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だが今年、コロナ騒動の中、コロナに関係なく具合が悪くなり亡くなられた方々の家族は、きっと満足のいく看病も出来ずに見送りされたに違いない。気の毒である。ましてコロナに感染された方々の場合、志村けんさんの場合で知ったが、家族は最後の野辺送りも許されなかったのだから不幸中の不幸である。
本人のみならず、家族にとってもコロナ騒動は悲惨な結末を残している。
さて、お待たせしました。コロナで中断していた「アジアと欧州を結ぶ交易路」ですが、前回 No8では「ローマの市民権とローマ帝国の制海権」を紹介。
共和制ローマにおける市民権は当初特権として存在
していた。それは財産に値する価値のあるもの。市民権を持つのはいわゆる特権階級の人々であった。
No7の所で紹介しているが、 共和制ローマの躍進はBC338年、ラティウム同盟を解体してから
である。
当初ギリシャ人が独占しようとして始めたシチリア島奪取の戦いは協力参戦した共和制ローマが手に入れる事になった。ポエニ戦争の始まりである。(ポエニはフェニキア人の事)
いつのまにかギリシャは部外者に? 戦いは共和制ローマvsフェニキア人となり3度目のポエニ戦争 (BC149年~BC146年)
の後に共和制ローマが完全勝利。
※ ボエニ戦争の勝利の裏にはスキピオ・アフリカヌス( Scipio Africanus)(BC236年~BC183年頃)のような有能な軍人がたまたま居た事もある。カルタゴの将軍ハンニバル(Hannibal)に勝った男である。
結果、フェニキア人が交易先として有していた地中海の島々、アフリカ大陸、イベリア半島が共和制ローマの属州となり拡大
したが、実は第二次ポエニ戦争(BC219年~BC201年)終決に重なるようにローマはギリシャの要請でマケドニア戦争(BC200年BC197年)にも参戦している。つまり共和制ローマの東方進出である。
第3次マケドニア戦争(BC171年~BC168年)に勝利し、マケドニアを属州とすると、後にスパルタを除くギリシャをマケドニア属州に編入する。 BC2世紀にはイベリア半島からエーゲ海に及ぶローマ帝国が完成されていた
のである。
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権
アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易
ローマ帝国が滅ぼしたカルタゴ(Carthāgō)
共和制ローマの繁栄とラティフンディウム問題
ラティフンディウムが生んだ新興貴族ノビレス (Nobiles)
奴隷貿易
ローマ街道(Via Romana)
ローマ帝国の交易品
アンフォラ(amphora)
古代ローマ人の衣装
ローマ帝国が滅ぼしたカルタゴ(Carthāgō)
古代フェニキア人の街カルタゴはピュルサの丘から始まった
。
カルタゴ(Carthāgō)の名はフェニキア語で新しい町、カルト・ハダシュト(Kart Hadasht)に由来しているらしい
。
ビュルサの丘(Acropole de Byrsa)からカルタゴのかつての港方面
フェニキアの都市時代には丘の周りに街が広がっていた。しかし、ローマが完全に街を破壊。
しばらく放置され、帝政ローマの街が新たに建設されたので、フェニキア時代をしのべる物はほぼ無い。
※ 「ポエニ戦争の戦争賠償金とカルタゴの滅亡」について、2010年4月「チュニジアン・ブルー 2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)」で書いています。
リンク チュニジアン・ブルー 2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)
現在ビュルサの丘(Acropole de Byrsa)にはカルタゴ国立博物館とサン・ルイ教会が建っている。
サン・ルイ(Saint-Louis)は、フランスの聖王と呼ばれるルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)の事。
1270年、チュニジア経由で十次軍として再度エルサレムを目指すが、チュニスでペストにかかり病没。
1881年、チュニジアはフランスの植民地となり
教会は ルイ9世に捧げられ1890年に
献堂。ルイ9世が来た時はイスラム圏。立地的に翻弄された国かもしれない。
下はかつてのポエニ港(Ports Puniques)からのビュルサの丘とサン・ルイ教会
引きで港を紹介
古代カルタゴの戦略的港湾、ポエニ港(Ports Puniques)
カルタゴ国立博物館で撮影したポエニ港(Ports Puniques)の想像図ポエニ戦争の終結がBC146年。
2200年以上前に存在していた港とは思えない合理的で洗練され、美しくさえある港湾図である。
海の民フェニキア人、さすがである。
共和制ローマの繁栄とラティフンディウム問題
地中海の制海権を握ると積極的な東方進出が始まる。マケドニア、シリア、ガリア、エジプトと征服し、地中海と周辺国をローマ属州として支配。ローマは「地中海世界」の覇者となる。
地中海世界からは多種多様な農作物がローマに集まり交易は非常に活発に行われローマ帝国は繁栄した
のである。
どこの戦闘シーンか解らないが・・。
ロンドン、ヴィクトリア&アルバート美術館のレリーフから。年代も不明。
が、気づけば次第に内政の悪化が進んでいた。Why?
理由の一つは単純に兵員の減少である。 カルタゴのハンニバルとの戦いでは人的損害は甚大で、ローマの兵員補充の為に兵役における財産の保有度合いを下げて対応
している。それにより、下層市民の兵員が増えたのである。つまり上級士族の兵員が減り、戦闘で略奪なり、一山あてたい下層市民が増えたという事だ。 彼らはほぼ職業軍人に近かったと言う。
また、別の問題で 自由民である中小農民が次々没落し、無産市民と化して行くケースも増えた。これらもまた徴兵対象の減少である。ローマ帝国のシステムでは、無産市民は兵員になれなかったからだ。
農民の没落問題は、ハンニバル戦による一時的な兵員不足よりも甚大な問題となる。それは国のシステム構造を変える事件に発展して行ったからだ。
農民の没落は農業システムの変容である。
その一因が 属州におけるラティフンディウム(latifundium)と言う奴隷労働に頼った金持市民による大土地経営者が増えた事
だ。
ローマが新たな領土を獲得した際、多くの農地が国有地としてローマから貸し出された。奴隷を多く持つ者ほど領地が広げられた訳で財力があった者ほどより富めたのである。
何より 奴隷を使うラティフンディウムによる経営はコストパフォーマンスが良い。賃金が低く押さえられるので全体に生産物の市場価格も抑えられる
。
結果、属州においてオリーブやブドウ、オレンジの果樹や小麦などの穀物、そして牧畜は特にラティフンディウムによる大農園化が進んだのである。
属州からの安価な穀物が輸入されると従来の中小農民は倒産して土地を手放し離農が進んだ
と言うわけだ。
※ イタリア本土では小麦さえも生産しなくなっていたのである。これはこれで食料供給が途絶えた時に食糧難が起きた。
離農した彼らは無産市民化し、も はや農村に自由民の農民はおらず、ほぼ農業奴隷による大農園が広がっていた
のである。
ラティフンディウムが生んだ新興貴族ノビレス (Nobiles)
古代ローマの歴史を顧みるとBC2世紀頃から地中海の島々に豪商の別荘が増えている。
まさに ラティフンディウムによる大農園化が進み、新らたに支配者階級にのし上がった彼らの成功の証しだろう。彼ら新興勢力がノビレス (Nobiles) である。
この新たな富豪達、新興勢力は、当然、政治的発言力を強め、王政以降から元老院に組していた伝統的貴族層、パトリキ(Patricii)の議席をも奪って行く。
共和制ローマの末期に現れた彼ら新興貴族は、共和制ローマの内政を変えた。
しかし、 一番の問題は自由民の農耕市民が離農した結果、ローマの為に戦う戦士も激減させた事
である。 ローマは農耕市民による戦士共同体
だったからだ。 単に貧富の格差を広げただけではすまない国の根幹にかかわる問題
であった。
政治家であるティベリウスとガイウスのグラックス兄弟はこれを何とかするべくラティフンディウムによる公有地の占有を制限しようと動いたが、元老院が大反対。彼ら自身も当事者でありノビレスの顔色をうかがったからである。
ティベリウスは暗殺。ガイウスは自殺に追い込まれて彼らの改革は失敗した。
農地改革については、後にガイウス・ユリウス・カエサルが「ユリウス農地法」を成立させている。
共和制ローマの末期に現れた2回にわたる三頭政治と言う特殊体制はこうした背景から生まれた元老院への不審から現れた
のである。
2回の三頭政治を経て共和制ローマは終焉。帝政に移行する
。
最初のローマ皇帝はユリウス・カエサルの縁戚で養子でもあったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタビアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus )(BC63年9月~BC14年8月)
元老院は彼にアウグストゥスの称号を贈り初代皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~AD14年)(在位:BC27年 ~AD14年)が誕生するに至る。
奴隷貿易
ローマが属州にした土地では多くの奴隷が生まれた。そのほとんどは戦争捕虜であったと思われる。
マケドニア王国の分割では厳しい戦後処理をしている。
エピルス攻略では住民15万人を奴隷として売り飛ばしているのである。反逆分子は大量殺戮され、人質にされた者はローマに連行。
デロス島はアテネに割譲されロードス島に対抗して自由港とすると島は奴隷貿易の巨大な市場となるのである。
デロス島は、前回紹介したサントリーニ島(Santorini)でも触れたが、キクラデス諸島の中でもギリシャの神々の生誕地として神域であった島である。以下に キクラデス諸島の
地図を紹介している。
リンク サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説
リンクアドレスを修正しました。
ナポリ考古学博物館所蔵 ポンペイ出土の大理石のオブジェ
稀少な黒とマーブルの大理石で造られた使用人がモチーフの花台?
顔だちからムーア人(Moors)の奴隷がモデルではないかと推察。黒大理石は稀少。現トルコのアナトリアが産地。BC133年ローマの属州となったペルガモン属州で産出された。ローマ帝国が東に領土広げた賜(たまもの)である。
ローマ帝国では奴隷は人ではなく財産として管理されていた
。
帝政ローマの時代では、全人口の15%~20%を奴隷が占めていた と言う
。
先に紹介したラティフンディウムの使用人を考えると農村部ではその比率はさらに上がり、大農場や鉱山では鎖(くさり)に繋がれムチを打たれ休む間もなく酷使されたらしい。
ただ、ギリシャの場合と異なり、 ローマにおいてはオーナーに恵まれ、運が良かった者は解放され市民権を得る事も可能であった。
※ 但し、それは正式な手続きを経た場合である。また、降伏外国人の奴隷出身者はいかなる理由でもローマ市民にはなれなかった。
同じ奴隷でも奴隷に至る経緯や最初のポジションでその後の運命は大きく変わったと思われる。
交易品の話しに入る前に、ローマ街道の話しを先に・・。
ローマ街道(Via Romana)
欧州内においては、 全ての道はローマに通ず(All roads lead to Rome)と言われるようローマを起点にローマが属州とした欧州各地の植民都市に道はつながっていた
。イタリア語版のVia Appiaから借りた地図に彩色書き込みました。
旧ローマを囲むアウレリアヌス城壁から放射状に伸びるローマ街道図。写真はアッピア街道沿いのカタコンベ含むモニュメントも示されている。
そもそもローマ街道は軍隊の派遣の為に造られ、整備され、拡張された道である。
その歴史は、BC312年に建設されたアッピア街道(Via Appia)に始まる。軍隊の迅速な移動を目的に造られたので、その道は石畳の鋪装道路であった
。
上の写真もイタリア語版ウィキメディアのVia Appiaから
アッピア街道はカンパニア州に向かって施設されているからか? 敷石はヴェスビオ(Vesuvio)火山でとれる玄武岩が使用されている
。(他の街道は違うかもしれない。)
アッピア街道の写真を捜して見ると、街道沿いの街路樹に糸杉が目立つ。糸杉と言うとゴッホの絵でお馴染みであるが、実は糸杉は棺桶に使用される木材なのである。
だからあちこちの街道沿いに固まって植えられたりしている。
初期に「二度と行きたくないカタコンベ」と言うのを書いた。このアッピア街道沿いに点在する墓地であるカタコンベに入った時の恐怖体験である。
リンク 二度と行きたくないカタコンベ
ローマ街道でも古来からあるこの街道はキリスト教徒との曰くも多い。この街道沿いは謀反人や処刑された者らが柱に立てて並べられたりと血で染まった街道なのである。
初期のローマ街道は、ローマからイタリア半島の主要都市を結ぶだけであったが、ローマの支配域が増え、その植民都市(属州)とローマをつなぐ道も施設されるようになる。
ガリアやブリタニアン、イベリア半島、アフリカ、ギリシャなど地中海全域に網の目のように敷設される
に至った。
下は紀元117年頃のローマ街道 ウィキメディアから
当然その道は 軍隊のみならず、巡礼者などの一般市民までも利用する事ができたので、物流などの経済面でも大活躍。植民都市(属州)で採れる作物などあらゆる物資がローマに集まった
のである。
が、共和制末期、 植民都市が広域に地中海を越えて拡大していくと、もはや陸路は最終手段。船舶による海洋、河川へと物流はシフトして行く。 特に大農園化が進んだ共和制末期にはそれこそ大型トレーラー並みの船も増えて行ったのである。
話しは戻って、ローマ街道であるが、
最近、デザイナーとデジタル地理学者が 「Roads to Rome」と言うヨーロッパの各地点からローマへと続く道をアルゴリズム化して示した白地図を出して話題
になっている。
それは 各都市からのローマへの最短ルートを計算して算出したもの
であるが、 本当に道はローマに集約されていたと言う
ものだ。
下はその地図であるが、かつてはローマ街道が諸都市を結んでいたのだから当然かもしれない
しかし、版図拡大に伴い,遠隔地での戦争が多くなると出兵期間が増えて農繁期に自分の土地に戻る事ができないと言う問題も生じてきたし、 前述したように植民地での新たな労働に奴隷が活用され始め正規のローマの農民自体が減少
していった。
つまり 農民による正規軍を編成できなくなったローマ帝国は傭兵への依存を高めて行く事になる
。
ローマ帝国の交易品
地中海では800隻以上の難破船が発見されていると言う。そしてそれらのほとんどは1500年以上前のローマ時代のものらしい。
下はケファロニア島の難破船から周りの木片が朽ちて積み荷のアンフォラ(amphora)だけが海底に沈んでいる。
アンフォラは、船底に積みこまれやすい形状に作られているのである。
アンフォラを積むローマの商船の推測絵図
ファイル「Roman Trade Ship Diagram.jpg」元絵作者Matthew Jose Fisher
ウィキメディアで公開されていたのを若干彩色しました。
重要なのは、荷を多く積む事が目的なので軍船と異なり漕ぎ手部がない事。帆船をメインとしている。
※ 軍船は早く進む為に漕ぎ手を多くしている。
ローマ時代の商船は 全長15m~37m。最大積載量は100t~150tの中型船舶が中心
。
が、 穀物輸送の商船
はかなりの大型船が使用されていたらしい。
イタリアのオスティアとエジプトのアレキサンドリア間では 全長55m幅14m。最大積載量1300tもの大型船
が就航していたらしいのだ。それは18世紀の東インド会社の船に匹敵する規模。
彼らが扱っていた 商品は食料、金属、材木、衣類、陶器、ガラス製品が中心で、中でも穀物、ワイン、オリーブ油が最も多く頻繁に取引されていた
。
これらの産地がシリア、エジプト、北アフリカ、スペイン、ガリアで、海路帝国各地に運ばれたと言う。これら農業における技術革新もめざましく、この時代にすでに水力を動力に利用した揚水機(ようすいき)や水車による挽き臼なども発明され活用されていたと言うのだから驚く。
また鉱業も次いで盛んで、 金、銀、銅、錫(すず)、鉛(なまり)などの資源は特にイベリア半島での採掘が富んでいた
らしい。
鉱山では、特に大量な奴隷を使った人海戦術と、水力による鉱物の破砕なども行われ技術力で生産スピードをあげている。
ローマ帝国の商品市場は地中海を制覇して交易の規模は拡大。もはや陸路では間に合わず、 船舶による海洋、河川へと交易路は拡大され、しかも一度に大量に輸送されて行った のである。おそらく商品に特化した商船があったものと思われる。
アンフォラ(amphora)
古代ギリシアやローマで、ワインやオリーブなどの主に液体の運搬貯蔵に使われた陶製のツボ型容器 である。古くはBC15世紀のシリア、レバノンで使用されていた記録があるようなので、おそらく最初はフェニキア人が考案した容器だった思われる。そしてそれは7世紀頃まで使われていたらしい。
ニース、シミエ考古学博物館から海底から引き上げられたアンフォラ
アンフォラは地中海のあちこちで作られているのでその仕様でどこ産か特定できるようだ。例えば沈没船のアンフォラから難破した船の時代や国籍が解ると言う。
下はポンペイ出土の焼き物屋? これから売られるはずであったアンフォラ。
かなり大きめなのでワインの入れ物かも
アンフォラのサイズは色々。中身によって使いがってがあると思われるが、 ローマ帝国ではワインのアンフォラはおよそ39リットルが標準とされ、アンフオラ単位が生まれたらしい。
下はチュニスのバルドー博物館のモザイク画からワイン売りの男からワインを購入している市民。容器は自前らしい。
※ ワイン売りではなくオリーブオイル売りかもしれない。男が手にしているのがもしかしたらオリーブの枝のようだから・・。
下は大英博物館のアンフォラ
少し高級感がある。アンフォラには褒賞用の特別なものがあるらしい。 アンフオラはトロフィーのように使われる事もあった
のだ。もちろん絵柄なり付いた高級仕様。
ギリシャ語、トロパイオン(tropaion)がトロフィーのルーツであるが、そもそもトロパイオンは勝利の記念モニュメント。
しばしば戦利品のカップが今のトロフィーになったとも聞くが、もしかしたらトロフィーのルーツはアンフォラだったりして。
オマケにアンフォラに入れたワインとオイルの産地からブドウ畑とオリーブ畑。いずれも古代ローマの属州だった所。
シチリア島のオリーブ畑から
下はボルドーのワイン畑からフランス南西部ボルドーは世界的に最も有名なワイン産地。
2000年以上前からブドウは生産されていたらしい。
が、前回紹介したサントリーニ島は、ミノア期にはすでにワインが作られていた。サントリーニ島では3500年以上前からワインをクレタ島に輸出していたと思われる。やはりアンフォラが使われたのか?
古代ローマ人の衣装
捜して見ると古代ローマの彫像は以外に無い。胸像は多いが・・。
古代ローマの神々はギリシャとかぶるので神話系は一見区別が付かない。当時の人々の衣装を着用した全身像。ナポリ考古学博物館でやっと見つけました。
少しだけ紹介します。
胴鎧(ロリカ・lorica)を付けた男
胴鎧(ロリカ・lorica)
この像の胴鎧(lorica)は革製にエンボス加工の装飾がされた筋肉系の鎧ロリカ・ムスクラ。
アウグストゥス(Augustus)帝の像もロリカを身に付けていたからこの当時の流行かもしれない。
金属や皮革を重ねてつなぎ胸や腹のカバーとした胴鎧(ロリカ・lorica)はオリエント系のプレート式とケルト系のチェーンメイル(鎖帷子・くさりかたびら)式に分けられると言う。
以前「西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)」でHauberk (ホーバーク)やMailメイルについて紹介していますが、メイルはローマ時代にあったのか? と疑問があります。メイルがポピュラーになるのは11世紀の十字軍時代です。
ローマの胴鎧(lorica)はもともとギリシャ模倣ですが、ギリシャの物は青銅製だったようです。いずれにせよ、金属では重すぎ。日常軽量で、おしゃれである革製は帝政時代の高官に人気があったようですね。
※ 「西洋の甲冑」実は書きかけです。微妙に人気が無かったので・・。
リンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)
リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)
リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)
ところで、先に触れた兵士不足に農民の離農問題をあげたが、ラティフンディウムの他にも理由はある。
ローマ帝国が広がって行くと「すぐに家に帰れない問題」が起きた。皆、遠い異国への辛い遠征を嫌がり兵役志願者が減った
のである。特に資産家ほど?
そこで資 産による等級付けが廃止
されたのである。しかも 兵士になれば市民権が得られる? 門戸はローマ市民以外にも広げられ6年任期も廃止。サラリーも上がり、装備の一律支給、退職金制度等、至れり尽くせり。
なかば 職業軍人に近いローマ兵の誕生
である。
これは共和制時代の軍人政治家、ガイウス・マリウス (Gaius Marius)(BC157年~BC86年)による軍政改革であるが帝政になってもローマの軍事制度として継承されたそうだ。
黒のトーガ(toga)をまとった女性
黒大理石で造られた女性の彫像は、ローマ帝国時代の喪服を着た女性であった。
古代ローマ人が一般に着用した巻衣形式の外衣がトーガ(toga)。
羊毛で織られているので色は淡いベージュが一般的。
階級や役職、また冠婚葬祭でカラーのバリエーションがあった
らしい。
喪服用には黒の他、茶もあったらしいが染めた訳ではなく、黒い羊毛で織られていたらしい。
「ローマ帝国内でのキリスト教の伝播」について加える予定でしたが、単独で次回に回す事にしました。
「アジアと欧州を結ぶ交易路」まだまだつづく。
Back number
リンク 静物画にみるメッセージ
リンク 焼物史 土器から青磁まで
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク
ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)
リンク
クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河… 2023年04月24日
マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界… 2023年03月21日
ベルリンの壁(Berlin wall)とゴルバチョフ 2022年11月08日