2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全22件 (22件中 1-22件目)
1 >
(かげぐち)(Backbiting)これはギリシャ語のカタラリアの訳語である。関連のある動詞カタラレオーは字義通りには「悪く言う」こと、それも正当な理由がないのに、大抵は悪意のある、あるいは敵意のこもった方法でそうすることを意味する。(1Pe 2:12; 3:16)弟子ヤコブはこの言葉を、人を不当に裁いたりとがめたりすることと結び付け、理不尽な仕方で非難するという意味を伝えている。―Jas 4:11. Ps 50:20.
2003年07月30日
コメント(0)
うわさ話は別に害のない場合もある(もっとも、中傷になったり中傷へと発展したりする可能性はある)一方、中傷は常に有害であり、必ず人を傷つけ、口論を引き起こす。それには悪意のある動機が伴うことも、伴わないこともある。いずれにしても、中傷する人は自分を神のみ前で不利な立場に置いている。『兄弟の間に口論を送り出すこと』は、神の憎まれる事柄の一つだからである。(Pr 6:16‐19)ギリシャ語の「中傷する者」もしくは「訴える者」を意味する言葉はディアボロスである。聖書の中でこの言葉は、神を中傷する者の筆頭、「悪魔」サタンの称号としても使われている。(Joh 8:44; Re 12:9、10; Ge 3:2‐5)このことは、名誉を傷つけるそのような訴えの源がどこにあるかを示唆している。 中傷は他の人、特に中傷された人にとってつまずきのもとになる。神がイスラエルにお与えになった律法では、「あなたは、中傷するために民の中を行き巡ってはならない。自分の仲間の血に敵して立ち上がってはならない」と命じられていた。(Le 19:16)ここでは、虚偽の申告が通って実際に処刑される場合もあることが指摘されており、中傷することの重大性が強調されている。これまでにも、偽りの証人が立てられて無実の人が殺されるという例は少なくなかった。―1Ki 21:8‐13; Mt 26:59、60. 時には内密にしておくべき事柄もあるが、中傷する人は、知る権利のない他の人にそのような事柄を暴露して喜ぶ。(Pr 11:13)中傷する人は、センセーションを起こすような事柄を暴露して楽しむ。中傷に耳を傾ける人も間違っており、自分を害することになる。(Pr 20:19; 26:22)ある人は、自分の友人たちに関して中傷者が述べた、名誉を傷つける言葉が原因でその友人たちから引き離されるかもしれず、また敵意や分裂が生じるかもしれないん。―Pr 16:28. 聖書の予告によると、中傷する人たちの存在が目立つことは「終わりの日」を印づけるものの一つになる。(2Ti 3:1‐3)中傷は口論を引き起こすことにより(Pr 16:28)、ある種の「肉の業」(憎しみ、口論、分裂など)を生み出す。中傷する人がこうかつで欺瞞的であっても、その人の悪は明敏な人たちの中であらわにされるだろう。イエスは、ユダが中傷者であることをご自分の使徒たちに明らかにし(Joh 6:70)、次いで彼をご自分のもとから去らせた。そのあとの出来事はユダの滅びにつながった。―Mt 26:20‐25; Joh 13:21‐27; 17:12.
2003年07月28日
コメント(0)
(うわさばなし、ちゅうしょう)(Gossip、Slander)うわさ話とは、他の人の私的な事柄に関するむだ話、根拠のないうわさのことである。中傷とは、口頭または文書によって人の名誉を傷つけることで、たいてい悪意に基づくものである。 うわさ話はすべて悪質な、もしくは有害なものというわけではないが、そのようなものになる場合がある。時には、人をほめる内容のものかもしれず、人間ならだれしも抱くような関心から、他の人についてたわいのない、もしくは当たり障りのないことを話すだけかもしれない。しかし、それは容易に有害な話、あるいは問題を招く話になるおそれがある。うわさ話はむだ話だからである。聖書はむだ話をしないようにと助言しており、舌を従わせるのが難しいことや、舌が『わたしたちの肢体の中で不義の世界をなしていて、全身に汚点をつけ、生まれついた人生の車輪を燃やす』ことを指摘している。舌の破壊的な力をさらに強調するものとして、この聖書筆者は、舌は「自らもゲヘナによって燃やされる」と続けている。(James 3:6)取り留めのないむだ話の危険性は、何度も強調されている。そのような話は愚鈍や愚かさと結び付けられており(Proverbs 15:2)、それはわなとなって、話し手を滅びに陥れかねない。(Proverbs 13:3; 18:7)「言葉が多ければ違犯を避けられない」とProverbsは述べ、唇を制することこそ思慮深い行動であると諭している。(Proverbs 10:19)「口と舌を守っている者は、その魂を苦難から守っている」という句は、無思慮で取り留めのないむだ話を戒める警告である。―Proverbs 21:23. イエス・キリストは、「心に満ちあふれているものの中から口は語る」と言われた。(Matthew 12:34)したがって、人がいつも話題にする事柄は、その人が何に関心を抱いているかを指し示すものとなる。聖書はわたしたちに、心を守るよう勧めており、真実なこと、まじめなこと、義にかなっていること、貞潔なこと、愛すべきこと、よく言われること、徳とされること、また称賛すべきことを考え、また語るようにと勧めている。(Proverbs 4:23; フィリ 4:8)イエス・キリストは「口から出るものが人を汚す」と述べたあと、口から出ても実際には心から出て来るものの中に「邪悪な推論」や「偽証」があることを指摘された。―Matthew 15:11、19. うわさ話は中傷へと発展して、中傷するその人に災難をもたらすものとなる場合がある。「愚鈍な者の唇はその者を呑み込む。彼の口の言葉の始まりは愚かさであり、その口の後の終わりは災いの狂気である。そして、愚かな者は多くの言葉を話す」という、Ecclesiastes 10:12‐14.の言葉の知恵は非常に明白である。 うわさ話は、他の人の行ないや個人的問題について何かを明らかにする話である。それは事実無根のうわさであることもあり、うそであることさえある。うわさ話をする人はそのうわさが真実でないことを知らないかもしれないが、そのうわさを言い広めることにより、うそを広めた責任を自ら負うことになる。うわさ話をする人は、だれかの欠点や失敗について話していることもある。しかし、たとえ内容が真実であっても、うわさ話をする人は間違っており、愛のなさを露呈している。Proverbsはこう述べている。「違犯を覆い隠す者は愛を求めており、事を言い立てる者は親密な者たちを引き離してゆく」―Proverbs 17:9. 使徒パウロは監督のテモテに、世話すべき家族を持っておらず、他の人に仕えることに忙しく携わっていない若いやもめの行状について強い忠告を与えた。彼はこう述べている。「彼女たちは何もしないでいることも覚え、家々をぶらつき回ります。そう、何もしないでいるだけでなく、うわさ話をしたり、人の事に手出ししたりする者となって、話すべきでないことを話します」。(1 Timothy 5:13)そのような振る舞いは無秩序な行ないである。同使徒はテサロニケ会衆のある者たちについて、『あなた方の間で、無秩序な歩み方をし、少しも働かないで、自分に関係のないことに手出ししている』と述べている。(2 Thessalonians 3:11)使徒ペテロは、「他人の事に干渉する者」を殺人者、盗人、悪行者と同列に置き、非常に悪い仲間であるとした。―1 Peter 4:15.
2003年07月25日
コメント(0)
エルサレムのバス、オクラホマシティーの連邦政府ビル、モスクワのアパートなど、どんなものでもテロの標的となり得る。テロリストたちは政治家、軍部指導者、財界の有力者に何かを強く訴えることを望んでいるようだが、その主張と標的との間には何の関係もないように見えることが少なくない。多くの場合、実際の標的になるのは一般人であり、テロリストの主張とは無関係の人々である。では、過激派はなぜテロ行為に訴えるのだろうか。 テロリズムは組織的かつ計画的なもので、よく計算されている。死傷者を出すことはおもな狙いではない。そうした殺りくは目的達成の一手段なのである。テロリストは、権威の弱体化を図ったり、具体的な主張を聞いてもらったりするために、衝撃や恐怖といった気分を作り出したいと思っており、殺りくはその気分を盛り上げるのである。では、テロリストによる過激な行動の背後にある要因を幾つか考えてみる。憎しみ。「テロリズム……に拍車をかけるのは憎しみだ」と、米国連邦捜査局長官ルイス・J・フリーは述べている。「そのような憎しみを抱いているのは、偏見の影響が強く、陰謀の影がさし、無知から成る社会で暮らしている者たちである」。圧制。ステファン・ボーマンは、自著「鷲が悲鳴を上げるとき」(英語)の中でこう述べている。「なるほど、集団や国家の指導者たちの中には、他の文化の根絶という分別のない目標を掲げる者もいるが、テロリズムの多くが絶望感から生まれることもはっきりしている」。挫折感。「多くの場合、……テロリストの主要な動機となっているのは、抗しがたく思える政治的、社会的、経済的な力に対する純然たる挫折感である」と、「都市でのテロリズム」(英語)という本の編者は述べている。不公正。マイケル・シモフは「テロリズムのポリシー」という論文の中で、「テロリズムは問題の兆候であって、実際の原因ではない」と述べ、こう続けている。「我々は、テロリズムの裏に潜む社会的・政治的原因の除去を長期的な目標とすべきである。……テロリズムと闘うと同時に、それと同じくらい精力的な努力を傾けて、自由や尊厳、公正、人道的価値観などを強化しなければならない。そうした精力的な努力が功を奏して初めて、テロ対策や反テロ作戦を廃することができる」。 テロリズムの原因と歴史は、「人が人を支配してこれに害を及ぼした」という聖書の言葉が真実であることを証明している。(Ecclesiastes 8:9)聖書は、テロリズムを助長してきた数々の特質まで予告していた。こう述べられている。「終わりの日には、対処しにくい危機の時代が来ます。というのは、人々は自分を愛する者、……自然の情愛を持たない者、容易に合意しない者、中傷する者、自制心のない者、粗暴な者、善良さを愛さない者、裏切る者、片意地な者、誇りのために思い上がる者……となるからです」。―2 Timothy 3:1‐5. 実際、テロリズムと闘う人間の努力は、いかに誠実な動機から出たものであろうと、テロリズムの原因を除き去ることはできない。聖書は現実的な見方をして、こう述べている。「地の人の道はその人に属していません。自分の歩みを導くことさえ、歩んでいるその人に属しているのではありません」。(Jeremiah 10:23)テロリズムの問題を解決することは、人間の力の及ばないものである。
2003年07月23日
コメント(0)
「お金のある人たちだけが尊敬されて、僕たちのように食べる物や寝る場所さえない者は動物のように扱われるんだ。将来に何かを期待するとしたら、それはだれにも気づかれずに死ぬことさ」。―アル、15歳のホームレスの少年。 世界には不公正な事柄がたくさんある。国連児童基金(ユニセフ)は次のように報告している。「過去10年間に、戦争で殺された子どもは200万人以上、生き残ったものの手足を失った子どもは400万人以上、孤児になるか家族と離れ離れになった子どもは100万人以上に達した」(’98)。世界人口の大多数を苦しめている飢えや貧困は、しばしば富や豊かさと隣り合わせである。発展途上国では、アルのような若者が大勢、教育を受ける機会を奪われている。 あなたを愛し保護すべき立場にある人から不公正な扱いを受ける場合、それは特につらいもの。ある17歳の少女と2人の弟は母親から捨てられた。「あれから何年もたちますが、母は同じ町に住んでいるのに一度も、一緒に住まないかと尋ねてくれたことはありません。『愛している』という言葉さえかけてくれたことがないんです。これにはいつも腹を立ててきましたし、今でもそうです」と、少女はつらそうに語る。このようなむごい仕打ちを受けているなら、怒りをこらえるのが難しい。子ども時代に性的ないたずらを受けたある被害者は、「神に対して悪感情を抱くことさえありました」と語っている。 むごい仕打ちを受けて、傷ついたり、怒ったりするのはごく自然なことである。聖書は、「単なる虐げが賢い者に気違いじみた行動を取らせることがある」と述べている。(Ecclesiastes 7:7)毎日の生活の中で不公正を耐え忍ばなければならないとしたら、気がふさぐこともあるだろう。そのために、不公正がなくなることを強く望むかもしれない。中央アメリカのある少女はこう述懐している。「13歳のとき、わたしは学生運動に加わりました。私の夢は今の状況を変化させるために何かをして、子どもたちが飢えなくなるようにすることでした。……のちにわたしは武力闘争に加わりました。」この少女は公正を見いだすどころか、仲間の兵士たちから言葉で言い表わせないほどのひどい虐待を受けた。 こうした状況は、大半の人々が自分の境遇を改善する点で無力であることをわたしたちに再認識させる。では、不公正による被害を受けている人々は問題にどう対処したらよいのだろうか。 胸に込み上げてくるかもしれない苦々しさや怒りをどのように克服できるのか。
2003年07月18日
コメント(0)
詩編作者は、話し方を制御するのに役立つさらに別の原則を引き合いに出して、「どのようにして若い人はその道筋を清めるのでしょうか」と問いかけている。その答え、それは、「み言葉にしたがって注意深くあること」。(Psalms 119:9)そのことを行なう一つの方法は、普段から、正しい健全な話し方をする習慣を身につけること。周りに人がいない場合でも、不敬な言葉を用いないようにする(これはなかなか難しい)。そうすれば、圧力を感じるときに不敬な言葉遣いになる傾向はずっと少なくなるだろう。 警戒を怠らないとは、「語ることに遅く、憤ることに遅くある」ということでもある。(James 1:19)感情的に反応し、あとで後悔するようなことを言う前に、自分の感情を制するようにする。自分が言いたいと思っていることを考えてみる。その言葉は、相手に傷や痛みを一層多く与えるだろうか。また、自分について間違った印象を相手に与えるか。それは、神への愛と他の人々に対する気遣いを示す言葉だろうか。(Matthew 22:37‐39) 時には、口をすべらせて、間違った事柄を言うことがあるかもしれない。(James 3:2)そうではあっても、下品な言葉を口にしないよう引き続き努力を払う。そのような努力を払えば、学校や今の世間では排他的な態度を取られるかもしれない。Kという若者は、「学校では、文字通り独りぼっちで歩くことも珍しくありません」と言っている。しかし、自分の交わりに気をつけるというKの決意は保護となった。さらに、「人々は敬意を示してくれます。そのような決意を勇気のあることと考えるのです」と、Kは言っている。 見る人はしっかりと見ている。この世の腐敗した精神態度やそれが根底にある今日の様々な事件、これらを心地よいものとする人がどれほどいるだろうか。そういう意味でも上記のKという若者は身に降注ぐ害から保護されているのかもしれない。
2003年07月17日
コメント(0)
著述家のバージズ・ジョンソンは、不敬な言葉に関する著作の中で、不敬な言葉を“伝染性のあるもの”と呼んでいる。あなたは、危険で伝染性の高い病気にかかっている人にどの程度近づくことを望むだろうか。では、平気で卑わいな話をする同僚や学友とあなたはどれほど親しくなっているだろうか。 不敬な言葉は若者(や大人)たちの間で驚くほど一般化している。中には、そのような言葉を使えばもっと大人らしく見えると感じている若者もいるようだ。またある地域では、十代の若者たちが卑わいな言葉によるコンテストさえ催している。聴衆である仲間の声援を受けて、罵詈雑言を浴びせ合う悪質なゲームでお互いに相手を負かそうとする。この悪口くらべでは、親や家族、さらには神ご自身まで引き合いに出すことが許されるのである。Proverbs 13:20.には、「愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う」とある。つまり、口汚い話し方をする人々と付き合えば、当然のことながら、自分も汚い言葉を口走るようになるということである。
2003年07月16日
コメント(0)
あなたはどんな音楽を聴いているだろうか。Jという若者は率直に、「音楽を聴けば何でも分かるようになる」と言った。それは歌詞の内容がひどく不道徳で卑わいな多くのポピュラー・ソングを指して言ったのである。『若者のアイドルで、強姦・マスターベーション・近親相姦・暴力・性交について歌うポピュラー歌手は昨今少なくない』と、著述家のティッパー・ゴアは伝えている。 メロディーやビートに夢中になり、歌詞を気に留めない若者は多いようだ。しかし、全く偶然に耳にした歌詞を思いから取り除くのに苦労した経験はないだろうか。もしその種の歌詞を繰り返し聞くとすれば、それがどれほど深く脳裏に刻み込まれるかを想像してほしい。卑わいで不敬な歌詞の音楽をいつも聞いていると、思いは汚れた考えで満たされるばかり。そしてその汚れた考えは、容易に口から漏れるものである。 どんな教訓を学ぶべきでか。聴くものをよく選ぶこと。聖書の中でヨブは、「耳は、言葉を試さないだろうか」と尋ねている。(Job 12:11)舌が特定の食べ物に対する嗜好を発達させるように、何を聴くかに関しても同じように耳の判断力を訓練することができる。 考慮すべき別の要素は、あなたが見る映画やテレビ番組である。映画やテレビ番組は、卑わいな話や不道徳な行為を露骨に描写する場面をますます大胆に取り入れている。若者はビデオカセットを用いて汚れた映画を見ることが容易になった。タイム誌によれば、「毎日、国内[米国]の至る所で、17歳以下の子供たちが近所のビデオ店に入って行き、映画館では普通見ることができない映画を借りている」ようである。 大切な点は、よく選ぶこと。それは、同年代の仲間の間で非常に人気のある映画や番組から遠ざかることを意味するかもしれない。イエスは、「そこで、もしあなたの右の目があなたをつまずかせているなら、それをえぐり出して捨て去りなさい。全身を[滅び]に投げ込まれるよりは、肢体の一つを失うほうがあなたにとって益になるのです」と言われた。―Matthew 5:29. この印象的な言葉にはどんな意味があるか。それは、自分にとって霊的なつまずきのもとになるものは何であれ―たとえ「右の目」のように貴重なものであっても―クリスチャンは自分の身から取り除く気持ちがなければならないという意味。いつもきれいな言葉を使うために多少の娯楽を『えぐり出す』としても、確かにそれはわずかな犠牲ではないだろうか。
2003年07月15日
コメント(0)
まず、下品な言葉の根源を断ち切る努力が必要。イエス・キリストは、「心に満ちあふれているものの中から口は語る」と言われた。(Matthew 12:34)であるから、あなたの口から出る言葉は、あなたが自分の思いと心に取り入れてきたものを反映している。 例えば、あなたが読んでいる本や雑誌には、下品な言葉がたくさん出てくるだろうか。もしそうであれば、読書の習慣を改善する必要がある。(Philippians 4:8)あなたが持っているポスターやボタン、またTシャツには、いかがわしい標語や卑わいな文句が記されているだろうか。そのような標語の類は面白いものに思えるかもしれないが、神が非としておられるものを見て笑う―ましてこれ見よがしに着て歩く―なら、神の目に清い状態を保とうとするあなたの努力は台なしになるのではないだろうか。聖書は、いかなる種類の「卑わいな冗談」もクリスチャンに「ふさわしくない」として、非としている。―Ephesians 5:4. クリスチャンでなくても、「卑わいな冗談」や個人を笑い者にするような言葉や誹謗中傷などは聞いたり見たりすると嫌になる人はいるだろう。時には吐き気さえ覚える。もしあなたもそのように感じるのならば、直ぐにでもその場を離れることをお勧めしたい。あるいは、話題を変える努力をすることもできるかもしれない。大抵、そのような人を築き上げる会話のないところには爽やかな霊は働いていないので去ることが一番だろう。 因みに、今日わたしは仕事中に苛立ちを感じ、口汚くたんかを切るという衝動に襲われた…さすがに口にすることはしなかったが。しかし自分の弱さを再認識した。「怒ることに遅い者は識別力に富み、短気な者は愚かさを高めている」。「賢い者たちの舌は知識をもって善を行ない、愚鈍な者たちの口は愚かさをもってほとばしる」。「理解ある心は知識を尋ね求め、愚鈍な人々の口は愚かさを熱望する」。これらの言葉を常に心に留め置きたいと思った。健康にも悪いからね。思いを別に向けることが大切かな?
2003年07月14日
コメント(0)
「ひどく欲求不満を感じるときに、口汚くたんかを切ることは健康面でプラスになる」と、人気のある心理学者ジョイス・ブラザースは述べている。 今日、不敬な言葉が広く使われているところをみると、そのような考えに共鳴する人が少なくないようである。しかし、不敬な言葉は、健康的であるどころか、攻撃的で破壊性があり、品位を下げるもの。 聖書筆者ヤコブは、「泉が同じすき間から甘いものと苦いものをわき出させることはないではありませんか」と述べている。では、『Jehovahを、すなわち父をほめたたえ、しかもその同じ舌で、「神に似た様で」存在している人間をのろう[またはその上に悪を呼び求める]』のは、実に矛盾した行為である。ヤコブは結論として、「わたしの兄弟たち、こうした事がこのようにして続いてゆくのは正しくありません」と述べている。―James 3:9‐11. 問題なのは、下品な言葉遣いは根深い習慣になる場合が多いということである。Rという若者が言うとおり、「こういう汚い言葉は思いにしっかりと刻み込まれるので、[挑発されると]その言葉を使いたくなる」のである。では、特に圧迫を感じる時、どうすれば話し方を制御できるだろうか。
2003年07月13日
コメント(0)
もちろん、法律を作っても、処罰を重くしても、それだけで子どもを保護できるわけではない。創造者ご自身は、どんな社会にも貞潔な行ないをしっかり実現させることができる。その霊感によるみ言葉 聖書を通して、獣のような人々の考えを、愛に満ちた道徳的な人の抱く考えへと変化させるのである。 これが可能であることはすでに実証されている。以前のみだらな生活を捨てた人は少なくない。そうした人々は、今では神の言葉が及ぼす力の生きた証拠となっている。これは正しい方向に進むための一つのステップだが、腐敗しきった悪行者の多くは結局のところ歩みを変えないことだろう。ゆえにJehovah Godは、子どもたちを利用したり搾取したりする人たちすべてを―その考え方や肉欲や貪欲もろとも―まもなくこの地球から除き去ることを約束しておられる。―1John 2:15‐17. その後に到来する、神の新しい世界には、もはや貧困はない。すべての子どもはゆったりとした、だれにも悩まされることのない子ども時代を楽しむだろう。それは神から子どもたちに与えられた権利なのである。これは、児童虐待が終わるだけでなく、今日の人々の生活を損なう痛ましい記憶がすべて終わることをも意味している。「以前のことは思い出されることも、心の中に上ることもない」のである。―Isaiah 65:17. であるから、神の新しい世界においては、イエス・キリストの次の言葉がすばらしいかたちで現実の意味を持つことになる。「幼子たちを構わずにおき、わたしのところに来ることを妨げるのをやめなさい。天の王国はこのような者たちのものだからです」―Matthew 19:14.
2003年07月12日
コメント(0)
子どもを安全に育ててゆくのは易しい仕事ではない。犠牲が求められる。子どもを顧みる親は、犠牲を払うのが決して子どものほうではないようにしなければならない。マクレアンズ誌(英語)が述べているように、「子育てが一つの趣味であるかのようにみなされている」場合が少なくない。おもちゃを捨てたり、趣味をやめたりすることはできるが、子育ては神からゆだねられた責任。 良い親であることは、子どもに与えることのできる最も価値ある贈り物の一つであり、子どもが幸福で安全な子ども時代を送るための助けになる。その種の安全は、生活における社会的また経済的立場には左右されない。お子さんは親であるあなたを、あなたの愛と優しさを、不安なときにはあなたからの力づけを、そしてあなたと共に過ごす時間を必要としている。あなたがお話をしてくれる声を聞き、あなたを自分の手本にし、あなたから愛あるしつけや懲らしめを受けることを望んでいる。 親の皆さん、性道徳については、節度を保ちながら子どもたちの心身に対する配慮を込めて、自分の家族の関係を導くようにしてもらいたい。子どもたちは、どんな行ないが親の定めた道徳の境界を越えることになるかをすぐに学ぶ。家の中で、また外でどのように行動すべきかを教えられる必要がある。親であるあなたがそうすることを怠るなら、だれかほかの人が代わってそれを行ない、あなたの望まない結果になるかもしれない。道徳的に危険な状況に置かれたら、どう対応すればよいかを子どもたちに教える。生殖器がどういう目的のためにあるのかを知らせ、それをみだりに扱うべきではないということを教える。弱さに付け込もうとする人が近づいてきた場合、どのように対応したらよいかを教えていただきたい。 子どもがどこでだれと一緒にいるかをいつでも知っているようにする。子どもはだれと親しくしているか。留守にするときは、だれが子どもの面倒を見ているか。その人は信頼の置ける人か。もちろんこれは、親がどんな人も疑いの目で見るべきだという意味ではない。子どもの生活に関係する大人を正しく見定め、外に表われていないものを見るようにする。 信頼していた僧職者、教師、あるいはごく身近な人たちから自分の子が性的虐待を受けていたことを、後から知った親の悲痛な思いを考えてほしい。そうなってからでは遅い。親である人はこう自問するとよいだろう。『自分の属している教会は児童虐待を大目に見たり、隠したりしているだろうか。自分の宗教は道徳上の高い原則を確固として守っているだろうか』。こうした問いに対する答えは、子どもを守る上で賢明な選択をする助けとなるでしだろう。(日本では状況が異なるかもしれないが) しかし何よりもまず、子どもたちが創造者の示しておられる原則を知って、それを愛するように助ける。それは、子どもたちを害から守るものとなる。親が道徳上の高い原則に敬意を払っているのを見るなら、子どもたちはその模範にいっそう従いやすくなるだろう。
2003年07月11日
コメント(0)
「子どもたちに投資しない限り、人類の抱える極めて根本的かつ長期的な諸問題はどれも根本的かつ長期的な問題のまま残るであろう」―国連児童基金。 世界のいたるところで子どもたちが危険にさらされている。この悲劇の程度を示す強力な証拠が、1996年,スウェーデンのストックホルムで130か国の代表を集めて開催された、「子どもの性の商業的搾取に関する世界会議」で提示された。例えば、世界のさまざまな地域で数知れないほど多くの少女たちが売春婦として働かされており、中にはわずか10歳の少女もいる、というデータが提出された。 オーストラリアの「メルボルン大学法律レビュー」誌(英語)も述べるように、そのような強制売春は、「現代における奴隷制の中でも極めて悪質なものの一つ」とみなされている。そうした少女たちは、幾年にもわたって身体的、精神的、感情的に打ちのめされて、生涯癒えることのない傷を負うことになる。少女たちがこうした非人間的な仕打ちに服するのは、ほとんどの場合、ただ食物を得て生き続けたいためなのである。そうしなければ、飢えて死ぬしか道がない。悲しいことに、こうした寄る辺のない子どもたちの中には、貧困にあえぐ自分の親によってお金のために売られ、売春を強いられるようになった少女たちも少なくない。 子どもに対するこうした歴然たる悲劇に加えて、しばしば論議される児童労働の問題がある。アジア、南アメリカなどの地域や、米国の移民社会の一部では、わずか5歳の子どもまでが“奴隷労働”とも言うべき作業を強いられている。それらの子どもたちは、幼い体と精神をむしばむぞっとするような条件下で、小さなロボットのようにして働いている。そのほとんどは教育を受けられず、親の愛を得られず、安心できる家庭もなく、おもちゃも遊べるような公園もない。無情にも親によって搾取されている子どもたちが少なくない。
2003年07月10日
コメント(0)
最初夫婦を結び合わせた積極的な特質や経験も、絶えず不満を述べていると色あせてくることがある。かつてのありさまを巧みに思い起こさせるだけで、なれ初めのころ互いに抱いていた強い感情を再び燃え上がらせることができるかもしれない。身分の低い羊飼いの若者に対するシュラムの乙女の揺るぎない愛の物語である、聖書の中の「ソロモンの歌」という書に基づいてこのことを思い起こさせることができるかもしれない。 しかし、助言を与える人は助言を受ける人の必要に基づいてペースを決めなければならない。ある専業のカウンセラーによると、あたかも完全さを求めるかのように、目に付く欠点すべてを直そうとするのは必ずしも賢明なことではない。むしろ、このカウンセラーは夫婦に自分たちの抱える主な問題が何であるかをよく考えさせ、さらにほとんどの場合にそれらの問題を重要な順に、一番難しいものが最初に来るようにして列挙してもらう。それから、そのリストをひっくり返して、その夫婦に一番やさしいものから手掛けるようにさせる。このようにすると、のちにより難しい問題を二人が解決するのが容易になる。 カウンセリングの技術が知恵の代わりになることは決してない。最も有能な専業のカウンセラーも、聖書の原則に反する人間の理論に従うことを奨励するために自分の技術を用いるのであれば、それはほとんど役に立たない。一方、聖書に記されている神のお考えに精通した結婚問題の助言者は、わたしたちが住むこの難しい時代に神が与えてくださった助けである。―Isaiah 32:1、2.追記:錠剤を渡すように与え得るあつらえ向きの解決策などない。成功を収めている助言者は、自ら謙遜である必要を認めている。
2003年07月09日
コメント(0)
米国のある有能な結婚問題カウンセラーは、模範によって教える次のような例を挙げている。「自分の妻に愛情を示す点で問題を持つ夫のために、一人の長老はこの夫のいる所で自分の妻に愛情を示すことにしました。この夫はどうすることがふさわしいのかを程なくして学びました」。 ある国々では、男性の一般的な“理想”像は日焼けしたスポーツマンタイプの人で、体の接触のあるスポーツにたけており、酒その他の“男らしい”楽しみの好きな人間であると言われている。そのような人は男性と付き合う傾向があり、衆人の前で妻に愛情を示すのは女々しいことと考え、そうしたことをするのをきまり悪く思う。そのような場合には模範による助言が良い結果をもたらすだろう。 いずれにせよ自分の愛する妻に対して愛情を示すことは夫婦の間をさわやかなものにし、妻は自分は愛されているんだという安心感を得ることができるといえるだろう。
2003年07月08日
コメント(0)
人が与える助言は常に聖書に基づいていなければならない。(日本の風土ではなかなか難しいかもしれないが)しかし、単に聖句を引用するだけでは、助言を受けている人がその問題について本当の理解を得るとは限らない。ここでも、助言を与えることに成功している人はイエスの模範に従い、その聖句について筋道を立てて考えさせる用意がある。どのようにか。―Matthew 17:24‐27. 例えば、頭の権の問題に関して意見の違う夫婦について考えてみる。夫は、自分は無理がないようにクリスチャンの頭の権を行使していると考えている。妻のほうは、自分は不当に威圧され、威張り散らされていると思っている。Ephesians 5:21-27.にある頭の権に関する使徒パウロの論議を読めば、問題となっている諸原則を十分に確立できるはず。しかし、その夫婦は聖句を読んでそうした諸原則を十分理解し受け入れるだろうか。助言を受けている人がパウロの言葉を自分たちと関連づけ、自分たちにどのように当てはまるかを悟らない限り、そうした原則を十分理解して受け入れることはない。 そうなると、心を探るような質問を次から次へと尋ねてみなければならないかもしれない。「イエスは会衆に対してどのように頭の権を行使したでしょうか」、「どうしてここで、『互いに服し合いなさい』と言われているのでしょうか」、「夫はどのように妻に対して服しているでしょうか」、「会衆はどのようにイエスに服しているでしょうか」、「このことから夫と妻の関係についてどんなことが分かりますか」、などの質問ができる。 こうした形で助言する際には、イエスはご自分で答えを与えることはされなかった。今日の賢明な助言者もそのようなことはしないだろう。むしろ、相手に順序よく話させる。それも、無理強いをするのではなく、忍耐強く、親切な態度で行なう。「人間の心の中の意向は水面よりはるか下方にある水のようである。しかし、知性のある人はそれをくみ出す」。(Proverbs 20:5、新アメリカ聖書)そうするには時間が何分かかかるかもしれない。何時間もかかることもあるだろう。しかし、これを行なうと、人の思考を正しい方向に向けることができる。そして、消極的な態度と闘う上で大いに励みになるだろう。
2003年07月07日
コメント(0)
助言や指示を与える際に、イエスは問題となっている点にはっきりとねらいを着けて答えをお与えになった。(Matthew 22:15‐46)同様に、結婚問題に対する助言も問題となっている点を扱わなければならない。愛や親切や寛大さについてばく然と論じることは助けにならないのが普通である。肩をたたいて、よく言われる『ただJehovahを信頼しなさい。そうすればすべてうまくいく』ということが必要とされるだけの状況もあるだろう。しかし、別の場合に、そのような一般論は実際に役立つ真の助言を与えることのできない人の口にする言葉かもしれない。 経験のない助言者や未熟な助言者は、当惑させられるような問題や“扱いにくい”問題を避けたがるかもしれない。しかし、くすしい助言者であられるイエスは、性や経済状態や個人の習慣などの問題を上品な仕方で論じることにやぶさかではなかった。―Matthew 5:23、24、27、28; 6:25‐34.
2003年07月06日
コメント(0)
夫と妻が言い争っていると、道理を見失って、自分の意見が正しいということを互いに相手に納得させようとする傾向が一般に見られる。 例えば、上着が出しっ放しになっていると、妻は部屋がきちんとしていないと感じる。夫のほうは、上着が出しっ放しになっていて、テーブルに数枚の紙が出ていても、部屋はまだきれいで、きちんとしていると感じる(個人差はあるが)。クリスチャンの助言者はどのようにしてそうした動かし難い個人的な見解を解決しようと努めるだろうか。クリスチャンの助言者には優れた聖書の諭しがあるのでそれを用いることができる。例えば、「あなた方が道理をわきまえていることがすべての人に知られるようにしなさい」とか、『愛は辛抱強くまた親切で、自分の利を求めません』というような聖句がある。―Philippians 4:5. 1Corinthians 13:4、5. 片意地な見方や動機は難しい状況をかもし出すことがある。例えば、ある夫婦の場合に、妻は自分がないがしろにされ、必要とされていないように思っているかもしれない。一方、夫は妻が夫の注意を求め過ぎ、自由に行動することが十分にできないと感じているかもしれない。二人は、愛とは実際にどういうものか、愛をどのように表現し、また受け入れるべきかについて共通の理解に達したことが一度もないかもしれない。 そのような場合には、助言を受けている両者に平衡の取れた見方を納得させるために、きわめて繊細で巧みな形の助言が求められるかもしれない。二人を説き勧めて愛に関する聖書の描写を自分たちの言葉で説明してもらうと助けになるだろう。(1Corinthians 13:4‐8)助言を受けている人に、その人の弱さはわたしたちすべてに共通のものであるということを確信させると、調整が容易になることもある。「間違い―だれがそれを見分けることができるでしょうか」。「すべての人が道からそれた」。―Psalms 19:12. Romans 3:12. Psalms 130:3.
2003年07月05日
コメント(0)
意思を通わせる方法 既に述べた通り、助言を与えることに成功している人は意思を通わせることに力を入れる。本当に意思を通わせることには、情報のやり取り以上の事柄が関係している。まず、自分の言わんとする事柄をはっきり述べる。次いで、それを聞く人は言われた事柄をしっかり聞く。 次に、一足飛びに結論を出したり、聞いた事柄を早まって解釈したりしてはならない。確かめるために、一つの質問をしてみる。あるいは幾つかの質問をしてもよいだろう。言い直しをしてもらう。言われた事柄は本当に言おうとしていた事か、言おうとした事がその通り言えたかどうかを確かめる。「今言われた事柄はこういう意味ですか」とか「今言われた事柄をわたしがきちんと理解しているかどうか確かめさせてください」などと言える。 ある人の口にする言葉は、表面に出ていない事柄、非常に深いところにある事柄や遠い昔にまでさかのぼる事柄を明らかにするヒントとなることがあるかもしれない。有能な助言者は質問を用いてそうした真意をつかむことに長じている。 情報を集めるための質問:「結婚生活で問題を持つようになってどれほどになりますか」。「どんな点で意見が一致しないように思えますか」。「結婚して何年になりますか」。「ご主人(あるいは奥さん)は、家の周りではどんな責任を果たしておられますか」。これらはわずかな例にすぎない。 感情や見解や態度を探り出す質問:「ご自分の結婚生活についてどんなふうに感じていますか」。「お互いに愛し合っていますか」。「夫(あるいは妻)としてのご自分の役割をどのように見ていますか」。 助言を受ける側の人が推論したり結論を出したりするのを助ける質問:「結婚生活に関して神の原則に従うのはどうして大切だと思いますか」。「利他的な愛を示すのは結婚生活にとってどうして有益なのでしょうか」。「あなたのご主人(あるいは奥さん)が愛されていないと感じているのはなぜだと思いますか」。「神があなたを許してくださるのであれば,ご主人(あるいは奥さん)の不完全さをどう考えるべきでしょうか」。 助言を与える人は、公平であるのは肝要なこと。(1Peter 1:17)早まった結論を出したり、自分の先入観に影響されて判断をゆがめたりすべきではない。妻のほうが幾らか感情的であると、助言者は妻のほうが反抗的であると早急に結論して、初めから夫の側に立ってしまうかもしれない。あるいは、夫のほうの人格のある点を見て、助言者は最初から妻のほうにより同情的になるかもしれない。いずれも避けなければならないわなである。 どちらかの側に立つと、「必ず失敗すると言ってもよい。……そうなると、助言者は助けを与えているのではなく……実際には裁いていることになる。……[一方の側から]既に伝えられている話は必ずしも正確なものではない」と、一心理学者は注意を促している。これは次の聖書の警告と調和する。『訴訟において最初の者は義にかなっているように見えるかもしれない。だが、その敵対者が入って来て、必ず彼を徹底的に調べる』―Proverbs 18:17; 25:8‐10.2003/07/04 20:53:40誠実な気遣い イエスは人々と接する際に常に謙遜で、決してごう慢だったり、身勝手だったり、自己本位だったりすることはなかった。(Matthew 11:28、29. Philippians 2:5‐8)使徒パウロは、そのような態度を見倣い、優しい愛情と同情心を培い、『何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく、むしろ、へりくだった思いを持つ』ようクリスチャンたちを励ました。(Philippians 2:1‐3)助言を与えて成功している人々は、自ら謙遜さと真の気遣いとを示す必要を認めている。 同様に、著名な心理学者のカール・ロジャーズは、カウンセラーというものを「見せかけではなく誠実で、感情移入を行なう人」としている。別の心理学者は、そうした態度のことを「積極的な心遣い」と呼んでいる。「これはカウンセラーが相談に来る人を一個人として尊重することを意味している。親が自分の子供に対して抱く感情、一個の人間として子供を尊重するという感情と幾分通じるところがある」と、その心理学者は述べている。とはいえ、ここで注意しなければならない一つの危険がある。助言者が一組の夫婦に助言を与えているのであれば、問題にはならないが、助言者が夫婦のうちの妻のほうだけに助言を与えている場合、その女性が同情と気遣いを求めて助言者に頼り過ぎ、夫をないがしろにすることにならないよう助言者は注意を払わなければならない。2003/07/04 2:02:51
2003年07月04日
コメント(0)
人を教えることと同様、助言を与えることもやはり技術で、それについて学び、それを培わなければならない。聖書は何を言うかだけではなく、どのように言うかについても述べている。興味深いことに、聖書がわたしたちに与えている提案の中には普通以上に効果を上げている専業のカウンセラーたちが用いる方法に似ているものが少なくない。そのうちの幾つかを以下に挙げてみる。 助言を受ける人に対する態度。1世紀のクリスチャンの助言者パウロは一つの会衆に対して次のように書いた。「乳をふくませる母親が自分の子供を慈しむときのように、あなた方の中にあって物柔らかな者となりました。こうして、[わたしたちは]あなた方に優しい愛情を抱いた[のです]」。(1Thessalonians 2:7、8)実に立派な精神ではないだろうか。助言を与える人は、その対象となる人々を、裁かれなければならない悪行者としてではなく、助けを必要とする人として扱う必要がある。それは批判したり、とがめたり、けん責したりする機会というよりは、理解を示し、問題は解決可能で、人生は生きてゆくだけの価値のあるものだという自信を取り戻させる時なのである。 一心理学者は、「彼らは我々からの刑罰や懲罰を必要としているのではなく、助けを求めているにすぎない」と述べて、同様の見解を示している。 耳を傾けるべき時。「聞かないうちに返事をするなら、それはその人の愚かさであり、恥辱である」。(Proverbs 18:13)これは優れた忠告である。深刻な問題に取り組む有能な助言者は、“考えなしにその場で”処方せんのような解決策を与えて、それを助言と呼ぶようなことはしない。医師や法律家のようにその人と会うための日取りを決め、問題を十分に考慮できるようにする。 専門のカウンセラーは耳を傾けるよう訓練されている。どんなに時間がかかっても、どれほど会合を重ねなければならないとしても、耳を傾けることによって理解を得ようとする。クリスチャンの助言者はそれ以下であってよいだろうか。ヨブとその3人の「友」に優れた助言を与えた若者エリフはまず、『彼らの言葉を待ち望み』、そして『彼らの推論に耳を向け』たことを忘れてはならない。―Job 32:11.耳を傾けている間、助言者はよく培われた知覚力を働かせ、助言の対象となる人の内部の動機を引き出すために、表面に出ていない事柄を思慮深い仕方で探り出さなければならない。クリスチャンの助言者にはそうするためのすばらしい助けがある。聖書の内容は、生きていて、力を及ぼし、「心の考えと意向とを見分けることができる」と言われている。―Hebrews 4:12. 個性を認める。賢明な助言者は、全く同じ人間は二人とおらず、全く同じ状況も二つと存在せず、錠剤を渡すように与え得る、あつらえ向きの解決策などないことを認識している。であるから研究を重ねて、自分の述べる事柄が『常に慈しみのあるもの、塩で味つけされたものとなり、一人一人にどのように答えるべきかが分かるよう』にする。―Colossians 4:6. ある心理学者によると、気分が非常に沈んで、「自分は役に立たない。自分はほかの人からどんな愛ある親切も受けるに値しない」と述べるような患者もいるとのことである。クリスチャンの助言者はそのような人々をどのように助けられるだろうか。そういう人たちには、次のように言えるかもしれない。『イエスは自分を愛するように自分の隣人を愛しなさいとわたしたちに言われましたね』。それから、相手の人が次のような線に沿って推論をするよう助けることができるだろう。『自分に価値があると考えられず、自尊心が全くなかったらどうなるでしょうか。そうなれば、隣人に対して何が残っているでしょうか。キリストがわたしたちのために死んでくださったのであれば、わたしたちがどれほどそれを汚したとしても、わたしたちの命は貴重なものであるに違いありません。わたしたちは神の像に造られています。ですから、自分の人格の中に神の特質を反映する能力があるのです。そうであれば、わたしたちのすべきことは、新しい人格を着けるよう努力してゆくことです。それには、自らを価値ある者として扱ってゆくことが含まれています』。―Matthew 22:37‐39. Mark 10:45. Colossians 3:9、10. もちろん、患者の精神状態や他の様々な要素となる背景をよく洞察することが肝要である。
2003年07月03日
コメント(0)
「創造の初めから、『神はこれを男性と女性に造られた。このゆえに、男は自分の父と母を離れ、二人は一体となる』とあるのです。そのため、彼らはもはや二つではなく、一体なのです」。イエス・キリストはこのような言葉で、創造者が最初の人間夫婦間の結婚関係を取り決め、人間社会の中核を造られたことを説明された。そしてこの取り決めは、イエスがさらに、「神がくびきで結ばれたものを、人が離してはなりません」と述べられたように、永続するものとして設けられた。―Mark 10:6‐9. この点を考えると、ジョンとジェーンには別の道を取ることもできたことが分かる。なるほど、専業のカウンセラーの中には、誠実で、善意で、十分訓練を受けていて、うまくいかない結婚生活に助けを差し伸べることのできる人が少なくないかもしれない。しかし、クリスチャンであるこの二人は、結婚の創始者であられるJehovah Godがご自分のみ言葉聖書の中に備えておられる助けを考慮に入れることもできたはずである。 聖書は結婚の創始者の霊感によって書かれた。聖書の中から結婚について述べられているところをすべて抜粋するなら、完全な結婚関係を築くために神が備えてくださった一式の完全な原則とも言える手引き書を得ることになる。そのことを考えれば、クリスチャン同士の結婚関係がうまくいかなくなるようなことがどうしてあるのか、疑問に思われるかもしれない。聖書を『わたしたちの足のともしび、わたしたちの通り道の光』としているのに、ジョンとジェーンのようなクリスチャンの夫婦が、自分たちの結婚関係のことで外部からの助けをどうして必要とするのか。―Psalms 119:105. これに対する、聖書そのものの答えは現実的である。神の原則が完全であるのに対して、それを当てはめなければならないわたしたちはみな依然として不完全だからである。(Deuteronomy 32:4. Romans 5:12)わたしたちが神の完全な原則を当てはめられなければその分だけ助けが必要になるのである。 それに加えて、わたしたちの直面する問題は、この時代が「対処しにくい危機の時代」であるために一層難しいものになる。(2Timothy 3:1)「今日生じる紛争は非常に複雑なので、自分に対して客観的になろうとする本人の努力ではとても解決できない」と、心理学者のアレン・S・バーンステンは述べている。わたしたちは大抵の場合、人生の難局を乗り切るためにお互いに助けを必要とする。『互いの重荷を負い合いなさい』。「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ、弱い者を支え、すべての人に対して辛抱強くありなさい」。―Galatians 6:2. 1Thessalonians 5:14.
2003年07月02日
コメント(0)
カウンセラーは、どんなことをしてでもあなた方の結婚は救うだけの価値があると二人に話すかもしれない。それは疑いもなく二人が聞きたいと願っている言葉かもしれない。しかし一方、「きれいに別れたほうが、惨めな思いで結婚生活を続けるよりも良い」と言われるならどうだろうか。「そういうものはもはや結婚問題カウンセリングとは呼べません。そのようなものを私たちは、『人間関係カウンセリング』と呼んでいます」と語るのは、ミネアポリス市の家庭・児童局の専務理事アール・ビートである。 慎重なカウンセラーは、相談に来た人々が実際にどんな道に立っているかを示そうとする。そして、左側の道へ行けばどうなるか、右側の道へ行けばどうなるかを示すかもしれない。カウンセラーがどちらかの方向へ行くように促すようであれば、そのカウンセラーの物の見方や価値基準が善いものか悪いものかを考えてみなければならない。 例えば、聖書の原則を固く信じている人が相談に行くとする。臨床心理学者のローレンス・オノダ博士はこう語っている。 「大抵の結婚問題カウンセラーは宗教全般について概して中立の立場を取っている。宗教は支持はしないが、カウンセラーの公式の立場としては異なった見解を持つ人々を受け入れ、そうした人々に対して個人的な基準に基づいた判断を下さないようにする」。 しかし、同博士はさらにこう述べている。「結婚問題カウンセラーは概して、聖書の中に反映されているような普遍的な“真理”はないとの前提に基づいて話を進める。結婚問題カウンセラーの大半は、結婚に関する自分たちの基準を、人間が考え出した学説や自分たちの個人的な信条に基づいて定めている」。 では、相談にやって来た二人は、ある夫婦の場合のように、結婚問題カウンセラーによって助けられるかもしれない。あるいは、別の夫婦のように、結婚に関するさまざまな理論家や無神論的な専門家の作り出す迷路の中で途方に暮れてしまうかもしれない。 しかし、これをお読みになられている方が結婚問題カウンセリングを必要としているならどうか。どこに助けを求めるか。クリスチャンであれば、結婚の創始者、またそのくすしい助言者の知恵を尊重する助言者を求めるだろうか。―Genesis 2:18‐24. Isaiah 9:6. カウンセラーを選ぶ前に、次の情報を考慮してみるとよいかもしれない。どちらのカウンセラーを選びますか 結婚問題カウンセラーの中にも自ら高い道徳規準を持つ人や、相談に来る人の良心的なためらいを誠実な態度で尊重してくれる人がいる。それは、内科医や外科医にそのような人が少なくないのと全く同じである。しかし、そのほかのカウンセラーの規準はさまざまで、極端なものもある。それは次に挙げる引用文によく示されている。ここで比較されているのは事実や科学的な正確さではなく、色々な助言の源に頼る際にぶつかるかもしれない道徳的な価値基準である。聖書 「ですから、淫行、汚れ、性的欲情、有害な欲望……に関して……あなた方の肢体を死んだものとしなさい。……あなた方は、しかるべき報いである相続財産をJehovahから受けることを知っているのです。……悪を行なっている人は、自分が行なった悪の報いを必ず受けるのです。不公平はありません」―Colossians 3:5、24、25。 「『神がくびきで結ばれたものを、人が離してはなりません』。……だれでも、淫行以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すのです」―Matthew 19:6、9. 「律法は、義にかなった人のためではなく、……淫行の者、男どうしで寝る者……のために公布されているのです」―1Timothy 1:9‐11. 「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです。神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです」―Hebrews 13:4.心理学者 「普通以上に罪悪感にさいなまれる気の弱い若者の中には、妊娠や性病、また刑罰を与えるJehovahの憤りなるものを恐れて、婚前交渉をためらう者もいる。……婚前交渉に関する全く不必要な、全くばからしい道徳律について、建設的なことはおろか、それをはっきり見定めることさえできないのは、我々が自らに対して、婚前交渉のもつ破滅的な性質をうたった道徳的な詩をきまじめに暗唱しているからにほかならない」―「結婚問題カウンセリング」の332、333ページに載せられた「結婚問題カウンセリングにおける道徳の問題」の中でロバート・ハーパー博士が述べている言葉。 「性の倫理は、現に生きている人間およびこれから生まれてくる人間の福祉のためだけを図って築き上げられるべきであり、……存在するとされる超自然的な存在者を……喜ばせるために作り上げられるものであってはならない」―ハーパー博士。結婚問題カウンセラー 「性関係を持つだけのために結婚するような人々の結婚を阻止するのであれば、婚前交渉にはそれなりの価値がある。……一つの社会として我々には、結婚しない人、自らの意志でまたはやむを得ず晩婚になる人、配偶者に先立たれたり離婚したりして配偶者を失った人などから性の喜びを奪う権利はない」―「創意による牧師の世話とカウンセリングのシリーズ」、30ページに載せられた「解放のためのカウンセリング」の中のシャーロット・ホルト・クラインベルの言葉。 「人間であるとは何を意味するかについての見方が拡大されるにつれ、次第に大勢の人々の興奮をそそるようになった別の生き方は、同性愛の生き方である。……聖職者やカウンセラーは、単に大多数の人と異なった行動を取るというだけでその人に人間以下と思わせる態度を変えさせる上で力となれる」―クラインベル。僧職者 「わきへ押しやるほうが大半の人に対して一層の愛を示すことになるのであれば、いかなる律法もわきへ押しやって構わない。……厳格なことは何一つない。愛は人々のためのものであり、必ずしも原則のためのものではない」―「夫婦に対するカウンセリング」、445ページの「牧師のカウンセリングにおける道徳および倫理の諸問題」の中のエース・タブス博士の言葉。社会改革家 「開放結婚の相手が婚外交渉をしたとしても、それは自分たち自身の内的関係に基づいてのことである。すなわち、二人が円熟した愛を経験し、真の信頼感を抱き、自らを広くすることができ、ほかの者を愛し、ほかの者と共に楽しみ、その愛と喜びをねたみなしに自分たちの結婚関係に戻すからである」―ニーナ・オニールとジョージ・オニール共著、「開放結婚」、257ページ。 すべての職業的なカウンセラーがこのような反聖書的な見解を持っているわけではないが、中にはそうした人々もいるという事実は、専門家の助言を求めることを計画している人々が細心の注意を払わなければならないことを示している。そのような非クリスチャン的な考えを持つ人の助言に従うなら、事態はよくなるどころか、悪くなるだろう。
2003年07月01日
コメント(0)
米国でそれに掛かる費用は、ある種の公共の精神衛生センターでの無料のカウンセリングから、スライド制に基づいて1時間当たり45㌦(約1万800円)ほどを上限とする非営利診療所まで、さまざまである。個人的に開業している人は、社会事業家から精神科医まで色々だが、相談に来る人々の懐しだいで35㌦(約8,400円)から150㌦(約3万6,000円)までさまざまな額の料金を請求する。 結婚問題カウンセリングには効き目があるのだろうか。「消費者生活マガジン」誌によると、「多くのカウンセラーは、相談に来る人々の3分の2は助けを得ていると言う」とのことである。米国の国立精神衛生研究所の心理学者、モリス・B・パーロフはこう述べている。「どんな形の精神療法であっても、高度の動機づけを持ち、激しい不快感を味わい、高度に組織だった人格を示し、かなりの教育を受けており、ある程度の社会的成功を収めて人々から認められた経歴を持ち、内省的で、感動を覚え、表現できる患者には、かなりの程度役に立つ」。 しかし、賛否両論がかなりの程度飛び交っている。国際的に知られている結婚問題カウンセラーのジェイ・ヘイリーは結論として、臨床医は自分たちが用いる方法についても、その結果についても確信を抱いているわけではないと述べている。ヘイリーによると、臨床医が自分たちの研究成果を出版したがらない理由はそこにある。注:$レートは’83のものです。
2003年06月30日
コメント(0)
結婚問題カウンセラーに、一つの独立した職業として免許を与えている州や国もある。しかし、オーストラリアの精神科医、ウィリアム・キャリングトン博士によると、訓練を受けたカウンセラーが足りないために、英国やオーストラリアやニュージーランドではセミプロ的な人が結婚問題カウンセリングを行なっていることが少なくない。アフリカやアジアや南米のある国々では、訓練を受けていないと思われる司祭や牧師、医師、教育者、地域社会の指導者などによって結婚問題カウンセリングが行なわれている。 心理学者でカウンセラーであるウィリアム・ニコルズ博士は結論として、「結婚問題カウンセリングは新興の職業、準職業、また素人の活動であり、一方の端には高度の訓練を受け、臨床的に洗練された開業医がおり、もう一方の端には善意ではあっても能力のない素人のいる分野である」と述べている。であるから、結婚問題カウンセラーに相談する計画を進めるとすれば、先に登場したジョンとジェーンはかなり下調べをしなければならない。しかし、若い夫婦なので、二人は必ずや一つの情報に非常に深い関心を抱いているに違いない。それは次の質問に対する答えである。それは報酬という質問である。
2003年06月29日
コメント(0)
結婚問題カウンセラーを認定する米国ミシガン州の委員会によると、結婚問題カウンセリングとは、「指導・検査・討議・治療・指示を行ない、また助言を与えることで、その主要な目的は夫婦間の争いや不一致を回避させ、除き去り、軽減し、処理し、あるいは解決すること、または夫婦の調和を生み出させ、向上させ、回復させること」とされている。 それこそ正にジョンとジェーンが必要としていることのように思われる。しかし、これは結婚問題カウンセリングという語に対する幾百もある定義の一つにすぎない。行動(身体、精神、神経系の)科学は一つだが、その科学を応用しようとするさまざまな努力から無数の学説や実践の方法が生み出された。米国フロリダ州の心理学者アレン・S・バーンステンは精神療法の四つの学派について説明している。その四つの学派は、さらに130の小学派に分かれている。分析学派: 臨床医は、無意識の動機づけや患者が特定の行動を取る理由を探ろうとする。患者のごく幼いころの記憶を探るが、それには患者の現在の行動について明らかにするところがあるかもしれない。行動学派: この方法の場合、臨床医は患者の内的動機づけにはそれほど関心を示さない。むしろ、訓練と条件づけによって患者の望ましくない習慣や行動を変えようとする。正常心理学学派: この方法では、臨床医は自己認識や自己成長、自己責任などのほうを重要視し、患者と患者の行動を変化させようとする。超個人学派: 臨床医は患者がすべてを超越して、何らかの“普遍的意志”と合体するよう助けようとする。これは非常に神秘主義的なものになりかねない。 ある調査によると、結婚問題カウンセラーの64%は数ある学説や方法の中から自分独自のスタイルを作り上げている。しかし、同様の目標を持っていると思われるカウンセラーは少なくない。インドの結婚問題カウンセラーであるウーシャ・アナンド博士は、「夫婦関係カウンセリングの目的とするところは……家族という単位と家族の一致とを強化することにある」と書いている。米国コネティカット大学の児童・家族関係の教授、エレノア・ラッキー博士は、結婚問題カウンセリングを「二人の個人と一つの関係とに助言を与えること」と説明している。 そして、カウンセラーたちが共通して目標としている事柄がある。それは意思の疎通を図ること。カウンセラーたちは、夫婦の間に意思の疎通のより効果的な方法を考え出させ、それを築き上げさせるよう努める。
2003年06月28日
コメント(0)
ジョンとジェーンは今でも愛し合っている。では、二人はどのようにして自分たちの結婚の危機を切り抜けようとするだろうか。二人は見ず知らずの人、専業の結婚問題カウンセラーの所へ行くことを計画している。しかし、二人はどんな事にかかわり合おうとしているのか。 結婚問題カウンセラーを職業とする男女の登場は最近の現象で、ここ数十年の間のことだが、その数は相当の勢いで増加している。US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌によると、「児童精神科医や家族カウンセラーによるカウンセリングは主要な成長産業となっている」とのことである。精神科医・心理学者・僧職者(牧師カウンセラー)・医師・弁護士・教師・結婚および家族セラピスト・社会事業家・行動科学の学位を持つ人々など、専業のカウンセラーの数は増加の一途をたどっており、適役ではあっても専門家ではないかつてのカウンセラーや助言者たちに取って代わっている。 第二次世界大戦後、米国では結婚問題カウンセリングが盛んになりだした。今では主要な教育機関が、健康を扱う職業として独立するようになったこの分野で、修士号や博士号をたくさん出すようになっている。
2003年06月27日
コメント(0)
「父や母が問題に直面した時には、家族や友人に頼ることができました。しかし、私たちは仕事の関係で実家から1,500㌔以上も離れた所にいて孤立しています。私たちの結婚生活は崩壊しかけています。妻のジェーンと私は結婚問題カウンセラー以外に頼れる人はいません」。 ジョンとジェーンは年が若く、クリスチャンである。そして、二人は新婚の夫婦である。ジョンは、自分の曾祖父母が結婚したてだった今世紀の初めごろの、遠く過ぎ去った時のことを思い、嘆いている。その当時は今ほど離婚が一般的ではなく、離婚をすれば評判が地に落ちるほどであった。第二次世界大戦の直後も、ジョンの祖父母は依然、親族や友人、牧師、掛かり付けの医師などの織り成す伝統的なつながりのただ中の、“昔ながらの家庭”で生活していた。祖父母は、離婚率が約300%も爆発的に増加した時に、自分たちの結婚関係を首尾よく維持してきた。 ジョンの両親が結婚したころには、離婚率はさらに20%上昇していた。今日、ジョンとジェーンは、スウェーデンにおける離婚率が60%、米国44%、ドミニカ共和国43%、ドイツと英国30%、ソ連28%という世界で結婚生活を始めたのである。 流動的な社会、工業界の混乱、クーデター、現代的な教育法、宗教上の大変動などのために、幾つもの家族が混乱の渦中にほうり込まれている。夫や妻や子供の伝統的な役割というものはもはや自分に当てはまらないと考える家族の成員が少なくない。アメリカ、スウェーデン、イギリス、南アメリカなどでは結婚の価値基準が変化しつつある。もはや結婚を一生の誓いとはみなさず、使い捨てのつながりと見る人が少なくない。 道徳面のだらしのない態度、アルコール中毒、麻薬、女性の経済的な自立、出世欲、互いを気遣う心をしのぐ利己心、抑うつ感、核に対する恐れ、恋愛の要素を強調する愛の概念などはすべて現代の結婚が不安定である原因とされている。しかし、責任を転嫁できるものがどれほどたくさんあるとしても、ペンシルバニア大学の家族学の教授エミリー・マッド博士によると、家族内の争いをせんじつめれば大抵、「自分の配偶者の感情、必要、価値観、目標などを考慮に入れない、あるいはそうしたものを無視して行動する」という一つの基本的な不満が原因になっている。―「精神衛生百科事典」。 ジョンとジェーンのようなクリスチャンの夫婦が結婚生活で問題を抱えるようになる場合は、「新しい人格を着ける」点で、また愛・喜び・平和・辛抱強さ・親切・善良・信仰・温和・自制などの敬虔な特質を表わす点でどこかに欠けた所があるからかもしれない。―Ephesians 4:22‐24.Galatians 5:22、23.
2003年06月26日
コメント(0)
聖書時代のシュラムの娘は、ロマンティックな感情に人を欺く力があることを十分認識していたようだ。権力者であるソロモン王に言い寄られた時、娘は仲間の娘たちに、「愛がその気になるまでは、わたしのうちにそれを目覚めさせたり、呼び起こしたりしない」ように、と言いった。(Song of Solomon(Canticles) 2:7)この賢い娘は、感情の赴くままに振る舞うよう友人から圧力をかけられることを望まなかった。このことは今日、結婚を考えている人たちにとっても役立つ。自分の感情をいつもしっかりと制御しておくようにする。結婚するとすれば、それはひとりの人を愛しているからであり、単に結婚するという考えにあこがれているからであってはならない。
2003年06月25日
コメント(0)
「愛についてのその説明は今までに読んだものの中で最も優れている」 「自分が相手を本当に愛しているかどうかは、どうすれば分かるだろうか」と、ケビン・リーマン博士は書いている。「遠い昔に書かれた1冊の本の中に愛を説明した箇所がある。その本はほぼ2,000年前のものだが、愛についてのその説明は今までに読んだものの中で最も優れている」。 リーマン博士が言及していたのは、聖書の1Corinthians 13:4-8.にある、クリスチャンの使徒パウロの次の言葉である。 「愛は辛抱強く、また親切です。愛はねたまず、自慢せず、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず、自分の利を求めず、刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず、不義を歓ばないで、真実なことと共に歓びます。すべての事に耐え、すべての事を信じ、すべての事を希望し、すべての事を忍耐します。愛は決して絶えません」。
2003年06月24日
コメント(0)
「明敏な者は自分の歩みを考慮する」と、聖書の格言は述べている。(Proverbs 14:15)結婚相手を選ぶ際には確かにそうすべき。結婚相手の選択は、人が行なう決定の中でもとりわけ重大なものの一つ。にもかかわらず、だれと結婚するかを決めることよりも、どの車を買うか、あるいはどの学校に入るかを決めることのほうに時間をかける人が多く見受けられる。 結婚を考えている人は、相手が「ふさわしいかどうか」を確かめたいと思うことだろう。例えば、以下の質問を考慮してみる。それらは女性の立場からの質問だが、そこに含まれる原則の多くは男性にも当てはまる。また、結婚している人も考慮することによって益を得ることができる。● 彼はどんな評判を得ているだろうか。―Philippians 2:19‐22.Proverbs 31:23.は、ある夫について、『土地の年長者たちと共に座るときに、門のところで知られる』者と述べている。都市の年長者たちはその都市の門のところに座って裁きを行なった。ですから、この人は人々から信頼される立場にあったようである。人の評判は、他の人たちがその人をどのように見ているかによってある程度分かる。その人が権威をゆだねられている人であれば、その権威の下にある人々からどのように見られているかをも考慮してみる。そうすれば、自分がその人の配偶者となった場合、その人をやがてどう見るようになるかが分かるだろう。● 彼はどのような道徳観を持っているだろうか。 「まず第一に貞潔」であること。(James 3:17)あなたの配偶者になる見込みのある人は、神のみ前における自分とあなたの立場よりも、自分が性的な満足を得ることに関心を抱いているだろうか。その人が現在、神の道徳規準に従って生活する努力を払っていないのであれば、結婚後にそうすると信じるどんな根拠があるだろうか。―Genesis 39:7‐12.● 彼はわたしにどう接しているだろうか。―Ephesians 5:28、29.聖書のProverbsは、自分の妻に「信頼を置いた」夫について述べている。その人はさらに、『彼女を称賛する』。(Proverbs 31:11、28)過度に嫉妬することも、理不尽な要求をすることもない。上からの知恵は「平和を求め、道理にかない……憐れみと良い実とに満ち」ていると、ヤコブは書いている。―James 3:17.● 彼は自分の家族にどう接しているだろうか。―Exodus 20:12. 親に敬意を払うよう求められているのは、幼い子供たちだけではない。聖書にはこう述べられている。「あなたを誕生させた父に聴き従い、ただ年老いたからといって、あなたの母をさげすんではならない」。(Proverbs 23:22)興味深いことに、W・ヒュー・ミシルディン博士はこう書いている。「花婿と花嫁になる人たちがお互いの家庭を気軽に訪ね、“婚約者”とその親の関係を観察するなら、夫婦間の問題や性格の不一致は多くの場合、防げるかもしれない。少なくとも予測することはできるだろう。自分の親をどう見るかは、配偶者をどう見るかに影響する。こう自問しなければならない。『わたしは、彼が親に接するのと同じ仕方で自分に接してほしいと思うだろうか』と。また、親が彼をどう扱うかを見れば、彼が自分自身をどう扱うか、また、新婚旅行が終わったあとであなたにどう振る舞ってほしいと思うかがよく分かるだろう」。● 彼はすぐにかっとなったり、ののしったりする傾向があるだろうか。 聖書はこう助言している。「すべて悪意のある苦々しさ、怒り、憤り、わめき、ののしりのことばを、あらゆる悪と共にあなた方から除き去りなさい」。(Ephesians 4:31)パウロはテモテに対して、一部のクリスチャンが「疑問をはさむことや言葉をめぐる論争で精神的に病(み)」、「そねみ、闘争、ののしりのことば、悪意のうたぐり……ささいな事をめぐる激しい言い争い」に屈すると警告した。―1Timothy 6:4、5.さらに、パウロの言葉によると、会衆内での特権にあずかる資格を得る人は、『人を殴ったりしない』人でなければならない。(1Timothy 3:3)人を実際に殴ったり、言葉で脅しつけたりする人であってはならないのである。腹を立てると粗暴になる傾向の人は、結婚相手にはふさわしくない。● 彼の目標はなんだろうか。 富を追い求め、その必然的な結果を刈り取る人もいる。(1Timothy 6:9、10)これといった目標も持たずに、ただ漫然と生活する人もいる。(Proverbs 6:6‐11) この世的な目標はすべて虚しさを追い求める結果となる。永続した満足は絶対得られない。虚しさを感じている人たちは理解されるだろう。
2003年06月23日
コメント(0)
自分が配偶者に望む特質は幾つも挙げることができるに違いない。しかし、それよりもずっと難しいのが、自分自身について考え、どうすれば結婚生活に貢献できるかを見極めることだ。結婚の誓いをする前も、した後も、自己吟味をすることは大切。例えば、次のような事柄を自問することをお勧めしたい。● 自分は喜んで、配偶者と生涯にわたる誓約を交わすだろうか。―Matthew 19:6. 聖書の預言者マラキの時代に、多くの夫が配偶者を捨てた。それはもっと若い女性と結婚するためだったと思われる。Jehovahはご自分の祭壇が、捨てられた妻たちの涙で覆われていると述べ、自分の配偶者に対してそのように「不実な振る舞いをした」男性たちを非難された。―Malachi 2:13‐16.● 結婚を考えているとしたら、性的な感情が非常に強くなり、そのために判断を誤りかねない若い時期は過ぎただろうか。―1Corinthians 7:36. 「あまり若いうちに結婚するのはとても危険です」と言うのは、22歳で結婚したNである。こう注意している。「自分の感情、目標、好みなどは十代後半から二十代の半ば過ぎまで変わり続けます」。もちろん、結婚する準備ができているかどうかは、年齢だけで判断できるものではない。とはいえ、性的な感情が芽生え、特に強くなる若い時期を過ぎないうちに結婚すると、正しい考え方ができず、起こり得る問題が見えなくなる可能性がある。● 自分には結婚を成功させるのに役立つどんな特質があるだろうか。―Galatians 5:22、23. 使徒パウロはコロサイ人たちに、「優しい同情心、親切、へりくだった思い、温和、そして辛抱強さを身に着けなさい」と書き送った。(Colossians 3:12)これは、結婚を考えている人にも、すでに結婚している人にも適切な助言である。● 自分は難しい時期に、配偶者を支えるのに必要な円熟性を身に着けているだろうか。―Galatians 6:2. 「問題が起きると、配偶者を責める傾向がある。最も重要なのは、だれに責任があるかということではなく、結婚関係を改善するために夫と妻の双方がどのように協力できるかということなのだ」と、ある医師は言う。賢王ソロモンの次の言葉は夫婦に当てはまります。「二人は一人に勝る」と,ソロモンは書いている。「もしもそのうちの一人が倒れるなら、他方の者がその仲間を起き上がらせることができるからである。しかし、倒れる者がただ一人で、これを起き上がらせる他の者がいないならどうなるであろうか」。―Ecclesiastes 4:9、10.● 自分は概して快活で楽観的だろうか、それとも、たいていは陰気で消極的だろうか。―Proverbs 15:15. 消極的な人は毎日を悪く考える。結婚したからといって、こうした態度が奇跡的に変化することはない。かなり批判的あるいは悲観的な独身者は、男性であれ女性であれ、やはり批判的あるいは悲観的な既婚者になるだけである。そうした消極的な態度は結婚生活にたいへんな緊張をもたらすことがある。● 自分は圧力のもとでも穏やかさを保てるだろうか。それとも、自分を抑え切れずに怒りを爆発させてしまうだろうか。―Galatians 5:19、20. クリスチャンは、「憤ることに遅く」あるようにと命じられている。(James 1:19)結婚する前も結婚してからも、人は次の助言にしたがって生活する能力を培わなければならない。「憤っても、罪を犯してはなりません。あなた方が怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい」―Ephesians 4:26.
2003年06月22日
コメント(0)
結婚というものを考える 人生の苦楽を共にする配偶者がいることは、確かに祝福。結婚は孤独感や絶望感からくる空しさを埋めてくれる。また、人が生まれつき持っている、愛や友情や親しい交わりに対する渇望を満たしてくれる。神がアダムを創造した後にこう言われたのももっともなこと。「人が独りのままでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼を補うものとなる助け手を造ろう」。―Genesis 2:18; 24:67.1Corinthians 7:9. 結婚すると、幾つかの問題が解決されることは確か。しかし、新たな問題も生じる。なぜなら、結婚とは二つの別個の人格が溶け合うことであり、それらは相性が良いとしても、全く同じということはあり得ないからである。とても気の合う夫婦でさえ、時には衝突するもの。クリスチャンの使徒パウロは、結婚する人は「肉身に患難を」招くと書いている。つまり、「新英訳聖書」の訳によると、「この肉体の生活に苦しみや悲嘆」を招くというのである。―1Corinthians 7:28. パウロは悲観的な見方をしていたのだろうか。決してそうではない。結婚を考えている人に現実的な見方をするよう勧めていたにすぎない。だれかに心を引かれ、幸福感に満たされているからといって、結婚式の何か月あるいは何年か後も幸福な結婚生活を送っているとは限らない。結婚生活にはそれぞれ固有の難問や課題がある。問題は、それらが生じるかどうかではなく、生じた時にどのように対処するかということなのである。 問題が生じた時は、夫と妻が互いに対する愛の純粋さを示す機会となる。例えば、埠頭にのんびり停泊している大型客船は堂々としているように見えるかもしれない。しかし、その船が本当の意味で航海に適するかどうかは、海に出た時、嵐に遭って波にもまれるような時に初めて証明される。同様に、結婚のきずなの強さも、ロマンティックで平穏な時だけでは分からない。時には、試練となる状況下で夫婦が逆境という嵐を乗り切って初めて証明される。 そのために、夫婦は誓約を交わす必要がある。神は男が「自分の妻に堅く付き」、二人が「一体となる」ことを意図されたからである。(Genesis 2:24)今日、誓約を交わすという考えに恐れをなす人は少なくない。しかし、心から愛し合っている二人が、ずっと連れ添う厳粛な約束をしたいと思うのは、全く筋の通ったこと。誓約によって結婚は威厳のあるものとなる。誓約は、どんなことがあっても夫と妻が互いに支え合うことを信じるよりどころになる。 そのような誓約を交わす心の準備ができていないなら、実際には結婚する準備ができていないということになるだろう。すでに結婚している人でさえ、結婚を永続させる上で誓約がいかに大切かということをさらに認識する必要があるかもしれない。2003/06/21 22:27:41結婚生活を成功させるには何が必要か 泳ぎ方を習わないうちに川に飛び込む人などいるだろうか。そんな愚かなことをすれば危険である。命を失うことさえある。にもかかわらず、結婚に伴う責任をどのように担うかをほとんど知らずに結婚生活に飛び込む人がいかに多いか、考えてみてほしい。 イエスはこう言われている。「あなた方のうちのだれが、塔を建てようと思う場合、まず座って費用を計算し、自分がそれを完成するだけのものを持っているかどうかを調べないでしょうか」。(ルカ 14:28)塔の建設について言えることは、結婚生活を築くことについても言える。結婚を望んでいる人は、結婚の代価をあらかじめ注意深く考慮し、自分がその要求を満たせるかどうかを確かめるべきである。2003/06/21 18:07:04
2003年06月21日
コメント(0)
世界的な離婚現象を地震に例えるなら、米国はその震央ということになる。米国では、1,990年代後半の1年間に100万組の夫婦が結婚生活に終止符を打った。平均すれば毎分2組ということになる。しかし、結婚が悲惨なものになっているのは米国だけでないということは恐らくご存じだろう。 ある研究によると、カナダ、イングランドとウェールズ、フランス、ギリシャ、オランダなどの離婚率は、1970年以来2倍以上になっている。 ほとんどのカップルは互いに愛し合っており、その後の人生を共に過ごしたいと思うからこそ婚姻関係に入るはずである。しかし悲しいことに、夢見ていた幸福な結婚生活がまさに夢にすぎなくなる場合が多い。現実に目覚めたとたん、結婚するのが早すぎたとか、結婚相手を間違えたとか、その両方だったと言った人も少なくない。 なぜそれほど多くの結婚が失敗に終わるのだろうか。「そのおもな原因は、準備不足にある」と、求婚に関する本の著者は言う。その人は、こうも述べている。「結婚生活上の苦悩を経験している夫婦を相手にしていると、二つの感情に襲われる。同情と怒りの感情である。同情を感じるのは、その人たちが互いに満足できる関係を築くという夢を見いだせないでいるからである。また、怒りを感じるのは、その人たちがなすべき事柄の複雑さに気づいていないからである」。 確かに、結婚を成功させる方法をほとんど知らずに結婚生活に入る人は大勢いる。それも驚くには当たらない。ある教育者はこう述べている。「ネズミやトカゲの行動を研究して大学を卒業しながら、夫婦という二人の人間の行動について学んでいない若者がどれほどいることだろう」。 あなたは結婚について―将来結婚することや、現在の結婚生活について―考えているだろうか。そうであれば、実生活での関係は、映画やテレビ番組や恋愛小説の中で描かれているものとはずいぶん違うということを知っておく必要がある。同時に、本当に愛し合っている円熟した二人の結婚は神の祝福とみなすことができるだろう。では、結婚生活で求められる事柄を果たしていく準備が自分にできているかどうか、どうすれば確かめられるだろうか。配偶者を選ぶ際にはどんな要素を考慮すべきか。また、すでに結婚している人の場合、結婚生活で永続する幸福を見いだすにはどうすればよいのだろうか。
2003年06月20日
コメント(0)
「あなたって本当にいい加減な人ね!」 妻は夫に面と向かってそのようには言わないかもしれないが、声の調子にはっきりと表われることがある。「どうしてこんなに遅かったの?」という言葉は理由を尋ねているともとれるが、責めるような目で見ている妻の姿は、むしろこう語っているように見える。「いい加減な人ね。まるで子供じゃないの。心配したのよ。どうして電話してくれなかったの? 本当に思いやりがないんだから。せっかくの夕飯が冷めちゃったじゃないの」。 もちろん、夕飯については妻の言うとおり。しかし、もし口論になれば、二人の関係も冷める危険がないだろうか。「口論はたいてい、二人の意見が合わないからではなく、男性が女性は自分の見方を認めてくれないと感じているか、女性が自分に対する男性の話し方を嫌っていることが原因である」と、ジョン・グレー博士は書いている。 家庭では好きなことを遠慮なく自由に言うべきだという意見の人もいる。しかし、コミュニケーションが上手な人は、聴き手の感情を考えに入れて、一致を生み出そう、平和な関係を築こうとする。このような話し方は、大まかに言って、配偶者に一杯の冷たい水を出すことに似ているかもしれない。その水を相手の顔にかけるのとは大違いだ。それで、どのように話すかによって違いが生まれると言えるだろう。 次の言葉を当てはめるなら、口論は消え、幸福な家庭が実現する。「優しい同情心、親切、へりくだった思い、温和、そして辛抱強さを身に着けなさい。だれかに対して不満の理由がある場合でも、引き続き互いに忍び、互いに惜しみなく許し合いなさい。Jehovahが惜しみなく許してくださったように、あなた方もそのようにしなさい。しかし、これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」。2003/06/19 22:59:24「わたしの言うことなんか、全然聴いてくれないんだから!」 そんな言いがかりはナンセンスに思える。夫にしてみれば、自分はいつも聴き役に回ってばかりいるように思える。ところが妻に言わせれば、話をしても自分の言葉はコンピューターが数学の問題を解く時のようにふるい分けられ、解析されているような気がしてならない。夫に話をさえぎられ、「こうすればすむことじゃ……」と言われると、ああやっぱりと思ってしまう。 妻が問題を抱えて夫に近づく時は、非常に多くの場合、夫を責めているのでも、夫に解決策を求めているのでもない。妻が一番望んでいるのは、冷厳な事実を聞くだけではなく、それについての自分の気持ちも同情して聞いてくれる人なのである。妻はさらに、アドバイスではなく、むしろ自分の気持ちが間違っていないという確証を得ることを望む。多くの夫が妻のためを思って、「おまえ、そんなふうに思うもんじゃないよ。そんなに大したことではないよ」と言っただけで爆発を引き起こしてしまった理由はそこにある。 多くの場合、人々は、夫婦なんだから言わなくても気持ちは分かってくれるはずだと考える。ある男性は、「一緒になって25年にもなるんだから、僕の思っていることがまだ分からないようなら、関心がないか、気にかけていないかだ」と言った。ある著述家は結婚関係に関する本の中でこう述べている。「夫婦が思っている事柄を互いに話さず、相手の失敗を非難し合っていれば、愛と協力の精神が消えうせても当然。代わりに……自分の必要を無理やり相手に満たさせようとして権力闘争が始まる」。2003/06/19 2:44:27
2003年06月19日
コメント(0)
「ねぇ、どうしたの?」 男性はストレスの多い問題を抱えると、静かな場所を見つけてじっくり考えようとするかもしれない。しかし女性は緊張を感じ取ると本能的に、自分の殻に閉じこもっている夫をそこから引きずり出そうとするかもしれない。妻がどれほど夫のためを思ってそうしても、夫はそれを差し出がましい、屈辱的なことと感じるかもしれない。独りになって問題を考えようとする夫が後ろを振り返ると、夫思いの妻が速足で追いかけて来ている。「ねぇ、大丈夫? どうしたの? 何があったか教えてよ」という愛情に満ちた声がしつこく聞こえてくる。 返事がないと、妻は感情を害されるかもしれない。妻は問題があれば夫に打ち明けたいと思う。しかし愛する人は自分の気持ちを分かち合おうとしまない。「あの人、わたしのことなんかもう愛してないんだわ」と妻は結論するかもしれない。であるから、そんなことは思いもよらない夫が、ついに解決策を見いだして満足げに自分の世界から姿を現わすとき、そこにいるのは心配そうな様子の愛情深い配偶者ではなく、置き去りにされたことに抗議しようと待ち構えている、怒った妻なのである。ハハハ…こういうことってかなりよく見られることかもしれないな。ハハハ…ハ~ァア……2003/06/18 18:10:31「わたしのことなんか愛してないんでしょ!」 夫は当惑し、やりきれない気持ちになって言う。「どうしてそんなふうに考えるんだろう! 僕は働いてるし、お金も稼いでる。時には花を贈ることだってあるのに」。 人はだれでも愛されていると感じる必要があるが、特に女性は愛されていると何度も感じる必要がある。女性は口には出さないかもしれないが、心の中では自分がお荷物になっているように感じることがある。毎月の体のリズムの影響で落ち込んでいる場合には特にそうかもしれない。夫がそんな時に、独りになる時間が欲しいんだな、と考えて妻をそっとしておくと、妻は、夫が近づいてくれないのは自分が一番恐れていることが現実になった証拠、つまり、もう愛されていない証拠だと解釈するかもしれない。そして、きついことを言っては、何とかして愛し、支えてもらおうとするかもしれない。2003/06/18 7:44:31「何から何まで口を出さないでくれ!」 事あるごとにアドバイスをされ、頼み事をされ、批判される多くの夫は、妻はさい配を振り、小言を言うものという固定観念を持つようになっているかもしれない。聖書はそのような気持ちになることを認めて、「妻の口論は、人を追い立てる雨漏りのする屋根のようだ」と述べている。(Proverbs 19:13.)妻が何かを頼んでも、夫には妻の知らない理由があって、黙ってそれに反対するかもしれない。妻は夫が聞いてくれなかったと考え、今度は夫に指図する。夫はますます反対する。これは、小言を言う妻と、妻の尻に敷かれた夫の組み合わせなのだろうか。それとも、二人は明確なコミュニケーションを行なっていないだけなのか。 妻の目から見れば、役立つアドバイスをすることは、夫に対する愛の最上の表現。しかし夫の目には、妻にとやかく言われ、自分は無能だと言われているように映る。「あなた、カバン持った?」という言葉は、妻にしてみれば、夫が忘れ物をしないよう気遣う気持ちの表現。しかし夫はそれを聞くと、出掛けに玄関から大声で、「手袋は持ったの?」と叫ぶ母親を思い出してしまうのである。 妻は疲れていると、「ねぇ、今夜はレストランで食事にしない?」と優しく言うかもしれないが、実際は、「外食にしましょうよ。すごく疲れているから料理したくないの」という意味なのかもしれない。ところが、妻思いの夫は、この時とばかりに妻の料理を褒め、君の手料理に限ると言い張るかもしれない。あるいは夫は、「僕を操ろうとしている」と思うかもしれない。一方、妻は「こんなことなら聞かなければよかった」と腹立たしく思うかもしれない。2003/06/18 1:06:58
2003年06月18日
コメント(0)
口論を分析する 妻は気持ちを言葉に表わす必要を感じる。夫は解決策を教えようとする。昔から夫婦の間の口論は数限りなく、いろんなことで口論しているように聞こえがちだが、実際には幾つかの基本的な問題に関する口論の変形である場合が少なくない。配偶者の物の見方やコミュニケーションの方法が自分とは違うことを理解すれば、燃え盛る山火事も、幸福な家庭の暖炉に燃える炭火にまで弱めることができるかもしれない。2003/06/17 23:35:13相手の見方で物事を見る龍馬は、何があったのかおりょうに尋ねるのは差し出がましいと思ったので、彼らしく、自分が他の人にしてほしいと思うことを妻のために行なった。妻が切り出すまで待ったのだ。ところが、おりょうは余計にいらいらしてしまった。問題があったからだけでなく、支えてほしいという自分の訴えを龍馬が無視しているように思えたからである。おりょうは、龍馬が沈黙して優しく敬意を表わしているとは理解せず、むしろ、かまってくれていないと解釈した。おりょうがやっと口を開くと、龍馬はさえぎることなく耳を傾けた。しかしおりょうは、自分の気持ちを夫が本気で聞いてくれていないように思った。それから龍馬は、感情移入をするのではなく、解決策を教えた。つまりこう言ったのである。「君のその感情にはちゃんとした根拠がない。過敏に反応しているんだよ。このちっぽけな問題がどれほど簡単に解決できるか分かるかい?」もしお互いが相手の見方で物事を見ていたら、状況は大きく異なっていたことだろう。例えば、こんなふうにである。龍馬は帰宅すると、おりょうの機嫌が悪いことに気づく。「どうかしたの?」と龍馬は優しく尋ねる。すると、涙がこぼれてきて、言葉が口を突いて出てくる。おりょうは、「みんなあなたのせいよ!」と言ったり、夫の働きが足りないとほのめかしたりはしない。龍馬はおりょうを抱き寄せ、辛抱強く耳を傾ける。おりょうが話し終えると、龍馬は言う。「かわいそうに、がっかりしたんだね。君がどうしてそんなにいらいらしているのかよく分かったよ」。おりょうは答える。「聴いてくれてありがとう。あなたに分かってもらえて、ずいぶん楽になったわ」。残念ながら、多くの夫婦は互いの相違点を解決する代わりに、すぐに離婚を選んで二人の結婚を終わらせる。多くの家庭を崩壊に追いやっている犯人は、コミュニケーションの欠如にある。結婚生活の土台そのものを揺るがすほどの口論が爆発する。それはどのように起きるのか。次に、それがどのように起きるのか、そしてどのように回避できるかを考慮してみる。2003/06/17 0:31:22
2003年06月17日
コメント(0)
龍馬はこう言うことだろう。「家に入った途端、おりょうの機嫌が悪いのが分かりました。たぶん、そのうち自分から理由を話してくれるだろうと思いました。僕には、そんなに大きな問題とは思えませんでした。そんなにいらいらする必要はなく、簡単に解決できることを理解させてやるだけで、機嫌は直るだろう、と考えました。話を聴いてやったのに、『わたしの言うことなんか全然聴いてくれないんだから!』と言われた時には、ぐさりときました。妻は自分のいらいらを全部僕のせいにしているみたいでした」。おりょうはこう説明することだろう。「その日は一日、何をやってもうまくゆかなかったんです。主人のせいじゃないことは分かっていたけど、あんなにうれしそうな顔をして入ってくるんだもの。わたしがいらいらしているのを無視しているんじゃないかと思いました。どうかしたのって尋ねてくれたっていいのに。わたしが事情を話しても、馬鹿なこと言うな、そんなのどうでもいいことじゃないか、みたいなことを言うんですもの。君の気持ちは分かるよ、なんて言ってくれるどころか、何でも解決したがり屋の主人は、どうすれば解決できるかを説明するんです。解決策なんてどうでもよかったの。同情してほしかったのよ!」このように一時的に仲たがいをしているようだが、龍馬とおりょうは深く愛し合っている。どのように洞察力を働かせれば、その愛をはっきりと表現できるだろうか。
2003年06月16日
コメント(0)
一人の女性の見方 おりょうは自分を、他の人とのつながりという社会の一員と見ている。そうした関係の絆を築き、固くすることは彼女にとって大切なのだ。話すことは、親密さを生み、それを確認する大切な手段である。おりょうは生まれつき人に頼るほうである。龍馬にリードしてほしいと思っているが、決定を下す前に夫が自分の考えを分かってくれると、自分は愛されていると感じる。おりょうは決定を下さなければならない時には、夫に相談することを好む。それは必ずしも夫の指示を仰ぐためではなく、夫への信頼と親密さとを示すためである。おりょうにとって、何かが必要な時にはっきりとそれを口にするのはとても難しいことである。龍馬に向かって小言を言いたくはないし、不満を持っていると思われたくもない。むしろ、気づいてくれるまで待ったり、それとなく気づかせようとしたりするのである。会話する時、おりょうは細かい事柄に興味を引かれ、いろいろと質問する。人や人間関係に敏感で、強い関心を抱いているため、自然にそうなるのである。話を聴いているとき、おりょうは相づちを打ったり、うなずいたり、質問をしたりして、話についていっていること、また話に関心があることを示す。おりょうは、人々が何を必要としているかを直観的に知ろうと一生懸命に努力する。頼まれなくても助けを差し伸べるのは、愛情のすばらしい表現だと考えている。特に、夫が成長し、進歩するのを助けたいと願っている。おりょうは問題を抱えると圧倒されそうになることがある。そんな時は、話さずにはいられない。解決策を求めるためというよりも、むしろ自分の気持ちを言い表わすためにである。自分を理解し、気遣ってくれる人がいることを知っている必要があるのだ。感情が高ぶると、おりょうは大げさで強烈な言葉を口にする。「全然聴いてくれない!」と言う時も、本気でそう思っているわけではない。おりょうの子供の時の親友は、物事を一緒に行なった友達ではなく、何でも一緒に語り合った友達だった。だから結婚してからも、戸外での活動よりは、親身になって聴いてくれる人に自分の気持ちを打ち明けることのほうがずっと好きなのである。おりょうにとって家庭は、だれの批判も受けずに話ができる場所である。心配や問題を遠慮なく龍馬に打ち明ける。助けが必要ならば、恥ずかしがらずにその必要を認める。夫がそばにいてくれて、関心を持って耳を傾けてくれるものと思っているからだ。普段、おりょうは愛されていると感じており、結婚生活に安心感を抱いている。しかし時々、これといった理由もなく、不安になったり、愛されていないと感じることがある。そのような時には、すぐに自信を取り戻せる言葉や親しい交わりを必要とする。このように、龍馬とおりょうは互いに補い合っているものの、非常に異なっているのである。たとえ二人が共に相手の最善を考えて愛情を示して支え合っても、二人の間の相違が深刻な誤解を生む可能性はある。前述の状況をそれぞれがどのように見ていたのか、聞いてみることにしよう。2003/06/15 20:06:22一人の男性の見方 龍馬は競争社会の中で生きている。男はみな、一つの社会組織の中で自分の立場を占めていなければならない。それは部下であれ、上司であれ同じことである。コミュニケーションは彼の立場や能力や専門技術や存在価値などを証明する働きをする。彼は独立を大切にする。要求するような調子で命令されると、龍馬は抵抗を感じる。「君はやるべきことをしていない」という意味のことを暗に言われると、たとえそう言われるのがもっともな場合でも,龍馬は反発してしまう。龍馬が人と話すのは、基本的には情報交換のためである。事実や考え、新しく知った事柄などを話すのが好きである。龍馬は人の話をさえぎることはおろか、「ああ、そう」などと相づちを打つことさえめったにない。情報を吸収しているからである。しかし賛成できない時には遠慮せずにそう言うほうで、友達に対しては特にそうである。龍馬は、友達の言うことに関心があり、あらゆる可能性を探索するのである。竜馬は問題があれば自分自身で解決することを好む。そのため、人やいろいろな事柄をすべて避けるようにしたり、葛藤を一時的に忘れるために気晴らしをして気分転換を図ったりすることもある。話し合うのは、アドバイスが欲しい時だけである。慎太郎のように、男性が問題を抱えてやって来ると、竜馬は助ける責任を感じ、友達が無力さを感じないよう世話をやく。そして、友達に寂しい思いをさせないよう、アドバイスに加えて、たいてい自分の失敗談を幾つか語る。竜馬は友達と一緒に活動するのが好きである。彼にとって、親しい交わりとは物事を一緒に行なうことなのだ。竜馬にとって家庭とは、競争の場からの避難所、自分を証明するために話をする必要のない場所、受け入れられ、信頼され、愛され、感謝される場所なのである。そんな竜馬も、たまには独りでいたいと思う時がある。おりょうのせいではなく、おりょうが何かをしたからでもない。ただ、しばらく独りになりたいのである。竜馬は自分が感じている不安や心配事や苦痛を妻に打ち明けることに困難を覚える。妻に心配をかけたくないからだ。妻の世話をし、保護するのが夫の務めだと考えているのである。それができることをおりょうに信じてもらう必要がある。支えは欲しくても、同情は欲しくない。自分が無能で役立たずに思えるからである。2003/06/15 15:33:41
2003年06月15日
コメント(0)
男女の差? こうした例に見られる違いを一つの単純な事実のせいにする人がいる。つまり、慎太郎は男で、おりょうは女だからというわけである。言語の研究者たちは、夫婦間コミュニケーションの問題の原因は多くの場合、男女の違いにあると考えている。「あなたは全く理解してくれない」、「男は火星から、女は金星から来た」と題する本などは、同じ言語を話していても、男性と女性のコミュニケーションの方法にはっきりとした違いがあるという理論を支持している。 もちろん、創造者が男性から女性を創造されたとき、女性は男性に少しの変更を加えただけのものではなかった。男性と女性は、身体的、感情的、精神的、霊的に互いに補い合えるよう、考え抜かれた、絶妙な設計の所産であった。こうした本質的な違いに加えて、一人一人の生い立ちや人生経験の複雑さ、文化や環境や社会の男女観から来る影響などもある。このような影響のため、男性と女性のコミュニケーションの方法にある種の型を見いだすのは可能かもしれない。しかし、“典型的な男性”とか、“典型的な女性”などといった分かりにくい表現は、心理学の書物にしか出てこないのかもしれない。 一般に、女性の特性として感受性の強さが取り上げられるが、人を非常に優しく扱う男性も少なくない。男性のほうが物事を論理的に考えるとされているかもしれないが、物事を分析する鋭い洞察力を持った女性も珍しくない。したがって、どんな特質も、男性独特のものとか、女性特有のものなどと分類することは不可能であるとしても、一つ確かなことがある。それは、お互いの見方を洞察するかどうかが、特に結婚生活においては、一緒に仲良く暮らせるか、熾烈な争いになるかを左右するかもしれない、ということである。 既婚者は、男女のコミュニケーションという難しい問題に日々直面する。洞察力のある夫たちの多くは、「髪型変えたんだけど、どう?」といった、一見たわいない妻の質問も多くの危険をはらんでいる場合があると言う。機転の利く多くの妻は、夫が旅先で道に迷ったとき、「だれかに道を聞いたらどう?」と、何度も尋ねないほうが良いことに気づいている。愛情深い夫婦は、配偶者の独特のやり方のようなものをけなしたり、「僕は(わたしは)そういう人だから」と言って自分独特のやり方に固執したりせずに、むしろ表面に表われない部分に目を向ける。これは、相手のコミュニケーションの方法を冷淡に詮索するということではなく、相手の気持ちや考えを温かく見つめるという意味である。 一人一人が特異な存在であるように、結婚している二人の組み合わせもそれぞれ特異な存在である。不完全な人間の性質ゆえに、思っていることや考えていることが本当に一致するのは、偶然の結果ではなく、大変な努力の結果なのである。例えば、わたしたちは、他の人も自分と同じように物事を見ていると考えがちである。多くの場合、自分の必要を満たしてほしいと思う方法で他の人の必要を満たし、「それゆえ、自分にして欲しいと思うことはみな、同じように人にもしなければなりません」という黄金律に従おうとするかもしれない。(マタイ 7:12)しかしイエスは、あなたが望むもので他の人が十分満たされると言っておられたわけではない。あなたは、自分が必要としているもの、欲しているものを他の人が与えてくれることを望んでいるのだから、あなたは他の人が必要としているものを与えるべきなのである。夫婦は配偶者の必要を可能な限り満たすことを誓ったのであるから、このことは結婚生活において特に肝要であるといえる。龍馬とおりょうもそのような誓いを立てた。そして2年間、幸せな結婚生活を送った。ところが、お互いに相手のことをよく知っていると思っていても、時に、善意だけでは埋めることのできない大きなコミュニケーションのギャップの存在を明らかにする状況が突然に生じる。「賢い者の心はその口に洞察力を示させ、その唇に説得力を加える」と、箴言 16章23節は述べている。コミュニケーションを図るうえで、洞察力は欠かせない鍵。龍馬とおりょうの場合、洞察力によってどのような扉が開くかを調べてみたい。登場人物は仮名です。って本物の龍馬夫婦とは一切関係ありません(苦笑)2003/06/14 22:49:58夫と妻―話し方に違いがあるというのは本当かな? こんな場面を考えてみてもらいたい。龍馬の事務所に、慎太郎が重い足どりで入ってきます。心配があるのか肩を落としているのが分かります。龍馬は優しいまなざしで、友人が話し始めるのを待ちます。「今回の商談をうまくまとめられるかどうか、僕には自信がないんだ。障害は多いし、本社からはプレッシャーをかけられるし」と、慎太郎はため息交じりに言います。龍馬は確信をこめて言います。「なんだ、心配することなんか何もないだろ。君はこの仕事に打ってつけの人材じゃないか。みんなもそれを知っているんだよ。慌てることなんかないさ。それに、そんなことで困ったと言うのなら、つい先月の……」と言って、龍馬は自分自身の失敗談を事細かに、面白おかしく話します。間もなく友人は気分が楽になり、笑いながら事務所を出て行きました。龍馬は助けになれたことをうれしく思いました。 こんな場面も考えてみてほしい。その日の午後、龍馬は家に帰ると、妻のおりょうも機嫌を損ねているのがすぐに分かります。龍馬は普段よりも陽気な調子で、ただいま、と言い、それから妻が事情を話すのを待ちます。張り詰めた沈黙の後、おりょうは出し抜けに、「わたし、もう我慢できない! 今度の上司ったらまるで暴君なのよ!」と言います。龍馬はおりょうを座らせ、腕を回してこう言います。「そんなに怒るなよ、おりょう。たかが仕事のことじゃないか。上司なんて、みんなそんなものだよ。僕の上司が今日すごいけんまくで怒ったところを、君にも聞かせたかったよ。でも、どうしても大変だったら、辞めてもいいんだよ」。「あなたって、わたしの気持ちなんかどうでもいいんでしょ!」 おりょうは言葉を返します。「わたしの言うことなんか全然聴いてくれないんだから! 辞められるわけないでしょ! あなたのお給料だけじゃ、やっていけないじゃない!」 おりょうは寝室に駆け込んで、激しく泣きます。龍馬は何が起きたのか分からないまま、唖然としてドアの外に立っていました。龍馬の慰めの言葉にこれほど正反対の反応が返ってきたのはなぜか。2003/06/14 21:56:06「不満の理由がある場合でも」 不満がある場合、争いを始めることなくそれを伝える一番良い方法は何だろうか。まず、配偶者の意図を善意に解釈すること。相手は思慮に欠け、不注意で、軽率で、あさはかだったと思えるかもしれないが、全体的に見れば、害をもたらす気はなかったはず。相手を責めることなく自分の気持ちを穏やかに、「あなたが……したとき、わたしは……と感じた」という具合に話してみる。こうすれば、言い争いをあおることはない。どのように感じているかを述べているだけで、配偶者を責めていることにはならない。あなたの気分を害する気が相手に全くなかった場合、否定か自己弁護が返ってくるだろう。それでも問題に注意を集中し、解決策を提案することは大切かもしれない。 本当に耳を傾けることは他の人に対する最高の敬意の表現の一つであることは言うまでもない。2003/06/14 13:17:15
2003年06月14日
コメント(0)
敬意:「互いの相違を認め合い、それを一緒に解決する際のキーワードは、敬意である。夫婦の一方にとって重要なことでも,もう一方にとってはそれほど重要ではないかもしれない。それでも、夫も妻も、相手の見方に常に敬意を払うことができる」。(「世界が崩壊する中で家族を一致させる」)「せん越であることによって人は闘いを引き起こすだけである。しかし、一緒に協議する者たちには知恵がある」―Proverbs 13:10.ユーモア: 危機感が暗雲のように垂れこめても、一緒に大声を出して笑うと、晴れ上がる場合もある。笑いの震動が愛の絆に伝わり、明快な思考をしばしば狂わせてしまうような緊張を和らげる。「喜びに満ちた心は顔色をよくする」―Proverbs 15:13.与える: 配偶者の良い点を積極的に探し、褒め言葉を惜しまないこと。相手が心から喜ぶ褒め言葉のほうが、シルクのネクタイや花束よりも一層強く心を動かすことだろう。もちろん、相手の喜ぶ物を買ったり、喜ぶことをしたりしてもよいわけだが、「成人した子供のための生活術」という本が述べているように、「最高の贈り物は箱の中に詰めることはできない。それはあなたの愛と感謝の表現、あなたの励ましの言葉、あなたの支え」なのである。「適切な時に話される言葉は、銀の彫り物の中の金のりんごのようだ」―Proverbs 25:11. これらの特質を結婚関係を築くブロックに例えれば、コミュニケーションはブロックをつなぐのに必要なモルタルである。では、意見が合わない時には夫婦はどうすることができるだろうか。「配偶者の見方が自分の見方と違っていても、それをけんかのもととみなすのではなく、……知識のもととみなすことだ。……日常生活で生じる様々な事柄は知識の宝庫となる」と、「あなたの望む愛を得る」という本は述べている。 だから、意見が合わないことがあるたびに、それを戦闘準備の号令とみなすのではなく、愛する人の内面をよく知る貴重な機会とみなしたい。相違点を解決するという難しい仕事に一緒に取り組み、穏やかな調和の港にたどり着くようにする。そのようにして絆を強め、二人をひとつにする愛を深める。Jehovah Godは協力を大変美しいものとみなされ、ご自分の創造物にもそれを組み込まれた。植物と動物が共同して作用する酸素の循環、天体の軌道、昆虫と植物の間にある共生関係などがそうである。であるから、結婚関係にも、夫は言葉と行ないによって妻を愛していることを示し、夫を信頼する愛情深い妻は夫の指導に満足して従うという、温かい循環が存在し得るのである。こうして、二人は本当にひとつになり、互いに喜びをもたらすと同時に、結婚の創始者であるJehovah Godに喜びをもたらす。
2003年06月13日
コメント(0)
二人がひとつになる―その知恵(小出しは止め[笑]でも残りは明日)忠節と信頼: 夫と妻は神の前で忠節を誓う。互いに忠節であるという信頼が夫婦の間にあれば、疑いや誇りや競争心によって、また自分の権利を主張することに没頭して、愛の働きが妨げられることはない。分かち合う: 同じ経験をすると、人間関係は深まる。やがて夫婦は、双方にとって大切で、貴重な思い出を織り成すことができるようになる。その友愛の絆を断つことなど、二人にはとても考えられないこと。『兄弟より固く付く友人がいる』―Proverbs 18:24.親切と優しさ: 親切な行為は摩擦を少なくし、誇りを弱める。親切にする習慣がしっかり身に着けば、意見が合わないために感情が高ぶった場合でも親切でいられるので、害は最小限にとどまる。優しさは、愛を育む温かい環境を作り出す。優しさを表現するのは男性にとって特に難しいことかもしれないが、聖書は、「地の人[英文字義: 男性]のうちにあって望ましいものは、その愛ある親切である」と述べている。(Proverbs 19:22)立派な妻について言えば、「その舌には愛ある親切の律法がある」。―Proverbs 31:26.謙遜さ: 誇りの悪影響を防ぐ謙遜さがあれば、すぐに謝り、頻繁に感謝を表わすようになる。全く身に覚えのないことで責められる場合はどうか。「ごめんね。怒らせてしまって」と優しく言うのはどうだろう。配偶者の敏感な性質を思いやり、問題を正す方法を一緒に考える。「人が抗論をやめるのは栄光である」―Proverbs 20:3.2003/06/12 22:34:56二人がひとつになる―その知恵2率直さと親密さ:「1対1―個人的な関係を理解する」という本にはこう書かれている。「我々の文化は率直さに逆行する。幼い時から、いらぬお節介をしないよう、そしてお金や考えや感情……など、何でも私的な事柄は隠すように教えられる。この教えは、“恋に落ちた”としても簡単に失われるものではない。率直になるようたゆまず努力しなければ、親密さは育たない」。「内密の話し合いのないところには計画のざ折がある」。「しかし、一緒に協議する者たちには知恵がある」。―Proverbs 13:10; 15:22.2003/06/12 17:58:38
2003年06月12日
コメント(0)
耳を傾ける:「本当に耳を傾けることは他の人に対する最高の敬意の表現の一つであり、親密な関係を築きかつ維持するのに極めて重要である」と、ある結婚問題の手引き書は述べている。「賢い者たちの耳は知識を見いだそうと努める」と箴言には記されている。(Proverbs 18:15)耳は、一目見ただけで開いていることが分かる目や口とは異なるので、本当に耳を傾けていることをどうすれば配偶者に示すことができるだろうか。その一つとして鏡映、またはアクティブ・リスニングと呼ばれる方法がある。 アクティブ・リスニングとは、話す側と聴く側の真の相互理解を図る確実な方法である。鏡映と呼ばれることもある。聴く側が、耳に入る言葉と把握した意味とを映し出そうとするからである。次のような基本段階を踏む。 1. 十分の注意を払う。大事な点を聞き落とさないよう耳を澄ます。 2. 言葉には表われない感情をくみ取るよう耳を澄ます。 3. 聞いた事柄を話し手に向かって繰り返す。善し悪しを評価したり、批判したり、言い争ったりしない。正確に要点を把握したことが話し手に伝わればよい。相手の感情を認める。 4. 話し手はあなたの言うことに恐らくうなずいたり、訂正を加えたりするだろう。もしかすると、その話題についてもっと詳しく述べるかもしれない。 5. 正確に理解していない場合、もう一度試してみる。 アクティブ・リスニングは、批判された時の痛みを軽減するのに特に効果的である。批判が多くの場合ある程度の真実に基づいていることを認めることは大切である。痛烈に批判されたとしても、批判した人に弁解がましく仕返しをするのではなく、アクティブ・リスニングを活用して、その場を和らげてはいかがだろうか。気分を害したのはあなたのせいだと言われたとしても、その気持ちを理解していることを伝え、それから問題をどのように正せるか当たってみることが肝要なのである。
2003年06月11日
コメント(0)
強固で安全で快適な家を築く場合、あなたはどのような材料を使いますか。木材、れんが、それとも石でしょうか。ここに一つの勧めがあります。「家は知恵によって築き上げられ、識別力によって堅く立てられることになる。そして、奥の部屋は知識によって、価値あるあらゆる貴重な快いもので満たされる」。(箴言 24:3、4)幸福な家庭を築くには確かに、知恵、識別力、知識が必要です。 築くのはだれでしょう。「真に賢い女は自分の家を築き上げた。しかし、愚かな女は自分の手でこれを打ち壊す」。(箴言 14:1)同じことは賢い男性についても言えるでしょう。賢明な男性は、結婚生活を強固で幸福なものにするか、弱くて惨めなものにするかは男性の手中にあるということを理解しています。どんな要素が違いを生むのでしょう。現代の結婚問題カウンセラーたちの提案の中に、何千年も昔に書かれた神の言葉の、時代を超えた知恵とよく似たものがあるのは非常に興味深いことだと思います。
2003年06月10日
コメント(0)
総括:インターネット注意すべきなのはなぜか インターネットが教育の分野や日常の意思伝達における可能性を秘めていることは確かである。しかし、ハイテクという輝きを取り去ると、インターネットも、長い間テレビや電話や新聞や図書を悩ませてきたのと同じ問題の幾つかに悩まされている。そこで、インターネットの内容は自分と自分の家族にふさわしいものだろうか、と尋ねるのは当を得ている。 インターネット上でポルノを見られることについては多数の報告が寄せられてきた。しかし、これはインターネットが、性的に倒錯した変質者でいっぱいの汚水だめに過ぎないという意味だろうか。一部の人は、そんなのはひどく誇張した話だと言う。意識的に、また故意にそうしようとしない限り、いかがわしいデータに出くわすことはないと言うのである。 確かに、意図的にそうしようとしない限り、不健全なデータに出くわすことはない。が、しかし、インターネット上では他よりもそうしたものを探すのがずっと簡単だと言う人もいる。ユーザーは幾つかの字を入力するだけで、音声や映像を含む、性的に露骨な画像などのエロチックなデータを探し出すことができる。 インターネット上でどれほど多くのポルノが入手可能かという問題については、現在、激しい議論がなされている。倒錯の問題を示唆する報告は大げさかもしれないと感じている人もいる。それでも、自分の家の裏庭に毒ヘビがいると知ったら、それが100匹ではなくほんの数匹だからといって、家族の安全に対する心配が減るだろうか。インターネットにアクセスする人たちが注意力を働かせるのは賢明なことである。!子供をえじきにする者たちに気をつける! 最近のニュース報道によると、一部の小児性愛者たちがオンライン上での子供たちのチャットに加わっている。これらの大人は子供を装い、疑うことを知らない子供たちから巧みに名前と住所を聞き出してきた。 行方不明児・被虐待児情報全国センター(NCMEC)は、こうした行為の幾つかを詳細に記録している。例えば、1996年、警察は米国サウスカロライナ州出身の少女二人を発見した。二人は13歳と15歳で、1週間にわたって行方不明になっていた。インターネットで知り合った18歳の男性と別の州に行っていたのである。35歳の男性は、14歳の少年を両親の不在時に誘い出し、不法な性関係を持ったかどで告発された。どちらのケースもインターネットのチャット・ルームでの会話が発端となった。1995年のこと、別の大人はオンライン上で15歳の少年と知り合い、大胆にも学校までその少年に会いに行った。また、14歳の少女と性関係を持ったことを認めている大人もいる。この少女は父親のコンピューターを使い、電子掲示板を通じて十代の若者たちと会話していた。彼女もインターネット上でこの大人と知り合った。これらの子供たちは皆、結局言いくるめられて、自分の名前や住所を教えてしまった。親の指導が必要 上のようなケースは比較的まれであるとはいえ、親はこの問題を注意深く検討しなければならない。犯罪や虐待の標的にならないよう子供を保護するため、親はどんな措置を講じることができるだろうか。 企業は様々なツールを提供し始めている。それらは、映画と同じようなランク付けシステムから、望ましくない内容にアクセスできなくする語句検知ソフトや年齢証明システムまで様々である。データが家のコンピューターに届く前に、それをブロックするシステムもある。しかし、こうしたシステムのほとんどは万全ではなく、さまざまな方法で回避することが可能である。忘れないでいただきたいのは、インターネットが本来、破壊に耐えられるように作られており、それゆえに検閲が困難であることである。 カリフォルニア州で児童虐待捜査グループを指揮しているある巡査部長は次のようなアドバイスをしてくれている。「親の指導に代わるものはありません。うちにも12歳の子供がいます。妻と私は息子がインターネットを使うのを許してきましたが、使う時は家族で一緒に使い、それにどのくらいの時間をかけるかを注意深く制限しています」。この父親はチャット・ルームに特に注意を払い、その使用について子供にきちんとした制限を課している。彼はさらにこう述べている。「パソコンは息子の部屋にではなく、家族が自由に出入りできるところに置いています」。 子供にインターネットを使わせる場合、親は積極的な関心を払い、どのような使い方を許すかを決める必要がある。事前にどんな実際的かつ道理にかなった対策を講じることができるだろうか。 サンノゼ・マーキュリー・ニューズ紙専属の執筆家デービッド・プロトニコフは、家庭でインターネットを使うことにした親たちに対し、次のような有益な提案をしている。● 子供たちが最も建設的な経験をするのは、親と一緒にインターネットを使い、親の判断や指導の価値を学ぶ時である。親の手引きがないなら、「インターネット上の情報はどれも皆、入れるコップのない水のようなものだ」とプロトニコフは警告している。インターネットに関して親が規則を与えるとしても、それは「親が子供にいつも言って聞かせている常識的な事柄の延長」である。見知らぬ人と話すことに関する規則はその一例である。● インターネットは公共の場であり、子守として使うべきものではない。「なんと言っても、10歳の我が子を大都会にほうり出し、二、三時間遊んでおいでなどと言ったりはしないのではないだろうか」。● インターネット上で、ゲームやチャットをする場所と宿題に役立つ情報が得られる場所との違いを見分けられるようになる。「情報ハイウエーにおける子供の安全」というNCMECのパンフレットが提供している、子供たちへの指針は以下のとおりである。☆ 自分の住所、家の電話番号、学校の名前や所在地など、個人的な情報を明らかにしてはなりません。親の許可がないかぎり、自分の写真を送ってはなりません。☆ 不快な情報を受け取った場合は、すぐに親に知らせましょう。悪意に満ちた、あるいは攻撃的なメッセージには絶対に返事を出してはなりません。すぐに親に話してください。そうすれば、親はそのことをオンライン・サービスに連絡できます。☆ インターネットを使用する時間帯や長さやアクセスしてもよい場所などについて、親が規則を定めるとしても、それに協力し、親の決定をきちんと守るようにしてください。 予防対策は大人にとっても有益であることを覚えておく。大人の中にも、不注意から好ましくない関係や重大な問題に陥ってしまった人がいるのである。チャット・ルームの持つ不思議な雰囲気、つまり、顔を合わさないことや変名を使って匿名で話せることから、ある人々は抑制力が弱まり、誤った安心感を抱くようになった。大人の皆さん、注意してください!追記:インターネットの使用は、初めての国への旅行に例えることができるかもしれない。初めて見たり聞いたりする事柄がたくさんある。旅行する際には、良いマナーを示し、賢明な予防措置を講じる必要がある。インターネット、つまり情報スーパーハイウエーを使うことにしたなら、同じようにする必要があるといえるのではないだろうか。2003/06/09 20:52:21必要かどうか、平衡の取れた見方をする インターネットを使うべきか。もちろん、これは個人的な問題であり、自分で注意深く考慮すべき事柄である。どんな要素が決定にかかわってくるか考えてみる。必要性―費用は計算したか 最近のインターネットの成長ぶりの大半は、商業界の強力なマーケティング努力の成果にある。商業界の目標が必要感を作り出すことにあるのは明らか。人々がいったんそうした必要感を抱くようになると、最初はただでアクセスできた情報やサービスに対し、入会金や年会費を要求する機関もある。この料金は月々のインターネット接続料金とは別に払うことになる。一部のオンライン新聞はそのいい例である。実際の必要と比較して、設備やソフトの費用を計算したことがあるだろうか。インターネットが使える図書館や学校などの公共施設はあるだろうか。まずはそうした施設を利用すれば、パソコンや周辺機器を買うために最初から多額の投資をしなくても、必要かどうかが見極められるかもしれない。実際にインターネットの情報資源を必要とする頻度がはっきりするまでは、必要に応じて、適当な公共機関を利用できるかもしれない。(斯く言うわたしもその口)忘れないでもらいたい。インターネットが存在するようになってから20年以上になるが、一般の人々は今日に至るまでその必要を感じるどころか、その存在に気づくことさえなかったことを。安全性―プライバシーは守られているか 別の根本的な問題は機密の保持である。例えば、電子メールを送る場合、そのメッセージは送り先の相手だけが見るべきものだが、その手紙が転送されている間に、ずる賢く、恐らく不埓な人あるいはグループが内容を横取りしたり盗み見たりする可能性がある。メッセージを保護するため、電子メールを出す前に、内密にしておきたい部分を暗号化するため、電子メール用ソフトを使う人もいる。一方、暗号化されたメッセージを解読するためには受信する側にも同様のソフトが必要になる。 多くの議論を呼んでいるのが、インターネット上で商用にクレジットカードや他の機密情報をやり取りすることである。根本的な改良による機密性の向上が期待されているのだが、コンピューターの安全性アナリストとして有名なドロシー・デニングはこう述べている。「完璧に安全なシステムなどあり得ないが、リスクはかなり減らすことができる。恐らく、システムに蓄積されている情報の価値と、ハッカーおよび部内者によってもたらされる脅威に相応したレベルまで減らせるだろう」。どんなコンピューターシステムにおいても、インターネットに接続してあるかどうかにかかわりなく、絶対的な安全を実現することは不可能である。時間の余裕はあるか もう一つの重要な問題は時間。インターネットの道案内をしてくれるツールをインストールし、それについて学ぶのにはどれほどの時間がかかるだろうか。また、ある経験を積んだインターネットのインストラクターの指摘によると、ネットサーフィンは「新米のインターネット・ユーザーにとって、最も中毒になりやすく、最も時間を奪われる活動の一つとなり得」る。どうしてそう言えるのか。 興味深い項目はたくさんあるし、新しい発見は無数にある。実際、インターネットは、視覚に訴える資料を所蔵している図書館を数え切れないほどたくさん集めたようなものである。そのほんの一部分を見ていくだけでも、眠いと感じることさえなく、気がついたら夜もずいぶん更けていたということに容易になりかねない。もちろん、これはウェブのユーザーのだれもが自制を欠いているという意味ではない。しかし、ネットサーフィンの時間と内容に制限を設けるのは、特に若者たちにとって賢明なことだろう。テレビに関して同じことを行なっている家族は少なくない。 そうすれば、家族や霊的な活動のために時間を取り分けておくことができる何か…
2003年06月09日
コメント(0)
ネットサーフィン ウェブ・ブラウザを使えば、多くの国々のコンピューターに保存されている情報や色鮮やかな画像を簡単に素早く見ることができる。ウェブ・ブラウザを使うことは、ある意味で実際の旅行に似ていると言えるかもしれない。ただ、もっと簡単なだけである。ウェブで死海文書の展示場やホロコースト記念博物館を訪れることもできる。インターネット上のウェブの一つのサイトから別のサイトへ素早く行き来するこの能力は普通、ネットサーフィンと呼ばれている。 企業などの組織は、自社の製品やサービスを宣伝したり、他の様々な情報を提供したりする手段として、ウェブに関心を寄せ、ウェブ上にホームページ、つまり電子ショーウインドーのようなものを設けている。ある組織のホームページのアドレスが分かれば、顧客になる可能性のある人々はブラウザを使って“買い物”をしたり、情報を閲覧したりできるようになる。とはいえ、どんな市場でも同じことだが、インターネット上で提供されている製品やサービスや情報がすべて健全だというわけではない。 研究者たちはインターネットの安全性を高め、取り引きを内密かつ安全に行なえるようにしようとしている。こうした商業活動によって回線の混雑が生じたため、別の世界的なインターネットが開発されつつある。一部の人はこれをインターネットIIと呼んでいる。(研究・教育用ネットワークで、商用ネットワークには解放されていない。)2003/06/08 21:01:00ファイルの共有と情報の検索 インターネットの本来の目標の一つは、世界中の情報の共有にあった。ある教師はインターネット上で、出来上がっている授業用の資料を喜んで使わせてくれるという別の教育者を見つけた。3,200㌔ほど隔たっていたにもかかわらず、それらのファイルは数分のうちに転送された。 ある事柄についての情報がインターネットのどこにあるのか分からない場合は、どんな助けを利用できるだろうか。電話帳で電話番号を調べるのと同じように、ユーザーはいわゆる検索用サイトにまずアクセスして、インターネットのどこに知りたい情報があるかを見つけることができる。ユーザーが語句を入力すると、そのサイトはインターネット上で情報が見つかりそうな場所のリストを教えてくれる。普通、検索は無料で、ほんの数秒しかかからない。 ある農場主は、人工衛星による地図とコンピューターを利用するプレシジョン・ファーミングという新技術のことを耳にした。そこで、検索用サイトでその言葉を入力することにより、その方法に関する詳しい情報だけでなく、それを使っている農場主の名前を知ることもできた。功の部分かな。2003/06/08 18:54:33
2003年06月08日
コメント(0)
インターネットの始まりと設計 インターネットの始まりとなったのは、米国国防総省が1960年代に行なったある実験だった。その目的は、広い地域に分散している科学者や研究者が、数少ない高価なコンピューターやそのファイルを共有することにより協働するよう助けることにあった。この目的を達成するには、幾つかのネットワークを接続し、一つの大きなネットワークとして統合することが必要だった。 冷戦によって、“攻撃に耐える”ネットワークに対する関心が高まり、ネットワークの一部が破壊されても、データは残った部分の助けによって目的地へと移動を続けられるようにすることが計画された。そういうわけで生まれたインターネットでは、メッセージの送信経路を決定する責任を一か所に集中させるのではなく、ネットワーク全体に分散させているのである。 インターネットが生まれてこのかた20年以上になるが、その人気はおもにブラウザの使用によって高まった。ブラウザとは、皆さんもご存知のようにユーザーがインターネット上の様々な場所を“訪れる”のを非常に簡単にするソフトのことである。 このあと少しだけ、インターネットのもたらした功罪について考えてみたい。2003/06/07 22:03:42扶養という難しい問題 若い父親がみな逃げる父親になるわけではない。中には自分の子どもに対して当然の道義的責任を感じ、子育てを助けたいと心から願う若者もいる。しかしそれは、言うは易く行なうは難しという場合が多い。一つの理由を挙げると、未婚の父親には法律上の権利があまりないかもしれないので、どれほど多く―または少なく―子どもと接触するかをコントロールするのは少女とその両親ということになる。前に紹介したJは、「子どものことに口を出す権利を持とうとするのでいつでも争いになります」と言った。そのため、若い父親が躍起になって反対しても、養子に出すとか中絶するといったことが決められてしまうかもしれない。「母親側が子どもを見ず知らずの人に渡してしまうのを見ているのはつらいことでした。でも、私にはそうする以外に方法はなかったように思います」と、ある若い父親は嘆く。 子どもの母親に結婚を申し込む若者もいる。 確かに、結婚すれば、少女はきまり悪さを感じないですみ、子どもも父親と母親が育てることができる。二人がしたことは不品行だったとはいえ、二人は本当に愛し合っているかもしれない。しかし、少年に子どもをもうける能力があるということは、夫また父親になるのに必要な精神的、感情的円熟に達しているということではない。また、妻と子どもを経済的に扶養する能力があるという意味でもない。調査の示すところによると、妊娠したために急いでした結婚は長続きしない傾向がある。それで、急いで結婚することは必ずしも賢い解決策とはならない。 若い男性の中には、子どもを経済面で扶養しようと言う人も少なくない。先に述べたとおり、それは恐らく18年かそれ以上の長期にわたる大仕事なので、若い父親にとっては相当の決意が必要になる。しかし、この面で一貫した援助が行なわれるなら、母親と子どもの生活が貧しくなることは避けられるだろう。 実際の子育てに参加することについてはどうか。これも難しい問題になるかもしれない。男性と女性の両親は、また性関係を持つことを心配して、二人が会うのをやめさせようとしたり、禁止したりすることもあるかもしれない。女性自身が、子どもには、自分の夫でない男性と「親密なつながり」を持たせないよう決意しているかもしれない。いずれにしても、父親が子どもとの定期的な接触を許されるなら、家族は付き添いがいることを確かめるなどして、それ以上不品行が行なわれないようにするのは賢明なことと言える。 未婚の父親の中には子どもと親しくなりたいと考えて、お風呂に入れること、食事をさせること、本を読んで聞かせることなど、基本的な子どもの世話を幾つか学んだ人もいる。聖書の規準の価値を認識した若い男性は、神の言葉の原則を幾つか子どもに教えることさえ試みるかもしれない。(Ephesians 6:4.)いくらかでも父親の愛情深い心遣いがあれば、子どもにとっては、全くないよりましに違いないが、それは、毎日父親が家にいてくれることにはとうてい及ばない。そして、いつかその子の母親がだれかと結婚するならば、若い父親は、別の男性が代わって自分の子どもを育てるのをただ見るだけで、どうすることもできない立場に立つことになるだろう。であるから、未婚で子どもをもうけるなら、親も子どもも多くの悲惨な出来事を経験するのは明らかである。 十代の妊娠のような悪い状況を乗り切ることはできるかもしれないが、一番良いのはもちろん不道徳な行為に初めから巻き込まれないようにすること。ある若い父親は、「いったん未婚の父親になってしまったら、生活は決して元には戻りません」と言った。確かに、若い父親は、自分の過ちの結果を背負って、残りの人生を生きてゆかなければならないかもしれない。繰り返しになるが、「淫行から逃げ去りなさい」という聖書の助言はやはり賢明な助言である。―1 Corinthians 6:18.2003/06/07 13:31:04子どもへの悪影響 逃げる父親は、恥ずかしいという激しい感情とも闘わなければならないだろう。自分の子に悪いことをしたという恥ずかしさである。聖書が示しているように、子どもにはやはり母親と父親の両方が必要。(Exodus 20:12. Proverbs 1:8、9.)男性が子どもを捨てると、その子を多くの問題にさらすおそれがある。米国厚生省のある報告書には、「シングルマザーの家庭の幼い子どもは、国語と算数の学力テストで低い点をとる傾向がある。児童期については、ひとり親に育てられる子どもは全体的傾向として、成績が他に比べて悪く、行動面での問題が多く、慢性的な健康問題や精神障害をより多く抱えやすい。思春期の人や若い成人の間では、母子家庭で育つと、十代で出産したり、高校で落ちこぼれたり、自分の殻に閉じこもってしまったりする率が高くなる」と述べられている。 アトランティック・マンスリー誌(英語)は結論として、「増加する社会学的証拠によると、離婚で崩壊した家庭や未婚の出産による家庭の子どもは、両親のそろった家庭の子どもに比べて、福祉に関係した幾つかの面でうまくやってゆけない。ひとり親の家庭の子どもが貧しくなる可能性は6倍も高い。貧しい状態のままにとどまる可能性もある」と述べている。 これらのリスクは、集団に対して行なわれた統計的な調査に基づくものである、必ずしも個人に当てはまるものではないということを覚えていていただきたい。不利な家庭環境にあっても、りっぱな、バランスの取れた大人になる子どもはたくさんいる。しかし、たとえそうではあっても、自分の子どもを捨てた若い男性の思いには、罪悪感が重くのしかかることだろう。「子どもの人生を永久に[台なしに]してしまったような気がします」と、ある未婚の父親は言っている。―「十代の父親たち」。2003/06/07 10:17:33
2003年06月07日
コメント(0)
立ち去る―簡単なことではない 子どもの世話をするには、時間、お金、自分の自由など、非常にたくさんの犠牲が伴う。「若い未婚の父親たち」(英語)という本によると、「若い男性の中には、失うものが多いので、『自分以外の者の面倒を見る』ことに関心のない人がいる」とのことである。しかし、自分の身勝手に対して大きな代償を払っている人たちもいる。一つには、多くの国の裁判官や法律制定者が、子どもを扶養しない男性をますます批判的に見るようになっているからである。父親であることがひとたび法的に確認されると、若い父親はその後多年にわたって支払いを求められるかもしれない。それは当然のこと。その責任を果たすため、学校をやめるか、または低賃金の仕事に就かざるを得なくなる若者は少なくない。「学齢期の妊娠と親という立場」(英語)という本には、「親になる年齢が若いほど、父親が受ける学校教育は少なくなる」とある。養育費が支払えなければ、負債は増えて大きなものになるおそれがある。 もちろん、すべての若者が自分の子どもに冷淡なわけではなく、良い決意を抱いて働き始める人も少なくない。ある調査によると、十代の父親の75%は子どもを見るために、病院を訪れた。それでも、若い父親たちはやがて、子どもの世話をする責任に耐えられなくなる。 多くの若者は、適当な仕事を見つけようにも自分には何の技術も経験もないことを思い知らされる。経済的に援助できないことをきまり悪く思い、そのうちに責任を放棄してしまう。それでもやはり、その先何年も、後悔に付きまとわれて苦しむことになるかもしれない。ある若い父親はそのことを認めてこう言っている。「息子はどうしているのだろう、と思う時があります。……[あの子を]を捨てたことは気になりますが、今はもうどこにいるかも分かりません。もしかしたらいつか、息子がわたしを探し出してくれるかもしれません」。2003/06/06 22:33:22逃げ出す父親―本当に逃げられるだろうか 「『あなたの赤ちゃんがおなかにいるの』と言われた時はショックでした。だれが子どもの世話をするんだろう。家族を養うことなど自分にはまだできない。逃げ出したくなってしまいました」。―J。 アラン・グッドマヒャー研究所の報告によれば、「毎年、100万人近い十代の少女が……妊娠する」ということである。しかも「十代の出産の78%は未婚者によるもの」である。 昔の男性は、子どもが生まれたら、その子に対する責任を果たす義務があると考えたものだった。しかし、「十代の父親たち」(英語)という本には、「未婚の妊娠は、[かつて]のように恥ずかしいことでも、不面目なことでもなくなった」と述べられている。子どもをつくることが、若い人たちの間でステータス・シンボルのようにみなされている地域社会さえあるかもしれない。それでも、長期にわたってその子の面倒を見る男性はほとんどいない。最後には立ち去る―あるいは逃げ去る―男性が少なくないのである。 しかし、若い男性は不道徳な行為の結果を完全に免れることができるだろうか。聖書によれば、そういうわけにはいかない。聖書は、「惑わされてはなりません。神は侮られるような方ではありません。何であれ、人は自分のまいているもの、それをまた刈り取ることになるのです」と警告している。(Galatians 6:7.)あとで分かることだが、性の不道徳は少年にも少女にも、結果として、生涯続くような影響を及ぼす場合が多いのである。若い人は、性の不道徳を避けるようにという明確な聖書の助言に注意を払うことによって、そのような結果を避けることができる。2003/06/06 19:12:53『雄々しくある』 では、若い男性は自分が真の男であることをどのように証明できるのか。もちろんそれは、未婚の父親になることによってではない。聖書は、「目ざめていなさい。信仰のうちにしっかりと立ちなさい。雄々しくあり、力強い者となりなさい。すべての事を愛をもって行ないなさい」と説き勧めている。―1 Corinthians 16:13、14. 『雄々しくある』ことには、目ざめていること、しっかりとした信仰、勇気、そして愛することなどが関係している。もちろん、これらの原則は男女を問わず同じように当てはまる。しかし、こうした霊的特質を培うなら、人々は当然あなたを真の男として尊敬し、称賛するだろう。これまでに生存した最も偉大な人、イエス・キリストから教訓を学ぶことができる。拷問や死を前にしたときでさえ、男らしく勇気ある態度を示されたことを考えてみていただきたい。ところで、そのイエスは異性にどのように接したのだろうか。 確かに、イエスには女性たちとの交友の機会もあった。女性の追随者も多くいて、一部の女性は「自分の持ち物をもって[イエスとその使徒たち]に奉仕をしていた」。イエスは特にラザロの二人の姉妹と親しくしておられた。事実、聖書には、「イエスはマルタとその姉妹……を愛しておられた」とある。(John 11:5.)イエスは完全な人であったから、機知、魅力、人を引き付ける容姿を備えておられたに違いないが、女性たちを不品行に誘うためにそれらを利用するようなことをされただろうか。その反対で、聖書はイエスについて、「罪を犯さ(なかった)」と述べている。罪人として広く知られていた、恐らく売春婦であった女性が「泣いて、自分の涙で彼の足をぬらし始め、自分の髪の毛でそれをふき取った」時でさえ、イエスは不当な振る舞いをされなかった。(Luke 7:37、38.)イエスはこの女性の弱さに付け込むことなど考えもされなかったのである。自分の感情を制御する能力、真の男としての印を行動で示された。女性を性の対象としてではなく、愛と敬意を示すべき一個人として扱われたのである。 もしあなたが若いクリスチャンの男性であるなら、あなたの幾人かの仲間の手本ではなく、キリストの手本に従うようにすれば、だれかの『権利を害し、侵す』ようなことをしないですむ。また、未婚の父親になるという悲劇を経験しないように守られる。淫行を避けると、ほかの人は確かにあなたをからかうかもしれない。しかし結局は神の好意を得、仲間の一時的な好意を得るよりもずっと大きな益にあずかることになるだろう。―Proverbs 27:11. しかし、もし若者が過去に不道徳な生活を送っていたものの今では不道徳な道から離れ、真に悔い改めている場合はどうか。もしそうであれば、性的不品行に陥ったのち悔い改めたダビデ王の場合のように、神が許してくださることを確信することができる。(2 Samuel 11:2‐5; 12:13.Psalms 51:1、2.)しかし、もし未婚の女性が妊娠した場合、若い男性にはやはり真剣に考えて決定しなければならない幾つかの事柄があるだろう。その少女と結婚するべきだろうか。子どもに対して何か責任があるだろうか。2003/06/06 13:23:26
2003年06月06日
コメント(0)
神の見方(み言葉である聖書から) しかし、子どもをもうけることで本当に一人前の男になれるのだろうか。セックスは単なるゲームなのか。人間の創造者である神はみ言葉 聖書の中で、性の崇高な目的を明示しておられる。最初の男女の創造について述べたあと、聖書はさらに、「神は彼らを祝福し、神は彼らに言われた、『子を生んで多くなり、地に満ちよ』」と述べている。(Genesis 1:27、28.)子どもが父親に捨てられることなど、決して神が意図されたことではなかった。神は最初の男と女を、永続する結婚のきずなで結ばれた。(Genesis 2:24.)したがって、すべての子どもが母親と父親を持つことが神のご意志であった。 しかし間もなく、男は複数の妻をめとるようになった。(Genesis 4:19.)Genesis 6章2節には、み使いたちの中にさえ「人の娘たちを見、その器量の良いことに気づくようになった」者たちがいたことが述べられている。人間として肉体を備えて現われたそれらのみ使いは、『自分たちのために妻をめとりました』。貪欲にも、「すべて自分の選ぶところの者」をめとっていったのである。それらの悪霊は、ノアの洪水によって霊の領域に帰らざるを得なくなった。しかし聖書は、悪霊たちが今、その活動範囲を地の近くに限られていることを示している。(Revelation 12:9‐12.)それでサタンと配下の悪霊たちは今日、人々に大きな影響を及ぼしている。(Ephesians 2:2.)望まれず愛されもしない子どもたちの父親となるとき、若い男性はそれとは知らずに、そうした邪悪な影響力に負けているのである。 それで、聖書は十分の理由があって次のように述べている。「これが神のご意志……です。すなわち、あなた方を神聖なものとし、あなた方が淫行を避けることです。そしてあなた方一人一人が、自分の器をいかに聖化と誉れのうちに所有すべきかを知り、神を知らない諸国民のように貪欲な性欲のままに歩まないことです。また、だれもこの点で兄弟の権利を害するようなことをせず、またそれを侵さないことです。……Jehovahはこうした事すべてに対して処罰を科する方だからです」。―1 Thessalonians 4:3‐6. 「淫行を避ける」? 多くの若い男性はこの考え方をばかにするかもしれない。結局のところ若くて欲望が強いのである。しかし、淫行は、他の人の『権利を害し、侵す』ことであることに注目していただきたい。少女と赤ちゃんを置き去りにし、扶養する夫のいない状態にしてしまうことは、少女に害を加えることではないか。陰部ヘルペス、梅毒、淋病、エイズなどの性感染症を少女にうつす危険についてはどうか。確かに、そのような結果を避けることができる場合もある。しかし、たとえそうではあっても、やはり結婚前のセックスは、良い評判を保って処女で結婚生活に入る少女の権利を侵害する。淫行を避けることは道理にかなっており、円熟していることの表われである。確かにそれには、『自分の器を所有する』ための自制と決意、そして結婚前のセックスを避けることが必要なのは事実である。しかし、Isaiah 48章17、18節にあるとおり、神は律法を通して『わたしたちを益するように教えて』おられる。2003/06/05 23:32:28急増の背後にあるもの この状況は、わたしたちの住む「危機の時代」に起こっている道徳の退廃を大きく反映していると言える。ここ数十年の間に離婚率は急上昇した。同性愛や、これまでとは異なるライフスタイルも、一般的なものになった。若い人は、マスメディアによる宣伝のターゲットになっている。挑発的な音楽やミュージック・ビデオ、雑誌のどぎつい記事や広告、テレビのバラエティー番組や映画などは、気軽なセックスをもてはやす。中絶や避妊が容易であることも、若い人たちが、セックスをしても重大なことにはならないと考える一つの原因となっている。未婚のある父親は「責任のないセックスがいい」と言った。「セックスはゲームだ」と言う人もいる。 このような考え方は、特に貧しい若者の間に広く見られるようである。研究者のイライジャ・アンダーソンは、大都市のスラム地区に住む若者たちを対象に広くインタビューを行ない、次のように述べた。「多くの少年たちにとって、セックスは地元での社会的地位を示す重要な象徴である。異性を性的に征服すれば箔がつくのだ」。ある未婚の父親が語ったところによると、性的に征服することは「棚に飾れるトロフィー」のようなものだと広く考えられているのである。そのような思いやりのない態度が生じる原因はどこにあるのだろうか。大都市のスラム地区に住む若者たちの生活の中でいちばん重要な人物は、多くの場合、「仲間のグループのメンバーなのだ。彼らが行動の規準を決め、その規準に合った生活をすることが重要なのである」と、アンダーソンは説明する。 したがって、アンダーソンの観察によれば、多くの若い男性にとって性的に征服することは単なるゲームであって、「相手を、特に若い女性を笑いものにするためのもの」なのである。さらに「ゲームは、服装、おしゃれ、ルックス、ダンスのうまさ、会話など、若者のすべてを出し切って行なわれる」のである。多くの若者は、この「ゲーム」に勝つだけの腕を持っている。しかしアンダーソンは、「少女が妊娠すれば、若者たちは手を引く傾向がある」と書いている。―「若い未婚の父親たち―役割の変化と新たな政策」(英語)、ロバート・レルマン、シオドーラ・オームス共編より。2003/06/05 10:54:34子どもをもうければ一人前の男になるのだろうか 「『そこにはおれの娘が住んでいるし、あそこには息子が住んでるよ』などと言う[人たち]がかなりいます。そのことを何とも思っていないような言い方です」。 米国では毎年、100万人近い十代の少女が妊娠する。生まれてくる子どもの母親のほとんどは未婚の母である。十代の母親の4人に1人は次の2年以内に2人目の子どもを産む。アトランティック・マンスリー誌(英語)は、「現在の傾向が続けば、子ども時代をずっと実の父母の元で暮らす子どもは全体の半分にも満たない状態になる。アメリカの子どもたちの大半は、シングルマザーの家庭で数年を過ごすことになるだろう」と述べている。 米国における十代の妊娠率は他の先進国よりはるかに高いとはいえ、未婚者の出産の問題は世界的なものになっている。ヨーロッパには、イングランドやフランスのように、その種の出産率が米国に匹敵するほどの地域もある。アフリカや南アメリカには、十代の少女の出産率が米国のほぼ2倍という国もある。この急激な増加の原因は何だろうか。2003/06/05 0:54:23
2003年06月05日
コメント(0)
見合い結婚が今でも習慣となっている地域はどうだろうか。例えばインド南部では、親の取り決めた結婚が全体の8割に上るという推定もある。クリスチャンである親がこの伝統に従うかどうかは、個人的に決定する事柄である。いずれにせよ、霊的な価値観に重きが置かれる場合、そのような結婚の取り決めはうまくゆくだろう。 見合い結婚を支持する人たちは、この結婚では経験豊かな円熟した人たちに結婚相手を決めるまでの過程を任せることができると感じている。アフリカのあるクリスチャンの男性によると、「子どもの年齢と経験不足ゆえに、将来の配偶者の霊的円熟性を正確に判断させるには、心もとないと感じる親もいます」。インドのある男性は、「若者は人生経験が乏しいため、物事を決定する際、感情に流されるかもしれません」とも述べている。親は子どもの性質を他のだれよりもよく知っているので、自分たちが子どものために賢明な選択のできる特別な立場にいると感じている。賢明な親であれば、若い二人の意見も考慮に入れるだろう。 しかし親が聖書の原則を無視すると、結婚生活が後でうまくいかなくなった場合、親はその影響を被ることになるかもしれない。大抵の場合、前もって将来の結婚相手と互いによく知り合う機会がほとんどないので、問題が生じることもある。そうなると、「子どもは親に責任を転嫁するきらいがある」と、クリスチャンであるインドの一人の父親は明かしている。 クリスチャンである親は、結婚を取り決めようとする場合、自分の動機を考えてみなければならない。物質主義的な目標、あるいは名声を得たいという欲望に支配されて子どもの結婚相手を選ぶなら問題が生じる。それで、結婚を取り決める人はこう自問してみるべき。『これは二人の幸福と霊的健康を考えての選択だろうか。それとも、どちらかと言えば家族の地位を高めたり、富を増し加えたり、何らかの金銭上の利益を得たりするためだろうか』。―Proverbs 20:21. 聖書の助言は明確で有益。結婚相手について考慮する際、どのような方法で選ぶにせよ、将来の配偶者の道徳的な美点や霊性を常に主な関心事とするべき。そうするなら、結婚の取り決めの創始者である創造者を敬うことになる、そして堅固な霊的土台に基づく結婚生活を始めることもできる。それは、幸福で実り豊かな結婚に大いに役立つだろう。
2003年06月04日
コメント(0)
『主にある者とだけ結婚する』 結婚したいと思っている人同士が、共通の目標や信条を持っていることは、非常に大切なこと。行動や態度の面で多くの調整が互いに求められるので、結婚生活は大きな課題となる。将来の配偶者との共通点がすでに多くあればあるほど、当然のことながらそうした調整は容易になるだろう。 このことから、パウロがクリスチャンに、「不釣り合いにも不信者とくびきを共にし」ないように勧めた理由が分かる。(2 Corinthians 6:14.)パウロは、同じ信仰や聖書の原則に対する理解を得ていない人と結婚するなら、摩擦や意見の相違が生じ得ることを知っていた。『主にある者とだけ結婚する』ようにという訓戒は、道理にかなっている。(1 Corinthians 7:39.)この訓戒は神のお考えを反映するもの。この言葉に賢明に従う人は、多くの非常に厄介な問題を避けることになる。―Proverbs 2:1,9.2003/06/03 18:20:43外見以上のものを見る 自分の結婚相手を自由に選べる所では、配偶者になる可能性のある人とごく自然に出会うかもしれない。また、そのような人を友人や家族から紹介されることもあるだろう。多くの場合、最初は身体的な魅力に引かれてロマンティックな関心がわき上がる。もちろんそれは自然で強力な誘因だが、聖書は結婚を考慮する際に、単なる外見以上のものを見るよう勧めている。 「麗しさは偽りであることがあり、美しさもむなしいものとなることがある。しかし、Jehovahを恐れる女は自分に称賛を得る」と箴言の書にはある。使徒ペテロは、『神の目に大いに価値のある、もの静かで温和な霊という朽ちない装い』について述べている。(1 Peter 3:4.)確かに身体的な美しさよりもはるかに重要なのは、神への専心や神への愛、またクリスチャン人格といった、将来の配偶者の霊的な特質である。客観的な選択をするために時間をかけ、同じ霊的な目標を持ち、神の霊の実を表わそうと努力している人を選ぶのは肝要なこと。それは結婚関係を幸福なものにする上で、大いに役立つだろう。―Proverbs 19:2. Galatians 5:22,23.2003/06/03 12:58:49結婚の相手をどのように選ぶか 「結婚について考えたことがある?」 ある独身の女性はこう尋ねられた。「考えるですって?」と、彼女は思わず答えた。「実はわたし、悩んでるの」。 この女性の一言は、愛や親しい交わりを求める人たちの願望について、多くのことを物語っている。結婚相手を見つけることを、人生で最も大切な事柄の一つとみなす人は少なくない。そのため、結婚相手を探すのを手伝おうとする色々なサービスが、世界中で急激に広がっている。それにもかかわらず世界の多くの場所では、破綻した結婚の数が、成功を収めている結婚の数をしのいでいる。 西欧諸国では、結婚相手を一般に自分で選ぶ。一方、アジアやアフリカのある場所では、今でも見合い結婚が習慣となっている。どちらにしても、物事は軽々しく進めるべきではない。人が下す人生上の決定の中でこれほど幸福となるか悲しみとなるかを左右するものは、まずないだろう。愛情に満ちた結婚生活は、たいへん実り豊かで充実したものになる。逆に夫婦仲の悪い生活は、絶えず心痛とストレスに悩まされる原因になりかねない。2003/06/03 7:43:26
2003年06月03日
コメント(0)
全22件 (22件中 1-22件目)
1 >