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市谷で自決する6年前に三島由紀夫が書いた、『私の遍歴時代』 というタイトルのなかば自伝風のエッセーは、次のように始まっている。 小説家として暮らしている今になってみると、むかし少年時代の私が、何が何でも小説家になりたいと思っていたのは、実に奇態な欲望だったと思い当たる。こんな欲望は、決して美しいものでもロマンチックなものでもなく、ようするに少年の心がおぼろげに予感し、かつ怖れていた、自分自身の存在の社会的不適応によるのであろう。今とちがって、小説家になれば金持ちになるから、などという空想はありえなかった。 ここには、おそらくなんの嘘もないだろう。肉体や現実よりも先に言葉を獲得し、遅れて肉体を持ったときには、「その肉体は言うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた」(太陽と鉄)と回想しているような早熟の少年にとって、自分がぎこちない肉体を持ち、言葉によっては支配できない現実の中に生き、現実に拘束されていることは、たぶんとても耐え難いことであったに違いない。 だとすれば、彼が戦争末期を振り返って、「自分一個の終末観と、時代と社会全部の終末観とが、完全に適合一致した、まれに見る時代であった」 と言っているのも、じゅうぶんに理解できる。そこには、たしかに彼自身言っているように、いくらかの過去の美化が混じってはいるかもしれない。だが、なんといっても、「世界はわれとともに滅びるべし」というのは、今も昔も変わらぬ、ロマン主義者が夢見る最大の夢なのである。 しかし、「世界の破滅」 という夢が未発におわったとき、この浪漫派かぶれの早熟な少年にとって、「不幸は、終戦とともに、突然私を襲ってきた」。少年はいっときの夢から覚めて、つらい現実の中で生きていかねばならない。 幸運にも、この少年は感じやすい自我とともに、不釣合いなほどに強い意志を持っていた。だが不幸なことに、その意志にはかんじんなものが欠けていた。そのうえ、鈍重な現実によって鍛えられる前に、時代の寵児となってしまうほどの才能を持ち合わせていた。そのことも、おそらくは彼にとって不幸なことだったと言えるだろう。 売れっ子となった三島は、驚異的な努力によって肉体を鍛え上げ、隆々たる筋肉をまとうこととなったが、筋肉を鍛え上げるのは容易でも、運動神経を鍛えるのは容易ではない。三島の剣道がへたくそだったことは、当時、盾の会にいた人の証言があるが、運動音痴がへたに筋肉をまとえば、動きはかえってぎこちなくなる。「運動音痴」 とは、ようするに世界に対する肉体の違和であり、おのれの肉体に対する違和の別名なのである。 三島の葬儀で、武田泰淳は 「君はもう頑張らなくていいんだよ」 と語りかけたという。「頑張る」 とは、彼の場合、つねに他人の期待にこたえることであった。父親の期待にこたえるため勉学に頑張り、世間の期待にこたえるため 「流行作家」 として頑張り、マスコミの要求にこたえるため、「英雄」 という名の 「道化」 を演じることに頑張った。半世紀にも満たない、三島という人の一生は、そういうものであったように見える。 筋肉をまとい、健康な肉体を手に入れたことで、三島はたぶん、ひ弱で孤独だった少年時代には遠くから羨望しながら眺めていた、「男の世界」 に入る資格がようやく得られたと思ったのだろう。彼の自衛隊への体験入隊とは、そういうものだ。だが、高名な作家を迎え入れた自衛隊の側の気苦労は、はたしていかなるものであったのか。『太陽と鉄』 で体験入隊について語る、その華麗な文章はほとんど滑稽でしかない。 たかだか11メートルの高さからにすぎない落下傘の訓練程度で、「そのとき明らかに、私は、私の影、私の自意識から解き放たれていた」 などと語っていること自体が、彼が抱えていた自意識という病の深さを明るみに出している。普通の隊員は、そもそもそんなことなど考えもしまい。自意識という病は、結局のところ、彼が死ぬまで抱えていた狼疾であったのだ。 たとえば、最初に冒頭部分を引用した『私の遍歴時代』 というエッセーは、こんなふうに締めくくられている。 そこで生まれるのは、現在の、瞬時の、刻々の死の観念だ。これこそ私にとって真に生々しく、真にエロティックな唯一の観念かもしれない。その意味で、私は生来、どうしても根治しがたいところの、ロマンチックの病を病んでいるのかもしれない。26歳の私、古典主義者の私、もっとも生の近くにいると感じた私、あれはひょっとするとニセモノだったかもしれない。 官僚一族に育った三島由紀夫は、ロマン主義者としてふるまうには明晰であり、律儀でありすぎた。また古典主義者であるには懐疑的でありすぎた。人はロマン主義者であるには、自己への懐疑を禁じなければならないし、古典主義者であるには世界への懐疑を捨てねばならない。なんの情熱も持ちえない者は、唯美主義者ではありえても、ロマン主義者にはなりえない。たとえ不毛なものであろうと、情熱を欠いたロマン主義者とは、一個の背理にすぎない。 「われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり」 とか、「日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである」、「千万人といえども我往かん」、「民衆の罵詈讒謗、嘲弄、挑発をものともせず、かれらの蝕まれた日本精神を覚醒させるべく」(反革命宣言 『文化防衛論』 所収)などと語る彼の言葉は、ほとんど愚劣でしかない。定型文句を並べ立てたその空疎さは、とても言葉を偏愛した三島のものとも思えない。 福田和也は文庫版 『文化防衛論』 の解説で、「三島は不敵かつ不吉な扇動者となった」 と書いているが、冗談ではない。これは扇動としてはまったく馬鹿げており、同じ時期に、「前段階武装蜂起」 による首相官邸占拠を唱えて、大菩薩峠で大量逮捕された赤軍派にすら、遠く及ばない。この扇動文の空疎さは、むろん彼の現実認識の空疎さを反映したものと言えるだろう。 認識は情熱を必要とする。情熱のないところには、いかなるまともな認識も生まれない。戦争中にはどこにでも溢れていたような、空疎な決まり文句をただ羅列した扇動も、彼が作り上げたわずかな人数のおもちゃの軍隊も、結局のところ、すべて彼にとっては、自己の死を飾り立てるための道具立てに過ぎなかったように見える。 おそらく三島の悲劇は、彼が頑張りすぎる人だったことにある。社会的不適応という自覚があったのなら、無理してマスコミや文壇の寵児であり続ける必要などなかったはずだ。彼の強烈な克己心は、つねにただひ弱な自我を覆い隠し、他人の視線に応えるためにのみ充てられたように思える。それはすべて不必要な 「頑張り」 であり、ただ最後の悲劇を招きよせることに役立ったにすぎないように見える。 マスコミに出続けたのも、鎧のごとき肉体を誇ったのも、同業者らの前でわざとらしい豪傑笑いをしてみせたのも、全共闘の学生らと対談をしてみせたのも、すべては自分は本当はニセモノではないのかという猜疑につねにさいなまれ、他人の視線と評価を気にせずにはいられなかったという、少年の頃と変わらぬひ弱な自我の表れでしかなかったように見える。 彼の死は、個人としてはたしかに悲劇だったかもしれない。しかし、政治的な事件としては、まったくの喜劇でしかない。もちろん、毎年各地で行なわれている、「憂国忌」 などという事々しい名称の行事は、それ以上に愚劣な茶番でしかない。 戦後17年を経たというのに、いまだに私にとって、現実が確固たるものに見えず、仮の、一時的な姿に見えがちなのも、私の持って生まれた性向だと言えばそれまでだが、明日にも空襲で壊滅するかもしれず、事実、空襲のおかげで昨日あったものは今日はないような時代の、強烈な印象は、17年ぐらいではなかなか消えないものらしい。『私の遍歴時代』 もしも、彼があと五年、遅く生まれていたなら、大衆化した戦後の文学を象徴する、時代の先頭を切った寵児としての役割を無理に演じ続けることもなければ、戦争中に流行したような、つまらぬ 「死の美学」 に回帰的に引き寄せられるようなこともなかったかもしれない。そのような仮定は、むろん無意味なものではあるが。二年前の関連記事: 今年も 「憂国忌」 の季節がきた追記: ふっと思い出して、橋本治の著書を探し出してみたら、タイトルが同じでありました。
2009.11.24
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最近は不景気のせいか、めっきり仕事の量も減っている。とりわけ、夏以降は極端な低空飛行が続いており、このままでは墜落しかねない。昨年9月にアメリカで起きたリーマンショックに始まる世界的な不況は、まず輸出を主とする製造業を直撃したが、その後も立ち直る気配はなく、じわじわと社会や産業の末端のほうへと浸透しているのかもしれない(経済については疎いので断言はしない。あくまでもただの印象)。 同業者らの話を聞くと、どうやら業界全体が不景気であり、仕事の絶対量そのものが減ってきているようだ。ということは、夏をすぎて仕事が減ってきたのは、とりあえずミスや不手際といった自己の責任によるものではないということになる。とはいえ、それは言い換えると、自分の力だけではどうにもならぬということだから、これはいったい喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。 先日、ニャーニャー弁でおなじみの 地下に眠るM さんから、ユング心理学の入門書として、河合隼雄の 『影の現象学』 を薦められた。そのときは書名しか知らないと答えたのだが、二三日前に、なにげなく書棚を見たらちゃんと飾ってあった。おやおや、いったいいつの間に、これこそユングの言うシンクロニシティかな、などと思ったが、なんのことはない、自分で買っていたことを忘れていただけ。もはや自分の書棚になにがあり、なにがないのかも分からない状態なのだ。 ぺらぺらっとめくってみると、たしかに 「ドッペルゲンガー」 についても、いろいろと触れられている。事前にこの本を読んでおけば、もうちょっとましなことが書けたかもしれない。ユングと、そして河合自身も言うように、たしかに影とは誰もが持っている自分の半身であり、また分身である。それは世界各地の多くの神話や伝承、民話や習俗、さらには子供の遊びなどからさえ確認できる。 しかし、ユングの言う影とは、それだけに留まらない。同書から彼の言葉を孫引きすると、「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでもつねに、直接または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと ―― たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向 ―― を人格化したもの」 であり、河合の言葉によれば、「その人によって生きられることなく無意識界に存在している」「その人によって生きられなかった半面」 というのが、その人の影ということになる。 同書では、シャミッソーの 『影をなくした男』 がとりあげられているが、この短編では、金に困っていた主人公のペーター・シュレミールが、ある金持ちの園遊会で見かけた、ドラえもんのように服のポケットから次々と物を出す不思議な 「灰色の服の男」 から、影と引き換えに、次から次にいくらでも金貨が出てくる 「幸運の金袋」 を授かる。 しかし、影をなくした男は、たちまち世間による迫害の嵐にあう。しつけのなってない悪がきどもからはからかわれたり、馬糞を投げつけられたりと、行く先々で散々な目にあうことになる。それはそうだろう、影がないとは実体がないということであり、ようするにこの世の存在ではないということだから。 結局、最初の約束どおり、一年後に再会した 「灰色の服の男」 に、シュレミールはもらった金袋と交換に自分の影を返してほしいと頼むのだが、かわりに 「灰色の服の男」 からは、影を返してほしけりゃこれにサインしろと、一枚の紙を突きつけられる。それにはこう書いてある。ワガ魂ガ肉体ヨリ自然離脱セシ後ハ、本状所有者ニ遺贈ツカマツルコト、異議ナキモノナリ。 つまり、この 「灰色の服の男」 とは、あの 『ファウスト』 にも出てくるメフィストフェレスと同じ悪魔だったのだ。あな、おそろしや。 なんか、話がそれた。ユングの言う 「影」 とは、自己の気づかぬ半身のことであり、多くの場合、それは意識的な自己とは正反対のものである。ちょうど、鏡に映った姿が左右反対であるように。 なので、厳格な禁欲的道徳を内面化した人は、それと正反対の放恣な性格を影として持っていることになるし、聖人君子のような利他愛を説く人は、その反対である利己性を影としていることになる。サドとマゾ、権威主義と反権威主義が相補的であることはフロムも指摘しているが、同性愛者をもっとも嫌悪し憎むものが、自身そのような傾向をかくしもっている者らであるということもよく言われる。 つまり、ユングによれば、人は多かれ少なかれ、二重人格者だということになる。それはたぶんそうなのだろう。「人格」 というものは、みなけっして一枚岩ではないし、人間は実際そう単純ではない。もし、本当にそんな人がいるとしたら、それは平板で深みにかけた鋳型のごとき人間であるにすぎない。ちなみに、「きれいはきたない、きたないはきれい」 とは、かの 『マクベス』 の冒頭に出てくる魔女の台詞である。 実際、明治の時代に内面的な道徳を説くキリスト教にもっとも惹かれたのは、おのれの欲望の強さに悩み苦しんだ青年らであった。それは実の姪に子を生ませた藤村の場合でも、他人の妻との 「不倫」 のすえに情死した有島武郎の場合でもそうである。もっとも、彼らのような悩みすら自覚せぬまま、たとえば聖人君子ぜんとした言動の下から、独善的な利己主義がすけて見えているような人がいれば、たしかに最悪だが。 ネット上でよく見かける、「お前が言うなー」 とか 「それはあんただろ」 などと思わず突っ込みたくなるような非難を他人にぶつけている人は、自分の影を相手に投影して、その影に向かって非難を浴びせているにすぎない。だから、その非難が他人から見れば、その人自身にもっとも合致した言葉として、そのまま本人に跳ね返っているのにまったく気づいていない。 おそらく、そのような人たちは、「自分はこうありたい」 とか 「あの人のようになりたい」 といったおのれの願望や理想を、そのまま自己の現実と取り違え、その結果、客観的な自己を見失い、無意識のうちに肥大したおのれの影を誰彼となく他人に投影して、人を非難しているのだろう。 カントは、人間の経験的認識は先験的概念である 「純粋悟性概念」 とやらに基づくと主張したが、いずれにしろ、人はみな、多かれ少なかれ自己に固有の認識の枠組みというものを無意識のうちに持っている。ありもしないところにまで 「陰謀」 の影を見る人は、その人自身がそのような枠組みで世の中を見ているからにすぎないし、他人の言葉にやたらと 「悪意」 や 「嘲笑」 を嗅ぎ取る人は、たいていの場合、おのれがそのような観念にとりつかれているからにすぎない。 なお、余談であるが、自意識過剰な 「独りよがり」 人間や、一知半解なことを知ったかした賢しら顔で言う人、あるいははったりや虚勢だけで中身のない者、物事を党派的にしか見れない者が、大きな顔で他人に大口叩いているのを見たりすると、正直言ってひじょうに 「むかつく」。その人がそういう特徴をいくつも備えていたりすると、最悪のうえに最悪である。 ネット上の論争などで、よせばいいのに余計なことに首を突っ込むのは、だいたいにおいてそういう場合である。意見や判断、解釈などについてならば、それぞれに違いがあるのは当たり前のこと。だから、あまりのトンデモぶりとかにあきれることはあっても、それほど 「むかつき」 はしない。人間、愚かなのはそもそもの仕様なのだから。 なので、それはなにも、敵だ、味方だ、というような話なのではない。ただ単純に、そういう勘違いをしている者とかを見ると、はなはだ 「むかつく」 ということなのであって、あくまで個人の好みと趣味の問題であるにすぎない。よけいな勘繰りなどはしないように。 うーん、なんだか今日もえらそう。 ひょっとすると、これは盛大なブーメランなのかもしれない(笑)関連記事: 物言えば 唇寒し 秋の空
2009.11.16
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最近というわけではないが、なんでも世間には 「フランクフルト学派」 による陰謀なるものが存在しているらしい。これを暴露し、世に警鐘を鳴らしているのは、京大の中西輝政教授や、ニーチェやショーペンハウエルの訳者でもある西尾幹二氏、さらには高崎経済大の八木秀次教授など、なかなかに錚々たる学者であり研究者たちである。 これは、こんなところやこんなところで見ることができるが、これを簡単にまとめると、戦後の急速な核家族化の進行と、それによる 「家」 制度や伝統的価値観の崩壊、「行き過ぎた」 男女平等や同じく 「行き過ぎた」 性教育、ジェンダーフリー思想の蔓延や 「性道徳」 の崩壊、そして離婚の増加や少子化といった現象も、どうやら日本の社会と国家の破壊と革命をもくろんだ、恐るべき 「フランクフルト学派」 の陰謀なのらしい。 「フランクフルト学派」 とは、もとはむろんワイマール時代のドイツでフランクフルト大学に設立された社会科学研究所に集まった、アドルノとホルクハイマーを中心とした一群の研究者らのことを指す。研究所が設立されたのは1923年だが、穏健左派の初代所長にかわって、当時は 「戦闘的唯物論者」 だったホルクハイマーが二代目所長に就任したのが1930年のこと。 時代は短命に終わったワイマール共和国、シュトレーゼマンのもとで経済の安定や周辺諸国との関係正常化に成功し、国連加盟もはたした 「相対的安定期」 であった。その一方、ローザの流れをくむ急進左派の側には、いったんは共産党に参加したものの、ソビエトの内情やコミンテルンの気まぐれな指導に嫌気がさして、離党する者や、新たな党を作って分離する者らもいた。 フランクフルト学派が、マルクスの強い影響のもと、「批判的理論」 を掲げて既存の社会秩序にたいする根源的批判という立場に立ちながらも、ソビエトや国内の共産党とは一線を画した立場に一貫してこだわり続けたのには、そういう背景がある。その思想に影響を与えたのには、マルクス以外にもルカーチやフッサール、さらにはウェーバーに始まるドイツの社会学や哲学も無視できないだろう。むろん、フロイトの名前も欠かすことはできない。 一般には、この二人以外に 『一次元的人間』 を書いたマルクーゼや、『自由からの逃走』 などで知られるフロム、ナチズムを主題とする 『ビヒモス』 を書いたノイマン、さらにレーヴェンタール、ポロックなども入るようだが、別に会員制のクラブというわけではないから、人によって多少の解釈の違いがあるのはしかたがない。それに、ハーバーマス以降の世代になると、もはやアドルノらの威光も相当に薄れてきているようだし。 また、御大であるホルクハイマーとアドルノにしても、時代によってその思想は変わってきている。ジャズもハリウッドも大嫌いという 「古典的知識人」 だったアドルノと違い、マルクーゼとフロムは戦後もアメリカに留まったが、そこには 「古き良き伝統」 ともいうべきヨーロッパの中産階級文化と、アメリカの社会やその大衆文化に対する感覚の違いもあるだろう。また、ナチズムの興隆と没落という、20世紀のドイツとヨーロッパ全域を襲った最大の悲劇に対する責任の取り方の違いということもあるのかもしれない。 アメリカに留まったマルクーゼが、60年代のベトナム反戦運動にたいして、きわめて好意的だったのに対し、ドイツに帰ったアドルノらは、同時期のドイツ国内の急進的運動にたいし、むしろ嫌悪感を表明している。なので、この時代、「フランクフルト学派」 といえば、むしろマルクーゼが代表格のようであり、当時の急進主義者の間でのアドルノの評判はあまりよろしくない。 おそらく 「フランクフルト学派陰謀論」 者に対して、最も強い印象を与えているのは、「ラブ・アンド・ピース」 の神様であった、この時期のマルクーゼなのだろう。彼らとは関係のない、心理学者で性科学者であったライヒが、しばしばその仲間に間違っていれられているのはたぶんそのせいなのだろう。それに、まともな時期のライヒの著作には、彼らと重なるような部分もないわけではない。 ところで、日本の場合で有名な社会科学研究所といえば、今は法政大学に置かれている 「大原社会問題研究所」 ということになるだろうか。大原社研はもとは大阪にあり、倉敷紡績の二代目であった大原孫三郎という人によって創設されている。倉敷にある大原美術館を開館したのも彼であり、そのほかにも病院や学校を建てるなど、地元のために様々な貢献をしている。 こういう活動には、産業革命の進展とともに浮かび上がってきた、都市と農村における様々な 「社会問題」 という背景もあるだろうが、事業でえた富は私的蓄財とすべきではなく、社会に還元すべきだという明治の経済人の心意気もあったのではないだろうか。とくに彼の場合、若い頃はぼんぼんとして放蕩を重ね、その後、石井十次なる人物を知り(救世軍の山室軍平らとともに、地元では「岡山四聖人」と呼ばれているそうだ)、キリスト教の教えに触れたということもあるようだ。 当然のことながら、「資本家」 だって個人としてみるならば、ただの資本が目に見える形に顕現した 「人格」 にすぎないのではなく、具体的な特性を有した個人なのだから、その活動には個人の思想が反映されることになる。なお、前首相の麻生氏の出自である麻生一族も、地元では本業の鉱業以外にも、病院や学校など様々な社会事業の経営も行なっている。ただし、これが事業利益の社会への還元と言えるのかどうかまでは、分からない。 ここで、山口昌男の 『本の神話学』 に収められた 「ユダヤ人の知的熱情」 というエッセーの中から、オーストリア系ユダヤ人であり、伝記作家として知られているツヴァイクの 『昨日の世界』 にあるという一文を引用してみる。ユダヤ人にあっては富の追求が、家庭内部の二代、せいぜい三代で終わってしまい、まさに最も強大な代において、父祖の銀行、工場、できあがった居心地のよい商売を引き継ぐことを悦ばない弟たちを生むのである。ロスチャイルド卿が鳥類学者となり、ワールブルクが芸術史家、カッシーラーが哲学者、サスーンが詩人となったことは、偶然ではない。 上に書いた大原孫三郎もそうだが、これを読んでちょっと連想したのは、かつて三菱重工業の社長を務め、三菱自動車工業を設立するなど、三菱グループで 「天皇」 と呼ばれるほどの力を持っていたという牧田与一郎の息子である牧田吉明という人物。彼は70年代に爆弾闘争を展開した男だが、爆弾事件で起訴されていた人の裁判で真犯人として名乗り出たという経歴がある。いわゆる 「過激派有名人」 の一人であるが、最近ではむしろ右翼人とのつきあいのほうが多いらしい。 また、麻生一族には、平野謙や本多秋五らの 『近代文学』 に近い人で、大井広介という筆名で評論を書いていた人もいる。そうそう、西武グループの総帥だった堤義明の異母兄で、辻井喬の名前で詩や小説を書いてもいる、西武セゾングループの代表だった堤清二の存在も忘れてはいけない。 話を戻すが、戦後、ドイツに帰国したアドルノのもとに留学したことがある徳永恂(『啓蒙の弁証法』 の訳者でもある)は、ウェーバーやルカーチ、アドルノについて論じた 『社会哲学の復権』 の中で、問題の 「フランクフルト学派」 という名称について、1950年代末頃から使われるようになったと書いている。 ということは、「歴史哲学テーゼ」 などで知られるベンヤミンの場合、1940年にフランスからスペインへ脱出しようとして失敗し、ピレネー山中で死を選んだのだから、少なくとも本人には 「フランクフルト学派」 などという意識はなかったことになる。とはいえ、その死後に本人の意思とは関わりなく、そのように呼ばれることになったことについてどう思うかは、もはや確認のしようがない。 彼がドイツからアメリカにまるごと移転した研究所に協力したことは事実であるが、彼を 「フランクフルト学派」 に入れることは、彼をアドルノとホルクハイマーより格下とすることに等しいように思うのだが、どんなものだろうか。そうだとすると、アドルノを信用せず、ベンヤミンに対する彼らの扱いに怒っていたというアレントは、絶対に承知しないのではないだろうか。もっとも、これはまあ、絶対に認められないというような話ではないのだが。 この書では、この名称の始まりについて、「主としてドイツ社会学会を舞台につねに共同歩調をとって活動するアドルノの弟子たちの結束ぶりに辟易したダーレンドルフが、いささかの皮肉と、時代錯誤性への揶揄をこめて、「最後の学派」 と言ったのが事の起こりであり、それがやがてそういうニュアンスを拭い去って一般化していったように思われる」 と書かれている。 こういう最初の揶揄的な他称がやがて一般化し、当初の 「そういうニュアンス」 を失っていくという例は、日本で言えば 「丸山学派」 とか 「大塚史学」 などという場合でも、似たようなものだろう。だいたい、こういう呼び方は、論敵の側からつけられるほうが多いものであるから。 もうひとつ、つけくわえておくと、フランクフルト学派が陰謀論の主体としてたびたび言及されるのには、その創始者であるアドルノとホルクハイマーをはじめ、彼らにもっとも大きな影響を与えた人物や周辺の人物に、多くのユダヤ系の人がいることも無縁ではないだろう。したがって、そこには 「ユダヤ陰謀論」 との関連もあるように思われる。 なお、やはりユダヤ系ドイツ人であり、アメリカに亡命したハンナ・アレントは、ベンヤミンについて 『暗い時代の人々』 の中で、次のように書いている。それによっていちばん利益を受けるはずの人はすでに世を去っており、もはやそれは売り物ではない。こうした商業的ではなく、実利的ではない死後の名声が、今日ドイツではヴァルター・ベンヤミン自身の亡命に先行する10年たらずの間、このドイツ系ユダヤ人はそれほど有名ではなかったが、雑誌や新聞の文芸欄への寄稿者としては知られていた。その同胞と同世代人の多くにとり、戦争中で最も暗い時期とされていた1940年の初秋に彼が死を選んだとき、その名前を記憶していたものはごくわずかであった。ヴァルター・ベンヤミン 1892―1940 ところで、戦後のいわゆる 「進歩的文化人」 の代表ともいうべき丸山真男は、多くの官僚や政治家を輩出している東大法学部の教授を長年にわたって勤め、多くの官僚の卵たちの 「洗脳」 に尽力したわけだが、「丸山学派陰謀論」 というのはどこかにないのだろうか。 海の向こうに由来する荒唐無稽な 「フランクフルト学派陰謀論」 などよりは、官庁街に潜り込んだ丸山の弟子たちによる日本破壊の陰謀という 「丸山学派陰謀論」 のほうが、よっぽど信憑性もあり、世間にも受け入れられやすいように思うのだが。追記: 牧田吉明氏は楽天ブログを開いておられるようですね。 ちょっと驚きました。もっとも今は更新を停止しているようですが。 牧田吉明 こと 山猫666
2009.11.10
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報道によると、フランスの人類学者レヴィ=ストロース大先生が10月30日に亡くなったそうだ。生まれたのが1908年の11月28日だそうだから、あと4週間頑張っていれば101歳というところだったのに、残念なことである。 彼については、以前にあんなことやこんなことを書いたが、いずれもただの雑文の域を出ない。それはそうだろう。こちらはただの手当たり次第の雑読家であって、人類学はもちろん、レヴィ=ストロースの構造人類学に大きな影響を与えた言語学についても、ちゃんとした勉強をしたことなどないのだから。 ところで、彼は1977年、もうすぐ69歳になろうかというときに日本に来て、何回か講演をしている。その中の一つ、京都で行われた、日本語で 「構造主義再考」 と題された講演では、こんなことを話している。 かりに、どこかの辞書のために、私たちが用いている意味での 「構造」 という語の定義を求められたとすれば、次のように言いたい。すなわち、「構造」 とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変形過程を通じて普遍の特性を保持する。 この定義には、注目すべき三つの点というか、三つの側面があります。第一は、この定義が要素と要素間の関係とを同一平面に置いている点です。別の言い方をすると、ある観点からは形式と見えるものが、別の観点では内容として表れるし、内容と見えるものもやはり形式として表れうる。すべてはどのレベルに立つかによるわけでしょう。...... 第二は 「不変」 の概念で、これがすこぶる重要な概念なのです。というのも、わたしたちが探求しているのは、他のいっさいが変化するときに、なお変化せずにあるものだからです。 第三は 「変形(変換)」 の概念であり、これによって、「構造」 と呼ばれるものと 「体系」 と呼ばれるものの違いが理解できるように思います。というのは、体系もやはり、要素と要素間の関係とからなる全体と定義できるのですが、体系には変形が可能でない。体系に手が加わると、ばらばらになり崩壊してしまう。これに対し、構造の特性は、その均衡状態になんらかの変化が加わった場合に、変形されて別の体系になる、そのような体系であることなのです。レヴィ=ストロース日本講演集 『構造・神話・労働』 より 「構造」 という概念自体は、むろん古くからある。また、「全体」 は単なる個々の要素の集合ではなく、そのような要素には還元できないといった、「構造」 としての全体のほうをその個々の要素より重視する発想というのも古くからある。これは、アトミズムまたは還元主義とホーリズム(日本語だと全体論)の対立などと呼ばれる。 たとえば、20世紀初めにドイツで生まれたゲシュタルト心理学では、「ゲシュタルト」 の説明として、楽曲のメロディがよく引き合いに出される。メロディは個々の音の絶対的な高低ではなく、それぞれの音の高低の関係、つまりはその差異という相対的な高低によって構成されている。だから、ハ長調で歌おうとヘ長調で歌おうと、「やぎさんゆうびん」 はやっぱり 「やぎさんゆうびん」 である。 これは、平面や空間の内部をあちこち移動させても、図形の形は変わらないのと同じことだ。レヴィ先生は上記の講演で、座標平面に人間の横顔を書き込み、座標のパラメータをいろいろと変化させて、最初の横顔を様々に変形させていくという、16世紀の画家兼版画家であったデューラーの方法を例にあげて説明している。 そのような 「変形」 が可能であり、またそのような 「変形」 を通じても保持されていくのが、つまりレヴィ=ストロースのいう、たんなる 「体系」 とは異なった、特別な意味を持つ 「構造」 ということなのだろう。だから、それはしばしば批判されたような静態的なものではない(らしい)。 しかし、同時にそのことは、彼のいう構造主義なるものは、いかなる問題、いかなる分野にも適用でき、利用できるといったものではないということも意味する。それは、彼自身の言葉を借りれば、「哲学を自称するものでもなく、なんらかの主義を自称するもの」 でもない。 それは、「ひとつの認識論的態度」、「問題に注目し、接近し、これを取り扱うさいの、特定の仕方」 なのであり、それが有効であるためには、「研究する現象のタイプが、普遍的とはゆかずとも、少なくとも一般に認められる現象であって、そのほかの現象から比較的分離しやすく、そこから検出できるすべての例が均質の方法で処理できる、そのような現象でなければならない」 ということだそうだ。 たとえば、現代思想の解説書などでは、「実存主義から構造主義へ」 みたいなことがよく言われる。レヴィ=ストロースが、『野生の思考』 の最終章でサルトルを厳しく批判したのは1962年のことだが、彼自身はこの講演の中で、その前の 『構造人類学』 が刊行された1958年から、いわゆる 「五月革命」 が起きた1968年までの十年間を、本場フランスにおいて構造主義が流行した期間としている。 「五月革命」について、彼は「その時点で判然としたのは、フランスにおける青年知識層のひそかにとりつづけてきた姿勢が、20年も前、第二次大戦末期に生まれたサルトル流実存主義のそれと、ほとんどかわらぬままであったということであります」 と言っており、これが、彼によればフランスでの構造主義の短い流行の終焉なのだそうだ。 人間の自由を基調とするサルトルの哲学そのものについても、彼はおそらく批判的であったと思われるが、『野性の思考』 での批判が対象としていたのは、サルトルの 『弁証法的理性批判』 にひそかに隠されていた西欧中心主義であり、近代的な理性中心主義であって、その批判は自分の学問に関係する限りでのことと言うべきだ。 したがって、それはサルトルにかわる新たな哲学の提出などを意図したものなどではない。その意味では、「実存主義から構造主義へ」 というよくあるまとめ方は、いささか乱暴で的外れなものであり、レヴィさんにとってはむしろ心外なものであるのかもしれない。 サルトルの事実上の伴侶であったボーヴォワールはレヴィ=ストロースと同い年であり(亡くなったのはサルトルの死から6年後の1986年)、その主著である 『第二の性』 を書くに当たって、彼の最初の主著であった 『親族の基本構造』 を、出版前の原稿段階で読ませてもらったという。 朝鮮戦争を契機に決別していたとはいえ、かつては親友であり盟友でもあったメルロによる批判に続いて、今度はそのレヴィさんによって、サルトルが批判されたというのだから、ボーヴォワールの驚きははたしていかなるものであったのか。 うえに述べたように、彼はサルトルの実存主義に代わる全体的な哲学として、いわんや 「変革」 のための理論として構造主義を提唱したわけではない。だから、「五月革命」 という変革の季節に、いったんは死んだかと思われたサルトルが復活したとしても、おかしくはないということになる。 日本の場合、構造主義の流行はフランスより10年以上遅れてやってきたが、その後のサルトルの急激な凋落には、舶来の新思想をいつもありがたがってきたこの国の特殊性ももちろんだが、レヴィ=ストロースらによる批判を受けた 「思想的事件」 というより、むしろ当時の急進左翼の衰退に伴った 「政治的事件」 という側面のほうが強いのかもしれない。 レヴィ先生は、この講演でこうも言っている。 わたしたちにとって、構造主義とは、極端に慎ましい手仕事のようなものであって、おそらくや、今日的な関心とは無縁の問題を対象としています。そして、今日的な関心と無縁であればこそ、わたしたちが対象としている問題は、その他の諸問題、特定の階級なり環境なりの成員としての、歴史の特定時点に帰属する個人としての、わたしたちの関心と予断がかかわってこざるをえないような諸問題にくらべるとき、いささかなりとも、より厳密なやり方で研究されうるのであります。 なお、日本人で同様に長寿だった人ということで連想したのが荒畑寒村。寒村は1887年に生まれ、1981年に亡くなっている。享年94歳で、100歳まで生きたレヴィ=ストロースにはちょっと及ばない。彼の最初の著作は足尾銅山の鉱害と、県と政府による谷中村住民への弾圧について描いた 『谷中村滅亡史』 であり、これは天皇への直訴事件などで知られる田中正造から託されたものだという。 荒畑はそのような時代から、宇宙ロケットや核搭載も可能な長距離ミサイル、ジャンボジェットなどがびゅんびゅんと空を飛び回る時代まで行き続けたわけだ(核ミサイルはさすがにびゅんびゅんとまでは飛んでいないが)。 また、江戸時代の浮世絵師である葛飾北斎は1760年に生まれ、1849年に死んでいる。享年89歳ということだが、彼の場合は、生まれたのは八代将軍吉宗が死去した9年後、亡くなったのがペリーが黒船に乗ってやってくる4年前、明治維新のほぼ20年前であり、そのときにはすでに長州の桂(のちの木戸孝允)は15歳、西郷などはなんと21歳に達していた。 ヨーロッパの歴史で100年といっても、今ひとつぴんと来ないのだが、こうやって自分の国の歴史に置き換えてみると、それがどれだけ長い期間であり、また一人の人間が100年を生きるということが、どれだけすごいことなのかがよく分かるだろう。参照: レヴィ=ストロース追悼 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 こちらは専門的研究者による立派な記事です。
2009.11.05
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粘土でできた巨人ゴーレムといえば、アニメやファンタジー、ゲームなどに欠かせないキャラクターとして、いまなおあちらこちらで引っ張りだこのようだ。ざっと調べただけでも、「遊戯王」 や 「ドラゴンクエスト」、それに 「ゲゲゲの鬼太郎」 にも登場したという(もっとも、いずれもよくは知らない)。 このゴーレムについて、渋澤龍彦はつぎのように言っている。 ゴーレムは中世紀からユダヤ伝説にあらわれるようになった、呪文によって生命を吹き込まれた一種の土偶であり、フランケンシュタイン風の人造人間である。これもまた、中世魔術の生命造出に関する野望の反映であろう。 十六世紀初頭のタルムード学者ケルムのエリヤが、カバラの原典 『創造の書』 の助けを借りて、初めてこのゴーレムを作ったのも、プラーグの町のゲットーであったらしく、名高い律法教師のレーウェ・ユダ・ベン・ベザレルが、1580年、神の命により二人の助力を得てゴーレムを製作したのも、やはりプラーグのゲットーにおいてであったようだ。『夢の宇宙誌』 所収 「玩具について」 より ゴーレムの話が世界的に有名になったのは、1915年に出た、グスタフ・マイリングというオーストリアの作家による、その名も 『ゴーレム』 という小説と、これとは別に、第一次大戦をはさんでドイツで三度にわたり、パウル・ヴェゲナーという同じ監督で製作された映画 『ゴーレム』 シリーズがきっかけなのだそうだ。 額に書かれた 「真理」 という意味の "emeth" の最初の一文字を消して "meth" にすると、「われは死せり」 の意味となり、もとの土くれに戻るといった話もよく知られている(本来はどちらもヘブライ文字なのだが、ここでは表記できない)。 この映画はyoutubeにもアップされており、一部を見ることができる。映画はむろん白黒で、もとはサイレントなのだが、ゴーレムは監督自身が演じており、白黒のコントラストが、表現主義っぽい当時のいささかどぎつい演出や背景のセットにマッチしている。ゴーレムは泥人形だということで、たぶん顔にも衣装にも金粉のようなものを塗りつけているのだろう。動きもことさらのようにぎこちないが、巨人といいながら、じつは背丈は他の登場人物とそれほどかわりがないというのはご愛嬌。 マイリングの小説については、舞台であるプラハの住人であったカフカの言葉が、彼の年少の友人であったグスタフ・ヤノーホという人が第二次大戦後に出した、『カフカとの対話』 という題の回想録の中に残されている(カフカの没年は、オーストリア帝国が解体した第一次大戦後の1924年)。古いプラハのユダヤ人街の雰囲気が、見事に捉えられています。......私たちの内部には、相変わらず暗い場末が生きています。いわくありげな通路が、盲いた窓が、不潔な中庭が、騒々しい居酒屋が、陰にこもった旅亭が。私たちは新しく建設された広い市街を歩きます。しかし私たちの歩み、私たちのまなざしは定まらない。内部で、私たちは、やはり古い悲惨な小路を歩くときのようにふるえています。私たちの心臓は、衛生施設の普及についてまだなにも知らないのです。私たちの内部の不健康な旧ユダヤ街は、私たちの周囲の衛生的な新市街にくらべてはるかに現実的です。目覚めつつ私たちは夢の中を歩む。その私たち自身、過ぎ去った時代の亡霊にすぎないのです。 『創世記』 によれば、神は人間をおのれの姿に似せてつくったという。プロメテウスもまた同様である。だから、このような生命創造とは、自己の分身を作ることでもある。つまり、ここにおいて、生命創造の物語は 「ドッペルゲンガー」 の物語でもあるということになる。 事実、マイリングの小説は、外出から帰ってきた主人公のあとをつけるようにして、彼の部屋に音もなくはいってき、いつのまにか煙のように消えてしまったという謎めいた男が、じつは自分自身であったということに、主人公アタナージウス・ペルナートが気づくというところから始まっている。 いまぼくは見知らぬ訪問者がどんな格好をしていたか知っていた。それを感じようと思いさえすれば ―― いつなんどきでも ―― ぼくのからだで感ずることができただろう。しかし彼の格好を思い描くこと、つまりぼくの目のまえに面と向かってそれを見ること ―― それはあいかわらずできなかった。それはいつまでたってもできないだろう。 かれはいわば陰画として、目に見えぬ凹版としてあるのだった。その輪郭をぼくはつかむことができないし ―― その格好や表情を心の中に描こうとすると、ぼく自身がその凹版の内側に滑り込んでしまうのだ。 自己の分身を見たものは、死が近いと言われる。それは、ドッペルゲンガーという幻視が、精神の変調による自我統合の崩壊の兆しだとすれば、そう不思議なことではあるまい。芥川が死ぬ数ヶ月前に書いた 「歯車」 にもそれらしき記述があるが、近づいている死が芥川のように自殺によるか、あるいは精神の変調に続く肉体の衰弱による緩慢な死であるかは、あまり関係ない。 ポーの 『ウィリアム・ウィルソン』 の場合、主人公の分身たる同姓同名で同じ誕生日、むろん顔も同じという男は、主人公が虚栄や虚飾、放蕩といった悪行三昧にふけっているところに必ずといっていいほどあらわれて、警告を与え、友人らの前でその仮面をはがし、卑劣な男としての正体を暴き出す。つまり、この分身は彼の封印されていた 「良心」 であり、そのうずきであり、手遅れとなった 「悔恨」 の表れということになる。 つまるところ、このようなドッペルゲンガーとは、自己を見ている自己、または自己によって見られている自己のことであり、フロイトふうに言えば 「超自我」、三浦つとむふうにいえば、観念的に二重化された自己の一方が 「実体」 として外部に投影されたものということになるだろう。芥川は 『歯車』 のなかで、「僕はこの本屋の店を後ろに人ごみの中を歩いて行った。いつか曲り出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙っている復讐の神を感じながら。……」 と書いている。 ところで、日本で人造人間をつくった話としては、鎌倉時代にかの西行に仮託して作られた 「選集抄」 の巻五第一五話に、友人と別れてさみしくなった西行自身が、野に散らばる骨を拾い集め、「反魂」 の秘術なる呪法によって、人を作ったという話がある。しかし、このときの西行の術は未熟であったため、蘇った 「人」 は姿こそ人であったものの、魂を持っておらず、言葉を話さずただ笛のような声をあげるだけだったという。ちなみに、ゴーレムもまた人語を解することはできても、自ら話すことはできない。 もっとよく似た話はないかと考えているうちに、そうだ、大魔神だ、あれは明らかにゴーレムのパクリであると、頭の中で電球が光ったのだが、Wikipediaで調べてみると、すでにそのことは触れられていた。その記述によれば、大魔神シリーズは、『大魔神』、『大魔神怒る』、『大魔神逆襲』 の三作だけで、いずれも1966年の製作だという。脚本は吉田哲郎という人が書いているそうだが、詳しいことは知らない。 小さな子供とかをのぞけば、知らない者はいまや日本中探してもほとんどいまい、というぐらいに有名なこの特撮時代劇映画が、40年以上も前のわずか一年の間に、たった三作作られただけであったというのは、いささか意外であった。しかし、よく考えれば、たしかに映画そのものを見た覚えはあまりない。 ところで、一作目の大魔神は丹波山中の岩壁に掘られた立像、二作目ではどこだかよく分からないが、湖の真中にある島に祀られた像、そして三作目では、飛騨山中にある 「地獄谷」 とかいうところに近い山の頂にある坐像という設定になっている。 つまり、この三作に登場する大魔神はすべて別々であり、大魔神様は日本各地にたくさんいらっしゃるということになる(横浜にもいたっけ?)。ちなみに、モデルとなった武人像の埴輪は、群馬県太田市の出土である。なお、来年から、角川事務所によって 「大魔神カノン」 なるものが、テレビで放送される予定となっており、現在撮影も進んでいるらしい。 関連記事: 怪奇 「砂男」 の恐怖
2009.11.01
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