよりその他の商人や遊女、芸人、役者、人形遣いまでが集まってきてにぎやか極まりない有様であったという。 刈谷藩では山町に馬市番所を設けて馬市の監督にあたった。」歩いて来た『知立の松並木』を振り返る。写真右手が国道1号線。『御林』交差点・松並木の街道が国道1号線に突き当たる手前右手に、交通安全の『観音菩薩』が建っていた。松並木とは不釣り合いな建物は『イズモ葬祭 知立』。昔は結婚式場であったが現在は葬儀場になっていると。この御林交差点で、国道1号と合流し、その先は右から国道1号・県道51号・旧東海道の3叉路となり、一番左の細い道を行く。横断には地下道を使った。地下道でくぐると、出たところに『東海道池鯉鮒宿碑』が建っていた。街道は、宿碑の先のY字路を左に進んで行く。『東海道池鯉鮒宿碑』 ➡:鳴海 ⬅:岡崎本陣1、脇本陣1、旅籠35、家数292、人口1620・・・天保14年(1843)時点古くは「知立」と書き、語源は「茅立」で、茅の育つ湿地帯を意味している。御手洗池の鯉と鮒から江戸時代は「池鯉鮒」と書いたが、明治2年(1869)に再び「知立」が正式名になった。知立神社の神主の館である知立古城があったため、古くから城下町的村落で、鎌倉街道の要衡の地としても栄え、開かれていた木綿市や馬市は江戸時代には特に盛んだったようだ。ここが池鯉鮒宿の東の入口となる。国道1号線から別れた池鯉鮒宿の旧東海道を進む。知立市のマンホールには、中央に伊勢物語の有名な折句「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」周囲には『カキツバタ』が。『名鉄 三河線』の踏切が前方に。この先に『三河知立駅』がある。『かきつばた』のデザインのマンホール。中央分離白線のない狭い旧東海道を進む。知立市中山町中山付近の街道脇には明治41年(1908)の小さな常夜燈が。そして『知立中町交差点』まで歩を進める。旧東海道(県道285号線)が県道51号線に合流、100m程で中町交差点へ。旧東海道はこの交差点を渡り正面の小道へ。ここを左へ曲がると吉良道。中町交差点の角に「ゑびすや」所在地:愛知県知立市中町中39ここの手前で、この後、ブルガリア・ルーマニア旅行を御一緒した岡崎の旅友Kちゃんが応援に来て下さったのであった。横断歩道を小走りで渡る旅友Kちゃん。知立市の『かきつばたまつり 花しょうぶまつり』のポスター。カラーの『かきつばた』のデザインのマンホールに遭遇。伊勢物語句碑のマンホールの『かきつばた』の花もカラーで。『池鯉鮒宿 見て歩きマップ』都築屋美廣の先の変則十字路を左折すると、街道の南西を走る県道51号線側に『池鯉鮒宿本陣跡』があった。『池鯉鮒宿本陣跡』碑。「本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。品川からかぞえて三十九番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣(本陣だけで対応できない時の予備の宿)が各1軒置かれていた。本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文2年(1662)からは永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していた。明治となり宿駅制度が廃止され200年以上続いた永田本陣も、明治8年(1875)に取り壊された。」『明治天皇行在所聖蹟』。『本町山車蔵』街道に戻ると左手に本町山車蔵があった。ここには知立祭りで使われる山車が収納されており、知立祭りでは山車文楽(人形浄瑠璃芝居)や、からくりが上演される。現在、山町・中新町・本町・宝町の4台の山車で 「三番叟」 「傾城阿波の鳴門」 「壷坂観音霊験記」 「神霊矢口の渡し」 などが上演されるのだと。左に『知立古城跡』。城跡は天正9年(1581)頃、刈谷城主の水野忠重が信長接待のために御殿を建て、江戸初期に子の勝成が増築して将軍や藩主の休息所としたが、元禄12年(1699)の大地震で倒壊。明治期には碧海郡役場や明治用水事務所などが置かれた。現在は児童公園となっており奥には大楠がある。石垣の上に青銅製の『明治天皇駐蹕址碑』が建っていた。公園の真ん中に立つ丸い石柱『知立古城址』そしてその奥に『大楠』。『知立古城址』「江戸時代前期の様子を伝える屏風に描かれた御殿と知立神社。知立古城は桶狭間の戦いで落城し、江戸時代の初めには将軍の休泊用の御殿となっていた。」『東海道案内図』。『知立古城址』の先のT字路突当りに浄土宗の『神前山 浄林院 了運寺』そして見事な『山門』が。山門は入母屋、桟瓦葺、一間一戸、四脚鐘楼門(上層部が鐘撞堂の山門)。『知立三弘法第二番札所』『了運寺』の『本堂』。了運寺は、平安時代に天台宗の高僧・慈覚大師が知立神社の別当寺院として開山したのが始まりと言われている。当初は天台宗であった明応2年(1493)浄林了運大和尚が浄土宗に改宗。了運寺の創建は不詳ですが知立神社の別当寺院であった神宮寺七坊(平安時代に天台宗の高僧である慈覚大師が知立神社の別当寺院として開山した寺院。)として開かれたのが始まりと伝えられています。当初は天台宗でしたが明応2年(1493)、浄林了運大和尚が浄土宗に改宗し現在の寺号である了運寺に改めています。明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により同じく神宮寺七坊の1つ総持寺が廃寺になる多くの仏像が了運寺に移されています(大正時代に総持寺が再興されると戻されています)。寺宝である法然上人御絵伝は昭和40年(1965)に知立市指定文化財に指定されています。本堂は寄棟、桟瓦葺、平入、桁行6間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。知立三弘法第二番札所(札所本尊:弘法大師)。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。宝暦4年(1754)の手水石が置かれた『手水舎』。『庚申堂』と『青面金剛』。『三十三観音』。『延命地蔵菩薩』。『了運寺』先の右手にあったのが『知立毘沙門寺』。写真だけ撮り引き返す。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『元禄の道標』を後にし、旧東海道を150mほど歩いた先の両側に、小高い丘が住宅地の先に現れた。ここが『来迎寺一里塚』。場所は愛知県知立市来迎寺町足軽35。江戸から数えて84里目の一里塚で、塚がきちんと残っている貴重な例である。『来迎寺一里塚』「一六○三年(慶長八年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道・東山道・北陸道など主要街道を修理させた。 この時一里(約四キロメートル)ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。 塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々、松といわれる。 この大きさは直径約十一メートル、高さ約三メートルに土を盛り、街道の両側に造られている。 この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、大へん珍しい。 県下ではかに豊明市の阿野一里塚などがある。」その隣りにあったのが『東海道見て歩きマップ』両脇に知立市観光協会のマスコットキャラクター『なりひらくん』と『かきつ姫』が。平安の歌人在原業平が「かきつばた」の5文字を句頭に詠んだ「無量寿寺」は、伊勢物語の昔から広く知られるかきつばたの名勝地。「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」もちろん『かきつ姫』は市の花に指定されてるかきつばたからのネーミング。観光のおすすめは①馬市の碑 ②松並木 ③元禄の道標 ④来迎寺の一里塚『来迎寺一里塚』の『南塚』と『来迎寺一里塚碑』。『来迎寺町公民館』の後ろの『来迎寺一里塚』の『北塚』。なぜここに『来迎寺町公民館』を建ててしまったのであろうか。昭和36年(1961)に県指定文化財に指定された右塚(北塚)は高さ3.5m、基部の幅10m、奥行9mの規模。左塚(南塚)は、塚の半分ほどが崩され原形を失っており、塚上には従軍記念碑や戦死者記念碑があったため、右塚との同時指定はされなかったが、原形復帰に努力する地元の意志に鑑み、平成8年追加指定された。現在では塚上の石碑等も撤去され、相並んだ双塚の面影を示すようになった。『北塚』の松。一里塚には一般的に「榎」が植えられている。何故「榎」なのかは、家康が一里塚構築を行った大久保長安に「塚にはええ木を植えよ」と言ったのをエノキ(榎)を植えよと聞き間違いしてしまったのだとか。来迎寺一里塚の北塚の前を入るとあったのが『源心寺』。『真宗大谷派 吉城山 源心寺』と刻まれた寺標石柱が右手に。『源心寺』に隣接して北側に臨済宗妙心寺の『紫雲山来迎寺』があった。安永7年(1778)の三界萬霊塔と刻まれた『地蔵菩薩』。『今崎城跡』碑。来迎寺は、承平元年(931)山城の国宇治平等院からこの地に来た来迎寺印という僧により開創されたと言われている。ここは織田方の今崎城があったところで、今崎城は永禄3年(1560)今川方に攻められて落城となった。「今崎城今崎城に関する文献は見当たらないが、来迎寺町の地名に古城、足軽等があり、往昔の俤をとどめている。八橋町の葦香城と同時代にあった城のようで、古刹来迎寺の守護に任じていたと思われる」『来迎寺 本堂』帰りに再び『来迎寺町公民館』の後ろの『来迎寺一里塚』の『北塚』そして『南塚』を見る。それにしても『来迎寺町公民館』はこの場所には・・・と。再び旧東海道に戻り進む。一里塚から500m近く進んだ路地を左に入った場所にあったのが『西教寺』。『真宗大谷派(東本願寺) 西教寺 本堂』『鐘楼』。享和3年(1803)再建時の『本堂旧鬼瓦』平成二庚午年(1990)落慶『経蔵』。西教寺の先を進み、前方に衣浦豊田道路の高架が見える手前の左筋角に『道標』が建っていた。道標には 「御室御所御直末重原村道」 「見返弘法大師従是十四丁」「天下泰平国土安全」 と刻まれていた。 この道標は、知立弘法山遍照院への道しるべで、遍照院にある弘法大師像がやや右を向いていることから見返弘法大師と呼ばれているこに由来するのだと。更に進むと、衣浦豊田道路の高架手前にも元禄12年(1699)の『道標』が建っていた。道標には 「八橋山無量寺」 「従是五丁北八橋業平作観音在」 「天下和順」 「元禄十二巳卯年三月吉日施主敬白」 と刻まれているのだと。 来迎寺一里塚の手前にもあったが、この道標は在原業平ゆかりの八橋山無量寿寺への道しるべとして建てられたものであると。前方に『有料道路 衣浦豊田道路』の高架がありこの下の『新田北』交差点の歩道橋を渡ったのであった。右手に『明治用水西井筋緑道』「水環境整備事業明治用水地区管路化された明治用水西井筋の上部を有効に利用し、「農村と都市のふれあう緑あふれる用水の道」として、遊歩道・流水帯・休憩施設・植栽帯などを設置しています。延長は14.3kmで、豊田市、安城市、知立市(6.3km)、刈谷市にまたがっています。」歩道橋の上から『知立松並木』を見る。ここ衣浦豊田道路の高架を過ぎると、知立の松並木となり、この先の国道1号線との交差点まで続いていたのであった。歩道橋の欄干には『かきつばた』のレリーフがはめ込まれていた。歩道橋の花壇を降り『知立松並木』を歩く。知立市は、かつては東海道の宿場町「池鯉鮒(ちりゅう)宿」として賑わっていた。市の東部山町から牛田町に至る約500mの間には旧東海道沿いに松並木が残っており北側93本、南側88本松が現存している。また、市の西部に位置しかつては東海道沿いであった知立神社では木綿市が開かれており、三河木綿が取引されていたといわれている。『旧東海道 三拾九番目之宿 池鯉鮒』道標石碑。京都三条 四拾壱里。『東海道見て歩きマップ』。野外彫刻プロムナード展15回の開催を記念し、「ちりゅうにちなんだもの」とテーマを設け、東海道松並木周辺の遊歩道に、新たに彫刻作品5体を設置したと。彫刻のある風景を、東海道松並木の新しい風景として皆様にお楽しみいただきたいと。早川 高師 「ようこそ、ようこそ」2015年制作 ブロンズおみやげをもった猫が、池鯉鮒にやってきて、鯉や鮒、池鯉鮒の人々に「ようこそ、ようこそ」と歓迎される様子をおとぎ話風に制作したものです。しばらく続く松並木には各種の『句碑』、『歌碑』があった。『小林一茶の句碑』「はつ雪や ちりうの市の 銭叺(ぜにかます)」池鯉鮒宿の木綿市の繁昌を詠んだものであると。「銭叺(ぜにかます)」とは銭を入れるのに用いるわらむしろの袋のこと。遠藤 透 「旅の途中」2015年制作 ブロンズ江戸時代、東海道を訪れる旅人が池鯉鮒宿に向かう途中、松並木で一休みする姿を、渡り鳥に例えて、旅の魅力を表現しています。「東海道池鯉鮒は江戸時代に東海道五十三次の宿場の一つとして指定されました。当時、池鯉鮒大明神(知立神社)が多くの人々の信仰を集めていたことに加え、馬市や木綿市があり、多くの人でにぎわいました。かつて宿の中心には、宿駅業務を担う問屋場、大名・公家等の泊まる本陣、庶民相手の旅寵などがあり、旅人たちはここで旅の疲れを癒しました。」「旅の途中知立は「池鯉鮒」と呼ばれ、東海道三十九番目の宿場である。旅人は、この町で疲れた体と心を癒し、再び旅立ったのだろう。東海道松並木は昔の旅人を彷彿させる場所である。また旅をしよう。」『東海道 知立松並木』石柱。池鯉鮒では古くから三河産の「木綿市」や木綿を運送するための「馬市」が開かれ、にぎわった。馬市には四百頭~五百頭の馬が集まり、談合松と呼ばれる大松の下で馬の値段を決めていた。広重の保永堂版『東海道五拾三次 池鯉鮒』は馬市の様子を描いている。池鯉鮒は衣浦湾を挟み知多半島をを控え、挙母・吉良・刈谷へ至る道の分岐点でもあった。『新日本歩く道紀行100選 文化の道「東海道宿場散歩みち」』全長:5.6km 所要時間:2時間平成27年11月に、無量壽寺~知立神社を結ぶ、全長5.6㎞のルートが「新日本歩く道紀行100選文化の道 東海道宿場散歩みち」に選定されました。新日本歩く道紀行100選とは、全国のウォーキングルートから10のテーマでそれぞれ100ルートが選定されたものです。選定されたルートは、魅力あるウォーキングルートとして全国のウォーカーに紹介されます。今回は、「文化の道」のテーマで選定されており、歴史や文化を感じる見どころが多くあります。皆さん是非歩いてみてください『明治用水』「現在の明治用水西井筋ここの遊歩道の下には明治用水西井筋が流れています。埋められているパイプは直径150センチで、農地のかんがいに必要な水を下流に送っています。」永井 はな子 「かきつばた姫」 2015年制作 ブロンズ 知立市の花かきつばたを、凛とした成長していく女性に例えています。「かきつばた八橋のかきつばたは、平安の歌人在原業平が伊勢物語で「かきつばた」を折り込んで歌を詠んだといわれ有名です。また、江戸時代尾形光琳が描いた国宝『燕子花図屏風』は、伊勢物語九段「八橋」の場面を描いたとされています。かきつばたは知立市の花として親しまれており、八橋町にある「八橋かきつばた園」では、4月末から5月末までの間、かきつばたが咲き誇る ”かきつばたまつり” が開催されます。」「かきつばた姫 永井 はな子伊勢物語に想いを馳せながら、古代から凛として咲き誇るかきつばたの精神性を、昔ながらの宿場から近代的な町へと移り変わっていく知立と重ねあわせて、かきつばたが美しく成長していく様子を表現しました。」『かきつばた園』。石造りの池。池の水の中には『鯉』や『鮒』の姿はなかった。早川 高師 「ようこそ、ようこそ」2015年制作 ブロンズ「池鯉鮒昔、ちりゅうは知立・智立などと書かれていました。知立神社にはお祭りの際に神輿を洗う御手洗池と呼ばれる池があり、池には鯉や鮒が多くいたので「池鯉鮒」となったとも伝えられています。隔年5月3日の知立まつりで上演される山車文楽とからくりは全国的に有名で、国の重要無形民族文化財に指定されています。」「ようこそ、ようこそ」早川高師おみやげをもった猫が、船に乗って池鯉鮒にやってきた。鯉や鮒、池鯉鮒の人々に「こんにちは」。魚たちも歓迎し「ようこそ、ようこそ」。池を船で表現し、このような様子をおとぎ話風に制作しました。」宇納 一公 「片目の鯉」 2015年制作 ブロンズ知立市に伝わる民話「片目の鯉」を表現した祈りの造形です。「知立神社知立神社は、三河の二の宮で、まむし除け・雨乞い・安産の神として信仰され、隔年に行われる5月3日の知立まつり本祭には、山車文楽とからくり人形芝居が上演されます。正面の鳥居を過ぎると右手に国指定重要文化財の多宝塔があります。また、知立神社の御手洗池には、娘の目が治るようにと毎日神社にお祈りしたところ片目が治り、それから御手洗池の鯉が片目になったという昔話『片目の鯉』が語りつがれています。」「片目の鯉 宇納 一公池鯉鮒のむかし話に、両親が娘さんの目が治るように願をかけた『片目の鯉』のお話があります。祈りの造形として、この作品をいつまでも愛して下さることを願っています。」鬼頭 正信 「知立の昔話より」 2015年制作 銅(鍛金)知立市の民話に登場する3匹の動物をレリーフで表現し、それをかきつばたの花びらに組んだ造形で、金属をたたいて作る鍛金の技法によって制作された作品です。「鎌倉街道江戸時代東海道が開かれる以前、人々は鎌倉街道を行き来しました。伊勢物語の中で、平安の歌人、在原業平がかきつばたの五文字を折句して詠んだ八橋には業平を偲ばせる史跡が今も多く残っています。また、鎌倉街道沿いの地域では多くの民話が残されており、現在に語り継がれています。そこには狐や狸など、可愛らしい動物たちが登場します。」「知立の昔話より 鬼頭 正信知立の昔話には動物たちが登場します。カキツバタの花びらに見立てた3面にその中から選んだ3匹を表しました。さて、どのお話に出て来るでしょう。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次無量寿寺の本堂脇の入口を潜り裏手にあった『かきつばた庭園』に向かう。『業平竹』。「業平竹植えられた時期は不明だが、江戸時代の文献には、当寺の堂前に「業平竹」があったとの記述がみられる。一説には竹(男竹)であるが、笹(女竹)のように’節から多くの枝を出すため、色男と言われる在原業平に見立てたともいわれる。男女竹と称え縁結びの竹として俗に信仰されている。」本堂の『脇門』か。『心字池』。「杜若池(心字池) 市指定文化財(名勝)昭和40年1月指定この庭園は、寺の再興者であった方巌売茶翁が、以前からあった池や庭を煎茶式に改造したものといわれています。回遊式、刈込式、借景式の様相が特色です。庫裡前の杜若池(心字池)を中心とし、庭全体の高低の落差を四段に分け、段毎の境を生け垣で区切った回遊式となっています。手前の心字池には全体の要となる中の島があり、築山となった中腹には三尊石が設置されています。 造られた当時は正面遠景として岡崎の村積山がみえ、近景に逢妻川の清流が流れ借景として取り入れられていました。この杜若池(かきつばたいけ)のほか、境内には昭和になって新しく作られた杜若池があり毎年五月には合わせて約三万本の杜若が咲き乱れ、多くの人々で賑わっています。」『杜若池(心字池)』の正面左側。『三尊石』。「この庭の中心 観音菩薩 阿弥陀如来 勢至菩薩。」『杜若池(心字池)』の先に見えるのは『茶室』の裏側。『業平の井』。「業平の井 業平公の水を御くみの井戸。」『玉川卓』と『辻灯籠』。「玉川卓右の長方形の石は煎茶式庭園玉川庭の玉川卓である。この石の上に茶道具をのせ、青空の下で煎茶を楽しんだのである。」辻灯龍左の灯龍は、文政年問に当時の無量寿寺客僧八橋売苓万巌禅師のために、紀州大納言治宝公から贈られた一ついの灯龍である。」『杜若池(心字池)』の周囲を散策。『杜若池(心字池)』の周囲を散策。その先に東屋が。東屋を見上げる。東屋を別の角度から。無量寿寺本堂裏に歴代和尚のお墓が並んでいた。墓を横から。『伝説羽田玄喜(げんき)二児の墓』。昔、野路宿(八橋)に羽田玄喜という医者がいた。妻はこの地の庄司の娘で二人の男児があった。夫は早くに死に、女手一つで二児を育てていた。あるひ妻が生活の糧にと裏で海藻をとっていると、母を慕って来た二児が水に落ち溺れて死んでしまった。妻は悲しみのあまり当時に入り尼となって、子の墓を建て菩提を弔った。以後この地を八橋と名付けたと伝えている。」『カキツバタ(杜若)』の田んぼ。『八橋』。幅の狭い橋板を数枚、稲妻のような形につなぎかけた橋。『八橋』を渡って進む。その先に『在原業平像と歌碑』。「伊勢物語の伝説地八橋ここ八橋は平安時代につくられた「伊勢物語・東下り」の旧跡として、愛知県の史跡に指定されています。特に在原業平が詠んだ「かきつばた」の和歌は、多くの人の心を惹きつけてきました。平安時代の昔から千年余りの間、東海道や鎌倉街道を行き来する人々が、業平をしのんでこの地を訪れ、数多くの紀行文や和歌俳句を残しました。また、能や謡曲にも取り入れられており郷土の誇る大切な文化遺産です。当地の旧跡保存会は「県の花・市の花」であるかきつばたの手入れを続けまた「業平毎歳忌」を営んでいます。かきつばた歌碑と在原業平像は、地元の方々や、知立市のライオンズクラブ、文化協会をはじめとする各種団体からの寄付金、かきつばたまつりにお出でいただいたお客様、全国の篤志家の方々からの募金によってつくられました。八橋伝説地がより多くの方々に愛され、親しまれ、末永く語り継がれるよう願っています。」『歌碑』。伊勢物語で詠んだとされる、歌頭に「かきつばた」の五文字を入れた歌の『歌碑』。「から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思う」「八橋の蜘蛛手に流れる沢のほとりにかきつばたが美しく咲いているのを見て、かきつばたの五文字を句の上にすえて、都に残してきた妻や子を偲び、「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と詠まれました。この和歌は平安時代前期の代表的な歌人、在原業平作として勅撰和歌集の古今集に撰ばれています。また、伊勢物語の九段東下りに採り入れられ、八橋の地が永く語り継がれ親しまれてきました。」『在原業平像』。お顔をズームで。再び『八橋』、カキツバタ(杜若)園を見る。 カキツバタが咲くと。 【https://4travel.jp/travelogue/10568959】より。「知立市の花である「かきっばた」が咲き誇るこの池、に導かれた水は、先人たちの壮大な計画により、明治13年(1880年)に開削され、碧海大地の農業地帯を創りあげた明治用水の水を利用しています。中央アルプスを源にし、矢作川を経た後この地城までやってきます。この機会に、水の尊さや地域環境につて考えてみてはいかがでしょう。」茶室の周囲の竹林。竹林の中に茶室への入口が。茶室入口。茶室の名は『燕子庵(えんしあん)』。多種な木々が。『祖風翁の句碑』「祖風翁の句碑遺章かきつばた 夏もむかしの なつならず井村祖風は池鯉鮒の旅宿山吹屋の主人で俳人です。延享元年(一七四四)江戸向島に生まれ、芭蕉に私淑して俳諧の道に励み、多くの文人墨客らとも交わりました。岡崎藩主家の本多忠寛(俳人三秀亭李喬)と親交があり、その縁で山吹屋の跡を継ぎました。山吹屋には蜀山人、太田南畝も訪れ、八橋の方巌売茶とも交わるなど風雅の生活を送り、池鯉鮒を代表する文化人でした。現在知立神社にある芭蕉の句碑「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」は祖風が同好の士とともに建てたものです。この墓と書かれた祖風の句碑は、祖風没後二年の文化八年(一八一一)に、門人らによって経巻型式で建てられました。」『供養墓』。墓の方の戒名と本名が。『八橋碑』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年1月19日(日)、『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日。前日の出発予定であったが、箱根周辺の積雪が予想されたため1日出発をずらす。そして、この日の朝も箱根の山越えは、路面凍結の可能性があるため、茅ヶ崎から県央自動車道、東名高速道路で富士川スマートICまで行き。ここから一般道に降り西に進む。最初に訪ねたのが、以前訪ねることが出来なかった知立市にある『八橋山 無量寿寺』。旧東海道の来迎寺町の『元禄の道標』のある交差点を右折し真っ直ぐ進むと『八橋日吉山王社(日吉神社) 』が正面に見えて来た。名鉄三河線 三河八橋駅南410mの場所にあるカキツバタで有名な無量寿寺の門前社と神宮寺の関係にある南向きの神社。南側からの道路が神社正面で左右に分かれるY字路になっていて左側は三河八橋駅、右は駐車場方面に至る。そしてY字路正面の左手は『八橋日吉山王社』、右手には『八橋山 無量寿寺』の参道が並ぶ。写真左側が『八橋日吉山王社(日吉神社)』の参道入口、右前に日吉神社神社石柱。入口には『邨社日吉神社』の社号標が建っていた。正面に地蔵尊。そして『八橋日吉山王社(日吉神社)』の石鳥居と奥に拝殿。『三河新四国総開帳』と書かれた幟が。三河新四国霊場会では札所再興五十五周年記念今年の三月一日より六月十〇日まで『三河新四国霊場の総開帳』が行われている様であった。開帳とは、ふだんは閉じてある厨子(ずし) の扉を、特定日に限って開き、中の秘仏を一般の人に拝ませること・開龕 (かいがん) ,啓龕 (けいがん) ,開扉 (かいひ) 、隠すべきものを人目にさらすこと。右手には無量寿寺の奥にある『八橋かきつばた園』の案内塔が。『無量寿寺』の参道右前に『八橋舊蹟』の石柱が。『知立市 観光めぐり』案内板。『新日本歩く道紀行100選 文化の道「東海道宿場散歩みち」案内板』。★スタート : 無量壽寺→かきつばた園→明治用水緑道遊歩道→東海道松並木→本陣跡→山車蔵 →知立古城址→ゴール 知立神社★全長 : 5.6キロメートル★所要時間 : 2時間程度『無量寿寺』の参道の左側に園内案内図。『無量寿寺』「名勝八橋の中心となる寺で現在臨済宗妙心寺派に属しています。寺伝では奈良時代の 慶雲元年(704)の創立としており、当時は慶雲寺と称し真言宗として寺坊大いに栄えたと 申します。延喜2年(902)山号寺号を八橋山無量寺に改めているので、このころいまの地へ 移されたと伝えられ、その後無量寿寺と改められ現在に至っています。」『かきつばた園』「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」 平安時代の歌人在原業平が「かきつばた」の5文字を句頭に入れて歌を詠んだ八橋は、 伊勢物語の昔から広く知られるかきつばたの名勝地です。敷地13,000㎡の庭園内には 3万本が生息し、5,000㎡の池一面に咲きそろう4月~5月が見所で、 多くの人々を魅了します。」 配置案内図。『八橋日吉山王社(日吉神社)』の境内『八橋日吉山王社(日吉神社)』の手水舎。『御大典紀年』の木。『八橋日吉山王社(日吉神社)』拝殿。 この神社は名鉄三河線・三河八橋駅の南西約500mに鎮座。平安時代の歌人・在原業平の伝説で有名な無量寿寺西に隣接しており、無量寿寺には伝説に由来する業平竹やヒトモトススキなどが植えてあり、又、八橋かきつばた園には3万本のカキツバタが植えられているといわれ、花の時節にはさぞかし壮観だろうと思われた。このカキツバタは知立市の市花でもあり、愛知県の県花ともなっていいるのだと。参道から境内は非常に綺麗に整備され、整えられていた。拝殿前には岡崎狛犬がいたが、吽は子狛が親の前脚を両手で持ち上げている珍しい意匠。拝殿は入母屋造り、本殿は流造で建立。その他多数の境内社が合社の形で祀られていた。御祭神:大山咋尊祭礼日:5月15日により近い日曜日(5月の第2又は第3日曜日)境内社:八坂神社、八朔社、神明社、白山社、春埜山、秋葉山、八幡社、明神社、山の神、 弁財天、天神社由緒:創立は慶雲元年(704)、神宮寺である無量寿寺の開祖、密園法師が寺創建に際し、守護神として境内に勧請安置されたと言われています。以来、無量寿寺の住職が累代奉仕、社務所の右にある合社の左の旗立ての石の支柱に「慶應3年(1867)八橋山朴仙(無量寿寺第八世和尚の名)」とあります。明治元年(1868)神仏分離令により境内に境界を設け、町内の氏子が氏神としてお祀りしてきて、現在に至りました。代々、全住民輪番で毎夜御灯明を灯し続けていると。境内には、芭蕉の「かきつばた 我に発句のおもひ有り」の古い句碑や、荻生徂徠の弟子が在原業平の逸話を書き付けた亀甲碑(八橋古碑)が。扁額『日吉山王社』。『拝殿』内部。流造りの『本殿』参道左に『授札所』。『境内社』の八坂神社、八朔社、神明社『境内社』白山社、春埜山、秋葉山、八幡社、明神社、山の神、弁財天、天神社。その奥にY字路左側の道路によりの『脇鳥居』、その先に本殿左側の『脇末社殿』に至る。『脇鳥居』。脇鳥居から入って左側に豊川陀枳尼眞天の『稲荷連鳥居』。拝殿前に戻ると参道右に『知立市八橋史跡保存館』。そして『無量壽寺』の参道を進む。境内に入るとすぐ正面に『芭蕉句碑】 市指定文化財(建造物)昭和40年1月指定』が。「芭蕉句碑 市指定文化財(建造物)昭和40年1月指定 かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉 麦穂なみよる 閏ひの里 知足 芭蕉が『野ざらし紀行』を終えた翌年の貞享二年(1685)四月に鳴海の俳人下郷知足の家を 訪れ、その時に開かれた俳席での作といわれる。 芭蕉は知足の案内でこの八橋に遊び、古に思いを巡らしのであろうか。 碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とある。 三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものである。」『八橋古碑 市指定文化財(建造物) 昭和40年1月指定』芭蕉句碑の傍にあり、亀の上に石碑が乗っていた。「八橋古碑八橋は古来より和歌の名所として著名であり、多くの文人墨客が訪れるた。この碑は、岡崎藩に仕えた儒者、秋本嵎夷その門人国分伯機・由良不淰により寛保二年(1742)に建てられた。撰文は秋本、書は国分である。碑文は「八橋紀事弄王孫歌」と題され、八橋と業平の故事、それについての感慨が漢文で書かれるが、難解なことで有名である。亀型の碑の台を亀趺(きふ)といい、一説には中国の伝説上の神獣とされる。地元では「亀甲碑」と呼ばれる。」この石碑は『八橋由緒記』。全て漢文で記載されていて内容は???これは全てひらがなで『ひともとすすき』。芭蕉句碑の後にあったが、根本から刈り込まれていた。「ひともとすすき謡曲「筒井筒」の故事にならって植えられたと伝えられてる。八橋の一もとすゝき穂にいでて はるばる来むる人まねくらんと「三河名勝絵図」にはあります。このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるという言い伝えから、縁結びのすすきと言われている。」『卍 三河新四国 第四番・無量寿寺』『本堂』無量寿寺の創建は慶雲元年(704)、密園法師によって開かれたのが始まりと伝えられている。当初は現在の豊田市駒場町にあり真言宗と天台宗を兼学した東海山慶雲寺と称していましたが弘仁12年(821)に現在の寺号である無量寿寺改称し、延喜2年(902)に現在に移り、山号を八橋山に改称しています。その後、真言宗の学頭として寺運が隆盛しますが衰退し、文安5年(1448)に禅源大済禅師が再興、さらに宝永8年(1711)に臨済宗に改宗。文化2年(1805)、方巌売茶が中興の祖となり境内整備に努め現在の庭園もこの時期に作庭されています。寺宝が多く方巌売茶竹製笈が愛知県指定文化財に指定されている他、杜若姫供養塔、亀甲碑(八橋古碑)、芭蕉連句碑、売茶翁墨跡、売茶翁長線、業平八橋図が知立市指定文化財に指定されています。又、境内一帯が「八橋伝説地」として愛知県指定史跡に指定されています。『本堂』内部。『南無大師 遍照金剛』の文字が。「八橋山 無量寿寺 臨済宗妙心寺派慶雲年間(704~8)に創建された慶雲寺が弘仁3年(821)八橋のこの地に移され、無量寿寺となったと伝えられている。寺宝 売茶翁茶筅 県文化財 墨跡 市文化財 長線 市文化財業平八橋図 市文化財その他にも多くの宝物がある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『明治川神社』を後にし、旧東海道に再び戻り『池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)』に向かって進む。断続的に松並木が続いていた。松並木が始まって間もなく、右手に『邨社 日𠮷神社』と刻まれた社標が。『吉』の上は士でなくて土。ここは安城市浜屋町。裏に「明治四十二年十月建之」。『邨』の字を調べてみて初めて『村』の旧字体であることを知ったのであった。奥に社殿?、左に朱の鳥居が見えた。参道は脇へ追いやられて?企業の従業員駐車場?に。社殿?をズームで。調べてみると『社殿』はこの左に、これは『境内社』であろうか。『安城消防署北分署北』という長い名前の交差点を通過。この交差点を左折して名鉄名古屋本線に突き当たり線路沿いを右に進むと『新安城駅』に達する。そして前方から爆竹の音が聞こえて来た。『東栄町』交差点手前、右には『青麻神社』が。『青麻神社鳥居』。鳥居の下の柱の付け根には『青麻神社』の扁額が置かれていた。『森 林平之碑』。この人物は??子安地蔵尊であろうか?『青麻神社』濱碇(はまいかり)の化粧回しを付けた『清見潟又市像』。俵で囲んだ台座の上に仁王立ちする濱碇又七。濱碇は安政7年(1860)に当地(里村)で生まれ、本名は畔柳又七。幼少時は父や兄と死別して一家離散するなど苦労した。慶応3年(1867)頃から草相撲の仲間に入り、いつの頃からか濱碇の四股名を名乗った。地元で草相撲力士をしているとき、新川(碧南)の料理屋の主人の目にとまり、東京相撲に行くことを勧められた。明治11年、前浜村(碧南)出身の親方、五代目清見潟又市に入門したと。『東京大角力 協会清見潟 代理目代正 濱碇碑』大正三年の建立で、石碑の横には『東京角力年寄 発起人 大嶽 門左衛門 武蔵川 谷右衛門』の文字が刻まれていた。『清見潟又市碑』現在の清見潟親方はもと武州山で、藤島部屋の所属。『濱碇』は、明治12年1月の春場所に前相撲で土俵を踏み、同年5月の夏場所で西序ノ口23枚目からプロとしてスタート。明治14年1月の春場所では東三段目34枚目まで上がりますが、茨城県での巡業中に大怪我を負い、以後2年間の休場を余儀なくされた。怪我は治ったものの再起は果たせず、明治16年5月の夏場所で廃業。短い相撲人生を終えた。その後、安城に戻って薬売りで財をなし、あちらこちらに地蔵を寄付したのだと。『里町4丁目西』交差点を渡る。この交差点を左折して約700m程で名鉄名古屋本線の新安城駅に達する。前方から爆竹の音が聞こえて来たのであった。お祭り用の赤いハッピを着た集団がこちらに向かっていた。お祭り用の用具を軽トラックに載せて。この日10月16日は安城市今本町『白山比賣神社』のお祭りのようであった。民家の前に集まり爆竹を鳴らしmこの家の安寧、繁栄を皆で祈り、三三七拍子で手打ちそして万歳を。その後この家の方が御祝儀を出し、返礼として再び爆竹。更に進み『今本町4丁目』交差点を通過。再び松並木が。猿渡川の支流石田川に架かる石田橋を渡ると左手には小さな神社と新田組建立と刻まれた大正3年(1914)の常夜燈が建っていた。常夜燈の奥に昭和50年(1975)の鳥居があり、その先に瓦屋根を葺いた小社が建っていた。石田川はこの先『猿渡川橋』横で猿渡川に合流していた。更に進むと前方に再び橋が現れた。左手にあったのが『豊臣機工㈱本社工場』。トヨタを中心とする自動車ボディ部品の製造、販売会社。『猿渡川』に架かる『猿渡川橋』を渡る。橋の両側の欄干には松並木の情景が描かれたレリーフがはめ込まれていた。『猿渡川』下流を見ながら渡る。『来迎寺(らいこおじ)公園東』交差点。公園の一角には、『玉乃井』と言われる井戸跡がありズームで。猿渡川一帯は、明治23年(1890)に日清戦争を睨んでの陸海軍合同大演習が明治天皇観閲のもと行われた場所で、これを記念して明治27年(1894)に建立された記念碑もあったが・・・・・。来迎寺(らいこおじ)公園を過ぎると右側にあった石碑。左手には『故 陸軍歩兵一等兵 勲八等功七級鈴木新十之碑』と刻まれていた。右手は『日清戦争』の戦没者の慰霊碑のようであった。その隣にあったのが来迎寺村の鎮守であった『御鍬神社(おくわじんじゃ)』。御鍬神社鳥居。御鍬神社『拝殿』。『御鍬神社』は、江戸時代来迎寺村をはじめ、近隣の村々が連合して伊勢より御鍬神社を勧請して祈願したのが始まりであると。。『御鍬神社 由緒』「江戸時代来迎寺村を初め、近村の牛田村、八橋村、駒場村、花園村、里村、今村、大浜茶屋村の八ヶ村が連合して、伊勢より御鍬神を勧請し各村輪番にて御鍬祭を奉仕し豊作を祈願してきたが、 明和年中(1764-71)この輪番が当村で終わることになったことから、社殿を造営し以後氏神と仰ぎ祀ったという。 明治5年、村社に列格となり同6年現在の拝殿が造営され同時に宇西中畑に鎮座の山神社と字石田の鎮座の秋葉社と弁天社を境内に遷された。 その後、本殿は大正3年に神明宮を忠実に守って屋根は切妻造の杉皮葺、平入り素木造、一重の繁垂木そりなし、棟に千木、かつお木(五本)を置く神殿で、丁度伊勢神宮(外宮)の二分の一の大きさに造営された。」『御鍬神社秋季大祭』案内。山神社・弁天社・秋葉社を合祀した『境内社』。この蛸堂はもとの本社殿であったと。『末社と祭神』案内。秋葉社:火産霊命(かぐつちのみこと)弁天社:市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)山神社:大山祇命(おほやまづみのみこと)御神木なのであろうか?直ぐ先のT字路、『来迎寺町』交差点の右角に元禄9年(1696)の道標が建っていた。『八橋山無量寿寺道標』。よく見てみると元禄9年に建立された物。西暦では1696年となり、300年以上前の物になる。ちなみに「無量寿寺」とは、「在原業平」ゆかりの寺らしい。Iphoneで地図を見ると700m以上先で往復では1.5km位になる。寄り道にはちょっと遠すぎるので、次の機会にとそのまま街道を進む事にした。そして「次の機会」👈リンクの2020年1月19日(日)の四日市への移動日に訪ねたのでここにリンクしました。こちら側は読み取れなかったが右側は『天下和順』。左面(裏面)には『元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白』と書き込まれていると。『元禄の道標』「道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた展示物のことである。この道は、江戸時代の東海道であったから、諸所にこの様な道標が建てられていた。 従是四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白と記されており、これは、元禄九年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量壽寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ五百メートルの牛田町西端にも、『東海道名所図会』に記されている元禄12年の道標が残されている。」そして横断歩道を渡ると左にも同様な道標が。上り、下り用に対になって設置されていたのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.15
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現在『旧東海道を歩く(御油駅~池鯉鮒宿)』を連日ブログアップ中ですが、近々の出来事もこの途中に挿し込ませていただきます。私の住む地域の「どんど焼き」が昨日1月13日(月)8:00から近くの公園で行われました。「門松」「しめ縄」「破魔矢」などの正月飾りを処分するにはいくつか方法がありますが、最も一般的なのが神社やお寺の『お焚き上げ』や『どんど焼き』で焼くというもの。我が地域には近くに神社・仏閣が無いので、私が子供の頃には近くの農道の路地、そして現在は近くの公園で毎年継続して『どんど焼き』が行われているのです。かってはどんど焼きが行われるのは小正月の「1月15日」が主でしたが、現在はそれよりも早く行われる場合が多いのです。これはかつて1月15日だった成人の日・祝日がハッピーマンデー制度により、日にちが移行してしまったことが大きな理由 。このハッピーマンデー制度により祝日が1月第二月曜日に変更され、1月15日が平日になる年もでてきました。そこで『どんど焼き』に参加しやすいように、成人の日(1月第二月曜日)またはその(前)後の土曜・日曜日に『どんど焼き』の日にちを移すようになったのです。妻が今年の「門松」、「しめ縄」等を1つに纏めておいてくれました。妻が前夜に上新粉で造った3色の団子も準備しておいてくれました。どんど焼きの火で焼いた餅、または三色団子を食べると、その年の病を除くと言われているのです。三つ叉の木は、昨年末に趣味の養蜂場のある畑の木の枝を切り準備しておきました。8時からの開催とのことで8時過ぎに公園に着くと、既に火は下火に。しかし、火力がまだ強すぎるので、近くに寄る人の姿は少なし。公園内での「どんど焼き」を行うためには、市に対して「公園内行為許可証」そして消防署に対して「煙・火炎発生届」が必要とのこと。牛蒡注連も勢いよく燃えて。漸く、火も落ち着いて来たので団子焼きの開始。赤、白、緑の三色団子。大きさそして色は家によりまちまち。火の熱さに加えてお神酒が入り真っ赤な顔のオジサンも。私も熱さを我慢しながら団子焼きを始める。今年も妻が、三叉の付け根をアルミホイールで巻いてくれました。熱いので妻に交代。妻も必死に熱さを堪えて・・・・。近頃、なかなか三叉の木が手に入らないので、団子をアルミホイールで包んで焼く方も。公園内の備品置き場から、鋤の如き器具を持ち出し、団子を火から掻き出されていました。子供たちの姿が年々少なくなっていると感じながら・・・。公園の山茶花の花も満開中。そして自宅に戻り、今年も風邪を引かないようにと妻と一緒に食べたのです。「どんど焼き」の如き日本の伝統行事をしっかりと引き継ぎ、次世代に繋いでいく事は非常に大切である事を今年も感じながら帰宅したのでした。
2020.01.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の山側に鎮座する『内外神明社』に立ち寄る。鳥居の先には対の幟がはためいていた。『奉献 内外神明社 氏子中』の文字が。石鳥居を潜り『内外神明社』境内へ。境内ではこの日の夜『秋の大祭』が開催されるとのことで、町内の人達による祭りの準備中。地元の人に聞くと、神主さんが忙しく平日でないと予約できないのだと。また縁日の出店も自分たちで企画し開店するのだと。『大正九年 明治神宮鎮座祭記念梅樹』と刻まれた石碑の周囲には黒白幕(鯨幕)が。本来は、弔事・慶事に関係なく使用され、皇室では慶事にも使用するのだと知ったのはいつのことであっただろうか。古来、黒色は高貴な色とされ、神事では古くから白黒の鯨幕が使用されているのだと。鯨は背の部分が黒く、腹の部分は白。さらに皮をはぐと黒い皮の裏側に白い脂肪がついていると。そこからの連想で、この白黒の幕を鯨幕というようになったのだと。拝殿の前にも準備の方々の姿が。内外神明社の創建年代等は不詳であるが、祭神は天照大神。『明治天皇御駐蹕之所碑』街道を進むと左手の民家前に、昭和15年(1940)建立の明治天皇御駐蹕之所碑が建っていた。ここは高井善兵衛の茶屋 「藤屋」 跡で、この辺りは立場茶屋が何軒かあったところであると。そして右手に美しい姿の『松』が現れた。『県指定 天然記念物 永安寺の雲龍の松』と書かれた木札。文字が消えつつあるが・・・・。『県指定 天然記念物 永安寺の雲龍の松』案内板。「永安寺は、曹洞宗の寺院で、山号を本然山といいます。大浜茶屋村(浜屋町)の庄屋であった柴田助太夫は、街道の宿場町へ必要に応じて人馬を提供する助郷役村を村が命じられた際、村の窮状を訴えて免除を願い出たとる伝えられています。領主であった刈谷藩は、延宝5年(1677)に彼を死罪としましたが、その後、村の助郷役は免除となりました。村では、領主の代替わりごとに、この助太夫の一件を説明し、助郷役の免除は幕末まで続きました。村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、彼の旧宅跡に草庵を建立したといわれます。草庵は後に寺として整えられ、彼の戒名である本然玄性居士と、妻の安海永祥大姉にちなんで、「本然山永安寺」と名付けられました。一般に、マツの主幹は地面から垂直に伸びるのですが、このマツは高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びています。この樹形が、雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を連想させることから、「雲竜の松」と呼ばれています。樹齢から、このマツは助太夫のころからのものと考えられます。」松の枝に多くの丸太支柱が。そして『永安寺』の『山門』を潜り境内へ。左手前には『永安寺寺号標』も。『厄除・子安地蔵尊 願主八十三才女』。『地蔵尊』。案内板通りに『永安寺の雲龍の松』は高さ1.5mのところから北西、南、東の3方向に分かれて横に伸びていた。その樹形が、たなびく雲のようであり、また伏せる龍のようでもあるため『雲龍』の名称が冠されているのだと。幹周囲:4.4m、樹高:4.8m、枝張り:東西 17.9m、南北 24.7m樹齢、推定350年。『西国三十三所観音』。多くの『西国三十三所観音』像が並んでいた。『鐘楼』。『本堂』。『永安寺』は、大浜茶屋村の窮状を訴えて刑死した庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺である。『参拝者の方々へ』「新年を迎え本年も宜しくお願い申し上げます。予定行事 予定 ・八月十八日(日) 十七時頃・・・地蔵盆法要(どなたでもご参拝下さい)~ お知らせ ~ ・当山(ホール等)での葬儀・法事 ・納骨、法要(先祖・動物・水子) ・精入れ・精抜き(墓・仏壇等) ・永代供養・納骨・預かり等 ・各祈祷(身体・交通・厄除け等)も要予約にて受付けております当山では、特に宗旨は問いませんので、どなたでもご相談ください。」『本堂』前から『永安寺の雲龍の松』を見る。帰路も『永安寺の雲龍の松』の美しい姿ををカメラで追いかける。本堂への参道にまで太い枝いや幹が伸びて。再び『永安寺の雲竜の松』を振り返る。いつまでも留まっていたい空間なのであった。最後に旧東海道からも。そして『明治川神社』交差点まで進む。交差点の先左手には『明治川神社』の大きな石鳥居が姿を現した。石鳥居の道路を隔てた対面にあった石碑『明治用水記念碑』が3基。『疏通千里 利澤萬世 聖朝嘉績 良民美挙』と漢詩が刻まれた石碑(左) 疏通(水路を通す)すること千里、その利澤(恩恵 )は萬世におよぶ、 先人の血のにじむ努力によって築かれたと。そして漢文が刻まれた石碑は『明治用水開渠記念碑』(右)『明治用水』👈リンクの詳細については関心のある方はリンクにアクセス願います。そして『通水百年記念碑 清流保悠久』。『明治用水開渠記念碑』石碑。『明治川神社』を訪ねた。北参道入口から境内までおよそ150m。『手水舎』。『定』。東参道入口に立つ『明治川神社』社標。東参道入口に立つ伊勢鳥居。『社 記』一、神社名:明治川神社(水神社)一、例 祭:四月十八日一、祭 神:大水上祖神、都築弥厚命、岡本兵松命一、由 緒:文化五年(1808年)頃、都築弥厚翁が碧海台地の開発を計画されて寄り、七十余年の 歳月を経た明治十三年(1880年))四月十八日、松方正義内務卿参列のもとに 用水路竣工の式(水源)と、祝賀の宴(現地)が盛大に挙行された。その時の一同の 歓喜と感激とがここに結集して神社を創立することとなった。 即ち、長年用水の缺乏をかこち農村の疲弊に泣いたのが、用水路の開通によって 一大飛躍を見るに至ったので、水に由縁の深い神、三柱を同年十二月現今の境内地に 勧請し奉った。その後、明治十七年十月社号を明治川神社とし、翌年一月本社の 公認を申請、同年四月一日無格社として認可を得同年十月十日本社が落成した。 明治四十二年(1909年八月無格社より郷社に列格、翌四十三年四月共進神社に 指定された。大正四年(1915年)十一月都築弥厚大人が合祀され、続いて 昭和十七年五月伊与田与八郎命、昭和二十六年五月岡本兵松命がそれぞれ 伊佐雄社より、又、昭和三十一年三月西沢真蔵大人枝下用水が共に合祀されて 用水の守護神として厚く奉斎を受け給うのである。昭和二十八年一月三十日宗教法人と なり現在の神社等級は四級社である。一、神社名:伊佐雄社(いさおしゃ)一、例 祭:十月十八日一、祭 神:田中甚七郎命、本多勘三郎命、加藤太兵衛命、・・・・・・・一、由 緒:当社は本社の左側に鎮座ましまして「功」つまり功労者を奉祀する神社である。 もとは、明治十四年(1881年)上倉池の小島の上に発起者並びに出資者を奉祀し、 開拓小作のため移住した人々と共に鎮守の神として崇敬の誠を捧げていたが、 この上倉池も開拓し盡くされたので、明治十八年明治川神社の公認認可を機会に 現在の地に遷座し奉った。ここに特筆したいのは、関係者が何れも存命中に 神として奉祀せられた所謂、「生祠」であることである。 なお、昭和四十七年八月鹿乘川沿岸用排水土地改良区が明治用水が土地改良区に 合併したため、北野用水、鹿乘川の開さく改修に功労のあった各二柱が 翌四十八年十月合祀せられた。明治用水を引き入れた神池に架かる太鼓橋(右)。『太鼓橋』と『拝殿』。『明治川神社神池』「明治用水の守護神を奉斎する明治川神社の神池は、明治本流が菅水路になった昭和49年から明治用水の流れを引き入れている。しかし、経年により引き込み管路が老朽化したので、これの改修と排水施設の新設を行い、また「簑笠を着けて田植えをしている姿」をイメージしたモニュメントを設置した。この事業は、明治用水通水120年記念事業として、明治用水の悠久の流れと五穀豊穣地域の発展を祈念して施工した。」『神池』の水の浄化用のばっ気装置か?『太鼓橋』を横から。『神馬』。中央『拝殿』と『回廊』。拝殿前には名石工として名高い酒井孫兵衛によって作られた大正9年生まれの岡崎狛犬が。阿像(右)をズームで。吽像(左)拝殿奥の明治川神社『本殿』。明治13年(188)創建の明治川神社。明治川神社は、大水上祖神・水分神のほか、明治用水建設の功労者である都築弥厚・伊豫田与八郎・岡本兵松・西沢真蔵を祭っている。『社務所』であったか?。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『薬王寺』を後にし、住宅街を歩き、『薬王寺』の北側にある『荒子古墳』を訪ねた。階段を登り古墳の上に向かう。木々もきれいに枝打ちされ管理されている様子。雑草も刈られ、ロープも張られて丁寧に保全されていたのであった。宇頭北町のこの『荒子古墳』は高さ約3m、南北径約25mの円墳でほぼ原形を保っている。木々の根っこが古墳の崩壊を防いでいるのであろうか。そして更に住宅街を西へ向かい『北浦古墳/北裏古墳』を訪ねた。墳丘全景を南から。大塚公園として整備されている直径26.5mの堂々たる円墳。雑草等もなく綺麗に刈り込まれていた。周囲を歩く。公園脇には町内案内図はあったが、現地にもこれが「古墳」であることの解説があったほうがよいのでは?と。こちらは「岡崎宇頭土地区画整理事業 完成記念」の石碑の裏側を。国道1号線に戻り更に西に進む。『岡崎市』から『安城市』に入って進む。明治用水の豊かな水にはぐくまれ「日本デンマーク」と呼ばれるほど農業先進都市として発展して来たが、中部経済圏の中心である名古屋市から30kmという近い距離や、豊田市などの内陸工業都市や碧南市などの衣浦臨海工業都市に隣接するという地理的条件にも恵まれ、自動車関連企業をはじめとする大企業の進出、住宅団地の建設が盛んになり、急速に都市化が進んで来た都市であると。国道1号線の尾崎東交差点を通過。旧東海道はここを右方向に進んで『尾崎の松並木』へと。右手に愛知トヨタ自動車株式会社 宇頭営業所があった。そして『尾崎の松並木』へと。松並木は左側が衷心で右側には所々に。立派な家並みが続く。松並木を過ぎて尾崎町を進んで行くと、右手に『東高根用水記念碑』が建っていた。『東高根用水』は明治用水の分流。明治用水は豊田市の矢作川で取水し安城、岡崎、西尾、碧南、高浜、刈谷、知立市の八市の農業、工業用水を供給する用水。幕末・明治維新期に、全国に先駆けて測量・開削が行われた近代農業用水である。更に進むと『予科練之碑』が。ここは第一岡崎海軍航空隊跡であり、戦局が悪化して戦力増強を図るため、昭和19年2月練習航空隊を設置し、昭和19年4月に岡崎海軍航空隊となり、昭和20年に第一岡崎海軍航空隊と改称されたと。海軍予科練習生は5月入隊の一期生から12月入隊の八期生までおよそ 6千名に及んだ。傍らに予科練の碑解説、元第一岡崎海軍航空隊配置図などが建っていた。「此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた『予科錬の碑』を建立するものである」『元第一岡崎海軍航空隊配置時』と『第一岡崎海軍航空隊の由来』「第二次世界大戦が熾烈を極め、戦局必ずしもわれに利あらず、戦略上一大転機に直面し、戦力の画期的増強が急務となった昭和十九年二月、若き精鋭を鍛えるため、海軍はこの地に練習航空隊を設置、 当初河和海軍航空隊岡崎分遣隊として発足したが、急遽訓練を開始することとなり名称も昭和十九年四月一日岡崎海軍航空隊となり作戦機能も独立して同年五月より本格的訓練が開始され、 その後昭和二十年二月第一岡崎海軍航空隊と改称された。 本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選抜された童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍航空隊派遣の命により、 昭和十九年五月入隊の一期生より毎月続々と入隊、十二月入隊の八期までその数およそ六千名と記録されている。 入隊後は日夜の別なく猛訓練を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、全国各地の実戦航空隊へ実務練習生として巣立って行った。 しかしわが軍の劣勢は如何ともし難く、昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を無条件で受諾、戦争は終結し本航空隊も解隊されるところとなった。 広大な跡地は、戦後の食糧危機に再開拓され元の美田に戻り大いにその成果を挙げてきたが、その後のわが国の驚異的な経済成長に伴い本跡地も著しく変貌し、戦後四十年を経た今日、 最早往時を偲ぶ痕跡すらなく幻の如く人人の脳裏から消え去らんとしている。 こヽにわれ等相い集い保存資料に基づき、史実を後世に伝えるため、この由来を記録しておくものである。」そしてその隣りにあったのが『村社 熊野神社』そして巨大な常夜燈。入口の左側にあったのが『英霊招魂碑』そしてその隣手前に『東海道 (尾崎)一里塚跡』。ここは鎌倉街道の分岐点であり、江戸日本橋から数えて83里目の一里塚である。『鎌倉街道跡』「1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ宿駅63ヵ所が設置された。 尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。 街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の森と呼んでいる。 ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。 この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する 「目印しの松」 が残されている。」『熊野神社』の石鳥居。扁額『熊野神社』。『手水舎』。池には前面に防鳥網が張られていた。『熊野神社拝殿』。境内右側には『秋葉神社』の石鳥居と社殿が。『境内社』の石鳥居。熊野神社の創建年代等は不詳であるが、境内には秋葉神社のほか、山上社・白山社・海津美社・厳島社・社口社が合祀された境内社があった。『社務所』であろうか。『熊野神社』を振り返って。旧東海道・安城市宇頭茶屋町を西に進む。安城市のおすいマンホール蓋。デザインは安城市発祥の三河万歳の扇と桶胴太鼓(大締太鼓)。その先左側にあったのが『法喜山 妙教寺』。法華宗陣門流の寺であると。室町時代の木造彫刻で市指定の文化財・多宝如来坐像附厨子を所有。比較的新しい寺院で、日喜上人が1900(明治33)年に喜徳眞天を勧請し、1903年に志貴教会を開いた。その後、1946(昭和21)年に法華宗法喜山妙教寺として今日に至っていると。境内の『喜徳稲荷神社』。右の石柱には『祭神喜徳真天鎮座』と書かれていた。『寺務所』か?『御本尊 多宝如来・釈迦如来坐像 安城市文化財指定 当山』と書かれた木札が掲げられていた。こちらが『本堂』か?『不動明王像』 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次しばらく歩くと右手にあったのが『誓願寺十王堂』。『浄瑠璃姫菩提所』と刻まれた石碑。『誓願寺十王堂』案内板。「長徳3年3月(997)、恵心僧都が、溺死した当時の住僧の慶念の冥福を祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。 時代は下り、寿永3年(1138)3月、矢作の里の兼高長者の娘 浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、 十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛 「薄墨」 と姫の鏡を安置した。十王とは、十王経に説く冥府(あの世、冥土の役所)で死者を裁くという王である。 すなわち、秦広王、初江王、宋帝王、伍官王、閻魔王、変成王、太山府君、平等王、都市王、五道転輪王をいう。 死者は冥府に入り、初七日に秦広王の庁に行き、以下順次に 二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百箇日、一周年、三周年に各王の庁を過ぎて 娑婆(この世)で犯した罪の裁きを受け、これによって来世の生所が定まるという。この堂内には、これら十王の極彩色の像が安置してあり、壁には地獄・極楽の有り様が描かれている。」『地蔵堂』。内部には五体の『地藏菩薩像』が鎮座。右側の石柱には『十王誓願寺』と刻まれた石柱があったが門が施錠されており内部への参拝は駄目かと思われたが、運良く中から職員の方が歩いて来られゲートを開けて下さったのであった。最近の世情から、セキュリティの確保のためにゲートを閉めているのだと。保育園奥の誓願寺本堂が見えた。ゲートを入り右側奥・十王堂の裏手には浄瑠璃姫の墓が大切に残されていた。写真中央が浄瑠璃姫の宝篋印塔(ほうきょういんとう)で左右には侍女更科と乳母冷泉の宝篋印塔であるらしい。左手の方に姫の父親である兼高長者(かねたかちょうじゃ)の五輪塔が残されていた。『浄瑠璃姫縁起』「浄瑠璃姫は、年老いても子どものなかった矢作の長者 兼高夫婦が、日頃から信仰していた鳳来寺(ほうらいじ)の薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)にお願いして授かった子といわれ、浄瑠璃姫と名付けられて、たいそう美しく育ちました。承安4年(1174)、牛若丸(源義経)は、奥州平泉の藤原秀衡を頼って旅を続ける途中、矢作の里を訪れ兼高長者の家に宿をとりました。ある日、ふと静かに聞こえてきた浄瑠璃姫の琴の音色に惹かれた義経が、持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人の間に愛が芽生えました。しかし、義経は奥州へ旅立たねばならず、姫に形見として名笛「薄墨」を授け、矢作を去りました。姫が義経を想う心は日毎に募るばかりでしたが、添うに添われぬ恋に、悲しみのあまり、ついに菅生川(すごうがわ)に身を投じて短い人生を終えました。時に浄瑠璃姫は十七才であったという。兼高長者はその遺体を当誓願寺に埋葬した。十王堂を建て義経と浄瑠璃姫の木造を造り、「名笛・薄墨」と姫の鏡を安置し、冥福を祈った。浄瑠璃姫の墓や供養塔は、岡崎公園の北口や成就院にもあり人々にその悲しい恋をしのばせてくれる。」左端が兼高長者の墓『五輪塔』。『鐘楼』。『誓願寺 本堂』。誓願寺由来「慶念山誓願寺といい、宗派は時宗で、三河名所記によると、昔、この寺の境内に池があって、住僧の慶念が溺死した。 そして長徳三(993)年三月、恵心僧都(えしんそうず)がその池を埋めて堂を建て、千体地蔵菩薩(せんたいじぞうぼさつ)を造って安置し慶念の冥福を祈ったと言われると。ズームで。銀杏の木の下にも宝篋印塔が。『やはぎ保育園』は『誓願寺』が経営されているようであった。境内の子安(慈母)観音像。境内の銀杏の木にはギンナンがたわわに実っていた。旅友のSさんは、袋を取り出し拾い始める。私は慌てて、近くにいた保母さんの了解を頂きに。更に街道を進んで行くと右手に矢作町四区の鎮守である『竊樹(ひそこ)神社』があった。参道から石鳥居と社殿を見る。『社殿』。竊樹神社の創建年代等は不詳であるが、かつて上矢作村上之切組の加茂大明神の北方に櫃竊大明神(ひつこそだいみょうじん)があったと言われ、その後幾多の変遷を経て此の地に遷座したようである。参道口には地蔵堂があり、境内奥には不明な句碑が建っていた。御祀神は「別雷皇太神(べつらいこうたいじん)」と「御気津神(みけつかみ)」。次に訪ねたのが竊樹神社の直ぐ先、左手にあった『福萬寺』。真宗大谷派の『護水山福萬寺』。『本堂』とその手前の参道右には『太子堂』が見えた。『福萬寺本堂』👈リンク。『福萬寺』の由緒については、上記👈リンクに詳しく書かれていますので興味のある方はアクセス願います。扁額『福萬寺』。『中興之祖碑』。「吉田英生・澄子夫妻は共に福万寺門徒として崇敬の念厚く、本堂修復をはじめ納骨堂建立・内陣仏具の整備等々の御寄進を賜り、寺門の興隆に誠にご尽力いただきました。依って茲に開基同様、中興之祖として記念の碑を建て後世にその御功績を伝え、世世に法要を勤修致します。」そして旧東海道は『安城街道入口』交差点にて国道1号線に合流した。国道1号線を更に進むと中央分離帯の先、道路の左側にあったのが『暮戸神社』。しかし近くに国道1号線を渡る手段が近くになかったため諦める。その先にあったのが『幕戸教会』。『教会』とあるが真宗大谷派の寺院のようであった。『暮戸東交差点』を通過。そして更に国道1号線を10分ほど進むと左手にあったのが『聖善寺』。『聖善寺』の『山門』。門前にある『岡崎市指定文化財』案内板。・木造孝養太子像 一躰 寄木造、太子16歳で、両手で柄香炉を持つ形をとる。首部背面に墨書の銘があ り、慶長4年(1597)に再興したと記されている、かつてあった像が何かの故に 滅失して、新しく制作したと思われる。・聖善寺のしだれ桜 一本 孝養太子像の制作とほぼ同時期、今から400年程前に植えられたものと察せら れる老樹である。境内には様々な木々が。正面が天然記念物の『聖善寺しだれ桜で』あったのだろう。『岡崎市指定文化財 聖善寺』。・彫刻 木造孝養太子像 一躰・天然j記念物 聖善寺のしだれ桜 一本 ヒガンザクラの一種エドヒガンの枝垂れ品である。かつては胸高囲2.4m、高さ 10m、枝張り15mにも及び、枝先が山門まで届く程であったが、伊勢湾台風に より主幹が折れて樹勢が衰えた。『本堂』。『太鼓楼』の重厚な見事な屋根を境内から。そしてこちらが『聖善寺』脇門。脇門の掲示板には『風車(かぜぐるま) 風が吹くまで 昼寝かな』と広田弘毅の詩が書かれて貼られていた。風が吹いた時に実力を発揮できるような備えを怠らないようにしたいもの、不遇な境遇に直面しても、くさることなく、風が吹くまでの間、学ぶことを怠らず、次に吹く風に備えましょう の意味なのであろうか。そして『聖善寺』の前の道路の反対側にあったのが『薬王寺』。国道1号線の下の地下道を利用して、『薬王寺』に向かう。地下道への階段には地元の子供たちの作品が。地下道にも。国道1号線の地下道を潜り北側(上り線)へ。『和志王山薬王寺』「和志王山薬王寺奈良時代に創建されたと伝えられる由緒あるお寺です。御本尊の薬師瑠璃光如来は17年に一度御開帳される秘仏として本堂に納められています。 この寺に伝わる薬師如来縁起によると、尊像は和銅年間(708-15、奈良時代初期)に、(現在の宇頭南町にあった)神の御手洗御立笠取の池から光を放ってこの世に現れになった。この池に住んだ豊阿弥長者が念持仏とされたが、後に僧行基を開祖として和志王山薬王寺を創建され納められた。そして、子孫代々相続された。 時は経って淳和天皇天長6年(829、平安時代)春に疱瘡が流行した。長者の子も重い疱瘡を病んだ。そこに、何処からともなく僧が現れた。瑠璃の壺から取り出した薬を子に含ませ、子の五体をさすると病は癒えた。僧は子が遊んでいた銭輪を貰い受け、首にかけて退出され忽然と消えられた。長者は薬師のご利益と気付き尊像をお参りすると、御首に銭をかけ、御身体には疱瘡の痕が残っていた。長者は、我が子の身代りになられた尊像をますます崇敬された。 さらに時が経ち、天文18年の戦い(戦国時代、1549年にあった織田信秀と今川・松平の安祥城を巡る戦い)により寺が焼かれ、長者の子孫も絶えてしまわれた。 元和2年(1616、江戸時代初期)4月、村人たちが豊阿弥長者らの墓を、この地に移そうとしたした際に、土中より御首に銭をかけた尊像を掘り出した。不思議なご縁を感じた村人たちは心を合わせ、御堂を造営した。このように記されています。 なお、薬王寺本堂は、古墳時代中期の前方後円墳・宇頭大塚古墳の後円部に造られています。今は後円部以外は削られ、原形を留めていません。昭和34年岡崎文化財研究会の調査によると、その規模は、周濠を含めた全長約70m、後円部径約30mと推定されています。 和銅年間にこの地に住まわれた豊阿弥長者は五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)の子孫と伝えられています。古墳時代中期にこの地に勢力のあった皇孫の古代豪族の子孫が、奈良時代に和志王山薬王寺を建立されたと考えられます。古い歴史を持つ宇頭町の人々が先祖代々崇敬し、お守りしてきた町が誇れる文化財、それが薬王寺と宇頭大塚古墳です」先程訪ねた『聖善寺』の『山門』と『太鼓楼』をこちらから見る。『和志王山薬王寺』の『山門』。門前の、文化8年(1811)の常夜燈(奥)と安永4年(1775)の常夜燈(手前)。『三河国薬王寺刀匠鍛刀造趾碑』この付近に室町後期の刀鍛冶集団の三河薬王寺派刀工が居住していたとのこと。『本堂』。本堂の屋根の最頂部の瓦には「和志王山」と。斜めから。『地蔵堂』であろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次新田白山神社を後にし、昨日の続きの「岡崎城下二十七曲り」へ再スタート。『板屋J本通り』を南に向かって進むと、電柱に『東海道岡崎城下 二十七曲り』案内を発見。『板屋本通り』を『乙川』方面に進む。前方左手に『岡崎城下二十七曲り 板屋町角』碑。板屋町はかつて遊郭の街だったのだ。旧東海道・二十七曲りはここを右手に折れるのであったが。よってここに『金のわらじ案内柱』の『よ』があるはずであったが見当たらなかった。曲がらずにしばし直進すると右手にあったのが『板屋稲荷神社』。入口には『板屋本通り』碑。再び二十七曲りに戻り『松葉通り』を進む。そして国道248号線を渡ると左側にあったのが『東海道岡崎城下西出入口 松葉総門跡』の道標石柱。石柱の裏側は共通の説明文が。『金のわらじ案内柱』は『た』。これより八帖町突当り角まで400m。更に『松葉通り』を西に向かって進む。前方に『愛知環状鉄道』の高架が見えてきた。高架は『愛知環状鉄道線』。そして高架下を流れる早川に早川橋が架かっていた。高架の向こう側に以前訪ねた「カクキュー 八丁味噌の郷」工場見学受付の看板を発見。高架を潜ると『八丁味噌の郷』案内板も右手奥に姿を現す。早川橋の渡り詰め左手には岡崎城下二十七曲り『れ』の道標。ここでは『金のわらじ案内柱』ではなかった。『岡崎城下二十七曲り 八帖村』の石柱がその横に。『純情きらり手形の道』「純情きらり」は平成18年(2006)年度上半期におけるNHK朝の連続テレビ小説で八丁味噌の老舗メーカーである「カクキュー」と「まるや」が舞台になった。ドラマの舞台となったロケ地に出演者10人の手形モニュメントが設置されているのであった。沖田徳治郎役の八名信夫の手形。ここから、『松葉通り』は『八帖往還通り』に名前が変わった。『八帖往還通り』を西へ進む。右手に『カクキュー(早川家) 八丁味噌』の工場建屋が。『カクキュー 八丁味噌』は正保2年(1645)創業であり、次の『まるや八丁味噌』は延元2年(1337)創業、それぞれ江戸時代から伝統製法で味噌作りを行っているのだと。続いて左手には連続テレビ小説 「純情きらり」 のロケ地となった 『まるや(太田家)八丁味噌』 があり、中に入ると日吉丸石投の井戸があるとのこと。太田家は、元禄9(1696)年創業と言われていたが、平成10(1998)年に、「創業660年」と認定されたのだと。1337年に、開祖弥治右衛門が味噌づくりを始めたのだと。『岡崎の地場産業 八丁味噌』「大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。「矢作川」沿いであるという立地条件から原料の大豆、塩などの仕入れに便利で、製品の出荷にも舟運が利用でき、「矢作川」の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適しているといわれています。江戸時代以来「早川家」と「大田家」の2軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺のみでなく、江戸にも多く積み出され、その名を高めました。現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。」『歌にみる八丁味噌』。「「摺ってよし 摺らずなおよし 生でよし 煮れば極よし 焼いてまたよし」といわれる「八丁味噌」は、三河武士、農民、承認達の常食、兵食として親しまれ、一日も欠く事の出来ない食品でした。天正18年(1590)、「徳川家康」の関東移封で三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、「矢作川」の舟運や江戸廻船の発達に伴い、「三河木綿」の運搬との相乗関係によって、伊勢、江戸を中心に販路が進展拡充しました。それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という「吉田松陰」の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰らうも」という斎藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来岡崎城下の名産として称賛されてきました。」右手が『八丁蔵通り』。『まるや八丁味噌』の向かいの筋は『八丁蔵通り』と呼ばれ、通りの右手に『カクキュウ八丁味噌』が建っていた。味噌蔵は国道1号線の近くまで続いていた。入口にあったのが『純情きらり手形の道』有森(松井)桜子役 宮崎あおいさん。宮崎あおいの手形。旧東海道(八帖往還通り)の矢作川との突当り。江戸時代はこのまま直進して矢作川へ進んでいたが現在は橋がないのであった。旧東海道はここを右手に折れて行くのであったが、左折し寄り道を。突当りに石柱道標があり「左 江戸」「右 西京」と。南下した先にあったのが『諏訪神社』。『諏訪神社』社殿。そして右側にあったのが『八帖地蔵堂』。折り返して国道1号線方面に北上すると左手にあったのが『八帖往還通り』石柱。『八帖往還通り』を進む。『光圓寺』本堂の屋根が右手に見えた。『鐘楼』も。そしてゆるやかな坂を登りきると、旧東海道は国道1号線と矢作川手前で合流。この辺りが『岡崎二十七曲り』の終点なのであろうか?これまで歩いて来た『岡崎城下二十七曲り』の詳細地図をネットから。 【http://home.h01.itscom.net/tokaido/4aichi/38okazaki27.html】よりこんな地図も『現代の岡崎市に残る「岡崎二十七曲」』こちらの終点は現在の『矢作橋』より手前の石柱道標・「左 江戸」「右 西京」辺りまで。こちらの方が正しそうであるが。いずれにしても、『岡崎二十七曲り』には明確な始点と終点がまだ決まっていないようであった。『矢作川』に架かる『矢作橋』を渡る。『矢作橋』は、『矢作川』に架かる東海道中一の大橋であり、寛永11年(1634)に幕府によって架けられた橋であった。天保8(1837)年には長さが160間(約288m)あるといわれていた。天保13(1842)年には長さ108間(約194m)という記録もあると。 当時は、現在の橋より下流に架かっていたのだと。五万石でも岡崎様は、お城下まで舟が着く」といわれたように、下を流れる矢作川の水運は、岡崎藩に大きな恩恵をもたらしたのだ。『矢作川(やはぎがわ)』。『矢作川』は、長野県、岐阜県および愛知県を流れ三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本流。矢作川の水は明治用水などに使われている。矢矧川とも書く。長野県下伊那郡平谷村の大川入山に源を発して南西に流れる。岐阜県恵那市と愛知県豊田市の奥矢作湖周辺では、矢作川が県境を決めている。流域に豊田市、岡崎市などがある。下流域の矢作古川は元の本流であり、氾濫(はんらん)を抑えるため江戸時代初期に新たに開いた水路が現在の本流となっている。愛知県碧南市と西尾市との境で三河湾に注ぐ。矢作橋上からの名鉄名古屋本線鉄橋を見る。江戸時代はじめはこの鉄橋の手前に土橋があったが、寛永11年(1634)家光の上洛時に本格的な板橋になったといわれている。長さ208間(約378m)もあり、東海道で最長の橋、また日本一長い橋だった。矢作川の舟運は三河の重要な運送ルートで、江戸時代はじめから昭和2年(1927)まで320年もの長いあいだ、川舟による輸送が続けられた。最盛期には三百艘が行き交っていたのだと。矢作川に架かる矢作橋の下り車線を渡り終えたが次の目的の像は上り車線横にあった。幸い国道1号線の下に歩道用のトンネルが設けられていたのでそこを潜って像の前まで辿り着いた。像は『出合乃像』。ズームで。『出合乃像』「日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(居間の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、8才のころから奉公にだされましたが、12才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は、「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。詫びて行け」と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として、今なお私たちの心に生き続け、乱世の時代劇を垣間見る挿話となっています。この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。」しかし、この話はいくつかの点で史実と異なっているのだと。矢作川に最初に橋が架かったのは慶長6(1601)年頃のことで、すでに、秀吉は亡くなった後。また、実際には、蜂須賀小六の方が豊臣秀吉の家来になっていると。話を面白くするためにこういう筋書きにしたのであろうか。 『明治天皇御駐蹕の碑』「旧笹屋こと寺田又治郎方は、今の矢作町大字矢作字市場の矢作川堤防上に在りました。明治元年9月28日及び12月16日の2回、明治天皇がここで御休憩されました。この石碑は、紀元(皇紀)二千六百年記念に建てられたものです。『明治天皇御駐蹕の碑』(右)と『明治35年(1902)の旧矢作橋親柱』(左)。旧東海道沿いの『勝蓮寺(しょうれんじ)』を訪ねた。現在の国道1号線から矢作橋を西に渡り、旧国道(東海道)には入ればすぐの所にあった寺。『親鸞聖人御舊跡柳堂』と刻まれた石碑。その横には『岡﨑市指定文化財』案内板が。 絵画 絹本著色蓮如上人像 一幅 絵画 絹本著色徳川信康像 一幅 徳川家康の嫡男信康が淡い朱色の狩衣に褐色の袴をつけ右手に扇子を持って 畳に座る姿を描く。信康唯一の肖像画で、17~18世紀制作 工芸 獅子牡丹文鎌倉彫香合 一合 『勝蓮寺』「柳堂勝蓮寺と言われ、所蔵する古書には、寺を訪れた親鸞聖人と柳堂、布教の記事が見られます。また、十七代住職行誓の時には、家康の長男信康(織田信長から、武田方と内通したとの疑いを受け自刃。若宮八幡宮に首塚がある)との関係も深く、信康画像をはじめ多くの遺品が残されています。」『山門』。『手水舎』。地蔵堂と思われる御堂。内部には『親鸞が座った石』が。『本堂』。真宗大谷派の当寺は、河原山と号し、天台宗の僧恵堯が師の恵心作の薬師如来を矢作の里の柳樹の元に御堂を建てて納め、柳堂薬師寺と称したことが起源といわれています。その後、嘉禎元年(1235)に、当寺の別当舜行が親鸞聖人の法弟となり、恵眼の法名を受け真宗に改められました。松平8代広忠、家康、信康、石川日向守などの崇敬が厚く、特に17代住職行誓の時には松平信康と関係が深く、多くの遺品が保存されています。本尊の阿弥陀尊像は親鸞聖人から与えられたものといわれています。『鐘楼』。寺務所と住職の家か?『経蔵』。非業の死をとげた徳川信康(家康の長男、正妻築山御前の子供)が残した唯一の絵はこの蔵の中に?。『南無阿弥陀佛』名号碑と刻まれた石碑と墓碑。無縁仏か?旧東海道に戻り西へ進む。『出合之像』から右手の筋を入るとここ矢作町である。矢作の地名は、矢作りの技術集団 「矢作部」 が住む村であったことに由来すると。和菓子の老舗『近江屋本舗』。抹茶味の夢大福」が美々であると。『やはぎ飛鳥まつり』ポスター。北野廃寺は飛鳥時代に建立され、千年ほど前まで岡崎市北部に存在した寺であると。街道を暫く進むと右手に『弥五騰神社』弥五謄神社があった。『弥五騰神社』は矢作町の氏神様で、正平元年(1346)に夢告を得た居守堀田家の弥五郎正泰が、武内大臣及び平定経の二座を祀り、当時の人が弥五郎殿と呼んだのが始まりという。参道入口右手には、「溺死菩提」と刻まれた『南無妙法蓮華経題目』が。石鳥居と参道。『社殿』。昔は弥五郎殿と称した「信州浪合記」に、後村上院の正平の初年(1346)堀田弥五郎正秦と申す者、左太彦宮と内大臣定経の霊を崇め奉って祠を建てる。その願者主の名に困り弥五郎殿という。明治5年・神社調査の際、碧海群第96区5小区・西矢作村員外社となり、社名を弥五騰社と改め無各社として据置かれる。又、字内に祀られた八王子社・諏訪社を明治初年、境内社として祀る。大正5年8月21日・右境内2社を本殿に合祀した。御祀神は【手力雄命】【忍穂耳命】【建御方命】【保食神】【菅原道真】5柱。『矢作三区公民館』が神社社殿の横に。『弥五騰神社』の脇の道路の奥の西側に『岡﨑市指定文化財 三区 山車蔵』があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次岡崎城内の散策を続ける。芭蕉歌碑の斜め向かいにあったのが『アラモの碑』大正三年七月に建立された『アラモの碑』「アラモの碑この碑は、郷土岡崎出身の世界的地理学者志賀重昻氏が建立されたものです。志賀重昻氏は、テキサス独立戦争アラモの戦いと日本の三州長篠城の戦いがよく似ていることに深い関心を寄せられました。アラモの砦から援兵を求め友軍の下に走った青年ボナムと長篠城を脱出し、岡崎城の家康公に危急を知らせた鳥居強右衛門の両者の「強い使命感に東西の別はない」と感動し建碑を思い立ち、岡崎の石と長篠の石を使って、自作の漢詩を彫刻し、大正3年(1914)にサンアントニオ市アラモ砦史跡の一角に記念碑を建立されました。また、同時にここ岡崎公園の地にもアラモの碑を建立されたものです。」岡崎ロータリークラブの『創立45周年記念植樹』碑が『アラモの碑』案内板の前に。1990年、米国サンアントニオ市アラモ砦のどんぐりより育成 と。左手に『巽閣』。40畳の大広間では和室を活かしたくつろぎの空間で、各種集会や教室・会議等が行えると『巽閣』前の『針塚』。全国でも珍しい針のお墓、『針塚』。右手に『縣社 龍城神社(たつきじんじゃ)』の社務所、その後ろに『岡崎城天守』が。『縣社 龍城神社』を正面から。石鳥居には大正1年9月の文字が刻まれていた。『龍城神社』のブロンズ製の『神馬(しんめ)』を絵馬越しに。右足を上げて、今にも台の上から飛び降りそうな勢い。『岡崎城天守』天守内部には、既に何回か入っていたので、この日はパス。『岡崎城案内図』。「戦国時代から安土桃山時代には松平氏の持ち城、江戸時代には岡崎藩の藩庁であった。岡崎城は当初、「岡竒城」と記された。また、『三河国名所図会』には、「岡崎は享禄(1528年(享禄元年) - 1531年(享禄4年))以来の名號にして、其以前は菅生郷なり、」と記載されている。 1959年(昭和34年)に天守が復興された。菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られている。元は、龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎより、つぐより、又は、ちかより)、そして、その子頼嗣(よりつぐ)が北方に対する防御として築城したものである。当時は、龍燈山城(りゅうとうざんじょう)と呼んだ。それを、松平清康が西郷信貞(松平昌安)から奪い取り改修拡張整備したものが岡崎城である。 龍頭山はもともと小高い丘で、山頂に本丸が置かれた平山城として築かれていたが、本多康重から3代忠利(1600年(慶長5年) - 1645年(正保2年))にわたる改修によって平城となっている。この際、本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が建てられた。」とウィキペディアより。『東照公遺訓碑』昭和11年4月に建碑とのこと。なぜ亀の石像の上に石碑がのっているのか不思議であるが理由は?ネットで調べてみると「実は亀の様ですが、よく見ると頭に耳、口には牙と歯が見えます、頭は龍です。贔屓(ひいき、ひき、びし)・覇下(はか)と言って、想像上の生き物、龍の九匹いる子供の内の一匹です。伝説では三山五岳を背負い災いを起こした、怪力の持ち主です。夏王朝の禹によってなだめられ、禹のために働き、王朝設立の立役者となりました。禹はその功績をたたえ自分を乗せることを許したという故事より龍(王の印)が載っています。ただ5本指の龍は皇帝の印なので3本指の龍です。」と。『東照公遺訓碑人の一生は重荷を負で遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過たるよりまされり。 慶長8年正月15日人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな。」『東照公遺訓碑由来』「この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和18年3月98歳の天寿を全うされた。翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏と相図り、この実現の爲に 時の小瀧市長の賛意を得て建立に到った。碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には龍城を象徴する龍を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。碑裏面には、昭和11月4月16日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年は、また、岡崎市制七十周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。」『家康公遺言』碑。「わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安しされども将軍の政道その理にかなはず 億兆の民艱難することもあらんには たれにても其の任に変らるべし天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかも うらみに思ふことなし」『岡崎城』案内板。「15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正(だんじょう)左衛門頼嗣(よりつぐ) 稠頼(つぎより)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに、家康の祖先である松平清康(きよやす)が入城し、本格的な岡崎城を構えた。天文11年(1542)12月26日 徳川家康は ここ 岡崎城で誕生した。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重(やすしげ)系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝(ただかつ)系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと、伝えられる。現在の天守閣は、昭和34年(1959)に復興され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており、三河平野を一望することができる。」松越しに『岡崎城天守閣』を。名 称:岡崎城 別名:龍城・龍ヶ城(たつがしろ)所在地:愛知県岡崎市康生町561築 城:康正元年(1455)頃復興天守閣:昭和34年(1959) 鉄筋コンクリート3層5階『忠義護邦家』の碑『忠義護邦家』の碑の忠義は、名のごとくであるが、邦家とは国家の事だそうだ。日露戦争直後の明治39(1906)年に建立されたそうで山県有朋が書したとの事。「明治以降ひたすら愛国の心に燃えて幾多の国難に殉じた武人達と銃後を護り無残にも空爆に散華した多くの市民の御霊に対し、わが国の繁栄と世界の恒久平和とを衷心より祈念してここに太平洋戦争後五十周年に当たり鎮魂の灯をかかげます。」岡崎城本丸を後にし坂を下る。南側の『龍城(たつき)堀』の赤い『神橋』が見えた。『竹千代通り』に出る。『竹千代橋』が前方に。『純情きらり手形の道』有森(杉)笛子役 寺島しのぶさん。「寺島しのぶ」の手形。竹千代橋東詰め(北側)にあるのが、竹千代と小姓の石像。言うまでもなく竹千代は岡崎城で生まれた徳川家康の幼名で、6歳で人質(織田家から今川家へ)となって城を出るまで、この地で小姓相手に遊んでいる姿を表してます。『竹千代橋』を渡る。『竹千代橋』は『伊賀川』の最も下流に架かる橋で、岡崎公園や岡崎城への西側入口となる。岡崎城天守を振り返る。『伊賀川』沿いの道を『龍城橋西』交差点に向かって進む。右手は『伊賀川』に架かる『坂谷橋』。『岡崎城 二の丸能楽堂』裏に出る橋。そして『新田白山神社』を訪ねた。『新田白山神社の大くす』。「徳川家康誕生後である岡崎城(岡崎公園内)のすぐ西を流れる伊賀川を渡った住宅地の中に新田白山神社がある。神社の鳥居をくぐると立派な社殿があり向かって右側に堂々としたクスノキが立っている。その木はかなり老体のようで、あちこち修復が施されていて、広がる大きな枝にはノキシノブが着生しておりその面持ちは深い歴史を感じさせる。岡崎市の中心部に存在する巨木としても貴重である。この神社はもともと岡崎城内にあったが、1566年に厄除け開運祈願の為、家康により上州新田(群馬県)より勧請(神仏の分霊を移し祭る)されたと伝えられている。祭神は白山姫命と新田義重で、上州新田は皇族と血縁の深い源氏一族の新田氏ゆかりの地である。家康と新田氏の関係には様々な見解があるが、家康はこの頃より征夷大将軍まで上り詰める志を抱いたようだ。樹齢600年以上のクスノキは家康が生まれる前からこの地で根を張り、その行末を見守ってきたのであろう。」参道を進む。境内に入ると左手に立派な『手水舎』。正面に『社殿』。そして右に大くす。扁額『新新田神社』。大くすの下に『境内社』『白山神社の大くす』。「白山神社の大くす胸高囲:7.7m、根囲:9.4m、樹高:12.5mのクスノキの古木。老樹であるが、樹勢なお衰えず、枝張りは東西に22m、南北に14.5mにおよぶ。主幹が高さ2mの位置で二烈し、幹にはノキシノブの着生もみられる。樹形もよく、市街地の中心部にある巨樹として価値が高い。神木として信仰の対象とされ、6月30日には輪くぐり神事がこの前で行われる。白山神社は永禄9年(1566)に徳川家康が厄除け開運祈願のため上野国新田から勧請したとつたえ、岡崎城主の産土神(うぶすながみ)とされていた。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は10/16(水)、岡崎宿から池鯉鮒宿への旧東海道歩きのスタート。なお、この日が日本橋をスタートし延べ日数23日目の旧東海道歩きであると旅友から。6:30過ぎに宿泊したホテルをスタート。ホテル前の老舗「備前屋」。「あわ雪」で知られる三河の菓子舗・備前屋は、天明2年(1782)に初代が岡崎宿伝馬町に菓子屋を始めたのが始まり。以来、この地で菓子舗を営み、社長の中野敏雄氏で八代目となる。店主は代々「藤右衛門」と名乗って来たと。この日の最初に伝馬通りの奥にあった『日蓮宗 円頓寺』を訪ねた。岡崎市久右ェ門町にある日蓮宗の寺院。山号は清信山。正保2年(1645年)岡崎藩主水野忠善が母のために創建した。母は三浦為春の長女(お万の方の姪)で日境(身延27世)の義母であるという。その後、 岡崎藩主本多政朝が正室の浄光院のために建立した成就寺を合併したと。参道を少し入りズームで。正面に見事な『鐘楼門』。再び伝馬交差点まで戻る。この場所に『東海道岡崎宿 東本陣服部家跡』があったとgoogle mapにはあるが、その案内は??そして伝馬通り、西康生通りを歩き、昨夕に夕焼けを楽しんだ岡崎公園前交差点の歩道橋より『岡崎城大手門』を見る。『岡崎城 東隅櫓』が左手に。歩道橋を降りて、『岡崎城大手門』を正面から。ここにも『東海道二十七曲り 岡崎宿』案内の石碑が。下には『東海道分間延絵図』も。『従是西岡崎宿』の石碑も。『岡崎城大手門』を斜めから。岡崎城の周りに「純情きらり手形の道」のプレートが点在している。2006年、ここ岡崎を舞台にしたNHK連続テレビ小説の作品。ヒロイン・有森桜子(さくらこ)を演じたのは宮崎あおい。手形設置場所を地図の ☆印表示。そして母・有森マサ役そして語りも兼ねた「竹下景子」の手形が石柱の上にあった。『岡崎城大手門』をくぐる。岡崎城の電話ボックスも城仕様。十三重石塔。岡崎公園案内図。『岡崎城二の丸御殿の井戸』。「岡崎城二の丸御殿の井戸この井戸は江戸時代の石組井戸で、平成十九年度の発掘調査で発見されました。岡崎城二の丸御殿(現在の家康館からこの井戸付近までの位置に建っていました。)に伴うものと推定されます。二の丸御殿の絵図には、建物の北東側に二基の井戸が表示されており、そのどちらかと考えられます。」井戸の内部。『三河武士のやかた家康館』。家康公の出生から天下統一までと、それを支えた三河武士達を、常設展で5つのコーナーに分けて解説。特別展示室と1階展示室では季節に応じた企画展を開催。また館内には甲冑の試着体験や刀や兜の重さを体験できるコーナーもあるのだと。『からくり時計』の時間は7:16。「この時計塔は、徳川家康公のふるさと岡﨑にふさわしい和風のからくり時計で、定刻になりますと、家康公のからくり人形が現われて、照明と音響の演出で能を舞います。」との案内板が下に。徳川家康の『しかみ像』。「しかみ像世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となって多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。このしかみ像は、かの画像を基にして製作された石像です。元亀3年(1572)10月3日、2万7千の大軍を率いて甲府を出発した壮年武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、12月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ケ原に青年家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと云われます。」『岡崎城 二の丸能楽堂』の入口門。入口門をズームで。『本多平八郎忠勝公像』。本多忠勝は徳川四天王のひとりで、豊臣秀吉に「家康に過ぎたるもの」「天下無双の勇士」と称賛された武将。この像は鹿角兜と甲冑で身を固め、名槍蜻蛉切を携えているのだと。公園内の円形花壇。『徳川家康公銅像』。お顔をズームで。「徳川家康公銅像天文11年12月26日(西暦1542年)岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道を歩き、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600年)天下分目の関ケ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。以後持ち前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2年4月17日(西暦1616年)75才でこの世を去った。この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。」『松平元康の像』。この元康像は1992年に開催された、「家康公生誕450年祭」の一環として、450年祭実行委員会が市内外から寄付を募って設置し、岡崎市へ寄贈したものです。若き元康(徳川家康)の騎馬像は城を背にし、大権現として再生する日光東照宮の方角を向いています。背景の石垣と滝は治世を象徴し、元康が胸に秘めた国盗りの夢が、生誕の地、岡崎の土中から盛り上がる様を表しています。巨大な『公園』碑。『小瀧喜七郎(おだききしちろう)翁像』碧海郡書記の後、岡崎町書記、助役を経て、4代目岡崎市長になった人物。『縣社 龍城神社(たつきじんじゃ)』石碑とその先には今はなき本丸御門を支える石垣が。ここが本丸入口、絵図だと本丸御門がここにあったのだ。『天下人家康公 出世ベンチ』。「天下人家康公 出世ベンチ徳川家康公はここ岡崎で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。このベンチは「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、地元産の良質な御影石を使い、造り上げられています。家康公とこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の魂を感じて下さい。」『岡崎城 天守』を見上げる。八千代本店は、岡崎公園内にある創業120年を超える、和食の老舗。地元名産八丁味噌と備長炭を使用し、八千代本店の伝承技術で焼き上げた名代「木の芽田楽」は、ここでしか味わうことができない繊細で秀逸な一品であると。『清海堀と石垣』を見ながら天守へと進む。歴史的にも価値の高い、岡崎城天守閣の北側にある空堀。創築者西郷頼嗣(清海入道)の名から清海堀と呼ばれています。本丸北防衛のために設けられた。「清海堀(せいかいぼり)本丸北側に位置し、本丸と持仏堂曲輪(じぶつどうくるわ)を隔てる堀です。岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣の法名「清海入道」にちなみ付けられました。城内でも古い時代に構築されたと考えられる曲線的な堀です。本丸側は急斜面の土塁のままですが、対面側は後の改修により石垣が築かれたもので、築城の変遷がみられます。」右手の石垣の下に石碑が。刻まれている文字は「木?????・・・」。『木のもとに汁も膾(なます)も佐久良哉(さくらかな) 芭蕉』。元禄三年三月二日伊賀の小川麦亭において風麦、土芳たちと歌仙を開いた時の八吟四十句の発句である。」芭蕉歌碑を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道の「連尺通り」を進む。連尺通り1丁目交差点を通過。三菱UFJ銀行 岡崎支店前の『岡崎宿東海道27曲り』碑。歩道の路面タイルにも表示がなされていた。材木町1丁目の交差点の『金のわらじ案内柱』は『と』。『これより次の材木町口角「ち」まで80m』と。この交差点を右折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。右手に折れる道の入口左にあった『岡崎城下二十七曲 岡崎城対面町前角』道標石碑。細い旧東海道を進むと『岡崎城下二十七曲 材木町口木戸前』が正面に。『金のわらじ案内柱』は『ち』。ここを左折して『これより次の材木町角『り』まで100m』。旧東海道・八幡通りを進むと材木座1丁目交差点にあった『金のわらじ案内柱』は『り』。これより次の材木町角『ぬ』まで150m。この交差点を右折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。木まち通りに向かって歩く。この先が木まち通りで前方に「金のわらじ案内柱」が確認できた。材木町1丁目交差点にあった「金のわらじ案内柱」は『ぬ』。これより次の柿田橋角『る』まで350m。この交差点を左折し次の「金のわらじ案内柱」に向かって進む。木まち通りを進む。柿田橋の2本手前の道を左に入ると『白山神社』の前にあった『常夜燈』。そして『白山神社』を訪ねた。再び木まち通りに戻ると正面にあった古民家。『唐弓弦(とうゆみづる)の看板』が軒下に。『唐弓弦の看板』かつては岡崎は、三河木綿の特産地として知られ、この辺りには三河木綿に関する職人や商店が多く存在したそうです。「唐弓弦」とは、江戸時代使用されていた、綿を打つ道具のことで、これを扱っていた店の看板が当家に現存しており、当時の面影が残る看板です柿田橋手前の路地に立つ『金のわらじ案内柱』は『る』。これより次の三清橋角『を』まで190m。この交差点を左折し伊賀川に沿って南下し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。『岡崎城下二十七曲り』地図入り案内板。『岡崎城下二十七曲 下肴町角』と。伊賀川に沿って桜並木を南方面へ進む。ここからはようやく岡崎城方面へ向かう小高い所に先ほど訪れた白山神社が。「白山大悲観世音菩薩」の幟が。右手前に伊賀川に架かる『三清橋(さんせいばし)』。橋の袂にあったのが『岡崎城下二十七曲 下肴町より田町角』。『岡崎市立中央図書館』が道路の先に。『三清橋』を渡った交差点先にあった『金のわらじ案内柱』は『を』。これより次の路地まで45m。『岡崎城下二十七曲り 田町北角』道標石碑。二十七曲りはこの先の路地を左に。進むべき『二十七曲り』の詳細な案内図。この場所は、クネクネと曲がっており迷い易いのであった。マンホール蓋は岡崎城と百万石船。『岡崎城下二十七曲り 田町角』道標石碑。この日の二十七曲り散策はここまでとしホテルまで歩いて戻ることにする。前方に岡崎城の天守が。龍城(たつき)橋西交差点を東に向かって進む。再び岡崎城天守をズームで。見事な夕焼けが広がり始めていた。岡崎公園前交差点の先の歩道橋に上り夕景を楽しむ。岡崎城 大手門の後ろに沈む夕日。ズームで。しばし、刻々と変わっていく夕景をカメラで追い続ける。西康生通りを伝馬通りへ向かいホテルへ。店頭の自販機に「オカザえもん」の姿が描かれていた。岡崎市の非公式キャラクター「オカザえもん」は、2012年11月1日から12月2日まで岡崎市で開催された現代美術展「岡崎アート&ジャズ 2012」に現代美術作家の「斉と公平太」が出展した作品で身長180cm。サインは本人が、2014.1.31と。昔の変圧器をテーブル代わりにと提案そして販売?東康生通りからホテル近くの伝馬通りにたどり着いたが、今日の歩行数は46,000歩で旧東海道歩きでは最高の歩行数。このため今夜の夕食はホテルの部屋で反省会を兼ねてやることとし、伝馬通1丁目交差点角にあったコンビニ・MINISTOP岡崎伝馬通店で宴会用アルコール&食料を調達。コンビニの敷地内に建つ「西本陣跡」石柱。コンビニ前からホテルまでは、再び「伝馬歴史プロムナード」。ホテルまでの伝馬通りの北側歩道に並ぶ残り残り10基の石彫をカメラで追いかける。『本陣・脇本陣』。「本陣・脇本陣参勤交代時代から大名や公用旅行者の宿泊所を本陣・脇本陣と呼ぶようになった。伝馬の本陣は正徳3年(1712)頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の2軒であったが、後に中根甚太郎、服部小八郎、大津屋勘助の3軒が本陣、脇本陣は鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒と推移している。岡崎東本陣(服部家)は、現在の伝馬通り2丁目交差点辺りにあり、建坪209坪半で部屋は二百畳以上、脇本陣を勤めた桔梗屋は、総坪数百二十五坪半のうち、建坪百五坪とどちらも玄関や書院を持つ豪壮な建物であった。」『駒牽朱印(こまびきしゅいん)』「駒牽朱印慶長6年(1601)、徳川家康は以前からあった駅馬・伝馬の制度を踏襲して東海道の宿駅ごとに馬と人足を常置させました。その負担をするのは各宿駅の「伝馬役」です。この岡崎に限らず各地に伝馬の地名が残っていますが、それらは江戸時代に伝馬役を務めた町であることが多いです。「駒牽朱印(こまびきしゅいん)」は徳川幕府が公用に伝馬を使用する時に用いた権威ある印鑑で、この印が押された朱印状が公用旅行者の伝馬使用許可証となります。「伝馬」の文字と馬を引く人物がデザインされた趣のある印です。」『二十七曲』。「二十七曲東海道の中でも三番目に規模の大きい宿場として栄えた岡崎宿は「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれ、屈折の多いその街並の長さでも有名であった。二十七曲がりは欠町、両町、伝馬通りから籠田を抜け、連尺通、材木町、田町、板屋町、八帖町、矢作橋とつながっており、二十七曲がりを示す碑が現在の町並にもいくつか置かれている。」『矢作橋(やはぎばし)』「矢作橋矢作橋は公儀普請の重要な橋であり、岡崎宿を行く旅人にとっても、まだ見ぬ岡崎を思い浮かべる人々にとっても街道一の規模を誇るこの橋の勇壮さは関心の高いものであった。広重の東海道五十三次「岡崎」にも描かれ、東海道を行く当時の紀行文や道中日記には必ずといっていいほど矢作橋が登場する。ドイツ人ケンペルは「江戸参府紀行」で、スウェーデン人ウィルマンは「日本旅行記」の中で矢作橋の大きさを記述し、岡崎宿を訪れた朝鮮通信使の日記にも登場するなど外国人にとっても印象深いものであった。」『あわ雪茶屋』。「あわ雪茶屋江戸時代の岡崎宿の名物といえば、石製品、八丁味噌、鍛冶物、木綿などが挙げられるが、名物の食べ物といえば「淡雪豆腐」が挙げられる。当時、あわ雪茶屋で出されていたのは葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた「あんかけ豆腐」で、岡崎宿を通行する旅人に親しまれていた。天保13年の記録に「茶飯壱膳、あハ雪豆ふ・香之物付弐拾文、引下ヶ拾八文」とあり、ご飯、おしんこ、淡雪豆腐のセットメニューで18文であった。現在のあわ雪は江戸時代の淡雪豆腐にちなんでつくられたお菓子である。」『作法触れ』。「作法触れ勅使、朝鮮通信使、大名行列等がやってくると宿場全体に、町奉行から出迎えのための通達が出た。「作法触れ」とは街道や宿場内での諸注意で、道路に盛り砂を行う事、手桶、箒を出しておくこと、決められた場所に提灯を出すこと、ほら貝、鐘、太鼓、拍子木など鳴らさないこと、街道では通行の前日から田畑などで下肥を施したり、ごみ焼をしないこと、通行に際し土下座をすることなど細かい点まで指示された。また、応接接待の作法についての「御馳走触れ」も出され、出迎え支度は大変なものであった。」『往来手形』「往来手形江戸時代、街道、橋、宿場などが公用旅行者向けに整備されたが、物資の流通や庶民の旅行もそれによって発展していった。一般庶民の旅行では通行許可証となる往来(通行)手形を発行してもらわなければならなかったが、信仰のための旅ならば往来手形を容易に受けられたので、庶民の間には伊勢参りなど、娯楽的要素も加えた寺院神社参詣の旅が広まった。斡旋業者も現われ、旅行のための積立をする「講」と呼ばれる組織ができるなど、旅行は徐々に民衆のものになってゆき、観光旅行の原点となった。」『一里塚』。「一里塚徳川秀忠は家康の発案により、東海道・中山道・北陸道の三街道に一里(約四キロ)ごとに工程の目印となる、一里塚を設けた岡崎の一里塚は東より本宿、藤川、大平、矢作にあったが、現在、大平に南側の一里塚が残っていて国指定史跡となっている。他の一里塚同様、大平の一里塚にも榎が植えられており、この榎は、家康が総監督大久保長安に「塚にはええ木を植えよ」と言った言葉を「えのき」と聞き違えたという話が残っている。参勤交代で大名の通過があると藩の使者が送迎の礼をした場所でもあったとされる。」『市隠亭(しいんてい)』。「市隠亭伝馬町の塩商人、国分家は代々学問を好み、国分次郎左衛門衡(伯機)は岡崎藩の儒学者、秋本嵎夷に詩文を学び、屋敷内に「市隠亭」という書斎を作った。 ここでは岡崎だけでなく旅行者など多くの文化人たちの交流が行われ、市隠亭は文化サロン的な役割を果たしました。文化人の中には民族学の先駆者の菅江真澄もいた。主に漢字や漢詩と親しみ、その蔵書も多く、庶民レベルを超える高い文化が身分を問わず広く温められた。他に伝馬の旅篭、柏屋の主人金沢藤右衛門も金沢休と名乗り、文人として活躍した。」最後に宿泊ホテル前にあった『旅籠屋』。「旅籠屋天保年間(1830年~1843年)の記録によれば、岡崎宿には伝馬町を中心に本陣3軒、脇本陣3軒、旅篭屋が120軒あったとされ、東海道五十三次中3番目の規模を誇る宿場であった。旅篭屋はその規模により大宿、中宿、小宿と区別され、その他に庶民が泊まる木賃宿、休息をする茶屋もあった。正保・慶安の頃(1644年~1651年)からは飯盛女という遊女を置く旅篭も現われ(岡崎は岡崎女郎衆で有名な宿場ともなった)、庶民の旅行が増え始めた江戸中期頃になると各旅篭屋とも競争が激しかった。」ホテルの部屋に戻り、コンビニで買ったビール・酎ハイを飲みながら部屋で反省会。そしていつの間にか?爆睡。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次引き続き『岡崎宿伝馬歴史プロムナード』を進む。伝馬交差点から伝馬通り1丁目交差点にかけて、伝馬通りの南北両歩道に、20基のかわいい石造が並んでいたので、これをカメラで追いかけながら進んだのであった。『助郷』。「助郷大名行列のように、多くの人馬を必要とする場合、岡崎宿内だけでは不足する場合もあった。助郷とは宿場で公用旅行者に継立する人馬の基準数、人70人、馬80匹で不足する分を周辺の村々から雇い入れる制度で、以前からあったものの元禄7年(1694)に正式に実施されている。人馬を供出するところには賃金が支払われるものの安く、助郷の村々にとっては困窮する宿場の負担を転嫁される形になった。幕府からの助成は何度かあったものの、やがてその負担は城下の各町にも及ぶこととなった。」『飯盛女』。「飯盛女飯盛女(飯売女と表わすこともある)は、旅籠屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りを披露する遊女でもあった。正保・慶安の頃(1644~51)この飯盛女を置く旅篭が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。旅籠間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛正のため飯盛女の人数制限を行ったが、効果はなかった。以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなど、その繁盛ぶりが全国に届くことになった。」『永田屋精肉問屋』の前を通る。創業百余年の松坂肉取り扱い専門店。記された金文字の看板が風格を感じさせていた。松坂肉を初め肉全般プラス総菜も取り扱っており、人気のある店なのであろう。『田中吉政』。「田中吉政吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜るなど重用され、当時尾張の領主となった甥秀次の付家老として天正18年(1590)に岡崎に入城し、以降10年間、新しい城下町づくりを行った。関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。また矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院・神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが、兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った。」『人馬継立』。「人馬継立旅行者は各宿場の人足会所・馬会所で宿場ごとに馬や人足を雇いながら旅行した。東海道では五十三ヶ所の宿駅でこうした継立をしたので「東海道五十三次」と呼ばれたのである。公用旅行者は無料・半額で使用できたが一般旅行者は相対賃金で雇う。四十貫(約150kg)の荷物をつけた馬を本馬、人が乗って二十貫の荷物をつけるものを乗懸、人が乗るだけのものを軽尻といい、人足は五貫の荷物を運ぶのを基本とした。他に長持ちや旅籠もあった。人足の駄賃は本馬の半分程度だったとされる。」『三度飛脚』。「三度飛脚伝馬宿の中心地の住人の中には飛脚屋という職業の人間もいた。飛脚は現在でいう郵便配達人にあたり、あずかった通信書状などを入れた箱をかつぎ、敏速に目的地に届ける役目をしていた。こうした逓信業務を行う人間が何人か住んでいるところはいかにも宿場らしい。飛脚には公用の継飛脚、諸藩専用の大名飛脚の他、一般用の町飛脚があり、三度飛脚というのは、寛文3年(1663)に開業した町飛脚で、毎月、東海道を三度往復したことからそう呼ばれた。」『塩座』。「塩座塩座というのは塩を専売する権利のことで、岡崎では伝馬町と田町が権利を有し伝馬町では国分家などが商いをしていた。矢作川を上る塩船は岡崎で差し止めて上流への通行は禁止、塩荷物は宿場を通させないなど塩の管理は厳しいものであったが、実際には抜け荷もあり、しばしばトラブルもあった。上がってきた塩は審査の後、馬に乗せかえられ、足助街道を北上する塩の道へも運ばれた。他に茶座、魚座、煙草株などがあるが、商いをするものは座銭を収め、座銭は町の開発や宿の助成などに使われた。」『御馳走屋敷』。「御馳走屋敷現在の岡崎信用金庫資料館南辺りに御馳走屋敷という屋敷があった。文政9年の「家順間口書」によると間口が十五間以上もある立派なものであった。ご馳走とは接待を意味する言葉で、この屋敷は公用の役人などをもてなす、いわば岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていた。公用旅行者の格式によって接待方法も違うが、特に勅使や宮様、御三家、老中、所司代、お茶壷、朝鮮通信使などの高位高官の一行が岡崎宿を利用する際の接待には岡崎藩から家老がこの屋敷に出向いて丁重にあいさつしたという。」『岡崎宿東海道二十七曲り』案内石碑がここにも。『二十七曲り』。「徳川家康公が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月。同年10月には、豊臣側の田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。吉政は、矢作川に初めて橋をかけ、菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れました。城下の道は、防衛の意味から屈折しているのが常で、岡崎はその典型でした。これが二十七曲りです。しかし、徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり城下町・宿場町として栄えていきました。」赤い線が街道で『二十七曲り』。地図には現在地が。やっと距離的には中間点の手前辺りか?まだまだ続くのであった。北斎の浮世絵「岡崎宿其二」。『籠田惣門』。「籠田惣門田中吉政の時代、岡崎城の周囲は川の流れを取り入れた堀で囲われたとされる。籠田惣門は現在の籠田公園前、西岸寺辺りにあった。門の前に外堀があり、そこから西は岡崎城内となる。惣門は東海道が城郭内に入る出入口にあたり、籠田惣門は東の門であった。西は現在の中岡崎町に松葉惣門があった。二十七曲と呼ばれた東海道は伝馬町を経てこの籠田惣門から北へ曲がり現在の籠田公園を抜け、連尺町へとつながってゆく、岡崎では東海道は東西から城下まで導かれていたわけである。」伝馬通1丁目の交差点の「金のわらじ案内柱」は、ようやく『ほ』。これより次の六地蔵下り口『へ』まで60m。この交差点を左折し次の「金のわらじ案内柱」に向かって進む。『伝馬通1丁目』交差点。伝馬通1丁目角が西本陣跡。コンビニ前に『岡崎城下二十七曲 西本陣前角』道標石碑が。ここを左折し南に向かって進む。そしてこの伝馬通1丁目の交差点を右折。前方に金のわらじ案内柱と石碑を確認。横断歩道を渡り、「金のわらじ案内柱」へ。これより次の伝馬通一丁目角『ほ』まで60m。龍田総門からここまでは総門通りとなり、街道はここを左(南)に曲がる。この道標の南側に昔は朝鮮使節などをもてなした「御馳走屋敷」があったと。『明治の道標』の『きらみち 西 京いせ(伊勢)道』と刻まれた石碑。石柱の横に建つ道標、岡崎宿東海道二十七曲り「道標」吉良道(西尾市、岡崎市:いくつかある吉良道のうち、六地蔵坂が南北に通っており、「吉良道」はここを南下するルート)。そして右側に見えてきたのが赤煉瓦作りの『岡崎信用金庫資料館』。前の空き地も遺跡が埋まっていたのであろうか。『岡崎信用金庫資料館』正面。赤レンガと地元産御影石(花崗岩)を組み合わせた特色ある建物は、本格的なルネッサンス様式を取り入れた建築で、大正6年に旧岡崎銀行本店として建造された。日本近代建築の重鎮、鈴木禎次氏の設計によるもので、全国でも有数の貴重な建物として、その保存管理に大きな期待が寄せられていると。登録有形文化財。免震化工事で休館中であった。総門通りを更に進み次の康生通南3丁目交差点へ。道路の真ん中の緑地帯にあったのが『籠田総門跡』。『籠田総門』とは西側の松葉総門とともに建てられた。籠田町にあったので『籠田総門』と呼ばれた。総門には番所も併置され、東海道(岡崎城二十七曲)を東からやってきて『籠田総門』を通行しようとする者はここで改めを受けた。『岡崎城下をしのぶ籠田総門跡』。天正18年(1592)徳川家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主となり、総堀を築き城下町を形成し、東海道の城門出入口として籠田・松葉の総門を建てたと。旧東海道はここを右折して再び伝馬通り方面へ。『田中吉政公の像』がこれも中央分離帯に。この人物は秀吉びいきらしく、家康の遺構をなくし新しく作り変えていったのだと。「岡崎城主(1590~1600)、当時菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、また惣堀(田中堀)を築造するなど城下町の整備を行った」それにしても、像の周囲の草を抜いてあげたかったが・・・・。伝馬通りの向こう正面が『籠田公園』。戦災後の復興を記念した「平和の碑」。「躍進」の文字も。戦後の「新生岡崎」の象徴的なモニュメントで、「鳩」が平和をあらわしているのだと。伝馬通りを見る。公園内の芝生の中に旧東海道が通っていたようであった。そして旧東海道であった連尺通りへと向かう。籠田公園を出ると右側角に籠田惣門付近にあった寛政10年(1798)の『籠田公園角常夜燈』が移設されていた。「天正18年(1590)徳川家康の関東移封により、田中吉政が岡崎城主となり総堀を築き城下町としての整備をはかる。 慶長6年(1601)伝馬の制定により東海道の往来も激しく次第に殷賑をきわめるようになり寛文10年(1670)籠田総門が設けられる。時は徳川泰平の世に移り町並はさらに整備され町内旅人のため要所に常夜燈が建立された。この常夜燈は寛政10年(1798)岡崎城下三番目のものとして石工、七左衛門作により籠田総門付近に建立され町内と旅人往来安全の灯として、市井の人々に愛され温かく守護され続けてきたものである。大正時代に旧市役所(現電報電話局)北側に移転し幸いにも昭和20年7月20日未明の岡崎空襲の災禍を免れ、 昭和25年戦災復興事業により整備された籠田公園の一角に再移転、さらに昭和56年4月籠田公園地下駐車場新設により装いも新たにこの地に再建された。 城下町交通の遺物として茲に後世のためその経緯を記すものである。」『岡崎城下二十七曲 篭田町より連尺町角』道標石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧東海道を歩いていくと、前方に冠木門が見えて来た。冠木とは鳥居や門などで両方の柱の上部を貫く横木のこと。二十七曲りの案内石碑と要所にあった木戸(門)を冠木門として再現したと。ここ岡崎は家康の生誕地であり、先祖の松平家の本拠地でもあったので、岡崎城を中心に城下町として発展した。また天正18年(1590)岡崎に入部した田中吉政が東海道を城下に引き入れ、城の防衛上、27曲りと呼ばれるように多くの曲折をなした街道を作った。現在では戦災や戦後復興の道路拡張のため宿場町としての面影はほとんど残らないが、旧東海道に建立されていた城下27曲りの石碑を参考に旧街道筋をたどることができるのであった。東海道岡崎城下27曲がりの東入口にある冠木門(かぶきもん)。藤川宿から行田村、大平村、欠村と歩いて、ここ27曲りの立派な碑がある岡崎宿の入口へと入って来たのだ。ここが27曲がりの一つ目の角のようでであるが・・・。『岡崎城下二十七曲がり碑』碑は鏡面過ぎて写りこみが激しくてとても見にくい写真となってしまった。反射が少ない場所を探して。「岡崎城下二十七曲り江戸時代岡崎城下を通る東海道は、城郭守備のため通称二十七曲りと呼ばれる屈折の多い道となっていました。 この二十七曲りは、西は矢作橋から松葉総門を経て城下をまわり、東は龍田総門を出て伝馬町から両町、投町に至る道筋をさします。 二十七曲りの一部は戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることができます。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に残すために、城下二十七曲りの西口近くの当所に道案内の石碑を建立します。」旧東海道を右に進み150m近く進むと交差点が。『若宮町2丁目』交差点。交差点の向かいの角にはモニュメントが。二十七曲がりの道筋はこの二十七曲がり記念碑を左折した所から始まり、伝馬町、籠田町、連尺町、本町、材木町、下肴町、田町、板屋町、八帖町を経て矢作川を越えるまで。右折して元市民病院の『岡崎げんき館』敷地角には最初の標柱と記念モニュメントが作られていた。『岡崎城下二十七曲 欠町より投町角 岡崎城東入口』道標碑。『岡崎城下二十七曲り』。「江戸時代の岡崎の町は東海道の宿駅として栄えましたが、市民病院跡地である若宮町の当所は、岡崎宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれた場所でした。東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この位置で西方へと大きく曲がり、宿内の中心へと進みます。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられます。十九世紀初頭の記録である「享和書上げ」によると、投町には総家数一一七軒とあり、綿打商、穀商、紺屋、豆腐屋、古手屋、莨(たばこ)屋、酒屋、小間物屋、綿商などの店が軒を並べていましたが、なかでも茶屋が多くあり、茶屋で売られていたあんかけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に当宿の名物として賞翫されました。」若宮町2丁目の交差点から岡崎城下二十七曲がりのスタート。曲がり角には『金のわらじ案内柱』が立っていた。『金のわらじ案内柱』は、いろはの『い』から始まる。これより次の両町角『は』まで650m。交差点を左折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。『岡崎げんき館』。岡崎市若宮町にある公共の健康増進施設。屋内プールとトレーニングジムを備えている。建物の中には岡崎市保健所もある。 2008年3月1日にオープン。旧市立岡崎病院跡地に「健やかに集い、にぎわいを創出する核として」建てられた。旧東海道を若宮1丁目東に向かって進む。『根石原観音堂』。正式名称は根石寺、曹洞宗の寺。岡崎三十六地蔵4番札所。右手に延命地蔵尊、水子地蔵尊が小さな堂の中に。本堂内部。左手に『三界萬霊塔』。『四国西国納経塔』。石を彫り込んだ手水鉢には『恵の水』と。『曹洞宗 根石寺(旧根石観音堂)の由来』「当寺本尊聖観世音菩薩は行基菩薩の作といわれる。和銅元年(708)天下に悪病が流行し世の人々の苦しみは一方でなかった。時の天皇43代元明天皇も大変心を悩まされ直ちに行基法師を召され悪疫を絶やしてほしいと念願された。そこで法師は自ら六体の観音像を彫りその内の二体を根石の森に勧請し17日間祈祷を続けられたところ果たして霊験あらわれ、はやり病も治まり世人の喜びは大変なものであった。また岡崎三郎信康公も天正元年(1573)の初陣の折この観音像を祈願し軍功をあげて以来開運の守り本尊としてもあがめられこの2体の観音像を町の人達が協力してここに堂宇を建立し壇上の厨子に安置したのである。」右手に『法圓寺』。『本堂』。真宗大谷派の寺。扁額『法圓寺』。僅かに右に折れている両町3丁目の「金のわらじ案内柱」は『ろ』。これより両町角『は』まで30m。ここを直進し次の「金のわらじ案内柱」に向かって進む。そして更に進むと両町角の「金のわらじ案内柱」・『は』が前方に。両町2丁目の「金のわらじ案内柱」は『は』これより次の伝馬町角『に』まで80m。ここを右折し次の「金のわらじ案内柱」に向かって進む。『岡崎城下二十七曲 両町より伝馬町角』道標碑。道標碑裏には「天正十八年(1590年)岡崎城主田中吉政は城下の東海道を二十七曲にし防備を図った」と。右手の両町公民館の前の祠の中に『常夜燈』が。「常夜燈の由緒この常夜燈(仏式)は、旧東海道岡崎の宿両町の街角に火災防止の祈願から遠州秋葉山永代常夜燈として、今より182年前寛政二庚戌年12月(1790)に建てられたものであります。其の後昭和20年7月20日未明の空襲で災禍にあいましたが、昭和47年10月22日までその原型を留めて居りました。追日の痛みもひどく危険になりましたので取り壊し、其の一部「宝珠」を残しこれを安置保存致したものであります。岡崎では最も古い由緒ある常夜燈で目下重要な文化財として惜しまれて居ります。」一部残された「宝珠」。両町1丁目の『金のわらじ案内柱』は『に』これより次の伝馬通一丁目角『ほ』まで660m。この交差点を左折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。伝馬通5丁目交差点。緑地は南北に走る「太陽緑道」。『太陽緑道』の石碑をズームで。『伝馬通り』を更に進む。伝馬4丁目交差点。伝馬4丁目西交差点を左折し、街道裏。一本奥の道にあった『町内安全秋葉山大権現常夜灯』を訪ねた。『町内安全秋葉山大権現常夜灯』享和3年(1803)秋7月建立『秋葉山大権現常夜燈』には、「町内安全」と刻まれていた。細身で丸みがあり、時代を感じる常夜燈。「光格天皇の御代11代将軍家斉公時代今を去る161年前伝馬町下中之切188番地3銘座東北の角に石工嘉兵ェ氏作によりこれを建立。昭和20年7月20日未明、第二次世界大戦の本土空襲により市内の大半は焦土と化し、当町も戦災のため全焼するも常夜灯は災禍を免れ昔時のまま現存する。昭和三十八年三月、三銘座は三銘会館として再建することとなり館主より常夜燈移転の申し出あり町議決定により岡崎市梅園町一丁目石材商杉浦銓次氏に移転を依頼。岡崎市伝馬通四丁目五番地一(現在地)に移し現在に至る。」この奥に『西照寺』があったが、手前は工事中。県道477号線(モダン通り)に突き当りここを右折し再び伝馬通りに出る。今宵の我々のホテル前の『備前屋』。『岡崎宿伝馬歴史プロムナード』石碑。ホテルでもらった『岡崎城下二十七曲り』パンフレットの『伝馬歴史プロムナード』案内。「かって東海道有数の宿場町であった岡崎宿の歴史の語りべとして伝馬通二丁目の両散歩道には20基のかわいい石碑たちが並んでいる。ひとつひとつの石彫に込められた宿場町伝馬のストーリーを楽しもう。」まず最初に『お茶壺道中』「お茶壺道中寛永9年(1632)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったお茶壷道中。3代将軍徳川家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壷に、はなはだしく威勢を持たせました。宿場では百人の人足を出す定めがあり、多いときにはお茶壷奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壷は各宿場から大いに恐れられていました。行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行は御馳走屋敷で休みました。御馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁寧にもてなしたとの記録が残っています。」『朝鮮通信使』「朝鮮通信使江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全12回の使節の派遣をしました。使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均500人からなる大使節団だったので、沿道ではたくさんの見物客が出迎えました。一行は海路瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かいました。岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の応対は一大行事であった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『専光寺』を後にし、大岡越前守陣屋跡(西大平藩陣屋跡)に向かう。『史跡 大岡越前守旧邸』石碑。『大岡越前守陣屋跡』岡崎観光きらり百選 案内板。「「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたところです。陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復元しました。」『大岡越前守陣屋跡・西大平藩陣屋跡』陣屋門。立派な門と塀が復元されていたが、中は公園状態で何枚かの案内板が掲げられていた。『西大平藩』案内板。「西大平藩の成立は、大岡忠相が寛延元年(1748)に奏者番兼寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石を加増され1万石の 譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まります。 安政元年(1772)以降は藩領の変動はなく、1万石の内訳は三河国4郡内に9千石余、上総・相模の2国2郡で1千石余となり、 大部分が三河国内に所在していました。」この庭園は、額田郡の12か村を石で表していると。『西大平藩陣屋』「西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。大岡家は江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。」『大岡越前守忠相』案内板も。『大岡越前守忠相公』 延宝五年(1677)~宝暦元年(1751)「「大岡裁き」で有名な大岡越前守忠相は旗本の家柄に生まれ、徳川八代将軍吉宗の下で江戸町奉行として仕え、享保の改革を断行する大きな原動力となりました。 著名なものに、相対済し令・目安箱・小石川養生所設置、いろは四十七組の町火消組織化、江戸防火対策である火除地の確保と「瓦ぶき」屋根とする建築基準の設置など、江戸庶民の生活向上に力を注ぎました。 また問屋・仲買・小売の流通段階での株仲間組合の組織化や、金銀相場の改訂・通貨改鋳による物価安定策などを打ち出し、幕府財政の建て直しを図りました。 晩年は譜代大名にとりたてられ、奏者番兼寺社奉行として職務を全うしました。 宝暦元年に75歳で没し、相模国堤村(現神奈川県茅ヶ崎市)の浄見寺に葬られました。」当時の『井戸』も残されていた。陣屋跡に鎮座する『大岡稲荷社』。「寛永元年(1748年)一万石の譜代大名になられた大岡越前守忠相公は、西大平藩主として三河国額田郡西大平村(現在地)に陣屋を置いた。 忠相公は、領地に近い三河国宝飯郡豊川村にある豊川稲荷の本尊「咤枳尼眞天」を厚く信仰した。 江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、ここ西大平陣屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川咤枳尼尊天」を本尊として祀った。 現社殿は、忠相公没後250回忌の記念事業として平成14年(2002年)に再築されたもので、大岡家の守り本尊として代々引き継がれ守られている。 なお、毎年4月には大岡稲荷奉賛会が中心となり例大祭が行われている。」御本尊「豊川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」と赤く書かれた幟が並んでいた。旧東海道に戻り進むと直ぐ左にあったのが『大平(おおひら)一里塚』ここは「跡」ではなく当時の一里塚が左側だけ残っていた。二代目の榎も見事に生長していた。国指定文化財『国指定文化財 史跡 大平一里塚』案内板。「 一里塚とは道の両脇に一里ごとに塚を築いて道標としたもので、制度として確立したのは、江戸幕府が慶長九(1604)年に江戸・日本橋を起点として各街道に一里塚を築造させたことによる。 大平一里塚は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から八十里にあたる。東海道の一里塚は永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である本多重次の子成重が築いた。現在の大平一里塚は、昭和三(1928)年に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部縦7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。元は榎の巨木であったが、昭和二十年の台風で倒木したために新たに植えられたものである。このように一里塚には根張りがよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い。」『史跡 大平一里塚』碑。右側の塚があった場所には『秋葉常夜灯』と『馬頭観音』を祀った堂が。左側の二代目の榎を見上げる。『馬頭観音』の堂。内部の石仏・地蔵尊(右側)。左側が三面六臂の馬頭観音であろう。そして旧東海道が再び国道1号線に合流する手前右側にあったのが『村社 八幡宮』の石灯籠と参道入口。参道を進むと右手にあったのが『更沙川改修記念碑』『更沙川』はこの場所の裏を流れ乙川に合流する川。参道を進むと一の石鳥居が姿を現す。創立:年代不詳安永6年(1777年)8月4日 字八ッ幡より遷座。階段の上に社殿が。二の石鳥居を潜る。水場。拝殿。扁額『八幡宮』。境内社『三姫社』。右から『神明社』と『大森社』。『天神社』。『拝殿』の奥に『本殿』。祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと 応神天皇)。『神宮遥拝所』石碑。『皇居遥拝所』石碑。東名岡崎ICへの入口である岡崎西ICの高架下を潜る。この後再び国道1号線に戻り暫く進む。そして再び更紗川沿いの旧東海道に入って進む。右手に更紗川緑地があった。暫く進むと右手にあったのが『一澤山法光寺』。この寺の山門は、門の上に鐘楼がある珍しいもの。狭い境内と見受けられたのでやむなく山門の上に造ったのであろうか。本堂。境内には立派なそして大きな墓石の墓が並んでいた。境内から山門を見る。こんな張り紙が。お供えした古い花は持ち帰ってくださいと。右手の駐車場には『旧東海道常夜燈』が。手前には『水準点』も。『水準点』は、正確な高さを求める測量をおこなうために、国土地理院が作った高さの基準となる点のこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線を更に西へ進む。岡町神馬崎交差点の先、左手にあったのが『阿弥陀寺(あみだじ)』。阿弥陀寺は、愛知県岡崎市桜形町にある浄土宗西山深草派の寺院。別名應聲山阿彌陀寺・大金谷山西福院。山門前に「令和元年11月4日 本堂落成 慶讃大法要 異香山 阿弥陀寺」と書かれ立札が。境内の石仏。新しい『本堂』。滝脇松平家の菩提寺でもあり、武士との関係が強い寺院であるとのこと。振替休日の11月4日(月)には『お稚児行列』が行われると。更に進むと前方にY字路が。国道1号線と分かれ、旧東海道は左の道を行く。さかしたはし(坂下橋)を渡る。先に国道1号線が見えた。下を流れる『竜泉寺川』。所々に松並木が残っていた。美合新町の交差点を渡る。左に行くと名鉄名古屋本線の美合駅方面に。しばらく住宅街の中にあった旧東海道を進むとその先にあったのが『たかはし(高橋)』下を流れる川は乙川に流れ込む再び『竜泉寺川』。更に乙川に向かって田園地帯を歩く。乙川に突き当たり右折して乙川の堤防を国道1号線に向かって歩く。昔はここに旧太平橋がかかっていたようであった。国道1号線に合流し左方向へ進み『大平橋』を渡る。『乙川』大平橋から旧東海道の辺りを見る。 渇水期は乙川を渡る事が出来たと。大平町東交差点の隅にあった、『旧東海道と五十三次の画』案内板。旧太平橋、現太平橋に関する地図が描かれていた。左手に折れ乙川のたもとにある『太平川水神社』に立ち寄る。昔は、この近くを旧東海道が通っていたのだ。引き返して大平町東交差点で国道1号線を渡る。横断歩道を渡ると正面にあったのが『東光山 藥師寺』境内。『浄土宗西山深草派東光山薬師寺』の本堂。扁額『東光山』。境内の六角堂。京都の中心地、新京極通りの真ん中にある誓願寺が総本山であるようだ。境内の祠に入った石仏。歴代宝塔。この墓石は?梵語(サンスクリット語)が刻まれていたが。『薬師寺』を後にし進むと、岡崎市男川消防団の直ぐ右手に太平の『常夜燈』が。後ろには鉄骨製の火の見櫓が。東海道 道標男川小学校西交差点を通過。『つくて道』石碑。「男川小学校西」三叉路(信号あり)の右角に古い道しるべがあり、右側に「東海道」、左側に「つくて道」と刻まれていた。『西大平藩陣屋跡』碑。ここを右折すると90mで「西大平藩陣屋跡&大岡稲荷社」があるとのことでこの後訪ねたのであった。右手にあった『専光寺』を訪ねた。『山門』。境内に入ると正面に『本堂』が。真言宗大谷派の寺。扁額『上野山』。『手水舎』。『鐘楼』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.04
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昨日1月2日に孫家族と一緒に地元の藤沢橋付近まで箱根駅伝・往路応援に行った。そして今日は単独で箱根駅伝・復路の応援に向かう。遊行寺の境内を横切って駅伝コースに向かう。樹齢700年と推定される大イチョウは昨年(2019年)の台風19号の影響で大幹が折れてしまったが再生が可能とのこと。大きな生命力を感じるのであった。遊行寺『本堂』、まだ初詣客の姿は少なかった。そして通過1時間以上前に遊行寺固定カメラが道路の反対側の正面にある位置に陣取る。すでに道路沿いは隙間もなく観戦客で埋まっていたが、オバチャンに声を掛けたら場所を少し詰め、ズラしてくれ何とかその隙間に陣取ることが出来たのであった。しばらくすると、カメラマンがカメラをセットしTEST開始。この場所は復路・第8区平塚中継所~戸塚中継所。レースもいよいよ終盤。優勝&シード権争いも次第に熱をおびてくる区間。スタートから平坦なコースが続くが、浜須賀交差点で海岸線に別れを告げ、残 り9キロあたりから徐々に上り坂に入る。特にラスト5キロに待ち受ける遊行寺の坂が最大の難所。また後頭部への陽射しがスタミナを奪い、後半の失速へと繋 がる。意外にもタフで侮れないコース。観戦場所は遊行寺坂の上り始めて200mほどの場所。高低差34mの急勾配と長さ730mの上り坂でしばしば波乱が起こる場所なのである。そして携帯ラジオの実況放送を聞きながらしばし選手の通過を待つ。旅友のSさんからはLINEで茅ヶ崎の海岸を通過する選手の写真も送られて来たのであった。漸く『箱根駅伝』広報車が通過。下り車線を走行する車の中のワンちゃんも箱根駅伝の通過を待っていたのであった。『広報車』が通過。上空にはヘリコプターも姿を現し、選手が近づいている事を実感。「規」の銘板のついたパトカー。この車両が通過したら、交通規制を開始しなさい、この車両以降への一般車両等の部外者の割り込みは禁止の合図か。『テレビ中継車』も通過。カメラマンと大きなカメラで混み合った『カメラ車』も通過。そして応援の旗の波が遊行寺坂を津波のごとくに上って来たのであった。そして遊行寺の坂と戦う選手の姿が。以下の順位は、繰り上げ出発もあったので、通過順位である。1位 青山学院大学 岩見 秀哉 選手(3年)2位 東海大学 小松 陽平 選手(4年)首位とのタイム差:02:053位 國學院大學 河東 寛大 選手(3年)2位とのタイム差:02:374位 明治大学 櫛田 佳希 選手(1年)3位とのタイム差:01:465位 芳賀 宏太郎 選手(2年)6位 駒沢大学 加藤 淳 選手(3年)7位 東洋大学 前田 義弘 選手(1年)8位 帝京大学 鳥飼 悠生 選手(3年)下り車線には、毎年恒例のクラシックカーが。9位 早稲田大学 太田 直希 選手(2年)1位との差:10:21 / 8位とのタイム差:01:32早稲田大学 伴走車。10位 創価大学 鈴木 大海 選手(3年)11位 中央学院大学 藤井 雄大 選手(4年)12位 拓殖大学 佐々木 虎太郎 選手(1年)13位 神奈川大学 安田 響 選手(2年)14位 順天堂大学 西澤 侑真 選手(1年)15位 中央大学 矢野 郁人 選手(3年)16位 国士舘大学 清水 悠雅 選手(1年)17位 日本大学 若山 岳 選手(1年)18位 関東学生連合 大東文化大 吉井 龍太郎 選手(3年)19位 法政大学 中園 慎太朗 選手(1年)20位 日本体育大学 嶋野 太海 選手(3年)21位 筑波大学 伊藤 太貴 選手(2年)そして全ての選手が通過し、関係車両が。最後尾の白バイも通過。応援旗の片付けをする東京国際大学の応援集団。帰路のバスから『白旗神社』を見る。昨年10月に源義経を祀る白旗神社は、没後830年を記念して義経と家来、武蔵坊弁慶の銅像を建立。銅像は高さ2m20cm、幅は4mほどで、高さ1m20cmの台座が付けられた。義経は甲冑を身に着け弓を手に馬にまたがり、その後ろには、弁慶が膝をつき従っている。そして我が家の近くからの富士山の勇姿を見ながら帰宅したのであった。観戦した8区の個人記録は以下に。区間賞を取ったのは東海大学 小松陽平選手、1秒差で青山学院大学の岩美秀哉選手・そして8区終了時点の順位は青山学院大学が1位をキープし、2位の東海大学に2分差。早稲田大学は9位で通過し、シード権の10位の中央学院に01:43差でシード権が見え初めて来たのであった。そして急ぎ帰宅して9区、10区をテレビ観戦。第96回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)は3日、神奈川・芦ノ湖から東京・大手町までの復路(6~10区、109.6キロ)が行われ、往路優勝の青学大がトップを譲らず逃げ切って、2年ぶり5度目の総合優勝を果たしたのであった。 【https://news.yahoo.co.jp/polls/sports/40623/vote】より青学大は往路2位の國學院大に1分33秒差で復路をスタート。6、7、8区を堅実につなぎ、9区の神林勇太(3年、九州学院)が区間賞で東海大を突き放した。逆転での総合2連覇を狙った東海大が2位。10区の4校による3位争いを国学院大が制し、4位帝京大、5位東京国際大、6位明大だった。7位早大、8位駒大、10区で9位に順位を上げた創価大、10位の東洋大までが、来年の大会のシード権を獲得したのであった。そして今年の第96回大会は記録づくめの大会となったのだ。往復10区間の7区間で区間新記録が樹立されたのであった。総合タイムでも関東学生連合を含む21チーム中16チームがそれぞれの大学記録を更新した超高速レースであった。その要因としてネットには以下の如きこんな記事も。「好記録連発の要因は大きく2つある。一つは、ナイキのシューズだ。今回、多くのランナーが使用し、記録向上に一役買っている可能性は高い。実は、シューズによる影響で最も大きいのは、精神面での壁を取り払ったことにある。たとえば、自分と同じような能力のライバルが厚底シューズで自己記録を更新したら、どう思うだろうか。「自分もあれくらい走れるはず」と考えて、設定タイムを上げやすくなる。挑戦の下地が作られ、攻めの姿勢でレースに臨める。好循環が生まれ、ハイペースでの争いが増えた。もう一つはコンディションだ。復路も気温が低すぎて路面が凍ることもなく、転倒や低体温症など途中棄権につながるような大きなアクシデントは起きなかった。長距離競技は外的要因に左右されやすい反面、それさえクリアしてしまえば序盤からハイペースで押し切ることも可能だ。もちろん、学生全体のレベルアップも大きい。前回の箱根路では3区の大東大をはじめ、計8校が繰り上げスタート。一方、今回は10区の3校のみ。終盤まで先頭と大差なくレースを進められる地力がついたことが証明された。」と。『チーム総合結果』。今年も2日間にわたり、日本人が最も興奮する、そして正月の恒例のスポーツイベントのひとつとなっている「箱根駅伝」を生で楽しんだのであった。毎年、この箱根駅伝はどの大学が勝つかだけではなく、各選手によるパフォーマンスも大きな見どころ。特に注目が集まるの日本最強の若いアスリートたちが極限に挑む姿を生で見ることは興奮は止まらないのであるそして箱根駅伝観戦&初詣をセットで済ませる人の数が益々増えているのを感じたのであった。そして今年は、初日の出、駅伝観戦の数が昨年より多いことも更に実感したのであった。箱根駅伝中継の裏番組は何をやっても太刀打ちできないのが平和な日本の現実の姿なのである。そして帰宅して録画しておいた駅伝放送を楽しむ。そこには遊行寺坂で応援する赤いジャンパー、黒の帽子で手をふる私の姿が。
2020.01.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次右手にあった『関山神社常夜燈』のすぐ先にあった小さな橋・宿場橋(しゅくばはし)を渡る。下を流れる川は『百田川』。『百田川』は『山綱川』に流れ込む川。宿場橋を渡り、直ぐ左に入った正面にあったのが『伝誓寺(でんせいじ)』の小さな『本堂』。『伝誓寺(でんせいじ)』「「伝誓寺」は、浄土真宗大谷派の寺院である。山号は「松音山」といい、寺号を「伝誓寺」と称する。寺の由来は、昔「大蓮坊(だいれんぼう)」といって、天台宗の寺であったが、室町時代の中頃、蓮如上人(れんにょしょうにん)の教えに帰依回収して浄土真宗の寺となった。その後、江戸時代にこの地に移り現在の建物は、昭和45年に改築されたものである。本堂内には、須弥壇の宮殿に「阿弥陀如来立像」が安置され、その右側の脇壇には「親鸞聖人画像」(厨子入)、左の脇壇には「彰如聖人画像」(巻軸)があり、その左の余間には寺の中興に力を尽くした「村井三十郎」の位牌も残っている。伝説として、「泥棒と水晶」の仏頭や左甚五郎が彫ったと伝える「彫りの竜馬」も欄間に掛けられている。」『手水舎』。『垢濯』は「こうよく」?「くよく」?どう読むのであろうか、それとも生々しく「あかすすぎ」?『鐘楼』。無縁仏?と観音像。旧東海道(県道327号線)を進むと岡崎市立藤川小学校の先には松並木が。藤川宿掲示板の手前には藤川宿が地図が描かれていた。その先にあった『西棒鼻(にしぼうばな)』案内板。「「棒鼻」とは、棒の端、すなわち棒の先端をいい、それが転じて、宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では、東、西の両方のはずれを言う。藤川に再現された「棒鼻」は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。勝示杭(境界を示す杭)と宿囲石垣が、その景観を際立たせている。また、脇にある歌碑には、広重の師匠である歌川豊広の描いた浮世絵の中にある狂歌で、「藤川のしゅくの棒はなみわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」と書いてある。この狂歌の中で勝示杭を「杉のしるし」とし、ぶらりと下がる「うで蛸のあし」と、藤の花がぶらさがって咲いている様子とにかけていておもしろい。」藤川に再現された『西棒鼻』を手前から。『西棒鼻』の立て札、常夜燈を正面から。『藤川 江戸へ 七十八里二十九丁 赤坂へ二里九丁京へ 四十六里二十七丁 岡崎へ一厘半『西棒鼻跡』。「宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は東棒鼻を描いたものである」歌川広重の師、歌川豊広の狂歌が刻まれている石碑。歌川豊広歌碑「藤川の しゅくの棒ばな みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」『藤川 歌川豊広』「藤川宿の棒鼻を見わたすと、杉の木で造った表示が立っており、付近の店には西浦、吉良から持って来たうで蛸を売っており、たこのあしがぶらさがっている。」と。『街道往還図』。藤川の『十王堂』が『西棒鼻跡』の先の十字路の左手に。『十王堂』内部。『藤川の十王堂』「「十王堂は」、十人の「王」を祀る堂で、その「王」とは、冥土(死者のたましいの行くところ)にいて亡者(死んだ人)の罪を裁く十人の判官をいう。秦広王 初江王 宗帝王 五官王 閻魔王 変成王 平等王 太山王 都市王 五道転輪王の総称である。 藤川宿の「十王堂」はいつごろ創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(一七一○)の記年があるので、 ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。 また地元では、忠臣蔵で有名な神埼与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。」『十王堂』の奥の建物はこれも十王堂の一部か?昔の『十王堂』?『十王堂』の隣には、『松尾芭蕉の句碑』が。「爰も三河 むらさき麦の かきつはた はせお」これは名物「むらさき麦」を詠んだものであると。『十王堂』の石仏。ここにも。『芭蕉句碑』。表面をズームで。『芭蕉句碑』芭蕉句碑は、江戸時代の俳人松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」碑の裏に、「寛政五歳次葵丑冬十月 当国雪門月亭其雄并連中 以高隆山川之石再建」と、建碑の書誌的事項が彫られている。この碑の高さは1.65m、幅1.07m、厚さ0.2m。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。その傍らに、高さ0.9m、幅03.5mほどの自然石が立っている。これも芭蕉句碑で、この碑は4もと別の所にあったが、大正初期に現在地に移された。」『裏側』。この碑も芭蕉関連?しばらく行くと、左手に『藤川の一里塚』。『藤川宿の一里塚』「「一里塚」は、街道に一里ごとに土を盛り上げ、樹木を植えて、道しるべとした塚のことである。慶長9年(1604)、江戸幕府は諸街道の整備の一つとして、江戸日本橋を起点として、一里ごとに道の両側に塚を築いて樹木を植えて目印とした。樹木は普通、榎であった。ところで、藤川の一里塚であるが、記録によると「一、此宿より岡崎宿迄之間 壱里塚弐ヶ所 壱ヵ所 木立 左無之 右榎 但、左右之塚共 藤川宿地内」と記してある。このような藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830~)頃にはすでに南側はなくなり、北側の榎は昭和初期には枯れててなくなってしまった。」左手に『東海道』案内板。藤川のまつ並木 400m藤川宿資料館・本陣跡 600m。街道脇の松の数が増えて来た。右にカーブした先には名鉄・名古屋線の踏切が。この手前で旧東海道は直進(右)、県道327号線は左に分岐。分岐点の真ん中に1814年(文化11)年に建てられた『吉良道道標』が。右 東海道左 吉良道左の道が三河湾に面した吉良に通じる『吉良道』である。海産物の搬入に使われたほか旧東海道の脇街道としても重要な道であったと。右 東海道。『吉良道道標』案内板。「東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。 この道を「吉良道」と呼んでいて、この分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。 道しるべ石は、高さ一四三センチ、幅二○センチの四角柱で、彫られている文字は、 (右面) 「文化十一年甲戌五月吉日建」 (正面) 「西尾、平坂、土呂、吉良道」 (左面) 「東都小石川住」 と書いてある。 とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道であった。 また、伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると、雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。」名鉄の踏切を渡ると松並木が待っていてくれた。『岡崎市指定文化財 天然記念物 藤川のまつ並木』。「慶長九年(一六○四)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植えた。 この松並木はその名残をとどめるもので、現在は藤川町の西端約一キロメートルの間の九十本あまりからなり、クロマツが植えられている。 松並木は旅人には夏の木蔭を提供し、冬は防風林となった。 松並木の東につづく藤川宿は、東海道の三十七番目の宿場である。 歴史的な価値のある松並木であり、大切にして後世に伝えたいものである。」名鉄名古屋線に名古屋方面を見る。旧東海道はゆるい下り勾配で名鉄線の踏切りを渡ると、藤川松並木となった。慶長九年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両側に松を植えた。天保14年(1843)には、34間の長さが続いていたと伝えられる藤川の松並木。昭和38年(1963)に岡崎市指定の天然記念物になった際には、幹囲2mのクロマツ90本が町の西はずれに約1㎞に渡って東海道の左右に立ち並んでいたという。快晴ということもあって気分爽快で松並木を歩いたが、国道1号線に合流するまでの約1kmの間に90本の黒松が植えられているのだと。樹高30mクラスの松もあり岡崎市指定天然記念物となっている規模の大きい松並木であった。岡崎市指定文化財(昭和38年5月指定) 天然記念物の『藤川 松並木』。この日も清掃、手入れなどの活動が行われていた。クロマツの枯れ葉が集められて。国道1号との合流地点には『藤川宿』と書かれた案内板が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.03
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今日は毎年恒例の箱根駅伝を孫家族と一緒に第3区の藤沢橋付近で応援をしに行って来ました。第96回箱根駅伝は今日2日午前8時、東京・大手町をスタートし、2日間にわたって10区間215km(往路、復路とも107.5km)で争われるのです。これは毎年恒例の我が家の行事なのです。自宅を9:30前に出発し、自宅近くの神奈中バス停留所へ向かう。自宅近くの材木屋さんの「干支看板」は俵の上に今年の干支のネズミが乗っていた。バスにて「遊行寺前」バス停で下車。箱根駅伝のための交通規制の案内。藤沢バイパスの完成により、この旧国道1号は神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線と言う名称になっていることを初めて知ったのは一昨年。「箱根駅伝 2020」ポスター。こちらも。参加校はシード10校と予選通過10校と関東学生連合の合計21チーム。藤沢橋交差点を渡り平塚方面に向かって坂を上って行く。交差点「藤沢橋」2日の往路は我が母校の応援場所での応援が常であったが、今年はその場所が工事中とのことで別の場所に移動しているとの案内板。戻っても応援の場所がないのではと判断し、戻らずに更に坂を上り応援場所を何とか確保。この場所は、箱根駅伝第3区:戸塚~平塚(21.4km)の戸塚中継所から約6kmの場所。遊行寺前の坂を下り藤沢橋を渡った直後の上り坂の場所。前半に約9kmの緩やかな下り坂が続く。街を抜けて11kmを過ぎ134号線に出ると、正面に富士山、左側に相模湾を臨む箱根駅伝の中で一番の景勝地へ。時として強い向かい風が選手の行く手を阻む。正面からは初春の陽射しが選手の体力を奪う。ゆるやかな下りが続く前半で、いかにスタミナを残しておけるかがポイントとなる。以前は「つなぎ」の区間とされていたが、最近では2区までのレースの流れを修正する意味に於いても、その重要度は増しつつあるのだと。観戦場所から藤沢橋歩面を見る。応援の旗をもらうが、後ほどパトカーからは「応援時には旗を振らないで」と。そして選手の通過よりかなり前に「広報車」が無言で通過。次の広報車もかなりのスピードで無言のまま通過。「競技者係バス」。青の「技術総務車」。赤は「大会会長車」。係の方のユニフォームの背中には「箱根駅伝 The96th」と。欲しいユニフォームであったが。上空にはヘリコプターも飛来して選手通過が近いことを実感。そして「テレビ中継車」が通過。先導の白バイの後ろに1位の選手を確認。時間は10:25過ぎ。そして懸命に坂道を上る選手が次々と前を通過していったのであった。1位 青山学院大学 鈴木 塁人 選手(4年)2位 早稲田大学 井川 龍人 選手(1年)早稲田大学 伴走車には相楽 豊 駅伝監督が助手席に。3位 國學院大學 青木 祐人 選手(4年)4位 帝京大学 遠藤 大地 選手(2年)5位 東海大学 西川 雄一朗 選手(4年)「ラジオ放送者」も通過。6位 東京国際大学 Y.ヴィンセント 選手(1年)テレビ中継2号車。7位 東洋大学 吉川 洋次 選手(3年)8位 創価大学 原富 慶季 選手(3年)9位 中央学院大学 戸口 豪琉 選手(3年)10位 拓殖大学 赤﨑 暁 選手(4年)11位 明治大学 手嶋 杏丞 選手(2年)テレビオートバイ車が2台続いて。12位 駒沢大学 田澤 廉 選手(1年)13位 日本体育大学 亀田 優太朗 選手(3年)14位 日本大学 樋口 翔太 選手(1年)15位 中央大学 三浦 拓朗 選手(2年)16位 順天堂大学 橋本 龍一 選手(4年) であったが・・・・ピンぼけでスイマセン。17位 国士舘大学 長谷川 潤 選手(2年)18位 筑波大学 猿橋 拓己 選手(3年)19位 神奈川大学 越川 堅太 選手(4年)OP位 関東学生連合 城西大学 菅原 伊織 選手(3年)20位 法政大学 岡原 仁志 選手(4年)最終選手が通過したのは10:32過ぎで先頭から7分の遅れであった。そして「医務車」が通過。最終箱根駅伝関連車。最後尾のパトカー。こちらの車両が規制解除の合図。『C』は「CLEAR」の『C』でしょうか。もちろん、先頭の『規』からこの『C』の間は一般車、バイク、自転車も走行禁止。応援を終了し、藤沢橋の横断歩道を渡る人々の姿。多くの人々が遊行寺へ初詣に向かっていたのであった。「箱根駅伝グッズ」販売場所。我々も遊行寺に向かう。途中、「ふじさわ宿交流館」を覗く。入口には箱根駅伝出場校の幟が並んでいた。館内では駅伝のテレビ観戦の方々が。折しも1位となった東京国際大学 Y.ヴィンセント選手は134号線を爆走中。この日観戦した箱根駅伝3区の個人記録速報。3人が昨年の青学大 森田選手の記録を更新し区間新記録の激走なのであった。東京国際大学のY.ヴィンセント選手の記録は59分代としばらくは本人以外には破れないであろう異次元の走りであったのだ。第3区の平塚中継所の通過順位。トップ通過は東京国際大学、1分21秒遅れで青山学院、そして更に5秒遅れで國學院大學が通過したのであった。我が母校は私の目の前は2位通過であったが、結局8位の通過となってしまったのだ。遊行寺境内は初詣の方々の大行列で今年も諦め、孫たちと境内の売店をしばし散策後に焼き芋他を購入後、バスにて帰宅して、4区、そして箱根の山登りの5区をテレビ観戦。4区(20.9km)では、首位の東京国際大を2~5位の青学大、国学院大、帝京大、東海大がじりじり追い上げる。青学大の箱根駅伝初出場の吉田祐也(4年、埼玉・東農大三)が中継所での1分21秒差を詰め、13.8kmで東京国際大の佐伯涼(3年、兵庫・須磨学園)をとらえて首位に再浮上したのだ。トップでたすきを受けた5区(20.8km)の飯田貴之(2年、千葉・八千代松陰)が序盤から飛ばした。1分28秒差の3位でたすきを受けた国学院大の浦野雄平(4年、富山商)は区間賞を獲得した昨年以上のペースで追い上げて3km付近で2位に浮上するも、先頭とはなかなか差が縮まらない。宮ノ下の9.3km地点で青学大と国学院大は1分22秒差。3位は東海大で先頭と2分16秒差。最後は青学大の飯田が突き放し、トップでフィニッシュ。3大会ぶりの往路優勝を果たした。2位は国学院大で1分33秒差。東京国際大は東海大を抜き返して3位。総合2連覇を狙う東海大は4位だった。5位以下は明大、帝京大、創価大、駒大、早大、拓大と続き、前回大会まで往路2連覇中だった東洋大は11位と出遅れたのであった。そして、出発前にIphoneでGoogle Mapsを見ていると、箱根駅伝のコースがひと目で解るように紫と白の線で描かれ、各中継所も示されていたのであった。そして、旧東海道を現在歩いているので、同様に旧東海道を目立つ線で表示して欲しいのであるが。 ・・・つづく・・・
2020.01.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道(県道327号線)を進と城を形どった人形屋『人形処 穂洲作 栗生人形(あおうにんぎょう)』の建物。伝統的な雛人形や五月人形をはじめとした手作り品を今に伝える老舗人形工房。小物や干支人形作りなどの教室も行っており、初心者でも基本から教えてくれる店であると。『刃傷松の廊下』の人形であったが、ガラスが反射して・・・・・『稱名寺』と刻まれた石柱。その脇が『厳松山稱名寺』の参道。『稱名寺』の『本堂』。愛知県岡崎市藤川町にある浄土宗西山深草派の寺院。山号は厳松山。本尊は阿弥陀如来。永禄十一年(室町末期)に開山され、旅人の旅籠の代行をしていたとも伝えられていると。『鐘楼』。愛知県指定文化財「彫刻 木造阿弥陀如来坐像」本堂に本尊として安置されている阿弥陀如来坐像で、木造、寄木造り、像高は87cm。『称名寺』説明板は、風雨に晒されて・・・・。釈迦誕生の潅仏会に登場する『白像』。扁額『厳松山』は青い文字で。境内の石仏群。無縁仏?と観音像。こちらも大平の東光山薬師寺と同じく、浄土宗西山深草派(本山京都・誓願寺)の寺。旧東海道の右手に立て札が。右手に『藤川宿の問屋場跡』の案内板と石碑が民家の生け垣の中に。『藤川宿の問屋場跡』「藤川宿の「問屋場」は、ここ字中町北にあった。「問屋場」は宿場町では、最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、書状の逓送(飛脚)などの業務を行うところが「問屋場」であった。藤川宿では、ここを「御天馬所」とも称していた。この問屋場については、記録によると「一、人馬継ぎ問屋場 壱ヶ所 字中町 問屋 弐人 年寄 五人 帳付 四人 飛脚番 六人 人馬差 六人 小使 六人」とある。また当初の問屋場は、問屋場役人の屋敷の一部を使用していたようだが、江戸時代中頃に、現在地に専用の建物を設けて、業務に当たったという。明治五年七月、伝馬制廃止後は閉鎖され、その役割は終わった。」旧東海道・県道327号線(市場福岡線)を更に西に進む。左手にあったのが『旧野村家住宅(米屋)』。景観重要建造物『旧野村家住宅(米屋)』「天保年間(1830~1843)頃の建築。幾度かの改修を経ているが、内部の堅牢な柱や梁は現存する。旧東海道に面する北側の店と南側の居住部に分かれた間取りや外壁の一部にある、なまこ壁、木組格子、瓦屋根下の垂木の大きな木割などは、米穀業を営んでいた頃の町家建築の面影を伝え、旧東海道の37番目の宿場として栄えた藤川宿のくらしを偲ぶことができる。」隣の『銭屋(よろづ屋)』の連子格子も昔を偲ばせるのであった。少し歩くと右手の藤川駐在所の先にあったのが、『本陣跡』にある本陣跡広場。『本陣跡』碑。『藤川宿 高札場跡』。『高札場』は、法令等を記載した高札を、関所などの交通の要所や人々が活発に出入りする市場などに掲げ、民衆に周知させるための場所として設置されていた。代表的な高札としては、寛文元年(1661)や正徳元年(1711)のものが挙げられます。藤川宿の高札は六枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、岡崎市の文化財に指定されています。その内容は ①藤川よりの駄賃並人足賃 ②駄賃並人足荷物次第 ③親子兄弟夫婦みな親しく ④切支丹禁制 ⑤毒薬にせ薬種売買の事禁制 ⑥火付け用心これらの文面は、民衆への周知のために、簡易な仮名交じり文や仮名文が用いられました。 多くの人が目にする高札場は幕府の権威を示すものでもあったため、移転や消えてしまった文字の墨入れにも許可が必要でした。 そのため、幕府や藩により 「高札番」 という役職が設けられ、厳しく管理を行っていました。藤川宿の高札場は、問屋場の東に設置されていましたが、本陣跡広場の整備に伴い、ここに復元されました。」『東海道と藤川宿』「慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、東海道の集落に 「伝馬(駒曳)朱印状」 を下付して 「宿駅」 を指定するとともに、公用の旅行者のために、「伝馬」 三六疋を用意することを命じ、その代償として地子(地代)を免除しました。 これが近世宿駅制度の始まりです。 慶長9年からは幕府の命により、日本橋を起点とした五街道の整備が開始されました。慶長6年に整備された藤川の宿は、品川から数えて37番目の宿駅でした。中世における藤川の集落は山綱川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定されています。 東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、 宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。 そのために慶安元年(1648)、代官の鳥山牛之助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村(現在の市場町)68戸を藤川宿の東隣に移住させる 加宿措置がとられましたが、藤川宿の負担は重いものでした。天保14年(1843)の 「宿村大概帳」 の記録によると、藤川宿の総人口は1,213人、家数は302軒となっています。 これは、東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入ります。 しかし、藤川宿には本陣、脇本陣、問屋場や高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました。」『藤川宿』案内地図。本陣内に2つあった『井戸』の一つが復元されていた。『本陣跡』案内板。「宿場には様々な施設がありました。 中でも中心となるのは、人々を休泊させる本陣、脇本陣、旅籠、茶屋などの休泊施設と、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を 次の宿場に送るという継ぎ送り業務を行う問屋場でした。 本陣、脇本陣は大名や公家、公用で旅をする幕府の役人といった上流階級の客を休泊させ、一般の旅行者は旅籠屋、茶屋などに休泊しました。 藤川宿には当初2軒の本陣があり、一番本陣、二番本陣として本陣、脇本陣の役割を果たしていました。 しかし、藤川宿は東亜軌道の中でも規模の小さい宿であったこと、西隣の岡崎宿が栄えていたことから、ここに宿泊する旅行者は少なく、 本陣、脇本陣の経営は厳しいものでした。 そのため、本陣、脇本陣の経営者は退転と交代を繰り返しました。本陣は現在の藤川駐在所等の隣地を含めた長方形の土地に建っていました。 本陣の間取り図によると、建物は街道沿いに建ち、敷地の北側は畑になっていました。 井戸は二か所あり、中庭に面した座敷がありました。 北側の畑を囲っていた石垣は現在も残されており、北の山々を望む眺望は江戸時代のままです。 本陣の規模としては大きなものではありませんでしたが、藤川宿の中では一番の格式を誇っていました。明治に入り、廃藩置県が行われ、本陣と脇本陣はその役目を終えました。 その際に本陣を営んでいたのは森川家でした。 平成21年、その御子孫である森川武氏から、岡崎市へ土地が寄附され、平成26年に藤川宿本陣跡広場として整備されました。また、西側にある脇本陣跡には石垣や享保4年(1719)に建築された門が残っており、岡崎市の史跡に指定されています。 現在は、藤川宿資料館が建ち、藤川宿に関わる資料が展示されています。」広場奥には案内用の写真が。手前から、名鉄名古屋本線、山編川、国道1号線、山の麓に関山神社、そして右側の山の中に一畑山薬師寺、牛乗山第三紀末波蝕巨礫群があると。同様に奥には『むらさき麦栽培地』が。食用や染料として使われ、藤川宿の名産品だったが、いつしか作られなくなってしまった。平成6年から農業試験場の協力を得て復活させたのだそうだ。毎年、地元藤川小学校の児童が大事に育てているのだと。奥から『本陣跡広場』を見る。旧東海道に戻り『本陣跡広場』を振り返る。『藤川宿脇本陣跡(藤川宿資料館)』。脇本陣跡は門が現存し、昔の名残を留め歴史を物語るものとして貴重ですあると。門は享保4年(1719)の大火後再建され現在に至る。明治以後は藤川村役場、昭和30年の岡崎市合併後は岡崎市藤川連絡所として利用され、現在は『藤川宿資料館』となっていた。『岡崎市 藤川村 合併記念碑』。『岡崎市指定文化財「史跡 藤川宿脇本陣跡」』「藤川宿は江戸時代の東海道の宿場の内、品川宿から数えて37番目の宿場町であり、伝馬朱印状が慶長6年(1601)に発給された。そのため、本陣・脇本陣・問屋場などが置かれ、東海道の交通を担った。脇本陣は、本陣の予備にあたる宿舎で大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、家老や奉行の止宿にあてられた。平常は一般旅客の宿泊にも使用が許された。その経営については、本陣に次ぐ宿内有数の名望家が選ばれ、その敷地も、現在の敷地の四倍、約一三〇坪(約四五〇m2)程の敷地を有していた。現存する門は、関ケ原の戦いの後に藤川へ居住されたといわれる大西喜太夫(橘屋)のもので一部改修も施されているが、昔日の名残をよく留めている。」『藤川宿脇本陣跡』碑。『藤川宿マップ』ここにも『藤川宿の脇本陣跡』の立て札が。「「脇本陣」は、江戸時代「本陣」の補助的な役割として設けられた宿舎で、「本陣」に空きがないときには、本陣に準じて用いられていた。「脇本陣」を営むことができたのは、本陣家に次ぐ名望家で、江戸時代後期に営んでいたのは「大西喜大夫」で、橘屋と呼ばれていた。入口の門構えは、一般の家では構えることは許されず、「本陣」「脇本陣」だけに許された。藤川宿はそれまで度重なる大火に見舞われているので、現在残っている藤川宿内では古い遺構である。明治になって宿場の制度が廃止となり、その後藤川村役場として使われ、現在は「藤川宿資料館」となっている。この敷地は、昭和五十三年十月に岡崎市の文化財に指定された。」左手にも『東海道 藤川宿』石碑が。江戸まで七十八里(約306km)、京まで四十八里(約188km)。『歴史の息づく、住みよいまち 藤川』。「藤川宿の概要 東海道五十三次、37番目の宿場町として設けられた藤川宿の町並みは、9町20間(約1キロ㍍)で、 天保14年(1843)の宿内人口は、1213人(加宿市場村とも、男540人、女673人)、 302軒で本陣は森川家1軒、脇本陣は橘屋大西家1軒で、ともに中町にありました。 旅籠屋は大7軒、中16軒、小13軒でした。 ここから赤坂宿までは2里9町、岡崎宿へは1里25町でした。 藤川は、幕府直轄の宿場で代官によって支配されていました。また、藤川宿は東の新居宿から西の 宮宿(熱田)まで11宿が組合で、赤坂宿とともに「組合」の取締りの宿場でした。 さらに藤川は、塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所であり、また、二川・赤坂・御油の 4宿連名で荷車の使用を願い出て、街道注で初めて幕府の許可をもらっていました。 藤川宿の棒鼻 宿の出入口を棒鼻と呼び、大名行列の際はここで本陣・問屋等は出迎え、「何々宿本陣何の 何等でございます」と口上を述べたと言います。また、宿から差し出される下座触の 「シタニオレッ―」も、この棒鼻から始まる場合が多かったと言います。 歌川広重は、「棒鼻の図」を浮世絵に描いています。 十返舎一九は、「東海道中膝栗毛」に藤川宿の棒鼻の風景を次のように書いています。 「かくて藤川にいたる。棒鼻の茶屋、軒ごとに生肴をつるし、大平皿。、鉢、みせさきに ならべたてて旅人の足をとどむ、弥次郎兵衛“ゆで蛸のむらさきいろは軒毎にぶらりと下がる 藤川の宿”(紫色と藤川宿の藤をかける。また、藤のぶらりと下がると軒毎に下がる蛸をかける。) これにより、宿をうちすぎ、出はなれ(宿のはずれ)のあやしげなる店にて休みて・・・」 むらさき麦と藤の花 藤川では、むらさき麦と藤の花が美しく、道中記や古歌に多く詠まれてきました。 ◇『芭蕉句碑』(十王堂境内) 「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」 ◇『東海道名所記』 「宿を出れば、畑に高野麦とて、一種穂のむらさきなる麦の、はえてみえければ・・・」 ◇『幸亭』 「ふじ川の藤にゆかりの花なれや 麦のふさまでにほふ紫」 宿場のみやげ 宿場のみやげは、「からむし細工」のかんざし、綱袋、縄等でした。縄は、本宿の法蔵寺付近で つくられ、法蔵寺縄とも呼ばれていました。 現在でも本陣裏に自生しているからむしを見ることができます。」藤川宿の街道を振り返って。更に旧東海道を進むと進行方向右に立派な常夜燈が対で立っていた。 これは旧東海道の北200mほどの低山に鎮座する関山神社のもの。参道入り口の『村社 関山神社』と刻まれた石碑。御祀神は【天手刀雄命】【須佐之男命】【仁徳天皇】。創建は明らかではないが、宝永年間(1704~10)藤川城主・内藤弥次右ェ門長家が本殿を再建する、。元文4年(1739)2月・文化6年(1809)8月16日・天保9年(1838)4月・弘化2年(1845)9月・それぞれ社殿を改修の棟札を社蔵する。明治5年10月12日・赤山大明神を関山神社と改め村社に列す。同40年10月26日・供進指定をうける。同41年10月28日・字王子ヶ入りの須佐之男社・字一里山南の若宮八幡社を合祀した。同44年9月28日・社殿の大改修を行う と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.02
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皆さん 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2020年(令和2年)のスタートです。今年も、湘南海岸・江の島東浜からの初日の出を迎えに行って来ました。6時過ぎにに家を出て地元の駅へ自転車で。ただし我が家の上空は一面の雲、そして寒さも予想以上に感じずに・・・・。6:10過ぎに改札を入る。駅の構内に貼ってあったこれから向かう江ノ島にある『初詣 日本三大弁財天 江島神社』のポスター。片瀬江ノ島行き6:14の電車を待つ。定刻に到着し、藤沢駅経由で片瀬江ノ島駅へ。片瀬江ノ島駅で下車し改札に向かうが大混雑でしばし立ち往生。現在、江ノ島駅は全面工事中であり、改札の位置も変わり数も少なくなっていることも原因。ようやく改札を出て湘南海岸・江の島東浜に向かう。竜宮城の形の江ノ島駅の姿はネットフェンスに遮られ全く見ることが出来なかった。それ以上に空は相変わらず江ノ島上空も雲一色。弁天橋からの江の島。江の島シーキャンドル(展望灯台)のライトアップはなし。弁天橋は海岸に向かう多くの人々で混雑。弁天橋の中央の「雲の彩」と名づけられたモニュメント。この姿を何回カメラに収めて来たのであろうか。引地川の上流側。そして江の島東浜に出る地下道に向かって進む。妻も厚着の完全防備で一処に向かったのであったが。既に帰路につく人の姿も多かったのであった。江の島片瀬東浜に到着して、江ノ島方面を見ると、いつもの年よりも多い初日の出見物人の多さにビックリ。令和の年・初めての元旦の初日の出の為であろうか?今年は、何故か若者男性グループ、女性グループが多く、家族やカップルの姿が例年に比べて少ないような気がしたのであったが。海岸の階段一面に陣取る人々の姿。そして初日の出の三浦半島方面にカメラを向けるが赤く染まっている部分は皆無。初日の出の時間が近づき、サーフィンボードで沖に向かう姿が。南東の上空1箇所のみ薄いオレンジ色の場所が。サーファーも待ちわびていたのであったが。海鳥の姿も。日の出の時間6:51を過ぎても・・・・。この日の初日の出は『初悲の出』であると完全に諦めカメラを江ノ島に向ける。『江の島神社 瑞心門』。『江の島展望灯台(江の島シーキャンドル)』展望台で日の出を待つ人の姿もズームで確認できた。東京2020オリンピック競技大会・セーリング競技が行われる江の島ヨットハーバー。7:00を過ぎかなり明るくなったが太陽の位置さえも解らない曇天。海岸にいた人々の姿も半減。ところでこの初日の出を拝むという風習は世界でも珍しいものなのだ。日本は年始を重視し、欧米諸国は年末を重視するように、日本は初物に縁起を担ぐ風習があるが、先程もテレビニュースで放送されていたが、欧米は年末恒例のカウントダウンでニューイヤーを祝うだけ。それ以前にキリスト教国ではクリスマスという大イベントを祝っているので、これが日本で言う正月に当たるといっても良いのであろう。我々も諦め東浜を後にし江ノ島大橋方面に向かう。両側には『江島神社御鎮座記念龍燈籠』が。漸く上空には青空が見え初めて来たが既に遅し。『龍燈籠』江ノ島に向かって左。『龍燈籠』』江ノ島に向かって右。『龍燈建立之記』「「江島縁起」によれば欣明天皇十三年(五五二)四月に海底より塊砂を噴き出し天地が鳴動すること二十一日、忽ちに海上に一つの島が成せりとあり、これが島の起りとされる。 この島上に天女が降居し湖水の五頭龍は天女の麗質を見て善行を施すに至り、 以降天女は江島明神として祀られることとなった。 役行者を始め弘法、慈覚等高僧が岩窟にて参籠修行をいたし、各々が神感を受け御神威を仰いだとされる。 鎌倉時代には源頼朝を始め鎌倉将軍家、北条氏歴代、更に秀吉、家康等その時代の名立たる武将の信仰は極めて篤く、 殊に江戸時代には江の島詣が盛んとなり、天下衆人の敬仰を集めるに至った。 又景勝の地江の島は紀行文、人情本、謡曲、長唄、常磐津、歌舞伎等に表現され、 北斎、広重等浮世絵師により秀れた錦絵が数多残され、 島内には社殿をはじめ多くの石碑が往時の信仰の深さを物語っている。然るに豊かな自然環境と歴史的文化遺産を持つ江の島が折しも江島神社御鎮座千四百五十年を迎えるに際し、当地永々の繁栄を祈念いたし、奉祝記念事業として関係各位の御高配と多くの御奉賛者の御浄財を以て、史蹟名勝地に相応しき石燈籠一対を建立いたす所以である。」帰路には束の間に富士山らしき姿が垣間見えたのであったが。そして小田急線の片瀬江ノ島駅に戻ると既にここも改札に向かって大渋滞。なんとか藤沢行きの電車に乗り込み、藤沢駅で町田行きに乗り換える。電車の窓から私の今年の「初日の出」を。そして富士山の姿を車窓から探したが姿を見せず、見えるのは大山の姿だけであった。そしていつものように帰路に地元の神社で初詣。駅から自転車で5分強で到着。扁額には『亀井神社』と。参道と正面階段上に『本堂』が。『御由緒』「不動ヶ谷の先住氏族はこの地に定住すると農地の開拓にのりだした そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた 即ち不動の森を霊山ときめ法華の教えを信じた 當時の信仰の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った これが不動様の初めである(天正十八年 1590年)明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた 私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる 余神天軻句突知命*(火の神様)當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし□にして天正十八年堂宇建立宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳ふ 大正十二年大震災により社殿鳥居等倒壊せしを後日氏子中にて再建す。」この『古神札納所』も新設されていた。昨年の『破魔矢』をここに納めた。焚き火の日が未だ残っていた。右手に昨年に新たに建設された『手水舎』。見事な龍。『本堂』。社殿脇の『身代わり不動尊』。扁額には『不動明王』と。様々な供物が。中央の『不動明王』と『六地蔵』。身代わり不動尊と書かれた幟が奥に。『身代わり不動尊』と書かれた幟が階段の両脇にも。階段下から『本堂』を見る。ズームで。そして社務所で『破魔矢』を購入し帰宅したのであった。
2020.01.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線沿いに歩き、しばらく進み、「市場町」の交差点で左の道・県道327号線に入る。市場町の信号を越えた先に、市場村の解説と藤川宿の案内板が立っていた。『東棒鼻(ひがしぼうばな)』藤川宿の東の入口へ到着。棒鼻とは宿場の出入口を指す。『東棒鼻』「「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川・「棒鼻ノ図」に描いたからである。絵の中には、八朔(はっさく=八月一日)の御馬進献の行列がちょうど藤川の棒鼻にさしかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭、道の両側に石垣を積んで土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。最近、明治二十年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。とにかく、現在、藤川宿といえば「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。」榜示杭『従是西 藤川宿』。『東棒鼻跡』「宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元の街道往還図には宿囲石垣とある。広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである。」安藤広重の東海道五拾三次之内・藤川『棒鼻の圖』 広重は毎年幕府から朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いています。絵の中央に立つ杭は、宿場の境を示す傍示杭で 、この棒杭が宿場の端(はな)にあったことから、ここを棒鼻と呼ぶようになった。傍示杭の左は関札、手前は高札。札を付けて西へ向かう馬は、八朔(はっさく)の お馬献上行列と思われる。お馬献上とは幕府から朝廷へ馬を差し出すことで、 八朔とは、旧8月1日のことである。こちらが本物?の安藤広重の東海道五拾三次之内・藤川『棒鼻の圖』地方役人たちが土下座している。御弊をたてた駒と一緒に御馬献進の一行がゆく。幕府は毎年8月1日に朝廷に馬を献上することになっており、広重は天保3年にこの行列に参加した。図は藤川宿に差しかかるこの行列を迎える様子が描かれている。愛らしい黒赤二頭の馬。夕雲がたなびく。一行を迎えて犬まで座っているところが面白い。街道の脇に立つ棒鼻が宿場の外れを表わしている。道標『藤川』「京へ46里27丁、岡崎へ1里半、赤坂へ2里9丁、江戸へ78里29丁。」『是より西、藤川宿 岡﨑宿へ一里二十五町』案内板。『是より西、藤川宿 岡﨑宿へ一里二十五町 ~藤川の歴史と文化を訪ねて~』秋葉山常夜灯 宿場の出入口付近に、寛政7年(1795)に建立の秋葉山常夜灯が」現存しています。商家「銭屋」 問屋場跡から家数にして5軒ほど先の南側に今も残る商家。連子格子が昔のにぎわいや 旅人の姿を思い出させる味わいの深い建物です。脇本陣跡(藤川宿資料館) 脇本陣橘屋大西家は中町の東海道北側にあり、明治天皇御小休所の座敷もありました。 昭和30年に藤川村が岡崎市と合併するまでは、役場が置かれていました。脇本陣で 現存するのは門のみですが跡地全体は岡崎市の史跡に指定されています。 現在は宿場町の模型等を展示した藤川宿資料館として利用されています。十王堂(芭蕉句碑) 元禄期に建立されたと伝えられる藤川の十王堂。 その境内には「ここも三河 紫麦のかきつばた」と詠んだ芭蕉の句碑が建てられています。 これは寛政5年(1793)に西三河の俳人が再建したと記されています。棒鼻跡 平成4年に、棒鼻モニュメントが復元されました。東は国道一号との分岐点、西は藤川小学校の 前に整備されています。道標(吉良道) 東海道から左へ分岐する脇道を吉良方面へ通じる道「吉良道」と呼んでいます。 この道は塩の道として利用度の高い道でした。現在でも吉良道の道標が残っています。藤川の松並木 天保14年(1843)には、34間(「町」の間違い。約3.5㎞)の長さが続いていたと伝えられる 藤川の松並木。昭和38年に市指定の天然記念物になった際には、幹周り2㍍のクロマツ90本が 町の西はずれに約1キロに渡って東海道の左右に立ち並んでいたと言います。 『むらさき麦栽培地』「今から三百年ほど前、俳人・松尾芭蕉は「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」の句を残しました。これは、むかし藤川宿一帯で紫色に染まる麦が作られていたからで、これを「むらさき麦」と呼んでいました。しかしこの麦は、戦後、作られなくなり、幻の麦となってしまいました。平成6年、地元の人々の努力によって再び栽培されるようになり、以後、毎年5月の中旬から下旬にかけて、その美しい色を鑑賞することができます。」国道1号線の下の県道327号線脇の『秋葉山常夜灯』。静かで落ち着いた道筋。棒鼻の冠木門をくぐり、細い道を抜けて右へ鍵の手に曲がり車道にもどる。『藤川宿の「曲手(かんねんて)』「地元の人たちは、この辺りを「曲手」(かねんて)と呼んでいる。曲手とは、直線状に来た道を直角に右に曲がり、また左へとクランク状に曲がる道をそう呼んだ。別名「桝形」とも言われている。藤川宿の曲手は、慶安元年(1648)に、三河代官が藤川宿東端に、約500mほどの街道を造り、地割りをして市場村の人々を移転させ、加宿市場村を設けたときに、その東はずれを意識的に道を曲げて付けたことによるものと思う。その効用は外敵から宿場町を守るためとか、道を曲げることによって、街道の長さをふやし、そこに住む人をふやしたとも言われている。この付近は、当時、道中記にも書かれて繁盛した茶屋「かどや佐七」跡が曲がり角にあり、常夜灯(秋葉山灯篭)、そして東棒鼻などがあり、江戸期の面影を止めている。」『市場町格子造りの屋並』『市場町格子造りの屋並』「藤川宿でも往時を偲ぶ町屋造りは市場町が一番です。格子造りの静かな佇まい、そして町民が町を愛する気持ちが伝わる町、総代始め町民が一体となり日本の歴史の足跡を残す町として現在も、何軒か残っております。」先に進むと右の津島神社標示の両脇に堂々とした常夜燈がどっしり構えていた。神社は奥の名鉄名古屋本線を越えたところにある。『市場町公民館(旧市場公会堂)』が写真左手に。分断する線路の先に『津島神社』の石鳥居。『市場町公民館(旧市場公会堂)』「建設竣工は大正6年7月、当時額田岡﨑地区では、現市の文化財である朝日町の公会堂が大正4年建設され、それにつぐ公会堂として百戸弱の町内で造ったことで評判となり絵葉書として残っています。当時としては小屋組みが合掌工法と云う近代工法を駆使した建物で町内に住する堂宮大工山田許一氏が主となり完成、百年後の現在も長い風雨に耐え、正確無比を誇る完全木造で津島神社の境内にあり社務所も兼ね町民の和と長い歴史を育んできた公民館です。」『市場町公民館(旧市場公会堂)』を正面から。連子格子の民家。江戸時代の商家銭屋の建物(写真)が残っていた。格子戸で大屋根が前に出て雨水が下の溝へ落ちるようになっている。類焼を防ぐために庇の両側に「軒卯建」がある。『藤川宿駐車場』祝日の翌日で休みなのか車の姿はなし。駐車場『定』。駐車場も「藤川宿」らしい趣。いろいろと工夫の跡が。『歴史に息づく住みよいまち』案内板。東海道の宿駅設定にあたり、人口が少ないため幕府は近隣の集落を移住させ細長い宿場町を造った。宿の町並みの長さは9町20間(約1km)に人口1,200人ほどの宿場だった。宿場に特徴がなく、宿泊客は両隣の赤坂、岡崎宿に取られていた。『東海道中膝栗毛』では宿の東西の棒鼻付近の茶屋の様子を「棒鼻の茶屋軒ごとに生き肴をつるし、大平皿、鉢を店先に並べたて旅人の足をとどむ」と紹介している。弥次さんはゆで蛸を食べたと。道路脇にはところどころに連子格子の民家が。『徳性寺』この寺も名鉄名古屋本線、国道1号線の北側に位置する寺院である。左手奥には『明星院(俗称 ほうえんさん)』が。現在は真言宗醍醐派。入り口の緑の門から本堂も垣間見えた。この緑の門は、イヌマキの生垣だと。参道そして境内には『片目不動尊』の幟が並んでいた。『片目の不動尊』『明星院』の本尊は不動明王立像で、「片目の不動尊」と呼ばれ、永禄5年扇子山の戦いで敗走する家康をかばい、矢を受け片目となったと伝えられている。本尊の片目不動尊にはこんな逸話がある。永禄5年(1562)、戦況が劣勢になった家康の背後から白衣の武者が現れて次々敵を倒してゆくので、誰かと考えていると敵の矢が白衣の武者の片目に刺さり、武者は消えた。戦さに勝利し、帰りに明星院に参拝したら、本尊の不動尊の目に矢が刺さっていた。家康は先の白衣の武者が不動尊とわかって、以来崇拝したという。『本堂』。明星院は、真言宗醍醐派の寺院で、三河新四国三十三番・三十四番札所になっていると。一か所なのに何故二つの番号が有るのかと不思議だったが、本堂が三十三番札所で、向かって左側にある「神変大菩薩」の堂が三十四番札所と。『明星院(俗称 ほうえんさん) 現在は真言宗醍醐派』。「元々明星院は愛称ほうえんさんで親しまれ、元来、方位学・易学等を主とする密教系寺院で創建は不明であり、市場と共に加宿市場に来たと伝えられている。ただ、幕末から明治初頭にかけて寺小屋を営み、日本の近代化に先がけ藤川学区の教育の芯をなした学問処であり、今も筆子塚等の足跡が見られ、それにまつわる文書等も現存している。醍醐派に転宗は歴史的に新しく、明治以来建学の精神が受け継がれている。」『岡崎市指定文化財』 ・絵画 那智参詣曼荼羅 一幅 ・工芸 蔵王権現懸仏『明星院』案内板。『大聖殿行者堂』。中央に「神変大菩薩」像。神変大菩薩は役行者、役小角とも呼ばれ、弘法大師空海が、真言密教を開く前から密教の修行をされた偉大な行者さんで、真言宗の中でも特に醍醐派では大切にされている行者。醍醐派を開かれた聖宝理源大師は、修験道を大切にされた方で、恵印灌頂、伝法灌頂と二つの法流を大切に守ってきているのだと。『筆子の塔』『筆子の塔』「明星院の寺子屋で学んだ子どもたちが大人になりお師匠様を偲んで建立した。二代目のお師匠様の塔には百八十名の子どもたちの名前が刻まれている。」『法篋印塔復元』石柱。『三佛堂』『扁額』。中央に『観世音菩薩像』。右に『地蔵菩薩』、左に『文殊菩薩』。『招福堂』『開運招福の大黒さま』「渓流釣りに行った村人が中洲に埋もれていた大黒さまを見つけ、大切にお守りしたところ、村人はいつも思いが叶い幸せに暮らすことができた。「幸せをひとり占めにしてはいけない」と思い、明星院に納め開運招福の大黒さまとして祀られている。」中央に『大黒様』。『寺子屋跡』の立て札が民家の前に。『寺子屋跡』「寺子屋は平屋造りで八畳一間と一間幅の廊下があった。・午前は七・八歳から十歳まで・午後は十歳から十二・三歳まで の四百人ほどが学んでいた。」『藤川宿高札場跡』の立て札の新旧が。『藤川宿高札場跡』「この高札場跡は藤川宿と市場町との境にあり明治21年新政府地積作成に当たり、本来三間四方あり、大きな高札場であった。加宿後、棒鼻は移動したと思われるが高札場はそのまま幕末を迎えたと思われる。ことに特異なことは地積公園を作るに当たり、藤川と市場との字界(境界線)設定につき、地元両町にて高札場を二つに割り、また東海道も道路中央で鍵状に割った特異形状となっている。長年経過のうち代替地等で民間地となり現在も残っている。」『藤川宿の高札場跡』「「高札」とは、立て札ともいい、法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げられた板札をいう。その目的は一般の人たちに法令を徹底させるためのものであった。藤川宿の高札場はここの場所にあり、記録によると「一、高札場 高(たかさ) 壱丈(いちじょう) 長さ 弐間半(にけんはん) 横 壱間 」とあり、規模の大きい、広い場所であった。ちなみに、当時掲示されていた高札は、八枚あったようで、大きいものは横23センチ、縦53センチもあり、もし当時あったものを八枚並べるとすれば、正面に横二面ずつ、四段に掲げて常時掲揚していたのであろうか。現在保存されている高札は六枚あり、いずれも岡崎市文化財に指定され、内、三枚は資料館に掲示してある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.01
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