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私がパリで長逗留していた旅籠『ホテル・スエーデ』があったサンミッシェル河岸から西に、ブール・ミッシュ(サン・ミッシェル大通りをパリっ子はそう呼ぶそうな。ちなみに大ざっぱな分け方でBoulevardが大通り、Rueが通り。他に通りの大きさや形状で何種類かの呼び名がある様)に出て、サン・ミッシェル広場の噴水からサン・タンドレ・デ・ザール通りに入った所に、今で言うならイタリア料理のファミレスがあった。残念ながら店名は失念してしまったが、週3ぐらいのペースで通っていた。有り難い事に、朝から晩まで終日食事らしい物が食べられた。 パリでは14時までに店に入らないと昼メシは食いっぱぐれるし、夜は19時過ぎまでレストランは開かない。ファスト・フードのマクドナルドは終日営業だけど、パンがあまり得意ではない私にとって、ハンバーガー食べてお昼を済ますなんて考えられなかった。それなら、ケバブのサンドウィッチ食べるし…先日書いた『ムール・マリニエール』も初めてその店で食べたし、タイトルの『ムール貝のタリアッテレ』もその店で初めて食べた料理だった。 パリで、フランス料理を殆ど食べなくて、中国料理にベトナム料理、イタリア料理に北アフリカ料理ばかり食べていた理由はフランス料理はとにかく値段が高かったから。で、色んな国の色んな料理がユシュット通りやサン・セブラン通り界隈にひしめき合っていた。そのファミレスっぽいお店あるサン・タンドレ・デ・ザール通りは、ブール・ミッシュを西に渡った辺りにある細い通りでたくさんのレストランが並んでいた。 日本では『スパゲッティ・ナポリタン』とか日本で誕生したイタリア料理擬きばかりを食べていたから、スパゲッティの麺に種類があるなんて全く知らなかった。『ムール貝のタリアッテレ』が出てきた時はイタリアンにも『きしめん』があるんだとまたもや眼からウロコがポロリ。で、今では自宅でもニンニクを炒めたオリーブオイルにムール貝と刻んだトマトを加えて蒸し、白ワインのアルコールを飛ばしら、茹でたイタリアのひも皮うどん『タリアッテレ』を加えて絡めている。1970年代の日本では想像もつかなかった麺だけど、当時の高級イタリア料理店ならあったのかも知れないが、そんな高級なレストランに行った事のない私としては初見の代物だった。今ならスーパーマーケットでも手に入るし、タリアッテレの親戚と言うかイトコというか、よく似た『フェットチーネ』というひも皮うどんまで売っている。ついでに書いておくけど、イタリアには細かく分類すれば600種を遙かに超えるパスタがあるそうな。『タリアッテレ』や『フェットチーネ』、イタリア・トスカーナ地方の幅4cmを超える『パッパルデッレ』等の平打ち麺は、水の代わりに玉子を加えて打たれた玉子麺。程よいコシがあってペロペロとした食感が何とも心地よく『きしめん』擬き(失礼)が名古屋生まれの私としては少しうれしい。てな訳で、私はこのひも皮うどんのようなパスタが大好きで、自分で料理する時に、雲呑の皮や餃子の皮をサッと茹で、中華スープに入れ、胡椒たっぷりとラー油を振りかけ、その変わったペロペロ感を楽しんでいる。 食感はとても大切な味わいのファクターだと思う。
2020.01.30
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フランスにいた時、『ムール・マリニエール(ムール貝の白ワイン蒸し)』を好んで食べていた。お値段もお安く、とにかくボリュームがあって、たらふく食べた気になっていた。でも、ちょっと気になったのが「これって、カラス貝じゃない?」って疑問。いまならネットでチョチョイって検索かければ結果が得られるけど1970年代にネットなんてなかったし、パーソナルコンピューターなんて、スティーブ・ジョブズがガレージでAPPLE Ⅰを作ったのが1976年だから、まだ影も形もない時分。で、出された『ムール・マリニエール』を見て驚いた。大きな器にとんでもない量のカラス貝が盛られていた。はじめは「アァ、失敗した」って、あまり積極的に食べようとは思わなかったのに、一口食べて眼からウロコがボロボロこぼれ落ちた。まぁ、お腹が空いていた事もあってだけど、一発ではまってしまった。 小学生の頃。私が住んでいた神戸市灘区は国道2号線が海岸近くを東西に通っていて、その南側には灘五郷のひとつ灘郷の酒蔵が軒を連ね、海岸筋には小さな漁港があった。私の通っていた小学校のクラスメイトに漁師の息子や娘が何人か居て、友達の家に遊びに行くと家の前に波止があり、何隻もの小さな漁船が係留されていて、友達はその船から幾つかのバケツを降ろしていた。そのバケツの中には黒々としたカラス貝が山盛り入っていた。「どうするンや、このカラス貝?」と、私がたずねると「食べるんや。うまいで」絶句してしまった。ヒョイと波止の岸壁を見るとピチャピチャと潮が洗う辺りにカラス貝がびっしりとついていて、漁船を係留する舫いにもカラス貝が固まって付いていた。知識がないので驚いてしまう。カラス貝を食べるとは思ってもみなかったからで、その思い出が頭の隅にズーッとこびりついていた。 今では眼の前の『ムール・マリニエール』に垂涎の想い。たまに無性に食べたくなるけど、フランス料理店では馬鹿高い料金を取られるので、冷凍のムール貝を買ってきて、自分でワイン蒸しにしている。フランスでは、食べたムール貝の貝殻をトングのように使って、ムール貝の身だけを上手く摘まんで食べていたが、日本では殻付きのムール貝が中々手に入らないし、フランス料理に使われている事が知れ渡った頃から、ただでさえ手に入りにくい殻付きの活けのムール貝の値段は「馬鹿野郎!」て怒鳴りたくなるほど高騰し、入手しがたい物になっていた。 ムール貝は『ムラサキイガイ』という貝で、カラス貝もムラサキイガイ。国内では70年代に食材として流通していなかったと思う。またイガイにはムラサキイガイ、ミドリイガイ等の種類があって、いち時期流行った『パーナ貝』はモエギイガイの事。イガイにしても牡蛎にしてもあまり綺麗な水域に生息していない貝で、貝毒もあったりするので、「カラス貝はムール貝」なんだと、自分で採って食べたりしない方が安全だろう。くれぐれも。 ちなみにフランスのブロン種の牡蛎は1970年代に激減。日本からマガキを輸入して養殖するようになって以来、フランスの牡蛎の相当量は日本のマガキ由来の牡蛎となったそ〜な。 『日本ちょっとだけ昔話』より。
2020.01.29
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1977年、スペイン・バレンシア地方に『パエージャ』を食べに出掛けた。実は『パエージャ』に行き着く遙か以前に食べた『ジャンバラヤ』なるアメリカ南部の料理の名前が『パエージャ』に興味を持つ発端となった。 アメリカのカントリー&ウエスタンの名曲にハンク・ウィリアムズが歌う『ジャンバラヤ』という楽曲がある。私が親父の仕事(家業はアメリカ船相手の艦船商工業者で時計修理をしていた)を手伝っていた時期に、アメリカ南部出身のコック長が、故郷の味『ジャンバラヤ』という料理を食べさせてくれた。 そのお米を使った料理が結構美味しかった。アメリカ南部のルイジアナがまだスペイン支配下にあった頃にスペインからもたらされた料理で、後に南部に入植したフランス系入植者達の料理『ケイジャン料理』として定着したと言われている。私は料理の歴史に特に詳しいわけではないので間違っていたら、ご容赦。でも、この『ジャンバラヤ』のルーツは間違いなくスペイン・バレンシア地方の料理『パエージャ』だ。日本では一般的に『パエリア』と紹介されているけど、あまり耳の良くない私でさえバレンシアで聞いた音は『パエージャ』だったのでそう表記している。で、どうしてもルーツたる『パエージャ』を本場バレンシアで食してみたく、パリから遠路遙々スペイン第三の都市バレンシアに降り立った…なんてね。 バレンシアの街で行き当たりばったりで『パエージャ』三昧。と思ったけど、イタリアでの「スパゲティーが全て超特盛り」状態だったことから学習したので、無闇矢鱈に注文せずに『アロス・ネグロ(イカ墨のパエージャ)』と『パエージャ・マリネーラ(漁師風パエージャ)』に的を絞って食べてみた。すべて大満足。日本以外で食するお米料理の中では、香港・台湾で食する『炒飯』やタイの『カォ・パッ』、イタリアの『リゾット』と並ぶ美味しさだった。 この『パエージャ』の美味しさの秘密はお米にあると思う。欧州ではイタリアとスペインがお米使った料理が豊富で、お米の産地としても有名だ。特にスペインのバレンシアはちょっと珍しいお米の種類を産し、それが『パエージャ』の美味しさの秘密だと思う。 そのお米は『ジャバニカ種』と呼ばれる短粒種『ジャポニカ種』の亜種とされ、日本のお米を少しふっくらさせた大粒の米で、欧州ではスペインとイタリアで生産されていて食感は長粒種の『インディカ種』近い。少し丸みのあるお米が『パエージャ』に適しているようで、ただ単純に外米と呼ばれる『インディカ種』を使って『パエージャ』を作るより、日本のお米を使って作った『パエージャ』の方がより本場バレンシアの『パエージャ』に近いと、日本のスペイン料理店で日本のお米を使って『パエージャ』を提供している店もある。出来れば『ジャバニカ種』のお米を使いたいと思うだろうが、残念ながら日本国内で『ジャバニカ種』のお米は手に入らない。というより、生産量が圧倒的に少ない『ジャバニカ種』の米を使って調理される『パエージャ』は、スペインでしか味わえない。 以前は日本でも『ジャバニカ種』の米を『陸稲(おかぼ、水田ではなく畑で作られる稲)』として産していたらしいが、今では皆無だとか。 私は幸いというか、そこまでする必要があったのかというか、本場『バレンシア』まで出掛けて『パエージャ』を食する事が出来た。 外国人がわざわざお寿司やラーメンや神戸ステーキを食べに日本まで出掛けて来る。ミシェランの三つ星は『素材の質、料理技術の高さ、独創性などを考慮し、そのために旅行する価値がある卓越した料理と定義はされる』とあるから、食に関する無形世界遺産に指定された『和食』は、広義ではまんま『三つ星』に値する。 で、バレンシアまでわざわざ出掛けなくては食せない『パエージャ』もミシェランに代わって広義で『三つ星』を勝手にあげてしまおう。 手前味噌ですけど、何か?。
2020.01.26
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食べ物の話しばかりが続いているけど、食べ物の話しは尽きることがないようだ。ヨーロッパに出掛ける時は必ず『ユーレイル・パス』を持っていた。はっきりとは覚えてはいないのだが使用できる期間は、最短で2〜3週間から最長が3ヶ月間だったと思う。一番長い3ヶ月間のパスで確か13万円程度だったと覚えている。とにかくヨーロッパの国々の列車に乗り放題で、しかも一等。まだパリの地下鉄に一等車があった時代だから、一等車に乗る人と二等車に乗る人とでは明らかに違うのが外国人の私でも分かった。ただ、ヨーロッパは広いから長距離移動が多く、夜行列車の移動の時は、寝台車か簡易寝台かで追加料金が変わる。そんな時は二等車の簡易寝台を予約する様にした。一等は流石に料金が高いので、折角ユーレイル・パスで安価に旅行が楽しめるのだから寝台は二等で我慢していた。パスの使い始めの頃は、そんな事分からないから一等の寝台車に乗っていたけど、ある夜行列車に乗った時に乗客に言われた「二等にすれば安いのに」。親切で言ってくれたのか、はたまた、GジャンにGパン、古びたスニーカーを履いてデッカい鞄を担いでいる謎の(彼等から見れば、東洋人は謎の固まり)日本人に、「分をわきまえろ」と言いたかったのかも。ヨーロッパの国々は階級意識が強い。確かに視線は冷たかった気がする。まあ、いいけど。で、パリ、オステルリッツ駅発スッド・エキスブレス(南急行)号に乗ってポルトガルはリスボンに。目指すはヨーロッパ大陸最西端、ポルトガルのロカ岬だ。ロカ岬でヨーロッパ最西端の日没を見てからマドリードに。更にブエルタ・デル・ソル号、ノード・エキスプレス(北急行)号と乗り継いで、スエーデンのルレオからノルウエーのスカンジナビア半島最北端の鉄道駅、ナルヴィックを目指す。ナルヴィックは北極圏に位置していて、夏場は夜中でも明るい白夜。二重窓のホテルの窓には重いカーテンが二重になっていて、真夜中の太陽の光を遮っている。夜中の2時にカーテンを開けて外を見てみると、熱のない太陽が街を照らしていた。ナルヴィックからトルムソに出て、船に乗ってホニングスヴォーグに。そこからいよいよ最終目的地、ユーラシア大陸最北端のノールカップを目指す。そこは北極圏。北極は南極のように大陸はない。南極だったら南極大陸に上陸しないと南極に行ったって言いにくいけど、大陸のない北極は北極圏に入れば「北極に行った!」と胸を張って言える。言ったって仕方ないんだけど、夏の北極は太陽が沈まない。夏至には三日ほど遅れてしまったが(夏至の前後はホステルの予約が取れなくて…そんな時期に北を目指すのはみんな目的は同じ)憧れの「ミッドナイト・サン」を見に来る。で、ちょっとガッカリ。見たっていったって、太陽が地平線に沿って移動するだけの事で、少し拍子抜けしてしまう。ダウンのオーバーパンツをはいてダウンのパーカーを着てても、流石に芯から冷えた。マスクをしてダウンの目出し帽を被り、手袋はオイル・ド・ウールの手袋に極地用のミトンをわざわざ買ってきたけど、寒くてやりきれなかったし、夜中明るいだけの白夜なんてのは、そこに行ったってだけの自己満。『南十字星』と同じぐらいの肩すかし(南十字は4つの星の中心が真南に最も近いという事で南半球を航海する道しるべ)だった。次は極夜(白夜の反対。一日中夜)のオーロラを見に行こう。 ノルウエー領のスヴァールバル諸島はスヴァールバル条約に参加している国の国民は誰でも住む事が出来る北極圏の不思議な島。日本も条約に参加しているので日本人は永住権とかビザとか関係なしに住む事が出来る所。住むといっても問題は仕事だけどね。まぁ、仕事をリタイアした後にタイやマレーシアに移住して老後をエンジョイしている人達が増えている事だし、唯一の有人島スピッツべルゲン島ロングイェールビーンに入植するのもいいかもしれない。スピッツべルゲン島ロングイェールビーンは、オーロラを見に出掛けてくる観光客の為のホテルや民宿があったりする。人口が約2000人に対して白熊が3000頭という、北極点から1000kmしか離れていない街だ。お金さえあれば、赤ちようちんぶら下げた居酒屋でも開いてさ…日本人もいるらしいし…するめ焼いてポン酒の熱燗で一杯とか…夢見た物の物価はとんでもなく高いらしくて、生野菜の値段は目玉が飛び出しそうとか…で、一度だけ、オーロラを見に出掛けるだけにしておこうかな。それだけなら、ツアーもあるらしいから。といっても日本発10日間の旅行が約60万円。多分極夜のベストシーズンだと100万円。航空券だけなら約10万円位だけど、冬至近くの日程なら約15万円位。約45時間掛かる。それにパックでないとホテルも民宿も…空いてるかな?。夜は気温が氷点下17〜18度だから、宿がないと…今のところ、出掛ける計画はないけど…。 とんでもない話しでとんでもなく脱線してしまった。パエージャの話しはまた明日。 Astamaniana(アスタマニアーナ、また明日逢いましょう)!
2020.01.25
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「ア〜、召し上がれ、焼きたてのシシカバブ〜」って歌っていたのは『三人娘』の一人、江利チエミさん。 『三人娘』とは、江利チエミ、雪村いずみ、美空ひばりの御三方。と言っても、1970年代になると『三人娘』は、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりへと移り変わっていったが、昭和後期や平成生まれの若い方には「どっちも知らない世界」だろうか。その後に続いた三人娘(的)な位置づけが『花の中三トリオ』桜田淳子、山口百恵、森昌子。そして『花の82年組』中森明菜、小泉今日子、松本伊代と続いていく。とにかく日本人は『三大』ホニャララとか『三人』ホニャララが好きで、国内に留まらず『世界三大美人』とか言ったりしてるけど、殆どが日本人が勝手に言ってるだけで、『世界三大夜景』を外国人に聞いてみたって誰も知らないし、興味もない。 で、話しがドンドン本題から遠ざかっていくので本題に戻そう。 江利チエミが歌った『シシカバブ(串焼きソング)』に出てくる『シシカバブ』は、中東地域で食されている肉類をローストして調理する料理の総称で、トルコでは串焼きのシシュ・ケバブ。アラビア語圏ではシーシュ・カバーブ。インドではシーク・カバーブと呼ばれているそうな。 ここでいうケバブは長い鉄の串に屑肉の固まりを刺してロースターで炙りながら少しづつ回転させて焼き、焼けた所からそぎ切りにしたドネル・ケバブの事。そのケバブとたっぷりの玉葱やトマトのスライスを、腹を割ったフランスパンに挟んだのが、ケバブ・サンドだ。 今ではすっかり日本の縁日の屋台に定着している感がある。 そのケバブ・サンドに出逢ったのがパリ。 パリの街中には結構テント張りの露店が出ていて、小物や洋服、見るからに胸焼けしそうな(私は好きだけど)甘ったるいお菓子等を売っていた。 セーヌ河岸のブキニスト(古本屋)なんてパリ名物。買うことは殆どないけど、たまに絵はがきを売ってたりして、珍しい絵柄のものを物色する楽しみがあった。 パリの冬の風物詩と言うと『焼き栗屋』。 日本とはちょっと違っていて、テント張りにテーブルって感じの露店が多く、懐かしくて何となく買いたくなるけど、焼き栗が日本のものと同じと思ってはいけない。所々焦げて腹を割ってる栗はあまり美味しそうに見えないし、事実、美味しくはないと私にはとれた。 で、またまたケバブに戻るけど。 そんなドネル・ケバブが確か6FR。当時の為替レートで300円位だったから、お金に余裕のなかった私にとっては、値段的にも、量的にも、とにかくお肉が食べられるって点でも昼メシに持ってこいの都合のいいメニューだった。 そんな感じで、私のパリ食生活は、ホテルで朝食は取らずに露店でドネル・ケバブ。昼は学食でクスクス。夜はイタリー通りかユシュット通りで中国料理かベトナム料理と、いったい何処に行ったんだ。と、言いたくなる生活を送っていた。 今年の柳原蛭子神社。久し振りに『ドネル・ケバブ』を食べた。 目を閉じると、もう、45年も経つのに… パリが見えた。
2020.01.24
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今年は東京オリンピックの年。 1964年、第18回東京オリンピックは私が中学3年生の時。あれから56年が経った。 私の親父は新しもの好きで東京オリンピックをカラーで見たいが為に、当時はまだまだ珍しかったカラーテレビを買ってきた。お陰で日本選手団の制服が日の丸の赤だった事を今でも鮮明に覚えている。そのオリンピックに刺激されてスポーツに全く関心が無かった私でさえ、運動を始めようとしていた。 私はそんなに運動神経が発達していたとは言えないし、運動は苦手ではなかったが殆ど興味はなかった。そんな私がやってみたいと思った運動は「ウエイトリフティング」。 中学3年生で身長165cm、体重58kgとそれほど体格に恵まれていた方ではなかったが、日本に金メダルをもたらしたフェザー級の三宅義信選手(64年東京に続き、68年メキシコ大会金メダル。弟の三宅義行選手はロンドン大会銀メダリストで、リオ大会女子ウエイトリフティング銅メダリスト三宅宏美選手の父親)と同じ階級ということもあって、この『小さな巨人』に憧れてウエイトリフティングがやりたいと思った。 早速、お小遣いをはたいてバーベルを購入したけど、買えたバーベルは競技用ではなく、しかも予算の都合でトータル65kgまでしか買えなかった。それでも毎日、ジャークにスナッチ、プレスと3種目(現在はプレスという種目はない)を繰り返し挙げて、全種目65kgをクリアしたが、もっと記録を伸すには本格的にウエイトリフティングが出来る場所を探さなくてはならない。残念ながら、今のようにアスレチッククラブもなければゴールドジム(ちなみにゴールド・ジムは東京オリンピックの翌年にアメリカで設立された)もない時代の事。 で、探してもトレーニングできる施設は見つからず諦め掛けていた時に、当時の神戸YMCAにフィットネスというプログラムを見つけた。見学に出掛けると、ウエイトトレーニングも出来ることがわかったが、年齢制限があって18歳以上でないと入会出来ないとの事。何とか頼み込んで特例で参加を認めて貰ってトレーニングを始めたけど、バーベルのウエイトは80kgまでしかなくて本格的なトレーニングにはならなかった。 そんな時に、三宅義信選手が自衛隊体育学校でトレー二ングしている姿をテレビで見て 「そうだ。自衛隊体育学校に入ろう」 と、単純に考えてしまった。 当時、自衛隊は高校卒業後入隊するもので中学生とは無縁の所だと思っていたが、「少年自衛官」なるものがあることを知り 「そうだ。少年自衛官になろう」 と、またまた単純に思い込んでしまった。 しかし、脳みそが筋肉で出来ているほど運動は出来ないし、さりとて贅肉で出来ているわけでもないのに頭脳不明晰で、残念なことに、全国で800名募集に引っ掛かる事はなかった。 考えてみたら高校の授業を受けながら給料を貰って自衛隊の教練を受け、高校卒業相当時には下士官クラスの階級になる国立の高校に入学するようなものだから、勉強が出来ない者とは無縁だったのかも。 後で分かったけど、近郊の洲本実業や尼崎工業高校には部活にウエイトリフティング部があった。 給料貰いながら自分のやりたいことをするのには、何であれ、やれる事はちゃんとやってないとね。 今年で70歳。 達成できた自分なりの目標はボツボツあるけど、達成できなかった目標は毎年ボロボロ増えてる。 幼馴染みは「今日は腕立て800回。腹筋200回達成」等と携帯メールを送ってくる。 私も負けじと毎年2500km歩き、公営のスポーツジムに通って遅ればせながら筋トレも始めた。 この歳になると目標は非常に立てがたく、達成できる見込みある目標を選ばなくてはならない。 で、2020年、第32回東京オリンピックが終わったら、次の目標は、2025年大阪万国博覧会を見に行くぞ!。 結局「そこまで生きてみせるぞ!」って目標。 小せぇ、小せぇ…。
2020.01.22
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神戸の震災から25年が経った。今年も市役所南の公園で慰霊の式典が行われた。今日。私はその時間、午前5時46分52秒。神戸市灘区の都賀川の河川敷にいた。震災25周年。同時刻。亡くなられた方々に心から黙祷を捧げた。 25年前。我が家は建物を建て替えたばかりだった。私が1階を写真スタジオに使うため、長さ9m×幅6m×高さ5m、厚さ25㎝のコンクリートの箱を地中1.2mの深さで組み立て、その上に2、3階、小屋裏と積み上げた建物は幸いにして無傷だった。 4階の小屋裏で寝ていた私は、大きくズンッと沈み込んだ感覚で目が覚め、次ぎに、南北の激しい揺れに夜具が8畳程の部屋の奥から小屋裏の入口まで、移動させられていた。何事が起こったのか分からないまま、部屋を出ると、目の前の見慣れた光景は大きく姿を変え、私の住んでいる横町の家並みは、私の家と、向かいの並びの2階建ての家2軒だけが残っていて、後はぺちゃんこになって、屋根瓦の海の様になっていた。細かな埃が空気中を漂い、人の声も、鳥の声も全く聞こえず、不気味なほど音が無かった。 「何が起こったのか分からなかった」と人はよく表現するけど、まったく何が起きたのか分からず、しばし呆然とその光景を眺めていた。我に返ったのは階下の妹の家から妹夫婦が出てきた時。お互いに安否を確かめ、2階に住む弟一家の安否を確かめた。幸いに全員何事もなく無事だった。 我が家には飼い猫がいて、その姿が見えず、狭い小屋裏部屋を名前を呼びながら探してみると、天窓から外に逃げようとしたと見えて、まん丸に目を見開き、窓枠に必死にしがみ付いていた。私の声が分かったのか、とんでもない声を張り上げて鳴き始めた。余程怖かったと見えて、体は硬直したままで窓枠から離れようとしなかった。 怪我がなかった近所の人達総出で、倒壊した建物の中に閉じ込められた人達を救出する。有り難いことに横町の住民は軽い怪我はあったけど大事に至った人はいなかった。 私はと言うと前年のクリスマス明け、写真撮影の準備中に脚立の足が折れて落下、右腕を単純骨折していて、救援活動の何の助けにもなっていなかった。出来ることは、仕事で使うB1サイズのパネルに近所の住人の安否情報を掲載する役目を仰せつかり、石膏で固められた右腕ながら、役に立とうと頑張っていた。 震災から何ヶ月が経過して、少しずつ日常が戻りつつある頃に、市から区画整理の案が出て、折角残った我が家は取り壊されてしまった。今は新しい家が建ち、区画整理で町内は一変し、震災前の面影はほとんどなく、お隣さんもお向かいさんもこの地を去り、昔ながらのご近所さんはいなくなってしまった。 今年もその日を迎えた。テレビでは慰霊祭や、鎮魂の思いを伝える番組が放送されている。あの震災を題材にした番組やドラマが放送されるが、私は一切見ない。そして1月17日午前5時46分52秒、私は慰霊祭には参加しないで、ただ、ただ、河原を歩き続け、その時間に歩みを止め、黙祷を捧げた。あの日の出来事を忘れないために。 あの日、フワフワと火の粉が飛んでいた。火の粉とは呼べないような大きな塊が、音もなく、風もない生暖かい大気の中を漂ってくる。慌てて、手で落とし、踏んで火を消した。遠くから火の粉が幾つも、幾つも漂ってくる。そのうち、小さな小さな火が、崩れている家の古くて乾いた瓦礫に燃え移り、火の手が上がる。動ける人が、手を尽くして、瓦礫に閉じ込められた人を助け出そうと懸命に動く。閉じ込められた人の家族が助けを求める。みんなが一丸となって瓦礫を掘り起こす。 火事は辺りの瓦礫や残った家も次々と焼きつくしていった。人の命までも。 ある人は助けを待ち続けて、瓦礫の中で息を引き取った。声が聞こえていたのに…残されてた家族は諦めきれず、何度も何度も声を掛ける。でも返事は返って来なくなった。それでも残された人は、その場を離れられないでいた。 ある人は、瓦礫の中に取り残されたまま、火の手が回ってしまった。家族は一縷の望みを持って、励まし、残された時間をどんな想いで過ごしたのだろう。最後の最後まで、言葉を掛け合った家族は、どんな気持ちでその場を離れたのだろうか。瓦礫に閉じ込められた犠牲者は、どんな思ったのだろう…。 そう考えてしまう。家族を失った。しかもほんの少し離れた場所で…息づかいが聞こえていたかも。手を継いでいたかも…。何も出来ず、家族の最後をみとった人達の気持ちなど、私たちに分かろうはずがない。 私はその日、その時間。私が体験した事と、目の当たりにした出来事と、その出来事から学んだ事を噛みしめながら、喪に服すこととしている。 6434名の犠牲者に黙祷。 安らかにお眠り下さい。
2020.01.17
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先日、『クスクス』の事を書いた。形状からして粟やヒエの一種と考えている人もいたりして。私もその中の1人で、バリでクスクスを初めて食べた時は、これはアフリカ辺りの穀物の一種と思い込んでいた。今ならネットで簡単に答えを得ることが出来るけど、当時はそんな物はなかったから箱の裏に書かれてある言語、アラビア語は解らないので英語の辞書を頼りに答えを模索したけど、書いてあるのはレシピが殆どだったから、長い間勝手に穀物だと思い込んでいた。で、分かってみると穀物は穀物だけどデュラムセモリナというメジャーな小麦粉の粗挽きされた粉の事で、語源はベルベル語の「丸められた」って言葉らしいと分かった。料理の材料として『クスクス』と呼ばれ、それを使った料理も『クスクス』と呼ばれ、パスタの一種として認識されていた。「パスタって言われてもねぇ〜、パスタらしくないしさ」って私を含む大勢の人が思っただろう。少なくとも私だけじゃないと思うけど。まっ、どっちでもいいっちゃいいけどね。 で、今日はコメの話し。まず最初に言いたいのは、世界各国にその国の料理があって、その料理に合ったコメが提供されている。イギリスやフランスではコメ(ボイルされたご飯)はサラダの一種として扱われているらしく『ライスサラダ』なる物は、野菜のサラダにご飯粒が混じっているようなものとか、皿に盛りつけられた色んな野菜に混じって、アイスクリームサーバーですくったようなご飯が半球状のコメの塊として乗って出たりする。そんな更に盛られたご飯を色んな国で食べて(流石にアジアの国ではお椀に盛られて出てくるけど)、日本のコメが一番美味しいと思った。勿論、その国の料理に合ったご飯があるのだろうけど、米単体(ご飯)で考えると、日本の米(ご飯)程美味しいものはないと思う。 5〜60年前に、日本のご飯は「スティッキーライス(ベタ付く)」と呼ばれて、西洋ではあまり好まれていなかった。と言うのも、日本の米は日本独特の米でジャポニカ種(単粒種・うるち米ともち米がある)と呼ばれているアジアの品種で、アジアには他にインディカ種(長粒種)、ジャバニカ種(大粒種)があって、ジャポニカ種以外は、炊くと殆ど粘りッ気のないパサパサのご飯になる。また、日本では炊き干し法が炊飯の主流で、その他の国では湯取り法や湯立て法(熱湯で米を煮て、お湯を捨てて水分を飛ばす、またはお湯からボイルされたご飯を掬う方法)、炒めて調理する(ビラウ、パエリアなど)法や、餅米のように蒸される調理法もある。それらはその国の料理に合った調理法なんだろう。 近年、日本を訪れる観光客は日本のご飯を食べて美味しいと感じ、自国に買って帰るとか、日本米を出すお店にわざわざ出掛ける人が増えている。今では様々な国で日本米が手に入り(もしくはよく似た品種を使って)、日本料理が提供されていけど、困った事に、全くの紛い物が『寿司』だと思われていたり、日本料理とは似ても似つかぬ物が提供されていたりする。最近では某国で生産された苺「とちおとめ」のパクリ問題などが取り沙汰されているし、某国では高級品として日本米の生産が年々増加しているらしい。米以外にも、日本の高級ランクの牛の精子が密輸出されたりと、食の世界での日本ブランドは世界中で注目されている。 私は外米(インディカ種うるち米)が好きで、香り米(ポップコーンの様な香り)やタイのジャスミン米等も好んで食べている。ジャポニカ種のお米にも香り米があるが、料理によってはその香りが邪魔になったりする様だ。パエリアやリゾット、炒飯にはインディカ種のパラパラ感がいいようだけど、日本のスペイン料理店やフランス料理では敢えてジャポニカ種を使っているお店もあるようだ。 お米が好きな日本人によって品種改良されて誕生した日本のお米は比類なき美味しさだと思っている。 パリに居た頃、少しの間居候させて貰っていた日本人が、フランス人の友人を招待して日本料理をご馳走したいと言った。当時からパリには有名な日本料理店があって、サン・ミッシェルには『すき焼き』で有名な日本料理店があったし、オペラ通りやシャンゼリゼ通りにはお高い料亭なるお店も多々存在した。その友人が招待するフランス人は、彼が通っていた被服関係の学校の級友で、まだ十代のカップルだった。その学校には多くの日本人が留学していて、彼もその一人で年齢的には私と同じくらいのもうすぐ三十路に手が届く年齢だった。日本から正規の学生ビザで留学し、日本では被服関係の会社に努め、パリにアパートを借りて自炊生活をしている彼には、食事に招待するといっても、そこそこの日本料理店で飲み物代や税金(15%)を考えると、一人200FR(約1万円程)は掛かる計算だから、カップルと彼の三人で3万円近くの出費になってしまう。彼のアパートは学生用に安価な料金設定がされていたけど、4畳半ほどの広さで台所とシャワーが付いて4万円程。学費や食費や、授業に使う材料代がかなり嵩むので無理はしたくないってのが本音で、彼の部屋で手作り日本料理を振る舞おうということになり、私が手伝うこととなった。彼のリクエストもあって『ちらし寿司』と茶碗蒸し。煮魚に、煮物、汁物と、パリの日本食材店とデッカいスーパーを走り回って材料を集め、出来るだけ豪華に、高級感を出して料理を盛りつけ、フランス人カップルを接待することが出来た。 翌日。学校から帰ってきた彼に日本料理に対する彼等の感想を聞くと「前菜とサラダばかりで、主菜がなかった」と、宣ったとか。 彼は悔しがり、私は馬鹿くさくなり、フランス人のガキに何が分かるかと憤慨したものだが、私にも彼にも、フランス料理とは何たるかなんて分かりゃしないんだから。仕方ないよね。私も、彼も、フランス人カップルも、所詮、経験値は井の中の蛙クラスなんだから。いい歳してぼやいてみたけど。 さぁ、茶漬けでも喰って寝よう。山形の『コシヒカリ』と『へしこ』で。
2020.01.13
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西宮のえべっさんは西宮神社という。大阪の今宮戎神社は全国的に有名だけど、西宮神社はえびす様をおまつりする神社の総本山。で、神戸の兵庫区にある柳原蛭子神社もえべっさんをまつる神社だ。 えびすを漢字で書くと『恵比須』だったり『恵比寿』だったり、『戎』に『蛭子』。みんなえびす様のことだけど、神社によって表記が違ったりする。じゃあ、どれが正しいかというとみんな正しくて、地方によってもその表記が違うこともあるようだ。でも、見慣れない漢字があるのが『蛭子』。全国的にはかなりの数があるけど『蛭子』と書いて『えびす』と読み、兵庫の柳原のえびす様は『蛭子』と書くえびす様。『蛭子』様の話しは神代の話しなので、詳しい事は分からないけど、淡路島にある『くにうみ』の神話に登場するお話で、イザナミ、イザナギの子として誕生したが不具の子だったため、ワラ舟に乗せて海に捨てられたとされる。ある日、鳴尾の浜で漁をしていた漁師が御神像と思しきものを海からあげるが、そのまま海に帰したものの、和田岬で再度御神像を海からあげ、ただならぬ事と感じた漁師が家に持ち帰り、お供えをして大切に祀ったところ、ある夜、漁師の夢枕に立ったご神像が「われは蛭子なり。ここより西の地に宮を建て己を祀ってほしい」と。漁師は仲間と共に、後の西宮神社となる神社を創建したという。そして戎神は、淡路島より海を渡り、垂水の海神社から陸路を西宮に。西宮神社に祀られたとされる。 神話というものは日本の神話でもギリシャ神話でも、かなり残酷な部分があって、とんでもない神様が登場するものだ。興味のある人は、図書館なり、ネットなりで『くにうみ神話』を検索して欲しい。私はそんなに伝説に詳しくないし、くにうみの神話にも詳しくない。間違ったことを書いているかも知れないので先に誤っておきたい。「ご免なさい」 平にご容赦を!。
2020.01.11
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今日はクスクスにした。 1970年代に神戸でクスクスを手に入れようと思ったら、北野の『神戸グロッサーズ』か南京町の中国食品や雑貨を扱う『東栄商行』、『広記商行(店の名前は定かではない)』辺りで探すしかなかった。今では北野超界隈にたくさんの輸入食品を扱うお店やスパイス屋さんがあるし、『KALDE』等の輸入食料品店が町中にたくさんあって「クスクス」なんてメジャーな食品として簡単に入手できる。何より、NETで検索かければいくらでも出てくる。送料さえ無料なら何処で購入しても大差ない価格で手に入るようだ。更に「クスクス、レシピ」で検索をかけると、いわゆるメジャーじゃない個人の投稿がたくさんあって、こんなに「クスクス」好きがいるのかとうれしくなってしまう。 それで今日の夕飯は「クスクス」。 ちょうど鶏肉があったので色んな野菜と煮込みトマトベースのシチューにして、忘れてはいけない北アフリカの辛い香辛料『ハリッサ』をかけて、エアコンを切った部屋でTシャツ1枚で食べ始める。5分もしたら脳天から、顔から、汗がドバッと噴き出して、全身ダラダラの汗みどろになるので、食べ終わったら、お風呂で温めのシャワー(水は年寄りには少々酷なので)を浴びてさっぱり。それが我が家特製「クスクス」の楽み方。多分、朝起きたらまた「クスクス」かな。 今日は『十日戎』。 西宮戎に行くのか?。柳原蛭子に行くのか?。「思案六歩」の朝が来る。 お粗末!。
2020.01.10
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パリにいた頃。苦しい程の貧乏生活(と言っても、大飯喰らいの私にとっての苦しさだけど)の中で、甘いものを食べるのが贅沢と言えば贅沢。至極のひと時と書くとオーバーだけど、間借りなりにも暮らしていける状態で、ほんの少しの贅沢といえば、甘いお菓子を食べることだったのは事実だ。で、ホテル代が一泊26フラン50サンチーム(1976年当時のレートは1フラン=51円程度)、日本円で1350円の時に、街中の普通のパティスリー(広義でお菓子屋も含む)で、エクレアが1個6フランも!(ここは強調)していた。今ならコンビニで100円程度で売っているようなエクレアが、何んと306円(当時20本入りのセブンスターが100円。現在は510円。但し煙草は単純に物価の比較にはならないが)もした。それでもお店に並んでいるケーキとも呼べないお菓子ども(失礼)が、最低でも5フランもしていたのは驚きに値する。と言っても、日本の神戸に本店のあった『洋菓子の「HIROTA」』が、当時、パリのワグラム通りにエトワール店、1976年には日本航空ビルにパリ2号店をオープンしていて、現地では少しお高い値段でシュークリームを売っていた様な記憶があるが、日本での価格は5分の1程度。でなければ私が15個の一気食いなどするわけがない。で、少しでも安く、少しでもボリュームのあるお菓子を求めてパリ市内をさまようと、チュニジアのお菓子を売っているお店を発見。ボリュームがあって、しかも値段が安く、試しにホテルに買って帰ってキャンピング・ガスでエビアンを沸かし、早く食べたい焦る気持ちをグッとこられてダージリン・ティーを入れ、初見のお菓子を食べてみた。それ以降、二・三度は購入して食べてはみたが、とにかくベタ甘で、ずっと胸が焼けるは胃にもたれるは…。 そんな経験があって思うのだが、お菓子にしてもパンにしても、日本の規格は世界の規格ではないけど、今の日本のパンやお菓子(洋菓子も、和菓子も然り)、チョコレートは立派な世界の規格になっていると思う。いや、比べようのない日本の規格の中で積み重ねられた歴史と努力のたまものだと思う。 まずはパン。フランスパン。気候の違いや小麦粉の違いがあって中々比べるのが難しいけど、神戸のパン屋(まだまだ特定の店舗になるけど)で購入できるパケットやバタールは確かに美味しい。フランスパンに特定せずにいえば、日本の食パンや菓子パンは世界に比類ない絶品揃い。例えばサンドウィッチ伯爵が考案したといわれるサンドウィッチだけど、これはパンに具材を挟んだり、切れ込みに詰めたりした物の総称としてこの名が使われているだけで伯爵が考案した訳ではないが、イギリスで食べようがアメリカで食べようがパンがパサパサ。フランスはフランスパンに挟むだけまだましかも知れないが、日本の食パンの様に、フワッとして、シットリとして、柔らかなパンに挟んで提供されるサンドウィッチは日本だけ。今、世界中で日本の食バンや菓子パンがブームになっているけど、日本ではそんなパンを、昨日今日食べ始めた訳ではなくてズーッと柔らかでフワッとした食パンや菓子パンを食べてきている。そんな日本で「ソフト食パン」成る物が登場したのは全く解せないが…。 この「ソフト食パン」成る物は耳まで柔らかい食パンといわれている。お店によっては、店のいち押しにしているようだが、パンそのものの柔らかさは今までの食パンとあまり大差はないと思えるけど、「パンの耳まで柔らかい」のは、これこそ世界で通用し始めた日本が作り上げた世界規格かも知れない。菓子パンもあんパンや、食パンも、いま、世界に通用する日本基準のパンとして注目されているようだ。 お菓子から少し話しがずれてしまったけど、例えばゴディバのチョコレートやアイスクリーム、ハーゲンダッツのアイスクリームなど、街中で簡単に手に入るいわゆるブランド商品や、海外からのとんでもない価格の黒船ブランド等と比べて、日本のアイスクリームやチョコレートの品質は、コストパフォーマンスから考えればとてつもなく高品質だと言える。それは世界中で珍重される神戸ビーフを筆頭とする日本の牛肉と世界の牛肉とを比べることとは少し異なっていて、それは日本の牛肉が世界に比類ないものだと言えるからで、日本の生産農家の努力のたまものが生んだ結果だと言える。今、日本のブランド牛の遺伝子を持った肉が何故か世界中で生産されようとしていて、問題となっているのは、海外で生産された『日本のビーフ』がいつ黒船に乗って日本に上陸するのか分からないから。理由としては日本の牛肉品質が世界基準になったきたことを意味し、世界が日本の牛肉を超える品質を追求し始めたことにあるのかも知れない。それとて、日本の努力が認められ日本の牛肉が評価されるのはうれしい反面、薄汚い思惑が金のために動いていることも事実。お米の国日本が、パンの国々のパンを駆逐しようとしている現実があるのだから。仕方ないかも知れないが、その内、日本の『コシヒカリ』と肩を並べる『コシアンデス』や『チリニシキ』が登場するかも知れない。これは楽しみなことと言えるかも知れないが。 今年は神戸の震災から25年が経った。 震災当時、たくさんのタイ米が援助物資として神戸に入ってきたが不人気で、外米好きな私としては大変有り難く、パエリアにリゾット、炒飯にと堪能させて頂いた。神戸の米屋さんでは外米が全く売れず、10キロを数百円で売る店もあったり、中には国内米10Kgを買うと、10Kgのタイ米がもれなく付いてくるお店があって、震災後の我が家の米備蓄高は100Kgに迫るものがあった。 そんな夢のような、また悪夢のような時を過ぎ、今年は55年振りに東京でオリンピックが開催される。そういえば、私が14歳の時、日本国発行の紙の身分証明書を持って、関西汽船『くろしお』で遙々アメリカ統治下の沖縄に出掛けたのも1964年。芝生の青々と敷き詰められた米軍キャンプを横目で見ながら通り向け、砂埃の立つガタガタ道をハンドルが抜けるボンネットバスに乗って日本人用の海水浴場『名城ビーチ』に出掛け、珊瑚の死骸で埋め尽くされた真っ白な砂浜(?)と珊瑚の死骸で白濁した海水で海水浴を楽しんだ思い出がある。当時は子供ながらに凄い憤りを感じたが、本土復帰(日本復帰とは言わないんだね)した今も沖縄の人達は強い憤りを感じ続けているんだろうなぁ、と、思いつつ、オリンピックが平和の祭典かどうか、再度、確かめる機会を得た日本人は、大阪万博もあることだし、世界中の人々と共に、世界中が平和になれるよう考えなくては。 菓子パン屋や寿司や、日本料理が、世界の基準となるのなら、辛い戦後を味わい、蹟の復興を遂げた日本人の平和を願う心も、世界基準になれるように、努力あるのみ。 偉そうに、講釈垂れて御免。 世界が平和でありますよう。
2020.01.07
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前回の投稿はJIKAの食堂で書いた。携帯で文章を書くことに慣れていないので、全体をフラットに見ることが出来ないからか、誤字脱字に加えて文章もちぐはぐでグダグダになってしまう。じゃぁ、パソコンで書けば真っ当なのかと言われると、それもどうだかよく分からないが、まとまりが悪いのは事実。出来るだけパソコンで書き込み、校正に校正を重ねて恥ずかしくない文章を投稿したいと思う。思うだけだけど。 そんなところで、おあとがよろしいようで…。
2020.01.07
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今日は朝から赤十字病院で診察を受けていた。 なんだかよく分からないけど、薬の副作用で女性化乳房なんてのになっているらしい。原因となる薬をやめてからすでに6週間も経ってるのに、さっぱり良くならないので、医者が、乳腺炎かも知れないから一度外科で診てもらってくれと言うので、予約を入れていた定期の診察に合わせて外科でみてもらった。エコーまでとってもらつた結果は、何ら問題なしとのこと。 午前中、潰してきているから、ちょっと位いい事ないとと思って、で、いつもの様にお昼はJICAのアジア食堂で食べることにした。 私も決して美しく食事が出来ているかわからなきけど、フォークとナイフをペンホールドして食べてる人を見た。 過去にフォークとナイフをぺンホールドで使う人を一度だけ見たことがあるけど、まぁ好きな様に食べればいいんたけど‥連れていた子供さんも同じ持ち方だったからよく分からなくなってしまった。 ペンホールドが正しのかね?。
2020.01.06
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まずは、遅まきながら… 明けまして、おめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。 5日もたってからの挨拶でもないし、年末に『ブログは毎日書こう』何んて書いてたのに…小学校の夏休みの絵日記以来、この為体。お恥ずかしい限りで、頑張るって書き切れない己をよく知っている…。 今日から頑張ってみます。 とにかく頑張ってみよう。なんだか他人事のように聞こえるけど。 先日、何十年ぶりかで『森永ハイソフトキャラメル』を食べた。懐かしかった。 私がガキの頃、森永のキャラメルには定番で黄色いパッケージの一箱10円と20円のミルクキャラメルと名前は忘れたが白いパッケージのキャラメルがあって、私は好んで白いパッケージのキャラメルを買っていたような記憶がある。ちなみに白いパッケージのキャラメルは、復刻版でそのものずばりの『白いキャラメル』だったとか。で、私がガキの頃、キャラメルの中で断トツに高いキャラメルが『森永ハイソフトキャラメル』だった。 何でこんな話しをするかというと、ハイソフトキャラメルを食べてフランスの『CARAMBAR(キャランバー)』を思い出したからで、フランスではメジャーなガキのお菓子で、ピンバッチまであるらしい。 ハイソフトキャラメルを3個程縦につないだような10センチ弱の長さで、包み紙の両端をクルッとくるんだキャラメルのバーだから『キャランバー』。私がフランスに居た頃はミルクだけだった様な気がするけど、今ではフルーツ味やコーラ味があるとか。 で、長細いキャラメルのようなお菓子を思い出してしまった。名前は『リコリス』。 リコリスは、スペインカンゾウの根の部分で、天草の一種。 ヨーロッパや北欧では、健康に良いハーブとされていて、リコリス菓子は、リコリスをアニスオイルで甘く味付けしたもので、ただの四角い固形の物もあるが、長〜いキャラメルがトグロを巻いたようなの物もあって、炭から作った黒々とした食用着色料を使っているので、見た目いかにも体に悪そうな色合いだが体にはいいらしい。 オランダが発祥とされていて、キヤンディーと言うよりグミのように弾力のある食感はゼラチンによるもので、リコリスの根にはグリチルリチンやイソフラボノイドという成分が含まれ、強い抗酸化作用と甘味を含有し、リコリスの根に含まれる糖分は砂糖の50倍の甘さがあるらしい。また、ストロベリーやチェリー風味の真っ赤な物もあるようだ。 最もメジャーなリコリス菓子は北欧五ヶ国で好まれている「サルミアッキ」で、リコリスと塩化アンモニウムで味付けされたお菓子。リコリス自体は漢方薬のような味だが「サルミアッキ」は更に塩味と強いアンモニア臭があって、「世界一まずいお菓子」といわれている。 だだ、旨いか不味いかは個人の味覚の違いや好き嫌いに基づくものだから、肯定も否定も出来ないけど、ガキの頃に学校で飲まされた『肝油』を思い出して。それでもフランス人の友人に貰ったら結構食べていたけど…。 で、不味いと臭い繋がりでもう一件。 世界一臭い食べ物と言われる『シュールストレミング』のお話。 『シュールストレミング』はスウェーデンなどで食べられているニシンの缶詰で、特徴は発酵している事。常温で保存すると発酵が進み缶詰が破裂すると言われている。まあ、我々が目にする機会では既に発酵が進んでいて、缶詰が変形している事が『シュールストレミング』の証しになっていると言っても決して過言ではない。 実は、何度か現物に出会しているけど食したことはない。 経験者に聞けば「臭くって、塩辛くって、生臭くって、ウッ…オェッ!!」だそうだ。 そんな物、野次馬根性で無理して喰うこともないかと、膨らんだ缶を目の前にして何度か断った事があるけど、まるで『ひょうきん族』や『ガキの使い』に出てきた若手お笑いイジメ。 だから、死ぬまでに一度たりとも、食べたくないと思っている。
2020.01.05
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