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一昨日、久しぶりにこのHPを開けてみたら、私は「ゲストさん」になっていた。トップにあった私の写真はどこに行ったんだ。それはそうと、「ゲストさん」である私は、果たしてこれに書き込むことはできるんだろうか。また「サラM」に戻ったとしても、よそのサラMさんになるんじゃあなかろうか。で、まずどこを触ればいいんだっけ?と、よその家の勝手がまだ分からず、うろうろしている家政婦のように、私はキーをカチカチ鳴らしながら画面でうろうろしていた。思えば「まさかの転職」を書いて7ヶ月、それが本職になってしまって、一切の書く作業を中断し、私は塾長という役どころに徹していた。(いや、「いる」。それも当分)読書といえば、参考書。それも国文法とか読解のテキストかなんかだ。柔らかかった私の頭はテトリスのブロックのように、想像の余地を与えない丸暗記した代物がどんどんと積まれていった。国語の勉強をしていたら「書くこと」にも役立つから、一石二鳥だな。と、以前は口元を吊り上げて笑っていたが、役立つ時間などどこにもなく、おまけに子ども一人を預かったら、その一人に対して心を尽くしたくなるもんだから、預かった人数分、本当にしんどい。去年の今ごろは、「塾」の「じゅ」の字もなかったのに・・・。未来は自分で創るものとよく言うが、塾経営だけはどこからかのお告げのように、なんとなく運命というヤツに仕向けられたような気がしてならない。何のために仕向けられたのかよく分からないが、進むうちにその理由にたどり着いて、ニッコリと微笑むような日が来るんだろうか。しかし数年ごとに色んな仕事に出会っていく私。大きくなったらいったい何になるのかな。と、この年齢にして窓辺に頬杖をついてみたりするが、・・・気色の悪いシーンである。さて、このHP。どうしよう。頭の中でまた何かが生まれたら、それを紙の上にのせる術がなくてはならないから、「書く」ことのリハビリが必要なのかもしれない。少しずつを積み重ねて、土をならしていくように、心の中も柔らかく豊かにしていかないと、生まれたものもきっと貧弱な言葉たちで、もしかしたら雑音やおしゃべりの類とそう変わらないような気がしてくる。週に1度、また言葉を紡いでみようかな。(上に、「10~15日に1回のペースで掲載する予定」と書いてるなぁ。笑)
2005.09.28
ご無沙汰です。もうこのHPは消滅してるのでないかとヒヤヒヤしてましたが、無事に残っていました。ホッ。毎年違うことをしているね、とよく言われますが、今回は、畑違いのことに首と足を突っ込んでしまいました。それは何かと申しますと・・・ φ(..#)昨年の12月のある日に、突然私が塾を開講することになったので、その日から目の回る忙しさの中に身を置くことになった。これを書いている今も実は忙しい。2mほど離れた机の向こうでチラシの添削をしている人間を横目で見ながら、私も開講に当たっての文書を作成するフリをしつつ「日記」を書くという小さなスリルを味わっている。のっけから不真面目である。何故、私が塾を・・・ といういきさつは、話せば短く、書けばややこしい話なので、実は詳しくは誰も知らない。夫の両親ですら「塾」の「じゅ」の字も知らない。たいした理由もないのに、夫婦二人でやけにミステリアな気分になっているのは、想像すらしなかった世界に入り込んでしまった自分達の不思議を今なお首を傾げながら進めているからなのだろうか。となると「物書き」という私の仕事はどうなったんだろう・・・ 。まるで他人事のように、思い出してはかき消す作業を繰り返し、いま私は必死に小学校の国語を勉強している。私の担当教科は国語。他の教科の質問は絶対しないでね、と心の中で願っている国語の先生なのである。さて、何を始めるにしても「お金」がないと話にならないので、融資を受けるべく公庫に申し込みに行った。もちろんあらかじめ申し込み用紙に開業計画書を添え、送付している。そこには頭の中にあるものを全て書き込み、この計画が一目瞭然で分かるように記してある。そして私のことも同じように詳しく書いた。だから融資が受けられない決定的な不利がそこに認められない以外は、面談が受けられるものと思っていた。そして面談の日を決定する電話が入ったとき、私は揃えるものを揃えて提出するこの手間が、融資を確実に受けるための手間なのだと思って、惜しまずそれをやった。が、融資担当者はこの私の労力をたった一言で片付けたのだ。「でも、経験がないでしょ?」そうだ。私には塾講師の経験がない。しかしそのことは事業計画書に記している。が、その経験に代わるものを計画書に書き、また1時間以上もかけて話してるではないか。私は、首をコリコリ回しながらもう一度同じ説明をした。(うそ。コリコリ回したかっただけ)「でも、それは塾で子ども達に勉強を教えるテクニックとはまた違うでしょ?」確かに違う。ただ、その違いをどうして「それ以下」と判断してしまうのだろう。「じゃあ、聞きますけどね、あなたは私が大勢の聴衆の前で話した『子どもの育ちと表現教育について』を聞いたことがあるんですか。たくさんの子どもたちの前で話した『脚本の書き方』や『物語が生まれるところ』の話とその評価を、どこかで聞かれましたか。私がこの十数年間、教職員の方々に話した『演劇と教育』についてを、あなたは一度でも聞きましたか。聞いたことがないでしょ。『きっと違うかも・・・』という固定観念からくる印象で、判断してるんじゃないですか。そのあなたの何の根拠もない憶測で、私は融資が受けられないんですか!えっ!? えっ!?」もちろん、この心の叫びは声には出さず、ぐっと押し殺して、私はお願いするという立場の弱さを痛感していた。「公庫のお金は、あんたのお金か!?」これも言えず。「経験がないって、今はじめて知ったわけ!? 事業計画書に書いてたでしょ!? ちゃんと読んだか? この時間をどうすんの!」こんなことも言えない。びっくり仰天したのはこの後だ。「ご主人の所得は高いのに、どうして預金が少ないんです!? つまり他に借り入れがあるってことじゃないですか?」馬鹿正直に、私はなぜ預金が少ないかを赤の他人さんに話した。それはもっともプライベートな話だった。この健気な話し振りにも顔色一つ変えず、融資担当者はこう言った。「自己資金でされたら如何です?」その目は、子どもの学資保険を指していた。なんというか・・・。私にはこの「金貸し」という職が自分にとって不向きな仕事に思えてならなかった。頑張ってる人を見ると応援したくなるのが人の常。この「人の常」をここぞとばかりに発揮したくなるではないか、融資をすることでそれが叶うのだから。私の場合は、例えば融資を受けることができなくても、他に方法がないわけではない。これが仮に死活問題に繋がるとすればどうだろう。そもそも「融資」は死活問題だ。これを「でも、ちょっと不安なんですよね・・・」と担当者の第六感で決められたら堪らない。実際、どんな担当者に当たるかでほぼ決まる、とその後に聞かされた。となると、私はハズレを引いてしまったわけだ。結局、公庫からは融資が受けられず、私は融資担当者がチラリと横目で見たものに手をつけるしか術がなかった。(この話は1月中旬の出来事。それからいろんなことがありました^^)
2005.02.16
(8日の日記の続きです)目覚めた時間は9時30分だった。チェックアウトまで30分しかない。今ごろ家では大騒ぎになっているだろうか・・・。初めての無断外泊だが、まさか家族は深夜から私が出かけていたとは夢にも思うまい。となると、私は朝から飛び出したことになり、行方不明の時間もせいぜい2~3時間に過ぎない。何故か損をした気分だった。こんなことなら早朝に飛び出していればよかった。7,500円も支払ってしたことといえば、眠ったことだけなのに。ただ眠っただけなのに・・・。(それがホテルというものだ)私は3冊の本を持って家を出た。三浦綾子「道ありき」井上ひさし「本の枕草子」桐島洋子「渚と澪と舵-わが愛の航海記-」愛読書をあげるなら「アンネの日記」と三浦綾子、千葉敦子の著書が私のそれにあたる。単純に読書として楽しみつつも、教本というか指南書というか、「私の人格に影響あれ」という読み方も片方ではしている。が、なかなか自分の中に根ざさない。水はけの悪い土のように、多少は染みても吸収できない意志の弱さを自分の中に感じてしまう。あぁ。この日、「道ありき」を最初に読むのは当然のことだった。内容を熟知していても、あらたにここに書かれている言葉に触れることは、とても大切なことだった。凄まじい真実の記録のこの本を読んだときには既に三浦綾子は亡くなっており、私は彼女の夫に会いに、その講演先にある東京に足を運んだ。そうやって間接的ではあるが、三浦綾子の人生の一部である人に触れることは、三浦綾子の「時」の中に一瞬間でも紛れ込んだような不思議さを自分の中に残せたということだった。それでよかった。この「道ありき」に出てくる三浦綾子の亡くなった恋人・前川正は、私にとって本の中の人としての納まり方をしていないただ一人の人物である。読書としての客観的な読み方ではなく、ページをめくる度に苦しみ、悩み、ヒィヒィいいながら読んでいた。時間的には遮断されているが、それを超越したもう一人の登場人物に、私はなっていた。譬えていうなら「ネバー・エンデイング・ストーリー」のバスチャン(だっけ?)状態。私は日常を、本の中の昭和20年代に置いていた。こういう読み方は、藤沢周平の作品を読むときにも出てくる。私は常に、本の中のある町娘気分でいた。(笑)余談だが、昔テレビで「武田信玄」を見たときに、あまりに夢中になった私は、西田敏行扮する山本かん助が切り殺されたときの次の朝、職場でこういった。私 「昨日、西田敏行が殺されたんです・・・」K 「ええぇぇ~~~!どこで!?」私 「草むらでした!」K 「誰に!?」私 「何者かにです!」K 「通り魔やったん!? で、どこ刺されたん?」私 「刺された箇所は分かりませんけど、血が出てました」K 「えぇ~~! そこまでテレビに写ってるん!?」私 「はい!」これが大河ドラマの「武田信玄」の話だと分かったときには、えらくK先輩から怒られました。虚構と現実の狭間に落っこちるとは、こういう状態のことをいう。(笑)さて、井上ひさしは文章家として、また戯曲家として大変好きな作家なのでよく読む。桐島洋子も知的で躍動的な文章を書く。が、数年前に見た彼女のHPに、拉致被害者の横田夫妻のことを「被害者の鑑(かがみ)」と書いてあった。あと二つ、これと同類のことが書かれていた。彼女の本を読んで感銘を受けた私だが、この「被害者の鑑」には落胆してしまった。言い換えれば「模範的な被害者」ということだ。「鑑」も「模範」も「被害者」という言葉と横並びにさせる語句ではない。大きな欠落を桐島洋子の中に見たようで、がっかりしたのを覚えている。必ずしも「文は人なり」ではないな。佐藤愛子にも感じた。しかし、生き方とそれを表現する文章力には圧倒されるので、なんとなくその本を鞄の中に詰めた。結局私は、10時から18時まで、ずっと「道ありき」を読み、トイレと食事と泣くを繰り返しながら過ごした。そして、スーツケースの出来損ないを引きずり、店を出た。歩きながら、どうせいつかは夫と仲直りをするのに、そこに行き着くまでのこの惨めったらしい時間をどう過ごせばいいのやら・・・と、情けない気持ちでいた。家族の状況を知ったのは、この後だった。てっきり持ってくるのを忘れたと思っていた携帯電話の振動を、足元にあるスーツケースの出来損ないを通じて感じたからだ。恐ろしい留守電が入っている。娘のパニックと息子(長男)が私を罵るメッセージだ。ここに紹介できないほどの怖い内容で、ドラマでいえば私の立場は完全に一本線の抜けた悪役だった。駅まで迎えに来てくれた夫には悪態をつきまくった私だが、その代わり子どもたちには平身低頭して詫びている。相手を見て態度変えるこの私は、「道ありき」を読んでもやはり人格になんら影響されなかったということだ。うぅ・・・。しかし、私の中に残った三浦綾子の人生の一部は、今も大切なところにしまわれている。時々それを取り出しては浸る時間に、私は本の中の三浦綾子と前川正に再会している。一瞬ドラマチックに思えた真夜中の家出だが、30才を過ぎてするには、ちょっと恥ずかしいものがあったかな。ふふ
2005.01.09
真夜中の0時30分。スーツケースの出来損ないに1週間分の着替えを詰め込んで、私は家を出た。下りの電車があと1本残っていたから、これに乗ればなんとか寝床を見つけることができるだろう、そう思った。一応これは家出である。結婚十数年目にして、はじめて家を出た。原因は夫婦ゲンカ。そのまた原因は、パソコンの「コピー」と「貼り付け」の操作にある。それを夫に教えている最中に、炎のごとく温度の高いケンカへと発展した。さて、どうすれば「コピー」と「貼り付け」が炎のケンカに発展するのか。その前に、かれこれ私はこの手順を100回近く夫に教えている。否100回というのはウソで、比喩だ。多分10回ぐらいだろうけど、その懇切丁寧な中身は100を教えたほどに等しい。それを夫は、「ねぇ、『コピー』ってどうするの?」と、新鮮な顔をしてまた聞いてきた。もちろんこれ自体は怒る場面ではない。「いい加減に覚えてよ」の当然の言葉を添えて私は教えた。私のしめ縄の如く太い堪忍袋の尾が、大男の手によってブチッと引き裂かれたように切れたのはこの後だった。聞けば済むことをいちいち覚えない、という屁理屈を夫が言ってきたのだ。では、コピーをする度に私に聞くわけ? そう反論した。夫は、そうだと言った。断っておけば、ここで「しめ縄のような堪忍袋の尾」が切れたのではない。この夫の「そうだ」の一言から、互いの人格否定にまで話しが飛躍し、この罵り合いが私を怒らせたのだ。その時は「コピー」云々の話はもう消え去っていた。夫婦ゲンカというのは、時としてヤクザのケンカよりも急速に燃え上がったりする。国語の教師である夫は私と出会ったとき、干支が言えなかった。いいとこ最初の3匹が言えたらいいほうだ。私が「アホとちゃいますか~」とからかえば、夫は「大切なのは、調べる術を知るということだ。どこにそれが書いてあるのかさえ分かれば、別に知る必要もない」という負け惜しみを言った。この類でいえば、夫は三月が「やよい」とまでは知っているが、11月がさて何なのか、たぶん今もわかっていないと思う。そのくせ巷で使われる四字熟語は全て知っているし、ことわざや人名にも気味が悪いほど詳しい。なのにたった十二支すら言えない不思議な頭をしている。しかし「ねぇ、『コピー』ってどうするの?」から、どうすれば「人間としてダメだ」に事が発展し、家出する勢いにまでに至るんだろう。真夜中に自転車を漕ぎながら、これは「わらしべ長者」以上の展開だと私は思えてならなかった。駅に降り、私は「スーパーホテル○○」まで駆け出した。するとドアの向こうには「満室」と書かれたものが鎖にぶら下がっていた。のっけから予定が崩れ愕然とした私は、周囲を見渡した。果たして私はどんな風に写っているのだろうかと・・・。もしかして家出少女と写っていやしないか、そんな不安に襲われた。古いが、家出イコール人買い売られるというイメージが最悪の場合としてある。それはちょっとまずいので、私は次のホテルへ着くまで、「地方へ取材に訪れた都会のキャリアウーマンが終電に乗り遅れた」という設定で歩いてみた。ここで大切なのが「困ったわねぇ~」という顔だった。果たして誰が夜中の0時過ぎに、一人の女の表情を気にするだろうか。しかし自意識過剰の私は、無意味に「困ったわねぇ」の表情を顔に貼り付けたまま次のホテルへ向かった。ホテルに着くと、午前1時を回っていた。第二関門だと私は思った。なんと言って泊めてもらえばいいんだろう、こんな時間に・・・。家出人と間違われて通報されたらどうしよう、そんな不安がまたもやよぎった。ダメだ・・・動揺してはダメだ。このまま「地方へ取材に訪れた都会のキャリアウーマンが終電に乗り遅れた」の設定を崩せば、この数分の苦労が水の泡だ。なので私は「また終電に乗り遅れちゃった超ハードなお姉ちゃん」っぽい顔をして「お部屋あいてますぅ」といかにも慣れた口調で聞いてみた。この言い方に一瞬場違いなアクセントを感じた気もしたが、そんなときは相手も同じことを感じているようだ。フロント係りのお兄ちゃんと目が合った。「しまった。ミスった!」この動揺は、深夜を過ぎ、疲れて早く部屋に入りたがって女を装うことで誤魔化した。「ここに、ご記入願いますか?」フロント係のお兄ちゃんから受け付け用紙を渡され、私は書いた。住所は実家、名前は本名、電話番号は・・・と考えながら書いたのがまずかった。3回も番号を間違い、訂正の斜線をビュンビュン引っ張った。「怪しい、私は今、非常に怪しい」なんとかルームカードをもらった私は部屋に入り、早速お風呂を沸かして浸かった。なんで私は自宅にいないで、こんなところにいるんだろう。その理由が頭に浮かんだとき、口の片方だけで笑ってしまった。「そっか・・・『コピー』だったなぁ・・・」できれば「価値観の違いから家を飛び出してしまった」みたいな、知性と品を伴う口論であれば、ホテル代の7,500円も浮かばれただろうに・・・。何が悔しいかといえば、あとにも先にもこのホテル代だった。ケンカの悔しさを忘れ、ホテル代を惜しみながら私は眠った。(続きは、時間があれば書きます。φ(..#)。次の日はとてもマジメに過ごし、一皮向けて私は帰宅するのでした。しかし、家族は・・・ (/><)/ ひぃ~!)
2005.01.08
あけましておめでとうございます今年もよろしくお願いいたしますやっとパソコンの前で打つ時間が取れました。といっても、もうすぐ日付が変わる。明日も6時起き、そして七草がゆを作らなくては・・・。そう思うと、座った早々椅子からお尻をはがすことばかり考えてしまう。しばらく「書く」が遠のいていたので、「ここ」も「原稿の上」も気になっていたのだけど、ちょっとばかし違うことをしていました。毎年違ったことをしている私。そのための勉強をしていました。まだ内緒。昨年は「命」というものを自分なりに見つめた一年でした。自分の命、人の命。生きているからこそ「命」なのだけど、亡くなればなお、その存在していた「命」を思わずにはいられない。その意味を見つめるのに充分なほど、存在していた「命」は消えてなくっていきました。生まれてきた意味は、死んでその悲惨さを世界に判らしめるためだけにあるように、名をあげられることもなくその時の死者として数にあげられていく無念を、何度も紙面の上から見ました。ありとあらゆる「悲」と「怒」の感情を総動員して過ごしたこの一年の最後に、あのスマトラの津波で15万人もの命が奪われました。15万人の断末魔の叫びと、その家族の悲鳴を地球という同じ星にいながら聞こえないのが不思議なほど、あの日の地球は絶命する黒い声で響いていたはず。こんなにも命が散っていった2004 年という年を振り返ると、果たして自分は平均寿命まで呑気に生きていけるのかと信じがたい気持ちになります。人間が生きていくというのは、運を天にでも任せながら危ない道をすり抜け、それはまるで生き残りゲームの勝者のように、生きられたのは当たり前ではなく、ただ運が良かったというだけの世界にこれからなって行きそうで、なんだか怖いです。戦争や災害に限らず、多くの人たちが生きにくい時代になっています。それでも、命があることが素晴らしいと知らされた言葉があります。スマトラの津波で、一度は諦めていたのに助かったと連絡を受けた家族の一人が「生きていればいい。全てをなくしても命があれば、またそこから始めることができるから」といった言葉を、それをテレビで見ていた父が教えてくれました。「たとえば腕を失くしたとしても、失くしたところからまた始められる。生きてれば始めるってことができる。死んだら無やからな・・・」そう言いながら。生の存在の貴重を、知る言葉でした。イラクで亡くなった橋田信介さんが、亡くなる前に撮ったビデオにこんな言葉を残していたそうです。「とにかく一日のうちにホンの小さな楽しみがあれば、あとはどんなに辛く苦しくても、その小さな楽しみのために生きてください。生きるということが大切なんです」あらためて、かけがえのない命を今、生きているのだと思いました。誰の命も無意味にこの地球からこぼれ落ちることなく、たった一つずつの生の存在を愛しむことができればと願います。
2005.01.06
明日から家族旅行に行くため、今年の書き込みは今日で終了となります。(一人だけ留守番する人がいますけど^^)今年は何だかのんびり年を取った気がします。来年は、劇団にいた頃のようにハードに日々を過ごしたいな。仕事をたくさんしないといけない。今年もいろいろありがとうございました。来年は地球にとっていい年になりますよう、奈良県の端っこの方で私なりに頑張りたいと思います。皆様にとっても良い年となりますように。また来年もよろしくお願いいたします。
2004.12.25
次男の三者懇談の日。学校へ向かう途中、自転車を漕ぎながら息子が「お母さん、ボク、あんまりいいこと言われへんと思うから」と言った。次男の小学校までの三者懇談はきわめてよい評価をいただいていたので、よくみてもらっているんだなぁと、信頼と安心を先生においていた。私は子どもを放し飼いにしているため、きめ細かい子育て・・・とは言いがたく、それでも愛情だけは存分に注いでいるので、あとは美味しいご飯を食べさせればokと思うことにしている。この広範囲な「愛情」と「ご飯」で、次男はとても気持ちのいい男の子に育っていった。さて、私はどんなことを先生から聞かされるのだろう。外からの言葉には謙虚に耳を傾けなければいけない。そう思いながら私は自転車を漕いだ。教室に入ると担任教師は、口をへの字に曲げて息子を下から覗くように見上げた。ドラマの一シーンの冒頭にこんな映像が入ると、申し訳ないがこの担任教師はヒロインではなく、疎まれ役の設定だとすぐわかる。そんな典型的な表情だった。何も言わず、すうっと通知表を私の前に広げて見せた。「特別活動」の欄に「やかん係」と書かれてある。ブハッと吹いてしまった。すごいネーミングだ。やかん如きに「係り」を設けるとは・・・。なんとも可愛らしい係りだ。10段階評価の通知表には3~8の数字がバラバラに散らばっている。次男の平均評価が人目では判断つかないほど、数字は見事にバラけていた。昔、友人に「あんたってアホなんか賢いのか分からんわ」と言われたことを思い出した。「アホから賢い」まで行き渡る幅広い人間なのだと喜んだ私を見て、その友人に「やっぱりアホやね」と言われたが、今では「昔、友人にこんなことを言われましてね・・・」と自慢のエピソードとして時々披露している。ってことを思い出していたので、途中から先生の言葉は耳を通り抜けている。「全く授業を聞いてなくて他のことに気が入ってしまうんです」自分のことを言われたのかと思いハッとしたが、息子のことだった。授業を全く聞いていなかったのか・・・この息子は。次男は「北の国から」の純役・吉岡秀隆によく似ていると言われ、ボンヤリとした顔が絵になる少年なのです、と言ってもこんな冗談は面白くないので、私も先生と同じく避難がましい目で息子を見て言った。「あんた、授業中に何してるの?」息子に聞いたことを、先生が引き取った。「定規の端に虫眼鏡がついてましてね、鉛筆でゴシゴシと真っ黒にノートを塗りつぶして、その箇所を虫眼鏡に太陽を当ててジリジリ焦がしていくんですよ。で、いくら注意してもやめてくれないんです!」ブハッと、またしても噴出してしまった。一瞬噴出したのならまだしも、そのまま「ブハハハ」と声を上げ、笑い泣きし、ハンカチで涙を拭い、鼻をかみ、と笑いが通り過ぎていくまでかなりの時間を要してしまい焦った。どんな悪さをしているのかと思えば、虫眼鏡で紙を焦がしていたとは・・・。叱るに叱れない私を見て先生は「やってることは可愛いんですけどね」と言う。そう、可愛い・・・というか、幼い。「ねばならない」ことよりも、「したい」ことに目が向くその先にあるものが、虫眼鏡で紙を焦がすこととは、その幼さに呑気な可笑し味を覚えてしまった。懇談の帰り、偶然にも小学校のときの担任のK先生に会った。この先生は、家庭訪問の際に私の職業を聞いてから、子どもの想像を掻き立てるような授業作りについてを、熱く語って帰られた。おかげで息子の学校生活のことを聞きそびれたが、聞かなくてもなんだか安心な気持ちにさせたれた。「よう!」K先生は、片手をあげ息子に声を掛けた。息子の顔がほころぶ。なんとなく、虫眼鏡で紙を焼く息子と、K先生のあのときの話がダブった。K先生ならどんな風に息子のことを語ってくれるのだろう。「やっぱりK先生はよかったなぁ~!」終始バツの悪そうな顔をしていた息子が、安全地帯を見つけたように言葉を漏らしたが、それも自転車ですれ違った一瞬だけの表情だった。「3学期からがんばるわ」たぶん、懇談のこの時期の帰り道、数万人の子ども達がこの手のことを言ってることだろう。「がんばる」という言葉が積もっていくたび、この小さな頭の中で起こっていることの不思議に、成長を感じる。虫眼鏡で紙を焼くあどけなさを見る親の楽しみも、時間と共になくなっていくのだな。「まぁ、無理せんとね」並んで自転車を漕ぎながら、そんなに早く大きくなるなよ、とこれまでの親達が思ったように、私も長男のときに感じた呟きをまた繰り返した。
2004.12.21
結婚記念日だった。まだ子どもだった私と結婚した夫は、未だに子どものままの私の夫でいる。数年前、事務所前で保育所の所長は夫にこう言った。「お父さんも大変ねぇ、子どもが4人もいると」(ん? 我が家の子どもは3人だけど・・・あとの一人って私?)と、聞き返すまでもなく「そうなんですよ~」と、誰よりも私は所長に共感してしまった。この「大変」の中味に触れていくと「結婚記念日」からは逸れてしまうので、今日は「結婚記念日」にある「大変」を、一部紹介します。それは「儀式」のこと。披露宴の際に使うキャンドルサービスの、あの強大なロウソクを式場から頂きはしなかっただろうか。私達は頂戴しました。そしてそれを「結婚記念日の儀式」として使っている。それも「あの感動をもう一度」という意味で、アレを再現している。では使い方を。。。まず、部屋の電気を消す。テーブルの上にはキャンドルサービスのロウソクを置き、その回りに子ども達が結婚式に招かれた客のように座っている。私と夫は階段の上に立ち、火が点いたチャッカマンに互いの手を添えながら、流れる音楽と共に階段を下りていく。それはまるで「ラブラブショー」のように。(知ってる?ラブラブショー?)音楽は中村雅俊の「小さな祈り」。小さな火を消さないようにゆっくりと二人して階段を下りれば、子ども達の拍手が聞こえてくる(拍手をしろと、言っているので)。去年から長男の顔が引きつってきたが、そんなことは気にしない。長男は「ハピバスデェーソング」「クリスマスソング」と、この「結婚式の儀式」がもっとも嫌だというけれど、こういう家庭に生まれたのだから仕方がない。私は無心論者だが縁起担ぎ性なので、毎年同じようにしないと「縁起が悪い」と思うタチなのだ。曲がサビにはいると、いよいよロウソクに火を灯し、子ども達の拍手が一段と高くなったところで(もちろん強要している)夫婦はギュッと抱き合う。そして「皆で手をつなごう!」と私が言えば「それだけは勘弁してくれ~~!」と長男が懇願し、その拒絶に快感を覚えた私が「だめ~!!」と無理強いをして嫌がる長男の手を取り次男にそれを握らせる。追い討ちをかけるように「これからも仲良くしていきましょうね~」と気色の悪いことを言って長男の反応を見ながら、儀式を終えた。この日の長男は蒼ざめていたなぁ。そろそろ限界か・・・(笑)なんとなく節目を形として残すために、ほとんど遊びでこんなことをしている。ただ、新年を迎える気持ちや、年齢を重ねる日に思う「この一年は・・・」の節目を、夫婦二人して取る結婚年齢とでもいうべきか、新しく迎える歳の始まりとして、「これからもよろしくね」と、ロウソクに灯る火を見ながら思っていたいのだ。ロウソクには25年分のシールが貼られ、1年ごとに点線にそって剥がすようになっている。25年といえば銀婚式・・・。樹木の年輪でいえばまだ若いだろうけど、互いの人生を重ね合わせたその夫婦だけの物語を刻んでいる年輪は、夫婦というオリジナルな木として最期の時がくるまで大きく成長していくのだろうな。夫は50代、私は30代。この年齢の差が、順番でいくと「寿命の差」となるので怖いけど、このオバカな節目の儀式を迎えるためにも頑張らねば。読み返してみると、寒気のするような我が家のヒミツを洩らしてしまったが、まぁいいか(笑)
2004.12.20
ソウルシンガーのKOUTAROさんが15日に亡くなった。HP10月18日に彼のバースディーライブに行き、舞台から放射される彼のエネルギーを全身で受けたばかりなのに、その人はもうこの世にはいない。この喪失感は、彼の存在の大きさの表れのように、目に見えない大きな穴を私の中に残した。人は、死ぬものなんだな。誰よりも生きることに懸命だった人がこの世から剥がされるのをみて、命に限りがあることを、忘れるなと囁かれたようだった。「人は死んで3日経ったら300年経ったのと同じだ」と、ある著名人が言っていたのを思い出す。生きることにこそ意味があるのだ、と彼が言っているようで、私はしばしばこの言葉を引き出しては、自分の今を眺め見ている。 KOUTAROさんでなくても300年も経てば、全ての人たちが「生きていた」という証しは過ぎた時間の中のみに記されるのだろうけど、それでも今「生きている」このことを時間の中に刻むのは尊いように思え、目を閉じてKOUTAROさんの姿を思い出す。sazanamiという曲があります。1をクリックして聴いていただけませんか。 告別式のとき、ご友人の方々が生演奏をされていました。全てが優しくて、今はそれが辛いです。
2004.12.18
この日、ある場所に向かうために電車に乗っていた。その車内でのできごとである。気持ち良くくぅ~くぅ~寝ていると、いきなり隣に座っているおばさんに肩を叩かれた。な、なんなんだと思って起きると、そのおばさんが「この電車、乗換えしなくても大阪に着きます?」と聞いてきた。「・・・ 」果たしてこれが、見知らぬ人を起こしてまで聞くべきことだろうか。向かえ合わせに座っている男の人は、私のように居眠りなぞしておらずパッチリと目をあけているというのに。寝ボケていたので「はい」と答えたが、答えた尻から腹が立つ。おばさんは「そうですか」と返事をすると、サッサとそれまで読んでいたらしい本に目を戻した。・・・ショッキングだった。私は眠りから引きずりおろされたまま、お礼も詫びも言われずにその場に放ったらかしにされて、その寝ボケ顔も阿呆ぅのようだったと思う。これは恐るべき時間の侵入だ。私は私の持つ時間内で眠っていたのに。たとえばおばさんの会社で私が雇用され給与を支払われている身なら、勤務時間に起こされても文句は言えない。反対に「すみません」なんてブリッコなどして、疲れているのかしら・・・と横顔に陰りを残したまま心配を誘うよう仕向けるかもしれない(できるのか、そんなこと・・・)しかし、私はこのおばさんと雇用関係を結んでいるわけでもなく、ましてや赤の他人。なのになぜ、睡眠妨害をされなければならないのか。非常識も甚だしい。私は、眠りと食事と遊びを中断されるのがとても嫌いだ。あまりの腹立たしさに、絶対劇団では回ってこないような役を演じてみたくなった。たとえるなら「なめたらいかんぜよ~!」の夏目雅子のように。しかしそれをするには車内は込みすぎていた。「なめるなよ」とも言えず、「ちょっとあんた」とも言えない。また「非常識じゃあないですか」を言うにはあまりに時間が経ちすぎて、「はぁ?」と眉間に皺を寄せられそうだった。そうだ。私はいつも反応が遅いのだ。たとえば何かあっても、2~3日してから「まてよ~、なんかあれってよくよく考えれば腹が立つなぁ~」というタイプなのだ。それを思えば今回は早い方だった。ちょっと今回はいつもより反応が早かったかも・・・とニタつきながら隣に目をやるととっくの昔にそのおばさんは降りていた。あぁ・・・。
2004.12.01
先日の日記に「つづく・・」と書いたのだけど、その後を書くには憚るものがあるので尻切れトンボのまま終わることにする。憚りのない部分をそれとなく書くとすれば、明くる朝、その老人を夫が拉致し(夫は職場である学校を飛び出して、老人宅へ向かった)、電話で連絡を取り合っていたTさんとYさんの車へ乗せ私の家へと連れ出した、ということ。 老人とTさんは27年ぶりの再会である。涙ながらに手を取るTさんであったが、後で聞くと老人は「で、あの心安くて優しい人は誰なん?」と私に言っていた。そうTさんはすっかり様変わりしていて、老人はTさんが誰だかわからなかった。ってことは、知らない人の車に老人は1時間以上も乗っていたわけで、私は「それじゃあ誘拐されたと一緒やん」と言うと「そんときは、そんときや」と呑気な顔で老人は答えた。ほとんどボカシを入れながら書いているので、何のことだかさっぱり読み手には分からないと思う。ただ私が書き留めたいのは、世の中には数奇な運命というのが実際にあるものなのだと、いうこと。それはまるでギリシア悲劇の最高峰「オイデイプス王」の有り得ない運命のように。「運命」という点においては、この話を抜きにして語れないほど有名は話である。簡単にあらすじを書くとこうなる。生まれてくる我が子が将来父である自分を殺し、産みの母を犯すと予言されたその国の王は、地の果ての近いところに生まれて間もないその子を捨て、その後は平穏に暮らしていた。それから十数年が過ぎ、道端で成人になった息子と偶然出会った王は、息子とは知らずにその男と争いを起こし、あっさりと殺されてしまう。そして王の妻すなわち自分の母親をその男は予言どおり(犯す)妻にしてしまうという悲劇のストーリーだ。もちろん殺しや近親相姦など、私が体験した数奇なストーリーにはない。あるのは、決して出会うことのない人たちがパズルを組み合わせたように、一瞬にして出会ったという皮肉さだった。実際「オイデディプス王」の皮肉さが私の身に起きたとき、涙が止まらなかった。出会った相手が誰であるか知る者も知らぬ者も、別れた後は「まるで夢のような・・・」と同じ言葉を呟いた。そして、私も。
2004.11.30
日々のもろもろを「食卓日記(上をクリック)」に移してからは、めっきり「こちら」からは遠のいてしまった。「コラム」という性格付けをしてしまい、このページに書こうものなら改まってしまう。仕事をするときの「改まり」が甦り、自分のHPに向かってまで改まるのはゴメンだと、知らんぷりしていた。でもせっかく作ったので、たまには呟いてみようかな。さて、9日からはサスペンスな日々を送っていた。それは1本の電話から始まった。「○○を狙われている。助けてほしい」実際、こんなことは言わなかった。けれど、実際的にはこうだった。Aさんは、ひっそりと暮らす60代を越えた男性だ。日々は静寂の中にある。淡々とした日常には、あまりにも凹凸がなく、27年来穏やかに暮らしてきた。それが一変した。「じゃあ、○○を持ってきて明日会いましょう」次の日、○○を持って現れたAさんと会った。この○○さえ持っていれば安心だった。たとえAさんが居ない間に襲撃されても(たとえばである)奪うものなど何もない。その日の夜、Aさんからこんな電話があった。「△△△を奪われた!」「今から奴らが来るらしい」(仮に「奴ら」とする)しまった! まさか△△△に手をつけるとは! うかつだった。私と夫は慌てた。今ここで奴らに見つかると、全てを失うことになりかねない。夫はAさんに言った。「今すぐ、○○を持ってS駅に向かってください。僕か嫁さんが向かいますんで」S駅には嫁さんである私が向かった。とにかくAさんを家から出すのが先決だった。それが万全の対策であった。S駅の二つ手前で夫から連絡が入った。「今、奴らがS駅に向かったらしい。なんとしても奴らより早くAさんを捕まえてくれ!」「ええぇぇぇぇ~~~!!!」 一体いつの時点で奴らはS駅に向かったんだ。実際S駅は私の自宅よりも奴らのアジト(仮にアジトとする)からの方が断然近い。確かめる術もなく、心臓の音を聴診器で聞いたような高鳴りを耳に感じて、全身を震撼させながらS駅に向かった。「奴らより早く見つけなければ! 早く! 早く!」S駅の階段を3段飛びして駆け上がった。3つのホームを一度に視界に納めた私は、まるで「ウォーリーをさがせ」の如く、ラッシュ時のホームからAさんだけを抜き取るように探した。居た! Aさんだ!!半分気が触れたような状態だったのではないか、私のAさんを叫ぶ声は、いつのどんな時にでも発したことのない野獣のような声だった。あまりの心労からか、Aさんは心臓を押さえ、おぼつかない足取りだった。「奴らがここに向かってます。とにかくこの駅から出ましょう」Aさんの目がカッと開いたが、何故を問う暇もない。私はS駅からAさんを連れ出し、T駅に向かった。T駅のホームに降り立った一瞬の安堵の後に、夫から連絡が入った。「奴らが、Aさんの自宅に向かった」えっ、何で!?ここで初めて分かった。奴らの狙いは○○でも△△△でもなく、Aさん宅に居る一人の老人にあったのだ。つづく (のだが、書くのをためらう)とにかく、サスペンスな日を送っていたことだけを記します。
2004.11.26
大統領選挙の開票の日は、全ての手を止めてずっとテレビに見入っていた。この歴史的瞬間はきっと明るいものになるのだから、見る価値は大いにあると、テレビの前で時間をダラダラとそれに費やした。だからこの結果には愕然としたし、「悲」「怒」「恐」「怖」・・・「死」といった負の文字が、また甦ってきて、「未来」の文字さえどす黒く見える。現職は強いといえども、まさかブッシュが再選するとは思わなかった。ドイツ人が再びヒットラーを選んでしまったような驚愕が、現実に起こってしまった。今回の選挙で、アメリカは二つに分断された。その再統合と、イラク戦争の見直し・方向転換を求められているが、その誤りを犯した人間の罪を素通りし、再建へと飛躍するのは本末転倒、頭が痛くなる。殺す側、殺される側の縮図を小さな頭の中に描いて、無感情に着々と実行するブッシュ政権。わざわざありとあらゆる想像力を動員しなくても、一瞬で「恐怖」「怒り」の感情が湧き上がる。貧弱な想像力が、個人を守ることだけに留まって、世界を見ることまで発展をしない有権者の一票。「アメリカは世界のリーダーだ」というのなら、地球規模の選挙をと願いたい。世界的な視野を持っての判断ができず、たえず半径100m以内のことだけにしか関心がいかない人達に、果たしてこの大切な選挙を任せていいのだろうかと、あらためて選ぶ側の資質も問いたくなった。この嘆きはブッシュに票を投じなかったアメリカ人や、占領軍に脅かされているイラク人も同じだろう。ブッシュが再選した際に世界中がついたため息の数は、彼が再選して受けた拍手の数よりも、大きいはず。今回の選挙の前に、ビンラディンが登場したが、あれは何だったのだろう。ビンラディンの登場は、テロに怯えるだけのアメリカ人、すなわち暴力が生まれる根源を考える前に、軍事力という名の暴力でそれを叩き潰し、自分達だけは守ってほしいと願う弱い人たちに、「ブッシュ支持」を促すコールのように見えた。事実、ビンラディンの登場は今回の選挙で間違いなくブッシュに貢献している。真実はどうなんだろう。ただ世界が、ブッシュ政権の動きと徐々に逆行にあるのは救われる。各国で、部隊の撤兵と削減が発表されている。大統領選挙が終わった今は、世界の方から緩やかでもいいから変わらねば。残された道のなんと細いこと。その意味の、なんと大きいこと。
2004.11.07
香田さんが殺された。彼を惨殺した武装集団の蛮行を、許すことができないしかし、助ける手段があるにも拘らずその選択を除外して、何らかの「事実確認」ばかりをしていれば、助かる人間も助からない。昨日は、給水している自衛隊の姿が映像で流れ、その「活躍」ぶりを印象づけていた。自衛隊のイラクでの活動はあまり報道されていない。私も「給水」以外は浮かんでこない。その給水もNGOの比ではないらしい。そもそも何故自衛隊は迷彩服を着ているのか、本当に人道支援というのなら迷彩服を脱いでTシャツを着て活動すればいい、と言ったのは作家の澤地久枝さんだ。イラク人は日本の自衛隊を歓迎していると、イラク人からもらった僅かな言葉を永遠に使おうとし、それが全ての国民の言葉かのように謳っている。「人道支援」を掲げて政府は自衛隊を送り出したが、イラク人はもう10万人も殺害されているとのこと。花壇に水を撒くような給水でなく、花壇の花を引き抜く手を止めることこそが「人の道」だ。活動が不透明である自衛隊を撤去させるのを、断固として拒む小泉さんは「テロに屈しない」と息巻く。「屈する」「屈しない」の痛みを直接背負わない人間が、香田さんの命をテロ対決に摩り替えた。小泉さんが人質に取られた際に初めて自分の口から「テロに屈しない!」と叫べばいい。そうして意味が通じる言葉なのだ。アメリカの占領を支援する自衛隊派遣を続ける限り、今後も日本人はテロの標的になるだろう。香田さんには「無謀」や「自業自得」といった言葉が、彼を語る際にくっついてきている。だけど「無謀」で見捨てられ、「自業自得」だから処刑されても仕方がないとはならない。命を失うには、ほど遠い言葉だ。彼の無念と家族の嘆きを想像するには、心が痛すぎる。こんな恐ろしい結末と、それを一生心に刻み込む人間の「生」を避けることが、心ある人の当然の行いだろう。小泉さんは、たった一人を助けることができなかった。フィリピンのことを、思う。
2004.10.31
イラクで日本人が拘束され、その男性がテレビの画面に映っていた。画面に映る映像には、「死にたくない」と叫びながら殺害された韓国人の青年を思い出させる背景があった。高遠さん達と違って、実際に外国人の殺害をし続けてきた武装勢力に捕まったらしい。また彼はジャーナリストでもなくボランティアでもない、ただの旅行者だったという。「実際に自分の目で見たい」という若さからくる理性では抑えられない理由からだとしても、あまりに無謀で現状を把握していなかったと、帰国すれば非難轟々だろう。そうして帰国した際には、自分の両親に大いに謝ってほしい。「自衛隊を撤去するように」と武装勢力からの条件がある。以前にも書いたが、拉致問題に関わらず自衛隊を派遣させたのは間違いだったというところに遡って、自衛隊を撤去させるべきだと思う。小泉さんは「テロには屈しない」と言った。それが切り捨てるような物言いに聞こえた。彼の命をどう考えるのだろう。もとはといえば、自衛隊を派遣させたがために、彼は拉致されている。数時間後、土砂に埋まっている車から、男児が救出された。1%のかけらも無いと思っていただけに、この4日間の男児の恐怖を思うと涙が止まらなかった。だけど、あと一分早く走っていたら、どこかで休憩していれば、その時の信号機が違っていたら、きっと運命も違っていたのにと、呪わしい気持ちになる。瓦礫の下で耐えた2歳児の生命力が見るものに与える「命の尊さ」は、大きな意味を持つ。命あるものは生きないといけないし、生きるべきだと。生が死に近づく命と、死が生に近づいた命が、今日の日にあった。「人間の運命とはなんとも不思議・・・」と、どこかのアナウンサーが言っていた。男児の場合はそうなんだろう。奇跡と運命は同義語かもしれない。だけど、生きられる可能性があるのに「死ぬ運命」へと追いやるのは、避けないといけない。命は、尊い。
2004.10.27
[ 長いですよ ] ( ̄◇ ̄;)Koutaroさんのバースディーライブに出かけた。友人のYさんとの待ち合わせは19時。その日の13時に、息子は膝の手術を無事終えている。普通は子どもの手術の日に、ライブなんて行かないんだろうな・・・。そんなことを思いながら待っていた。これは子どもの入院25回以上の経験からくる「慣れ」かもしれない。そのうちの2回は確実に子どもの「死」を意識した。長男の麻疹と肺炎の合併。この合併で、私の知り合いは子どもを亡くしている。私も医者から「覚悟してください」の言葉を聞いた。22歳だった私はその言葉を拒絶した。覚悟をする暇なんてない。必死だ。25回以上の入院の大半が次男だった。次男には喘息があり、発作のたびに近くの病院へ運んだ。顔なじみなので、すぐに吸入と点滴の処置を受ける。それから入院というお決まりコースを経て、長くても4~5日で退院した。が、1度だけ治まるどころか症状がひどくなり、酸素マスクを当てられたことがあった。1秒間に1回の浅い呼吸を繰り返す。これが続くと咽喉を切開して人工的な呼吸の処置がとられる。その一歩手前だった。夫は修学旅行の引率でいない。同じ病室にいる付添い人達は、次男のあまりにひどい苦しみに硬直している。ナースステーションと息子の間を何度も走る私は、心細さと恐怖の金縛り状態で、祈りながら懸命に看護した。それから考えると、「足の怪我」は命を脅かすものではない。という安心があったと思う。手術に耐えた息子をねぎらって、明日からの付き添うエネルギーを、ライブに行くことで得たかった。夫もそう思って送り出してくれている、はず(笑)会場は「ビック キャット」着いて驚いた。ここで一度公演をしたことがある。名前が変わっていたので分からなかった。だけど地図を見てピンと来ないのが不思議。地図では心斎橋の方が近いのに、当時は四ツ橋からきていたような気がする。バカだな・・・私。確かこの扉のあたりを開けると装置が見えたっけ・・・そう思いながら会場に入った。充実した照明器具が目に入る。照明の演出があれば素敵なのに。劇団がここで演じた作品を想い出した。公演した舞台は、客席との境界線を外して装置が組まれた。客席にまで零れた照明の光が美しかった。Koutaroさんのライブが始まった。音楽であれ、舞台であれ、本物に触れるというのは、いい。きっちりと自分の中に印象づけられて、忘れない箇所に仕舞いこまれる。すべての芸術に共通する「表現力」の部分に、誰しもが反応するんだと思う。たとえば「川の流れのように」の解釈とその表現には、知っている曲にもかかわらず、koutaroさんを通して聴くと別物になる。絶品だなぁ。驚きと感動と、感謝も覚えた。手を引かれるように、歌のもつ世界へ連れて行かれる。心のどこかにある未知な部分がピクンと震える。先日のライブにあった快感を、また味わった。こういう気持ち良さがたまらない。ただ、スピーカーの近くにいたので、特に右の鼓膜が異常に響くものだから、音が割れて聞こえてくる。左は平気なのに、右耳が・・・困った。そこで耳栓を作ることにした。テッシュを丸めて右耳に詰めてみたが、テッシュの繊維というのは目が粗く、大音量は悠々と繊維の間を潜り抜け、私の鼓膜を叩いた。まいったなぁ~。要は、繊維の隙間を防いだらいい。仕方なく、あの手を使うことにした。テッシュに水分を含ませて音の侵入を塞ぐのだ。探すまでもなく、私は打ってつけの物を手ししている。ビールだ。すぐにビールを口に含み、チュ-ッとテッシュに染込ませた。そうして重みを増したテッシュを耳に詰めてみた。大音量の侵入を適度に塞ぎ、左耳と平均した音がいい按配で入ってくる。おぉぉぉぉ~~! これはいい! 快適じゃん! この快適さをどうしても隣に座っている友人のYさんにも知らせたくて、私は右手でテッシュを丸めだした。隣にいるのが夫なら、迷わず「ビール風味の濡れテッシュ耳栓」をギューッと押し込むのだけど、よそ様にそんなことをすれば、やった瞬間から「さようなら」なので、休憩時にこの耳栓を紹介しようと待つことにした。休憩はなかった。だから耳栓のことも言わなかった。帰りに「音はだいじょうぶだった?」とそれとなく聞いてみたけど、なんともなかったようだ。よかった。だからYさんは、私があのライブの最中に耳栓作りをしていたことを知らない。この日、お手洗いで驚くべきことがあった。詳しくは書けないので、読まれた人には大して「驚くべき」ことにならないのだけれど、私は呼吸が止まってしまった。これは形容ではなく、本当に呼吸と瞬きが止まった。15年ぶりに、高校時の親友に会った。私はこの長い期間を「生き別れ」と呼んでいる。彼女は、私の高校生活そのものの人だった。演劇部で一緒に過ごした彼女は、私だけではなく他の部員とも音信が不通になっている。彼女が私の名を先に呼んだ。聞き覚えのある声に振り返って、真正面にいる女の人と目が合ったが、その人を「彼女」と確認するまで、私は自分の記憶の中にあるいくつもの顔を、高速で掻きあさった。「私、ノン! ノン!」彼女が自分の呼び名を私に言った。でないと本当に私には彼女が分からなかった。きれいになっていたノン、20kgは痩せたんじゃないかな。こんなことを言うから私は彼女に怒られるんだ。急いで私は名刺を渡したが彼女は何も持っていない。また「生き別れ」か、と思ったら、彼女が私の携帯に着信を入れてくれた。そうして、手を握り合った。今度こそ、一緒にいれますように。帰りの電車の中でYさんが「『オッサン』って、なんだかカッコイイですよね」みたいなことを言った。男の人から見ても、そう感じるんだそうでない人ももちろんいるけど、ステージで歌っていたkoutaroさん達は、譬えようもないほどカッコよかった。男も女も、人間を何年もやりながら、懸命に生きて、語るべきものを持っている人は、カッコイイ。電車の中でいろんなことに浸りながら、今日のことを想った。息子のこと、koutaroさんのこと、友達のことを・・・。考えることはしなくても、心のどこかにそれらがある。そんなとき、Yさんの話していることに、ぐっと聞き入ってしまった。そのうちのひとつに、物語が自分に宿る感触を覚えてしまう。驚いた。話が、私を通り過ぎていかなかった。電車を降りてからも、これを書いてる今でさえも、印象に残っている。なんとなく、ボーッとして聞いていたように思う。一通りボーッとしたら、口が半開きになって何かを言おうとしたけど、それが極端に自分の世界の話なんだと気が付いてやめてしまった。・・・ 話せばよかった。私の降りる駅は、すぐそこだったから。あともう少し時間があれば、と思った。いろんなことがあったな。思い切って出かけてよかった。本当に。
2004.10.18
長男が交通事故に遭った。頭部打撲と、左足の膝の骨折、じん帯の損傷。命に別条はないが、車にはねられ5mほど飛ばされたらしい。「気が付いたら、5mほど飛ばされてた」そう息子から聞かされたとき、もしもの場合もあったのだと、体が震えた。私は夫からの連絡で事故を知った。声のトーンは、状況の明暗を印象つけてしまうので、それを知ってか夫は声をこわばらせながらも「意識があるから大丈夫」と、いつも通りの口調で私に伝えた。だから、息子が「生きている」という点では一応の安心を得た。「意識がある」「足を痛めている」以外の情報はないままに、息子の衣類を鞄に放りこんで、余計な心配を早く安心に変えるために、大急ぎで病院へ向かった。事故の第一報を受けたのは夫だった。担任からの連絡を受け、どうせまた遅刻か欠席の件だろうと呑気に挨拶をしたら「事故です」という、寒気のする言葉が返ってきた。「本人は無事ですか!?」「確認ができてません。交通事故としか聞いてませんので、病院へ連絡を入れてください。学校側からもすぐ病院へ向かいますので」そして夫は病院へ電話を入れ、看護師に息子の具合を聞いた。「どんな状態なんでしょうか!?」「まだ診察中なのでなんとも言えません」子どもの無事を確認できないまま、夫は数十分過ごした。「知らされない」という空白は、恐怖だ。どんな想像も可能にし、空白は不安にすりかわる。病院側では日常でも、私達には非日常なので、この温度差が受け手にはこたえてくる。無事なのかどうなのか、それだけを早く確認したいのに。しばらく時間が流れてやっと看護師から「意識はあります。足を痛がっています」と聞き、安心したらしい。そうして私に電話が入った。事務的な知らせでない身内からの連絡は、私にとっては衝撃を和らげるクッションだった。怪我の具合は確認できてないけれど、「怪我」という言葉ひとつ聞いてさえ、昨日までの息子との関わり方に反省の意味を込めて舌打ちをするのだから、もしも生死を彷徨っていたなら、私の精神も生死を彷徨うのだろう、数秒足らずのそんな想像にすら参ってしまった。長男とは、親子関係が破綻してるのではないかと思える場面がしばしばあるが、そんな小さな亀裂が埋まるほどの親としての情が、その中に流し込まれたようだった。カーテンの向こうで、息子が担架に寝かされていた。瞬きしているのが見える。すぐに息子の傍に行けるものと思ったら「少しお待ち下さい」と看護師さんに制された。しかし、一瞬でも息子を確認できた。あぁ、無事なんだと無性に嬉しくて、その姿が痛々しくて、目が熱くなったが、それでも「言葉」で確認したい。「どういった状況なのでしょう?」「まだ分かりません。今診てもらってますので」カーテン1枚を隔てて、待っている。何もなければそれでいいし、あったとしても知ることができればそれについての対処も考えるだろう。分からないままでいるのは辛い。早く確認をしたい。何がどうなってるか。名前が呼ばれ、先生の説明を聞き、やっと状況を把握する。息子は、「なんともない。だいじょうぶ」と、私に言った。頭から血を流し、骨折をし、「だいじょうぶ」でないわけがないが、その言葉にうなずいた。本当は親の方から「だいじょうぶ」という言葉を、掛けてあげないといけないのだ。しばらくして夫が到着した。私に言ったように息子が夫に声を掛ける。深いため息をついていた。夫は安堵したのだ。加害者が謝罪に来ていたので会った。車を運転し息子をはねたのは、19歳の青年だ。中学生か高校生のように見える。通勤途中での事故だったらしい。信号機が黄色だったからそのまま走行したとのこと。赤を確認しなかったことになる。息子の状態に安堵したばかりなので、加害者と事故の様子を確認したあとは頭が回らず、この手の専門家でもある私の両親に電話を入れた。この電話で私は今日2つ目のショックを母から受けた。妹が交通事故で死にかけた、というのだ。車も破損し、前はぺしゃんこに潰れ、煙が上がっていたなどという。そんなこと私は全く聞いていない。いつ、どこで、どんな状況で、今妹はどうなっているのか、姉の私が何も知らないだなんて、こんな薄情な話しはない。私は母に怒鳴った。「アンタ、知らんかったの!?」と、母は言った。母から聞かないで、いったい誰が私にそのことを伝えてくれるというのだ。息子の状態を聞かされていないあの心の不安感がどっと押し寄せ、バクバクと心臓が鳴った。事故は2ヶ月前に起きたらしい。(2ヶ月も前~~!?)父から話を聞くと、サンキュウ事故という名が付くほど頻繁にある事故で、走行中に無理な形で横切られた車と衝突したのだ。幸い、エアーバックが開いたから助かったものの、それがなければ即死だったらしい。とにかく母は妹の無事より、車がぺちゃんこ、妹が死にかけ、という強烈な言葉を何度も繰り返すので、聞く側は顔面蒼白になる。それにしても知らせてほしかった。すぐに妹と電話で話し、今聞いたのよ~~と嘆いた。そういえば昔、家が火事で焼けたとき、会社にいる父に母は、「家が燃えた~~~~。うぎゃ~~~!!うぎゃ~~~~!!!」とだけ言って、電話を切った。父は、誰かが死んだんだと覚悟をして、家に向かったらしい。なんてむごい電話をするんだろうと、当時中学3年生の私は思った。話が母の話に急カーブしてしまったが、7つの顔を持つ両親(主に父)の専門の一つが、保険がらみのことだ。今回面倒だったのが、保険の出し渋りだった。被害者の方にも過失があるので保険が出ないかも、と言ってきた。(被害者の方にも過失?何を言ってるんだ!)詳細は省くが、父に電話を一本入れてもらったら瞬時にケリが付いた。息子のことで頭がいっぱいなので、こういった煩わし手間が省かれることはありがたい。18日に膝の手術をすることになった。剣道部である息子は、部活のことを気にしていたが医者から剣道ができるのは半年経ってからと言われて、初めて悲愴な表情を見せた。低いうめき声をあげて、息子は足を見つめていた。「今までの予定を変えたらいいやん。この間に新しいことを始めて、半年後に繋げたらいいやん。ピアノを習うとか・・・」(息子は、保育士になる夢を持っている)「・・・うん、そうやな」頷くことで、半年間の計画を修正するように努めたんだと思う。年末のスキーも、2月のマラソン大会も、剣道の試合も、クラブの主将になることも、たかが半年間のことなのに、全てが流れた。事故をきっかけに、ささくれだった互いの物言いが少し変わった。こんなことでもない限り、私は息子と「話し」ができなかったんだろうか。これが、親としての私に対する罰として与えられたきっかけのように思え、私は事故を、それを受けた息子の痛みを、忘れないように自分へ刻み付けた。
2004.10.15
ウエブ上にHabboホテルというのがある。ホテル内には、客室はもちろんクラブやシアター、プール、バーガーショップなど豊富に施設を設置している。登録をすると人型のアイコンが与えられ、それぞれのイメージに合うよう髪型から服装まで自由に選択でき、ホテル内を行き来しつつ、その往来で出会った人との会話を楽しむというまさにバーチャルな世界であった。あった、と言うからにはもちろん私も体験済み。文字だけが飛び交うチャットとは異なり、人型のアイコンといえども視線を感じるので(自分のアイコンをクリックされると、相手がこっちを見るという仕組み)少々緊張を伴うリアルさも備わっている。客室には、料金を支払いポイントを買えば、それで家具を購入できるので、がらんどうの部屋がそれなりに落ち着いてみえる。部屋に友人を招いて、ソファーに座りながら語らい、冷蔵庫を開ければそこから何かを取り出して飲食できるので、画面上のこととはいえ妙な気分になる。いったい、誰がこんなことを考えたんだろう・・・。今はホテル内だけの世界だけど、この世界の発展上にあるものは、気のあったもの同志の次なる場、極端に言えば結婚式場だったり、その線上にある家族だったりするのではないか。部屋にはペット用のアイコンを購入できるようになっているが、なんとなく新たに赤ちゃんなどが登場しそうな気がする。その次はなんだ? 職場じゃないかな。バーチャルの敷地内に数々の職場ができ、生意気に「面接」なんかがあって、「面接」そのものがゲームとして扱われるかもしれない。面接ゲームをクリアし、就職が決まれば今度は「昇格」に向けてのゲームも行われるだろう。目標という人参を目の前にぶら下げて走る馬の如く猪突猛進し、気が付けば実際の現実と画面上の現実が摩り替わっていくような感覚に陥りはしないかと考える。バーチャルな世界で家族を作り、仕事を持ち、それが成功し、いつしか喝采を浴びるまで登りつめ、クリックひとつで閉じる画面の世界と現実とのギャップを、ただの仮想の場として受け止められることができるのだろうか。以前、画面の中の人物に心を奪われ、現実の世界を省みない人間を描いたことがある。もちろん、画面の出会いも現実の出会いとして、私は受け止めている(「文は人なり」というように、魅力的な会話を交わす人がおり、実際のその人への興味もそそられる)。が、私が描いたのは、表情も音声も体温もない文字だけの会話の中で、言葉だけを頼って相手をイメージする危険な想像力と、普段は痩せた言葉でもキーを打つ手は滑らかで、いかにして言葉を装飾し自分という人間をイメージ通りに画面上で生かせるかに固執した人物だった。結果的には、それが成立しないものとして描いた。心の拠りどころを画面に求め、実際に生きている現場での足元が緩むと、画面という「不確かな存在」の中に確かさを求めて埋没の一途を辿ることになる。他者との関わりの中から得る「評価」や「認識」によって、自己の肯定はなされるのだと思う。その他者との「ナマ」のコミュニケーションのとり方が、下手であり、また煩わしさを感じるため、他者の目を通して知る「自分」を認識することができず、自分を肯定する機会も損なわれるのだろう。優しい言葉が画面の中から聞こえれば、誰だって耳を傾けたくなる。不必要な言葉は消去すればいいのだから。実生活ではありえないクリック一つの消去が、ここでは可能になる。名前も顔も知らないことに、守られるのだ。しかし、人との関わりにある「ナマ」の煩わしさを経て得るものから、小さな小さな歴史を築き、目に見えない結び目を持つのだと思う。煩わしさをすり抜けた一時の安堵も、振り返れば無味乾燥な時間の経過に過ぎない気がする。私の描いた主人公が現実の世界を振り返ったのは、そんな自分を見る相手のけたたましい動揺やひたむきさに、普段の「煩わしさ」が温かいものとして目に映ったからだ。人間って面倒臭いけど、面倒臭いぶんだけ、とても関わり甲斐もある。本来は、人との間で喜びを見出すことのできる生き物なのだから。
2004.09.30
夫の日記に、「宅間被告の死刑執行を知る。死刑制度の是非を問う前に、この男だけは許せないと思った。自分自身と人を憎み、不幸せにするためだけに生まれてきた男」とあった。私がこの事件を知ったのは、地下鉄御堂筋線の梅田駅の売店の公衆電話からだった。当時所属していた劇団に電話を掛け、それを聞いた。頭の中が子どもたちの悲鳴や泣き叫ぶ声でいっぱいになり、私は思わず俯いた。俯いた先に、新聞が束になって差し込んであるのが見えた。ラックにこの事件の見出しが、手書きで赤く書かれていた。波で足元の砂をさらわれるように、体から血の気ともども引いていくのがわかる。もう帰ってこない幼い命に嘆き、顔も名前も知らない犯人を、凍りついた心で私は憎んだ。そんな痛みのある思いを、何度繰り返しただろう。毎日子どもが殺されているこの世界で。新聞には今日も、昨日も子どもの名前があった。名前のない子どももいる。「死者子ども数名」と、数だけで書かれている。ひとつの命の背景を、どれだけの人が、どれほどのこととして今は感じられるのだろうか。たったひとつのこれからを、対象のない憎しみの当てつけに、私利私欲の代償に、踏みつけ、壊して、跡形もなく消し飛ばし、稚魚が成魚となる確率の低さを地上にまで押し上げ、人間を生きにくくしている。パウエル米国防長官は「イラクには、大量破壊兵器のいかなる備蓄も発見されなかった。将来、発見されるということもない」として、戦争の最大理由である大量破壊兵器の存在を否定する発言をした。イラクでは最大で1万3千人以上、アメリカ兵は千人に死者が達した。確実にこれらの命は存在していた。大量破壊兵器の有無をかけて亡くなったこれらの命は、パウエル国防長官の「勘違いでした」の言葉を聞いても、既に滅んでしまった肉体では涙すら流せない。小泉首相はどうする気だろう。ブラジルでの歓迎に感激して、涙を流すほどの感受性があるのだから、きっと号泣して辞任するに違いない。作家の澤地久枝は、戦没者の一人一人の命に寄り添うように、その生きざま(死にざま)を、確かにその人たちが生きていた証しとして旅をしながら文章に書き留めている。既にこの世に無い命までも、彼女は優しく見つめている。命がなんであるかを知り尽くした人間だから、平和憲法の改悪には体を張って反対なのだ。「子どもだけは・・・」の常識を覆すように「子どもでも・・・」容赦のない生きにくい時代に、命を守るという姿勢を貫くことが大前提となってきている。
2004.09.16
水上勉さんが死去した。うちの劇団で一番お世話になった作家といえば水上勉さんだった。初めてお会いしたとき、確か先生が70歳になるかならないかだと思うが、世間では充分その年が「おじいさん」を表していたにもかかわらず、先生はダンディだった。椅子に腰をかけた様子が、田村正和に似ていた。小首を傾げながら頬杖をつくその横顔は、田村正和のそれ以上に色気があり、なんだか吸い寄せられるようにミーハーなお願いを私はしてしまった。「あの~~~、サインを・・・下さい」私に向けられたその目は、杉良太郎の流し目を思わせた。今でも覚えている。流したままの目で、2,30秒は見つめられただろうか。何も言わず先生の手が色紙に伸びてくるまで、新人の私は凍りついてしまった。あとから聞いたのだけど、先生はサインが嫌いだとか。「ありがとうございます」と頭を下げ、頂いたサインに目をやると、色紙の右下の方に小さく名前が書かれていた。まるで寄せ書きみたいに。色紙にできた4分の3ほどの空白を見つめながら、誰にもらったサインよりも、意味深く私の中に残ることになった。それから暫くして、ある作品の件で私が先生に連絡を取ることになり手紙を書いた。長野県の自宅に電話をしたのはそのあとだった。入院先の病院を抜け出しているという情報を私は聞いた。私 「先生、だいじょうぶですか?」先生「あぁ~、私はもうダメだ・・・」30分ほど話をさせていただいたが、覚えているのはこの言葉だけ。弱々しく、何度も「私はもうダメだ・・・」と耳元で囁くように言う声が、どこか甘く聞こえる。あとで先輩に報告すると、先生は女の人が好きだから、いつも甘えるのよ、と言っていた。確かに、「京都妻」「長野妻」「東京妻」と各都道府県に「妻」を置いていると噂のある先生の女好きを、私も知らないわけではない。でも、70歳をとうに過ぎ、病院から抜け出している先生の声色からは、そんな色気はなかった。物悲しい声。相手に寄りかかるような頼りなさが、子どもの甘えを思わせる。老いと言い換えてもいい。それから数ヶ月過ぎて、文化座の劇団広報を見ると、先生が例の田村正和顔で一面のトップを飾っていた。「ほらね、元気でしょ」と呆れた調子で言いながらも、先輩は先生の元気な表情にホッとしていた様子だった。大写しで掲載されたその顔は、「今が旬」と言っていいほどの脂の乗りようで、一瞬感じたあの「老い」も実は「旬」ならではの見せる技なのではあるまいかと、ニヒルに笑う写真を見て思ってしまった。それ以来、先生にはお会いしていない。つい先日、瀬戸内寂聴さんとの対談集「文章修行」を読み終えた。文章修行とありながら、相手が寂聴さんだからだろうか、色っぽい話になっている。その会話を読みながら、頬杖をついて話す先生の横顔を思い出し、懐かしくなった。最後までダンディな方だった。表紙にある写真を見て、そう思った。
2004.09.09
ロシアの有力紙であるイズベスチャの編集長が事実上の解任をされた。解放された半身の娘を抱く父親の写真を、記事を掲載せず一面全面を使い掲載した。また人質や死者の数も独自で情報収集した数を掲載し、治安に対する政府批判をした。このことが政府の怒りをかったらしい。恐ろしい言論統制だ。昨日は「反テロ集会」ということで政府支援の、プーチン後押しの集会を開催している。事件の元である「なぜ?」を封印することにならないか。「なぜ?」を提起することはロシアの現体制を批判し、国の利権を阻む不利益な思想ということになるんだろうか。先月の26日だったか、ロシアの人口は60年後には半減し、数世紀後にロシア人は絶滅するとアメリカの人口専門家の間で予測されているという記事を読んでビックリしたところだった。何が原因なのかは忘れてしまったけど、「紛争」を表す言葉があったように思う。容赦なく逃げる子どもの背中を撃つのだから、手で頭を抱えさせた子どもたちを背後から撃つのだから、こんな狂気を宿した人間が、人間の顔をして作られていく限り、「絶滅」の言葉も想像できなくもない。人を殺しながら弱者を鎮め従わせる方策を国の政策として取る愚かさを、いつまで見続けなければいけないんだろう。テロに屈しないという勇ましさが、人命を軽視することになる。
2004.09.08
「強い国」「テロに屈しない」とはどういうことなんだろう。人間を、それも子どもを死に追いやってまで、豪語すべき言葉であろうか。北オセチア共和国で起きた学校占領事件は、チェチェンのロシアからの分離独立によるテロという見方より、紛争で夫や子どもを失った「黒衣の寡婦」を含む怨念と憎悪からの報復テロの色が濃い。長い歴史を経て、ごく普通の人間に憎しみの感情を一瞬にして宿し、テロの土壌を「武力」でもって作り上げ、強国ロシアは「我々は強い」と吠え立てる。岩手県ほどの面積に人口100万人のごく少数民族であるチェチェンに、プーチンは10万人もの軍隊を送り、武力でもって制圧した。数万人もの虐殺である。独立を叫ぶチェチェンに対して、あくまでロシアは強攻策を取った。この策は、人の死の上によって、はじめて成り立つ。ロシアは、プーチンを支持した。そうして生まれるチェチェンの憎悪の一部は、無差別殺人集団・テロと化す。テロは、自然発生するものではない。武力がもたらした「人の死」によって、増幅された憎悪の方向が一直線にそれをもたらした者へと向くのだ。政府に向ける近道として、罪もない人々の体を貫通しその命を裂き、自分たちの憎しみをアピールする。チェチェンの独立の声を封じるために、武力で制圧した行為は自国では評価されても、相手国から見ればテロ行為になる。「言葉」という知力があるにもかかわらず、野生動物のように強いものが弱いものを従わせる弱肉強食の世界での一瞬の静まりは、もはや「平和」の瞬間ではなく「テロ」という憎悪の塊が作られる瞬間にある。それが、罪もない子どもに達に向けられた。武装集団と政府の武力抑圧の狭間で、200年にわたる歴史の怨念の餌食にされた。丸腰の、それも子どもを人質にとって襲撃したテロリストは、いかなる理由があろうとも許されるべきものではない。テロ集団の憎悪の道連れにされる謂われは、どの子どもにもない。今回の、子を亡くした親達に、やがては憎しみからなる報復の感情が湧き上がるのは当然のことと懸念する。人と国を憎むためだけに生きるかもしれない。何故プーチンは、対話による解決という人間だけが備え持つ能力を使わずに、武力行使を強行するのか。武力の続行は、憎しみの末のせん滅だ。「テロリストとの交渉は、時として和平確立に寄与する」と、欧州会議の席でテリー・デイビス事務局長は、イギリスと北アイルランドでの紛争を例にあげている。ごく僅かの時間の差だろう、ブッシュは「テロに対する力の行使は当然」としている。その結果が、今回の惨劇を招いたという想像の経路は、彼にはない。武器を持ち、それなりの兵力を持って刺し違えれば、数がものをいうのは当然だ。その「強さ」からは、決して「平和」は訪れない。武器を持たず、交渉をし、一人たりとも傷つくことなく、人質救出に全力をあげてほしかった。何をおいても、その瞬間に生きている命こそが何よりも大切であった。武装集団を銃殺する武器からなる「強さ」ではなく、子どもの命を守る「強さ」がほしかった。憤る。招いたもの、起こしたもの、防げなかったものに対し、歴史を遡り、子ども達が絶命する瞬間に震撼して、今までにない怒りを全身に覚える。「独立」という言葉一つから、この200年間の間にたくさんの命が奪われたのは何故なのか。武器を手にしている限り、わからない。
2004.09.05
神戸自由劇場による「筆とキーの序曲」が終わった。私が執筆の道へ進む切っ掛けとなった作品。居酒屋で夫に、書きかけの原稿を見せ「これ面白い。続きを書いてよ」と言われたのに1年間放っていた。その後、文化庁の劇作公募を劇団の掲示板で見かけたのと同時に、頭の中で消えてしまっていた登場人物たちもむっくりと起きだした。それからの4ヶ月間、頭の中で登場人物たちと私との強化合宿が始まった。それが深夜にまで及ぶときは劇団の出張を増やし、私は電車やファミリーレストランで昏々と眠り続けた。家庭に仕事、シナリオ学校の三点を円を描くように周り、どこにいても紙とボールペンだけでそこを過ごした。2月、文化庁から受賞の知らせが劇団に届く。受賞の報告がそのまま、今まで戯曲を書いていました、という告白となる。皆の驚きの声は、受賞と、私が戯曲を書いていることの両方にあったので、まるで吠えるような大きさだった。その思い出の作品の初演が、27日から29日までの3日間に行われた。頭の中にいた物語が、紙面の上で生き、役者の体を通じて舞台から生を放った。最初から生を放ったわけじゃない。漸く、本当に漸く、3ステージ頃からそれを感じて、やっと舞台の上で登場人物たちと出会えたと思ったら、最終公演が終わった。「やっと役と一体になって、セリフが自分の口から出たのに」何人かの役者がそう言ってくれた。ありがとう。それで満足です。でも不満がないこともない。転換(シーンとシーンのつなぎ)が全て暗転で処理されているのには驚いた。こちらは転換を見せる(たとえば着替えとかも)つもりで書いているのに、あれでは話しがブツ切れになってしまう。どれだけ滑らかに進行するかは、基本なのに。初日は、暗転の中でセリフを話す、という有り得ないことがあったので、すぐに止めてもらった。案の定、「なんであんなことをするの?」と知り合いから言われる。「私も、初めて見たんよ~~~!」と、半泣き。ラストも、正面きってセリフを言われた。これも数名の知り合いから「あれは恥ずかしい!」と言われる。そう、恥ずかしい。適切な感想だ。とにかく、照明が暗い。せっかくの舞台空間が生かせず、洞窟の中で裸電球を灯したような明かりの下では、芝居も小さくなりがちだ。あぁ~、触りたい。芝居を触りたい。と、心の中の私は首筋を掻きむしる。(笑)アンケートにある感想を読み、好評であったことを知った。またこの手の芝居を見たいというのが殆どだった。嬉しい。実際、この手の芝居を見たくて自分で書いたので余計に嬉しい。打ち上げが思いのほか楽しかった。目の前に、私と同じ気質の方が二人座られてからは、どちらがいかに「てんねんボケ」であるかを競うように、私などは隠し持っていたエピソードを話す羽目にまでなった(笑)このエピソードでも勝負がつかないほど、相手の見合い話はすごかった。今回の芝居について、この二人の方がどう取り組んできたかを聞き、相手を引き寄せて抱きしめたい衝動に駆られた。役に対する思いと理解が私と重なり、そこに行き着くまでの過程は、私がこの物語を創るあの苦悶の日々と似ていた。「荒木瞳は、真壁さんなんですね。あのエッセイを読んで真壁さんに親近感を覚えて、役を理解できたんです」親近感を覚えるのは当たり前で、エッセイにある私と同じおバカなことを彼女はしていた。名刺交換以上に「珍話交換」は威力がある。すっかり彼女と私はお友達。明日にでも会いたくなった。帰る間際に、主役を務めてくれた彼女が私の隣に座り「3ステージ目でやっと千絵のことがわかったんです。これが初日だったら・・・」そういって、すっと私に手を差し出し握手をした。役がまだ抜け切れていないような、力強い感触に、私は自分の描いた登場人物と直にあったような気がした。彼女もまた、あの苦悶の日々を過ごした私の同志だ。追伸今回の芝居は兵庫でありました。大阪で再演すると聞いていましたので、とくに南に住む大阪の方と奈良の友人知人に連絡をいたしませんでした。初日、演出家の方から大阪での公演は無理みたいと言われビックリ。(ToT) あぁ・・・・。大阪と奈良の皆様。全員ではありませんが、ご案内を差し上げることができなかった皆様、ごめんなさい。舞台装置は、「我が家の食卓・日々のフォト」ページに掲載しています。(8/29の欄)
2004.08.31
The Funks & Koutaro のライブだった。夫と出かけ、現地でイラストレーターの一井さんと待ち合わせ。普段はお尻の重い夫だが、数日前KoutaroさんのHPから曲をダウンロードして聴いていたら、夫が「それ誰?」と驚き顔で聞いてきた。なので夫は、ワクワクしながら一緒に来ている。The Funks のメンバーの中には、「音と絵と言葉のコンサート」でお世話になった峰さんもいる。そしてサックス演奏者のS氏。このS氏を通じて峰さんと知り合い、またいろいろな方をご紹介いただいた。メンバーの中にはそういった方々がいる。だから楽しい。いつものライブハウスは、カウンターやテーブルでお酒や食事をしながら聴き入っているが、今回は150脚ほどの椅子がステージに向けて並べられていた本格ライブだった。開演前に峰さんと会う。「峰さん、緊張してない?」。小首を少しかしげて「いやぁ~、全然」と余裕の彼女。年に1度しか舞台に立たず、舞台袖で震えながら呼吸を整えていた私とは大違いだ。毎日のようにステージに立っている峰さんは、やはり場数で鍛えられているのか。2部構成の前半が、The Funks だった。すぐに会場は音楽でパンパンに充満する。大会場では決して味わえない興奮を、小さな会場は満たしてくれる。独り占めじゃなくて、数十人占め。そして森林浴ではなく、音を浴してる。そんな感じだ。後半のkoutaroさんのステージは、忘れられない。聴きながらも、あの歌声が色を染み込ませたようにもう消えることのない記憶として残った。Koutaroさんが肺がんと戦っているシンガーソングライターだと知ったのは、知り合いのHPからだった。そうして彼のHPを開いてみた。その苦悩の日々を綴った文章を読みながら、痛みを覚えた。全てを読んでいくにはあまりに辛すぎて、途中で読むのを終えた。画面を完全に消してはいないのに、真っ黒になった画面を見つめているような気がする。目を閉じて、スピーカーから流れる歌声に耳だけを傾けた。文章から知る現実の痛みに目を伏せてしまった私を、元気つけてくれるように、「生」を綴った歌声は明るかった。初めてこのステージでKoutaroさんの生の歌声を聴いた。「みかん色のたそがれ」から始まった。こんな声があるんだ。ハスキーな声にある独特の粒子を、感性で触れているように体中に広がる。引力を足元じゃなく、目の前で歌っている人に感じた。引き込まれていくような、包まれていくような、なんて温かい歌い方をするんだろう、咽喉元から熱いものが押し上げてくる。歌に乗せてくるこの人の思いに深さは、何度も私の中をすり抜けて、忘れない箇所に沈んでいく。「川の流れのように」を歌われたときは、音楽の印象とは違うものも少しだけ感じた。芝居や映画を見たときの感動に近いものがあった。わずか数分の間に得るには不可能に近い感動を、私は -たぶん、他の方々も- 覚えていた。斜め向こうの男の人が、しきりに涙を拭いている。こんな声が体に宿れば、歌うのが宿命なのかもしれない。素晴らしい絵画を時間内に見てまわるのは、瞼を閉じる時間さえも惜しい。そんなふうに耳を、体全体を傾けて聴いていた。絵画と違い、音は時間とともに流れていくから「この時」が惜しい。忘れないために、しっかりと「この時」の中に立ち止まった。Koutaroさんのトークは友人にまつわるエピソードが殆どで、笑い飛ばしながらもどれだけ彼が友人を好きでいるか分かる。言葉も歌も、人肌を感じる。なんて温かい。生きることをその歌声で放ちながら、人の心に住まわせて、私はその受け取ったものを知ろうとして必死になった。ありきたりな言葉だけど、その言葉の意味をまだ私は知らない。どうしてそんなに強いんだろう、と。会場を出て峰さんに挨拶をした。彼女の目は涙で赤くなっていた。同じステージに立てて幸せだと言っていた。客席で聴きながら、私も同じことを感じていた。Koutaroさんは病だけではなく、生きることにこそ向き合っているように思えた。あの歌声は、「生」そのものだった。それに溢れていた。芸術家は、伝えるばかりでなく、与えるものだな。あの時間を、ずっと思い返している。
2004.08.14
* ちょっと長いですよ^^「音と絵と言葉のコンサート」の打ち上げだった。参加は、音と絵と言葉の担当3名。その前に、一井さんが出展している「平和美術展」へ足を運ぶ。この美術展にはお世話になっている中田進氏も出展しているので、ちょっとワクワクした。こんな時に誰かと偶然出会って「あれ?真壁さんどうしたの?」と聞いて欲しいもんだ。「いえ、ちょっと知り合いが二人出展してますので、ほほほ」ほほほ、とは笑わないにしても、鼻梁にのっかっているメガネをそっと上げただろう。いや、メガネもかけてない。とにかく、嬉しかった。この二人の絵をのぞいていえば、今でも目に焼きついたままの絵が、一つある。たっぷりと湿気を帯びた山間を俯瞰して見た、まるで横山大観を思わせる幽玄な風景画だった。なんという絵だ、と瞬きもせず見ていたら、中田氏が「その絵を書いた人」と,ジャージ姿のおじさんを紹介してくれた。私には「好きな顔」というのがある。実際にこの手の顔とお会いしたのはこれで4人目。一人目の人は俳優だった。二人目は和太鼓の鼓手。3人目はギターリスト。そして4人目が画家だった。いやぁ~、あなたでしたか、4人目。と心の中で思った。実はこの日のお昼まで、前日に食べたあのお寿司が消化せず、その間おうどん5本と、イチジクを1個しか食べていなかったので殆ど絶食に近かった。夕食のお店選びは、この丸1日の空腹を埋め合わせる大切な場所となるので真剣だった。ネットでお店情報を集めプリントアウトしたものを持っていって、それを公園で見ながらどこにするか決めた。一井さんもお店の切抜きを持ってきている。二人とも食べることに余念がない。情報は持っていくが「決める」ことが苦手なので、この役どころは峰さんに引き受けてもらった。私と一井さんは「えぇ~~、どうしよう~~」というタイプだが、峰さんにはそれがないと睨んだ。思ったとおり峰さんは、「選ぶ」こと「決める」ことという負担を難なくこなし、おもしろい店を2つ選んでくれた。入ったお店は第2候補の「ロックアップ」お店に入るとオバケ屋敷のような薄明かりに、くねくねとした廊下が照らされている。ジェットコースターは好きなくせにオバケ屋敷が苦手という二人の先頭に立って、年長者だから仕方ないなという理由だけで納得しながら前へと進んだ。扉の前に、手をかたどったものがあり、そこに手をのせると扉が開く仕掛けらしい。一瞬、ローマの休日の「真実の口」を思い出したので用心したが、すんなりと扉は開いた。「ほらね、大丈夫でしょ?」とお姉さんらしく後ろの二人にニッコリと微笑もうとしたら、急に横からプシュ~~~ッ!!という音がして、ギャ~~~~ッと吠えてしまった。あぁ、やっぱりな。後ろの二人は大笑い。あぁ、やぱりな。お店の作りは刑務所になっていた。お店のお姉さんが「連行します」と言って私に手錠をかけた。そうして檻のような個室に入れられた。この手錠をかけられたまま案内されている間が一番恥ずかしかった。ままごとでも、したことがない行為なのに。刑務所をイメージしているわりにはお料理が美味しく、質、量、値段ともに満足のいく内容だ。内容の範囲を内装や接待の幅まで広げたとしても、満足の域だった。しかしも、このお店にはアトラクションがある。刑務所が突如、オバケ屋敷と化すアトラクションだった。照明が落ち、「モンスターが逃げ出しました」とのアナウンスと一緒に、騒がしさと怪しさを盛り込んだ効果音が鳴り響いた。私たちの部屋は板で二つに仕切られているのだけど、その向こう側の扉から「モンスター」という着ぐるみの怪物が入り込んできた。実際に襲われている間仕切りの向こう側のお客より、私の悲鳴は大音量であったかと思う。その時ばかりは自分が年上の「お姉さん」であることを忘れ、あんな奴に捕まったら悲鳴だけじゃあ済まないと二人には申し訳ないが私はテーブルの下に隠れてしまった。実は、照明が落ちたとき「白い」ものだけが蛍光塗料を塗ったように光っていた。そこで私が目にしたものは、一井さんと峰さんの白い歯と白目だった。暗がりの中、歯と白目だけが光っているのは譬えようもないほど怖い。モンスターも怖いが、目の前の二人も怖い。なので私はテーブルの下に隠れた。あのモンスターたちは、仮面ライダーやバロムワンに出てくるモンスターだ、きっと私は連れて行かれる。隠れながら私は幼児返りをしていた。一井さんに聞けば、私はテーブルの下でもギャーギャーと悲鳴をあげていたらしい。おかしい。テーブルに潜り込みながら「二人を置いて自分だけ隠れる」という卑怯な行為から、私はいままで培ってきた人格が崩れ落ちていく思いに苛まれていたのに。どうやらモンスターは行ってしまったらしい。のそのそと私は下のほうから顔を出した。「卑怯じゃないですか!真壁さん!」という声で迎えられたらどうしようと思ったが、やれやれ二人はそんな心の狭い人たちじゃあないらしい、と安心してたら突然モンスターがやってきて私を襲った。キャ~~~~ッ!という悲鳴と一緒に出そうになった言葉をここで書くのは恐ろしい(笑)心と体がお店のサービスですっかり満たされた私たちは、機嫌よく店を後にした。近いうちにきっとまた来ると思う。すでに劇団の後輩と行く手はずは整えている。次はカラオケに向かった。カラオケ・・・ 去年は行っただろうか。その程度だった。部屋に案内されると、峰さんはマイクを、一井さんは部屋の照明を調節した。自分の仕事の持ち場である「音」や「雰囲気(一井さんは内装も手がけている)」をまずチェックするとは・・・。持ち場が「言葉」である私は、ニクイな・・・と心の中で呟いた。ピアニストの峰さんは時々ステージでも歌うらしく、その声はなかなかのものだった。光のようにすーっと伸びていく美しい声をしていた。一井さんには「引き下がらない声をしてるね」と、下手な形容をしてしまったけど、なんていうんだろう・・・、藤圭子、吉田美和系の存在感のある声をしていたので驚いた。「とても画家とは思えない!」というフレーズが気に入り、何度も口にした。3時間休みなく歌い、あっけないほど時間は早く過ぎていく。最後は、サンプラザ中野の「ランナー」でしめたが、脳天を宙に打ち付けるようにして声を出したら、その拍子に胃腸も飛び出しかけたので、一曲を「ランナー」の如く駆け抜け疲労困憊してしまった。しかし楽しい時間だった。これも「音と絵と言葉のコンサート」が成功裡に終わったことへのご褒美かな。劇団を離れたことで集団で得る喜びの場も同時に失ってしまったけど、個人と個人が今回のような形で結びつくことで、新たな「集団」という生を放つこともできるんだと嬉しくなった。それぞれのパーツを持つことで1つになれた面白い「集団」を、これからも転がすことができれば・・・。そんなことを考えながらサンプラザ中野の「ランナー」を歌った。うそよ。(笑)
2004.08.10
新聞を読む。ケリー上院議員の演説に「必要な場合に限って、戦争に踏み切る」とあった。この人も手段として、これを持つ人なのだ。戦争を完全否定する発想は、ない。殺人を「戦争」という言葉に置き換える権限を持つことが「大統領」なのだと、思えてしまう。誰がそれを許してるのだろう。民主党の岡田代表が、訪米先のワシントンでの講演で改憲を主張した。「武力行使を可能にし」と言い、その後に「平和」という言葉で結んでいる。有り得ない。「米国の軍事力なくして世界の平和が維持できない」と言及している。いつ、どの国が「米国の軍事力」と「平和」で結ばれたのだろう。どんなに慇懃に言ってみても「武力行使」と見るだけで、もう爆発音や悲鳴が聞こえてくる。何からだったかな、夫がスペインの話をし出した。学生の夏休みは3ヶ月あるそうだ。社会人も1ヶ月ほどあり、平日のお昼休みは2時間。その間、家に帰って昼食をとり昼寝をしたりするらしい。夜は7時ごろまで勤務。夜の遊びも充実していて、劇場や映画館、レストランも遅くまで営業しているそうだ。イタリアの美術品は、見尽くすことができないと加藤周一が言っていた。それほど、溢れているらしい。そういえば、フランスは7割の人が年金だけで十分暮らせて、それを今から楽しみにしていると新聞に書いてあったなぁ。「隣の芝居は青い」というが、これは比べなくてもハッキリしている。普段から人を羨むなんてことはあまりないけど、国となると思いっきり羨ましく思う。
2004.07.31
息子が近くのスーパーで昨日からバイトを始めた。面接時に「笑顔で挨拶できたら仕事なんてできなくていいよ」と言われたらしい。この地域は100~200m毎に大型スーパーが点在しているので非常に競争率が激しい。だから「笑顔で挨拶」が店の看板となり、重宝されるのがよく分かる。すぐに採用。お肉売り場に配属となった。初日、3時間勤務で帰ってきた息子は、部活よりよっぽど楽だと言って機嫌がいい。そうしてこう言った。「お母さん、あそこの店でお肉買わん方がいいよ」!Σ( ̄□ ̄;)わずか3時間の間に「買わない方がいい」現場に遭遇した息子。そういえば昔、畑でホウレン草を作り出荷しているおじさんが「うちのホウレン草食べたら死ぬで」と言っていたのを聞いたことがある。なんでも、出荷するのと自分達が食べるのを別にしているらしい。(この違いを聞くのは、怖い)同じ頃、どこかの航空会社のパイロットも「うちの飛行機には乗らないほうがええで」なんて言っていたと、授業中教師が冗談話として聞かせてくれた。「消費者と安全」について書こうとしているんじゃあない。根はマジメな私だけど、こんな話を聞くとどうしても笑いの方に誘われる。そういえば大阪というところはやたらと「死ぬ」か「死なないか」を基準にして話すところがある。保育所に子どもを預けていたとき、誤って子どもに怪我をさせてしまったと保育士が保護者に詫びた。保護者の方は「死ねへんかったらいいですよ、気にせんといて」と、笑って帰っていった。劇団では落ちたものでも貧しさゆえに「死ねへん、死ねへん」と言いながら、団員は拾って食べていた。それを捨てようものなら「貧しい国の人たち」という言葉を引き合いに出して、えらく私は怒られた。衛生面の話をするのもまずい。「貧しい国では・・・」と怒られる。ペットボトルも平気で回し飲みする。いくら仲が良くったって、それはちょっと苦手なので断ると「死ねへんやん」とくる。そりゃそうだけど。ある程度のことは水に流して済まそうとし、また大らかに乗り切るようなこの「死ねへん」という掛け声を聞くと、そんなもんかなと思ってしまうのもまた大阪人なのか。「死ぬ」とか「死なない」が、事を進める上でのノリの言葉として交わされる今と、紙面の上をふっと見比べてみる。
2004.07.28
フィリピンのことを思う。人質の解放、それ以前に撤退表明を聞いた時、命が重んじられたんだと嬉しく思った。それと引き換えに「テロに屈したフィリピン」と、批判を浴びた。解放された方の喜びの写真の傍で「テロに屈した」と、アメリカやオーストラリア政府側からの遺憾の記事が掲載されていた。今、アメリカか武装グループのどちらをテロと名づければいいのか分からぬ状態の中で、ファルージャを空爆し、1月余りで女性や子どもを含む80人を殺害した側が、歯向かう側を「テロ」といい、それに「屈するな」という。この地球上で「殺していい側」と「殺されてもいい側」を、善と悪との二元論思想でまたしても切り分け、若い世代がかつて経験したこともない「戦時中」の、記録にあるあの中へ引きずり込まれるのではないかと、危惧する。私たちはそれを過ちと教えられ教育を受けてきた。その愚かさを教えられたので、それが善に発展する思考回路は断たれるまでもなく、もともとない。この現実がかつて学んだ愚かな歴史をなぞるように、事柄だけを変えて未来に記されることは、それを学んできた私達自身の恥に思える。何故、止められなかったのだろう。国と国との歴史が背景にあるのは、韓国の例をとってもよく分かる。しかし、現代に生きる人間が人質となった時に、その歴史的な背景を引きずられたのなら堪らない。息巻いて「テロに屈するな」と言っているが、誰の命を盾にして言っているのだろう。人質になった本人が「テロに屈しないでくれ」というのならまだ分かる。人質をとられた際のこの合言葉が、その国への脅迫めいた言葉に聞こえてならない。スペインは撤退した、フィリピンも。また9月以降撤退と表明する国がいくつかある。平和憲法に違反した多国籍軍への参加は、アメリカに対する根強い怯えの表れ。たとえ世界の流れに逆行しようとも、日本はアメリカに対して、始まることも終わることもしない。追随あるのみ。「屈するな」とは、こんなときにこそ言いたい。
2004.07.26
「音と絵と言葉のコンサート」が終了した。企画は好きだけど、いざ段取りするとなると、不安で気重になり、本番当日は「どうしてこんなことを始めてしまったんだろう・・・」と調子に乗ってしまった自分をなじりながら、終われば「なんて感動的なんだ~!」と恍惚になる私。実際、朗読が終わって峰さんのソロになってからは、涙が溢れてきた。それをカウンターにいたお店のおばさんに見られ「泣いてるの?」と言われた時、今年一番の恥ずかしい出来事としてランクインしてしまった。たとえば音や絵や言葉の中で一つでも借り物があったとしたら、今回のこの企画は、自分達が「生み出した」のではなく、「自分達なりに表現した」企画として、いつか振り返るとき、同じような記憶の束の中からそれを取り出すに違いないと思う。だけど、今回のコンサートは違った。自分たちの創った作品の中で、他にない1時間を何度も過ごすことが出来た。他にない時間は、自分たちの過去にもなかった。私達が生み出した時間だった。真っ白から生まれた「有」を、三人で過ごした大切な時間。それをたくさんの方々と共有できたこと。嬉しくて、寂しくて、仕方がない。2回目のステージが始める前にピアニストの峰さんが「ボク・・・」についての自分の理解を話してくれた。沁みいるようなことを言ってくる。2年ほど前に出会った彼女だが、今回の作品を通しての出会いを、より深く感じる。「絵」に抱いた強烈な印象は他にはないと思っていたけど、峰さんは「音」という分野で絵本の新しい領域を私に見せてくれた。書いたものに対して、絵で、音でイメージを創り出してくれる人たち。私にとっては初めてだった。終了後に、興味をそそる人がいた。お店の方だが、ステージの最中ずっとカウンターの隅で泣いていたらしい。「失礼ですが、どのあたりから泣かれていたんですか?」「こりすのクックからです」「ギョっ!!」(てっきり、「ボク・・・」だと思った)この人が、紙芝居を見ながら涙されていたというのなら、別に興味はそそられなかった。が、見ずに聴覚の刺激だけで涙を流したというので驚いた。何が彼女の感性に触れたんだろう。ストーリーなのか、音楽か、朗読の調子か、はたまた雰囲気に酔ってしまったのか、もしかして私的なことで涙を流し、見られたことの恥ずかしさから「ステージのせいで・・・」とホラを吹いたんだろうか。いずれにせよ、「終わっちゃった!」という感動の合間を縫って、ビクンッ!と反応してしまった私。「あのぅ~、そこんところを詳しくお聞きしたいんですが・・・」の一言が、人目を気にして言えなかった。「音(オン)」イコール「 涙」の実例を他で見聞きしたことがあるので、ちょっと聞いてみたかったなぁ。一つの終了に感無量と噛み締めながら、一つの出来事に大きく振り返り「えっ、ナニナニ?」とシッポをふってついて行きそうになる。コンサートが終わって少しばかり寂しくなったけど、まだまだ頑張れるかな。シッポをふりながら、そう思った。
2004.07.25
22、23日と東京にいました。これはそのメモ。☆感動・ガマ王子 VS ザリガニ魔人(演劇)をパルコ劇場で観た。 観客として、書き手として、私は嬉しくなって泣いていた。・新藤兼人さんが、歩いていた。「お願いです、記念にその見事な白髪を1本、私に下さいませんか」2度あることは3度ある。次回こそは、これを言おう!・いわさきちひろ美術館で、ちひろさんが座っていたソファーが館内にあったので座った。過去にちひろさんが座り、いま私が未来という先端でこの椅子に座っている。時間という線の中でちひろさんと繋がっている不思議さを、座りながら味わった。・荒川放水路をみた。人は、いろんなものを残す。残したものが、その時の意味を失わずに今なお有り続けている。素晴らしいって、こんなことを言うんだろうな。・島倉千代子の「ここが~ここが~二重橋~♪」を見たこと。☆驚き夜でもそこらじゅうが明るい。月は、どんなふうに見えるんだろうか。☆意外こまつ座の事務所を見た。 なんとなく古びた映画館みたいな所を想像したけど、近代的で立派なところだった。そういえば、以前所属していた劇団は、入団したいと思ってきた人が、しばらく玄関を見て帰って行ったそうな。玄関で、劇団を判断してはいけないよ(笑)☆ショックと贅沢新幹線で切符を買ったらグリーン車しか空いてなかった。(ToT) しかしゆったりした座り心地に気分も優雅になる。はて、周りはさぞお偉い方々が座られてるんだろうなぁ~と見渡したら、一般の指定席を買い損ねたドン臭い人という表情が、顔から滲み出ている。グリーン車というのは、ドン臭い人が座る席なんだぁ~。一部を除いて。盛りだくさんの二日間だった。(*^o^*)/
2004.07.23
(本来、これは食卓日記用なのですが、分量が多くなりましたので、こちらにしました)午前中に庭の手入れを少し。我が家の玄関を人間で言うなら、無精ひげを伸ばし、夏を一層むさ苦しいものにしている着た切り雀のムサ男、ではなかろうか。ご近所さんのお庭はすっかり夏服に衣替えをしてるというのに、我が家は今年の冬を、どことなく引きずっている。なので私は、麦わら帽子をかぶり、はさみを持って、夏の日差しを一身に受けて作業した。その場その場に応じて、尊敬する人も変わっていくもんだなぁ。今日は、植木職人と農家の人に尊敬の念を抱く。今夕はクラッシックコンサートなので、早めの夕食を外でとった。「神戸にんにくや」ここのガーリックトーストの美味しいこと。しかし、運ばれてくる料理は、家族5人の箸がいっせいに伸びるため、早いものは2分ぐらいで無くなる。マグロのカルパッチョがそれだった。西本智実・指揮、ベートーベン「皇帝」、チャイコフスキー「悲愴」とくに「悲愴」は素晴らしかった。音の波に全神経を漂わせたら、そのまま「悲愴」という大海に心地良く沈んでいくようだった。豊かなものに浸る時間は限られている。音楽がやむまでの、なんて優雅なひと時。ただ前の人の頭が、指揮棒のように激しく振られながら眠っているのには驚いた。最初は音楽にのっているのだと思っていたから。帰宅するとポストの中に本が届いていた。「思い出のちひろ」いわさきちひろは、いろんな意味で思い出深い。とくに、私たちの結婚のとき。結婚式のお金のかけ方について、夫が「いわさきちひろと松本善明は、小さな部屋を花でいっぱいにして、ぶどう酒1本だけで結婚した。ボクの結婚式のイメージはこれなんだ。お金を掛けるからいいものができるってもんじゃない」(花の結婚式という)そう言って、いわさきちひろの「わたしのえほん」を見せた。もちろん知っている。20歳だった私の目にも、花で埋め尽くされた小さな部屋に、この二人の愛という真実をみる思いがした。しかし、160人以上の親戚・友人をどうするの?私は私の幸せな姿をみんなに見て欲しいのよ!と言い張り、厳かな結婚どころか、結局親戚用と友人用に結婚式をわけ、朝から夜中まで私は花嫁衣裳を着ていたというハードな日になった。また式自体、とても良かった。夫の涙を見たのはこの日が最後、それからは欠伸して流す涙しか見ていない。結婚式は派手だったけど、結納はまさに「花の結婚式」のように温かかった。既成の「結納」ではなく、二人に必要なもの、めでたいような物を並べた。指輪、昆布、するめ、かつおぶし、はんてん、靴・・・ と、いろいろ。最後は誓いの言葉を書き、それを読み上げた。「花の結婚式」に劣らず感動的なものだった。しかし、その日の二人の写真が夫の友人によって写されている。まさか誓いの言葉を、この友人を前にして読み上げたとは思えない。それを読みながら、私は涙ぐんだのだから。じゃあなぜ、写真が残ってるのか。この行事が済んで、たまたま友人が現れたというのだろうか。それも北海道から。考えただけでも恥ずかしいので、無理に思い出さず、謎として私は放ったままにしている。
2004.07.15
月に一度、朝日新聞で大江健三郎の文章が掲載されている。これを私は楽しみにしている。文章を外見的に判断するならば、「言葉遣い」や「リズム」、「平明さ」が、それではないだろうか。人を外見だけ判断してはいけないというが、文体の外見がまずいと、なんとなく内容まで興味が誘われない。読む意欲が萎える。大江健三郎の文章は容姿端麗な外見を持ち、その内面は「静」で、本質的なものが迫ってくるように綴られている。外見、内面ともに贅肉がないというのも美しい。こんな人が父ならと思う。(話の方向が違うけど。笑)ちなみに毎週木曜掲載(夕刊)の三谷幸喜が兄なら・・・。(笑)私の内容に、どう影響が施されたのかと楽しんでみる。
2004.07.14
(個人・または関係者のための内容です)「音と絵と言葉のコンサート」2日目。新作「ボク・・・」の感想で、ハッとするものがあった。「ボク」の心を通して感じること、それは命の輝きなのだとテーマを置いていた。なのに「死」を感じさせると、ある人が言う。「ボク・・・」は、日常の何気なさに不可思議なものを感じる子どもの感性を描きながら、否定も肯定もせず、じっと明日を見つめる姿を物語った作品。ボクの心を捉えたシーンはその詳細を一切省き、「文」もシーンの断面を切り取ったところのみを言葉としている。絵は、意図してモノトーンでシンプル。言葉も絵もでしゃばらず、あくまで読み手の心のイメージを喚起する余白を、私は創りたかった。前作の反省も込めて。ボクの心のあり方というたった一つのもの。この世には何億という「ボク」がいて、その一人一人が皆地球上で粒だったかけがえのない「命」だと、そう私の根底にあるテーマを描いた。なのに何で「死」なのか。その人に反抗的な聞き方をしてみた。もちろん、コンサートに来るまでは、そんな風には思ってもみなかったんだそうな。音楽という「音」と、朗読という「音」の二つが合わさったとき、ボクの心の中にある不安が表現されたようだと言っていた。絵本の中には確かに、「死」も描いている。けれど子どもに明確な死生観なんてものはない。子どもは死を意識して捉えていないから。絵では、ボクが感じる対象をボカシて表現している。その部分を、読み手の想像の余地とし、意図した手法で描いた。そのボカシの部分が、ボク自身の「不安」を表しているように映るらしい。存在の不確かさに対する不安。あぁ、これは私の不安だ。絵本に限らず「作品」と名のつくものは、その瞬間から作者の手を離れ、受け手のものになる。だから心に湧き出た感情の制約などできるはずがない。「その感じ方は間違いだ!」なんて言われようものなら笑ってしまう。「生」を描いたつもりが「死」と言われてムッとしたものの、様々なものがそうであるように、「死」も不可思議なものとして捉えるボクに、子ども特有の鋭い感性をみたそうだ。存在そのものが「生」であるボクに、「死」はそのまま不可思議なものとして映っている。なんの結論付けをすることもなく。受け取り手の感性があってこその、深い感想だった。作品が音と絵と言葉の間をくぐり抜けて、世界を大きくしている。たくさんの人たちの感性で引き取られるその作品の意味を、言葉にして、今度は自分が受け取りたく思う。
2004.07.11
窓から暑さを、観賞する。喧しいほどに、暑い。熱をもった大地からは、ゆらゆらとしたものが立ち込めて、その中に小さな命の消滅が紛れ込んでいるのではないかと、ふと思えてくる。そんな殺気立った暑さだ。クーラーのかかった部屋にいて、直接この暑さと対峙しているわけでもないのに、私の勤労・学習意欲はこのゆらゆらの中で蒸発してしまっている。で、犬を散歩に連れ出した。アスファルトがフライパン状態なので犬の足元を気にしていたら、20cmあるミミズが大地でのた打ちまわっている。3cmほどだったら葉っぱで摘んで助けられるけれど、ちょっとアレはグロテスクな代物だったので、見殺しにして走って逃げた。ミミズは能面なので、蛇より怖い。それを見て、先日、焼け付くアスファルトに体が張り付いてしまって、もがき苦しむカエルを横目に「ひえ~~~~!」と声を上げたことを思い出した。聞こえるはずのないカエルの断末魔が鼓膜に響いてくるようで、これまた走って逃げた。ツツツッと歩いて草むらに目をやれば、小さなトカゲが同じ年恰好のトカゲに食いついている。じゃれてるのかと思ってじっと見ると、どうも刺し違えた後のようだ。こんなに暑くさえなければ仲良く遊んでいたかもしれない。それほど可愛らしいトカゲ達だった。近くにある草木は焼かれたように元の色彩を失くしている。茹だるような暑さの中、2~3分歩いただけで見てしまった小さな悲劇。 動物も大変だけど、外で働く人たちの流す汗を思った。生活するって、大変なことなんだ。心と体が健康でも、生きていくって大変なことなんだ。熱い風に自分を晒しながら、なんてことはない自分と、思いを地球の隅々にまで馳せて、たくさんの命のことを考える。ため息が、出た。帰って犬に水をあげた。草木にも水をあげた。私も、「生活」をした。暑かろうが寒かろうが、「生活」するにはなんら問題はない。本を読んだ。私の安泰とした生活を打ち砕くような内容が綴られている文字を目にしながら、私の「生活」の中にそれらを落として考えることをしなければならない。今はまだ知る条件にない様々なことは、目と耳で知っていかなければいけない。相変わらず外の暑さが喧しい。外気に触れ蒸発しそうな自分の意欲を押し戻して、こんな暑さにへこたれてしまった自分の世間に対する申し訳なさを、ちょっとやる気に変えてみた。「暑いよね~」を外から眺めて言ってるうちは、頑張らねば。それでも・・・ 暑い。
2004.07.07
私はいつもロングスカートをはいている。その訳は、拙著「てんねんボケのはな」にある。「・・・一番身近な夫にも、せいぜい足について『農家の人のように逞しい足だ』と讃えられるけど、『労働』を抜きにして『足』だけを手に入れてしまったその後ろめたさから、私はいつもロングスカートの中にその立派なものを隠している」隠しているという感覚は、はいているというそれよりもピッタリくる。このロングスカートをヒラヒラさせながら自転車に乗るものだから、よく知らないおばさんから声を掛けられる。「奥さ~~ん。スカートが自転車に巻きつきそう~~」「は~~い!」もちろんこれは生返事。そのままヒラヒラと立ち去るのが常。何事も体得しないと分からない私に、とうとうその学習の場がやってきた。買い物の帰りだった。いつものように競輪選手の如く自転車を飛ばしていると、急に腰が千切れたように痛み、そのまま地面に打ち付けられそうな勢いで引っ張られた。グエッっと声がでた。ハンドルから手が、ペダルから足が、離れた。ビリビリ~~ッ!という引き裂かれた音。もう自転車は動かない。視界は道路から、青い空に変わっている。落ちるっ!ヒラヒラの緩やかなスカートがタイトのように体を締め付けて、足の自由さえも奪ったが、その「逞しい足」はタイトスカートを引き裂いてでも、ふんっ!と地面に足をつけ私を支えた。が、1秒後には倒れた。それでも衝撃を免れただけありがたい。私の目線のすぐ傍にあった車輪には、ヒラヒラのスカートが巻きついていて、体を覆っている以上に巻きついている部分が多かった。1:4の割合で、糸車のようにスカートを巻きこんだ車輪は、私を脱衣場に立たせているかのように下半身をスッキリさせている。この一瞬は「生き恥」で、200m先の我が家までの道程は「生き地獄」を思わせた。自転車を担いで帰れないことはないが、それと引き換えに私は今までの私を捨てて「あれがオバカな真壁さんよ」と、一生ご近所さんから笑われるのを覚悟しなければならない。それほどに、下半身を覆っている布は少なかった。いやだ!そんなのはいやだ! そんな目に遭うくらいなら、いっそ気を失ったフリをして救急車で運ばれた方がマシだ! 私は本当にそう思った。これは素晴らしいアイデアだった。今こそ元役者の腕の見せどころ。そう奇妙な安堵感に包まれたとき、突然、走っていた車が止まって中から女の人が駆けつけてくれた。「大丈夫ですか!?」地獄に仏の諺が、初めて自分のものになった。これで救急車の案は消えた。ありがたい。女の人は、車輪を浮かし、ゆっくりと丁寧に巻きついたスカートを外してくれた。「破れてしまいましたね」。巻きついた先端を見ながら、女の人はそう言った。「ありがとうございます!」何度言っても足らないが、語気を強めてお礼を言った。女の人がニッコリして、自分の車に戻ろうとしたとき、ものすごいスピードで私の頭は回転しだした。何を聞こう!名前? そんなの聞いても仕方ない。住所、ダメダメ覚えられない。電話だ!電話番号なら覚えられる!偉い!彼女の背中目掛けて私は叫んだ!「あの!せめて電話番号だけでも!」まだ何も聞いていない先から「せめて」と言ってしまったのには驚いたが、「あらためてお礼に伺いますんで!」と付け加えたことで、それは薄れたはずだった。本当に、浦島太郎のカメの気分だった。カメが「竜宮城へ・・・」といった気持ちが痛いほどよく分かる。「このまま帰してなるものか!」と、熱い感謝が恐ろしいほどの執着に変わって、目つきまでもが変わった。「いいえ」そのまま彼女は車に乗って、バックミラー越しに軽く会釈して行ってしまった。私は、車が見えなくなるまで頭を下げた、破れたスカートを地面に垂らしたまま。
2004.07.02
日曜の朝は、山のふもとにある無農薬野菜を買いにいく。どれもたっぷり入って1つ100円。農家のおじいちゃんとおばあちゃんの二人が、畑で採れた野菜を納戸のような小屋で売っている。「よう来てくれはりましたなぁ」奈良に来てからの4年間、こうやっておばあちゃんは私を迎えてくれる。そして帰り際には、いつもおじいちゃんにこっそりと私にお土産を持たしてくれる。「これ、持っていっておくれやす」何故かお年寄りというのは、いつもこっそりと何かを持たせてくれる。劇団にいたとき、長老の演出家が、サササッと私の手を握り、飴玉を持たせてくれたことがあった。大人だった私は驚いたが、嬉しさはそれを増した。「ありがとうございます!」と飛んで跳ねたら、もう一つサササッと私の手の中に飴玉を忍ばせた。祖母は、よくお金を握らせてくれた。いらないと断ると、顔が梅干のように力強く萎む。その顔で怒ってくるから怖かった。だから貰った。こっそり何かを握らせてくれる瞬間に、懐かしい時間を見て、私は佇んでしまう。「与えてもらう」ことばかりだった、あの頃。こっそり貰うのは、子どもの特権だったかもしれない。その後には必ず「内緒やで」と囁かれ、私はそれを「あんたは特別なんやで」と、調子よく訳していた。「また来ておくれやす」都会では耳にしないこんな優しい言葉も、私の記憶を逆戻りさせる遠くからの囁きに聞こえる。今日、おばあちゃんは、そっとトマトを袋の中に押し込んでくれた。「ありがとう」と、子どものように言ってみる。私の中の変わらないものが、ふっと喜んで顔を出した。
2004.06.27
なんとなく、韓国という国を世界地図で見てみた。もちろん、北朝鮮の隣にある。実際にこの目で見ると、昨日の「胸が張り裂ける・・・」の言葉も、複雑に聞こえてくる。隣国の事情は、他人事ではなくて、目に見えてのアメリカの抑圧に、自国を重ねてみた。だけど、「それでも」という思いは変わらない。弱国は、国という事情のために人命を犠牲にして、派兵という言葉の下、人命を強国に従わせる。自国を守るという手段が、強国に従うことによってでしか果たせないのなら、アメリカは弱国にとっても精神的な占領軍と言える。「胸が張り裂ける・・・」のは、自国の立場に苛まれての言葉かもしれない。辛い。とても現代を生きているように思えない。歴史の一番の汚点を、切り取ってきて、今の時代に貼り付けて見ているようだ。アメリカの報道はかなり厳しく規制されているらしい。メディアが情報を買わないので、ジャーナリスト達が命を賭けてでもという思いに至らないらしい。(森住卓さんが言われていました)判断材料がなければ、偏った情報に操作されて、恐ろしい虚像が作られていく。25日からアメリカで、マイケル・ムーア監督の「華氏911」が公開される。何かが、変わるだろうか。
2004.06.24
拉致された韓国人が殺害されたと、記事で見た。そのすぐ近くにあるノムヒョン大統領の談話はこうだった。「不幸な知らせに悲しみを禁じえない。本人が絶叫する姿を思うと胸が張り裂ける。罪の無い民間人に危害を加えることは断じて許さない」不思議な感情の湧き方をする人だ。この言葉だけを読むと、まるで拉致など知らず、殺害報告を受けた後で事の詳細を知ったかのように聞こえる。絶叫を思い描くだけで、その胸が張り裂けるほど苦しくなると予測するなら、自分だけが彼を助けられる特権があることに泣くほどの喜びを感じて、胸が張り裂ける前に全力を上げて助ければいいものを。暴力を振るうものを孤立させなければ、永遠に平和は来ない。追加派兵は火に油。暴力を世界に認めさす行為。また、この件に対するブッシュのコメントを見て、日本人でありながら、この訳された言葉は理解不能だった。虐殺者が「屈しない!」と言い、「平和と民主主義を築くためにイラクにいる一般市民に対するテロ行為を非難する」と言う。この世の不思議を思わせる言葉に、あらためておののく。「もし・・・」と、思ってしまう。もし、ブッシュが9.11を戦争と言わず、犯罪と言ったなら。もし、ブッシュが戦争を起こさずにいたなら。どれだけの命がここにあるだろう。その命が奪われたために、これから生まれるであろう命さえもなくなった。代わりに憎悪が生まれた。その憎悪で、また一人殺された。その家族から生まれた憎悪。平和はほど遠い。その根源を絶たなければ。
2004.06.23
日本ペンクラブ主催のトークシアター、渡辺えり子の講演「非戦の心」に出かけた。去年、東京で行われた「イラク戦争に反対する演劇人の集い」に参加し、「生きること」を大前提として舞台で表現する私達にとって、命を脅かす行為は決して許さないとの思いを、出演者達がリーデングという形で訴えた。イラク戦争が始まったとき、渡辺えりこが篠原久美子と一緒に国会議事堂に出かけて抗議したことを新聞で読み知った。いてもたってもいられなかったらしい。小泉さんとブッシュに「戦争をやめてほしい、それが無理なら子どもだけでも助けてほしい」と手紙を書いて送りつけたそうだ。彼女は湾岸戦争のとき、爆弾の下で千切れ飛ぶ子ども達の手足を想像した。なぜ、大人の自分はこの戦争を止められないのだろうと、虚しさが苦しみに変わる。イラク戦争が始まり、それでもまだ自分は戦争を止められないでいる。その苦しみを彼女は舞台で訴えていた。戦争という愚かな事実の跡を、実際に体験した人からの話を聞き、本を読み、苦しみながら自分の中に落としていった。そうして知り得た事を自分の肉声で伝えていく。今日、私はそれを聞いていた。湾岸戦争のとき、私も空から落ちるミサイルをテレビで見て、映画でもドラマでもないこの映像が実際のものだと認識すると同時に、その空の下で起こるこの世の悲惨をただ見ているだけの自分に、激しく問うた。何をしよう、どうしよう、どうしたらいい。それからすぐ、劇団を退団した。まず、子どもを守りたいと思った。子どもの傍にいたいと。湾岸戦争で劇団を辞め、保母資格を取るために、労働組合に勤務して、私は学童保育の指導員となった。最終的には、ピアノのテストが5点足らなかっただけで落ち、近くの保育園に就職が決まっていたのに行くことが出来なかった。今から思うと、湾岸戦争から保母への飛躍の極端さに驚くが、でもあの5点を取っていたなら、私は今ごろ保母なのかしらと妙な気にもなる。だけど、あの衝動が私の「戦争を止める」という精一杯の発想だったのだと思う。実際に、何もできはしなくても。今も、戦争が起こっている。この戦争も止められなかった。渡辺えり子は、子どもはみんな非戦・反戦なのに、大人になると好戦的になる人がいる、と言った。どうしてなんだと。「育ちあい」という言葉は、学童保育の指導員をしている時に学んだ。子どもは子どもの中で一つの大切な存在として、他者と自己を認め育っていく。いつから大人は他者を、たった一つの自分と同じ大切な存在として見れなくなったんだろう。その歪な変化に気づかない自分自身の野放しが、どれほど多くの他者を苦しめるか知る由もない。突き上げてくる怒りを、今度は保母としてではなく、書き手として伝えていかなくてはいけない。指導員として学ぶことは多く、あの時間は決して無駄ではなかった。やはり命が身近にあったから。
2004.06.19
文を書いて、それが絵で表現されたとき、そこはレストランだったのだけど、目が潤んだ。これを譬えるなら、子どもを生んで初めてその姿を見たときの、愛おしさを想い出す。私の心を、絵で描ける人がいる。私の気づかなかったことも、彼女は自分の心のひだで捉えて、見る人を喚起させる。絵本に、曲が入った。通り過ぎない音をつくる人。17日、2時40分。曲が流れる前に何となく時計を見たのは、この瞬間が特別なものだからと、誰かが教えてくれたのかもしれない。曲に対してなんのお願いもしなかったのに、紙の上に描かれたものと同じで、聴きながら喚起させられた。音に誘われて、どこかに連れて行かれたようだった。鼻の奥がツンとする懐かしいあの頃に。記憶の中だけにしまわれた時間が自然とほとばしってくる。素直になれそうな、気分。頭の中にあるものを、見ることが、聴くことができて、この不思議な体験の中で、長いこと触れなかった幼いときの「笑顔と涙と、そして不安」を、私は抱きしめていた。それをまだ抱えている自分に気づく。「ボク・・・」は、私に必要な絵本だった。過ぎた時間の切なさも、これからを見つめる目も、あの絵本の中にあるから、もう私は忘れない。一井さんと峰さんとの世界が合わさって出来た「ボク・・・」。まだ、3人しか知らない。2時40分の出来事。
2004.06.17
憲法が元来の意味を奪われようとしているとき、「九条の会」が発足した。記事を読み、咽喉元がぐっと、ぐっと、熱くなる。日本の知性と呼ばれる加藤周一をはじめ、大江健三郎、小田実、三木睦子、澤地久枝、奥平康弘、梅原猛、鶴見俊輔、井上ひさしの、そうそうたる各氏の顔ぶれに、この会の持たれた意味を、知る。「平和を願い、戦争をしないでいましょう。武器を持って相手を攻撃することは永遠にしない。だから武器も持たない。日本はそれを認めない」憲法はそんな当たり前を、もしものために、釘を刺すように言葉として記している。周辺事態法案、自衛隊法改正案、有事法制・・・。難しい言葉を並べて、分からないよう、知られないよう、ゆっくりと違う法案で外堀を固め、衣替えみたいに「変えましょうね」と、私達に目隠しをさせ耳元で、言う。自分がどの立場にいるか、それぞれが確認するときが、今だ。主体的に生きる人間として、それを判断する責任がある。学生のとき、H先生が授業中に言った言葉を思い出す。喜怒哀楽の中で一番大切な感情はどれだと思いますか?そう聞いたH先生に、生徒達は皆「喜び」「楽しみ」を口にした。H先生は、「怒り」だと言う。怒りが一番湧きにくい感情なのだと、言った。怒りに鈍感になってはいけない。鈍く生きてはいけない。不当なことに対しては声を上げて怒る。そういう感性が大切なのだと。昨日、H先生と久しぶりに話した。私がその話をすると、ケラケラと笑いながら、「忘れてるわ」と言う。でもすぐに、「怒りと言ったでしょう」と、電話口でH先生は言った。その声は、あの時授業で聞いた懐かしい響きを思い出させる。私がずっと大切にしていたあの言葉を、再びH先生の肉声で聞いたとき、涙が出そうになった。命を脅かされそうなこのときこそ、H先生のあの言葉を、私は思い出す。
2004.06.11
いつも7時45分くらいに犬の散歩に行くのだけど、雨が降る日は、犬も私も辛いなぁ。「雨なのに大変ですねぇ」と、近所の人が朝の挨拶をしてくれる。私もペコンと頭を下げながら、「いえ、うちの犬、馬糞をしますんで」とは言わない。40kgあるうちのバーニーズ・マウンテンドックは、犬なのに馬糞をする。また悪臭を放つので近所に申し訳なく、私は1日4回も犬を散歩に連れ出し、近所でも散歩好きの女で通っている。雨の日も風の日も雪の日も、アスファルトがフライパンのように熱くなる日は、ダッシュで草むらに駆け込むので、ご近所の皆さんに「奥さん、偉いですねぇ」と褒められる。犬を飼って4年、私は1日最低4回は外に出ていることになる。インドアタイプなのに。(*・・*)さて、8時半くらいからPCに向かい、前から気になっていた「タグ」という機能を使ってみることにした。それを調べながら恐ろしいほどの拒絶反応が起きたけど、なんとか出来たかな。やれやれ。。でもHTMLってなんだろう? その後は、戯曲の追加を書くために資料となる本をネットで注文。「負け犬の遠吠え」と「死ぬまでにしたい10のこと」。・・・当たるだろうか。(-_-;)暫く新聞を読む。歴史をもっと勉強しなくてはいけない。世界を知るためには、その背景である歴史を知らなければいけない。歴史というのは大部分が悲しい過去なので、どうしても避けてしまうけど、そんなんじゃあダメだなぁ。お昼、犬の予防注射とフィラリアの検査のために、獣医さんに往診に来てもらう。子どもが小さかった頃は、よく半泣きになる子どもを抱きしめて注射をしてもらったけど、ここ数年は、半泣きの犬を抱きしめている。(二匹います)急いで納豆チャーハンを作り、授業参観なので学校へ行く。雨の中を。先月からカメラ付き携帯を持ち、ちょっと嬉しくなったので子どもを写したら娘に叱られた。いいじゃないの、ケチねぇ・・・ 。(^。^)帰宅して掃除。掃除というのは難しい・・・。4時半、子どもをヴァイオリンに連れて行く。私は買い物。年金暮らしの夫の両親に、いっぱい買ってプレゼントしたら喜ばれた。また買って行こう。(*^_^*)こうして日が過ぎていった。仕事をしている気配がない。どうする気だ・・・。
2004.06.08
佐世保の事件の背景には、ネット会話があった。それも、言葉が即画面上に表示さるチャットは、日常の口頭での会話と違い、相手の表情も言葉の抑揚もない。瞬間的に画面に登場した拙い言葉には、それを補う音声という体温が欠けているので、言葉にある含みを捉えることができず、また言葉に柔らかなクッションを添える術もなく、意志を越えて言葉のみが暴走するときがある。昔に流行った交換日記を思い出す。小学校4年生のとき、友達二人が毎日同じ教室で過ごしているにもかかわらず、交換日記を始めた。最初はキャッキャと仲良く交わしていたが、次第にノートを渡す互いの顔が硬直しだし、最後には絶交にまで至った。ノートにはこう書かれていた。「お店のお菓子目当てで私の家に遊びに来るのはやめてほしい」こう書いて寄こした彼女は、お菓子屋の娘だった。もちろん書かれたその女の子は、お菓子目当てで遊びに行ってるわけじゃないと、私に訴えてくる。黙って聞くしかなかったが、私はその文面を見ながら、子どもながらに「怖いな」と思った。お菓子屋の娘は、ミっちゃんという。どちらかというと寡黙で、喜怒哀楽も控えめだった。ただ責任感が強く正義感にも満ちていた。だから不当なことに対しての怒りは、普段ない彼女の顔をのぞかせる。そんな時、彼女の表情と音声は、鋭い言葉をも相手の心に届かせるその道筋を作っていた。だから伝わった。その場面だけで、ミっちゃんの気持ちも分かった。しかし、ノートに書かれている言葉の裏に、彼女の表情は見えない。もしかしたら、食いしん坊ねと、オドケているのかもしれないが、読み取れない。だから、怖かった。交換日記には、消しゴムがある。そうして書いた文章をいったん冷ますという、時間がある。何度も読み返し、相手の受け取り方を想像するという時間も。彼女達の交換日記は、かき消したあとでいっぱいだった。普段は口下手でも、キーを打つ手は滑らかで饒舌になる人がいる。画面というカーテンの影に隠れて話せば、面と向かって言えないことも、密室という人目に触れないこの空間が自分を守ってくれるように、言葉も人目に触れずその安心の中で勢いを増す。言葉が、時間をかけずに流れていく。間違っても消せなくて、口に出して「ごめんね」を言うのが恥ずかしいから表情で伝えようとしても、画面の中での会話は温もりのある声と表情を閉ざしている。彼女達が画面で使う言葉も、記号のようだった。爆発音や丸みのない尖った骨みたいな言葉。単語の羅列。そういう言葉で培われていく人格の行方。「バトル・ロワイアル」になぞらえた子ども同士の殺し合いを、女児はHP上で書いていたそうだ。この映画を何度も予告で見、ストーリーを読んでみた。この監督は「命の大切さ」を謳っている。本当にそうだろうか。「逆説的な捉え方をしてほしい」と、言っていた。直接的な見方をする子どもへの配慮は、その言葉にはない。殺し合いのゲーム、という筋立てではなかったか。流血が先で、命の尊さは後付けされた意味のように思えてならない。子どもは、本に書かれていること、映画に描かれていること、大人がしゃべることに、正しさを確信している部分がある。正しいから本になるんだ、映画になるんだ、と。竹村健一氏の「ハリネズミ論」がいい例で、講演した中学校の先では生徒達が「日本人も武器を持って自国を守ろう!」と言ったそうだ。他所から来た偉い先生が、講壇の上で間違った話をするわけがないのだから。環境が子どもの人格の何分の一かを構築している。少なくとも表現という手段を持った人間は、それへの責任が課せられている。表現は、環境の一部を担い、また子どもの五感に触れるデリケートな領域の環境であるのは、否めない。だから人を殺めることに結びつくとは言い切れないけれど、歪な影を子どもの中に沁み込ませているのは確かなように思える。亡くなった子の無念、罪を犯した子のこれから、そして被害者と加害者の親の悲しみを自分に引き寄せて感じるにはあまりにも痛い。この痛みの元を辿らないと、子どもがこれからも迷い道の中に消えていきそうな気がする。
2004.06.04
「長閑な日の不運な人」を書いたら、劇作家の友人から書きのメールが届いた。>うってかわってって、それは何年も前に私の周りで流通してたジョークですわ。>そのときセットになっていたもので、私が好きだったのは、>留学生に問題を出しました。>「あたかも」を使って短文を作りなさい。>「真壁さんの冷蔵庫にマヨネーズがあったかもしれない」>なんかもう一本あったんだよね。>三本セットにしないと、イマイチ破壊力がないのだが。ありがとうございます。好きです、こんなメール。(u_u*)ノ ポッ・・・なるほど、「うってかわって」は最近流行ったのではなかったのですね。聞いていてよかったです。もう広める準備をしておりましたので。^^ダジャレで一番感激したのが、劇団の後輩が言った、「このぶどう、ひとつぶどう?」でした。これには驚き、すぐ何人かの友人にこの見事なダジャレをFAXで流しました。あと、私のオリジナルですが、劇団で真面目に仕事をしているときに、公演先の後輩から電話があり「真壁さん、ちょっと疲れてるので何か一つおもしろい話しでもしてくださいよ~!」と言われ、「そんな~、急に言われても~」と言いながら、「このみたらし団子、誰かみ~たらしいな~」と咄嗟に出てきました。後輩はバカ受けしまして、私はまたもや何人かの友人にこの見事なダジャレをFAXで流しました。如何でしょう。これはまだ流行ってませんでしょう?
2004.06.03
へろへろになって島根から奈良に戻り、駅前のお店で遅い昼食をとる。あまりに荷物が多いので、事前に夫にお迎えを頼み、駅に到着して「近くのお店でランチしてます」とメールを入れたら、「そっちへ行く」と、自転車で飛んできた。夫も、私とは質の違うへろへろだった。無理もない、私が居ない3日間、ずっと家事を頑張ってきたのだから。特に1日目は不運の連続だったらしい。居眠りしてたら最寄りの駅を通過してしまい、家に帰れば鍵がなく、仕方がないので犬を散歩に連れ出したそうだ。ところが、ご近所さんの玄関先でウンチをされて、ビニールを取り出そうとしたら無かったらしく、代わりに職場のプリントで殆どウンチを手づかみ同然に掴んで持ち帰ったと悲しげに訴えた。その時私はカレーを食べていたのだけど、夫がかわいそうなので黙って聞いていた。他にも不運な話をしだし、こんな不運な日だからこそ宝くじを買えば当たるのだと思って、それを買ったそうだ。(恐ろしい根拠だ)20数年前に1度、5万円が当たったからといって、それ以降ずっと買い続けているのに当たらない不運な男なのに・・・。あとは、何を話してのか全く覚えてない。楽しかった気もするけど、私は昨日食べたものすら忘れるタチなので、会話となると1行たりとも思い出せない職業柄ヤバイ性質なのです。ただ夜に、炊事をする私に夫が嬉しそうな顔を向けてこう言った。夫 「面白い番組があって・・・」私 「うん」夫 「『打って変わって』という言葉を使って、文を作りなさいってのがあって」私 「うん」夫 「ある回答者が(素人さん)『私の兄は、薬を打って変わってしまいました』って書いてるねん」私 「ゲラゲラゲラ(笑)」そうして私が笑うと、夫は嬉しそうに寝床へ消えていきました。なんだかこの話をするために、この3日間を乗り切ったような笑顔を私に向けたので、笑ってしまいました。ただ、この日夫の部屋には蚊が2匹いたので眠れなかったそうな・・・。不運な人。
2004.05.30
拉致被害者家族を支援する会へのバッシングは、自分達の想像力のなさをアピールする大合奏のように思えてならない。人間、「待つ」という自制を強いるその状態を、いつまで保つことが可能なんだろうか。ある日、愛する人が突然さらわれ、生死も分からずに、ただひたすら「待つ」ことだけを強いられた。25年以上も。 尋常でないその期間は、常軌を逸して、描いていた人生はもちろん粉々に砕かれ、自分達が生きることの意味を「待つ」ことだけに費やされた。「待つ」ためには、声を上げ行動をおこさなければいけない。「待つ」ためにも、見つけなければ、探さなければ、いけない。保障も約束も何もなく、愛するものを取り戻すという執念だけが、「待つ」エネルギーとなって、自分達を生かしているのだろうか。想像力は、真新しいところから何かを作り出すことだけをいうのでないのは周知のこと。ひとつの状況を受けて、その後を頭の中でいろいろと展開させていくのも、相手の立場に立って自分だったらと思い描くのも想像の域であるのは、私だけの言葉じゃない。どうやらバッシングをされている方は、一つや二つの想像力に欠けているくらいでは済まないらしい。また想像力に欠けているからと発言を控えれば人としてのたしなみも伺えるが、想像力に欠ける分、旺盛なエネルギーが備わっているようでタチが悪い。中には批判を素通りして、言葉の暴力を振るっている人がいる。こういう人は、何のために登場してるんだろう。バッシングは、25年間以上待ち続けたにも関わらず、いちるの望みが絶たれたことにより、家族が自分の愛する人の「命」に関わることを言及したために起きた。諦めず挫けず、気がおかしくなりそうな人生を投げ出さずに、懸命に生きてきた人たちに対して、たった一度の記者会見の態度が気に入らないからと、今後も苦しい「待つ」を強いられた人に、無責任な言葉を投げつけ、その言葉を背負わせたままどこかに行ってしまった。「どうして私の人生は、こんなにややこしくなっちゃたんでしょうね」と呟いた、曽我さん。故意にややこしくさせられた人生は、もう戻ってこない。その人生を、誰も知らない。ただ、どんなに「ややこしい」かっただろうかと、自分の想像力をかき立てみる。目隠しをされ、連れ去られた人生がどんなものなのかと。「ややこしい」人生の決着どころか、糸口もつかめない方たちの心中は私の想像を絶し、俯いてしまった。その代わりに、「何とか無事に帰してあげて」と願って願ってやまない。こんな「ややこしい」人生を今後もこの方達が続けるのかと、精神的な拷問を受けているのを黙ってみているかのようだ。こんな時に、バッシングの感情は、一体どこからやってくるんだろう。私は想像力がないのだろうか、全く分からない。
2004.05.26
バッハのG線上のアリアを聴きながら、2年前の今ごろに他界した私の恩師・演出家のM先生の葬儀を思い出した。M先生の葬儀は読経ではなくシャンソンが流れていた。生前に故人が最も愛した音楽に、何度もそれを聴いた肉体が、ただひたすら音を沁み込ませているようだった。体が冷たくなっても、鼓膜の振動は音との別れを惜しんで震えるように響いてたに違いない。先生がシャンソンを好きだなんて知らなかった。流れるシャンソンを聴きながら、先生の過ごした時間を共有することができたようで、鼻の頭がツンと熱くなる。そうして私が死んだときには、バッハのG線上のアリアを流そうと決めた。そう思って聴くと、これが私の葬儀の時の音楽になるのかと、感傷に耽ってしまう。2曲目はパッヘルベルのカノン、その次はショパンのノクターンにしよう。モーツァルトは楽しげでどうもいけない。残念だ。棺が運ばれるときはマーラーがいい。劇的だ。演劇人らしくていい。(演劇から足を洗わず頑張らねば!)そうしてリストを作り、通して聴いてみた。 ・・・ 夫が泣いているのが見える。かわいそうに、きっと私は早死にしてしまったのだ。ごめんね、夫。私も悲しいよ。そう思って、ポロポロ涙をこぼしながらリストにあげた曲を聴いた私。一瞬、また不気味なことをしていると思ったが、折角の機会なのでこれに集中し、架空の悲しみに意味もなく沈むことにした。別に、私は暇ではない。むしろ、忙しい・・・はず。実は今日、演出家のIさんに「真壁さん、ところで作品の追加の箇所、進んでます?」と不意を突かれた。(えっ、もうそんな時期?)と思いながらも「いえ、今度の『音と絵と言葉のコンサート』の新作の絵本に追われてましてねぇ、(ホントは去年のうちに書き上げた)それが終わりましたらすぐ手をつけますから、すみません」と、ホラを吹いた。「そうですか、忙しいんですね」と演出家のIさん。「そうなんですよ。お葬式の時の選曲もありまして・・・」とは言えないな。(笑)「ねばならない」仕事よりも、部屋中に詰まったバッハの音に体を浸していたい。平凡な時間を優雅に変えるこの曲のすごさに、芸術の偉大を知る。音や絵や言葉は、何かしら日常を変える不思議がある。感性がしなやかに艶を帯びるときは、どこかで芸術が香っているような。なんだか、いつも。すごいな。
2004.05.24
足長蜂が家の雨よけ(もっとカッコイイ言い方があるはずだけど)に巣をつくっている。一匹の蜂が一生懸命つくっている。足長蜂が巣をつくると、スズメバチが襲ってくると調べたら書いてあった。どうしよう。夫が、「殺虫剤で・・・ 」なんて言う。そんなこと、できない。相談した結果、こんな所に巣をつくるのはごめんだ!と諦めて、どこかに行くように仕向けることにした。たとえば、香水や木酢液を吹き付けて、この匂いに耐えられなくなり、足長蜂は泣く泣く立ち去るといった具合に。上手くいくかしら。友人が、「足長蜂って、鼻あるの?」と言う。鼻・・・か。 気が付かなかった。帰ってきたときに巣がなかったら、たとえ足長蜂といえどもショックだろう。巣をつくるという意志と感覚があるなら、無くなった時のそれらの消失がきっとあるはずだから。あぁ、どうしよう。
2004.05.23
知識人99人の死に方」を読み、この世に、死なない人間は一人としていないので、私自身「生きる」日々の継続の、その末端にある死を漠然と眺めている。私がいつか行き着く「死」を、どれほどの人がどんな風に迎えたのかと興味を持つ。「死」をみることは、その人の生き様を知ることのように思えた。知識人たちが歩いた長い道のりの果てにある死という肉体の消滅は、肉体もろとも個人の未来をも遮断するが、「生」は紛れもなく過ぎた時間の中に焼きついている。その焼き付け方が尋常ではないから「生」を生きているのだと見せ付けられ、その消滅が惜しいものとなる。「死んで3日経ったら、300年経ったと同じこと」と誰かの言葉として文中に引用されていたが、その言葉からしても「生」の意義を感じることができる。有事法案が衆議院本会議で可決された。これが参院で通ると、米軍の海外での戦争に国民が総動員される。自民・公明・民主党が修正案を含めて採決を強行。私はネットで知ったが一般の新聞では大きく取り上げられていない。何故? 年金未納の個人的な問題で紙面を飾ることはできても、国民の命に関わることでは真面目すぎてスペースを割くことができないというのだろうか。大筋を外した報道はお粗末で、報道の意味を成さない。
2004.05.21
長らく放っていた「リプレイ」(ケン・グリムウッド著)を再び読みはじめ、一気読みしてしまった。同じ時間に死んで、何度も過去に戻る。記憶は消えておらず、18歳の肉体で再びの生をまったく違う形で生きていく。死ぬたびに失って、失うと知りつつも求める様が切なくて悲しい。なんとなく自分だったらと、また想像の世界を彷徨ってしまい、少し思い込んで、帰ってきた夫にこう言った。私 「今まで黙ってたけど、実は私、前に一回死んでまた元の世界に戻ってきてん」夫 「・・・」私 「信じてくれる?」夫 「・・・信じるよ。じゃあ、以前の記憶があるの?」私 「あるよ(嬉しい!)」夫 「これから当たる宝くじの番号教えて」私 「数字なんか覚えてないよ!」夫 「万馬券教えて」私 「競馬なんか興味ないもん」夫 「これからの景気はどうなるの? 何をやったら儲かるん?」私 「景気は悪くなります。何をやっても儲かりません」夫 「ボクはこれからどうなるの?」私 「60歳まで今の職場で頑張るでしょう」夫 「・・・。他になんかないの?」私 「ないよ」夫 「もっと学習してから生き返って来いよ」私 (-_-;)たぶん本当に過去に甦ったとしても、この程度のことしか言えない気がするな。夫は私のことを笑うけど、「ネバー・エンデイング・ストーリー」を読んで、もしかしてこれはセバスチャンが読んだ本では・・・と、一瞬あたりをキョロキョロしたらしいから、同じ穴のむじなだな。(笑)
2004.05.17
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