全27件 (27件中 1-27件目)
1

息子の成績表のご褒美にサッカーゲームを購入。皆で楽しんでます。夫が子供の時からあったゲームなので、飛び抜けて上手いです。息子と私が二人組になっても、手も足も出せません(>_<)DSC00809 (640x445)posted by (C)maryam f dDSC00811 (594x640)posted by (C)maryam f dDSC00813 (640x530)posted by (C)maryam f d息子のお友達も来て遊んでいます。 今日は息子と勝負して1回戦 10-92回戦 10ー83回戦 10-6全敗の母 (;>_<;)***************息子とインコ青のインコは手乗りでしたが、白はお店で買ったインコ。今では私たちの手から餌を食べますし、息子の手の上にも乗ります。最初に頂いた緑と青の二羽のインコは、ある日の朝見てみると♂の緑が、血だらけ・・・飛ぶこともできず、ヨタヨタと歩き、頭から血を流し、片目も見えないようなやられよう。信じられませんでしたが、♀の青にやられたんです。それで急遽離れ離れにし、それぞれにツガイを買い与えたわけです。この ♂白 は聖人君子の趣があり、彼とツガイになった♀青は♂緑とツガイだった頃の、彼女のじゃじゃ馬、攻撃的だった部分はすっかりなくなり実に良い妻になりました。♂白 がいつも静かに暖かく守っています。♂緑は黄色♀とツガイになったものの、彼を半殺しの目に合わせた♀青のことが忘れられないところが多々あり、♂緑を部屋に放つときには、♀青が入っているカゴをシーツで覆います。でないと♀青のカゴにぴったりと離れず、♂白と♂緑が喧嘩するんです。黄色♀は私たちの手から餌は食べますが、まだ手に乗るところまでは慣れていません。息子は私の父と同じ日に生まれたからか、父と同じように鳥が大好きです。鳥の気持ちがわかるようで、扱い方が上手です。亡き父も野生のオオルリに愛情注ぎ、餌付けを成功させたことがありました。DSC00818 - コピー (442x640) posted by (C)maryam f dDSC00819 - コピー (472x640) posted by (C)maryam f dにほんブログ村
2013年05月31日

DSC00729 (360x480) posted by (C)maryam f dマルコメ頭が伸び放題になって、お猿になっていた息子。床屋に連れて行き、スッキリサッパリ(*´Д`)致しました。英語の塾に行く前に彼なりにお洒落したところを撮影。IMG_5902 (381x640) posted by (C)maryam f d↓こちらは夏用の外出着。ウエスト部分にゴムが入っているのですっきり見えます。こういう長め丈の上着は、高いヒールの靴を履くと、縦方向へと目が行き、スマートに映ります。DSC00808 (370x640) posted by (C)maryam f dにほんブログ村
2013年05月30日

”心は魔物”説法などで、心を無くせといいつつ、善行を勧めるのが私にはよくわかりません。死後には何も持っていけないといいながら、唯一為した善行は持っていけるということらしいのですが、では、善悪は一体何ではかりますのん?”ええあんばい は 天に全面委任すべし”と記事に記したように、”自我ではかる善悪は、偽善でしかない”と私は思ってます。なぜなら、善悪がはっきりしていたら、この世に戦争はなくなるし、喧嘩も揉め事も一切なくなると思いませんか?でも今まで世界で戦争がなくなったことってあります?喧嘩はこの世に存在して当然の現象では?この部分にこうやって、手に負えない酔っ払いみたいに深く私が絡むのは、善行を為せ!って偉そうに、簡単に人に勧めることが、私にはどうにも我慢出来ないからなんです。簡単に善行なんて勧める人は数多くいますが、その超簡単な”善悪の判断”で私は死ぬほど苦悩しました。(2回程、棺桶に足突っ込んで戻って来たかな)もう言葉にも何もその想いを表現することができないぐらい、苦悩しました!!!このために全てをぶっ壊されたと言っても過言ではないでしょう。完全なる”私”の敗北宣言です。そして、”その時・その場になって心ではなく、身体が勝手に動く現在だけで十分である”というのが、私の行き着いた場所です。私たちは意識して良い方へ持っていくこともできないし、良い方という”良い(善)”というものも”私”には判断不可能です。もう偽善も努力も懲り懲りです!というのが私の本音なんです。だからこそ、心はいつでもぬるま湯にゆっくり、どっぷり浸かっていていいんだと思えました。だって、サダメが努力せい!っとお達しになったら、否応なく、無抵抗に、身体は勝手にそう動くし、心も勝手にそういう方向へ向けさせられますから。心は魔物です。人様からみて天国だと思う環境にあっても、心が地獄ならその人にとっては地獄で、逆に心が天国なら、どんなに過酷な状況でも、その人は天国にいるのと同じです。だったら、いつでも心はぬるま湯に浸かっていればいいんではないでしょうか(ヤケクソの居直り)?それでも軟弱な私は、サダメが定めた道を通りながら、心が戦闘モード、過酷モードにスイッチが入ってしまい(サダメにスイッチを入れられてしまうという方が正確な表現かもしれませんが)だからこそそういう時は、ああ、この心(戦闘・過酷モード)は単なる心、気分であって、いずれは静まるものなんだ、、、っと深呼吸しつつ、そう言い聞かせることにしています。私の姑も夫も素晴らしく良い人なんです。でもね、それでも人は、いざという時自分を守るために、何かを守るために、簡単に”お前が悪かったんじゃない?”って彼らの善悪で私を批判するんです。刃(やいば)をむけるんです!どれだけ私の心はそれに傷つき、虚しさを感じたことか。一生懸命善悪とは何か、自分を突き放して苦悩してもこれが結果だったんです。私はそういうものにもう、うんざりです。だから、彼らの善悪判断を、私は心で受け取ることは止めることにしました。積み重なる今だけを見ることにしました。私も姑も、舅も夫も、全ての人は、意識的であっても、無意識であっても”サダメに従っているだけだ”と思うことにしました。そしてそこには”善悪はない”んです。その人が”ワタクシ(自我・我)”をとっぱらおうが、とっぱらわなくても、”皆 宇宙の調和”に従って存在しているだけなんです。宇宙の調和 とか 宇宙の視点からみた善悪 って 自我ではかろうとしたって無理、とても計り知れません。でもね、本当はみんな 意識していようが、いまいが、この世にあるものはみんな ”宇宙の調和 宇宙的な善悪”に従って存在している とも言えるんです。”皆 宇宙の調和 を 知っている”んです。逆から言うと、宇宙の不調和 というものとは何か? も 人には測れないでしょうね。なんでこんなものが存在するん?って思っても、存在する以上はそれは”宇宙の調和に”叶っているんだと私は思います。なんでこんなものが存在するんだ?(不調和なものでしかない)って思っても→これもまた”心”の働きなんです。なんで? っと理由を求めることがそもそもいけない!妖怪やお化け、幽霊、呪い、霊魂、因縁、人間、社会、他人 なんかを怖れるよりは、、、自分の心を魔物と思ったほうがよろし。自分(他人)の心よりも恐ろしゅうものはないと私は思ってます。自分の心が無くなれば、他人の心も、社会的な要求的シガラミも、因縁も霊魂も、幽霊も、亡霊も、呪いも・・・全て消えてなくなり、今まであなたの中に隠れていた”自由・至福”が顕れます。あらゆるシガラミは、煩悩は、”あんなに怖れ、慄いていたものは、柳が揺れる影であった!”っていう笑い話が如く雲散霧消するんですよ。にほんブログ村
2013年05月29日

ジャゴルバゴル という面白い名がついたエスニック風レバー炒めです。作り方は、ジャガイモをフライドポテトにして、飴色玉ねぎを作り、それにトマトピューレをいれてトマトソースを作ります。このときにターメリック、胡椒、クミンシードの粉末、カレースパイスなどお好みのスパイスも入れて加熱します。そこにレバーを入れて色が変わって、火がきちんと通ったらフライドポテトを入れて混ぜ合わせ少し炒めます。IMG_5903 (640x433)posted by (C)maryam f d私は貧血になるとすぐに風邪をひきます。これは栄養分(鉄分)の欠乏で免疫力が低下したためと思われます。血液サラサラの方はAspirinを服用してはダメですよ。Aspirinには動脈硬化を防ぐために血液をサラサラにする効果があります。夜、キャバブ(カバブ)とかレバーを食べると、私は栄養分が補給されすぎて、夜中目がギンギラギンに冴えて、全く眠れなくなります。昨夜もレバーを食べたら午前4時まで眠れませんでした。(>_<)本日は3時間睡眠です。でも、、、眠くなく、朝7時半から9時半まで掃除してました。にほんブログ村
2013年05月27日

戯言(たわごと)身に起こることは全て 必然且つ偶然の事そこに自我(~をしたい ~せねばならない etc…)は存在しない物事は全て 必然 且つ 偶然に起こる 中略これをより正確に言うならば必然且つ偶然 という表現でさえ心から出てきた言葉(概念)でしかない必然も 偶然も どちらも 人の心が生んだ”戯言”でしかない・・・などと書いた経緯を記します。***************真我探求っと修行を望んで、修行ができる方は少ないでしょうね。世を捨てて修行できる方はもっと少ない・・・でも、そういう方を羨ましいとも思いません。日常の中で 真我 を見出すことは可能だと私は思っています。マハルシさんも世を捨てることをすすめていませんでした。それに同感しております。 環境はともかく 真我 を見出す人は見出すし、自分の裡に見い出せない人は、一生苦行の修行しても見いだせないのでしょう。しかし、真我を見出すきっかけというものは、皆に平等に与えられています。なぜなら、見出す人は”アリンコ”を見てもその中に 真我 を見出すことができるからです。この世にある全てのものは、真我を通して映し出されており、それらの土台に”真我”のみが存在するからです。真我探求というと瞑想だとか座禅を組むことを想われる方がほとんどではないでしょうか?瞑想にしても、座禅にしても呼吸を整え、心を静めることはできるでしょう。身体の疲れも取れる感じがします。(空手稽古の後にやると)でも私は座禅をしている時だけではなく、稽古しているときでも、走っているにしても、身体と呼吸の限界に近づいた時に、苦しさや痛みを感じないために意識を身体に集中しないようにするとこれは私の身体ではない・・・っと言い聞かせながら動いていると身体が勝手に動いているような気になります。苦痛は減り、そのほうが長時間苦痛に耐えられます。このやり方のほうが、座禅や、瞑想で心を静めるだけの結果しか得られない・・・段階のものよりも、真我の意識(無心)に近いような感じが私にはあります。座禅・瞑想というやり方を否定するものでは決してありませんけれど。そういうわけで、不思議なことに座禅を組んで動かないで居続けることと、身体の苦痛を感じている後で、それでも、それでも、身体を動かし続けることの先は、どちらも同じような意識へと 我 を向かわせるようなんです。要するに、座禅を組んでいることも、身体を動かさないことも苦痛極まりなくなるんでしょう。(座禅はやったことないんでわからないんですけど)それでも、その状態をなんとか続けないといけないと、自分を追い込むと、座禅を組んで、苦しいのに更に身体を動かさないでいるのと、身体の苦痛を感じて更に、身体を動かし続けるのとは、どちらも苦痛状態にありながら、さらにそれを突き詰めようとすると、ある状態へと導く、本能と直結したシステムが存在するんじゃないか?と想うのです。(いつもながら全く何の根拠もありませんが・・・)”無心にさせて、身体の苦痛を除去する本能システム”と言えるかもしれません。このシステムを使うと案外楽に 無心 というものがどういうものであるのか?ということを垣間見ることができるのだろうと思います。そこまで身体を酷使せずとも、何か、テニスでも、書道でも、楽器演奏でもなんでも!無心に集中し、自分の身体、腕、足が勝手に動いている状態にあると、同じことが言えます。(ただ容易に到達した無心状態は、同じぐらい容易に無心状態解除してしまうのかもしれません。)無我夢中状態、この時にもやはり、主語も目的語も消滅しているんでしょう。この時、”我”は取り除かれ”真我”が輝いているんです。鏡が”神”に通じている状態です。意識を飛ばすことと、意識を集中させ昇華させることは同じ状態なのでしょう。どちらが向いているかは あなた にお任せします。ただ、どちらもその状態を持続させるには修練が必要だとは思います。状態の維持こそが難しい と言えるでしょう。しかし”無心”の状態を垣間見ることが大切で、まずはそこからです。***************無心のたとえとして 石 になれ というようなことが言われます。石 はあるがままにそこにあるんです。誰が見ていようが、見ていまいが、石は 主語もなく目的もなく、己が役割を果たしています。蟻 は無心に餌を集めます。本能に従って餌を集めています。誰が見ていようが、見ていまいが、蟻は蟻の本分を果たしています。蟻と芋虫が出くわしました。あるいは蛾が炎の中に飛びこんでいきました。ハエが蛙に飲み込まれました。野良犬に子犬が誕生しました。これは偶然だったのか?必然だったのか?いろいろな理由を付けるのが人です。それは、人に心があるからです。Aさんと、Bさんが出会いました。お互いに惹かれ、そしてしばらく時を共にし、別れました。無限に広がる視点からみて、蟻・芋虫・蛾・蛙・ハエ・野良犬 の上にみる現象と、Aさん・Bさんの上にみる現象 には何か区別があるのでしょうか?この間に区別があるとしたら、これらの出来事と言われることを 人は、心で計り・因果応報であれこれと思考する ”自我”という存在を持っている っということではないでしょうか?**************私はマハルシ師の著作を読む前に”宇宙(無限世界とか天上とかいう言葉を使いましたが、実際に無限なのか、天上の先の先にあるのかどうかさえも私にはわかりません・・・)というのはなんと申しましょうか・・・人知には決して計り知れない世界 というものだと思います。次元を超えた世界といえるのかもしれません。人が誇っている基準とか枠とかいうものを、はるかに超えた世界であると思います。そういう世界を感じる という視点・・・これはありとあらゆる日常の現象に”新たな視点”を与え、”目の前の日常の中に今まで想像もしていなかったような景色が映し出されてくる” という不思議な可能性を含んでいる・・・っと私は思っています。”このように記していました。この”人知(自我・個我の叡智)には、決して計り知れない世界”というものが”真我”です。自我・個我 で見ている、私・あなた・世界・日常・ありとあらゆる全てものと”真我”で映す、私・あなた・世界・日常・ありとあらゆる全てもの は同じ世界であり、同じ日常の風景なんです。ただそれを意識する本質の根本が異なります。そして”真我”でそれらを意識したとき、”目の前の日常の中に今まで想像もしていなかったような景色が映し出されてくる”のです。今の私ならば、このあと、以下のように続けて記します。これは”不思議”でもなければ、”可能性”でもありませんでしたこれを言葉にするならば、まさに 偶然 であり 必然 でありましたっと。にほんブログ村
2013年05月26日

手間暇かかるけれど美味しいドルメを作りました。ちょうど、葡萄の葉の季節なので、旬のものを食材にしましたが、大きめの太っちょな茄子、ピーマンの中身をくりぬいてそれに具を詰めて煮てもドルメといいます。茄子。ピーマンの場合は具を詰める場所がたくさんあるので干し葡萄ではなく乾燥杏を戻したものを入れます。葡萄の葉っぱを湯にさらしたもの。IMG_5891 (640x480)posted by (C)maryam f d具を混ぜたもの。(米、ラペという黄色い豆、ハーブ5・6種、ミンチ肉、卵、干し葡萄、少々きな粉)IMG_5892 (640x480)posted by (C)maryam f d葉に包み終わったところ。包むだけで約1時間かかった!IMG_5893 (640x527)posted by (C)maryam f d鍋に並べて、上から飴色玉ねぎと少々トマト、酢、砂糖、ちょうどイランの梅があったのでそれもいれて甘辛酸煮汁を上からかけて煮る。(私は固形コンソメスープの素も入れた。)IMG_5896 (640x439)posted by (C)maryam f d煮えたところ。IMG_5899 (640x480) (430x296) posted by (C)maryam f d美味しく出来上がりました!IMG_5901 (640x587)posted by (C)maryam f dにほんブログ村
2013年05月25日

夏用の外出着最近は本当にいろ~~~んなモデルのものがいろ~~~んな色で売られています。ここ数年はカラフルな見ているだけで楽しくなるようなルサリー(髪を隠す布)が流行していて年齢を問わず、かなり派手な柄や色彩のものを身につけた女性をたくさんみます。(・・・Tehranだけかもしれないけれど。)稽古には、空手道着のズボンをはいて出かける私は、(帰りは、買い物の都合があるのでジーンズに着替えますが)着替えに時間がかからず、しかも道着のズボンはかなり厚地で大きめなので、上っ張りも幅にゆとりのあるものを選びます。そういうわけでこんなものを選びました。着物スタイルと呼ばれているもの。着物というよりバスローブかな・・・などと思うけれど。kaimono1 posted by (C)maryam f d夏用の薄手・大きめシャツを着ている感じのもの。kaimono2 posted by (C)maryam f d布を対角線上に折って、襟と袖らしきものをつけ、ウエストを締めたような、上からガバっと着られるもの。袖の部分が開いているので通気性が非常によい。kaimono3 posted by (C)maryam f d にほんブログ村
2013年05月24日

セロリがたっぷりと食べられる煮込み。お肉とハーブも入っています。レモンとミント味(きっと想像できないでしょう。)でさっぱりしていて日本人好みの味です。IMG_5880 (640x625) posted by (C)maryam f d最近はご飯をこんな感じでケーキ風に出します。IMG_5881 (640x600) posted by (C)maryam f d今が旬のそら豆と、ディルの炊き込みご飯IMG_5885 (640x479) posted by (C)maryam f d羊の骨付き肉煮込みセロリ・ピーマン・イランの梅・トマト・マッシュルームで美味しく味つけ。IMG_5888 (640x522) posted by (C)maryam f d盛り付け画像IMG_5889 (640x564) posted by (C)maryam f dナーンのお焦げ♥IMG_5890 (640x480) posted by (C)maryam f dお口直しには、ヨーグルトと胡瓜、ミントの和物や、サラダ、ピクルスなどを添えます。飲み物にはレモネード( ゚v^ ) 美味しいですよ!にほんブログ村
2013年05月21日

プレゼントいろいろ義姉1・2と義妹3からはお金をいただきました。そのお金と、翻訳料もろもろで少し貯めていたお金で、訳あって、ユーロ€を買いました。夫からは・・・IMG_5843 (516x640)posted by (C)maryam f dAb-Gusht というイランの伝統料理を食べるときに使う丼をいただきました。この他に夫からは母(妻・女性)の日にお金をいただいていたので夏用の外出着を購入しておりました。IMG_5848 (640x457)posted by (C)maryam f d義妹3・4からは、可愛いアイスクリームの容器を6客を2組、12客いただきました。イランでは6客1組で売られています。小売もありますが、私がカップやお皿を購入するときは2・3組購入します。ティーカップ・コーヒーカップなどは150客ぐらいもっています。客を招くと、食事と食前、食後の飲み物に一人3つは最低でもカップを使うからです。20人・30人のお客を呼ぶ時もあるわけです。用途により大きさや形の使い分けもあるのでこの数になりました。こちらは義母からもらったプレゼントDSC00795 (640x480) posted by (C)maryam f d料理が、冷めることなく差し出せる器です。にほんブログ村
2013年05月20日

戯言(たわごと)身に起こることは全て 必然且つ偶然の事そこに自我(~をしたい ~せねばならない etc…)は存在しない物事は全て 必然 且つ 偶然に起こる今ここにこうして存在することも この世に生まれてきたことも 生まれつき人様の半分の体力しかないのも結婚し ここで生活しているのも子供を生んだのも肉体の終焉(死)を迎えるのも必然且つ偶然・・・これをより正確に言うならば必然且つ偶然 という表現でさえ心から出てきた言葉(概念)でしかない 必然も 偶然も どちらも 人の心が生んだ”戯言”でしかない にほんブログ村
2013年05月19日

一ヶ月前に義姉1の家で撮影しました。私が着ているのは外出着でもあります。結婚当初(1996年)は夏でもやたらに長くて、色も黒い堅苦しいものが多かったのですが、最近は夏だと薄手で、短くて、日本で春・秋に着る、ラフなシャツに近いものが流行ってくれて、みんな(多くの女性、とくに若い女性)が着てくれているので、とても有難いです!2011年に日本に行ったときに買ったデニムのシャツは室内用にしか使えんだろう・・・と思っていたのですが、最近私はそれを外出着に着てしまっています!そのぐらい楽な格好で出歩けるようになりました。暑い、暑い、ovenのような日差しのイランの夏の季節も怖くなくなります。袖のしたの方の黒い部分は、腕にだけつける布です。ですから中はランニングシャツでもOK。若い子などは何も着ないで下着の上にこの外出着を着てしまうようですが。さすがに私はそこまで勇気がないです。 前列向かって左が 数年前に夫を亡くした、高校数学教諭の義妹3。そのとなりは、ドイツ在住の義妹1。前列向かって右は、私の父の夢をよく見てくれる義妹2。後列向かって左は、絵とインド占星術を教えてくれた義姉2。私のとなりは美容師の義姉1です。義妹4は遅く来たので写ってません。♥になっているのは珍しくスカーフをしてなかった義母です。姉妹の顔は似ているようで似ていない・・・性格はそれぞれ個性的! 同じ両親の影響を7人7様(夫プラス6人姉妹)、それぞれの中で咀嚼して受け継いでいるのが見て取れて、面白いです。 Khahar shoharand posted by (C)maryam f dにほんブログ村
2013年05月15日

"承知しております""源流をたどれば一(いつ)となる"という記事の最後に私は、以下のように記しました。*********************私は言葉を発するとき(ある行動を起こすことでもありますが・・・)には、 "無心" 私がこれをしている という意識を持たない 感情的に発しようが、無感情に発しようが、 もう言葉を発することはサダメられていた と思うのです。 そしてこれは逆も言えるのです。 私が相手から与えられた言葉というのは 姑が泣き叫んで言葉を発しようが、感情抜きに発しようが 姑が私に 葬式にも出るな、墓にもくるな、墓参りも足を運ぶな! という言葉を与えられることは サダメ であった ということです。 だから私は彼女にどんな 悪感情 も持っていません。 それこそ以前よりもずっと穏やかに日々が過ぎていってます。********************私が姑に対してどんな悪感情も持っていないし、穏やかに日々が過ぎていっているっと言い切れる理由は、私が 姑の葬式に出るも出ないも墓に行くも行かぬも墓参りに足を運ぶも運ばぬもその時 その場 になってみなければ"私"でさえ全くわからないからです。姑に決められるものでもなく私に決められるものでもないってことを私は "よく承知している" からなのです。 にほんブログ村
2013年05月14日

本日のお昼IMG_5851 (640x480) posted by (C)maryam f d にほんブログ村
2013年05月13日

本日の晩御飯のおかずです。IMG_5841 (640x623) posted by (C)maryam f dほうれん草と羊肉と乾燥杏の煮物です。ザクロのエキスも少々入れます。甘酸っぱくて美味です。味覚というものは本当に奥が深いと思います。イランのお料理で私の味覚は発達しました。日本人の味覚とイラン人の味覚はかなり異なります。味というものも固定観念をとっぱらった方がいいと私は思います。料理人は世界の料理をいろいろ試してみてください。最初全く美味しくないどころか、(納豆のように)これは食べ物ではない!と思っていたものが病みつきになるものなんです。 にほんブログ村
2013年05月12日

二人の義姉は、来客があったりで食事していけないということだったので、お持ち帰りいただきました。二人が帰ったあとお皿に盛りました。IMG_5827 (628x800) posted by (C)maryam f d奥にあるのが茄子のお料理です。本当はにんにくをカリカリにしたものもトッピングするのですが、昨日は週末でなかったので学校や職場で口臭をさせて行くのは嫌な人もいるかと思い、にんにくパウダーを使用しました。IMG_5829 (640x480) posted by (C)maryam f d↑はメキシコ風のコーン とここで言われているもので、コーンとマッシュルームを炒めて、スパイスや乾燥ハーブ等を数種入れ最後にとろけるチーズをからめ、マヨネーズを少々入れて混ぜてできるものです。子供達に大人気で、私の口には入りませんでした。このお料理にパンと、飲み物と果物を添えました。IMG_5831 (480x441) posted by (C)maryam f dコーヒー風味の美味しいケーキでした!IMG_5830 (480x360) posted by (C)maryam f dプレゼントは食器類でした。蝋燭で料理を暖かく保てる食器など。~ FIN ~にほんブログ村
2013年05月12日

誕生日には、鶏肉入りのポテトサラダを大量に作りました。丸鶏を圧力鍋でじっくり煮、煮汁をのこさないように煮詰めました。DSC00776 (640x480)posted by (C)maryam f d卵は6つ。DSC00777 (640x480) posted by (C)maryam f dDSC00781 (640x480)posted by (C)maryam f d胡瓜の酢漬け・人参(生)も細かく切って混ぜる。DSC00784 (640x480) posted by (C)maryam f dじゃがいも は大10個茹で、皮をむきつぶす。DSC00783 (640x480)posted by (C)maryam f dTo be continue・・・にほんブログ村
2013年05月12日

”月が欠けゆき また満ちるように・・・”という記事に対して oak treeさんから・・・無常の常ですね というcommentをいただきました。 Maryam F D:無常の常?!(知らないので調べます((;゚Д゚)押忍)oak treeさん:造語ですよ ^_^; Maryam F D:u~~.やられた!私は 無心の常 でありたいかな。心は使わないで、反射神経というか本能による行動を多くしていきたい。よくわからないけど、自然とそうしてたんだよね・・・っていうような。だっていくら無我の境地・・・といったって、防衛本能なくす努力なんてする必要ないし、本能的な欲求は自然なものだもの。正当防衛的な反射神経的・本能的な行為で相手を傷つけたことに対してまで、苦しむ必要はないように思う。心って恐ろしいよ、人を殺せてしまう人が世の中に存在するのが当たり前なら、自分自身を自分の心が責めて、精神を病ませる場合もたくさんある。実は私が無心ということの大切さを理解する前の晩に、恐ろしい言葉を私は姑に投げつけちゃっていた。無心ということを理解する3・4時間前の出来事だった。無心を理解したら私はおそらくその言葉を、一生彼女に言わなかったと思うのだけれどね。サダメってすごいと思った・・・サダメはどうしてもそれ(私が恐ろしい言葉を姑に投げつけること)を望んだのだっということを理解したから。彼女(姑)には、私が死んでも葬式にも墓にも墓参りにも来るな!と泣き叫ばれた。(でもその時私すごく冷静だった。あなたはこうやってすぐに泣き叫んで相手に絶交だとか、関係の断絶をぶつけられたんだよね。私が今回衝動的に叫んだ言葉はとっさの言葉じゃない。7・8年苦しみに苦しんで、心が血しぶきを上げながらもこらえていた言葉なのよ・・・って思っていた。この言葉を私が発したらあなたがどんなに傷つくかわかっていたから、それこそ関係の断絶を意味することになりかねないと、嫌というほどわかっていたから言葉にはしなかったのよって。)それでも私は、もしその後に”無心”を理解しなかったならば、姑を激昂させた自分の言動を責めて、責めて、姑が亡くなっても、自分が死ぬまで姑に言葉を投げつけた自分を責め続けたかもしれない。でも私は、相手を傷つけたことも、自分が苦しんだことも、相手を傷付けて自分を苦しめることも やめよう と思う。それは 起こるべくして起こった、ただそれだけ。oak treeさん:世が変化し続けるのが無常で、その変化が「常に」起こるという意味でした。 本能はなくしたら死んでしまうので、無くす必要はないですね。 無心というのは本能をも含めて観る感覚、本能をも超えて離れて観る感覚なんでしょうかね。 Maryam F D:無常の常 ですか。同感です。それをただ映している、もっと正確に表現すると現象として顕現しているもの全ての中に存在するのが真我。そして真我が見られる、または映される(対象となる)ことはなくただそこにそうして存在しているだけ。oak tree:真我というのを担保にするのもよくないのだけどね。真我が絶対で でないのものはしょせん相対・・・ だと世のおおかたを軽く観てしまう傾向にあるいは、ひょっとするとニヒリズムにもなりかねないので そのへんは注意しないとね。Maryam F D:そういうふうに受け取られかねない部分はありますね。中途半端に真我を理解すると危険思想に受け取られることは否めません。ただ真我はニヒルとは異なりますよ。真我なくして何も映らないとしたら、全ては真我が土台となってつながっているとも言えます。相対するものではなくて、つながっている感じ?私が月の中にも我を見るのは、元にあるものは同じだからです。源流をたどれば一(いつ)となります。それは、、、月だけではなく全てのものに言えます。私はOakさんとも、たった一度すれ違う人とも元を辿れば同じものに行き当たります。二十歳の時に私は、自分のこの世での存在を”幻”と書きました。”彼女は幻”あれはいつの日だったろうか 彼女が愛を失った日彼女が自分の心と引き換えに 再び生命を得た日彼女は誰をも愛し 誰をも愛さない自分すらも愛さない彼女の瞳に映る現実は映画のフィルムにすぎない無感動の観客、傍観者彼女には真の喜びも悲しみもない肉体は存在するだが彼女は幻誰もそれに気がつかない彼女の優しさは愛ではなく自己を否定して生きるための手段あなたの瞳に映る彼女の姿は虚像にすぎない彼女は幻現実に使わされた夢魔の使い(1990年記)今は、彼女(私)だけでなく、彼も、彼女も、あなたも全てが幻だとおもっています。誰をも愛し、誰をも愛さないというのも中途半端な理解でした。確かに愛するも愛さないもないんです。私もあなたも、彼も彼女も、、、、元はひとつだからです。私はいつもこうやって言葉を綴っているときに、Oakさん、あるいは別の人とのやり取りであっても、相手の方に書いているのか?自分自身に書いているのか?あるいはOakさんの言葉が、自分のものであるような?そういう境界線が非常に曖昧な感覚を長いことずっと持っていたんです。でもそれは不思議なことでも、頭がおかしいのでも、なんでもない、当たり前のことだったんだ!ということがようやく理解できました。でも、これを私がしつこく続けていくと、相手の方は私に警戒します。それはその方の自我・個我という相手との境界線を超えてしまうからなんです。そうしては、私の言葉は、相手の方の神経を逆なでしてしまうようなのです。私は、あなたも私も境界線は曖昧という距離で言葉を綴ります。相手の方にしてみれば、そこまで私の奥に土足で踏み込む言葉を投げかけるあなた!他人のあなたに、一体私の何がわかるっていうの?やめてくれる?!っといったところなんでしょう。私は今後はこういう余分な、大変迷惑なことをするのは極力控えようとは思いますがそんな私のちっぽけな願望すらサダメが聞き入れるなどとはもう長年の(サダメとの)戦いから 思ってもいない のです。言葉を発したくない!って思っていても、必要とあらば、言葉を発せざるを得ないのです。それが サダメ というものです。だからこそ私は言葉を発するとき(ある行動を起こすことでもありますが・・・)には、 ”無心” 私がこれをしている という意識を持たない感情的に発しようが、無感情に発しようが、もう言葉を発することはサダメられていたと思うのです。そしてこれは逆も言えるのです。私が相手から与えられた言葉というのは姑が泣き叫んで言葉を発しようが、感情抜きに発しようが姑が私に 葬式にも出るな、墓にもくるな、墓参りも足を運ぶな!という言葉を与えられることはサダメ であった ということです。だから私は彼女にどんな 悪感情 も持っていません。それこそ以前よりもずっと穏やかに日々が過ぎていってます。にほんブログ村
2013年05月10日

本日のお昼。 イランでいうハンバーグです。 22個焼きました。1時間半はかかりました。 空腹で恐ろしく機嫌が悪かった息子もこれで笑顔いっぱいになりました。(^O^)! にほんブログ村
2013年05月10日

本日のお昼 にほんブログ村
2013年05月09日

”心の仕業”良きにはからえ (ええあんばいにやっといて)っという言葉がある。私が4年間務めた高校の校長先生が、良くお遣いになっていた。この言葉を受け取ったものは 自由 と 責任 を与えられる。はからうのは 俺だ・私だ と考える、ええあんばい を見極め はからう のは ”俺・私”でそして、そのようにはからった責任は ”俺・私”に帰属すると 認識するのが 一般的な受け取り方 というのは重々承知している。 全うな人が自身の人生を振り返ると多くの場合、”良きにはからえ”で過ごしてきたのではないかと思う。時には個人的なことより、全体の善を考えての身の振り方をするそして 自由(意思・意志) による行動の (結果)責任 を 自己 に帰結させる・・・。はからうのは 俺だ・私だ と考えるはからったのは ”俺・私”でそのようにはからった(結果の)責任は ”俺・私”に属するしかし・・・このように考えてしまうと ”虚”に陥る恐れがある。これを、偉そうに書いているわけでは決してない。”私”もそうして”虚”に陥ったから。今の私はこう思っている。”誰が何をした”ということ、それをとっぱらってしまえ。ええあんばい は 天に全面委任すべし。実際にしているのは、はからっているように見えるのは、”この身体” かもしれないが、図らっている のは 天!私がこれまで サダメとの試合に ”全戦全敗”してきたのが”道理”であったように、どうあがいても、またはあがかなくても”大いなる力に全面委任しか有り得ない”っと。責任 というものは 存在しない自由 を感じ 責任 を背負っているのは ただただ ”私の心の仕業”にほんブログ村
2013年05月09日

サマヌという食べ物がイランにはある。小麦を発芽させたものを砕いて、その水分と小麦粉を混ぜたものを18時間近くも火にかけるとできる。その間底が焦げないように常にかき混ぜないといけない。 9年程前、義妹3が義父の恢復(心臓手術をした折)のためにサマヌの願かけをしたのを今回実施した。 ↑は火にかけて1時間ぐらいの様子。火にかけて4・5時間は男の人が腰を入れてまんべんなく底からかき混ぜないと焦げてしまうという一番気を遣う時間帯。 サマヌ専門の田舎のおばさんが来て指揮をとっていた。 サマヌの鍋をかき混ぜるには、礼拝前にする清めがないとダメ、不謹慎な言動、笑ったりするのも御法度でそういうことをするとサマヌがうまく作れず、失敗するからっと義母、義妹3に言われた(°д°)!!! 鍋に近づくには 清めをすること と書かれた張り紙までしてあった!(私はこれには正直辟易してしまった・・・(゚o゚;???) こちらは次の日の朝の様子。前夜に比べたら、色が茶色になり、だいぶ煮詰まっているが、この日の午後4時まで煮詰める作業は続いた。 煮詰めた後、アーモンドを入れて、布をかけて蒸す。そしてかけてあった布を外して出来上がった時の画像↑。 この時の波紋に、ペルシャ語・アラビア語などで書かれた言葉(アッラー、イマームの名等)が描かれているということを信じている人はたくさんいる。 この他に大鍋を養護施設に持っていった。 私は大した仕事はしなかったけれど、夜、義妹3と義母の機嫌を損ねないようにと 午後11時から午前0時半まで庭にいた・・・ そしてこの時の夜風が私の腰に悪影響し、2週間以上たった現在でも治ってない。 にほんブログ村
2013年05月06日

いつでしたか?撮影したイランのナーン屋さんの画像です。もともとは窯のようなもので作るのが伝統で、写真向かって左側に窯がありましたが、ここでは おじさん の後ろに新しいナーン焼き機も導入したようでした。どちらも使用して作っているようでした。最近は手間暇かけずに発酵させるパンが横行し、そのように作られたパンは冷めるとあっというまにガチガチになりますが、工程を省いていないナーンは冷めても柔らかく、味わいが異なります。 おじさんはのばしたナーンの生地に切れ目を入れて、胡麻をふり、卵の黄身を塗っています。機械に入れていますが、一周する度に、パンの記事は厚みを増していきました。 お兄さんが刷毛で溶いた卵の黄身を塗ってます。 本当に美味しいナーンでした。あっという間に食べ終わってしまいましたよ♪ お詫び:現在VPNがうまく接続しないため、フォト蔵やFBに画像アップできないのです。Izaはまだイランのフィルターにかかってないのでここに画像をアップして楽天ブログに使いましたが、時間が経つと表示しなくなるようです。ご勘弁くださいませ。_(_^_)_画像が表示されなくなりましたらこちらをどうぞごらんくださいませ。にほんブログ村
2013年05月05日

”月が欠けゆき また満ちるように・・・”私の心がドキドキと胸高鳴り 駆り立てようが重い重い責任感を 背負わせようが深い悲しみの底に 陥らせようが絶望の暗闇で 視界と思考を覆いつくそうが緊張・不安で 身を固くさせようが虚しさに 茫然自失とさせようが怒り極まって 全身を震えさせようが・・・・”お天道様は昇り沈み季節は巡り去りゆく”それと同じように私の心がドキドキと高鳴らずとも責任感など背負わずとも深い悲しみに陥らずとも絶望せずとも緊張・不安にならずとも虚しさで茫然自失にならずとも怒りに震えずとも私の心が働くとも 働かざるとも”私の身体 私の手足は動き続け私の口は言葉を発し続ける”陽は沈み また昇るように月が欠けゆき また満ちるように・・・・ にほんブログ村
2013年05月04日

自由私の心を解き放つのではなく自分の心という縄から私を解放させなさい自由 とは外部世界と自分の関係の中にあるのではなく己の中に見出さねばならない”自(おのれ)”に ”由 よし” があるゆえに・・・************幸せ しあわせ とは しわあわせ と巷では言われている手と手のしわ を あわせる という発想は悪くないしあわせ とは 思あわせ だろう手をあわせ 仏心 というものがあるとしたら・・・と思いを馳せそれと 自我(自分の意思)を重ねあわせるこれを ”しあわせ”という重ね合わせるのは 仏心 でも 神ごころ でも サダメ でもかまわない”しあわせ”とは 自我・個我 から解き放たれたときに得られるものにほんブログ村
2013年05月03日

ねえ そこの ”私”!ねえ そこのそう そこの ”私”!欲望・欲求を満たそう なんて思っちゃいけないよそれは 自分の影を踏もうとする行為そのもの己の影法師と永久の鬼ごっこ永久に時間を費やそうが輪廻転生を繰り返そうが心を満足させることなど有り得ないんだ***********************心の問題に本能が関わる危険満たされない心を本能で満たそうとすると・・・不満、不安、孤独、(自己)満足、自尊心、自意識・・・をセックスで満たそうとすると (セックス依存・恋愛依存)食欲で満たそうとすると (過食症)闘争本能で満たそうとすると (あらゆる暴力・戦争・人種差別)母性本能で満たそうとすると (他者への過剰な甘やかし)防衛本能で満たそうとすると (引き篭もり)・・・本能に限らず アルコールでも 買い物でもストレスを発散させるだけのつもりが常習化し 依存へ 中毒へ 身を滅ぼすまで延々と続き それでもなお満ち足りない相対関係でとらえる世界に踏みとどまる限りこの世のありとあらゆるものものを用いようとも心を満たすことなど不可能 にほんブログ村
2013年05月02日

自ら・・・おのずから(真我)と みずから(自我・個我)禅問:自分 とは ”自”を”何から”分かつのか?それは何のために?真我探求 は 自分 を問い詰めていかないと進みません。けれど、この問いかけたに浮かんできた言葉・答えは全て、その人にとって正解 だとも言えます。なぜなら、自分 というものを心・感情で捉えていくと、数限りない”自分”が見つかってくるからです。掴んでも、掴んでも、新たな自分の分身が浮かび上がってきます。しかしここでは、このような中途半端な書き方をすると、伝わりにくいかと思いますので、以下に私的な考えを示します。自分 という言葉 から 分(分ける・分かつ)を取り除くと”自”が残ります。この言葉は訓読みで二通りの読み方があります。”おのずから と みずから” です。私は、おのずから と 読むと 真我 みずから と 読むと 個我・自我 を示しているように感じました。おのずから というのは”自然と~・自然に~”という意味です。自 というのは本来 ”自然にしていても存在する” ものでこれこそ 真我(あるがままに存在するもの)なのだと思いました。しかし、いつしかそれ(自)を”意図的に顕わしめよう”という意識(自我・個我)が芽生えるようになります。そこから みずから(意図的に、自主的に) という意味が生まれてきたのだと思っています。そしてその作業には 自然との分岐が伴った のだと思うのです。”自我・個我・心で認識・意識することこそが(自然や)世界やあなた 彼 彼女などから我を離反させ排他的に物事を分別し、己を浮き上がらせ 引き立て、区別は即ち我を限り・あなたを限り・彼 彼女を限り・世界中のものを限ってエゴ(自我・個我) を確立する作業に他ならない”と書きましたが、これが ”自分” という言葉の由来のように私は思っています。おのずから(自然に、あるがままに)というものから、心によって離反し、我(自我)を確立させるため、自然や万物、森羅万象を対象物として認識する心の働きが ”自分”になるのだと。自分とは、”みずから(心の欲するままに、意図的に)という意思の芽生えによる、おのずから(自然状態・あるがままの状態)からの決別”ではないか?と私は思っています。だから、己を自然・世界・あらゆるものから離反させなければそれらを比較対象物として捉えなければ相対性の関係を消滅させれば”おのずから”の状態(あるがままの状態)に”還る”ことが可能なのだと思います。”鏡 かがみ ”から我(個我・自我)を取り除いてみよ鏡に映った姿は同じだが、鏡が映しているのは 神 だぞかがみ とは かむ(神)が(の)み(身・姿)でもあるのだぞしかしかがみ で 我 をみるのもよしかがみ で 我(神)をみるのもよし・・・人が心によって、自我・個我を認識する(自然からの離反する)行為もまた ”大いなる力による思し召しである”とも私は思っています。にほんブログ村
2013年05月02日

ある境地”ボケ~~~~っとしているようにみえる”しかし 意識はそこにある透明のナイフが如く・・・心が動いていないときに誰もが この意識の存在 に気づくだろう”ボケ~~~~っと眺める”自分でも 他人でも その他目に映るもの 脳裏に映るものの一点 あるいは ある部分 を集中して ”見て”はいけないとらわれることなく ボケ~~~ っと眺める”意識は 視界の全体像を ぼんやりと眺める”心・感情は不動にさせるが良い”心とは 使っては磨り減らす(現れては消える)だけ”だから無用の長物 は使わないで休ませ 可能なら眠らせなさい心がリラックスしていないと 身体の力が抜けず 身体まで徒ら(いたずら)に疲労してしまう長時間の座禅 瞑想 等は無用この状態を持続させ 日常生活をこなすべしあるがままに ありあるがままに あり続けるにほんブログ村
2013年05月01日
全27件 (27件中 1-27件目)
1
![]()

