それにしても、例によって書いているうちにどんどん違う方向に進み内容も増え、着地もタイトルも二転三転。当初はラベンナのサン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)も載せる予定でしたが、サンピエトロ大聖堂の内容が増え過ぎてカットしました。 2回目のワクチン前に出せず、辛さ2倍でワクチン後2日完全休息。 今回もお待たせしましたm(_ _)m
聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
副題 使徒ペテロの殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)
神学的異端? 帝国が動乱するとキリスト教徒との関係悪化 二人の皇帝による迫害 皇帝の都合による迫害中止 キリスト教公認後の異端者狩り ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano) 迫害と殉教 聖人の
ハウツー(how-to)本?「
黄金伝説」
殉教者信仰が生んだ
殉教者記念堂マルティリウム(martyrium) 殉教者記念堂マルティリウム(martyrium) 殉教者信仰から聖遺物収集に 聖遺物からの免罪符問題 聖人の仕分け 遺物のロッジア(Loggias of the Relics) 聖人と認定されるまで(神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人) 殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr) 証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor) 列聖の審査 プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel) 聖なる扉(Porta Santa)
ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)
ここは 聖ペテロのお墓の上に建立された殉教者記念堂(martyrium)が始まり
で大聖堂に発展した。 旧聖堂は326年頃建立。 典礼を行うための教会堂ではなく、あくまでペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設されたものであるが、これをローマ皇帝が協力して造ったのである。 まだキリスト教が公認されたとは言え帝国の国教にはなっていないのにだ・・。
しかし、ここはもともとアウレリアヌス城壁の外である。846年サラセン人による大聖堂とこの地区の襲撃と略奪を受け、教皇レオ4世(Leo IV)(790年?~855年)は サンタンジエロ城から大聖堂一帯に壁を構築。大聖堂中心に囲まれたこの街は中世を通じて「レオの都市」と呼ばれるのだが、これがヴァチカン市国(Vatican City)の原型
である。 ヴァチカン公式の本から。 下はサンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)とサン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)
聖堂前の サン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)の設計で1656年~1667年に建設
された。
最古の物がヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)、中央祭壇の下から発見された
と言う。その殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が下のようなもの。現物写真は無い。 もともとサン・ピエトロ大聖堂の場所(アゲル・ヴァテイカヌス)は120年~160年頃には墓地が広がっていた場所。殉教した 12使徒のペテロが葬られた場所に殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が造られたのが最初?
なのかも。 コンスタンティヌス1世は敢えてその上に
旧サンピエトロ聖
堂を築いた
のだろう。 ※ 聖堂中心の地下が聖ペテロの墓とされている。
プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel)
絵 Giovanni Francesco Romanelli(1610年~1662年) 製作(1638年~1642年) モザイク Cristofari 製作(1726年~1728年) 絵画は神殿での聖母マリアのプレゼンテーションの祭壇として描かれている。マリアの宮詣での図なのである。現在この祭壇は聖ピオ10世に捧げられている?
プレゼンテーションチャペル祭壇の下にある教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓? ポンティフィカルローブ(pontifical robes)で包まれ顔は銀の仮面で覆われクリスタルの棺に納められた聖ピウス(St. Pius X )(1904~1914年)。 いつの時点の説明かわからないのですが、どれもここは教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓と紹介されています。 今は聖人となった聖ピウス10世(St. Pius X )は今もこの場所におられるのか?
※ 1954年5月29日、ピウス12世によって列聖されている。
通常は、列聖までの間一般公開される祭壇「最後の埋葬までの間に保管される場所」ではないか? と思うのです。
大聖堂では、時々特別典礼として列福者など一時的にこのように公開されています。 パウロ2世も確か聖セバスティアヌスの礼拝堂で公開されてから地下に行ったような・・。 ただ、聖ピウス10世(St. Pius X )は20世紀の偉大な教皇として評価されているので一つの礼拝堂が墓所としてあてられたのか?
聖なる扉(Porta Santa)
ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の聖堂に入る戸口の話しです。 入口正面に戸口は5つ。そのうちの 右端の門だけは開かずの扉
となって、通常は完全封鎖されています。 西暦1300年に始まったと言われるカトリックの特別年(聖年)。その年だけに開かれる特別の戸口です。 この年にローマに巡礼すると特別な赦しを与えられる
のだそうです。 ※ 聖年にはバチカン四大バシリカの聖年の扉がすべて開く。