わたしのこだわりブログ(仮)

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2019年04月28日
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現地2019年4月15日の18時50分、パリのシテ島にある大聖堂、ノートルダム寺院で火災が発生 した。
ノートルダム大聖堂の火災は私にとっても非常にショッキングな出来事であった。号泣
特にパリの象徴の一つである大聖堂の尖塔のくずれ落ちる様を信じられ無い思いで見て居たのは私ばかりではないだろう。
教会の歴史、そのものがくずれ落ちるような思いさえしたその映像は、世界中に衝撃を与えるものであったし、当然パリ市の皆さんの心情は計り知れない。泣きながら見ていた人もたくさんいたようだ。

すぐさま再建の為の基金も設立されて、世界がノートルダム大聖堂の復活に協力を惜しまないだろう事は喜ばしい事だ。
しかし・・。多くの職人の手がかかり、かつ熱烈な信仰心の元に建設された大聖堂は普通の教会ではない。フランス史に残る数々の祭典や葬儀、政治的イベントがこの聖堂で行われて来た。聖堂内部に入るとのしかかる歴史の重みは決して修復で蘇がえれるものではないのだ。

元のロマネスク様式の聖堂の跡に大聖堂の建設が始まるのは1163年。 教区の資金や王家の寄進の他に職人組合に属する市中の人々の労働力あっての着工である。
※ 在位計算すると、 建設支持を出したのは修道院で育ち、敬虔なクリスチャンであったカペー朝第6代国王であったルイ7世(Louis VII)(1120年~1180年)(在位:1137年~1180年) 。と推測。​

石工、大工。鍛冶屋、彫刻師、ガラス工らが集まり、熱烈な信仰心の元で建設された。
1159年、教区司教に任じられたモーリス・ド・シュリーは翌年から36年間、建設の祭式を執り行った。※  当初計画された設計の完了は1345年。完成まで182年 である。もちろんその後も改修や改築も多々行われている。

それにしても、設計者が不明。
当時、同時期に聖王ルイの指示で向かいにある王宮内のサント・シャペル(Sainte chapelle)を手掛けたフランスの建築家であるピエール・デ・モントルイユ(Pierre de Montreuil )(生年不明~1267年)が一時期建設指揮をとっていたのはわかっているが・・。
※ サントシャペルは1248年に完成。


何にせよ。たとえ形を取り戻しても、教会に染みこんだ中世からの人々の熱い信仰の思いや教会が見て来たドラマおよそ850年と言う歳月までは決して取り戻す事はできないだろう。
火災による損失は建物だけではないと言う意味で残念なのだ。しょんぼり

それでも、まだ日本の神社仏閣のように全部木造ではないから全焼はまぬがれた。石造りの教会は、何十年と言う歳月を費やして建設されるだけあって、そのぶんしっかりしている。
不幸中の幸いにもノートルダム大聖堂は辛うじて原型はとどめているので大聖堂としてきっと蘇えってくれる事だろうと信じている。何年かかるかが問題であるが・・。


10年ほど前にノートルダム寺院の特集をしたことがあり、今回アクセスが増えたのですが、みなさんのお目当ての奇跡のピエタ像の写真を見つけたので火災後と以前の写真を見比べる形で特集にしました。(前回はピエタの拡大を載せていませんでした。)
そんなわけで「アジアと欧州を結ぶ交易路​  3」の予定を取りやめて指し込ませていただきました。
尚、火災の写真はAFPBB Newsの配信から借りてきています。世界に配信されたフランスの通信社のものです。​

ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタ
​ノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)
​奇跡のピエタ(Pieta)
焼け残った聖堂​​

まるで爆撃のようだったと言うノートルダム大聖堂の尖塔の崩落。しかし、聖堂の中から金色の十字架とマリア像が見えた時、奇跡? と思った。下は火災前のピエタ像


実は、このピエタは内陣の奥にあるので、一般人は近くから見る事ができない。
トランセプトからの写真撮影である。聖堂内は暗いし、望遠がついているカメラでないととらえられないのだ。天気にもよるが堂はかなり暗いし・・。だから少しボケている。

「ピエタ(Pieta)」は十字架から降ろされた息子キリストの亡骸を腕に抱く母マリアをモチーフとした聖母子を表現するものです。

ピエタと言うとバチカンのピエタが有名です。2009年7月「ミケランジェロ(Michelangelo) 2 (ローマ時代) 」で紹介。
リンク ​ ミケランジェロ(Michelangelo) 2 (ローマ時代)

​ノートルダム大聖堂のピエタ ニコラス・クストー(Nicolas Coustou)(1658年~1733年)作。
俗に「ピエタ (Pieta)」 と呼ばれるが「十字架からの降下(Descent from the Cross)」がタイトルかも。
ルイ13世の為にルイ14世が発注したものらしい。

写真下に矢印したが、ピエタの後方にルイ13世とルイ14世の像もある。​

ノートルダム寺院はもともと聖母マリアに献堂した教会 である。そもそも名称のノートルダム(Notre Dame)とはフランス語で「我らが貴婦人」と意味する。

ルイ13世は結婚してなかなか子宝に恵まれず、ルイ14世となる子を得るのに23年 かかったと言われている。待ちわびた王位継承者の誕生。王は我が子を「神の賜物(Louis-Dieudonné)」と呼んだと言う。 出産を祈願して聖母マリアに祈ったとも伝えられている事などからこのピエタを捧げたと言う事らしい。​

祭壇のあるサンクチュアリ、そしてクワイヤのさらに後方のアプスにある。だから皆さん写真が無いのかもしれない。 撮影している場所が翼廊とのクロッシングの下。


クロッシングの真上に尖塔(せんとう)があったものと思われる。祭壇前の燃え山は崩れ落ちた尖塔か? クワイヤの屋根か? 

入り口からの望遠なのでちょっと距離感がつかめないが・・。

アプスにあるので柱でちょうど助かったのかと思うとやはり奇跡である。

下は大聖堂の構造図を元にザックリですが、ノートルダム大聖堂の配置図を載せました。

黄色の翼廊(よくろう)の円の部分がクロッシングの位置で、その上に尖塔があったと思われる。
実際ノートルダムは側廊にも二重に柱が並ぶ。そして外壁の外はフライングパットレスで補強され、外壁内も突出した壁で小さな祭壇のコンパートが並ぶ。外壁の造りは頑丈なのである。

上は、沈静化した後に尖塔がなくなっているのが見える。下は在りし日のノートルダム大聖堂

下の写真でもセーヌの川向うからの撮影である。


上は正面、最後の審判のポルタイユのある入り口からの火災後の写真下は身廊から内陣方面の火災後の撮影。

ノートルダムの屋根は木造だから燃え落ちたわけです。でも部分で天井を支えるヴォールト(vault)は生き残っている。
下は尖塔が落ちて穴の開いたクロッシング部分の天井のヴォールト(vault)。

※ ヴォールトは、アーチに組んだ特徴的な天井。
下、青い矢印はクロッシングの天井。落ちた部分。黄色の矢印は翼廊部。

上下共にかなり明るく修正しています。身廊はともかく側廊の方はせり出しの壁もありミニ礼拝堂がついているのでかなり薄暗い堂です。
以前、iPodでEnigmaを聞きながらトリップしそうになった聖堂です。雰囲気ありすぎな教会の一つですからそれだけに惜しい。今後数年は観光は不可能だし、元に戻れるのか?



絵画に描かれて印象に残るナポレオンの戴冠式もここで行われたのです。ナポレオンもきっと悲しんだに違いありません。

それにしても、これから、数年は観光どこころか、信者でさえ中には入れなくなるでしょう。
外壁もシートで覆われるかもしれません。
在りし日のノートルダム大聖堂の写真をもう少し紹介しておく事にしました。次回もノートルダム大聖堂です。


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リンク ​ ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題
リンク ​ ノートルダム大聖堂の悲劇 3​ 外周と北翼のバラ窓
リンク ​ ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠






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Last updated  2023年05月14日 05時17分22秒
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