JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.03.09
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​​この日は、先日に引き続き「鎌倉街道 上道」に沿った横浜市泉区上飯田町にある
社寺仏閣等を訪ねた。
小田急線そして相鉄いずみの線を利用し、自宅から約30分近くで「いずみ中央駅」に到着。
1990年の相鉄いずみの線の開業時はここが終点駅であったが、1999年に相鉄いずみ野線が
湘南台駅まで延伸し途中駅になったのだ。

「いずみ中央駅」のコンコース。



「いずみ中央駅」西口広場にあった少女?像。



西口広場から「いずみ中央駅」を振り返る。
「Eバス」は2014年4月より、ここ相鉄いずみ野線いずみ中央駅を起点とし
下和泉住宅地区を循環する路線バスのこと。



県道22号線・「長後街道(ちょうごかいどう)」に架かる「相鉄いずみの線」の高架橋が右手に。

呼ばれていた。高座郡の長である「長郷」が変化した「長後」が地名の由来となっている。
開通当初は新道・厚木街道と呼ばれていたが、昭和50年代頃から現在の名前で
呼ばれるようになった。明治から大正時代にかけて藤沢市北部・横浜市泉区・瀬谷区周辺では
養蚕が盛んで、長後街道周辺には製糸工場も数多くあったため、国道467号経由で八王子方面
から繭の集荷や、東海道の宿場であった戸塚・保土ヶ谷経由で横浜港へ絹糸を運ぶための道
として重要な役割を果たしていた。」とウィキペディアより。



長後街道を西に向かって進む。



道路の反対側・ガソリンスタンド脇にあった「庚申塔」をズームで。
正面一杯に「庚申塔」の文字が彫られていた。文化12年(1815年)建立と。
右は、「阿弥陀如来庚申塔」で延宝5年 (1678)の建立。阿弥陀如来の下には三猿が。



「和泉坂上」交差点を渡る。







この日に歩いた場所には 青線----- の如くに「鎌倉街道 上道」が走っていたのであった。



進んでいくと左手に「上飯田けやき公園」。



見事な生け垣のある「鎌倉街道 上道」を進む。



石塀に囲まれた敷地の奥に石仏の姿が。




横浜市泉区上飯田町1094。



正面に「大山」の姿が現れた。



そして白き「富士山」の姿も。



ズームで。



「鎌倉街道 上道」は右手に折れ、正面にこれから訪ねる「無量寺」の前へと進んでいた。
鎌倉時代には、「鎌倉街道 上道」を横切る「長後街道」はなかったのであろう。



横浜市の汚水マンホール蓋。
横浜のシンボルであるベイブリッジを中心に据え、周囲を船の操舵輪でデザインし、
「のびゆく港・未来」を表しているのだと。



「無量寺」の山門に向かって右側には白塀が続く。
ここが「鎌倉街道 上道」。



そして「無量寺」に到着。
横浜市泉区上飯田町1112。



「無量寺」の山門前から境内を見る。



寺号標「浄土宗 帰命山(きみょうさん) 長寿院 無量寺」
新編相模風土記稿に「浄土宗、鎌倉大町安養院末、本尊、阿弥陀を安ず。
開山は善如、承応二年四月六日寂」とある。
無量寺は、鎌倉安養院第十九世深誉上人が文禄2年(1593)に創建したと。



「山門」前の左手にあったのが、家畜の霊を供養するために造られた「畜霊塔」。



その奥に「六地蔵」。



更にその奥に「無縁之墓」。



「帰命山 長寿院 無量寺
当山は鎌倉安養院第十九世深誉呑霊上人が文禄ニ年(一五九三年)に開創したと伝えられている。
また『相模風土記稿』には、開山は善如(承応ニ年寂一六五三年)とある。
伝承では、初め他所に創建されたが天災によリ本堂庫裡等すべて倒壊してしまい、現在地に
移転して再建されたという。
本尊 阿弥陀如来像は、相州鎌倉郡扇ケ谷の仏師 後藤左近の作。(元禄十五年、一七〇二年)
宗旨  浄土宗
総本山 京都知恩院
宗祖  法然上人
本尊  阿弥陀如来
称名  南無阿弥陀仏
所求  極楽浄土往生   合掌」。




浄土宗の宗紋は『月影杏葉(つきかげぎょよう)』と呼ばれる紋。
杏葉(ぎょうよう)とは、大陸伝来の“馬具”の事で、馬の鞍をつなぎ止める紐に
付ける飾りのこと。
金属・皮などで作られた物が多く、杏子(あんず)や銀杏の葉の形に似ている事から“杏葉”と
呼ばれた。
この杏葉は法然上人の生家の漆間家の紋に由来し、大正4年(1915)に、 蕊(しべ) は7個とし、
宗歌「月かげ」の月を配した現在の紋が定められたと。



「鐘楼」。



「梵鐘」。



山門脇右にある高さ20m以上あるイチョウの大木は、横浜市指定の名木古木。



高所の枝の場所には、南天の幼木がヤドリギの如くに。



「本堂」正面。



扁額「無量寺」。



「寺務所」。



寺務所の前には石仏と石碑が。



石仏。



元徳年間(1329~32)に造立された「板碑(いたび)」。
「板碑」は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆とも呼ばれる。
基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を
刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる。実際には省略される部位分もある と。



その隣りにあった一遍上人52代の「名号碑(みょうごうひ)」は大山道の道標を兼ねていたと。
大山参詣の人々は、この寺で足をとめて参拝したことであろう。
寺の墓地には、「道者の墓」といわれる古くて苔むした無縁の墓があった。
「下総・上総」と刻まれていたところから、下総、上総(千葉県)から大山参詣に行く途中に
行き倒れになり、この寺に手厚く葬られたのであろう。



「江戸時代の大山道 主要八道」。
大山道(おおやまみち・おおやまどう)とは、主に江戸時代の関東各地から、相模国大山にある
大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の総称。大山街道(おおやまかいどう)とも呼ばれる。
代表的なものとして、「田村通り大山道」や「青山通り大山道」などがある。
上記の道標は「 柏尾通り大山道 」にあったもの
東海道方面からの経路で、現在の神奈川県横浜市戸塚区から大山へ向かうものである。
この経路の起点は不動坂と呼ばれ、道標や石碑が多くみられる。明治5年のころに、
講衆同士が大げんかを始め、「戸塚の血の雨」と呼ばれる騒ぎになった。
なお、下粕屋からは矢倉沢往還(青山通り大山道)を利用して大山に至るもの。



境内のイチョウの大木と鐘楼を見る。



境内横の墓地。



「本堂」前の「手水場」。



「本堂」の屋根の上にも浄土宗の宗紋『月影杏葉(つきかげぎょよう)』が。



「掲示板」には「日々実践をこつこつと」。



再び「​ 無量寺 ​」👈リンク を振り返る。



「山門」の先にも「浄土宗 無量寺」案内が。




                              ・・・​ ​もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・​​





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Last updated  2021.05.25 16:16:13
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