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◇水曜日:旧暦十月二十二日 辛亥(薄曇);勤労感謝の日、日米通信衛星テレビ中継試験成功今日は勤労感謝の日だ。「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝しあう日」である。元々この日は新嘗祭という皇室の祭儀であった。この日今上天皇は、天神地祇てんじんちぎにその年に獲れた五穀の新穀を奉呈し、自身もこれを召し上がって感謝された。この新嘗祭は旧暦十一月の2度目の卯の日に行われる慣わしであった。今年の暦では、十二月二十一日になる。新嘗祭は随分寒くなってから行われていたのだ。それが、明治6(1873)年に現行の太陽暦に移行した際、そのままでは翌年の一月になってしまうというので、代わりに新暦の十一月の2度目の卯の日(この年は十一月二十三日であった)に新嘗祭を執り行うことに改めた。この国は、一度決めてしまったら、その後は本来の背景も、決めるに至った経緯もその際の議論も軋轢も、綺麗さっぱり忘れてしまうという健全さ(?)が官民共通の美風(??)としてある。後はこぞって遵守するのみなのだ。だから、過日の消費税導入だって、今の皇位継承問題だって、郵政民営化だって決めるまでは甲論乙駁、熾烈な争いがあっても、とにかく決めてしまえばいいという考えが、一部にはある。サラリーマン増税にしても憲法改正論議にしても、先ずは妥協を繰り返して受け入れやすいところまで持っていく。その際には後の改変手続きも簡略にしておく。そうして、数を頼んで小さな改正をやってしまえば、後はどうとでもなるのだ。先天的健忘症の我々としては、民草の弱みを突くに長けた施政者(全員とは云わないが)の深慮遠謀には大いに注意しておくべきである。それはともあれ、翌年(明治7年)も同じ十一月二十三日に新嘗祭が行なわれた。その又翌年も・・・・ということで、結局昭和22(1947)年まで、新嘗祭は十一月二十三日の行事だったのである。戦争に負けて旧弊を改めると云う訳でもなかったろうが、昭和23(1948)年の祝日法で、新嘗祭は勤労感謝の日に衣替えした。従って「十一月二十三日」には、暦の上では何ぁーんにも意味は無いのである。因みに今年の「十一月の2度目の卯の日」は、十一月の十五日である。しかし勤労感謝の日などといわれても何だか良く分からない。一度ならず三段構えで改変が繰り返されれば、さなきだに忘れっぽい民草の大方は、この日の由来など忘却の彼方ですらない。けれど、五穀豊穣に感謝する新嘗祭が元祖だと改めて知れば、その伝統の重みにこの日のありがたさも増そうというものだ。新嘗祭は、遥か昔の飛鳥時代、皇極天皇の御世(7世紀中頃)にまで遡ることができるという。因みに皇極天皇は女帝であった。今から42年前、つまり昭和38(1963)年の今日、日本とアメリカの間で衛星通信による初めてのテレビ中継が行なわれた。僕は当時人並み以上に好奇心旺盛の高校生であったから、無論アメリカからの中継映像をテレビの前で待っていた。時差のせいで日本では二十三日の早暁に、先ずはJ.F.ケネディ大統領の祝詞から中継は始まるはずであった。ところが実際の中継は祝詞の代わりに大統領暗殺の大騒動で始まったのだ。その後現地からの映像が刻々と送られてくるその臨場感に、大統領暗殺の衝撃もさることながら、衛星中継の凄さを痛感したものである。
2005.11.23
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◇ 火曜日:旧暦十月二十一日 庚戌; 小雪、豊川稲荷秋季大祭今日は二十四気の小雪。太陽の黄経は240°になり、いよいよ冬の気配が忍び寄ってくる。北国では里山にも初冠雪を見る頃ではある。小雪は「しょうせつ」と読むのが正式だが、この字を見ると何となく「こゆき」と読みたくなる。晩秋の気配を漂わせて、山のほうから思わずしてちらちら飛んでくる風花を連想すれば、やはり「ショーセツ」ではなく「こゆき」だなぁ。因みに風花は「フウカ」でも、「かぜはな」でもなく「かざはな」と読まねばならない。漢字も読みようで大いにイメージが変わる。日本人は元来言葉にそういうナィーブさを持っていることが、古来の美風であり大きな取柄だと思っていた。何しろ言霊ことだまの宿る国である・・・・筈であった。然し、釈迦楽教授もお書きになっているように、その日本語に最もセンシティブであるべき我国営放送が、あろうことかスキウタである。この言葉だか符牒だかを初めて耳にしたときは、何のことか分からなかった。そしたら、今年から、この放送局の年末の大行事である歌謡大会で唄われる歌を公募するというのだ。「皆さんの好きな歌を寄せてください」というので、「好きな歌」がスキウタなんだそうだ。何と云う事か!このおぞましくも貧困な言語感覚には情けなくてアホらしくて涙が出た。本来放送局や新聞・雑誌は、日本語という体系の改革者であるとともに守護者でもあった筈だ。少なくとも人気取りのために、脳の弱い若年層に迎合して意味不明の符牒を活字にしたり、電波に乗せて喧伝するなど、文化と公論の媒介者としての矜持にもとる行為であるはずだ。若しBBCがこんな類の言葉を電波に乗せたら、英国国民は怒り心頭、それこそ暴動騒ぎになり、BBCは焼き討ちでもされるんじゃないか。日本語の擁護者であるべき報道媒体が、今や言語破壊者の側に回ってしまおうとしている。諸兄姉、この一点だけでも料金不払いの充分な根拠になりますぞ。このところ、家の近所の欅が急に黄葉を始めた。欅は楡科の落葉高木で、樹高は時に30m以上に及ぶ。欅の語源は「けやけき木」である。「けやけし」とは「際立っている」、「素晴らしい」という意味の古い和語である。我が家から駅に向かう道すがら、眼前に聳える欅の大樹は30mとは云わぬまでも20m超の高さは有るだろう。春には萌黄色の若葉を存分に噴き出させ、夏は入道雲を背景に清々と緑を繁らせていた。それが今や黄葉の盛りを迎えつつある。欅は樹冠から順に黄葉する。夏の名残の緑とそれを縁取る黄色の織り成すグラデーションは、秋晴れの青空に映えていかにも美しい。やがて下の方の葉まで黄葉し尽くすと、今度は葉の色は樹冠から赤茶色に変わる。そして辺り一面に落ち葉の吹雪を作り出す。そうするともう冬である。欅は関東地方から北にかけて生育する木で、我住処の所沢では方々に街路樹として植えられてもいる。成長した欅並木は、道路を覆い隠すように夏は緑のトンネルを作る。近郊の農家に行くと、時代を感じさせる立派な樹相の欅が聳えていて、景観保護のための保存木に指定されていたりする。東京を郷里とする亡父が好きであった。僕自身も大好きな木である。あのはるかな高みの枝に腰掛けて見渡せば、ひょっとしたら今も昔ながらの武蔵野の光景が広がって見えるのかもしれない。そんな気持ちになるのだ。
2005.11.22
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◇土曜日:旧暦十月十八日 丁未;一茶忌僕は高校時代までは郷里の岐阜で過ごした。僕の高校は当時は、所謂「県を代表する進学校」で、同窓生には東京に出稼ぎに来て根付いてしまった連中も結構多い。団塊の世代もそろそろ人恋しくなる年齢らしくて、時々首都圏在住の同期生だけで集まっては親交を新たにしている。僕はその幹事に何年か前に任じられて、適当な口実を設けてはいい加減な同期会を開催している。今日は、一茶忌。だからといって、小林一茶は吾が郷里とは何も無いのだけれど、そんなことは構わない。一茶忌が口実になればそれでいいのだ。それで、都合の付く十数人が集まってなりゆきの同期会を開いたのである。いつもは、夕刻から集まって宴会をするのだけれど、偶々同期生の一人が講談社勤務で、目白台にある蕉雨園を特別に参観させていただく事になった。蕉雨園は宮内大臣田中光顕伯により明治30年に建設された武家屋敷である。大正8年、田中光顕伯は、この邸宅を当時の財界人、渡辺治右衛門氏(渡辺銀行総裁)に譲り、その後昭和7年に講談社初代社長野間清治が購入し、以来蕉雨園と隣接する芭蕉庵は講談社が管理している。椿山荘に隣接する約6000坪の敷地をもち、涌き水のあふれる大池と回遊式庭園に囲まれた明治の貴重な建物だが、現在は一般公開はされていない。目白台のこの辺りは、かつての士族の旧邸宅跡が散在し、歴史を求めて散策する人たちもちらほら見える。この日もいっぱしの老紳士たちが数名、散策の途中に行き着いたのであろう、蕉雨園の門前に集まって札書きの説明書きを読んでいらした。無論彼らは非公開の門中に入ることを得ない。我々は、案内を得てそろそろ引き開けられた門をくぐり、粛々と園内に進むのである。何だか老紳士たちの訝しさと嫉妬の混じった視線を背中に受けつつ、というのがいい気分であった。門を抜けて広い砂利道を百メートルほど進むと、立派な唐破風の玄関に至る。材も手に入らず、技術を持つ大工も払底して、今では再現できないという格子天井からは、鋳物製の釣灯篭が下がっている。往時、貴顕の来客が有る時には、この灯篭に灯が入り、主人以下主立った使用人が勢ぞろいして、唐破風の玄関に客の車を迎えたのであろう。玄関を上がると、正面の壁に屋久杉の一枚板を貼りつめた式台である。その先に総書院造りの広間や、数奇屋造りの部屋ゝが、高い天井の下、建物の奥深くまで連なり続く。小ぶりながらも、石造りの暖炉が刻まれたダイニングも明治の重厚さを感じさせる。総書院には、実現はしなかったそうだが、明治天皇の行幸に備えた、武者隠しもある。部屋を隔てる欄間には鳳凰の姿が刻まれ、数奇屋造りの部屋を隔てる唐紙の引き手金具には、菖蒲や雀などが細密に刻まれて、これが部屋の名前になっている。端棟の二階に上がれば、南面と西面にガラス格子が貼られ、以前は西方遙に富士のお山が望見されたそうだ。文字通り「富士見の間」である。「今は木立が育って視界が遮られてしまって」と、案内に付いてくださった方が申し訳無さそうにおっしゃったけれど、どの道周辺のビルが目隠しして富士など観望すべくも無いから、茂った木立がビルを隠してくれるのは却ってありがたい位のものだ。ここに炬燵をしつらえてもぐりこみ、お燗酒などを戴きながら遠くに富士を眺める冬の日などは、本当に穏やかで良かったろうなぁなどと勝手に想像しては悦にいる。見回せば、木立の多くは楓である。今年の紅葉には、まだ2週間ほど先になるでしょう、との事だ。今目の前にする楓が一斉に紅葉すれば、眺める側も紅に染まってしまうほど美しいことであろう。是非にも拝見したいものだが、一時にすべての望みを満足させるのは勿体無い。又来年に友には機会を作っていただこう。この建物にモデルと撮影班を連れ込んで、昔風の浴室で裸体写真の撮影に及んだのが露見して大目玉を食らったという、若く血気盛んな頃の武勇伝を友から聞くのも、又大いに愉快であった。想像でしか知りえなかった明治の大身代の屋敷のたたずまいに、直に触れることが出来本当に良い心持であった。何より、此処には実際人が暮らしていたのだという雰囲気が残っている。僕などこんな大きな家に住んだ事など無論無いけれど、昔の木造の家には共通する匂いや音がある。よく拭き込まれた外柱を見れば、それを拭く雑巾の臭いが嗅覚に甦る。学校の窓拭き、廊下拭き、家の年末の大掃除で極々身近だったあの、すえたような懐かしい臭いだ。板貼りの雨戸を見れば、戸袋に出し入れする時に戸車がじたばたする感触が手に感じられ、戸車が走る時の勢いの良い音が耳に戻ってくる。豪壮なお屋敷も素晴らしかったが、本当に落ち着く事が出来たひと時であった。こういうものを残しておいてくれる、講談社という会社もエライのである。こういう精神は、今を盛りのIT関連企業などには、薬にしたくても無いのは明らかである。建物を出て庭に回ると、土地の高低を利用した回遊式の庭園が広がる。高みの古びた木造屋敷を仰いで、視線を低きに廻らすと遥か下方に湧水をたたえた池が、神田川に水を落としている。鬱蒼と茂った木々は、周囲の喧騒を遮断し、一瞬深山幽谷に迷い込んだような雰囲気である。庭を出て、神田川の方角に向けて樹間の小径を下ると芭蕉庵の庭に出る。飛び石伝いに危なっかしく行き着いたところに小さな池、というより水溜りがあって、そのほとりに「古池や蛙飛び込む水の音」という句碑がある。「おぉさすが芭蕉庵! この句が詠まれたのはこの地であったか!」と、無学者は歓声を上げつつ脇の札書きを読む。すると、「文字は芭蕉の真筆。しかしこの句はここで詠んだものではありません」と言い訳が書いてあったのはご愛嬌だ。東京には芭蕉庵という史跡が三つあって、普通に芭蕉庵で調べると、ここ目白台の芭蕉庵は出てこない。ここは関口芭蕉庵と言われて、所在地の町名が冠せられる芭蕉庵なのだ。関口芭蕉庵は、後に俳聖と称される松尾芭蕉(1644~1694)が、延宝元年(1673年)江戸に下向してしばらく後、1677年から3年間程住んだ場所の跡とされている。芭蕉はここで、旧主筋にあたる藤堂家の下級武士という立場で、眼下を流れる神田川の改修工事の現場監督のような仕事をしたのだそうだ。芭蕉庵とはいえ、元々は水番小屋か工事現場事務所のようなものであったらしい。齢30歳代前半の、青年から壮年に至る過程の芭蕉である。それがいわば水道工事の現場監督として住んでいた関口芭蕉庵は、後の名の知れた三代の芭蕉庵のような風雅なものでは無かった。しかし、三百年以上の歳月経ふりて平成の御世になってしまえば、工事現場だって立派な桜の老木が植わった花の名所だ。庵の敷地の内も古木が茂り、風雅なたたずまいである。関口芭蕉庵は、大正15年に東京府の指定史蹟に指定された。折りしも芭蕉庵では句会が開かれており、我々はその部屋に連なる事務所のようなところで、お茶を振舞っていただいた。当日は晴天なるも風やや強く、冷えた体に熱いお茶は大変なご馳走であった。東京には未だまだ探せばこういうところが残ってあると言う。現在の僕の境遇では、休みの日毎に、探訪散策に時間を費やせる贅沢は許されていない。だからこそ余計に、友の采配で計らずも持つことが出来た今日の時間は、まことにありがたくも貴重であった。友には大感謝である。
2005.11.19
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◇木曜日:旧暦十月十六日 乙巳; 奈良談山神社例祭、将棋の日、スエズ運河開通今日は将棋の日だそうだ。少し前の事になるが、十一月十一日は「鮭の日」だったそうだ。しかし、それがどうしてかというと魚篇の右側に十一を二つ縦に書くと、「鮭」という字になるからだというからくだらない。それじゃァ「鮭の日」じゃなくて、「鮭という字の日」じゃないか、とか「魚篇」はどうなっちゃったんだとか、よけいなチャチを入れたくなる。将棋の日にはちゃんと由来があって、八代将軍徳川吉宗が、この日を「お城将棋の日」として江戸城内で御前対局を催した事に因むのだそうだ。吉宗さんは、色々な改革を実行に移し、徳川幕府中興の祖といわれる実力者だが、一方で中々粋なところがあった。幕府の直轄であった上野の山の他に、庶民が春の花見を楽しめるようにと、王子の飛鳥山に桜を植えて解放したのは吉宗さんだった。しかし、十一月十七日といっても、これはやはり旧暦の事であったから、現在はそれを新暦の日付にこじつけているのだ。それにしても、このところ急に寒くなった。それで昨日からとうとう薄手のコートを出してきた。昨晩は、満月であった。冷え切った空気の中、蒼ざめた月を中天に眺めて家路を辿っていると、ついこの間まで汗を流しながら歩き回っていたのが嘘のようだ。昨晩も風の無い夜であったから、今朝も又寒かった。風も無く晴れた夜は放射冷却現象が起きて寒いといわれる。しかし、放射冷却というのは温度差のあるところでは常に普遍的な現象だから、「放射冷却現象のせいで寒い」というのは妙な話だ。むしろ、「放射冷却が妨げられなかったせいで寒い」というのが正しい。物理にはシュテファン・ボルツマンの法則というのがあって、それによれば、ある温度の物体からは絶対温度の四乗に比例するエネルギーが放射されている。「晴れた晩は極低温の宇宙が見えているのだ」と考えてみよう。そう考えると昼間温められた地面からは宇宙にどんどん熱が逃げていっているのがすんなり腑に落ちる。一方で曇った晩は宇宙は見えず、放射冷却の効率が悪くなるという事なのだ。夕べの雰囲気は、「月を踏んで散歩す、青煙地を這ひ 月光林に砕く」であった。これは国木田独歩の「武蔵野」 (1896年)に出てくる光景だ。これが現在の渋谷の辺りの光景の描写だというから、そう思うと随分の時の隔たりを感じる。今の渋谷には「青煙地を這う」などという開けた視界は望むべくも無い。「青煙地を這う」光景は、今の時期結構な田舎にまで行かないとお目にかかれない。刈り入れの終わった田圃の広がりに、藁を焼く薄青い煙がゆっくり横に流れていく風景は、初冬の風物詩である。これは夜の間に冷えた空気の層の下に、陽光で温められた地面からの温かい空気が置かれる、所謂「逆転層」が出来るからだ。しかし、田舎の風物詩は、東京など都会に来ると公害の警報になってしまうのである。
2005.11.17
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◇土曜日:旧暦十月十一日 庚子;洋服記念日、草野心平忌今日は「お正月のような」お天気だった。お正月にはこういう日がある。日差しと影の境がくっきりして、空気は冷たく透き通った味がする。日向に出ると眩しくて、手をかざして光を遮らないと日陰に有るものが良く見えない。風が強いけれど、その強さも決して不愉快ではない。何がなし晴れがましいお天気なのだ。こんな日は街に人通りは少なく、通りがかる人は皆晴れ着を着て、何だかいそいそ歩いているのだ。僕らも晴れ着を着こんで、光と影の交錯する道を歩く。知り合いと出会うと頭の上の方で父や母が挨拶するのが聞こえる。こちらは目を眇めても眩しいから、相手が何か云っても、下を向いたまま、いい加減に返事をするばかりだ。自分の足元から伸びる影が黒い。屋上に登ると、秩父から丹沢にかけての山並みはくっきり見えるけれど、土煙のような雲が立って、富士の山は見えない。こういう日が、暮れのはるか以前に来てしまうと、何だか寂しい気持ちがするのだ。仕事などほっぽり投げて、子供の昔に戻ってしまいたくなる。罪作りなお天気だ。今日は洋服記念日。明治5年のこの日に、「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が出されて、それまでの和服礼装であった、裃や直垂な古来の武家風や公家風の和服礼装が、少なくとも政府の公式礼服としては廃止された。これに因んで、1972年(昭和47年)に全日本洋服協同組合連合会がこの日を洋服記念日に制定したのだそうだ。今日は、また詩人草野心平の命日でもある。中学校の教科書だったと思うが、彼の「蛙のうた」という詩が載っていた。擬声語を駆使した詩で、妙に記憶に残っている。草野心平は昭和63年(1988年)の今日、85歳の生涯を閉じたのである。
2005.11.12
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◇金曜日:旧暦十月十日 己亥;世界平和記念日、出雲大社神迎祭、とおかんや、炉開き、亥の子餅今日が世界平和記念日だというのは、1918年のこの日、第一次世界大戦が終結したことによる。ドイツではウィルヘルム二世が退位を宣告されオランダに亡命、オーストリアも降伏して、1914年から1918年にかけて戦われた初めての世界規模の大戦争は87年前の今日休戦となったのである。この戦争、開戦当初は「War to End All Wars」(全ての戦争を終わらせる戦争)などと呼ばれたけれど、そんなものじゃなかったのは、その後の歴史を見れば一目瞭然である。「平和を創造するための戦争」など有り得ないことは、歴史の教えるところであるのに、相変わらず大同小異の口実を設けて、方々で戦が続いている事実は、歴史に学ばぬ人間の愚かさの証左である。旧暦十月十日の今日は、島根県の出雲大社では神迎祭かみむかえさい執り行われる。今日から十一月の下旬までは神在祭かみありさいが催行される。出雲のお社には、日本全国から神様が参集して、今年の実績報告と来年度に向けての方針が議論される。いわば神様の年次総会、或いはキックオフ・ミーティングである。この期間、出雲以外の地では神無月だが、逆に出雲では神在月といわれるのだ。我が八百万やおよろずの神々には、出雲の温泉にでも浸かりながら、是非とも有為なミーティングをしていただき、こちらにも少しのご利益をお願いしたいところである。それにしても、この期間、いつものお社にお参りしても、神様は出雲に出かけて留守にされているはずだから無駄だということになるのだろうか?さて、「とおかんや」とは「十日夜」のこと。以前は東日本の各地で、旧暦十月十日に行われていた収穫祭である。伝承では四月十日(これも無論旧暦でのこと)に山を降りてきた田の神様が、収穫の無事を見届けて「とおかんや」のこの日に再び山にお帰りになるそうだ。それで、感謝をこめて田の神をお送りする。とおかんやの日には子供達は、芋の茎を芯に藁を硬く巻いた「藁鉄砲」を持ち、歌を唄いながら地面を叩いて回る。これはモグラを追うのだともいうが、要するに稲を育てるのに力を尽くしてくれた地面をいたわり励まして、今年の収穫に感謝し、来年の豊作を祈るのであろう。同様のお祭は関西では「亥の子」といわれるのだそうだ。つまりは今日は「己亥つちのとゐ」。江戸時代は、亥の月の、亥の日から、囲炉裏や炬燵に火を入れると、安全で火事を避けることが出来るという言い習わしがあった。これは、陰陽五行説では「亥」は水の性質を持ち、火難を避けることが出来るとされるからである。そこで、農家などでは、この日から囲炉裏をしつらえ、掘り炬燵の準備をしたのだ。それでこの日を「炉開き」と云い、又「炬燵切り」とも云ったのである。もうこの風習は大抵の農家では廃れてしまったのかもしれない。しかし、茶の湯の世界ではまだ残っている。つまりは、旧暦十月の亥の日は、春からおよそ半年の間使って来た風炉を閉じて、地炉を開く日なのだ。そして、今年の春に摘まれた新茶の壷を開けて「口切」をする日でもある。今日は、半年ぶりに開いた地炉に火を活け、沸かしたお湯で新茶を立てる、茶人のお正月なのだ。十一月は茶の新年といって、茶人にとっては大きな季節の区切りとなる頃でもあるのだ。
2005.11.11
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◇木曜日:旧暦十月九日 戊戌;エレベーター記念日一年365日大抵何かの記念日になっているのは不思議な程だが、今日はエレベーター記念日である。明治23年(1890年)のこの日、日本で初めての電動式エレベーターが設置された赤レンガ造りの凌雲閣が浅草に完成した。俗に言う「浅草十二階」である。浅草十二階は八角形のフロアプランを持った、高さ52mの、当時としては「超高層」のビルであった。それで昭和54年(1979年)日本エレベーター協会が、十一月十日をエレベーター記念日としたわけだ。浅草十二階の1階から8階までは、このエレベーターで登れる・・・はずだったが、これがとにかくのべつ故障ばかりしている代物で、ろくに動いたためしがない。それでとうとう翌年には使用中止になってしまったそうだから、そんなものを記念日にしてしまって良いのかと思う。日本初の動かないエレベーターを尻目に、螺旋階段を登り詰めたてっ辺からの眺望は素晴らしかったらしく、当時の文人たちの記述も多く残っている。例えば田山花袋などは「十二階の上で見ると、左は伊豆の火山群から富士、丹沢、多摩、甲信、上毛、日光をぐるりと細かに指点することが出来る。第一に目に着くのは富士である。東海の帝王、実際屹然として群を抜いている。その下にやや左に偏って、足柄群山が見える。・・・・」と、「浅草十二階の眺望」に書いている。今のように、車も殆ど走らず、高層ビルなど全く無かった時代のことだ。澄み切った空気を通しての眺めはさぞかし素晴らしかったろうと想像できる。しかし、ご存知の通り浅草十二階は大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊してしまった。先頃体調を崩して食欲が無く、お粥を炊いた。体の具合がよくないのは、何かの毒が体内に滞留している所為だと思う。本来人間の体は自ら治癒力を持っている。だから、なるべく外から清らかものを体内に取り入れて毒を排出するようにすればよい。単純だけど、僕の場合それで結構うまくいくのだから、多分正しい。具合がよくないときは自然水を沢山飲んで頻繁におしっこにして排出する。それだけでは体力が消耗するからお粥をいただく。色々加工されたものではいけない。太陽の恵みをいただいたお米を、綺麗な水で柔らかに炊き上げるのだ。お粥を炊くには、ゆきひらに限る。ふっくら丸みを帯びた深めの胴に洗ったお米を入れ、たっぷりの水を入れてゆっくり炊き上げる。やがて細かい泡が注ぎ口から顔を出すようになったら、吹きこぼれないように更に火を弱める。その内粘りが出てきて、ゆきひらがふつふつつぶやき始める。頃合を見て、岩塩を少しだけ振込めば白粥が出来上がる。お米の香りがふんわり立って、そのままでもおいしいが、えびすめ(大阪の昆布の佃煮)や、梅干を入れれば程よい旨味がつく。かつ節をかけて、ちょっとお醤油をたらすのも、鰹の香りが立って好きだ。わが国はおいしいお米という宝物がある。体の具合が良くないときでも、お粥だけは食べられる。主食がこんなにおいしい国は他にはないだろう。日本人に生まれた幸せを感じる時である。ゆきひらという名前が好きだ。「Yukihira」という音は響き優しく、湯気を上げる真っ白なお粥に相応しい。この名前の由来には諸説がある。在原業平の兄の行平ゆきひらが海女に塩水を汲ませ、平たい鍋で焼いて塩を作った故事に因むというのが一つ。塩を焼く平たい器を雪平鍋といったのだというのが又一つ。鍋から湯気の立つ具合を湯気平ゆげひらといったのが「ゆきひら」になったというのがさらに一つ。いずれにしても、焼物製の深い鍋だ。最近はアルミの打ち出しやステンレス製の片手鍋を「ゆきひら」と称して売っているようだが、あれは似て非なるものだ。あくまでも陶製の丸っこい深鍋で、必ず把手と蓋、それに鍋自体に注口が付いているものを「ゆきひら」というのである。これを使って作るからお米もゆっくりと煮えておいしいお粥が出来上がるので、アルミやステンレスではおいしく出来るわけがないのだ。
2005.11.10
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◇水曜日: 旧暦十月八日 丁酉; 上弦、太陽暦採用記念日、119番の日今日は119番記念日だそうだ。分かり易いが、ここまで分かり易過ぎると、何の感動も無い。この日は又、太陽暦採用記念日でもある。今を去る事133年、明治5年(1872年)の事だというから、新橋~横浜に「汽笛一斉」が響き渡った年だ。時の明治政府は文明開化を号令し、頑迷固陋の弊を排すべく(そんな大時代的な意気込みではなかったかもしれないけれど)、この年の十一月九日に詔書を布告して、それまでの太陽太陰暦(旧暦)を改め、太陽暦(新暦)を採用する事にした。その結果、十二月二日を以って明治5年は終わり、翌日が明治6年の元旦と定められたのである。然し待てよ、そうなると詔書が発布された十一月九日は未だ旧暦だったはずだ。それなのに、新暦の同じ日を太陽暦採用記念日としているのはちょっと変な気がするのだが・・・。周囲は今や秋たけなわである。通勤途中に良く通る道の並木も、気の早い枯葉が冷涼な風に舞うようになった。この「たけなわ」、語源は何だろうと調べてみたら、「宴半ばうたげなかば」が転じて「たけなわ」になったのだという。へぇー知らなかった。漢字だと「酣」。音読みは「カン」となる。これは文字通り「酒が甘い(旨い)」と言う意味の会意文字で、宴会が最高潮に達して、美味しいお酒に陶然となっている様を表す。中国の古典には、戦酣日暮(戦いくさたけなわにして日暮れる)などという言葉も有るようだ。そうなると、宴会の席上で幹事が、「えー、皆様。宴もたけなわでは有りますが・・・」とやるのは、いささか同語反復のきらいがあることになる。満ちれば欠けるのは世の習い。最高潮に達すれば、その後は自ずと衰退の兆しが顕われる。「たけなわ」も同様に衰えの兆しを表す意味にも使われる。但しこういう場合には「闌」(音読みは「ラン」)の字があてられる。闌夜らんやといえば、従って夜半過ぎのことを云うのだ。「齢闌よわいたけなわという言葉が有る。これは壮年のことを云うと共に、やがて近づく老境の予感を感じさせる。そうなると「秋たけなわ」には闌の字を、「春たけなわ」には酣の字をそれぞれ充てるのが正しいと云えるのかもしれない。
2005.11.09
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◇火曜日:旧暦十月十月七日 丙申;京都伏見稲荷火焚祭そろそろ首都圏の平地にも紅葉がやってくる頃になったが、時々他所様のお庭にドウダンツツジの見事な紅葉を見かける。遠くからも目立つ紅色は、近くに寄って見つめるとその深さに吸い込まれるような気がするほどだ。ドウダンツツジは、元来は「灯台躑躅」と書き発音も其処から来ている。これは枝分かれの形が「結び灯台」に似ているからだといわれる。「結び灯台」といっても、すぐに分かる人は殆ど居ないはずだ。同じ長さに切りそろえた竹を三本合わせ、片方の端に寄せて縄で結わえる。長い方を下にしてこれを開くと、三叉状の台が出来上がる。こうして出来上がった台に灯明皿を置いて灯りを燈す。これを「結び灯台」というのである。今では時代劇の中くらいでしたお目にかかることはない。この躑躅は、枝分かれする形が、この結び灯台に似ている。それで灯台躑躅という名がついたのだそうだ。ところが辞典を引くとドウダンツツジは満天星躑躅と書くことになっている。この木は春になると白い小さな壷状の花を咲かせる。春の陽光の下、真っ白な小さな花が鈴なりになって咲く様が満天星のように見えるというので、この名前が出来たのだという。これは中国由来の名前なのだそうだ。花はスズランのようだが、れっきとしたツツジ科の植物である。ツツジは躑躅と難しい漢字を書く。これは躑躅と読むほかに躑躅てきちょくと読む。テキもチョクも、け躓いたり、よろけたりする意味だ。これは躑躅の花には毒が有って、これを動物などが誤って食べると、酔っ払ったようになってよろめく事に由来するのだ。この話しは、以前「二十四気便り」にも書いた。どうだんの花のこぼれのしろじろと 月夜になりし庭松の露 太田 水穂どうだんの葉のくれなゐは日に濃くて 手の負へざりし雑草も枯れぬ 清水ちとせ
2005.11.08
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◇月曜日: 旧暦十月六日 乙未; 立冬今日は二十四気の「立冬」である。吾が日本人は立春といえば春の始めで、立夏も夏の始まり。つまりは、立冬も冬の始まりと思う。しかし、体感上は未だまだ冬の気配は無い。これは他の立春、立夏、立秋も同様である。以前にも何度か書いたことだが、西洋では冬至を持って冬の始まりとする。同様に、春分、夏至、秋分がそれぞれの季節の始まりとなる。つまりは西洋の感覚では立冬というのは秋の極まるところ。「秋真っ盛り」ということになり、実はこちらの方が我々の実感覚に近いものがある。立冬の頃になると庭にツワブキの花を見かけることが多い。庭の隅の少し苔むしたやや湿っぽい辺りに、幾分くすんだ黄色の花を咲かせる。ツワブキは「艶葉蕗」から来ており、艶を帯びた濃緑色の丸い葉は蕗の葉に似る。しかし、花はれっきとしたキク科のそれだ。ツワブキは俳句では初冬の季語とされ、石蕗つわと読む。「ちまちまと した海もちぬ 石蕗の花」 小林一茶「石蕗つわぶきの 日陰は寒し 猫の鼻」 酒井抱一「いくたびか 時雨のあめの かかりたる 石蕗の花も つひに終はりぬ」 斎藤茂吉音の響きも、そのたたずまいも、成熟した大人の女性を感じさせる花である。
2005.11.07
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◇日曜日:旧暦十月五日 甲午;土曜日に群馬に行き、帰りは日曜日になった。朝ちょっと寄り道しようと、国道291号線の水上温泉傍の道の駅「水上紀行館」に立ち寄った。この付近には湯治などで訪れた文人歌人の歌碑が多い。水上紀行館の辺りには、与謝野晶子の「岩の群おごれど阻むちからなし 矢を射つつ行く若き利根川」や、その夫与謝野鉄幹の「その奥に谷川岳の雪ひかり 半ば若菜に隠れたる橋」更には、原一雄の「越後より吹き来るかたに聳えつつ 雪に耳伏す 耳二つ岳」(「耳二つ岳」は谷川岳の古称)などの歌碑があるそうだ。道の駅には淡水魚水族館も併設されており、トンネル水槽や、利根川水系の魚の展示など、中々ユニークな設備のようで、ちょっと食指が動いた。ところが、道の駅に乗り入れて駐車しようとしたら、異常な混雑で車を駐める場所が無い。かなり広い駐車スペースが全て車で埋め尽くされ、隣の空き地にまで車が駐まっている。何事かと思ったら、朝市であった。どうも日曜日毎に開かれている行事らしい。里芋の親株などがゴロゴロ置かれているのは、何となく群馬らしい。「リンゴの皮むき大会」といって、一番の長さに皮をむいた参加者が、「一等賞!」といってお醤油のペットボトルを賞品で貰ったりしている。音楽やお囃子が鳴っているわけでもない。ひたすら地場の産品を並べて売る、ごく真っ当な「朝市」である。来ている人たちの様子を見ると、温泉客ではなく、殆どが地元の人のようだ。折からの薄ら寒い曇天は、秋を通り越して最早冬の様相である。こんな寒い、しかも日曜日の朝にこんなに大勢がやってくるなんて、この辺の人たちは他に楽しみが無いんだろうかと、余計な心配すらしてしまう。人ごみで賑わう一角、水族館の前の広場で「野菜釣り」というのをやっていた。夏になると庭先に置く大型ビニールプールのような中に、青色のシートを敷いてそこにスーパーのポリ袋が幾つも投げ込んである。それぞれを見ると、白菜が一株丸ごと入っていたり、里芋がごろごろ入っていたりする。お金を払うと、「釣り竿」が渡される。親指くらいの太さの木の枝の先に結び付けられた紐の端に大きな釣り針がついていて、これでポリ袋の取っ手の部分を引っ掛けて、文字通り野菜を釣るのである。馬鹿馬鹿しいようなものだが、やっている人は至極一生懸命である。要領のいいのは、白菜の入った袋を釣った後、そのまま里芋の入った袋も引っ掛けて、一度に二つもの獲物を釣り上げたりしている。縁日の水風船釣りとは違って「外れ」はない。必ず釣れるまでやっていられる。それにしても、あんなに沢山の野菜を持って帰って食べきれるんだろうかと思うが、それは核家族化してしまった都会の人間の余計な心配なのだろう。前の晩には一家総出で、畑で取れた野菜をポリ袋に詰めて朝市のための用意をしたのだろう。そういう様子を想像しつつ、目の前で一生懸命の釣り人を見ている内になんだかほのぼのとした気分になった。
2005.11.06
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◇土曜日: 旧暦十月四日 癸巳; 天一天上群馬県方面に出かける用事が有ってレンタカーを借りた。最近はレンタカーには例外なくGPSを利用したカーナビゲータが付いている。僕の自分の車にはこういうものは付いていない。付いていないというより、敢えて付けない。自分で運転する時には「迷う楽しみ」というのが有るのだ。知らない所へ行き、どこかの道に迷い込んでしまう。困るけれど、それはそれで楽しい。だって、この道はこうして迷った結果でもなければ恐らくは一生通る機会も無かった筈だ。今、縁あって通っている道は、まさに一期一会じゃないか。それに、出かける前にはいきおい地図をちゃんと見るようになる。地図を見て、どこをどう曲がって、どの道路を通るのか?目印は何か?距離は?など予め色々調べて、大事な部分は覚えておく。これが結構な頭の労働になる。カーナビが車に付いていると、こういう「予習」は一切不要になる。目的地さえセットしてしまえば、後はガイドに従って運転していけば誤らずに目的地に到着できる。だからそれが詰まらない。第一、カーナビに頼って運転していると道を覚えない。しかし、これは僕のようなWeek End Driverだから許される事である。いわば、一種の贅沢だとすら言える。カーナビの登場と普及は、仕事で見知らぬところへ、しかも急いで行かなければならない、タクシーや宅配便の方々には大いなる福音であったろうし、いまや必須アイテムであろう事は充分理解できる。ともかく、折角付いているのを使わない手はないので、目的地をセットした。これが中々手間がかかる。レンタカーを借りるたびに思うことだが、この辺の操作性は実に良くない。地図から検索したり、施設名から探したり、50音で探したり、いろいろな手段が用意されてはいるものの、そのどれもが使いにくい。小さなボタンや、ジョグダイアルもどうも使いにくい。目的地がそんなに遠くないところだと、いろいろやっている内に、本来ならもう着いてしまっているのにと思えてくる。何とか、セットし終わって走り出すと、車の進行に連れて画面上を動いていく地図と共に、要所要所で音声ガイドが入る。「5キロ以上道なりです。」とか、「およそ700メートル先を左方向です。」などと教えてくれるのだが、これが平板な女性の声である。まぁ、平板な男の声よりは良い。この声が会社の憎たらしい上司の声だったり、我国の宰相の声だったりしたら厭だろうな。しかし、いつも同じ平板な女性の声だけではなく、幾つかのオプションを用意したらどうだろう。例えば「色っぽい女性の声」とか、「元気一杯の少女の声」、「大阪弁の男性の声」など、数種類のバリエーションを用意しておくと面白い。「はんなりした京女の音声ガイド」なんかが有ったら、ドライブも結構楽しめるんじゃないか?無事に用事が済んで、東京に戻ってきたら、カーナビの女性は真っ直ぐ高速の終点まで行って、一般道伝いに帰着点まで帰るようにと指示なさった。ところが、これが渋滞で、恐らくはその後の一般道も混んでいると推定される。だから、カーナビに逆らって、首都高速へ分岐し、そこから高速道路伝いに戻る事に決めた。そうなったら、今度はカーナビがご機嫌を損ねてしまったようだ。高速道路を走っているのに、次の信号を右だとか、左だとか指示を出してくる。とんでもないところで「およそ300メートル先を右折です。」などと云ってくる。右側はずぅーっと中央分離帯でしかないのに。挙句の果てに、「およそ700メートル先を戻る方向です。」などとおっしゃる。時々高速道路を逆行する車の話しがニュースになるが、案外こういう事も原因に有るのかもしれない。要するに、こちらは未だ高速道路に乗ったままなのに、カーナビの方は一般道に降りて走っていると思い込んでいるのである。広々とした郊外や田舎ではそういうことはないが、東京都内は道路が立て込んでいるから、一般道の上に高速道路が被さるように、同じ方向に走っている個所が多い。カーナビは高低差には鈍感なようで、地図上で道路が重なっていると、「上」を走っているのか「下」を走っているのか区別がつかなくなってしまうのだ。その場合カーナビ君は、こちらが指示通りに走っていることを前提にするらしい。こういう場合のために、「カーナビの誤解を解く」手段はない。「一般道じゃなくて高速道路を走っているよ」と教えてやることが出来ないのだ。だから、「右折だ」、「左折だ」、「後戻りしろ」という矢継ぎ早の指示をひたすら無視して、記憶を手繰りながら走らざるを得なくなってしまった。そうなるとカーナビの女性の声もただうるさいだけである。早い話が、これなども「便利になれば人間の能力は落ちる」例の一つだ。技術の進歩とは、人間の能力の代行を進める事だともいえる。雲の形を見て天候の変化を占い、樹肌のコケの付き方や、時刻と風の吹く方向で方角を見定めたりしてきたのが、衛星画像やGPSでより正確な情報がいともた易く手に入るようになった。その代り、一旦そういう技術から切り離されてしまうと、途方にくれてしまう。要するに技術の進歩によって、本来人間の備えていた五感はどんどん退化していってしまう事にもなるのだ。
2005.11.05
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◇金曜日:旧暦十月三日 壬辰; 消費者センター開設記念日国営テレビの番組を見ていたら、教育関連産業分野で急成長中の会社の社長が、「技術が進歩するに連れて、そういう技術を教育に利用する手法もどんどん向上している。」とおっしゃっていた。「昔はラジオしかなかったでしょう?そのうちテレビが出てきて、映像を見ながらの教育が可能になった。カラー放送が始まって、情報量がぐんと増えた。そして今度はハイビジョンでしょう?ある学説によると、ハイビジョンで人間に伝えられる情報は、今までのカラーテレビのそれより20倍も多いのですよ。」と、そうおっしゃる。この会社は、携帯電話を利用した教育の仕組みを子供たち向けに開発中であるそうだ。同じ番組の中では、コンピュータグラフィックスによって作られた三葉虫が動き回っている映像が紹介されていた。こうして再現された映像モデルによる教育効果が、誇らかに語られていた。技術がどんどん発展するにつれて、距離の暴虐を克服して教育の機会均等化が進むのは大いに結構な話である。又教育内容そのものが充実していくのもすばらしい事である。しかし、Visualizationつまり「映像化」や、映像の高精細化が、あたかも教育内容の充実の代名詞のように喧伝されるのには異論がある。三葉虫のモデルがあたかも生きているかのごとくに再現されて、古代の海の中を泳ぎまわっているのを眼前にするのは、興奮するし面白い。しかし、その背景の数学モデルが正しく構築されているのかどうかは、一般の視聴者には検証できない。昔のモノクロの「ちろりん村とくるみの木」の世界と、CGを駆使したカラーの「スターウォーズ」の世界を較べれば、僕個人としては「ちろりん村」のほうが好きだ。与えられる情報量が少ないほど想像力は刺激される。技術が進歩すると、より具象的な形で我々の前に物事が呈示されるようになる。そうなればなるほど、人間が本来的に持っている想像力や知的好奇心は阻害されるようになるはずだ。脳がある程度成長しきってしまった大人にならともかく、論理面でも情緒面でも発展期にある子供たちに、余りに具象的な形で情報を与えるのは良くない。若い脳も腹同様に飢えさせるべきなのだ。具象的な情報とは、言い換えれば加工された情報である。加工するのは人間だから、結果として出来上がる具象情報には加工者の恣意性が反映される。もともとの素材は、遍く共通で且つ本質的なものである。それが加工を経て具象情報へ至る過程は非可逆的過程である。つまり、目の前の三葉虫のモデルから、大元の「真実としての素材」に遡る事は出来ないのだ。従って加工過程での、この恣意性の部分こそが批判や検討の対象となるべきだが、そういうものがちゃんと論われるものかどうか。どうかすれば、知らず知らず隠れた恣意性がはびこるようになってしまうだろう。そして、よしんば個々の恣意性にある種の統一的な意図が作用するようなことになれば、これはファシズムと変わるところはないではないか。
2005.11.04
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◇ 木曜日:旧十月二日 辛卯;文化の日、京都松尾大社上卯大祭、東京皿沼不動万灯祭僕は学校で理論物理などというものを勉強し、社会に出てからは一貫してITの分野で仕事をしてきているものだから、「理屈ばっかりこねている味気のない人間」だと周りから思われている節があるけれど、実はお寺や神社には敬虔な想いを持つ者である。お寺は人間の信仰心の凝縮する場所であるし、神社は色々な神様が人間界に窓口を開いていらっしゃる聖域である。そういう場所に赴くと自ずと気持ちは粛然として、素直に頭こうべが下がる。会社の入っているビルの正面には、豊川稲荷の神田錦町分院があって、赤い鳥居を前面に構えた小さなお社が、路地の奥に鎮座ましましている。ここに引っ越してから、毎朝会社に出る前にお参りする事を習慣にしている。ちゃんと、その都度小額ながらお賽銭を上げ、ニ礼ニ拍一礼の作法でお参りするのである。東京で豊川稲荷というと、赤坂の東宮御所の南端、青山通りに面したところに立派なお社やしろがあり、それがいわば本家筋にあたる。赤坂の豊川稲荷の場所は、元は南町奉行大岡越前守忠相の屋敷だったそうで、大岡さんは三河(愛知県豊川市)の豊川稲荷を自分の邸内に分院なさった。それが東京の豊川稲荷の起源だという。お稲荷さんは普通は神社であるけれど、この豊川稲荷は元々は曹洞宗のお寺、円福山妙厳寺の俗称だという。我国のお稲荷さんの総本社は、京都の伏見稲荷である。和銅4年(711年)の二月初午の日に伊呂具秦公いろぐはたのきみという人が、京都伏見の伊奈利山に社を建てて 倉稲魂神うかみたまのかみ(或は宇加之御魂大神うかのみたまのおおかみとも。)、猿田彦命さるたひこのみこと、大宮女命おおみやめのみことの三神をお祭したのを嚆矢とする。それが今では全国十三万社にのぼる神社の内、約四万社がお稲荷さんだというから、大したご出世であるといえる。祭られた神々は農業の神様であり、稲作文化の隆盛と共に多くの人々の信仰を集めるようになったのだろう。お稲荷さんといえばお狐さんだ。もともと狐は、宇加之御魂大神の神使であった。それが、稲荷信仰が普及していくに連れて、召使のほうが有名になり、最後には「お稲荷さん=狐」となってしまった。これなど、タレントの付き人のほうに人気が出て、主客転倒してしまったようなものだな。確かに「うかのみたまのおおかみ」なんて長い名前より、「きつね」の方が覚えやすい。神様も人気を維持したかったら、名前にも注意を払う必要がある。東京では王子稲荷が狐の総元締めみたいになっている。王子稲荷は江戸の頃には関八州のお稲荷さんの総元締めの立場に有った。毎年大晦日の晩になると、関東全域からお狐さんの代表が近くの装束稲荷に集合し、ここでやんごとなき女官にょかんの姿に装束改めして、王子稲荷まで行列を整えて参拝したのだという。この行事は今も続いている。それに、江戸の噺はなしには「王子の狐」というのがある。柳家小さんが得意だったか。ある男が王子の辺りを通りかかると、丁度一匹の狐が頭に草を乗せて化けるところで、やがて歳の頃二十ニ~三の美しい女が出来上がった。男は「ここは一つ狐を化かしてやろうと、声をかけ首尾よく女を連れて近くの音無川のほとりの卵焼きで有名な扇屋に上がりこんだ。二人はそこでさしつさされつ酒を飲み始める。やがて、狐が化けた女はすっかり酔っ払って寝てしまう。男は、名物の卵焼きを折り詰めにしてもらうと、「お代は二階の連れの女が払うから」と帰ってしまう。やがて、店のものが女を起こしに行き、「お代を」と催促すると、狐は大いに驚き化けの皮が剥がれて正体をあらわしてしまう。店のものは寄ってたかって「無銭飲食の狐」を叩きのめしてしまう。翌日、周りから「狐は執念深いから、騙したままにしておくとずぅーっと祟られる」と脅され、怖くなった男はぼた餅を手土産にして王子稲荷の狐の穴まで謝りにやってくる。すると子狐が出てきたので、昨日のことを詫び、よろしく云ってくれと手土産を置いて帰ってしまう。子狐は、昨日散々叩きのめされた痛みで穴の奥に臥せっていた母狐の所へ行き、経緯いきさつを話す。「まぁ、よく此処を突き止めやがったもんだ。そいつは未だいるのかい?」「ウウン。もう帰っちゃった。昨日は悪ぅござんした。おっかさんによろしく伝えてくださいって、これをアタイにくれたよ。」「まぁ、ぼた餅じゃないか。」「ア、美味しそうだよ。おっかさん、食べて良い?」「およし!馬糞かもしれない。」これで、「お稲荷さん=お狐さん」という地位が確定してしまったんだろうな。先に、豊川稲荷は禅宗のお寺だと書いたが、正確には妙厳寺境内の「豊川だ枳尼真天」を祀るお社で、まぁこのお寺の鎮守樣のような立場らしい。京都の伏見稲荷とともに日本三大稲荷とされ、その格式は高い。だから、ちゃんとニ礼二拍一礼で拝んで障りはないのである。ところで神様にお祈りをする時には、自分の願いを唱えるのではなく、拝んでいる神様の隆盛をお祈りするのだという事を先頃教わった。なるほど。そりゃぁ神様だって、身勝手な願いをほんのわずかなお賽銭で押し付けられるより、自分のために祈ってくれる方が嬉しいに決まっている。だから僕は、いつも「会社が発展した暁には、立派な祠を建てて、そこにお祀りさせていただきます。」と祈るようにしているのだ。
2005.11.03
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◇水曜日:旧十月大の月一日 庚寅; 朔、庄内百万石祭、唐津おくんち今日から旧暦の十月に入った。全国的に「秋晴れ」の日数は神無月に多いとされるが、今週末にかけて、段々お天気は悪くなりそうだ。毎週読んでいる週刊朝日の11/11号の冒頭に「東大をめざすなら公立高校に入れなさい。という記事が出ていた。最近までの「常識」は東大生の親は高所得者が圧倒的に多く、灘、ラサール、開成など中高一貫教育の私立の高校が、圧倒的な合格率を誇ってきたと言うものであった。しかし、21世紀に入ってから徐々に公立高校の出身者の割合が増え始め、今では東大生の33~34%は公立高校の出身者で占められているのだそうだ。それと共に、東大生の親の所帯の年収額も徐々に減少して来ている。1994年には年収一千万円未満の親の占める割合は57.6.4%だったが、2003年ではこれが72.7%になっている。特に年収450万円未満の層は、1995年の5.7%から2003年には13.9%と2倍以上の増加を示している。要するに「東大はビンボー人の星になる」傾向だと言うのだ。掲げられた表によると、上記と共に東京都及び首都圏出身者の数が増え、地方出身者の数は少しづつ減少しているように見える。つまりは、「東大は地方大学化しつつある」?最近出版された「下流社会」という本※によると若者の間で階層格差、希望格差が拡がっているのだという。簡単に云うと少数の「ホリエモン」又は「ホリエモンになってやろう」という層と、「ホリエモンになんかならなくてもいいや」又は「所詮ホリエモンなんかにはなれないよ」という層が、徐々に乖離し始め、後者の層の人数がどんどん増えている、というのである。この本では、後者を「下流」と定義し、下流層の特徴を「成功物語否定」、「個性尊重型」だという。この下流層は「団塊ジュニア世代」(「団塊の世代」の子供たちという事ではなく、第二次ベビーブームである1971年~1974年に生まれた世代のこと。全体で約800万人)に顕著なのだそうだ。この団塊ジュニアの「下流」民の三種の神器は3P、つまりパソコン、ケータイ(Pager)、プレステなんだそうで、男は引きこもり、女はサブカルチャー系の趣味が多く、要するに歌ったり踊ったりしているのだという。この世代の下流層が、要するに「自分らしく生きたい」と「主張」する連中である。「じゃぁあなたの“自分”とは何だ」と聞かれれば分からなくなってしまい、単に規則や規律に縛られたり、競争したりするのが厭だという情けない怠惰さを露呈してしまう。挙句の果てに「自分探しの旅」に勝手に出かけてしまうのだから、始末に終えない。引きこもりや、フリーターなどの温床であり、我国の少子化の「牽引層」でもあるといえそうだ。団塊の世代ジュニア以降の世代は、親の世代からの影響で、郊外定住型の傾向が圧倒的に強いのだそうだ。本の中には、練馬区のある大学で聞き取り調査をしたら、学生の居住地は殆ど埼玉県内の西武線沿線に限定されていたのだそうだ。要するに各私鉄沿線には同じような偏差値の大学があるので、わざわざ遠くまで「越境」する必要がない。二流以下の大学だと、わざわざ地方から進学してくる学生など居ないから、大学に近接した居住地の学生ばかりが集まってきて固着してしまうのだというから、恐ろしい。そうして大学を卒業しても、果敢に「外地」に出て行くことなど望むべくもないから、やがては日本は、インターネットとケータイのみで相互に結ばれた、閉鎖的な村ばかりが増えていくんじゃないか?何だか、全体に覇気の感じられないこと夥しく、我国の将来が不安になってくる。そこで東大の地方大学化である。昔僕が受験生だった頃、地元に近接する旧帝国大学は、他の七つの旧帝大に較べて、学生の出身地が異常なほどに近隣に限定され、卒業生の就職先も地場に集中しているというので問題になった事があった。(今はどうだか知らない)同じ傾向が我国屈指の「一流大学」とされる東大にも生じているのだとすれば、いよいよ由々しき事態だ。東大が「近隣のビンボー人の星」になってしまい、我国は閉鎖的なムラ社会の集合体になってしまう日が来るのだろうか?※「下流社会 - 新たな階層集団の出現」三浦展著 光文社新書2005年9月 ISBN4-334-03321-0
2005.11.02
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◇ 火曜日:旧九月三十日 己丑; 灯台記念日、新米穀年度、計量記念日中部地方のある大学の先生(男性)がお書きになっているブログ上で「伴侶の事をどう呼んでいるか」という話題で少し盛り上がった。概ね男性からの意見が多く、「家内」、「妻」、「嫁さん」、「奥さん」、「カミサン」などと色々出てきた。しかし、男が「伴侶からどう呼ばれているか」という点ではどうなんだろうか?僕など先日、休日出勤で家から最寄駅に向かう途中、道の向こうを反対側からやってきたカミサンに、「○△×ちゃん」と名前を大声で呼ばれてどぎまぎしてしまった。彼女はいつも僕のことを外であんな風に呼んでいるんだろうか?恋愛の平均寿命は7年だそうだ。結婚はまぁ概ねそれよりは長く続くから、熱情も冷め、恋愛も終わった8年目以降、相互に相手をどう呼ぶかは、夫婦間の実質的位置関係に深く影響される事になるはずである。我国の憲法では、夫婦間での経済的互助を求めている。この点、憲法の精神は純粋に男女平等である。しかし、「男は外で働いて金を持って来る」、そして「女は家にいて、男の稼いできた金で養ってもらう」という考えが、実際の感覚の上でも、又以下に見るように離婚訴訟の判例の上でも基本的な社会規範として厳然と生きているのも又現実である。こういうことを書くと、僕など周りの女性軍から「旧弊な男女差別主義者」と決め付けられそうだが、世の女性がこの社会規範にムカツクのは、「女は家にいて」という事についてであり、「男の稼いできた金で養ってもらう」点には、恬淡と受容なさって反論される事などなかろう。これは賭けてもいい位の事実だと思う。六本木ヒルズや、日本橋の証券街を颯爽と闊歩される、男女機会均等の権化のようなキャリアウーマンの方々でさえ、男性と食事に行けば、奢ってもらう事はごく当たり前の事として、こういう時には決して男女対等を主張されることはない。全くどっちが差別されているんだと言いたくなる。大半の弁護士の見解では(実際の判例でも然り)、男が仕事を辞めて専業主夫になり、経済的収入がなくなった場合には、その事が妻が離婚を申し立てる正当な事由になるのである。ところが、妻が仕事を辞めて専業主婦になった場合には、これは離婚事由にはあたらないとされるのだ。これは憲法の精神に反するじゃないか。ひどい差別じゃないか。違憲訴訟でも起こしてやるか。え?どうよ?どうよ?そういう筋道で考えてくると、結婚生活を7年超にわたって継続している夫婦の妻が夫を呼ぶのに、もっとも正当で且つ正直な呼称は、「ウチの金蔓かねづる」ということになるんだろうな。僕なんか本当にそう呼ばれているのかもしれない。
2005.11.01
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