わたしのこだわりブログ(仮)

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2019年05月18日
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パリのノトールダム大聖堂は、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の重要な起点の一つ 。かつては隣接して巡礼者の宿泊所もあったらしい。
※  ​スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)はエルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地の一つ​ であり、そこに至る巡礼路は決まっているのである。それは四国巡礼のお遍路さんの旅に近いかも。

2011年5月から「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 」を書いています。ショートで1~14回です。事情があり、中断して中、別の物をはさみながら書いていますので6か月かかってしまいました。ぽっ
リンク先は3つだけのせます。

リンク ​ サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1(巡礼)

リンク ​ サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)」 リンク ​ サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼) ​​

最初、南と北のバラ窓の写真の区別が付かなくて苦労しましたが、ちょっとした法則が解ってからはサクサク分類、一見同じに見えていたステンドグラスですが、新旧の差か? 技法の違いか? 作家の違いか? かなり異なります。写真の枚数を増やして細部を紹介したので今回も入りきりませんでしたしょんぼり

尚、写真は昔のを拾い集めているので季節も一緒くたです。一番近々に行った時はノートルダムに寄らなかったので残念な事をしました。良いカメラで撮影できていないのです。だから細部の拡大に限界があります。最もブログ用は解像度をかなり低くしているのでなおさらですが・・。

ノートルダム大聖堂の悲劇 3​ 外周と北翼のバラ窓

ノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)
南の翼 側
聖堂裏 側 後陣
北の翼 側
北翼のゲート(クロワートルのポルタイユ)
ル・シュヴァリエのステンドグラス
​北のバラ窓​

前回、西の聖堂正面の紹介をしたので今回は南側面、聖堂裏、北側面とまずは外側の紹介から入ります。
写真を選定する為に細部を見ていて気づいた事が幾つかありました。
それは ノートルダム大聖堂の一番の見所が北側とその翼にあった と言う事です。

ノートルダム大聖堂ができた当初からのデザインがほぼそのまま残っている箇所が北の翼 なのです。
特に北のバラ窓は貴重です。(南は1841年以降の改修でできたようです。)
そして今回の火災写真と照合して、南のバラ窓の上の小窓は枠ごと破壊されていて、下は恐らく無事。
また北のバラ窓も恐らく無事。ただしこちらも上の小窓は枠(トレサリー)は残っているけど火災の衝撃でガラスは破損。そんな風に見受けられました。​

南の翼 側
南の方は、前回1841年の修復問題で、ヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)の勝手なデザイン変更の事に触れましたが、まさに 南のバラ窓は北とは大きくデザインが異なっている のです。

誰かがヴィオレ・ル・デュクのデザインは偽ゴシックだと言ってますが 、確かに南のバラ窓の枠はゴシックの意匠ではありません
内部のステンドグラスからだけだと解りかねますが・・。

こちらはゴシック(Gothic)ではなく、例えるならレース編み(Lace knitting)のデザインのバラ窓の枠(トレサリー)です。
残念ながらこちら南の翼のポルタイユは至近撮影できませんでしたが、聖ステパノに捧げられたポルタイユ(Portail du St. Etienne)がある。
大聖堂建設前からここが聖ステファノ(St Stephen)に捧げられた聖域だったそうだ。聖ステファノはキリスト教、最初の殉教者である。
確認していないが、ポルタイユのティンパヌム(tympanum)だけは13世紀の物らしいが、その周りやトリュモーの像などは19世紀の作品。

尖塔の拡大写真がなくて残念でした。
尖塔は意外にも鉛でてきていたそうです。火災で焼け落ちたのも道理。そしてその為に鉛害が発生しているらしい。(ステンドグラスも鉛で留められているけどね。)

また、 屋根の上、尖塔基部を囲むように1841年以降の修復で12使徒らの像が付加されていた
問題は、その聖人のモデルに自分を含む仲間達がモデルとなっていた事だ。
屋根の上にいる12使徒の1人、聖トマス(Thomas the Apostle)のモデルはヴィオレ・ル・デュク自身 らしい。
聖トマスは建築の守護聖人だから自らを重ねたのかもしれないが、同時に聖トマスは変わり者でもあった。聖画では、イエスが刺された脇腹に本当か? と手を突っ込んで確かめたと言うエピソードがあり、疑い深い人でもあったようだ
南側のバラ窓も前回紹介した1841年以降の修復でヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)により新たに造られた

火災後の写真で確認できる限りだが、上の小窓のステンドグラスは枠も破壊されていた。
後で比較を載せるがヴィオレ・ル・デュクはなぜ北と違うデザインのバラ窓にしたのだろう。13世紀当初 に復元するのが元の 計画だったのに・・。

聖堂裏側 後陣
聖堂裏にあるジャン(ヨハネス)Jean-XXIII(23世)公園から撮影

手前にあるのは1844年に建てられた聖母の噴水(Fontaine de la Vierge)

かつては、この位置に大司教館が建ち並んでいたが、1789年の革命時に教会の全財産は没収。1831年、反王党派の者らにより破壊された。
星ノートルダム大聖堂はフランス革命のあおりで、一度滅亡していたのである。

それにしても、昔からパリ市民はかなり気が荒く、暴力的だったらしい。かつて王の居城は同じくシテ島にあったが、暴動で王の寝室まで乗り込んだパリ市民により目の前で侍従が惨殺。王はショックのあまりシテ島の王宮を捨てている。​

北の翼 側

ノートルダム創建の初期の姿が最も残っている部分。ポルタイユのゴシック装飾の切妻型のデザインなど正面ファサードの簡素さとは違って見事である。​

​​​
直径13mのバラ窓は正面ファサードのバラ窓よりも大きい。その下の長い窓と合わせると採光部は18mに達する。それは1248年、先にできた王宮に付随するサント・シャベルの経験が生かされ、より袖廊より採光が取り入れられるよう研究された結果らしい。
※ サント・シャベルは、2017年2月「フランス王の宮殿 1~2 (Palais du Justice)」で書いています。
リンク ​ フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)

リンク ​ フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)


北翼のゲート(クロワートルのポルタイユ)
昔、 教会北側(入口からは左手側)に高位聖職者の宿舎(舘)が建っていた事から北翼の入り口はクロワートルのポルタイユ( Portal du ]Cloître)と名前が残っている 。​​​​
クロワートルのポルタイユ( Portail du Cloître)とは直訳すれば回廊の門である。

察するに、高位聖職者の舘は隣接していて、回廊でノートルダム寺院の北翼のゲートまで続いていたと思われる。
※ 古い大きな教会ではよくある造り。
※ ノートルダム回廊通り(rue du Cloitre Notre Dame)と前の通りに名前も残っている。​


このクロワートルのポルタイユは古く 1250年、ジャン・ド・シェル(Jean de Chelles)の製作
ジャン・ド・シェル(working 1258年~1265年)は、 ノートルダム寺院の建設に携わった複数のマスターメイソン(master mason)の1人で彫刻家 。彼はいろんな大聖堂建設で指揮をとっている。
※ マスターメイソン(master mason)は石工、フリーメイソンを束ねる親方。


フリーメイソンの階位は上から、グランド・マスター、マスター(親方)、フェロー・クラフト(職人)、エンタード・アプレンティス(徒弟)となっている。

※ 中世の本物のフリーメイソンと現在のフリーメイソンは全くの別団体。何カ所かで説明しています。
リンク ​ 神眼・・・プロビデンスの眼
リンク ​ 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソン

トリュモーにあるマリア像は元は聖母子像だったそうだ。革命で幼子イエスの部分が失われたらしい。

マリアの繊細な微笑みと気品。13世紀の最高傑作らしい。

​​ ル・シュヴァリエのステンドグラス
ステンドグラスは、やはり定期的に大きく換えられているようだ。資料でわかる範囲では、
18世紀に、中世の物に変わって百合の花をあしらった白ガラス方式。(百合はブルボン王家の紋章)
19世紀にグリザイユ方式。

1965年、現在のステンドグラスは、ル・シュバリエ(Le chevalier)の手により中世の製作法と色彩が復活されている。
※ ジャック・ル・シュヴァリエ(Jacques Le Chevallier)(1896年~1987年)は美術学校で学んだアーティスト。彫刻家であり、国立美術学校のステンドグラス・コースの教鞭もとっていたステンドグラスの第一人者。Union of Modern Artists設立メンバーでもあり、本来はモダン・アート専門だったのかもしれないが、ステンドグラスアーティストとして、また、デコレーターとして彼は多くの国内外の聖堂のステンドグラスを手がけている。
しかし、修復は壊れたところが優先される。実際ル・シュヴァリエがどの部分を修復したか解らない。


聖堂バックヤード、上方のステンドグラス

ステンドグラスに関しては解像度を少し上げました。
ちょうど中心にキリストと聖母マリアのようです。素敵な絵です。
火事後の写真で見るからに、これらは生き残ったようです。スマイル
このあたりは ル・シュヴァリエ作品 かもしれない。


北側袖廊

北側のバラ窓

13世紀のスタイルがほぼ残っているようです。それゆえ、採光は弱い北側ですが、見どころは本来こちらのバラ窓です。

南のステンドグラスと異なり、トレサリーなどもちゃんとしたゴシックのバラ窓です。

中心には聖母子、その周りには16人の聖人が描かれている。16人? 12人じゃないので誰が選ばれているのか不明。
こちらはかなり古いステンドグラスかもしれません。マリア様がちょっと険しい顔してます。

バラ窓の下に並ぶ縦長のステンドグラス。合わせて窓の開口部が非常に広く、建築的にも難しい部分。それなのにずっと破壊から守られてきた北側翼です。

北のバラ窓下のランセット窓 (Lancet window) 並ぶのは18人。でも聖人ではないようです
王冠を被り、ユリの王笏(おうじゃく)を持っているので、おそらくフランス王です。カロリング朝、カペー朝と続く歴代の王が描かれているのかも・・。

前に書きましたが、パリ・ノートルダムの建設費は王室もかなり出している。
それ故、王室につながっている部分も大きく、フランス革命の時には市民に目の敵にされたのかもしれません。

行った事が無い方も行った気になるよう写真を多く載せる事にしました。その為にまた押し出されました。ぽっ

次回、南のバラ窓とキリストの冠について触れて終わる予定です。
結局、全4回ですね。f^^*) ポリポリ 

Back number
リンク ​ ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタ
リンク ​ ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題
    ノートルダム大聖堂の悲劇 3​ 外周と北翼のバラ窓
リンク ​ ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠






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Last updated  2022年11月29日 18時21分09秒
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