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”自我・心が芽生え、根付いた時から、人はこの[偉大な知]を忘れてしまう”まずはこちらの動画を、是非ご覧くださいませ_(_^_)_。https://www.facebook.com/photo.php?v=4931283674276505歳以下の子供の死亡原因の第一位は溺死、ということです。自我・心が芽生え、根付いた時から、人はこの”偉大な知”を忘れてしまうのです。にほんブログ村
2013年04月30日

引き続き 元祖天才とバカと凡のパパ・・・・我々は皆 1時間後に死ぬかもしれないし100歳まで生きられるかもしれないのであ~~る誰にも一寸先のことはわからないのであ~~る従って 今 があるだけなのであ~~~~~る!!!知ってたか?にほんブログ村
2013年04月30日

元祖天才バカボンのパパだから・パパなのだ西から昇ったお日様が東に沈むこれでいいのだ!因果関係なんて面倒なものはないのだやったらどうなる とかやらなかったらどうなる とか考えなくていいのだ!もがく必要などないのだ!ストレスなどありえないのだ!知ってたか?!俺の息子は天才 であり バカ であり 凡人 でもあるのだ!世界・人類・森羅万象 全てこれでいいのだ!!!にほんブログ村
2013年04月29日

”鏡 と 自分”禅問:自分 とは ”自”を”何から”分かつのか?それは何のために?私がこの質問をしたのは”鏡” という言葉にしても ”自分” という言葉にしてもこの言葉を作った人が意識していようが、意識していまいが、”あるがままに”という 至福 を ”知る”(本当は皆知っているのですが、蛇(個我の知)に惑わされて忘れてしまっている)ヒント が隠されていると感じたからです。これらの言葉を作った人にも(この人だけじゃないんですよ!) 神性 が宿っていたことをご本人様が自覚していたか、していなかったか?私には定かではありませんが、私にはそれを見て取れるのです。鏡 を かがみ というのは”鏡”に己を映してみなさい己だけではみられなかった 己の瞳さえもそこには、映っているじゃないか。でもそこから 我(個我・自我)を取り除いてみよ鏡に映った姿は同じだが、鏡が映しているのは 神 だぞかがみ とは かむ(神)が(の)み(身・姿)でもあるのだぞかがみ で 我 をみるのもよしかがみ で 我(神)をみるのもよしっと。大いなる力は、この言葉を作った人を通して、この言葉にご意思を託されたのでしょう。禅問:自分 とは ”自”を”何から”分かつのか?それは何のために?私がこの質問をした理由は、”自分”という言葉を注意深く見ていただくと”あるがままに”の状態とは? ”あるがままに”の状態であるためにはどうしたらいいのか?それが示されていると思ったからです。ヒントは 鏡 のところに記してあります。にほんブログ村
2013年04月29日

禅問自分 とは ”自” を ”何から” 分かつのか?それは何のために?にほんブログ村
2013年04月28日

<主語も目的語も欠如した行為> という記事に対してこんな質問を受けました。Jさん:相対的な関係が消滅して因果(因縁)関係がなくなれば本来、あるべき秩序が回復するということですか?つまり、顕在意識による恣意的行動は本来の秩序とは相容れない因縁を発生させると?私:本来あるべき秩序と仰られている内容についてはなんとなく伝わりますが、できましたらもう少しはっきりさせてくださいますと、的はずれな答えをしないと思います。第1文ですが、因果関係というものは、相対関係(相手とか対象)が存在しなければ、発生しないものだとはいえます。そして顕在意識、恣意的行動、誰が何をするという意識の上に因果関係による輪廻、生死・・・・そのほかこの世界の中にあると思われている全てのもの(幻想)が存在していると言えます。Jさん:まず、一つの前提として、この世(自然界)には一定の秩序が存在するとします。宇宙レベルでも細胞レベルでも。で、その秩序に従って運行していけば、各個体が幸せかどうかは、ともかくとして、一定の調和のとれた世界が実現するとします。 各個人が、相対的な関係を消滅させた後にも、一定の秩序に基づいた行動がとれるとすれば、それは、個々人が秩序を内包しているからにほかなりません。そうでなければ「一挙手一投足といえどもこの大いなる力が及ばぬことはない」ではなく、混沌とした状態になるでしょうから。つまり、その個々人に内包された秩序が「本来の秩序」ということで、我欲、妄執、憤りなどによって生まれた行動(因縁)が消滅すれば、それらによって覆われていた本来の秩序を回復させることができるということか? という意味です。私: 相対的な関係を消滅させた後にこの答えは自ずから見えてきます。Jさんが仰る(あるいは見ていらっしゃる)私、あなた、彼・彼女・・・、これらは相対的な関係を消滅させようが、させまいが、何も変化はありません。それが本来の秩序というものです。絶対なんです。何物にも揺るがされず、影響を受けずに存在します。従って、誰が、彼が(っと思われている存在が)何をしても、しなくても、意図的であろうと、意図せずとも、本来の秩序とJさんが仰るものは影響を受けません。そして、本来の秩序 とJさんがお書きになられているものは、”今までも、今でも、そしてこれからも 存在していたし、存在しているし、永久に存在し続ける”でしょう。名は、宇宙 であっても、無限世界であっても、神であっても、Jさんが表現なさった 本来の秩序 であっても、それに帰依できればいいのです。名は、言葉は、全くなんの意味もないんです。重要なのはその本質であり、名と言われるものは、私(真我という意味の)が存在するのみです。”宇宙も、世界も、私も、この世に存在すると個我(自我)が認識しているもの全てが幻想”とマハルシ師が表現なさったことは、”本来の秩序(真我)以外には存在するものはない”ということの裏返しなんです。****************”本来の秩序 以外には存在しない” ということが理解できれば、宇宙とは、世界とは? 我とは? 知識とは?分別とは?名とは?言葉とは??その答えは、相対的な世界の中では決して見つかるはずはなかった っと、自我・個我を含めた、相対的な世界・宇宙というものの存在そのもの、それらの土台だと思い込んでいたものが払いのけられ、本来の土台、源が照らしだされます。”本来の土台”、その存在に気がついていなかろうが、それを取り違えていようが、存在そのものを否定しようが・・・”本来の土台は、源は、常に存在しています。”あるがままに存在し、存在し続けるでしょう。ただ 心が、自我が、それを深く、深く、覆い隠しているだけです。失楽園とはアダムとイブが追放されたんじゃありません。彼らは 意志(自我・心) というものに付き従い”楽園を後にした”のです。慈悲、慈愛を深く普く降り注ぐ大いなる力は、楽園の門戸を広げていらっしゃり、心を破壊しさえすれば、楽園はいつでも広がっています。にほんブログ村
2013年04月28日

真我探求 ~源流を辿る作業~自我・個我・心で識別する世界は幻想であるとは非情や排他を意味せず むしろその逆を意味する自我・個我・心で認識・意識することこそが世界やあなた 彼 彼女などから我を離反させ排他的に物事を分別し己を浮き上がらせ 引き立て 区別は即ち我を限り・あなたを限り・彼 彼女を限り・世界中のものを限ってエゴ(自我・個我) を確立する作業に他ならない 真我 という意識には 自我 という主語はない目的・動機 もない真我 は世界の全て を包括し 私 も あなた も 源をたどれば合流し己の中に 世界の全て を有することを意味するにほんブログ村
2013年04月28日

”錯覚”自我 曰く十人十色 ありとあらゆる様々なスタイルの自分観・世界観・人生観・死生観・・・が存在する と(これは ”錯覚”)その人独自・特有の 個別 ~~観 が存在することをもって”自由自在” と(これも ”錯覚”)自我は胸を張って朗々と述べる我はこうする我はこう思う我はこう見る”我の心・意思はどこまでも自由 且つ 無限 なり” と(”錯覚”の極み)これらは ただ 真我を限る枠・束縛でしかなく ただ 真我を覆う翳(かす)み でしかない・・・にほんブログ村
2013年04月27日

再び我らを楽園に・・・最も偉大なる知識(真我の知識)は自我による知的活動、思考 の 停止・破壊を前提とすこれを 妄想 と言うなかれ旧約聖書 にも記されているではないか!アダムとイブ が食した禁断の実 とは何であったか?知恵 善悪 分別 とかいう言葉があてはまるものではなかったか?彼らが食べ その後食べ続けている実 の正体は自我 とか 個我 とか言われるもので それ故 神 から 自立 を強いられたのではなかったのか?*****失望するなかれ 悲嘆することなかれ食べた 知恵の実 を吐き出しさえすれば自我による知的活動、思考 の 停止・破壊 しさえすれば大いなる力 は 再び 我らを楽園に招き入れん・・・にほんブログ村
2013年04月27日

メビウスの輪我の外に宇宙を 世界を 彼を 彼女を科学を 学術を病を 身体を 全てを・・・・認識しそれらとの対象において 我 を認識している以上それらを対象にしてそれらとの比較の上に認識している”我”を含めた全てのものは 幻想・錯覚 に過ぎないそのように認識させているものは 何なのか?我とは誰 なのか?我とは何 なのか?我の "裡" に問うことがなければ翳り 憂い 煩悩も取り除かれることは有り得ない我の外に我を含めた世界を求める限りありとあらゆる煩悩 は因果応報 は生死 は メビウスの輪の如く永久に続くにほんブログ村
2013年04月26日

主語も目的語も欠如した行為真我を己の中に見出した意識には自分が何かをしている自分は何か目的をもって行うという意識はないそれには ただ”ある”という述語だけがのこされる主語も 目的(動機)も欠けるのは 心が欠如していることから起こる自分の身体と思われるものを 自分の身体と認識していないことから起こる自分の思考と思われるものを自分の思考と認識しないことからおこる故に 因果関係 も生じない ”カルマ” も消滅す時間の流れ も存在しない今 だけしかない永久の今 に於いて 大いなる光 とリンクしておりそれが その身体と思われるものを動かしめる”何も知らないわけでも何も理解してないわけでもないけれど・・・何も考えずに行動をおこすことは可能ではあるまいか?何も考えずに(条件)反射のように行動をおこすことは可能ではあるまいか?そしてそれが一番良い(最善)一番楽な(至福の)道を選ばせてくれる”これが 主語も目的語もない行為 が意味することであり真我にとってはこれしか存在しない最も偉大なる知識(真我の知識)は自我による知的活動、思考 の 停止・破壊を前提とすこれが実現すれば一挙手一投足 といえどもこの大いなる力が及ばぬことはないと”知る”であろうただ あるがままに あれば良い自(おの)ずから大いなる光のシャワーは真我に降り注ぎ 照らし出され あるがままに 光とともに存在すにほんブログ村にほんブログ村
2013年04月24日

月はただ月・月は私私は(真の)私であって いわゆる私ではありません(真の)私は(真の)あなたであり(真の)あなたは(真の)私でもあります私(私の心・私の想念)を滅するということは即ちあなたという存在の消滅です私・あなたを含め世界の中に含まれていると思っていたもの 全ての消滅でもあります解放 とは この先に見えて参ります世界とは 月とは 星とは 宇宙とは(真の)あなたであり (真の)私でもありますそこに あるがままに存在するもの です月はいろんな影響によっていろんな形に見えます昼の月と夜の月は異なるものに見えますがどちらも 同じ月 それと同じように我々も我々の心によって世界と言われているものをいろんな形に見ているだけです月が どんな形に見えようとも惑わされるなかれ・・・月は ただ 月月は (真の)私であり (真の)あなた大いなる光によって宇宙も 世界も私とあなたも全てが溶け合い 融合しますにほんブログ村
2013年04月24日

解放私たちは、”私だと思っている私”を通して 私が見ている っと思っている風景や世界を見て、私の身体 っと思っている”身体”を通して感じている。しかし本当は、こんなに病が苦しいのは、”私の身体”だと思っている身体の上のことでありこんなに状況が悪くて 私は辛くてしょうがないっと思っているのは、 ”私だと思い込んでいる私” の上に感じているだけに過ぎない。風景を、世界を見ている・感じている と思っている私は、”私ではない”。私の体だと思っているものは、”私の身体ではない”。ただ そう思い込んで、そう感じているだけ。本当の私は病に患うでもなく、辛くもない病も、苦悩も、煩悩も、私という心の鏡が映しているだけ。それ(個という私・私の病・私の苦悩・私の煩悩・私の身体)は映されて、絶え間なく流れていく映像のようなもの。それは私だと、世界だと、思い込んでいるものであって、私でもなければ、世界でもない。それは夢と同じようなもの、夢も現も同次元のもの。本当の私は”鏡”であり、”鏡が映しているもの(夢でも現でも)ではない”。ただ惑わされ、幻想を実在と錯覚しているだけ。 世界の中に私が存在するのではなく、真の私の中に世界が存在する。それは流れる映像の中に鏡があるのではなく、鏡の中に映像が流れるが如く・・・・今 ここ に私が存在していると 私が思っているだけで、私は 今 ここ に 身体と心を持って存在してはいない。それ故、今 ここ の誰も、何も、真の私を煩わせることも、影響を及ぼすこともない。今 ここ という 時間と空間でさえ 真の私を縛ることもない。鏡はそこにあるだけ。今 を映すだけ。そして真の私もただ 鏡の如くに、そこに ”ある” だけ。にほんブログ村
2013年04月23日

今 があるのみあるがままに 今 がある 意志も 努力も 行為も 意図も 因も 果も なく 過去も 未来も 空間さえも 超越す そして そこには一片の翳りも 憂いも 存在しないにほんブログ村
2013年04月23日

~鏡 かがみ~ 完全なる服従 = 完全なる自由という 方程式が成り立ち存在す我(われ)は意識でも意識しているのは 我 ではない我は 名も姿もなく我は 主語になることはない我はただ 高く昇った太陽の光を反射し輝く”鏡のような海”我に一体何ができるというのであろうか?我はただ そこにありそれを映しているだけだというのに?大きな光に包まれそれを映し出しておれば良いただそこにそのようにあればよい鏡に心無く ただ光を映し続けるように我(われ)に心無くただ ただ 美しい光が溢れるのみ~ 鏡 より 我(が)取り除かれば 神 に通ず ~ にほんブログ村
2013年04月22日

永劫不変男でも女でもそして人に限らず・・・この世のすべての事象が今 ここに このようにある・・・っというのは偶然ではない肉体を含め終わり っと想われている全ての事象を超え昨日も 今日も 明日もいままでも これからも意識はずっと・・・そうあり続けるにほんブログ村
2013年04月22日

サダメの鬼コーチ殿へなんと失礼な奴だとお思いになられると承知しておりますが、サダメの鬼コーチ殿と呼ばせてください。これ以後、私は二度とこの名であなたを呼ぶことはありませんから。"あるがままに" ラマナ・マハルシ著 を半分読み、突如、あなたの全面像がはっきり私の中に浮かび上がって参りました。そして私はこれまで1勝もしたこともない戦い、それでもあなたに楯突き続けてきたこの戦いに、両手に白旗を掲げて降参する所存で御座います。17歳の時にあなたの存在を感じ、19歳の時にはほぼ存在を確信し、40歳からは反抗が激しくなり、それでも頑なに参ったと言わない私、向こう見ずの身の程知らずのじゃじゃ馬の私に、さぞかしこの長い、長い年月、御手を焼かれたことでしょう。私はあなたに首を掴まれ、手足を抑えられ、諫められた時しかあなたの存在を認識できないでおりました。しかしあなたは私が目覚めている間だけでなく、夢の中でも、眠っている時にも24時間365日つねに私を統治すべく、見守り続けていらっしゃったことにようやく私は気付くことができました。しかもこんなに物分りの悪い、出来のわるい、反抗的な私に対しあなたは、そうさせてきたのは私だ と仰ってくださいました。そして今までも、そして今も、これからも永劫不変に慈悲深く、慈愛溢れる眼差しで私を統治してくださいます。私はあなたに全てを委ねます。一挙手一投足に至るまで、あなたの意に叶わないものは、世界のどこにも存在しないのですから。あなたの存在が続く限り、私もまた有り続けます、御心のままに、あるがままに・・・にほんブログ村
2013年04月21日

風さそふ花のゆくへは知らねども惜しむ心は身にとまりけり 西行法師 ***************** いと惜しい(愛しい)惜しむのが愛ならば愛はまさに執着対象は人でも桜でも日本は、桜が散ってしまったところも多いでしょうね。Tehran市街から70キロ離れた果樹園は今が桜の季節です。にほんブログ村
2013年04月20日

”あるがままに” ラマナ・マハルシ著 を読み始めて想ったこと・・・(まだまだ途中ですから、記事を訂正することもあるとおもいます )昨夜は遅くまでマハルシさんの本を読み耽りました。私と彼の視点が別れたのは私のフリーページにある 盲点・醜悪 という記事を書いた時からだろうなっと思いました。マハルシ氏は真我は至福だとおっしゃています。真我は意識であり 私は私であるもの 存在-意識-至福 と説明されており、私が二十歳の時に 私は私以上でも私以下でもない と表現したものに当たるのだろうと思っています。(”私は決して私を超えられない 自己愛 私欲を捨て 我を取り除いても 私は私以上でも以下でもない むしろ我を消滅している無意識と言われる中にこそ私が顕著に存在するのか? しかし私は私のみではない 貴方はその事に気づいているだろうか? 私が生を受けた時から そしてこうしている今も 時と空間と 肉体を超えた私が存在することに あなた自身気づいているのだろうか?” 以上1990年記) 真我を言葉で説明するとしたら、自我に覆われている真我をみいだしたものは解脱したということですが、マハルシ氏は生死も輪廻も、解脱も幻だと書いています。その通りだと私も思います。真我以外のものは、無限世界という(真我的)視点からみると、生死も、輪廻も、解脱も、医学も科学も、善悪も全て、何もかも!!!が、真我というスクリーンに映し出された単なる幻想・幻影なんです。私流に 真我(私という存在) というものを表現するならば私が以前みた夢の中で、私は視覚的イメージとして私の意識に映ったものだろうと思いました。その夢の内容とは以下のようなものでした。”大きな干潟が広がる海にたどり着いたと思ったら、自分がどんどん上にあがっていって、海は空からの光を反射して大きな鏡のように輝いていました。海の鏡よりももっと光り輝く、上空に向かって私はどんどんあがって行き光のシャワーを浴びて、自分が清められていく、そんな夢を見たことがあります。自分はもともとはこの光のかけらだったんじゃないか、そしてそこへ戻っていったんじゃないか?って夢から覚めた後に思いました”私という存在これは即ち、あなたという存在でもあるのですが、、、(この辺りは私のフリーページにある 盲点・醜悪 という記事をご覧いただけると私が申し上げたいことがよくご理解いただけることと思っています。)私(あなた)という存在の源は、もし人知では計り知れない世界・宇宙・高次元の世界をとてつもなく眩しくて見ることのできない光のようなもの と私が見た夢の中のようなものと考えるならば、そのとてつもなく眩しくみることのできない光の一部、片鱗、かけらではないだろうか?と私は思っています。マハルシは 私たちがみているこの現実世界だけでなく、生死も輪廻転生でさえも 幻想(夢と何らかわらないもの) だと述べています、心を含めた自我 が生まれた時が、いわゆる誕生であり、それは今実際にみている(と錯覚している)イメージが誕生する瞬間のことであり、自我のない生まれたての赤ちゃんには、まだ世界というイメージは誕生していないわけです。そして、私たちは自我を放った時、または自我から解き放たれたときに、真我が現れ、それは大きな光の一部、片鱗に等しいものだろうな・・・と私は思っているわけです。これは何も死を迎えたときにそうなるのか?というわけではなく真我を見つけたときに、きっとそういうものだと感じられるのではないか?っと私が想っているものです。真我とは、すごく簡単な言葉を使うと、無限世界とリンクする 無限世界の視点を持つ みたいな感じかしら?私がここ最近、精神だけでなく肉体にも無限世界とリンクしていると書いているのはこの辺りと関係がありそうなのです。もちろん心も身体も幻想だけれど、幻想をひきおこす心とか自我というものは真我という土台がなければ、決して現れないものなんです。ですからたとえ幻想であろうとも、心も身体も突き詰めていくと 真我 が土台として存在します。だからこそマハルシは 真我は到達するものではない、解脱も達成するものではなくすでに存在するもので、しかも実在するのは”真我以外にはない”とおっしゃっているんです。このあたりはクドクド説明するのは邪道でしかないんです、本当に・・・・。名前・名称・言葉を使うことこそが、自我を助長し、真我を曇らせる行為なので言葉で説明すれば説明するほどに、自我と真我を混乱させてしまう という堂々巡りなんです。だからこそ、マハルシ氏は 沈黙 でいらした時期があったと書いてありました。私も自分の中の永久不変なもの(真我)の存在に気づいた時、しばらくの間そういう感じでした。そういう点から言うと、こんなに 真我 についてクドクド言葉を並べている私は皮肉なことに、言葉のマジックに心頭している私(Maryam)ゆえに、日々 真我 から離れる行為を行っていると言えます。たとえ、幻想・幻影とかいうマヤカシの世界であると重々承知していても、その中に耽溺したい と私の自我の一部である欲望(これも幻想)波打っているのです。そうでもこうでもしない限り、私は真我が映しだす幻想という像(現実世界とかいう名がつけられているもの)に”飽きて・放棄したくなる”んです。真我を=至福 と表現し、そこにとどまった状態をキープし続けたのがマハルシ氏。真我に留まることを拒絶するために 醜悪 だと言い放ったのが私。そして真我を覆う 自我 というものを 昼の月・夜の月 という記事の中で大いに結構、敢えて私はその 自我(煩悩・現実という名の幻想)の中に留まらむ! っと肝据えたのが私。私のスクリーン(真我)には、はマハルシさんのように神聖域で昼夜をすごすことが許されるという、幻想は映し出されていなかったから。私はたとえこの現実が夢とおなじような幻想であったとしても、敢えてその中でもがき、苦しんでも 心が映し出す幻想(心さえも幻ですが)という煩悩の中にとどまりたいとおもったのです。(私が自分を マゾ だと思うのはこの辺りでしょう。)敢えて鬼コーチの鉄拳を受け続ける存在(それも幻ですけれどね)、でいようと想ったのです。私が ”あるがままに ラマナ・マハルシの教え”の数章から想ったこと、それは・・・サダメの鬼コーチとは、私自身である っということ。そしてまた、私にだけ特別に存在しているわけでもありません。鬼コーチは あなた でもあるんです。そしてまた、あなたにも鬼コーチがいます。だってそれはあなた自身の中に存在していつだってあなたの傍らに立っているんですもの!にほんブログ村
2013年04月19日

”あるがままに” ラマナ・マハルシ著 を読み始めました。Oakさんから教えて頂いた 動機のない行為 あの時はこの記事にたどり着くのがサダメのオッサンの思し召しだと思いましたが、まだ続きがあったようでございます。 うちの鬼コーチ(サダメ)殿は、どうしても この本を私に読ませたかったんでしょう。(^_^;)無性に彼の著作を読みたくなった私は、日本の友人に後先考えもせずに、衝動的に彼の本が読みたいとメールしておりました。そしてその方はすぐに”では彼の著作の中から何を読みたいのか選んでしらせてください”とお返事してくださいました。私はネットで調べて ”あるがままに” という一冊の書籍を選びました。そしたらあっというまに注文して、イランに発送してくださったのです。発送したという連絡を頂いた後から、、、、こういう異教徒の思想関連の書籍はイランの検閲に引っかかって届かない可能性の方が大きいだろうな・・・・と非常に私は不安になりました。検閲に引っかかって届かなかった時の失望を、自分の中にホンの少し混じえることさえ心が凍って痛む、そんな2週間ちょっとを私は過ごしたのでした。。送ってくださった友人も 着くかどうかは50%の確率かな?と思っていらしたそうです。まだ2章ばかりを読んだところですが、疑問の部分もいろいろあり、理解できるけれど、そこまでは断言できないし、突き詰められないよな・・・と思ったり、それでも私が今まで感じていたけれど、根拠がない、私だけの独自の視点と感じていたものと同じ流れのもの(言葉では如何様にも名付けられ、名付けられており、でもどれもが完全には言い示せない事柄)をマハルシ氏がきちんと説明してくれていて、ああ思い込みでもなかったんだ!っと感じられる部分が、たった2章の中にどれほど沢山含まれていたことでしょうか!!!私が幼い頃から身体の苦痛から逃れるために、意識を外に飛ばして身体を無痛にしていたことによって 私(自我)を超えた(すり抜けた)私(真我)、これは死んでも、何度生まれ変わっても変わらないものだろう と私が感じていたものと同じものだろうな・・・ということに、ほぼ確信に近いものを得られました。この本は手元に届かないかもしれない、、、とそう思っていました。・・・でも届いたんですよね。今こうして私の手の中にある。そこに私はサダメの導きを感じました。どうしても私はこの本の中に書いてある言葉と今・ここ で出会う必要があったのだろう・・・そう感じるのです。にほんブログ村
2013年04月18日
イランではBushehrで地震があったばかりなのに、昨日もまたシスタンバルチェスタン州で大きな地震がありました。15年以上前に日本の地震調査団がテヘランを訪れたときに、テヘランもいつ大地震がおきてもおかしくないと言っていました。イランも大きな断層が走っているようです。そのまえはGhazvin、息子が生まれた2003年、12月23日だったか24日か25日にもバムという鳥葬をしていた場所などがある遺跡が被害を受ける大地震がありました。結婚式会場となっていた家が全壊して多くの人が亡くなったというニュースが未だに忘れられません。日本の津波の報道も目に焼きついています。被害者が少ないように、再び地震が発生しないことを願っています。
2013年04月17日

imgstyle.info_2059M (800x533) posted by (C)maryam f d画像拝借 imgstyle.info 海よ・・・海海よ・・・海汝 我をときに大波のように足元から揺るがしまたときに包み抱き我に温かき 優しき心地させそして なにゆえ・・・満ち潮の如く我が鼓動を激しく打たせんとすにほんブログ村
2013年04月16日

テヘランのバザール Kuche Marvi に義姉と二人の娘、ドイツから滞在注の義妹1と行ったときの画像です。 Kuche Marvi (23) (360x480) posted by (C)maryam f dKuche Marvi (15) (480x640) posted by (C)maryam f d眩しくて目が開けられなかった!Kuche Marvi (21) (480x360) posted by (C)maryam f dKuche Marvi (39) (640x480) posted by (C)maryam f d日本でいう日曜日に行ったために閑散としていました。馬車に乗るにも列ができるし、ここは、テヘランで小売店を持っている人たちが買い出しにくる場所で、卸売りセンターかつショッピング街といったところ。年末でなくともアメ横のように人並みにもみくちゃにされるぐらい混む場所です。Kuche Marvi (44) (600x800) posted by (C)maryam f dバザールは一昔前の建物の様子を残しています。この画像の場所ではありませんが、ある場所などは壁にヒビが入っていて、ベランダのような廊下を歩いていたら、”この先に進むと崩れるかもしれないからね”とバザール商人のお兄さんに言葉をかけられ我々は ゾッ としました。Kuche Marvi (56) (640x480) posted by (C)maryam f dKuche Marvi (61) (480x640) posted by (C)maryam f dKuche Marvi (67) (480x360) posted by (C)maryam f dKuche Marvi (70) (640x480) posted by (C)maryam f dこの日は見て歩くばかりだったけれど、最後の最後に掘り出し物のイランでは必要不可欠外出着の上っ張り、イランでマントーと言われる女性が肌の露出をしないためのものを購入しました。1年以上前からイランでは キモノ とよばれるスタイルのガウンのように前を合わせて、腰紐をしばって着るマントーが流行っています。それがなんと日本円でいうと380円という格安(イランでもこれは格安です)で売っていたので購入いたしました。少し太ってみえるけれど、これから強い日差しでキャバブにされる季節にはとても涼しい作りなので試しに・・・。昨夜義姉宅の晩御飯に行くときに着て行ったら義妹4の目にとまり、値段をいったら、信じてもらえませんでした。バザールの面白さはこの辺りにありますね~~~。 にほんブログ村
2013年04月15日

あらゆる現代の高度とか、発達している知恵・知識を、一体どうしたら誇れるのだろうか?と私は感じるときがあります。それは絶望ではなくて”希望”に近い意味で。医学ひとつを見ても、ガンが奇跡的に治ったという例が、奇跡的に少ないわけじゃないみたいに・・・(私の思考って天邪鬼??)実は私は・・・”人体というものは、知らずのうちに無限の世界の何かと繋がっている部分があるんじゃなかろうか?”と思っているのです。人の無意識のある部分が無限世界と繋がるときがあるように、同じことが、人間の潜在意識とは全く逆の存在である、”顕在している身体”というものにも言えるのでは?っと。そして、人体が知らずのうちに無限の世界の何かと繋がっていることには ”本能” が関わっているのではないか?と私は感じております。本能は一種の 力 であり、それは天から授かったものであり、授かった道があるように、またその道を通じて天に繋がることが可能なのでは?っという気がするのです。(でも、これは毎度おなじみの、全く根拠のないワタクシ流の妄想でございます_(_^_)_。)本能というそれこそ下等生物からヒトという高等生物までが持っているもの、本能 というと科学や、知識や、理性などという高等なものとは相反する位置にあるようなもの、その ”本能というものに、計り知れない高度な能力や知恵”を私は感じるのです。なぜなら 本能 はある状況、それは 火事場の馬鹿力 などという言葉が存在するように、危機的状況の場合を仮定するとわかりやすいとおもいますが、そういう場合に精神と心と身体に絶大な影響力を振るうからです。先に記した、奇跡的にガンが治るということも、生きたい というヒトの本能と何かが結びついて、現代医学では説明できない状況が起こりうるのでは?っと。”本能というものに、計り知れない高度な能力や知恵”を感じるこのことは、本能 ゆえに人に限った能力ではなく、ヒト以外の動物にも、昆虫のような小さな生物、微生物、細菌といわれるものにまで言及できるように思うのです。薄ぼんやりとこんなことがふと頭をよぎってきたときに私は wasabi's さんにこの想いについて簡単に記しました。私の独り言のようなつぶやきに wasabi's さんが以下のように丁寧なお返事をくださいました。ガンも早期発見が一番の養生です。定期検診は大事なことですね。今こちらでは、政府のTV公報で子宮頸癌や乳癌の定期検診を勧めています。若い方ほど細胞活動が盛んですから、若年の内に見つけ出さないと手遅れになる可能性大なんでしょうね。人間が、何処でどう進化したのか考えれば、行き着く先は宇宙のチリに過ぎません。無限の創世記から今の人間になったと私は思っています。未開発の脳を生かすも殺すも、その人の宇宙エネルギーの取り込み方だと思うのです。ヨーガの瞑想では、その宇宙エネルギーを自分に取り込む思念から始ります。ヨーガではお臍の下に気を溜めるクンダリーニ。禅宗の瞑想では[気海丹田]と言いまして、人体ではそこがエネルギーの溜まる所とされています。肝が座る・腹を据える、全てそこが源です。気力の無い人は、いつも下向きでお腹に力が入ってないんですね。どんなシーンに遭遇しても、シャンとお腹に力を入れて立っていれば、自ずと天頂からエネルギーを貰うことが出来ると思いますよ。 以上頂戴したお言葉です。私はこの有難いお言葉に、以下のようにお返事いたしました。はい、定期検診は大切だと思います。とくに神経の通ってない内蔵器官などは症状がないでしょうから。ヨーガ的な考え方というものが、Wasabiさんの言葉によって、ス~~っと私の中に入ってきました。全く同感です。まずは宇宙のエネルギーを感じることなんでしょうね。でないと取り込めません。空手の蹴りだけでなく突きも骨盤の振りが大切で、それは丹田さん?のエネルギーを使用(利用)するためなんであろうなと私は思っています。突きは丹田からかなり距離がありますが、腕だけでなく丹田さんの力を腰の動きで背骨を通して腕に伝えるのだろうと思っています。その丹田さんが、宇宙というか天上のエネルギーとのリンク点であるというのは、私にはとてもしっくりと来ました。****************宇宙(無限世界とか天上とかいう言葉を使いましたが、実際に無限なのか、天上の先の先にあるのかどうかさえも私にはわかりません・・・)というのはなんと申しましょうか・・・人知には決して計り知れない世界 というものだと思います。次元を超えた世界といえるのかもしれません。人が誇っている基準とか枠とかいうものを、はるかに超えた世界であると思います。そういう世界を感じる という視点・・・これはありとあらゆる日常の現象に”新たな視点”を与え、”目の前の日常の中に今まで想像もしていなかったような景色が映し出されてくる”という不思議な可能性を含んでいる・・・っと私は思っています。にほんブログ村
2013年04月12日

nDSC00734 (480x453) posted by (C)maryam f d 扇 ~ あふぎ ~そへてやる扇の風し心あらばわが思ふ人の手をなはなれそ(後撰1330)******************差し出すも 打ち捨てらるる 扇ありさにあらばおのが扇を袂に 其と袂をわかつのみ・・・ にほんブログ村
2013年04月08日

DSC00514 (640x480) posted by (C)maryam f d DSC00287 (480x359) posted by (C)maryam f d長く続いていた年末年始の休みが明けた。息子も学校、夫も大学の講義が始まった。二人は昨日から ヤダヤダ と休みの名残を惜しんでいた。私はといえば、2度も発熱しようが、咳で安眠できなかろうが家事、育児、炊事に休日なし、かえって連休続きのほうが忙しいぐらい。ニュース翻訳は本数が減ったけれど、書籍の翻訳をしていたから。とはいうものの、この次の水曜日の夜からは2週間の日程でドイツ在住の義妹3が滞在する予定。日常は、なかなか私を休ませてはくれないようだ・・・追記:画像上は朝食用のナーンです。イランにはいろんな種類のナーンがあります。その横にある白いものはチーズ(プロセスされてない)です。白いチーズは牛乳から簡単に手作りできます。にほんブログ村
2013年04月06日

4月2日の火曜日は スィーズダベダル という行事でした。イランの暦の1月13日はイラン国民総出のピクニックの日。私はお昼に、鶏の丸焼きとサフランライスとシラーズ風のサラダを作りました。DSC00719 (640x531) (640x531) posted by (C)maryam f dDSC00718 (640x496) (640x496) posted by (C)maryam f dうちのマルコメ君♥DSC00729 posted by (C)maryam f dイランは花見ではないけれど、お酒もありませんが、ピクニックをします。IMG_0906 (600x800)posted by (C)maryam f dお天気に恵まれました。お散歩したり、バレーボール、ドッチボールをしたり、自然を満喫いたしました。夕方には、またアーシュレシテという煮込みうどんを食べました。恐るべしイラン人の胃袋!(私もそのひとりです。)IMG_0913 (480x640)posted by (C)maryam f dIMG_0925 (640x480)posted by (C)maryam f dIMG_0933 (360x480)posted by (C)maryam f d拳ぐらいの大きさの蛙を数匹みました。IMG_0935 (640x480)posted by (C)maryam f dIMG_0950 (640x480)posted by (C)maryam f d風にそよそよと身を揺るがす柳の姿態が、私は好きですね。IMG_0964 (640x480)posted by (C)maryam f dにほんブログ村
2013年04月03日

DSC00710 (465x640) posted by (C)maryam f d先日購入した上に急須をのせる場所が設置してあり、給湯用の蛇口がついているヤカンです。このヤカンにもステンレスの急須がついていたけれど、本日は今までつかっていた急須をのせ、ティーバッグで煎れました。DSC00713 (480x345) posted by (C)maryam f dこれは4種類のドライフラワーだけれど、薬草で4種の花 (チャハールゴル Chahar Gol)という名の咳止めです。私はこれと、紅茶を一緒に煎じて飲みます。お陰様で咳は下火になっていました・・・・本日は スィーズダべダル というイランの新年最後の行事で、日本風にいうとピクニックの日です。イラン国民みんながピクニックする日で、公園は朝から場所取りする人がいっぱいです。私たちはお昼を作って、午後1時すぎに義姉と義妹が場所取りしたところに行き、午後7時までピクニックを楽しみました。この画像はまた別の記事で。私は再び、咳とくしゃみがぶり返してしまいました・・・・。追記:以上は昨夜記したものです。_(_^_)_にほんブログ村
2013年04月03日

雪女の情け あの時 お前さまは 私をまじまじとみつめられ悲しそうな瞳をしておる と仰いましたね そう 私はとても悲しかったので御座います如何に考えようとも行き着く先はひとつで御座いましたゆえ・・・ 私は気付いていたのでありましょういつかはお別れの時が来るといつかはお前さまのお側を立ち去らねばならぬと それでも 私は お前さまと子をなし 日々を重ねて参りました・・・ 私がお前さまにお目にかかることはもう二度とありませぬ 雪 YUKIME posted by (C)maryam f d にほんブログ村
2013年04月01日

土曜日に散歩していてこちらのお嬢様方を見つけました。 DSC00707 (599x800) posted by (C)maryam f dりんごの❀でしょうか。梅・桜・桃だけでなく、杏・梨・アセロラなどの❀も清楚で愛らしい姿で咲きます。りんご・杏・梨同様に、イランの桜は散った後に、大きな、宝石のような色と輝きをもつサクランボを鈴なりにさせます。141462417 posted by (C)maryam f dそうなるとどうしても子孫繁栄(実)の方に目がいってしまって、儚さのイメージがないのです。まさに 花より団子! 日本の満開の桜の森には、妖気と狂気に通じるような絢爛を散っていく桜は、儚い夢や幻想、この世とあの世の境のようなものを私は感じます。日本人の桜に対する死生観のようなイメージとは、日本の桜あってのものなのでしょう。にほんブログ村
2013年04月01日
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