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ドイツ滞在中です。画像をフォト蔵にアップしています。どうぞご覧くださいませ。こちら です。にほんブログ村
2013年06月26日

"Star Dust Nat King Cole " この曲を初めて聴いたのは高校2年生の冬。私が棺桶に足突っ込んでしまった手術と入院で女子高時代の同級生で親友だった あっちゃん が私のために作ってくれた音楽カセットに入っていたのです。年代がわかってしまいますが、私の高校時代はCDがまだなかったのですよ。ビデオデッキ・レンタルビデオ・音楽CD が世に盛んに出回るようになったのは、大学時代でした。このカセットの中には本当に良い曲が沢山入っていました。同級生でこんな渋い曲を聴いていたのは あっちゃん ぐらいだったと思いますが。私の好きな歌手 ニーナ・シモン の歌声に出会ったのもこのカセットがあったお陰で、カセットにはいっていた スティングがベース一本で歌うストレンジフルーツ に惹かれ、ニーナ・シモン の歌うストレンジフルーツに強烈な感情が沸き起こりました。渡航準備をしていたら、急にこの歌が聴きたくなりました。歌詞付きのものを見つけたので記事にしました。明後日の金曜日から2週間ドイツに旅行致します。にほんブログ村
2013年06月19日

”イラン大統領選挙に想ったこと ”という記事についてmaryamさんのイスラムのお話って日本人には理解しにくいと思います。中東は宗教、民族、言語、文化が長い歴史の中で混ざり合って全体的にはイスラムに見えるけどそうじゃなくて、イスラムではあるけれどそれぞれ違った特徴を持っているからです。っというcommentをいただきました。(commentしてくださった方に心から感謝を<(_ _)> )それについて私は以下のように答えました。私が記したのは、イランという世界で唯一のイスラム共和国についてです。アラブのこと、インドネシアやそのほかのことにまでは、とても言及できませんが、(話がとてつもなく大きくなっていきますから・・・)”イスラムの宗教として顔”と上手に仲良くやっているのはマレーシアぐらいじゃないでしょうか?最近タイにもイスラムが多くなっていますけれど、今後どうなるのかしらね。イスラム は 宗教 という名で規定するには、大きな落とし穴があるだろうなという”思想”を含んだもので、イスラム教というよりは イスラム と記した方が誤解がないような気が私はします。そのことを述べたかったのです。イランだけでなく、イスラム社会という中、それがたとえ田舎のちっちゃな町でもイスラムの社会に入ったら、そのイスラムの慣習に従わなければいけないしそれを破ることは命の危険があることも考えられます。宗教は自由なのよ! ではとても済まされないものです。こうなるとイスラムは宗教から少し離れてきます。イランの中のイスラムも 宗教 から離れてそれは もともとそれぞれの土地や国にあった文化、慣習・習慣・風習というものと融合して存在し、生活に関わる全てでもあり、法律でもあり、その地域の”掟”のような顔になってきていると思うのです。心の部分だけに関することならば、それは確かに自由ですが、イスラム社会の公の場といわれるところではやはり イスラムの決まり、文化、風習 を守らなければいけなくてそれは 法律や条例等 と同じものだと思うんです。イスラムを誰に教わるか?誰をみて知るか、習うか?ってこともかなり大きいと思います。イランとイラクとアラブ諸国と、トルコ、マレーシア、インドネシア、それからアフリカ諸国ではそれぞれ違うだろうし、夫にならう、義両親にならう、学校へ行って習う、仕事場でならう、教師に習う、親戚にならう、家族にならう・・・これまたいろいろな違いが考えられるのではないか?と。シャーリア法はイスラム教徒のための決まりなんですが、なんと言いましょうか・・・そのシャーリア法にどれぐらいの重きが置かれているか?その点において、その国とか土地とか場所・・・そういってはなんですが、公の場ではなく、私的な場であるならば、ある家族の団欒という場と、別の家族の団欒という場での振る舞いは決して同じではなかったりして、公の場でも、私的な場でも、いずれにせよ、その場その場の振る舞い方が、”その場にいるみんな(全体)の、イスラムに対する重きの程度 によって決まる”ようなところがあるのではないかしら?こういうことは、イランだけでしょうけれど、イランにはそういう裏と表の顔があって、イラン以外の国にはなかなか理解されない部分が存在することは確かです。イランに来てみないことには、その素顔はわからない・・・というところがあります。それが ヴェールを被っている国 とイランが言われる所以ではありますが、いつも苦虫つぶしているような顔しか見せないイラン、実にもったいないなぁと思います。にほんブログ村
2013年06月17日

以下は昨夜アップしようと思ってできなかったものです。大統領選に一票投じました。私が結婚してから4回目の投票です。私は結婚当初、改革派のハタミ師に一票投じたことがあります。アハマディネジャード大統領には投票しませんでした。今回も改革派に入れました。こちらの記事ですが・・・イランの選挙権は、なんと16歳からあります。それでいて投票率が80%にのぼるか?ということで、日本では信じられないでしょう。国民が直接選べる代表は、やはり違うと思います。イランは大統領の上に、大統領よりもはるかに権限の大きい、革命最高指導者の存在がありますが、それでも大統領選は自分たちの票で選ぶという意識が違います。若者の国なのですよイランは。だから若者が物申したのでしょう。上記に引用した記事には、出馬表明していたラフサンジャニ師が高齢を理由に出馬を許されなかった点が記載されていませんね。第一段階のこの経緯がなければ、これほどロウハニ師には票が集中しなかったでしょう。そしてラフサンジャニ師に出馬許可がおりなかった後、イスラム体制の父とも言える故ホメイニ師の娘が、その評議会の決定を痛烈に批判していました。そして記事にもありますように、選挙直前には、ロウハニ師に票を集中させるために改革派の別の候補者が身を引いたのです。イランでは政治家の妻などはほとんど、チャドルという黒い半円形の布を被っていることが多く、そうでなければマントーと呼ばれる上っ張りにスカーフという姿なのですが、選挙直前に身を引いた候補者の妻は、パンツスーツ姿で記者会見に応じ注目を浴びていました。イランでは”異例と言われる女性の服装”をした彼女にその理由を記者が尋ねると、”私は若い頃からチャドルやマントなどの伝統的、習慣的な服装が嫌でした、そこで、大学生の時、まだこの世にいらしたホメイニ師に直接この服装を見ていただきました。私を見た師は、何も問題ない とおっしゃられました。”と答えたのです。確かに、イスラムでは髪と肌を隠しなさいと教えられていますが、何重にも隠しなさい・・・とは示されていないのです。日差しの焼け付くような夏に、少しでも涼しい服装をしたいと思っている女性が沢山いるはずなのです。敬虔であることを強調するため、父親や兄弟や夫、あるいは女性本人がそれに重きをおき、公の機関や、義務教育機関で働く女性はまずチャドルを纏っています。そういう女性の中には退職するとチャドルを纏わなくなる人もいるんですけれどね。そのような状況が一般的、常識的である中、この女性の発言が私には気持ち良く耳に入ってきました。そして、日本で過剰包装が指摘され、その後それが簡易包装に移行したように女性の服装も簡易化すればいいな、と私は思っています。しかし、肌や髪を隠すことは女性にとって束縛でもありますが、一方でそれに女性が護られることもあるんです。おそらく私が 護られている と書いた内容は、女性よりも男性陣によくご理解して頂けることでしょうけれど。女性がミニスカートを履くことを、厭うのはその女性の父親・兄弟・夫であり、それは男性であるが故にです。最後に今回の選挙に関連し、ひとつ申し上げたいことがあります。イスラムを 宗教 と認識し、その観点からイスラムを語る日本人がほとんどですが、この感覚で国際場面で意見を述べると、オリンピック誘致活動で大失態をやらかした東京都知事のようなことになります。イスラムには、宗教としての顔と、政治形態・国家形態としての顔があります。日本は法治国家であることは誰もが認めることです。イスラムには、シャーリアという法律があるのです。女性が髪と肌を隠すのもこの法律があるからです。そしてシャーリア法による、法治国家がイスラム国家なのです。日本は法治国家ですから、法律に基づいた善悪があります。法律も憲法から民法、条例、交通法、いろいろなものがあります。そしてそれと同様に、イスラム国家にもシャーリア法で善悪が定められており、アーカムといわれるイスラム指導書があったり、それこそ個人のプライバシーの範疇に於いても事細かに記され、規定されています。それは人が生まれて、亡くなるまでのことを定めているのです。勿論その決まりを守らなければいけない程度には、差がいろいろあります。キリスト教には法律はないと思います。(断定はできませんが。)それがキリスト教国家が現在存在しない理由であると私は思いますが、キリスト教とイスラム教は兄弟の宗教とも言われています。しかしもともとイスラムは、帰依者の結束・団結を、国家にまで広げることを目指している教えであるといえるのです。イスラムを宗教として理解しようとしたら、イスラムのなんたるかは理解できません。日本の義務教育も、そう言う意味では”程度の差はあれ”日本人として育成させる洗脳教育であるとも言えませんか?私はこのことに大学2年の時に気がつきました(漢文の教授がそう教えてくれたのです)イスラム教徒は、イスラムが宗教の顔をもっていることを知っていますが、日本人は日本の教育が、日本の政府が求める、日本人としてあるべき姿を植え付けるための洗脳教育であると思っている人は少ないと思います。”日本の常識、日本の善悪(法律) が世界にとっても当たり前”という感覚は、残念ながら世界では通用しません。私が日本に滞在中、日本のテレビ番組や報道に疲れてしまうのはそこから見て取れる、番組の出演者の言動や、番組制作の観点の国際性は決して高いものではないからです。それはサッカーの国際試合のアナウンサーの言葉、一つをとっても見て取れるものでした。バラエティー番組といわれるものの笑いには、ついていけないものがほとんどでした。(2009年頃)(私は自分が国際感覚があると言っているのではありません。私はイランで生活し、イラン的な物の見方、イランの常識・善悪と向き合って・戦って?きただけです。イランのことしかわからないけれど、それでも普通の日本人が日本を見るようには、もう見られないだけです。)イランのアハマディネジャド大統領もそういう意味では国際感覚の感じられない人でした。(イランの国営放送は問題外で、私は全くみません。)政治家・・・とくに世界と関わりを持つ、その国の顔となるような人は、国際感覚がないと話にならない っと私は思っています。にほんブログ村
2013年06月16日

”まことのわたし”おそらく中学生の頃から私は、私とは誰? 私とは何?っということを自問し続けていたのだと思います。ただし私はその問いを、社会などの外部世界へ向けたことはなかったと思います。現代社会・その時代の現れ、流れというものに、私は興味がありませんでした。そのことは以前、記事にしたことがあったと思います。流動(盛者必衰)的なものには言葉は悪いのですが、胡散臭いものを感じていました。私の好奇心をそそるものとは、流動的とは正反対のもの、いつの時代においても、誰にとっても普遍・不変なもの、いつでもどこでも、変わらず存在するものであったように思います。そうして思考しているうちに、”自 は即ち 他である” ”死 は即ち 生である”と私は思い至りました。私の中で次第に相対関係が崩壊していきました。これに関しても以前記事にしました。最近、私は何をしていても、何を想っていても何かをしている私、何かを想っている私を、”映している私”を意識しています。18~21歳ぐらいの頃もこの傾向が強かったのですが、当時はまだその意識は希薄というか、中途半端でした。何かをしている私 は 私の仮の姿 と思っていても何かを想っている私 こそが 真の私 と思っていました。心がどうしょうもなく、自我を破壊しようと襲いかかって来た時だけ”心を突き放して”いました。そして、数年前にはそんなふうに”身体と心が分離している自分は醜い”などと想っていました・・・(自我を破壊しようと襲いかかって来た時だけ”心を突き放して”いました。・・・今の私なら、これは私が意図的に”心を突き放した”のではなくこれは命あるもののサダメである”防衛本能”であったと思うのですが。)しかし今は身体だけでなく、心からも放たれました。最近は 喜怒哀楽している私、涙を流す私、疲れている私、眠い私 イライラしている私などの、今・ここに存在していると思ったり、感じたりしている”仮の私”または”幻の私”を、どこか別の場所で意識している私のようなもの? を意識しています。そして、誰の言動も、誰の想いも、私自身の言動・想い(私の仮の姿・心)でさえも、”どこか別の場所で意識している私”には影響を与えることは出来ません。こんなことを書いて何をお伝えしたいのか?と申しますと、私は誰か? 私は何か? という問いに対して、私以外の人・事象 とあなたが思い・感じているものを抜きにして現在あなたが意識している”私”というもの、”自我”について、あなたは説明することができますか?あなたが所謂”私だ・自我(個我)だ”と認識していることは果たして、夢の世界で・熟睡している世界で存在するでしょうか?目覚めていてその時に、見て・感じる世界が消滅した時に存在するでしょうか?説明することが出来るでしょうか?とお尋ねしたいのです。私たちが現(うつつ)と思っている世界は”消滅可能”な世界です。夢の世界と何ら変わりのないものです。脳しんとうでも起こしてしまえば、簡単に”消滅”してしまうものです。(私は大学時代辺りから、つい先ごろまで夢と現の区別があまりありませんでした。夢を現(うつつ)と思ったり、現を夢と思ったりしてしまっていました。夢というにはあまりにも生々しい心象を深く残す夢を沢山みました。刻銘に夢を記憶していました。逆にお恥ずかしいことに、現であっても、トイレにいるときに、急にここは夢ではないか?と不安になって、用を足す前に壁を強く手で何度も、何度も押してみて、夢でないことを確認することが何度もありました。身体感覚の無意識が常習化、するとこういうことがおこります。私は高熱が出るまで、自分の身体の不調がわからなかったことも何度もあります。息切れがして、身体が重いな、どうして唇がこんなに荒れているんだろう?と不思議に思っても生活していて、頬がりんごのようになって、目がウルウルして、人様から 熱があるんでしょう? と教えていただいたことが何度もありました。今でも忘れられないのですが、大学三年生の6月には、何時も通りに、お風呂屋に自転車を飛ばして出かけてお風呂を済ませたものの、洗い髪をドライヤーで乾かすことができず、家に戻ってきた途端にベッドに倒れ込んだことがありました。その後に及んで自分が発熱していることにようやく私は気がついたのです。年齢とともに体力がなくて、息切れだけでなく、動悸が加わって、ああ、熱がでるんだな・・・とわかるようになりました。しかし実に・・・夢と現の違いはこの身体感覚だけなんです。)他人、社会という外部的なものと比較、対象しなくても心で”私”とは誰か?何か? と思考して、見つかる私もまた、”仮の私・幻の私”でしかないです。心で思考しているうちは”私”は掴んだとおもったらまた浮かび上がってきて、数えられないほどの”私”がみつかります。その姿は、インコが鏡に映る自分の姿をいきりたって突っつくように私は私の幻影に惑わされ、真剣にさせられてはその私の姿は消え、また別の私が浮かび上がってくるのです。結局私は二十の頃から、心で一生懸命自分と向き合って浮かび上がっては消え、また浮かび上がってくるいろんな私を、どれもこれも私であると受け入れるようにしてきました。もう一度繰り返します。心で”私”とは誰か?何か? と思考していても、そうして見つかる私は”仮の私・幻の私”でしかないのです。心というものが・・・香りのように、漂ってきては消えていくようなものだからです。********************しかし、完全に眠っていいるときにも、夢をみているときにも、あなたは”わたし”を意識しているはずです。1.目覚めている世界(身体・五感 プラス 心 の世界)2.夢の世界(心・心象・精神 の世界)3.熟睡の世界(身体も心も機能していない世界、五感も心も機能していない世界)この1・2・3の状態を通じて、あなたは”わたし”を意識しているはずです。昨夜は夢もみないでよく眠った! っと認識できるということは、3の状態でもあなたは意識があったという証明ですから。夢や、熟睡の状態以外でも、私は、意識不明・死 と言われる状態でも”わたしの意識”がありました。1・2・3の状態を通じて意識している”わたし”、この意識こそが”まことのわたし”なのです。しかし、残念ながら、この”わたし”は1の状態のときに於いては、自我とか個我とか言われる心の作用と、身体・心で認識する現(うつつ)と言われる世界が視覚を通して広がっているために、すっぽりと深いヴェールに覆い隠されてしまうのです。にほんブログ村
2013年06月14日

昨日果樹園で夫と息子が採ってきてくれた初物桜桃。DSC00918 (700x525)posted by (C)maryam f d "見初め"相見初め 頬はじらひに くれなゐに 時は至れり 桜の乙女世が世なら 入内し 汝時めきぬ 母は国の花(か) 桜郎女(さくらいらつめ) にほんブログ村
2013年06月11日

昨夜は空手からの帰りに購入してきた、2キロのスペアミントを、夕御飯のあと、1時間半綺麗にして洗って干す、作業をした。さすがに最後の方は足が疲れて椅子に座ったが。イランの食生活では欠かせない乾燥スペアミントの葉。こういう作業をしているとわかるけれど、ミントの葉は酸化してすぐに黒くなる。・・・っということは鉄分が豊富に含まれているということ。貧血ぎみの私には適した食品。DSC00902 (640x480) posted by (C)maryam f dこれで1キロ分のミント。きれいにして、洗って水切りしているところ。DSC00904 (640x480) posted by (C)maryam f d水切りしたあと、床の上に広げて干しているところ。(1キロ作業した時点で撮影)毎年5キロ分ぐらいを消費する我が家。去年はどういうわけか2・3キロ分しか作れなかった。おととしは10キロぐらい作っていたのでストックを消費していた。スペアミントは冬が近くなると出回らなくなる。だからこれからの4ヶ月の間に作業をしないといけない。義姉妹で自家製派は、まとめて10キロ15キロ作業する、というやり方だが体力のない私は数キロを3・4回に分けて作業する。義妹4がこういう作業をしているところは今まで一度として見たことはない。イランでも若い人はあまり家事・炊事には時間をかけなくなってきている。市販のものが出回っているからそれはそれで良いのだ。自分で作ったものは色と香りが違うから、私は自分で作業することを好むだけ。床に広げて扇風機をかけて干していると、家中がミントの香りで包まれるからだ。にほんブログ村
2013年06月07日

Tehranの我が家は、例年よりも十日ぐらい遅く・・・ではありますが、6月1日からクーラーをつけ始めました。ここ数日は夜、寝苦しい程なので、暑がりの息子が寝付くまでは、クーラーをつけています。 夜通し、窓を開けっ放して扇風機を回しています。それでも数回暑さで目を覚まします。イランの料理の味も、日本同様、独特なものが多いですが、食文化もおそらく日本人にはビックリ(゜д゜)というものが多いと思います。日本だと暑いときは、素麺やざるそば、冷やし中華などが定番だと思います。イランの食事はお昼にボリュームのあるものを食べることが多いので夜は軽く、朝食のようなナーンで済ます家庭も多いです。そして暑い時期は下画像のようなDSC00845 posted by (C)maryam f dスイカ・メロンなどと、チーズとナーン!を晩御飯にすることがあります。この他薬味のようなハーブ各種とチーズとナーン、それから胡瓜とヨーグルトの和物、チーズと胡瓜とトマトをナーンといただくこともあります。またヨーグルトの中に胡瓜、数種ハーブ、乾燥ミントの葉、干し葡萄などを刻んでいれて、水と氷で伸ばして塩で味つけした、氷が浮かんだ冷たいヨーグルト汁の中にヌーンを浸して食べるab-dugh などもあります。我が家ではここ数週間、朝夕とスイカ・メロンを食べています。イランの夏の醍醐味と言えます。にほんブログ村
2013年06月06日

フェイスブックを見ていたらイラン人の知人がshareしていた画像だけれど、どこから入手したのかわかりませんでした。世界のどこかにいらっしゃるあなた、どなたか存じ上げませんが、お借り致します。<(_ _)> I do not know your name...I borrow your image. Gracias.943215_536626723067372_241322649_n posted by (C)maryam f d******************** ”心を透り脱け”身体を透り心を透り現実を透り夢を透り眠りの中に逗まることなく心が映す象の世界の先にある眩しい光の世界を探そう”わたし”の裡の細道を透り奥の奥の奥・・・へ ”まこと”は”わたし”の裡にありながら天上遥か 宇宙の先へ通ず心象世界に足を踏み入れ心を透り脱け光輝く世界を探そうにほんブログ村
2013年06月05日

・:*.swallowtail.*:・様より未発表画像拝借致しました。(C)Eternity 満月 Photo by swallowtail (1) ~ 月に望む ~ 水鏡 微笑しおわす 月のごと 其の心に 忍び映えなむ望月よ 我が心を澄み澄みと 鏡のごとく 照らし明かせよ2013年皐月の望月の夜にほんブログ村
2013年06月03日

”ある意識への目覚め”私が肉体に縛られるという意識を持ったのは三歳になる前で、私の持病のためだ。お転婆だった私は、もっと走りたい、もっと動きたいのに体の方がそれに従わない、胸が苦しくて、体が動かないことに気づいた。心は駆けるが体のほうは駆けていってくれなくて、悲しい思いをした。発作のたび酸欠状態になり、それが長時間続くと息苦しさが全身を襲う。ロープで気管を中途半端に生かさず殺さず締め付けられ、延々と苦しみを与え続けられる拷問。それが数時間、長い時には5・6時間も続く。身体を捨てて、死んだほうが余程楽なのになあ・・・何度もそれが頭をよぎった。そうは想っても死ぬこともできず、私は死以外のことで何とかその状態から逃れる道を探すように苦しみに対する意識を外に飛ばすことを想像し、肉体の苦しみを感じないように試みることに思い至った。私の身体は、私の身体ではない、私が感じていると思っている苦しみは錯覚だっと自分に言い聞かせ続けたのだ。しかし不思議なことに、こうやって意識を外へ飛ばすほどに、”心とも、身体とも異なるある意識”が冴え渡っていった。私はこの”ある意識”によって命を救われたことが二度ある。一度目は17歳の時に手術で使用した薬剤によるショックで、気管が完全に閉塞され心臓もストップしたが、国立病院に入院中で運良く大勢の医師が居合わせ、心臓マッサージと、電気ショックで蘇生してもらった時だ。傍からは、意識不明とか、完全なる死 と言われる状態の中で、”私にはこの ある意識 が持続していた。”大きな漬物石で肋骨を強打、圧迫され続けるような衝撃と、肋骨が折れただろうと思われる程の激痛で私は意識を恢復した。そして、私が最初に理解したこととは、17歳の恥じらいのお年頃に、一糸まとわぬ姿で13人の医師に囲まれているという風景だった。一命を取り留めた後、口から気管へは、掃除機の筒のようなものを突っ込まれ、ガムテープでとめられ、尿道にも管を突っ込まれたのだった。この時私は、”この世で生きることとは即ち、恥を晒すことである”と思った。二度目は、大学の二年の終わり学友と出かけ、彼女らと別れた後本格的に発作を起こした。出かけた先から主治医の所までの一時間半の間、私はひどい酸欠状態でいた。電車やバスの中で私は立っていられたがまっすぐ、普通には立っていられなかった。都会の人々は尋常ではない私の姿を見て何か気付いてはいたが、それでも誰一人として声をかける者はなかった。一人だけある女性が、バスの中で私の異常な状態に気付き、非常に心配そうな表情で見ていたが恐らく私の瞳がそれを拒否していたのを察したのか、彼女もやはり沈黙を保っていた。都会の無感情は、冴え冴えとしたある意識に、冷ややかで心地良かった。都会の無感情の中、私の意識は冴え渡り、その意識の力だけで私は自分の体を支えることができた。何度階段の上で、今ここから落ちたら、転げ落ちたなら、さぞ、無様な姿で、頭を強打し、死ぬかもしれないな、、、と思ったが自分の行動を冷徹に見つめ、その他一切の事象には関知しないような、”己の心からも身体からも解き放たれた意識”だけで私は持ちこたえた。ようやく主治医の所に到着し、医者は私の状態をみて血相を変え、なぜここまで我慢したのか?という表情で手当てをした。私の発作は治まっていった。酸欠状態が解除されると、どういう状態になるか皆様はご存知であろうか?酸素を欲し続けた脳みそに酸素が行き渡り始めると、どういうことがおこるかご存知であろうか?脳内でキリスト教会の鐘が高々と鳴り響くような激しい頭痛が襲う。。。。よくドラマなどで九死に一生を得た主人公が”私は生きていたのか、、、”などというシーンがあるが、私にとってあの台詞ほど滑稽なものはない。私の場合、”生”を得た瞬間に”生”の重圧と辛苦が痛みとなって肉体に襲いかかって来た。生きるということは、私を決して甘やかしたりはしないのだ。それは17の歳に棺桶に片足をつっこんで戻ってきたときもそうだったし、20歳の時に酸欠状態から救われた時もそうであった。にほんブログ村
2013年06月02日

”人と境遇”「境遇が人間を作るのではない。人間が境遇を作るのだ。」ベンジャミン・ディズレーリ なんて言葉を目にした。私にはもう、どうでもいい問題かな・・・。ただ私が、日本語で考えるっていうのは、現在・過去・未来を通して自分には大きいから、やっぱり境遇は今でも影響しているかな?という感じはする。今はもう”自分が置かれている境遇”というものを含め、物事を考えることをしないようにしているから、この問題はどうでも良くなって来ているのだが。”自分の置かれている境遇・状況・周囲の人・家族の言動を心ではかり、思考することを止めている”から。この境遇を、この状況を、周囲の人・家族・親戚の言動を”自分の言動でどうにかしよう、という 意識的な心掛け・努力というものを放棄しているから”自分の言動や心掛け、努力、働きかけなどでそれら(境遇など)が変わるという考えを持つことを私は止めた。私を含めた事象の成り行きは 天に全面委任 した。ごく簡単にいうと”成り行き任せ”にしたということだ。一般的に外部的要因と言われるもの、物事の成り行きというものは私が全面努力をして、意識的に変えようとしても、変わらないものは変わらないし、私が全面努力して、意識的に変化させない努力をしても、変わるものは変わっていくということを私は全面肯定し、だからこそそれをもう天に100%任せた ということだ。”私”が ”何か”をする という”主語と目的語”を消滅させたわけだ。そして、私が、もがこうがもがくまいが、心掛けようが心掛けまいが、一刻、一刻は天のサダメにしたがって過ぎていくし、努力や試練も、それを努力、試練と心が感じなければ、己にとっては努力でも試練でもなくなる。そうであるならば、自分が、境遇・状況・周囲の人・家族の言動など外部的要因に意識的に心がけて変えていく努力をするよりはどんな境遇・どんな状況・どんな周囲・家族・親戚の”理解不可能”な言動に対峙しようとそれらに”心”を動かされず、惑わされず、”心はいつもぬるま湯に浸からせておく”っという努力をする方が、余程”楽”であり且つ確実に”平安がもたらされ”理にかなっているからだ。”私の心”に問いかけてみてご覧なさい。私が外部的要因をどうこうしようと躍起になっているのはなぜだろうか? っと。それは 心の平安 を得たいからではないだろうか?ではなぜ”心の平安”を 外部的要因・境遇・周囲・社会などという”外”に求めるのだろうか?心の平安 は ”外”に求めたって無駄だ。それは”私の裡”に求められねばならない。*********************それとも達成感や満足を得たいからだろうか?そうであるならば、己の心を(それらの外部の事象・事物で)満たそう なんて思っちゃいけない。それは自分の影法師を捉えようとする行為に等しいのだから!ねえ そこの そう そこの ”私”! 欲望・欲求を満たそう なんて思っちゃいけないよ それは 自分の影を踏もうとする行為そのもの 己の影法師と永久の鬼ごっこ 永久に時間を費やそうが 輪廻転生を繰り返そうが 心を満足させることなど有り得ないんだ ********************* 心の問題に本能が関わる危険 満たされない心を本能で満たそうとすると・・・ 不満、不安、孤独、(自己)満足、自尊心、自意識・・・を セックスで満たそうとすると (セックス依存・恋愛依存) 食欲で満たそうとすると (過食症) 闘争本能で満たそうとすると (あらゆる暴力・戦争・人種差別) 母性本能で満たそうとすると (他者への過剰な甘やかし) 防衛本能で満たそうとすると (引き篭もり)・・・ 本能に限らず アルコールでも 買い物でも ストレスを発散させるだけのつもりが 常習化し 依存へ 中毒へ 身を滅ぼすまで延々と続き それでもなお満ち足りない 相対関係でとらえる世界に踏みとどまる限り この世のありとあらゆるものを用いようとも 心を満たすことなど不可能 にほんブログ村
2013年06月01日
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