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今監督が亡くなられたそうですね。享年46。若すぎる・・・。ご冥福をお祈り申し上げます。個人的には「パーフェクト・ブルー」が一番好きでした。オタク層だけではなく、一般の方にも面白いと思えるような映画を作る監督が逝ってしまって非常に残念でなりません。近々まだ見ていない「妄想代理人」でも見ようかと思います。
2010年08月26日
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近年の映画ではスリリングで面白い一本でした。次から次へと迫る殺人予定時刻。それまでに謎を解き、現場へ急行、人質を助ける。このサイクルがテンポよく繰り返され、飽きません。舞台となるイタリア建築も見事。サンピエトロ寺院やサンタンジェロ城など有名どころばかりなので、そういったところに注目しても楽しめます。そして何よりミステリにはつきもののどんでん返し。誰が犯人なのか。それを考えながら見るのもよいでしょう。
2010年08月26日
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そもそも原作が好きだったのと、あの原恵一監督が監督を務めるということでかなり期待して観に行きました!原作を読んだのは中学生の頃なので多少記憶も曖昧なのですが、映画を観終わった後の印象は原作を読み終えたときのそれとは違っていました。原作を読んだときは、もっと自分を出して生きていっていいんだ、ということに非常に感銘を受けたと記憶しています。何かとぼくを詮索してはうっとうしく付きまとう女の子が、ぼくの絵を見て、「小林君の使う色使いは変わらなかった」的なセリフを読んだときは、なんともいえない高揚感が私の胸を包んだものです。少し話がそれますが、映画では残念ながらこのセリフはなくなってしまっていました(そもそも映画のぼくは最後のほうまで絵を描かない)。しかし、女の子は最後にはぼくを小林君だと認めます。そのように認める理由は明白ではありませんが、「小林君はいつも冷静に深いところを見つめていた」と彼女が語っていたように、そのように思える部分がぼくの中に見受けられたからなのでしょう。さて、話を戻して印象の話です。本では個人が自分らしく生きていけるようになる過程が重視されているように感じたのに対して、映画のほうはというと、家族や学校のクラスなどのコミュニティーとどう向き合っていけるようになるかに重点が置かれているように思いました。特に家族との付き合いに関しては映画全編を通して描かれています。パンフレットにある監督のインタビューにも「日常の家族の風景の中に、真がご飯を食べないとか母親が一人泣いているとかいった描写があると、異常な感じがして面白いのではないかと思った」といったような記述があり、この異常な家族が普通の家族になっていく過程をこの映画は描いているといって間違いないのではないかと感じました。実際に家族となったともいえる、ラストの真の自分が思っていることを家族に話すシーンは本当に涙ものでした。家族って悪いものではないな、と思わされました。けれども、家族の描写に関して個人的に納得いかなかった部分が一つだけありました。それは真の母親の不倫の問題です。最終的に母親の子供への愛を感じ取ってぼくは母親を認めるわけですが、不倫問題は結局どうなったのか映画を見ただけでは分かりませんでした。原監督はパンフレットに「真は不倫を許したわけではなく、母親とは完全な和解をしたわけではない」と書かれていましたが、その部分をもう少し描けていたらもっとより良い映画になったのではないかと思わざるをえません。まぁ、映画という時間の尺では難しいですし、そもそもそういった描写自体することが難しいことなのだと思うのですけれども。けれども、お父さんの「人間は間違いを犯したりもするけど、許してやれ」というような言葉やお母さんの頑張りを見ているだけでは、個人的には不倫問題を置き去りにして「家族っていいよ」といってしまった気がして、もう少し何かがほしいところでした。原監督もこのことに関してきちんと気を配っているのはわかるのだけれどもなぁ^^;要は真向に不倫問題に関しても描いてほしかったのかもしれない・・・。家族って問題もたくさんあるけれども、やっぱりいいものだな、と思える映画でした。この映画はご家族で観に行かれることをお勧めしたいです。原監督らしい、日本の風景というものを意識した映像にも注目です。
2010年08月26日
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これこそ演出の勝利。佐伯さんはいい仕事をするなぁ。「屍姫」でも一番好きなのは佐伯さんがやった、12話の景世が死ぬ回なんですよ。こういうアニメが量産されれば私は幸せになれるのだけれどもなぁ笑。
2010年08月13日
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ノーベル賞授賞作家のデビュー作である。率直にいうと、読みにくかった。いや、翻訳物だということを考えると、読みやすい部類だったかもしれない。だが、個人的にはなかなか進まなかった。その理由を考えながら、感想じみたものを書いてみようと思う。本作はいわゆる少年漂流記ものだが、他の作品とは異なる特筆すべき点として、人間に潜む“野生”を描きだしたことが挙げられるだろう。少年たちは漂流してやってきた当初は、イギリスの紳士的な気質を兼ね合わせた、いわゆる“文化的な”人間であった。だからほら貝が鳴れば、みんな集まって会議をするし、ほら貝を持っているものが発言権を持つというルールはきちんと守られていた。もっと細かくいえば、リーダーなど役割分担を決めたり、家を建てたり、のろしを上げたり、イギリスにいた頃と同じようにある程度文化的な生活を送っていた。しかし、この社会的秩序はガラガラと崩れ始める。崩壊の始まりを象徴する事件はもちろんブタ狩りである。ある少年が自分の担当だったにもかかわらず、火から離れ、ブタを狩ることに夢中になってしまう。ブタを見事に射止め、肉は手に入れることができたが、結果、船が通ったのにのろしが上がっていなかったので気付いてもらえず、結果、救出されるチャンスを逃す。リーダーはこのことを咎めるが、肉が手に入ったことはそれまで果実などで飢えを我慢していた少年たちにとっては嬉しいことであった。そのため、少年の間違いは正しい行いとされ、文化的な生活が崩れ始める。この後、仲間を殺したりと、道理を失っていく様がまざまざと描かれ、最後のリーダーが必死で逃げるシーンなんかは本当に圧巻である。息を吐くのも忘れるとはこのことか、と思わせられるほどだ。その後の救出されるときの落差もすごい。野生に還っていた彼らが、救助してくれる人の登場で一気に文化人へと戻るのが分かる。さっと青ざめている様子が、想像できる。この温度差には愕然とさせられた。戦慄が背中を走るような、そんな感覚が私を襲った。リーダーの「最初はうまくやっていたんです」という言葉がずしりと肩にのしかかってくる。結局道理とはなんなのだろうか。生きていく上で必要なものなのだろうか。文化的な生活を営む上ではもちろん必要だろう。だが、これを持っていたために、リーダーは死にかけた。野蛮性を獲得した人間にとって道理は邪魔なものなのだ。おそらく私が読みにくいと感じた原因はここにある。この作品は道理という着物を脱ぎ捨て、野生の本性そのままに生きる少年たちを道理を保持している人間側から描いている。読んでいて感じたのは、野生に還った少年たちの行動は道理的には間違っているが、それを指摘したところでその時の波にはかなわず、むしろリーダーの実行しようとしていることが本当に必要なことなのか、その説得力がなくなっていく様子が何とも辛い、ということであった。野蛮に転じてでも、その場で楽しく、おいしいものを食べていける道を取るか、理性を保ち、来るかどうか分かりもしない救助を待ちながら制度に縛られた生活を送る道を取るか。普段なら後者を選べるが、この物語を読んでいるとだんだんと前者のほうがよいのではないかと思えてくる。前者を選ぶのには確かに違和感と抵抗があるのだが、同時に全てを開放できるということが魅力的に思えてくる。自分を抑えつけなければならない抑圧感。ほとんどの人が付いてきてくれないことによる自信喪失。うまくいかないことによる絶望。本来は正統派の側なのに、こういった苦痛が展開的に続いたことが読みにくかった要因だと思われる。結局はハッピーエンドのほうが私は好きなのだろうか。あるいはいっそのこと狂った方を正統派のように書きたててくれればよかったのかもしれない。それはそれでラストは唖然としてよいのではないだろうか。・・・きっと気のせいだな笑
2010年08月11日
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「十二国記」の脚本を手掛けられた會川昇先生のツイッターを拝見させていただいたのだが、「十二国記」に関して非常に興味深い発言があった。BD-BOXに付いてくる特典のCDなのだが、これが実に出来がいいと思っていた。「月の影影の海」の赤楽篇なんかは本当に小野主上が書いたのかと思ったほどだった。それほどに陽子というキャラクターが”らしかった”し、物語の論理の運び方も原作に近かった。さすがは會川昇!と思っていたのだが、どうやら小野主上の手ほどきを受けていたらしい。なるほど。そりゃ、原作っぽくなるわけだ。
2010年08月11日
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コミケに爆撃しに行くのですが、せっかく東京に行くということでプランをいろいろと練り中。正直コミケよりもその他のほうがメインになりつつある・・・笑ちなみにコミケでは同人誌というより、メタ本を漁ろうと思ってます!で、話に戻って、どこに行くかのプラン。とりあえず「ドラえもんの科学みらい展」には行くことは確定。http://www.doraemon-miraiten.jp/入学してすぐの頃からお世話になっていた先輩が去年から東京の大学の院に行かれているので、その方と合流してぶらぶら回る予定。あとは、六本木ヒルズでやっている恐竜展だとか、上野の科博でやっている大哺乳類展にも行くつもり。で、あと一日分残っているのだが、それをどこにするかが問題。一つの案は生物系のところへ行ってまじめに勉強する笑個人的にはここが楽しそう。http://www.adachi.ne.jp/users/seibutu/でもでもせっかくコミケに来てるんだから、アニメ・マンガ関係で楽しもう!というのが第二の案。http://www.kcf.or.jp/morishita/event_detail_010200400037.html辻真先先生は本当にいつまでもお若い!ツイッターとかやっちゃってるし、「インセプション」とか最新映画も見てるもんな。すごい!あとはいっそのことアキバデビューするかだが、別にそこまでグッズに固執するタイプじゃないからなぁ。サトジュンのコンテとか、セラムンのハセシンなんかが描いてる同人はほしいから、そういうのがありそうな店を探して行くのはありかもしれない。うーん、迷う。とにかく楽しんできますよ、TOKYO!
2010年08月11日
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ふと「ベルサイユのばら」を見直していて思ったのだが、人類学的にはアンドレとオスカルが愛し合う可能性は低いと考えられる。というのも、「幼馴染は恋仲になりにくい」というのが人類学の定説だからだ。これはいわゆるインセスト・タブーが破られないために身に着いたと考えられる性質で、最初にこのことを提唱した人の名を取って、ウェスター・マーク効果と呼ばれる。そんなバカな、と思う人もいるのだろうが、この効果は実際にも確かめられていて、イスラエルのキブツがその例である。キブツとは血縁とは無関係に作られた家族で、政府はこの同じキブツ内での結婚を推奨していたが、実際には他のキブツ出身の者同士での結婚をする傾向が目立った。つまり幼少期に生活を共にした男女は性的関係を持つことを避けるのである。そういう点で「ベルサイユのばら」を見てみると、やはり二人の仲は奇跡的だったんじゃないかと思う。二人が出会ったのは、オスカルが7つ、アンドレが8つのときだったように記憶している。(もしかすると8つ、9つだったかもしれないが、その辺りだ。)幼少期という定義がどこからどこまでを指すのか分からないが、とりあえず“思春期に差し掛かるより前”と定義したならば、まず当てはまる。このような議論でいくと、「タッチ」の達也と南も本来はありえないだろう。これは大学の授業で先生も仰っていた。でも幼馴染同士の愛というのはいいものだなぁ、と思ってしまう。それはやはり、長年ずっと一緒にいても壊れない確かな愛がそこにあるからだろう。ついでに補足してみよう。ウェスター・マーク効果とは逆の説もないわけではない。人類学ではないが、フロイトが唱えたエディプス・コンプレックスがそれだ。生物学的に考えれば、ウェスター・マーク効果のほうがインセストを避けるという意味があり、こちらの方が種が生存していく上では有利のような気がする。しかし、ゴリラなどでは母親が息子と幼い頃には性的関係を持つという話を聞いた。これは正しい体位を教えるためだ。正しい体位を伝えないと、精子と卵の受精がうまくいかず、繁殖率が下がるということも考えられそうだ。ということで、なかなかこの問題を論じるのは一筋縄ではいかないのかもしれない。でも一般的にはウェスター・マーク効果のほうが適応できるだろうと、上のように述べてみた。あまりたいしたことではないが・・・。
2010年08月05日
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正直そこまで期待して見に行ったわけではなかったのだが、宮崎駿氏の近年の脚本にしては非常にまとまっていて見やすい作りになっていた。これは監督が宮崎氏自身ではなく、米林氏だからだと思っていたが、もしかすると違うのかもしれない。調べてみて分かったことだが、そもそもアリエッティの原作は宮崎氏が昔から好きだったものであり、その昔、高畑勲氏と共に一度企画したものだったらしい。確かに脚本からは昔のジブリ臭がした。どういうのが昔のジブリ臭かと聞かれれば、非常に答えにくいのだが、敢えて言えば名作劇場っぽいとでもいうのだろうか。日常的な描写も多いのだけれども、キャラクターがイキイキしているというか。・・・いや、なんか違うな。間違ってはいないけれど、私が言いたいのとは少しずれている。なんだろう・・・?今の宮崎駿氏のアニメには日常描写に宮崎駿氏独自の宗教色が入り込んでいるのに対し、今回のはそういうのがないという感じなのかな。つまり、ハイジやコナンではその原作の背景にあったキリスト教やら冷戦やら、そういった勢力の影響がうまく取り除かれている感じに近いのかもしれない。アリエッティは最近の“駿教”の香りが全編を通しては薄い。だから逆に“駿教”を思わせる、「君たちは滅びゆく種族なんだよ」って言葉がすごく唐突で浮いた言葉のように聞こえるし、「アリエッティは僕の心臓の一部だ」という台詞が脈絡のないもののように思えるのかもしれない。映像的にも宮崎氏がやるより、ある意味ジブリらしかったのかもなぁ。物静かな感じや音楽の使い方はあまり宮崎アニメらしくはないのだが、きちんと駿走りするアリエッティを見せていたりだとか、釘の上を歩くシーンだとか、すごく宮崎アニメで見たことがあるような気がしてくる。【追記】今気付いたが、脚本は共同なのか。でも共同脚本の丹羽圭子って調べてみても「ゲド戦記」と「海がきこえる」ぐらいしか出てこないからよく分からないなぁ。どちらも私は見ていないし。あと名作劇場的なのは日常の中にもわくわくすることはあって、そのわくわく感をきちんと描けていたからなのかもしれない。「借り」のシーンとかはまさにその好例。そのよさを引き立てているのは、背景美術だなぁ。小人から見た人間の世界を圧倒的な存在感で描いている。その巨大感は好感を持てる。作画も小人から見た視点になっている場面ではショウの大きさを表現するような描き方になっていてよい。これはそもそもの場面設計というか、コンテがいいのだろうなぁ。ジブリで上手いアニメーターといわれる米林さんがコンテ切っているだけのことはある。動き、という観点ではよいものではなかったかもしれないが、映画の方向性からいって別に動きを要求する作品ではないから許されるだろう。ただ多少絵が崩れている部分があったのは残念だし、映画として駄目だろうと思う。あと名作的だと思う理由をふと思いついた。多分色彩設定だ。今のアニメでは淡い色のものが多いが、アリエッティでは従来からのはっきりした色が使われている。それに加えてコンピューターでの処理の仕方だ。今のTVアニメではよくコンピューターによるデジタル処理が行われている。そのため単一な色ではなくグラデーションがかかっているように見えたりする。でもアリエッティはそれがない。それが昔のTVアニメ=名作劇場の感じを引き出しているのではないだろうか。なんかまとまりがない文になってしまった。今書きつついろいろ思考しているからなのだが・・・。そのうちまとめるかな。・・・まとめないだろうなぁ笑
2010年08月04日
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