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仲間が、JOCOSOというSNS系で、各自開設をはじめて約2ヶ月経過した。先日、リンクをせがみにきた川嶋氏であるが、あらかじめ”川嶋”という個人の趣旨として、『様々な思想、考え方を受容でき、私的な狭い考えに囚われず、他者に誠意をもって接する方とのコミュニティとして参加・・・・・removeとは、排除という意味もありますが、私は「障害を取り除く」という意味で使用しおります。・・・・・あるがままを貫くことを前提としている姿勢は、「誰とでも」という博愛主義の方からは敬遠されると思いますし、JO友の申し込みも敬遠されると思いますが、何の意味ももたない所属、属性には関心がありません。・・・・」という日記記事を投稿し、「川嶋という人間はこうである。それでも、交流したい方はどうぞ」という内容だ。川嶋の場合、開設して約2週間になる。外部リンクが多いせいか、ゲストと一部のJO友の訪問だ。ひとつ川嶋に疑問を投げかけてみた。・そもそも、JOCOSOでは、その開設者の「投稿記事」に関心をもつ会員はいるのか。なぜならば、楽天ブログとは相違して、ほとんどの方が日記更新をしていないと見受けられる。・JO友の質こだわるのはなぜか。JO友は、楽天ブログでは、”日記リンク”と同様の気がするからである。その開設者のコンテンツに興味があるからではないのか?・コメント機能を活用しないのはなぜか。我々が原稿料をもらいブログを作成することおいて、決定的な違いは、個人が自由に発言するブログでは、コメントの役割という機能が、そのブログを活性するのではないか?その回答インターネットの情報と公開については、規制する必要はないというのが個人の価値観。そもそも個人の思考とは、これまでの研究・探求に成り立つまでに、「原典」があるからこそで、我々個人が学会で発表し、社会的な貢献によるわけではない。引用・要約、リンクは自由であるとしているが、個人の感情を左右する”コミュニケーション”が問題なのだ。たまたま開設したJOCOSOでは、”足跡”機能による、JO友や会員の訪問による”コメント”のやりとりが主であり、JO友の”量”を競って、足跡の”量”を競っている。つまり記事投稿とコンテンツよりも、”量”とのコミュニケーションが、特徴である。川嶋個人にとって、”友”と名称があることが、一番の問題なのだ。つまりコメント機能も、その開設者個人の”JO友”、よく訪問する会員によるもので、狭い私見に見受けられるのは、その開設者への好意の表現であって、個人の考え方が現れない。だからこそ、必要性がないと考え、本人サイトではコメント機能を活用していない。だからこそ、川嶋は”趣旨”を公開しているのだ。最後の疑問は、まだ川嶋氏に質問をしていないが、匿名性が低いSNSであるが、本当にその名前の人物は、存在しているのか。これが、私がJOCOSOを覗いた最大の疑問なのである。
Aug 30, 2005
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主義をISMという言葉で表すと、体系、信仰を含めた特性である。主義とは、個人や組織の拘りである。拘りとは、私にとって魅力的ではない。捕らわれた囚人のようだ。成果主義、成功法則などがこの部類にはいりそうである。流儀とは、芸術や武術などの流派や、家に昔から伝えられているスタイルである。建築を含めた芸術の様式や、思想、品格、服装、行動などに、「流儀」が現れる。つまり、「流儀」は、その人自身の「履歴書」でもある。嗜みには、Decencyという表現を使いたい。品位、作法、教養、心得である。心得とは、趣味、芸事、芸術への風情に感銘できることだけではなく、つつしみや人の心の機微に感銘することでもある。学術や専門性が高く、主義ばかりを追いかけるよりも、流儀と嗜みを磨く方が先ではないだろうか。
Aug 22, 2005
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ドイツでは、「高度に教育された人材ならばマイスターでなくてもよい」という企業も少なくはない。新しい起業やIT、技術革新への対応に遅れをとってはならないからである。こうした動きは、ドイツのマイスター制度の技術継承、人材の質を課題に、転換をせまられている。ほぼすべての手工業種が廃止になるドイツ。マイスター制度とは、パン職人、ビール職人、靴職人など、「手工業」と「工業」を中心に、種類は何百にも及ぶ。ドイツのマイスター制度の崩壊から学ぶものは何か。この視点は、どこに重点を置くかで、「学ぶもの」に差異が生じる。18世紀後半からはじまった産業革命は、手工業という「職人と道具」から「機械」へという技術革新のことである。しかしながら、19世紀にイギリスでは、ウィリアム・モリスによる“自然回帰”に戻る、アーツ&クラフツ運動は、アールヌーヴォーやユーゲントシュティールなどの新様式を誘発しながら、「生活」のための工芸運動がはじまる。ドイツでは、W・グロピウスは、「生活機能の総合場である『建築』のもと、彫刻・絵画・工芸などの諸芸術と職人的手工作など一切の造形活動を結集して、芸術と技術の再統一を図る」という教育理念のもと、新しい教育システムを実施している。つまり、技術革新後に、自然回帰が叫ばれるサイクルだ。いま、ITという技術革新は、各国で転換を迫られている。メッセージを送るからメールを贈ってくださった皆様へお見舞いのメッセージ、励ましや賛同のメールをありがとうございました。T・Kは大変嬉しく感じておりますが、私の「わがまま」な、お願いがあります。投稿を、時折休みますようになりましてから、日々メールの”量”が増えまして、「お返事」をどうしようかと大変悩んでおります。多いときには、1日に50前後ほどいただき、今日までに、300を超えております。以前から頂いている方、また、同じブログでお世話になっている方は例外としております。皆様からは、1:1でありますが、T・Kは、1:300以上と向き合うことになります。ですから、一部の方を除き、返信を遠慮させていただきたいと願っております。どうぞ、コメント、BBSをご利用いただければ幸いです。
Aug 19, 2005
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ドイツの基礎学校(日本の義務教育)では、12歳になるまでに、それぞれの向いている能力を探す場である。そのために、学校には専門の相談員が存在する。・社会にはどのような仕事があるのか。・なろうとしている職種が社会とどのように関わっているだろうか。・職人のビデオ学習から、なりたい職人の全体像を知る。・実地見学を遂行し、自分がその職業に適しているかを知る。大学進学率は25%で、75%の子供は実科か普通学校に進学する。つまり、学術も、さまざまな能力の一つであると考えられている。
Aug 15, 2005
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今日は、少し熱も引きましたが、まだPCに向かう余力がありません。コメント、訪問につきまして、非礼をしております。また、メールを送って下さる方に、お返事を書いていない方もいますので、この場を借りまして、お詫び申し上げます。来週には記事投稿をはじめ、皆様のところにも伺います。皆様も、どうぞご自愛ください。
Aug 14, 2005
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経済では、経路依存性:path-dependencyとは、ある企業の資源蓄積プロセスは長期にわたる複雑な学習や投資によるものを指す。キャリアでは、経路依存性:path-dependencyとは、人間や組織、政府、社会が、過去の選択、経験や歴史的背景、学習といったものによって、現在の選択が制約を受ける現象であり、そのプロセスを模倣することが不可能であることを示している。アメリカでは生涯所得と学位とが高い相関関係にある。高い経路依存性(path dependency)の出発点を指し示すのが「学歴」であるからだ。アメリカでは学部段階にパートタイム学生が多いが、単位を取得した者がその後大学院で学位を取得しより良い職へと就いていく。専門分野の「研究するという姿勢」を学部で取得した「学歴」だからである。日本の高等教育が職業教育(vocational education)としての性格をほとんど持ってはいないといわれるのは、ここの認識が相違しているからなのだ。
Aug 8, 2005
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当時、オープンキャンパスなるイベントはなかったが、M先生に連れられて、私を含む3名が大学を見学に行った記憶がある。2度目は担任の先生の引率で、見学先の教授とお会いした記憶。私がそこの大学の専攻を決めた理由が、経済系、教員の資格、著名で本を出版されていた教授がいることであった。(入学するとその教授は、辞められていた・・・)大学院へ進学するなんて、考えてもいなかった。いま、それが致命的でもある。大学とは、「学歴」である。「学歴」とは、研究・開発をする「術」を得ることだ。専門の領域を学び、教養として専門外を学び、さらに、専門と専門外を関連させて新しい領域から考える力を身につけ、「探求」する姿勢を養うことだ。「探求」する姿勢を養えば、自分にとって不足を予測することもできるし、いつでも準備にとりかかれる選択肢を持つことが出来る。大学、大学院を経て、研究・開発や探求がなければ、それは「学歴」とはいえないのではないだろうか。つまり、高校、大学、大学院出じゃなくとも、研究・開発や探求があるなら、それは立派な「学歴」である。
Aug 7, 2005
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