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パリにはいくつかの丘がある。そのひとつがサクレクールの丘。パリの観光スポットとしても有名だ。私はこのサクレクールがあまり好きではない。モンマルトルそのものが好きではない。サクレクール寺院には三度だけ行った。何が嫌いなのか説明が難しいが、富める者と貧しい者と、有色人種と白人と、観光客と物売りと、なんて対比がまる見えのうえ、どうにもならない身の上の差がじとーっと漂っているようで嫌いだ。その中で何となく気に入ったのが、あのメトロの営業するケーブルカー。到着駅が目の前にあるのに、みんな乗るために列を成して並んでいる。記念に乗りたいのはわかる。私も並んで乗った。目の前のサクレクール寺院もかっこいい。でも、この界隈は嫌いだ。丘からの眺めは素晴らしい。のんびりと見ていると、物売りに物乞いに、アフリカの土産売りに、ジプシーにせっかくの時間を無駄にされる。たまにピックポケットや意味不明の日本人が話しかけてくることもある。でも、眺めは素晴らしい。
2007.09.24
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パリにいた頃は二十代後半でした。なんのかのといっても体力はありました。2・3日寝なくても平気でしたし、たっぷりと食べれば体力も回復していましたから、無理するって事が自分の意識の中になかったほどです。今はちょいと事情が違って、自分としてはどって事ないと思っていても体がついてこないなんて事が日常茶飯事。情けないけど五十肩です。小学校からの幼なじみに散髪してもらいながらそんな話しをしてきました。そいつの親父とその息子と、二代にわたって私を散髪してくれています。その幼なじみが「五十肩はじめてか?。いつから?。2ヶ月前?。まだまだやな」と宣うて「自分の時は直るのに半年かかったなぁ。しかも両肩!!」と妙な自慢をし始めた。そんなたわいもない話しだが「気ぃつけてな」で締めくくられる。幼なじみはいいものだ。生活環境から共有しているし、お互いの環境も理解した上で、相手の置かれた立場や状態を気遣える。「ありがと。お互いな」と店を出た。まだ暑い秋。頭の周りだけ少し風通しが良くなっていた。
2007.09.21
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ウエールズの話しのつもりが五十肩の話しに変更です。今年で57才の私にとってはいつかそれが訪れることは解っていたのですが、こんなに腹立たしいものとは思っていませんでした。6月の末頃からどうも肩の調子が悪かったものの、動かないというほどでもなかったのでほっておいたのですが、7月になると肩が上がらなくなり、8月からは仕事にも支障が出始め、現在に至っています。とにかく融通がきかない。変な言い回しですが、他人の肩のようで何も出来ないでいます。辛いものですね。何かを持てないとかではなく、動かない肩が恨めしいです。
2007.09.17
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日付が変わったらウエールズのお話を書きたいと思います。よろしく。
2007.09.15
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スカボローのところで売分業と書いたのは売文業の間違いです。こんな誤字を繰り返し、ザル校してるからギャラが安いんや!!とご指摘をうけました。以後、気をつけます。
2007.09.15
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今日、テレビで懐かしい曲「スカボロー・フェア」を聞いた。だから今日は、フランスから少し離れたイングランドのスカボローのお話。私が海外での生活を終えて日本に帰り着いたのは1980年の暮れのこと。もう海外での生活に終止符を打って、地に足ついた生活をしようと思っていた。帰国後の81年春に、神戸で開かれたportpiaで半年間リハビリをさせてもらい、本格的に神戸で写真を撮り始めた頃、文章を書く仕事は皆無だった。そんなある日、ある雑誌の人物撮影の仕事をうけた。場所は北野町。トーア・ロードを登り詰め、異人館通りに入ったところ辺りに外国人向けのマンションがあって「北野サーカス」という店があり、2階の東側の個人のマンションが目的の家だった。その家には異人館通りから見えるようにでかい豹の頭の飾りがあって、実はそれが欲しくてよく眺めていた。取材する人物はW氏といった。なんでも本社東京の編集・企画プロダクションで、神戸の責任者がW氏で神戸でも有名人だとか。私もそんな業界の末席を汚している割には疎く、W氏のことはまったく知らなかった。当日、ライターの女性と一緒にお邪魔すると、W氏と氏の奥さんとライター嬢は知り合いで、仕事よりも近況報告が続き、私としては早く写真を撮って帰りたいと心の中で思っていた。 その時、W氏が突然立ち上がり「思いでした!。3年10組!!」と叫んだ。何のことか分からずうろが来た。「そやろッ!?」…と言われても何が何やら。「遠藤先生やろ!?。鷹匠の」。やっと思い出した。中学3年の同級生だった。懐かしい話しがボロボロ出てきて、楽しいひとときとなった。私は自分の仕事やパリでの生活の話しをして、今があることを話した。すると彼が、もし文章を書くなら、少し仕事があるんだけどと誘ってくれた。是非にということで、仕事でパリ生活を始めて書いた。パリの話しとスコットランドの話しと、ロンドンの話し。雑誌は留学生向けのもので、街ネタや現地での生活ぶりを書いてもらいたいといわれた。何本か書いた話しの中で、スカボローの話しは少し趣を異としたものだったから、最後は提出しないでおいたが、実は私とW氏のお話だった。 中学の頃、私は英語が大嫌いだった。当然成績も悪く、自分で英語を真剣に学ぼうなどと考えたことは一度もなかった。東京オリンピックが終わった頃からW氏ともう一人、Y氏(今は故人)と一緒にいることが多く、そんなある日、W氏がサイモンとガーファンクルの「スカボロー・フェア」の歌詞を訳して教えてくれた。今まで洋楽の歌詞を訳して考えるなんて事をやったことのない私が、妙に興味をそそられ、フムフムと聞きいてしまった。ほんの少しの間の興味の高まりだったが、このスカボローの名は忘れることが出来なかった。W氏はビートルズが好きで、ビートルズの話も沢山聞かされたが、あまり記憶に残っていなかった。歳をとって、私はイギリスに出掛け、彼が教えてくれたスカボローに出掛けた。アビー・ロードには行ったが興味はなかった。4人で出掛けてビートルズのように並んで写真を撮ったが、その写真さえ今はない。でもスカボローには出掛けた。何の変哲もない街だったが、私とW氏をいつまでもくっつけておいてくれた街だった。W氏は今、トライアスロン協会の理事をし編集者としても評価は高く、息子さんは東京芸大の準教授。私はしがないカメラマンをしながら、安い売分業を続けている。いつかスカボローの話しをエッセイででも書ければいいなと思っている。
2007.09.14
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9月は暇。8月に続き暇。でも、10月になれば、少し仕事が動きそう。新しい仕事は韓国がベース。定期刊行物だから結構な仕事量になるかも。1988年のソウルオリンピック前に、韓国へ出掛ける仕事が多くあった。旅行会社の仕事で、1ヶ月に5回、韓国へ撮影に出掛けた事もあった。そんなに頻繁ではないにしろ、決まれば、以前のようにはいかないまでも楽しい仕事になりそうだ。うまく決まればいいけど。
2007.09.13
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今日がミーシャの月命日でした。合掌。パリにいた頃の思い出は、夏が寒かった思い出。4回の夏を経験したけど、セーターを着た夏があったのが印象的だった。パリの緯度は日本の北海道辺りの緯度。今の日本は異常に暑い。北海道も暑いのだろう。でもパリは…と思いきや。パリも異常気象。日本は殆どの建物で冷房が効いていて猛暑も何とか凌げるけど、パリはどうだろうか。コーラもビールもそんなに冷えていなかったパリ。夏は辛いかも。
2007.09.11
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2007年8月11日午前10時。我が家の猫さん、ミーシャが逝きました。7月初め頃、異常に食べ物を食べ続けていたミーシャが激しく嘔吐をし始め、呼吸が乱れ、医者に連れて行ったものの原因不明。3日後に何とか正常に戻ったものの、鬱ぎがちで、今度は食事もしなくなり、ついには伏せったままになってしまった。ミーシャは2004年に乳ガンがリンパに転移、おっぱいからおへそまで全部取ってしまい、そのときに医者から「もっても2年」と宣言されていた。3年間頑張ってくれたから諦めはつくが、できればもっと長生きして欲しかった。 食事も何もとらない日が続き、ただひとつうれしそうに食べてくれた大好きなマグロの刺身も、日々、残す量が増え、8月にはいると、マグロの臭いを嗅いで立ち上がろうとするけど足元がおぼつかず、やっと口に入れても、違和感があるのか飲み込むことが出来なくなり、水だけ何とか飲めるものの、体重は1.8kgまで落ち込み、体を支えるとあばら骨が指にあたるほどになってしまった。 食べ物も、水さえも取ることが出来なくなったミーシャを連れて医者に行くと、点滴をしながら医者が「延命」の為に出来ることを話してくれた。多分、全身にガンがひろがっているんだろう。小さくてひ弱な呼吸をしながら、うつろな目で私のことを見ていた。抗ガン剤も使わず、ミーシャの体力と天命に掛けて、自然な形で過ごしてきた日々を、ここで不自然な形で継続させても、弱り切ったミーシャには酷なことだと思い、管を体に入れて栄養素をとらせることも選択しなかった。動かないミーシャに「ミーシャ。帰ろうか」というと、何とか立ち上がり自力でカゴに戻ろうとする。慌てて手を貸すと、ミーシャの骨盤が直に手に伝わってきた。体重は1.5kgだった。その日、ミーシャが始めてお漏らしをした。もう、トイレに行く力もないのだろう。急いでオムツを買いに走る。いつかそれが必要になると思っていたが、ほんの半月前まで元気に走り回っていたのに、恐ろしい勢いで現実が目の前で繰りひろげられた。オムツを買って帰ると今度は大便をしていた。軽い体を抱え、体を拭いてやり、オムツをさせた。ミーシャはずっと声にならない「ニャーッ」を繰り返していた。8月11日。ミーシャを自分の横に寝かせるようになって3日目。脱水症状でミーシャの目が乾き始めていた。水を付けたタオルで目を拭いてやる。そのままミーシャの顔を手のひらにのせて手枕をしてやるとミーシャの喉が「クルクル」と鳴った。それまで言おうか言わないでおこうかと悩んでいた言葉を始めて口にした。「ミーシャ、頑張らなくていいからね。辛かったら頑張らなくていいからね」ミーシャはうつろな眼のままで「ニャー」とかすれた声で答えてくれた。そのまま、ミーシャの体を撫で、ウトウトしながら眠れない夜を過ごした。午前9時頃にオムツを替える。ミーシャの体温が落ちてきていた。今一度顔を拭いてあげてそっとタオルを掛けてあげた。もうミーシャの視線は空を見つめていた。気になっていたが、すこし、ミーシャの側を離れ、15分ほどたって戻ってくると、ミーシャは動かなくなっていた。脈はなかった。眼を閉じさせてあげた。死に際に側にいてあげられなかったことを悔やんだが、側にいることでミーシャが頑張っていたのかも知れないと思うと、ミーシャも私も現実を受け止めるために少し離れる事が必要だったのかも知れない。ミーシャの亡骸をタオルでくるみ、好きだった玩具を入れた箱にそっといれて、ペットの葬儀屋に電話を入れた。我が家の男猫のミスティーに「ミーシャにお別れをしたら?」といったがミスティーは中二階から一度も下りてこなかった。 葬儀屋がミーシャを連れて帰った日。その日からミスティーは私の側で過ごすことが多くなった。「ミーシャがいないから寂しいよ」と言っているのか。「ミーシャがいないから寂しいかい?」と尋ねているのか。ほとんど鳴かないミスティーがミーシャのようにお喋り猫になっていた。今日は9月8日。もうすぐミーシャの月命日。ミスティーが私の寝間で「り」の字になって寝はじめて、もうすぐ1ヶ月になる。
2007.09.10
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