JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.22
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カテゴリ: JINさんの農園
『​ 鎌倉散策 目次 ​』 👈リンク

次に訪ねたのが「甘糟家(あまがすけ)長屋門」。
「高野の切通し」を下りると大船一の地主であり、大船村の名主であった甘糟家が見えて来た。
母屋の前には寄棟造瓦葺きの長屋門があり、保永5年(1708年)築と言われ、昭和60年
(1985年)に改築されたものであると。



長屋門の奥に見えた木造平屋建の母屋の屋根は高く、寄棟造であることから、萱葺き屋根に
銅版を被せたものであろう。
入口にはチェーンが張られ「長屋門」の正面には行けなかった。
もちろん、現在もお住まいの民家であるので已む無し。




武家屋敷門としては発生し、その後 侍屋敷や裕福な農家・庄屋でも造られた象徴的建物。           門の両側に門番や家臣・使用人の居室が置かれたり、納屋や作業場を配置した兼用家屋。 
門中央の両開き大扉に付随する潜り戸が両・片方配置や壁仕上げに漆喰か板張りかにより、
家の格式を見ることができるのであった。



「​ 甘糟家 ​」👈リンク の「長屋門」と「母屋」を斜めから。
「かっては大船駅まで地続きだったと云われ、今も1000坪からなる敷地には長屋門と
高い屋根の母屋(58坪)、庭には池や小川を配し、屋敷まわりは林や畑作地で囲われ、
その裕福な昔を偲ばせます。         
当家が この地に館を構えたのは室町時代と云われ,吾妻鏡(鎌倉期)や相模風土紀
(江戸期)にも出てくる歴史に名を留めている家系だそうです。
近くには常楽寺や熊野神社、きれいな多門院がありますが、甘糟家を抜きには語れない

ハイキングコースもあり、静かな古都のたたずまいに触れられます。
長屋門 : 木造平屋建て 寄棟造り 瓦葺き    
母 屋 : 木造平屋建て 寄棟造り 下茅葺き 銅板葺き覆い
 築  : 1708年(保永 5年) 改築 ; 1985年(昭和60年)」との
ネット情報から。 




途中のT字路角にあった「道標」。案内に従い右の「長窪」方面に進む。
左に曲がると「高野経由六国見山」と。
左手に進むと先程訪ねた、大船高校と熊野神社の間の「高野の切通し」に
辿り着くのであろう。



真っ直ぐ進んで行くと道が二手にわかれていて、右側が少し上り坂になっていた。
民家の横のこの狭い山道が「長窪の切通し」への入口。



こちらは、いきなりいわゆる「切通し」が始り、崖の高さも「高野の切通し」より高かった。
高さは5m前後はあったのであった、



うっそうと路端に茂るシダなどの植物に白い切り立った壁面、その上には根っこも
顕になった樹々の姿が。



人馬がすれ違うにはしんどそうな道幅。



この「切通し」の崖にも地層がはっきりと現れていた。



緩やかな曲がりが続く。
この「 長窪の 切通し 」も「高野の 切通し 」と同じく いわゆる「鎌倉七口」には
含まれていないのだ。

鎌倉北部の六国見山の西側にあり、少し南側に県道21号(横浜鎌倉線)が走っている。
鎌倉七口のひとつ巨福呂坂切通しもある道なので、鎌倉時代にもそこが主要街道で
裏街道的な「 切通し 」だったのであろう。



そして出口へ。ここもすれ違う人もなく独り占めの「切通し」なのであった。



長窪の 切通し 」を後にして進むと右下にあったのが「辻遊水池」。



「辻遊水池
この池は、大雨の時雨水を一時貯留して下流へ少しずつ流し、河川の氾濫を防ぐ大切な
役目をします。」
貯水量:17,000m3
水深 :6.4m
池面積:2.59km2



この場所は「高野3号緑地」と呼ばれているらしい。



そして「大船高校」方面への下り坂を進んで行った。



左カーブの始りにあったのが「高野台 (たかのだい)供養塔」。



「高野台 供養塔」。



「高野台供養塔」の横に「五輪塔」が2基。



左奥の崖下には3基のやぐらのような横穴があり多くの「五輪塔」が安置されていた。
「高野台供養塔」と書かれた石碑の裏には、「各戦場の諸武士之霊」と書かれ、これがかつて、
ここ鎌倉の地において、激しい戦いの中に命を落とした、さまざまな時代の武士たちを
弔うために建立されたことが理解できたのであった。



坂を更に下り「高野台供養塔」を振り返る。
平成元年に大船土地区画整理組合が高野台造成時に建立したもので、この辺り周辺に
散在していた小さな五輪塔50余基をこの場所に集め供養されたのだと。



右手の斜め方向に白き「大船観音像」が見えた。
JR大船駅の近くにある巨大な像なのである。



ズームして。
鎌倉市岡本一丁目にある曹洞宗の寺。大船観音と通称される全長約25メートルの
巨大白衣観音像。
「​ 大船観音 ​」👈リンクは1929年(昭和4年)、地元有志の発起により、護国観音として
築造が開始され、1934年(昭和9年)には輪郭が出来上がっていたが、戦局の悪化により、
築造は中断。その後、20年以上放置される。第二次世界大戦後、財団法人大船観音協会が
設立され、1960年(昭和35年)4月に完成したのだ。



陸橋を下って行った。



左下にあったのが「鎌倉市立小坂小学校」。



そして「大船高校入口」交差点を左折し、JR横須賀線方面に歩を進めた。



そしてJR横須賀線の踏切・「第二鎌倉道踏切」を渡る。



この野草?の名は?「ツリガネズイセン(釣鐘水仙)」に似ているが?



そしてタンポポの綿毛。



タンポポの綿毛に息を吹きかけて、種を飛ばしたことは誰もがあるだろう。
実は、このタンポポの種には、物理学者が注目しているのだと。
タンポポの種は、そよ風(あるいは人の息)に乗って広がり、ときには数キロメートルも
離れたところへ飛んでいくのだと。



ツツジも開花して。



様々な色で楽しませてくれた。



右手には神社への階段があったが、ここは後ほどに。



次に訪ねたのが「成福寺」。
山門の手前にあったのが「成福寺」の「門信徒会館」。



正面から。
元の庫裏跡に平成15年2月に新築完成した。
門信徒会館の2階には色々な行事が出来るホールがあるようだ。



そして。藁葺き屋根の「山門」。
「四足門」(しそくもん)と呼ばれる門。
四足門とは、二本の親柱の前後に、それぞれ二本の控柱のある門。 
「山門」は、江戸時代の初め頃、今の鎌倉市山崎の領主であった、 奥平氏の娘「崇高院」が
この寺の教えを受けたときに屏風などの宝物と一緒に自分の家の門を寄付されたものと。
この「山門」はJR横須賀線の車窓から何回も見ており、気になっていたが、この日に初めて
訪ねたのであった。



寺号標「亀甲山 成福寺」。
鎌倉唯一の浄土真宗の寺院であると。



「宗祖聖人御舊跡」



掲示板には「私の上にあるものは全部賜うたものである。念仏となって私の口から
現れて下さるみ仏のはたらき」と細川巌師の言葉であると。



「山門」を潜り石畳の参道を進む。



左手に庚申塔が並んでいた。
近世のものに紛れて中世の五輪塔・宝篋印塔がみられるのであった。



左側。



右側。



そして「本堂」。
鎌倉時代の創建で、本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は、鎌倉幕府第3代執権 北条泰時の子、
北条泰次(「沙門院泰次入道」、後に改宗し「成仏」)である。
泰次は幼少より仏の道に入り、天台宗の僧として成福寺の裏山で修行している時、親鸞聖人に
会って弟子となり貞永元年(1232年)、浄土真宗に改宗して成福寺を開いたと伝わります。
「成福寺の後方(北東側)の山は亀甲山といいます。厳島神社はこの山上にあります。
かつてこの場所には、成福寺の鬼門除けの神社である八幡社がありました。
また成福寺の南側横須賀線の線路を挟んだ辺りには弁天社(現 厳島神社)がありました。
また近くには吾妻社もありました。
横須賀線(明治22年(1889)開通)の開通工事のおり、弁天社は吾妻社の敷地
(現 小袋谷公会堂敷地)に移されました。
大正十二年(1923)、関東大震災でこれらの神社は倒壊しました。
昭和二年(1927)、八幡社があった場所に、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を
主神として厳島神社(旧 弁天社)が移転し再建しました。
昭和四年、吾妻社を合祀しました。昭和八年、八幡社を合祀しました。
祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、橘姫命(たちばなひめのみこと)、
応神天皇(おうじんてんのう)の三柱です。
なお、弁天社は弁財天を祀っています。弁財天は仏教の神ですが、民間信仰では
安芸の厳島神社の主神である市杵島姫命と同一視されることがあります。
そこで明治の神仏分離のおり弁天社の多くが厳島神社と改名しました。」とネットより。
鎌倉市小袋谷2-13-33。



「親鸞上人像」。
親鸞聖人七百五十回大遠忌法要記念 
   親鸞聖人像




ズームで。



東郷平八郎書の「忠魂碑」。
当初建立されていた場所は、現在の鎌倉市立小坂小学校運動場の道路側(昔の正門を
入った右側)であったが、戦後米軍の指示で撤去を求められ、この石碑を作る際当時の
成福寺住職が石の手配等東北まで行ったご縁で、成福寺の境内に移設されることに
なったのだと。



奥にあった「墓地」。
俳優・笠智衆さんの墓所があると先程ネットで知る。



本堂裏山に成福寺開基鎌倉幕府三代執権北条泰時の子泰次が"沙門院泰次入道"と名乗って
いた頃、こもって修行した「亀の窟(かめのいわや)」といわれる岩屋跡があった。
現在は危険防止のため柵があり立ち入り禁止となっていた。
また、鎌倉幕府滅亡が無住の時代が続き、戦国期には小田原北条氏による弾圧を受け、
九代宗全は伊豆国に逃れ成福寺で暮らしていたという。



そして「山門」を再び横から。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.01.27 19:06:45
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