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東京に戻りました。大阪では毎日よく動いていたので夜はヘトヘト。なかなか取りかかれませんでした![]()
もう祭りの余韻も冷めてしまいましたが、祭り後の大川にも行って来たので天満宮と神事についてまとめてみました。
大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)
北辰北斗信仰(ほくしんほくとしんこう)
天神天満花娘
天神信仰の発端(御霊信仰)
大阪天満宮 天神祭を盛り上 げる講社組織
北辰北斗信仰(ほくしんほくとしんこう)
天神(てんじん)ではなく、本来は天神(あまつかみ)である。
皇室の信奉する天の神とは、太一神。その実は北極星である
。
北極神(北辰の神)は天の中心に位置する。北極星を中心に数多(あまた)の星が回る事から唯一、天を宇宙を司る神、統ばる(すばる)神としてとその信仰は始まった。
因みに、統る(すばる)・・が、昴(すばる)の語源になっている。昴(すばる)自体は現在はプレアデス星団を指しているが・・。
北極星は神格化され太一神と呼ばれ、君主は地上における代理人と位置づけられたそうだ。
(道教の思想であるが漢代には北辰北斗信仰として定着。日本へは聖徳太子の命でもたらされたらしい。)
天文博士・暦博士の存在
天にある星は地上の命運も司ると考えられ
、 星の観測をする天文博士や暦博士が陰陽師(おんみょうじ
)
である。つまり
北辰北斗信仰は陰陽道の領域
なのだ。
彼らは星から帝都が置かれるべき土地を定め、天地の理にかなった日時を選び、祭祀を執り行い、また天と地に現れる災厄や瑞兆を占った。
平安の時代は、災厄は全て祟りと考えられていた事からも 祭祀は重要な政(まつりごと)であり、彼らの地位は高く、朝廷直轄の官僚であった
のだ。
※ 陰陽道にさいては「陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)」で書いています。
リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)
今は摂社となっている大将軍社
天満宮の裏門から入ってすぐ右にある。昔は一帯が将軍社の森であったそうだ。
第36代天皇、孝徳天皇(596年~654年)の宮殿の 皇域鎮護の神として置かれた大将軍社が大阪天満宮の祖社である。
※ 北辰北斗信仰で大将軍社は太白星(金星)を指していた。
それがなぜ菅原道真公が祀られるようになったか? と言えば御霊信仰にある
のは言うまでもない。
平安の時代よりいつのまにか大将軍社と立場が逆転して人々からは忘れられた。
しかし、 天神祭りの神事のルーツは今も北辰北斗信仰にある
。
祭りの内容と菅原道真公が繋がらないな・・と思っていたのだが、理由はそこにあった。
宵宮祭(よみやさい)の日の大阪天満宮 表大門
奉納された茅輪(ちのわ)用近江葦(よし)
葦には川の水を浄化する力があるとされ、葦の輪をくぐる事で汚れを浄化。再生の力を授かる・・と言う意味があるらしい。
本殿(写真は祭りの日のものではありません)
宵宮祭(よみやさい)の日の本殿
今年の天神天満花娘のお通りです。
天神天満花娘
2003年から天神橋筋商店街の公募で始まった花娘は定員10名の狭き門。
巫女に準じる仕事で天神祭りに花を添えると共に1年間、天満宮や地元商店街に関わるイベントにも参加するらしい。
手にしている紅白梅の造花に札がついて1本1000円で販売。破魔矢のようなものか?
天神信仰の発端(御霊
信仰)
醍醐天皇により左遷され、
左遷地福岡で憤死したとする菅原道真公の怨霊。
菅公が亡くなってから、たまたま雷を伴う天変地異が増えたらしい
。
それらが 菅公の
祟りと信じた宮廷人はずっと怨霊に悩まされ続け、祟りの話は京の町中に広まったようだ。
怨霊のせい? 亡くなった醍醐天皇。その皇子である
村上天皇(926年~967年)の治世
942年。 菅公の
「我を祀れ」と言う神託を受けた巫女らが北野に神社を創建。
それが天神信仰の総本社となる北野天満宮であった。
もともと平安随一の博識と言われた菅公は中下層の貴族や上流の庶民に慕われていたらしい。 以降、菅公に縁のある所が自発的に菅公を祀り始めた。
神号は「天満大自在天神」である。
大阪天満宮もその一つで、
949年に菅公 縁の大将軍社の森で起きた奇譚(きたん)を重んじて宮を造
り 、逆に将軍社がその下に置かれる事となった。
※
菅公の怨霊と御霊信仰については「北野天満宮 梅花祭り」。平野将門の御霊については神田明神で。
また、醍醐天皇と菅原道真公の因縁については醍醐寺の所で紹介しています。
リンク 北野天満宮 梅花祭り
リンク 神田明神 (薪能)と御霊信仰
リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)
菅公と将軍社の縁とは?
京都から太宰府に左遷される時に菅公は宇治川を船で下り、旧淀川経由で大阪に到着したと推定。
当時から水陸交通で栄えた大阪から九州行きの船に乗り替えるべく 太宰府への船待ちをしていた時に将軍社を参詣
している。それが大阪天満宮創始の遠因らしい。
大阪での船待ちはよほど時間があったのか? 実は菅公が立ち寄 ったのは将軍社
だけではない。
現在の大阪の北区、曾根崎警察署の近くにある 露天神社(つゆのてんじんじゃ)にも立ち寄っていて、こちらの御祭神にもなっている。
その 時に菅公が詠んだ詩が
「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」 恨み節である。
※ 「大阪 お初天神 美人絵馬」で書いています。
祭りの最中、表門の脇でお囃子と踊りを続 ける講社
↓

大阪天満宮 天神祭を盛り上
げる講社組織
社伝では949年(天暦3年)に菅原道真公が祀られ、祭りの鉾流し神事は951年頃から始ま
ったらしい
。
途中途絶えた時もあったそうだが、1064年前から続く神事が支えられてきたのは 大阪商人のシンジケート(共同組合)
による所が大きかったようだ。
祭りの最盛期、江戸時代には氏地にあった天満の青物市場、堂島の米市場、雑喉場(ざこば)の魚市場の組合他、乾物商、大工、花火師、 など
いろいろな業種の組合が役割分担して参加した。これが講社(こうしゃ)と呼ばれる組織である。
地車講(だんじりこう)

地車講は天満青果市場の仲買人が組織している講である。
地車(だんじり)は、本来は陸渡御(りくとぎょ)で、神様を迎える為の祭礼行列、練り物(ねりもの)の一団を成す、芸能音楽の一つ
として現れたようだ。
1780年には71輌もの地車が宮入した記録があり大変な賑わいを見せたそうだが、残念な事に1837年(天保8年)大塩平八郎の乱でほとんどが焼失。現在残ったのがこの輌のみ。
三ツ屋根スタイルのこの地車は1852年嘉永(かえい)5年製作。
1896年(明治29年)以来、境内で地車囃子を奉納し続けている
そうだ。

終日奉納され続けるお囃子と踊りは見ていて結構過酷である。
地車が曳行されなくなった事で踊りやリズムが洗練されたと言う。
次回船渡御を紹介してからミュンヘンに戻ります。
リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)
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