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阿弥陀様と弥勒様がどう違うかというと、まずは阿弥陀様は如来であり、弥勒様は菩薩であるということになる。如来とはすでに悟りを開いた仏のことであり、お釈迦様のほかにも、大日如来や薬師如来などがいる。ようするに、数ある仏様の中でも最高に偉い仏様のことである。 いっぽう、菩薩のほうは、本来まだ悟りに達していない修行中の行者を指す言葉であったのが、やがてすでに悟りの境地に達しているにもかかわらず、われわれ悩める大衆を救済するために、仏陀となることを自らの意思で停止し、この世に留まることを選んだ仏をも意味するようになった。 つまり、菩薩とはおのれ一人の成仏よりも、現世の中で悩み苦しむ多くの庶民を救済することを優先させたという、たいへんに責任感が強く、また慈愛に満ちた方々なのである。なので、まだ成仏していない菩薩様は、すでに成仏した如来様よりほんらい一ランク下であるにもかかわらず、昔から下々の民にたいへん親しまれてきた。 道端に立つ、かわいらしい姿の地蔵様もそうである。なにしろ地蔵様ときたら、子供たちに縄で縛られて引きずりまわされても、けっして怒らない。それどころか、地蔵様になにをするかと子供を叱った人の夢枕に立って、「せっかく遊んでいたのに、なんで邪魔をした」 と叱り飛ばしたという話もあるくらいだ。 阿弥陀様は、念仏で 「南無阿弥陀仏」 と唱えるくらいだから、浄土真宗などの浄土系仏教では、最もありがたい仏ということになっている。ようするに、「一切の衆生救済」 という願いをたてた、無限の慈悲を持つ阿弥陀様のお力にすがることで、われわれ愚かなる人間も救われるということだろう。「無量寿経」 や 「観無量寿経」 とともに、「浄土三部経」 と呼ばれている 「阿弥陀経」 では、お釈迦様が大勢の弟子を集めて、こう説いたとされている。そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく。「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。舎利弗、かの土をなんがゆゑぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなく、ただもろもろの楽を受く。ゆゑに極楽と名づく。」 いっぽう、弥勒様は、なんと56億7000万年後にこの世に現れて、大衆を救済するのだそうだ。もっとも、このとてつもない数字というのは、弥勒様は 「兜率天」 で4000年を過ごし、しかもそこの一日は地上での400年にあたるなどという、いろいろとややこしい計算によるもので、経典自体にそう書いてあるわけではないらしい。 社会が乱れ 「末法思想」 が流行した平安末頃には、この遠い未来に現れて大衆を救済するという、弥勒菩薩に対する信仰も盛んだったが、やがて 「西方浄土」 に現におわしますライバルの阿弥陀様に押されて、正規の仏教信仰としては衰退してゆく。 たしかに、56億7000万年は待つにはちと長すぎる。とはいえ、それ以降も、弥勒信仰は民間宗教化しながら、いろいろな形で生きながらえ、ときには 「世直し一揆」 などにも影響を与えたりもしたという。実際に、中国では、弥勒を信仰した白蓮教徒による大規模な反乱も、元の末期や清の時代などに起きている。 ただし、いずれも、いわゆる 「大乗仏教」 に属する経典にでてくる話であり、実際にシャカが説いた教えとは直接の関係はない。阿弥陀様も弥勒様も、広大無限なる 「慈悲」 によって、悩み苦しむ現世の大衆を救済するという点ではよく似ており、どちらについても、イランで生まれたゾロアスター教やミトラ教などの、「一神教」 的性格の強い 「救済宗教」 の影響が指摘されている。 いつの時代でも、貧病苦などの現実の苦しみから逃れられない人間が求める 「救済」 とは、なによりもこの世における 「救済」 なのであって、ただの 「魂の平安」 やわけの分からぬ 「来世の救済」 などではない。ユダヤの神ヤーヴェがノアに約束したのは、地上を彼の子孫で満たすことだし、アブラハムに約束したのは、カナンという 「乳と蜜の流れる約束の地」 であって、いずれも 「来世」 や 「天上」 における救済などという空手形ではない。 池田信夫という人は、「古代ユダヤ教が故郷をもたないユダヤ人に信じられたのも、ウェーバーが指摘したように「救いは地上ではなく天上にある」という徹底した現世否定的な性格のゆえだった」 と書いているが、世界の終末を経て現れる 「神の国」 とは、「天上」 ではなくこの 「地上」 に現れるものとされたからこそ、信者に対して強烈な力を及ぼしたのではあるまいか。 たしかに、その救いは天上の神によってもたらされるものだが、それがもたらされるのは、つねに 「現世」 であるこの 「地上」 においてであって、どこにあるやともしれぬ 「来世」 や 「天上」 においてではない。 むろん、それは原始キリスト教でも同じであり、「ヨハネ黙示録」 に描かれた 「世界の終末」 とは、地上の帝国たるローマが滅びて、彼らの待ち望む 「神の国」 がまもなく現実のものとなることへの期待を託したものである。そのような、遠くない未来への期待があったればこそ、彼らは様々な弾圧を耐え忍ぶこともできたのだろう。 だが、キリスト教が世俗的な権力と一体化し、あるいは自ら世俗的権力となったとき、そのような 「ユートピア」 的思想は異端視され、救済は 「現世」 ではなく、「来世」 におけるものとされることとなった。「世界の終わり」 によって現れるとされた 「神の国」 もまた、すでに教会という形で地上に存在しているものとされ、原始キリスト教が帯びていた 「終末論」 的色彩は危険なものとして否定され、拭い去られることとなった。 洋の東西を問わず、宗教的な 「終末論」 に含まれた 「現世否定」 とは、いまこの地上に存在する現実に対する徹底的な否定のことであり、それは 「天上」 における救済と同じではない。たしかに、しばしばそこには不老不死などのような、現実離れした空想が含まれることもあるが、それもまた始皇帝らがとりつかれたような、昔からある世俗的な人間の夢のひとつにすぎない。 「ユートピア」 とは、いうまでもなくトマス・モアの同名の著書に発する、「どこにもない場所」 という意味の造語である。しかし、歴史においてしばしば 「ユートピア」 思想が大きな影響力を持ったのは、それが、たんなる暇人の空想ではなく、そのような今はまだ 「どこにもない場所」 がすぐそこに迫っていると夢想され、あるいは、ときには神の意思など待たずに、自らの力で 「今・ここ」 において現実化させようという強烈な希求力を人々に与えたからでもある。 モアの 『ユートピア』 と並ぶユートピアの書である 『太陽の都』 を書いたイタリアの人カンパネッラは、地動説を説いて破門されかけたガリレオや、宇宙の無限を説いて焼き殺されたブルーノと同時代の人だが、70年の生涯のうち半分に近い30年近くを獄中で過ごしたという。それは、かの 「陰謀の人」 ブランキに優るとも劣らぬ大記録である。 彼もまた、そのような 「ユートピア」 がすぐそこに迫っており、現実化が可能だと考えたからこそ、激しい拷問と長い幽閉に耐え、ときには狂人のふりをするといった手練手管をも使いながら、ソクラテスのように従容として死を受け入れるのではなく、恥も外聞も気にせずに、ただひたすら生き延びるということを優先させたのだろう。 最後は、またまた出だしとはえらくかけ離れた話になってしまったが、タイトルはそのままにしておく。そうそう、草なぎ君の例の 「事件」 については、何人かが非難めいたことを言っていたが、そのほとんどは 「お前が言うなー」 という類のものであった。鳩山大臣もテリー伊藤も、いったいどの口で言うとしか言いようがない。
2009.04.27
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昨日は一日曇っていたのに、今日は抜けるような青空だった。一日空を覆っていた灰色の天幕は一夜明けただけで魔法のように消え、足に力を入れて跳びあがればそのまま大気圏外にまで飛んでいけそうな青空になった。春はまことに天気の移り変わりが大きく、それに応じて、人の気分もころころと猫の目のように変わる季節である。 誰が言い出したのか、世界の 「三大哲人」 というと、インドの釈迦にギリシャのソクラテス、それに中国の孔子様ということになっている。これに、さらに中東で生まれたキリストを加えて 「四大聖人」 という呼び方もあるらしい(ソクラテスのかわりに、イスラムの開祖ムハンマドを入れる場合もあるようだ)。 鎌田東二という人(よくは知らないが宗教学者だそうだ)によれば、この 「四大聖人」 という呼び方を考案したのは、『武士道』 で知られる新渡戸稲造と講談社なのだそうだ(参照)。鎌田が言う、明治から大正にかけての 「修養」 ブームの時代とは、たとえば一高生の藤村操が 「不可解」 なる言葉を残して華厳の滝に身を投げた時代であり、夫人によれば 「狂人」 のごとき怒れる人であった漱石が、その死後には弟子らの手で 「則天去私」 の偉人へと神格化された時代でもある。 また、西田幾多郎の 『善の研究』 が多くの青年に読まれ、倉田百三が 『出家とその弟子』 を書き、人道主義を掲げた白樺派が登場し、その一方で西田天香の一燈園 注1や山室軍平の救世軍、その他、仏教系や教派神道系の様々な宗教団体の活動が活発化し、多くの悩める青年がそういった団体に身を投じた時代でもある 注2。亡き父の回想によれば、草生す田舎の神官の家から都会へと出てきたわが祖父もまた、そのような青年の一人であり、若い時期には天理教から大本教まで、いろんな宗派を渡り歩いていたのだそうだ。 鎌田の言うとおり、東洋と西洋を含む世界の文明圏から、それぞれ無難なる代表者を選んで並べあげるという発想には、いかにも昔からなんでも折衷させることが得意だった日本人らしさがにじみ出ている。それは、後発文明国の知識人特有の劣等感と、その裏返しである肥大した意識、すなわち東西の文明という二人の巨人の肩の上に乗っているだけで、その両者を乗り越えたかのように思い込む小人的高慢さとの奇妙な混合物でもあり、小は思い付き的な 「東西文明融合論」 から、大は 「八紘一宇」 などという夜郎自大な妄想にまで共通している。 「世界に冠たるドイツ」 とは、三月革命前のいわゆる 「メッテルニヒの反動時代」、いまだドイツの統一ならざる時代に、国を追われて放浪していた詩人が統一の悲願を込めて作った詩がもとになっているそうで、もともとは別に 「世界征服」 などという恐ろしい野望が込められていたわけではなかったらしいが、やがてドイツ・ナショナリズムを鼓吹する歌として熱狂的に唱和されるようになる。 また、話がそれてしまった。さて、上にあげた四人に共通する点と言えば、いずれも自己の著作を残さなかったことだ。釈迦の言葉はその死後に 「仏典」 として結集され、孔子の言葉は 『論語』 として、ソクラテスの言葉はプラトンやクセノフォンによって、そしてキリストの言行は、言うまでもなくルカやマタイによる 「福音書」 として、現代にまで伝えられている。 で、彼ら弟子たちが師の言葉をなぜ書に残したかというと(中には、すでに伝承された言葉でしか、師のことを知らない者すらいた)、それは言うまでもなく、身近に聞き、または伝承によって知った祖師の言葉に深く感銘したからだろう。「述べて作らず」 とは孔子様の言葉だが、彼らの弟子もまたそのような態度に徹した。それは、おのれが決して師の足元にも届かぬという自覚があったからに違いない(ただしプラトンは除く)。 もっとも、孔子自身は 「後生畏るべし」 とも言っていて、若い人が秘めている可能性についても素直に認めている。このへんは、なにかというと「いまどきの若い者は」などと言いたがる、われわれ愚昧なる大衆とは、さすがにできが違う。この言葉は、さらに 「四十、五十にして聞こゆることなくんば、これまた畏るるに足らざるのみ」 と続いていて、これもまたそのとおりである。諺には 「亀の甲より年の功」 というが、いつもいつも年の功が亀の甲よりも優るとは限らないということだ。 さて、三度話は変わるが、イチローが日本のプロ野球とメジャーの試合で放った通算安打数が、ついにあの張本の記録を抜いたそうである。これは、まさに孔子様の言う 「後生畏るべし」 の好例と言うべきだろう。 スポーツの世界では、どんな名選手も年齢には勝てない。体力の衰えとともに、いつかは引退を余儀なくされ、指導者や解説者としての二度目の生を送らざるを得ない。テレビなどでの彼らの解説が的を得ており、思わず、うんうんと頷いてしまうのは、言うまでもなく、彼ら自身がかつては好選手であり名選手であったからである。 ところが、世の中には奇妙な解説者というのもいる。「批評家」 と称される解説者がそれである。作家と批評家とは一般にコブラとマングースのごとき 「不倶戴天」 の関係にあり、作家の中には 「批評家」 なんて者は、実作者に憧れながらその才能がなかった連中にすぎないなどという酷評をする人までいる。たしかに、それはそれで一理ないわけでもない。 一般に、誰かについて 「解説する者」 は、その対象が優れていると思っているからこそ解説をする。これは当たり前のことで、なにか特別な必要性などがない限り、しょうもないものやつまらないものについてまで、わざわざ自分の限られた時間を費やし、手間暇かけて解説しようなんて酔狂な人間はいない。 ということは、だいたいにおいて 「解説する者」 と 「解説される者」 とでは、一般に 「解説される者」 の方が優れているということだ。そして、そのことは 「解説する者」 は往々にして 「解説される者」 のすべてを理解する能力を持っておらず、ただ自分の理解力に応じた、自分が理解したと思ったところだけを(それは、しばしばただの勘違いだったりもする)解説したり、ときにはしたり顔で批判して見せたりすることもあるということだ。 つまり、なにが言いたいかというと、世上にはマルクスだ、ニーチェだ、フロイトだのと、いろんな歴史上の偉い人の思想とやらを分かりやすく解説してくれる人がいるそうだが、たいていの場合、それはその人が理解したと思っているマルクスであり、ニーチェであり、フロイトであるに過ぎず、したがって、そんなもので分かったと思ってはいかんだろうということだ。 ましてや、まともに原著者の著作に当たらずに、そのへんの二流・三流思想家の 「批判」 なるものを読んだだけで、原著者の思想について批判めいたことを語るのは、まったく馬鹿げたこととしか言いようがない。「学びて思わざればすなわちくらし。思いて学ばざればすなわちあやうし」 とは、これまた孔子様のありがたいお言葉である。 そもそも百年・二百年を経て今なお名前が残り、その著作が多くの人に読み継がれてきたような人、言い換えるなら、百年に一人、現れるか現れないかのような偉い人の思想について、簡単にまとめた解説ができる人など、おいそれといるわけはないのである。注1. 馳浩衆院議員や、ヤンキー先生こと義家弘介参院議員などらで、「国会掃除に学ぶ会」 というものが作られ、国会内での素手でのトイレ掃除が率先して行われているらしいが、その発祥はどうやらこの団体ではないかと思われる。注2. それは大雑把に言えば、明治以来の急速な近代化に伴う社会的変動によってもたらされた 「故郷喪失による不安」 の時代であり、昭和初期の左翼運動が盛んだった時期をはさんで、そのほとんどは超国家主義運動へと合流することになる。
2009.04.17
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前々回、スターリンの民族論に触れたが、民族に関する彼の定義は、「言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を特徴として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体」 というものだった。 つまり、彼にとって 「民族」 の問題と 「言語」 の問題は、最初から切っても切れない関係があったということだ。その彼が晩年の1950年(当時すでに71歳!)、脳卒中で死亡する3年前に発表したのが、当時ソビエト言語学界を支配していたマール理論を批判した 「言語学におけるマルクス主義について」 という論文である(参照)。 この論文は、前々回にも触れた典型的な 「カテキズム」 形式で書かれている。たとえば、次のように。問 言語は土台のうえに立つ上部構造であるというのはただしいか? 答 いや、ただしくない。問 言語はいつでも階級的なものであったし、いまもそうであるということ、社会にとって共通かつ単一な、階級的でない、全人民的な言語は存在しないということは、ただしいか? 答 いや、ただしくない。 つまり、ここでは彼は、自分より格下の弟子からの 「問い」 に対して、けっして疑ってはならないご託宣のごとき 「真理」 を与える教祖様として振舞っているわけだ。むろん、それは 「偉大なる指導者」 である 「偉大なる同志」 スターリンとしては、当然の振る舞いではあるだろう。 この論文の意味は、上の二つの問いに対する回答に表れているように、言語の 「上部構造性」 と 「階級性」 の否定ということにつきる。田中克彦などの紹介(参照)によれば、彼が批判したマール理論というものには、たしかに荒唐無稽なところもあったようだが、この二つの否定が、マルクス主義の基本的な常識にまったく反したものであることは言うまでもない。 もし、これが他の者の言葉であるなら、おそらく一顧だにされていなかっただろうが、なにしろ 「偉大なる同志」 のお言葉である。あだやおろそかにするわけにはいかない。そこで、この 「論文」 を読んだ当時の共産党系の学者や理論家らは、びっくり仰天しながら、それまでの 「定説」 の書き換えや、後付けでのもっともらしい説明に苦心し、阿諛追従に走り回らざるを得なかった。ご苦労なことである。 さて、この論文での彼の言語観は、「言語は......生産用具、たとえば機械とはちがわない」 とか、「言語は手段であり用具であって、人々はこれによって、たがいに交通し、思想を交換し、相互の理解にたっするのである」 といった、その目的や効用のみに着目した典型的な 「言語=道具説」 である。 しかし、どう考えても、言語は機械のように手で触れるものでも、目に見えるものでもなければ、人間の意識の外部に、人間の意識と無関係に存在するものでもない。発話し解釈する主体としての人間と切り離してしまえば、音声としての言語は、オシログラフ上で一定の波を描く、ただの空気の振動にすぎない。 たしかに個々の人間にとっては、言語は規範としての 「外在性」 を有している。言語は、それを知らぬ人間にとっては、そこにあるものとしてまず学ばなければならないものである。だが、言語を学ぶということは、最初は自己の外部にわけの分からぬものとして存在していたものを、自己の内部へと取り込み 「主体化」 する過程にほかならない。 その一点だけでも、言語は、人間の外部にあって、目的に応じ好き勝手に利用できるただの道具などとはまったく異なるはるかに複雑なものである。そもそも、言語が人間の意識や主観と不可分な 「観念的存在」 である以上、その 「上部構造性」 を否定することはとうていできない。 スターリン時代には、しばしば科学や学問の 「階級性」 や、「ブルジョア科学」 に対する 「プロレタリア科学」 の優位ということが強調された。相対性理論や量子力学などの現代物理学が、唯物論に反する 「ブルジョア科学」 として否定された時期もあった。とりわけ、メンデルの遺伝法則を否定して獲得形質の遺伝を主張したルイセンコ学説の話などは、今も有名な語り草である。 西欧言語学の定説と鋭く対立したマール理論が、一時期ソビエト内で支配的位置を占めたのも、おそらくそれと同様の理由によるものだろう。しかし、そういったきわめて政治的な 「国威発揚」 のためのプロパガンダに過ぎない 「プロレタリア科学」 なるものは、どれも結局は現実の前に敗北した。ルイセンコ学説の 「ニセ科学性」 は、農業の不作による飢饉の発生という現実によって明らかにならざるを得なかった。 第二次大戦が終結し、ソビエトがアメリカと並ぶ 「大国」 としての地位を確立したこの時期に、スターリンがマール学説の批判に乗り出したのは、そのような旧来の独善的な 「プロレタリア科学」 なるものが、大国として世界の表舞台に登場することとなった、ソビエトの科学や学問の発展の足かせになっているという判断も、おそらくはあったのだろう。 しかし、そのような悪弊の是正は、「偉大なる指導者」 スターリンの個人的権威の行使という、これまたきわめて政治的な方法によって行われた。これは、「粛清」 や 「弾圧」 の責任を、直接の担当者であったヤゴーダやエジョフといった部下に押し付けて、自分の無謬性を守りながら、かえってその神格性を高めたやりかたと同じ、ただのトカゲの尻尾切りにすぎない。 ところで、このスターリン論文については、国語学者である時枝誠記が次のような疑問を呈している(参照)。言語は、たといスターリン氏が単一説を主張しても、歴史的事実として、そこに差異が現れ、対立が生じるのは、如何ともし難い。もしそれを階級といふならば、言語の階級性は言語の必然であつて、これを否定して単一説を主張するのは、希望と事実とを混同した一種の観念論にすぎない。「スターリン『言語学におけるマルクス主義』に関して」 言語の 「階級性」 という、本来ならマルクス主義者こそが強みを発揮しなければならない問題について、マルクス主義者ではない時枝のほうが正しく認識していたというのは、なんとも皮肉な話である。 最近刊行された伝記によると、彼は国家の最高指導者という激務をこなしながら、なんと1日500ページもの読書をこなしていたそうだ。彼はたしかに、レーニンのような緻密な思考や、トロツキーのような輝かしい才気こそ持っていなかったが、人並みはずれた強靭な意思と能力を持った人物ではあった(参照)。 なにしろ、ブハーリンのように、若い頃からの付き合いがあって、彼を正面きって批判したことなど一度もない長年の 「友人」 ですら、でっちあげの罪を着せて 「銃殺」 することをためらわなかったような人物なのだから。 いったい、彼はなぜ、あれほど多くの、それもすでにほとんどが政治的にはまったく無害であり無力であった、かつての 「同志」 や 「友人」 、有能な党幹部や赤軍将校らの血を欲したのか、それもナチによる脅威が目前に迫っている中で。これこそまさに20世紀における最大の謎というべきだろう。 たしかに、この30年代末期の 「大粛清」 には、ナチとの衝突という予想される危機の中で、自己のライバルとなりかねない可能性を持った人材をあらかじめ一掃しておくという意味もあったのかもしれない。また、革命第一世代のほとんどを抹殺することで、その歴史と記憶を書き換えることにも成功した。その結果、彼は神のごとき全能の 「独裁者」 へと、また一歩近づいたわけではあるが。 歌舞伎に出てくる河内山宗俊には、かどわかされた町娘を取り戻しに大名屋敷に乗り込んで言い放った、「悪に強きは善にもと」 という名台詞があるが、古今東西の歴史には、巨大な悪をなしとげた巨大な人物というのも、たしかに存在している。彼もまたその一例ということなのだろう。
2009.04.13
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今日はいい天気だった。こんな日は、とても昼間から仕事などやる気にならぬのだが、今日中に納めてほしいと遠く東京から依頼があったもので、しかたなく二時間ほどでちゃちゃっとやりあげてから外に出た。 いつもの散歩コースを歩いて、区と区の境を流れる川のほとりまで出たら、「アルカディア×××」 というマンションが建っていた。そう大きなマンションではなかったが、深い緑色の石造りを模したなかなか瀟洒な建物であった。調べてみたら、「アルカディア」 という名前のマンションなどは、日本中のあちらこちらにあるようだ。 「アルカディア」 という言葉は、もとはギリシアはペロポネソス半島中央部の貧しい山岳地帯を指していた言葉だそうだが、後世、「牧人の楽園」 との伝承が生まれたとかで、、やがて中国で言う、「桃源郷」 のような意味の言葉としても使われるようになる(参照)。 ラテン語で "Et In Arcadia Ego" と書くと、「われ、アルカディアにもあり」 という意味になるが、これは17世紀イタリアで生まれた言い回しなのだそうだ。この言葉の 「われ」 とは、ほんらい 「死」 のことをさす。したがって、この言葉は、「死」 は 「アルカディア」 のような 「桃源郷」 の中にもちゃんとあるよ、という意味になる。 つまりは、この言葉は、「理想郷」 とされ、みなが憧れる 「アルカディア」 すらも、「死」 からは免れないという警告であり、これもまたラテン語の有名な言葉である 「メメント・モリ」、すなわち 「死を忘れるな」 という言葉とほぼ同じ意味ということになる。 松本零士の漫画 「キャプテン・ハーロック」 では、髑髏のマークをつけたハーロックの船の名前が 「アルカディア号」 だったが、はたして彼はどういうつもりで、この言葉を用いたのか。それは 「楽園」 を意味する言葉だったのか、それとも海賊旗の髑髏と同じく、「死」 を連想させる言葉であったのか。 はたまた、川岸に建っていた瀟洒な 「アルカディア・マンション」 に住んでおられる方々は、その言葉をいったいどういう意味で理解しておられるのか、まっ、そこまでは分からない。 テレビのニュースで、金正日総書記の最新の映像が映っていた。以前に比べると、劇的なぐらいにやせていた。むろんテレビの画像だけでは、それがなんらかの病的な意味を持つのかどうかは判断できない。ただし、画像の様子では、脳梗塞を起こしたことは確実のようだから、その再発を防ぐためにダイエットしたという可能性は高いのかもしれない。 かつて、韓国の独裁者だった朴正煕は、首都ソウルにあるKCIAの建物の中で、腹心だった当時の金載圭韓国中央情報部長に射殺された。これは今からちょうど30年前、1979年10月26日のことだ(参照)。 ソビエトでは、スターリンが死んだあと、30年代の 「大粛清」 以来、秘密警察を掌握していたベリヤが一時期実権を握ったが、結局、フルシチョフらの巻き返しにあって軍に逮捕され、あげくのはてに、スターリン時代の 「粛清」 の責任をすべて背負わされて処刑された。ただし、この事件の詳細については、いまも不明のところも多いらしい(参照)。 また、中国ではやはり毛沢東の死後に、彼の遺言によって後を継いだとされる華国鋒政権下で、毛沢東夫人だった江青ら、かつての文革の中心人物だったいわゆる 「四人組」 がいっせいに逮捕され、失脚するという事件が起きた。これは1976年のことだが、その後、華国鋒自身も退陣を余儀なくされ、トウ小平の復活という劇的な幕切れとなった(参照)。 最近では、8年前にネパールの王宮内で、当時のディペンドラ王太子によって、父親のビレンドラ国王ら多数の王族が殺害されたという事件が起きている。これも、首謀者とされる王太子自身も負傷し、直後に意識不明のまま死亡しているので、真相はよく分からない(参照)。 この事件の後、死亡した国王の弟で、その場にただ一人居合わさず、事件を免れたギャネンドラが王位に付いたが、国内の毛沢東主義勢力を抑えるために、権力の専制化を強め、結局は国民の反発を買って、王の座を去ることになった。その結果、王政そのものが廃止されて、ネパールは共和国となった。これは昨年のことである。 はてさて、「独裁者」 や、専制的支配を目論んだ者の末路は、みな悲惨なものである。「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」 とは、よく言ったものである。 太平洋に落ちた北朝鮮のロケットが人工衛星打ち上げだったのか、なんなのかは知らないが、いずれにしても、巨額の費用をかけてそんなことをする暇があるのなら、その前にやるべきことがいくらでもあるだろう。 「ミサイル開発」 であろうと、「ロケット開発」 であろうと、そのようなただ国家と指導者の面子をかけたにすぎないような行為は、なによりも飢えと窮乏、弾圧と抑圧に苦しむ 「北」 の民衆の名によってこそ、非難さるべきことだろう。かなたに 策のほどこしようもなく崩れていた出生の館の郷愁を誘う筆太のぼかしよ ぼかしの谷間に自分の領域を極度に限定したのちの墓碑銘を読めわれアルカディアにもありわれアルカディアにもありわれアルカディアにもあり 渋沢孝輔 「その粗暴なまでの」 より (詩集 「われアルカディアにもあり」 所収)
2009.04.09
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ずいぶん前に、某古書店の店主(もともと大学の先輩に当たる人だったのだが、50代の若さでガンで亡くなり、その後、店も結局閉じてしまった)から聞いた話だが、フルシチョフによる 「スターリン批判演説」 ののち、あちこちの古書店に 「スターリン全集」 が大量に安値で並んだ時代があったそうだ。 その話とは別に関係ないのだが、先日書棚を整理していたら、スターリン大元帥の著書が8冊も出てきた。といっても、全部、ぺらぺらの国民文庫なのだが、たしかずいぶん昔に、古ぼけた古書店の棚の隅で埃を被っていたのを何冊か見つけて、ほほぉー、と買い込んだものである。とくに彼の 「中国革命論」 や 「十月革命論」 は、政敵だったトロツキーの著書とあわせて読むと、なかなか興味深い。 スターリンという人はグルジアの出身だが、若い頃、聖職者になるために神学校で学んだことがあり(結局、自主退学だか放校処分だかになったらしい)、「レーニン主義の基礎」 とか 「弁証法的唯物論と史的唯物論」 などに顕著な、図式的で無味乾燥なカテキズムめいた文体に、そのときに受けた教育の影響を指摘する人もいる。 「カテキズム」 というのは、教義問答集などとも呼ばれる、キリスト教の教理指導を目的に作成された教科書のようなもので、一般に問答形式で書かれることが多い(いまでいえば、取扱説明書などにある、FAQ(よくある質問集)みたいなものだろうか)。 マルクスが 「共産党宣言」 を書いたのは、仕立職人をしながら共産主義の宣伝をしていたヴァイトリングという人の流れをくむドイツ人亡命者らが、イギリスで作っていた 「共産主義者同盟」 という組織から、綱領起草を依頼されたのがきっかけである。 このときも、最初はマルクスのお友達のエンゲルスが、「共産主義の諸原理」 という問答形式の文書を書いたのだが、エンゲルス自身もその古臭い形式に不満で、結局、マルクスが新たに書き直すということになったという話である。 ヴァイトリングは、ドイツに進軍してきたナポレオン軍の兵士だった父親と、現地のドイツ女性との間に生まれたそうで、その父親はモスクワ遠征に出かけたまま帰らなかったそうだ。なにやら、ソフィア・ローレンが主演したイタリア映画 「ひまわり」 のような話だが、帰らなかった父親が、相手役のマルチェロ・マストロヤンニのように、吹雪の中で倒れているのを助けられて生き延びたのかどうかまでは分からない。 初期の社会主義・共産主義思想というのは、多かれ少なかれキリスト教的な平等主義の影響を受けていて(聖書には、「富む者が神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」 という言葉がある)、ヴァイトリングの場合も当時の教会や聖職者に対しては批判的だったが、聖書からうかがえる原始的な平等思想には強く引かれていたようだ。とくにドイツの場合には、かのルターから 「悪魔の頭目」 呼ばわりされた、農民一揆の指導者トマス・ミュンツァーなど、中世以来のユートピア的な異端思想の流れというのもあるのかもしれない。 ちょっと、話がそれてしまった。スターリンのことに話を戻すと、彼の有名な論文のひとつに、「マルクス主義と民族問題」 というのがある。これは革命の前、第一次大戦が勃発する直前に書かれたもので、レーニン夫人のクループスカヤの証言(レーニンの思い出)によれば、レーニンがいわば赤ペン先生になって書かせたようなものである。 この中で、スターリンは民族について次のように定義している。民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を特徴として生じたところの、歴史的に構成された人々の堅固な共同体である。 スターリンによれば、この定義は 「民族のあらゆる特徴を数えつくした」 ものであり、ここにあげた 「すべての特徴が同時に存在するばあいに、はじめて民族があたえられるのである」 ということだ。 この定義が完全かどうかはともかくとして、そこそこに考えられたものであることは認めても良い。とくに、「心理状態の共通性」 という言葉によって、「民族とはなにか」という問題が、当事者らの主観的な 「意識状態」 に関わることは、少なくとも認められている。 ただし、このスターリンによる民族の 「定義」 は、言うまでもなく、当時のレーニンが指導していたボルシェビキと、マルトフらが率いるメンシェビキとの分派闘争とも無縁ではない。また、ロシア外の他の社会主義政党との対立とも関係があり、その意味では、きわめて政治的な産物でもある。 有名なレーニンの 「民族自決権について」 は、かのローザ・ルクセンブルクを相手取ったものだが、この時期の民族問題に関する論争で、彼が最も主要な相手としていたのは、通称 「ブンド」 と呼ばれていた、現在のポーランドの一部やリトアニアを含む、当時のロシア帝国内に居住していたユダヤ人労働者らが作っていた組織である。 つまり、この時期、レーニンは民族自決権そのものを 「ブルジョア的権利」 として否定するローザと、メンシェビキに組して、固有の居住地域を持たぬユダヤ人に対しても民族としての権利を認めろ、と要求していた一部ユダヤ人との論争という、左右を相手取った二正面作戦を戦っていたのである。 なので、上の定義で、スターリンが 「地域の共通性」 をあげたのは、意図的ではないにしても、特定かつ固有の居住地域を持たないユダヤ人を 「民族」 から排除するという意味も持っていたことは否定できないだろう。 しかし、この定義からすると、ユダヤ人に限らず、いかなる民族も、相互の混住が進んで、固有の定住地域を失ってしまえば、もはや民族ではなくなるということなる。たしかに、「民族」 は孤立した個人のみによっては構成されない。しかし、混住が進んだからと言って、それだけで 「民族問題」 が解消されるとは限らないのだから、これもまた現実を無視した乱暴な話ではある。 ところで、このユダヤ人らの要求を理論的に支えていたのが、当時、ロシア以上に深刻な民族問題を抱えていた、オーストリアの社会民主党(オーストロ・マルクス主義と呼ばれる独特の一派で、バウアーやアドラー、さらに戦後ドイツから再分離したオーストリアの初代大統領になったレンナーなんて人がいる)が掲げていた、「文化的・民族的自治制」 なるスローガンである。 これは、前掲のスターリン論文での引用によると、「民族台帳」 なるものを作って、「成年に達した市民の自由な申告によって......住民が諸民族に区分されることを前提とする」 というものらしい。彼によれば、バウアーは、オーストリア内の各民族に属する個人は、その居住地域に関わらず、それぞれの 「民族評議会」 を選出し、この評議会に、教育や文化、芸術など、民族に関連するあらゆる問題についての権限を与えるといった制度を提唱していたということだ。 民族の権利に関するレーニンの 「地域的自治制」 は、民族自決権の承認によって、特定の民族が多数居住する、その民族固有の一定の地域に対してのみ、分離の自由を含めた自治権を認めるというものだが、この 「文化的・民族的自治制」 は、それとあわせて、国民の全体を諸民族ごとに組織するものであるから、つまり国家全体が、「民族問題」 に限ってではあるが、上から下まで民族ごとに分けられることになる。 これは、支配的なドイツ民族以外にも多数の民族が混住していた、当時のオーストリア帝国の多民族的構成を温存したままでの民主化を目指していた、社会民主党が考案した苦肉の策のようなものだが、このような制度は、「民族問題」 という爆弾をそっくりそのまま体内に抱え込むようなものであり、平和時はともかく、いったん民族間の反目が激化すれば、国家全体が民族の対立によって引き裂かれることになるだろう。 その意味では、レーニンがこの問題について、深刻な危惧を抱いたのも不思議ではない。実際、ソビエトの力を借りずに、いやそれどころかスターリンとチャーチルの密約すら無視して、チトーにより自力で建国された、やはり多民族国家であった旧ユーゴスラビア社会主義連邦では、それと似た制度が採られていたのだが、彼の死後にそれがどうなったかは、もはや言及を要しないことだろう。 このスターリン民族論は、その後、革命後のソビエトにおける民族政策の基本になっていくわけだが(もっとも、実際には理論など無視した、ただの政治的な 「ご都合主義」 もあちこちに見られるのだが)、そのへんの話は山内昌之とか田中克彦などの本に詳しいだろうから、そちらに譲ることにする (おおっ、偉そう)。関係あるかもしれない過去記事: ロシア・グルジア紛争のゆくえ ローザの民族論についても少し触れた
2009.04.07
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