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報道によれば、いまや民主党は300議席を超える勢いなのだそうだ。小泉旋風が吹いた前回の選挙では自民党が三分の二を超える議席を獲得したが、ちょうどそれと反対の現象がいま起ころうとしている。 基礎票がある程度拮抗した条件下では、全体の1割にも満たぬ票が全国規模であっちからこっちへ動いただけで、まったく違った結果が生まれる。小選挙区制の導入は1994年の公職選挙法改正によるもので、実際の選挙としては1996年の第41回選挙以来五回目ということになるが、これで自民党も民主党も、どちらも小選挙区制の恐ろしさを身をもって体験したことになる。このことは、はたして今後の政局にどのような影響を及ぼすことになるだろうか。 今回、自民党に大きな逆風が吹いている最大の理由は、いうまでもなく、小泉退陣後の安倍・福田と相次いだ政権の投げ出しであり、その後の政権の、あっちに行ったりこっちに行ったりと、まるで定まらなかった舵取りにある。これを一言で言うならば、与党としての自民党の 「責任力」 に対する不信ということになる。 それにしても、前回の選挙で登場した 「小泉チルドレン」 に入れ替わるようにして、今回もまた多数の新人議員が登場することになる。これは 「鳩山チルドレン」 というべきか、それとも 「小沢チルドレン」 ということになるのか、まだよく分からないが、いささか危惧を感じるところではある。 ただ、たった1回の風で得た大量議席に胡坐をかき、勘違いして好き勝手なことをしていると、次の選挙でひどい目にあうよというのが、前回の選挙以来のひとつの教訓ではあるだろう。それは忘れてもらいたくない。とはいえ、民主党内ではおそらく大量の新人議員の囲い込みをめぐって、熾烈な党内闘争が繰り広げられることになるかもしれない。もっとも、その大半はすでにどこかのグループのひもがついてはいるのだろうが。 16年前に細川政権が誕生したときは、河野洋平が下野した党の総裁になり、その後の新進党結成をめぐる連立与党のごたごたの隙をつき、社会党の村山富市を担ぎ出すことで復権に成功した。しかし、今の自民党に、そのうち総理の座につけるという確実なあてもないままに、自分から進んで汚れ仕事を引き受けようというだけの覚悟のある人間がはたしているのだろうか。自民党がかかえている病根は、前回よりも確実に深いと言わざるを得ない。 いずれにしろ、政治家の世代交代と政界の流動化が、一気に加速することだけは間違いあるまい。それがいい方向に行くか、おかしな方向にいくかは、もちろんあらかじめどうこう言える問題ではない。だが、あちらこちらで酒に酔って醜態をさらした政治家や、ピントのずれた時代錯誤なイデオロギーを振り回してばかりというような政治家には、今回の選挙で落ちたなら、次があるなどといわず、このさいすっぱりと足を洗ってもらいたい。それがなによりもこの国のためである。 小選挙区制とは、いわば選挙区ごとに候補者が党の代表として争う選挙である。中選挙区ならば、大政党の場合、複数の候補者が立てるので、あの人よりもこの人という党内での選択も可能だが、小選挙区ではそうもいかない。だから、実際の選挙だけでなく、候補者選考の過程もひじょうに重要だということになる。したがって有権者にとっては、選挙前の党による候補者選考の過程に介入することも必要になるだろう。そうでなければ、国民はただ備え付けのメニューをあてがわれるだけのお客さんということになってしまう。 本来ならば、候補者選考の過程には、地域地域での党員や党の支持者の意見だとか、有権者の動向などが反映されることが望ましいのだが、現状は必ずしもそうなっていない。そもそも、日本の政党は、ほとんどが近代政党としての組織の体をなしていないし、逆に組織された政党のほうには、非民主的な上意下達のうえに、内側に閉じこもり外に開こうとしない傾向がある。 小泉旋風は劇薬のようなもので、その効き目におぼれたことが、その後の自民党の首をしめることになった。党の代表というものはむろん大事だが、その個人的人気という、いささかあやふやな即効性のみを期待して、これに頼ることは、法で禁止された危険な薬物に手を出すようなことであって、やっぱり誉められることではない。 そもそも、幹部や将来を期待されていた(?)中堅議員を含めて、大量の前議員の落選が予想され、いったい誰が国会に戻ってこられるか分からないという状況では、選挙後の党の体制がどうなるかもさっぱり分からない。党内の小派閥などは消滅してしまうかもしれないし、そうでなくとも幹部クラスの落選によって、実質的に派閥として機能しなくなるようなところも生まれるだろう。 言うまでもなく、麻生がこのまま党総裁の座にいすわり続けられるはずはない。だれが当選しようが、だれが落選しようが、歴史的な大敗によって、これまでの党内の幹部・中堅クラスの発言力が大きく減退し、当選回数による年功序列的な党内体制が動揺することも、間違いないだろう。 政界の勢力図が大きく様変わりすれば、民主党にとっても自民党にとっても、党内の流動化が生じるのは必至である。とりわけ逆風を受ける側にとっては、選挙後の体制がどうなるかさっぱり見当がつかないというのも、これまた小選挙区制の恐ろしさということになるだろう。むろん、いまはみな自分のことで精一杯で、そんなことを考える余裕などないだろうが。
2009.08.28
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夏の定番といえば、一にお祭り、二に花火、三四がなくて五に怪談ということになるだろう。古典的な怪談といえば、なんといっても夫の伊右衛門に毒を盛られて目の上を腫らしたお岩さんが登場する 「四谷怪談」 が有名だが、ほかにも、「一枚、二枚、三枚...」 と皿を数えては、最後に 「一枚足りない」 と恨めしげに語る、お菊さんの幽霊で知られる 「番町皿屋敷」 や 「牡丹燈篭」 の話も有名である。 そのほかにも、江戸時代には行灯の油が大好きという化け猫で有名な、佐賀の鍋島騒動の話もあるし、明治になれば、そのものずばり小泉八雲の 「怪談」 というのもある。「高野聖」 などを書いた泉鏡花にも様々な怪談話があるし、夏目漱石の 「夢十夜」 にも、いささか怪談じみた話が多い。ただし、Wikipediaによれば、最初にあげた三つが日本三大怪談ということになっているようだ。 「怪談」 というのを定義するとすれば、お化けや妖怪、幽霊などの超自然的な存在や超自然現象が出現して人を脅かす話ということになるだろうが、日本におけるその原型というのは、奈良・平安の頃に書かれた 『日本霊異記』 や 『今昔物語』 などに収められた、前世や現世での人間の悪行の報いを説く仏教説話ということになる。 これらの話は、ようするにこの世で悪いことをすると、あの世で閻魔様や怖い鬼たちにしばかれますよという話であり、つまりは、怖さそのものを味わう怪談話というよりも、だから悪いことをしてはいけませんよ、という話である。したがって、これはむしろ道徳の話といったほうがいい。実際、奈良・平安の時代の人々にとっては、飢えや病気、夜盗や追い剥ぎなど、てんで珍しくはなかった現世そのものが、まずは恐ろしいものであっただろう。 それだけに、人々には仏教などのありがたい教えに救いを求める気持ちも強く、したがって寺の僧侶らがとく因縁話も、おそらくは誰一人ちゃかすことなく真面目に信じられていただろう。村の古老とかが話して聞かせただろう妖怪変化などの伝説の類だって、とてもリアルなものであって、その恐ろしさを味わうなんて心の余裕は、とうていなかったに違いない。 つまり、話の怖さそのものを楽しむ 「怪談話」 というものは、そのようなお話が本当にありうるとはもはや受け取られない時代になって、はじめて成立したということになる。「恐ろしさ」 を味わうというのは、「恐ろしさ」 そのものをベタに受け取るのではなく、たとえその場では無理だとしても、「恐ろしい」 という自分の気持ちをさらにメタに見ることができるようになって初めて可能なのだ。 事実、「四谷怪談」 にしても 「番町皿屋敷」 にしても、本当にこわいのは化けて出てきたお岩さんやお菊さんではなく、仕官の話に目がくらんでお岩に毒を持った伊右衛門や、お菊に濡れ衣を着せて惨殺したお殿様などのように、生きている人間のほうである。つまり、このような怪談は、ほんとうは幽霊の恐ろしさではなく、人間の欲望の恐ろしさや、業の深さをえがいたものなのである。 だから、その 「恐ろしさ」 は、劇を見ている人間自身の恐ろしさでもあるということになる。そこでは、そのような 「怪談」 が本当にありうるかどうかは、もはや問題ではない。そこで出てくる幽霊は、人間がみな持っている恐ろしさの象徴であり、人間の業というものがひとつの実体として、目に見えるものに 「化体」 したにすぎない(哲学的に言うと、これは一種の 「疎外論」 である)。 さて、いよいよ選挙もたけなわであるが、ある政党からこんなパンフレットが出ているそうだ。 知ってドッキリ民主党 これが本性だ!! これによると、なんでも、民主党には、日本で革命を起こし、社会主義化しようという 「秘密の計画」 があるそうなのだが、結党以来、80年を超える共産党にも、戦後長らく第一野党の座を占めていた旧社会党にもできなかった 「革命」 なるものが、いったいどうやったら、多種多様な意見を有する議員で構成された民主党にできるというのだろう。 このパンフを作成した連中がこんな馬鹿話を本当に信じているとしたら、彼らはただのアホウということになる。しかし、もし自分では信じてもいない話を、こんなにでかでかと宣伝しているのだとしら、それは彼らが、この国の大衆なんて、この程度の馬鹿話で簡単に丸め込むことができると思っているということになるだろう。 「嘘をつくなら大きいほうがばれにくい」 とか、「どんな嘘でも繰り返し宣伝すれば真実になる」 などと言ったのは、たしかヒトラーであるが、いやはやなんともかんともである。 これではまるで、夏休みの子供の毎夜毎夜の夜遊びに悩まされ、万策尽きたどこかの親が、「夜遅くまで遊んでいたら、お化けに出くわすぞ!」 といった話で脅かしてなんとかしようというような話である。だが、いまどきの子供は、もはやそんな話に納得したりはしないだろう。現代っ子をなめてはいかんのだ。 「ヨーロッパにはひとつの妖怪が出没している」 というのは、有名な 「共産党宣言」 の書き出しだが、どうやら、この人たちの頭の中には、いまだに 「日教組」 とか 「共産主義」 などという冷戦時代の亡霊が、そっくりそのままの姿で徘徊しているらしい。いったい、いつの時代に生きていらっしゃるのだろう。 大衆の受容能力はひじょうに限られており、理解力は小さいが、その代わりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、その言葉によって、目的としたものが最後の一人にまで思い浮かべることができるように継続的に行われなければならない。 人々がこの原則を犠牲にして、あれもこれも取り入れようとすると、すぐさま効果は散漫になる。というのは、大衆は提供された素材を消化することも、記憶しておくこともできないからである。それとともに、結果はふたたび弱められ、ついにはなくなってしまうからである。「わが闘争」 より
2009.08.23
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大量の情報が光速でやり取りされるこの時代にあっては、ずいぶんと間の抜けた何周も遅れた感想ではあるが、先週11日に、静岡でけっこう大きな地震が起きていた。最大震度は6弱、マグニチュードは推定で6.5と報道されている。 日本が地震大国であることはだれでも知っているが、記録に残っているもっとも古い地震というのは、日本書紀に載っている允恭天皇の時代、西暦416年のことだそうだ。允恭天皇は仁徳天皇の息子であり、さらにその息子が雄略天皇ということになっている。このあたりの天皇は、多くの研究者によって、中国の史書に記載された讃・珍・済・興・武といういわゆる 「倭の五王」 に比定されているが、はっきりいって、どこまで信用できるかはなんともいえない。 二番目の記録は推古天皇、つまりは聖徳太子の時代でもある599年らしい。聖徳太子についてもあやしげな伝承が多く、実在を疑う説もあるようだが、地震については書紀に 「地動。舎屋悉破。」 と前よりも詳しく書いてある。なので、素人判断ではあるが、この記述はたぶん信用できるだろう(参照)。 時代はずっと下るが、平安末から鎌倉初期にかけて生きていた鴨長明の 『方丈記』 には、1185年に近畿を襲った大地震について、下のように記述されている。ときは、平家が滅んだ壇ノ浦の合戦から4ヶ月後。長明は触れていないが、なにしろ幼子であった安徳天皇や、その他の多くの平氏一門が海に沈んで間もないときだから、おそらくは京の都中が、「たたりじゃ、たたりじゃ」 の声で大騒ぎだったことだろう。 また、同じころかとよ、おびただしく大地震ふることはべりき。そのさま世の常ならず。山はくずれて川をうづみ、海はかたぶきて陸地をひたせり。土さけて水湧きいで、いわを割れて谷にまろび入る。渚こぐ船は浪にたゞよひ、道いく馬は足の立處をまどはす。都のほとりには在々所々、堂舎塔廟、ひとつとしてまたからず。あるは崩れ、あるはたおれぬ。塵灰たちのぼりて、さかりなる煙のごとし。 地の動き、家の破るる音、雷にことならず。家のうちにおれば、たちまちにひしげなむとす。走り出づれば、また地割れさく。羽なければ空をも飛ぶべからず、龍ならばや、雲に乗らん。恐れの中に、恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとこそ覚えはべりしか。 平安末期から鎌倉初期といえば、源平の合戦から義仲と義経、義経と頼朝という源氏の内輪もめ、さらに北条氏によって将軍の座からむりやり降ろされた二代頼家から三代実朝と相次いだ将軍暗殺、最後は執権として実権を握った北条氏と、和田義盛など他の御家人とによる権力闘争など、幕末維新もまっさおなくらいに、血で血を洗う争いが絶えなかった時代である。 中でも、歌人としても名を知られており、北条氏の陰謀に巻き込まれるかのように、無残に殺された頼家の子公暁(実朝にとっては甥になる)によって、父の仇として惨殺された、頼朝の血をひく最後の将軍実朝は、日本史における三大悲劇人の一人といってもいいだろう(あとの二人は考え中。候補者が多すぎて困っている)。 なにしろ、実朝については、戦前には小林秀雄の 「実朝」、小説では 「平家ハ、アカルイ、...... アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ」 との文句で有名な太宰治の 「右大臣実朝」 があり、戦後のものでは吉本隆明の 『源実朝』 もある。史学や和歌に関する専門的な研究者による論文・研究の類ならば、それこそ山のようにあるだろう。 吉本のまとめを借りると、鎌倉時代の歴史書である 『吾妻鏡』 には、実朝が13歳で将軍についてから鶴岡八幡宮で横死するまでの16年間に、鎌倉では大小含めて35回の地震が記録されている。そのうちのひとつで、現在確認されている地震は、建暦3年5月21日(1213年6月18日)におきたもので、マグニチュード6.4と推定されているということだ。ちなみに、『吾妻鏡』 にはこのときの地震について、「音有って舎屋破壊す。山崩れ地裂く。」 と記されている。 なお、数年前に亡くなった人だが、比較神話学を専門とする大林太良は、『神話の話』(講談社学術文庫)の中で、地震の原因に関する神話について次のように分類している。一 大地を支えている動物が身動きすると地震がおきる。 a 世界牛(大地を支えている巨大な牛のこと)が動くと地震がおきる。 b 世界をとりまく、あるいは支える蛇が動くと地震がおきる。 c 世界魚が動くと地震がおきる。二 大地を支える紙あるいは巨人が身動きすると地震がおきる。この特殊な形式としては、縛られた巨人が身動きして地震をおこすという神話や信仰がある。三 世界を支える柱あるいは紐を動かすと地震がおきる。四 男女の神あるいは精霊が性交すると地震がおきる。五 地震がおきると人々は「われわれはまだ生きている」と叫んで、地震をおこす祖先や神の注意を喚起して、地震をやめさす。 と、ここまで書いていたら、ついさきほどまた地震があった。瞬間的にぐらっと揺れただけであったが、数分後に、震度3というテロップがテレビ画面に流れた。前日から続く深夜にも地震があったそうだが、こちらのほうはぜんぜん気づかなかった。福岡は地震の少ないところといわれていたのだが、どうやら4年前の西方沖地震以来、平野の中央から玄界灘の沖まで伸びている断層が活動期にはいっているようだ。 4年前の地震が起きたのは朝の11時頃であった。日頃の習慣でまだ寝ていたのだが、がばっと跳び起き、部屋をすべてまわり、大事がないことを確認してからまた寝たのだった。昼頃になって、同じ市内に一人で住んでいる父親から 「手伝いに来てくれ」 との電話を受けた。 こっちはたいしたことなかったから、向こうもそうだろう、たぶん歳をとってるし、日頃地震などなかったから動転してんだろうなどとのんきに出かけたら驚いた。部屋に入ると本棚も食器棚も倒れ、部屋中に書籍やノート、食器類が散乱し、おまけにテレビまで床の上で胡坐をかいていた。 すぐ近くにあった寺の塀は全壊していたし、マンションの壁にもあちこちひびが入っていた。父親の住んでいたマンションはちょうど断層の真上にあったため、局所的に揺れが大きかったらしい。数日後、海岸沿いの埋立地にある図書館に行ってみたら、こっちもあちこち敷石やタイル、レンガが浮いていた。地震の揺れというのは震源からの距離だけでなく、地盤によってもずいぶんと違うものだなと痛感したのであった。 さいわいにして、父親は別の部屋で寝ていたので、落下した書籍に埋もれるということはなかったのだが、今回の静岡地震では、部屋の中に天井まで平積みにしていた大量の雑誌や書籍が崩れて、女性がひとりなくなっている。わが家にも大量の本があって、壁にスチールの本棚を3つ並べた横で毎日恐怖に怯えながら寝ている。 というのは嘘だが、4年前の地震でさっさと二度寝して以来、すっかり同居人の信頼を失い、「今度なにかあったら、あんたは一人でさっさと逃げるんでしょ」 などと、毎日のように責められているのは本当である。
2009.08.18
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最近というわけでもないが、一部の 「右派」 勢力や団体、政治家らによって 「反日」 なる言葉がしきりと使われている。いわく、「反日国家」、「反日サヨク」、「反日マスコミ」、「反日外国人」 などなど、その使用例は、まことに枚挙に暇がない。 たとえば、西尾幹二や渡部昇一のような 「学者」 や、彼らを信奉する者らに言わせると、中国や韓国、北朝鮮は 「反日」 国家であり、在日韓国人・朝鮮人らは 「反日」 外国人なのだそうだ。また、日教組や朝日新聞は「反日サヨク」であり、男女平等やDVについての啓蒙活動、性教育、差別の禁止や人権の保護などを訴えている人らもみな、「反日」 勢力なのらしい。 彼らによれば、戦後のGHQによる占領と東京裁判、さらには日本国憲法制定によって、神武天皇の即位以来、2600年の歴史を持つ日本の古きよき伝統は破壊されたということだ。戦後の占領政策は、なにより日本と日本人を無力化することを目的としており、そのために様々な陰謀が企まれ、実行されてきたのだそうだ。それは、たとえば連合軍内に潜んでいたコミンテルンのスパイと、戦後解放された日本の左翼勢力の協力によって進められたということのようだ。 戦後の日本社会に、ハリウッド映画やアメリカ製のドラマが氾濫し、さまざまなスポーツが盛んになり、また 「性の解放」 が進んだのも、「スクリーン、スポーツ、セックス」(3S政策というらしい)の三つを与えることで、日本人を愚昧化させようという連合国の陰謀なのだそうだ。また、学校給食にパンが導入され、それまでのコメにかわってパン食が普及するようになったのも、一部の 「識者」 によると、日本人の食生活の破壊をつうじて、家庭の破壊と日本人の弱体化をもくろんだ 「反日」 勢力の陰謀なのらしい。 ようするに、そのような人らに言わせると、核家族化と少子化が進行して伝統的な家族制度が崩壊したのも、街中にポルノが氾濫しているのも、「反日」 勢力のせいということになる。オタクや 「引きこもり」 が増えているのも、「メイド喫茶」 とかが流行っているのも、教員や公務員のモラル低下が指摘されるているのも、つまりは戦後60年にわたって続けられてきた、そのような 「反日」 勢力の陰謀のせいであり、その成果ということになるのだろう。 いまや、彼らはいたるところに 「反日」 勢力の陰謀をかぎつけている。「反日」 なのはなにもサヨクや一部アジア諸国だけではない。創価学会と公明党もまた、自民党に取り入って日本の国家と社会の破壊を企む 「反日」 カルト集団なのだし、「日の丸」 をおったてて、大音量で軍艦マーチなどを流している 「街宣右翼」 もまた、実は 「在日朝鮮人」 らに操られ、真正右翼のイメージダウンを狙って活動している 「反日」 勢力なのらしい。 最近ではすっかり凋落したとはいえ、近隣諸国との協調を主張する自民党内のリベラル派も、隠れ 「反日サヨク」 なのであるし、「夫婦別姓」 や 「外国人参政権」 に積極的な社民党や民主党については、言わずもがなだろう。日本の社会には、いまやありとあらゆるところ、毛穴のすみずみにまで 「反日」 勢力は潜んでいるのである。これは、まことにたいへんな由々しき事態なのである。 世界も日本の国内も 「反日」 勢力だらけである。われわれはついに目覚めた。新聞もテレビも、「マスコミ」 はすべて 「反日」 勢力によって牛耳られている。大学などの教育機関もそうである。したがって、そのようなものを信じてはならない。「真実」 はなによりもネットの中にある。というわけで、いまや連日連夜、彼らはネット上のあちこちの掲示板で情報を交換し、ブログや掲示板を使って 「真理」 の普及に日夜励んでいるというわけだ。 これは、カフカもびっくりするような、ほとんど不条理な世界である。しかし、いたるところに 「反日」 勢力の暗躍を見出している彼らが守ろうとしている 「日本」 とは、いったいなんなのか。それがさっぱり分からない。それは、白砂青松の自然豊かな日本なのか。それとも、能楽や狂言などの伝統芸能や、和歌や俳句、「源氏物語」 のような、「もののあはれ」 や 「わびさび」 にあふれた世界なのだろうか。 近代史をひもとけば、「反○○」 運動というのはあちこちにある。ガンディーが指導したのは 「反英」 独立運動であったし、中国や朝鮮では日本の侵略に対する 「反日」 運動も行われた。戦後のインドシナの抵抗は 「反仏」 から 「反米」 にかわったし、インドネシアの場合は 「反蘭」 運動ということになる。日本でも、戦後の米軍による占領や基地に対する抗議活動などが、「反米」 闘争と呼ばれたことがある。 これらの運動は、すべて具体的な内容と目標を持った、具体的な運動ばかりである。したがって、そこで使われている 「反○○」 なる言葉も、当然ながら具体的な意味、言い換えると明確に限定された意味を持っている。しかし、現在使われている 「反日」 なる言葉は、これとまったく異なっている。それはただの恣意的なレッテルにすぎす、具体的に限定された意味内容を持っていない。 むしろ、それはすでに見てきたように、現在の日本がかかえる様々な問題の 「根源」 であり、現代における 「根本悪」 として一括して名指しされた、想像上の 「敵」 の名称でしかないように見える。しかし、現代社会の複雑な問題が、すべてある特定の勢力や、ただひとつの原因によって生じていると考えるのは、きわめて粗雑な問題の単純化でしかない。そこからうかがえるのは、社会全体を見通すと同時に、個別の問題をひとつひとつ整理するという能力の完全な欠如であり、おのれの知的無力と無能の告白ということになるだろう。 結局のところ、彼らはおのれが敵視した相手に 「反日」 なるレッテルを貼ることで、自分たちが抱いている 「日本」 または 「日本人」 なるものとその価値を確認しているにすぎぬように見える。つまり、これは論理が逆なのであり、他者に対して 「反日」 なる本来は対抗的でしかないレッテルを貼ることによって、はじめて 「日本」 と 「日本人」 なるものを確認するという、逆転した自己確認の言葉にすぎぬように思える。 言うまでもないことだが、日本人を親とする、生まれながらの日本人が日本人であることには、なんの対価も努力もいらない。だから、「日本」 や 「日本人」 なるものを価値とするならば、これまた本人にとって、なんの努力も代償もいらないきわめて手軽な価値だということになる。なにしろ、それにはただ 「自分は日本人だ!」 と叫びさえすればよいのだから。 しかし、それでは、どの日本人も等価ということになる。それでは、あまりに虚しかろう。そもそも価値とは差異の体系であるから、自己と他者を差別化できなければ意味がない。それに事実はそれだけでは価値とはならない。たんなる事実を価値とするものはやはり基準であり規範であるから、なんらかの価値基準が必要である。そこで引っ張り出されるのが、「真の日本」 であり 「真の日本人」 ということになる。だが、それはいったいなんなのか。やはり、わけがわからない。 しかし、空疎な価値といえども、走り続ける自転車のように、たえずそこに差異を持ち込むことによって維持することは可能かもしれない。だから、彼らは自己が敵とみなしたものに対して、次々と 「反日」 なるレッテルを貼っていかねばならない。つまり、彼らが自らの価値観の基準としているであろう 「日本」 と 「日本人」 なる価値は、国家や社会の外部だけでなく、内部においても「反日」 的なものを見つけ出し、次々にそういうレッテルをはることによってしか維持できないということになる。 彼らにとっては、「日本」 と 「日本人」 なるものは、なによりも相対化できない絶対的価値でなければならない。だが、そのためには、「日本」 や 「日本人」 なるものを具体的に措定することは禁止されねばならない。なぜなら、具体化とは限定化と同義であり、限定化されたものはいずれは相対化をまぬがれないからだ。 彼らのいう 「反日」 なるものが、つねに恣意的なレッテルでしかないのは、おそらくそのためでもあるだろう。彼らにとっての 「日本」 と 「日本人」 なるものが、いつになっても具体的で明確なものではありえぬのは、まさに理の必然なのである。 むろん、いうまでもなく、自己認識は他者を鏡とすることによって得られるものである。だが、最初に空疎な 「日本」 なるものを価値基準とすることで得られる彼らの他者認識は、当然ながら虚偽の認識でしかない。したがって、「反日」 なるレッテルによる反照として得られた彼らの自己認識は、結局のところ当初の空疎な自己認識をただ再確認するものでしかないということになる。つまりは、自分の尻尾に噛み付いているヘビのような話である。
2009.08.10
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八月にはいっても天候はすぐれぬ。熱帯夜にはならぬから、寝苦しさに悩まされぬのはよいが、強い日差しや高温を必要とする作物を育てている農家や、海岸での 「海の家」 を経営しているような方々にとっては、いささか頭の痛い夏となりそうだ。 冷夏といえば、今から16年前にもあったことで、その年には米が著しい不作となり、タイ米や米国のカリフォルニア米などが大量に輸入される騒ぎとなった(参照)。タイ米は日本の米と種類が違ってねばりがないため、世間ではあまり人気がなかったようだが、わが家のような貧乏家庭にとっては、ただ安いというだけでありがたかったものである。 さて、夏といえば花火である。こちらでも先週末に恒例の花火大会があった。子供が小さかったときは、自転車の後ろに乗せて連れて行ったものだが、もはやそのような元気もない。というわけで、テレビ中継で我慢したのだが、テレビの画面でドンとなると、それから10数秒ほどおくれて同じドンという音が窓の外から聞こえてくる。ドドドン、パラパラパラという連発花火がテレビ画面であがると、同じドドドン、パラパラパラという音が、やはり少しおくれて窓外から聞こえてくる。 先日、アポロが月に残してきた、着陸船の土台らしき姿を写した月面の画像が公表された。それでも、まだアポロは月に行っていないとか、あの映像は偽造だとか言い張る人も一部にはいるようだが、今回の花火大会に関しては、画面からの音と寸分たがわぬ同じ音が10秒遅れで外から聞こえてきたので、これが偽装や合成でないことは十分に明らかである。 ところで花火というものは洋の東西を問わず、おめでたいときに打ち上げられるものらしい。花火の場面を写した映画にもいろいろあるだろうが、有名なのは半世紀も前にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダが撮った 「灰とダイヤモンド」 の一場面であろう。 ときは、1945年5月、すでにポーランドはソビエトの手によってナチスの占領から解放されていたのだが、ナチと入れ替わるようにして進軍してきたソビエト軍による実質的な占領下で、共産党による支配が着々と強化され、それに対し、大戦中にロンドンに避難していた亡命政府を支持するグループによって、共産党支持派へのテロが頻発していた時期である。 原作であるアンジェイエフスキという人の小説とは少し違うのだが(ただし、映画の脚本には原作者も参加している)、映画での主人公であるマーチェクという青年は、自分の息子が反革命グループのメンバーとして逮捕されたという報を聞いて警察署へ向かうシュツーカという党地区委員長の先回りをし、後ろから足早に近づいてくる男に対して、振り向きざまにピストルを数発発射する。 撃たれた男はよろめきながらマーチェク(youtubeで久しぶりに見たのだが、この俳優はなんだか若い頃の加藤茶に似ている)のほうへ歩み寄り、そのまま彼によりかかる。よりかかられたマーチェクは、思わず両手を出して彼を抱きとめてしまう。そこへちょうど、連合国に対するドイツの全面降伏を祝った祝勝花火が打ち上げられるという場面である。ただし、向こうの花火は日本と違って、空で丸く破裂はしない。地上から火花が宙へ打ち上げられ、そのまま柳の枝のようにゆっくりとたれ落ちてくる。 さて、ずいぶんと昔のことだが、この映画について、30年以上前に亡くなった評論家の花田清輝はこんなことを書いている。 本来、わたしは、ワイダの熱っぽく描いているような青春に特有のナルシズムに対しては、きっぱりと対立しなければならないと、とうの昔からおもいこんでいるのである。にもかかわらず、わたしは、事、志に反して、昨年度の 『キネマ旬報』 のベスト・テンの第一位に、つい、うっかり、ワイダの監督した 『地下水道』 をえらんでしまったのだ。... 政治は、燃え上がり、燃え朽ち、すでにひとにぎりの灰と化しさっているにもかかわらず、なお、自分を一個のダイヤモンドと思い込まないではいられないような人間の手にかかると、すこぶるメロドラマチックな様相をおびてくる。しかし、現実の政治は、革命や抵抗の場合であってもひどく散文的なものではなかろうか。「無邪気な絶望者たちへ」 より 上に引用した文からもわかるとおり、花田という人は、深刻ぶった顔つきやナルシズム、センチメンタリズムが大嫌いだった人である。花田もいうとおり、たしかに 「現実の政治は、革命や抵抗の場合であってもひどく散文的なもの」 であろう。にもかかわらず、ついつい同じワイダのワルシャワ蜂起を描いた 『地下水道』 を第一位に選んでしまったというのは、そういう花田の奥底にあった心情というものが、思わずぽろりと出てしまったということなのかもしれない。 花田といえば、吉本との論争でも有名である。どちらの肩を持つかは、とりあえず人それぞれである。花田の肩を持つ人の中には、同郷のよしみで中野正剛率いる東方会と関係のあった花田を、吉本が 「転向ファシスト」 と呼んだことを問題視する人もいるようだが、花田だって戦中世代である吉本をファシスト呼ばわりしたのだから、それはお互い様というものだ。 ただ、すでに 「前衛党」 神話や、世界を 「社会主義」 圏と資本主義圏による東西対立として捉える認識から抜け出ていた吉本のほうが、いまだそのような認識を軸としていた花田よりも、一日の長があったということは言えるだろう。もっとも、頭のいい花田であるから、ひょっとするとそういう認識も、本人としてはただの戦略のつもりだったのかもしれない。 たとえば、「わたしは、スターリン批判を、スターリン流の一国社会主義に終止符を打ち、ソ連における世界戦争に対する抵抗態勢を、世界革命に対する推進態勢にきりかえるためにおこなわれたものとして受け取った」 などという花田の言葉は、どうみても、当時の党の路線とはまったくちがう、当時はまだ悪魔扱いされていたトロツキストの言葉である。 また、「前近代的なものを否定的媒介にして近代的なものをこえる」 という彼の有名なテーゼも、読みようによっては、「後進国」 における二段階革命論を否定した、トロツキーの永続革命論の密輸入のように読めないこともない。 しかし、スターリン批判後に党を批判して、党から除名された若者らが主導する全学連を公然と支援した吉本と、どこか歯切れの悪かった花田との姿勢の差が、その後の二人の人気を分けたということは言えるだろう。60年代に吉本が多くの学生らに読まれ、「教祖」 とまで呼ばれるようになったのは、なによりもそういう吉本のどことも妥協せぬ姿勢が支持されたからであり、論争でどっちが勝ったとか負けたとかいうこととは、たぶんあまり関係ない。 花田という人が頭のいい人であったことは言うまでもない。ただ、その頭の良さのために、彼にはしばしば、自分だけ大所高所に立ったがごとき、机上の戦略を語りたがるという癖があったようだ。なにかといえば、「前近代的なものを否定的媒介にして近代的なものをこえる」 とか、「大衆的芸術を否定的媒介にした芸術の総合化」 といったスローガンをぶち上げたがるのもそうだろう。 戦中世代である吉本をもっとも怒らせたのは、「戦争中、戦争の革命へ転化する決定的瞬間を、心ひそかに持ち続けてきたわたしは、あまりにも早過ぎた平和の到来に、すっかり、暗澹たる気持ちにならないわけにはいかなかった」 という、「戦後文学大批判」 の中での言葉だろうが、花田にすればこれもただのイロニーに過ぎなかったのかもしれない。 しかし、沖縄の壊滅から特攻隊の召集、二発の原爆投下からソビエトの参戦にまで至り、日ごとに膨大な死者が出ていた当時の状況を考えてみれば、これはやはり無責任な放言といわざるを得まい。同世代に多くの死者をもつ吉本が怒ったのは、当然すぎるほど当然な話である。 党に対して面従腹背の気味もあった花田が、60年安保闘争を全力で戦った当時の全学連を指導した共産主義者同盟の解体をまるで待っていたかのように、構造改革派(小泉の構造改革とは全然関係ない)と呼ばれた、社会主義革命を主張する当時の共産党内の左派グループとともに集団で除名されたのには、なにやら 「策士、策におぼれる」 とか 「巧兎死して走狗煮らる」 といった感がしないわけでもない。 つまるところ、頭の良すぎた花田に欠けていたのは、良くも悪くも鈍牛のようにしつこい吉本の粘り強さということになるだろう。福岡生まれの花田はいかにも九州人らしい旗振りが好きないっぽうで、典型的な都会的モダニストでもあったが、天草生まれの船大工だったという祖父をもつ吉本のほうは、東京生まれでありながら、いくつになってもどこか田舎臭さの抜けない人でもある。
2009.08.05
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