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朝目を覚ましても、バイロンのように有名になっていたわけでもなく、むろんザムザのように虫になっていたわけでもないが、カレンダーを見たら、2月26日であった。つまり、今日は2.26事件の72回目の記念日なのであった。 さて、毎年この時期になると、自営業者にとっては面倒な確定申告をしなければならない。そういうわけで、先日、半日かけて書き上げた書類をもって申告会場まで行ってきた。小雨が降る天気の悪い日だったのだが、昨年は期限ぎりぎりに行ってめちゃくちゃ待たされたので、今年は早めに行くことにした。 会場は、湾岸の埋め立て地に建てられた福岡タワーの中にあるということで、ちょいとばかりダイエットもかねてカサをさしていった。とりあえず、仕事で忙しいときをのぞいて、一日一万歩歩くことを目標にしているのだ。行ってみたら、さいわいなことに、あのスペースゴジラとゴジラの大決戦でめちゃくちゃに破壊されたタワーも、すっかり元通りに修復されていた。よかった、よかった。 時間もそれほど遅くなかったし、おまけに雨が降っていたせいもあるのだろう。そんなに待たされることもなく、書き上げてきた書類のチェックだけ受けて提出した。昨年は間違いがあって、あとで修正書が送られてきたのだが、今年はたぶん大丈夫だと思う。天引きされていた所得税の還付が今から楽しみである。 帰りがけに、Book Offによって100円コーナーを眺めていたら、女優の加藤治子が久世光彦からいろいろとインタビューを受けている本があった。今はなき福武文庫で出ていた 『ひとりのおんな』 という題である。加藤治子といえば、ドラマのお母さん役などでなじみの人だが、戦後に 「なよたけ」 という戯曲を残して自殺した加藤道夫の妻でもあった人だ。 少し興味をひかれて、中を覗いてみたら、加藤のことも書かれていた。たとえば、こんなふうに。(インタビュアーは久世である)― そのときの気持ち、覚えていますか?治子: そのときはなにも……。でも、はっきりと死んだと思わなければならなくなったときは、腹が立ちました。― なんに、腹が立ったんでしょう。治子: 突然、一方的に断ち切られたことにです。― なにが断ち切られたんですか?治子: 全部です。今までのことも、これからのことも、芝居のことも、生活のことも。だって、それは全部を断ち切るってことじゃないですか。― じゃ、泣きませんでしたか?治子: 泣きません。その夜も、お通夜のときも、お葬式のときも、一度も泣きませんでした。 加藤道夫が自殺した原因については、加藤治子もこの本の中で、「そうなる予感みたいなものは?」 という久世の質問に対し、「ありませんでした」 と答えていて、よく分からない。 ただ、加藤は 自筆年譜 の中でこう書いている。昭和十九年(一九四四)二十六歳 「なよたけ」(五幕)脱稿。川口一郎氏を知る。南方へ赴任。濠洲作戦なりしか(?)、マニラ、ハルマヘラ島を経て、東部ニューギニアのソロンなる部落へたどり着く。以後終戦まで、全く無爲にして記すべきことなし。人間喪失。マラリアと榮養失調にて死に瀕す。 この年譜はたまたまネットで見つけたものだが、加藤が自殺したその年まで続いている。つまり、加藤はこれを作成した何ヶ月かのちに自殺したわけだ。ただし、この年譜作成の経緯については、今のところ分からない。 これもBook Offで100円で買ったのだが、上野千鶴子の 『発情装置』 という本の中に、「『恋愛』の誕生と挫折 ― 北村透谷をめぐって」 という小論がある。 北村透谷とは、若いころの島崎藤村の盟友でもあった明治の詩人兼評論家であり、藤村の 『桜の実の熟する時』 や 『春』 などの作品には青木という名前で出てくる。 北村透谷もまた26歳という若さで自殺しているが、上野はこの中で彼のことを 「透谷という若者の、過剰に傷つきやすいナルシシズムや独善的なおもいあがりを好きになることはできなかった」 とか、「わたしは26歳の男の未成熟さを許すほど寛大にはなれないし、自分の過去とかさねてそれに涙をそそぐほど、感傷的にもなれない」 などと、ぼろくそに言っている。 たしかに、「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛をぬき去りたらむには人生なんの色味かあらむ」 という文で始まる 『厭世詩家と女性』 という評論などは、上野ならずとも、とても恥ずかしくて読めたものではない。 しかし、山路愛山を批判した 『人生に相渉るとは何の謂ぞ』 などは、仰々しいところもあるものの、文学の実利性のみを重んじた愛山に対して、「文学は敵を目掛けて撃ちかかること、(頼)山陽の勤王論のごとくなるを必須とせざるなり」 と論じて、直接の効用を超越した文学の自立性を主張したものであるから、日本の近代評論の先駆者としての地位ぐらいは、認めてあげてもよいのではと思う。 なお上野によると、透谷の自殺でのこされた妻である北村ミナは、七歳になる娘を親にあずけて渡米し、勉学の後に帰国してからは女学校の英語教師として教鞭をとり、再婚しないまま生涯を終えたそうである。上野は、彼女のことを 「自立した明治の女性」 と評している。 『邪宗門』 を書いた高橋和巳の場合は自殺ではなく病死だが、彼の死後、奥さんであった高橋たか子は、その後本格的に作家としての活動を始め、今はたしか、カトリックの洗礼を受け、フランスにある 「カルメル会」 という修道院と日本との間で行ったり来たりの生活をしているはずだ。 いっぽう、評論家の江藤淳は、奥さんが病死したあと、まるでそのあとを追うかのように自殺してしまった。 むろん、高橋たか子と江藤淳とでは、相手に死なれたときの年齢も違うし、性格や気質というものは、男女にかかわらず人それぞれである。これだけの事例で、男と女の違いについてなど、どうこう言うわけにはいかないのはもちろんなのだが、なんとなく気になってしまった。 追記:アップしてから気がついたのだが、これはめでたくも畏くも300本目という区切りの記事であった。これも、開設以来2年2ヶ月という日々の精進の賜物である。最近は、めっきり更新ペースが落ちているけど。
2009.02.26
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二葉亭四迷、本名長谷川辰之助といえば、いうまでもなく 『浮雲』 を書き 「言文一致体」 を創始した人である。二葉亭四迷という落語家のような筆名については、父親に文学をやりたいと打ち明けたところ、「おまえなんかくたばってしまえ!」 と怒鳴られたという話があるが、四迷自身によるとこれは 「苦悶の極、おのずから放った声が、くたばってしめえ!」 という自嘲に由来するものであって、親父殿に言われたということではないらしい。 しかし、若くしてこの 『浮雲』 を書いた後、彼は海軍に勤めたり、ロシア語の教師になったり、はてはハルビンや北京に行ったりと、創作を放擲して変転と遍歴を重ね、最後は朝日新聞から派遣されていったロシアでの無理のせいで肺炎にかかり、船で帰国する途中、ベンガル湾上で病死している。享年は45歳である。 上のエピソードが出てくる 『予が半生の懺悔』 という死の前年に発表された短文によれば、彼がもともとロシア語を学ぶようになったきっかけは、日本とロシアの間に樺太千島交換条約が結ばれたことだという。二葉亭は1864年生まれであるからこのときはまだ11歳だが、ロシアは他の列強と違って唯一日本と国境を接する 「大国」 であり、維新からまだ日の浅い日本にとって非常な脅威として受け取られていたことは想像に難くない。のちに最後の皇帝となったニコライが来日中、巡査に襲われた大津事件が起きたのは1891年のことである。 この文の中で、二葉亭は自分の中の 「維新の志士肌」 による 「慷慨熱」 と 「文学熱」 という二つの魂について語っている。その 「慷慨熱」 とは、半分は 「維新」 という革命の時代に遅れてきた早熟な青年が過去に対して持つ憧憬であり、また残りの半分は西欧に追いつき追い越せという急激な近代化の時代の中で、多くの青年が分かち持ったものでもあるだろう。その熱はいったんはロシア語を学ぶ中で知った文学によって収まったものの、やがてふたたび頭をもたげてくることになる。 それが、おそらくは彼を終生悩ませた 「文芸は男子一生の事業とするに足るか」 という疑問なのだろう。同じような 「慷慨熱」 は、たとえば与謝野鉄幹や正岡子規らにもあるし、年代は下るが 「時代閉塞の現状」 を書いた石川啄木にもある。それは外部へ向かうならば、西欧の圧迫に対する反発によるアジアの 「同胞」 への共感や対外伸張の意識となり、内部へ向かうならば強権的な国家に対する批判や抵抗ともなる。 この彼に一生とりついて離れなかった悩みについて、宮本百合子は 「生活者としての成長―二葉亭四迷の悲劇にもふれて」 という1940年に発表した評論の中でこう書いている。 二葉亭の苦悩は、文学というものがもし現在自分のぐるりに流行しているような低俗なものであっていいのならば、文学は男子一生の業たるに足りないものであるというところにあった。二葉亭自身は、人生と社会とになにものかをもたらし、人々になにかを考えさせ感じさせる 「人生の味わい」 をふくんだ文学を文学として考え自分の作品にそれだけのものを求めていた。しかし、日本の当時の文学をつくる人たちはそのような文学の使命を一向に感じず、求めようともせず、遊廓文学めいた作品をつくっている。…… 二葉亭の悲劇は決して旅の半ば船中でその生涯を終ったことではない。彼の悲劇は、あれだけ日本のために文学をもって働きかける力をもっていたのに、周囲のおくれていたことに本質的には敗けて文学の理想は大きく高く懐きながら、その道から逸れて行った心理のうちにある。通俗の目にすぐ肯ける男子一生の業にうつったところに悲劇があるのである。 この短文で彼女がことさらに二葉亭を引き合いに出したのには、欧州での戦争勃発と対米危機の拡大によって、国民全体の意識が雪崩を打つように変化し、熱に浮かされたように軍国主義化が進行していく中、やがてアメリカとの全面戦争へと突き進んでいくことになる時代への警告という意図がある。 この後に続く 「現実に面してひるまない精神ということと、なにが出ようともなんとも感じず常にそこから自分にとって一番好都合の部分をかすめとって来る機敏さというものとは、全然別様のものである。歴史に働きかける力としての存在ということも、いつも立役者として舞台の真中に華々しく登場しているということとまるでちがう」 という彼女の言葉はまったく正しいが、その意図を差し引いても、彼女の言葉は四迷の悩みの半分にしか届いていない。 実際、かりに彼がもう少し遅く生まれていて、尾崎紅葉らのかわりに漱石や鴎外といった作家による近代的な文学がすでに存在していたとしても、彼の中に巣くう 「二つの魂」 という分裂はおそらく解消されはしなかっただろう。二葉亭という人は自ら 「志士肌の慷慨熱」 と書いているとおり、山っ気の強い人ではあったかもしれないが、それは必ずしも百合子が言うような 「立役者として舞台の真中に華々しく登場しているということ」 を意味するものではあるまい。 そもそも繊細な感受性を持つ文学者というものは、時代に対しても敏感なものである。バイロンはギリシアの独立戦争に参加しようとして、熱病にかかって死んでしまった。ヘミングウェイはスペイン内戦に参加したし、マルローもまた中国の革命運動や対独レジスタンスに関与している。医学の勉強のために来日しながら、日露戦争の一場面を写した一枚の幻燈をきっかけに 「心の医師」 になることを決意した魯迅も、中国の自立と近代化を目指した革命運動と最後まで密接な関係を保っていた。 いや、そういう百合子自身、17歳で登場して以来、新進作家として盛名をはせていたにもかかわらず、「プロレタリア文学」 運動に参加し、しかも多くのかつての 「同志」 が一時の熱病が覚めたかのごとくに次々と 「転向」 し、戦争への協力姿勢に転じていった中でも、時代への粘り強い抵抗と警告をやめはしなかった。つまり、彼女の中にも 「政治」 と 「文学」 という二つの魂は存在したはずである。 ただ、百合子が四迷ほどの相克に悩まされなかったのは、一面では彼女が文学の力と文学者の使命を彼以上に信頼していたからだろうし、他面ではその 「政治」 と 「文学」 という 「二つの魂」 が、ともに当時の 「共産主義」 という思想と運動が掲げていた 「人道」 的理想に対する信頼によって統一されていたからでもあるだろう。 その二つの信頼は、良家に生まれ、当時の女性としては珍しい高い教育と教養の裏打ちがあったればこそだろうが、また現実の 「社会主義国家」 がいかなる裏面を有していたかがさほど知られていなかった、時代の幸運というものもあったとは言えるかもしれない。 ただし、そのような 「社会的関心」 がただの神経過敏による、一時の熱にうなされ時代や流行に流されるがままのもので終わるのか、それともより長期的で確実な展望を持つことで、ときには時代に対する抵抗を支えるものともなりうるかどうかは、文学者である個人を支える思想や社会に対する目の確かさによって分かれるということになるだろう。それは文学そのものの価値とはいちおう別ではあるが、人間としての文学者の見識と行動にはおおいに関連する。 ちなみに、直接二葉亭の名前をあげてはいないものの、漱石はこの二葉亭を苦しめた悩みについて、「文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎」 という文章を書いている。発表されたのは、二葉亭のものより半年ほど遅れているが、この問題はどうやら当時の文壇やその周辺での一種の論題となっていたらしい。 自分の文芸に対する考えに基づいて文芸というその職業を判断してみると、世間に存在しているいかなる立派なる職業を持ってきて比較してみても、それに劣るとは言えない。まさるとは言えないかもしれないが、劣るとは言えない。文芸も一種の職業であってみれば、文芸が男子一生の事業とするに足らなくて、政治が男子の事業であるとか、宗教が男子一生の事業でなくて、豆腐屋が男子一生の事業であるとか、第一職業の優劣ということがどういう標準を以てつけられるか、はなはだ漠然たるもので、その標準を一つに限らない以上は、お互いにある標準を打ち立てた上でなくては優劣はつくものでない。…… そういう意味で言えば、車夫も大工も同じく優劣はない訳である。そのごとく大工と文学者にもまた同じく優劣はない。また文学者も政治家も優劣はない。だから、もし文学者の職業が男子の一生の事業とするに足らぬというならば、政治家の職業もまた男子一生の事業とするに足らないとも言えるし、軍人の職業も男子の一生の事業とするに足らぬとも言える。それをまた逆にして、もし、文学者の職業を男子一生の事業とするに足るというならば、大工も豆腐屋も下駄の歯入れ屋も男子一生の事業とするに足ると言ってもさしつかえない。 二葉亭は1904年に、漱石はその三年後の1907年に朝日新聞に入社しており、新聞に交互に作品を連載するなど、一種のライバル的関係にあったようだが、二人の間に具体的にどのような関係があったのかまでは分からない。なお、二葉亭の 「予が半生の懺悔」 という短文は、次のような言葉で締められている。 明治三十六年の七月、日露戦争が始まるというので私は日本に帰って、今の朝日新聞社に入社した。そして奉公として 「其面影」 や 「平凡」 なぞを書いて、大分また文壇に近付いては来たが、さりとて文学者に成り済ました気ではない。やっぱり例の大活動、大奮闘の野心はある――今でもある。 この文章は、二葉亭がロシアに赴く直前の談話に基づいているそうで、彼の言う「例の大活動」とは、別の談話によれば 「国際問題の解決といったやうな事」 なのだそうだ。 だが、それをたんなる一時的な 「社会的野心」 の表れとのみ見るのは、いささか早計に過ぎるだろう。つまるところ、彼にとりついていた悩みとは、「ライフ、ライフというが、ライフた一体なんだ」 という悩みなのである。
2009.02.15
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ちょっと前の話になるが、内田樹さんがオバマ新大統領の就任演説に触れてこんなことを書いていた。(参照)オバマ大統領のスピーチには、「アメリカはこうだが、ロシア(中国、EU、イスラム諸国などなど)はこうである」という水平方向の比較から「アメリカの進むべき道」 を導くという論理操作が見られない。アメリカ人のナショナル・アイデンティティを基礎づけ、賦活させるためには「他国との比較」は必要ないのである。「われわれ」 が何ものであるかを 「他者の他者」 というかたちで迂回的に導き出す必要がないのである。 アメリカになど行ったこともなく、アメリカ人の友達もおらず、アメリカについてなど映画や本、報道などでしか知らない人間が言うのもなんだが、アメリカにとって 「他国との比較」 がなぜ必要ないかというと、それはたぶんアメリカがそれ自身、ひとつの 「世界」 だからである。 実際、アメリカの地図を開いてみると、そこにはポーツマスやグラスゴーといったイギリス起源の地名のほかに、世界中の地名が見つかる。ニューオーリンズとは 「新しいオルレアン」 のことだが、テキサスにはパリがあり、アイダホにはモスクワがある。ニューヨーク州にはポツダムもローマもあるし、イサカというギリシア語の地名まである。サンノゼやロサンゼルスはスペイン語だが、むろん先住民語起源の地名もあちこちにある。 南部や西部にあるフランス語・スペイン語起源の地名は、もとはそこがフランスやスペインの植民地だったからだし、聖書やその他の古典からとってつけた地名というのもあるだろう。しかし、移住者の集団が町を作り、そこに名前を付けるときに、あとに残してきた故国の地名をつけるということは、古来いくたの地域で見られることである。 学校の下校時間になると、ドボルザークの 『新世界より』 がなぜか流れるが、まさにアメリカはドボルザークも言うように、その中に 「旧世界」 の全体を包含したもうひとつの世界なのである。モンロー主義と呼ばれたかつてのアメリカの 「孤立主義」 も、おそらくは自分たちの国は 「旧世界」 からは独立した、ひとつの世界であるという自負に基づいたものでもあったのだろう。 『波止場』 や 『エデンの東』 など、多くの名作を撮ったエリア・カザンに、『アメリカ アメリカ』 という作品がある。ずいぶん前に見ただけなのであまりよく覚えていないが、その中に船で大西洋を渡ってきた移住希望者らが、ニューヨークの港の入口に立つ 「自由の女神」 を見つけて、舷側から身を乗り出し 「アメリカ! アメリカ!」 と叫ぶ場面があった(ような気がする)。 その 「自由の女神」 の台座には、「疲れし者 貧しき者 重荷を解いて 休みなさい 故郷を追われし哀れな者 すべては私に委ねなさい 黄金の扉のそばで、私は光を掲げよう!」 という詩句が刻まれているという。(参照) メイフラワー号による清教徒の移民以来、多くの人がアメリカにやってきた。ある者は 「革命」 から逃れ、または 「革命」 の敗北による弾圧から逃れるために、またある者は 「戦争」 や民族的な 「迫害」、「貧苦」 から逃れるために。 1848年のドイツ三月革命が敗北すると、多くのドイツ人が海を渡った。その一人であるカール・シュルツは、のちにリンカーン大統領の下で国務長官を務めたという。1917年のロシア革命でも、多くの亡命者がアメリカに渡った。レーニンに権力を奪われたケレンスキーもまた最終的にアメリカにわたり、なんと1970年まで生きていたそうである。むろん、ナチによるユダヤ人弾圧と欧州の戦火から逃れるためにも、多くの人が海を渡った。 戦後には、中国やベトナム、カンボジアの戦火、さらにその後の混乱を避けて、多くの難民がアメリカに移住した。天安門事件でも多くの学生らが海を渡ったし、難民ではなくとも、世界中から多くの人が 「貧困」 からの脱出という夢を求めて、いまなおアメリカを目指している。 「アメリカ アメリカ」 を撮ったエリア・カザンはトルコによる迫害から逃れてきたギリシア系移民だが、サローヤンは同じくトルコ出身アルメニア人移民の子である。ヘンリー・ミラーはドイツ系移民の子であるし、フィッツジェラルドはアイルランド系、アーサー・ミラーやサリンジャーはユダヤ系、ナヴォコフはロシア系であり、俳優のアル・パチーノはイタリアから来た移民の子である。 たしかに、アメリカはひとつの社会であり国家である。移民の世代がすすめば、やがて彼らは故国の人々とは異なる 「アメリカ人」 になっていくだろう。アメリカに代々住む黒人もまた、アフリカの黒人と同じではない。しかし、それでも移民たちはみな、自分たちの故国の文化と歴史を背負ってやってくるのであり、それはそう簡単に消失するようなものではない。 アフリカから意思に反して強制的に連れてこられ、自己の言葉や文化を徹底的に奪われた黒人奴隷の子孫たちですら、ジャズやブルースといった現代の音楽になにがしかの民族性をとどめている。むろん、そこには抑圧されてきたがゆえに、かえって強固に生き続けてきたということもあるだろうが。 その意味では、国家としてのアメリカの歴史の短さなどを言い立てることにたいした意味はない。たしかに 「アメリカ的」 なるものはあるかもしれない。とはいえ、ただひとつの 「アメリカ人」 などは、どこにも存在してはいない。 「国家」 としてのアメリカはたしかにひとつである。だが、アメリカ人はひとつではない。また、東部や西部の大都市圏だけがアメリカなわけでもない。そういった地域がアメリカの政治や経済に対して大きな影響力を持っているのは事実だろうが、だからといって、そこに住む少数の特別の人々の意思や利害だけで、アメリカの政治が動かされているわけでもあるまい。 戦後世界で一方の覇権を握り、ソビエト崩壊後は唯一の 「超大国」 として世界に君臨してきたアメリカの行動を批判することは、ある意味でたやすいことだ。むろんCIAによる各地での破壊活動や、退陣したブッシュ政権による、国際世論を無視した 「単独主義」 的な行動が非難に値するものであることは言うまでもない。 だが、現代において他を圧倒する国力を有するアメリカは、良くも悪くも、また自ら望もうと望むまいと、世界に対して責任を負わざるを得ず、またそれを果たさざるを得ない。むろん、その責任の果たし方は、ひとつの問題たりうることだ。しかし、アメリカがいまなお 「ひとつの世界」 であるとしても、もはや 「旧世界」 から隔絶したモンロー主義の時代になど戻れないのは自明のことであり、そのことを無視した批判は意味をなさない。 アメリカがイスラエルを一貫して支持している背景には、むろん国際政治上の思惑や国内における種々の勢力の存在など、いろいろな要因が存在するだろう。だが、そこには先日なくなったポール・ニューマンが主演した映画 『栄光への脱出』 に描かれたような、移住による 「理想国家」 建設というイスラエル 「建国」 の物語が、移民国家としては大先輩にあたるアメリカのナショナル・ヒストリーと重なる部分があるというのも、もしかするとひとつの要因なのかもしれない。 二日と二晩、列車は走りつづけた。いまやっとカールにも、アメリカの広大さがわかってきた。飽きることなく彼は窓から外を眺めた。そのあいだ、ジャコモもいっしょに窓の方へ体をのりだしていたものだから、トランプに熱中していた、向かいの席の若者たちは、やがて遊びにも飽いてしまうと、自分たちの方からすすんで、窓際の席をジャコモにゆずってくれた。カールは彼らに礼を言った。ジャコモの英語ときたら、まだ相手によっては聞き取りにくかったからだ。…… 最初の日、列車は高い山脈の間を縫って走りつづけた。青味をおびた、黒色の岩石の塊が、鋭い楔のような形になって、列車のすぐ間近までおし迫ってきた。すると、乗客たちは窓越しに身をかがめて、そのてっぺんを見上げようとやってみるのだが、ついにだめだった。暗い、幅のせまい、引き裂かれたような谷間が口を開いているところもあった。その谷すじの方向を指さきでたどっていくと、そのはてに谷は消え去って、こんどは川幅のひろい渓流があらわれた。フランツ・カフカ 『アメリカ』 より むろん、カフカはアメリカを訪れたことはない。チェコのプラハ(当時はまだオーストリア帝国領だったが)に住んでいた彼が、けっして長くはない生涯の中で訪れたことがあるのは、せいぜいドイツやフランス、北イタリアなど、いわば彼の国の周辺地にすぎない。
2009.02.08
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仕事やなんやで忙しくて、日々の細かな報道にまで目を通す暇がなかったのだが、たまたまウェブをあちこちふらついているうちに、評論家の内村剛介がつい先日死去したということを知った。きっかけは戦前の中野と蔵原の論争についてちょっと調べてみようと思ったからで、先月の30日、今からちょうど1週間前の死去の知らせに気づいたのはまったくの偶然である。 内村は、詩人の石原吉郎や画家の香月泰男、小説家の長谷川四郎などと同じく、シベリア抑留体験者である。「こんにちは こんにちは」 の三波春夫もそうだが、俳優の三橋達也、さらには松方弘樹の父である近衛十四郎や、吉本新喜劇にいた平参平もそうだったというのにはいささか驚いた。しかし、帰国した抑留者は50万近かったというのを知れば、それも納得いくことではある。(参照) 今手元にある内村の著書 『生き急ぐ』 についている年譜によれば、彼は1920年に栃木に生まれ、14歳で満州の親戚のもとに行き、満州国が作ったハルビン学院でロシア語を学んだとある。その後関東軍に勤務し、ポツダム宣言受諾後に平壌まで退却してきたところを満州から追撃してきたソビエト軍に逮捕され、11年間の抑留生活を送っている。 1956年の帰国ということは、膨大な抑留者の中でも、最も長い期間をシベリアで過ごした一人だということだ。おそらくは、ロシア語に堪能なうえに、関東軍参謀部に勤務していたという経歴が災いしたのだろう。ちなみに、戦後に自殺した近衛文麿の長男である文隆とも同房で、彼の死にも立ち会ったそうだ。 「ソビエト脅威論」 をぶちまくった後年の言動はともかく、トロツキーの 『文学と革命』(今は岩波から別の訳者の版が出ているが)の紹介や、『呪縛の構造』 をはじめとする著作に収められた、満州時代から数えて足掛け20年ぶりの帰国で目にした 「戦後社会」 への怒りすらこめられた評論は、今でも十分に読むだけの価値があるといっていいだろう。 その後の内村のナショナリズムへの傾斜は、同年代の鮎川信夫や、やや年少の江藤淳とも共通するところで、それは昔からよくある年齢とともに進む 「故郷回帰」 のようにも見えるが、その根底には、過去に何もなかったかのように急速に変貌していく戦後社会に対する、戦争と政治によって最も翻弄された者としての怒りがあったことは間違いあるまい。 その昔、詩人で小説家でもある中野重治は、プロレタリア文学運動内部の論争で、「芸術に政治的価値なんてものはない、芸術にあるのは芸術的価値だけだ、....芸術評価の軸は芸術的価値だけだ」1 と言ったことがある。 また別の文章では、「芸術にとってその面白さは芸術的価値そのままの中にある。それ以外のものは付け焼刃でテズマに過ぎない。芸術的価値は、その芸術の人間生活への真への食い込みの深浅(生活の真は階級関係から離れてはいない)、それの表現の素朴さとこちたさによって決定される。」2 とも書いている。 中野が言ったことは、しごく当然のことなのだが、結局、彼はその主張を引っ込めざるを得なかった。そこには、論争相手が 「労働者の祖国」 であるソビエトとコミンテルン、さらに党中央の権威を振りかざしていたという背景があるのだが、今はそれは関係ない。 ただ、中野自身は明言していないが、「大衆の求めているのは芸術の芸術、諸王の王なのだ」3 という言葉に集約される彼の主張が、内村が紹介した、トロツキーの文学論と根底において共通するものであることは間違いない。推測すれば、それもまた、中野がこの論争において沈黙せざるを得なかった理由のひとつなのかもしれない。 だが 「芸術にあるのは芸術的価値だけだ」 という、まっとう過ぎるほどまっとうなことを言った中野が沈黙せざるを得なかったという事実そのものが、「芸術」 と 「政治」 は別のことでありながらも、けっして無縁ではありえないということを示している。それは 「地動説」 を主張したガリレオが、教会の権威の前に自らの主張を否認せざるを得なかったのと同じことだ。 とはいえ 「芸術」 と 「政治」 が別のことであることは、近代国家においては、ある意味すでに十分に認められている。親に捨てられ感化院で成長したあと、泥棒と逮捕を繰り返し、終身懲役刑の宣告を受けていたジュネは、その才能を惜しんだたコクトーらの嘆願によって、大統領から特赦を受け釈放された。 しかし、それは 「芸術」 と 「政治」 が別だからではない。そうではなく、「芸術」 と 「政治」 が別だからこそ、彼は法によって裁かれ、いったんは終身懲役の宣告を受けたのだ。「芸術」 と、「政治」 を含めた社会的責任の問題は別だということを裏から言えば、そういうことになる。 森鴎外は作家であると同時に軍医でもあった。斉藤茂吉は歌人であると同時に、精神科医でもあった。鴎外も茂吉も 「文学者」 であるのは、小説や短歌についてうんうんうなりながら創作し、発表している限りのことである。診療室で患者を診察し、医学関係の書籍を読んでいるときは医師なのであって、文学者ではない。 別に彼らのように二つの仕事を持っていなくとも、同じことはすべての芸術家について言える。「芸術家」 とはむろん人格的な存在であり、二十面相の仮面のように好き勝手に付け替えられるものではないにしても、それはあくまでも一人の人間が持つ、芸術に関する限りでの顔にすぎない。 ある人が芸術家であることは、他の問題についてのその人の責任を解除するものではない。だからこそ、作家であれ音楽家であれ、法に反したときは一般市民と同じように裁かれるのである、その場合、そこで裁かれるのは、芸術家ではなく一人の市民に過ぎない。 先月報道された、村上春樹のエルサレム賞受賞に対しては、いろいろな声がある。彼に対して、ガザ問題へのなんらかの意思表示を求める人もあれば、「彼は作家なのだから、ありがとうと言って貰ってくればいい。あとは作家としての仕事をすればよい」 という人もいる。むろん、最終的にどうするかは彼自身が決めることだ。それによって、ある者は失望し、ある者は安堵することになるだろうが、それは世界が様々な対立によって引き裂かれている以上、避けがたいことである。 一般的な話で言えば、「くれるものは貰っておけばいい」 というのは別に悪くない。それこそ、相手があとくされも何もない通りすがりの人であれば、それですむだろう。また、受賞が彼の文学的成果を高く評価したものだというのは、確かにそうかもしれない。そもそもこの問題で、村上に対しなんらかの意思表示を求めている人の中に、作家としての彼の評価自体にけちをつけている人などは一人もいない。 だが、賞というものは、むろん天から降ってくるわけではない。くれる人がそこにはちゃんといるのである。それをただ黙って受け取るということは、相手による評価を受け入れ、その権威を自己より上位のものとして認めるということでもある。一般的に言って、「贈与」とはそういうものである。そもそも問題は、エルサレム賞というものが、芥川賞・直木賞のような純然たる民間の賞とはいえないということだ。 1963年の第一回受賞者であるラッセル以下の、ほとんどノーベル賞級と言っていい錚々たる面々を見れば、この賞が単なる優れた作家・思想家に対する顕彰だけでなく、イスラエルによる国際的な宣伝と、国家としての名誉と権威の発揚という目的も持っていると見ることは、そう不当ではあるまい。(参照) たしかに、作家は小説を書くのが仕事である。人はおのれの最も得意とすることで、社会に貢献すればよいというのも、一般的に言う限りでは間違っていない。だが、「作家はその作品において社会に役立てばいい」 という素朴な論理は、たとえば 「党員は党員として、役人は役人として、兵士は兵士として、粛々とおのれの職務を果たしさえすればよい」 といった論理とどこか似ている。 スターリンの暴政を支えたのも、ナチのユダヤ人弾圧を支えたのも、そしていつの時代にでも様々な不正と不正義を容認し、あるいはときには加担さえしてきたのも、まさにそういう 「人はただおのれに与えられた任務をこなしてさえいればよい」 として、自己の職域以外のことには目を背け、また見て見ぬふりをすることを正当化する 「職域奉公論」 ではなかっただろうか。 かりに目の前に大怪我をしている人がいるとして、自分の詩は永遠の価値を持つ、自分の詩は多くの人の魂を救う、だから詩作のほうが大事だ、と言う詩人がいれば、それは当然のことながら非難に値する。「文学は飢えた子供の前で有効か」 とサルトルは問うたが、飢えた子にとって必要なのはむろんパンであって、一編の詩ではない。 日中戦争が勃発した直後、小林秀雄は 「戦争について」 という短文の中でこんなことを書いた。 戦争に対する文学者としての覚悟を、ある雑誌から問われた。僕には戦争に対する文学者としての覚悟というような特別な覚悟を考えることはできない。銃をとらねばならぬときがきたら、喜んで国のために死ぬであろう。僕にはこれ以上の覚悟が考えられないし、また必要だとも思わない。いったい文学者として銃をとるなどということがそもそも意味をなさない。誰だって戦うときは兵の身分で戦うのである。 「喜んで国のために死ぬであろう」 という言葉はともかくとして、小林は少なくとも 「文学者」 なるものが、社会において特権的な存在などではないということは十分に理解していた。1. 中野重治 『芸術に政治的価値なんてない』 昭和四年2. 3. 同 『いわゆる芸術の大衆化論の誤りについて』 昭和三年
2009.02.06
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