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中には、性的な接触はないものの、結婚関係外のだれかにロマンティックな感情を募らせる人もいる。しかしイエスは、「女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」と警告した。(Matthew 5:28)心にひそかに抱く情欲をイエスが非とされたのはなぜか。 一つの要因は、『心から姦淫が出る』からである。(Matthew 15:19)しかし、そのような関係は、姦淫を犯す寸前まで進んでいなくても危険。なぜそう言えるのか。そのことに関して一つの本は、「配偶者との生活の時間やエネルギーを非常に少なくしてしまう活動や関係は、一種の不貞である」と説明している。そう、感情的情事は配偶者から時間と関心と愛情を奪うことになる。自分にして欲しいと思うことは他の人にもしなさいというイエスの命令を考えるなら、異性とふざける既婚者は、『配偶者が他の人に対してそのように振る舞うなら、私はどう感じるだろうか』と、自問してみるとよいかもしれない。 もしそうしたふさわしくない感情のきずなが生じたなら、どうすればよいだろうか。道ならぬ恋愛感情を抱く既婚者は、居眠り運転をする人に似ている。そのような人は、自分の結婚や、自分と神との関係が破綻しないうちに、起こっている状況に目を覚まし、直ちに断固たる行動を取らねばならない。イエスは思い切った行動を取る必要のあることを示すため、もし神との良い関係を損なうのであれば、目のような非常に貴重なものでさええぐり出し、手でさえも切り離さなければならないと述べられた。―Matthew 5:29,30. 相手の人と会う場所や回数を限るようにするのは賢明なこと。二人きりになることは絶対に避け、仕事場にいる場合は会話の内容を制限する。その人との接触を一切断つということさえ必要になるかもしれない。断ったあとは、自分の目や思い、感情、行動などに関して自制心を働かせることに厳しくなければならない。(Genesis 39:7‐12.Psalms 19:14.Proverbs 4:23.1 Thessalonians 4:4‐6.)ヨブは既婚者であったが、すばらしい模範を示し、「契約をわたしは自分の目と結んだ。それゆえ、どうしてわたしは自分が処女に対して注意深いことを示すことができようか」と述べた。―Job 31:1. 既婚者が異性とふざけるのは明らかに危険であり非聖書的である。しかし、聖書は、独身者同士でふざけることに関してはどんな見方を示しているだろうか。それは、人間関係を築く上で正常な、罪のない、そして必要な手段であると考えてよいのだろうか。そのことから何らかの実害が生じるか。 次回に考えてみる。
2003年05月29日
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結婚しているなら 夫婦が二人だけのところで互いに愛情を示し合うのはごく自然なこと。しかし、その種の関心を結婚関係外の人に向けるのは、創造者である神が定めた原則に反する。神は、夫婦が親密な信頼関係を楽しむことを意図された。神は、結婚を神聖で永続的な結合とみなしておられる。Malachi 2章16節は、「神は離婚を憎んだ」と述べている。 結婚している人が異性とふざけるのは、結婚に対する神の見方と調和してはいないようだ。異性とふざける既婚者は少なくとも、結婚という神の取り決めの神聖さに敬意を抱いていないことを示している。また、Ephesians 5章33節は、クリスチャンの夫に「自分を愛するように妻を愛しなさい」と命じ、妻には「夫に対して深い敬意を持つべきです」と命じている。しっと心を起こさせるふざけは、配偶者に対する愛や敬意の表われと言えるか。 さらに考えなければならないのは、異性とふざけることは姦淫につながる可能性があるという事実である。姦淫は神が率直に非としておられる、また不実な振る舞いと述べておられる罪である。(Exodus 20:14.Leviticus 20:10.Malachi 2:14,15.Mark 10:17‐19)実際、神は姦淫を非常に重大なこととみなし、不倫の犠牲になった人に離婚することを許しておられる。(Matthew 5:32)であれば、異性とふざけるという極めて危険な遊びを神が良しとされることなど想像できるだろうか。愛情深い親は自分の幼い子供が鋭い包丁で遊ぶのを良しとしないように、神も異性とふざけることを良しとはされない。 聖書は姦淫に関して次のように警告している。「人はその懐に火をかき集めておいて、なおその衣を焼かれないようにすることができるだろうか。また、人は炭火の上を歩いて、足を焦がさないようにすることができるだろうか。仲間の者の妻と関係を持つ者もこれと同じである。これに触れる者はだれも罰を免れない」。(Proverbs 6:27‐29)しかし、姦淫を犯さないとしても、異性とふざける既婚者はさらに、“感情的情事”という危険な事態を招く。2003/05/28 22:17:18RE:異性とふざける但し書:異性とふざけることを、相手の気を引こうとする動機など全くない、友好的な、もしくは社交的な振る舞いと混同しないでください。2003/05/28 22:03:13異性とふざける 「異性とふざけることは、人をもてあそぶこと、欺くこと、悪いことだと考えるのはどうしてかしら。そんなことはないわ。これは一種のお遊びよ。相手をいい気持ちにさせるのだから一挙両得のお遊びよ」―恋愛遊戯学校校長、スーザン・ラビン、ニューヨーク市。 異性とふざけることは、人間関係を築き維持していくための、正常で罪のない、むしろ必要な手段であると多くの人は考える。西洋諸国では“ふざけの技術”に欠かせないしぐさ、ポーズ、目くばせ、見つめ方などを教える本や雑誌記事や特別講座が多く出まわっている。 異性とふざける(flirtation)とは何をすることか。様々な定義や解釈があるが、一つの辞書は、「軽薄で好色的な、あるいは性的な誘惑を仕かける」振る舞いと定義している。別の辞書は、異性とふざけることを、「真剣な意図がないのに異性の気を引こうと」する振る舞いと定義している。そのような定義から、異性とふざける人は、結婚する意志がないのに相手にロマンティックな関心を示す人である、と一般に受け止められているようである。では、異性とふざけても害はないと考えてよいだろうか。ふざけることに関して聖書がどんな見方を示しているか調べてみたい。 聖書には、異性とふざけることについて特に述べられてはいないが、それでも神の見方を見定めることはできる。どのようにすればそれができるのか。そのことと関係のある聖書の原則を調べるのである。そうすれば、『正しいことも悪いことも見分けられるように、知覚力』を養うことができる。(Hebrews 5:14)まず最初に、既婚者にとって、異性とふざけることはふさわしい振る舞いかどうか考えてみる。2003/05/28 21:58:57
2003年05月28日
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神を信じていると言う人は、アメリカの場合、約96%だが、ヨーロッパやアジアの場合、その割合はずっと低くなっている。しかし、人格神の存在を信じないと公言する人が大多数を占める国においても、何らかの未知の力が物質宇宙を生じさせたという考えを受け入れる人は、かなりの数に上る。有名な日本の教育家で一万円札にも肖像が載せられている福沢諭吉はかつて、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」と書いた。福沢諭吉は「天」という語を使うことによって、人間を生み出したと自分が考えた自然の法則に言及していた。そのような、抽象的な「天」という考えを受け入れる人は少なくない。ノーベル賞受賞者の福井謙一博士もその一人である。同博士は、宇宙には非常に大きな枠組み―宗教的な用語で言えば「神」に相当―があるという見方を示したものの、それを「自然の特殊性」と呼んだ。 そのような知識人たちは、永遠性を持つ何かあるいはだれかが宇宙内のすべてのものを始動させた、と信じた。なぜだろうか。次のことを考えてみていただきたい。太陽は巨大な星であり、地球を100万個も収めることのできる大きさだが、天の川銀河の中ではただの小さな点にすぎない。また天の川銀河も、宇宙にある幾百億という銀河の一つにすぎない。科学的な観測によると、それらの銀河は猛スピードで互いから遠ざかっているようである。宇宙を始動させるには、膨大な起動的エネルギーが必要であったはずである。そのようなエネルギーの源は、だれまたは何だったのだろうか。「あなた方の目を高く上げて見よ。だれがこれらのものを創造したのか」と聖書は問いかけ、次いでこう述べている。「それは、その軍勢を数によって引き出しておられる方であり、その方はそれらすべてを名によって呼ばれる。満ちあふれる活動力[英文字義、満ちあふれる起動的エネルギー]のゆえに、その方はまた力が強く、それらの一つとして欠けてはいない」。この言葉は、「満ちあふれる活動力」の源、つまり宇宙を始動させただれかがいることを示している。 地球上の生物についても考えてみたい。進化論者が唱えるように、生命はひとりでに発生したのだろうか。生化学者マイケル・ビヒーはこう述べている。「科学は、生物の体内でどのような化学反応が起きているかを理解する面では目覚ましい進歩を遂げてきたが、分子レベルで見た生物学的システムの正確さと精密さは、その起源を説明しようとする科学の試みを全く無力にさせている。……すでに説明は得られたとか、いずれ得られると、果敢に主張する科学者は少なくないが、そのような主張の裏づけは科学の専門的文献に少しも見いだせない。さらに重要な点として、[生体分子]システムそのものの構造からすると、生命の仕組みに関するダーウィン的説明はいつまでたってもとらえ所のないままであろう、と言わざるを得ない」。 外部からの知的な働きかけを全く受けずに人間の生命が存在するようになった、という理論は本当に納得のいくものだと思われるだろうか。「宇宙で最も入り組んだ物」とも言われる人間の脳を取り上げて、どのような結論になるかを考えてみる。「最も進んだ神経回路網型コンピューターといえども、その働きはイエバエが持つ知的性能の1万分の1ほどでしかない」と、リチャード・M・レスタク博士は言う。人間の脳はイエバエの脳よりもはるかに優れている。人間の脳は言語を学習できるようにプログラムされている。自らを修復し、プログラムを書き直し、自らの性能を高めてゆく。「イエバエが持つ知的性能の1万分の1」しかない強力なスーパーコンピューターにも聡明な設計者がいることに、あなたは同意なさるだろう。人間の脳の場合はどうだろうか。 今からおよそ3,000年前、人間が自分たちの体の構造の驚嘆すべき点を十分に理解していなかったころに、聖書筆者は人体の造りについて熟考してこう述べた。「わたしはあなたをたたえます。なぜなら、わたしは畏怖の念を起こさせるまでにくすしく造られているからです。わたしの魂がよく知っているように、あなたのみ業はくすしいのです」。この筆者はDNA分子については知らなかったが、次のようにも書いた。「あなたの目は胎児のときのわたしをもご覧になりました。あなたの書にそのすべての部分が書き記されていました」。だれについて述べていたのだろうか。「満ちあふれる活動力」を用いて宇宙内のすべてのものを生じさせたのは、だれであったか。 聖書の冒頭にはこうある。「初めに神は天と地を創造された」。この神は聖書の著者でもあり、聖書の内容はその方の霊感を受けたものです。その方は、わたしたち人間が意味深い関係を持つことのできる方としてご自分を明らかにしておられる。
2003年05月27日
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「聖書は、人類文明と人生経験の結晶であり、比類のない本である」と、中国の広州にある中山大学発行の一雑誌は述べている。人々に大きな影響を与えた、18世紀の哲学者イマヌエル・カントは、「人々のための本としての聖書の存在は、人類がこれまで経験した中で最大の益となった。聖書の価値を低めようとする試みはすべて……人道に背く犯罪である」と語ったとされている。アメリカーナ百科事典にはこうある。「聖書の影響を受けているのは決してユダヤ教徒やクリスチャンだけではない。……聖書は今や倫理的、宗教的な至宝とみなされており、その尽きることのない教えは、世界的文明への期待が高まるにつれ、ますます価値あるものとなることが見込まれる」。 どの宗教の方でも、そのような本については多少とも知りたいと思われるのではないだろうか。20世紀の終わりまでに、聖書は全巻またはその一部が2,200以上の言語に翻訳された。ほとんどの人は、自分が読んで理解できる言語で聖書を手に入れることができる。活版印刷術の発明以来、世界中で推定40億冊の聖書が頒布されてきた。 もし聖書をお持ちであれば、それを開き、目次をご覧になっていただきたい。最初の創世記から最後の黙示録(「啓示」の書)まで、書名が記されていることにお気づきになられるだろう。聖書は実際には、約40人の人が書いた66冊の本を集めたもの。最初の部分は39冊の本から成り、一般に旧約聖書と呼ばれているが、おもにヘブライ語で書かれたので、ヘブライ語聖書という名称が適切である。2番目の部分は27冊の本で構成され、一般に新約聖書と呼ばれているが、クリスチャンの筆者たちがギリシャ語で書いたので、クリスチャン・ギリシャ語聖書というふさわしい名称がある。聖書は、西暦前1513年から西暦98年まで、1,600年以上の期間をかけて書き上げられた。筆者たちが編集会議を開くようなことはなかった。そのうちの幾冊かは同じころに何千キロも離れた別々の場所で記された。それでも、聖書には一貫した主題があり、全体が一つにまとまっており、内部に矛盾はない。(この事実をみても聖書が他の書物とは異なることが分かります)『1,600年間にわたり40人以上の人々が、どのようにしてそれほど一貫した本をまとめることができたのだろう』と考えずにはいられない。 聖書は今から1,900年余り前に書き終えられたが、その内容は現代の人々の興味をそそる。一例として、聖書のヨブ 26章7節をお開きになっていただきたい。この聖句が西暦前15世紀に書かれたことを念頭に置いてみてお読みになっていただきたい。「神は北をむなしい所の上に張り伸ばし、地を無の上に掛けておられる」と述べられている。次に、イザヤ書が西暦前8世紀に書かれたことに留意しながら、イザヤ 40章22節をご覧いただきたい。その節にはこうある。「地の円の上に住む方がおられ、地に住む者たちは、ばったのようである。その方は天を目の細かい薄織りのように張り伸ばしておられ、それをその中に住むための天幕のように広げておられる」。これら二つの描写から、何を思い浮かべられるだろうか。宇宙空間に『掛かっている』球体のイメージではないだろうか。現代の宇宙船から送られてくる写真で、そのような様子をご覧になったことがおありだろう。『そんなに昔の人がどうして、科学的にそれほど正確なことが言えたのだろう』と思われるのではないだろうか。 聖書に関するほかの点も考えてみたい。聖書は歴史的に正確だろうか。聖書は伝説の寄せ集めにすぎず歴史的な根拠はない、と考える人は大勢いる。イスラエルの有名な王ダビデを例として取り上げてみる。最近まで、ダビデの存在を示す根拠と言えば聖書だけだった。主だった歴史家はダビデを実在の人物として受け入れているが、一部の懐疑的な人たちはダビデを、ユダヤ教を広めるために作られた伝説上の人物として退けようとする。事実は何を示しているか。 1993年、古代イスラエルの都市ダンの遺跡で、「ダビデの家」に言及する碑文が発見された。その碑文は粉々に割れた記念碑の一部で、西暦前9世紀のものだった。その記念碑はイスラエル人に対する戦勝記念として建てられたものであった。こうして思いがけなく、聖書以外でダビデに言及する古代の史料が見いだされたのである。その発見について、テルアビブ大学のイスラエル・フィンケルシュタインは、「ダビデの碑文が発見され、聖書に関する虚無的な見方は突如として崩壊した」と述べた。パレスチナでの発掘に何十年間も携わった考古学者ウィリアム・F・オールブライト教授は、かつてこう語っている。「相次ぐ発見により、細部にわたる正確さが非常に多くの点で証明され、史料としての聖書の価値に対する評価が高まってきた」。ここでも、『叙事詩や伝説などとは違って、この古い書物が歴史的にこれほど正確なのはどうしてだろうか』という疑問が生じるかもしれない。しかし、まだほかにもある。 聖書は預言の本でもある。「預言」という語を聞くとすぐに、預言者と称した人々の成就しなかった言葉のことが思い浮かぶかもしれない。しかし、先入観にとらわれることなく、聖書のダニエル 8章をご覧になっていただきたい。ダニエルはその章で、二本の角を持つ雄羊と、「一本の際立った角」を持つ毛深い雄やぎとの闘争に関する幻を描写している。雄やぎは勝利を得るが、その大きな角は折れてしまう。その代わりに四本の角が生えてくる。その幻にはどのような意味があっただろうか。ダニエルの記述はこう続いている。「あなたが見た二本の角のある雄羊はメディアとペルシャの王を表わしている。また、毛深い雄やぎはギリシャの王を表わしている。その目の間にあった大いなる角、それはその第一の王である。また、それが折れて、その代わりについに四本の角が立ち上がったが、彼の国から四つの王国が立つことになる。しかし、彼ほどの力はない」。―ダニエル 8:3‐22。 この預言は成就しただろうか。ダニエル書は西暦前536年ごろに書き終えられた。マケドニアのアレクサンドロス大王は、その180年後の西暦前356年に生まれ、ペルシャ帝国を征服した。この王が、「毛深い雄やぎ」の目の間にある「大いなる角」であった。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、アレクサンドロスはペルシャに勝利を収める前にエルサレムに入城した際、ダニエル書を見せられたということである。大王は、指し示されたダニエル書の預言の言葉はペルシャに関係した自分の軍事行動のことを言っている、と結論した。また別の点として、世界史の教科書を見れば、西暦前323年のアレクサンドロスの死後にその帝国がたどった道を知ることができる。やがて4人の将軍がその帝国を支配するようになり、「大いなる角」の代わりに立ち上がった「四本の角」が、西暦前301年までに領土を四つに分割した。『どうしてこの本は、200年もあとに起きる事柄をこれほど生き生きと正確に預言できたのだろう』と,改めて考えさせられる。 聖書そのものが、前述の質問にこう答えている。「聖書全体は神の霊感を受けたもので……有益です」。(テモテ第二 3:16)ここで考慮した幾つかの例―科学的、歴史的、預言的な面―は、明らかにただ一つの結論を指し示している。つまり、聖書という比類のない書物は、人間の知恵の所産ではなく、神を源とするものである、という点である。とはいえ、今日、聖書の著者である神の存在に疑いを抱く人は少なくない。あなたはどう思われるだろうか。これらの記述はWatch Tower Bible and Tract Society が全権留保している雑誌を基にしています。
2003年05月26日
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問題に直面した時、どこに助言を求めるだろう。信頼の置ける友人や経験豊かなカウンセラーに相談できるかもしれない。図書館などで情報源を探すのも役立つことがある。あるいは、長年培われた経験から学ぼうとして、東洋で「おばあちゃんの知恵」と言われているものに頼ろうとするかもしれない。どんな方法を取るにしても、問題解決の有益なヒントとなる、簡明な知恵の言葉について考えるのはよいこと。下記に適切なアドバイスを幾つかあげてある。家庭生活: 不健全な影響の満ちた世の中で子どもを育てることに、不安を覚える親たちは少なくない。次のアドバイスは助けになる。「少年をその行くべき道にしたがって育て上げよ。彼は年老いても、それから離れないであろう」。子どもは成長するにつれて、「行くべき道」、つまり従わねばならない一定の規準を必要とするようになる。ますます多くの専門家が、子どもに有益なルールを与えることの大切さを認めるようになっている。子どもは、親から賢明な規準を与えられると安心する。「むち棒と戒めは知恵を与える。しかし、したい放題にさせて置かれる少年はその母に恥をかかせる」とも述べられている。「むち棒」とは親の権威を指しており、子どもが道から外れないようにするため、親が愛情を込めて用いるべきもの。そのような権威の行使には、どのような形にせよ、子どもを虐待することは含まれていない。親たちは、こう勧められている。「父たちよ、あなた方の子供をいらいらさせて気落ちさせることのないようにしなさい」。 夫婦間のよい関係は幸せな家庭の基盤である。そのような関係を築くのに何が必要だろうか。「あなた方一人一人も、それぞれ自分を愛するように妻を愛しなさい。一方、妻は夫に対して深い敬意を持つべきです」。愛と敬意は、家族が機能するうえで潤滑油の役目を果たす。「内密の[または、親密な]話し合いのないところには計画のざ折がある」ので、上の助言を生かすためにコミュニケーションは欠かせない。コミュニケーションによって心を通わせるには、配偶者の内面の感情を知ろうと努力し、相手の本当の気持ちをくみ取る必要がある。次の言葉を銘記するのは賢明である。「人の思いは井戸の水のように深いところにあるとしても、賢い人はその人からそれをくみ取る」。 かつては親孝行が当たり前であった国においても、年配の人が子どもから顧みられず、晩年にとても寂しい思いをすることがある。子どもの立場の人がこれらの知恵の言葉を考慮するのはよいこと。「あなたの父と母を敬いなさい」。「ただ年老いたからといって、あなたの母をさげすんではならない」。「父をむごく扱い、母を追い払う者は、恥ずべきことを行ない、卑しむべきことを行なう子である」。一方、親の立場の人は、年を取ったとしても積極的な見方をして、自分のほうから進んで心温まる人間関係を築くよう努めることが大切。「自分を孤立させる者は利己的な願望を追い求める。その者はあらゆる実際的な知恵に逆らって突き進む」。飲酒: 確かに、「ぶどう酒は命を歓ばせ」、アルコール飲料を飲むと「もう自分の難儀を思い出さない」ということもある。とはいえ、「ぶどう酒はあざける者であり、酔わせる酒は騒がしい。それによって迷い出る者はみな知恵がない」と言える。飲み過ぎの影響を考えてみていただきたい。「それ[ぶどう酒]は終わりには蛇のようにかみ、まむしのように毒を分泌する。あなたの目は奇妙なものを見、あなたの心はゆがんだことを話す。……『わたしはいつ目覚めることだろう。わたしはさらにそれをもう少し求めるであろう』」。節度のある飲酒には益があるかもしれないが、乱用は常に避けなければならない。金銭の管理: 手持ちのお金を賢明に管理することによって、金銭の問題を防げる場合がある。「ぶどう酒を多量に飲む者や、肉をむさぼり食う者の仲間に加わってはならない。酔いどれや貪欲な者は貧困に陥り、眠気はただのぼろ切れを人にまとわせるからである」。賭け事の習慣だけでなく、アルコールや麻薬の乱用も避けるなら、家族を健全な仕方で扶養するためにお金を用いることができる。もっとも、収入の範囲内で生活することができず、ただ借金を返済するために懸命に働く人も少なくない。ローンの利子を支払うため、さらに融資を受ける人さえいる。「無価値なものを追い求めている人は貧困に飽き足りる」という知恵の言葉は参考になるだろう。こう自問できる。『自分が買いたいと思う物は本当に必要だろうか。数回使っただけで押し入れに眠っている物がどれほどあるだろうか』。あるコラムニストは、「人間の必需品はわずかだが、欲しい物には限りがない」と書いている。次のような知恵の言葉もある。「わたしたちは世に何かを携えて来たわけではなく、また何かを運び出すこともできません。ですから、命を支える物と身を覆う物とがあれば、わたしたちはそれで満足するのです。……金銭に対する愛はあらゆる有害な事柄の根です。ある人たちはこの愛を追い求めて……多くの苦痛で自分の全身を刺したのです」。 勤勉であることは、金銭の問題を解決するうえで大きな助けになる。「怠惰な者よ、ありのところへ行け。そのやり方を見て、賢くなれ。……もう少し眠り、もう少しまどろみ、もう少し手をこまぬいて横たわる。すると、あなたの貧しさは浮浪者のように……必ずやって来る」。注意深い計画や現実的な予算を立てることも役立つ。「あなた方のうちのだれが、塔を建てようと思う場合、まず座って費用を計算し、自分がそれを完成するだけのものを持っているかどうかを調べないでしょうか」。 しかし、自分に落ち度がないのに貧困を経験する場合はどうだろうか。例えば、経済的な激変が生じて、一生懸命働く意欲があるのに失業するかもしれない。あるいは、最低限の生活を維持するのも難しい地域で生活しているかもしれない。そのような場合、どうしたらよいだろうか。「金が身の守りであるように、知恵も身の守りである。しかし知識の利点は、知恵がそれを所有する者たちを生きつづけさせることにある」と述べられている。また、「あなたは自分の仕事に熟練した人を見たか。その人は王たちの前に立つ」というアドバイスを考慮していただきたい。職に就くのに役立つ技術を身に着けられるだろうか。 次に挙げるアドバイスは矛盾しているように思えるかもしれないが、実際にはたいへん効果的である。「いつも与えなさい。そうすれば、人々はあなた方に与えてくれるでしょう。……あなた方が量り出しているその量りで、今度は人々があなた方に量り出してくれるのです」。これは見返りを期待して与えるという意味ではない。むしろ、「寛大な魂は自分も肥え、他の者に惜しみなく水を注ぐ者は、自分もまた惜しみなく水を注がれる」ともあるように、寛大な精神を培うことが勧められている。困窮している時にも物を分け合うなら、与える精神が促進され、やがては自分にとっても益となるだろう。人間関係: ある賢い王は次のような観察を述べた。「わたし自らすべての骨折りと業におけるあらゆる熟練とを見た。それが互いに対する対抗心を意味するのを。これもまたむなしく、風を追うようなものである」。対抗心に駆られて賢明でない行動を取る人は少なくない。ある人は、近所の人が32インチのテレビを手に入れたことが分かると、すぐさま36インチのテレビを買いに行く。自分の家の27インチのテレビはよく映り、何の問題もないのにそうするのである。そのような対抗心は、ちょうど風を追うように、つまり当てもなくあちこちを駆け回るように、全くむなしいものである。そうではないだろうか。 他の人から言われたことで腹立たしくなることがあるかもしれない。でも、次のアドバイスを考慮していただきたい。「自分の霊にせき立てられて腹を立ててはならない。腹立ちは愚鈍な者たちの胸に宿るからである」。確かに、憤りを感じるのがもっともなこともある。古代の一著述家は、「憤っても」とそのことを認めたうえで、「罪を犯してはなりません。あなた方が怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい」と述べた。しかし、強い怒りの感情にどう対処できるだろうか。「人の洞察力は確かにその怒りを遅くする。違犯をゆるすのはその人の美しさである」とある。洞察力が必要である。『あの人はなぜあのように行動したのだろう。酌量すべき事情があったのだろうか』と自問できるかもしれない。怒りに対処するため、洞察力のほかにも培うことのできる特質がある。「優しい同情心、親切、へりくだった思い、温和、そして辛抱強さを身に着けなさい。だれかに対して不満の理由がある場合でも、引き続き互いに忍び、互いに惜しみなく許し合いなさい。……しかし、これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」。そう、愛によって、人間関係の数々の問題を解決できるのである。 とはいえ、平和な人間関係を保つ上で妨げとなる「体の小さな部分」がある。それは、舌である。次の言葉はまさに真実。「舌は、人類のだれもこれを従わせることができません。御しがたい、有害なものであって、死をもたらす毒で満ちています」。また、次のアドバイスも確かに心を留めるに値する。「すべての人は、聞くことに速く、語ることに遅く、憤ることに遅くあるべきです」。もっとも、舌を用いる際に、表面的な平和を保とうとして、一部だけ真実な言葉を語るというやり方をしないよう注意する必要がある。「ただ、あなた方の“はい”という言葉は、はいを、“いいえ”は、いいえを意味するようにしなさい。これを越えた事柄は邪悪な者から出るのです」。 どうすれば他の人との健全な関係を保てるだろうか。指針となる次の原則がある。「自分の益を図って自分の事だけに目を留めず、人の益を図って他の人の事にも目を留めなさい」。そうするならば、多くの人々から黄金律と呼ばれる、次の言葉に従って生活することになる。「それゆえ、自分にして欲しいと思うことはみな、同じように人にもしなければなりません」。ストレス: ストレスに満ちたこの世の中で、どうすれば感情的なバランスを保てるだろうか。「喜びに満ちた心は顔色をよくするが、心の痛みのゆえに打ちひしがれた霊がある」。自分が正しいと思うことを他の人が無視するのを見ると、「喜びに満ちた心」をとかく失いがちである。次の言葉を覚えておくとよいだろう。「義に過ぎる者となってはならない。また、自分を過度に賢い者としてはならない。どうして自分の身に荒廃をもたらしてよいであろうか」。さらに、生活上の思い煩いで絶えず悩まされることもある。そのような時は、どうしたらよいだろうか。「人の心の煩い事はこれをかがませ、良い言葉はこれを歓ばせる」という言葉を思い出す。「良い言葉」、つまり自分を元気づけてくれる、思いやりのある言葉を思い巡らすとよいかもしれない。がっかりさせられるような状況に置かれても積極的な態度を取るのは、健康の面でも良いことである。「喜びに満ちた心は治療薬として良く効きます」。他の人が気にかけてくれないように感じて気落ちする時は、次の原則を実践してみていただきたい。「受けるより与えるほうが幸福である」。積極的であるよう心がけるなら、日々のストレスに対処することができる。 これまでに取り上げた知恵の言葉は、21世紀に生きるわたしたちに役立つと思われるだろうか。確かに、それらは古い書物である聖書の中の言葉である。では、ほかにも知恵の源となるものがいろいろあるのに、聖書に注意を向けるのはなぜだろうか。聖書に収められている原則は時の試練を経てその価値が証明されてきた、というのが一つの理由である。
2003年05月25日
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先進国で、あらゆる高級品の備わった住宅を見れば、さぞかし快適で豊かな暮らしをしているように思えるかもしれないが、家の中に入ると、ぎすぎすした、重苦しい雰囲気かもしれない。十代の子どもたちは親に、「うん」とか、「べつに」とか、いかにも不機嫌そうに答えるだけ。母親は、父親に何とか注意を向けてほしいと気をもんでいる。父親のほうは、ただ煩わされたくないと思っている。この夫婦の年老いた親たちは、自分たちだけで別の場所に住んでおり、家族みんなとの団らんの時を心待ちにしているが、息子や娘の家族とは何か月も会っていない。他方、同じようなストレスを経験していても、自分たちの問題を解決することができ、本当に幸せに暮らしている家族もある。 世界の別の場所に目を向け、発展途上国に住む一家族について考えてみる。7人家族全員が今にも壊れそうな小屋で暮らしている。次の食事のための食料がいつ手に入るのかは分からない。人間は飢えや貧困を世界から一掃できないでいる、という悲しい現実を思い起こさせる。それでも、明るい気持ちで貧困に立ち向かっている家族も世界には少なくない。 裕福な国にいても、経済的な問題は生じる。日本のある家族は、バブル経済の絶頂期に家を購入した。将来の増収を見込んで、大型のローンを組んだ。ところが、バブルがはじけると、ローンの返済ができなくなり、購入した時よりもずっと安い値段で家を手離さねばならなかった。家族はもうその家に住んでいないのに、今も借金の返済を続けている。しかも、クレジットカードを使いすぎて支払いに苦労し、その家族の負担はさらに大きくなる。父親は競馬にお金をつぎ込み、家族はますます借金の泥沼にはまってゆく。しかし一方では、自分たちの生活を見直し、結果として幸福に暮らせるようになった家族も多くある。 どこに住んでいても、人間関係は悩みの種となることがあり、そのために生活は満たされないものとなりがちである。職場では、陰口の的とされるかもしれず、成績を上げたためにねたまれて不当な非難を受けることもある。いつも接する人の高圧的な態度のため、いらだちを覚えることもある。学校では、子どもたちはいじめに遭い、嫌がらせを受け、仲間はずれにされるかもしれない。ひとり親の人であれば、その立場ゆえに他の人との関係で難しさを感じることもあるだろう。今日、そのような問題のすべてが、多くの人の生活にストレスを増し加えている。 ストレスの影響は知らぬ間に蓄積され、やがて予告もなく限界に達することがある。そのため、ストレスは忍び寄る殺し屋と呼ばれ、慢性的なストレスはじわじわと体を冒す毒とみなされてきた。「今日、ストレスやそれに起因する病気は世界のほとんどの場所で、働く人々に強い影響を及ぼしている」と、ミネソタ大学のロバート・L・ベニンガ博士は述べている。ストレスに関連した病気で米国経済には毎年2,000億㌦の損失が生じている、と言われている。ストレスはアメリカの最新の輸出品とさえ呼ばれ、英語から来た“ストレス”という語は世界の主要な言語の多くで使われている。ストレスを感じながら、予定していたことが終わらないと、自責の念に駆られるかもしれない。最近の調査によると、平均的な人で1日に2時間ほど自責の念を抱くということである。それでも、ストレスにうまく対処し、充実した生活を送っている人たちもいる。 どうすれば、日々直面するそのような問題に対処し、満足のいく生活を送ることができるだろうか。ある人たちは、専門家の書いた自己啓発の本や各種の手引き書を参考にする。そのような本は信頼の置けるものだろうか。ベンジャミン・スポック博士が著わした育児書は42か国語に翻訳され、5,000万部近く発行されてきた。同博士はかつて、「き然とした態度が取れないことは……今日のアメリカの親たちが抱える共通の問題である」と語った。また、そのおもな責任は自分を含め専門家にあると述べ、「何でも知っているというわたしたちの態度が、親たちの自信を失わせていることに気づかなかったし、気づくのも遅すぎた」と認めた。では、『今も将来も満足のいく生活を送るため安心して従うことができるのは、だれのアドバイスだろう』と思われるのではないだろうか。
2003年05月24日
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人間の生きる意義そして喜びとは? ある先進国において、90%以上の人は、たいへん幸せ、あるいはまあまあ幸せと感じている。ところが、その国で最も広く使われている10種類の薬のうち3種類は、うつ病に対して処方される薬であるとのことである。その同じ国において、91%の人は自分の家族生活は満足のいくものであると考えているようだ。しかしその国では、結婚の半数近くが離婚に終わっている。これら矛盾をはらんだ状況を皆さんはどのように考えられるだろうか。 実のところ、世界人口のおよそ半分に当たる18か国の人を対象にした調査によれば、「将来に対する悲観的な見方が世界の多くの地域に広がっている」とのこと、本当に満足して生活している人たちが少ない事は明らかだろう。2003/05/23 22:54:43離婚は子どものためにならない 故ダイアナ元皇太子妃は1988年に、英国だけでも毎日420人もの子どもが親の離婚を経験していると述べた。その子どもたちの3分の1は5歳未満である。痛ましいことだが、両親の離婚後に片親との接触を失ってしまう子どもは40%に上る。 多くの人が考えるのとは異なり、「両親が離婚して別れるのを歓迎する子どもはほとんどいない」と、高く評価されている、健康と医療に関する著述家は述べている。「子どもたちの大多数は、たとえ家庭の雰囲気が険悪なものであっても、両親が一緒にいることを望む」。不倫が露見し、夫婦の間でかなりの言い争いが生じても、結婚に終止符を打つことが子どものためになると早急に結論すべきではない。態度や行ないを変化させるならば、家族全体の益のために夫婦として暮らしていくことができるかもしれない。 「浮気な夫たちは、自らの愚行によって家庭が崩壊するときに、我が子の目に浮かぶであろう苦悩を考えるべきである」と、著作家のパメラ・ウィンフィールドは述べている。2003/05/23 12:14:17立ち直るよう努力する ある母親は離婚して16年になるが、「周りに人がいる場合でも、いまだにたまらなく寂しくなる時がある」ことを認めている。では、どのように対処しているのだろか。この女性はそれまでのことを振り返って、こう述べている。「仕事や息子の世話や家の管理などでいつも忙しくしていることによって、一種の防衛線を張ってきました。他の人のために何かをするといったことも始めました。それは大きな助けになりました」。 1年のうち、ある特定の日や時刻になると、つらい思い出や感情がよみがえってくるかもしれない。不倫が発覚した日、夫が家を出ていった時、裁判の開かれた日などは、そうだろう。休暇や結婚記念日など、夫婦で一緒に過ごすことにしていた楽しい行事の場合は、どうしようもない感情に襲われるかもしれない。「そのような日には、わたしの境遇を知っている家族や親しい友人と一緒に過ごすようにしています」と、パットは言う。「過去に対するさまざまな思いを相殺するようなことをして、新しい思い出を作ります」。2003/05/23 6:50:03
2003年05月23日
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関係の変化 「多くの人が離婚した友人に対して抱く気まずさや疑いの気持ちを過小評価すべきではない」と、ある研究者は述べている。忠実な配偶者のほうが法的、道徳的、聖書的な権利の枠内で行動している場合でさえ、結婚が破綻した原因はその人にあると考える人がいることだろう。そして、冷ややかな挨拶からはっきりと避ける態度まで、その反応も様々かもしれない。おまけに、以前親しい間柄だった人たちまで憎しみを露骨に示すかもしれない。 離婚を経験する人がどれほど多くの支えを必要とするかを全く理解していない人も少なくない。そのような人たちは、簡単な手紙かカードで十分だと思っているかもしれない。しかしたいていは、「こちらの気持ちをちゃんと察してくれる」友人がいて、「どこかに同行してほしいか、何かをしてほしいか、それとも少しおしゃべりをしたいかなどを尋ねにきてくれる」ものだ、と「離婚と別居」(英語)という本は述べている。確かに、人生のそうした時こそ、「兄弟より固く付く友人」が必要なのである。2003/05/22 23:31:52経済的な問題および訴訟手続き 離婚すれば、当事者双方が収入、財産、快適さなどをある程度失うことは避けられない。非常に愛着のある家を失う可能性もある。増えた支出を減った収入でまかなわなければならないということもあるので、金銭的な優先順位にしたがって現実を見据えた予算を立てるのは賢明なことである。喪失感や心の傷を埋め合わせたいという衝動にかられて無駄遣いや借金をすることがないようにすべきである。 離婚ということになると、相手と話し合って共同の預金口座をどうするかを決める必要もある。例えば、共同預金口座にある蓄えが誤用されないようにするため、二人がそれぞれ自分の口座を持つまで、預金引き出しの際は両方のサインを求めるよう、銀行側にお願いするのが賢明かもしれない。 生活費の支払いに関する話し合いに備えて、収入と支出の正確な記録をつけておくのも賢明なことである。また、多くの国では、状況の変化を税務当局に知らせることが法律で義務づけられている。 さらに、ほとんどの場合は、特に離婚訴訟を扱った経験のある法律家に相談することから益が得られる。夫婦が互いに満足のゆく平和的な合意に達するよう歩み寄るために仲裁人や調停者の援助を受けることができ、得られた合意を裁判所に承認してもらうようになっている国もある。特に、子どもたちが関係している場合、穏健な法律家に助けてもらうほうがよいと考える親は少なくない。何がなんでも勝つことではなく、争いや苦痛を最小限にすることを目指しているからである。物質的なものが幾らか勝ち取れても、それを得るために感情的また金銭的な犠牲を払わなければならないなら、何にもならない。2003/05/22 18:13:47子どもがいる場合 「親は自分自身の問題に気をとられて、子どもの必要を忘れたり、無視したりすることが多い」と、「危機にある夫婦」という本は述べている。であるから、離婚を考えている場合は、お子さんの霊性や福祉を念頭に置いていただきたい。幾人もの研究者が、離婚をなるべく平和的に成立させることができれば、それだけ子どもたちの苦しみは少なくなるだろうと述べている。難しい状況下でも、温和であれば、『争うのではなく、すべての人に対して穏やかで、苦境のもとでも自分を制する』ことができる。 離婚を選ぶ場合、離婚するのは夫と妻であって子どもたちではない、ということに留意するべきである。子どもたちは依然として父親と母親の両方を必要としている。もちろん、子どもが虐待を受ける恐れがあるというような極端な状況もあることだろう。しかし、宗教が違うから、あるいはお互いの意見が合わないからという理由で、親が両方ともいることの利点を子どもたちから奪い去るべきではない。 また、幼い子どもは傷つきやすく、安心感や愛情を十分に必要としていることも考慮に入れなければならない。「このように引き続き愛を示されている子どもには、新しい状況に対処する背景や素地ができる」と、ある本は述べている。さらに、子どもたちの日ごとの霊的必要に注意を払うなら、安定性を保つよう子どもたちを助けることができる。2003/05/22 15:42:00離婚という選択肢 「配偶者に先立たれた場合であれば、たとえこちらが最良の伴侶ではなかったとしても、人は理解を示してくれます。でも、夫に捨てられた場合は、こちらの努力が足りなかったと思う人もいます。お願いです、どうか助けてください!」。 不倫と離婚によってもたらされる心の傷は非常に深いものである。さまざまな理由から配偶者と和解して結婚関係を維持する人は少なくないが、正当な理由に基づいて、姦淫を犯した配偶者と離婚するという神から与えられた選択肢を取る人もいる。例えば、忠実な妻とその子どもたちの安全、霊性、全般的な福祉が脅かされているかもしれない。妻にとっては性感染症をうつされることも心配かもしれない。また、配偶者が過ちを犯したことは許していても、以前のように心から信頼することや、その人の妻として共に暮らしていくことは、実情からしてできそうにない場合もある。 ある妻はひどく動揺しながら、「これまで、こんなに難しい決定をしたことはありません」と述べた。確かに、難しい決定である。裏切られて深い痛手を負っているだけでなく、離婚によって生活全体に影響が及ぶからである。であるから、妻が不忠実な配偶者と離婚するかどうかは、本人の決めるべき事柄である。他の人は、潔白な配偶者の側の、そうした決定を下す聖書的な権利を尊重すべきである。 しかし悲惨なことに、あらゆる事情をしっかり考慮しないで、性急に離婚してしまう人は少なくない。離婚という選択肢にはどんな要素が関係しているのだろうか。2003/05/22 12:53:12時間がかかる 不倫のもたらす苦痛の激しさを考えれば、そのときのことが何年かたった後でさえ鮮明に思い出され、つらく感じることがあるのも不思議ではない。しかし、傷が徐々に癒える過程で、二人がどちらも謙遜、辛抱、忍耐を示すなら、信頼や敬意の回復に役立つ。 「ひどい苦痛は最初の数か月間続くだけである」と、「愛し、敬い、裏切る」(英語)という本は請け合っている。「[それは]やがて消えてゆく。……やがて、そのことを考えずに数日、数週間、数か月、また数年も過ごせるようになる」。 ペドロはこう書いている。「振り返ってみると、この経験によってわたしたちの生き方は変わってしまいました。今でも夫婦の関係を幾らか修復しなければならないことが時々あります。しかし、わたしたちは苦しい試練を乗り越えました。わたしたちは今でも夫婦です。そして、幸福に暮らしています」。 では、潔白な配偶者の側に、不忠実になった相手を許す理由がない場合はどうだろうか。また、配偶者を許している(恨みを忘れるところまで)ものの、もっともな理由があって聖書的な離婚を選ぶ場合はどうだろうか。 離婚によって個々の人にはどんなことが必要になるかもしれないだろうか。離婚に関係するさまざまな要素と、それに対処してきた人たちの経験を考慮してみる。2003/05/22 0:42:06
2003年05月22日
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再び信頼することを学ぶ ある妻はひどく動揺し、「わたしたちは以前のような信頼感を取り戻せるだろうか」と悩んだ。心配するのも当然である。姦淫を犯した配偶者に欺かれたため、信頼を打ち壊された―あるいは、少なくともひどく損なわれた―からである。信頼は高価な花瓶と同じで、壊すのは簡単だが、元通りにするのはたいへんである。関係を維持するだけでなく深めるには、互いに対する信頼と敬意がどうしても必要なのである。 そのためには多くの場合、再び信頼することを学ぶ必要もある。過ちを犯した配偶者は、自分を信頼するよう無神経に求めるのではなく、自分の活動について何一つ隠し事をせず、正直であるようにすれば、信頼を回復するのに役立つだろう。信頼を取り戻すために、最初は「[配偶者]に自分の行動の予定を正確に知らせる」ことだと、ゼルダ・ウェストミーズは言う。「自分がどこに行くか、いつ戻るかを[配偶者]に告げ、いると言った場所にいるようにしなさい」。計画が変更になれば、その都度知らせるようにする。 自尊心を回復するには時間と努力が必要かもしれない。過ちを犯した配偶者のほうは愛情と褒め言葉を惜しまず、自分が感謝していることや愛していることを妻にたびたび話すことによって、妻を助けることができる。高く評価されているある結婚カウンセラーはこう忠告している。「彼女をその行なう事柄すべてのゆえに称賛せよ」。妻のほうも、生活の中で自分が上手に行なえている事柄をもっぱら考えるようにして、自信の回復に努めることができる。2003/05/21 19:54:46許すことに努める 誠実に努力したとしても、傷つけられた配偶者にとって夫を許すのは容易なことではないかもしれない。ましてや相手の女性を許すのは難しいことだろう。しかし、恨みつらみをしだいに忘れるようにすることは可能である。「忠実なほうの配偶者は、先に進まねばならない時が来ることを認める必要がある」と、ある参考資料はアドバイスしている。「言い争いをするたびにきまって相手の過去の罪を持ち出して[相手を]やりこめることがないようにするのは大切だ」。 強い恨みの気持ちを忘れ去るよう努力することによって、ついには、罪を犯した相手に対する敵意を感じなくなったことに気づいた人も少なくない。そうすることは夫婦の関係を立て直す上で不可欠なステップである。2003/05/21 13:23:05話し合いは不可欠 「内密の話し合いのないところには計画のざ折がある」。潔白な配偶者のほうが不倫を行なった配偶者とそのことで話し合う必要を感じる場合は確かにそう言える。事の詳細に立ち入る必要は必ずしもないが、率直に誠意を込めて話し合うなら、真相が明らかになり、誤解が解けるだろう。そうすれば、誤解と以前からの恨みのゆえに夫婦の溝がますます深まるという事態を避けられるかもしれない。もちろん、そうした話し合いは夫にとっても妻にとってもつらいものとなるだろう。しかし、それが信頼を回復する過程で重要であることに気づいた人は少なくない。 和解を成立させるのに欠かせないもう一つのステップは、夫婦の関係における問題点を見きわめるよう努力することである。夫婦双方がそれに取り組む必要があるかもしれない。ゼルダ・ウェストミーズはこうアドバイスしている。「つらい事柄について徹底的に話し合い、不道徳な関係は完全に終わったと判断し、それでも結婚生活を続けたいと思っている場合は、うまくいっていなかった点を解決し、夫婦の関係をやり直すことだ」。 二人は互いを当たり前の存在と思っていたかもしれない。霊的な活動をないがしろにしていたかもしれないし、一緒に過ごす時間が十分でなかったということもあるだろう。配偶者が必要としていた愛や優しさ、褒め言葉、誉れなどを十分に与えてこなかったかもしれない。自分たちの目標や価値観を二人で一緒に評価し直すなら、夫婦の親密さは大いに増し、今後不忠実にならないようにすることができる。2003/05/21 7:07:08
2003年05月21日
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答えを出すべき幾つかの質問 事情を把握した上で決定を下すために、忠実な配偶者のほうは自分の気持ちや自分の取り得る選択肢をはっきりさせる必要がある。次のような点を考慮することができるだろう。彼は戻りたいと思っているだろうか。不倫な関係を完全に断ち切っただろうか、それとも、ぐずぐずしていて直ちに行動しないだろうか。自分の非を認めただろうか。認めたのであれば、自分のしたことを誠実に悔やみ、本当に悔い改めているだろうか。それとも、自分の過ちをわたしのせいにする傾向があるだろうか。精神的苦痛をもたらしたことを心から後悔しているだろうか。それとも、不倫の関係が発覚し、断たれたことで動揺しているにすぎないのだろうか。 将来はどうだろうか。あの人は姦淫につながった態度や行動を改め始めただろうか。過ちを繰り返さないことを固く決意しているだろうか。それとも、異性とふざけたり、不適切な感情のきずなを結ぶ傾向がまだあるだろうか。全力を傾けて夫婦の関係を立て直そうとしているだろうか。そうであれば、そのために何をしているだろうか。これらの質問に対して前向きの答えが出せるなら、夫婦の関係の修復は可能だと考えてもよいだろう。2003/05/20 20:56:06和解は可能か 「一時の感情に駆られて離婚訴訟を起こすのは簡単である。……とはいえ、本来は良い夫婦で、問題さえ解決されればうまく行くという結婚もたくさんあるはずだ」と、「危機にある夫婦」(英語)という本は述べている。 この言葉はその昔、イエス・キリストが離婚について教えられたことと調和している。イエスは、潔白な配偶者のほうが不倫を理由に離婚することは許されると言われたが、どうしてもそうしなければならないと言われたわけではない。忠実な配偶者のほうには結婚関係を存続させるよう努力する理由があるかもしれない。夫は過ちを犯したものの、今でも妻を愛しているかもしれない。 思いやりのある夫、また献身的な父親として、きちんと家族の必要を満たしているかもしれない。*忠実な配偶者のほうは、自分と子どもの必要を考えて、離婚ではなく和解することにするかもしれない。その場合、どんな要素を考慮することができるだろうか。また、夫婦の関係を立て直すという難問にどうすれば首尾よく対処できるだろうか。 まず最初に、離婚するのも和解するのも易しくはないと言わねばならない。さらに、間違いを犯した配偶者を許すだけでは、夫婦間の根底にある問題を解決することにはならないだろう。多くの場合、たいへんな苦痛を伴う自己吟味を行ない、率直に話し合い、夫婦の関係を救うために一生懸命努力する必要がある。それほど多くの時間をかけたり努力を払ったりしなくても損なわれた夫婦の関係は立て直せる、と思っている夫婦は少なくない。しかし、途中であきらめずに努力した結果、今では安定した結婚生活を送っている夫婦もたくさんある。*話を簡単にするために、この一連の記事では全般的に、忠実な配偶者のほうを妻としているが、論じられている原則は夫が潔白で妻が不忠実な場合にも当てはまる。2003/05/20 18:40:33二重の裏切り行為 気づいていない人が多いのだが、姦淫を犯した人は配偶者に強烈なダブルパンチを与えている場合が少なくない。どのようにしてだろうか。パットの言葉はヒントになる。「わたしにとってはつらいことでした。あの人は夫であっただけでなく、長年つき合ってきた友人、それも最高の友人だったのです」。確かに、問題が生じると、妻は大抵、夫に頼る。ところが、その夫が大きな痛手となる問題を引き起こしたばかりか、助けを差し伸べるという大いに必要な役割を果たしてくれなくなったのである。夫は、激しい苦痛をもたらすことと、妻の信頼している親友を奪うことを一挙に行なったのである。 その結果として味わうことになる、裏切られ信頼を打ち砕かれたという深刻な気持ちほど、罪のない配偶者に打撃を与える感情はない。ある結婚カウンセラーは、不倫がそれほどまでに感情的な痛手となる理由をこう説明している。「人は結婚に自分自身、自分の希望、夢、期待の多くを賭ける。……本当に信頼できる人、いつも頼っていられそうな人を求めているのである。その信頼が急に取り去られるなら、トランプのカードで作った家が風で吹き飛ばされた時のようになってしまう」。 「離婚を乗り越える方法」という本で述べられているように、不倫による痛手を受けた人が「激しく動揺する感情を整理するのに助けを必要としている」ことは明らかである。「どんな選択肢があり、どのように選択するかを見きわめる上で助けを必要としているかもしれ(ない)」。では、どんな選択肢があるのだろうか。 『和解すべきだろうか、それとも、離婚すべきだろうか』と思うかもしれない。特に、夫婦の間に緊張した関係が続いてきた場合は、離婚が問題を解決する方法だと急いで結論したくなることだろう。『結局のところ、聖書は配偶者の不倫ゆえの離婚を認めているのだ』と考えるかもしれない。一方、聖書が離婚を強く求めているわけではないと考え、和解して、結婚関係を立て直し、強めるほうがよいと思うかもしれない。 不忠実になった配偶者と離婚するかしないかは、個人で決定すべき事柄である。それでも、取るべき道はどうすれば分かるだろうか。まず、和解が可能かどうかを見きわめる上で助けとなるような要素を幾つか検討してみていただきたい。2003/05/20 16:13:10罪悪感とゆううつな気分 これらの感情のすぐあとには、罪悪感が押し寄せるのが普通である。ある落胆しきった妻はこう言う。「女性は罪悪感にひどくさいなまれると思います。自分自身を責めて、『自分はどんな間違いをしたのだろう』と思うのです」。 妻に裏切られたある夫は、本人の言うジェットコースターのような感情の別の面を説明して、「まるで悪天候に見舞われたように、ゆううつな気分を経験するようになる」と述べている。ある妻は、夫に捨てられて、泣かない日はなかったことを思い出し、こう述べている。「初めて丸一日泣かずに過ごせた日のことをよく覚えています。あの人が去ってから数週間もたっていました。初めて丸1週間泣かずに過ごせたのは数か月後のことです。泣かずに過ごせた日や週は、わたしが立ち直る上で里程標となりました」。2003/05/20 13:22:34怒りと不安 不倫による痛手を受けたある人は、「我慢できないような怒りに襲われる」ことを認めている。それは、犯された過ちと受けた痛手に対する単なる憤りではない。むしろ、それはあるジャーナリストが説明しているように、「実現するはずだった事柄が台なしにされたことに対する憤慨」なのである。 また一般に、自分を卑下する気持ちがわいたり、自分の至らなさを感じたりするものである。ペドロはこう打ち明けている。「『自分にはあまり魅力がないのだろうか。どこか欠けたところがあるのだろうか』などと考えます。自己分析して欠点を探しはじめます」。英国国立結婚指導会議のゼルダ・ウェストミーズは自著「愛し、敬い、裏切る」の中で次のことを認めている。「とりわけ対処しがたいのは……自尊心がほとんど打ち砕かれてしまうことである」。2003/05/20 7:35:17
2003年05月20日
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不倫や離婚の統計データはショッキングなものだが、人々の日常生活にもたらされる影響の全容を明らかにしてはいない。非常に大きな金銭的問題が絡んでいることに加えて、そうしたデータに秘められている実にさまざまな感情―大量に流された涙、計り知れない困惑、悲しみ、不安、耐え難いほどの苦しみ、家族が苦悩のあまり過ごした幾多の眠れぬ夜―を考えてみていただきたい。被害者はその試練を乗り越えたとしても、心の傷を長い間引きずるようである。受けた傷や痛手はそう簡単に消え去るものではない。 「結婚が破綻に至ると、さまざまな感情が吹き出すものだ」と、「離婚を乗り越える方法」(英語)という本は説明している。「そのため、時には物事がはっきりと見えなくなる恐れがある。何をすべきなのか。どう対応すべきなのか。一体どうしたら乗り越えられるのか。確信と疑念、怒りと罪悪感、信頼と猜疑の間で気持ちが揺れ動くかもしれない」。 妻が不忠実になったことを知ったペドロは、まさにそうした経験をした。「不倫が行なわれた場合、あれこれと交錯した感情に襲われます」と打ち明けている。打ちのめされたような感覚は、裏切られた当人にとってさえ理解しがたいものである。ましてや、事情のあまり分からない部外者に理解できないのも当然である。パットはこう訴える。「わたしの気持ちを本当に分かってくれる人など一人もいません。夫が彼女と一緒にいると思うと、実際の痛みを、だれにも説明できないようなうずきを感じるんです」。パットはさらにこう説明している。「時には気が狂いそうになります。ちゃんとやって行けるという気のする日があるかと思えば、その次の日には自信がなくなります。あの人がいなくて寂しい日があるかと思えば、その翌日には悪巧みとうそと屈辱を一つ残らず思い出すのです」。
2003年05月19日
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それによって関係者はどんな影響を受けるか。間違いを犯した配偶者と和解するよう努力すべきだろうか。離婚は賢明な選択だろうか。不倫―その痛ましい結果 「もう家には帰らない」と、電話の声は言った。それは、パットが夫から言われた言葉の中でもおそらく最もむごいものだっただろう。「夫に裏切られたことが信じられませんでした」とパットは言う。「いつも一番心配だったこと、つまり、夫がわたしを捨ててほかの女性のもとへ行ってしまうのではないかという心配が、恐ろしい現実となったのです」。 パットという、この33歳の女性は結婚生活を成功させたいと心から願っていたし、彼女の夫も、決して君を捨てたりしない、と言っていた。パットはこう語っている。「わたしたちはどんなことがあっても別れたりしないと誓い合いました。わたしはあの人がそうするつもりであることを信じて疑いませんでした。なのに、……あの人はわたしを捨てたのです。今のわたしは独りぼっちです。ネコ1匹、金魚1匹いません」。 宏は母親の不倫が発覚した日のことが忘れられない。その時のことをこう述べている。「わたしはまだ11歳でした。母は家の中をものすごい勢いで歩き回りました。父は母のすぐ後ろで、『ちょっと待ってくれ。話し合おう』と言っていました。わたしは何かが狂って、どうしようもなくなってしまったことを感じました。父は打ちのめされてしまい、今でも完全には立ち直っていません。その上、父には自分の気持ちを打ち明ける相手がいませんでした。それで、父はわたしに救いを求めました。考えてもみてください。40代の男が11歳の息子に慰めと同情を求めたのです」。 王室の人々や政治家や映画スターや宗教指導者をひどく狼狽させてきたスキャンダルであれ、個々の家庭における裏切りと涙であれ、不倫によってもたらされる悲劇は跡を絶たない。新ブリタニカ百科事典(英語)は、「姦淫は結婚と同様、世界の至るところで見られるもの、場合によっては結婚と同じほど一般的なものであるようだ」と述べている。一部の研究者によれば、不倫を行なったことのある人は50%ないし75%に上るものと見られる。結婚について研究しているゼルダ・ウェストミーズは、発覚しない場合が多いとはいえ、「あらゆる証拠からして不倫は増加している」と言う。
2003年05月18日
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中には、愛のない結婚に縛られていると感じ、別の相手と一から出直したほうがいいという気になる人もいる。しかし、これは姦淫である、この罪を犯す人は「心が欠けており[「無分別な愚か者であ(り)」、「自分の魂を滅びに陥れる」。姦淫を犯して悔い改めない人は、最終的には神の恵みを失うという最悪の事態に陥る。 姦淫の道を歩むことが全く愚かな行為であることは、ほかの面から見ても明らか。まず第一に、姦淫を犯して新しい配偶者を得る人は、最初の結婚で持ち上がったのと同じ問題にまた直面する可能性がある。ダイアン・メドベド博士は考慮すべき別の点を挙げて、こう述べている。「新しい配偶者があなたについて最初に知ったことは、あなたが簡単に浮気するということだ。あなたは敬うと約束した人を欺く恐れがあるということを、相手は知っている。あなたが言い訳上手であることも、誓いからそれて行く場合があることも、官能的な快楽や自分の欲望を満たす事柄に引かれることも知っているのだ。二番目の配偶者は、あなたが二度と誘惑されないとどうして分かるだろうか」。以下は、夫婦の間に当てはまるだけでなく人間関係全般においても適用できる。● 「言葉が多ければ違犯を避けられない。しかし、唇を制する者は思慮深く行動しているのである」。だれでもかっとなると、思わぬことを言ってしまい、あとで後悔するものでる。● 「激怒する人は口論をかき立て、怒ることに遅い者は言い争いを静める」。辛らつな言葉で非難するなら、相手に徹底抗戦の構えを取らせかねない。一方、相手の言うことに辛抱強く耳を傾けるなら、それは二人が解決に向けて努力するのに役立つ。● 「自分のことばを控える者には知識があり、識別力のある人は霊を冷静に保つ」。怒りがこみ上げてくるのを感じたら、余計な口はきかないようにして、本格的な対立を避けるのが最善である。● 「愚鈍な者は自分の霊をさらけ出し、賢い者は最後までこれを穏やかに保つ」。自制することが大切。かっとして厳しい言葉をぶつけるなら、配偶者を遠ざけるだけである。
2003年05月17日
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思い出してください! 以前にもらった手紙やカードを読み返し、写真を眺め、そして自問してみる。『わたしはこの人のどんなところに引かれただろう。どんな特質に最もあこがれていただろうか。一緒にどんなことをしただろう。どんなことで一緒に笑ったっけ』。それから、そうした思い出について配偶者と語り合う。「……した時のこと、覚えてる?」と話し出すなら、かつて二人で共に味わった感情がまたよみがえってくるかもしれない。2003/05/16 22:50:45ボールはそっと投げましょう 聖書はこう述べている。「あなた方の発することばを常に慈しみのあるもの、塩で味つけされたものとし、一人一人にどのように答えるべきかが分かるようになりなさい」。(コロサイ 4:6)この言葉は結婚生活に実によく当てはまる。例えば、キャッチボールをするときは、相手が受け止めやすいようなボールを投げる。相手に怪我をさせるほど強く投げつけるようなことはしない。配偶者と話すときにも、同じ原則をあてはめるようにしたい。苦々しい言葉を投げつけることは害になるだけである。むしろ、優しい―慈しみのある―話し方をして、相手があなたの言いたいことを把握できるようにしてみてはいかがだろうか。2003/05/16 6:40:59
2003年05月16日
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現実的な見方を保つ 結婚生活が、求婚時代に思い描いたようなものではないとしても、幻滅を感じる必要はない。ある専門家のグループは、「いつまでも幸福に暮らすというわけにいかないのが、大半の人の結婚生活だ。すばらしい時もあれば、たいへんな時もある」と述べている。 確かに、結婚はおとぎ話に出てくるロマンスのようなものではないかもしれないが、悲劇である必要もない。互いに忍耐し合わねばならない時も来るが、意見の不一致など忘れて、共にいることをうれしく思い、楽しく過ごし、友達のように話せる時も来ることだろう。そうした時に、冷めていた愛をもう一度呼び覚ますことができるかもしれない。 そもそも二人が不完全である限り、完全な結婚生活を送ることはできない。それでも、ある程度の幸福を見いだすことはできる。実際のところ、問題がある場合でも、結婚関係は計り知れない満足をもたらすものとなる。一つのことは確かである。夫と妻の両方が努力を払い、進んで融通を利かせ、互いの長所を探そうとするなら、夫婦の愛を取り戻すことは可能だと信じてよい十分な理由があるのである。2003/05/15 23:43:23口論を鎮める ある人たちは、配偶者の行動ではなく、自分の感情を強調するなら、怒りを抑えて根本的な問題に取り組むのがいっそう容易になることに気づいた。例えば、「あなたの言葉に傷ついた」と言うほうが、「あなたに傷つけられた」とか、「もっとましなことが言えないの」などと言うよりもずっと効果的である。もちろん、自分がどのように感じているかを述べるときは、声の調子に苦々しさや嫌悪感を出してはならない。配偶者の人格を攻撃することではなく、問題をはっきりさせることを目標にすべき。 さらに、「黙っているのに時があり、話すのに時がある」ということをいつも忘れないことである。二人が同時に話すと、どちらも相手の言うことを聞いていないので、得るところは何もない。であるから、自分が聞き手に回った時は、「聞くことに速く、語ることに遅く」あっていただきたい。また、「憤ることに遅くある」ことも同じほど大切である。配偶者の辛らつな言葉をすべて額面通りに受け取ることも、「自分の霊にせき立てられて腹を立て(る)」こともしないようにしたい。むしろ、配偶者の言葉の裏に隠されている感情を読み取るよう努めてもらいたい。「人の洞察力は確かにその怒りを遅くする。違犯をゆるすのはその人の美しさである」。夫あるいは妻に洞察力があれば、意見の不一致の裏にある事柄が見えるようになる。 例えば、妻が夫に、わたしと一緒に過ごす時間を取ってくれないとこぼす場合、それは単に時間だけの問題ではない可能性がある。むしろ問題は、妻が、わたしはなおざりにされている、あるいは感謝されていないと感じていることにあるのかもしれない。同様に、夫が妻の衝動買いに文句を言う場合、それは単にお金だけの問題ではないことが考えられる。むしろ問題は、自分に無断で買うことに決めたと夫が感じていることにあるのかもしれない。洞察力のある夫あるいは妻は、裏に隠れている問題を探り、その核心に触れることだろう。 言うは易く行なうは難しだろうか。確かにそのとおり。最善の努力を払ったのに、思いやりのない言葉が返ってきて、怒りが燃え上がるということもあるだろう。そのようになりそうな時は、次の助言に従う必要があるかもしれない。「言い争いが突然始まってしまう前にそこを去れ」。気持ちが落ち着くまで話し合いを先に延ばすのは間違いではない。話しているとどうしても収拾がつかなくなるというのであれば、円熟した友人の一人に同席してもらい、問題を十分に検討できるよう助けてもらうとよいかもしれない。2003/05/15 13:15:11
2003年05月15日
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「舌の力」 夫も妻も問題について話し合う方法を知っているだろうか。二人ともそうした問題について徹底的に話し合うことをいとわないようにするべきである。確かに、それは一種のテクニックで、学ぶのは容易でないと言える。なぜだろうか。一つには、不完全さゆえに、わたしたちはみな「言葉の点でつまず(く)」ことがあるからである。それにまた、親がしょっちゅう怒りを爆発させている家庭で育った人もいる。その場合、怒りをぶちまけたり、口汚くののしったりするのは当たり前のことと思うよう、幼いころからある意味で訓練されてきたとも言える。そうした環境で育った少年は、「怒りやすい」、「すぐに激怒する」大人になることがある。同じように、そのような生い立ちの少女は、「苦々しく物を言う怒り立った女」になることがある。深く刻み込まれている思考と会話のパターンを断つのは容易ではない。* であるから、いさかいに対処する方法には、自分の考えを言い表わす新しい方法を学ぶことが含まれる。これはどうでもよい事柄ではない。聖書の格言に、「死も命も舌の力のうちにある」とあるからである。(箴言 18:21)確かに、何でもないことのように聞こえるかもしれないが、配偶者に話しかける方法次第で、夫婦仲を裂くことにもなれば、元通りにすることにもなるのである。聖書には、「剣で突き刺すかのように無思慮に話す者がいる。しかし、賢い者たちの舌は人をいやす」という格言もある。―箴言 12:18。 この点で配偶者が問題のおもな原因であるように思えても、意見の不一致が生じた時に自分が何と言っているかを考えてみる。あなたの言葉は相手を傷つけるだろうか、それともいやすだろうか。相手を逆上させるだろうか、それともなだめるだろうか。聖書によると、「痛みを生じさせる言葉は怒りを引き起こす」のに対して、「温和な答えは激しい怒りを遠ざけ」る。痛みを生じさせる言葉は、たとえ穏やかに話したとしても、火に油を注ぐものとなる。 もちろん、なにか気になることがあるなら、そのことを相手に伝えるのは当然である。しかし、その際には、相手を皮肉ったり、侮辱したり、こきおろしたりしないようにすることである。自分でしっかりとした境界線を定めていただきたい。「あなたなんか大嫌い」とか「結婚しなければよかった」といったことは決して言わないと決意する。また、「言葉をめぐる論争」や「ささいな事をめぐる激しい言い争い」にならないようにするのは賢明なことである。配偶者がそうした手段に訴えるとしても、同じようにやり返してはならない。自分に関する限り、平和を追い求めていただきたい。 確かに、かっとなっている時に、言葉を制するのは容易ではない。「舌は火なのです」と、聖書筆者ヤコブは言う。「人類のだれもこれを従わせることができません。御しがたい、有害なものであって、死をもたらす毒で満ちています」。では、腹が立ってきた時にはどうすればよいだろうか。火に油を注ぐのではなく、争いを鎮めるような方法で配偶者に話しかけるにはどうすればよいだろうか。*親の影響は,配偶者に辛らつな言葉をぶつける言い訳にはならない。しかし、そうした傾向は深く染み込み、断ちがたいものになりかねないということを理解するのに役立つかもしれない。2003/05/13 21:50:38いさかい―どれほど深刻か 愛のない結婚生活のおもな原因は、夫婦がいさかいをうまく処理できないことにあるようだ。二人の人間が何から何まで同じということなどあり得ないのだから、どの夫婦にも時折、意見の不一致が生じるのは当たり前。しかし、いつも衝突している夫婦は、長年の間に愛が冷えてしまったことに気づくかもしれない。また、『性格が全く合わないから、いつもけんかばかりしているのだ』と思うようになることさえあるかもしれない。 それでも、いさかいが起きるというだけで、結婚は破綻したとみなす必要はない。問題は、いさかいをどのように処理するかということである。円満な結婚生活を送っている夫婦は、ある博士の言う“親密な敵”にならないようにしながら、自分たちの抱える問題について話し合うことを学んできた。2003/05/13 18:44:31
2003年05月13日
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配偶者に敬意を払う 「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです」。ここで、「誉れある」と翻訳されているギリシャ語の変化形は、「惜しい」、「重んじられる」、「尊い」というふうに訳されているのだが、わたしたちは何かを非常に大切にしている場合、その手入れをするための努力を惜しまないものである。高価な新車を購入した人がそうであることはあなたもご存じだろう。愛車はいつもぴかぴかで、手入れが行き届いている。ちょっとしたかすり傷がついても一大事である。同じように自分の健康に気を遣う人もいる。なぜだろうか。健康を大切にしており、それを守りたいと思うからである。 結婚生活に対しても同じような気遣いを示す必要がある。愛は「すべての事を希望(する)」。敗北主義的な考えに負け、もしかしたら改善の可能性を度外視して、「最初から愛し合ってなどいなかった」とか、「二人とも若すぎた」とか、「一生の不覚だった」などと言うのではなく、うまくいくように願い、改善を目指して努力し、結果が出るのを辛抱強く待つのはいかがだろうか。ある結婚カウンセラーは、「『もうこれ以上は無理だ』と言う来談者があまりにも多い」と言う。「夫婦関係を分析して、どの部分に改善が必要かを知ろうとするのではなく、さっさと投げ出してしまう。二人が確かに持っている共通の価値観、二人で作ってきた大切な思い出、そして将来の有望な見込みもすべて捨ててしまうのである」。 二人の間にはどんな思い出があるだろうか。夫婦の関係に問題がある場合でも、二人で一緒に楽しんだこと、成し遂げたこと、取り組んだ問題などが思い浮かぶにちがいない。そうした事柄を振り返り、夫婦仲を改善するために誠実に努力することによって、自分が結婚関係と配偶者に敬意を払っていることを示していただきたい。2003/05/12 17:56:08結婚の誓いに対する見方 結婚生活の改善を図るのであれば、長期的な視野が必要である。結局のところ結婚は、神が二人の人間を密接に結び付けるためにお作りになった取り決めである。であるから、夫と妻の関係は、仕事のようにやめられるものでもなければ、アパートのように賃貸契約を解消して引っ越しさえすれば出ていけるといったものでもない。それどころか、結婚した時には、何が起ころうとも、配偶者から離れないという厳粛な約束をしたのである。結婚の誓いが非常に重要であることは、「神がくびきで結ばれたものを、人が離してはなりません」という言葉にも示されている。 『そういうことであれば、わたしたちはまだ一緒に暮らしている。このことは、二人が結婚の誓いの意味を認識している証拠ではないだろうか』と言う人もいるだろう。なるほどそうかもしれない。しかし、一緒に住んではいても、よどんだ水域にはまり込んだかのように、愛のない結婚に縛られている夫婦もある。しかし、二人の目標は、結婚生活を楽しいものにすることであって、ただ耐えられる程度のものにすることではない。結婚の誓いは、婚姻制度に対する忠誠心だけでなく、自分が愛し慈しむと誓った人に対する忠誠心をも反映するものであるべきである。 結婚の誓いをどれほど真剣に受け止めているかは、配偶者に対して言うことに表われる。例えば、口論の真っ最中に、「出て行ってやる!」とか、「もっと大事にしてくれる人を探すわ!」などと、軽率な発言をする夫や妻がいる。本気ではないとしても、そうした言葉は結婚の誓いを徐々に崩してゆく。扉は常に開いており、必要とあらばいつでもそこを通って出て行くつもりだということを暗示するからである。 結婚生活に愛を取り戻すには、会話の中でそうした脅し文句を言わないようにしなければならない。いつ引き払うとも分からないようなアパートの部屋をきれいに飾りたいと思う人がいるだろうか。では、長続きしそうにない結婚生活の改善に取り組むことを、どうして配偶者に期待できるだろうか。であるから、解決に向けて真剣に努力する決意を固めていただきたい。 ある妻は、夫との間がうまくいかない時期を過ごしたあと、そのようにした。「たしかに夫を不快に感じたこともありますが、別れようと思ったことはありませんでした」と彼女は言う。「どんな問題が生じた場合でも、何とかして元の状態を取り戻すことに努めました。2年間にわたる激しい波風の立つ日々も終わり、今ではまた、一緒にいられてとても幸福、と心から言えるようになりました」。 そう、結婚の誓いを果たすのは共同作業である。それは同居するだけのことではなく、共通の目標を目指して努力することである。とはいえ、現時点では、義務感から結婚生活を続けているにすぎないと思えるかもしれない。もしそうであるとしても、落胆することはない。愛を取り戻せるかもしれない。それにはどうすればよいだろうか。2003/05/12 12:15:42
2003年05月12日
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結婚することは「患難」に遭う「苦労」を負うと言うことでもある。しかし、結婚が喜びの源となるだけでなく陶酔の源ともなり得ること、またそうあるべきであることを忘れてもならない。この二つの考えは矛盾するものではない。深刻な問題が起きようとも、夫婦は親密で愛に満ちた関係を得られるということを示しているにすぎない。 あなたの結婚生活にはそのような親密で愛に満ちた関係が欠けているだろうか。かつては親密で喜びに満ちていた二人の間に、心痛や失望が影を落としているだろうか。かりに結婚生活が愛のない状態に陥ってから何年もたっているとしても、失ったものを取り戻すことは可能である。もちろん、現実的な見方は必要。不完全な男女の中に完全な結婚生活を送れる人など一人もいない。それでも、望ましくない傾向を好転させるためにできることはある。 以下の事柄を考慮しながら、自分の結婚生活には特にどの点が当てはまるかを見極めることができるかもしれない。配偶者の欠点に目を向けるのではなく、自分が実行できる提案を幾つか選び、適用する。思っていたより希望があることに気づくかもしれない。(聖書の助言を適用することは実際的である) 最初に精神態度について考えてみる。というのは、結婚の誓いをどう見ているか、また配偶者にどんな感情を抱いているかは極めて重要なことだからである。聖書には、夫にも妻にも役立つ実際的な助言が数多く載せられている。このことを驚くには及ばない。霊感を与えて聖書を書かせた方は、結婚という取り決めの創始者でもあられるからである。結婚に関して聖書が述べていることは現実的である。
2003年05月11日
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RE:希望を持てるだろうか愛のない結婚―その他の要因を2002/12/10(火) 愛が冷めるのはなぜ?に記載してます。2003/05/10 20:59:26希望を持てるだろうか 「結婚が破綻しかけている時に問題となるのは、事態の改善などあり得ないという思い込みである。そのような思い込みは変化を妨げる。何か前向きなことをしようとする意欲を奪うからだ」。―アーロン・T・ベック博士。 体のどこかに痛みを感じて、病院に検査を受けに行くところを想像してみていただきたい。とても心配である。それも無理はない。あなたの健康に、いや命そのものにかかわることかもしれないのだから。しかし、検査が終わり、医師から良いニュースを聞かされる。決して小さな問題ではないが、治療は可能とのことである。そのうえ医師は、無理のない食餌療法と運動を計画して、それをきちんと実行すれば、完治を期待できると言う。あなたはほっと胸をなでおろし、喜んで医師のアドバイスに従うことだろう。 このシナリオを今考慮している問題と比べてみてもらいたい。あなたは結婚生活において心痛を経験しておられるだろうか。もちろん、どんな夫婦にも問題や意見の不一致はあるもの。であるから、夫婦の間に時として問題が生じるとしても、愛のない結婚生活を送っているということにはならない。しかし、心の痛む状態が何週間も、何か月も、あるいは何年も続くとしたらどうだろうか。もしそうであれば、心配になるのも当然である。それは決して小さな問題ではないからである。実際、親の結婚生活の質は、親の生活の、さらには子どもの生活のあらゆる面に影響を及ぼすと言っても過言ではない。例えば、結婚生活の悩みは、うつ病、仕事の能率の低下、子どもの学業不振といった問題の要因になると考えられている。しかし、それだけではない。クリスチャンは、配偶者との関係が神との関係にまで影響を及ぼし得ることを認めています。(この点を考慮される方は少ないと思いますが) 配偶者との間に問題があるとしても、それは状況が絶望的だという意味ではない。トラブルは必ず生じるという結婚生活の現実を直視することは、問題の真相を明らかにし、解決に向けて努力するのに役立つ。夫の立場にあるアイザックはこう言う。「夫婦が結婚生活を送るうちに幸福度の上がり下がりを経験するのは普通だということなど、全く知りませんでした。わたしたちの場合はどこかがおかしいのだと思っていたのです」。 結婚生活が愛のない状態に陥ってしまったとしても、夫婦の愛を取り戻すことは可能である。不仲が原因で負った心の傷は深いものかもしれない。問題が何年も続いている場合は特にそうだろう。それでも、希望を持てる強力な理由がある。重要な要素は意欲である。夫婦間に深刻な問題がある場合でも、双方にその気持ちが十分にあれば、改善を図ることは可能である。* であるから、『夫婦関係を満足のゆくものにしたいという自分の願いはどれほど強いものだろうか』と自問してみてはいかがだろう。二人には結婚生活を改善するために努力を払おうとする気持ちがあるだろうか。前述のベック博士は、「夫婦が共に自分たちの結婚生活の短所を補い、長所を伸ばそうと励むとき、明らかに悪く見えるような関係も改善されていくので、驚かされることがしばしばある」と述べている。しかし、相手が協力したがらない場合はどうか。あるいは、問題があることを気にも留めない場合はどうか。自分だけで結婚生活の改善に取り組んでも無駄だろうか。決してそのようなことはない。「こちらが幾らかでも変化すれば、そのこと自体が相手の変化を促すかもしれない。実際、そうなるケースは非常に多い」と、ベック博士は述べている。 自分の場合は無理だと早急に決めないでいただきたい。そのような敗北主義的な考えはそれ自体、結婚生活の最大の敵なのだから。どちらかが第一歩を踏み出す必要がある。それはあなただろうか。いったん弾みがつけば配偶者も、より幸福な結婚生活を築くために協力すればよい結果が得られる、ということを分かってくれるかもしれない。 では、夫婦の愛を取り戻すために、個人として、また夫婦として何ができるだろうか。聖書はこの質問に答えるうえでたいへん役立つ。ではどのように役立つのか調べてみたい。(関心をお持ちになられた方はよろしければ次も読んでみて下さい)*もちろん、幾つかの極端なケースでは、夫婦が別居する正当な理由があるかもしれない。また、聖書は淫行ゆえの離婚を認めている。(マタイ 19:9)不貞を働いた配偶者と離婚するかどうかは本人が決定することなので、どちらの道にせよ、他の人は潔白な側に圧力をかけて決めさせるようなことをすべきではない。2003/05/10 20:55:45無関心―「あきらめました」 「結婚生活を円満なものにしようなんてことはあきらめました」と、結婚して5年のある女性は言う。「今となってはもうだめなことは分かっています。ただ、気掛かりなのは子どものことです」。 愛の正反対は憎しみではなく無関心だと言われている。確かに、無関心な態度は敵意と同じほど結婚生活にダメージを与える恐れがある。 しかし、残念なことに、愛のない結婚に慣れてしまい、状況が変わるかもしれないという望みを捨ててしまう人もいる。例えば、ある夫は23年間の結婚生活について、「きらいな仕事に就いていること」に似ていたと述べ、「置かれた状況の中でベストを尽くすだけです」と言いった。同様に、ウェンディーという名の妻は結婚して7年になるが、夫との関係を改善するという望みを捨ててしまった。「何度も努力しましたが、夫はいつもわたしの期待を裏切るのです。結局、わたしはうつ状態になりました。あんな経験は二度としたくありません。希望を持てば自分が傷つくだけです。何も期待しないほうがましです。喜びは得られませんが、少なくともうつ状態にはならないで済みます」と、ウェンディーは言う。 幻滅、性格の不一致、いさかい、無関心―これらは愛のない結婚生活の原因となりそうな要素の一部にすぎない。そうした原因がもっとたくさんあることは明らかである。原因がどこにあるにせよ、愛のない結婚に縛られているように見える人々に希望はあるのだろうか。2003/05/10 5:56:33いさかい―「いつも言い争ってばかり」 「わたしたちはあきれるほどよくけんかをしたものです。わめき立てることだってありました。もっとひどい場合は,怒り心頭に発して口もきかない状態が何日も続くことがありました」と、シンディーは結婚したばかりのころを振り返って言う。 結婚生活に意見の不一致はつきものである。しかし、それはどう処理されているだろうか。ダニエル・ゴールマン博士はこう書いている。「健全な結婚生活を送っている場合でも、夫婦は遠慮なく不満を口にするものである。しかし、かっとなっている時は、相手の人格を攻撃するという有害な方法で不満を表明することがあまりにも多い」。 そうなると、会話は戦場と化し、双方とも断固として自分の見方を正当化し、言葉はコミュニケーションの道具ではなく武器として使われる。ある専門家チームはこう述べている。「口論がエスカレートして制御不能になっていく場合に起こる極めて有害な事柄は、結婚生活の根幹を脅かす言葉を口にするようになることだ」。2003/05/10 0:30:59
2003年05月10日
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「主人とわたしは、ほとんどすべての面で180度の違いがあります」と、ある女性は言う。「主人との結婚を決めたことが悔やまれない日はありません。わたしたちは性格が全く合わないのです」。 たいていの場合、結婚した二人が、恋愛期間中に考えていたほど自分たちは似てはいないということに気づくのに、それほど時間はかからない。「独身時代には本人も気づいていなかったような特性が、結婚すると大々的に現われることが多い」と、ニーナ・S・フィールズ博士は書いている。 その結果、結婚したあとで、性格が全く合わないということになる夫婦もあるかもしれない。「ほとんどの人は、好みや性格が幾らか似ているとはいえ、ライフスタイルや趣味や考え方の大きな違いを抱えた状態で結婚生活に入る」と、アーロン・T・ベック博士は述べている。そうした相違点を理解して受け入れる方法を知らない夫婦は少なくない。
2003年05月09日
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「ジムと結婚したときは、“眠れる森の美女”と“王子様”みたいに、愛とロマンスと、互いに対する思いやりとに満ちた生活が送れるだろうと思っていました」と、ローズは言う。しかし、そのうちに、ローズの“王子様”はそれほど魅力的に思えなくなった。「わたしはジムにひどく失望してしまいました」と、彼女は言う。 多くの映画や本や流行歌が描く愛は非現実的なものである。恋愛中は、男性も女性も、夢がついに実現したのだと思うかもしれない。しかし、結婚して数年たつと、自分たちは本当に夢を見ていたに違いないと思うのである。たとえうまくいく可能性のある結婚であっても,おとぎ話に出てくるロマンスどおりでなければ、まったくの失敗に思えるかもしれない。 もちろん、結婚生活において当然期待してよい事柄もある。例えば、配偶者の愛や気遣いや支えを期待するのは当然なことである。しかし、これらの願いでさえ、満たされないことがある。「結婚していないような感じです」と、インドの若い花嫁ミーナは言う。「寂しくて、ないがしろにされているような気がします」。
2003年05月07日
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愛が冷めるのはなぜ? 「恋に落ちるほうが、恋しつづけるよりもずっと簡単なようだ」。―カレン・カイザー博士。 愛のない結婚生活の急増は驚くほどのことではないのかもしれない。結婚は複雑な人間関係であるが、多くの人はほとんど準備をせずにこの関係に入る。「車の運転免許を取る場合は、運転技能をある程度証明することが求められるが、結婚許可証はサイン一つで手に入る」と、ディーン・S・イーデル博士は言う。 本当に幸福な実り多い結婚生活を送っている人がたくさんいる一方、ストレスの多い結婚生活を送っている人も少なくない。夫婦の一方あるいは両方が大きな期待を抱いて結婚生活に入ったものの、その関係を持続させるのに必要な巧みさが欠けていたということかもしれない。「親しくなったばかりのころは、二人とも自分に自信が持てるようになるものだ」と、ハリー・ライス博士は言う。二人は互いに、相手が「自分と同じ物の見方をする、世界で唯一の人」であるかのように感じる。「その感情は冷めることがある。そして実際に冷めてしまったならば、それは結婚関係にとって大きな痛手となりかねない」のである。 幸いなことに、多くの結婚はそこまでには至らない。しかし、幾つかのケースで愛が冷める原因となった要素を少し簡単に検討してみる。2003/05/06 23:44:54愛のない結婚に縛られる 「離婚率の高い社会においては、不幸な結婚生活が離婚に終わるケースだけでなく、結婚生活が不幸なものになるケースも増える傾向にある」。―アメリカ家庭問題調査会議。 人生の喜びと苦悩の多くは同一の源から生まれると言われている。その源とは結婚生活である。確かに、人生において、これほど多くの喜びを、またこれほど多くの苦悩をもたらし得るものはまずありえない。苦悩のほうを、普通以上に経験している夫婦は少なくない。 しかし、離婚統計は問題の一部を明らかにしているにすぎない。沈没する一つの結婚に対して、まだ浮かんではいるものの、よどんだ水域で航行不能に陥っている結婚はその何倍もある。「以前は幸せな家庭だったのに、この12年間は散々でした」と打ち明けるのは、結婚して30年余りになるある女性である。「主人はわたしの感情に無関心です。主人はわたしにとって感情面での最大の敵なのです」。同様に、結婚して25年近くになるある夫は、「妻は、もうわたしを愛していないと言っています。ただ同居するだけで、余暇を別々に過ごすのであれば、我慢してもいいと言うのです」と嘆いている。 もちろん、そうした悲惨な状況にある人の中には結婚生活に終止符を打つ人もいる。しかし、多くの人にとっては離婚などできない相談である。なぜだろうか。カレン・カイザー博士によると、愛のない状態にあっても、子ども、世間体、経済問題、友人、親族、宗教信条などの要素が離婚を思いとどまらせることがある。「そうした人たちは、正式に離婚する見込みがないので配偶者のもとに留まることを選ぶが、気持ちの上では離婚しているのである」と、博士は述べている。 夫婦仲が冷えてしまった夫婦は、あきらめて、満たされない生活をしなければならないのだろうか。離婚しないとすれば、愛のない結婚生活に甘んじる以外に道はないのだろうか。経験からすれば、うまくいっていない結婚生活を救うことは多くの場合、可能である。破綻の苦しみだけでなく、愛のない惨めな状態からも救えるのである。2003/05/06 3:28:00
2003年05月06日
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神はいつもだれが偽りの「牧者」であるかを知っておられる。でも神は、使徒パウロが真理に逆らった当時の人々について述べたとおり、『その狂気がすべての人に非常に明らかになる』よう彼らを存続させてこられたのである。 神は、世界宗教がご自分を正しく代表してはいないことを大いに明らかにしておられる。したがって、そのみ子イエス・キリストは、世界宗教を奉ずる人たち、特にその指導者たちについてこう警告された。 「羊のおおいをかぶってあなたがたのもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では彼らはむさぼり食うおおかみです…良い木はみなりっぱな実を生み出し、腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。良い木は無価値な実を結ぶことができず、また腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。それでほんとうにあなたがたは、その実によってそれらの人々を見分けるでしょう」。 それで、神のみ前で言い開きを求めることがなされるのである。イエスがさらに言われたとおりである。 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく、天におられるわたしの父の意志を行なう者が入るのです。その日には、多くの者がわたしに向かって、『主よ、主よ、わたしはあなたの名において預言し、あなたの名において悪霊たちを追い出し、あなたの名において強力な業を数多く成し遂げませんでしたか』と言うでしょう。でもそのとき、わたしは彼らにはっきり言います、わたしはいまだあなたがたを知らない〔キリストは彼らを自分の代表者として認めたことはない〕、不法を働く者たちよ、わたしから離れされ、と」
2003年05月05日
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世界宗教はどうなるか 世界宗教にはどんな前途があるのか。次の二つの質問を考慮すれば、その答えを得ることができる。すなわち、神は宗教についてどのように考えておられるか。また、宗教は人類にとって何らかの価値があるだろうか。 世界宗教の記録を見て、創造者はご自分の創造物である人類家族に対して宗教が行なってきたことについてどう感じておられると、あなたはお考えになられるだろう。あなたのご家族をはずかしめて、あなたに背かせた者がいるとすれば、あなたはその者を快く思われるだろうか。 実際のところ、世界宗教は偽りの宗教となっており、なかでもキリスト教世界の宗教は最も責められるべきものとなっている。その最大の罪悪は神のみ名を侮辱し、「神は死んだ」とさえ唱えるに至ったことである。その諸宗派は信徒を神のことば聖書から引き離した。たとえば、キリスト教世界のどれほどの人が聖書の内容を知っているだろうか。世界宗教は政治上の指導者たちに人々の注意を向け、世界平和のための最後の希望を与える者として彼らをたたえ、神とその王国とを無視してきたのである。そして、人類を戦争と不道徳、また無神論にさえ落とし入れているのである。 僧職者は信者の悪行に対して自分たちに責任がないと言いのがれることはできない。彼らの対型であるユダヤ教の宗教指導者たちに対して言われた神のことばは、彼らが責めを負うべき者として断罪されることを示している。神は言われた。「もし彼らがわたしの親密な集いの中に立っていたなら、わたしの民にわたしの言葉を聞かせて、彼らをその悪い道から、またその行ないの悪から立ち返らせたことであろう」―Jeremiah 23:22.2003/05/03 14:32:24何が真理ですか 真理がどの方面にあるかを確かめるのに助けとなる興味深い調べ方がある。次のように自問してみていただきたい。もしあなたが夫なら、妻が他の男と性関係を持つのをあなたは望まれるだろうか。もしあなたが妻なら、夫が他の女性と性関係を持つのをあなたは許されるだろうか。 もしあなたが親なら、息子が淫行を犯したり、同性愛者になったりするのを見て、うれしく思われるだろうか。あなたの娘がそうするのを見て、うれしく思うだろうか。もしあなたが若い人なら、ご両親が互いに対して忠実であるかわりに他の人と性関係を持つことをあなたは望まれるだろうか。 もしあなたがこうした問いに「いいえ」と答えるのであれば、この問題に関するあなたの考えは神の考えから隔たってはいないことになる。神のみことば聖書はこの問題について多くを語っている。そして、そのすべてはきわめて明快で、疑わしいところは少しもない。また、「聖書全体は神の霊感を受けたもの」であるから、聖書のどの筆者が性道徳について述べる場合でも、真理を告げているのは神なのである。―2 Timothy 3:16、17. 神のみことば聖書は淫行、姦淫また同性愛について何と述べているのか。聖書の中からほんの二、三の例を挙げてみる。「淫行から逃げ去りなさい」。(1 Corinthians 6:18.)「神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです」。(Hebrews 13:4.)「淫行の者…姦淫をする者、不自然な目的のために囲われた男、男どうしで寝る者…はいずれも神の王国を受け継がないのです」。(1 Corinthians 6:9、10.)カトリック訳の聖書は同性愛のことを「けがらわしいこと」「倒錯」「恐ろしい行為」また、「堕落」と呼んでいる。(ドウエー、エルサレム聖書)さらに、神は明確にこう戒めておられる。『彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ、ねたみ・殺人・闘争・欺まん・悪念に満ち、ささやく者、 陰口をきく者、神を憎む者で、不遜、ごう慢、またうぬぼれが強く、有害な事柄を考え出す者、親に不従順な者であり、 理解力がなく、合意したことに不誠実で、自然の情愛を持たず、憐れみのない者であったからです。 こうした事を習わしにする者は死に価する』―Romans 1:26-32. このことで不明瞭な点が少しでもあるだろうか。何が真理かを僧職者が知りえないなどということがどうしてありうるだろうか。知りたくないだけのことなのである。しかし聖書は、「あなた方は、不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでもいうのですか。惑わされてはなりません。」と警告している。(1 Corinthians 6:9.)であるから、不道徳を認めたり、その言いわけをしたり、それを勧めたりする偽善的な宗教指導者をあなたの導きとしないでほしい。 そのような宗教指導者の偽りのことばは、神に由来するものではないことをぜひ知ってほしい。では、だれに由来するものなのだろうか。イエス・キリストは、サタンは「虚偽の父」であると言われた。また、偽りを語る当時の宗教指導者に向かって、「あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです。」と言われた。(John 8:44.)それは今日でも変わりない。 このようなわけで、事実を調べてみると、神のみことば聖書のいうことは確かに正しいことがわかる。すなわち、「地上でほふられたすべての者の血は」世の宗教のうちに「見出され」ており、その手は「嫌悪すべきものと彼女の淫行の汚れたものとで満ち」ており、「地に住む者たちは彼女の淫行のぶどう酒に酔」っているのである。―Revelation 18:24; 17:2,4.2003/05/03 1:01:20
2003年05月03日
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どのように説明するのか それらの僧職者は淫行や姦淫また同性愛が許されるべきであることをどのように説明するのだろうか。彼らは、神がそれらを非としてはいないと言う。たとえば、婚前交渉が罪かどうかについて牧師R・E・ティラーは言う。「この問題に関して聖書は明確な答えを述べてはいない」。 神学者ジョセフ・フレッチャーは述べた。「聖書によれば性は結婚関係内においてのみ表現されるべきであるとする主張はいずれも単なる推論にすぎない。婚前交渉をあからさまに禁ずるものは何もない。…結婚外の性関係はクリスチャンの場合でさえ必ずしも悪ではない」。 前述のクエーカー団体が提出した論文はこう断言している。「同性愛者のことを攻撃したがる人々はおもに彼[使徒パウロ]をよりどころにしている。書きしるされた彼の見解(コリント前 6:9)については疑問をさしはさむ余地がないからである。しかしながら、彼の意見は私的なものかもしれない。…したがって聖パウロの見解そのものは最終的なものではない」。 人はこうした言説から、聖書はこれらの問題について何ら決定的なことを述べてはいないと結論するかもしれない。それで、このことはそうした行為にふける公然の誘惑となっている。僧職者すべてがこうした放任主義的な見方をしているのでないことは確かである。しかし、そのような見方をしている僧職者はふえており、しかも、教会内で牧師あるいは司祭としての良い立場を保っているのである。 もちろん、わたしの教会ではそのようなことは認められていないとあなた自身は考えておられるかもしれない。しかし、このような問題をどう見ているかについてお宅の牧師にお尋ねになったことがあるだろうか。あなたの教派の他の牧師が別の場所で何を教えているかをほんとうにご存じだろうか。また、淫行あるいは姦淫または同性愛にふけった教会員に対して、お宅の教会が最近懲戒処置を取ったのはいつだっただろうか。 日本においては素地が異なるところもあり、なかなか問題の核心を掴むことは難しいかもしれませんが、教会だけに限らず他の諸宗教を信奉されている方々や無神論者・不可知論者の方々はこれらのことに関してどのような見解を持っておられるのかお聴きしてみたいものです。2003/05/02 16:06:13同性愛についてはどうか 同性愛? 教会がそのようなことを認めるわけがないとあなたは考えておられるのではないだろうか。 クエーカー派のある団体は、「性に関するクエーカーの見方に対して」と題する小論文を発表したが、その中でこう述べている。「人は左ききと同様『同性愛』を嘆くべきではない。…ふたりの人間が互いに真の愛情を表現し、喜びを味わえる行為は、われわれにとって罪深いものとは思えない」。 ドミニカ修道会のローマ・カトリックの僧職者は、「ソーミスト」という題名の季刊誌を出しているが、その近刊号でこう述べた。「ある人々にとって満足のゆく人間らしい生活を見いだしうる唯一の方法としての同性愛的結合を人は不承不承に受け入れる場合もあろう」。 英国聖公会の週刊誌「ザ・リビング・チャーチ」は、サンフランシスコの牧師R・W・クロメイの記事を載せた。クロメイはこう述べる。「それ自体罪深い性行為というものはない。…私はまた、同性のふたりの人間が愛を表現し、性交によってその愛を深めることはできると考えている」。 タイム誌は、連合メソジスト教会の家庭生活に関する委員会が、「独身者・同性愛者・特記されていない『他の形の私的関係』を持って生活している者たちのための性関係をそれとなく認めること」にしたと報じた。 連合長老教会の提唱した新しい性道徳はパレード誌が指摘したとおり、「同性愛者をして教会との解決不可能な対立関係にあると感じさせるようないっさいの汚名を排除すること」を勧めている。 今日では、ほとんど同性愛者だけを対象にして取り入ろうとする教会もある。その種の教会のある副牧師は、「われわれは第一にクリスチャンの教会であり、第二に同性愛者である」と語った。クリスチャニティ・ツデー紙は述べた。「同派のロサンゼルスの母教会には連合長老会の任命した若手の指導者がおり13歳から20歳までの同性愛者のためのダンス・パーティーが毎月開かれている」。その教会の同年の「親睦会の花」は、「王と女王に栄冠を授けた五月祭であった。正式の男装をした女子の同性愛者が王に選ばれた。女王は少年で」、その少年は少女に似ていた。 オランダやアメリカその他幾つかの国では同性愛者が牧師の司会する式を挙げて「結婚」している。フランスでは全国のテレビ番組に出演したあるオランダ人の司祭が同性愛者であることを告白した。このことについて質問されたフランスの枢機卿ダニエルーは、「同性愛者にも明らかに教会の一員となる純然たる権利がある」と言った。 教会では同性愛者がどれほど広く受け入れられているのか。ザ・クリスチャン・センチュリー誌は著名な神学者ノーマン・ピッテンジャーのことばを報じた。「同性愛そのものは罪ではないと言う考え深いクリスチャンはいっそうふえている」。 これも70年代の教会の見解である。聖書の真理を闇へと葬る行為である。 「また、あなたは女と寝るようにして男と寝てはならない。それは忌むべきことである」Leviticus 18:22. 「また、男が女と寝るのと同じようにして[別の]男と寝るなら、そのふたりは共に忌むべきことを行なったのである。彼らは必ず死に処せられるべきである。その血は彼ら自身の上にある」Leviticus 20:13. 「同じく男性までが女性の自然の用を去り、互いに対し、男性が男性に対して欲情を激しく燃やし、卑わいな事柄を行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです」Romans 1:27. 「あなた方は、不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでもいうのですか。惑わされてはなりません。淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、不自然な目的のために囲われた男、男どうしで寝る者……」1 Corinthians 6:9. 「同様に、ソドムとゴモラおよびその周りの都市も、ここに述べた者たちと同じように甚だしい淫行を犯し、不自然な用のために飽くことなく肉を追い求めたのち、永遠の火による司法上の処罰を受け、[警告の]例として[わたしたちの]前に置かれています」Jude 7. 以上の聖句を彼らはどのように解釈しているのであろう。2003/05/01 16:19:00道徳面で宗教は人をどこへ導くか 近年、世界宗教の領域では道徳「革命」が起きてきた。ここで言う「革命」とは、淫行や姦淫また同性愛に対する態度のことをさしている。 アメリカの連合長老教会は新しい「性道徳」を提唱している。パレード誌は、「それはあまりにも自由主義的であるため、何らかの性関係が罪を構成する主要な要素となりうる可能性を廃するに等しい」ものであると述べた。改革の一つとして、「同棲[つまり淫行]を望む未婚の成人に対するあらゆる拘束の廃止」が唱道されている。 タイム誌はつけ加えている。「その報告は、姦淫が正当化されうる『例外的な事情』を認めており…また、教会は未婚者のための共同性関係その他の形の性関係の可能性を探求すべきであると述べている」。 連合メソジスト教会の家庭生活に関する委員会は独身者間の性交を認める決議を発表している。 ルーテル教会は、21人の牧師の著わした85ページの小冊子を備えており、それによると、婚前交渉は利己的な理由で行なわれる場合だけ悪行となると述べられている。 デンマークのある牧師はその教区の機関誌フェドベク・ホルテ・キルケヒルセンの中でこう述べた。 「性をいっさい結婚関係に限ったところで何も得るところがない。…若い人々が結婚前に性関係を持つことは倫理的またキリスト教の見地から見て正しいと言えよう。また、結婚のわく外で性関係を持つことは…既婚者の場合同様に正しいと言えよう」。 また、アメリカ、イリノイ州のモルトン・メソジスト教会の牧師W・L・グスチンは何百人もの聴衆を前にした説教の中で次のように言っている。「私は声を大にしてはっきり言います。姦淫には利点があります」。 ローマカトリック教会には性道徳に関する放任主義的傾向が見られるのか。タイム誌はこう報じている。 「穏やかな自由主義化が二つの階層で進行している。第一に、旧来の道徳律の適用を緩和する主任司祭がふえている。それはしばしば、不倫な性関係を持つ者があまりにも未熟であるため、その罪は必ずしも重大なものではないとの根拠に基づいている。 第二に、一部の神学者は、教会の道徳の規準の背後にある『自然法』主義に挑戦している。自然法によれば『自然に反する』行為は悪とされるが、新しい道徳観を主張する者たちは、教会が『自然』とは実際のところ何かについて確信をいだけるかどうかを疑っている」。 以上のことを読んであなたは驚かれただろうか。世界宗教の領域の事情をご存じでなければ、驚かれるかもしれない。それに、これらは例外的な報告だと考えないでいただきたい。例外ではないのである。そのような報告はあまりにも多く、またあまりにも繰り返し報じられており、それはれっきとした一つの傾向となっている。若手の僧職者の間では特にそうである。 以上は1970年代の世界宗教の動向です。さらに30年が経過した今、宗教は道徳面でどのように人々を導いているのか…腐敗しきっているのでしょうか。2003/05/01 11:04:19
2003年05月01日
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