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Break Time(一休み)まだ大阪に滞在中です。昨日は京都の上賀茂神社まで出かけてきました。今回は先週の日曜日(2月25日)に出かけた北野天満宮の骨董市を紹介するべく、写真をチョイスしていたのですが、毎日動き回っているので夜は疲れて知らず知らずにパソコン前にうつぶして寝る事多々。全然作業が進みませんでした以前はその日にアップできたのに、体力の衰えが・・。北野天満宮の骨董市(梅花祭り)古物(こぶつ)と古物商許可証と骨董品(こっとうひん)付喪神(つくもがみ)2015年02月25日、「北野天満宮の梅花祭り」についてはすでに紹介済み。今回、自分は3回目の梅花祭りだったのですが、年々人は増えてものすごい事になってました。特に外国の方が目立った気がします。今年は特に骨董市を目当てに出かけましたから、梅園も入っていないし、お茶会にも参加していません。単に骨董市を観て歩き、写真を撮ってきただけです 何しろ拝むのも行列。梅園に入るのも行列。野点大茶湯も行列。特に最近流行している御朱印の行列はハンパ無かったです北野天満宮 一の鳥居前から北野天満宮では毎月25日が天神市(天神さん)の日として市が立つのですが、2月25日は特に菅原道真公の命日であり、ちょうど見頃になる梅園の公開と梅花祭野点大茶湯(ばいかさいのだておおちゃのゆ)もあり大きな祭りの一つです。※ 初天神の1月25日と終い(しまい)天神の12月25日も凄い賑わいだそうです。北野天満宮の参道には飲食含めて縁日が出ていて大混雑ですが、お目当ては、境内の東に北上する御前通りに集まるフリーマーケット? です。飲食など縁日が参道にギッシリ建つのはもとより、その日は境内の駐車場の方まで所狭しと300軒くらいの市が林立。店の出し方も素人のフリマスタイルから、屋台の形態までいろいろありです。境内の中と外は別かもしれませんが、出店は年間契約らしいです。その会費が結構高いらしいので、一般の参加者は少ないのかもしれません。骨董が趣味のマニアックなコレクションをしている方々にはとっておきの場所です。天神市なら思わぬ掘り出し物を見つける事ができるかもしれません。とにかく、ここは品物の幅が広く、そこらへんのフリーマーケットとは置いている品物が違います。もしかしたら京都と言う土地がらもあるのかな?家のいらない物の中には先祖からの素敵な不要品が出てくるのかも知れません とは言え、実は骨董品と呼べるものは少なく、どちらかと言えば骨董と言うより全般に中古品マーケットとなります。そう言う意味では値段は手頃な物からあります。和菓子の型など京都ならではかも・・。さて、この中古品を業界用語で、古物(こぶつ)と言います。※ 古物(こぶつ)には年代物の骨董品も含まれます。古物(こぶつ)と古物商許可証と骨董品(こっとうひん)西洋骨董の世界では、骨董品と呼べるのは、100年を経過した物が対象になります。日本では、単に中古品は全て古物(こぶつ)と分類されます。それは国の便宜上の方針があるからです。日本では、1度販売された物は(新品でも)全て中古品として考えられ、それらを売買する時には「古物商」の許可証が無ければ販売する事は不可能と言う法律があります。※ 許可証の発行は、都道府県公安委員会が行い、その窓口は最寄りの警察署となっています。ですから、本来はバザーや青空マーケットなど、今回のような骨董市は、届け出の無い一般人の参加はできないのが原則。しかし、家庭の品のリサイクルがメインの一般人のバザーに関しては「商売外の行為」として多めに見ている・・と言うのが実情だと思います。※ 数年前まで「古物商許可証」を持っていたので警察で質問した時に言われた気が・・。加えて言えば、許可制度の理由の一つは、盗難品売買を防ぐ事にあります。ですから、本来どこから仕入れて、誰に販売したかをリストに残す義務があるのです。※ 売買の品のジャンルも申請して、ジャンルにあった分野の許可証をそれぞれ取らなければならない。そんなわけで日本の古物に関しての定義は案外広いのですが、ただの中古品と高価な骨董品は全て同じ扱いになっています。昭和30年代くらいの型押しガラス食器でも今の若者には新鮮?付喪神(つくもがみ)ところで、法律はさておいて、100年と言う単位で観ると、日本でも、「100年を経過した物には魂が宿る。」と考えられ普通の中古とは一線を画した物になると言う考えがあります。それがいわゆる付喪神(つくもがみ)が付いた物です。付喪神(つくもがみ)とは、100年を経過した物に付いた物の精霊と言う所が近いかもしれません。※ 百に一足り無い事から九十九(つくも)神とも・・。つまり、それなりに「一目置かれた物に昇格した証」、と言う境が同じく100年と言う事になるので、日本でも100年を境に骨董と定義しても良いと思います。最も、日本の場合、魂が宿って、付喪神(つくもがみ)になると、人を惑わす・・と言う考えもあり、古道具は毎年新年に捨てられた時代もあったようです。本当にガレージを利用したフリマもありました。茶道具類が中心でした。鉄瓶は外国人にも人気のアイテム。専門の所もありました。御前通りから上七軒に向かう辻(御辻通り)にもマーケットが・・。上七軒側からの北野天満宮 東門境内側の方外国の方に人気の店ってあるようですね。亜麻布(あまぬの)・・リネン(linen)外国の男性が見ていました。着物だからなのか? リネンだからなのか? 色が素敵だったから?確かに中古着物の出店は多いけど、男性用はあまり無いかもしれない。香炉素人は欲しい物と値段が折り合えば買えば良いけど、「良いな」・・と思う物は結構お高かったです。アンティックだけでなく、手作り品の出品もあります。笄(こうがい)をバラしてピアス仕立てにしたものなど・・。北野天満宮の骨董市 おわります。
2018年03月02日
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Break Time(一休み)2015大阪 天神祭 スナップ写真神事の最中に彼らの写真を撮るのはほとんど不可能でした。(近づけないので・・)。神事の前にたまたま見かけ、お願いして撮影したスナップ写真他、今年の祭りの写真の紹介です稚児役の妹の手をひく姉妹渡御列に加わるスタンバイ中の御鳳輦(ごほうれん)をひく青年達。高校生かな? 平安時代の天皇行幸の車に付く随身役のようです。太鼓中 催太鼓(もよおしだいこ)に乗り込む願人(がんじ)のお兄さん背中を見せてもらいました。腰を痛めないようにバチのような木が4本差し込まれています。」願人(がんじ)さん達が宮まで隊列作ってました。これから宮入してチェンジするのでしょう。頭に被っている独特のヒラヒラは「投げ頭巾(ずきん)」と言うものだそうです。遠くから撮ったので綺麗に写りませんでしたが、3人対3人で太鼓の打ち合いですが、載っている輿を前後左右に揺らされるようで結構危険な太鼓打ちです。だから腰を痛めるのでしょう。来年はこの辺きっちり取材してきます お子ちゃまの催太鼓(もよおしだいこ)は滑車の付いた台の上。いつか本物に乗るのでしょうか?天五子供太鼓の一団の宮入でした。天三中若の神輿御札やお守りを売る巫女さん実は大阪天満宮のお守りは京都よりちょっと高い。境内の看板に必ずお礼参りにも来るよう書いてあります 天神講1724年(享保9年)に組織されたと言う天神講。明治23年に復活。本家の獅子舞。来年は撮るぞ500円でお祓いをしてくれます天神天満花娘まだまだ行列は始まらないのに炎天下提灯持たされてちょっと可愛そうな少年達です。やはり前線で働かされているのは若い子達です。どこか学校のクラブにでもオファーが行っているのかな?京都からお馬さんも行列に参加。おとなしい馬です。菅原道真公と縁の深い御牛もいます。カメラ目線してくれました 地車(だんじり)の上で鐘を打ちリズムを撮る人地車(だんじり)前で踊り続ける少年。独特の指は龍の爪? 龍が天に昇ぼる様を表現しているようです。天満宮門前通りで待機していた鳳神輿(おおとりみこし)を守る鳳講の有志祭りのバックヤードはやはり年期のいったおじさま達です。天四北(天神橋筋四丁目北)の神輿の待機所の前を通過する天五(天神橋筋五丁目若中)の神輿天三(天神橋筋三丁目青年)の神輿はけっこう荒れている。四方をロープで引っ張られて軌道をはずれないようにされている。天満宮の正規の神輿は2基であるが、天神橋筋商店街丁目の各神輿や子供の神輿、それに最近では外人神輿もあるらしく、宮に行かなくてもあちらこちらで賑やかなのである。それにしても規模が大きすぎてとても一人では追えない祭りです。そうなると部分部分ターゲットを絞ってテーマを決めて撮影しないと駄目だと言う事が解りました。できれば祭りの概要からそれぞれの講社の役割など祭りの中枢の祭事をとりあげたかったけど・・。毎年少しずつ撮って行くしかないかな・・
2015年08月12日
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祭りには昔から経済効果があった。何かをしようとすれば、そこにかならず対価が生じるからだ。むろん祭りの当事者達は無報酬のボランティアだろうが、祭りの規模が大きくなれば、それに伴う副産物が生まれる。人が多く来れば人が集まる事を狙っての商売が生じる。最近はそんな観覧者を整理する警備も必要になる。天神祭りで行われる船渡御(ふなとぎょ)の奉拝船団は、まさに神事をより近くで見る為に出現した商売に他ならないわけだが、昨今の乗船料の高さには驚いた大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)2015大阪天満宮 天神祭鉾流神事(ほこながししんじ)御鳳輦(ごほうれん)と鳳神輿(おおとりみこし)と玉神輿(たまみこし)そもそも天神祭りとは、天満宮に祀られている神様に一年に1度宮を出て氏地を見ていただく・・と言う渡御(とぎょ)祭りである。普通の渡御祭と異なるのは、天神祭りには陸渡御の他に、川に繰り出す船渡御の合わせ技にある。御祭神は「菅原道真 配 野見宿禰命、手力雄命、猿田彦命、蛭子命」となっているが、天満宮としては大将軍社の土地を借りて菅公を祭った事をその発祥としているのでメインは菅原道真公としている。神事の行われる大川と天神橋クレーンの所が神輿の乗船場所。なぜならクレーンでもろもろ船に乗せるからだ。夜になるとここは200を越える船団で一杯になる。天神橋の中洲にある中之島公園はどんどこ船など船渡御関係者の船が出航する場所どんどこ船講木場の若衆で組織された「木場若中」のどんどこ船(子供バージョンは「木場小若」)は、船渡御の列外船として祭りの時、堂島川、大川、土佐堀川、道頓堀川を周航して天神祭りを盛り上げるのに一役買っている。手こぎ船なのは、そのルーツが北前船に乗っていた小回りのきく伝馬舟(てんまふね)を利用して神事を見物した事に由来するようだ。近世の大阪は淀川の河口に発達した町。江戸時代にはすでに大阪湾の埋め立てが始まっていて神事が始まった頃とはかなり地形条件が変わっている。菅原道真が立ち寄った頃の大阪は川の河口に大小の島が点在する場所だった。(お初天神もかつては島)八十島(やそじま)祭りがルーツ?かつて、難波に宮殿があり宮殿の北西に建てられた大将軍社であるが、平安まで難波津では国土の発展、皇室の安泰を祈った儀式が行われていたそうだ。(大嘗祭(だいじょうさい)後に使者が送られ、海浜で生島神 (いくしまのかみ) 、足島神 (たるしまのかみ) 、住吉神 (すみのえのかみ) などを祀る。)それが島々の平安を祈願する神事のルーツになったのではないか? と言う説があるが、実際祭りの神事は時代の要請で少しずつ意味や様相が変えられているようだ。2015大阪天満宮 天神祭りの陸渡御と船渡御のコース(左が川下)A天満宮、B船渡御乗船場 C天神橋 D鉾流神事(ほこながししんじ)の乗船場 E源八橋オレンジ・・陸渡御コース ブルー・・船渡御コース鉾流神事(ほこながししんじ)氏地を回る渡御(とぎょ)に際して御休憩所である御旅所(おたびしょ)を毎年占いで決めた。それが鉾流神事(ほこながししんじ)のルーツである。天満宮では川に神鉾(かみほこ)を流し、それが漂着した場を今年の斎場と定めた。つまり御旅所(おたびしょ)と言う斎場は毎年変わっていたのである。小島の洲の多かった当時はそのような卜占(ぼくせん)で場を決めて問題無かったが、江戸期後半になるとどんどん埋め立て地が増え漂着地を斎場にできない事態となり昭和5年まで途絶えていたらしい。近年では御旅所(おたびしょ)は固定位置に決められ、そもそも神鉾を流す意味も無いのだが・・。穢れ(けがれ)を払い氏地の安泰を願うと言う、当初の意図には若干だがあっている。鉾流神事(ほこながししんじ)を執り行う乗船場も固定化された。現在は大川から分岐した堂島川に入った鉾流し橋のたもとで行われている。かつて若松浜と呼ばれた所で、そこから将軍社の森(途中「天神の森」に名称変更?)が広がっていた。悲しいかな、今はビルが乱立した上に高速の橋桁の下になっている。※ 鳥居の真向こうが現在工事中で更地になっているが天満警察署の地所である。近年、大川や堂島川、中之島の川沿いは護岸工事が行われ、神事も行われやすくなったと同時にウォーターフロントとして、公園やレストラン等を誘致してオシャレ感満載で売り出し中の場所である。写真が撮れなかったので天神祭りのパンフから借りてきました。神鉾の神事は神童(しんどう)が行う事になっているようだ。鉾流しの場の前には乾物商が奉納した鳥居がたてられている。乾物商の歴史は古い。大阪名物となった昆布は北前船で運ばれてきた乾物の一つである。神事の場所からの神鉾橋と大阪府立中之島図書館近年の問題は土地の地盤沈下により橋桁が下がり船の航行ができなくなった事だ。通常川下に流れる神鉾により御旅所は決まるのだから、お迎え船や御奉拝の船団は本来川下に向かわなければならない。現在最大のネックになっているのが神鉾橋から最も川下にある水晶橋の低さにある。水晶橋は昭和4年建造。本来は堂島川可動堰(かどうぜき)と言うらしい。昭和24年を最後に神輿の通過ができなくなったようだ。それでも水上パレードをする為の策で現在の船渡御(ふなとぎょ)は流れに逆らって上流に航行しているのである。御鳳輦(ごほうれん)と鳳神輿(おおとりみこし)と玉神輿(たまみこし)神様の乗り物が神輿である。御鳳輦(ごほうれん)は本来は天皇の儀式の時の乗り物である。当初菅公の神霊は、鳳神輿(おおとりみこし)に乗って行脚していたのだが、明治の廃仏毀釈の折りに駄目だしされた? それ以降鳳神輿(おおとりみこし)には菅原家の祖先とされる野見宿禰命(のみすくねのみこと)が祀られ乗られるようになったと言う。玉神輿(たまみこし)は手力雄命(たぢからおうのみこと)の御霊が乗られる神輿である。菅原道真の神霊が乗り込む御鳳輦(ごほうれん)神輿(おおとりみこし) 玉神輿(たまみこし)鳳神輿は菅南連合(菅南八町会)、玉神輿は大阪市中央卸売市場本場市場協会の講だそうだ。本殿で御神霊が御鳳輦や神輿に移されたらいよいよ陸渡御が開始。渡御列は、催太鼓を先頭に猿田彦、神鉾、地車と続く。総勢3000人の大行列が約3kmを行進するパレードとなる。壮大な天神祭りの続きは来年の天神祭りにします (祭り参加者の写真だけ後で載せる予定)Back numberリンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 2015大阪 天神祭 スナップ写真リンク 2015大阪 天神祭 天四獅子傘踊り巡行
2015年08月09日
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東京に戻りました。大阪では毎日よく動いていたので夜はヘトヘト。なかなか取りかかれませんでしたもう祭りの余韻も冷めてしまいましたが、祭り後の大川にも行って来たので天満宮と神事についてまとめてみました。大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)北辰北斗信仰(ほくしんほくとしんこう)天神天満花娘天神信仰の発端(御霊信仰)大阪天満宮 天神祭を盛り上げる講社組織北辰北斗信仰(ほくしんほくとしんこう)天神(てんじん)ではなく、本来は天神(あまつかみ)である。皇室の信奉する天の神とは、太一神。その実は北極星である。北極神(北辰の神)は天の中心に位置する。北極星を中心に数多(あまた)の星が回る事から唯一、天を宇宙を司る神、統ばる(すばる)神としてとその信仰は始まった。因みに、統る(すばる)・・が、昴(すばる)の語源になっている。昴(すばる)自体は現在はプレアデス星団を指しているが・・。北極星は神格化され太一神と呼ばれ、君主は地上における代理人と位置づけられたそうだ。(道教の思想であるが漢代には北辰北斗信仰として定着。日本へは聖徳太子の命でもたらされたらしい。)天文博士・暦博士の存在天にある星は地上の命運も司ると考えられ、星の観測をする天文博士や暦博士が陰陽師(おんみょうじ)である。つまり北辰北斗信仰は陰陽道の領域なのだ。彼らは星から帝都が置かれるべき土地を定め、天地の理にかなった日時を選び、祭祀を執り行い、また天と地に現れる災厄や瑞兆を占った。平安の時代は、災厄は全て祟りと考えられていた事からも祭祀は重要な政(まつりごと)であり、彼らの地位は高く、朝廷直轄の官僚であったのだ。※ 陰陽道にさいては「陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)」で書いています。リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)今は摂社となっている大将軍社天満宮の裏門から入ってすぐ右にある。昔は一帯が将軍社の森であったそうだ。第36代天皇、孝徳天皇(596年~654年)の宮殿の皇域鎮護の神として置かれた大将軍社が大阪天満宮の祖社である。※ 北辰北斗信仰で大将軍社は太白星(金星)を指していた。それがなぜ菅原道真公が祀られるようになったか? と言えば御霊信仰にあるのは言うまでもない。平安の時代よりいつのまにか大将軍社と立場が逆転して人々からは忘れられた。しかし、天神祭りの神事のルーツは今も北辰北斗信仰にある。祭りの内容と菅原道真公が繋がらないな・・と思っていたのだが、理由はそこにあった。宵宮祭(よみやさい)の日の大阪天満宮 表大門奉納された茅輪(ちのわ)用近江葦(よし)葦には川の水を浄化する力があるとされ、葦の輪をくぐる事で汚れを浄化。再生の力を授かる・・と言う意味があるらしい。本殿(写真は祭りの日のものではありません)宵宮祭(よみやさい)の日の本殿今年の天神天満花娘のお通りです。天神天満花娘2003年から天神橋筋商店街の公募で始まった花娘は定員10名の狭き門。巫女に準じる仕事で天神祭りに花を添えると共に1年間、天満宮や地元商店街に関わるイベントにも参加するらしい。手にしている紅白梅の造花に札がついて1本1000円で販売。破魔矢のようなものか? 天神信仰の発端(御霊信仰)醍醐天皇により左遷され、左遷地福岡で憤死したとする菅原道真公の怨霊。菅公が亡くなってから、たまたま雷を伴う天変地異が増えたらしい。それらが菅公の祟りと信じた宮廷人はずっと怨霊に悩まされ続け、祟りの話は京の町中に広まったようだ。怨霊のせい? 亡くなった醍醐天皇。その皇子である村上天皇(926年~967年)の治世942年。菅公の「我を祀れ」と言う神託を受けた巫女らが北野に神社を創建。それが天神信仰の総本社となる北野天満宮であった。もともと平安随一の博識と言われた菅公は中下層の貴族や上流の庶民に慕われていたらしい。以降、菅公に縁のある所が自発的に菅公を祀り始めた。神号は「天満大自在天神」である。大阪天満宮もその一つで、949年に菅公 縁の大将軍社の森で起きた奇譚(きたん)を重んじて宮を造り、逆に将軍社がその下に置かれる事となった。※菅公の怨霊と御霊信仰については「北野天満宮 梅花祭り」。平野将門の御霊については神田明神で。また、醍醐天皇と菅原道真公の因縁については醍醐寺の所で紹介しています。リンク 北野天満宮 梅花祭りリンク 神田明神 (薪能)と御霊信仰リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)菅公と将軍社の縁とは?京都から太宰府に左遷される時に菅公は宇治川を船で下り、旧淀川経由で大阪に到着したと推定。当時から水陸交通で栄えた大阪から九州行きの船に乗り替えるべく太宰府への船待ちをしていた時に将軍社を参詣している。それが大阪天満宮創始の遠因らしい。大阪での船待ちはよほど時間があったのか? 実は菅公が立ち寄ったのは将軍社だけではない。現在の大阪の北区、曾根崎警察署の近くにある露天神社(つゆのてんじんじゃ)にも立ち寄っていて、こちらの御祭神にもなっている。その時に菅公が詠んだ詩が「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」 恨み節である。※ 「大阪 お初天神 美人絵馬」で書いています。祭りの最中、表門の脇でお囃子と踊りを続ける講社 ↓ 大阪天満宮 天神祭を盛り上げる講社組織社伝では949年(天暦3年)に菅原道真公が祀られ、祭りの鉾流し神事は951年頃から始まったらしい。途中途絶えた時もあったそうだが、1064年前から続く神事が支えられてきたのは大阪商人のシンジケート(共同組合)による所が大きかったようだ。祭りの最盛期、江戸時代には氏地にあった天満の青物市場、堂島の米市場、雑喉場(ざこば)の魚市場の組合他、乾物商、大工、花火師、などいろいろな業種の組合が役割分担して参加した。これが講社(こうしゃ)と呼ばれる組織である。地車講(だんじりこう)地車講は天満青果市場の仲買人が組織している講である。地車(だんじり)は、本来は陸渡御(りくとぎょ)で、神様を迎える為の祭礼行列、練り物(ねりもの)の一団を成す、芸能音楽の一つとして現れたようだ。1780年には71輌もの地車が宮入した記録があり大変な賑わいを見せたそうだが、残念な事に1837年(天保8年)大塩平八郎の乱でほとんどが焼失。現在残ったのがこの輌のみ。三ツ屋根スタイルのこの地車は1852年嘉永(かえい)5年製作。1896年(明治29年)以来、境内で地車囃子を奉納し続けているそうだ。終日奉納され続けるお囃子と踊りは見ていて結構過酷である。地車が曳行されなくなった事で踊りやリズムが洗練されたと言う。次回船渡御を紹介してからミュンヘンに戻ります。リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)
2015年08月02日
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天神祭りの為に来た訳ではありませんが、タイミングよく大阪にいました。そんな訳でブログは再び日本に戻ってしまいました <(;_ _)>ごめんなさい23日に到着したのでギャル神輿は撮れませんでしたが・・。24日、天神さんに行く途中にたまたま天四獅子の集合記念写真の撮影現場に遭遇。カッコイイ姿のお兄さんにナイスな女子。それに可愛いチビッコたちもいて思わずカメラを向けました。それから天神さんで再び彼らと遭遇。彼らの宮入、そして天四獅子の舞いと傘踊りをものすごいベストポジションで撮影。本当にたまたまでしたが、宮を出るまでしっかり撮りました。あまりに撮り過ぎて写真を選択するのが大変でした (;^_^A2015大阪 天神祭 天四獅子傘踊り巡行一昨日の大雨が嘘のように晴れて今日は最高の祭り日。JR天満駅のすぐ脇。天四獅子の一団の記念写真。裏手に見える塔は関西テレビです。天四は天神橋4丁目の事です。天神さんでお参りをしていたら彼らがやってきました。お囃子と踊りをひっさげで・・。詳しい事は全く知りませんが、天四獅子とは、獅子舞と傘踊りで天神祭りを盛り上げる団体のようです。衣装はカワイイし、元気に飛び跳ねているので明るくて元気が出てきます。よさこいのテンポに近い気がします。お囃子は太鼓、笛、三味線です。三味線は慶長年間(1596~1614年)に誕生したそうですから、当初は琵琶だったかもしれませんね。獅子舞どうしの競争のようです。重い獅子頭を持って全力疾走していいるので、若いと言えどしんどそうです。競争の後には、獅子舞を披露。重い獅子頭を掲げる前の人は大変でしょうが、後ろで頭を下げてしゃがんでいる人も苦労です。若く無いとできないなーと思います 境内前から撮影していたので写真は望遠です。良く写せた方です。至近距離ならもっといろんな角度から撮影できたでしょうが、残念ながら非常に遠く肉眼ではここまで見えません。宮からの退出です。彼らはまた踊りながら天四商店街まで帰るのです。因み天神橋筋商店街は日本一長いアーケードを持つ商店街です。ここは、1丁目。天四まで普通に歩いて15分以上はかかるから踊りながらならもっとかかる。いつもは商店街を巡行している時に見かける程度でしたが、偶然にも宮で見る事ができてもうけた気分です。祭りは参加するに限りますが、参加した彼らは一生の宝となる経験をした事でしょう。こう言う祭りのある所って羨ましいですね。お祭りは25日まで。天神祭りは日本三大祭りと言われ歴史があり、規模も大きな祭りです。それだけに桁外れなイベントが盛りだくさんですが、宮の催事の方は関係者でないとなかなか撮影できそうにありません。神輿の写真は後で載せる予定ですが、宮の神輿(「鳳神輿」「玉神輿」)や今日の船渡御(ふなとぎょ)と奉納花火は無理かも・・。祭りはつづくリンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 2015大阪 天神祭 スナップ写真
2015年07月24日
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Break Time(一休み)現在大阪に滞在中 用事も済んだので昨日から京都の観光に出かけています。そんな訳で今回ちょっとザルツブルグを中断して梅花祭りを紹介します待っている方、申し訳ないです (*_ _)人ゴメンナサイ北野天満宮 梅花祭り北野天満宮と御霊信仰菅原道真(すがわらみちざね)菅原道真公の祟り?梅苑北野天満宮参道梅花祭りの時はものすごい数の市が参道や周辺道路に立ちます。本殿 (参詣の行列は真ん中で拝みたい人。)現在、京都大学の試験中だそうで、街には受験生とその親たちが集まってきているそうです。何しろ菅原道真公は学問の神様ですから、学業成就と受験の合格祈願者がものすごいです 北野天満宮と御霊信仰菅原道真公(すがわらのみちざねこう)を祀る北野天満宮は御霊信仰(ごりょうしんこう)の元に造営された神社です。(947年)御霊信仰(ごりょうしんこう)については以前、2014年5月「神田明神 (薪能)と御霊信仰」の中で取り上げていますが、祟る怨霊(おんりょう)を鎮めて御霊(ごりょう)とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を願う信仰の事です。リンク 神田明神 (薪能)と御霊信仰簡単に言えば、平安時代に菅原道真の怨霊と思われる災いが多発した為に氏を讃え、祀る事で怒りを静めてもらおう・・と、神社が建立されたわけです。菅公の命日(2月25日)に毎年開かれる梅の花の開花祭り。梅の花は、菅原道真公の最も愛した花だそうで、この北野天満宮の印にもなっています。菅公と梅と牛はとても縁がある。菅原道真(すがわらみちざね)(承和12年6月25日~ 延喜3年2月25日)(845年8月1日~903年3月26日)平安時代(794年~1185年)中期(宇多天皇、醍醐天皇から重用)の政治家であり、漢詩人であり、学者であった彼はマックス、右大臣、右大将まで上り詰めている。ところが、菅公の勧めた朝廷への権力集中に反発する所(藤原時平)の謀略により道真は位階を落とされ大宰府へ左遷されたのである。(昌泰4年1月25日(901年2月16日)任)一応肩書きは「大宰帥の権官(ごんかん)」。しかし実態は中央で失脚した高官が飛ばされるポストなのだそうだ。そしてそこで菅公は憤死したと伝えられる。(延喜3年2月25日(903年3月26日)薨) 59歳。※ 薨(こう)・・・元皇族や三位以上の人が亡くなった時に使う言葉らしい。菅原道真公の祟り(たたり)?菅原道真公が亡くなった直後がら京の宮中で災いが多発。それを関係者は彼の怨念のせいだと考えたらしい。(40年以上も?)最初、彼を左遷に追い込んだ藤原時平の周りに早い死が訪れる。藤原時平も若干39歳で病死。 (延喜9年(909年)また醍醐天皇(だいごてんのう)の方も皇子が夭折したり・・と続き、恐怖で菅公の位階を右大臣職に戻したりしている。(923年)しかし延長8年(930年)、清涼殿に落雷が落ち高官達が焼け死ぬ?と言う一大事件が発生。醍醐天皇はこの3日後にショック? で亡くなっている。(45歳)天変地異はすべて御霊の所業とされていた時代。鎮魂の為の祭祀である御霊会(ごりょうえ)はそれ以前から行われていたようだ。もともと当時の平均寿命は短い。幼児の死亡率も高かった時代であり諸々、病気の治療法も解からなかった上に病は気から・・と言う事もあったであろう。因みに祇園祭(祇園御霊会)も、祟り神を慰撫し鎮魂する祭りだそうだ。個人的見解であるが寿命の短さは、平安時代から始まる貴族の化粧にもあったのではないかと思う。宮中では身分の高い者はそれを象徴するように女性も男性も顔に白粉を塗った。ところがその成分は良質なものほど鉛や水銀など毒性の金属からできていた。下級の者は穀粉(米粉など)で代用。鉛を原料とする鉛白(波布邇・ハフニ)水銀を原料とする伊勢白粉眉毛を全部抜いて白粉を塗る。それも女の子であれば10歳を越えた頃から・・。彼らの早死にの要因に鉛や水銀中毒が多分にあったのではないかと推察する。話はそれたが、菅公が左遷されて以降の宮中では、災いや怪異と言えば必ずと言っていいほど菅公の怨霊が疑われたのかもしれない。(少なくとも醍醐天皇の代は)天暦元年(947年)、村上天皇の時に近江国比良宮の祀官神良種や多治比文子、朝日寺の僧最珍らが相談して菅原道真公の神託があった北野の右近馬場に神殿を創建(北野天満宮)して神霊を祀ったのだそうだ。(何と菅公が亡くなってから44年後の事。)梅苑境内と境内横の梅林に合わせて50種1500本。2月上旬から3月下旬までが梅の見頃として梅苑が開催されていますが今年はまだ3分咲き?大人600円。お菓子とお茶付き梅の木にメジロが数羽。何てことでしょう。花芽が食われちゃってます梅苑に入るチケット600円には半券が付いていて、梅苑の中のお茶所で梅昆布茶とお菓子がいただける最後にちょっと望遠で今一ですが野点の写真を載せました。北野天満宮の東に位置する由緒ある茶屋街「上七軒」から芸妓さんと舞妓さんが来て野点茶会をしてくれるのです。野点拝服料1500円。撤饌(てっせん)と宝物館入場券(300円)付き
2015年02月25日
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今日は楽天の受信が悪くて3回もすっとびました同じ事を何度も入力する事ほど虚しい事はない・・・。ところで前回のレジデンツ広場の意味ですが、加筆しました。レジデンツ広場(Residenzpiatz)の意味はレジデンツの前だから・・で、レジデンツは歴代の大司教が暮らしてきた宮殿のようでした。オーストリア共和国(Republic of Austria)ザルツブルク(Salzburg)レジデンツ広場(Residenzpiatz)の待降節とクリスマス市今年の大聖堂周りの広場で行われるクリスマス市の見取り図です。左上が大聖堂で左が内陣方向上がドーム広場下がレジデンツ広場。レジデンツ広場レジデンツ寄り。先がモーツァルト広場でレジデンツ広場の噴水近辺。前回馬車がいた場所です。このあたりは、フード・コートとバーが多いようです。ところで、11月26日を過ぎるとクリスマス市が突然建ち始めるように思えますが、確かにそれには理由があります。アドヴエント(Adventus)待降節の期間に入るからなのです。クリスチャンではない日本人には、そもそもクリスマスがイエス・キリストの誕生を祝う祭りであると言う事さえよく知らない人が多いかもしれません。クリスチャンの国の人達の祝い日は25日だけでなく、そこに至る日々も祝祭なのです。アドヴエント(Adventus)待降節クリスマスの日から逆算して4つ前の日曜日から始まる約1ヶ月の期間を言うようです。語源はラテン語のアドヴエントス(asventus)、「到来」だそうです。文字通りそれは、イエス・キリストの地上への到来を意味しています。「我らの救い主、イエス・キリストがこの世に降誕する記念すべきクリスマスを迎えるに当たって、皆、心して祈って待ちましょう・・・。」と言うのが待降節なのです。その為に家でする事は、もみの木(常緑樹でもok)でリースorツリーを作り、4本のローソクを飾り備えます。最初の日曜日に1本のローソクをともし・・次は2本・・・3本と4本全てのローソクが点灯したらクリスマスは間近と言う慣習があるのだそうです。リースを作るもみの木の枝ももちろん売られています。リースは玄関に掛ける・・と言うアメリカ式? に、なじんでいましたが、本来の使い方はこういう事だったのですね。リースやロウソク屋さん。出来合いの品もたくさん売っています。だから待降節の期間に入る頃にクリスマスの飾り(オーナメント)やローソク、贈答品などが売られる市が建つようです。ちょうど日本でお正月飾りの門松や、しめ縄などが売られるのに似ていると思います。もちろん娯楽を兼ねてみんなが繰り出すのでクリスマス市は、飲食店も多いのですが・・・。基本飾りの店が主なようです。このあたりは手作りのオーナメント屋さんが多いようです。でも、毎年オーナメントを替えるのでしょうか? 使い回さないのかな?ところでクリスマスの日(25日)にプレゼントをもらうのはアメリカ移民のオランダ人がアメリカに持ち込んだ風習で、そもそもは、12月6日の聖ニコラウスの日が正解だったようです。聖ニコラスの話は、次回につづく
2009年12月17日
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クリスマスが直前に迫った時期のハワイは本来とてもにぎやかな季節のはずなのですが、今年はとっても寂しい景色なのだそうです。姉の散歩コースの住宅街は、いつもならデコレーションされた家や庭で夜も燦然と輝いているはずなのに、今年はどこも真っ暗・・・悲しいクリスマスのようです。クリスマスは、アメリカの景気の悪さを本当に実感する瞬間のようですところで今回は、飛び込み企画、特派員が駆け回って撮影してくれたホノルルマラソンの裏側です。ホノルルマラソン(Honolulu marathon)毎年12月第2日曜日にハワイのオアフ島ホノルルで開催されるロードレース(マラソン)です。今年で37回目?弾丸ツアーではありませんが、走るだけにハワイに来る2泊4日くらいのツアーが第2日曜日(今年は昨日13日)直前に集中してワイキキの街がごった返している頃でしょう。(ハワイは-19時間の時差です。)受付は、ハワイ・コンベンションセンター(本人のみ)ナンバーカード(ゼッケン)とチャンピオンチップを受け取る受付だそうです。コンベンション・センターでは、大会協賛スポンサー等のブースが50以上出店し、ゼッケンを取りに来る観光バスが続々到着して大賑わいだったそうです。1分1ドルマッサージ、ハウス食品の豆腐ブースや、健康ジュース、健康グッズ、ハワイアンキルティングの店の他、ドコモやJTB等も出店。以前はCARBO-PARTY(炭水化物パーテイー)として、前夜にスパゲッティをふるまっていたようですが、食中毒が出てから中止されたそうです。ランナーホノルルの現地参加受付料金は225ドル。(案外高いのでビックリ)大会当日の年齢が7歳以上なら誰でも参加可能だそうです。時間制限がないので、気楽に参加できます。(東京マラソンのようにバスで拾われる事はありません。)但しゴールゲートは16時台頃に撤去され、ゲートをくぐる事はできませんが・・・。完走証明書は後日郵送されるそうです。コース下が海側で、アラモアナは左側、ダイヤモンドヘッドは中央、ハワイカイが右端。マラソンのスタート地点はアラモアナ公園で朝5時にスタート。一旦ダウンタウンに向かった後アラモアナに戻り、その後ワイキキを通りダイヤモンドヘッド山麓を通過。ワイアラエ・ビーチを眺め、カラニアナオレ・ハイウェイを通ってハワイカイで折り返し。再びダイヤモンドヘツドに戻ってからカピオラニ公園でゴール。近くの道路は通行止め。車の路上駐車も禁止。しかも午前1時から午後7時までと長い。コース上の家の人はちょっと不便。第1回大会(1973年)は、地元ハワイ州に在住しているジョギング愛好家162人によって行われたそうです。第10回記念大会(1982年)で1万人を突破し、以降日本人の参加者も増大したと言います。現在は参加者が2~3万人で推移。その半分以上が日本人と言う事で、メイン・スポンサーのJAL以下、コンベンションセンターの日本企業が多くなっているようです。奥の山がダイヤモンドヘッドです。42.195km (26マイル385ヤード) のフル・マラソンコースです。コース上15カ所に医療スタッフや水・冷スポンジを用意したエイド・ステーションが設置。アメリカではニューヨークシティーマラソン、ボストンマラソン、シカゴマラソンと並ぶ全米4大マラソン大会(規模3位)なのだそうです。(アップダウンなどが激しく世界記録は出ないようですが・・。)彼らは折り返してゴールのカピオラニに向かうランナーのようです。カピオラニ公園。今年の大会は、何かと厳しいそうです。テロの警戒か? パーキング場に車も入れないばかりか、ゴール地点も参加者でなければ近づけないようになっているそうです。ゴール近辺、フェンスがあって近づけないから人だかり・・・。ゴールは見えど、ランナー見えずです。出走しきったランナーだけ、シャワーのご褒美があります。パーク駐車場に設置された簡易シャワーで、着の身着のまま・・・頭から・・・。ハワイだから大丈夫です。濡れてもすぐに乾くし・・・そんなサービスってアメリカっぽいですね。撮れたてのホノルルマラソンの写真でした。昔、兄もヘロヘロになって走ったそうで、「2度と出ない」と言ってました。
2009年12月14日
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免罪符について書いたリンク先を追加しました。Break Time (一休み)ノートルダム寺院はちょっと休憩して・・。もうすぐハロウィーンなのでカワイイ写真を紹介。でも、もとは、ハロウィーンは子供の祭りでも、収穫祭でもなかったようです。ハロウィーン(Halloween)のルーツ?子供がお菓子をもらい歩く子供の祭り? ハロウィーンジャック・オ・ランターン(Jack-o Lantern)ケルト人の先祖供養子供がお菓子をもらい歩く子供の祭り? ハロウィーン10月31日がハロウィーン(Halloween)の日イギリス、アイルランド系の人達が移民した国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどで主に行われていた子供のお祭りです。なぜなら、もともとが古ケルト民族の風習に由来するものだからです。しかし、今のハロウィーンはどこもカボチャ一色で限定ですが、本来は根菜(こんさい)です。イギリスではスイードと言う大きな根菜をくり抜いて、目鼻を書き、ロウソクを立て行燈(あんどん)を作ったとされたいます。アメリカでは大型のカボチャが代用されたのでしょう。ジャック・オ・ランターン(Jack-o Lantern)ランタンは、行燈(あんどん)の事。昔で言う明かりロウソクの事です。かつてジャックと言う男がおり、死後、天国にも地獄にも行けず暗闇の煉獄(れんごく)をさまよう中で、カブをくりぬいて明かりをともして足下を照らし歩いたと言う。それ故、ハロウィーンのランタンはジャック・オ・ランターン(Jack-o Lantern)と呼ばれる。子供達はこれを手にして夕方から仮装して街を歩き、家々を訪ねて回ってお菓子をもらうのです。本来仮装はオバケ限定です。顔に墨を付けたり、お面を付けたり、頭巾をかぶったりするのですが、子供だからとてもカワイイ。そして彼らは訪ねた家々でこう言うのです。Trick or treat 「いたずらされたくなければご馳走を頂戴」※ 訳の言葉はいろいろあり。要するにお菓子をくれればすぐに退散するよ。と言う意味です。訪ねられた家では、おびえたフリをして、「お菓子を渡して悪霊にお引き取り願う。」と言う筋書きになっていて、ハロウィーンには訪ねて来た子供達の為にお菓子をたんさん用意しておかなければにならない。と言う慣習ができたのです。お菓子がいつからスタートしたのか解りませんが、当初はカボチャのパイとかクッキーとかから始まった? アメリカなど、今では配り用のキャンディーポッドやクッキーの詰め合わせなどハロウィーン用にお菓子セットが売られています。もっとも最近はただの仮装大会になってしまったようで、もはや子供は関係無し。近年の渋谷で見られるハロウィーンの乱痴気騒ぎは、もはやただのコスプレ大会。だいたいハロウィーンは古ケルトからキリスト教下での行事です。ジャックにいたっては、煉獄でさまよい苦しむ霊です。霊を救済する思想がそこに込められている事を知っておかなければなりません。煉獄思想とジャックについては、以下にも書いています。リンク 2013年ハロウィーン(Halloween) 1 (煉獄思想とジャック)煉獄思想にからめて中世の教会が発行した救済のお札「免罪符」のリンクも載せました。カトリックの中世の死生観「人は行いにより地獄or煉獄に振り分けられて審判を待つ。」ルターが怒って宗教改革を断行したお札、救済の「免罪符」について書いています。リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家カナダ、オタワ、バイワード市場いろんなカボチャがありますね。カナダではひな壇に並べるのがお好き?こちらはアメリカみたいにくりぬかないで、顔を描くのが主流?カボチャ自体も違うのかも。こちらのはカボチャは食べられるのかもね。アメリカのハロウィーン・カボチャはスカスカなので食べてもマズイから観賞用です。ケルト人の先祖供養元は、ケルト人の日本のお盆に非常によく似た風習です。ケルト人は、1年を冬と夏の2期に分け、冬は11月1日~4月末夏は5月1日~10月末10月31日から11月1日は年が変わる時であり、ケルトではあの世とこの世の境が開いてご先祖様の霊が里帰りすると信じられている。その為に家の周りにかがり火をたいてお迎えをしていた事が本来のランタンの由来かも。先ほどジャック・オ・ランターン(Jack-o Lantern)の事を書きましたが、それはやはり中世からの話しかも・・。(本当に日本のお盆とそっくりですね。日本の場合はロウソクとお線香、orわらを燃やすとか・・。)あの世とこの世の境が開いた時に、招かれざる悪霊も出て来て、家に入られる恐れがあります。だからご先祖様の霊だけ中に入れて、悪霊を追い払おうとする行為が、子供の祭りの中に風習として残ったもののようです。オタワ郊外の農場の野菜販売所ケルト人はBC2000年頃からヨーロッパにいたようですが、カエサルのガリア戦記のようにローマ軍やゲルマン人に追われて、だんだん北部に追いやられ、イギリスやアイルランドに追い詰められて、そこに後世も文化が残ったのだそうです。ケルト人の王であったアーサー王も、キリスト教に改宗した事になっています。以前、ヴァイキングの特集をしていますが、彼らもケルト人です。11月1日の万聖節と11月2日の万霊節もハロウィーンに関係して存在しています。ケルト人が征服され、キリスト教が入ってきてからも先祖を迎える風習は残り、2日の万霊節は家族でお墓参りする日なのだそうです。ローマ法王グレゴリウス4世がカトリックにその風習を取り入れ、(835年)11月1日の万聖節・・・「すべての聖人を追憶し、しのぶ日」と定め、11月2日の万霊節・・・「亡くなった全ての人をしのぶ日」と定めたそうです。因みに墓参りの花は、故人の好きな花の場合もあるようですが、一般には菊の花なのだそうです。菊の花=墓参りの花 ヨーロッパでは常識なのだそうです。日本も仏壇、お墓=菊の花のイメージがありますね。「古代ローマ水道 9 (イギリス バース編 2)」で「先住ケルト民族の移動」について書いてます。リンク 古代ローマ水道 9 (イギリス バース編 2)日本のカボチャより色がきれいだから映えますね。
2009年10月13日
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