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ぼおっとしていたら、あっという間にクリスマスも終わり、今年もあますところあと数日ということになってしまった。早いものだ。早いといえば、このブログも書き始めてから三年が経過した。なにごとにも飽きっぽい人間としては、なかなかよく続いたものだ。 なにしろ三年といえば、赤ん坊ならふんぎゃーと生まれてから、大人を真似した理屈を並べるようになったりするし、中学生なら入学から卒業までの期間にあたる。それはつまり英語であれば、ABCを覚えるところから関係代名詞などというものを習うまでの期間ということになる。はたして、この三年間に、子供のそういった成長に相当するだけのものが得られたのかは、残念ながらきわめて心もとない。 先日、まだ冬であるにもかかわらず、例年なら春になってから飛んでくる黄砂が観測された。これが、中国の広がり続けている砂漠化や、地球規模の気候温暖化に関係があるのかは知らない。ただ、砂漠が沿岸部まで広がって、日本までの距離が短くなれば、黄砂現象の頻度も高くなるということは言えるのではあるまいか。 黄砂の故郷としては、中国北部のゴビ砂漠、西部のタクラマカン砂漠、さらに中央部に位置する黄土高原の三ヶ所があるという。ゴビとタクラマカンの二つの砂漠はともかくとして、北から流れてきた黄河が東へと90度に屈曲しているあたり、その支流のひとつである渭水流域というのは、かつては唐の長安に代表される中国の最も栄えた地域であったし、その北には日中戦争の最中にエドガー・スノーやスメドレーが訪れた、「革命の聖地」 延安がある。 従 軍 行青 海 長 雲 暗 雪 山孤 城 遥 望 玉 門 関黄 沙 百 戦 穿 金 甲不 破 楼 蘭 終 不 還青海の長雲 雪山暗し孤城遥かに望む 玉門関黄沙百戦 金甲を穿つ楼蘭を破らずんば 終に還らじ 『唐詩選』 より 作者は王昌齢という人。よくは知らないが、杜甫や李白とほぼ同時代の人らしい。ここで言う黄沙とは、日本に飛んでくる黄砂ではなく、黄土高原の奥地からさらに西域へと向かうあたりのだだっ広い乾燥地帯のこと。 時代はかの玄宗皇帝の治世。東の唐と西のイスラムという巨大な世界帝国が、いまのキルギスにあるタラス河のほとりで激突し、唐が大敗したというころ。しかし、その結果として、中国の紙が西方に伝わったというのだから、この戦いもまったく無意味というわけではなかったということになる(のかな)。 やがて、玄宗は美人の誉れ高き楊貴妃に夢中になって政治を省みなくなり、結果、有名な安禄山の乱が起こる。「奢る平家は久しからず」 といったところか。 さて、前にふれた 「むかつく」 ことに、もうひとつつけくわえておこうかなと思う。それはなにかと言えば、誰でも知っている程度の当たり前のことを、「どうだ、おれはこんなことを知ってるんだ」 と言わんばかりに振り回す人。たとえば、「世間には危険がいっぱいだ」 とか、「差別と区別は違うよ」 とか、はたまた 「論と人は切り分けろ」 とか。 まあ、どれもそれだけ採り上げれば間違っているわけではない。「差別」 と 「区別」 はたしかに違う。なんでもかんでもごっちゃにしては、話にならない。「是々非々」 だって、その意味を正しく理解しているのなら、間違ってはいない。しかし、こういうのは、1たす1は2であるとか、水は水素と酸素からできているというような、価値判断を含まぬ単純な 「事実命題」 とは違う。 そういった 「事実命題」 なら、その人がどこまで理解しているか、ただの受け売りではないのかといったことは別として、誰が言おうとたしかに 「真理」 である。しかし、抽象的な概念で成り立っていて、「価値観」 や 「価値判断」 が含まれる命題というものはそうはいかない。 せっかくの立派な言葉であっても、胡散臭い人が言えば、胡散臭く聞こえてしまう。だから 「論」 と 「人」 とはたしかに別ではあるが、だからといってまったく関係ないというわけでもない。誰も反対できない麗々しい言葉を掲げることと、それをその人がどこまで理解しているかや、どこまで本気なのかということとは、まったく別の問題である。 「是々非々」 を掲げている人が、本当にそういう態度を貫いているかどうかは、別の話である。むろん、そういう人もいれば、そうでない人もいるだろう。自分は 「論」 と 「人」 を切り分けている、と言っている人が、本当にそうしているのかどうかも、これまた別の話である。 人は看板ではなく、言動を含めた行動で判断される。「差別反対」 でも 「戦争反対」 でもなんでもいいが、世の中、「自称」 の看板がそのまま全部認められるのなら、ぴょんぴょん靴を発明したドクター中松は、エジソンに負けぬ大発明家である。 中には、部落差別の原因は 「穢れ」 の思想にある、だから、葬儀での清めの塩は良くない、それを問題にしない者は、本気で差別と戦っているとはいえないというようなことを言う人もいる。へへぇ、清めの塩をなくしたら、現実の差別が少しでも減るのかね。 むろん、問題ありと思う人は、断ればよい。それは人の自由というものだ。しかし、現実の差別をどうするかよりも、「迷信」 撲滅のほうが大事だなんて、それじゃまるで、封建的因習の撲滅を掲げてあちこちの寺や仏像を破壊してまわった、どこかの国の 「紅衛兵」 みたいだな、などと思ってしまった。 だいたい、なんにかぎらず長い歴史を持つ社会的な制度やイデオロギーというものの場合、歴史的な起源=発生ということと、現代における存在の根拠というものは、かならずしも同じではない。歴史とは、まさに変化のことなのだから。
2009.12.28
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このところ急激に寒くなってきた。どうかすると一日中、鉛色の厚い雲が空をおおっており、たまに雲の合間から陽がさしても、低い位置から斜めに差し込む光には冷えた大気を暖める力はない。北風が嵐のようにびゅうびゅうと吹き、建物と建物の間で渦をまいて唸り声を上げる。 昨日と言うべきか、今日と言うべきか、どちらが正しいのかよく分からないが、とにかく今朝まで仕事をし、それから床について昼過ぎに目を覚ました。起きようとしたら、なんだか腰が痛い。曲げても伸ばしても痛い。これはまずい。なにかの祟りなのか、それとも誰かの呪いなのか。気持ちは若いつもりでも歳はごまかせぬ。 近くのスーパーまで食い物を調達しに外へ出たら、ちょうど陽がさし、少しばかり青空ものぞいているのに、白いものがひらひらと舞ってきた。おお、風花ではないか、これはまたロマンチックなと思ったが、冷たい外気は腰に良くない。腰をいたわりながら、早々に家へ戻った。 平地に風花が舞うということは、山のほうはおそらく本格的な雪なのだろう。平野を囲む山のほうに目をやっても、かすんでよく見えない。それほど高い山ではないから、クマやシカのような獣はもとからいやしまいが、イタチぐらいならまだいるかもしれない。そういえば、母さん狐から白銅貨をもらって、町へ手袋を買いにいった子狐の童話を書いたのは新美南吉であったか。 ところで、「風花」 なる言葉を知ったのは、高校時代に読んだ福永武彦の短編によってであった。「倫理社会」 のような受験にあまり関係のない授業は、多くの生徒が他の教科の宿題をやったりと、ほとんど公然たる内職の時間になっていたのだが、たまに読書の時間にもあてていた。先生方にはまことに申し訳ない。 その息の向こうに、白い細かなものが宙に舞っていた。それはあるかないか分からない程かすかで、ひらひらと飛ぶように舞い下りた。その向こうには空があった。鉛色に曇った空がところどころに裂け目を生じて、その間から真蒼な冬の空を覗かせていた。その蒼空の部分は無限に遠く見えた。かすかな粉のようなものが、次第に広がりつつあるその裂け目から、静やかに下界に降って来た。「ああ風花か。」 彼は声に出してそう呟いた。そして呟くのと同時に、何かが彼の魂の上を羽ばたいて過ぎた。福永武彦 「風花」 より 新潮文庫 『廃市・飛ぶ男』 所収 『死の島』 をはじめ、福永の長編にはさまざまな実験的手法や技巧を凝らしたものが多いが、そのような余裕のない短編では、作者の資質である感傷性が生に表出される嫌いがある。ややもすると 「少女趣味」 っぽい感じがして、辟易してしまうところもあるのだが、ぼろぼろの文庫を引っ張り出してちらちら読み直してみると、この短編には明らかに作者自身の過去が影を落としている。 年譜によれば、福永は終戦間際に急性肋膜炎にかかり、療養をかねて帯広に疎開している。その後、いったんは帯広中学の英語教師になるのだが、病気が再発してふたたび長い療養生活を余儀なくされる。その間に、離婚してまだ幼かった息子と別れることになる。その息子とは、いうまでもなくのちに芥川賞をとった作家の池澤夏樹のことである (参照)。 いまのような特効薬のなかった時代には、胸の病というのは文字どおり命にかかわる病気であった。幕末の高杉晋作や沖田総司から、石川啄木や正岡子規、さらに戦後の堀辰雄にいたるまで、多くの人が命を失っている。戦前の文学青年にとって、肺を病んで蒼白い顔をすることは一種の憧れであったらしいが、とにかく栄養と休養をとって長期の療養をする以外に処置のしようがない不治の病であった。そういえば、中学や高校の先生の中にも、結核の手術で片方の肺がほとんどないというような人もいたりした。 ところで政治的な前衛と芸術的な前衛を結びつけること、言い換えれば政治的社会的な革命と文化や芸術の革命を結びつけることは、戦後の花田清輝の活動の出発点にあったテーゼであるが、それはまたかつてのロシア・アバンギャルドの夢でもあった。 エイゼンシュテインやメイエルホリド、マヤコフスキーなどによって進められた先鋭的な芸術運動が、最後には党の指導という名の下で政治への屈服を余儀なくされたのは、もちろん花田も知っていただろう。自殺した者、粛清された者、亡命や沈黙を余儀なくされた者は数知れない。フランスにおいても、党に忠誠を誓ったアラゴンはシュルレアリスムを捨て、シュルレアリスムを守ったブルトンらはトロツキーに接近する。 そういった歴史的経緯について、花田が無知だったとはとうてい考えられない。むろん花田の活動がすべて無駄だったわけではあるまい。しかし、最後には新日本文学会を拠り所として党中央に抵抗するところにまで追い詰められた花田には、そもそもいったいいかなる計算があったのだろうか。疑問は尽きない。こんなことを考えたのは、最近、亀山郁夫の 『ロシア・アバンギャルド』 (岩波新書)なる本を読んだから。 それにしても寒い。報道によれば、元F1レーサーの片山右京と一緒に富士に登った友人らが遭難したらしい。富士の頂上は零下をはるかに下回るらしいが、寒さに震えているのは、もちろん山の獣だけではあるまい。
2009.12.18
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小泉八雲ことラフカディオ・ハーンと夏目漱石の因縁浅からざる関係については、以前にちょっとだけ触れたことがある。八雲が熊本の第五高等学校(現在の熊本大学)を退職したのが1894年。漱石はその二年後に第五高等学校で、同じく英語の教師を務めている。 五高を退職した八雲は、いったん神戸のジャパンクロニクルなる英字新聞社に務めるものの、外国人居留地の雰囲気にうんざりし、二年後の1896年には東京大学の英文学講師となる。この間、漱石のほうは文部省からイギリス留学を命じられる。留学中の漱石が、その極端な言動のゆえに、友人らから狂人扱いされたのは有名な話。 漱石が帰国したのは1903年、ちょうど日露戦争の前年にあたる。その年、八雲は東大を退職し、イギリスから帰国した漱石が、すぐにそのあとを継ぐよう命じられる。八雲の東大退職は任期満了のためだそうで、大学を辞めること自体に不満はないものの、通知一本での解職というやり方にはいささか腹をたてたらしい。しかし、その翌年に狭心症を起こして亡くなっている。享年54歳である。 漱石の作家としての処女作は、いうまでもなく 『吾輩は猫である』 だが、その中には、主人公の苦沙弥先生が 「僕のも大分神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しい事に先生は永眠されたから、」 と一ヶ所だけ、八雲について語ったところがある。八雲の奥さんだった小泉節子が書いた 『思い出の記』 によれば、八雲の家には、誰によっては分からぬが、俳誌の 「ホトトギス」 が毎号届けられていたとのこと。 このとき東大の学生の中には、やめた八雲を慕うものが多く、漱石はいささか苦しい立場にあったようだ。漱石の死後に、夏目鏡子が書いた 『漱石の思い出』 には、この辺の事情がこんなふうに書かれている。 狩野さん大塚さんなどの肝煎りで、望みどおり熊本に帰らないで、東京にいて一高で教鞭をとることになりましたが、それだけでは生活にも困ろうとあって、文科大学の講師ということになって、小泉八雲先生のちょうど後に入ることになりました。どうしてそういうことになったのか、その間の消息は私には分かりませんが、当人ははなはだ不服でして、狩野さんや大塚さんに抗議を持ち込んでいたようです。 夏目の申しますのには、小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いた偉い方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものがその後釜にすわったところで、とうてい立派な講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない。 八雲は漱石より17も年上で、日本とその文化について紹介した著書はすでに世界的に有名となっていたから、漱石が困惑したのは分からないでもない。『猫』 で 「僕のも大分神秘的で」 と主人公が言ったのがなにを指すのかはわからないが、たしかに漱石の 『夢十夜』 などはりっぱな怪談であるし、『倫敦塔』 や 『幻影の盾』 なども気味の悪い怪奇小説である。なお、漱石の 『こころ』 に対して、八雲には 『心』(現題は"kokoro")という随筆集がある。 年譜によれば、八雲はアイルランド人の父親とギリシア人の母親の間に生まれている。二人は父親が軍医として勤務していたイオニアの島で知り合い、そこで生まれたそうだ。思わず、ソフィア・ローレンが主演した映画 『島の女』 を連想しそうだが、こちらは土地の名士の娘なのだそう。そういえば、島尾敏雄も、戦争中に特攻隊の隊長として赴任した島の女と結ばれている。やっぱり、遠い海の向こうから来た人とかはもてるのだろうか。むろん、皆がみなそうというわけではあるまいが。 話がすこしそれた。その後、八雲は父親の家があるアイルランドのダブリンに帰国しているが、父親は今度は西インドに赴任し、残された母親は精神を病みギリシャにひとりで帰国(このへんもやや島尾と似ている)。八雲は大叔母さんに育てられたとか。ところが17歳のときに父親は死亡、おまけに保護者であった大叔母は親類にだまされて破産したとか。これでは、こんどは 「小公女セーラ」 である。 そこで仕事を探しにロンドンにで、さらに移民船で海を渡ってアメリカへ向かうことになる。ここまでは、ヨーロッパでは希望のみえぬ者がたどるよくある話。そこで20年をすごしたのち、1890年にようやく日本に来ることになる。それ以前に、ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で、日本人の役人に会ったことがあり、そのつてで松江に行くことになったそうだ。 八雲がヨーロッパやアメリカを嫌い、日本の文化に憧れたのには、おそらく彼個人のそれまでの体験が大きな影響を及ぼしているだろう。たまたま文才を認められて這い上がることができたものの、彼の一生はけっして順風満帆なものだったわけではない。そのことが、奴隷として連れてこられた黒人による独特な文化が残るアメリカ南部やカリブの島々に魅せられることになり、やがては海の向こうの日本へと向かわせることになる。 それは、産業革命によってすべてが機械化され、天をも突くような高層ビルが建ち並ぶ大都会と、その中でが気ぜわしく動き回っている人々への嫌悪から来たものであり、それがおそらくはその対極にあるものへと引き付けられた理由なのだろう。そういう彼の気質が、そもそもの出自であるアイルランドと関係あるのかは、なんとも言えないのだが、まったく無関係ともいえなさそうな気はする。 アイルランド出身者といっても、もとをたどればイングランドから来た植民者であり、支配者の側につながる者もいて、十把一絡げにはいかぬのだが、この地からは古くは哲学者のバークレーや 『ガリバー旅行記』 のスウィフト、『フランス革命についての省察』 を書いたエドマンド・バークから、ワイルドやバーナード・ショー、詩人のイェーツや作家のジョイス、劇作家のベケットと多士済々の人物が出ている。 クロムウェルによる占領以来、イギリスの支配下に置かれていたアイルランドが、いかに困窮のきわみにあったかということは、そこから多数の移民(いまふうに言えば「経済難民」)が流出したことからも分かる。現在、本国に住むアイルランド人は、イギリス統治下の北アイルランドを含めても、わずか500万ほどにすぎぬのに対して、アメリカなど、海外に流出した移民の子孫はその十倍近い4,000万に上るのだそうだ。 イングランドへの隷属に長く苦しんだアイルランドがようやく独立したのは、19世紀に始まる独立運動の末、第一次大戦後の1921年のこと。ちなみに、アイルランド問題について、マルクスは1869年に友人のクーゲルマンに宛てた手紙の中で、こう書いている。 僕はますますつぎの確信をふかめるにいたったが、これをイギリスの労働者階級に徹底させることはきわめて重要である。すなわち、イギリス労働者階級がアイルランドにかんする彼らの政策を支配階級の政策からもっとも断固として分離させ、アイルランド人と共同歩調をとるばかりでなく、1801年に創設された同盟を解体して、そのかわりに自由な連合関係を樹立しないかぎり、彼らはこのイギリスではなにひとつ決定的なことはできないのだ。
2009.12.13
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こちらでは、ここ二三日とても暖かい日が続いている。まさに 「小春日和」 という言葉がぴったりだ。澄みきった大気は暖かい光で満たされ、樹々の葉はすでに赤や黄に色づき、風が吹くと、「金色の小さき鳥の形」 した木の葉がはらはらと舞い散る。「落ち葉が舞い散る停車場に~」 と歌ったのは、昭和の御世の奥村ちよであったか。しかし、街頭で落ち葉をはいている人たちはたいへんである。 「天高く馬肥ゆる秋」 とは、もとは北方民族の脅威にさらされていた中国の人々が、ああ、また北の方から獰猛な連中が丸々と太った馬に乗ってやってくる季節になったぞ、ということを表す言葉だったそうだが、英語のインディアンサマーについても、インディアンが襲ってくる季節という意味だという説がある。ただし、こちらのほうは異説もいろいろとあって、はっきりしたことは分からない。 最近、暇つぶしに渡辺公三という人が書いた 『闘うレヴィ=ストロース』(平凡社新書)という本を読んだが、これはこんな一節で終わっていた。 レヴィ=ストロースはインディアンたちが、多くの場合、到来した白人たちを神話に語られた祖先の礼が回帰したものとして腕を開いて迎え入れた、ということを強調している。到来すべき他者の場所をあらかじめ用意すること、他者を 「野蛮人」 とみなすばかりではなく、時には神として迎え入れる謙虚さを備えること、他者のもたらす聞きなれぬ物語をも自らの物語の中に吸収し見分けのつきにくいほどに組み入れること。 しかし、その他者が究極的には、分岐し差異を極大化してゆく存在であることを許容すること。自らの世界の中に場所を提供しつつも、対になることは放棄せざるを得ない不可能な双子、アメリカ・インディアンにとって外部から到来した 「西欧」 の存在をそこに読み取ることができる。これが 『大山猫の物語』 でレヴィ=ストロースが引き出した結論だった。 この本は今年の11月13日に出たばかり、つまりレヴィ先生が亡くなってから半月して出たことになる。まさか、レヴィ先生死去の報を聞いて急遽書き上げ、出版したわけではあるまいにと思ったら、本来は昨年の100歳のお祝いにあわせてということであったらしい。ところが、それが間に合わず、一年遅れになって、たまたま彼の死去の直後に出版されることになったということだ。これもまた、偶然のなせる業ということか。 この本では、彼が二十歳前後の学生で、フランス社会党の中心的な学生活動家だった時期の活動にも触れらていて興味深かった。彼が最初に出版した文書は、なんと18歳のときに書いた 『グラックス・バブーフと共産主義』 なる小冊子だったという。バブーフとは、フランス革命の末期、ロベスピエールらが処刑されたあとに、政府打倒の 「陰謀」 を企てたとして処刑された人だが、そこから後世のブランキや季節社にもつながる。 偉大なるナポレオンの甥っ子であるナポレオン三世は、若い頃、兄貴とともにイタリアの秘密結社カルボナリ党(「炭焼党」 と訳されることもある。関係は全然ないが、倉橋由美子の 『スミヤキストQの冒険』 はこれから名前を借りてる?)に参加していたそうだが、これもバブーフと関係がある。 レヴィ=ストロースの 『悲しき熱帯』 には、十代のころに、ある若いベルギー人の社会主義者によって、マルクスについてはじめて教えられたと書いてあって、そういやベルギーといえばアンリ・ド・マンという人がいたなあ、とか以前から思っていたのだが、渡辺によると、ド・マンがパリで講演会をしたときも、レヴィ=ストロースはその準備に当たったらしい。 アンリ・ド・マンという人は、当時ベルギー労働党で注目されていた新進理論家だが、ナチによるベルギー占領に協力したために、戦後はほとんど忘れられた。その甥っ子が、イェール学派の総帥で 「脱構築」 とかいう言葉を流行らせたポール・ド・マンであり、彼が当時、ナチを支持するような文章を書いていたことが暴露されて、一時期スキャンダルになったことは、彼の弟子(?)である柄谷行人なども触れている。 ちなみに、柄谷によれば、ポール・ド・マンと親しかったデリダに、アンリ・ド・マンのことを聞いてみたら、「だれ、それ?」 みたいな返事が返ってきたそうだ。アンリ・ド・マンには 『労働の喜び』 なる著書があり、ソレルの 『暴力論』 の新訳を残して亡くなった今村仁司が 『近代の労働観』 なる著書の中で、それについて触れているそうだが、そっちは全然知らない。 なお、ナチスの強制収容所の入口には、「Arbeit macht frei, 労働は(人間を)自由にする」 と書いてあったというのは有名な話。また、イタリアのドーポラヴォーロを真似してナチスが作った、労働者の福利や余暇についての組織の名称は、「Kraft durch Freude, 喜びをつうじて力を」(「歓喜力行団」 などとも訳される)という。 ところで、「来年のことをいうと鬼が笑う」 とよく言われるが、それはなぜなんだと思って調べてみたら、これもまた諸説あるらしかった(参照)。 仕事がない、仕事がない、とぶつぶつ言っていたら、いきなり仕事が入って忙しくなった。でも、それもあと何日かでおしまいであり、その先どうなるかはまったく分からない。鬼に笑われてもいいから、来年のことが心配である。昨年にくらべて、今年は三割近い減収になることはほぼ確定しているもので。
2009.12.03
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