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ズームで。
そして大船駅で東海道線に乗り換える予定を急遽変更し、大船観音に向かう
ことを決断。
大船駅西口に出て、柏尾川(かしおがわ)を渡る。
柏尾川は、神奈川県南部を流れる二級河川。
境川の支流。戸部川とも呼ばれる。
全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km。
大船観音入口の表示。
この坂が大船観音の入り口。左に「大船観音参道」 と刻まれた石碑が。
数分上ると大船観音山門が現れる。
正式名称は『大船観音寺』 であると。
大船観音は1929年(昭和4年)、地元有志の発起により、護国観音として築造が開始され、
1934年(昭和9年)には輪郭が出来上がっていたが、戦局の悪化により、築造は中断。
その後、20年以上放置される。第二次世界大戦後、財団法人大船観音協会が設立され、
1960年(昭和35年)4月に完成。
なお、大船観音協会には、曹洞宗管長の高階瓏仙(たかしな ろうせん)や、
東京急行電鉄の初代社長・五島慶太の名前を始め、各界の著名人の名が見える。
財団法人大船観音協会は、1981年(昭和56年)11月30日に解散し、
宗教法人大船観音寺と改称され、現在に至る、との説明が。
「大船観世音」と刻まれた石碑の横には戦没慰霊碑が建てられていた。
鎌倉空襲というアメリカ軍による無差別爆撃が鎌倉でもあったのだと。
碑の横から石段を上って行った。
観音様が目を細め、じっと私を見つめているように感じながら・・・・・。
階段の両脇には「南無観世音菩薩」 と書かれた赤地に白き文字で
書かれた旗が並んでいた。
純白の大船観音の大きさは、高さ25m、幅19m、重さ1915tとのこと。
鎌倉大仏は、台座を入れても高さ13.35mなので、鎌倉大仏よりも10m以上大きいサイズ。
子供の頃、「大船観音の下半身は山中に埋まっている」という噂もあったと記憶して
いるのですが・・・・・・。
青空に純白のお顔は映えていました。
ふっくらした顔立ちと優しい微笑みを浮かべながら私を見下ろしている姿。
少し横に廻って見上げて、露出変更してズームで1枚。
観音様の後ろ側へ回ってみると、胎内に入ることが出来るようになっていたのですが
気が付きませんでした。
胎内には平安期の十一面観音が安置されているほかに、観音像が建築されているときの
写真なども展示されいるとのこと。
そして山中に胴体は埋まっていないことも確認出来たのでしたが、次回にはと。
通路沿いのアジサイも観音様の白さと競うような姿。
別の階段を降りていくと前方にお堂が姿を現した。
聖観世音菩薩が祀られている慈光堂。
慈光堂を後に、坂を下る途中には子寶地蔵尊が。
こちらは延命地蔵尊。
原爆の火の塔。
8月15日、終戦の日の広島での残り火。
被爆45周年にあたり、大船観音寺の境内に平和の塔から分火されたものが、
この原爆の火。
火は灯篭型の塔内に灯されており、灯篭には「被爆四十五周年 原爆の火
神奈川県知事長洲一二」と刻まれた石板が嵌め込まれていた。
原爆犠牲者慰霊碑。
昭和45年4月18日、神奈川県原爆被災者の会が、大船観音寺の境内に
「原爆犠牲者慰霊碑」を建立。
平和祈念塔には「核兵器もない、戦争もない 平和な世界を」と刻まれていた。
慰霊碑に爆心地の西蓮寺から地蔵尊の土台石、
長崎の浦上天主堂からも石が寄贈され、それぞれの被爆石は千羽鶴が刻まれた
筏にのせられ、その台座には被爆者が平和の丘に向かう姿が描かれているのだと。
そしてその後ろにも多くの千羽鶴が奉納されていた。
神奈川県原爆被災者の会の熱きメッセージが日本語と英語で刻まれていた。
戦没者慰霊碑。
大船観音寺【白衣観音】の御朱印を戴きました。
そして帰路に山門より大船駅方面の景色です。
50年以上前に訪れた記憶だけがあるのですが、具体的に何歳頃、遠足?誰と?が
全く想い出せないのです。記憶が正に「完遠様」なのです。
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