わたしのこだわりブログ(仮)

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2021年08月08日
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​​星 ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂のジオラマの写真追加しました。
尚、誤字の他に若干の書き換え修正もしています。ぽっ


​​​今回は「福者」の説明を書き足すだけの予定でしたが、いっそ過程から・・と「 迫害」、「殉教」、「異端狩り」、「聖遺物収集」、「聖人」など書いている間にどんどん盛り込まれ、本来、キリスト教史に関する補足的な説明回の予定でしたが、気付けば非常にマニアックなネタの集合となりました
本来5本くらいにバラして載せてもよい内容の物をまとめて掲載しています。それぞれに時間かかってます。ぽっいつもよりさらに長いかも・・。

写真は「殉教者記念堂(martyrium)」となるヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の写真を軸に構成 しています。
個人的なサンピエトロ大聖堂の謎も見つけて入れ込んだりしていたので聖堂の方も盛り沢山さんです。​​​​
​また、「聖遺物収集」や「聖人」については他からも写真を引っ張っています。
中世の聖遺物収集や聖遺物容器などカトリック教徒の方でも知らない人のがほとんどでしょう。
興味を持って追わないと集められないレアな聖遺物写真載せています。

それにしても、例によって書いているうちにどんどん違う方向に進み内容も増え、着地もタイトルも二転三転。当初はラベンナのサン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)​も載せる予定でしたが、サンピエトロ大聖堂の内容が増え過ぎてカットしました。号泣
2回目のワクチン前に出せず、辛さ2倍でワクチン後2日完全休息。
​今回もお待たせしましたm(_ _)m


聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
​副題 ​使徒ペテロの殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)​


 神学的異端?
 帝国が動乱するとキリスト教徒との関係悪化
 二人の皇帝による迫害
 皇帝の都合による迫害中止
キリスト教公認後の異端者狩り
 ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)
 迫害と殉教
聖人の ハウツー(how-to)本?「 黄金伝説」
殉教者信仰が生んだ 殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)
 殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)​
​  殉教者信仰から聖遺物収集に
 聖遺物からの免罪符問題
 聖人の仕分け
遺物のロッジア(Loggias of the Relics)​
聖人と認定されるまで(神の僕  →  尊者  →  福者  →  聖人)
 殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr)
 ​​ 証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor)
 列聖の審査

プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel)
​​聖なる扉(Porta Santa)

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ キリスト教の発展と殉教と異端
​以前少し触れたが、 キリスト教徒の迫害は当初はユダヤ人の憎悪による抗争から始まった 。​
※ ペンテコステからパウロの布教のあたりについて「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」の中「異教徒に広がるキリスト教 ペンテコステの日の奇跡」で書いています。
リンク ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)

信徒らの布教によりキリスト教が拡大する中で当然、摩擦は起きるし殉教者も出たであろうが、地域的に単発に起きていた程度で、最初はそれほど多かったわけではないそうだ。
何しろ当時のローマ帝国は多神教。帝国は広域だったのであらゆる民族の宗教を認めてきていたから ​当初ローマ帝国からの迫害は無く、ほぼ単発の民衆迫害がある程度だったらしい。​

​2世紀になると異教から改宗した支持者も出だし教養あるギリシャ人の信者が増え始めていた。 徐々に完成されつつあった教会組織は、3世紀初頭、数はまだ少ないもののパレスチナ、シリア、小アジア、イタリア、北アフリカにまで広がり、さらにその世紀にエジプト、ヒスパニア、ガリアで教会や司教の存在が確認されるまで拡大していた 。​
※ この時点ではまだキリスト教徒はローマ帝国から放任されていたから組織は安定? 教会の建築など文化も生まれつつある。

迫害による殉教が増えるのは、3世紀後半のローマ帝国による直接的な迫害であったが、他にもキリスト教徒の増加に比例して増えた部分もあった。

西は ローマ、カルタゴ、東はアレクサンドリア、アンティオキア、エフェソスにある教会がそれぞれの地域を統括するべく司教座が台頭 。それらは独自の考えを持ち、司教座間の教義上の主張点にズレも出てきていたが、少しずつ着実に地中海地域での改宗がすすめられていた。​
※ 布教がカルタゴまで広がると信仰や典礼に使う言葉はギリシャ語、アラム語に加え、ラテン語が加わる。

星その中でも パレスチナのアンティオキア(Antiochia) 北アフリカのアレクサンドリア(Alexandria)は初期のキリスト教の拠点となって行った​。
​アンティオキア(Antiochia)は​ 使徒パウロ(Paulos) (BC10年頃〜65年頃)がギリシャやアナトリア方面への伝道の拠点にしていた古くからの国際都市。 初期キリスト教の基盤造りから貢献 している。

アレクサンドリア(Alexandria)は ギリシア教父のオリゲネス(Origenes)(185年頃~254年頃)が 私塾のキリスト教学校を開設しアレクサンドリア学派の拠点を造った都市。
こちらは 思想の観点から
キリスト教を 理解しようとした神学者の拠点 となった。

オリゲネス(Origenes)は初期のキリスト教神学、弁証学、禁欲主義において最も影響力のある人物(神学者 )で神学他複数の分野で約2000の論文を著したと言われる。
キリスト教の発展に特筆すべき人物であると思うが、死後に異端の疑惑をかけられ多くの著作が処分されている為か? 評価どころか、知名度も低い? 

星 彼は聖書を「神の霊的真理」とプラトン派の哲学者の立場からアプローチして解釈してみせた 。​
​キリスト教は哲学的な宗教であると 彼はキリスト教をただの宗教から神学に高めた人物 と言える。​
※ これにより多くの教養あるギリシャ人がキリスト教を高く評価するようになったのは確か。


神学的異端?
「​
父・子・聖霊(せいれい)」の三位(さんみ)をどう解釈するのか?  それこそキリストを人として捉えるのか? 神として捉えるのか? 最初の一歩で後の理論は大きく変わる。
論争は永遠に続くのか?  解釈しだい?  正統派とされない考えは即「異端」とされた。それは時の皇帝の考え方にも影響し「正統」は変化した。だから、紙一重の所に常に異端はある ・・とも言える。


帝国が動乱するとキリスト教徒との関係悪化
帝国の四方からのゲルマン民族など異民族の侵略が始まる「3世紀の危機」。帝国側も動乱状態で半世紀で70人の皇帝も現れた。
そしてまたも疫病の発生による戦力の低下に加え、無能な皇帝による経済政策の失敗。そして財政難。
※ コンスタンティヌス1世(Constantinus I) (ローマ皇帝在位:324年~337年)の経済及び金融改革まで経済危機は続く。​

この ​ローマ帝国の低迷の危機に比例して帝国とキリスト教、両者の関係は悪くなって行く。​
​​​​​​なぜなら逆にキリスト教は信者を増やし、財源も確保。ローマ教会では財産も資金も豊富にあった。
また先に紹介してたよう 知識人層から浸透していたキリスト教は、この頃農民層にまで及んでいた
※ 農民の人口は帝国の9割。
特に北アフリカでは禁欲的な修道院が支持を集めていたそうだ。だが、地方と都市でその信仰の解釈には開きもあったらしい。


二人の皇帝による迫害
星251年~256年に カルタゴで開かれた司教キュプリアヌス(Cyprianus)(200~210年~258年)による教会会議は、この組織がもはやローマ帝国の中で他の追随を許さない教団になっていた事を知らしめた。
​​ デキウス帝(Decius) (201年~251年 ) による迫害は これに起因する。

つまり​
ローマ帝国の中で拡大し始めたキリスト教徒と力を持ち始めていた教皇を牽制(けんせい)する為に全世界規模でのキリスト教抑圧に着手 したのだ。
実際、257年には教会の財産と統率力を狙いアレクサンドリアの司教ディオニシオス(Dionysius)とカルタゴの司教キュプリアヌス(Cyprianus)が逮捕、追放され ​逆らったカルタゴ司教キュプリアヌスは258年殉教した。​

因みに 司教ディオニシオス(Dionysius)(200年~268年)の方は迫害が収まった翌年(259年)、すでに殉教していた前教皇に代わり第25代ローマ教皇に即位(在位:259年~268年)している。
303年まで続く信仰寛容令もあり、ローマ教会の再建を背負ったものの秩序と平和が保たれた治世で彼は殉教せずに亡くなった最初のラッキーな教皇となった。
同じような事をしながら極端に明暗が・・・しょんぼり

​ディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)​の迫害 は痛かった。
彼はテトラルキア(tetrarchia)を考案し、軍人皇帝時代を収拾し3世紀の危機を乗り切った策士とも言える皇帝だ。
以前「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の所「農業形態の変化と停滞したローマの再建」でも触れているが彼の時代、辺境出身者が増え、軍の将校にも異民族がいる時代となっていた。もはやローマらしさもラテン語さえも薄れてきていた。

だから​ 彼は帝国を結束させると言う理由で古来ローマの神々への礼拝を義務として再興させている。
キリスト教徒限定ではなかったが、やはり ​キリスト教徒の反発が目立ちキリスト教徒迫害の時代になった。​
彼の直属の部下から聖セバスティアヌスが誕生している。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック

※ 聖セバスティアヌスについては次項 「聖人のハウツー(how-to)本? 「黄金伝説」」で書いています。


皇帝の都合による迫害中止

​テトラルキア時代​の東方では​ ガレリウス(Galerius)(在位305年~311年)東方正帝が死の直前キリスト教の神に救いを求めたと言う。そして彼は迫害の終結のサインをした​ そうだ。​
一方西方ではマクシミアヌス(Maximianus)(在位286年~311年)西方正帝​​​とコンスタンティウス(Constantius)(在位305年~306年)西方正帝​​​で主導権争いが起きていたので迫害は中止された。

ライバル、 ​マクセンティウス(Maxentius)(278年頃~ 312年)をローマ近郊ミルヴィオ橋でやぶり勝利するとコンスタンティヌス1世(Constantinus I)(272年~337年)(在位:306年~337年)は帝位に就いた。​
※ ​この事は「クリスマス(Christmas)のルーツ」の中「ラバルム(Labarum)と​コンスタンティヌス帝の戦略」で詳しく書いているが、 彼はキリスト軍として勝利したことになってい る。​
リンク ​ クリスマス(Christmas)のルーツ

実際、本当に夢のお告げがあったかは定かでないが、神の好意があったとして​コンスタンティヌス帝はローマの教会に莫大な寄進をしている。そして、ローマのペテロ(Petros)ら殉教者の墓地に壮大なバシリカ聖堂の建設が始まった。


キリスト教公認後の異端者狩り
キリスト教をローマ帝国が公認した時に、時の皇帝 コンスタンティヌス1世(Constantinus I)(270年代前半~337年)は教義の統一を図る為に325年5月第1ニカイア公会議を開催して全ての教会を集めている。
​​同じキリスト教徒であっても、教義の解釈は様々だったからキリストの誕生日、命日など典礼、聖職組織、信者の倫理、入信者の為の問答集など作られ、 全認識の教義の統一及び調整に向けられた。
つまり、 共通のマニュアル造りをした のである。
それはローマ、カルタゴ、アンティオキアなど地方毎の大都市の拠点となる教会で進められ、特に教義の元となる聖書50冊とその解説書はアレクサンドリア教校が担ったらしい。​​

星 ローマ帝国主導でキリスト教の教義が一本化された わけだが、「はい解りました。」と皆簡単に決まったとは思えない。どうしても譲れないカ所は、どこの教派も相当数あったのではないか? と思われる。
ほとんどが、しぶしぶ新しいテキストを承諾したのだろうと想像する。

実際、キリスト教からかなり離れた怪しい派(異教とのミックス)も存在していたと思われるが、そうした所は改変を拒否すれば当然異端として厳しく取り扱われる事になる。​​​​​​​​​​​ 異端では無いと信じていたのに異端として扱われたキリスト教派も相当数いたと思われる。 ​​
※ 以前、秦氏の所で触れた景教(ネストル教)は教義の統一を受け入れ無かった為に異端として排斥されローマ帝国を出ている。

星 それにしても、 この早い段階でのコンスタンティヌス1世による教義の統一があったからこそ基盤と組織がしっかりした宗教となり、キリスト教は世界宗教になれた のだ。
それには多少ローマ帝国主導の創作もあるにはあったが、今となっては、 コンスタンティヌス1世の先を見据えた政治戦略の成功例だったのでは? と思う。ぽっ

ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)
ここは 聖ペテロのお墓の上に建立された殉教者記念堂(martyrium)が始まり で大聖堂に発展した。
旧聖堂は326年頃建立。
典礼を行うための教会堂ではなく、あくまでペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設されたものであるが、これをローマ皇帝が協力して造ったのである。
まだキリスト教が公認されたとは言え帝国の国教にはなっていないのにだ・・。

※ キリスト教が正式にローマ帝国の国教になるのはテオドシウス1世(Theodosius)(347年~395年)の治世392年。

キューポラ(Cupola)手前、聖堂のファサード(facade)を飾る聖人像 
右、イエス・キリスト  左、洗礼者ヨハネ たぶんぽっ


ファサード下の手前右にパウロ像、左に聖ペテロ像が置かれていてる。

サン・ピエトロ大聖堂の高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737㎡。
大聖堂隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などが連なり「バチカン市国」と言う国としてユネスコの世界遺産文化遺産に登録されている。

因みに洗礼者ヨハネも聖パウロも12使徒(しと)ではない。
が、 聖パウロは12使徒の活動以上に、キリストの教えを理解し、まとめ記し、後世残る宗教としてのキリスト教の基板を整え、キリスト教をユダヤ人以外の民族にも広げた重要な人物 なのです。
彼の存在なくしてローマの国教に抜擢される事もなかったろうし、まして世界展開など考えられなかった。・・と言う意味で聖パウロは重要な使徒なのです。

​​​※ 「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」の中、使徒(apostolos)パウロの伝道で詳しく書いています。
※ 洗礼者ヨハネについては「クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)」の中「荒野の修道士バプテスマのヨハネとキリスト​​」で少し触れています。
リンク ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)

広場中心にオベリスク。それをはさみシンメトリーに噴水が配置されている。

​​​​​​​下の写真はウィキメディアから借りたサンピエトロ広場ですが、広場メインに紹介したかったのでサイドを少しカットしています。正面通路がテヴェレ川にぶつかった左にサンタンジェロ城があります。ヴァチカンからサンタンジェロ城まで秘密の通路があり教皇の緊急避難用に使われていた。

テヴェレ川(Tevere)とヴァチカンの丘にはさまれた 平原アゲル・ヴァテイカヌスは元々非衛生な湿地 だった所。しばしばテヴェレ川も氾濫しては犠牲も出すので 人が住む所ではなく墓地が延々と連なる 他はその墓地に沿って皇帝らの競技場があったていど。
コンスタンティヌス帝による大聖堂の建築はこの地域の振興に役立った と言う。

民家が寄り、1世紀後には修道院が集まって来た。 8世紀にはアルプスの北から聖ペテロと殉教者の墓への巡礼者が押し寄せ宿泊施設もできた
カロリング家の協力で、この地区は新たに廟(びょう)や礼拝堂が建立される。カール(Karl)大帝(742年~814年)は2度目のローマ滞在を記念して宮殿を建て献上したらしい。

しかし、ここはもともとアウレリアヌス城壁の外である。846年サラセン人による大聖堂とこの地区の襲撃と略奪を受け、教皇レオ4世(Leo IV)(790年?~855年)は サンタンジエロ城から大聖堂一帯に壁を構築。大聖堂中心に囲まれたこの街は中世を通じて「レオの都市」と呼ばれるのだが、これがヴァチカン市国(Vatican City)の原型 である。

ヴァチカン公式の本から。
​下はサンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)とサン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)
​聖堂前の サン・ピエトロ広場(Piazza San Pietro)はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)の設計で1656年~1667年に建設 された。​
4列のドーリア式円柱による列柱廊と140体の聖人像に囲まれた広場の中央にオベリスクが立つ円形の広場となっている。

下はヴァチカン内のジオラマより

下は聖堂前からの広場
広場は典礼前、準備がすすめられている。

今日、世界のキリスト教徒の最大の巡礼地の一つとなっているが、現在の聖堂はルネッサンス時代、バロック時代を通して改築され17世紀に完成したもの。

​ルネッサンス時代はブラマンテやラファエロ、ついでミケランジェロも建築主任となっている。​
※ ラファエロはアテネの学童の壁画の中に自身とミケランジェロも描き込んでいる。
※ ミケランジェロは聖堂のドームだけでなく、システィナ礼拝堂の天井画含め壁画にも参加しているが、最後の審判の図の中に自身の抜け殻となった皮だけ描き混んでいる。
今回はシスティナ礼拝堂まで載せていませんが、何かしら爪痕が残されているのを探すのも面白い。
リンク ​ ヴァチカンとシスティナ礼拝堂


迫害と殉教

星ところで、キリスト教がローマ帝国の国教になると迫害は形を変える。 迫害される側から迫害する側にポジションが移動 したからだ。
※ キリスト教が認知されたミラノ勅令以降、他信徒の異教の神殿が攻撃され、キリスト教の教会に変わって行く。

問題なのは、
キリスト教徒による反キリスト者(異教徒)狩りのみならず、キリスト教徒同士なのに因縁を付けて迫害の対象とした中世の魔女狩りは、もはや他信徒からの迫害よりも酷く残虐になっていく。
つまり他信徒からよりむしろ同教徒からの攻撃が増えるのだ。

以前「ヴァッハウ渓谷 (Wachau)  2 (メルク修道院)」の冒頭で紹介しているが、記号論哲学者で、中世研究者でもあるウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の小説「薔薇の名前(Il Nome della Rosa)」はミステリー小説に位置づけられるのだろうが、明らかにこれは 中世の異端狩りの恐ろしさ を伝えている。
紙一重? 真の聖者であったとしても、 誰でも簡単に異端者にされる時代 ​もあった​ のだ。
٩(๑º﹏º๑)۶怖ぃ~
※ 小説は難しいが、映画にもなっています。スマイル
リンク ​ ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)

それにしても、迫害の時の信者の態度はその場と後において2度明暗が分かれたらしい。
あくまで キリスト教徒として抵抗をした者は獄中にいても、またたとえ殺されたとしても英雄視され殉教者となった が。迫害怖さに信仰(キリスト教)を一時的にも棄てた者は、その後に教会に戻る事を簡単には許されなかったし、終生裏切り者の烙印が押される事になった。

因みに、ローマ帝国に対して「単に逆らった」だけなのに英雄視され聖人のように扱われる事象も増えたらしい。誰が尊者か? 教会管理上の大きな問題に発展。
そもそも 地方発の聖人は正式な記録もなく、伝承のみで実在かも不明? 出自があいまい。地方の小さな教会では教皇庁の許可もなくかってに聖人として祀っていた、御当地聖人も多かったと思われる ぽっ
殉教者が必ずしも聖人になれるわけではないが、中世はすでに よく解らない聖人がたくさんあふれていた? ​のかもしれない。​
だから 13世紀に発行された「黄金伝説」はその時点での聖人を明確に世に示した書だったのかもしれない 。​
​​​​​​

聖人の ハウツー(how-to)本? 「 黄金伝説」
ハウツー(how-to)本と言うほど簡略な本ではないが、 キリスト教で崇敬されている諸聖人の伝記がまとめられ、聖人を知るならこれしかないと言う本が「 Legenda sanctorum」or「Legenda aurea)」 で​ある。日本訳で「黄金伝説」と訳されているが、「伝説の聖人」の方が意味はわかりやすいかも・・。
​​
1267年頃、中世イタリアの年代記作者で ジェノヴァの第8代大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ (Jacobus de Voragine)(1230年? ~1298年)は キリスト教の殉教者や聖者を記た「黄金伝説」を執筆した
ラテン語散文で記され第1章 主の降臨と再臨から始まり第176章の献堂式まで聖人たちの伝説の他キリスト教の祝祭日など織り交ぜて書かれている。

日本語訳され一部聖人が抜粋されたヤコブスの「黄金伝説」を私も持っているが、聖人と呼ばれる人物の行動や生活。いかに殉教に至るのか。また殉教後の奇跡の話しなど1人1人かなり詳細に語られている。原本は見ていないが、ざっと数えて聖人だけでも170人くらい載った伝記物となっている。

13世紀に執筆された同書は中世以降最も流布した本の一つとされるが、 ここに記されている一言一句を全て真実として受け止め、カトリック教徒は祀ってきたのだろう。
星おそらく、唯一の聖人の解説書 であり 「黄金伝説」登場の聖人はこの本により確実に定説化された と思われる​

作者の創作はなかったのか? この本の取材のネタ元はどこなのか? と、いつものクセで疑問を持った。
が、それは聖セバスティアヌスの件で理解した。
おそらく、ミラノと同様に、それら 諸聖人の地元の教会から上げられた聖人伝説を集めて編纂(へんさん)したのがジェノバの司教ヤコブス・デ・ウォラギネだったのだろうと思われる。
そこには確かに良い意味でヤコブスの創作もあったかもしれない・・と思う。物語性もあるのでこれを愛読書にしたカトリック教徒は星の数ほどいただろう。

ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)で撮影した聖セバスティアヌス

以前ポルディ・ペッツォーリ美術館でも紹介している絵です。写りの関係で再び使用しましたが作者不明です。
彼はディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(244年~311年)​の迫害の時の被害者の1人。
聖セバスティアヌスはディオクレティアヌス帝(Diocletianus)(在位:284年~305年)とマクシミヌス(Maximinus)帝(在位:308年~313年)の両皇帝に気に入られ、ローマ軍の第1歩兵隊の指揮官をしていたミラノ出身の実在の人物。
当時のローマ帝国はキリスト教徒の拡大を恐れ迫害に転じていたので彼は敬虔なるキリスト教徒ではあったが、隠れキリスト教徒であったのかもしれない。
また 2人の皇帝のお気に入りである。美形だったのかもしれない。だから? 聖セバスティアヌスの図像は必ず若い美形で描かれている。それ故、人気の聖人 なのだろう。ぽっ

ディオクレティアヌス帝は彼がキリスト教徒であること知ると矢で射る刑を与えた。 沢山の矢を受け、ハリネズミのようになったがそれでも死ななかった。 再びディオクレティアヌス帝の前に現れると帝に説教したので今度は 棍棒で打たれて殉教した とされる。​​​​​​​​
​​※ この伝説のベースに関しては、ミラノ司教の聖アンブロシウスが大いに係わっているらしい。

ところで、近代文学の作家、 芥川竜之介(氏)がこの「黄金伝説」について座右(ざゆう)に備えておくべき本として紹介 しているそうだ。そう言ってから氏はすぐに自殺した。殉教と自殺は天と地ほど違うのに・・。

ついでに同じく ​作家の三島幸夫(氏)が恋がれたグイド・レーニ(Guido Reni)の聖セバスティアヌス​ も紹介。下の絵はウィキメディアからですが・・。

グイド・レーニ(Guido Reni)(1575年から1642年)はラファエロ風の古典主義的な画風のボローニャ派の画家。彼の作品はキリストにしても美しい。聖人像のどの作品も色っぽい。​​ぽっ
​​
兵士であった事から 兵士の守護聖人 ではあるが、イタリアで黒死病が流行した際、パヴィア地方にある聖ペテロ教会で聖セバスティアヌスの祭壇を建立すると流行が止ったと言う事から 黒死病から信者を守る守護聖人 にもなった。

​​
殉教者信仰が生んだ 殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)
殉教(Martyrdom)とは、己の信仰を全うするが故に、迫害などで命を落す事をさす。殉教者はその当事者だ。
そもそも 当初の殉教者は初期キリスト教で布教と言う重要な役割を果たした使徒(しと)に向けられたものだった
※ キリストの12使徒の他、使徒パウロあたりまでをカバー?

だが、時代が進み、 キリスト教の迫害時代を経てローマ帝国の国教になるまでの間 、キリスト教徒として命を落とす者が増え続けた。要するに 殉教者としてカテゴライズされる者が増大 したのだ。
※ 新大陸やアジアへの宣教師による布教が始まると殉教者はまた増加。

キリスト教の信徒として、義を貫いて命を落とした者は礼讃(らいさん)され、殉教者として祀られるようになると言う殉教者信仰なるものがある のだが、それは当初から存在した。

キリスト教の最初の殉教者となったステファノ(Stefano)( 生年不明~35年または36年頃没)から始まる。​
エルサレムの北部、郊外にあった彼の墓地には多くの巡礼者が集まったらしい。最も公式にステファノの墓が定められたのはキリスト教がローマ帝国の国教に制定(392年)された後の415年である。


​殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)​
2世紀頃のキリスト教会ではすでに尊い活動、あるいは迫害により命を落とした者を殉教者(じゅんきょうしゃ)とし、またその者の遺骸や遺物の上に墓を立て、崇敬すると言う事が行われていた。
※ この時点で聖人の定義はまだ定まっていない。​​​

殉教者を葬った場所には小さな礼拝所が設けられた 。それは後にまわりに堂ができ教会で覆われたりするのだが、 当初はシンプルなモニュメントのような廟(びょう)であったようだ。
ラテン語でマルティリウム(martyrium)と呼ばれた。(日本語訳では殉教者記念堂)
※ 英語にするとマルティリウム(martyrium)はマーティダム(martyrdom)。それはなぜか「殉教」とか「苦難」そのものの訳語となりラテン語の意味とは異なるのである。(・_ ・。)? 
 ※ 現在マルティリウム(martyrium)自体が建築用語となっている。
最古の物がヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)、中央祭壇の下から発見された と言う。その殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が下のようなもの。現物写真は無い。​​​

もともとサン・ピエトロ大聖堂の場所(アゲル・ヴァテイカヌス)は120年~160年頃には墓地が広がっていた場所。殉教した 12使徒のペテロが葬られた場所に殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)が造られたのが最初? なのかも。
コンスタンティヌス1世は敢えてその上に 旧サンピエトロ聖 堂を築いた のだろう。
※ 聖堂中心の地下が聖ペテロの墓とされている。

そしてキリスト教がローマ帝国で公認される313年以降、そうした殉教者の墓の拝所は少し大がかりになり堂で覆われた礼拝堂となっていく。
​​​​​​これら 殉教者を祀る為に造られた記念礼拝堂そのものが、ラテン語でマルティリウム(martyrium) となったようだ。

ところで、これを殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)と解釈して良いのか解らないが・・。
サンピエトロ大聖堂左翼  ​中央にあるのが聖ヨセフの祭壇(Altar of St. Joseph)​ である。

マリアの夫、聖ヨセフ(St. Joseph)に捧げられた祭壇とされ、キリストの父とはされていない。

実は 祭壇に置かれている古代の石棺には、使徒シモン(Simon)とユダ・タダイ(Jude Thaddeus)の遺物が入っている と言う。
​使徒シモンもユダ・タダイについても、実は伝承のみで詳しい記録は残っていないらしいが、ペルシャで殉教したのではないかと考えられている。
さらに伝承では彼らの遺骸は​ペルシャからローマに運ばれ、現在のサン・ピエトロ大聖堂の場所に埋葬されたらしく、後年その遺物が納められた? と聞く。
そう、 公式にヴァチカンが公言しているのだからこの祭壇も殉教者記念堂マルティリウム(martyrium)に入るのかな? と思ったのですぽっ

幼児キリストを抱く聖ヨセフ。左に大天使ガブリエル?
絵はAchille Funiにより1961年に書かれ1963年にモザイクで製作されている。
実はこの記念堂は割と新しい? ヴァチカン内の絵画類は順次モザイク画に置き換えられています。


​​​​​​​​​​ 殉教者信仰から聖遺物収集に
2世紀半ばのおそらく最古とされる記録であるが「ポリュカルポスの殉教録」では 、殉教者を「宝石よりも貴重で黄金よりも価値がある。とし、その遺灰を拾い集め、埋葬し、命日には集会を開いて故人を祈念した。」 と、あるらしい。
星この理念は以降、欧州各地に広がり、 教会はこぞって誰かしら聖人の遺物を欲しがり、持つに至る のである。これが聖遺物収集の発端か・・。しょんぼり

聖遺物収集については、すでにあちこちで書いています。
リンク ​ ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)
リンク ​ ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)
リンク ​ 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)
リンク ​ サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)

聖遺物信仰も少しカルト的です。
聖人の遺骸を持った聖堂は勝ち組です。遠方から聖人を拝みに巡礼者が殺到するので教会は潤うから です。スマイル
10世紀以降、聖人の遺体自体が容器に入り聖堂や廟に移される。また 聖人の遺骸は分割され頭部や腕など細かくなった遺物は装飾性の高い聖遺物容器に移される。例え指1本でも聖遺物と言うお宝になった のです。
因みに中世「聖遺物コレクション展」なる催しも開催され地方から巡礼者を集めています。
需要があるので聖遺物を集めるブローカーも存在しています。全部、怪しいけどね

ミュンヘン・レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)から

ヴィッテルスバッハ家のコレクションは初期キリスト教の神聖な遺物として認定されたお宝です。
普通、こう言うものは撮影できないのですが、レジデンツは太っ腹です。しかもこれらは巨大金庫の中に納められている展示品です。(金庫の中で撮影してます。)
私が見た中でもこれだけ大量に有したコレクションは始めてです。
※ 以下に他にも紹介しています。
リンク ​ ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)

当時はまだ高価なガラスと宝石が散りばめられた聖遺物箱(Reliquary)に入れられて飾られたのです。

そうなると何が変わるのか? 聖遺物は持ち運びがたやすい動産となり欧州中の各教会に普及 するのですが、同時に盗難にも遭いやすくなったそうです。
盗んだお宝をしれっと飾る教会もあるわけで、聖なる宝を盗むなど何事か? と思うかもしれませんが、「聖人がうちの教会に来る事を望んだ結果だ。」と言われれば「そうなのかな?」と言う解釈もあるそうで笑える大笑い最も当事者の教会にとっては死活問題ですから奪い合いです。

聖遺物からの免罪符問題
​​かくして、 ​教会は聖遺物を集め、巡礼者を集めたがった。巡礼者もそんな聖遺物を拝みに出かけた。​
それは 中世後期には異常な高まりをみせる のです。
なぜか?
​​
聖遺物を拝みに行く事でポイントがたまったのです。
何のポイントが?
死後、天国に行く為の免罪行為として利用された からです。
※ 実際のスタンプではなく、自分の中にある自分の善行としてのポイントです。

聖遺物を拝む事で過去にしでかした自分の罪がチャラになる。そんな風に言われて多くの聖遺物を見れば善行するより楽勝。だからたくさん聖遺物が集まるコレクション展への人々の巡礼はハンパなかったようです。コレクション展は大行列だったらしい。
当然、そこには入場料? あるいはお布施が存在していたわけで、免罪ポイントを結局お金で買った事になった訳ですが・・。私も俗人、行ったでしょうね大笑い

※ 免罪符についてまだ完全なのを書いていませんが、興味のある方は参考として以下見てください。
リンク ​ アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家
リンク ​ 2013年ハロウィーン(Halloween) 1 (煉獄思想とジャック)
煉獄思想が免罪符問題を造り、そこに教会のお金集めが乗っかり、結果宗教改革の革命が起きるのです
キリがないのでこの辺で・・。

星それにしてもよーく考えて見ると イエス・キリスト以外にその関係者なる複数の聖人を祀って礼拝してしまったらそれは多神教です。殉教者信仰もまたカルト(cult)的な要素を持ち合わせている。
だから? 教皇庁は多神教にならないよう、一つの教会に守護聖人は1人のみ・・と言う苦肉の解釈?  制限を加えたようだ。


聖人の仕分け ​​​​​
​​​星この あふれかえるように増えた聖人を17世紀になって教皇庁は整理している。
それが 第235代ローマ教皇である ウルバヌス8世 (Urbanus VIII)( 1568年~1644年)(在位:1623年~1644年)である。
※ フィレンツェのバルベリーニ家出身のウルバヌス8世は聖職者というよりは政治家? 親族を多く登庸してバルベリーニ家にさらなる富をもたらしている。
※ 以前「ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠」の所で家門にミツバチを入れている見本としてローマ教皇ウルバヌス8世の紋章を紹介している。
リンク ​ ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠

​​ウルバヌス8世は 教会改革を進め、その中で聖人の仕分けをして怪しいのは削り、また多くの聖人を認定した とも言われている。地方で呼び名が違う為に同一人が複数に数えられていたのも多々あったらしい。
また 聖人はランク付けし、ランクにより典礼の種別も行っている。 ​​
​​​​​​​​​​​ 以降? 時代で? 聖人は時々見直されるようになった。
何と、聖人からはずされる場合もあるのですしょんぼり

ウルバヌス8世は、新大陸やアジアへの布教活動に熱心で聖職者を要請する教育施設としてウルバヌス学院(Colegium Urbanum)を創設したりと布教に前向きな活動をしています。
※ 現在、聖人を決める秘蹟の判定や典礼については、典礼秘跡省(ラテン語: Congregatio de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum)が行っているらしい。

ヴァチカン公式の本からの聖堂の図。確かにギリシャ十字の聖堂が下に足された感じです。

No35  教皇の祭壇   聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)  地下 ​(ペテロの墓)​
​​​右上から時計回りに
59 聖ヘレナ(St Helen)
64 聖ロンギヌス(St Longinus)
32 聖アンデレ(St Andrew) (洞窟入口)
36 聖ヴェロニカ(St Veronica)

29 ペテロの司教座 ベルニーニによる玉座の祭壇
57 ミケランジェロのピエタ(Pietà)
8  聖なる扉(Porta Santa)

​ヴァチカン、サンピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)内部
下は典礼の時の仕様です。

身廊先に見えるのがクロッシングのキューポラ下にあるベルニーニの大天蓋(だいてんがい)

アートな聖水盤手書きハート

ロココ時代のイタリアの彫刻家であり画家であるアゴスティーノ・コルナッキーニ (Agostino Cornaccini)(1686 年~1754年)によって設計デザインされジュゼッペ・ローニ(Giuseppe Roni )がシエナの黄大理石の水盤と黒大理石のバルディリオドレープの彫刻を担当している。


星教皇庁のアヴィニョン捕囚時代(1309年~1377年)が過ぎ、 教皇庁が再びヴァチカンに戻ると 都市の整備と拡張も行われる。特に 聖堂の老朽化は甚だしく、崩壊寸前 だったそうだ。
教皇ユリウス2世(Julius II)(1443年~1513年)はブラマンテに大聖堂再建計画を依頼。
工事は1506年から1世紀半に及ぶ。当然造営の建築主任は何人も交代 した。

当初のブラマンテの計画では、元のコンスタンティヌス時代のバシリカにドームを載せるだけのギリシャ十字のシンプルなものだった。それが 計画から着工、また完成まで ギリシャ十字か? 縦長長堂式のラテン十字か? 二転三転した。
1546年、ミケランジェロが主任になるとギリシャ十字型に決まり建築が進むが、ミケランジェロが亡くなるとまたプランは変更。彼の図面を利用しながらも 収容可能人数を引き上げるよう身廊部が引き延ばされ縦長長堂式のラテン十字となった。 身廊の奥行き187m。

上の写真で言えば、クロッシングまでのアプローチ(身廊の長さ)がかなり長いのが解る。おかげで正面前からのドームは見え無いほど後退している。
とは言え、現在の聖堂は、ほぼミケランジェロのプランなのだと言う所が個人的にちょっと感慨深いスマイル

ミケランジェロのピエタ(Pietà)

1489年、フランスのジャン・ピレールド・ラグローラ枢機卿は「最も美しい大理石の作品」と依頼した。他にも候者がいた中、ミケランジェロ(Michelangelo)(1475年~1564年)が渾身の聖母子を彫り上げた。ライバルがいたからこそ、彼が署名を刻んだ唯一の作品となった。

ピエタは十字架の降下直後のキリストの死を悼む母マリアの姿であるが、ここではマリアは若々しい乙女の姿で描かれている。それは「マリアはキリストの母にして花嫁」と言うキリスト教の神学的解釈に基づいているらしい


下、「ペテロの座像」は以前「ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)」で載せているので今回のせません。
リンク ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)

堂内の装飾はバロックを代表する建築家で画家で彫刻家のジャン・ロレンツォ・ベル二ーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)が担っている。
「ベル二ーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛される程のバロック芸術の巨匠である。彼の作品は華やかで気品がある。


クロッシンクの中央祭壇の上にベルニーニ製作のバルダッーキノと呼ばれる天蓋(てんがい)のついた聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)が置かれる。
実はその地下は聖ペトロの墓だそうだ。もともと墓地だった場所であるが、今は地下グロッタもあり、歴代教皇らの眠りの場所となっている。
祭壇建築の時に地下からもろもろ出土したらしいが、ほとんどそのままさわらずに残したらしい。

ミケランジェロが設計したキューポラ


聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)

バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世はブロンズ製の巨大な天蓋バルダッキーノ(Baldacchino)に覆われた中央祭壇を希望した。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)(1598年~1680年)はその依頼を受け、1624年~1633年、4本の支柱を持つ天蓋のついたブロンズ製の巨大な聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)を製作する。
その天蓋(Baldacchino)にはバルベリーニ家の紋章である蜂が散りばめられている。
本来の天蓋(てんがい)は布製である。ここは敢えて全てブロンズで製作しているわけだが、ベルニーニは、割とリアルに布の雰囲気を出して製作している。流石である。 (*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ
ねじれた支柱は太い幹に蔦(つた)が巻き付いたイメージらしい。

その地下が墓(Tomb)

下の箱に聖ペテロの聖遺物が? と思ったが違うらしい。


後方内陣、ペテロの司教座にはベルニーニ製作の「玉座の祭壇」が置かれている。​​​
実は後陣にペテロの司教座を造るのは当初予定ではなかった。
​​
信徒でなければ入れ無い領域なので遠方から撮影です。堂は薄暗いので拡大するとボケます。

アレクサンデル7世(Alexander VII)(1599年~1667年)(教皇在位:1655年 - 1667年)の意向で9世紀の木製の「ペテロの司教座」椅子を納める為に製作されたらしい。一種の聖遺物容器となっているそうだ。

下、まれに予告なく法王自らミサをとりおこなう事がある。

​遺物のロッジア(Loggias of the Relics)​
ところで、ベルニーニは中央の教皇の祭壇がある ​聖ペトロの天蓋(St. Peter's Baldachi)を四方からまるで結界を貼るように四隅に聖人の聖遺物を納めた10m級の彫像を​ 設置している。
​​※ 4つの巨像は、1639年から1640年の間にドームを支える4つ橋梁のニッチに設置された。
※ 像は全て制作者が異なる。
これは 1624年、 ウルバヌス8世の依頼によるものであるが、ドームを支える4つの橋梁のニッチに彫像の上に、関連する聖遺物が備えられた らしい。


天蓋左奧 聖ヴェロニカ(St Veronica)  天蓋右奧 聖ヘレナ(St Helen)​
天蓋手前左 聖アンデレ(St Andrew)  天蓋手前右 聖ロンギヌス(St Longinus)



彫像の製作に関しては、ベルニーニはともかく、他の制作者は実物大のスタッコ・モデルを製作して審議にかけられているらしい。

問題なのは 確かに最初ウルバヌス8世は、これらのロッジアに4つのニッチに貴重な聖遺物を納めたらしいが、 遺物は現在元の場所に無いらしい。
現在聖ヴェロニカの像の上の礼拝堂に3つの聖遺物が保管されている?。
​​しかし、聖アンデレの聖遺物は過去の教皇によりギリシャ正教会のパトラス(Patras)の聖アンドリュー教会に寄贈されてしまったらしいのだ。
※ 聖アンドリュー教会(聖アンドレアス教会)またはアギオス・アンドレアス教会(Church of Aghios Andreas)と呼ばれるギリシャ最大の教会らしい。
※ 時の教皇は、第262代ローマ教皇パウロ6世(Paulus VI)(1897年~1978年)と思われる。
他についても最新情報が解らないので詳しくは不明です。しょんぼり

星本来ならベルニーニの彫刻作品、聖ロンギヌス(St Longinus)だけ紹介して終わる所ですが、 聖遺物が祭壇を中心に4隅の柱に配置されていたと言うのが気になりました。
たまたまでしょうが、大聖堂の方位から見ると、 聖ロンギヌスの位置はまさに鬼門(きもん)上です
※ 裏鬼門に聖ヴェロニカ(St Veronica)
何か結界のような意味がウルバヌス8世にあったのか?  もはや誰にもわからないでしょうね。ぽっ
​​
聖ヘレナ(St Helen)こちらはウィキメディアからです

アンドレア・ボルジ(Andrea Bolgi )(1605年~1656年)製作。
コンスタンティヌス1世(Constantinus I) の御母。早くからキリスト教を信仰していた彼女は早くから聖地に聖遺物を探しに旅に出て色々なキリストにかかわる遺物を発見して持ち帰っている。
持っている品は磔刑の時の十字架と言う事らしい。発見時はすでに木片。それが納められていた。

聖ヘレナ(St Helen)の向いに、聖ロンギヌス(St Longinus)

ベルニーニ自身による製作。
キリストの脇腹を指したとされるロンギヌスの聖槍(せいそう)を持つロンギヌス。実際は、死の確認の為に突っついた。と言う事らしい。その槍の穂先が収まっていると言う。
※ 聖槍はウィーンの宝物館やメルク修道院にもあった。

天蓋手前左 聖アンデレ(St Andrew)

フランソワ・デュケノア(François Duquesnoy)(1597年~1643年)製作。
しかし、教皇が聖アンデレのために選んだモデルは実際にはベルニーニのデザインらしい。

ペテロの弟でギリシアで宣教し殉教した。
X十字の磔刑に書された事からX十字は彼のアトリビュート(象徴)となっている。
聖アンデレの聖遺物は何と彼の「頭蓋骨」だったらしい。
先に紹介しているよう1964年、ギリシャ正教会のパトラスの聖アンドリュー教会に寄贈?  あるいは返還されたとも・・。実際今は無いのです。


聖ヴェロニカ(St Veronica)

フランチェスコ・モーキ(Francesco Mochi)(1580年~1654年)製作。
聖ヴェロニカの像は、ヴェロニカの聖顔布を称えるために作成​​
ヴェロニカのヴェールは、キリスト教の布の遺物
イエスが十字架をゴルゴタに運んでいる時、額の汗をぬぐう為にと渡したベール。キリストの顔が浮かび上がっていたと言う聖顔布が聖遺物らしい。

星 もし聖遺物をペテロの墓地の四隅に結界的な意味を込めて張りめぐらしていたのだとしたら?
聖域の浄化に役立っていたのかもしれない?
それは1点が欠けた段階で崩壊しているし、今はどれも撤去されている。

これはカトリックの思想ではないが、あった方が良かったのに・・と私は思う。ぽっ


聖人と認定されるまで(神の僕  →  尊者  →  福者  →  聖人)
そもそも聖人とはどんな人が選ばれるのか?
​​ 信仰以前に、まず 人としても、生き方においても高潔である事。人徳があり、信仰においては過去の事象において崇敬されるべき行動があり、それは後世においても不変であり模範とされる人?​​
これはどんな宗教でも絶対条件ではないか? と思われるが、さらに カトリックの場合、選定の入口に2つの条件ルートが存在する。​ ​​​​​​​
​​​ それが聖人候補となる者がまずどちらなのか? これにより審査条件は大きく変わ るのである。

​殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr)か?
​証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor)か?​​
星 殉教者(じゅんきょうしゃ)(Martyr) ・・・ 信仰のために命を捧げた者 。殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられた者。​​
​​​星 証聖者(しょうせいしゃ)(Confessor) ・・死ぬことはなくともイエス・キリストに対する絶対的な信仰を持ち、且つ その生き方でゆるぎない信仰を示した人。また生前からカリスマ性のあった聖職者など生前の功績や人格が重要。 さらに絶対条件として 奇跡の証明が必要 。またそれは時代の科学で証明できない奇跡でなければならない。​​​
※ 奇跡の証明でよくあるのは、墓から掘りおこした時、生前の時のままに綺麗である事(痛んでいない)。また誰かしらの病気などの奇跡的治癒に貢献した。等・・。

その上で 現在の聖人認定には至るステップ(段階)がある。列聖省による長く厳しい審査があり、一気に聖人になる事はない。
神の僕( Servi Dei )  →  尊者(Venerable) →  福者( Beatus ) →   聖人​( Sanctus)

例えば、近年、死後すぐに列聖の為の審査に入り、わずか数年で聖人となったケース(教皇ヨハネ・パウロ2世やマザー・テレサ)もまれにあるが、ジャンヌ・ダルクのように当初(1431年)異端として火刑に処されながら1456年に復権。1869年列聖の申請から1909年列福。1920年列聖。と、481年と言う長い年月で評価が一変したケースもある。

が、 通常は早くても列福まで本人の死後数10年から場合により100年はかかるらしい
※ 当人が生前いかに崇敬されているか? の判断故か? 近年は関係者の存命中に判断されるようになったので列福、列聖が急がれているのではないか? と思う。​

※ 守護聖人や証聖者(Confessor)については「ミラノ(Milano) 8  (ミラノ大聖堂  6 福者)」で書いています。ミラノでは実際に列聖準備に入った福者が祀られていたのでその写真もあります。
リンク ​ ミラノ(Milano) 8  (ミラノ大聖堂 6 福者)


​​列聖の審査
1. 候補者となり、列聖の為の調査が宣言​ されると
  →  神の僕(かみのしもべ)( Servi Dei) とカテゴライズ。
​​​​
2. 列聖省が様々な調査を行い、その人物が 英雄的、福音的な生き方(生涯)であったことを認定した時
  →  尊者(そんしゃ)(Venerable) の敬称が付く。

3. ​尊者の徳ある行為あるいは殉教により天に在住し「その生涯が聖性に特徴づけられたもの」であると証明された時。​
  ​​​→  福者(ふくしゃ)( Beatus )  の敬称が付き列福する。
※ 列福には、最初、 地域司教の管轄下の司教による調査が行われ、そこで徳と聖性が認められると教皇庁に資料が送られ列聖省にて調査・審議が行われる。
※ 1831年の教会法改正以降、その人物の取次ぎによる最低1つの奇跡(超自然的現象)が必要とされる。殉教者はその対象外。​
​​教皇が列福の教令に署名。サン・ピエトロ大聖堂での列福式を以て「福者」と宣言され列に加えられる。   →  ​列福(れっぷく)(Beatification)​

4. 徳と聖性が認められた 福者(Beatus)が聖人(Sanctus)の地位にあげられること
  →  聖人(せいじん)(Sanctus) の敬称が付き列聖する。
再び福者と同様な調査と手続きが行われ、徳と聖性が認められると教皇により列聖の宣言が出され、聖人の列に加えられる。サン・ピエトロ大聖堂で列聖式が行われる。​​
​  → 列聖(れっせい)(Canonizatio)
​​​​​​

プレゼンテーション・チャペル(Presentation Chapel)

絵 Giovanni Francesco Romanelli(1610年~1662年)  製作(1638年~1642年)
モザイク Cristofari 製作(1726年~1728年)
絵画は神殿での聖母マリアのプレゼンテーションの祭壇として描かれている。マリアの宮詣での図なのである。現在この祭壇は聖ピオ10世に捧げられている?

プレゼンテーションチャペル祭壇の下にある教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓?

ポンティフィカルローブ(pontifical robes)で包まれ顔は銀の仮面で覆われクリスタルの棺に納められた聖ピウス(St. Pius X )(1904~1914年)。
いつの時点の説明かわからないのですが、どれもここは教皇ピウス10世(Pope Pius X)の墓と紹介されています。
今は聖人となった聖ピウス10世(St. Pius X )は今もこの場所におられるのか?
※ 1954年5月29日、ピウス12世によって列聖されている。

通常は、列聖までの間一般公開される祭壇「最後の埋葬までの間に保管される場所」ではないか? と思うのです。
大聖堂では、時々特別典礼として列福者など一時的にこのように公開されています。
パウロ2世も確か聖セバスティアヌスの礼拝堂で公開されてから地下に行ったような・・。
​​​​​​​​​​​​​​​ただ、聖ピウス10世(St. Pius X )は20世紀の偉大な教皇として評価されているので一つの礼拝堂が墓所としてあてられたのか?


​​​聖なる扉(Porta Santa)​
​​​​​​ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)の聖堂に入る戸口の話しです。
入口正面に戸口は5つ。そのうちの 右端の門だけは開かずの扉 となって、通常は完全封鎖されています。
西暦1300年に始まったと言われるカトリックの特別年(聖年)。その年だけに開かれる特別の戸口です。
この年にローマに巡礼すると特別な赦しを与えられる のだそうです。
※ 聖年にはバチカン四大バシリカの聖年の扉がすべて開く。

ヨハネによる福音書第10章9節
イエスは「私は門です。私を通して入る者はだれでも救われる」と言われているようで、門は聖域に至る象徴となっているのでしょう。

聖なる扉(Porta Santa)の外側

フィレンツェのフェルディナンドマリネッリ芸術鋳造所によって鋳造されたヴィココンソーティ(Vico Consorti,)による聖なる扉(Holy Door)。
実は1950年のクリスマスに聖年を終えた後にブロンズに置き換えられた。それ以前は木製。
ラテン語で(Porta Santa)

もともと、この門はコンスタンティヌス1世の指示? 最初から定められていたようです。
ただ、恩赦が与えられる特別な扉であったので、中世これを悪用して商用化? お金をとっていたのでしょう。その為に時の教皇が扉を封印する事にしたようです。

聖なる扉(Porta Santa)の内側

聖年にしか開かれない扉なのでレンガとモルタルで固められて絶対に開ける事はできないようになっています。
小さな礼拝所の写真? と最初思いましたが実はかなり巨大で十字の下まで2mくらいあるのでは?

扉の内部にはサンピエトロ大聖堂聖省(Fabbrica di San Pietro)の刻印が入った煉瓦が詰まっていて、それらの奧に聖年の扉の鍵が入った箱が保管されている。十字の下の四角から表面に覆われたモルタルをを崩すのです。

実は私はこの塞がれた扉を見ていないのです。
なぜなら、 私はラッキーな事にたまたま訪問した時が聖年で門が開いていた のですスマイル
めったに無い聖年です。かつては100年に一度、それが50年に一度となり 現在は特別聖年を除く25年に一度
最近は教皇の考えにより 特別聖年が定められると開かれる ようです。
※ 近年は度々開かれている。

それでも今や訪問者が増えて大渋滞だそうです。聖年にこの門をくぐる為に入場券の予約が必要らしい。
私の時はほとんど人もいなくて、普通に通り抜けました。
今は情報が早いからかも? 昔はそんな情報も無かったので・・。門を見て知ったくらいです。

御利益は「恩赦(おんしゃ)?」がある そうです。先に紹介した免罪のポイントのような事です。カトリック信者ならあこがれかも? 結果は死んでからでないとわかりませんが・・。大笑い

聖ペトロの教会ですから、聖ペトロのモザイク画です。

彼は天国の門の番人ですから天国の門の鍵を持っています。それが彼のアトリビュートです。

※ 聖ペトロの話しは「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の中「ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ」で触れています。

疲労困憊。おわります。 (^o⌒*)/ ​​​

一度このまま載せますが、チェックを後からします。後で修正が多々出ると思います。(>人<) 

Back number
リンク ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​ 聖母子絵画とクリスマス歳時記 2 無原罪の御宿り日
リンク ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)






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Last updated  2023年04月16日 00時34分21秒
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