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猫さんの様子が落ち着くまで休みます。あしからず。
2007.07.10
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ちょっと、猫さんの具合が悪くて、一日抜けてしまいました。出来るだけ抜けないようにします。ご容赦を。
2007.07.09
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私はさほどパパ・ヘミングウェイに興味はない。それより、その話が書いてあったエッセイの著者のファンだった。その作家は開高健。開高氏の著書は好きで、何冊も読んだが、この年の旅で、スエーデに泊まっていた日本人にいただいたのが開高氏の著書との出逢いだった。そのエッセイに出てきたカフェ・デパールの話しを、トレースすることから私のパリが、俄然現実味を帯びてきていた。その下りは次回に。では。
2007.07.08
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スエーデを出て、左に曲がりセーヌ沿いに歩いていくと、大きな交差点に出る。右手には道路を挟んでサン・ミッシェル橋が架かり、シテ島に渡る事が出来る。左手にはメトロ・サン・ミッシェル駅があり、そのメトロの入り口前にカフェがあった。カフェの名は「デパール(出発)」といった。なにもメトロの駅があるくらいで出発などと大仰な、と思うだろうが、実はメトロの駅と共にもう一線、郊外に抜ける国鉄線とくっついていて終点はオルセー駅。オステルリッツ駅との間にサン・ミッシェル駅があるだけで、後はパリ市外まで駅はない。それで、たぶん「出発」なんてカフェが入り口にあるのだろう。そして、そのカフェには、アーネスト・ヘミングウェーのネームプレートのついた席がある。その席に座りたくて、夜な夜な出掛けていく。物好きな東洋人だった。
2007.07.07
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スエーデの初日が明けて、ここで大変な夜を明かしたけど、それはまたの機会に書くとして、スエーデ逗留のくだりを。 結局、昨晩空港で調べてもらった友人から貰った下宿屋のアドレスは、連絡も取れず、出掛けていったがその住所にそんな下宿屋はなかった。騙されたんかなと思いながらスエーデに帰ってきて、今夜の連泊を頼んで、安い部屋に変えて貰った。その部屋が一泊26FFR50C。朝食が6FFR50Cだった。日本円にして1ヶ月で795FFR。1FFR55円換算で約45,000円。あと食費で1ヶ月100,000円で過ごせれば私としては万々歳。とりあえず1週間ごとの更新で1ヶ月過ごしてみることとなった。それがスエーデに決めた単純な理由。のちにこのホテルの便利なところや、鼻持ちならないオーナー家族の話など、まるでルネ・クレマンの世界を垣間見るような出来事や事実がわかり、ここに泊まって良かったと心底思うのだった。あぁ、私は今、パリの空の下、セーヌが目の前を流れる生活をしているのだと実感できたし、パリの日本人を自負できて幸せだった。安物の幸せやなぁ。
2007.07.06
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ホテル・スエーデになぜ逗留することになったのかというと、日本を出るときに知り合いのライターさんでパリに詳しいという人がいて、その人にパリに半年ほど行くんだけど…と、アパートか何かいい物件の見つけ方を知りませんかと相談したら、以前、自分が居たというパリの下宿屋を紹介してくれた。細かいことまで説明されて、ここへ行けば大丈夫的なことを言われたので、こっちはすっかりその気になって、もうその下宿屋に住んでる気持ちになっていた。 で、パリに降り立ち、入国してすぐに電話を入れるが電話は繋がらないし、ホテル案内所でその住所を見せて電話が繋がらないことをジェスチャーで説明するが、顔を横に振るだけで何もしてくれない。電話番号を指さされ、自分で掛けろ的仕草をするばかり、仕方なく、一晩だけホテルに泊まろうと、その案内所でホテルを紹介してもらったのが「ホテル・スエーデ」だった。何の案内も知り合いも居ないパリの街に、オルリー空港からタクシーに乗って向かう。案内所でやっぱりホテルが見つからず四苦八苦していた日本人と、タクシーに同乗してパリに向かう。もう真っ暗な高速道路、石畳をぼこぼこならして町中を走る。ふとタクシーの窓から見覚えのある建物が見えた。ライトアップされたノートルダム寺院だった。寺院を超えたところでタクシーは止まり、そこにスエーデがあった。
2007.07.05
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ホテルスエーデは星2つのNN。NNは改造されているという証で、どこをどう改造したのか定かではなかった。このホテルの自慢はフランス映画の巨匠が、このホテルで映画の1シーンを撮ったことがあると言うことだったが、なんて映画なのかも、また定かではなかった。17と18、20号室を渡り歩いたが18号室は非常に不気味な部屋だった。その辺りは折に触れ、書いてみたい。塩でも握りしめて。では、また明日。
2007.07.04
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サン・ミッシェル河岸15番地はセーヌを挟んでパリ警視庁の対岸にある。警視庁はシテ島の中にあって、ノートルダム広場を挟んでノートルダム寺院の正面にあった。セーヌ沿いのサンミッシェル橋から小橋(プチ・ポン)の間がサンミッシェル河岸だ。quaiと書いてケと読むらしい。意味合いはプラットホームとか波止場とか。パリ警視庁はオルフェーブル河岸、アカデミーフランセーズはコンティ河岸。オルセー美術館はオルセー河岸になる。その15番地にあった安ホテルは、部屋数が20部屋あって、300年以上昔の建物だから右に傾いで、後ろに反っくり返っていた。建物の左側の通りには建物に突っ張り棒が掛けてあった。そのサン・ミッシェル河岸がカルチェ・ラタンの北の外れ。そこから南にサン・ジェルマン大通りを超えてソルボンヌの南外れまでがカルチェ・ラタン。どちらにしてもラテン語が飛び交うこともないが、スノッブな街と言われていた。そこがまずは住み処となった。
2007.07.03
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毎日書くことは大変なことですが、後で修正入れて書き直したいと思います。中国料理にもそろそろ決着をつけなくっちゃ。で、決着目指そうともどってきました。私は神戸に住んでいて、神戸には南京町なる、横浜の中華街とは比べものにならないほどチンケな、書き割りのような街があって、今ではとんでもなく金の落ちる、一大観光地になっているけど、その当時は外人バーや中国人相手の食堂が並ぶ、あやしい街だった。私は、新聞社系の制作会社の仕事で、この辺りのお店を取材したり、撮影したりすることが多かったので、よく出掛けていったが、人通りも少なく、夕方以降は非常にヤバイ街だった。その中にあって「民生」という料理店だけは「焼きそば(中華の)」で有名で食べに行く人も多かった。結局、この辺りで食事することなど「民生」を除けば、一般的ではなかった。たぶん、真剣に中国料理を食べに行ってれば、本場の中国料理が味わえたのかも知れないが、如何せん、それほど中国料理に思い入れもなかった。で、神戸にいながら本物の中国料理を食する機会に恵まれず、パリへ出掛けた。でも、本当は神戸で本物の中国料理(台湾料理)の洗礼は受けていた。舌が幼稚だったのか、その時は、その料理が美味いとは感じられなく、特にイン菜(コエンドロ・パクチー)の香りにノックアウトされてしまった。そんな中国料理オンチのままパリに出掛け、パリでフランス人に媚びないピュアな中国料理に出会って、大感激してしまった。
2007.07.01
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